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※注意:この小説はpumaさんがXにて公開されている漫画やイラストをもとに作者が勢いだけで勝手に書き上げた3次創作物となっています。本家創作物を十分に理解された上でお楽しみください。





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文:水のミドリ
挿絵:pumaさん

目次





1 


 春先に天気のいい日が続いたからか、今年はきのみがたくさん採れた。アゴジムシさんの畑も豊作で、収穫を手伝ったお礼にと籠が山盛りになるくらいお裾分けしてもらっちゃった。ヘラクロスのツノを振るって農作物を掘り返しただけだけれど、それで喜んでもらえたなら何よりだ。
 アゲハントはどんなきのみも大好きだけど、何でも食べるわけじゃない。彼女の口は果汁を啜るのに特化していて、だから硬すぎるものは食べづらいみたいだった。多少傷んで柔らかくなるまで待ってから口にしているけれど、僕としては新鮮なうちに食べてもらいたい。お腹を壊してほしくないし。

「ほら、年末に西の砂漠から流れてきたグライオンさん、ツボツボさんと番になったでしょ。酒蔵の隣でドリンクスタンド、始めたんだって。お祝いを言いに、ちょっと行ってみない? 今なら持ち込んだきのみ、何でもジュースにしてくれるって言ってた」
「ほぉ。」
「硬くて君が食べにくいものを持っていこう。ノメルのみと〜、まだ青いリリバのみ。カイスなんかも美味しそう。アゲハントは何がいい?」
「ん〜……。」貯蓄の山に口を突き刺して、引っこ抜いたのは彼女のお気に入り。「これ。」
「……ふふ、好きだよね、ロメのみ」
「そうか?」
「そうだよ。この前僕に分けてくれた時も、ずいぶん恨めしそうな顔してた」
「そういえばそんなこともあった。」

 その時のことを思い出して、「ちょっと惜しいことをしたな。」なんて悔やんでいるに違いない。相変わらず表情は動かないけど、垂れた触覚がほんの少し眉間に寄っている。
 そんな不機嫌そうな横顔も、どうしてだろう。うっとりするくらい綺麗なんだ。
 アゲハントが腕に握りしめたロメのみを籠に受け取りながら、僕は誤魔化すように頬を掻いた。

「気を悪くしたんなら……、ごめん。お詫びにツボツボさんのお酒、ちょっとだけ混ぜてもらっていいから……」
「ほんとか。」垂れていた触覚がピンと伸びて、アゲハントの口先がすぐにきのみの山を漁り出した。「ならこれも。」
「ちょっとだけだよ。また太っちゃうし、たくさん飲んでも君、ぜんぜん酔わないんだから」
「おー。」



 グライオンさんの鋏にノメルのみがすっぽりと隠れたかと思えば、その隙間から半透明の果汁が染み出してくる。1滴もこぼされることなく、樹を削って作られた器へと注がれた。
 止まり木へ腰掛けたアゲハントの前へ置かれると、ふわり、と甘酸っぱい香りが僕の方にまで漂ってきた。あれだけ硬いうえに酸味が強すぎて食べにくい実も、ジュースにしてしまえばこんなにも。
 アゲハントの触覚が夜風に揺れる。

「いい香り……。」
「だね〜!」

 僕のドリンクが用意されるのさえ待ちきれないみたいで、アゲハントは早速口をつけていた。しなやかな口吻が蠢いて、蜜を啜っている彼女の横顔はやっぱり綺麗だった。

「どう? 美味しい?」
「ぷは〜。次、これ。」
「早いなあ……」

 ツボツボさんが酒蔵にしている桜の大樹を囲むようにして、僕たちの他にも何匹かペアの虫たちがいた。カップルなのだろうか、みんな夜桜を見上げて楽しげに体をすり寄せている。いい雰囲気だ。もっともこんなに飲んでいるのは、アゲハントくらいだけど。
 ノメルの一番搾りはずいぶんとお気に入りだったみたい。同じドリンクを飲んで味の感想を言い合ったりしたいけど、彼女の飲みっぷりを眺めているだけで、美味しいってことは伝わってくる。
 滅多に感情を顔に出さない彼女だからこそ、こうして喜んでいる姿を見ているだけで嬉しくてたまらない。そして彼女の嬉しさを共有できてるってことに、僕は幸せを感じてしまうんだ。
 目の前に置かれた器へと、口をつける。強烈な酸味を追いかけてくるほんのりとした辛さは、確かにお酒にするのにピッタリかもしれない。酸っぱいのはアゲハントの好きな味だ。今度手に入ったら僕が搾ってみようか。うまくできないかもしれないけど、アゲハントには僕の手料理を楽しんでほしい。
 ひら、ひら、ふらり。薄闇の中を桜がひとひら、僕の目の前へ舞い降りた。お酒に浮かんでゆっくりと回転している。器を傾けると波に上下して、それはまるで花の蜜を啜りながら〝はねやすめ〟するアゲハントみたいで。
 ああ、一緒に来て、良かったなぁ……。



 案の定アゲハントは飲んだ。差し出される器を次々空にしていった。その小さなお腹のどこに収まるんだろうって横目で眺めているうちに、僕も彼女のペースに引っ張られていたみたいで、もう相当くらくら来ている。ミツハニーさんの蜂蜜から造られたお酒なんてのもあって、気づけば僕は飲んだくれてしまっていて。

「アゲハントぉ……、こっち来てぇ。抱っこしたい。してい〜い?」
「んぉ……。」
「わ……、お腹ぱんぱん……。ぇへへ……飲み過ぎ……」
「なんだ、もう酔ってるのか。先に帰るか?」
「酔っとるよ! 一緒にいる〜……」
「――水をくれ。」

 僕の前に差し出された器を一気に呷る。……たぶん、よく冷えた沢の水。それさえ物ともせず、お腹の底の方からぽかぽかした気持ちが湧き上がってくる。これはきっと、アゲハントと一緒に、アゲハントの好きなことを共有できているからだ。お酒は得意じゃないけど、ふわふわした感覚で見るアゲハントの羽は、散り落ちる桜の花びらに負けないくらい艶やかで――



「おい。大丈夫か。」

 彼女の声に目を覚ますと、いつもの見慣れた草葉の天井だった。昨晩どうやって帰ったか、記憶がすっぽりと抜けている。僕たちの住処としている茂みをノロノロと這い出すと、もうとっくにお陽様は昇っている時間だった。
 強めのお酒を4杯空にしてから、夜風へ当たりに行ったアゲハントの後を追って、僕も羽を広げたところまでは覚えている。ふらふらと飛行してそれからは……、ちょっと思い出したくないかもしれない。ツノの付け根あたりにへばりついた鈍い痛みが、昨晩のやらかしを僕へまざまざと突きつけていた。

「大事な桜の樹に傷つけてへんやろか……。後でツボツボさんとこ、謝りに行かんと」
「今日も飲むのか。付き合う。」
「飲みませんっ! ……あかん、僕ら色々迷惑かけたやろなぁ。アゲハントと何話したかも覚えとらんし……。もしかしてまた子作りのこととか大声でしとったり」
「それはすまん。」
「しちゃったの!!!?」

 しちゃったの!!!?
 以前森の子供たちも集まる懇親会で、酔ってもいないのにアゲハントがそんな話題を切り出したことがあった。あのときは慌てて連れ出したから気づかれなかったものの、だいぶ肝を潰した記憶がある。
 あんなプライベートなことを大声でひけらかすなんて、周りの虫たちにどう思われていたか。いやそれより新婚夫婦のお店で大騒ぎするなんて……!

「ん〜……、どうだったか。」いつもと変わらない表情でアゲハントが言う。「まあ大丈夫だろ。」
「大丈夫じゃないでしょどう考えても! ツボツボさんに嫌われたら出禁だよ!! もうお酒飲めなくなっちゃうかもしれないんだよ!?」住処の近くへ根を張る大樹にツノを立て、忌まわしい記憶を振り払うように樹皮を剥ぎ飛ばした。「うわぁあぁあグライオンさんもごめんなさい〜〜〜っ、僕がしっかりせにゃあかんのに……!」
「飲めなくなるのは困る。謝りに行くか。」
「ごめんね、僕が飲みすぎなければ……」

 お花見しながらアゲハントと楽しくおしゃべりするだけなら、お酒を入れてもらわなければいい。それだけでも十分楽しい時間を過ごせただろうけど……。僕は、彼女と同じものを頼みたかったんだ。
 そのせいで僕だけ酔ってしまっては、世話がないのだけど。今度からは初めの1杯だけにしておかなくては。
 まだお酒の残っている感じがする。ふらつく足取りで近くの湧き水まで向かい、頭から水に突っ込んだ。
 勢いのまま冴え返る清水を飲んで、ぷは、と息をつく。
 上顎に張りついている、違和感。
 爪を伸ばして剥ぎ取ると、しおれた桜の花びらが1枚出てきた。苦々しい思い出とともに飲み込むと、塩漬けにしたのかってくらいしょっぱかった。




2 


 今年の夏は例年よりもずっと暑く、背中に羽を持つアゲハントはそこに日光を受ける分すぐにへばってしまう。ので、活動時間の半分以上を寝床で過ごしている。彼女の隠れた茂みから、だらんと垂らされた口の先だけがはみ出していた。
 僕はそこへ木のカップを近づけた。近場の湧き水から汲んできたそれは、持ち帰ってくる間にすっかり温くなってるはずだ。ハハコモリさんから譲ってもらった糸玉を水に浸したものを額へ乗せていたけど、それももう2度取り替えている。

「今日もまた、すごい気温だ。日向にいたらひとたまりもないよ」
「…………んぁ。」生っぽい返事が返ってくる。「暑い……。」
「待ってて。ヤチェのみ、貰ってくるから……」

 ヤチェのみは齧れば冷たさが口に広がるきのみだ。夏場は滅多にお目にかかれないものだけど、モスノウさんの氷室にはまだ残っているって虫づてに聞いた。みんな欲しがるから競争率は高いだろうけど、なんとかして手に入れないと……。

「そこまでしてもらう義理もない。」垂れていた口先が煩わしそうにもぞもぞと動く。「遊びにでも行け。夏は活発に動きたくなるんだろ。」
「義理だなんて。アゲハントがこんななのに、僕だけ楽しむなんてできないよ……」
「気を使うな。風邪もひいていないのに、こんなに世話を焼くこともない。」
「……僕は、僕がしたいから、付き添っているだけなんよ」
「いい。必要ない。」

 いつになく強情だった。
 連日こんな調子だから、彼女も鬱憤が溜まっているんだろう。羽を持つポケモンにとって、自由に空を飛べないというのはかなりのストレスらしい。ひまわり畑はちょうど満開を迎えていて、アゲハントもお散歩するのを楽しみにしていたはずだ。食欲も湧かないみたいで、あれだけ好きだったロメのみにさえ口をつけていない。
 思うようにいかない苦しみを、少しだけでも僕が肩代わりできたらいいのに。番だから当然だとも思うけど、彼女の感覚ではそうでもないみたいだった。もし逆の立場だったら、態度によらず優しい彼女は遊びになんて行かずに僕を看病してくれるだろう。ただそれだけのこと、なのに。
 こういうとき、僕はアゲハントに何もしてあげられない。せめて強靭な羽があれば風を送ってあげられるのに、僕じゃ1分とたたずに背中の筋肉を攣って、みっともなく辺りを転げ回ることだろう。去年みたいに近くの海まで連れて行こうかとも思ったけど、この調子じゃあ辿り着く前にダウンしてしまうのは明白だった。

「おーう! 元気かーーーっ?」
「うわっ!?」

 いつの間に忍び寄っていたんだろう、デンチュラが僕の背後の樹からぶら下がっていた。アゲハントと僕を巡り合わせてくれた共通の友達だけど、熱血なのか世話焼きなのか、喋り始めたら止まらなくなるくらい暑苦しい。夏は特に。
 振り向きざまに〝つばめがえし〟を打ち出して、口から伸びている糸を切ってやる。

「おっイテ! いきなり何すんだッせっかく来てやったってのに!」
「いやありがたいけどその、普通に来れないのっ?」
「? 普通に来たんだが……?」

 お尻から落ちたデンチュラはひっくり返り、6本足でワタワタともがいていた。……ちょっと悪いことをしたかな。助け起こしてあげると、デンチュラは口先だけになったアゲハントを見て、まあこうなるわな、とでも言いたげにため息をついた。

「最近顔を見せねーなとは思っていたが、まあこんなに夏バテしちまって」
「うん、そうなんだ。アゲハント、退屈そうにしているからさ。来てくれて助かるよ」
「暑すぎてテッカニンの奴らも滅多に鳴きやしねえ。なんつー暑さだよ全く」
「デンチュラの方は大丈夫なの。ふさふさしてて熱がこもりそうだけど」
「兄貴の番がオニシズクモでな。水浴びさせてもらったところだ。毛玉どもは預けてきた」

 茂みがもぞもぞと動く。アゲハントが顔を出して、またすぐ引っ込めた。

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「今来たところすまん。寝る。」
「おいおい……」

 言うなり、口の先から早くも寝息が漏れ始める。
 僕もデンチュラもそれきり押し黙った。ほぼ真上から照りつける太陽は樹冠に遮られてなお容赦のない苛烈さで、僕の甲殻を溶かしにかかっていた。おまけに下草から湧き上がる水蒸気が蒸し暑さに拍車をかけていた。気が遠くなるくらい時間が延ばされているような気さえした。
 不意にデンチュラは僕へ向き直って、大樹の根元へ押しやるように顔を近づけてきた。暑さのせいかうんざりしたような顔つきだ。もしかして、アゲハントが相手にしてくれないからって怒ってる……?

「おい」
「な、何……」
「ヘラクロスお前、アイツのこと幸せにできてるか?」
「え」

 予期しない角度からの〝ふいうち〟に言葉を失っていると、電気をたっぷりと蓄えた体毛が何百本と飛んで来て、驚いて広げた僕の薄羽を木の幹へ縫い止めた!

「しびぇえええ!?」
「返事が遅ぉぉぉい!!」
「いきなり何するのさっ!」

 すくい上げて投げ飛ばしてやろうかと体を低く身構えたけど、デンチュラは触腕をすくめただけだった。

「お前はもう気づいているだろうけど、アイツは1匹で生きていける。誰の支えもなくたって羽ばたき続ける生命力を秘めてる。ある日ふらっと飛んでいって、くたばったかと思っていた所にふらっと戻ってきたりな。お前が来る前はそんな生活してたんだよ。お前が隣にいようがいるまいが、考えていることは基本、その日に食うメシと寝床のことだけだ」
「……」

 僕と番になってからもアゲハントは頻繁に1匹で出かけていたし、そこは僕の羽では届かないような景色の見えるところなんだろう。毎晩僕の住処に帰ってきてはくれるけど、その間アゲハントが何をしているか、僕は知らない。願わくは彼女の見る景色を僕も一緒に見たい――はずなのに、そんなことは出来ないんだって、初めから諦めがついてしまっていて。
 正面から切り込んでくるデンチュラの目は6つとも吊り上がっていて、う、と僕はたじろいだ。

「だからこそ、なんだ。だからこそお前は、アイツがそうと気づかないうちに、アイツを幸せにしてやらにゃいけねー。アイツの羽に傷がつくことなく、いつまでも綺麗なまんまにしてやらにゃならねーんだよ。暑さでへばってるヒマなんざ、どこにもねーんだよ!」
「う、うん……!」

 初めて見た彼女の姿は、目を閉じればすぐ思い描けるくらい鮮明に僕の記憶へ刻まれている。木漏れ日の中に佇み、〝あさのひざし〟を受けて輝く七色の羽。強い鼓動を秘めた愛おしい瞳。力強さと儚さが陽だまりに共存するような完璧さ。
 ひと目惚れだった。まだ子供の頃助けられたときに会ってはいるから、惚れ直し、かもしれないけど。
 思い返してぼうっとしている僕へ、デンチュラは〝エレキネット〟みたいな粘っこい視線を飛ばしてくる。

「春、飲みつぶれたらしいな」

 アゲハントを追って桜の木に激突したには飽きたらず、挙げ句の果てには幹に抱きついて樹液を啜り始めたらしい。知り合いの虫づてに聞いて、もう二度と飲みすぎないよう肝に銘じたくらいだった。あまりに恥知らずな醜態は、親しい友達にほど知られたいものではない。

「ど、どうしてそれを」
「お前を住処まで運んだの、俺なんだからなーーーっ!! 」
「そそそそーうなんだ!? そうなんだありがとう……、っというか迷惑かけてごめん……」

 そんなことはどうでもいい、とでも言いたげに、デンチュラは触肢を震わせた。僕よりもアゲハントと付き合いの長いデンチュラは、いかにも神妙な目つきで肢を毛羽立たせる。

「昔のアゲハントなら、酔い潰れたお前の背中にでかい葉っぱでも被せて帰っていただろうよ。それが、近くにねぐらを構えていた俺ん所まで手伝ってくれって頭を下げにきた。……俺はビビったよ。自分でできることはさも当然のようにやってのけるし、自分の手に負えねーことはさっさと諦めるようなヤツだったのに、だ。アゲハントを変えたのは、紛れもないお前だってこと!」

 いつだったかアゲハントは故郷の森を焼け出され、家族とも離ればなれなんだと言っていて、それきり昔のことを聞くのは気が引けた。この森で再開するまでの彼女について、僕はデンチュラから断片的に教えてもらうしかない。
 座り込んだ僕の腹の底まで見透かすように、デンチュラの複眼が鋭く射止めている。

「……もう一度聞く。アイツのこと幸せにできてるか?」
「できてる! ……っと思うし、それに」断言できるほど身勝手じゃない。けど、ここで言い淀んでなんかいられない。「そうでなくても、してみせるよ……!」
「そーだな。そうだそうだ。それでいい」途端にデンチュラはご機嫌になって、肢をわさわささせた。「今度『すなあらし』行くんなら俺も誘えよ〜? アゲハントの昔話、聞かせてやるからさあ。1杯奢ってくれたらな!」
「う、うん……」
「ところでよ。ほいこれ」
「なに?」

 デンチュラが背中の毛をゴソゴソ探して、見慣れないものを取り出した。
 僕の手から少しはみ出るくらいの細長い容器に、怪しげな液体が入っている。それよりもひと回り小さい筒状の道具。どちらも目に鮮やかな色をしていて、おそらくは人間の子供が遊ぶオモチャのような。
 容器の蓋を器用に回して開けながら、デンチュラが言う。

「姪っ子のシズクモが〝バブルこうせん〟の練習のために拾ってきたみたいなんだが、もうお役御免なんだと。お前にやるよ」
「あ、ありがとう……。どうするのこれ」
「こう、この中に入ってる水にだな、筒のこっち側を浸して、そうそう……」

 うまくいけばヘラクロスの僕でも〝あわ〟みたいな技を繰り出せるのだとか。言われた通りにやってみるも、これがなかなか難しい。吸いこみすぎて筒を逆流してきた液体が口に入ってきて、むせた。食べちゃいけない苦さがした。ぬるくなった沢の水で口をすすぐ。
 いつの間にか起きていたらしい、アゲハントが巣から這い出してきていた。

「あっごめん、起こしちゃった?」
「なんだそれ。」
「ああえっと、これ、なかなか上手く吹けなくって……」
「ちょっと貸せ。」
「うん。あっそれ中の液体は飲まないように――」

 ――ぷわわわっ。
 太陽照りつける夏空を、フワンテの大群が横切った。アゲハントの口先から放たれた小さなシャボン玉たちが、僕を取り囲むようにして漂っていた。彼女の羽がやんわりと〝おいかぜ〟を吹かせれば、彼らは一斉に流される。そのひとつひとつが木漏れ日をくぐるとき、油の膜は強烈な光を反射して光った。一瞬僕の目をくらませたシャボン玉は、逃げるように複雑な軌道を描いて入道雲の方へ舞い上がっていく。
 食べるとか寝るとか、最低限生きることに対してアゲハントは熱心だった。その反面、こうして遊ぶとか、同じ時間を共有することに興味ないのかなって思っていた。僕を置いて1匹でふらりと飛んでいくことは多いし、番でのそういうことも義務感からしてくれている節があったから、僕はちょっと寂しく感じていたけれど。
『アゲハントを変えたのは、紛れもないお前だってこと!』――デンチュラの言葉を頭の中で繰り返す。
 木の根元に寄りかかりながら、アゲハントがその口でシャボン玉を膨らませる。今度のは大きい。シズクモの水泡みたいな膜越しに見える彼女は、なんだか水の中にいるみたいだった。その4枚の羽を優雅にたなびかせ、七色の海を泳いでいるように見えて。

「……綺麗だ」
「そうだな。」
「いや、僕が綺麗だなって思ったのは……、……。ふふ、なんでもない」
「そうか。」
「あぢ〜。なあなあお前ら海行かねーの?」

 手渡された液壺に筒を浸して、反対側を口に挟む。アゲハントを真似してゆっくり息を吹き込んでいく。不意に爪が当たったのか、ぺちん! とシャボン玉が割れた。飛沫が顔にかかって涼しかったのは一瞬だけ、ツノから下をべとべとの液が垂れていく。
 固まる僕に、ありゃ、と君が言った。





pumaさんが描かれた、このあと水浴びさせてもらったよの絵
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3 


 延々と降りしきる落ち葉を背景に、今年もコロトックさんたちの演奏会が開かれる。彼らにとってはこの日のために磨いてきたナイフ捌きを披露する晴れ舞台だし、森に住むポケモンたちもそれを楽しみに集まる一大イベントだ。
 演奏会には町で人間と暮らすポケモンもお忍びでやってくる。見知らぬ虫たちは体を上品に着飾っていて、森暮らしの虫たちにもいつしか演奏会にはオシャレしていく、なんて習慣ができていた。
 毎年僕ひとりで参加していたけど、今年こそはアゲハントにも聞いてもらいたい。一緒にお出かけしたい、楽しいことをしたい、ってのはもちろん本心だ。それにオマケして、アゲハントがおめかししている姿、見たいなって。
 けど。

「必要ない。」やっぱりアゲハントの反応は薄かった。「ああいう場は、番を探すためにあるんだろ。」
「番で行ってもいいんだって。眠くなったら寝てていいし、お腹が空いたらこっそり抜けてもいいから……」
「なら、行くか。」
「や、やった……!」ことのほか簡単に了承してもらえて、すっかり舞い上がっていた。「じゃあちょっと、アゲハントに似合うの、ハハコモリさんに見繕ってもらおう」
「服か。面倒だな。」
「そんなことないよ。このまえ糸玉もらったとき、アゲハントに着せてみたいってハハコモリさんも言っていたし。夏場は散々お世話になったでしょ。……ついでにミツハニーさんとこ、寄ってく?」
「ん。」



 森の中の開けた一角、夕暮れのコンサート会場。大きくない広場はすでにポケモンたちで溢れかえっていた。寂しくなっていく森の賑わいを締めくくるように、みんなガヤガヤとさざめき合っている。
 ドラピオンさんの爪やらペンドラーさんの肢……他の参加者たちにツノをぶつけては謝りながら、僕らはどうにかその一端へと辿り着いた。

「ま……間に合ったっ」
「よく見えんな。」
「音を楽しめればいいんだよ。合唱曲もあるみたいだから、そのときは一緒に歌おっか」
「狭い……。」
「ここじゃ羽は広げられないかもね」

 アゲハントをモデルにした着せ替えにハハコモリさんの興が乗ったらしく、即席で糸を編んでは何着も試させられた。リボンでぐるぐる巻きにされたり大変だったけど、最後にはお揃いの黒いワンポイントに抑えてもらった。羽とツノの意匠をあしらった、僕たちにぴったり似合うブローチだ。
 おまけにアゲハントの鱗粉をもっと綺麗に際立たせる、キラキラしたパウダーなんかも振ってもらった。おかげで開演時間ギリギリになったけど。

「あそこで聞いてる。」
「あ、ちょっと……」

 より綺麗になった姿に見惚れている僕をよそに、アゲハントは広場の外周を縁取る樹へと飛んでいった。最も太い枝に陣取っていたバタフリーさんの家族連れが席を譲ってくれて、彼女は何の気なくキャタピーの隣へ腰掛ける。
 僕も並んで鑑賞したかったけど、梢を折ったりなんかすれば顰蹙を買うこと請け合いだ。ドリンクスタンド以上の失態を晒したくはない。かといって樹皮に抱きついて聞くのはマナーに反している気もするし。
 ……こんな予定じゃなかったのに。腕を組んで、おとなしく樹の根本に寄りかかった。



 そうこうしているうち、西の稜線へ陽が沈む。演奏会の幕開けだ。
 指揮を執るコロトックさんの両腕が黄昏を受けて光る。海の潮が引いていくみたいに、会場に集まったみんなが静かになる。
 力強い振動が森を吹き抜けた。
 扇状に置かれた丸太へ腰掛けたコロトックさんたちが一斉にナイフを引く。繊細で荘厳で、それでいて虫たちの魂を沸き立たせるような音色。コロトックは得意なメロディが個体ごとにそれぞれ違うらしい。主旋律はみんな統一しているものの、副旋律には各々の癖みたいなものが聞こえてきて、そしてそれらが渾然一体となってひとつの音楽を作り上げていた。
 ふ、と見上げる。夕闇に浮かぶアゲハントは黙って音を聞いていた。表情こそ変わらないけど、飽きたような様子もない。音につられたみたいに小さく羽ばたくと、鱗粉のパウダーが僕へ降りかかってきた。東の空には、淡い満月が昇っていた。



 演奏会の後にはちょっとした交流会みたいなものが開かれる。ツボツボ夫妻のドリンクスタンドも出張していて、2匹分の飲み物を受け取って戻ると、アゲハントは誰かに話しかけられているみたいだった。
 僕の知らないビブラーバは、どことなく洗練された身振りで2対の羽を震わせていた。首元に巻いたスカーフも生糸由来のものではなく、どうやら普段は人間の元にいるポケモンらしかった。
 ――かちゃん。
 持っていた器を取り落として、すれ違った虫たちが怪訝そうに僕を見る。そんなことにいちいち謝っている余裕もなく、僕の足はもつれていく。

「ちょ……ちょっと」傍からアゲハントの手を引っ張って、ビブラーバには聞こえないくらいの距離で耳打ちする。「知り合い……?」
「知らん。」さも当然のように言う。「あっちで飯くれるんだと。人間の飯なんて初めて……。」
「え、まさか、行かないよね?」
「腹減った。食ってくる。」

 そう宣言する彼女の口ぶりが、僕に演奏会へ誘われたときよりも、初対面のビブラーバにご飯へ誘われた今の方が、嬉しいように聞こえてしまって。咄嗟に何も言い返せなかった。
 アゲハントを誘い出すために『お腹が空いたら抜けてもいい』なんて言ったばっかりに、彼女を強く引き止められなくって。

「待ってアゲハント、気づいてないかもしれないけど、いま君は口説かれてるんだよ。……断る、よね?」言葉にするのはどこか情けない気がして、一瞬、口ごもる。「その……、だって、君は、僕と番な訳だから……」
「そうだ。だから飯を貰うだけ。」
「いや、そうじゃなくっても、人間に捕まるかもしれないでしょ。僕は心配なんだってば……!」
「危険はない。保証する。これ持って先に帰れ。」

 ずっと邪魔だったんだろう、黒のブローチを口でもぎ取ると、アゲハントは無造作に投げてよこす。キャッチしたそれと僕の胸から取り外したものを並べて眺めて、無性に心がざわついた。
 彼女の〝むしのしらせ〟は敏感で正確だから、その身に危機が及ぶようなことにはならないだろうけど、そもそも雌雄のそういう関係を危機だと思っていない節がある。アゲハントにその気がなくたって、無理やり迫られたら「まあ……やるか」なんて答えてしまうかもしれない。ここは僕から強く言うしか……。

「あのっすみません、彼女は僕の――あ」

 顔を上げた時にはもう、2匹は羽を連ねて飛んでいくところだった。僕の羽じゃ到底届きそうにない高度まで浮かぶと、何年来かの親友に再会したみたいな雰囲気で親しげに喋りかけるビブラーバ。
 彼女をエスコートするその得意げな横顔が、僕の目にこびりついて離れない。



 当然、後をついて行った。
 温泉近くの沢を1時間ほど下った先にある、人間たちが拓いた河原のキャンプ場。森の真ん中で開催されるコンサートの噂を聞きつけてか、人間たちのグループも何組か宿泊しているみたいだった。
 すぐそばの樹皮へ腕の突起を引っ掛けて、しがみつく。前脚が震えて何度もずり落ちそうになりながら、どうにか這い上がった。視界を邪魔する自分のツノがこんなにももどかしいこともない。
 人工的な証明に照らされるアゲハントを、横目で眺めていた。テーブルに向かい合ったアゲハントとビブラーバの前には、人間が作ったサンドウィッチの他に、カレーなんてものまで並んでいる。僕の方まで漂ってくるスパイシーな香りに、アゲハントは興味津々らしかった。
 あのトレーナーの生活水準はよく分からないけど、たぶんいい暮らしをしているんだと思う。今晩キャンプ場で野営しているどのグループよりも、乗り物や装備品が本格的なものだった。ビブラーバもよく懐いているみたいで、ちゃんと手持ちのポケモンを愛しているように感じられた。
 もしあんなトレーナーにアゲハントが迎え入れられたら、僕と番でいるより幸せなんじゃないか。暖かな寝床があって、美味しい食べ物に囲まれて、何ひとつ不自由なく暮らしていける。彼女がふとした時に見せる、ひらひらとどこかへ飛んでいってしまうような儚げな面影も、あの人間の元ならば鳴りをひそめてくれるんじゃないか。
 こっそり近づいてテーブルをひっくり返し、強引にアゲハントを奪い返すことだってできた。あのビブラーバも人間に育てられているとはいえ咄嗟に反応できないだろうし、バトルになったって負けないだけの自信はある。アゲハントが少しでも嫌そうなそぶりを見せれば、すぐさま飛び込んでやるつもりだった。
 けど。
 何より僕がつらかった。彼女を信じきれていないって事実が、僕をいばらの蔦で締め上げていた。番になってくれたアゲハントがさっき出会ったばかりのビブラーバになびくはずないのに、そうだって分かりきっているのに、どうしてこんなに心が蠢くんだ。先に巣穴に戻って、夜食につまむきのみを選びながら、演奏会は素敵だったね。眠くはならなかった? ところで食事会は……? ――なんて、楽しくおしゃべりすればいいだけ、なのに。



 結局、1匹で巣まで帰ってきてしまった。
 今朝譲ってもらったばかりのミツハニーさんのミツ壺を取り出して、置いた。とても舐める気になんてなれなかったし、無理やり口に押し込んでも砂の味しかしないだろう。帰ってくる間じゅう握りしめていたお揃いのブローチも、茂みの端に押しやってしまっている。今ごろアゲハントはどうしているんだろう。カレーを美味しそうに頬張っていた横顔ばかりが思い浮かぶ。「美味かった。」「あはは、こんなところについているよ」なんて、あのビブラーバと和気藹々話していたり、それからいい雰囲気になって、あんなことやこんなこと……。
 どれだけ経ったか、時間の感覚さえふやけてしまった頃。月明かりの中を聞き慣れた羽音が近づいてきて、茂みを掻き分けて入ってきた。

「ただいま。」
「おか……えりっ……!」
「なんだ、寝てないのか。」
「ね、寝られへんよ……」

 変な座り方をしていたのか、肢が痺れてうまく動けない。不格好に引きずる下半身を隠しながら、満月を背負った彼女を出迎えた。

「くたびれた。」変わらない口調でアゲハントは言う。「飯にそのまま口をつけたら、怒られた。スプーンを使うんだと。水を飲むにも、器を持ち上げるらしい。」
「……そう、なんだ」
「人間の飯は美味かったが、落ち着かん。」
「そうなんだ、ね」

 彼女が戻ってきてくれたことの嬉しさ、なのか。もしくはわずかでも疑ってしまったやましさ、なのかもしれないけど。色んな感情が一気に噴きこぼれてきて、風邪を引いたみたいに体が芯から熱くなった。どう言葉を繋げればいいか分からなくって、それがまた情けなくって、顔を伏せた。見られたくない。
 いつも包まっている大判の葉っぱをアゲハントに被せて、半ば無理やり寝床へ促した。

「もう今日は寝よっ。アゲハントもお腹いっぱいでしょ。僕は、その……。食欲なくて」
「何も食ってないのか。」枕元に置いたミツ壺にはまだ手をつけていなくて、それでアゲハントが心配してくれる。「具合、悪くしたか?」
「い、いやっ、体はなんともないんよ」ツノを草地に突き立てるくらい急な角度で顔を伏せ、アゲハントの視線から逃げようとする。「ただ、ちょっと弱気に、なっとった、だけ……」
「そうか。」

 おそるおそる視線を上げる。アゲハントの大きな目が、真っ直ぐ僕を見つめていた。いつもの読めない表情で、だけど瞳は僅かに揺らいでいる。たぶんこれは、彼女が驚いた時にする仕草。ほとんど見せたことないけど、きっとそうだ。

「そうか。」頷くようにもう一度、彼女は繰り返す。「そうか。体は元気でも、心はしぼんでいるのか。」
「アゲハントに、心配かけたくない……」
「軽率だった、すまん。またこういうことがあれば、その場で言え。」
「や、いいんよ」心を落ち着かせる時間はたっぷりあったはずなのに、僕の声は掠れて震えていた。「僕が君を縛ることなんてできへんよ。アゲハントが幸せになってくれたら、そのとき隣に僕が居んでもっ、……っ、それで、いいから……。人間のもとで暮らしたいってなら、行って。応援する。たまに、1年に1回とか、演奏会の日にでも顔を見せてくれれば、それで――」

 何か言わなくちゃって、言葉が勝手に溢れてくる。思ってもいないことを次から次へと吐き出していて、それがぜんぜん止まってくれなくて、なんだか泣きべそをかいているみたいで情けない。アゲハントから逃れるように顔を逸らすと、手の甲に雫が落ちた。本当に泣いていた。情けなさすぎて、お腹が引きつれて変な笑い声が漏れた。爪で拭っても後から後から湧き出してきて、泣きながら笑って、自分の気持ちさえ分からなくなって、このまま穴を掘って隠れて消えてしまいたかった。

 ――(びゅう)ッ!

 突風が吹いた。
 飛行タイプの技にめっぽう弱い僕は茂みから弾き出された。草地へと柔らかく背中を打ちつける衝撃。それはカイロスとの樹液争奪戦に敗れたショック、みたいなものを連想させて、本能的に僕を打ちのめした。無様にひっくり返ったまま、樹々の草葉の間から、夜も更けて光源の密度を高めていく星空を眺めていた。
 手加減されたものとはいえ、アゲハントに攻撃技を向けられたのはいつ以来だっただろう。たぶん、それは僕が初めて彼女に出会ったとき。まだカラサリスだった彼女の〝たいあたり〟で、僕は命拾いしたんだった。
 涙を隠せなくなった僕のお腹に柔らかく着陸して、彼女はひと言、僕の耳孔へ近づけた口先から、言った。

「番だろ。」

 たった、それだけ。
 それだけなのに、僕の涙はピタリと止んだ。
 胸の上に留まったアゲハントの、疾風を巻き起こした綺麗な羽が力強く、僕を包む。そろりと持ち上げた両腕で、彼女を抱きしめ返す。
 番になってほしいと告白したとき、アゲハントの口からは好きだとか愛しているとかは出てこなかったけど、唯一「信用している。」と言ってもらえた。拒絶されなかっただけで舞い上がるくらい嬉しくって、愛はこれからゆっくり育んでいけばいいんだって、僕はひとりで納得していたっけ。
 そうだ、そうだった。初めからアゲハントは僕を信頼してくれていた。なら、僕が彼女を信じないでどうするんだ。
 深く深く抱き合ったまま、僕の両頬にこびりついた涙を、アゲハントの口吻が啜る。

「……しょっぱい。」
「い、いいよ。すぐ引っ込む、から……」
「口直し口直し。」
「ちょ……!」

 さりげなく細長い口の伸びた先は、僕が置きっぱなしにしたミツの壺。寝る前に食べると太るよ、ってこの間注意したばっかりなのに。つまみ食いはやめよう、って決めたばっかりやのに!

「もう今日は散々食べたんやろっ」

 誤魔化すように怒って彼女を抱え上げたけど、アゲハントは器用にミツを吸い続けている。抱き合ったままの彼女のストローが膨らんで、それが丸い喉を伝って、この小さなお腹を満たしていく。淀んで溜まった僕の涙を、甘くあまく薄めてくれる。
 アゲハントがミツ壺を手繰り寄せて、2割ほど軽くなったそれを僕へと突き出した。

「要るか?」
「……うん。――ありがとう」

 まあ、今日は特別かな、なんて。




4 


 昨晩降り続いた雪は積もって、掘った巣穴は底の方さえ凍てついていた。甲殻の内側にまで忍び込んできた冷気に身を震わせる。そのまま春まで眠らされそうな寒気を何とか振り払い、出入り口を閉ざしていた土を持ち上げた。
 差し込んだ朝日を受けて、アゲハントの瞳にも光が宿っていた。

「おはよ」
「おはよう。」
「……寒いね」
「そうだな。」
「晴れてはいるみたい。……あれ、する?」
「ん。」

 縮こまる筋肉を奮い立たせて、ツノで雪の塊を取っ払う。幸い天気は落ち着きを取り戻していた。すぐそこに積もった新雪を掘り起こして、座れるだけのスペースを確保する。
 後から這い出してきたアゲハントが、僕のツノに乗ってひと息ついた。彼女は羽を広げて、朝日を一身に受け止めているはずだ。羽のある虫たちはこうして体を温める。本調子を取り戻すのは僕よりアゲハントが先だろう。
 疲れるとすぐに眠たくなるアゲハントだけど、平均的な眠りの質は浅いみたいだった。いつもうとうとしている印象がある。表情の乏しさは寝顔になっても同じで、口先から静かないびきが聞こえてようやく「寝たんだな」って思うくらい。軽くゆすっても起きないときは、彼女が良い夢を見ているようでどことなく安心する。
 それでいて大抵僕より先に起きていて、よく寝床を抜け出してふらついている。夏場はさすがに僕のが早起きだけど、春なんか特に眠りが浅くなるみたいだった。すぐに目が覚めてしまう体質というか習慣というか、それが何だか、〝むしのしらせ〟を察知すればいつでも飛び立てるよう、全てを捨て去る準備ができているみたいで。
 同棲してからは一緒に寝てくれるだけで嬉しかったのに、僕は欲張りだ。欲張りでワガママで嘘つきだ。「縛るつもりなんてない」とか言っておきながら、アゲハントには僕の隣で、毎晩楽しい夢を見ていてほしい。
 雪の日は、嫌いじゃない。こうして一緒に起きられるから。



 同棲しはじめてからしばらくのこと。ふらりと出かけていったアゲハントが、夜になっても住処へ戻らないことがあった。散々探し回った挙句、巣からほど近い樹のうろの中で、ひどく傷ついて動けない君を見つけた。
 アゲハントが不用意に縄張りを侵したのか、天敵に追い回された形跡があった。硬い嘴でつつき回された顔は傷だらけで、白い肌には血が擦れて延ばされた痕がまざまざと残っていた。あんなに綺麗だった羽は逃げる最中枝に引っ掛けたらしく、端からバッサリと切れこみが入っていた。
 僕の腕の中でアゲハントはうめくでもなく、「傷には慣れてる。多少は傷ついてるが、飛ぶことはできるから問題ない。」なんて言ってのけた。君は優しいから僕に心配かけまいとしてのことなんだろうけど、僕はいっそう怖くなった。アゲハントの体のどこか大事なところが傷ついて、痛みさえ感じられなくなってるんじゃないかって、そう思うと恐ろしくなって、涙が溢れて止まらなくなった。
 それに何より、悲しかった。
 抱きしめられるほど近くにいるのに、あまりにもアゲハントと感覚がすれ違っていることが。こんなにも僕が愛している君を、君自身が愛してくれていない。僕は君といるだけで幸せだけど、実は君はそんなことひとつも感じていなくって、ある朝気まぐれにどこか遠いところへ飛んでいってしまって、それっきり。正式に番になってもらうまでは、そんな悪夢をよく見たものだった。
 アゲハントはどう感じているんだろう。どうにかして君を理解したかった。舞い散る桜を眺めて、照りつける太陽の暑さにやられて、心震わせる音楽を聴いて、底冷えする雪に埋もれて、君は何を想うんだろう。
 ただでさえ表情が変わらず、滅多に気持ちを伝えることのない君が感じる質感(クオリア)を、完全に共有することなんてできっこない。けど、だからこそ簡単には諦めたくないんだ。1年を通して君と色んな思い出を共有していって、少しずつ感覚の隔たりを埋めていきたいんだ。



「今日どこか行くか。沢向こうの温泉とか。寒いし。」
「え……」ツノに伝わる重みにうつらうつらしていた意識が、アゲハントの声に揺り起こされる。「ぼ、僕を、誘ってくれるの?」
「そうだろ。」

 しばらく、寝ぼけたみたいにポカンとしていた。
 アゲハントからお出かけに誘われたのは、いつ以来だっただろう。これまできのみを分けてくれたり、僕の腕っぷしを頼ってくれたことはあったけど、食べ物の絡まないことに彼女が積極性を見せるのは新鮮だ。飛び続けられない僕は遠出するにもスピードを合わせるのが難しくって、たびたび置いてけぼりにされていたから、なんだかそれだけで嬉しくって。
 返事のできない僕に、アゲハントはしゅるり、と口を巻いた。

「……あ、スマン。用事があるのか。」
「なっないよ、行こう行こう! 動けるくらいあったまったらすぐ行こう! それに古くなったオレンのみ、お湯に浮かべちゃおう。冬っぽいし!」
「勿体無い……。」
「あっ古いんやから食べんでよ? お弁当は別で作って持っていくから、さ……!」
「お〜。」
 
 そうとなったら大忙しだ。彼女の大好きなロメのみを切って、葉っぱに包まなくっちゃ。ミツハニーさんのミツと、アゲハントが喜ぶだろう、ツボツボさんのお酒もちょっとだけ忍ばせて。
 
 次の春もまた、こうして、君と一緒に、どこへ行こうか。






あとがき

よそさまの子たちが愛おしすぎて勝手ながら3次創作させていただきました。勝手ながら書かせていただきましたので、勝手すぎる設定やら言動やらがてんこ盛り。本家さまの漫画を何度も読み返してセリフぜんぶ書き出してもアゲさんの言動読めなかったんですよね……キャラ崩壊だあ! あとヘラくんが酔っ払うシーン想像できなさすぎてリクエストして漫画描いてもらう始末。たいへん参考にさせていただきました。何か不都合ございましたらすぐ消します。
演奏会終わりの展開はよそさまのCPに亀裂を生じさせるような際どいものにしちゃったんですけど、帰ってきたアゲさんの「そうか。」が描きたかったんですよね〜〜〜。彼女がいかにヘラくんの心の支えになっているかを自覚して、ちょっとずつ変わっていくキッカケになればいいなって。倫理観ぶっ飛んでる子の心理描写むっずくて満足に描けた気はしませんけど! こんな素敵CP発見してくださってホントありがとうございます!! BIG LOVE……


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 本来的に他者の気持ちを想像することはできても理解することはできないと思うんです。
    思うんですけど、それでも理解しようとあれこれ四苦八苦することが貴い行為なんだって思いましたね。。。
    素晴らしいお話ありがとうございました。 -- 朱烏 2023-08-20 (日) 19:07:00
  • >朱烏さん
    ふとしたことで気持ちのすれ違いが関係性に亀裂を生じさせることになったりしますが、そもそも気持ちがすれ違いさえしないのはけっこう寂しそうです。アゲハントさんくらい感覚感情の難解な相手を好きになってしまったら、頑張り屋なヘラクロスくんはきっと諦めずに歩み寄ることでしょう。だからこそ演奏会の夜、アゲさんからも歩み寄ってくれたことがなんと嬉しいか。そりゃ感情ぐちゃぐちゃになって泣いちゃいますよね可愛いね……。私が書けたのは彼の情けない姿ばっかりでしたが、普段はもうちょっとスマートにアゲさんを喜ばせているはず。将来は幸せな家庭を築いて子宝にも恵まれるらしいので、相互理解を深めていく姿を安心して尊べるんですよ……ステキだ……。
    コメントありがとうございました! -- 水のミドリ 2023-08-21 (月) 20:52:20
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Last-modified: 2023-08-16 (水) 18:31:26
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