てるてる
ルイス・ホーカー .4
「まあ、いろいろとあるさ。ところで、だ」
ルイスの沈み込んだ肩を乱暴に叩きながら、ドクロッグはイヴに明るく振る舞った。
はい、と心ここにあらずの明らかにルイスに意識を持って行かれている風に彼女は返事をした。
ドクロッグは先ほどイヴが放り出した麻袋を指さして言った。
「どんな様子だった? まだ使えそうなのは残ってたか?」
問いかけに、イヴは首を振った。
「いいえ、ぜんぜんだめでした。とりあえず一番ましなのを一つ持ってきたのですが」
彼女の言葉に、ドクロッグは顔をしかめた。
落ちくぼんだ心気越しにそれを見ていたルイスは、好奇心からのろのろと二人を見る。
酒の黄を抱えた透明を視線に捉えた途端、彼はここに来たそもそもの目的を思い出して内面に自嘲した。
何もかも忘れようとして、抱え込んでどうする。そう思うと、うじうじと悩んでいた自分に馬鹿らしさを感じて、ルイスは顔を上げた。
「何の話だい」
振り返った二人は、よそよそしく互いに目を合わせた。ぼそぼそとわずかな口の動きは、どうしようか考えあぐねているようだ。
あからさまな気の遣いかたに苦笑したルイスは、彼らに不必要な気配りは入らないと身振りで示した。
「せっかくうまい酒を飲みに来たのに、いつまでも辛気くさいんじゃもったいないだろ」
彼が言うと、ドクロッグは自分を無理矢理に納得させるように大げさに頷いた。
「小麦の話さ。酒以外に軽食も出そうと思って、パン用の小麦粉をだいぶ前に買っといたんだが、すっかり忘れちまっててなあ」
カウンターの端に移動したドクロッグは、跳ね上げ戸をくぐり抜けてルイスら二人の後ろを通りながら言った。
床の木目の上に放置された麻袋の口紐を解いて中を覗き込むと、唾棄すべきものを見たかのような辟易に染まったうめき声を上げて、彼は手で口元を押さえた。
先ほどコーヒー豆の惨状を見て顔色一つ変えなかった彼に渋面をつくらせる小麦粉の姿は、ルイスには想像に難する。
実物を見ようと背を伸ばしたが、すでにドクロッグが口紐を縛り直した後だった。
「まいったよ、コーヒー豆がまだかわいく見える」
呟きに近いトーンを発して、彼はカウンターに座っているイヴを見た。
「よく持ってこれたな」
「それが一番ましだったんです。他のを見たらきっとひっくり返りますよ」
だろうな、と力なく返事をしてドクロッグはカウンターの中に戻った。
置き去りにされた麻袋は、中に詰まった水を含んだ小麦粉に支えられるようにして立ちつくしいる。
ぶちっがいの稲穂が刺繍されたくすんだ銘柄が、より一層のもの悲しさを湛えている。
ルイスは視線を袋から隣りのイヴへ移した。
「こんなところで働いていて、きみも大変だな」
ちゃんとした芯のある同情の念こそ含んでいないものの、多少のいたわりをくるませた言い方にイヴはとんでもないと微笑んだ。
「あなたに比べれば大変だなんて。ここで働いていて冒険といったら物置の整理くらいですもの。ホーカーさん」
「ホーカーなんて堅苦しい。ルイスと呼んでくれ」
言って彼は自分自身を示した。
ルイス、とイヴが恐る恐ると言ったふうにうつむき加減でつぶやく。
せかすように彼は笑みを漏らした。
ホーカーと姓だけで呼ぶ者は、彼の知っている限りではほとんどいない。
同じ博物館職員であるゾルタンくらいだ。
大抵は名前だけ、もしくはルイス・ホーカーと姓名合わせて呼ばれる。
そのためか、ゾルタン以外に姓で声をかけられると、嫌でも耳が受け止めてしまう。
「どうしたんだい?」
いつまで経ってもあやふやに口を動かすばかりで声を出さないイヴにルイスは言った。
小首を上げた彼女は、すがるような視線でルイスを一瞥した。
「いえ、やっぱりお客さんを呼び捨てにするのはまずいかなと」
語尾を濁した言葉に、彼はイヴがどうしようか考えあぐねていると受け取った。
「そんなことないさ」
ふざけたような口調を心がけて、ルイスはカウンターに乗せられた彼女の前足に自らの前足をそっと被せる。
困惑げに表情を曇らせ耳を寝かせるイヴに、彼はうっすらと白い歯をこぼした。
「でないときみをいつまでもイヴと呼べないだろ」
見開かれたイヴの両目に、忙しなく瞳が揺れる。
さっと手を引き抜いて、誰の目にも明らかなほどにみるみるうちに赤く紅潮していく顔を伏せた。
「……やめてください」
ささやき声にも取れるほどにか細い響きが、砂を含んだ風に震える店内に弱々しく浮かぶ。
不安げに、首の周りを覆う白い体毛を胸元でぎゅっと握っている片手に、かすかながら電気のせせらぎが見て取れた。
戸棚を漁っていたドクロッグが、作業を止めてルイスを睨め付けて無言で戒めるのを、彼は横目で捉えた。
「冗談だよ冗談」
大げさな身振りを加えて体裁を整えようとするルイスに、尾を引く動揺に背中を逆立てていたイヴがほんの少し頭を上げて彼を見上げる。
混じりけのない黄色の頬に染みこんだ赤色は、彼女のわずかに潤んだ瞳と同じく、可憐な風貌をより一層際立てるのに一役買っている。
意識が自分に向いたことを確認したルイスは片手で額を押さえ、考え事をするときにするような、わざとらしく眉間にしわを寄せて喉からうなった。
「でも困ったなあ。これじゃあきみをいつまでもきみ意外に呼べない。そうだ、じゃあ、きみはおれをどう呼びたい?」
投げかけられた言葉に、イヴは戸惑い、決まり悪そうに頷いてみせた。
白いむく毛を掴んでいた手に力が籠もる。
「どうって、何でも良いんですか」
「なんでも良いさ。ホーカーでも、サンダースでも、冒険家でも、出来ればルイスでも――ただルイジアナだけは勘弁してくれ」
ルイスが言い終わるよりも先に、彼女は辺りを見回して質問の解を探そうとしているが、当然見つかるわけがない。
酒場の暗い店内にルイスに関連するものは何一つ見つけられなかった。
最後の頼みの綱と、彼女はドクロッグを仰ぎ見たが、彼は意味ありげに口元を歪めて肩を竦めるばかりで何もしなかった。
空回りする思考と質問者を待たせているという焦りに打ちのめされそうになっているイヴに、ルイスは若干後悔を覚えた。
「そんなに悩むことだったかな」
負い目を含んだ物言い、イヴは遠心力に耳が揺さぶられるくらいに激しく首を振った。
「ううん、そんなこと。なんでもない、ええと……ですね」
大きく深呼吸し、自身を鼓舞するイヴの、伏せ目がちになった双眼がルイスを真っ向から捉えた。
「それでは、ルイス……さん。あっいえ、もちろん失礼がありましたら、今まで通りホーカーさんと――」
相手の気持ちを忖度してのことか、とルイスに早口で捲し立てるイヴの意思を汲み取った彼は苦笑を浮かべながら自らの唇頭に人差し指を押し当てた。
「そんな必要ないさ。それに、さん、も必要ない。単なるルイスだ」
言下に、彼は口元に持って行っていた手を、手の平を上にしてイヴに差し出す。
胸元でこしらえていた握り拳を解いた彼女は、誘われるがままに手を重ねる。
体毛越しでない、肉球同士が触れあう感触に言いようのない心地良さを感じる。
緊張で汗ばんだ手の平を、さらに包み込むようにルイスはもう片方の手を添えた。
じっと見つめ合ったまま、身じろぎ一つもしない二人。
ぽうっとした表情のイヴに、ルイスはいたずらっぽく微笑む。
「イヴって呼んで良いかい?」
控えめな口調に、彼女はじれったいほどにゆっくりと頷いた。
「……ルイス」
相手をおもんぱかる、控えめな口調。
酒場を訪れる客は、何もルイス一人ではない。
晩方、人いきれこそはできなくとも店内が賑やかになるくらいは来るはずだ。客の中には、なんのためらいもなしにいきなり彼女を名前で呼ぶ者もいるだろう。
にもかかわらず、彼女がいま名前を呼ばれることを意識するのは、単に同年代の者によるためのものなのか、ルイスにイヴと呼ばれるためなのか、現時点での材料では彼に判断しようがなかった。
それも含めての微笑みを崩すよりも一足先に、彼は手中にあるイヴの小柄な前肢にそっと鼻を近づけた。
先ほどよりも間近に感じる女性の甘い香りは、ある意味でアルコールよりも強烈に彼に染み入った。
これが普遍的な女性のものだとしたら、ここまで強い印象をルイスに与えることはなかっただろう。
だが彼を見てくれた女性――イヴのにおいだという実感が加われば話は違ってくる。
純粋な嬉しさを、イヴのにおい越しに残滓すら残さず得ようと、身体が無意識にそうさせていた。
ふとルイスは中断し顔を上げ、イヴの表情を仰ぎ見た。
あからさまにおいを嗅がれることに忌避の念を受けるのではと不安がよぎったためだったが、イヴは不安げに見返すばかりでなんの不快の兆しも伺えなかった。
「すまん」
ばつが悪そうに、彼は手を離した。
不快に思われているのは確かなことだ。表に出さないからと言って行為を続ける。
それはあからさまな嫌気を晒されてしまう以上に抵抗感があった。
もぞもぞと落ち着きなく椅子に座り直す彼女の輪郭を見ながら彼は思った。
彼の視線を遮るように、ドクロッグが青い腕を突き出してきた。
同時に振り返った二人のサンダースを、バーテンダーは迷惑そうな厳めしい顔つきで交互に睨んだ。
「お二人方、お楽しみ中のところ悪いんだがね」
行きつ戻りつしていた視線が、ルイスに固定された。
おどけたように肩を竦める彼に、ドクロッグはずんぐりした指を突きつける。
毒を放つ忌々しい赤い突起が、光の残滓を貼り付けたまま近づけられるのに、思わずルイスは身じろいだ。
「あまり店員に手を出さないでもらえるかね。ミスター・ホーカーくん?」
言下に、ドクロッグはルイスの頭をわしづかんで、彼の頭の体毛をめちゃくちゃに逆立てた。
目を眇めて嫌悪を露わにうなり声を上げるルイスをよそに、バーテンダーはイヴに向き直り、メモ用紙を差し出した。
「ダウニー、小麦粉のブランドわかるか?」
ルイスがいらいらとドクロッグをにらみ付けているのを気にしつつ、イヴは用紙を手に取った。
小麦や酒などの銘柄と問い合わせ先が走り書きされたメモを彼女はざっと目を通したのち、顔を上げた。
「たしかツインイヤーではなかったですか、ほら」
と言って床に放置された小麦粉の麻袋を示した。
中央にでかでかと刺繍された、ぶっちがいの穂。
コチミの生地であることを示す、州をかたどった黒い刻印をバックにしたそれはまさしくツインイヤーのエンブレムだ。
つられて振り向いていたルイスは、それがな、と渋みを含んだドクロッグの声に耳だけを向けた。
「五年くらい前に経営者が変わって名前が変わったんだよ。なんだったか、覚えてないかい?」
イヴに問いかけるバーテンダーの声の中に、ルイスは思い出したことがあった。
何年か前、西海岸の方の事業経営者が家族ごと失踪した事件があった。
失踪者の種族がなんだったのかは覚えていないものの、ラジオや新聞でひっきりなしにそのことを報道していたので曖昧にだが記憶に残っている。
たしかその後もしばらく、血縁のある者が次々に消息を絶っていったはずだ。当時節操なく飛び交っていた憶測の中には、もとが犯罪を臭わせるものだっただけに多岐に及んでいた。
事件は結局、唯一被害に遭わなかった血の繋がりの薄い遠縁の者が商売の跡を継いだことによって関心が薄れ、今では真相を求める者すらほとんどいないに等しい。
が、ほとんどいないに等しいものの、やはり未だに深い凝視を向ける者はいた。
それは、跡を継いだ人物がほとんど姿を見せないのと、継いだ途端、まるで辺りをはばかるように所領をぐるっと一週、高い塀が築かれたのが原因だろう。
侵入者を阻み、見られてはまずい物を隠すように塀が築かれて以来、中を見た者は数えるほどだろう。
一体何故そこまでして外部と隔絶する必要があったのか、また隔絶された内部には何があるのか。
いきなり現れた血縁者は本物なのだろうか。
傍目には退屈にしか映らないような論争は、酸素があればいつまでも薪がくすぶるように、今も続いている。
そう言えばこの町にいる老人も何人かがそんなことをこぼしていたな、とルイスが頭の毛を整えながら考えていると、頭を抱え込んでいたイヴが、ああ、納得の声を上げた。
「たしかそんな話ありましたね。経営者の一家が行方不明になって、親戚が跡を継いだとか。そういえばあの時一緒にブランドも変更されたんでしたね、なんでしたっけ」
「それをおれは聞いてるんだ。わからないと注文のしようもない」
ため息と共に、目頭を押さえて思い出そうと躍起になっているドクロッグに一瞥をくれたルイスは、イヴの持っているメモ用紙を覗き込んだ。
いきなり身体を傾けてきた彼を彼女が若干当惑げに眉根を寄せて見返すのに、彼は用紙に産地の位置が記されていないことを確認するや否やにさっさと姿勢を元に戻した。
「それってもしかしてあれか。そのツインイヤーってブランド、西海岸がどうのこうのってやつか?」
だれかれなしに問いかけるルイスに、ウエイトレスとバーテンダーは顔を見合わせた。
「ええ、西海岸のコチミにあるのがツインイヤーよ」
はじめに答えたのはイヴだった。
続いてドクロッグも話題に参加する。
「どうした。なにか思い出したか?」
「ああ、たぶんそのブランド、たしか今はエデンなんとかって名前になってるはずだ」
あ、と柏手を打ち鳴らして声を上げたのはイヴだった。
「エデングループ! そうでしょ」
明察した彼女が嬉しそうに言うのに、ルイスは頷いた。
ツインイヤーからエデングループへ、名称の移行はいずれの場合も、大きな出来事であることに変わりはないが、不可解な失踪事件の直後だということもあり、大抵の者は事実をあいまいにのみ心に引っかけているのみで、認識という確かな概念で記憶していない。
最初に口にしたルイス自身、ちゃんと覚えておらず失念していたし、彼の言葉を補完したイヴも、きっかけがなければ気付くことはなかっただろう。
「そういえばそんな感じだったな」
納得したふうな口ぶりを携えたまま、ドクロッグの手がイヴの持っていたメモ用紙をひったくる。
「そいつなら聞き覚えがある。なんだそんな名前になっていたのか、ありがとさん。だが、名前がわかっても問い合わせ先がわからないんじゃ、意味無いか」
記入された事柄を指でなぞった彼は、自嘲気味に軽い口調を発して用紙をカウンターの節くれ立った木目に横たえる。
にしても、とルイスに向かって次の話題に移ろうと持ちかけるように用紙の上にさらに肘を重ね置いて身を乗り出す。
「お前さんが知っていただなんて驚きだ。どんな魔法を使ったんだ?」
「おれはあの小麦粉が五年前の代物だと言うことに驚いてるよ」
「そりゃどうも」
言って、おどけたように笑うドクロッグ。
継いでルイスも笑う。
「さっきのコーヒー豆といい小麦粉といい。そうだ、一度博物館に持ってこいよ、ガラスケースで覆っちまえば案外、様になるぜ」
「そうか?」
冗談口に眉を上げるドクロッグに、そうさ、と言い返したルイスはグラスにかがみ込んで舌を湿らす。
頭で考えるよりも先に口を開けば滞りなく浮かび上がる言葉、酒がまわってきたことにルイスは気付かされた。
証拠に、最初に比べて飲酒時に感じる刺激が軽減されている。
焼け付くような痛みがなりを潜めてくれたことに気を良くした彼は頭を上げて、ぐるっと店内を見回した。
「これだけ古いんじゃ、本当になにかあるかもしれないな。一度リリアンを連れてくるか」
呂律が回っているか確認しながらのそれは、酷く断続的であった。
博物館で真面目に精勤している者はリリアンとゾルタンの二人で、その中でも考古に長けている者はリリアンをおいて他にいない。
ほぼ毎日、リリアンは博物館が閉館したあとに自室で勉強していた。
交際していた際も、ルイスは深夜まで机に向かう彼女の背中を毎晩のように見てきた。
好きだから、と笑顔で言うその裏に、後がない、と焦る気持ちを伺わせていたように思う。
それは考古学者として高名な両親の影に劣等感を感じているようにも見えたし、幼少のころからトニーに預けられていた影響にも見えた。
学者崩れの元トレジャーハンターとはいえ、カリスマ性があることに変わりない。
どちらが本当なのか定かではないにしろ、どうあれ考古にどっぷり浸かった彼女に勝るのはトニーくらいだ。
ルイスはふと、入り口の方を振り返った。
スイングドアの向こうの白々しいほどの赤に染め上げられた通りに、奔流と化した赤土が憎たらしいほどに自己主張している。
戸を押し開け、目の色を変えて抽斗や棚を物色してはしゃぐリリアンの姿を想像するのは難なくない。
「リリアンて?」
ぼうっと心ここにあらずでスイングドアを見つめたまま動かないでいたため、ルイスはイヴに肩をさすられて、やっと問いを投げかけられていることに気がついた。
短く謝りながらイヴに向き直ると、彼女が怪訝そうな表情をしているのがわかった。
「リリアンてだれ? ほら、さっき話に出てきた」
首をかしげるイヴの嘘偽りのない純粋なしぐさに、そういえばイヴにリリアンのことを言っていなかった、とルイスは思い、説明しようと口を開きかけたが、一言目を発するよりも先にドクロッグの手に遮られた。
邪魔をされたことにいらいらとドクロッグを見上げると、不敵に口元を歪めているのがわかった。
黄色い双眼にいたずらな光が横切る。
「こいつのフィアンセ」
素っ気なく言ってのけた彼が、イヴとルイスの両方をそれぞれ見比べたのに、ルイスは不機嫌さを露わに鼻を鳴らした。
にもかかわらず、ドクロッグはにやにやと含み笑いを浮かべたまままったく動じない。
その隣では、耳を垂らして誰の目にも明らかなほどに元気を無くしたイヴがうつむき加減に無言を背負っている。
一回り小さく見えるのは、常に逆立っている被毛が静電気を失っているせいだ。
「そう……なんですか?」
やっと絞り出せたようなか細い声は、ルイスの耳が上手く受け止めていなかったらいつまでも狭い店内に漂っていることだろう。
「違う違う、違うって」
ドクロッグの腕を払いのけたルイスは言った。
「こんなほら吹き男の言うこった、違うに決まってるだろ。おれとリリアンはそんな関係じゃない」
ほんとう?、と問いたげな眼差しを上げたイヴにルイスは笑顔を浮かべて頷いた。
現時点ではきっぱりと断言するだけの材料はなかったが、憶測の範囲内で彼は確実だと決め込むものがあった。
イヴはルイスに好意を持っている。
核心に足りるだけの理由こそなかれ、ルイスに対する感情に一顰一笑するイヴの姿に、それ以外の可能性は低い。
改めてその事に気付いたルイスは、ふっと脳裏にリリアンのことが浮かび上がったのに表情を重くした。
ルイスとリリアン、ほんの最近まで関係を持っていたことは、少なからずルイスの意識に強い印象を残していた。
特に一番明瞭なのは、別れた、という事実だ。
成り行きに任せた交際は、自然に元の友人としての関係へ瓦解した。
またそうなるのではないかという不安もある。
友情から発生した恋仲なら、リリアンとのようにまた友達としての関係に戻れるかもしれないが、イヴとのあいだにそれがあるかどうかわからない。
そんなことはない、大丈夫だと自身を励ましたかったが、それだけの材料が存在しないのも確かで、生半可な根拠を武器に突っ走れるほどルイスは幸せ者ではない。
ルイスも、イヴには好意を持っている。
同種ということも手伝ってはいるものの、あどけない仕草や無邪気に見せる白い歯はそれ以上にルイスを引きつけていた。
そのため、またいらぬちょっかいを出したドクロッグに怒りを感じずにはいられなかった。
「そうさ、こいつはそんな関係とうに越しちまってるのさ」
にやにやと唇を三日月状に歪めての物言いに、憮然としたようにルイスは身を震わせる。
なあルイス、と言ってわななく肩を叩こうと手を伸ばしたドクロッグは、ルイスが流した電気に悲鳴を上げて仰け反った。
「悪ふざけも大概にしろ、このくそったれ」
静電気で逆立った体毛が、十分に気迫を補ってくれた。
前腕をさするドクロッグは、痺れた指を曲げながらルイスの言葉に口元を尖らせる。
「良いじゃねえかい、しがないバーテンダーのかわいいいたずらくらい」
「どこが……」
吐き捨てるように言って、次に出そうとした悪罵をイヴの存在を思い出して飲み込んだ。
その分途切れてしまった言葉尻に継ぐもの、
「ただの同僚、仕事仲間さ」
と、先の返答に、いくぶんと間遠になったことを付け足す。
ほっと胸をなで下ろしたイヴは、神経質になってしまった自分を恥じるように肩を竦めた。
恥じ入り顔に白い犬歯が小さく覗く。
「仲が良いの?」
ルイスは頷く。
「まあいっしょに仕事してるからね」
言い終わり、ルイスは自身の返答がぶっきらぼうであったことに気付いて、と自身を咎めるように首を左右に振った。
「仲が悪くっちゃあ話にならない」
ふーん、と納得したのかしていないのかわかりずらい曖昧な返答を返したイブは、しばしの間無言を抱え込んだのち、思い出したように両手を打ち鳴らした。
「じゃあね、じゃあね。博物館で働いているのって三人でしょ。あなたとリリアンて人と、もう一人は?」
病気で倒れた母親の看病の合間、少ない暇ながらもてあますことは多々あった。
唯一の娯楽ともいえる考古博物館に何となく通うイヴだったが、まだ全部を見て回ってはいなかった。
田舎町のわびしい博物館ではあるが、それなりの広さはある。
創建されたのがまだこの町に鉱石の加護がついていたころだと聞いているので、恐らく当時の者はそれに見合った利益を求めていたのだろう。
おかげで、ただでさえややこしい造りに加えてさらなる増築が繰り返しされているため、一階ごとにある案内板を見ても目的の展示室に行くことは容易ではない。
そのためイヴが立ち入ったフロアは半分にも満たない。
あまり奥まで立ち入れば帰り道を見失うのではないかという不安もあったし、入り口から先へ進むにつれて増えていく太古の民の模型に恐怖を感じずにはいられないからだ。
模型にありがちなのっぺりとして現実味を帯びた表面を舐める陰影がかもす表情は、照明灯のゆえだとわかっていても畏怖に揺さぶられる。
会ったことのある博物館の関係者といえば、館長である年老いたジュカインと、いつも中庭で子供たちに本を読んであげているシャワーズ――彼女がリリアンだ――くらいだった。
いつもエントランスホールの端に積み上げられた木箱の陰で昼寝をしているルイスはもちろんのこと、もう一人の職員を見た記憶はない。
別にこれといった興味があるわけではなかったが、これ以上リリアンについて質問するのは、ルイスに対してある意味で特殊な感情を持っていることを気付かれそうで厭われた。
「ああゾルタンか。ゾルタン・ロイター、種族はマグマラシで男」
聞き慣れない発音に、イヴは戸惑いの表情を浮かべる。
母親の看病のため町に移り住む前、イヴは山をいくつか隔てた場所に住んでいた。
都市といえるほど大きくは無かったし、大した設備は無きに等しかったが、列車など日常生活の苦を軽減するようなものはだいたい揃っており、うらぶれたこの町と比べれば御の字だった。
他人との交流はそれほど密ではないものの、挨拶を交わす程度のことはしていた。
親しい友人から一度二度会釈を交わしたほとんど赤の他人までのどんな記憶を探っても、ゾルタン、ロイター、の二つを見聞きした覚えは残滓ほどにも無い。
「ゾルタン……ロイター? 珍しい名前」
感嘆するような懐疑するような物言い、ルイスは予想通りの返答だと内心に思った。
「そりゃあそうさ。珍しいも何もあいつ、おれらと違うもん」
言って、イヴが首をひねるのを見て取った。
「厳密に言うと、父親だか母親だかが外国人だったはずだ。どこをどう間違えたか知らんが、トニーを慕って博物館で働いている変わり者だ」
身をかがませ、薄く木目を湛えたウイスキーに両手を添える。
そろそろ慣れただろう、そう踏んだルイスは肉球でしっかりグラスを挟み込んで、一気に口に流し込んだ。
そして、再びイヴに向き直るまでの寸暇は無きに等しかった。
「よその国の言葉を覚える労力を他のことに使えば良いのに、そうすりゃあゾルタン、今頃はどっかのばか高いビルでそれなりの椅子に腰掛けて、並び大名どもを見下ろしてたろうに」
カウンターに片肘をついて、そこまで言ったルイスはふとゾルタンについて誇張しすぎたかと自身を咎めた。
いくらゾルタンが違う道を歩むだけの選択肢を持ち、その中に自身が不特定多数に崇められるような存在になれる道があっても、ゾルタンは決してそれを選ばないだろう。
かといって強調して無気力というわけではなく、またそう言う者が得てして纏わりつかせている、去勢された腑抜けのような厭世的な考えも持っていなかった。
仕事に対する熱意や人生を肯定的に見る姿勢に潜む空虚、それは功名心のみが欠落しているようにも見えた。
「といっても、ゾルタンは良いやつだよ。他人に苦労を抱え込ませることも、人をさげすむような真似も、あいつは絶対しない」
そう言う意味で、ゾルタンはルイスよりも勝っているのかもしれない。
常に他から抜きん出ようと躍起になっている自身が小さく見えてならない、これが酒を飲んでいない普段の時に思ったならば、ただ不愉快なことでしなかっただろう。
なぜなら、少しでも自分自身を目立たせて周囲の関心を得ようと、ひたすらに努力を注いでいるルイスの信念に真っ向から相克するものだからだ。
関心さえ得られれば馬鹿にされることもなくなるとの考えのもとで非凡を取ったルイスに対して、ゾルタンは平凡を取った。
注目されることを良しとした者と拒んだ者の差は、正反対のものを信念としているにも関わらず、何もなかった。
非凡と平凡、まったく反対の意味、なのに互いに距離を取れない。
これが、多少の差違さえあればルイスも無理矢理ながら納得できたかも知れない。
しかし、両者にはそれがなかった。
他人に認めて貰おうと奮闘するのと、ただ流れに身を任せるのが同等に取られていた。
それは周りが、二人の信念よりもまず生い立ちを見ているせいだった。
「外国人だからって、他人を見下すことも無けりゃ自分を卑下することもない」
浮浪児であったルイスと、外国人であるゾルタン。
閉鎖的な町でこれは大きな障害となってくれた。
ルイスは五十歩百歩という言葉を知らなかった、だからこそ、余計な憤りを感じていた。
努力が決して報われるというわけではないことを、彼は理解していなかった。
理解していない、それはルイスの中で、理解できない、という意味に履き違えられ、不必要な怒りを招く要因となる。
だが、今のルイスにそれはない。
ルイスはふと視線をグラスに落とし、改めてアルコールの偉大さを実感する。
愛おしげに半分にまで減ったウイスキーを眺めているその姿は、哀愁を感じさせるものがあった。
「へえ、一度会ってみたいなあ」
とげとげの黄色い背中に、なぐさめるように言ったのはイヴだった。
ああ、と生返事を返して顔を上げたルイスは、ありえない、と首を振った。
「あいつ酒と煙草が大嫌いなんだよ。何度かそれを忘れて目の前で吸ったことがあるんだけどな、そしたらゾルタン、毎回不機嫌そうにアルコールとニコチンとやらの有害性についてのべつ述べ称えてくれたもんだ」
言われて、鼻をひくつかせたイヴは、改めて店内にわだかまる酒と煙草のにおいに気付いたらしく、小さく顔をしかめた。
「一応、掃除はしてるけどね」
「少しでもにおったりしたら駄目なんだ。単に嫌いだっていうよりも身体が受け付けないらしい、ゾルタンは」
言って、ルイスは最後にゾルタンの前で煙草を吸ったときのことを思い出した。
普段あらゆる感情に無表情なマグマラシの顔が忌避感に表情を歪ませるというのは、あまり見ていて楽しいものじゃない。
「博物館に戻ったら、おれは一体何を言われるかわからんよ」
アルコールで呂律の怪しくなった言葉に、イヴは破顔させた。
「だったら酔いが覚めるまで、うちにいれば良いよ」
ねえマスター、とイヴに目まぜされたドクロッグは首を捻った。
「雨宿り感覚でいつまでも店に居られたんじゃたまんない、駄目だ」
「なんでですか。彼お得意さんなんでしょ?」
「金を落としてくれたらな」
「けちんぼ」
イヴが不平を発したのと同じくして、店のスイングドアが悲鳴を上げた。
今までドアに遮られていた赤い陽光が店内の闇を押しのけて、ルイスの背中を照らすのに彼はため息を吐いた。
この時間、ルイス以外の来客は少なく、いたとしてもそれはルイスが疎ましく思っている老人どもであることが多い。
肌同様に干からびて水気の無くなった話題を携えてやってきた老人が、カウンターに座っているルイスを見るや否やに何を言うか、考えただけでもうんざりする。
悪口に悪口を重ねてさんざん罵った挙げ句、揚げ足とも取れるくらいの些細なことを見つけてはまた悪口の燃料にするのだ。
考えるだけでもぞっとする、というルイスの心配をよそに、ドクロッグは営業向きにこしらえた笑顔を上げて来店客に向けた。
いらっしゃい、といつもの軽快な発音を予想していたルイスは次の言葉に思わず入り口を振り返った。
「噂をすれば何とやら、珍しいねえ」
片方のスイングドアに手をかけたまま、光を背に抱え込んだ影がぼうっと浮き上がっている。
影は外と店内との明暗に追いつかなかった目を、もう一方の手でしきりにこすっている。
「ゾルタン?」
弱気に問うと、影は頷いてルイスに歩を進めだした。
陽光が閉じられたスイングドアで遮られるや否や、今までおぼろげでしかなかったマグマラシの表情が浮かび上がった。
「なんだ、ゾルタンか! お前がこんなとこに来るなんて、こりゃ槍が降っても割に合わんな」
驚きに口笛を吹きながら椅子の上で立ち上がろうとしたルイスが、よろめいたところをイヴに支えられながらそう言った。
イヴがルイスを支えながらゾルタンに向かって誰何がてらにお辞儀をするのに、ゾルタンは頭を下げる。
「来たくて来たわけではありません」
にべもなく言い放つと店内を見回し、漂う酒のにおいに嫌悪を露わに首を振った。
振られる首に弄ばれる銀の鎖が、同じく銀の懐中時計を揺らしている。
ルイスの隣まで来ると、ゾルタンは前肢をバネにして後ろ肢で立ってルイスに入り口を示した。
「館長が呼んでいます。すぐに来てくれと」
「トニーが? どうせ倉庫の整理かなんかだろ。お前やっといてくれよ」
面倒くさそうに言って、ルイスはゾルタンの肩を叩く。
後ろ肢で立ったゾルタンは、椅子に座ったルイスとだいたい同じ目線にいた。
「それは恐らくないでしょう。倉庫の整理はビアスさんが明日行う予定ですので」
「じゃあなんだよ」
燃えるように赤い瞳を覗き込むようにして問いかけると、ゾルタンは、さあ、と曖昧に返事をして視線を逸らした。
それを見つけて、ルイスは勝ち誇ったように薄く笑みを浮かべた。
「理由がわからないのに呼びつけられたんじゃたまんない、おれはここを動かないからな」
ゾルタンに背を向け、カウンターに向き直ろうと身をよじったルイスを、今まで隣りで黙っていたイヴが声をかけた。
「言ったほうが良いんじゃないかな?」
控えめな口調は、イヴの控えめな性格をそのまま表している。
振り返って見つめられ、伸ばしかけていた手を引っ込めるあたりも愛らしい。
「構うもんか、こんな田舎の博物館、職員が一人減ったくらいでてんてこ舞いするほど客は来ねえ」
でも、と何か言おうとするイヴに片手を上げてせき止めると、今の言葉を当然聞いていたであろうゾルタンを横目に捉える。
「てなわけでおれは帰らんぞ。いいな?」
ずいと顔を近づけると、口に残った酒のにおいにゾルタンが喘ぎながら後じさった。
しかし、と目尻の涙をぬぐい取りながらゾルタンが顔を上げたのに、ルイスは辟易のため息を吐く。
仕事に熱心なのは良いことだろうが、こればかりは行き過ぎだと思う。
なにをそんなに慌てる必要があるのか。
トニーとアルの会話を聞いていないルイスには、ただゾルタンがトニーの命令に過剰な反応をしているだけに見えた。
現に、イヴはもちろんのことドクロッグにもそう見えているのだろう。
「しかし、そんなに慌てる必要があるんかい?」
険悪に押し飲まれつつある店内を察してか、大げさとも思えるくらいに大きな咳払いのあと、そう言った。
同意するようにイヴも曖昧に頷く。
「ルイスの……いえ、ホーカーさんの言うとおり急ぐ必要は無いのではないですか。それに……」
ちらりとルイスのほうを見やる。
「相当酔ってますよ、この方」
ルイスに悪く思われないようにと慎重な物言いのイヴが言ったことを確認するように、ゾルタンはルイスの顔を覗き込んだ。
「いくら飲まれたんですか」
これにはドクロッグが答えた。
「グラスで一杯程度、でもこいつストレートで飲んでる。グラスも元々でかいやつだし、とにかく結構身にきてるはずだぜ」
空っぽになったグラスを見せびらかすように掲げる。
サンダースであるルイスは、イーブイの進化系統ということもあってそれほど大きな身体ではない。
身体が小さい分、てきめんにアルコールは負担となってしまう。
水で割らず、一気に摂取すればなおのことだった。
うるさい、と呂律の怪しい声で言ったルイスは、ドクロッグの持ち上げたグラスを奪い取ろうと後肢に力を込めて立ち上がろうとした。
カウンターに前肢をかけてつかまり立ちの姿勢になってすぐ、ふっとひざの力が抜けてがくんと姿勢が後ろのめりになった。
支えようと手を伸ばしたイヴの前肢も間に合わず、ルイスは背中からほこりだらけの酒場の床に落下した。
湿気を吸ってたわんだ木製の床はそこまで強い衝撃を与えはしなかったものの、接合面に溜まったほこりを存分にまき散らした。
椅子に腰を浮かしたまま唖然と見下ろすイヴと、カウンターの陰から申し訳なさそうに覗くドクロッグ。
ゾルタンが手を伸ばす。
「これがホーカーさんにとって大切な時間だということは十分理解しています。しかしそれが館長の命令に背くほど重大なことではないはずです」
ですからほら、と促すように言ってルイスを引き起こすと、ゾルタンは入り口のほうを示す。
「お願いです」
「嫌だったら嫌だ。首に縄でも巻かれて引っ張られない限りおれは動かんからな!」
静電気で体中にくっついたほこりを払い落として言い放つ。
高圧的ではないものの、返し様に飛ばした
「首に縄を巻けば動いてくれるんですね」
大して考え込んだ様子もなくゾルタンの唐突に繰り出した問いに、ルイスは怪訝に思いながらも頷いた。
「もちろん。それがどうした、おまえに関係あるのか、え?」
「わかりました。そうさせていただきます」
では、と言下に頭を下げて踵を返すゾルタン。
ルイスたち三人のうち誰かが制止の声を上げるよりも先に、スイングドアを押し開けたゾルタンは振り返りもせずに外へ出た。
支える者のいなくなったスイングドアが店内と外とを行ったり来たりする。
蝶番の上げる不快に甲高い音以外に何も物音がしないことに気がついたルイスは顔を上げ、ドクロッグの咎めるような視線を正面から捉えた。
「なんだよ」
低く無愛想に発すると、ドクロッグは肩をすくめた。
「あんなにつんけんしてたら、友達無くすぞ」
「いきなりやってきて、理由も告げずに連れて行こうとしたのはゾルタンだ。追い返されて当然だ」
「しかしなあ……」
最後を濁しながら首を捻ったドクロッグが片手を仰いでルイスに椅子に座れと示した。
「男の悪酔いはみっともないぞ、女に嫌われる絶好の種だ」
やっとのことで椅子によじ登ったルイスは、そう耳に声を潜めて耳打ちされたのに腹立たしく首を振った。
「おれがいつ悪酔いしたって言うんだよ。ふざけるのも大概にしろよ、この……」
くそったれ、と声を荒げて続きを口にするよりも早くドクロッグのゴム質の手に口をふさがれた。
「ダウニーに聞いてみな、そしたらわかる」
口元から頭に移動した手は、てっぺんを掴むとぐいとイヴのほうへ向かせた。
振り向かされたルイスは、手中の
「や……やあ」
不安げに眉根を寄せるイヴに、快活よく声をかけた。
「見苦しいこと見せたかな」
おどけたように問うと、いえ、とあやふやにつぶやいた。
「そんなことないけど。行かなくて良いの? お友達なんでしょ」
イヴの言葉に、ルイスは苦々しく頷く。
途端、大人げない態度を取ってしまった自分を恥ずかしく思い顔を逸らした。
ルイスを連れ戻そうとしているのはゾルタンではなく、トニーであることはわかっていた。
怒りをぶつける相手を間違っていることは誰から見ても明らかなことだったが、今こうして快適な時間を切り裂いて連れて行こうとしたのは命令を受けたゾルタン自身である。
頭ではわかっているつもりでも、振り子のように小さな刺激にも反応する情動までは果たしてそうではない。
そのことに改めて気付いてみるとルイス本人、なんだか自分自身が小さく見えてならなかった。
普段は理性でどうにかなっている衝動的な感情だが、酒などに神経を麻痺させられると頭で考える前に口に出してしまう。
時に自身の立場にも影響するその性分に、苛立ちを感じないときはない。
自分の境遇から来る苛立ちを忘れるために飲みに来た酒で、自己の気付かないところで鬱積した苛立ちを発露させているといことにも我慢ならなかった。
忘れようと心がければ、さらにそれは強く意識に打ち付けられる。
打ち付けられたことに怒りを感じれば、他人に当たる。
この場合、呼び出したトニーに対して憤りを、すべてゾルタンに押しつけている。
「結局、おれはこういう男なのか」
息をつきがてら、こぼした。
ため息に混じった小さな声だったにも変わらず、イヴは長い耳をぴくりと動かして目を瞬かせた。
「へ? 何が?」
と首をかしげるのに、ルイスは首を振った。
「いいや、なんでもない。こっちのことだよ」
「そう。ところでお友達は? ロイターさんを追いかけなくて良いの?」
ルイスとゾルタンのそれぞれを慮るような音色はルイスの揺らいでいた心に突き刺さった。
「きみは追ったほうが良いと思うのかい」
「そりゃあ……まあ」
ルイスが振り返ると、イヴは言葉尻を濁して言う。
「最終的には、あなたの意見次第よ。ね?」
最後の問いかけはドクロッグに向けたものだった。
すがるような声色に、バーテンダーは頷く。
「まあそうだわな、行く行かんもお前さん次第だわな。どうするんだ?」
顎をしゃくるドクロッグを、ルイスは恨みがましく睨んでから視線をスイングドアに向ける。
うらぶれた木目が風に触られて行ったり来たりを繰り返すかたわら、砂の噛んだ蝶番が時折嗚咽を漏らすように小さく金属の音を出している。
隙間から漏れる陽光は、朝だというにもかかわらず夕焼けのような色彩のもと、ドアの上と下の空間を埋め尽くしている。
今すぐにでも店を出ていけば、博物館を辿るゾルタンにすぐに合流できるだろう。
赤土を被るかもしれないがこちらは車で、向こうは徒歩だ。
途中でゾルタンを拾ってやれば、それで良いだろう。
博物館に戻っての雑用は退屈そのもので暇つぶしにもならないが、これ以上イヴに悪い印象を持たれるより、ましな部類だろう。
スイングドアから振り返ると、イヴとドクロッグの二人が返事を待つようにルイスを眺めている。
「大丈夫だって、ちょいとゾルタンをからかっただけだよ。手ぶらで返したんじゃ、さすがにかわいそうだもんな」
調子よく言いのけたルイスに、二人は半ば安心したようにため息をついた。
「良かった」
ほっと胸をなで下ろした二人は、そう同時に発する。
そのあと、先に口を開いたのはドクロッグだった。
「なあダウニー。そこの小麦粉を倉庫に放り込んでくれるとありがたいんだが、頼めるかな?」
店の真ん中にうち捨てられた麻袋を指さした。
不服そうに見返してきたイヴに、頼むよ、と両手を合わせて懇願するとイヴはため息と共に席を降り、ルイスに一声かけたのち麻袋を背中に担いで物置に通ずる戸をくぐっていった。
後ろ手に閉められた扉が音を立てて閉じられるのを待ってから、ドクロッグはカウンター越しに手を伸ばしてルイスの肩を叩いた。
「お前さん正解だよ。あのままだんまりを続けてたんじゃ、イヴはお前さんに愛想を尽かしてただろうな」
「友達がいのない奴ってだけで嫌われるかな」
言ってルイスはバッグに手を伸ばした。
小さく折りたたまれた紙幣を広げて差し出すと、ドクロッグはそれを受け取ることもなく軽く手を横に振った。
「代はいいや、久しぶりに顔を見れたんだ。それだけで十分さ」
「いや、でも悪いよ」
「いいんだって、グラスで一杯味見程度に飲んだ客から擦り取るほどおれは落ちぶれちゃいねえ」
しかし、とさらに差し出そうとする紙幣をドクロッグは拒んだ。
突き返された紙幣を手の中で丸め込んだルイスは、それをバッグの中に放り込んで、
「じゃあ次の機会に払う。いつまでも他人に弱みは見せられないからな」
と笑いながら言ったのち、椅子から飛び降りる。
酔いの回った足が床板の上でたたらを踏んだが、転ぶことはなかった。
「じゃあイヴに言っといてくれ、また会いに来るって。それと――」
次の言葉を、ルイスは驚愕と共に飲み込んだ。
スイングドアの向こうに広がる風の音に混じって、聞き覚えのあるエンジンがうなり声を上げていたのだ。
まさかと思いつつルイスはふらつく足を引きずってスイングドアを押し開ける。
舞い上がる赤土に目を眇めつつも音の発信源をにらみ付けると、果たして自分の乗り付けた車が見えた。
大型エンジンの上げる振動で、黒い車体に乗った土が細かに震えているのが見え、さらに近づくと運転席側のガラスに人影を捉えた。
「誰だ!」
ルイスは車を離れる際、マスターキーを取り外す習慣を持っていなかった。
小言や嫌みごとを言う者はいても、車を盗む者はいないと決め込んでいたからだ。
内向的で仲間内での結束が網目状に張り巡らされたこの町で犯罪に手を染めることは自殺行為にも等しい。
村八分にされればルイスのようにすがる者がいないかぎり死んだも同然だ。
そのことからルイスは車に人影を見つけたとき大層驚いたし、歩を進めるごとにはっきりしてくる人影のその正体に気付いたときには、思わず我が目を疑った。
「ゾルタン! てめえ何してるかわかってんのか。ふざけんのもいい加減にしてくれよ」
残りの車体までの距離を小走りに駆け寄り、ウインドウに掴まり立ったルイスは声を荒げた。
運転席に座っているゾルタンはその声に、ステアリングの上に乗せていた顎を浮かせて振り向く。
ガラスに前肢を叩き付けるルイスをまじまじと見つめ返した後、ウインドウを開けた。
「首に縄を巻いて引っ張るつもりです」
抑揚のない平板な物言い、それに平然とした態度も相まって余計腹立たしかった。
後ろから追いかけてきたドクロッグに奇異の目で見られることも構わず、ルイスは汚い言葉を吐き捨てるとウインドウの枠に掴み掛かった。
逆上して逆立ち、凄みかかったサンダースを興味なさげに一瞥をくれたゾルタンは前に向き直り、ギアを降ろした。
「おいおいおい、待てよ! もって行くなよ! 俺の車なんだ!」
吠えたてながらゾルタンのアクセルレバーへと伸びる腕を阻止しようとしたルイスの手は、届くよりも早く引き下ろされたアクセルによって爪先すらも擦らなかった。
急発進する黒塗りの高級車、地面に横様に落ちたルイスの上を巻き上げられた赤土が覆う。
煙雨の如く立ちこめる砂塵は吹き下ろす風ですぐに飛び去る。
口に入った砂粒をはき出しながら起き上がったルイスは、目に見えて小さくなった車の後部バンパーを見つけた。
「お前さん、してやられたな」
なぐさめるとも逆なでするとも取れるような紛らわしい声色で言ったドクロッグは赤土にまみれたルイスの肩を叩く。
それをルイスは払いのける。
「くそったれ。見たかあいつ、振り向きもしなかったぜ。どいつもこいつもこけにしやがって、くそ!」
霞んでいく車体に向かってわめく。
弾かれた手の甲をさするドクロッグの不平をもろともせず酒場へ踵を返したルイスは、頼りない足取りにぶつぶつと文句を垂れながら板張りの壁と平行に並べられた水桶に頭を突っ込んだ。
赤土が分厚い雲みたく桶の中に広がる。
冷たい水が酒に酔った頭を芯からはっきりさせる。
緩和していた神経が指先まで正常に戻ってきたころ、水から顔を出したルイスは先ほど打ち付けた箇所に鈍痛を感じてさらに怒りを煽られた。
友人のしたこととはいえ、これは許容範囲を越えている。
酒に身を浸して何もかも忘れようとしたところを邪魔した上、大切な車を奪い取っていったのだ。
大切な時間を奪っていくというのが、いかにもルイスの嫌いな老人たちを彷彿させる。
つまらないことで呼び止めては口うるさく小言を言う年寄りども、大切な友人をそいつらと同格に思ってしまう自分も腹立たしかったし、そう思わせるゾルタンも腹立たしかった。
「見てろよ、くそったれめ!」
誰に言うでもなく吐き捨てた。
さっきとは打って変わってちゃんと機能してくれる四肢を突き動かして、ルイスの突然の行動に立ちつくすドクロッグに駆け戻った。
地面に残ったタイヤの跡を踏みつけながら、車の消えた道の先と酒場の屋根とを見比べる。
いくらサンダースでも、走る車に勝てるほど速くは走れない。
ルイスも体力には自信があったが、努力でなんとかなると思えるほど楽天的にはなれなかった。
ゾルタンに追いつくために残る手段は、と彼の視線は酒場の屋根の一点に絞られた。
ドクロッグの酒場から博物館へ戻るための道は、言うほど多くはなく、むしろ少ない方だ。
炭坑の開発に伴って拓かれる前から町は存在していた。
今よりさらに小さな町はほとんど集落に近い形態でひしめき合うように家が立ち並んでいて、体格の大きなポケモンでは通れないくらいに狭い道がいくつもあった。
その密集地帯のなかに、ドクロッグの酒場もトニーの考古博物館もあった。
最短距離でこの二つを車で行き来しようにも、狭い道が邪魔をする。
そのため、車を安全に通そうと思ったら、元の町に浸食するように造られた新しい町の広い道を通る必要がある。
町の開発によって新しく造られた町はチェスの盤目のように測られ、均等に建物が並んでいるため、当然そのあいだを横切る道幅も考えられている。
車はもちろん、体格にハンディキャップを持つ者も楽々にすれ違えるほどだ。
ゾルタンの急ぎようを考え、なおかつ他人の車をべこべこのスクラップにするような傍若無人でない性格を信じれば、その道を通ることは明らかだ。
よし、と自分を励ますように頷いたルイスは酒場の屋根までの目測を付ける。
ひとっ飛びで屋根板を掴むことは出来なくても、途中の樽を踏み台にすれば届くはずだ。
ばっと地面を蹴って走り出すルイス。
その背に向かって声をかけようと手を伸ばすドクロッグが口を開くまでもなく、樽の手前に到達した。
数歩手前の距離から地を離れた身体は、四肢を下にしたまま樽を踏み台にして、二メートル近い高さにある屋根板のふちに前足を引っかけた。
爪ががりがりと音を立てて板を削る。
もともと爪を武器に使うことのないサンダースの身体は、むずがゆいような衝撃を指先からじかに伝える。
あと少しで爪が離れて背中から地面に落下する、というところでルイスは身をよじって、板の端に噛みついた。
両手にある程度余裕が出来たことから、さらに前へと前肢を伸ばして、三点の力で身体ごと屋根の上に追いやった。
屋根の上で立ち上がったルイスは、口に入り込んだ木くずと砂を吐き出しながら、運動不足気味の自身の身体に鼻を鳴らした。
下ではドクロッグが呆れたような眼差しを彼に向けている。
「やるねえ」
歪んだ口元から発せられた言に、うるさい、とにべもなく言い放つとルイスはゾルタンの車に先回りをするため、バーテンダーに背を向けた。
町の端にある酒場と、ほぼ中央にある博物館。
直線にすればそれほど遠くはないこの二つの建物。
昔からある町を迂回しつつ、無駄な時間をかけずに移動するためには、一旦町の東側に出る必要がある。
Uの字型に大きく迂回をするルートを直線で突っ切れば、いかに車のほうが速いとはいえ先回りは出来るはずだ。
もう一度自分の考えを確認したルイスは、次の屋根に飛び移るため足に力を込めた。
酒場の腐ってぼろぼろになった屋根板は抗議の悲鳴を上げたが、すでに隣の建物へと飛び移っていたルイスには聞えない。
屋根から屋根へと跳梁し、縦樋をよじ登ってまた別の屋根の上に飛び降りる途中、ルイスはふと思った。
あの日、トニーはなぜ自分を保護してくれたのだろうか。
何年も昔、イーブイであった彼は毎日をこうして生きながらえてきた。
貧困に育った者が恵まれた者から生きるために糧を奪うこと、それは彼らにとって紛れもない真実の秩序であった。
浮浪児たちの創り出した秩序、良識的な社会に生きている周囲からすればそれは自らの信ずる秩序を脅かす害悪でしかないだろう。
世界は大多数の決断によって成り立っている。マジョリティを追われた存在はマイノリティとなり、多数派にとって少数派は紛れもない悪となるからだ。
ルイスの住んでいた町にこれを当てはめた場合、町で真っ当に生きる者が多数派で、ルイスたち浮浪児の集団が少数派だ。
多数派も少数派も住む世界が違えども、それぞれ別々の秩序が機能し、互いに干渉し合いながらもきちんと統制されていた。
その点を切り口にあの日起ったことを見つめ直してみれば、建物のふちから落ちてきたルイスはトニーにとって異質の存在であっただろう。
町の人間ではないとはいえ、一般的に言われる世界の中の秩序に生きるトニーは、異なる世界に基礎を持ったルイスを敬遠するどころか、助けてくれた。
理由を問えば、未来のある少年を放っておけるわけがないから、ともっともらしいことを言うのだが、ルイスにはどうもこれがはぐらかされているようにしか思えないのだ。
ルイスを保護して広い世界を見せてくれるというトニーの施した慈善に、トニー自身が何の見返りを要求してこないからだ。
代価の存在しない慈善、それはルイスの考えに余ることだった。
その理由はルイスの生きてきた環境によるためだ。
身寄りのない浮浪児が集まって出来た集団、その中で慈善とは見返りを要求するためだけの方法でしかない。
たしかに、トニーは半ば強引に名前を付けてきたし、動けなくなった彼の変わりに冒険もした。
危険な旅であっことには変わりない、しかしそれが町から保護してくれたことに値するほど報いているとも思えない。
結局のところ、トニーがなぜ助けてくれたのかルイスにはわからない。
ルイスを配下に置くためだとしても、だったらなぜこうして自由に動き回らせているのか。
単なる思いつきだとしたら、なぜ今もこうして博物館への滞在を許してくれるのか。
――なぜ?
解答の期待出来ない問いは、落下する時の耳元で喧しくわめき立てる風の音と、着地の衝撃を受け身で逃がす際にじゃらりと音を立てたネックレスが答えてくれた。
なかがき
小説を問わず、何かをするにあたって必要なのは第三者の目、つまりは読者の意見。
と言うわけで些細な改善点でも構わないのでじゃんじゃんコメントをして下さい。一言でも良いのでお願いします。
最近、どうもわたくし一人で突っ走っているような気がしたので、まだ後に引けるうちに直してしまおうと思いましてね。
あ、そもそももう後には引けないところまで突っ走っちゃってるかな? まあその時はその時で
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