雪のちらつく冬の日のことだった。
タブンネのキットは、雪を溶かしてしまわんばかりの憤怒に頭を沸騰させながら、繁華街を歩いていた。
「雌なんてクズばっかりだ」
三ヶ月前に交際を始めたばかりの雌だった。出来心で首を縦に振ったキットにも責任はなかったとは言えないが、ろくな雌ではなかった。一日でも会えないと怒る、要求が通らないと怒る、アクセサリーに気づかないと怒る、気づいても似合っていないなどと言おうものなら怒る。あのオコリザルめ。そんなに怒るならなんだって告白なんぞしてきやがったんだ。散々振り回されることにうんざりして、ついさっき別れ話を持ち出したら最初から俺なんかに興味はなかったなどと抜かしやがった。要するに誰でもよかったんだ。ぶちギレたサルは街の真ん中でやかましいことこの上なく、通行人に警察を呼ばれ、駆けつけたウインディの警察官をぶん殴ったサルは公務執行妨害罪で現行犯逮捕され、キットも事情聴取で二時間も拘束された。
とんだとばっちりからようやく解放されて、今に至るというわけである。
とりあえずうまいもんでも食って頭を冷やすか。
飲食店の並ぶ道の両脇に目をやりながら考えるが、このあたりは普段のデートコースになっていてどの店を見ても忌ま忌ましいことにあのサルの顔が出てくる。とてもこんな所で食事をする気にはなれなかった。
足は自然と繁華街を避け、人気のない方へと離れてゆく。少し入っただけでとても静かだ。案外こういうところにあまり知られていない穴場の喫茶店なんかがあったりするかもしれない。
――ついていない日はとことんついていないらしい。
ついさっき元交際相手のせいで面倒に巻き込まれたところだというのに、今またしても目の前に厄介事が転がっている。
倒れている、というべきか。
「チッ……なんなんだよ」
雌という生物に腸を煮え繰り返らせているところへきてまた雌だ。というのも、倒れていたのがユキメノコだったから性別を確かめるまでもない。うんざりする気持ちもあったが、職業柄無視するわけにもいかない。
「おいあんた、大丈夫かよ?」
返事はない。キットは地面に突っ伏しているユキメノコの傍らに屈み込んで、怪我はないか、呼吸はどうか、心拍はどうか、手早く確かめた。
「ちっ」
目立った外傷はなく呼吸も心拍も異常はない。結論としては眠っているだけだった。が、体の至るところに変な粉が付着していた。
「おい、起きろ」
不本意ではあったがユキメノコの体を揺すった。これは間違いなく眠り粉かキノコの胞子だ。強盗にでも遭ったのだろう。
「う、ん……? キミは……?」
「いいかよく聞け。俺のことなんてこの際どうでもいい。あんた誰かに眠らされたろ。何か覚えてないのか」
「誰かに……そう、そうだわ。突然キノコの胞子を振りかけられて……」
「どんな奴だったんだ」
「キノガッサの雌。三十代くらい……持っていた鞄ごと盗られたみたい」
また雌か。本当に近頃の雌にはロクなやつがいやがらねえ。
「くそ。警察に連絡するっきゃねえよな……」
さっきのウインディの顔が頭を過ぎって嫌になったが、ここまで乗りかかった船を途中で降りるわけにもいかない。
キットは近くの店で電話を借りて、警察に連絡した。案の定駆け付けたウインディに変な顔をされて、事情を説明するのに無駄な苦労をすることになった。
その後ユキメノコと二匹で犯人を探し回ったが、結局見つからぬまま日が暮れてしまう。
「胸糞
「ごめんなさい。こんなことに付き合ってもらって」
「あんたが謝ることじゃねえだろ。そのカスみてえなキノコのオバハンがクソなんだよ」
「ふふふっ」
「何がおかしいんだよ」
「キミ、可愛い顔をしているのに随分と汚い言葉を使うのね」
「るせえ。今日の俺は機嫌が悪いんだ。あと可愛いとか言うな」
「そうだ、キミの名前を聞き損ねたままだったわ。お姉さんはユキっていうのだけれど、キミは?」
俺の抗議を無視した上に、子供扱いしてきやがる。あのサルに比べたら三百倍はマシだが、苦手なタイプの雌だ。なんだってこんなのを助けることになってしまったのか。
「俺はキット。この町で看護師をしてる……見習いだけど」
「あら、奇遇」
「ああ? あんたも看護師なのか」
「いいえ。私は医者よ」
「あーそう。それでか」
医者というやつは人を何も知らない子供みたいに思っている節がある。
「お医者さんは嫌い?」
「ああ。大嫌いだよ。特にあんたみたいなのがな」
「ウーン。何か気に障ったかしら……」
ええい腹の立つ。そのお姉さんぶった態度をやめろと言っているんだ。かといってあのサルのせいで、年下の雌に対しても心証は非常によろしくないのであるが。とにかく俺は、振り回されるのだけは嫌いだった。
そこまできて、キットは強盗探しに付き合ったおかげで昼食をすっかり忘れていたことを思い出した。
「そーいやあんたのせいで朝からなんも食ってねえんだった」
「ああ、お腹が空いていたのね。それならお姉さんが何か奢って……」
このアマ。何納得したような面してやがる。まさかこの俺が、空腹を理由に不機嫌だったとでも考えていやがるのか。この雌の中で俺はどれだけガキなんだ。
「……財布盗られたんだった」
「あんた、アホだろ」
どうしてこうなるんだ。雌というやつはどいつもこいつも、雄に手を煩わせるしか能がないのか。
「仕方ねーな。俺が奢ってやるよ」
「いえ……助けてもらってその上に夕食まで奢ってもらったら悪いわ」
「今しがた強盗に遭ったばかりのやつを放っといて一匹で飯なんて食ったって美味くねえだろうが」
俺も莫迦だ。こんなだからあんなサルに騙されるんだ。
「……ありがとう。優しい子なのね」
「三倍返しだからな」
「わかったわ」
キットの冗談に、笑顔で頷くユキ。その微笑みは眩しいくらいに美しく、その辺のクズみたいな雌やましてやあのサルとは真逆の正直さ、純粋さがあった。キットの嫌いなタイプではあるが、少なくとも悪い雌じゃない。それなのに、一抹の恐怖感が拭えなかった。
この時はさして気にも留めなかったが、後になってそれがあながち間違いではなかったと思い知らされることになろうとは。
リザードンのシェフが一頭で経営する炎のレストランは、奇しくもあのサルと最後に食事をしたところだった。ゴーストタイプは見た目の割に結構食う奴が多いので、量の多さで選んだ結果だ。高火力を売りにした炒め物はこの界隈でも有名で、もちろん味も悪くないのだが。
ただ人によってはシェフに難ありと言えるかもしれない。
「ようタブンネの兄ちゃん。前の雌と違うじゃねえか」
などと空気をまったく読めない発言をするので、遊び人の雄はあまり来たくない店だろう。
「そんなんじゃねえよ。ただの成り行きだっつの」
「なんだ、別れたんじゃなかったのか。オレが思うに、あの雌は良くないと思うがなあ」
「悔しいがあんたの言うとおりだった。今日別れたところだ」
「お? それでお次ってわけか。モテモテだねえ」
「だーかーら、ちげえっつってんだろ。早くメニュー持ってこいよ」
「はいはい」
ユキとキットをしげしげと眺めながら軽口を叩くシェフも失礼な事この上ないが、満更でもなさそうに微笑みを返すユキもユキだ。
「面白い方ね」
「変なオッサンだが腕はいいぞ」
「期待させてもらうわ」
リザードンはすぐに水とメニューを運んで厨房から引き返してきた。キットは日替わり定食を、ユキはこの店で一番高いステーキ定食に、野菜炒めを追加するという暴挙に出た。やっぱりよく食うな……って、ちょっと待て。俺の奢りだぞ。ふざけんな。
「おい」
「何?」
「お前、俺の奢りだと思って……」
「いえ、だから三倍返しでしょう? できるだけ大きなお返しをしようと思ったまでよ」
「あーそーですか。ナニを返してくれるんですかね女医のおねーさんは」
正直、期待はしていなかった。雌なんてどうせ口だけに決まっている。
「キミをとびきり豪華なディナーに招待してあげようと思って。命の恩人だもの」
そう高をくくっていたから、その申し出には不意をつかれた。ディナーに招待だと? しかも自分でとびきり豪華とか言うか普通。だいたい命の恩人っつーほどのことはしてねえし。
「大袈裟だないろいろと」
「来てくれたら本当かどうかわかるわ。来週の土曜日なんてどうかしら。何か予定とかある?」
「朝はシフト入ってるけど、午後からは特に何も。次の日曜も休みだし……」
「よかった。じゃあ決まりね」
「いいのかよ。よくも知らない雄を家になんか呼んで」
「でもその男の子、よくも知らない雌を助けてくれた子なのよね」
「……いちいちむかつく言い方しやがって」
こうして、キットはひょんなことから女医のユキメノコ、ユキの家に招待されることとなったのだった。本当に、とんだ厄日もあったものだ。
――で。
なんで俺は吹雪の中を登山してるんですかね。
「あの雌。肝心な事を先に言いやがらねえ」
医院は麓にあるが、家は山の上にあるのだという。約束の十八時までに着けばいいが。すでに日も落ちているし、こんな日に限って大雪ときた。視界は悪いし、遭難でもしたら洒落にならない。だいたい、こんな暗い山道を一匹で歩かせるとは一体どういう了見だ。案内人の一匹や二匹寄越してくれよ。
心の内で悪態をついたその時、道の先にぼうっと光る明かりが見えた。窓から漏れる光がざっと見ただけでも十はあり、それだけでキットの想像していたよりもずっと大きな家だということが見てとれた。さすがに女医さんというだけあって立派な住まいだ。
正直なところ、キットは後悔していた。助けなきゃ良かったとは思わないが、お礼なんて断っても良かったのだ。飯代ぐらい大した出費にはならないのだから。
前に立ってみると、その異様な外観が頭上に覆いかぶさってきた。夜、山の中というだけでも薄気味が悪いというのに、その屋敷ときたら壁面は黒く、垂れ下がったような奇っ怪な形の赤い屋根はまるで血が滴るような。
「こんばんはー! 誰かいますかー!」
クソ。人を招待しておいて吹雪の中待たせやがって。吹雪に加えてこの悪趣味な屋敷のせいで一層背筋が寒くなる。
……苦手なんだよな。
返事はないが、窓の明かりはついているのだから誰かいるんだろう。一匹でこんなところにいたくない。そう思って手をかけると。
カチャリ。
「鍵かかってねえじゃん」
キットはとりあえずドアを開けて中に入ることにした。大きな屋敷らしく、玄関の先はホテルみたいなロビーだった。
「お邪魔しまーす……誰かいませんかー!」
やけに薄暗い明かりと、ワインレッドを基調とした調度品の数々は、外観に違わず客の恐怖心を煽るかのよう。これだからゴーストタイプってやつは嫌いなんだ。
キットの声はそのおどろおどろしい空間に虚しく響くばかりで返答はない。黒光りするテーブルにワインレッドのソファが設えてあり、テーブルの上に活けてある花は血のように赤いバラ。とてもそこに座る気にはなれない。こんなに広いのに、壁が四方から押し寄せてくるような圧迫感で息が詰まりそうになる。
外にいた方がマシなのではないか。
いや、何をビビってるんだ。俺は客なんだぞ。わざわざクソ寒い外で待つ必要なんてない。
さりとてこんなにまがまがしいロビーで待つのも御免だったので、ポケモンを探すことにした。奥へと続く黒い扉を、恐る恐る開けてみる。
扉の先には廊下が続いていて、一番奥に階段が、ロビーと階段のちょうど真ん中辺りの左右に扉が一つずつ。明かりが暗いのはここも同じで、壁紙は黒く扉は赤い。
「マジかよ……」
どこまで悪趣味なんだあの雌。勘弁してくれよ。さっきのロビーにも戻りたくないし、かといって先に進むのも腰が引ける。でも、多分この家のどこも同じだ。とにかく、一匹でいたくない。早く誰かポケモンを見つけよう。まさか家中の明かりをつけっぱなしにして鍵を開けたまま外出ということはあるまい。ここまできたらもう進むも戻るも同じだ。そもそもユキに会った時に、怖くてビビってました、なんて言えるか。
「お、おおおう。だだ誰もいねえのかよ。お、俺がどろぼうだったらどーすんですかねー」
キットはわざと大きな声を出しながら、左手の扉を開けた。
閉めた。
「見間違いか……?」
来た道を考えるとキットがいるのはちょうどこの家の真ん中くらいだ。外に通じている筈がないじゃないか。馬鹿馬鹿しい。
今度は目をつぶって扉を開け、薄目を開けて確認した。
墓場だ。
家の中に墓があるわけじゃなくて、ちゃんと地面は土だし、卒塔婆が立っているし、暗いし、寒いし。
一歩入ってみると、いや、出ると言ったほうが正しいか。地面の感触がなんとも表現しがたい、ちょっと普通の土とは違った感じがした。
しかしここが外だとして、左にあるはずのロビーが消えているのはいったいどういう了見だ? 異空間にでも迷い込んだか。
とにかく、これ以上進むのはやめとこう。こんなことならまだあの気味の悪いロビーにいた方がまだまし……
「えっ、ちょっ……嘘だろ!?」
扉が、ない。
今の今まで屋敷の中にいたのに、墓場の真ん中に立っている自分がいる。
いくら労力と時間を費やしてもこの状況を理解するに到る道が見えない。
何がなんだかわからなくても、このままここにいるのはヤバイと本能が告げていた。同じ時間と労力を費やすなら、そんなことよりここから逃げる道を探すべきだと。
探す? 消えた屋敷を? それとも出口を? 出口も何もここは外じゃないか。
「や、やだ……なんで俺がこんな……」
恐怖が背中を押したのか、手を引っ張ったのか。
キットは弾かれたように駆け出した。
逃げるんだ。とにかくここから離れないと。
――ふえぇ……ひっ、く……
俺、じゃない。泣いてなんかない。誰かの声が。
――ぼくを起こしたの……だれ?
すすり泣きと囁き声が、まるで狭い空間に響き渡るみたいにはっきりと聞こえる。走っても走っても耳元から離れない。
次第に、足が進まなくなる。疲れからではない。
墓土に足を掴まれたみたいに、キットはその場から一歩も動けなくなった。
「な、なんだこれ……」
目の前の土が盛り上がってくる。下から何かが。
何か――何か、じゃない。
墓の下に埋まっているモノといえばあれだ。あれ。
やめてくれ。なんでだよ。わけがわからない。俺は屋敷の中を歩いていたんだ。
なんでこんな場所で、
こんなところで、
つづきます。
変なところで切れてるけどミスではありません。
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