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飲みかけの紅茶は冷めていた
沸騰したケトルが湯気を吹き出す。ピクリ、反応した尾が跳ねるが、それを咎める者は今は誰もいない。
そっと自身の手に合わせて作られた……あの子には大きすぎる取っ手を持ち、まずはポットとカップにお湯を注ぎ、温める。一度お湯を捨ててから冷めないうちに茶葉を2杯、すぐに蓋をして蒸らす。十分に染み出したら二つのカップに均一になるよう回し注ぐ。ベスト・ドロップまでしっかりと。
「よし、今日も完璧ですね」
我ながら今日の紅茶の出来は自信作だった。いつもならこの後は静かなティータイムになるはずなのだが。今日は二匹分の紅茶。だって、たぶんそろそろ、きっと。
「おーい、ウィンター! いいもの手に入ったんだ、開けてくれよー!」
玄関の窓から、元気な高い声と小さな白い手が覗く。ベストタイミングだ。
「はいはい、丁度紅茶が出来ていますよ。シンディ、どうぞ」
シンディと呼ばれた小柄な赤いたてがみが、小さなポシェットを持って部屋に飛び込む。
長いまつ毛のような目元にスラリと流れる耳。小さくて可愛らしい白い上半身と反対に、しっかりと肉の付いたオレンジの太もも。今日も綺麗で可愛い。
「どうしたんだ、こっちをジロジロ見て? もしかして頭に葉っぱでもついてるのか?」
「い、いえ、なんでもないですよ。さ、こちらへどうぞ」
危ない危ない、いつも悟られないようさりげなく見ているつもりなのだが、どうしても彼女の可愛らしさには見惚れてしまう。昔からの悪い癖だ。
「ま、いいか。よぅし、ウィンターの淹れる紅茶はうまいんだよな、いただきまーす!」
そう言いながら彼女は紅茶に容赦なく角砂糖をどぼどぼ入れていく。本当は紅茶本来の風味を味わってほしいとも思うのだが、彼女が美味しく飲んでくれるのなら、それでもいいかと納得してしまう。
「それで、掘り出し物市では目ぼしい物は見つかったんですか?」
「あぁ、面白そうな物がみつかったぜ! 今出すから待っててな」
彼女は今日、掘り出し物市に行くと言っていた。なんでも異国の行商人が様々な珍品を売りに出すそうで、楽しそうな物が手に入るかもと彼女はここ数日浮足立っていたのだ。
そして、彼女が小さなポシェットから取り出したのは。
「……、指輪?」
「うん! 遠投の腕輪って言うんだってさ!」
テーブルの上に出されたのは、金色に青い宝石の装飾があしらわれた豪華な腕輪だった。
「投げたものが遠くまで飛ぶようになるんだって。凄くない?」
「ふむ……。どれ、試してみましょうか」
腕輪を受け取り……自分の腕につけるには手が大きすぎたので指輪のようにはめて、テーブルの片隅にあったティッシュをくしゃくしゃに丸めて、放る。
それはゴミ箱を目掛けて放物線を描……かずに、そのまま斜め上へ飛んでいき、壁をすり抜け、消えていった。
「うぉおお本当にどこまでも飛んで行ったぁ!」
「いや飛んだとかいう話じゃないですよ壁抜けていきましたよ!!?」
これならどうだと、数度試してみたが、どんなに優しく投げてもどこまでも、文字通り全てをすり抜けて飛んで行った。
理解できない。1ミリも理解できなかったが、彼女が楽しそうにしているので良しとした。
さて、このおもちゃをどうしたものかと首をひねったところで、彼女がぽんと手をたたいた。
「オレわかった! ウィンターウィンター、ちょっとこっち来てこっち向いて!」
「はいはい、こうですか?」
「んーと……もうちょっとかがんで……そう! そのまま! あとその腕輪ちょうだい!」
「ええ、どうぞ」
彼女に誘導されるがままにしゃがむと、目の前には彼女の後頭部が、ふとしたら鼻先が触れてしまいそうな状態だった。
心なしか良い匂いがするような気がするのは……さすがにバレていないよね? なんて、うつつを抜かしているうちに彼女は腕輪をはめ、小さな手の中に角砂糖が一つ。
「これを……こうっ!」
そういうと、彼女は角砂糖を己の口に放り込んだ。私に見えたのは、彼女の後頭部から角砂糖が突然現れ口の中いっぱいに甘味を広げていったのち、何処かへと飛び去って行く感触だった。
「どうどう!? ウィンターも味感じた?」
「ええ、甘かったです」
「よっしゃぁー! これで一つの角砂糖で二人分の甘さを感じられるってことよ!」
「いや、そもそも角砂糖はそのまま食べるものじゃないです。こんなもの、他に使い道なんて……まてよ」
実験が成功に終わり調子に乗った彼女は、角砂糖をリフティングしてかえんボールを作って遊び始めていた。……遠投の腕輪を付けたままの彼女のそれは、燃えながらはるか彼方へ飛んで行ったが。壁には当たっても燃えたりせずにすり抜けるだけだったのは幸いか。
一方私は気になることが一つ、口元に食べ物を通り抜けさせるだけで実際に食べたような感覚を味わえるということは……。
「シンディ、良いことを思いつきました。その腕輪を貸してください」
「んぁ、……はい。今度はなにをするんだ?」
腕輪を受け取り装備。そして台所から取り出すのは「タウリン」。以前彼女のために買って来たものの、一口舐めて「まずい!」っと叫んだきり飲み干してくれずじまいだったのだ。
「おい、それってもしかしてタウリンじゃないのか? オ、オレは絶対飲まないからな?」
「ええ、そのタウリンです。大丈夫、これなら飲ませずとも口に当てるだけでいいんですから。まずいのも一瞬だけですよ」
彼女が逃げる隙を与えずにねらいうち。水鉄砲に勢い良く発射されたタウリンは彼女の頬をすり抜け、やはりそのまま何処かへ飛び去って行った。
「うぇぇ……やっぱりまずいじゃんかよぅ……」
「貴女が強くなるためには必要な栄養なんですから、しっかり味わってくださいね。……それともパワーリストを付けて筋トレでもしますか?」
「うっ、それもしんどい……いや、でも、それでサッカーが上手くなるなら頑張れる、かも」
「おや、いい返事ですね。では早速明日からの訓練メニューを考えておきましょうか」
「いきなり明日からぁ!? まぁ、いいけどさ……お手柔らかに頼むぜ?」
話の流れはシンディのサッカートレーニングの話に移り変わり、ちょっと遊ばれただけの遠投の腕輪はそっちのけで、訓練メニューの作成に取り掛かる。
彼女の身体の事は良く分かっているつもりだ。私なら彼女に最適なメニューを出すことができるだろう。
「な、なぁ、そのプランクってやつ、もうちょい減らせない?」
「いいえ、姿勢の整ったシュートを打つには体幹が重要です。プランクは1セット追加にしておきますね」
「うげっ! 余計な事言うんじゃなかった……」
あーだこーだと言い合いながら訓練メニューが出来上がっていく。これで明日からの訓練はより効率的なサッカーの訓練になるだろう。
「出来ました。明日からこのメニューで訓練していきましょう」
「……本当にこの量をやっていくのか?」
「はい。大丈夫ですよ、私が見ていてあげますから」
「それじゃあ、まぁ、がんばるか……!」
彼女がサッカーを頑張る姿を純粋に応援したい気持ちは強くある。……彼女が薄いウェアで汗を流す姿というものに若干の下心がないかと言われたら、なくはないのだが。
「ところで、この買って来た腕輪、いったいどうするんですか?」
「さぁ……? そのうちまた使う機会があるんじゃないか?」
私は知っている、こういうものは大抵戸棚にしまい込まれてすぐに忘れ去られてしまうものだ。ただ、こうして一度でも彼女の楽しめるおもちゃになれたのなら、それで十分だと思う。
「せっかくだから、この腕輪はウィンターが預かっててくれよ。また面白そうな遊び見つけたら楽しみたいからさ」
「はいはい、あんまり変な事には使わないでくださいよ?」
受け取った腕輪を適当な棚にしまうと、ふと、辺りが夜を迎えようとしていることに気が付いた。だいぶ話に夢中になってしまっていたのだろう。
「さて、シンディ。そろそろ暗くなってきましたし、今日はもう解散にしましょう?」
「えっもうこんな時間!? もうウィンターとお別れかぁ……もう少し一緒に居ちゃダメ?」
片思いの、しかも思わせぶりな可愛い雌を、自分の家に連れ込んで夜も一緒に過ごすだなんて、今の私にはとても耐えられるものではない。かろうじて残った理性を呼び出して、なんとか彼女に帰ってもらおうと試みる。
「うっ……ほら、明日も会えますし、夜道は危険ですから、ね?」
「わ、わかったよぅ。じゃあ、また明日な!」
「ええ、またあした」
無事に危機を乗り越え、一息ついてテーブルに戻ると、さっき自分に淹れた紅茶はすっかり冷めていた。