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117夜の悪夢

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「117夜の悪夢」

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我々はときおり、 悪夢から目覚めた瞬間に自らを祝福することがある。
我々はおそらく、死んだその瞬間をみずから祝福することであろう。

                       ――N・ホーソン

―1―


雨は万物の上に降り注ぐ。
遥かな高み、雲の合間から落とされた冷たい雫が、数百フィートの旅を経て地表を叩く。
人々の暮らす街、鬱蒼と茂る密林、忘れ去られた峡谷。鷹が空舞う高丘、波頭砕ける海岸、大地を刻む大河。
時に厳しく、時に優しく。いかなる時も、ただ真っ直ぐな軌跡だけを一瞬だけ空中に残して。
二度と天へは登れない片道切符を数秒の間に費やし、驟雨は静かに世界を濡らしていく。

その日、ある街に降り注ぐ雨は次第に強さを増す一方だった。
街路や屋根に叩きつける雨粒は、意図されずして生み出された自然のパーカッションだ。
音に満ちた世界でありながら、その実果て度ない静寂という矛盾した世界。
つまり、全ての音はザーザーという音の前に沈黙し、人々の諸活動もまた沈黙するのであった。

雨が運ぶのは憂鬱であると昔から相場は決まっている。
大粒の雨に叩かれて、あたり一面から立ち上るのは雨の匂い。
雨の日に特有の、あの何とも形容し難い鬱々としたムッとする大気が、街にひしめく石造りの家々の間に充満してゆく。
上昇する湿度は屋内にも忍び込み、住人達の気分をいつにも増して湿気たものにしていた。
全天を覆う鈍い灰色の雨雲、家路を急ぐ通行人の靴音。屋根縁の雨樋から滴り落ちる雨垂れ、鎧戸の閉まる軋んだ音。
稲光が一瞬走り、それを追って平原の方向からは遠雷の鳴らす響音がやってきた。
牧場に出ていた群れなす羊達は飼い主に連れ戻され、牧草を反芻していた乳牛達ももと居た牛舎に押し込められていく。
煉瓦の塀は流れる雨で暗い表情を醸し出し、その脇を幌をかけた馬車がガタゴトと忙しげに走り去る。
石畳の街はしばしの慌しさを見せた後、刻々とその濃さを増していく雨雲の下に黙りこくった。
雨空の下のモノクロームの世界、人々は鉛色の空を鬱陶しげに見上げるのだ。

街は憂鬱の中に沈んでいた。
その他全ての色彩が灰色に包まれているのに、憂鬱(ブルー)という色だけが残るとは何という皮肉だろう。
夏に入ったばかりだというのに、冷やかな霧と雫が街全体をすっぽりと包んでいた。
それに伴って街の風景もまた、白と黒、そして蒼の濃淡の中にぼやけては滲んでいく。



そんな煙霧に咽ぶ街のはずれに、一軒のこじんまりとした家が立っていた。
この街にある他の建物と同様、石を組み合わせて建てられた、小さくそして古びた二階建ての家が。
もとは白っぽい石で造られであろうその家だったが、歳月の経過とともに風化の一途を辿り、今や薄汚れたその姿を残すのみ。
三角屋根から突き出した古びた煙突には蔦が絡まり、その瓦解を一層速いものにしている。
錆によって酷く赤茶けた鉄柵の門、茂るものもない貧相な庭には雨によってできた水溜まりが幾つか。
建てられた当初は小さくもこぎれいにまとまった端正な家だったのだろうが、いまや廃屋の一歩手前といった状況で時を経ている状況にある。
それがこの場所に属する全て、街の端にひっそりと佇む侘しい風景だった。
しかしここが物語の始まりである以上、いかにこの家が寂れていようと見過ごすわけにはいかない。
そう、この物語の始まりは、この家のある部屋から一人の少女が窓の外を眺めているところから始まる。

簡素で整頓された部屋の中、一人の少女がベッドから上体をやや起こして、夕を迎えることなく夜に沈んでいく雨の街を静かに眺めていた。
外見から年齢を判断して大体十四、五才ぐらいだろうか。
物語を始めるに至って、まずはこの少女について色々と説明しなくてはいけないだろう。

少女は透き通るように白い肌をしていた。
これは単に彼女の肌が人より白めであるとか、病的な青白さを感じさせるというのではない。
彼女自身が弱い白光を放っていると言い換えた方が恐らく適切だろう。
たとえ事実はしからずとしても、彼女を言い表す言葉はこれ以外にそう多くはないのだから。
敢えて別な言葉で言うならば、温かくもなければ冷たくもない、何の色にも染まり得ない、無垢で清楚な純白の存在。
対峙した者が声をかけるのを躊躇するような、身の内から発散する光の如き白。
もし彼女に色をつける何かがあるとすれば、それはより強い光源に照らされたときに生じる陰影のみとなるだろう。
それが彼女を見た人の持つ共通した第一印象だった。
ショートカットにした蒼灰色の髪、その身に纏うは長く白いショール。
華奢な骨格、細い腕。細面な顔は賢しく、同時に無表情の時間が非常に多かった。
濃いグレーの瞳は、洞察するには深すぎる深淵をたたえて揺らぎ、映るもの全てを穏やかに静観し。
その姿はモノクロ写真の陰画から抜け出してきた様な、儚さと幽玄を感じさせる。
薄暗い部屋の中に佇むその白い姿は、明らかに異質な、他とは一線を画した存在感をもって人々の視覚の前に迫ってくる。
彼女はそんな少女だった。

しかし幻想世界の住人の様な容姿を持っているとはいえ、彼女もまた現実世界の囚われ人であることに変わりはない。
この世に生を受けたときから、現世の規律に束縛されて生きている。
たとえその姿が常人よりもはるかに異なる印象を与えようと、彼女だけが現実の枠を外れることは許されない。
すなわち、彼女は時間、空間といった物理的な意味でこの世に縛られていたし、運命的な意味でもこの世の他の人間となんら変わりがなかった。
つまり、全ての生き物は生まれ、成長し、老い、そして死んでいくという世の真理には。
ただ、彼女は常なる人とは少し異なる二つの要素を有していた。
一つは、先ほど挙げた容姿の問題である。
しかし容姿とは全ての人において異なるものであり、人より違って見えると騒ぎ立てるのは野暮というものだろう。
たとえその姿が、他人をしばし畏怖せしめるほどのものであったとしても、だ。
では何が彼女を異常、つまり並み一通りの人間から逸脱した存在たらしめているのか。

彼女は眠らない少女だった。
生まれてからこのかた、一度もまどろむことのない子だった。



少女の部屋に流れる沈黙を、ノックの音が破った。
「おーい、お邪魔するよ。雨、大分強くなってきたなぁ。おじさんもずぶぬれだぁ」
部屋に一人の男が入って来ると同時に、部屋の中に香ばしい匂いが満ちた。
男は腕に一つのバスケットを抱えていた。その中にあるのは、焼きたてのバケット。
やはり職人の大窯の中で焼かれたパンの香りほど食欲をそそるものはない、と、このパン屋も自負している。
高温を維持しつつ、適度な湿度を保ちながら焼きあげるのは一般家庭の窯には成せぬ業であった。
しかし少女はその香ばしい香りになんらそれらしい興味を示すことなく、海原の色をした瞳を向けて、小声でそっと礼を言った。
「いつもありがとう」
「あ?ああ、いいんだ別にこれぐらい。こっちも店の残りを押しつけてるようで悪いなぁ」
少女は返事をせず、ひたとパン屋を見つめたままだった。
パン屋は慌てて取り繕うように続けて言った。
「も、もちろんお店で出してるのと中身は変わらんがね、それでも――」
「いつも美味しくいただいてます」
パン屋は何時も少女のこうした面に戸惑うのだ。
頭を下げるでもなく、真っ直ぐ直視して飾り気のない言葉を突き刺してくる。
こちらを透視するような視線で物を見る、その視線に彼は妙な落ち着かなさを覚えるのだ。
万物に対して常に傍観者でいるような、冷静な眼差しに射すくめられて心穏やかでいられる人間は多くはない。
口数の少ない彼女だからこそ、その口から発せられる一言一言の重みがずしんと心に響く。
飾り気のない純朴さは、世知辛い世の中というものをを渡ってきたパン屋には少々眩しすぎた。
「じゃあ今日はこの辺でお暇するよ」
彼はすぐさまこの場を退散したくなるような居心地の悪さを覚えた。
「あ、あとこの前欲しいって言ってたマッチも置いて行くから、それじゃ」
少女はあたふたと部屋から出ていくパン屋の姿を見送った。

自分の家まで辿り着いたところで、ようやくパン屋は一息つけた。
閉店と書かれた札を引っ掛けて部屋に入れば、いつもの仕事場の空気が彼を出迎える。
ホッとしてでた溜息は、長い間息を止めていた時のものによく似ていた。
そしてパン屋はがらんとした店の中で一人思うのだ。
あれが本当に死を前にした者の姿なのか、と。
そう、ここでまた新たな要素が彼女に付け加えられる。
彼女は病だった。彼女を診察した医師曰く、十六まで生きることができないだろう、と。
既に街に来てから三回ほど、発作を起こしては死線をさまよったこともあった。
緩やかに、しかし確実に、彼女は消え去ろうとしていた。

人生とは預金できない銀行口座。
最後の預金がゼロになったとき、この世での生が終わる。
人が恐れるのは、その通帳を確認できないことだ。
明日にも死が訪れるかもしれないし、数十年先までその気配すらないかもしれない。
だからこそ無理に目を逸らしたり、はたまた信仰に頼ったりするのだ。
しかし彼女は命の残高を短く見積もられてる者にしては、あまりにも超然とした態度で日々を暮らしていた。
死は何物でもない、そんな余裕すら感じさせるほど、少女は静かに日々を送っていた。
自分を待ち受けているものを直視していながら、恐ろしいまでに無頓着。
影のように捉えどころがなく、かつ光のように全てを照らしながら彼女は日々を生きていた。
そんな少女の、達観したと言えるほどの落ち着きように、今度はパン屋の方が落ち着かなくなるのだ。
自分ならあそこまで落ち着き払っていられるはずがない。
二年後、いや、ひょっとしたらあと数分後には死が待っているかもしれないというのに、ベッドに座って一日中佇むしか出来ないとは。
心の妙なざわつきを振り払うべく、パン屋は頭を左右にブルッと振ると、自室へと続く軋む階段を上がっていった。
まったく、あの子はいったいどういう子なのか。もっと彼女を知りたいようで、近づきがたいようで。

少女は誰の理解も及ばぬ範囲を生きている。しかし、其れゆえに彼女は人を引き付けるのだ。
体が弱く、ほとんど歩きまわることも出来ず、人と言葉を交わすことも少ないのに。
少女にはどこか放っておけない部分があるのだ。
毎度存在を確認していないと、もろく崩れ落ちてしまいそうな何かが。
失ってしまえば、失くした事に後ろめたさを感じさせるような何かが。
かといって哀れを誘うわけでなく、誰にすがるでもなく。
街の一員として馴染み、溶け込み、一風景として彼女は存在していた。
空気のように希薄な存在感で、空気のように不可欠で。
少女はこの街における、一つの穏やかな神秘であった。
彼女の両親が間もなくして亡くなってからもまた、街の人々が交代で世話を焼いているのにはこういう訳があった。
だからこそ街の人々は当たり前のように、いつまでも彼女を支え続ける。



少女は相変わらずの素直な瞳で食事を終え、牛乳の入ったマグカップを空にした。
手に付いたパンくずを払い、膝の上のトレイにマグを戻すと、パン屋の置いて行ったマッチを一本擦って蝋燭に火をつけた。
蝋燭の炎、オレンジの明りがカンテラの中で反射し、周囲に薄ぼんやりとした光と影とを映し出す。
光源の作る光輪が円形の放射を描いて、室内の中に広がった。
少女はベッド脇のテーブルにトレイを置くと、今度はテーブルの引き出しから一冊の分厚い古びた本を取り出し、膝の上にそっと広げた。
古色蒼然とした皮の表紙が、彼女の手のひらと擦れ合って乾いた音をたてる。
そこに記されているのは古の寓話か壮大な叙事詩か。
長の歳月を経て黄ばんだページが、細く白い指によってはらりはらりとめくられてゆく。
そして昨夜まで読んでいた場所のしおりの紐を抜き取ると、彼女は文章の世界、文字の無限階段をゆっくりと降りはじめるのだ。
太陽が地平線の上に顔を出し、街が光に満ちるその時が来るまで。
他の人が休息と安眠にあてる一日の約三分の一という時間を、彼女は一人起きて過ごさねばならない。
それが彼女の日課であり、眠りを許されない者の暇つぶしだった。

これから、彼女の長い長い夜が始まる。

いや、この言い方は明らかに間違っている。
その夜に限っては“始まるはずだった”というのが正しい表現なのだから。
彼女はその夜も何時ものように、一晩かけて分厚い本の世界を旅し、朝日が昇る頃になってようやく本を閉じるはずだった。
街に住む幾多の人々が夢の世界へと漕ぎ出す中で、彼女だけが現世(うつしよ)に残って目を覚ましている時間のはずだった。
それが日常と言うものであり、彼女が過去数年続けてきた習慣であり、この街の恒常だったのだから。

しかし結論から言ってしまうならば、その夜は決して“何時も”の夜ではなかった。

そう、この夜から運命の歯車は狂い始め、そこから生じた誤差によって物語の歯車が動き出す。
歯車の駆動はシャフトを伝わってクランクを回し、直線歯車(ラック)小歯車(ピニオン)が噛み合って物語という機関に命を吹き込む。
水面に落とされた雫がその波紋を広げるように、全ては連鎖し、因果し、紡がれる物語となって環状の広がりを見せるのだ。


~続く~

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ちょっとした短編を書いてみます。ちまちま更新していく予定なので、もし興味がある方がいればどうぞ。

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Last-modified: 2011-04-11 (月) 00:00:00
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