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黒ずんだモンスターボール

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黒ずんだモンスターボール 


 時はすっかり日が沈んだ頃、帰路につく人ですし詰めとなっている電車の中、僕は揺られるのを何とか堪えながら帰宅した後のことを思っていた。今週の業務は何とか終え、明日からの二日間は週末休みである。ただ、二日間の休日があると言っても、そのうちにこれといってやりたいことがあるというわけではない。せいぜい、テレビや映画を観て笑ったり泣いたりできれば良いかな、と思っているくらいだ。そういう自分のことを、我ながらつまらない人間だと思うのだが、それならそれで構わない、何か問題でもあるというのだろうか。僕の目下の関心と言えば、この日行われたスポーツの結果でも、政界や芸能界を取り巻くスキャンダルでもない。金曜日恒例の映画放送である。この日放送が予定されているのは一昔前に一躍人気を集めた3Dアニメであり、職場でもしばしば話題になっていたものだ。僕も気になっており、視聴を楽しみにしていた。いつもなら明日に備えて早く寝たいところだが、この日くらいは多少夜更かししても構わないだろう――そう思いながら、僕は疲労および眠気と静かに戦っていた。
 しばらくして帰宅した後、僕はスーツを脱いでスウェットに着替える。その瞬間から、いよいよ疲れがどっと押し寄せてきて、今すぐにでも眠れそうな気分に陥る。しかし、まだ風呂にも入っていないし、楽しみにしている映画も観てはいない。あいにく録画できる機器はないので、寝過ごすことはなるべくなら避けたい。職場での雑談のネタにするためにも、ぜひ観ておきたいのだ。ただ、時計はまだ午後八時を過ぎたあたりである。映画放送が始まる午後九時までの一時間、いったいどのように過ごすべきか、非常に悩ましい。ニュース番組をやっているような時間帯ではないし、バカ騒ぎしているだけのバラエティ番組を観る趣味は僕にはない。かと言って、他に熱を入れていることがあるわけではない。明日からの予定も今すぐに立てられる気分ではないから、いったいどうしたものかと迷ってしまうのだ。
 もう少し体力が残っていたら読書くらいはできそうなものだが、あいにくできそうにはない。そこで、僕は小型のタブレット端末を取り出す。タブレットと言っても、有名ブランドに代表される高額品ではなく、インターネットや写真撮影くらいしかできそうもない安物だ。それで何をするかと言えば、単なる時間潰しに過ぎない。インターネット上のサイトを巡っていたら、特に退屈などすることなく時間が過ぎるだろう、という算段があってのことである。僕は自分のブログを持ってはいないし、自己紹介ツールや一言発信ツールといったようなSNSすらやっていないため、本当にインターネットの世界を回遊しているだけとなっている。そのような状況では、少々時間を持て余していると感じてしまうことは確かにあるのだが、インターネットではどういう言葉が目をつけられて叩かれてしまうか分かったものではないから、それで良いのだと思っている。
 そんな中、僕は一つのサイトに行き着いた。自分の飼っているらしきポケモンの写真をこれでもかと載せているブログである。幸せそうなピカチュウやイーブイの写ったものとともに、飼い主と思しき人が頻繁に思い出を書き綴っているようだ。その人のピカチュウもイーブイも、体型から表情から仕草からとても可愛く、見ているだけで癒される気分になる。僕もこういうポケモンとともに暮らしていけたら良いのにな、とつい思ってしまうほどである。しかしながら、あいにく僕の住んでいるところは賃貸のアパートであり、大家さんの方針でポケモンの飼育は禁止されている。人間とポケモンとが共に暮らすのがもはや当たり前となっている現在、こういうのは時代錯誤に思われるかもしれないが、ポケモンが人間の住居に居座るということに抵抗を持つ人が相変わらず多いのも事実である。ともあれ、僕は自宅でポケモンを飼うことなどできないために、ブログの様子を、ひいては記事を書いている人を半ば羨ましげに見ていた。
 もっとも、僕は生まれてこのかた一度もポケモンと直に接したことがない、というわけではない。まだ子どもだった頃、家族にポケモン園に連れていってもらったことが何度かある。また、学校にポケモンを連れてきていた人もいたので、その人と一緒にポケモンと触れ合っていたことも決して少なくはない。何よりも、僕の祖父母がエーフィを飼っていた。そのエーフィ、今は老衰のためにもう他界しているが、まだこの世にいたときは、僕たちが祖父母の家に行ったときによく一緒に遊んでいたものである。
 ただ、僕自身も、ポケモンと一緒に自宅でも暮らしたかったのだが、高校を卒業するまでの間は親に反対されていた。というのも、ポケモンを飼えるほどの財力がなかったためであり、致し方ない面は確かにあったのだが、当時の僕は納得できない気持ちでいっぱいだった。そのため、親から定期的に貰っていたお小遣いを貯めに貯めて、自分だけのポケモンを飼おうとしたこともある。それは一度は実行に移す直前まで行ったのだが、僕のヘマで親にバレてしまい、大目玉を食らってしまった。それ以来、しばらくは悶々とした日々を過ごしていたものである。
 そう言えば、と僕はタブレットを机の上に置き、そばにある小さな引き出し棚へと手を伸ばす。そして、少々埃を被っている棚の最下段をゆっくり引くと、奥底にただ一個のモンスターボールを見出す。そのモンスターボールはひどく黒ずんでおり、かなり年季が入っていることが見て取れる。これは、僕が大学生だった頃に使っていたものである。今からもう十年以上も前のことになるだろうか。もちろん、この中にはポケモンが入っていた。もっとも、そのポケモンはもう逃してしまっているのだが。
 そして、この黒ずんだモンスターボールに添えられたかのように、一枚の写真が置かれてあった。大学生だった僕と一緒に、当時飼っていたポケモンが映っていたのである。人間である僕ほどの身の丈はないものの、その独特の色合いのために存在感を放っている。これこそ、僕の大学時代の何よりの思い出と言っても良い。ポケモンと一緒に暮らすということが、ようやく叶ったのだから。
 それでは、せっかく得たものをどうして逃してしまったのか。理由はひどく単純である。仕事が多忙であるために、そのポケモンに構ってやれなくなったからだ。僕は、僕自身の生活を維持するので精一杯だった。そのためにポケモンに迷惑をかけてしまうくらいなら、いっそのこと、手放してしまった方が良いのではないか――そのように僕も思ったし、信頼している知り合いからもそう言われた。ポケモンの幸せを考えるのなら、これこそが最も妥当な選択だったのではないか、と今でも思う。この別れによって僕が寂しくないのかと言われれば、多少は寂しいかな、とは返すのだけれども、僕にも僕の生活がかかっているわけであるし、ポケモンにもポケモンの暮らしがある。離別は致し方のないものだったろう。
 ただ、どうしてだろう、この古ぼけたモンスターボールを眺めていたり、あるいはそばの写真を目にしていたままでいたりすると、悲哀に満ちた思いに駆られて仕方がなくなってくる。こんなことはなるべくなら思いたくないのだが、例えばもっと良い方法があったのではないか、もしくは別れなんてしなくても良かったのではないか、とすら思ってくる。そうすると、僕の胸の奥底が、なぜか熱くなってくるような気がした。
 しかしながら、ここで僕は首を振って落ち着きを取り戻す。今は、過去の思い出に浸っている場合ではない。連日続き行く仕事の疲れを癒すのが先決である。ポケモンとの暮らしなど、今の自分にできるわけもないのだし、無理に背伸びをしていては今後に確実に影響を及ぼすことになるだろう。昔の出来事は昔の出来事そのものに過ぎないと割り切って、今の自分の生活を維持することを優先しようではないか。
 僕は引き出しを閉めて目を逸らし、再びタブレット端末を手に取った。先ほどとは打って変わって、今度はグルメのページを開きつつ、週末の楽しみのことを考えていた。これくらいなら、何と言うことはない、仕事人として普通の暮らしぶりであるだろう。僕の生活は、こういうものでなくてはならないのだ。ポケモンなど、今の僕だったら持て余すだけになるに違いない。

  *

 結局、楽しみにしていた映画を観終わった後は、疲労と眠気に負けて熟睡してしまい、あっという間に朝を迎えた。窓から差し込んでくる光の眩しさに導かれるがごとく、僕は目覚めを迎える。机上の置き時計を見ると、すでに八時を過ぎていた。平日ならあまりの危うさに慌てている頃合いだが、この日は土曜である。特に急ぎの用事があるわけでもないし、焦燥感に駆られる要素はありはしない。そこで、僕はゆったりと身支度をして、外に出る準備を整えてゆく。とは言っても、特に行きたいところがあるわけではなかった。一方で、自宅に篭ってばかりいるというのはどうも気に入らない。寝起きのために冴えていない気分を入れ替えるだけでも、外に出る意義はあるというものである。
 僕の住んでいるアパートは都会に面した住宅街の一角にある。商業街の中心部までは、電車で三、四駅ほど、時間にしておよそ二十分だ。デパートやショッピングモールはまだ営業している時間帯ではないが、とりあえず大きな駅まで出かけて、周辺をぶらついてみるだけでも、ちょっとした時間潰しにはなるだろう。
 こうして、何かしら当てがあるわけでもなく最寄駅から電車に乗った僕は、目的の駅に着くまでぼうっと過ごしていた。目まぐるしく変わってゆく車外の風景も、既に幾度となく目にしているものであるが故に、あまり頭には入ってこない。センセーショナルな車内広告が所狭しと並んでいるが、どれもこれも興味を引くものではない。移動中、この時間がつまらなくて堪らないのである。だからこそ、僕の頭には、余計なことで頭がいっぱいになるのだ――例えば、もし隣に自分の大切な人、あるいはポケモンがいたら、どんなに楽しいだろうか、というようなことで。そんなことを思っていても仕方ないというのは僕自身よく分かっているつもりなのだが、人間の頭脳というのはよく分からぬものである。僕はただ、目をつぶるなどして何とかやり過ごすことくらいしかできそうにはなかった。その間、自然と湧き出てくる退屈さと戦いつつ。
 そんなことをやっているうちに、あっという間に十五分ほどが過ぎ、目的地の一つ前の駅を過ぎていった。あと数分もすれば、外を出歩いて気を紛らわすことができる。ということは、ポケモンについて考えなくても良いということにもなるのだ。僕自身は決してポケモンが嫌いというわけではないのだが、多忙の身であるし、身の丈にも合わないから、あまり考えない方が僕にとっては良いというのである。そうに決まっている。
 ただ、たまにポケモンを連れて電車に入ってくる人やポケモンと一緒に座席に座っている人を見ると、羨ましくて仕方なくなる。これは事実と言う他はない。ポケモンはどうしても僕の視線を釘付けにしてしまうのだ。例えば、ドアの近くの座席に五歳くらいの女の子とイーブイとが一緒に座っているのが見えるが、お互いに笑顔が絶えず、あの仲睦まじそうな様子は見ているこちらもとても微笑ましい。これだけなら何の変哲もない普通の感情であろう。だが、僕はこうも考える――あの子とポケモンはいったいどうして一緒に生活できているのだろう、などと。
 もしかすると、これほど気にするということは、僕自身、再びポケモンとの暮らしを望んでいるところがあるのかもしれない。とは言え、思い立ったら吉日の精神のごとく、一日や二日ですぐに実現できる、というものではない。第一、僕は多忙の身である。だから、ポケモンにまで手が回るはずはない。自分のことだけで精一杯だ。いくら願望が募ろうとも、ここは我慢しなければならない。これは人間として当然の責務なのではないかと思う。昨今、ワークライフバランスなるものが叫ばれているけれども、私生活の方にあまりにも重きを置くのは、少なくとも僕の性には合わない。もっとも、少しでも生活に余裕ができれば事情は違ってくるだろう。しかしながら、今は自分の生活を維持することを最優先しなければならないのだ。ポケモンと暮らそうなんて、僕には数年早い。
 結局、僕は車窓の外を眺めることくらいしかできなかった。そうすることで僕の気が少しでも紛れれば良かったのだが、なかなかそうもいきそうにはない。その辺り、どこかもどかしく感じた。
 目的の駅に到着すると、先に降りていった周りの人やポケモンの流れに沿って、僕も電車を後にする。喧騒な駅の構内の中を、僕はただひたすらくぐり抜け、改札口を通って駅前の大広場に出た。休日ということもあってか、人やポケモンの姿はそれなりに多い。特に催し物があるというわけでもないというのに、そこは駅と同じかそれ以上に大きな賑わいを見せていた。近場のコーヒーショップやハンバーガー屋ぐらいしか空いてなさそうな時間帯であるにもかかわらず、よくもまあ、こんなに一箇所に固まれるものだな、と思わず感心してしまう。同じようなことをやっている僕も僕だけれども。
 とりあえず、僕は行きつけのコーヒーショップに立ち寄ってみることにした。やはりと言うべきか、人やポケモンの数はそれなりに多い。あちらこちらで、様々な話題で談笑している様子が一目見て分かる。ただ、座れそうな席は僅かに残っていたから、僕は小さめのアイスコーヒーを注文して受け取った後に、目星を付けていたところに座ることにした。店の奥の一角に位置していたので、狭苦しいのは狭苦しいけれども、これはもうどうしようもなく、致し方ないというところか。
 ところで、僕はコーヒーショップという場所が好きだ。この空間においては、様々な人間やポケモンの生活の一端が見て取れる。せっかくの土曜日だと言うのに仕事に追われているらしきビジネスパーソンもいれば、オレンジジュースを美味しそうに飲んでいる子供を尻目に会話を楽しんでいる両親の姿も見える。かと思えば、初老の女性が二人、向かい合わせになるように腰掛けつつ、世間話や旦那と思しき人の話に夢中になっている様子も見受けられる。このような、日常生活の縮図が感じ取れる場所だからこそ、僕はここに通い詰めたくなるのだ。とは言え、別段、他人の人生の細かなところまで詮索する趣味は持ち合わせてはいないけれども。
 僕はアイスコーヒーを飲みながら、持ってきたカバンの中からスケジュール帳を取り出した。それも、A5サイズという割と大きなものである。何か急に予定がたくさん入ることになったらいけないと思い、こんなに大きなものにしたのだが、実際のところ、空白になっているところが多い。恐らくは多忙な生活が続いているせいで、プライベートでの予定の入りようがないのだ。こんなことなら、A6かB6くらいのものにしておくんだったかな、と後悔している。
 そのスケジュール帳の今週の部分を見る。何も書かれていない。取り組みたいことの一つや二つくらいあれば良いのに、そういうことすら書けていないのである。そこで僕はひとまずボールペンを取り出すと、今日の部分に気になっていることを書いておいた――何かしら時間の潰せそうなものを探したい、ということを。できることなら、なるべくお金のかからないものが良い。仕事が多忙である割に稼ぎはそんなに良くないし、いざという時のために少しくらいのお金は残しておきたいので、余計なことに使っていられるお金は、実際のところそんなに多くはない。限られた中で何とかしなければならないのは辛いけれども、こればかりはどうにもならない。
 さて、時間潰しになりそうなもの、いったい何があるだろうか。ポケモンを飼うというように、手がかかるものであっては困る。かと言って、他に思いつくものもない。例えばの話、映画でも観に行くのも悪くないけれども、あいにく、今は気になっている作品がない。DVDを借りて自宅で楽しむという手も考えられそうだが、僕の自宅の近所にはそのようなレンタルショップはない。ならば、読書はどうか。これだったら、少しくらいは何とか時間を過ごせそうだ。もっとも、それだけだとすぐに退屈してしまうから、他のこともやっておきたい。
 このように、ああでもない、こうでもない、と考えるのは時間の無駄のように思えるかもしれないが、こういう時間こそが僕にとっては必要なのではないかと考えている。というのも、無計画のままに行動することこそが一番良くないことだと思っているからである。
 さて、いったい何があるだろうか。

  *

 結局、結論という結論は出ないまま、僕はコーヒーショップを後にしてしまった。もう少し何かやりたかったのだが、考えがまとまらない以上、仕方がないと言わなければならない。ただ、時間はそろそろ十時前であり、近場のショッピングモールなどが開店する時間が近づいてきている。何とか時間を過ごせたという意味では、コーヒーショップに立ち寄って良かったと言えるだろう。
 この後、ショッピングモールの中を適当に歩き回るのも悪くはないだろうと思い、僕は入口にまで向かった。すると、人混みの中、僕の勤めている職場の先輩と鉢合わせになり、僕は驚いてしまった。
「よお、小坂じゃないか。こんなところで何やってるんだよ」
 先輩である男性の人は僕に向かって、右手を上げながら大声をあげる。
「山本さんこそ、どうなさったんです」
 僕は山本という人に近づきつつ、恐る恐る事情を尋ねてみる。
「俺か? 何か良いポケモンでもいないかと思ってさあ」
「ポケモン、ですか?」
「そうだ。ほら、お前も知ってるだろ、ポケモンショップが、つい最近、このショッピングモールの中にオープンしたってことを、さ」
「確かに、そうですね」
 僕は適当に聞き流しつつ相槌を打った。
 このポケモンショップというのは、文字通り、ペット用ポケモンを扱っている店のことである。ピカチュウやイーブイなど、比較的飼いやすいポケモンたちが、僕からすれば結構高額な値段で売られている。もちろん、外からポケモンの様子を見ることができるのだが、その様子がとても可愛らしいらしく、老若男女の目線を釘付けにしてなかなか離さない。そういうわけで、ショッピングモールの名物スポットの一つともなっている。
 ただ、僕は一つ疑問が湧いてきたので、山本に素直に訊くことにした。
「でも、山本さん、ポケモン飼ってませんでした?」
「そりゃあ、俺のヘンリーはまだ健在だよ。この後、彼と一緒に遊びに行くつもりでいるんだ。でもほら、ヘンリーよりももっと可愛いポケモンのことが恋しく愛しくなることだって、あるじゃないか」
 山本の言葉を耳に入れた僕は苦笑いするしかなかった。確かに彼の気持ちも分からなくもないけれども、それは山本の飼っているピジョンであるヘンリーには失礼ではないのか、と問いたいくらいだった。もちろん、実際には言葉にしなかったが。
「そう言えば、小坂はポケモンは飼っていないのか? お前からポケモンの話を聞いたことがないんだが」
 突然の質問に、僕は間隙を突かれた気がした。ポケモンのことを今でも気にしている、というのは職場ではほとんど言わないようにしているのだ。
「ええと、飼ってない、ですねえ……。自分のポケモンを持っている山本さんが羨ましいです」
 ひとまず僕は、嘘にならない範囲で自分の気持ちを簡単に述べるにとどめた。大丈夫、僕は嘘を言っていない――そのように自分に言い聞かせつつ。
「そうか。じゃあさ、せっかくだから俺とヘンリーに付き合ってもらおう。先輩からの命令だ」
「ええ、職権濫用じゃないですか、それ」
 山本の発言を耳にした途端、思わず僕は声をあげてしまう。僕のプライベートのことも考えて欲しいものである。
 一方で、特に何もすることがなかったということもあって、山本に断りを入れる理由は僕にはなかった。ここは彼の申し出を受ける方が、却って僕にとっては好都合だろう。そういうわけで、僕は仕方ない風を装いつつ、彼についてゆくことにしたのである。
 ちょうどその時だった。ショッピングモールの開店を告げるチャイムが鳴ったものだから、周りにいた人やポケモンが一斉に店の中へと入り出してゆく。その流れに沿うかのごとく、僕と山本も中に入り、目的のポケモンショップへと向かっていた。
 その店舗は比較的奥の方に位置していたが、ショッピングモール全体の雰囲気が開放感あふれるものであったからだろうか、別段目立たないというわけではない。それどころか、明らかにそこに向かっている人やポケモンもいくらか居るくらいである。実際、開店直後にもかかわらず、例の店舗には既に人だかりが出来上がっていた。目当てにしているのは、無論、分厚いガラスの向こうにいるたくさんの小さなポケモンである。ポケモンたちがそれぞれ思い思いの行動をとっているのだが、ただ一つ言えることがあるとすれば、道ゆく人に向かって愛嬌を振りまいているかのよう、という点である。特に、ガラスに前足ごと寄りかかっているあのイーブイ、自分のことをもっと見て欲しい、と言わんばかりである。
 山本はと言えば、集団の前の方に向かうなり、色とりどり、種類とりどりのポケモンたちに目移りしながら、様子を見守っていた。ガラス越しの光景に完全に目を奪われているようである。もともとこのポケモンたちは売り物ということもあるのだろうが、これだけ可愛いものばかりを目の前にしたら、誰だって今の山本のようになってしまうだろう。事実、僕も心惹かれる思いになりそうだった。買うつもりも飼うつもりも全くもってないのだが、野次馬のごとく観る分には一向に構わないだろう。
 それにしても、このポケモンたち、人間や彼らが連れているポケモンたちのことを怖がる素振りを全く見せず、怖いもの知らずだ。世話係であろう店員さんたちに対する様子を見るあたり、すっかり人に慣れてしまっている。おそらくは生まれたとき、それも卵から出てきたときからずっと人間たちのそばにいたのだろう。それが彼らのためになるかどうかはともかく、野生のものとはものすごくかけ離れた生活をしていると言って良い。
 ガラスの向こうにいるポケモンたちは、果たして幸せなのだろうか。僕が以前飼っていたものみたいに、無理やりにでも野生に帰した方が良いのではないか。ただ、今から彼らが野生に戻ったとして、生き延びることができるかどうかは甚だ疑問であるのだが。それでは、いったい、何が彼らにとって幸せなのだろうか。
 そんなことを思いながら、僕は後ろの方で山本の背中を、そして自分の飼い主の到来を今か今かと待ち構えている者たちを静かに見ていた。

  *

 確か十年ほど前のことだったと思う。僕が大学を卒業して、無事に就職しようという段階に入ったときのことだ。
 当時、僕は多忙な就職活動やその後始末に追われ、飼っていたポケモン、凛太郎《りんたろう》に構っていられる時間が全くなかった。本来であれば、休日を利用して戯れるなどすれば良かったのだが、そういうわけにもいかず、ずっとモンスターボールにしまいっ放しだったことも多かった。彼の気持ちなど、彼は全然考えてはいなかったのだ。ポケモンを飼う上での責任というものを、全く果たせてはいない状態である。
 そのことに僕は気づかざるを得なかった。親しい友人が、凛太郎を外に出さないことについて色々言ってくるのだ。もっと外に出してやった方が良いとか、もう少し遊んでやってみたらどうかとかいう言葉で。僕を追い詰める意図はその友人にはなかったのだろうが、その軽い気持ちで放たれた言葉によって、僕はずしりと責め立てられるような気分に陥ってしまった。そして、あることないこと考えてしまうわけである。
 僕はよく、責任感が強すぎると言われる。他者に関わることに、必要以上にくよくよと考えてしまうところがある、とも。僕にはそういう自覚はないし、責任感などに押し潰されそうにはなったこともない。ただ、考えすぎて疲れてしまうことなら、本当に幾度となく起こってしまう。頭の中であれやこれやと考えを巡らすこと自体はそれほど悪くないことだと思うのだが、それが自分の大きな負担になるようでは、やはり問題なわけである。こんな主人で申し訳ない、と凛太郎に対して謝りたくもなるくらいだ。
 凛太郎とまともに関わる時間をちっとも確保できていない以上、ポケモンの飼い主には全然向いていない――僕はそう考えないわけにはいかなかった。凛太郎なんて、所詮は僕の願望を満たしたかったがためだけに、僕の手のもとに招いただけの存在なのではないか。仮にそうだとしたら、彼が彼らしく生きる権利など、ありはしないも同然である。もう少し彼のことについて考えてやることができたら、こんなことにはならなかったはずだ。
 僕に凛太郎を飼う資格は、これっぽっちもなかった。だから、どうしても手放さざるを得なかったのである。本当に止むを得ないことだった――そのように、僕は割り切っていた。だから、彼とお別れする日を迎えても涙ひとつ流さなかったし、悲しさや悔しさなど、まるで起こりはしなかった。

  *

 僕が凛太郎を飼っていたという事実は、社会人になってからは誰一人として話したことがない。親はもちろんのこと、会社での知り合いにも一言も伝えてはいない。だから、今、僕の目の前でピジョンのヘンリーと仲睦まじく触れ合っている山本も、そういう僕の過去を知らないでいる。
 それでは、ポケモンに関する話題を他人から振られたとき、いったいどうしているのかと言えば、「興味はあるんだけど、飼う暇がなくてね」などと答えて、適当に流すことにしているだけだ。ポケモンの飼育にまつわる苦労話を詳しく持ち出すことはできないにせよ、時間がないというところに、だいたいの人は納得してくれる。もっとも、酒席などでは食い下がられる場面もあるけれども、そういうときでもポケモンを飼うこと自体に興味がない旨を述べれば、何とか理解は得られている。
 山本はどちらかと言えば自分たちが楽しければ良いと考えるタイプの人だから、僕がポケモンを持っていないということについて、あまり意に介していないようだった。ヘンリーとの時間を大事に過ごすことさえできれば、僕の状況はどちらでも良かったのかもしれない。ただ、僕が山本とヘンリーに付き添うことになった件については、少し理解に苦しむ。二人でいたいなら、わざわざ僕を招かなくても良いのに、なんて思ったりもする。
 僕たちは今、ショッピングモール内にあるポケモンとのふれあいスペースにいる。ここでは、自分の飼っているポケモンたちと戯れたり、ポケモンを遊具などで遊ばせることができたりする憩いの場だ。現在ポケモンを持っていない僕がここにお世話になることはほぼないと言って良いが、凛太郎がいた頃は似たような施設をよく利用していたものである。
 ヘンリーはよほど山本に懐いているのか、彼のそばを離れようとはしない。他のポケモンと遊んでくるように命じられても、そんなことは知らんぷりで、主人の顔を甘えたそうな目つきで見つめてばかりいるのだ。これには山本も少々困り顔を隠せず、人差し指で顔をぽりぽりと掻いているのだが、その様子が僕にとってはおかしくてたまらなかった。さすがに会社の先輩の前、思い切り吹き出しはしなかったけれども、こみ上げてくる笑いを何とか抑え込んでいたのである。
 普段は特にピジョンに愛おしさを感じるということなどないのだが、この時はなぜかこのピジョンがとても可愛く見えた。人間に慣れているからこその仕草を繰り返しているからかもしれないし、生来人懐っこい性格であるからこそもたらされるものかもしれない。いずれにせよ、このポケモンがちっともポケモンらしくないことだけは確かだと思う。本当ならば、人とこうやって直接関わることなく一生を終えるであろうはずの存在だ。こんなことを言うと山本に怒られそうだが、ピジョンのような普通の鳥ポケモンが人間のもとで一生を終えるのは、何だかもったいない気がするのである。そう感じていたからこそ、凛太郎を手放したわけなのだ。
 それにしても、山本とヘンリーの、実に仲睦まじい様子を見ていると、十年ほど前に凛太郎と過ごした日々のことが思い返されてならない。彼も、よく僕に擦り寄ってきてスキンシップを取ろうとしてきたものである。それも、全く周りの人目を気にすることなく近寄ってくるものだから、僕が対応に苦慮したこともしばしばである。そんなときは決まって、仲が良いんですね、と半ば冷やかされたように言われたものだ。
 ああ、いけない、いけない。とうの昔に過ぎ去ってしまった思い出に浸っている場合ではない。もう、僕のそばに凛太郎はいないのだ。既にいなくなってしまった者のことを思い返してみたところで、何ら益するものがあるというわけではない。もう、何の意味も、ありはしない。今は山本とヘンリーのことを見てやらなければいけないではないか。
 ヘンリーをこの目で見るのは今回が初めてというわけではない。実を言うと、会社の出勤日において、お昼の休憩時間中に、山本が外出して会社の近くの空き地でよくヘンリーと戯れているし(さすがにオフィス内で普通の鳥ポケモンであるピジョンを出すわけにはいかないのだ)、場合によっては僕も含めた後輩社員が付き合わされることもある。何でも、ヘンリーがどこかへ逃亡してしまわないように見張っておいてほしいということらしい。もっとも、今僕がまさに目にしているように、ヘンリーは山本にべったりしているから、このようなことはまずあり得ないと言わなければならないのだが。
 ヘンリーの山本に対するこのような態度や、山本のヘンリーへの溺愛ぶりは、僕たちが勤務している会社でも非常に有名になっている。もっとも、会社自体はそんなに大きくはないから、ほぼ全ての社員がこの有様を知っていると言わなければなるまい。そして、社員の中には、よほど興味があるのだろう、ヘンリーの様子について、本当にしつこいくらいに聞いてくる者もいる。こんなことを尋ねる方も尋ねる方だが、山本も山本で、嬉しそうに語ることを憚らない。ヘンリーとの出会いの話やら、彼との数々の思い出話やら、話が延々と続いていき、始業開始のベルが鳴るまでは、全くもってとどまることを知らない。僕はそのような話には興味がないから仔細のほどは記憶していないのであるが、話している方や直に聞いている方にとっては楽しいのであろう。
 ただ、山本に対するヘンリーの様子を見ていると、つい凛太郎のことを思い浮かべてしまうのは確かである。昔のことを、というよりそのポケモンのことをあまり思い出したくはないから、僕としては山本にはあまり関わりたくはない、というのが実情である。それでも、彼は先輩、僕は後輩だ。断りづらい間柄というものが、そこにはあった。



 試作品。一応この後の続きもある予定ですが、とりあえずこの辺で。(作者 ?

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Last-modified: 2017-07-30 (日) 00:42:07
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