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13の不確かな断章

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 時は否応なしに進んでゆく。その過程でぼくたちは何かを獲得し、そして獲得したよりはるかに多くの何かを失っている。



    1


 この話は三年前の春、つまりぼくがセキエイ学園に入学した瞬間に始まり、その三年後、学園卒業の日の一一時五九分に終わる。
 あの三年間、ぼくはほぼすべての時間を学園と寮で過ごした。実家には一度も戻らなかったが、母は電話の一本、手紙の一枚もよこさなかった。今さらそれが悲しくはない。実際に三年を過ごしてみても、それでぼくと母のあいだに実害といえるものは何一つとしてなかったのだ。
 セキエイ学園の桜は、ぼくが入学してくるころにはすでに満開だった。例年よりも早いくらいで、カントー地方はやはり温暖化していた。
 セキエイ学園は全寮制で、二人一組の相部屋だった。ぼくと同じ部屋に暮らすことになるY(プライバシーの観点からもそう呼ばせてもらう)と顔を合わせた時、ぼくが最初にやったのは、ぼくはかなりの出不精で、つまり卒業までの三年間、大きい連休があったとて自発的にどこかへ出かけるつもりはない、と話すことだった。だからもし、きみが一人の時間を持ちたくなった時はそう言ってほしいと。
 するとYは朗らかに笑ってみせた。春のうちにすでにして日焼けした肌に、真っ白な歯がまぶしい。そして生まれもった短い金髪。いかにも快活そうな男の子だった。
「オレは逆に、休みに部屋でじっとしてられない方なんだ。がさつだし、気が利かないから、なんかあったら言ってくれよな」
 今にして思えば、三年の共同生活でぼくとYの間に目立った衝突は一度も起こらず、だから特段語るべきこともない。互いへの適度な無関心のおかげで、ぼくらの生活は比較的、快適だった。ぼくらは相性がよかったのだと思う。それは幸運なことだ。相方と合わないと寮生活は悲惨である。Yには感謝してる。そして今でも、Yとはなんだかんだとつるみ続けている。



    2


 ぼくの過去について。
 父はとうの昔に死んだ。ぼくが六歳くらいのころだ。父については、ぼくが「お父さん」と幼さを剥き出しに呼んでいたことしか覚えていない。優しい父だった……と思う。たったそれくらいだ。
 活力ある人間だと幼いながら見ていたが、ある日、流行性感冒が父の身を侵した。どれくらいの時間、父の命が感冒に侵されていたか正確な月日は覚えていないが、本当に一瞬のうちに病は父を連れ去った。その感冒は血を吐くものだった。なぜ血を吐くのかは誰もわからなかった。当時のぼくは何も知らなかった。父が死にかけていることも、血を吐いていたことも。
 お父さんは大丈夫だよとぼくは聞かされていて、それを信じていた。それは幼子故といえることだったのかもしれないし、子供に血を見せない大人たちの配慮だったのかもしれない。そしてその経験は、今まさしくぼくの思想に繋がっている。
 無知は悪だ。絶対にそうだ。そうに決まっている。
 感冒の特効薬ができたのは、それから二年も後のこと。そのきわめて高い致死率は、完全にとはいわずとも、ほぼゼロになった。それまでにたくさんの人間が死んだ。だが誰も、死んだ人間を返せとは言わなかった。そして特効薬の存在に誰もが救われた。
 最後に覚えている父の顔は、少なくとも生きているものではなかった。安らかな顔、死に装束の記憶……涙に覆われたぼんやりとした像でしかない。
「お父さん、お父さん」と、ぼくは涙声で装束に縋りついていた。昔よくしてくれたお手伝いさんも、胸元に涙を落としていた。母は横でじっと父の顔を見ていた。その瞳に何を映していたのか、ぼくにはわからない。
 


    3


 セキエイ学園の入学式で、生徒は相棒のポケモンをもらう。初心者に易しい、それなりに育てやすく、それなりに強力に進化するポケモンたちだ。
 教室で先生からモンスターボールが配られた。ぼくが名前を呼ばれてボールを受け取り、席に戻って緊張とともに机の上に出してみると、中から出てきたのは、ニャビーだった。
 大方の生徒がそうだったように、当然ぼくも感慨に浸った。ポケモン……ポケモンだ。ぼくの相棒。今この瞬間から、ぼくはこのニャビーのトレーナーなんだ……
 ニャビーのことは知っていた。どのポケモンが配られてもいいように、スマホロトムで調べていたから。あまり構われたがらない、おとなしいポケモンだという。一匹で過ごす時間を好む。一年に二度ほど毛が生え代わり、時期になると自分の体に火をつけて古い毛を燃やす。
 ぼくの机の上で、ニャビーはどうということもなさそうにしていた。ご挨拶程度、ぼくの顔を見て、みゃー、と鳴いてから、体を舐めて毛づくろいをしていた。
 担任が通り一遍のことを話し終えると、その日は解散だった。入学式の日は授業がなかった。だからぼくらには、与えられたポケモンとの時間がたっぷりあったのだ。
 教室から出て、みんなてんでバラバラに散ってゆく。寮に戻る者、食堂や中庭に行く者、図書室に行く者。ぼくはもちろん、寮に戻った。途中、大概の生徒は相棒のポケモンを連れて歩いたり、腕に抱いていたりした。ぼくはニャビーをモンスターボールに入れていた。信頼を築く前に触れ合うのはよくない。それがニャビー。
 部屋にYはいなかった。自己申告どおり、解散して真っ先に部屋に戻るような性格ではないのだろう。だからぼくは、部屋でニャビーを自由にしてやって、その姿を観察するということに没頭できた。ニャビーは最初、初めて訪れる部屋をきょときょと見回して、しばしうろつき、ジャンプで窓辺に乗ったりもしたが、最終的にはぼくの学習机の下の暗いところに陣取った。ごろんと横になり、お腹の毛をつくろう。
 Yが戻ってくるまで、ぼくはずっとニャビーを見ていた。しかしあまりジロジロ見ていると、ニャビーの方だって落ち着かないだろう。じいっと見つめたいのを抑えながら、それとなくだ。
 ニャビーは毛づくろいに余念がない。警戒されているようすはなかった。とりあえずそれはよいことだ。ニャビーがあまり動き回らないおかげで、観察もしやすかった。毛並みは主に黒。四本の脚に、それぞれ二本の赤い縞模様。目から下も赤く、額には「キ」のかたちの赤模様。ニャビーの体毛には油が含まれていて艷やかで、毛づくろいで抜けた毛をお腹に溜め、体内で燃やす。そうやって火を吹く。小さい体に、炎を生み出すエネルギーを持っている。ニャビーは進化するとニャヒートになり、ニャヒートはさらにガオガエンへ進化する。
 ニャビーの進化はいつごろになるだろう? それにはたくさんのバトルを経験して、レベルアップしてゆかなくてはならない。ポケモンバトル……それがぼくにできるだろうか? というか第一、ぼくとニャビーはどんなパートナーになってゆくのだろう? どんな関係を、築けるのだろう?
 やがてニャビーが欠伸をひとつして、体を丸めたので、ぼくはニャビーをモンスターボールに戻した。モンスターボールの中は、ポケモンにとって住みよい造りになっているらしい。だったらボールの中の方がよく眠れると思った。今日は好きなだけ寝るといい。
 そうしてお昼ごろにYが帰ってきた。
「やっぱり部屋にいた。なんかそんな気はしたんだよ」
 Yは頭にポケモンを乗せていた。ニャオハだった。Yは出会ったばかりの相棒とあっさり仲良しになれたようだ。ニャオハはYの頭へ横向きにぺったりと貼りつきながら、ぼくにもにゃあにゃあと愛想を振りまく。果物めいた甘いかおりがした。
「メシ行こうぜ」
「うん。ここの学食、カツカレーがおいしいんだって」
「へー、じゃオレ、それにしよ」
 スマホロトムと財布だけを持って部屋を出る。するとYは部屋をちょっと見て、「そっち、ポケモンは?」
「ボールに入ってるよ。今は寝てる」
「なんのポケモンだった?」
「ニャビー」と、ぼくは言った。
「ああ、そりゃマイペースなわけだ」
 歩きながら、Yのニャオハはぼくに向かってしきりににゃあにゃあいっていた。頬擦りでもしようというのか、首まで伸ばしてきて、Yの頭から落ちそうになり慌ててしがみつくということを何度か繰り返した。かまってほしいのだろうか。ニャオハは甘えたがりなポケモンらしい。
 なんだかニャビーとは正反対だ。しかし気さくなYのためにあつらえたようなパートナーじゃないか。ただそれをいえばニャビーだってぼくの気質を理解したようなポケモンかもしれない。信頼しあうには時間がかかる。互いに心地よい距離を保ちながら、適度に暮らす。ぼくにはそれくらいでちょうどいい。あまり元気なポケモンでは、ぼくはきっと疲れてしまう。
「でも、ニャビーとニャオハか。奇遇っていうか、なんつうか」
「どういうこと?」
 Yが少し黙った。気まずくて黙ったのではなく、言葉を選んでいた。Yは自分のことを「がさつだし、気が利かない」と言っていたが、そのときYは確かにぼくを慮って言葉を探したのだ。
 そして言った。
「ニャオハ立つな」
「え?」
「――って、言われてんの、知ってる?」



    4


 文学について。
 父が死んだあと、ぼくは母から、いやたくさんの人から、いや世界から多くのことを学んだ。そのおかげで、ぼくは一応、四桁足す四桁の足し算とか、三桁かける三桁の掛け算くらいなら暗算できるし、なんのために必要なのか知らないがピアノが弾けるし、「おまえって食べ方がきれいだな」とYに言われる。微分積分学の基本定理はなぜか知っているし、なぜ空に雲が浮かんでいるか大体の理由を説明できる。
 傍から見れば、今となってはポケモンに傾倒しているかもしれないが、人並みの教養はあると思う。
 ぼくは文学も嗜んだ。ポケモンについて書かれた本だけじゃない。ポケモンに出会う以前から小説など腐るほど読んでいたし、太古の思想家の思想をまとめた本も(それのほとんどをぼくは理解できなかったが)いくらでも読んだ。
 惜別を描いた本に涙したこと、人間の本能的な畏怖に震えたこと、数えきれない。
 言葉にはいつだって力があった。
 文章の中では、世界は意のままだったはずだ。また文章には、人を震えさせる力がある。指をパチンとならせばきっと何かが起こったはずなのだ。それは空気が震えるとか、音が聞こえるとか、リアルテイストが効きすぎた興覚めなものでなくて、星が降る幻想とか、人がその文章に涙したりするとか、そういうことだ。
 だが現実はそうではないし、文章を書くことは意外にも苦しいマラソンだった。レポート用紙の上から書き始めて下に行きつくまでに、数多の用紙はゴミ箱の中に放り去られる。紙が埋まるのにはよくて五時間、長いときは三日かかった。
 たぶん、「整合性」がすべてにおいて邪魔をしていた。人間は何にだって整合性を求めるのだ。たとえそれがファンタジーだとしても。それがたとえ夢の中に起きたことだったとしても。
 なぜ、小説家はこんなにも物を書くのがうまいのだろう。ぼくの日常は小説の世界ほど煌めいていない。ほかの人間だってそうだ。小説家といわれる人たちはみんな大きい家に住んでいて、広大な庭に一人墨客ぶっているかもしれないが、きっと善良で、石を投げれば当たるような、平々凡々とした人間なのだ。
 物書きは、狡猾で嘘つきな人間だというあらぬ考えが回ったこともあった。しかしそれは誤りだ。
 小説家とは、想像を伝達しているのである。それは嗜虐、寓話、たくさんの形をとる。少なくとも一定以上の人気を博しているような才能ある小説家は、平々凡々でありながら、青春時代の夏とか、推理小説とかを書いている。それは絶対に経験によってなされたものではないはずだ。
 経験でしか小説は書けないというのは、才能がない者の逃げ口上だ。
 本当に才能あるものは、その小さな頭蓋の中に綺羅星のごとくめぐる想像を書き起こして、伝達できる人たちなのだ。
 そしてぼくは、そういう人間ではなかった。それは努力でどうにかなるものではない。生まれた環境……もともと持って生まれたもの……そういう問題だ。
 それがぼくの文学の帰結であり、ぼくの文学との決別だった。
 その決別の瞬間は、父が亡くなってから三年ほどたったある朝のことであり、ぼくは朝に少年が正十七角形の作図方法を思いついたように、はっきりとした天啓をもって「やめた」と決心した。
 ポケモンとの邂逅は、それから少し後のことだった。



    5


「ニャビーが進化してゆくと、最後はガオガエンになるだろ?」
 Yといっしょに学食の列に並んで、結局ぼくもカツカレーを注文した。人気メニューらしく、ぼくとYの前に並んだ生徒もけっこうな割合でカツカレーを頼んでいたし、そうなったらもう強いてほかのものを食べようなんて気にはなれなくて、ぼくもその流れに便乗してみることにした。カツカレーなんて料理は、カレーライスにカツが乗っているに過ぎないはずなのに、カレーに乗せられたカツというのは、カツカレー以外では絶対に出ない風味があるから不思議だ。料理とは科学である。とするなら、カツカレーのカツに特有の風味だって、きっと科学に関する何かがあるに決まっている。
「それが嫌だっていうんだな。小さくて可愛かったニャオハが、ガオガエンみたいに二本足の厳ついポケモンに進化してほしくない」 
「ふうん……」
 Yが言葉を選ぶわけだった。それを、ニャビーのトレーナーであるぼくに言うためには。カツカレーの味わいだって、どこか損なわれるような話だった。
 とはいえ。
「センスの問題だよね。見た目が好きか嫌いかって」
 すべてのポケモンを平等に愛するのは、トレーナーの理想かもしれない。だが持って生まれた感覚センスはどうしようもないと思う。それと同じように、ニャビーが最後にはガオガエンに進化することだって、誰にも変えようがない。
「まあ、なあ」
 Yもカツカレーを頬張る。ちなみにYは大盛りを注文していた。
「オレは、ガオガエンってかっこよくて好きだけど」
「うん」
「ニャビーやニャヒートを見て、ガオガエンにギャップがありすぎるっていうのも、わかんなくはないよ」
「そうだね。それにガオガエン自体が嫌われてるわけじゃないと思う」
「……てえと?」
 ぼくはYに、ロイヤルマスクの話をした。アローラ地方限定のポケモンバトルのルール、バトルロイヤル。ロイヤルマスクは、バトルロイヤルの有名な選手なのだ。顎髭をたくわえた筋骨たくましい覆面男で、とても強いガオガエンを相棒にしている。ロイヤルマスクとガオガエンは、老若男女を問わない人気者だ。彼らの勇姿はアローラ地方に留まらず世界中にファンを生んでいる。
「そうだな」と、Yはうなずいた。「ガオガエンそのものが嫌いとは、あんまり聞かない。そういうのはいつもニャビーやニャヒートとの比較で」
「だよね」
「ていうか、ニャオハだってニャローテになれば二足歩行するんだし」
「それ、『立つな派』はどう思ってるんだろう?」
「さあ。オレは進化って楽しみだけどな。ニャオハも可愛いけど、やっぱ大きくなって、強くなってほしいもんな。ずっと今のままじゃ寂しいよ」
 言って、Yは体を傾けた。椅子の横でポケモンフーズを食べているニャオハを撫でたらしい。ぼくが覗き込むと、背中を撫でる手にニャオハが顔を擦りつけて、嬉しそうに小さな声で鳴いていた。その愛らしさに魅了されるトレーナーがいるのは、自然なことだ。
 ニャビーは多分、そういうポケモンじゃない。Yとニャオハのような、わかりやすいスキンシップはなかなかできないと思う。それはかまわない。ぼくらはぼくらの関係を築いてゆけばいい。Yとニャオハのことも、「ニャオハ立つな」というミームのことも、余所事に過ぎない。
 そもそもぼくにとってのガオガエンは、ニャビーやニャヒートである前にガオガエンだ。ガオガエンのことを進化前との比較で見たことはない。
 ぼくにはガオガエンへの憧れがある。それはトレーナーの自然な愛情というのではなく、もっとずっと明瞭な期待なのだ。それをYには話せない。いやYだけでなく、誰にだって話せない。



    6


 ぼくにとってのガオガエンといったら、兄さんのガオガエンだ。
 兄さん、といっても兄弟ではない。カロス地方に住む五つ上の従兄弟のことだ。夏とか年末年始とかに、パルデアにあるぼくの実家に家族でやってくるので、その時に兄さんのポケモンにも会えるのだ。そしてぼくは、兄さんのガオガエン大の仲良しだった。その仲の良さといったら、兄さんが「ガオガエンのこんな喜び方、見たことないぜ」と言うくらいなのだ。
 兄さんはちょっと変わったポケモントレーナーで、ほのおタイプのポケモンだけで戦うというのが矜持だった。それも感覚センスの話である。ウインディ、バシャーモ、ウルガモス……とにかくほのおタイプ使いとして最強のトレーナーになるのを目指す、「ほのお統一パーティ」の使い手である。
 ぼくはもちろん、リザードンとかシャンデラにだって惹かれるところはあるんだけど、やっぱりガオガエンが好きだ。そして実のところ、ガオガエンも人間の子供が好きなポケモンで、だからもう、ぼくらが仲良くなれた理由というのが、子供のぼくがガオガエンを好きだったからなのか、ガオガエンが子供のぼくを好きだったからなのか、本当のところはわからない。しかしとにかく、ぼくにとって実家に兄さんが遊びにくるというのはガオガエンに会えるということだった。時間の許す限りをガオガエンと過ごした。
 ぼくの部屋にはテントがある。タオルケットを絨毯代わりにした、子供部屋の中のさらにプライベートルームだ。ガオガエンはそのテントが好きだった。ガオガエンは体が大きいから、一人用のテントなんかに入るとぎゅうぎゅう詰めになるのだが、そういうせせこましい場所を気に入るのはぼくも同じで、本を読むときは大抵テントの中だった。ぼくとガオガエンで、ほかには誰も入り込めない空間で、その暖かくて大きな体を思いきり抱きしめるのが好きだった。むおん、と喜んだ声を出して、ガオガエンもぎゅっと抱きしめてくれる。
 初めて兄さんのガオガエンに会った時、ぼくは十歳だった。ぼくの友達はみんな、親にモンスターボールを買ってもらったり、お小遣いで自分でモンスターボールを買ったりして、近所でゲットしたグルトンやタマンチュラなどで、真似事程度にポケモンバトルをやりはじめていた。ぼくは特段、そういうことに関心がなかった。ちょうど文学に熱中していた時期だった。だからぼくのポケモンデビューはみんなよりだいぶ遅れた。だがそれが異様というのでもない。世の中は何もポケモンに夢中になる人間ばかりじゃない。
 初めてのガオガエンとの出会いから一年が経ち、文章を読むということにきっちり慣れ親しんだ夏のこと。近いうち、また兄さんが遊びにくると知った。ぼくは当然、ガオガエンに会えることを喜んだのだが、そこでふと思いたった。ガオガエンというのはどういうポケモンなのだろう? 何をしてあげれば喜ぶのだろう? そもそも、ぼくはポケモンのことをあまりにも知らなすぎた。ガオガエンともっと仲良くなるにはどうすればいいのか。
 その方法論に目星はついていた。本だ。文学はぼくに知識を与えてくれる。ガオガエンともっと仲良しになれるやり方を。
 そうして十一歳の夏、ぼくは兄さんが連れてくるガオガエンを歓待した。お小遣いをはたいて、ガオガエンが好むおやつやマッサージブラシなどを買って。
 ガオガエンと楽しい時間を過ごすこと。ガオガエンを喜ばせること。それはぼくの使命だった。時々しか会えないぼくと一緒にいる時、あるいはぼくのことを思い出す時、そのすべてがガオガエンにとって幸福であってほしいのだ。また会いたいと、思われたいのだ。
 それはもはや愛だった。ぼくはあの時すでに、ガオガエンを愛していたと思う。
 ガオガエンを部屋に連れてゆき、寝転んだガオガエンの大きな体をブラシでマッサージした。頭、首元、お腹……毛を梳いていると、ガオガエンはどの部位でも嬉しがった。ぐるぐると喉を鳴らすのが、心地よさの表れとぼくは知っている。そのぐるぐるをもっと聞きたくて、いつまでもガオガエンをマッサージしていられた。ブラッシングを受けて、ガオガエンはぐりぐりと身をよじる。ガオガエンがごろりと転がれば、ぼくは背中や脇腹をマッサージした。ふさふさの毛並みはところどころ焦げていて、激しいバトルの痕跡になっていた。
 兄さんはただガオガエンを連れているのではない。最強のほのおタイプ使いを目指しているのだ。だからきっと、兄さんのガオガエンもとても強いのだ。そういう強いポケモンを、自分の手で喜ばせてやれる。その喜びはかけがえない実感だった。知識さえあれば、トレーナーでなくともポケモンと仲良くなれる(この期に及んで、ぼくはまだ、自分がポケモントレーナーになることを欠片も考えていなかった。ガオガエンと仲良くなることだけが至上目的なのだ)。
 ぼくのマッサージが、ガオガエンの腰まわりを過ぎて、お尻のあたりに至った。ここはさすがに嫌がるかしらと、浅くブラシを当てて尻尾を撫でてみた。思ったより嫌がらない。もう一度、尻尾の根元から慎重にブラシを滑らせる。がいん、とガオガエンが声を漏らす。決して不快な声ではなかった。大切な感覚器官を許してくれるガオガエンのその態度には、全幅の信頼があった。
 繰り返すうちに、ガオガエンの両足がぴんと伸びて、お尻が高く上がってきた。初めて見る姿だ。それが面白くってマッサージしていると、このあたりがよさそうだという部位が少しずつ判明する。尻尾のつけ根だ。そこを撫でると、ガオガエンはもっとしてほしそうにお尻を持ちあげる。ガオガエンの脚はほとんど爪先立ちになっていた。ぼくはもうブラシを使うのも煩わしく、手指で直接そこを撫でる。頭を低く、尻を高くした奇妙なかっこうのまま、ガオガエンは甘えるようにガウガウと唸っていた。力強い体躯に、凶悪な爪と牙。そんなポケモンの陶然とするさまに、ぼくは完全に魅了されていた。



 ぐるる、がるると身を擦り寄せてくるガオガエンに抱き上げられ、ぼくはテントに運ばれた。ぼくが知らずに撫でていた尻尾の付け根は、ガオガエンの性感帯だったのだ。ガオガエンは、ぼくがしつこくそこを撫でるのを求愛だと思ったのだろうか。しかし実際、ぼくはガオガエンに求愛していた。いくら性に無知だといっても、ぼくがガオガエンに求めていたことはいつだって、同じようなものだったと思う。
 ガオガエンはテントの入り口を閉じた。いつも遊ぶ時は、そんな風にはせず開けっ放しだ。夏の、冷房で涼しくした部屋の中にあって、テントの中はどんどんと高温に達した。ほのおタイプのガオガエンの体温と、ぼくの未知への好奇心と興奮で。
 ぼくは、ガオガエンに促されるままに、ガオガエンに見られながら服を脱いだ。相手はポケモンだし、という恥じらいのなさで。
 そしてそのまま、ぼくらは一晩を過ごした。狭いテントの中、ぼくはガオガエンに汗まみれにされて、暑さがたまらずおやつに持ってきたジュースもボトルごと飲み干しながら、ガオガエンに愛されること、ガオガエンを愛することを、やめられなかった。
 どれだけ無知な子供といっても、ガオガエンのおちんちんがびょんと股間から上向きに勃起していれば、性的な気配を察知するくらいのことはできた。最初は、棘にまみれた三角錐が、人間の性器とはまるで違うことで無邪気に観察気分だったが、ガオガエンの求めるまま裸になり、ガオガエンの大きな手指がぼくの胸や股間やお尻をじっくり撫でてくるうちに、止まれなくなってしまった。兄さんや大人たちに隠れて、ぼくらはここで、越えてはいけない境界を越えるんだ――
 ガオガエンはとても優しかった。痛いことは一つもされなかったし、ぼくが嫌がることをさせようともしなかった。そうしてたくさん、たくさん体を擦り寄せ、抱きあいながら、ガオガエンの口内で迎えた精通は、鮮烈だった。その威力のすさまじいことといったら!
 この思い出は、誰にも聞かせられない。それは羞恥心のせいではなく、ぼくとガオガエンの間で秘匿され続けるべき過去だからだ。本当に大切なことは、じっと胸に秘めておかなければならない。
 あの日から、ぼくにとってポケモンは「友達」や「仲間」ではなくなった。ガオガエンを愛し、ガオガエンに愛されたことで、きっとぼくの中で何もかもが変わってしまった。そうなるに十分すぎるほどの衝撃じゃないか。
 だからぼくは、やがてセキエイ学園への入学を決めることになる。それがぼくの新たな使命だった。
 それについて語る前には、やっぱりもう少し、文学について語りたい。それって単に、文脈……そう、チャンピオンに挑む前には四天王を倒さねばならないようなものだ。



    7


 Yとの共同生活には何の問題もなかった。
 ぼくのニャビーも、Yのニャオハもお利口だった。ニャビーにはドーム型のベッドをネットで買ったのだが、気に入ってくれたかどうか、入ったり入らなかったり、ニャオハに横取りされたり、稀には一緒に寝ていたりした。ニャオハはトレーナーと遊ぶのが大好きな性格なので、Yと一緒に部屋にいる時、ぼくはニャビーをかまえない代わり、ニャオハと遊んだ。おかげで寂しくもなかったし、ある程度の世話をぼくにアウトソーシングするYもいくぶん気楽そうだった。
 ぼくとニャビーの仲が険悪かといえば、そうでもない。授業の間はボールの中で大人しくしていたし、バトルの実技でも指示に従ってくれた。面白いもので、ぼくの判断甘さでバトルに負けそうな時ほど、ニャビーは本気になった。それがどういう心理による行動なのか、わからないが、知りたくはない。知ることは興が冷めることだ。不明瞭のままがいいことも、世の中にはある。ぼくらの関係にしたって、そんなようなものだろう。
 それが証拠に、こんなことがあった。
 セキエイ学園での一年が過ぎ、進級直前の春休み、Yはニャオハを連れて実家へ帰省した。ぼくは申告どおり、夏休みだろうが年末年始だろうが寮で過ごしていたし、春休みだってそうするつもりだった。賑やかなYとニャオハがいなくなると、部屋はずいぶん静かになる。それどころか、連休になると寮全体が静かになった。
 温暖化はなはだしいカントーの桜は、その年も春を先取りして風に舞い散っていた。あの夜、ぼくは部屋の窓から桜の向こう側に月を見ていた。夜は月が太陽だ。月は地平の上の顔を出せば、ぼくたちをずっとつけまわし、慈愛のような顔をしている。風が吹けば、桜は光のしずくのように花びらを闇に落とす。
 窓辺に頬杖をついていたぼくのところに、ニャビーがやってきた。窓枠に飛び乗り、ぼくの視線の先を眺めるのだ。
「月がきれいだね」
 窓辺に立ち、ぼくはニャビーと一緒にずっと桜と月を見ていた。ニャビーは何も言わない。無口なやつだ。そのおもねらない態度がいい。
「傾くまでに、見られてよかった」
 何の予兆もなく、ぼくはそう言ってしまおうと思ったのだ。
 その意味をわかっているのかいないのか、ニャビーはぼくの顔を見た。
 なんだよ。おかしなことじゃないだろ? 月がきれいな日には、月がきれいという義務がある――
 それくらいのことを思った時に、突然それは始まったのだ。ニャビーの全身が光を放つ。それはもう、月明かりなんか目じゃないくらいの光量で!
 進化の光。ニャビーはニャヒートへ進化しようとしていた。
 ぼくはこれから先、この光を何度見られるだろう?
 なぜあの夜だったのかは、わからない。そんなことはどうだっていい。なぜって、月は全然傾かないのだ。まだ夜の口、夕の終わりだった。そして今日は満月じゃない。カレンダーによると満月は四日後だ。満月にしたって、年に十二回ほどもあるのだ。それに比べて、相棒が進化するこの輝きといったら、ぼくはあと、何度……
 眩い光の中で、ニャビーの体がどんどん変わってゆく。大きく膨らみ、力強く。相棒が懸命に体を変化させてゆくのを、ぼくは何一つ見逃したくなかった。
 光が収まったあと、ニャヒートに進化した相棒は、にゃあおん、と鳴いた。それはもう、小さく未熟なポケモンの声でなく、成長の過程にある生命的のエネルギーを持った同意だった。
 なぜこの夜に進化したのか――その真実は、相棒に任せたい。
 珍しいことに、ニャヒートはぼくの肩に頭を擦り寄せた。一度だけだ。それっきり窓辺を降りて、いささか窮屈になったベッドで丸くなった。
 ニャヒートは多分、かっかしていた。そんなにのぼせることもないだろうに。
 だがそれはいつか、確かな証拠になるだろう。ぼくときみの仲だもの。



    8


 夢でも、頬をつねって痛い時と、痛くない時がある。だからこれが夢か否かは、この要素では判断できない。しかしこれは過去の、ぼくの父を連れ去った感冒の話だ。人間は過去には戻れない。だからこれは夢だ。しかも大方、悪い夢だ。
 感冒だって? 今さらぼくが何について語ることがある。思いと裏腹に夢の映像として流れてくるのは、ぼくの記憶だ。吐き気がするくらい、嫌な夢だ。
 あの感冒がパルデアで蔓延したのは、もうずっと前だ。血を吐いて死んだマリナードタウンの漁師を起点に始まった。まず漁師の家族が子供一人残して全滅した。そして老人が一人……若者が三人……まるでくじ引きで死の順番が決まったような、それほど無作為に人が死んだ。
 その感冒が、何からくるものなのか誰も知らないということが、人々の不安を掻き立てていた。ある者はそれを神の啓示と、ある者はそれを医療施設から漏れ出たものという嘘を、ある者はそれを仕方のないことと、そう表現した。
 表現の仕方は何通りもあって、それ自体に文句はつけない。あの時は、人間が切羽詰まっていた。すべては後から聞いた話だ。幼い自分にはどうすることもできなかった。
 記憶の中には、幼いころに見た父の棺を燃やす火葬炉がはっきりとある。摂氏四五一度で、人は骨となって土には還れない。天に死の煙がのぼっていって、青空に染み出すような汚い灰がにじんでゆく。いずれ灰が空を覆ってしまうかもしれない。そんなありもしない絶望と恐怖を、その時は感じた。
 奥底にしまっていたものが、次から次へと走馬灯のように光景となる。次から次へ。行き着く暇もなく。
 人が忙しなく走ってゆく先には、医者がある。道端の沙羅双樹の花びらが踏みつけられてゆく。医者の向こうには人が埋まっている。死人だ。人間だけじゃない。ポケモンも死んだ。たくさん死んだ。
 こんな光景も見た。
 医者に並ぶ列だ。原罪を赦されるために免罪符を求めた教徒の行列のような、そんな長蛇の列がある。この人たちは病人ではない。病人の近親だ。明らかに病の人の顔ではないことだけは確実にわかった。では彼らは何のために?
 おそらく彼らは、医者に駆けこんで訴えにゆくのだ。私の息子が死んだ。もしくは私の母が死んだと。震えた。大声で喚きたいくらいの泥のような感情が沸き上がってきた。それが幼いながらにわかったからだ。
 それからあんな光景も見た。
 あんな光景も……
 あんな光景も……
 もうやめてくれ!
 ぼくが何をした? あの時死んだすべての人間は罪がなかったはずだ。すべては希望も何もない悪魔のような災禍が、人間を死という奈落の底に突き落としただけじゃないか。
 葬儀屋は、喪服に身を包んで父の亡骸を丁重に扱ってくれた。棺の中の父はもう起き上がることもないし、ぼくに語りかけることもない。いくら事実としてあっても、実感が湧かない。
 葬儀の最中、ずっとぼくは下を向いて座っていた。母が前で、しめやかに何かしら挨拶をしている。その言葉をぼくは一つたりとも聞いていなかった。
 本当は泣きわめきたい気分だ。父を連れ去った実体のない何かを睨みつけて、父さんを返せと大声で罵倒してやりたい。だけどぼくはパルデアの、一応名のしれた豪商の息子だった。葬式の席で泣きわめく粗相はできない。しかし脳は、生物学的本能に従い涙を流そうとする。
 くだらない社会的体裁に阻まれて、流した涙は一滴二滴。葬儀は粛々と進んでいた。
 重苦しい空気が、ずっと場を支配していた。
 その後の弔事や、説法が何について誰がどれくらいの時間話したのか、ぼくは何も覚えていない。ずっと父について考えていた。父との思い出。父がぼくにしてくれたこと。父が母と一緒にぼくを育ててくれたこと。他にも……他にも……思いは頭の中を何周もして、それでいて止まらなかった。
 嗚咽を隠せずにいる者、神妙な面持ちでいる者、ぼくと同じように下を向いている者……沢山の人間が暗い顔をしていたが、そんな感情より、ぼくの中にある悲しみの方がずっと深いに決まっている。そう思っていた。ずいぶん他者の配慮に欠ける考えだったが、その時は他者について考える余裕もなかった。社会的体裁と自分の感情の発露がせめぎあって、収拾がつかなくなっていた。
 そうして葬儀が終わって母が誰かと立ち話なりをしている間に、僕はさっさと部屋に戻った。ぼくの部屋は自分で言うのもなんだが、子供部屋の割には整理されていて、広い部屋だった。
 その時、ぼくは自分の部屋が空っぽに見えた。
 物は揃っている。不足しているものなど何もない。しかし確実に部屋から何かがなくなっていた。何かがなくなっている。ぼくは部屋中を見回してその何かを探し、そしてその何かに気付き、泣いたのだ。
 社会的体裁、豪商の息子であるということに阻まれていた感情が湧き上がってきた。
 膝から崩れ落ちて泣いた。みっともなく泣いた。お手伝いの人がぼくを探しにきたのもかまわずに泣いた。
 ぼくは父を亡くしたのだ。
 大切な父の姿を未来永劫、実体として見ることはかなわないのだ。そう思った瞬間、また涙が新しく、体の底から湧き上がってくる。
 声をあげて泣いた。身も世もなく泣いた。そこで一生の半分近くの涙を使った気がしている。
 ――覚醒。
 その光景で夢が途切れた。
 見慣れたセキエイ学園の、寮の天井がそこにはあった。


    9


 ひどい夢を見た以上、活動的になって気分を変えなければ、またあのような夢を見る下地のマインドの出来上がりだ。机の上だけで物事を語っていると、どんどん鬱っぽくなることと似ている。何にでも活動的にならなければならない。活動が命の源だ。悪夢を見た翌日はなおさら。
 そんな時、無邪気なYと、彼の相棒に何度救われたことか。ストレスのあまり、ぼくが相棒に当たらずに済んだ。本当に感謝している。
 しかし、まだ日は昇っていなかった。
 悪夢……二度と見たくないといつも思う。
「お父さん」
 声帯が言語を発した。
 同じ部屋で、Yが安らかに眠っていた。その相棒のマスカーニャが――ぼくの相棒より三ヶ月遅れで進化し、その後たった三ヶ月で最終進化したYの相棒――、Yに寄り添うように眠っていた。そしてぼくのニャヒートも、窮屈なドームのベッドに体を詰めこんでいた。



    10
    

 文学と決別した以上、語るのはこれが最後だ。
 それはぼくが、セキエイ学園の三年間で一つ大きなものを掴んだからだ。ぼくが掴んだものなど傍から見れば些末な問題であるし、それによる行動の変化は、本当に些細な……トキワシティの草むらを歩いて飛び出してくるのがポッポかコラッタか程度の違いに過ぎない。
 ぼくの、ポケモンの見つめ方について。
 兄さんのガオガエンのために、母とお手伝いの人とぼくの家を――父がいない家を――抜け出して図書館で本を読んでいたことが「ささやかな小児的冒険」と呼べるのなら、その「小児的冒険」はぼくの人生をすっかり変えてしまったのだ。いやこの表現は正しくない。ぼくの人生は、ぼくの行動によって変わった。ぼくが、ぼくの人生を変えたのだ。
 ポケモンに関する本を読みだしたのは、ぼくが幼いながら文学との決別を果たした後のことで、ポケモンを知ったことによってぼくは、つまらない表現かもしれないが、でんきショックを浴びたような衝撃を覚えたのだ。
 ポケモンには力がある。それは文学に内在している不確かで表れにくい力ではなく、はっきりと体現できる力。つまり「power」だ。
 その強大さは、ぼくの人生の、大きく反動が強すぎて一度引くともう元に戻れない石弓のようなトリガーだった。ぼくは図書館で、ポケモンの基礎的な、初歩的なことしか書かれていない……言うなれば一桁同士の加減乗除レベルのことしか乗っていない本を選んだ。そしてその本の前書きの一文は、こうだ。

 ――ポケモンとは力の現象である。

 その通りだ。この文言を目にした衝撃は計り知れない。これがぼくの嘱望したものだ。喪失を無に帰して、価値に変え、一歩を踏み出すために必要なものだ。
 それ以来、ぼくは家を抜け出しては図書館でポケモンの本を読んだ。読むたびに世界が広がってゆく。世界は小さいようで大きく、そこには無数に存在するポケモンたちが、理論によって証明された美とともに確かに存在した。
 ポケモンとは、その多くが自然に依拠している。自然から溢れ出る、人類がまだ獲得していないエネルギーの塊。そこには人類の矮小さをあざ笑うような嫌味さは一つもなく、むしろ人間をそのまま受け入れるような温かさを持っていた。それはぼくがガオガエンを抱きしめて経験したのと同じ温かさだ。
 家を抜け出していることがバレたのは、あの衝撃的な邂逅からすぐのことだ。母は本当にぼくのことをよく見ていたし、ぼくの内面を知ろうとはしてくれた。母にはこっぴどく叱られたが、ぼくの好奇心はそれで諦めるほど非力ではなかった。そうだ。ぼくは力を得ようとしている。愛するガオガエンのために。
 結果――ぼくが十五歳になり、セキエイ学園への入学を進路に決めた時、母とは勘当という形になった。
 何度も何度も夜を越えて、口論とも舌戦ともつかない、沈黙と意見対立がないまぜになった話し合いを、母と続けた。ぼくはその時もっていたすべてを母に話した。沈黙がその場を支配するならば、さらけ出した方がいい。そう思った。
 ポケモンの持つ力のこと。これからの自分について。黙っていることが悪だと思っていた。伝えないと始まらない。人生の多くは「伝達」であるからだ。伝達によって自分が存在しているからだ。
 母は、その一言一言に頷き、時折に反論を入れた。そこに母の、ぼくに父の会社を継いでほしいという想い、息子にまっとうな生活を送ってほしい、という想いを聞いた。
 母は、ポケモンなんて、とは一言も言わなかった。それだけは感謝している。
「だったら」
 その言い合いが終わった後、母は呟いた。
「出てゆきなさい」
 そう言った。
 その帰結は、単なる利害の不一致だと思っている。ぼくはぼくで生き、母は母で生きるという決断だった。
 人生とはそうあるべきだ。自分の思う価値を追求して生きるべきだ。たとえ人生が短くても、無意味だったとしても。
 ぼくはもうパルデアの家には帰らないと思う。だけど禍根は一つも残していない。


    11


 セキエイ学園で迎える、三度目の冬の終わり。
 眼下には街が広がっていた。トキワシティだ。
 セキエイ学園での三年を過ごし、じきに卒業する。これといって語るべき思い出はなかった。日々こなさなければならない課題を提出し、時には行事に参加し、それ以外は何もせず、Yが部屋に帰ってくると何にもならない話をして過ごす……そんな三年だった。
 ニャヒートは、まだ進化していない。クラスメートたちの相棒は、大方最終進化を果たしている。だがぼくは、これ以上ニャヒートにバトルの経験を積ませるのを躊躇っていた。
 配られたモンスターボールからニャビーが出てきた時は、運命とさえ思った。学園を卒業し、立派なトレーナーになった時、そこからなんとかしてガオガエンをゲットしようというつもりだった。相棒候補のポケモンの多さを考えるに、それが現実的だったからだ。それがまさか、最初からニャビーが配られるなんて!
 しかしこのままニャヒートを進化させてよいのか、ぼくにはわからなくなってしまっていた。
 ニャヒートが力をつけてゆくにつれ、不安が押し寄せる。ぼくが求めているのは本当に相棒のガオガエンだろうか。本音では今でも兄さんのガオガエンへの愛情を捨てられないから、代替行為として相棒を使おうとしていないか? ニャビーを与えられた瞬間から、ぼくはガオガエンだけが目的だった。だからYが言う、「ニャオハ立つな」というミームも関係なかった。むしろ共感さえ覚えた。ガオガエンに比べれば、ぼくの感覚ではニャビーもニャヒートも、決して嫌いではないが、それほど惹かれるポケモンでもなかった。ならば、あまりかまわずに済むニャビーの性格も実は都合がよかった。この学園でレベルアップを重ね、順当に世話をして過ごしていれば、自然と進化してゆくだろう。その進化をただ楽しみにしていられた。
 だが毎日を過ごすうち、ぼくらは少しずつ本物のパートナーになっていった。月のきれいな夜、ぼくに返事をよこすようにニャヒートは進化した。そこにぼくらだけの絆を感じずにはいられない。もはや自覚から逃れようがない。多分ぼくは、自分のポケモンに対して、最低の裏切りを働いていた。だけどぼくはもう相棒に、パートナーとしての愛情をちゃんと持っていた。
 その後ろめたさが、今も最終進化できずにいる相棒の姿じゃないか!
 眼下のトキワシティは、深夜のほのかな灯りに包まれている。
 セキエイ高原からの眺めは、山と川と森と、そして街。すべてがその画角に収まっていて、整然とした街並みは、小さいながらも確実とした歩みを感じさせた。
 世界は、まるで雨だれがゆっくりゆっくり石を穿つように、遅々として、しかし確実に変わっていた。灯りが一つ消え、また一つと灯ってゆく。夜も街は動いている。人間は、永久に続くとも思える夜のために灯りを点けるのだ。そう思うとなんだか泣けてくる。向こうにはポケモンセンターがあって、向こうにはポケモンジムがある。森の方にもトキワシティを拠点とするトレーナーたちのトレーナーハウスがある。その灯りは何度も何度も夜を迎えて、その夜の下でたくさんの人たちが、その人の数だけ生きたのだ。本当に、いろいろな人生があるのだ。この一週間だけでもどれだけの人が亡くなっただろう。その分どれだけの新たな命が生まれただろう。
 そうやって常に横にあり続ける喪失をその度その度、乗り越え続け、人間の世界が存続し続けてきたことに……街があり続けたことに……ぼくは涙を、禁じえなくなるのだ。
 ぼくは泣いていた。泣いたのはいつ以来だろう。確か最後に泣いたのは、父が死んだあの葬儀の時だ。そうだ。ぼくはずっと泣いていなかった。まだあの喪失を乗り越えていないからか。
 ぼくは学園のテラスの柵に寄りかかって、ずっと街を見ていた。そして泣いていた。
 なおうん――
 ニャヒートが、後ろにいた。ぼくが部屋にいなくて、探しにきたのだろうか?
 ――泣いてるのか?
 ニャヒートは、そう言っている気がした。
「泣いてないよ」
 屈んで言うと、ニャヒートは顔を寄せてくる。そうしてぼくの頬を舐めて、涙を拭ったのだ。
「――泣いてるよ」
 ぼくは頷いた。涙は止まらなかった。
 その時、ニャヒートはぼくに体をぶっつけた。そのまま突然、またあの光がやってきたのだ。
 ニャヒートの最後の輝き……ガオガエンに進化する、その眩い輝き。
 懐で膨らんでゆくぬくもりが、やがて体を包んだ。ニャヒートは、ガオガエンへ姿を変えながらぼくを抱きしめていた。ぼくの目の前には相棒の放つとてつもない光量しか見えなかった。
 懐かしい父の暖かさのようなぬくもりだった。
 兄さんのガオガエンのようなぬくもりだった。
 ぼくが求めたすべてを内在したぬくもりだったのだ。
 相棒は、取り繕うことのない暖かさでぼくを抱きしめてくれていた。ニャヒートは、今ぼくを抱きしめるために、ぼくのためだけに進化する。
 それは確信だった。あの月の夜もそうだったに決まっているのだ。
 もうなんでもいい気がした。ここで泣いても許される気がした。
「ごめん」
 温かい光に包まれながら、ガオガエンの胸に顔を埋めて、ぼくは泣いた。



    12


 ネジ巻き時計の動かし方に基づいて、懐中時計のネジを巻く。
 時刻を合わせて、そして――
 時が動き出す。



    13


 四度目の春がくる。出立の時だ。
 荷物の、そして思想の整理は必要ない。卒業式を迎えた日、とりあえず残しておくことにした物以外はさっぱりと処分した。三年を過ごしたぼくらの部屋を、Yと手分けしてきれいに掃除したのだ。
 やるとなったら真剣な面持ちのYの、そういう姿を見るのが、ぼくは存外に好きだった。ぼくがYのように刺激あふれる生活をしていたら、こんな趣味はしていなかっただろうな、という差異まで含めて。そしてガオガエンは、ドーム型ベッドを処分しようとすると、ガイガイと泣いて嫌がった。最終進化した今では、もう片足さえ入らなくなったのに、ドームをお尻の下に押しつぶして、こっくりこっくり寝るのがいつまでも好きなのだ。そんな素振り、進化前はちっとも見せなかったくせに、本当は気に入ってくれていたらしい。買い与えたものを大事にしてくれるのは悪い気はしないが、新居ではもう誰の目を気にすることもないのだから、同じベッドで寝たいものだ……
 そう。新居。セキエイ学園は寮生のアルバイトが許可されていたので、トキワシティのカフェで働いて稼いだ給料で引っ越し先を借りてある。しかも、Yの新居もごく近所だった。だからどうせ一週間後には「メシ行かね?」とか言って、Yが連絡してくるに決まっている。したがって出立とは言うけれど、Yとの惜別でもなんでもない。
「じゃあな」
「またね」
 軽快な別れだ。ぼくらは親友でもなければライバルでもない。ただのルームメイト。だったら挨拶はこれくらいでかまわない。
 懐中時計は、一一時五九分を指していた。
 カチリ――
 もしこの三年間を終えたまでのぼくの人生を「第一章」と呼ぶのであれば、「第二章」がもう近くにまで迫っているのかもしれない。そんな気がする。
 その「第一章」に題名をつけるならば、多分こんな感じだ。
 1……2……3……えっと、こうだ。


 
    13の不確かな断章


 これでぼくの学園生活について語ることは何もないのだが、もちろん後日談はある。
 結局、次の日もその次の日も、Yはトレーナーハウス帰りにぼくの部屋に顔を出し、「きみ、毎日来るね」と繰り返し言っているうちに、トキワシティでは桜の花びらがすべて風に持ち去られ、対抗措置として青葉を茂らせた。川では夜にニョロゾが「くろーっくくろーっく」と馬鹿みたいに大きな鳴き声をあげて、それで目覚めることもあった。季節が進んでいた。人生の「第一章」を終えた(ような気がしている)としても、ファンファーレは鳴らない。しかし一年のうちどこかにぼくの誕生日は確実にあって、それは近づいていた。何かが変わっていた。
 ぼくはアルバイトでまとまった休みをもらい、実家を出てから初めてパルデア地方に帰ってみた。入学当時とは違い、現在ではガオガエンだって入国できる。
 実家があるハッコウシティからはずれた丘の上、一本の名前も知らない木がある。眼下には無限に広がる白の花園と、その向こうの崖から先は海だ。晴天は遥か遠くまで空を広げ、丘の青草は安らかに風になびいていた。
 天国のような光景がそこにある。
 ここは墓場。あの感冒で亡くなった人たちの。
 ガオガエンを連れ、墓と墓の間を縫い、父の墓を探す。記憶が正しければ、それはうんといい材質の石が使われていたはずだ。
 整然と並んだ墓の、前から五番目の、左から五番目に父の墓はあった。墓石には、父の名前と生きた年月が記されている。
 ハッコウシティで買った花を手向ける。幼いころ、「なんの花が好き?」ときいた時に父が答えた、紫のキキョウだ。死者への手向けにはかなり相応しくないが、これはぼくと父だけの「御縁」みたいなものだ。父は多分、笑って許してくれる。
 イキリンコの鳴き声が絶えずこだましている。大方あの木の上に巣があるのだ。ぼくはその鳴き声を聴いていた。ガオガエンに手を握られ、無限に続く空と花園を眺めながら。
 ガオガエンは、じっとぼくを見ていた。あんまりにも見ているので何の気なく見返すと――不意を突かれた――、ガオガエンがキッスをしてきた。
 驚いているぼくに、ガオガエンがにたりと笑みを見せる。それはもう、何もかもをわかっているような、それを父の前でひけらかすような、あくタイプらしさの笑いだった。
 ――ぼくは、もう少しすればこの場所を去って、再び世界に身を投じ、生きてゆく。
 だからこの場面は多分、ぼくの「第二章」のプロローグになるだろう。


 


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Last-modified: 2023-05-21 (日) 00:00:15
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