ポケモン小説wiki
Re_initiation

/Re_initiation

※官能描写があります。ご注意ください。
 

Re:initiation


作:さかなさかな
 
 
 
「バーン! エースバーン! 朝だよ、起きてー!」
 巣穴に響くリオルの声に、おれは寝床から飛び起きた。
 彼がこの地に腰を下ろしたのはもうひと月ほど前のことになるか。あれは、おれがエースバーンに進化してしばらくした頃だった。
 いつものようにトレーニングに励んでいた昼下がりのこと、森の外は隣山の方から、地響きとともにものすごい轟音が聞こえてきたのだ。
 何事かと慌て、家を飛び出して駆けつけたところ、子供のように小さなポケモンが山に住む乱暴者のバンギラスに追い立てられていた。群青と黒の体毛に真っ赤な瞳を持つその子供は、おれと同じ二足歩行タイプらしい。はかいこうせんやストーンエッジといった物騒な技をぶっ放しまくるバンギラスの猛攻を、矮躯を活かしてギリギリのところで躱している。
 だが、そう長くは持たなさそうだった。血管を硬い皮膚に浮かばせて猛り立っているバンギラスはまだまだ体力に余裕がある。それに対して、彼は体のあちこちに泥をつけ、肩で大きく息をしていた。攻撃をこれまでかわし続けたそのバトルセンスには驚嘆させられるが、やはり年齢と種族の違いによる基礎的な能力差はいかんともしがたいのだろう。
 彼の身のこなしに見惚れていたおれは、つい戦いを止めるのを忘れてしまっていた。あわてて我に返ると、彼らの間に割って入りながら大声で叫びかける。
「おいグランデ、何があったんだ! こんな子供を追い回して、大人気ないぞ!」
「このガキ、勝手に山に入ってきてきのみ漁ってやがったんだよ! どけ、一発殴ってわからせてやる!」
 だめだ、話を聞く気がない。完全に頭に血が上っているらしい。
 彼をどうにかなだめられないか思案していると、狂竜が攻撃の手を弱めた隙に後ろの少年が声を上げた。
「しっつこいなあ、おじさん! だからごめんって言ってるでしょ!」
「んだとぉ!?」
 どうやら、少年も少年で高飛車な態度を崩すつもりはなさそうだ。火に油を注ぐようなその言葉に、グランデはさらにいきりたってしまう。うーん、どうしたものか。
 とはいっても、さすがのグランデといえど本気で殺しにかかってきているわけではないだろう。そこまで頭のネジが飛んでいるやつではないし、機嫌のいいときは話の通じる相手なのだ。おそらく、この子供が自分の技を避け続けるのが面白くなくて、ついこの森まで追いかけてしまったというところだろう。
 ならば、その苛立ちを解消してやればいい。彼はその凶暴さで恐れられているが、逆に言うと自分の力を思いっきりなにかにぶつけることでストレスを発散できる体質なのだ。
「さあ、痛い目に遭いたくなきゃそこをどきな!」
「……どかないね。そんならおれが相手になってやるよ」
「ああ!? てめぇ、俺様に敵うと本気で思ってんのか?」
 グランデは、このあたりでは名を知らぬものがないほどの強者だ。おれ自身そんな彼に憧れて、強さを追い求めるようになったラビフット時代から何度も頼み込んで手合わせしてもらっていたが、一度たりとも勝ったことはない。むしろ毎日ぼっこぼこにされていた。
 だけど、ここで引いたら意味がない。弱きを助け、強きに屈しないヒーローになろうと、今まで頑張ってきたじゃないか。これまでのトレーニングも、気性の荒い彼に食らいついてやっとのことで進化したのも、きっと今のためにある。
「思ってないよ。だけど、最終進化のこの体がどれほど本気のアンタに通用するか、試してみるのも悪くない」
「……言うようになったじゃァねえか」
 おれ達の間を沈黙が流れた。戦意と緊張が加速度的に膨らんで。
 刹那、弾けた。
 グランデの巨体が吠えると、大地が彼の意志に共鳴した。地面がめくれ上がり、形成された大質量の剣が何本も地面から伸びてくる。さきほど少年に放っていたのとは文字通りレベルの違う、彼の全力の攻撃。
 それが体を貫く寸前、地面を蹴って勢い良く宙に跳んだ。鍛え上げられた足の筋肉と、そこから生み出される膂力で、おれはまるで空を駆けるように飛び回る。
 おれの見切りは少年のそれほど精緻ではない。結果としてかなり大ぶりに避けることになるが、そのぶんはスピードで補う。
 かがみ、身をよじり、ときには剣の側面を蹴り出して、彼にぐんぐん近づいていく。足に発熱器官を持つおれが最も得意とするのは火球を蹴り出す技なのだが、そんな悠長を許してくれる相手ではない。代わりに使うのはこっち、赤熱した足を直接叩きつけるこの技──!
「〝ブレイズキック〟!」
「〝ギガインパクト〟!」
 だが、彼の動きもやはり速かった。おれがたどり着いた頃には体勢を立て直し、再び強力な技を放ってこようとしていた。
 それに気がついたのは、彼に向かって飛び出してしまったあとだった。避けようにも避けられず、真正面からぶち当たってしまう。耳をつんざく轟音。全身が砕けそうなほどの衝撃。ぐるぐると世界が回りながら、地面が近づいてくる。
 そして、視界が暗転した。
 
 
 
「っつう……!」
 下半身全体から走る激しい痛みで目を覚ました。思わず歯を食いしばる。
 目を開けると、見覚えのある特徴的な顔が映っていた。青い顔に、目の周りを覆うマスクのような黒い模様、そして真紅の瞳。さっきの少年だ。不安そうに眉を下げて、こちらを見つめている。
「おう、お前か……」
「……ごめん。僕のせいで、ひどい目に遭わせちゃって」
「ん、いいってことよ。あのバンギラスとは知らない仲じゃないしな」
 後ろに見える空は夕焼け色に染まりかけていた。かなりの間気を失ってしまっていたようだ。彼が渡してくれたきのみをありがたく受け取る。
 きのみを頬張りながら、その少年──ルゥと名乗った──に話を聞いた。ぶつかり合いの後、グランデはあっさり山に帰っていったらしい。成長したおれとのぶつかりあいで満足して矛を収めたのだとか。あいつ、やっぱりただ暴れたかっただけかよ。
「はぁ、少しはいい勝負できるかと思ったけどまだまだだな。大見得切ったのに情けねぇ」
「そんなことないよ! あんな速さで飛び回れるポケモン、僕初めて見たもん」
 幸いにして、おれのほうも骨や内臓にダメージはなさそうだった。しっかりと栄養を取ってよく眠れば、数日かからずに治すことができるだろう。あのまま放っておけば、この少年は間違いなくこれよりひどい目にあっていただろうから、悪くない結末と言えよう。
 グランデとの修行のなかで、必要に駆られて受け身の技術を身に着けたが、皮肉なことにそれが今回も役に立ったようだ。
「お前、外から来たのか?」
「うん、旅をしてるんだ。あのおじさんの住んでたとこ、きのみがたくさんなってたから少しもらおうとしたんだけど」
「まあ、あいつ縄張り意識が強いからな。この森にもきのみは十分あるし、それに気性の穏やかなやつしかいないから、こっちで集めていったらどうだ?」
「あ、ありがとう。何から何まで……」
 なんだ、しおらしいではないか。あの巨獣にブチ切れられても怯えを見せなかったさっきとはえらい違いだ。てっきりもっと生意気なやつだと思っていたのだが。
 だがまあ、頼られて悪い気はしない。
「なあに、気にすんな。何があったのか知らんが、お前みたいな子供が一人旅なんて大変だろう、たまには大人に頼ればいいんだよ」
「こ、子供じゃない。もう十三だ」
「……まじか」
 驚いた。おれより少しだが年上である。
 この森に住むポケモンたちは、種族によるが遅くとも十二までには最終進化を迎え、立派な大人とみなされる。今年で十二のおれは、その中で最も遅い部類だった。
 だから、自分がラビフットだった頃とそう変わらない彼の体つきを見ていると、彼の方が年長だと言われてもにわかには信じがたかった。
「おまえの種族は進化が遅いのか?」
「……そんなこと、ないはずなんだ」
 ルゥの顔が悔しそうに歪む。
 彼は、別に成長が遅いとかそういうわけではなかったらしい。同族だけからなる群れで生まれた彼は、幼馴染と何ら変わらない、元気なリオルだった。個性といえば、真面目なやつが多い群れの中で、少々やんちゃだったことくらい。
 しかし、その幼馴染たちの中で、彼だけが進化できなかった。
「僕が進化できなかったあの日から、みんなが僕を見る目が変わったんだ」
「あの日?」
「ああ、えっと、普通十二歳の誕生日までに進化できるから、ね」
 進化前と後とでは能力に大きな差がある。周りの大人たちがみんな進化後だというのなら、足を引っ張っている彼を疎ましく思うのもある種仕方のないことなのかもしれない。
 ほどなくして群れに居場所をなくした彼は、意を決して武者修行の旅に出た。
「だけど、一人で経験を積んでも変わらなかった。死ぬような思いをしたことも何度もあったけど、それでも進化できなかったんだ」
「そうか……」
 彼の不安はおおいに理解できた。おれには家族がおらず、それどころか同族すらこの森にはいなかったから、先の見えない修行に心折れそうになったことも一度や二度ではない。
 おれがスランプに陥っていた頃同じ経験をしていた。認めたくはないが、あの乱暴怪獣と特訓しだしてから実力が急激に伸びたのだ。もしかしたら、彼も同じような状況から抜け出せないでいるのではないだろうか。
 差し出がましいとは思いつつも、おれは彼に提案してみた。
「なら、しばらく一緒に訓練してみるか? 他種族と修行したら見えてくるものもあるかもしれないし……」
 とはいっても、完全に彼のためだけの言葉というわけではなかった。
 ヒーローになりたい。誰かに寄り添って、役に立ってやりたい。
 ガキの頃から抱いていたそんな青臭い夢を、大人になってもおれは手放せていないのだ。
 体ばかり大きくなって、子供の頃のまま止まってしまっていた時間の針を進めようと、おれは無意識に焦っているのかもしれない。親切なご近所さんこそいたけれど、家族や友達と呼べるやつのいない寂しさを埋めたいのかもしれない。そういうエゴも幾分か混じっていたことは認めねばならないだろう。
 だけど、彼にとっては願ってもない提案だったようで。
「ほんと!?」
「おわっ」
 ルゥはそれを聞くやいなや、喜色満面になって身を乗り出してきた。
 紅色(べにいろ)の瞳が、夕日に照らされてキラキラ輝く。
「あなたのことなんて呼んだら、いや、何とお呼びしたらいいですか!」
「うーん、おれの種族はエースバーンって言うらしいから、略してバーンでいいぞ。……あと、敬語はやめてくれよな。フランクに行こう」

 おっと、これ以上ルゥを待たせてはいけない。回想に浸りそうになる心を引き留めて、おれは彼の前に姿を現した。
 それにしても時間が経つのは速い。それが楽しい時間ならなお速い。
 ああ、つまり何が言いたいかって、彼と過ごす日々は最高に楽しかったってことだ。
 あれから一ヶ月で、おれ達は師弟でありながら親友のような気の置けない関係になっていた。
「バーン、おはよ! 今朝も、森一周走り込みながら型こなしてきたよ! さあ、バトルしよう」
「よし! じゃあ広場まで競走だ!」
 初めて会ったとき、この小さなリオルは自分のことをやんちゃだと評した。群れの連中とは反りが合わなかったと。
 だけど、毎日の修行もおれが言いつけたトレーニングも欠かさずこなしている姿を見ていると、とてもそんなふうには思えない。少々元気が良すぎるきらいはあるが、十分愛嬌の部類だ。たぶん周りが真面目すぎただけなんだろう。
 種族柄おれの方が朝に弱いということを差し引いても、毎朝こうして彼の声で起こされればおれの意識も引き締まる。最終進化を迎えて以降やや伸び悩んでいたおれの実力も再び上向いていくのを感じていた。
「でりゃあっ!」
「っと、やるなっ……!」
 昼飯時に一度だけ休憩を挟みながら、林間の草原で組み稽古すること丸一日。
 最後の組み合いでは危うくルゥに一本取られそうになった。技のキレではやはりおれに分があるが、波導で先を読まれるのでほとんど避けられてしまうのだ。
「おつかれ。今日は一段といい稽古だったな」
「うん! さっきとか、もうちょっとで勝ててたよね! ね!?」
「ああ、すごく強くなってるよ」疲労した筋肉を伸ばしながら返事をする。「おれはもう少し筋トレするけど、ルゥはもう疲れただろ。帰って休みな」
「いや、まだまだ元気だよ! バーンに追いつくためにも休んでなんかいられない!」
「だめだ。おれがグランデのところでぶっ倒れたときの話はしただろ? 体に十分負荷はかけてるんだ、しっかり休息を取らないとむしろ成長は遅くなる」
 これもまた種族の違いゆえか、ルゥは回復力も高かった。どんなにハードなトレーニングをしても次の日にはすっかり元気になり、おれより早起きして朝練をしているのだ。今日のように夜型のおれに合わせて日が沈んだ後まで続けようとすることも珍しくなく、それを止めるのには苦労させられる。
 いや、回復力だけではないだろう。彼は訓練に異常なまでの情熱を傾けているのだ。そのひたむきな姿は、藁にもすがる思いでグランデのところに通っていた過去の自分を彷彿とさせる。進化を追い求める彼の執念が疲れを忘れさせているのだろう。
 依然としてルゥに進化の気配はない。だがこれだけ努力しているのだ、彼の進化する日はそう遠くないに違いない。
 
 それが根拠のない楽観であったことを、おれたちはその後の数ヶ月で思い知らされた。
 
 肉薄していたルゥとおれの実力差はそれ以上縮まることなく再び開いていっていた。結局、彼がおれを倒せそうだったのはあの日の一度だけ。
 考えてみれば当たり前のことだった。いかに相手の技を読めても、肉体がそれについてこられなくては意味がないのだから。
 素早さにかけてはルゥよりおれの方が断然上だ。波導による先読みに慣れ、彼が反応しても間に合わないほどの速さでおれが動けるようになっていくにつれて、彼に僅かにあった勝ち目は再び摘み取られてしまった。
 彼が少しずつ追い詰められていっているのは波導など使えずとも手に取るようにわかった。
「ルゥ、今日はもう終わりにしよう。疲れただろう」
「いやだ! なにか見えてる気がするんだ……もう一度だけ頼む!」
「……わかった。もう一戦だけだぞ」
 笑顔が少しずつ減っていき、焦りとオーバーワークによる疲れからか技も精細を欠く。無理な大技を放って失敗する。そしてますます勝てなくなる。最近ではルゥがまともな当たりを一つとして出せない試合も珍しくなかった。
 だからと言って手を抜いてやることを提案する訳にもいかなかった。努力家だがプライドも相応に高い彼は、きっと腹を立てて断ってしまうだろう。
 でも、このままだと彼は潰れてしまう。
「うお、らっ! がぁっ! くらえぇっ!」
 ヤミカラスの鳴き声響く夕暮れ時。もう体力は限界が近いだろうに、彼の突き刺さるような戦意は一向に衰えない。
 血走った目で身を削るような技を立て続けに放ち続ける彼の姿は、見ているだけで痛ましかった。
 三段回し蹴りを後ろに跳んで回避するが、着地際を狙った足払いが飛んできて地面に転がされる。そのまま畳み掛けるようにルゥははるか高くへと跳躍した。
(飛び膝蹴り……! 無茶しすぎだ!)
 この技は強力だが隙も大きい。尻餅をついているとはいえ全力で地を蹴って大きく飛び出せば避けることはできる。
 だけど、おれが避けたら、受け身に慣れていない彼は大怪我してしまうかもしれない。
 でも、戦いで手を抜くわけには。
 しかし、もし勝てなかったら、ルゥは今度こそおれを見限っていなくなってしまうかも。
 そんな躊躇いで、戦いに向けられていた意識がほんの一瞬乱れた。しかしその一瞬が致命的になるのがポケモン同士の闘い(バトル)。気がつけば彼の姿が視界に大きく迫っていて。
 その膝が、おれの鳩尾にものの見事に突き刺さった。
「っぎ…………!」
 強烈なインパクト。胴体まるごと地面に叩きつけられ、脳が振盪して意識が明滅した。反射的に腹に力を込めて堪えたおかげか昼飯は戻さなくて済んだが、それでも絶叫したくなるほど痛いのは変わらない。
「か、はっ……! っは……」
 肺から空気が丸ごと吐き出され、瞬間的に酸欠になって目が回る。起き上がれないままなんとか深呼吸を繰り返すおれを、ルゥが腹の上から射殺すような視線で睨みつけてきた。
「……なんで避けなかった」
「……え」
「そんなに僕は憐れかよ……!」
 彼の言葉の意味を理解したおれは、頭を石塊でぶん殴られたような気持ちになった。
 そうだ、彼は相手の感情を読めるのだ。戦いのために感覚を研ぎ澄ましている今なら尚更のこと。おれの先程の逡巡は余すところなくルゥに伝わり、彼のプライドを激しく傷つけたに違いない。
「る、ルゥ、違……。そんな、つもりは」
「うるさいうるさいうるさいっ! そうだよわかってたさ! バーンもどうせ、そうやって僕のこと見下して、馬鹿にしてたんだろっ!」
 しどろもどろなおれの言い訳はかえって上滑りしていた。
 おれの台詞にかぶせるように言い放つと、ルゥは立ち上がり踵を返して駆け出していってしまった。彼の目から光るものが零れた気がしたのは、たぶん、見間違いではない。
 彼を追いかけようとしたが、瀕死のおれは体を起こすのが限界だった。無理な動きが祟って、針で刺すような激痛に襲われる。届くわけがないとわかっていながらも彼に手を伸ばした。
「ま、ってくれ、ルゥ……!」
 おれ達の間に生まれてしまった亀裂は、あまりにも深く広すぎて。あれよあれよという間に、ルゥは木々の間を駆け抜けていってしまった。
 おれの声は誰にも届くことなく、黄昏の森に吸い込まれた。


 みじめだ。
 故郷の村に背を向けて。せっかく出会えた恩人に嘘で固めた過去を吹き込んで。進化を焦って苛立つあまり、ついにはその恩人に暴言を吐いてまた逃げ出した。
 彼は今頃どうしているだろう。僕のことを探しているんだろうか。いや、僕みたいな屑のこと見限っているに違いない。それが当然だ。
 なのに、胸が引き裂かれるように痛かった。何度も引き返そうかと足が迷った。自分から逃げ出しておきながら、彼が追いかけてきてくれることを心の底では望んでいる。
 僕は性懲りもなく年下の彼の優しさに甘えようとしているのだ。憐れまれるのも無理はない。
 ただただ自分がみじめだった。
 昔からこんなやつだったわけじゃなかったはずだ……と、思う。
 走り疲れて、森の中をあてもなく彷徨いながら僕は空を見上げた。木々の間から宵闇の空がわずかに見える。水平線の下からかすかに差し込む陽光が、黒い夜空を帯状に青く染めていた。
 同族たちの体毛のような色彩を見ていると、一年前の日の出来事が、封じ込めていた記憶の底から浮かび上がってきた。
 
 
 
十二組(じゅうにぐみ)、集合‼」
 森を切り開いて作った昼下がりの修練場に、リン先生の号令が響いた。群れにすむ十二歳以下の子供たち全員、総勢数十人が思い思いにトレーニングしているここはかなりの広さがある。だけど成体のルカリオが発する(コエ)はやろうと思えば集落全体に優に届くから問題はない。逆に同種以外にはこの大音響が少しも聞こえないというのだから、まったく便利なものだ。僕も早く進化して聲を使いこなせるようになりたい。
 呼び出された僕たちは急いで彼女の前に集まり、一列に並び立った。
「点呼!」
「いち!」
「に!」
「さん!」
「よし!」(リン)先生は満足そうにうなずいた。「お前たち三人も、いよいよ今年で生まれて十二年になった。前々から言っている通り、今晩には『成人の儀』が控えている。主役となるお前たちは体調を万全にして望まねばならない。訓練は切り上げ、今から仮眠を取っておくように」
「はい!」
「はい!」
「はい先生! 儀式って何をするんですか!」
「黙って返事!」
「はっ、はい!」
 僕らの集落では、子供は年齢ごとにまとめて扱われ管理される。この厳しい土地で食料を得るために、僕らは波導でコミュニケーションを取りながら集団で狩りを行う。そのため、情を捨て、(かしら)の命令に従順に従うよう教育するために、子供は乳飲みと離乳食が終わった段階で肉親から引き離され群れ全体の仔として扱われる。親元を離れさせられる子供が泣き叫ぶ声は、僕らの集落において春の風物詩だ。
 僕もその例に漏れず、親兄弟とではなく同年齢の幼馴染──女の子の(エル)に、僕と同じ男の子の(ケイ)──と過ごしてきた。今となっては、別れたときのことどころか親の顔もほとんど思い出せないけれど、エルやケイを含めて一緒に過ごしてきた友達はたくさんいるから寂しくはない。
 僕たち"十二"組をまとめているのは、いつものように僕を叱ったリン先生だ。どの先生もそうだけど、自分の担当している組には特別厳しく接する。今日だって、いよいよ成人なんだから、お祝いの一言くらいかけてくれたっていいのに。
「……まったく、おまえは最後まで変わらんな、(ルゥ)
 眉を寄せたリン先生が歩いてきて、手を僕の方に伸ばしてくる。
 う、これはまた拳骨の流れだろうか……。次の日まで痛いから嫌なんだよなぁ……。
 僕は無意識に肩を強張らせた。しかしそこで、先生は唐突に仏頂面を崩してニッコリと笑った。
「だが、お前たち三人とも、よくぞここまでついてきてくれた。お前たちは、私の誇りだ」
 目を丸くしている僕の頭に、ぽん、と手が触れた。拳ではなくて、手のひらだ。
 彼女の手はすぐに離れていっていまう。いつまでも撫で回したりとか、そういった感傷的なことをする人ではないのだ。エルとケイの頭にも、ぽん、ぽん、と優しく触れていく。
 彼女は振り返り、もとの位置まで歩いていくと、振り返らずに宣言した──声じゃなくて波導で。
「以上だ。解散」
 涙をこぼす僕たちの間を、一陣の春風が駆け抜けた。長い冬の終わりを予感させる春一番。
 先生も、まるで何かをこらえるみたいに歯を噛み締めていた。
 
 
 
「ルゥ、怒られなくてよかったなぁ」
「ね。先生が手伸ばしたとき、ビクッてしてたもんね」
「う、うるさいなぁ、蒸し返すなよ! おまえらだって、最後泣いてただろが!」
「ルゥだってそうじゃーん」
「泣き虫なところも最後まで変わらなかったよねぇ」
「っぐぅう……!」
 和気あいあいとじゃれ付きながら──いや、いつものように僕がいじられながら──僕らは寝床に戻った。しんみりした空気にならないよう二人共明るく振る舞ってくれているのだ。だから、少々いじられることくらい今日は喜んで我慢しようではないか。
 ちなみに、僕らの間の会話は至って普通の肉声によるものだ。意図して波導による聲を発しない限り、波導が干渉するためか同族同士では心を読むことはできないからだ(もし読めたとしたら、どんなにうまく悪戯を計画しても実行する前に大人たちに露見してしまうのだろう。なんと恐ろしいことか)。
「でも、三人で過ごすのも今日で最後かぁ」
「寂しくなるな」
「まあ、会えなくなるってわけじゃないし。また時間見つけて遊ぼうよ!」
「そうね!」
 いまや僕の人生の大半を占めている二人との暮らしも今日で終わり。明日からは大人に混じって、群れのための仕事に就かなければならない。あまり横のつながりが強いと馴れ合いや命令不遵守につながるということで、僕らのような同年代は別々の仕事を割り振られることがほとんどらしい。
 僕らはケンタロスの毛皮でできた寝床に川の字に転がった。
「おやすみ」
「おやすみ。あー、成人の儀ってなにするんだろ。楽しみで眠れそうにないや」
「ね。まだ昼だしね」
 思い出話に花を咲かせたいのは山々だったが、あまり時間をかけてもいられない。真っ昼間から訓練を免除されたのは儀式に備えて休むためだということを忘れてはいけない。
 布を頭にかぶって光を遮ると、僕たちは口を閉じて静かにした。さっきの解散式で案外泣き疲れていたのか、僕はすぐに眠りに落ちた。
 
「……おい、ルゥ。起きろ。寝坊だぞ」
「っはぃい!」
 ぐっすり眠ったときは時間の経過を忘れてしまいがちだ。目を閉じて意識を手放したと思った次の瞬間、恐怖をさんざん植え付けられてきた声が聞こえてきて僕は飛び起きた。
 声の主は思った通りリン先生だった。寝坊したのは僕だけのようで、エルとケイはすでに起きあがっている。
 正直眠った実感はなかったが、昼までの訓練の疲れは取れて頭も体もスッキリしていた。すでに日は落ちて辺りは真っ暗だが、波導でものを見ることができる僕らにとっては大した違いではない。
「リ……リン先生。寝坊してすみません」
「もう先生はつけなくていい。敬語もだ」
「え、でも……」
「いいと言ったらいい。今晩で、お前も私達と同じ大人になるんだ。これからは対等な立場として振る舞っていかねばならない」
「わ……わ、かった、リン」
「それでよし」
 リン先生……いや、リンは、すでにいつもの厳格な態度に戻っていた。非日常に浮き足立っていた心がきりりと引き締まる思いがした。
「すでにお前たちを迎える準備はできている。ついてこい」
 彼女が歩き出したので、僕たちも緊張した面持ちであとに続いた。


 僕らはかなり遠くまで歩かされた。村の外縁に行くに従って、立ち並ぶ家家もその数を減らしていく。そろそろ村を出てしまいそうだ。
「せんせ……じゃなくてリン、儀式の場所ってまだなん……なの、か?」
「ああ。もう少しだ」
 まだタメ口に慣れていない僕は、敬語が混じりそうになりながら質問する。先生だった頃は勝手に質問するとすぐゲンコツを入れてきたリンだけど、今はこうやって無駄な話をしても許してくれている。彼女が僕らを大人と認めてくれている気がして僕は無邪気に嬉しがっていた。
 やがて、村の外れの洞穴にたどり着いた。何の変哲もないみすぼらしい洞窟。存在自体は知っていたけど、正直これまで気にも留めていなかった場所だった。
 てっきり、頭の家とか、お神酒が備えられている神棚の奥みたいな、子供が入っちゃいけないとされている場所で(まあそういう場所には見つかったら怒られるの覚悟でだいたい入ったことがあったが)行われるものだと思っていた僕は拍子抜けした。いったいこんな場所で何を行うというのだろう?
「こ……ここで行うなんて、知らなかった」
「『入ってはいけない』といくら言っても、いたずら好きの子供なら入りたくなってしまうものだ……おまえのようにな。ならば、誰も興味を惹かれないような場所にすれば良い」
 僕らは中へと促された。ひんやりとした洞窟の中は意外と奥に広く、入り組んでいて、分かれ道もある。万が一子供が入ろうとしても確実に迷ってしまうだろう。子どもたちの中では最も年長の僕ですら、狭い岩窟内で乱反射する波導に惑わされて帰り道どころか少し離れた場所すらも読み取れなくなっていたほどなのだから。
 一列に並んだ僕らは慎重にリン先生のあとをついていった。一度迷ってしまったら自分一人の力では出られない気がする。
 僕が最初に気づいたのは匂いだった。
 とはいっても、今までにも嗅ぎなれた同族たちの匂いだ。だけどとても濃い。更に進んでいくと、むせ返るような汗の匂いも混じっていることに気がついた。疑問に思って深く息を吸うと、嗅いだことのない匂いがしてきていた。吸い込んだ胸の奥が熱くなるような、甘ったるい不思議な匂い。
 エルとケイも異様に感づいたのか、神妙な顔でついてきている。先導するリンの表情は、読めない。
 押し黙ったまま歩き続けていると、次に違和感を捉えたのは、あまり鋭いとは言えない聴覚だった。
「……っ、……っぁっ……っはぁ……」
「んん……ぉおっ……」
 匂いのするのと同じ方向から声が聞こえてきたのだ。複数人の大人たちの呻くような声が。野太い男の声も、高い女の声も混じっている。
 近づいていくにつれて、匂いも声も鮮明になっていく。だんだん、空気がなまぬるい暖かさを帯びていく。
 そして最後に、視覚。真っ暗闇に慣れていた目に、ぼんやりとした明かりが見えてきた。曲がり角の向こうからゆらゆらと揺れる炎の光が差している。匂いも声も、その向こうからやってきていた。
 間違いなく、ここを曲がった場所で何かが行われている。僕らを大人にするための儀式か、そのための準備が。
「っあ、ぅあっ、は、やぁ……ああっ!」
 もはや疑いようもないほどにはっきりと聞こえる、大人たちの苦しそうなうめき声や叫び声とむせ返るような臭気。疑問と不安が頭を埋め尽くしてもはや耐え難いほどになっていた。
 僕も、これからあんな声を上げるような試練を受けないといけないのか? 大人たちは毎年こんな苦しみに耐えているのか?
「さて、ここを曲がったらいよいよ儀式だ。その前に説明を……っておい!?」
「ルゥ! 抜け駆けすんなよ!」
 本当はリンの説明を聞かなければいけないのだろう。だけど、背筋を這い回る恐怖と焦燥に駆り立てられるように僕は走り出してしまっていた。
 逃げる? まさか。そもそも帰り道などわからない。むしろ逆、一体何が行われているのか一瞬でも早く知らないと気が狂ってしまいそうだった。
 押し止めようとする彼女の手をするりと抜けて、僕は角の向こうに飛び出した。
 ──眩しい!
 空いた天井から月明かりが差しているが、それでは足りないと言わんばかりに篝火がいくつもごうごうと焚かれている。思わず手を顔の前にかざして影を作った。
 数秒後、手をゆっくりとどけた僕は、部屋の中の様子をついにこの目で捉えたのだった。
「んあっ、やっ、だめっ……ぁあ!」
「はぁ、はっ、そこ、いいっ……」
「うっは、それうますぎ……っ」
 …………は?
 頭が真っ白になった。
 部屋はかなり広かったが、どこもかしこもルカリオでごった返していた。群れの若い大人たち全員が成人の儀に参加するのは知っていたが、彼らがみんなここにいるのだろう。
 大人たちは、二人か三人程度のグループを作ってお互いに体をこすりつけあっているみたいだった。立ったまましているものも、座ったり寝転んでしているものもいる。
 しかしなにより僕の目を引いたのは、彼らが口同士や股同士を触れ合わせ、さらには舌で相手の股を舐め回したりもしていることだった。
 僕だって友達とスキンシップくらいする。寂しい夜に手をつないで寝たり、愛情を示すために鼻をこすり合わせたりする。だが、彼らの行っていたことは僕の想像を遥かに超えていた。
 あるものは、口を大きく開けて相手の口とがっぷり噛み合わせていた。涎をべとべとにこぼしながらお互いの口内を夢中になって貪り合っている様は下品を通り越して気味が悪い。六つの子供の食事を見ている方がまだマシだ。
 さらに気色悪かったのは、股ぐらに顔を突っ込んでいるものさえもいることだった。おしっことうんちの出る場所を、普段は触ることすら忌避されるような場所を、なんのためらいもなくしゃぶっては愛しそうに舐め回している。
 真っ白になった頭が、そこで行われていたことを理解するにつれてどす黒く染められていく。僕のなにか大切なものが穢されて、取り返しのつかない形に歪んでしまった気がした。
「ひぃっ…………う、お、おぇえ……」
 吐き気がする。視界の端が黒く染まっていく。耳が遠くなる。足が、ふらついて、世界が傾いて──
「……まったく」
「っあ……」
 後ろから抱きとめられて、僕は危うく倒れ込まずにすんだ。振り返ると、そこには僕に追いついたリンが立っていた。
「だから説明しようと言ったのだ。いきなり目にしては刺激が強いからな」 
「リ……リン、せんせぇ……!」
 僕はまるで子供のころのように彼女に抱きついた。彼女のお腹で視界を塞いで、この洞窟で見たものが消えてくれないかと願った。しかし、耳からは呪詛のように大人たちのまぐわう音が聞こえ続けた。
 リン先生がゴツンと拳骨を落とした。鋭い痛みがなぜかひどく嬉しくて、僕は必死に彼女の体にしがみついていた。
 
 
 
 リン先生に引っ張られて、僕は曲がり道の手前まで戻ってきた。僕と、律儀に待っていた二人に先生が説明していく。
「……つまり、子供ができるんだ。お前たちにも、いまからやってもらう。それが成人の儀だ」
 長々とした説明が終わっても、僕にはとんと理解ができなかった。
 子供を作る? たしかにそれが大切なことなのは理解できる。でも、どうしてあんなおぞましい行為を行わなきゃいけないんだ?
 遠回しにそう聞いてみたところ、リン先生は大真面目な顔をして返してきた。
「まだ経験したことのないお前にはわからんだろうがな、あれはなかなか心地良いんだぞ。一度やれば癖になるし、ハマってしまうものもいるくらいだ」
 やはり、意味がわからなかった。そもそもあんなことやる気が起きない。
 まともなのは僕だけなのか? 救いを求めて隣の二人に目を向けてみたが──
「そう、だったのね。タマゴを作るのが、オトナになった証……オトナになるための、儀式」
「わかったよリン……! うまくできるかわからないけど、精一杯やってみる!」
 ──無駄だった。緊張しながらも、使命感と高揚を隠しきれないうわずった声で返事している。彼らはあの光景を見ていないのだから仕方ない。
 二人の返事を聞いて、リン先生は満足そうにうなずいた。
「うむ。ルゥはまだ少しためらいがあるようだが、これ以上大人たちを待たせるわけにも行かないのでな。儀式に進んでもらうぞ」
 そういうと、リン先生は僕らを大部屋へと促していく。エルとケイは自分から、その場に留まろうとした僕はリン先生に背中を押されて部屋に入った。
「うわ……」
「っひい……」
 部屋に広がっていたのは、さっきとまるで変わらない地獄絵図。
 さっき見た光景は何かの間違いで、神聖な儀式の準備をおこなっていただけなのではないか……心の片隅で縋っていた、そんな現実逃避的な妄想はあっさりと否定された。
 部屋にリン先生の聲が響く。
「みんな! 今年成人を迎えた三人のご登場だ」
 部屋中の大人たちが一斉にこちらを向いた。
 まぐわうのをやめて、遠くのものは立ち上がり、近くのものは座って、全員が僕らに注目する。
「ひゅー! 成人おめでとう!」
「おお、今年はルゥたちだったか! めでたいなあ」
「キャ、あの子かわいい、なんで名前なの?」
「ケイくんだよ。確かにあの初々しい感じが堪らないねえ」
 知っている大人、知らない大人。皆一様に嬉しそうな、誇らしそうな顔をして僕らの仲間入りを称えている。
 彼らの顔に注目しようとしていたが、どうしても下の方に目が行ってしまう。リン先生に説明された通り、雄の股間からは血管の浮き出た肉の棒が伸びていて、雌にはそれを挿入するためのやはり充血した穴が毛皮の下に見え隠れしていた。つい先程まで交わり合い、粘液に覆われた秘部が篝火の光でてらてらと光沢を放つ様はヌメイルの体を彷彿とさせる。
 むわりといっそう強く漂う性臭。期待に爛々と輝いてこちらを見つめる何十対もの紅い紅い目。
 もう、逃げ出すとしたら最後のチャンスだ。この異様な光景を見た後でなら、ケイとエルもついてきてくれるに違いない。
 僕は引き攣った笑みを顔面に貼り付けたまま、両脇にいる二人の顔を抱え込んで耳打ちした。
 逃げるぞ。僕は篝火から松明を一つ奪ってくるから、君たちは先に行け、と。
 だけど。
「ルゥ、こんな時にまで悪戯はやめて。たくさんの大人が手伝ってくれてる、大切な儀式なのよ」
「そうだぞルゥ。今日を逃したら、大人になれるのが一年遅れるかもしれないじゃないか」
 やはり、無駄だった。
 ずっと一緒に暮らしてきた彼らなら一緒に来てくれると思っていた。しかし、なぜだかわからないけど、僕の感性はいつのまにか彼らとも食い違ってしまっていたらしい。
 僕だけがまともなんじゃなかった。僕だけがおかしいんだ。
「ケイ、ルゥ、エル。今日の主役はお前たちだ。お前たちに相手を選ぶ権利がある。誰がいいかな?」
 リン先生が優しく、でも有無を言わさぬ口調で告げた。
「ルゥ」
「ぼ……僕は……」
 どうしてよりによって僕からなんだよ。決められるわけがないじゃないか。
 口をパクパクさせるばかりで返事をしないリオルに場の空気が若干白け始めたとき、僕の両隣から声が上がった。
「私、初めてはケイがいい。ずっといっしょに過ごしてきた大切な友達と、一緒に大人になりたい」
「俺も、エルがいいな。ルゥは、まだ決められないみたいだし……」
 彼らは助け舟を出したつもりだったのかもしれない。恥ずかしがって尻込みしている友達の代わりに先に答えてやろうと。でも、二人が本当になんの忌避感も抱いていないのだとわかるその言葉は、僕にとっては死刑宣告に等しかった。
「よし、では二人でペアになってもらおう。いろいろ慣れないこともあるだろうが、周りの大人に助けてもらうといい」
「はーい!」
 二人は手をつないで、楽しそうに部屋の中央に歩いていってしまう。大人たちが彼らの初めてをじっくりと見ようと、囲う輪を小さくするようににじり寄った。
 先生が僕に向き直った。両肩に手を置いて僕に選択を迫ってくる。
「さあ、どうする?」
「僕……できません……」
 もう、時間も選択肢も残されていない。過大なストレスで頭もまともに回っていない僕の口から出てきたのは、陳腐な逃避の台詞だけ。
「そうはいっても、お前のここは期待しているみたいだぞ?」
「ひゃうっ……」
 つん。
 先生が優しく突っついたのは僕の雄槍。さっきから必死に意識しないようにしていたが、ここの匂いに当てられて僕のそれも勃起してしまっていた。
 目が覚めたときに大きくなったことは何度かあったけど、そんなのの比じゃない。真っ赤に充血し、ギチギチに圧力が高まって痛いほどになった僕の分身はいくら念じても小さくなってくれない。
「……無理に選ばなくたって構わない。この分なら子作りに問題はなさそうだし、適当な相手を見繕うだけだ」
「……が、いいです……」
「ん?」
 この儀式への、幼馴染への、大人への、そして自分自身への嫌悪でぐちゃぐちゃになった思考が、もはや理由もわからず言葉を紡いでいた。
「先生が、いいです」
 
 
 
 恥ずかしいから見ないでほしい、二人っきりにしてほしい。
 そう告げたら、また僕の周りにいた数少ない大人たちは先生を残して去ってった。エルとケイの方に向かったんだと思う。
 それからしばらくのことは、いまでもあまり思い出せない。
 地面に寝転がるよう指示された。妖しく光る先生の目。こじ開けられる口。牙を、口蓋を、歯茎を舌が舐め回す。唾液がだらだらとあふれる。きもちわるい。僕の手に重ねられる、先生の大きな手。あったかい。きもちいい。
 そんな断片的な感覚の記憶はあるのに、ひとつなぎの物語(エピソード)としてまとめようとすると耐え難いほどの頭痛に襲われるのだ。
「それにしてもルゥ、私を選ぶなんて思いもよらなかったぞ……。愛い奴め」
「先生、だって、せんせぇ……うう、ひっく、うわああん」
「おい、泣くんじゃない。まったく、お前は変わらないな」
 溢れる涙を、生暖かい舌が舐め取る。頭を撫でられる。きもちいい。口に再び栓がされる。さっきより激しいキス。ふすふすと鼻で息をした。先生の大きな手が、僕の小さな手を包み込む。
 ぐちゅり。
 先生の秘裂が僕の雄槍を捉えていた。まるで捕食するみたいにじりじりと飲み込んでいく。
「うっ……い、あ、あああ……」
 未知の刺激に腰が震えるたび、強張った喉から声が漏れ出てしまう。きもちいい。体が言うことを聞かない。
 僕のちんちんは見たことがないほどに大きくなっていたけれど、ルカリオの体とはそもそもの体格が違う。あっという間に僕のは全て飲み込まれ見えなくなった。先生の鼠蹊部が、僕の下腹に密着した。
「……おめでとう。これでお前も立派な大人だ」
 きもちがわるい。きもちいい。
 もう、どっちなのか、僕にもわからなかった。
 先生が腰を揺らす。妙齢の女性である先生は儀式にも慣れているのだろう、彼女の腰使いはとても巧みだった。雄槍を柔らかく包み込んで扱き上げる彼女の肉壺の感触に啜り泣くような声をあげた僕の口を先生が唇で塞いだ。
「っひ、やっ、は、ぅあっ……んん!? や、せんせ、んんっ、んぁっ」
「んちゅ、ん、ぷはっ。……ルゥ、こう言う時は恥ずかしくても気持ちいいと言うものだ。その方が、私も嬉しい」
「ふぐっ……せんせ、きもちいい、きもぢいいですう……!」
(出しちゃダメだ、出しちゃダメだ、だしちゃだめだっ……)
 こうやって交わった状態で男の方が赤ちゃんの種を放つことで子供はできるのだと説明された。それが本当なら、僕がいつまでも出さなければ子作りにはならないで済むはずだ。
 汚れてしまった自分から目を背けるために、必死にそんなふうに考えていたら。
 ぐりぐりぐちゅぐちゅっ……!
 彼女が一段と激しく腰をグラインドさせた。それに合わせて膣内も蠢動して、ぐちゃぐちゃと艶めかしい音を立てながら僕の精を搾り取りにかかる。理性を直接(やすり)で削ってくるかのような刺激に、僕はあっさりと陥落してしまった。
「あっ、な、ひっ、でちゃ、あ、いっ……っ!!」
 びゅるるる! びゅるるるるうっ!!
 尿道を濃いおしっこのようなものが走る感覚と共に、背筋から脳天までえも言われぬ快感が迸った。寒いわけでもないのに歯がカチカチ震えて、全身の毛がぶわりと逆立つ。
「っは、すごいじゃないか……。お腹の中、いっぱい……」
 先生が背筋をぴんと伸ばして感じ入っていた。情けないことに、堪え性のない僕の下半身はたっぷりと精を吐き出してしまったみたいだった。じわりと接合部から白濁した粘液が漏れ出してきて僕の毛皮を汚した。
 あれほど固くなっていた肉棒が嘘のように力を失い、小さくしぼんでいくのをうっすらと感じていた。子種を送り込む役割を終えたので、元の姿に戻りつつあるのだろう。
(……これが、しゃせー……)
 腰の奥のほうがじんじんと熱い。頭が熱を出したときみたいにぼうっとする。
 その熱に任せて、僕は目を閉じようとした。
「おいおい、もう打ち止めか? 寂しいじゃないか」
「っひあ!?」
 しぼみかけていた僕の一物がぎゅううっと締め付けられた。股間に走る強烈な刺激で、手放そうとしていた意識を無理やり覚醒させられる。慌てて目を開くと、先生が意地悪そうな顔でこちらを見つめていた。少し硬さを取り戻したタイミングで、そのまま腰を上下に運動させてくる。
「いいっあっ!? せんせ、それ、く……っあ! それ、だめですっ……! やあああああっ!!」
「っは、また、かたくなってきたな……」
 出したばかりの肉茎は、どういうわけか一段と敏感になっているようだった。温かい膣内の絡みついてくる感触が襞々一つ一つに至るまで感じられて、僕は頭をブンブンと振りながら絶叫した。もはや気持ちいいを通り越して拷問だった。
 それでも僕の下半身は再び興奮の証を呈してしまう。子種と一緒に欲望も吐き出し尽くしたつもりだったのに、体の奥から熱がぐつぐつと湧き出してくる。
「っあ、あっ、きもちっ!? い、いゃあ、せんせ、せんせえ……!」
「ふふ、本当にお前は愛らしいなぁ……」
 先生はそう言いながら僕に抱きついてきた。まるで恋人にするように、僕の頭を何度も何度も撫でてくる。嫌で嫌でたまらなくて拒みたいはずなのに、わずかに抱いていた反抗心すらもどろどろに溶かし去られてしまう。
 儀式という名の狂騒は一晩中続いた。途中で仮眠を何度か許されはしたけれど、水音と吠え声が響く中で安眠できるわけなどない。そして目が覚めるや否や交尾を迫られる。相手だけは選べたから、毎回先生にお願いした。先生が嫌な顔一つせず付き合いつづけてくれたことだけが救いだった。
 夜半を過ぎるころになるとさすがに血を送り続けるだけの精力がなくなったのか、いくら刺激を受けても勃起させることができなくなってきた。だけど、そのときですら終わることは許されなかった。
「もう、むり、です……」
「そんなことはないさ。ほら、ここをこうしてやると……」
「せんせ、そこ、おしり……? ……ぃぎっ!!? お゙っ、ぃいっ!! あ゙ゃぁっ、ぐりぐりしないでぇっ……!」
「ふふ、指一本でもやはりきついか」
 自分の中に眠っていることすら知らなかった快楽をほじくり出されて、いつの間にか僕は周りの大人たちと何ら変わらない浅ましい声で泣き叫んでいた。
 どちらのものともわからない体液に覆われた肉棒が、僕の意思に反して再び勃起させられる。再び先生の下の口がそれを飲み込んでいくのを、僕は呆然とみていることしかできなかった。
「でも、さすがにそろそろ限界かな?」
「せんせ……おねがいします、もう、許して……」
「なら、最後に思いっきり楽しまないとな……!」
「や、っぁああ!? それだめええっ!!」
 制御できない興奮と快楽に翻弄され続け、どこまでもどこまでも僕は堕ちていった。時間の感覚もいつしか薄れ、気がついたら空が白んできていた。
 心身ともに疲弊し切った僕は、先生に抱きかかえられながらぼんやりと空を見上げていた。天井に開いた穴から見えるあけぼのの空だけは、昨日までと変わらず高く澄んでいた。
「ルゥ、なんだかんだ楽しんでたみたいじゃん」
「ね。よかったぁ、逃げようだなんて言い出したときはどうなるかと思ってたけど」
 淀んだ意識の隅で、聞き慣れた子供の声がした。
(エル……ケイ……?)
 振り向いてみたけれど、視線の先にいたのは見慣れないルカリオたちばかり。声のもとのはずのリオルは見当たらない。
「どうだ、ルゥ、聞こえるか? この聲っての、便利だな!」
「でも、声色がまだ子供の頃のままね。ちょっと恥ずかしいかも」
「てか、ルゥ……お前まさか、進化できてねえのか?」
 誰も口を動かしていないのに(・・・・・・・・・・・・・)二人分の声が聞こえてくる。ルカリオの大きな体にそぐわない、子供のような声が。
 呆然としたままに彼らから視線を離した僕は、自身の体を見下ろした。自分と先生の体液にまみれ、欲望に染まってしまった自分の体を。儀式に全てを捧げたのに、何一つ得られなかった惨めな仔犬を。
「っう……ひっく、どうして……ぅうう…………」
「……ルゥ」
 声を殺して泣きじゃくる僕の頭を、先生が包み込むように抱きかかえていた。


 差し込んでくる朝日におれは目を覚ました。とは言っても当然まともに眠れてなんかいない。端的に言って気分は最悪。
 あの後、なんとか立ち上がったおれはルゥを追いかけようとしたが、ルゥの飛び膝蹴りが思った以上に効いていた。どんなに喝を入れてもふらふらとパッチールのような歩みになってしまう。仕方なく巣穴に戻って、きのみを腹に詰め込み床についた。
 巣穴の外に出て立ち上がりぴょんぴょんと飛び跳ねてみる。大丈夫、足腰はしっかりしている。体力は十分回復した。寝不足の頭がまだ回っていないが、そんなことを気にしている場合ではない。
 普段なら彼が稽古にやってきていておかしくない時間だから、入れ違いになることは考えづらいだろう。おれは家を飛び出し、彼の行きそうな場所を片っ端から探していった。
「ルゥ、どこにいるー!」
 昨日も訓練した森の広場にも、水浴びに使う清流にもいない。見晴らしが丘の上から見渡してみても見つからない。
 昼になるまで森中駆けずり回った後、彼の住んでいる家にも行ってみた。よく考えたら最初に行くべき場所のような気もするが、睡眠不足が祟ったかそんなことにも気づけなかった。
 しかし、彼のすみかもやはりもぬけの殻だった。近所の人に聞き込んだところ、今朝も朝早くに出かけていったと言うことまではわかったが、そこから先は誰も見ていないという。とはいっても、普段はそのあとおれと一日中稽古をしているのだ、聞き込みに行くまで不審に思う人は誰もいなかった。
 森で思いつく場所は全部探した。ご近所さんも心配そうにしていたが、彼と一番長い時間を過ごしたおれですら皆目見当がつかないのだからどうしようもない。
(おれのせいだ)
 故郷をたった一人で飛び出すだなんて、相当の動機と覚悟がなければできるものではない。進化できなかった彼が村で受けた仕打ちは、おそらくトラウマとなるくらいに凄まじかったのだろう。未だリオルのままでいる自分の姿に激しいコンプレックスを植え付けるまでに。
 彼は村でのことを進んで詳らかにしようとはしなかったが、数ヶ月間の会話の節々からそういった経緯(いきさつ)は推測できた。彼の師匠面をしていながら、おれは彼の過去から目を背け続けた。そして、抱いてきた疑念と憐憫を最悪のかたちで表出させてしまった。
 その結果がこれだ。
(……落ち込んでいる暇はない。考えろ……かんがえろ……)
 地面に見つけた小石を足の上で転がしながら、頭の後ろをガリガリと掻く。
 おれのことを見限って森を出て行った? あり得なくはないが考えづらい。彼の家には以前から何度か行ったことがある。毎日おれとの稽古で忙しかった彼の家には物がほとんどなく、再び旅に出るのに十分なきのみをため込んでいる様子は見られなかった。
 なら、おれと顔を合わせるのが気まずくて、隠れて逃げ回っている? それならそれで構わない。波導を使えるあいつをおれが見つけられる道理はないので、おとなしくへとへとになるまでかくれんぼに付き合ってやるしかないか。
 ……待て、楽観視するな。彼の気持ちになってみろ。ルゥはあれほど追い詰められるまでに進化したがっていた。おれと顔を合わせたくないと思っているのなら、あいつが向かう先はどこだ?
 ぽんぽんと足の上で跳ねる小石は、気づいたら煌々と赤い光を放っていた。赤熱した小石についに火がついたのと同時、おれの思考にひらめきが走った。
「まさかあいつ……!」
 小さな火炎ボールとなってしまった小石を地面に押しつける。じゅう、と耳に障る音を立てて火が消えたのを確認すると、おれは森の外へ向かって一目散に走り出した。
 
 
 
 隣山の山頂にある開けた岩地。太陽が天頂からじりじりと照りつけたかと思えば、冷たい風が体温をすぐさま奪っていく。ポケモンの姿はおろか草木の一本すら見つけられない殺風景な彼の縄張りに、僕はたった一人で乗り込んでいた。
「……もう一度言ってみろ」
 突然、足下の山が地鳴りを起こした。
 思わずそんな比喩が頭をよぎるほどの重圧。物理的なものではないはずなのに、真正面から受けただけで膝が震えて地面に屈してしまいそうになる。ジャローダににらまれたケロマツの気持ちとやらはこういうやつなのだろう。
「今の俺様は機嫌がいいから、一度だけなら聞き間違いってことで見逃してやる」
 そんな胸中を必死に隠しながら、僕は声を張り上げた。
「何度でも言ってやる。もう一度僕を殴るチャンスを与えてやるから、かかってこいといったんだ、このノロマ!」
「てめェ……本気で殺されてぇみてえだなァ!」
 彼が吠えた瞬間、空中にいくつも礫が浮かび上がりごうと音を立てて飛来してくる。だが、僕はそれを目を閉じたうえで回避してみせた。
「そんなお遊びはいらない。エースバーンに見せたのと同じ、本気の技でかかってこい!」
 バーンが何度も言っていた。グランデは確かに手のつけられない暴れん坊だけど、みんなが言っているほどに悪い奴ではないのだと。
 実際その通りなのだろう。出会いからして最悪、さらにこうしてわざわざ侮辱しにやってきた僕相手に未だ本気を出さないでいるのだから。まあ、僕の身を案じているというよりは、子供を挽肉にしてしまうのはさすがに後味が悪いとかそういう理由だろうけど。
 でも、今の僕に必要なのはまさにその本気なのだ。
 群れの儀式で進化できなかった。バーンにあれほど丁寧に指導してもらっても逆に実力差が開いていった。
 そして、バーンにすらもう頼れはしない。あれだけの無礼を働いておいて、どんな顔をしてまた稽古をつけてくれなどと言えようか。
 残された道は一つ。一歩間違えば死ぬプレッシャーの中で戦って生き延び続けること。才能にとことん恵まれてない僕が進化することのできる方法はもうそれくらいしか思いつかなかった。
 だが、僕がまともに頼んで話を聞いてくれるほどグランデはお人好しではない。彼を利用するためにわざと怒らせていることについては申し訳なく思うが、すでに僕はいろんな人に迷惑をかけ倒しているのだ。もう一つ迷惑をかけるくらいたいした差ではないだろう。
 波導を研ぎ澄まして彼を注視する。赫赫と立ち上る彼の波導がわずかに揺らいだ。数ヶ月前にも見た、攻撃の予兆。
 グランデが足を踏みならした。一帯の地面が大きく震動して体がひっくり返りそうになる。狙い通り、彼が本気を出してくれたみたいだった。
 だが耐えられる。バーンに言われて一生懸命こなしてきた基礎訓練のおかげだ。
 並のポケモンならまとめて地面に転がされてしまうほどの技ですら、彼にとっては前座にすぎない。前のように波導で回避される確率を下げるため、まず足下を不安定にしようとしているのだろう。次に来るほうこそが本命。
 あのときと同じようにグランデが咆哮した。すでに不穏に波打っていた地面が、嵐にもまれた水面のように荒れ狂い、無数の鋭い武器となって襲いかかる。
(八、九、十)
 無数? そんなことはない、落ち着いて数えろ。一つ一つが必殺の威力を持ってはいるが、彼との直線上にあるのはたった十。あのときのバーンみたいに全部乗り越えれば、僕にも反撃のチャンスはある。
 一度動き出してしまえばプレッシャーを乗り越えるのは簡単だった。一つ目の槍を見切り、飛び越え、空中を狙ってきた二つ目を逆に蹴り出して地面に戻る。狙いのはずれた三四をくぐり抜け、急停止して五を躱す。
 六つ目は地面で砕け、盛大に土砂をまき散らした。しかし波導はそんなものでは遮られない。そうとも知らず馬鹿正直に砂煙の後ろから飛んできた三つは簡単によけられる。
 残りの一つも見切ってすり抜けるように身をひねると、もうグランデは目前。がら空きの彼の左脇腹に渾身のはっけいをお見舞いする。
(堅った……!)
 予想はしていたが、彼の体はびくともしなかった。桑染の甲殻から腕に響く反動は、巌を殴りつけたかと錯覚するほど。
 その刹那、未知の悪寒が走る。危険を感知した波導が全力で警告を発しているのに、その正体が何なのかわからなかったのだ。
 頭で理解するより前に、本能的に全力で飛び退いた。一瞬前まで僕のいた空間を、死角から飛んできた棍棒のような腕がえぐり取っていた。冷や汗をかきながら距離を取る。
「ふぅー、ふぅー」
「へ、やるじゃァねえか。あいつの蹴りのほうが100倍マシだがな」
 何も彼を本気で倒そうとしているわけではないが、この反応からしてそもそも痛痒に感じてくれているかどうかすら怪しかった。まったくでたらめな防御力だ。
 だが一度は当てられた。なら何度でも繰り返すだけだ。もし次も生き延びられたら、その次も、また明日も、いつまでだって続けてやる。この胸からハガネの棘が伸びてくる時まで。
 グランデは先ほど侮辱されたのも忘れて口角をつり上げている。バーンの言うとおり、生来戦いが好きな性質(たち)なのだろう。笑顔であろうとも見るものに恐怖を(もたら)す顔つきはまさに怪獣のそれ。今更ながらに足が震えてきた。
「どうした。きのみでも食べて回復した方がいいんじゃねえか?」
 今度はグランデが挑発してくる番だった。攻撃は成功したはずなのに、明らかにこちらの方が消耗していることを指摘したのだ。
 だけど、こんなやつの目の前でのんきにきのみを食えるわけがない。仮に隙を見つけて口に運んだとしても、緊張感で決して喉を通らないだろう。
「うるさい……当ててから言うんだなっ!」
 早くも背筋に走りはじめた嫌な感覚を払うように叫ぶと、僕は再び彼の元へと突っ込んでいった。
 
 
 
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
 日頃から鍛えているとはいえ、森から隣山まで全力疾走すれば息も上がる。そもそもここにルゥがいるかはわからないけど、それでも急がずにはいられなかった。彼が朝方発っていたとしたら、歩きのペースでもそろそろ山頂に着く。
 本当は山頂までノンストップで行きたかったが、朝からずっと何も食べていなかったせいで空腹が限界だった。山の中腹まで来たあたりできのみのなる木を見つけ、いくつかもぎ取って食べていると、ずんと地面が揺れた。しかも一度だけではなく何度も繰り返して。
 原因は一つしかあり得なかった。
「やっぱり……!」
 食べかけの木の実を放り出して、おれは再び地面を蹴った。
 一気に山頂まで駆け抜けたが、それでも数十分はかかっただろうか。その間断続的に響き続けていた地鳴りは、おれがたどり着く寸前に止んだ。
「やっとか。いつまで待たせんだ」
 ただ一人立っていたのは、やはりというべきか、グランデだった。
 不機嫌そうに唸った彼が顎をしゃくった先に、ボロ雑巾のようになった小さな青いポケモンが倒れていた。
「……ルゥ!」
 慌てて駆け寄り、膝をついて様子を見る。意識はない。四肢をだらりと投げ出して胸だけが弱々しく上下しているさまは、まさに瀕死と言っていい。致命傷こそ負っていないが、左足が折れ、全身のあちこちにひどい打撲があった。
「……ここまでする必要あったのかよ」
「これでも手は抜いてる。身の程わきまえずに噛みついてきた犬っころに躾をしてやっただけだ、何が悪い」
 言い返せなかった。追い詰められたルゥがグランデにどんな態度を取ったのかは想像がついた。彼の怪我に動揺して口調につい棘が混じってしまったが、ルゥを止められなかったのはおれの落ち度だ。
 ずしんずしんと重々しい足音を立てながらグランデが近づいてくる。
「この子犬をてめぇが拾ったって話は聞いてたが」そこで大きく息を吐くと、おれを睨み付けて彼は凄んだ。「面倒見るなら責任を持て。次はねえぞ」
「……すまない」
 彼が怒っているのは、ルゥではなくおれに対してだった。相変わらず彼の言葉は厳しい。唇を真一文字に結んでおれは俯いた。
「本気で鍛えてえなら、相手に向き合え。目を逸らすな。お前ならできるはずだろ」
 地面に落とされた視界にきのみがいくつか転がってきた。オボンのみを中心として、体力を回復させる強壮効果のある実。
「ありがとう、グランデ」
「……ふん。ガキの相手には疲れた。俺様は寝るぞ」
 グランデは歩き出すと、振り返ることなく巣穴の中へと入っていった。
 彼のくれたきのみを拾い上げる。ルゥのほおを軽くたたいてみるが、意識を取り戻す様子は見られない。一刻も早く食べさせてやらないと危険だが、これでは堅いオボンを咀嚼して飲み込むのは不可能だろう。
 おれの炎で熱して柔らかくすることも考えたが、きのみの治癒能力は加熱されるとほとんどなくなってしまう。それではこの重傷には焼け石に水だ。
 噛まなくてもいいくらい柔らかくしたオボンを確実に飲み込ませる方法。
 選択肢は一つしかなかった。


 それは、僕がまだふるさとの村にいた頃のこと。
 リオルの僕にはほかのポケモンを狩ることができない。ほかのルカリオたちと能力が違いすぎるし、聲が使えないため連携もとれないからだ。だから代わりに、僕はきのみを取ってくることを命じられていた。
 今日三度目のきのみ採集に行った帰りの夕方。鬱蒼とした木々の中、きのみを両手いっぱいに抱えて人気(ひとけ)が少ない道を歩いていたとき、突然伸びてきた誰かの足に引っかけられた。
「っぐっ……!」
 せっかくここまで丁寧に運んできたきのみを地面にばらまいてしまう。柔らかく熟していたものばかりを選んでいたからほとんどが潰れてしまった。
「俺たちがあくせく狩りしてる間にお前はのんきにきのみ集めかよ。いいご身分だなあおい」
 まだ幼さの残る聲には聞き覚えがあった。地面に突っ伏す僕にかけられた聲は、ごく狭い範囲にのみ届くよう指向性を持たせられている。すっかり使い方にも慣れているようだ。
「……そっちこそ、こんなところで油売ってる暇あるのかよ……ケイ」
 ちらと振り返ると、そこに立っていたのはやはり彼だった。こんなに高圧的な目で見下されるようになるなんて、数ヶ月前は思いもしていなかった。
「予定していた分の獲物は捕れたから今日の狩りは切り上げたんだよ。お前と違って俺たちは優秀だからな」
 お前と違って。その言葉が重くのしかかる。
 ケイは、狩猟班に配属されてすぐに頭角を現した。判断力やリーダーシップを認められ、数ヶ月で小班長に抜擢。最初は元の班長たちからの反感もあったようだが、男らしく決闘でねじ伏せ、班を一つにまとめあげた。
 今や彼らは僕らの村の稼ぎ頭の一つとなっていた。僕の減らず口なんか意に介さないほどの結果を彼は示している。
 ずんずんという足音。近づいてきた彼が僕の片足を掴んだ。軽々と持ち上げられ逆さづりにされる。上下反対にルカリオの顔が映った。マズルが伸び、耳も鋭くなったその顔をケイだといわれても、最初は違和感が大きかった。眉間にはしわが寄っているし、目の下にはクマができているしで、どこか険のある顔つきになっている。リーダーは気苦労も多いのだろうか。
 精悍な彼の顔を見ていると、僕たちの間の差を思い知らされるようで惨めだった。ふいと目線を逸らす。
「いつになったら進化するんだよ、この能なしが。自分が村全体の足引っ張ってるのがわかんねえのか」
 誰かに気づかれるリスクよりも僕を脅すことを優先したのか、彼は聲から声に切り替えて言った。ほかの大人たちと変わらない重低音が、僕の腹の底を震わせる。
「……そんなことわかってる。僕だって、僕にできることで村に役に立とうと……」
「クソまずいきのみをせかせか集めることがか? あんなの役に立ってるとは言わねえよ」
 言い返せない。彼の片手に捕らえられているという屈辱も相まって、目に涙が浮かびそうになる。
「……僕のことなんかほっといてくれよ。君は村のホープなんだから。実力だってある、みんなに慕われて、愛されて、それに……エルだって君を選んだ。身重なんだろ、仕事が終わったなら早く戻ってや……」
「お前が……」
「え?」
 腹の底から絞り出すような声。
 逆さになっていたから気がつかなかった。彼の鼻先の皮膚にいつのまにかしわが寄っている。牙をむき出しにして彼が叫んだ。
「お前が! あいつの名前を! 口に出すなあっ‼」
 ぐんと体が加速する。ケイが僕を掴んでいる手を横に振ったのだ、と理解した瞬間、隣にあった木に思い切りたたきつけられた。まるでその木を切り倒そうとするかのように何度も何度も。
「あぐっ……! やめ……っが! い゙ぎっ……!」
 慌てて両手を組んで受け身の体勢を取るが、そんなもので防ぎきれる衝撃ではない。
「ご、ぼっ……ぐ、う……な゙ん……」
 散々痛めつけられ、乱暴に地面に投げ出される。僕は身じろぎすらできずにうめき声を上げた。
 痛い、痛い、いたい。
 本当に大怪我をしたときは叫び声を上げる余裕すらないのだと知った。涙が後から後からあふれてくる。心臓がバクバクと脈打って、呼吸が浅くなる。骨が何本も折れていたとしても不思議ではない。
 ほんの先ほどまで、僕をわざわざいじめに来た彼への反抗心すら抱いていたが、そんなもの跡形もなく消し飛んでいた。いま僕の心を支配しているのは、体全体に反響しつづける壮絶な痛みへの恐怖だけ。
 いかに厭悪されているとはいえ、こうまでひどい暴力を振るわれるなど信じたくなかった。明らかにケイはまともな精神状態ではない。彼の機嫌次第で命すら危ういと思うとただただ怖くてたまらなかった。
 いつの間にか近づいてきていたケイが僕にのしかかり、顔のすぐ隣の地面を殴りつけた。地面が盛大に陥没する音がして、ひっと悲鳴を上げて目をきつく閉じる。
 だが、恐れていた次の一撃はいつまでたってもやってこなくて。
 僕の頬に何か熱いものが落ちた。恐る恐る閉じていた目を開けると、真っ赤に充血した彼の目から透明な液体が零れていた。
「なあ、何で、逃げようなんて言ったんだよ」
 はっとして、彼の顔を初めてじっと見た。今まで気がつかなかったが、近くでよく見てみると彼の顔はひどいものだった。目の隈や眉間のしわだけではない。きれいだった毛並みも乱れ、普段は飲まないきつい酒精の匂いもする。
「……俺なんかがホープであってたまるか」
 彼の狼藉を許したわけじゃない。彼への恐れが消えたわけじゃない。
 だけど気がついたら、痛む体を押して手を伸ばし、彼の頭を抱き寄せていた。彼も、抵抗することなく僕の胸に身を預けてくる。リオルの体には大きすぎるその頭を、それでも精一杯抱擁する。
「お前さえしっかりしてれば、みんな……。あいつだって、ほんとは、おまえを」
「……ケイ」
「ルゥ、なんで、何で……一緒に大人になろうって、言ったじゃんかよぉ……」
 何も言えなかった。泣き続ける彼の頭の後ろを、ただ無心にさすってやっていた。
 でもきっと、それだけで十分だったのだろう。それこそが必要だったのだろう。
 体が大きくなって力も強くなっても、心も一緒に強くなってくれるわけじゃないのだから。
 彼のしゃくり上げる声がまばらになり、止まって、ついには寝息が聞こえ始めるまで、僕は手を止めなかった。
 
 穏やかに眠る彼の額に口を寄せて、小さな小さな声で語りかける。
「実を言うとさ。あの日以降ずっと、大人になるのなんてまっぴらだったんだ」
 深い眠りに落ちてしまった彼には、もう僕の言葉は届かない。
 でもいいのだ。これは僕だけの懺悔なのだから。
「毎朝目を覚ますのが怖かった。今日こそ大人になってしまうんじゃないかって怯えてた」
 僕よりずっと先を行ってしまった彼らとは、もう同じ場所には立てない。
 でもいいのだ。これは僕だけが行く道なのだから。
「でも、きっと君たちには気づかれてたんだよね。こんなみっともないところばかり見せてちゃ、嫌われるのも当然だった」
 たとえ茨の道であろうとも、僕はもう逃げない。
「僕の友達でいてくれて、ありがとう」
 
 
 
 さらにしばらく時は流れて、初秋の夜。
 計画の前夜だった。
「お前、最近群れの食料を盗んでるだろう」
「……え?」
 あの悪夢の儀式から早半年。未だルカリオに進化できないでいる僕は、家の外では常に奇異と嘲笑の目線にさらされている。だから、(かしら)に割り当てられたこの狭い巣穴の中は、僕が肩の力を抜ける数少ない場所のひとつだった。
 同居人は、群れの中で唯一僕のことを馬鹿にしないでいてくれるひと。
 リオルの身には重い仕事に手一杯の僕と違って、彼女は家事を効率的にこなし、家のことを一人で切り盛りしてくれている。僕が巣穴にへとへとになって戻った頃には、いつも家事を全て終わらせて寝藁の上で待ってくれているのだ。今日もそんな彼女の姿を見つけて、一日の終わりを実感していたところだった。
 その彼女に、まるで日常会話のような雰囲気で裏切りを指摘されて、一気に腹の奥が冷える。
 僕は豆鉄砲を食らったハトーボーのように間抜けな顔をさらしていたに違いない。今から否定したところで彼女を騙し切ることはできないだろう──そんな諦めにも似た感情が胸の中を支配する。僕は微動だにできないまま尋ね返した。
「なんで……」
「お前が狩りに行ってる間、ここを掃除してやってるのは誰だと思ってる?」
 なるほど、言われてみればそうだ。僕はどこか他人事みたいに納得していた。
 彼女の見立て通り、僕は食料を盗んでいた。食料庫に忍び込んで干し肉を掠め取ったり、狩りに出たときに見つけた保存の効くきのみを報告せずに持ち帰ったりして、寝具の裏の穴に溜め込んでいる。みんなの気も緩む実りの季節、いたずらの達人の僕がこの小さな体を駆使すれば、誰にも気づかれることなどない。
 一度に持ち帰る量だって大して多くない。もし盗んでいる現場を見つかったとしても小腹が減っていたのかと思われるくらいで、さすがにここまでは調べられないだろう……そう思っていた自分の甘さを呪う。灯台下暗し、完璧主義の彼女が気付かないわけがなかった。
 だが、これで僕もいよいよ命運尽きた。
 溜め込んでいた食料の量と質を見れば、僕の目的は誰の目にも明らかだ。子供の頃のいたずらとはわけが違う。明朝にみんなの前に引きずり出されたとして、日暮れまで命があれば幸運だろう。いや、苦しみが長引くだけ不幸とも言えるか。
 もとより無謀な計画だ。事前に発覚するリスクだって覚悟の上だった。あとは、先生が共犯を疑われることだけはないようにしないとな……。
 そんなふうに考えていると、先生がフッと表情を緩めた。
「そう怖がるな。別に誰にも言っていない」
「え……」
「ルゥ、こっちに来い」
 言われるままに彼女の隣に座る。
 ──どうして?
 そう聞き返そうとしたけど、そのまえに先生が僕の肩を抱き寄せた。鍛えられ引き締まった肉体と、それを覆う柔らかな毛皮の感触。冷たく固まった手足を彼女の体温がじんわりと温める。
「……儀式の夜、嫌がっていたお前に選択を迫ったのは悪かったと思っている。しかし、あの場ではああするしかなかったのだ」
 はじめは先生のことを恨みもした。でもそれは筋違いだということに、儀式からしばらくして気づいた。
 もし僕があれ以上黙っていたら、他の大人たちにも異常に気づかれてしまっていただろう。そうなれば、群れの中での僕の立場は今よりもさらにひどいものになっていたに違いない。
 先生の行動は、僕を守るためのものだった。
「だがな、ルゥ。たとえ消去法だったとしても、あの時お前に選んでもらえて、私は嬉しかったんだ。身勝手かもしれないがな」
 部下に命令するような普段の声とはどこか違う、しっとりとした声音で先生は話し続ける。
 おなかに抱きかかえたタマゴを、愛おしそうに撫でながら。
 あの日、先生は子供を身ごもっていた。相手が誰かは明らかだった。どちらから言い出すでもなく、僕と先生は一緒に暮らすようになった。
 先生のお腹はみるみるうちに大きくなり、やがてタマゴが産まれた。彼女が大事に大事に温めてくれていて、この分だともうすぐ孵るそうだ。
「私は、お前と一緒に生きていきたい」
 タマゴを産んでからも、先生は僕を何度も夜伽に誘ってきた。
 来年の成人の儀までにルカリオになれていなければ、今度こそ僕は群れから捨てられてしまう。儀式で失敗した僕にやり直しのチャンスをくれているのだと分かったのは最近になってのこと。欠陥品の僕が群れで孤立しないよう、彼女は昼も夜も献身的に支えてくれていた。
 先生のことは好きだ。不甲斐ない僕にここまで尽くしてくれる彼女のことを愛おしく思わないわけがない。
 だけど、精一杯愛されて、性技を仕込まれて、新たな快楽を開発されていても、なぜか涙が止まらない夜を繰り返して、僕はようやっと理解した。
 先生の好きと僕の好きは同じじゃない。先生の愛を受け止めることのできる器が僕にはないのだ。
 長い間群れに貢献してきた先生が口添えしてくれれば、ひょっとしたら来年以降だって僕は子供(リオル)のまま村に居られるかもしれない。だけど、それではだめだってことにケイとの喧嘩で気づいたのだ。
「……そうか」
 ぽつりぽつり、軒先にしたたる雨だれのような僕の言葉に、先生は長いこと耳を傾けてくれていた。
「なら約束しろ」
 強く、きつく抱きしめられる。先生の香りがふわりと鼻を撫でた。
「決して諦めるな。生きるのも、幸せを見つけるのも。自分の全てを預けられる相手を見つけるまで、みっともなくてもいいから足掻き続けろ。私を袖にしておいて、その辺のやつで妥協したら許さんからな」
「……うん」
 かき抱いていた腕を緩めると、僕の顔をしっかりと見据え直して彼女は続ける。
「だが、もし心に響くやつに出会えたなら遠慮することはない。そいつに隠し事はするな。怒りたかったら怒ればいいし、言いたいことがあるなら全部言ってしまえ。もしそれで相手が離れていくようなら、それまでの相手だということだ」
 私がしたようにな。
 そう言って先生は微笑んだ。その温かさに照らされて、この身に残っていた最後の一欠片の臆病が溶け去っていく。
 いつの日か先生みたいな大人になりたいと、そう強く思った。


 真っ暗な世界の中を、体がゆっくりと沈んでいく。
 どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう。
 いや、忘れていたわけではなかったはずだ。だけど、僕の抱いた初めての気持ちは自分自身の常識から離れすぎていて、受け入れることができなかった。
『おいグランデ、何があったんだ! こんな子供を追い回して、大人気ないぞ!』
 彼の全身から発せられていたのは、一寸の曇りもなく輝く黄金の波導。あまりにも尊くて、僕なんかが触れたら汚れてしまうんじゃないかと不安になるほどだった。
『なら、しばらく一緒に訓練してみるか?』
 でも、彼から放たれる光は誰にでも平等に降り注いでいて。明かりに惹かれるドクケイルのように、僕はその灯火のそばに引き寄せられた。彼のまっすぐな眼光ですら見通せない心の奥底に秘密と思慕を隠し持って、いつ暴かれるのかと怯えながら。
『てか、ルゥ……お前まさか、進化できてねえのか?』
 彼のひたむきな良心を、僕だって信じたかった。だけど、僕が進化できなかったことを知るやいなや手のひらを返して嘲笑してきた群れの奴らの目がどうしても脳裏にちらついて。
 そしてあの日、一点の染みもなかった彼の波導に僕への憐憫がぽつりと浮かんだとき。自分でも気がつかない間に膨れ上がっていた感情が手綱を離れて暴走した。
『そうだよわかってたさ! バーンもどうせ……!』
 僕は沈んでいく。どこまでも、どこまでも。水面(みなも)はすでに遙か遠く、どんな光だってここには届かない。力を振り絞ってもがいてみても、僕の手は空を切るばかり。
 無茶な修行を繰り返し続けて、ついには無謀な戦いに挑んでしまった。失敗して迷惑かけてばかりの僕の生も、これで終わり。
 常闇への恐怖すらももう感じることはなく、僕の全存在が溶け出していこうとした、そのとき。
 黄金色の光が、漆黒を切り裂いた。水面の波紋できらきらと光は屈折して、世界全体をあまねく照らす。
 遙か天から伸びる光条が体に触れた瞬間、身を焼かれるような熱が走った。僕一人のうのうと安穏に沈むことを許してはくれないみたいだ。
 ぐい、と加速度を感じたと思ったら、僕は現実へと引き上げられていった。
 
 
 
 ルゥにきのみを食べさせた後、折れた足を添え木で固定し、おぶって森の我が家まで連れ帰った。彼に負担をかけないようゆっくり歩いていたら、家に着いた時にはもうとっぷりと日が暮れてしまっていた。
 一日中心配しっぱなしでかけずり回って、もうくたくただ。寝床に彼を横たえ、その隣におれも寝転がってうつらうつらしていたら。
「せんせえ……?」
「……ルゥ!? ……よかったあ、元気になったか!」
 ルゥの弱々しい声が聞こえてきて、おれは文字通り飛び起きた。目をうっすらと開けた彼がこちらを見ている。
「やめてくれよ、先生だなんてかしこまった呼び方。いつもみたいにバーンでいいよ」
「ああ、ごめん……。勘違いしてただけみたい。大丈夫だよ、バーン」
 判然としない返事だ。まだ意識が朦朧としているのだろうか。それにしては言葉はやけにしっかりしている。
 でもまあ、少なくとも順調に回復しているみたいで一安心だ。
「また、迷惑かけちゃったみたいだね」
「ああ、全くだ。焦らせやがってこんちくしょう」
「本当に、ごめんなさい……」
 反省はもちろんしてほしいが、そこまで慚愧に思う必要はない。彼の焦燥も理解できるし、今回の件の一因はおれにもあるのだから。そんな気持ちを込めて、目を伏せるその頭を乱暴にぐりぐりと撫でてやる。
「そうだ、グランデさんにも謝りにいかないと……っつ!」
 体を起こそうとしたルゥが、鋭い声を上げて顔をしかめた。足に力をかけてしまったのだろう。
「おいおい、まだ動くのは無理だって、足折れてんだから。……だいたい、あいつは謝られたからって喜ぶような奴じゃないよ。まあ、ああ見えて寂しがりだから、また今度バトルしに行ってやればいいさ」
 それでも立ち上がろうとするルゥに何度か言い聞かせ、やっと納得してもらった。彼の隣に横になる。
「さあ、まだ怪我が治りきってないんだ。今日はもう寝よう」
 彼がゆっくりと目を閉じたのを確認して、おれも睡魔に身を任せようと目を細めたとき。彼が不意に唇を舐めた。すんすん、と鼻を動かして、疑念が確信に変わったようだ。
「……なんだろ、オボンのあじ?」
「あ、あ~それな!?」声がうわずる。まずい、しばらく気づかれなかったからと油断していた。「えっとそれ、ルゥに食わせてやらないとって思ったんだけど、そのときほら、ルゥ意識なかったからさぁ……」
 そこまで言ったところで、ルゥが心を読めることを思い出した。
「……ごめん。食べさせたよ、おれが」
「謝らないでよ。ありがとう、嬉しい」
 なのに、ルゥはそう言って微笑んでいる。
 嬉しい、って。食べさせたってのがどういう意味かわかって言ってるのか……?
「その、おれ正直怒られるかと思ってたんだけど……」
「ふうん、じゃあ……」
 ルゥはおれの方に向き直ると、手を伸ばしてきておれの頬に添えた。紅い目を閉じると、そのまま顔を近づけてきて。
 ちゅ、と。
 一瞬の接触のあと、彼の顔は元の場所まで離れていた。そして、何事もなかったかのように澄ました表情で、
「これでおあいこだね。文句言いっこなし」
 などと(のたま)うのだ。
 ぽかんとするおれに向かって、ルゥはいたずらが成功したみたいな顔でにっこりと笑ってみせた。
 
 
 
 僕が目を覚ますと、バーンは隣ですやすやと寝息を立てていた。寝相はよく、いびきもかいたりしてない。本人に言うと怒られるだろうが、ちょっと意外だ。
 そういえば、バーンの眠っている姿を見るのは初めてだ。いつも頼りになる彼だけど、眠っている時のあどけない表情を見ているとやっぱり年下なんだなあと思う。いつまでも見つめていられそうな穏やかな顔。
「ん、まぶし……。ルゥ……おはよう」
「おはよう」
 洞穴の入り口、僕の後ろから薄く曙光が差し込んできて、彼も目を覚ましたようだった。まだ寝ていたいと言わんばかりに、朝日の影になっている僕の胸に顔を埋めてくる。
 彼がしっかりと目を覚ますまで、僕は辛抱強く待った。
(先生、僕にもう一度だけ勇気をください)
 彼の大きな耳に震える声でささやく。
「バーン。僕、君に隠してきたことがあるんだ」
 何度も何度も転んでは、ずいぶんと遠回りしてきた。いろんな人に助けてもらって、迷惑もいっぱいかけたけど、それでもなかなか立ち上がれなくて。
「君に嫌われるかと思うとすごく怖くて、今まで言えなかった」
 だけど、今日この場所で、僕はやっと一歩を踏み出した。
 普通のポケモンにとっては、なんでもない一歩なのかもしれない。はじめに乗り越えておかなければいけない一歩だったのかもしれない。それでも、僕にとっては大きな一歩だ。
 バーンが胸から顔を離し、僕の瞳をしっかりと見据えてきた。朝日に照らされる臙脂色の瞳。そこに灯る波導は、僕が汚せるなどという考えが傲慢に思えてくるほど純粋に輝いていた。
 震えはいつの間にか止まっていた。心の底から湧き上がってくる気持ちを言葉にして紡ぐ。
「今はもう怖くない。君のことを信じたい。君と一緒に生きていきたい。だから、聞いてくれるかい?」
 そうして、僕が口を開いたそのとき。
 祝福するように僕たちを照らす朝日に負けないくらいの強さで、僕の体が輝き始めたのだった。
 
 
 


トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-01-20 (木) 01:22:14
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.