ポケモン小説wiki
鳥の詩

/鳥の詩

Lem

 たとえ逢えなくても生きた証は物に宿る。

鳥の詩 


 恋をする度に人は壊れていく。

 人間を観察してひとつの結論に辿り着いた私の持論は煤を被る様に思考のあちこちへとへばりつき、人格を形成していく。
 払い落とそうと手を叩いても煤は広がるのみで、穢れを完全に除去するには己が消えるか他者で拭い取るかの二択しかない。
 主人は私でそれを拭い取りたがった。
 穢れを除去して新たな自分に生まれ変わりたかったのだろう。
 だが出来なかった。
 穢れも含めて全てを否定し、全てを放棄し、全てを新たに始めるには彼女は穢れすぎていた。
 私の倍以上は生きたであろう彼女が私一匹にどれだけの黒手を塗り込もうが、彼女の人格は決して白には戻らなかった。
 純粋であった気持ちは喪われた魂の残滓として点々と続く。
 まるで血痕の様に。
 その数が増え、やがて血溜まりとなり、最後には魂であった物が完全に融ける。
 主人であった物は床に溢れ落ち、今、最後の一滴が弾けて落涙した。
 それから先はもう何も起こらなかった。
 氷雨が窓辺を幾度となく叩き、隙間風が室内を氷室へと変えていく。
 腐敗の進行が遅れ、小さな部屋に一匹閉じ籠る私が救助されたのは正月が明けて暫くの事である。
 仕事にも電話にも出ない彼女を不審に思った同僚や両親が彼女を見つけた。
 ならば、彼女はまだ生きる気持ちも残していたかもしれない。
 何れでも無かった。
 彼女は数ヵ月前に離職し、両親も身寄りも無い天涯孤独の身であった。
 誰も彼女を気に止めることなく、一人が消えても気づかない無常の出来事へ足を踏み入れる者は限られている。
 赤いフード付きのパーカーを目深に被り、口許をマスクで隠す男の目が私と合った。

 そうして私は拐われた。
 その後彼女がどうなったのかは最早知る由もない。



 拐われた直後に兎の部屋は解体され、野良兎として男の後を着いている。
 男は気まぐれで檻から出したかっただけでその後は特に考えておらず、「自由になったなら何処へでも行っちまえ」と兎を外の世界へ追い出した。
 とはいえ行く宛もなく、見送りもせずにその場を立ち去る男を着いていくと「着いてくるな」と顔をしかめられた。
 犬でもないのに制止を促すべく突き出された片手を向けて後退る男を見守り、路地裏を折れるや颯爽と姿を消す。
 逃げるものを見れば追いたくなるのが人の性で、それは人だけでなく全ての獣にも共通性のある心の働きだった。
 追い掛け、路地裏を覗くが男の姿はない。
 兎を撒く自信が男にはあったのだろうがそれは対人ならではの話であり、動物の身体的特徴を男は考慮に入れてなかった。
 長い両耳をそばだてた兎がぬかるむ地面を踏む音をキャッチするや両足は既に加速化の途中にあり、踏み出した足跡からは摩擦で生じた小さな灯火が煙を燻らせ、ぽつぽつと順に鎮火していった。
 路地裏を抜け、高架下の間を潜り、完全に撒いたと思しき男の足が緩やかになる。
 荒く上下する呼吸を胸一杯に膨らませ、廃熱を繰り返して人心地を吐く。
 額を流れる汗を手の甲で拭い、再び歩行し始めるも直ぐに制止した。
「はぁ……分かったよ俺の敗けだ。着いてくるなら勝手にしろ」
 フェンスの上に座りながら器用に爪先だけで小石をリフティングする兎が勝ち誇った表情で男を見下ろしていた。
 降りてきた兎が男の側へ近づくと男は兎を値踏みする眼差しで眼球を動かし、その動きにあまり良い気持ちを感じなかったのか抗議の声が嘶いた。
「あー、分かったってジロジロ見るなって言いたいんだろ。悪かった謝る。ただ俺の拠点に迎え入れる前に確認したかっただけだよ。お前も急に自分のテリトリーに不審者が入ってきたら警戒するだろう?」
 言い訳を連々と述べる男の口車に兎が渋々と納得するや男は羽織っていたパーカーを脱ぎ始め、それを兎に突き出した。
 訳も分からず兎が首を傾げるその仕草の愛らしさよ。
「とりあえずそれを着ろ。暫くは俺の連れとして匿う以上身元の証明になる物が要るだろう」
 元来服を必要としない兎には男の唐突な条件を呑むにも一苦労で、袖を通す所か羽織っただけで自信満々に胸を張る兎へ頭を抱える男の今後の苦労が伺い知れた。
 悪態と溜め息を吐きつつ男がパーカーを広げ、兎に袖を通させるとジッパーを綴じる。
 冬毛で膨らんだ被毛を捲き込まないよう慎重に両手を使って閉じていくが、胸の辺りでつっかえてしまい、男が被毛を何とか押し込もうと力を込めた刹那、艶声を漏らす兎に驚いて手の動きが止まる。
 再び抗議の目が男に突き刺さった。
「……悪かった、謝る。頼むからそんな目で俺を見るな。お前達ポケモンは雌雄の区別が冗談抜きで難しいんだ」
 咄嗟に掲げた両手を下ろし、改めて着衣の具合を確める。
 半端に中断した為かやたらと胸を強調する綴じ具合になってしまい、何とも目のやり場に困るボディーラインが形成されてしまった。
 できれば微調整したい所だが、あんな後では男も躊躇いがちになるもので諦めて次の段階に移る事にした。
 ぴんと張った長耳を手折りつつ垂れたフードを引っ張り出して目深に被らせる。
「まぁそんなもんで良いだろう」
 フードから伸びた折れ耳は前髪の様にも見えるし、下半身の毛色もパーカーの色と併せてセットされたコーディネートに見えなくもない。
「最初に言っておく。これから拠点にお前を迎え入れるわけだが、あんまり派手には動くな。中の連中は基本的には悪い奴じゃあないが……その、あー、アレだ。女っ毛が無いんだ。そういう所にお前は入っていく。特にその胸だ。間違いなくその見た目は連中にとって毒にしかならねぇ。だからなるべく一人で彷徨くな。暫くは俺と一緒に行動しろ。……守れるな?」
 当然とでも言いたげの自信に溢れたポーズで肯定の意思を示す兎だが、男にはそれが心配なんだと言わんばかりの目で突き出された胸から視線を逸らした。
 兎に角着いてくる以上は男が面倒を見なければならない。
 こんな事になるなら助けなければ良かっただろうかと後悔の念に苛むものだが、男の表情にそれは見られなかった。
 やや長過ぎた袖ごと中の手を男が掴む。
 連なる高架下の石柱が通り過ぎる二人組を見る度に追風が吹く。
 口笛を口遊むが如く。



 *

 可愛いと可哀相は似ている。
 言葉の意味としては全くの別物ではあるのだが、本質を覗き見るとこの二つは共通点も親和性も高い。
 それが如実に顔を表すのは人が愛玩物を見る時の目で分かる。
 彼の言う通り拠点の連中の何人かがそういった目を向けてくるのを彼の背中越しに覗き見た。
 視線の海を遮るように彼が私を隠してくれるものの、背面に突き刺さる気配はあまり気持ちの良いものではない。
 抗議のつもりで威嚇を取りたくもなるが、先の彼の忠告通り目立つ行為は避けなければならない。
 ぐっと堪えて彼に手を引かれるまま人の海を泳いでいく。
 連々と建ち並ぶ小さな家屋の中で一際大きな建物の前で立ち止まり、彼が家主の名を呼びながらドアを叩く。
 小さく嗄れた声が入室を促し、背筋を逆撫でる不快感が遮断されてようやく落ち着いた。
「邪魔するぜ爺さん」
 土足のまま彼は奥の部屋へと私を引き連れ、半ば開け放しの戸を潜る。
 揺り椅子の上で一人の老人が眠るように揺られていた。
「唐突な話で悪いんだけどよ。訳アリで野良猫を拾っちまった。暫く俺の所に居着く事になるからそれだけ伝えに来た」
「ほう、お前さんがのう。珍しい事もあるもんじゃて。面倒事は嫌いだと抜かして何時も独りでいるのがお前さんの≪ぽりしぃ≫では無かったかのう?」
 からかう笑みを向ける老人へ罰が悪そうに言い訳する彼の姿は何処と無く親子にも似た雰囲気を想起させる。
「さて、お前さんはもう良い。そこの者を見せとくれ」
 言われるがままに彼は私を老人の前へと導く。
 対面して分かる事は和やかではあるものの濁った双眸は常に冷ややかであった。
「ふぅむ……のう、わしの目に狂いがなければこの者は猫ではなく兎の様にも見えるがのう」
「言葉の綾って奴だよ。説教は程々に頼む」
「この子がお前さんの求めた≪探し物≫かね?」
 老人の視線が彼へ流れ、つられて私も彼を見る。
「……いや、探し物は無かった。もう何処にも無いと言うことだけが分かった」
 誰とも目を合わせようとせず、彼は手荷物から手記を取り出して老人の膝へと放る。
 それには見覚えがあった。私の主人がよく愛用していた物で何かある度にそれを開いていた。
 胸ポケットから取り出した眼鏡を着ける老人の眼と指が手記へと滑る。
 彼の方は窓際へ移り、外の風景をぼんやりと眺めて呆けていた。
 どちらもそれぞれの世界に没頭してしまい、蚊帳の外に置かれる状況は酷く退屈で周囲を歩き回ってみたり調度品を眺めてみたりしたが、それも退屈しのぎにならないと分かると彼の側に寄り添う以外は何もすることが無かった。
 背を壁に預け、無常に流れる時へ翻弄されている内に私の意識も引き摺られていく。
 頁を捲る音だけが耳朶を打ち、規則的な変調が眠りを深く誘っていく。
 次に耳朶を打ったのは彼が窓際から降り、同じく壁に背を預けて座した。
 微睡みながら彼を覗き見ると「寝てろ」とだけ小さく促し、ずり落ちかけたフードを再び目深に直される。
 触れる掌から伝わる力強さは優しく、微睡みは再び夢の中へと誘われた。
 傍らに感じる体温と感触が消えている頃には陽が沈み、彼は老人と対面して何やら話し込んでいた。
 会話を止めるつもりは無かったのだが、彼が私の起床に気づいて切り上げてしまう。
 まるで私には聞かせたくない内容であるかの様に。
「お前さんの好きにするといい。ここに居着くのも去るのも自由。スラム街の良き一面じゃてな……手綱はしっかり掴むようにな」
「ああ、邪魔したな。もう二度と会わない事を願うぜ」
 踵を返す彼を慌てて追い掛ける。
 星明かりのひとつもない外は深淵が至る所に隠れ潜み、ドラム缶に廃材を燃やして暖を取る人がまばらに見えた。
 彼は明かりの方へは向かわず、人目を避ける様に路地裏を通っていく。
 慣れない道もあって度々躓きそうになるが、彼が掴む手を離す事はなく、幾つかの廃屋を抜けて彼の住処に到着した。
 老人やその他の連中が住んでいた通りとは違ってここは酷く寂れ、人が住まう気配は微塵も感じられない。
 だからこそ彼はここに隠れ住んでいるのだろうか。
 誰とも関り合わない様に、孤独を貫いて何かを探し求めて。
 その生き方はまるで私の主人と同じ──死に方を辿るのでは無いかと疑念が胸を締め付けた。
 無意識に彼の手を強く握り返すけれど、彼の手は直ぐに離れてしまう。
 布一枚を隔てるだけで彼はこんなにも容易く手離されるのか。
「……おい、あまりくっつくな。寒いのなら暖を点けてやるから離れろ。動き辛いだろう」
 こちらの意図が伝わらない。人間はどうしてこんなにも鈍感なのだろう。
 思えば主人も最初の頃はこんな感じで意志疎通が噛み合わなかった。
 直ぐ側に居るのに距離は酷く遠い関係性。
 彼もそうなのだろうか。
 そう──なるのだろうか。
 縒り集まってくる不安が周囲の闇と同化しつつある。
 そんなものは望まないし望みたくもない。
 彼が主人と同じ様にそう望むのなら彼には悪いけれど一蹴させて貰う。
 もうあの無力感を味わうのは嫌なのだ。
 独り閉じ籠る生活には戻りたくない。
 湿気で思うように着火できない彼を押し退け、私は胸中に満ちる泥炭を蹴りあげる。
 一瞬で火が点き、這い寄る闇が閃光を恐れて一目散に逃げ出していく。
 けれど完全に居なくなった訳ではない。
 火が消えれば奴等はすぐ私と彼を引き離そうとするだろう。
 火を──絶やしてはならない。
 私が火にならなければならない。
「やるじゃないか。この時期は火を点けるのも安定しないからな。お前が居てくれて助かった」
 かじかむ手を火に近づけ、腰を落ち着ける彼の側に私も倣って腰を下ろす──が。
「何でそんなにくっつきたがるんだお前は……火は点いただろう。離れてくれ」
 離れろと言いつつ自分から離れ、火の向かい側に移る彼へ不満をぶつける様に睨む。
「あー、分かったよ。腹が減ったんだな?」
 違う。と言いたい所だけどお腹が空いているのは事実だったので今日の所は退いてやる。
 遠い距離感なんてその気になれば飛び越せるし、彼が知らないのならばこの機会に教えてやるべきだ。

 兎は愛情深くてしつこい生き物だって事を。



 雪解が始まり、芽吹く新芽を食む獣、彼方では春告鳥が小枝の雪を払い落とす。
 高架下に覆われたスラム街では日中の陽は射さず、風雨だけが住民を慰めようと吹き荒ぶ。
 死の風に連れ拐われない様、火を焚べ続ける守り人が要されるこの地においては兎の存在は無視できるものでは無くなっていた。
 あれから三月が経ち、その間に兎が成した偉業は数知れず。
 曰く、区を巡る兎の通り道は陽の光が射したかの様に暖かく。
 曰く、病気で命を落とす者が減った。
 曰く、かの笑顔を向けられると今日を生きる活力が湧く。
 曰く、曰く、曰く──。
 然れど誰もが彼女こと兎の居所を知らない。
 それを知るのは兎が纏わり付いて腕を離さぬ男のみであった。
 兎を含めて男も此方の住民へと誘う者も居たが、男はそれを全て拒否した。
 兎は毎回男に「お前の好きにしろ」と選択肢を委ねられるが、男が去っていくと決まって後を追う。
 その関係性は他の誰もが割り込めるものでは無く、そういう間柄の彼等を尊く見守る者が後を絶たない。
 だが全てが全てにそうではなく、彼女を求めて喧嘩を吹っ掛けるならず者も少なからず存在する。
 あまりにも不躾な理不尽に反感を抱く一方でならず者が彼女を強く求める欲望もまた分からない訳では無かった。
 スラム街の連中にとって兎の美貌は癒しであると同時に毒でもある。
 脳内で兎を滅茶苦茶にしたいと夢想しなかった者はここには居ないだろう。
 断言しても良い。ここに住む者は全員裏に何かを含んでいる半端者の集まりなのだ。
 今日もまたならず者が兎を求めて拳を振るう。
 それを見守る男は決まってこう告げる。
「元々俺の所有物じゃない。欲しいならそいつと戦って力尽くで奪えば良い。それがこの街の≪ルール≫なんだろう? 俺はそいつに付き纏われているだけだ」
 そして人と獣の戦いが始まる。
 或いは野獣と美獣の戦いとも言うべきか。
 観戦者の間ではどちらが勝つか賭け事が繰り広げられ、双方が火花を散らしている間にどんどん賭金が釣り上がっていく。
 今日もまた街が歓喜の炎に包まれた。
 飛び交う声援と罵声の嵐の中で兎が勝利の勝鬨を吼え、敗者の頭を踏みつける。
 決着が着いたとみるや男は颯爽とその場を離れ、兎も男の行動原理を知り尽くした様に後を追い掛けていく。
 人の海が兎を求めて手を伸ばす。
 兎は軽やかに跳び、人の手を、頭を、肩を、くるりくるりと跳ねていく。
 そして人々は太陽を見失い、夜に備えて次の朝を待ち侘びる。



 *

 喧騒が遠ざかり、聴覚を便りに彼の足音を探る。
 探らずとも彼が住処へ戻るのならばその道順を辿るだけでも合流はできるだろう。
 そうしないのは彼にとってここでの暮らしは重要ではないという意志が少なからず感じられたからだ。
 その気になれば彼は私を置いてここを去っていく事も可能であり、実際に先の戦いでも観戦等せずに立ち去る事もできるのだ。
 そういうチャンスが過去に何度もあった。
 だから私は確実に彼を追う。
 二度と間違えない為に。
 心音の鼓動が早く彼を見つけろとせがむ。見つけるから少し大人しくしていて欲しい。
 目を瞑り、深く呼吸を整え、足取りを見つけては全力で駆ける。
 路地裏を抜け、廃屋の屋根を伝い、最短距離で彼を追う。
 その弾みで何かが燃え出すが知ったことではない。
 彼がこの暮らしを重要でないと感じる様に私もまた彼なしではここの暮らしに意味を成さない。
 足取りが近くなる。直ぐ下にいる。彼は廃屋を通って出ていく途中にある。
 彼を求め、嘶いた。
 高く、高く、なお高く。
「閑古鳥が鳴くとは言うが、そういう役割も受けたのか?」
 頭上を見上げる彼へ一寸の狂いなく飛び降りる。
 彼はそれを受ける──事はせず、一歩退く。
 土煙が上がり、彼の足跡を兎の足跡が強く踏み締め、上書きした。
 面倒臭そうに私の包容を受け入れる彼へ腕へ全身を頭を擦り付ける。
 身動がない彼の気遣いに甘えて堪能していると痺れを切らしたのか先とは打って変わった態度で私の頭を引き剥がす。
 もう少し良いだろうと再度身を寄せるが「帰るぞ」と呟かれては中断せざるを得ない。
 今日もあの住処で彼と暮らせる。
 それが確信できたなら大人しく彼の言うことを聞こう。
 鴉色のコートに手を突っ込む彼の腕に我が身を絡ませて帰路に着く。
「離れろ、歩きにくい」
 口調はいつものだが、手を振り払う事はしない彼の嘘を見抜く。
 そういう時は言うことを聞かず、私のワガママを貫くのだ。
 手綱はしっかり掴むものだと先人が教えてくれたのだから。



 △年◯月□日 (土)

 この手記を見つけてから三月が経った。
 俺の探し物はもうこの世に無く、姉を知る手掛かりはこれと姉が飼育していたと思しき兎だけだ。
 生き別れの姉がいると孤児院のシスターが漏らした情報を鵜呑みに長年旅を続けたが、こんな結末を誰が予測しただろう。
 後一年早く逢うことが出来ていたら結末はまた違っていたのだろうか。
 手記を読み解くに姉は心をやられていた。
 数多の男に心を許し、同じ数だけ裏切られた。
 他人を信じない俺とは違って姉は何処までも他人に尽くす奉仕精神の塊だったらしい。
 一度裏切られたのに何故二度三度と同じことを繰り返すのか、俺には全く理解できなかった。
 あの兎もそういう流れで姉に貢がれた物らしい。
 今でも思い出す。
 頚を吊ってぶら下がるその光景を。
 手記を見つけ、その傍らに転がる兎の小部屋を。
 その時俺の頭に疑念が浮かんだ。
 姉は自殺したのか、殺されたのか。
 姉だと確信する要素はまだ分からなかった。
 分からなかったからこそ、俺はその場を逃げるように離れた。
 手記と、兎を、連れ出して。
 空き家を離れ、ふと手元の兎と目が合った。
 何故中に閉じ込められているのかは分からなかったが、あれこれを弄っている内に眩い輝きを伴って外へと解放された兎を見て安堵し、小部屋はもう不要だと判断して力任せに引き千切った。
 そして突き放して後は独り生きていく。
 そういうつもりであったのに何の因果かこうして付き纏われている。
 一度は逃げたが、兎は先回りして俺を待ち構えていた。
 これは逃げられないと直ぐに諦め、兎の好きにさせることにした。
 情報、仮の住処の提供者へ一先ず報告する為、兎に俺の服を貸す。
 この時に牝だと分かる。やりにくい事この上ない。
 こちらの話を理解しているのかはいまいち確信が持てないが、とりあえず下手に暴れないよう手をしっかり繋いで老人の下へ向かう。
 案の定スラムの住民は喜色満面の声で溢れ、苛立ちを覚えるが無視した。
 老人と話を通し、手記を見せる。
 その間俺は自分の心の整理に空を見つめる。
 高架橋に塞がれ、空一つ見えない人工の景色は心に何も響かず、思考停止も相まって何一つ進展しなかった。
 景色を見るのも飽きてきたので意識を部屋に戻すと傍らで兎が眠っていた。
 確か側を離れるなとかそんなことを言った様な気がする。
 律儀なものだと心の中で褒め、自分も腰を下ろして老人の読了を待つ。
 弾みで兎が起きたが、相手をするのは面倒なのでそのまま寝かしつける。
 暫くして老人が感想を述べた。
 兎を起こさないようそっと離れる。床の軋みで目覚めるかと思ったが意外と目覚めない。疲れているのかもしれなかった。
 老人の話から判明した事実として俺と姉は確かな姉弟だと言うことだった。
 兎を解放したあの小部屋はセキュリティーロックが掛けられ、本人のDNA情報がなければ開かない。
 だが必ずしも本人である必要はなく、血の繋がりが一定量確認できる情報さえあれば開くものらしい。
 これは本人が不慮の事故により開けなくなった等の二重事故を防ぐ対策としてそういう緩みを残しているという。
 今回はそれが俺と姉の血縁証明に繋がった。
 知りたくもない事実を知り、寄る辺を喪い、俺の手元に残ったのは手記と兎だけだった。
 感傷に打ち拉がれている間に兎が目覚めた。
 こいつはこれからどうしたいのだろうか。
 俺はもう何も分からない。
 だが兎は何も関係がない。自由にさせ、解放するのが最良なのかもしれない。
 必要な情報はもう不要になった。
 老人に別れを告げ、兎を見送ったら俺も何処かへ消えよう。
 宛もなく彷徨っている内に自分の答えは見つかるだろうか。
 老人の家を出ていき、本来の仮住処とは真逆の方角へ進む。
 ここを抜けた先には森だけが続いているという。
 高架橋の影響が及ばない未開拓の土地がそこには広がっている。
 そこに辿り着けば兎は帰ることができるかもしれない。
 そう信じて瓦礫の道を突き進んでいくが、何処まで行っても廃屋だけが広がり続けていた。
 夜通し歩くにはあまりにも先が見えなさすぎた。
 ふらつく足を止め、手近な廃屋に身を寄せて一晩を過ごす。
 そこら中に転がる廃材をかき集めて火を点けようとするが、寒さで手が悴んで上手くいかない。
 苦戦する俺を押し退け、兎が廃材を蹴り上げた。
 一瞬で火が点き、俺とは違う強さを兎に見た。
 何があっても独りでも生きていけるだろう。
 根拠はない。弱った状態が故の希望的観測かもしれない。
 暖をとり、混濁する意識を隅に置くと兎が側に貼り付いた。
 何故こいつはこうしてくっつきたがるのか。
 悪態を吐いて自分から離れると何故か睨まれた。
 飯が欲しいのだろうとその時は思い、バックパックから食料を幾つか取り出す。
 兎は何を食べるのか。
 手当たり次第に食べ物を差し出してみるがどれも手に取ろうとはしない。
 腹が減った訳では無いのだろうか?
 仕方無く自分でそれらを食べ始めると唐突に兎が寄ってくる。
 訳も分からず固まっていると兎が俺を口食み、口腔の咀嚼物を奪われた。
 言葉は分からないが「旨い!」と言っていたのかもしれない。
 これが兎の習性なのだろうか?
 絶対に違うとは確信を持って言いきれず、その後も流されるままに兎に給餌を続けた。
 これは今も続いており、時々兎の方から俺に給餌行為を強制してくる時がある。
 この行為にどんな意味があるのかは全く分からない。
 一夜が過ぎ、また一夜が過ぎ、そうして繰り返す内にスラム街は妙な噂で持ちきりになっていた。
 この兎は何かと人を惹き付ける妙な魔力がある。
 他人と関わりたくない俺には正直さっさと厄介払いしたいという気持ちもあるのだが、それをこの兎は許さない。
 何があっても着いてくる。
 何処まで逃げても着いてく──
 
「日記を書く間はせめて邪魔しないでくれないか」
 膝から急に生えてきた兎の頭頂部に阻まれ、手記の続きが半端になった。
 兎のスキンシップが激しいのはいつもの事だが、今日は一段と激しい。もとい熱い。
 熱があるのかと額に手を当てる。
 掻き上げた耳がフードを跳ね返し、露になった兎の双眸は妖しげに輝いて男に体を擦り寄わせる。
 今の兎は普通じゃない。
 そう判断する頃にはもう遅かった。
 男はいつも兎に先を越されるのだから。



 *

 恋をする度に人は壊れていく。
 人間観察を続ける内に至った持論を修正する必要があった。
 人だけに限らずあらゆる生物もその対象と成り得た。
 現に私は今、彼を目前にして、彼に触れて、壊れ出している。
 今なら主人の行動原理が良く分かる。
 裏切られても傷ついても自分がそれを欲したなら過去は全て無意味になる。
 全てを投げ出し、目先の物を欲する。
 子供の様な意地を残す彼を、主人の真似事をして育ててきた。
 ふらりと消える危なっかしい彼を温め、腹を満たし、決して放さない意思を込めて手を掴み続けた。
 その様子を羨ましげに妬ましげに見入る彼以外の男衆が私を幾度も招き入れる。
 彼等も育ててあげたいけれどそうすると彼は消えてしまう。
 彼は他人と一つになることができない子供だから。
 子供を捨てていくなんて母親失格でしょう。
 だから彼等にはお別れをしたり駄々をこねる子には尻を蹴り、独り立ちを促した。
 そんな生活を続けていると心境の変化も着いてくる。
 彼は子供だけど身体は大人。
 頭の何処かでその部分を区切って子供という面だけを見ている自分に気付いた。
 何時しか彼を子供ではないという認識が大きくなっていく。
 例えば、用を足す時。濡らした布で体を拭く時。廃材から使えそうな物を漁る時。
 そういう何気無い行動の一つ一つが私の歪みを是正し、本来の在り方を思い出させた。
 本能が、魂に刻まれた記憶が、私のするべき事を後押しした。
 兎は自分が望めば何時でも子を産める様に身体を作り替えられる。
 今がその時だと私の身体が疼いている。
 そうした予兆はこれまでに度々あったが、もう我慢の限界に近かった。
 先の戦いで激しく暴れ、熱を帯びた私の身体は冷める事なく燻り続け、そして鈍感な子供に真実を突き付ける。
 貴方はもう子供じゃないの。大人として在るべき形を取り戻して、と。
 いつも伝わらない私の言葉を耳朶に乗せ、彼の真意を図っていく。
 彼は──困惑したまま動かなかった。
 ここまで鈍感な子供は少し痛い目に遭って貰うべきだろう。
 親はいつまでも甘くはない事を骨身に叩き込まなければならない。
 身動ぎしない彼へ飛び付くように私はパーカーの裾を限界まで広げ、彼を腹の中へと吸収する。
 突然の状況にパニックを起こしてか彼が暴れだし、頭を、肩を、腰を、回した両手足を使って全力で固定する。
 彼が大人であろうが子供であろうが関係無い膂力はたちまちに彼を無力化し、柔毛の胸肉に彼の顔を押し込める。
 彼の右手が胸肉を鷲掴み、柔毛が押し潰されて本来の胸を刺激する。
 呼吸と共に艶声が溢れ、彼の手指がより一層胸に食い込んだ。
 手汗が滲み、乳頭が彼の掌に触れただけで私の身体は果ててしまった。
 彼をきつく抱き締めてしまい、呼吸が困難になっていやしないかと慌てて力を緩める。
 不意に彼の頭が脇にずれ、剥き出しの乳房に彼の口が吸い付いた。
 言葉にならない快感が全身を走り抜け、またしても彼をきつく抱き締めてしまう。
 構わず吸い続ける彼の姿は授乳を彷彿とさせ、子供から幼児へ、乳児へ逆戻りしているかのようだ。
 吸われる快感、抱き合う熱、擦れ違う思いが、全てが噛み合った。
 そう感じさせる多幸感が頭から胸へ、腹へと流れて満たされていく。
 けれどまだ完全では無かった。
 腹より奥が、彼が入り口を抉じ開けない限りは全身に行き届かない。
 焦れったくなり、腰を、両足をくねらせて彼に陰唇を擦り付ける。
 それでも彼には届かない。
 隔てた布が彼を被い、私を拒んでいく。
 切なく、苦しく、辛く、儚げな詩が口許から漏れ、涙腺から湧き出す雫が双眸の乾きを濡らしていく。
 乳児のまま戻らない彼へいっそこのまま腹の中へ納め、永遠に綾し続けるのも良いかと諦観に至ったその時。
 彼の左手が、指先が金属音を伴って衣を押し下げ、焦がれる形を剥き出した。
 押し付けられた彼の陰茎が下腹部の被毛を押し潰し、流れる血潮の昂りを主張する。
 意識は混濁化し、明確な本能よりの命令が身体を動かしていく。
 彼が腰を振る。先の私の動きを模倣するように。
 何度も、何度も、何度も同じ動きを繰り返す。
 けれど彼の陰茎は納められるべき部位には至らず、被毛の上へ吐き出された。
 熱く震える彼を感じる一方で満たされない疼きに気を狂わせ、彼が果ててもなお腰の動きを止めなかった。止められなかった。
 ひたすらに彼を貪りたい衝動に突き動かされて両足を重ね続ける。
 再び耳朶を打つ金属音が弾けた。
 彼を塞き止めていた赤い膜が破れ、彼の背が下界へ産み出された。
 僅かに離れていく感触が無性に恐ろしくなり、彼の頭への拘束を緩めず掻き抱いた。
 構わず彼は私ごと全身を使って身を起こしていく。
 嫌、離れないで。離さないで。
 そんな切望も瞬く間に裏切られた。
 下腹部を貫く肉の快楽に思考回路は一瞬で焼き切られ、呼吸さえも忘れてぱくり、ぱくりと口が開く。
 対面する彼の舌が侵入してきた。
 上も下も肉で満たされた快楽欲求が互いを求め、吸い食み合う。
 給餌をさせて、させられる。
 痛みを感じる前に狂いかけたせいか、今になって全身が冷える程の不快感に打ち震えていると彼の手が背中を擦り、力強くも優しい包容力で包んでくれる。
 次第に下腹部を熱が帯び始め、疼きが強まり、堪らず埋める彼の肉ごと締め上げる。
 不意に襲い掛かる快楽に背筋を伸ばす程に震える彼は上の口を解いた。
 舌が縺れ合い、伸びる唾液が惜し気に繋がりを主張するも、絡む糸は徐々に引力に引かれ、未だ繋がる口の間へ落ちた。
 彼の目を見る。
 濁りも無い子供の様な煌めきが見えた。
 その先に写る自分の姿は母親ではなくひとつの牝として産まれ落ちた姿があった。


 
 △年◯月□日 (日)

 ここまで何かがあった。
 それを記録する為に手記は存在する。
 しかしいざ文字に書き起こそうとするとどう書けばいいのか分からない。
 あまりにも衝撃的な事態に直面すると人は落ち着く時間を経ない限りそれを言葉にすることは難しい。
 姉の事もそうだった。
 三月が経って俺はようやく筆を取る気持ちになった。
 だから今回の事も直ぐには言葉にできないのだろう。
 けれど直ぐに書き起こさないといけない。
 嫌なことは何時までも覚えているのに、良いことは直ぐに忘れてしまう。
 どうして逆に出来ていないのだろう。
 この世界は理不尽だらけだ。
 理不尽だらけの中で俺はどうにか生きている。
 赤子の様に身体を貼りつかせ、決して手を離さない。
 自分以外の心音が、体温が、異なる命の繋がりが。
 きっと生きる意味を見つけるだろう。



 後書

 仮面外すの忘れてて今更ながら後書を書いています。
 毎度の事ながら当時どんな気持ちで書いてたんでしょうね。
 なんかこうじゃないああじゃないで最終日に全没にして半日で一から書き直しては間に合わせ、後日死んでたという空白の記憶しか残っていません。
 間が空きすぎたのだ……。

 これまでの作品を見返していくとどうにも私の書く物語は昏いお話が多く、結末もハッピーエンドとは程遠いメリーバッドエンドに着地しがちですね。
 そういう傾向になりがちなのは自分の生い立ちの根幹にある『不幸の中の小さな幸せ』を軸として書いている為、どうやっても似たような展開を繰り返してしまうようです。
 そういう心情を描く事しかできない物書きですがいつも読んでくださってる皆様のご声援はとても励みになります。

 大変遅くなりましたが主催者様、参加者の方々、読者の方々、投票してくれた方へ。お疲れ様でした。

コメントはありません。 Comments/鳥の詩 ?

お名前:

トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2021-05-04 (火) 11:59:10
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.