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雪が解けた冬

/雪が解けた冬

雪が解けた冬 ― the Nine-Tails 


 お読みいただくにあたって:
  軽度の心霊描写が含まれます。 自信のない方は、夜中には読まれないことをおすすめします。
 ご注意ください。

Writer: 水鏡 @glace1surf


 そうだ、たまには俺が知っている昔話をしよう。

 何十年も過去の話だ。当時は道路もろくに舗装されておらず、砂利道が続いているばかり。その一本道を抜けた先に、小さな集落があった。
 そこには一つ、伝説が残されていた。
 冬になるとよく雪が積もる。吹雪が吹き付ける晩は、外に出ちゃあいけない。なぜなら次の日、外に出た者は変わり果てた姿になっているからだ。
 幸い、生き残った村人もいる。彼らは揃って、『雪の中に浮かぶ女を見た』と口々に叫ぶ。
 これを問題だと見た村長は、目撃情報が多い山頂付近に、神社を建てることにした。また、その山の麓に小さなお社を建てた。前者は女の霊を供養するため、後者は女の霊に出会わぬよう、注意喚起するためだ。
 二つの神社が建てられて、神事を行うことになってからというもの、まだ目撃者は尽きなかったが、被害を抑えることはできた。
 神事を行っていた冬のある時、誰かが『九の尾を持つ銀色の狐を見た』と話した。
 九つの尾、それも狐ときたもんだ。これを不吉なものとして捉える村人は少なくなかった。それが村全域に広まり、村人は揃って、見かけた狐を討ち取るために躍起になっていた。
 ところが、いい噂も出てくる。吹雪の日に女を見た情報が止んだのだ。無くなり始めた時期が、偶然にも銀狐の噂の時期と重なる。
 村人は何かの因果があると考え、それ以上追求することはやめにした。
 以来、雪の中に浮かぶ女と、九の尾を持つ狐は、語り継がれる伝説と成り果てた。誰も見る者が居なくなったからだ。ある者は狐が女と婚姻を結んだと言い、ある者は喧嘩をして相討ちになり、もうこの世には居ないと言う。
 そして最後に、村人は必ず付け足す。『危険だから、山に入ってはいけない』と。ただでさえ人を襲う雪女と、不吉の象徴たる九尾の狐。ふたりのとばっちりに晒されたのでは、命がいくつあっても足りないだろうからな。
 十世帯ほどの狭い集落で起こった、小さなできごと。あの日の空も、今日みたいに澄み渡っていたのだろう。




 日差しの鋭い夏になると、祖父母の家に訪れ、泊まりこむ予定があった。毎年の恒例行事だった。
 今日もその一日。僕は両親に連れられて、雑木林と畑に囲まれた祖父母のところへと遊びに行っていた。
「よく来たねえ」
 祖母の声を尻目に、僕は家の外へと駆け出す。
「あまり遠くへ行くんじゃないぞ」
 父の声も追いかけてくるが、特に気にはしない。
 近所に同年代の子が全くと言っていいほどおらず、両親と祖父母は世間話をして、僕の相手をしてくれない。結果的に、ここへ来ると雑木林の中に探検に行くことが、当たり前のようになっていた。
 探検と言っても、お宝探しの大逸れたアドベンチャーではない。
 林の中に分け入って、ジグザグに走るポケモンを見つけては追いかけ回したり、木の上でさえずるポケモンを見つけて、その鳴き声に耳を傾けたり。自然の中を駆け回っていた、と表現するほうが想像しやすいかもしれない。夏に似合ったさわやかな汗をかいた。
 初めて外に出て遊ぼうと思った日のこと。両親はそんな僕に向かって、『ポケモンと仲良くするな』と言った。
 なぜ、仲良くしてはいけないの、と問い返すと、『誰彼構わず襲ってくるから』と言う。
 実際、両親の言うことは違った。人を襲うポケモンなんて、はじめから居なかった。
 最初こそ両親の目の届く範囲で遊んでいたが、慣れというのは怖いもので、今日のように一言の忠告だけで済むようになった。
 林の入り口に立つ。今日はどんな発見があるだろう。
 雑木林に入ってもお咎めがなくなった僕は、勇み足で踏み込んでいく。
 とやかく言われなくなった代わりとして、どんな姿のポケモンを見ただとか、こんなポケモンは毛皮がふさふさして気持ちよかっただとか、両親に遊んだ内容を報告するようになった。
 背丈の高い、よく切れる草で生傷をこしらえながら、時間を忘れて遊んだ。小学校に上がる前だったということもあって、自由な時間を大いに楽しんだ。
 だが、人間とは飽きる生き物で、幼少の僕も例外なくその感情に当てはまる。
 今日も今日とて薄暗い木の間を練り歩くが、毎回同じ風景はどこか色あせて見えた。木を挟んだ奥のほうに、茶褐色と枯草色の縞模様の毛皮を身にまとうポケモンが居た。母に話すと『ジグザグマだろう』と言っていた。
 何かもっと、違うことをしたい。
 雑木林が開けると、明るみに出た先に、裏山へと続く道がある。林の中より光量があるはずなのに、空気はひんやりとして、なんだか怖い感じもする。
 前方を見れば、草がうっそうと茂り、道なき道をかき分けて行かねばならないが、登れないことはなさそうだ。
 ――そうだ、山に登ってみよう。
 名案だ。僕は、まだ全容を知らない山の中に入って行くのだ。すると、林の中では見たことのないポケモンや植物、そして目を見張る景色が広がっているに違いない。
 分岐路を目の前に、いざ出陣とばかりに右足に力を込めた時、目の端に小さな影が写った。
「どこに行くの?」
 その声に振り返ると、僕と同じくらいの背丈をした、黒髪が長い女の子が居た。
 幼心にも、奇妙だな、と思ったのは、僕が普段目にすることのない格好をしていたからだ。
 女の子は着物姿だった。
「山に行くの」
 すると女の子は、首を振ってクリッとした可愛らしい目をこちらに向ける。
「一人で行っちゃだめ」
 実際、両親にも『山のほうは危ないから近づくな』と釘を刺されていた。それでも、僕の好奇心は歩みを進めることを選んだ。
 だから、女の子に対して食い下がるかたちになった。
「えー、どうして?」
「危ないから。山の中には一人で行っちゃだめ。帰らなきゃ」
 両親と同じだ。『危ない』とだけ言って、詳しいことは教えてもらえない。
「嫌だよ、どうせ戻ってもつまらないし」
 僕は女の子の言葉を無視して、歩きだした。
 通り過ぎようとした時、女の子は半袖姿の僕の腕を掴んできた。
 彼女の小さな手が思いがけないほど冷たかったことは、今でもよく覚えている。
「行ってはだめ……そんなに遊びたいなら、私と一緒に遊びましょ?」
 僕は、掴まれた手と、女の子の目を、交互に見る。不思議と、反論する気持ちは沈んでいった。
「……うん、分かった」
 それに、一人で遊ぶことに飽きて、その代わりとして山へ入ろうとしていただけだった。女の子が一緒に遊んでくれると言うのなら、無理して登る必要はなかった。
「じゃあ、見てて」
 女の子は、しゃりしゃりと小気味いい音がする布で包まれた玉を三つ取り出して、器用に投げ始める。
 当時の僕はお手玉の存在すら知らない。感嘆の声を上げていた。
「すごい。何それ、どうやるの?」
 すると女の子は、お手玉をもう三つ取り出して、僕に握らせる。こうするんだよ、と僕に教え込む。


 時間はあっという間に過ぎていった。あの後は木登りをしたり、鬼ごっこをしたりして遊んだ。いつもは夕方にならないうちに切り上げるのに、太陽はもう山に隠れて見えない。
「そろそろ、帰らなきゃ」
 僕が唐突に切り出しても、女の子は優しい笑顔を向けた。
「楽しかった。また遊ぼうね」
 お別れというのは辛いもので、遊び足りないのにすっぱりと辞めるには大きな気持ちが必要だった。子どもの僕は、遊んで寝るのが仕事のようなものだった。
 だからもう一度会えるように、僕は女の子の名前を聞いておくことにした。
「ねえ、名前は?」
 でも、女の子は首を横に振って答えてくれない。
「また会えたら、教えてあげる」
 仕方ないと割り切った僕は、じゃあね、と一言だけ言って、その場をあとにした。
 薄暗い雑木林がさらに暗くて、不気味な印象を受けたことは忘れない。遊び足りなかったのは事実だが、もっと早く帰ろうと心に決めた。


 それから毎日、僕は女の子と遊んだ。
 女の子は僕の知らない遊びを知っていた。お手玉をはじめ、鞠つきや羽子板など、道具を使った遊びだった。
「たっちゃん、最近何ばして遊びよっと?」
 ある日、雑木林から帰ってきた後、夕食を囲んでいた時のこと。父が珍しく、僕の遊びを尋ねてきた。
「山の近くで女の子と遊んでる」
 僕は着物姿のその子を思い出しながら、父に今までの遊びを話した。
 木登りや鬼ごっこをしたこと。布で出来た玉を器用に投げること。よく跳ねるボールをついて遊ぶこと。平べったい板で羽を打ち返すこと。どれも楽しかった。
「それ、お手玉と鞠つきと、羽子板か」
 父は難しい顔をしていた。
「どこの子と?」
「分かんない。七五三の服を着てるよ。可愛いよ」
 僕に妹は居なかったが、五歳の時に着物を見た覚えがあった。女の子が着替えるサンプルとして飾られていたものとそっくりだったことを思い出して、僕はそう表現した。
 しかし、父は腕組みをした。ますます混乱させたようだった。
「七五三? 着物のことか。名前は?」
「……教えてくれない」
 実際、女の子は一度も名前を教えてくれなかった。確かに、絶対教えて、と約束をしたことは無かったが、僕が名前を尋ねると、のらりくらりと身を翻す。
 着物姿の女の子は、両親にも、祖父母でさえも心当たりがないみたいで、みんなして首を傾げていた。近所には僕と同年代の子が全くと言っていいほど居ない、にも関わらず。
 その頃の僕は、女の子と遊ぶことが楽しかったこともあって、あまり気に留めていなかった。
「まあ、この近くに住んでるんだろ」
 父の締めを最後に、話題は別のものへと移った。


 お盆を明日に控えた日。両親の都合で、僕は祖父母の家を離れ、両親の家に帰る必要があった。
「僕、明日帰るんだ」
 今日も一日女の子と遊んだから、別れ際に話すことになった。
 僕の言葉に、女の子は残念そうな顔をした。少なくとも、僕にはそう見えた。
「そうなんだ……」
 これきりで会えなくなってしまうのかと思うと、僕の心に焦る気持ちが浮き出てくる。
「名前、教えてよ。どこに住んでるの? また冬に来たときに、遊びに行くから」
 女の子は少しだけ考える様子を見せた後、やはり首を横に振った。
「お願い、教えて」
 僕は何度もお願いして、名前をせがんだ。
 女の子はうつむいて困ったような表情をしていたが、口を開くと、こう言った。
「きみの名前、教えて」
「僕? 颯海(たつみ)。たっちゃん、って呼んで」
 すると、女の子はにっこり微笑んで、名前を教えてくれた。
「そう、タツミ。私はマシロ。でも、約束して。絶対に、他の誰にも、私の名前を言っちゃだめ」
 微笑んでいたけれど、マシロの目は透き通るような赤褐色で、僕の心を見透かされているのではないかと思うほど、冷たかった。
「……わ、分かった」
「ここに来て、名前を呼んで。そうすれば、また一緒に遊ぼう」
 マシロの言葉は、彼女の冷たい目が印象的で、僕の心に深く刻まれた。


 家に帰ってからというもの、僕はマシロのことをほとんど意識せずに過ごした。
 二人で遊ぶのは楽しいこととして覚えていたが、競争しない木登りは一人でやっても楽しくないし、鬼ごっこは一人ではできない。お手玉や鞠などは持っていない。
 二人の記憶に触れることが少なかったから、彼女の名前も浮かんでこなかったのだと思う。

   ◇◆◇

 秋が過ぎ、年末のこと。
 祖父母の家は山あいに位置することもあって、道路に雪が積もってしまって立ち往生することは少なくなかった。
 今年の冬も例外に漏れず、わだちができるくらいにかさを増していた。
 そんな中、僕は両親に連れられて、祖父母の家に遊びに行っていた。
「寒い中、よく来たねえ」
 僕は祖母の言葉を尻目に、家の外へと駆け出す。
「寒いだろ、早く帰って来いよ」
 父の言葉が追いかけてくるが、特に気にはしない。
 目的地は雑木林を抜けた先、山へと登る道の途中。僕は無意識に駆け出していた。冬ということもあってか、途中で目にするポケモンの数は少なかった。
 景色は変わっていたが、僕の記憶は鮮明に蘇る。知らなかった遊びを存分に楽しんだこと。二人で遊ぶことの新しさ。そして、今まで忘れていたと表現してもいいくらい、意識の底に埋まっていた彼女の名前。
 裏山へと登る分岐路についた。一切口に出さなかったその名前を、今、解き放つ。
「マシロちゃん」
 するとどうだろう。僕が呼んだ途端、彼女は現れた。まるでこの場所で本当に待ってくれていたかのような、絶妙な登場だった。
「覚えててくれたんだ、たっちゃん」
 マシロは相変わらずの着物姿で、黒髪を長く伸ばし、クリッとした目をこちらに向けている。反面、僕は冬の寒さに備えて、分厚い洋服を重ねて着ていた。
「その格好、寒くない?」
「大丈夫」
 着物だけでは寒いだろうと思ってかけた言葉だったが、本人が気にしていないなら大丈夫なのだろう。僕はそう思い込んで、遊びを楽しむことに決めた。


 冬の寒さに頬を真っ赤にしながら、僕は時間を忘れて遊んだ。
 マシロを見れば僕とは対照的で、その名のごとく頬は白っぽかった。いや、綺麗な肌色をしているのだが、透き通るような白さをしていた。俗に言う色白肌だ。
 遊んでいる途中に『どこに住んでいるの?』とか『今度、おばあちゃん家に遊びにおいでよ』などとマシロに話したが、どれも前向きな返事は返ってこなかった。

   ◇◆◇

 年が明け、春がきた。僕は小学校に上がった。マシロの他にも友だちができた。
 祖父母の家に行く時期は、春、夏、冬と決まっていた。不思議なことに、小学生はこの時期と重なるように長期休暇がある。
 もっとも、両親の都合に左右されることもままあった。元はといえば僕が退屈しないように、との両親のはからいだったが、どうやら祖父母も僕の顔を見たいと思っていたらしい。
 そんなことはつゆ知らず、僕は祖父母の家に行く時になると、決まってマシロのことを思い出す。
 友だちと遊んでいても、学校で思い出話に花を咲かせても気にすることはなかった。だが、時期が来ると、突如として意識に浮かんでくる。長期休暇になるたび、彼女と一緒に、日が暮れるまで遊んだのだった。
 今から思えばとても不思議な事だが、彼女との出会いは僕を魅了する何かがあった。

   ◇◆◇

 マシロと遊び始めて三年目、僕が小学二年生になった年の夏のことだった。
 僕はマシロより背が高くなっていた。しかし、彼女は出会った頃とそう変わらない。いや、少なくとも僕の背を追い抜くことはなかった。
 僕が名前を呼ぶと、着物の姿を現した。そして、いつものように遊んでいた。
「たぶん、もう遊べなくなる……」
 ある日、遊んでいた時のこと。彼女は突然、そう切り出した。
「どうして?」
 本当に突然の宣言だったので、僕は軽くパニックを起こして、大きな声で反論した。
「ここに居られなくなっちゃう」
「やだよ、そんな。もっと遊ぼうよ」
 引っ越しか何か、もう会えないことになってしまうのだろう。僕が駄々をこねたところで覆る問題だとは思わなかったが、楽しみの一つが失われてしまう恐怖に、全力で抗った。
「どこに行っちゃうの? そこで遊ぼう」
「私にも分からない。でも、明日からは、ここに来ちゃだめ。約束だよ……さようなら」
 マシロの別れの言葉が、この二年間をより鮮明に掘り起こす。今までの楽しかった思い出が、気泡のように湧き上がり、そして弾けていった。
「今までもずっと楽しかった。これからも、きっと楽しいよ。遊ぼうよ」
 僕の声はだんだんヒステリックになってくることが分かったけれど、構わずにマシロとの再会を望む。
 声に涙が混じっていた。
「……私も、たっちゃんと遊ぶの、楽しかった。だから」
 マシロも涙を浮かべながら、興奮する僕をなだめる。
 一方で、僕はとにかく、さよならは嫌だと声を上げ続けた。
「今日はもう暗いし、危ないから、無事に帰って」
「嫌だよ、帰ったら、もう会えないんでしょ? もっと一緒に居よう」
「一緒……そうね、たっちゃんと一緒もいいかもね」
「え?」
 ずっと拒否され続けたせいか、マシロが前向きな発言をしたことに、僕は大きな衝撃を受けた。歪んだ視界で、彼女をまじまじと見つめる。
「たっちゃんが願うなら、きっとまた会える」
「本当?」
「信じて」
 僕はそのまま、諭されて帰路につく。
 途中、何度も振り返った。薄暗くてよく見えなかったが、マシロの視線が確かに僕に向いていることが分かった。

   ―――

 次の日。僕は目が覚めると、彼女の名前を思い出せなくなっていた。
 掴みどころがない、懐かしい思い出が確かにある。だが、記憶の引き出しは取っ手がないと開けられない。雑木林で遊んでいた頃の記憶が引っ張りだされていて、山のほうへと足を伸ばすことはしなかった。


 一人遊びに飽きた僕は、雑木林から早めに切り上げる。日はまだ出ていた。
「お、今日は早いなあ」
 帰った先に祖父が居た。まるで珍しいものを見つめるかのように、その顔は僕のほうに向いていた。
「飽きちゃった。もっと楽しかった気がするんだけど」
 掴みどころがない、懐かしい思い出が確かにある。それが何なのか、僕には思い出せなかった。
 今思うと、祖父は僕を見つめていたのでなく、僕の後ろを必死に凝視していたのだろうと思う。

   ~~~

 秋が過ぎ、冬が来た。祖父母の家に行く時期になっても、僕は彼女の名前を、記憶を思い出せないでいた。
 だが、友だちがぱたりと居なくなったわけではない。小学校での生活は楽しいし、それなりに勉強も頑張っていた。
 ポケモンを連れている友だちも珍しくなく、ふさふさの毛を触って、祖父母の家の林で遊んだことを思い出した。
 それでも、僕は彼女の名前を、記憶を思い出すことはなかった。


 年末に祖父母の家に行った僕は、いつものように雑木林で遊んでいた。
 その日は偶然にも、裏山への道に近い所まで来ていた。
 ふと周りを見れば、背が高いはずの枯れ草が地面に降りて、踏み固められた跡のようなものがある。
 なんだろう、誰かが山に行っているのかな、と思った僕は、興味本位で裏山に登ってみることに決めた。
 前方を見れば、雪を載せる枯れ草が行く手を阻み、道なき道をかき分けて行かねばならないが、登れないことはなさそうだ。登り始めると一転、道は自然のままだった。
 山に登っている足元を意識すると、両親の言葉が思い出される。『山のほうは危ないから近づくな』。
 さらに、得も言われぬ心のざわめきが、僕の足を重くさせていた。このまま進んではいけない、直感に似た警鐘が頭の中で鳴っていた。
 だが、それらを押しのけてでも、僕の足は動いた。山に呼ばれていると思った。


 まだ二合目ほどだっただろうか。少し登ると、道の脇に古びた建物があった。高さは僕より低いが、屋根がついて厳かな感じがする。さらに、鳥居も建っている。
 中を見ると、扉があり、開いていた。奥はどうなっているのだろうと思って覗き込んだその瞬間。
 背後に視線を感じた。
 誰かが居る。そう確信した僕の背中が、冷たくなる。
 驚いて勢いよく振り向いた。
 天気の変わりやすい冬空には似合わず、今日は朝から晴れていた。分かるのはそれだけだった。
 誰も居ない。
 僕は少し怖くなって、叫んだ。
「誰か居るの?」
 すると、さっきまで止んでいた風が、入り口から山頂の方向めがけて吹き上げた。びょう、とうなりを上げることに僕は驚く。
 寒さを連想させる冬空には似合わず、少し暖かい気がした。分かるのはそれだけだった。
 ――行かなくては。山頂まで。
 踏まれていない雪に足跡をつけながら、僕は歩みを進めた。


 山頂付近まで登ると、今度は大きな鳥居が見えた。しかし、麓で見たものと同じくらい、もしくはそれ以上古びており、地震が起こると崩れてしまいそうな様相をしていた。
 山の中には神社が建っていたのだった。幼いうちから、神様を祀る神聖な場所として聞かされていたが、実際に目にするのは初めてだった。
「どなた?」
 鳥居の奥、神社の扉の前に、着物を着た女性が立っていた。綺麗な大人の人だったことを覚えている。
 僕は『着物』というキーワードを手に入れた。だが今度は僕の意識が朦朧としてきて、彼女の記憶を引き出せない。
 返答が思い浮かばず困っていると、女性はこちらに向かってきた。
「迷ったのかしら。ここには子ども一人で来るところじゃないわ」
 女性はなおも、動けない僕に向かって言葉を続ける。
『おかえりなさい』
 その一言が、引き金となった。妖しく微笑む女性は、姿を変えた。
 紫の着物だと思っていたものは白くなり、足は無くなって宙に浮く。白い帯は赤くなり、足が無くなったことで背丈は少し縮んだ。
 仮面を被るような、白く不気味な顔立ちをしていた。だが、不思議と恐怖はなかった。誘われるように、僕の足が動く。空は曇り、日は陰っていた。
 一歩踏み込むごとに、寒さが増す。
 目の前の変貌した何かは、冷気を纏っていた。
 これ以上入り込むと出て来られないかもしれないと思うのに、足は止められなかった。
 冷気が吹く中心に向かって、僕は重い足を上げる。
 もう、ふたりが触れ合える距離まで近づいていた。
 それの表情は、笑っているか、哀れんでいるか、判断はつかなかった。しかし、もう人間でないことくらいは、僕には分かっていた。あと少しだけ考えれば、なぜこの山に登ったのか、僕が歩んでいる先はどこなのか、今置かれている状況が理解できただろう。
 白い姿のそれは、手と思しき袖を伸ばす。
 僕と触れ合う瞬間だった。
 ガラスが割れるような大きな音を立てて、僕は後方へと吹っ飛ばされた。同時に、触れられる時の冷たさと、彼女の小さい手の残像が、重なった。
 突如鮮明になった記憶が、名前を思い出す。彼女はマシロと言っていた。
『何を……そなた、何者だ!』
 白い姿のそれは、驚いたのだろうか、呪詛のような低い声を絞り出した。一方、雪の絨毯へ不時着した僕は、腰が抜けてしまって立ち上がることができない。
 尋常じゃないくらいの冷気が、僕の恐怖心を駆り立てた。
「マシロちゃん……」
 無意識に、彼女の名前をつぶやいていた。
 すると、さっきまで背筋の凍るような寒さに晒されていたのに、それがやわらいでくる。周りの風が止んだことに気付いた。さらに、目の前が明るくなっている。
「たっちゃん! 良かった、間に合った」
 僕を呼ぶ声が聞こえる。懐かしい感じがした。
 おもむろに振り向く。そこには着物姿で、髪を長く伸ばし、クリッとした赤褐色の目をこちらに向けている女の子が居た。
 太陽みたいに、明るかった。
「マシロちゃん」
「たっちゃん、山に登ってはいけないって言ったでしょ?」
 彼女を見つめると、怖さに凍っていた心が溶けていく印象を受けた。彼女に怒られても、暖かった。
『なに、眞銀……火之(ヒノ)眞銀(マシロ)()()、そなたが、なぜ、ここに』
 白い姿が、今度は萎縮したような声になっていた。なんだか長い言葉をつぶやいたが、馴染めそうなものだった。
「決着をつけましょう、荒神・隠霧(オキリ)氷女(ヒメ)
 マシロは、白い姿をオキリヒメと呼び、鋭く睨む。
 一瞬、目を奪われた。かっこよかった。
『おとなしくなさい』
 そしてマシロも、みるみるうちに姿を変えた。
 長い黒髪は銀色に。鼻と口がつき出して、まるで狐みたいな顔になる。着物は無くなって、四つの足を地面につける。たくさんの銀の尾がたなびいた。
『私はここよ!』
 マシロの一言で、ごう、と炎が上がる。寒さが嘘のように蒸発した。
 女性の声らしき断末魔が響き渡る。白い姿は見えなくなり、周りの雪と一緒に、霧になったように見えた。
 一難は去った。僕はひどく疲れて、足に力が入らなくなっていた。
 空は晴れ渡って、日差しが降り注いでいた。
「マシロちゃん……?」
 狐になってしまった姿でも、僕は変わらずマシロだと信じこんだ。
『ごめんね、たっちゃん。今まで黙ってて』
 マシロは狐の姿のまま、いろいろと話してくれた。
 ずっと昔、村では『雪の中に浮かぶ女を見た』という噂が絶えず、実際に行方不明になった村人や、固まって動けずに凍死してしまった村人が出てきていた。
 その時、ここに神社が建てられた。目の前に見えるのがそれだ。ついでに禁足地の目印として、麓にも社が建てられた。
 雪の女のような姿は、さっきのオキリヒメ本人で、当時ここに流れ着いたマシロ一人で防いでいたという。
 村にもいろいろな噂が流れたが、マシロは警告役として麓に棲み着いたのだった。ある時は狐の姿で、ある時は人間の少女の姿で。
「じゃあ、あの小さな建物って」
『私が棲んでた場所。でもたっちゃんのおかげで、いろんな場所に行けるようになった』
 マシロは言葉を続ける。社を中心としていると、行動範囲が制限されるらしい。そこで僕と仲良くなり、僕に乗り移ったと言った。
「僕の中に、マシロちゃんが?」
『そうよ。たっちゃんと居るのは楽しくて』
「なんで今まで黙ってたの、僕ずっと思い出せなかった」
 僕が口を尖らせると、マシロは申し訳無さそうに尻尾を下ろす。
『……死してなお悪行をはたらくユキメノコに、隠霧氷女に、確実に近づくためだったの』
 すると彼女は顔を伏せて、ごめんなさいと言った。
 要は、僕が普段から彼女の存在を意識すると、オキリヒメに対しての不意打ちにならないらしい。懲らしめる機会を伺っていたマシロは、様々な偶然があったものの、結局はうまく行って大団円だというわけだ。
「じゃあ、これからずっと、そばに居てくれる?」
 マシロは顔を上げた。
『もちろん、そうしたい――』
 彼女が口を開いた時、神社のほうからうめき声が聞こえる。
「オキリヒメ……!?」
 僕は反射のごとく跳ね起きて、身を構えた。またとんでもないことが起こっては遅いだろうと思ったからだ。
『ううん、大丈夫。彼女はもう、戦う力は残ってない』
 しかしマシロは、冷静だった。神社のほうへと近づいていく。
『眞銀……そなたも、御霊だけに見えるぞ。役目が終われば、そなたもまた、霧散するだろうに……』
 オキリヒメの言葉に、マシロは息を呑んだ。僕はよく分からなくて、マシロを見つめる。
 彼女の歩みもまた、止まっていた。
「どういうこと?」
『道が指し示された時、死んだ者であれば、還るべき場所へ還らねばならぬ。颯海と言ったか、そなたが知る由ではない』
 言葉が難しすぎて分からなかったが、僕の印象にマシロと別れの二言が結びつく。
 つまり、離ればなれになるということだ。
「マシロちゃん……そばに居られないの?」
 マシロと出会って初めて、彼女が僕の言葉を無視した。彼女は神社のほうへと歩いていく。
 これきりでお別れだと意識した瞬間、夏の感情が僕に重なった。
 ――お別れは、もう嫌だ。
「マシロちゃん!」
 僕は駆け出した。彼女が神社に行くと、もう止められないと思った。
『来ないで!』
 だがマシロは、その一言で、僕の足を止めた。
 この表現が正しいと思う。僕がどんなに足を進めようと思っても、動くことはなかった。彼女が僕に乗り移っている、一つの証拠だった。
 彼女の先に、横たわった白い姿が見えた。
『……ふん、そなた、恋をしておるな。ここで終わらせずとも、生きながらえる道があるのだぞ』
 彼女だけに聞こえるような小さな声で、オキリヒメはそう言った。
『因縁を次の世代に残してはいけない。それに、あなたも気付いてるはず。私たちの居場所の危機感は、私たちの問題。そこに、私情は……挟まない』
 マシロの体が震えていた。僕がもう少し近くで見ていたら、ひと目で虚勢だと分かっていただろう。
『歴史は繰り返す。我らが去っても、後々、別の個体が、また新しい伝説を始めるじゃろうて』
 マシロはその言葉に答えず、一つ、何か呪文のようなものを唱えたように見えた。
 途端に、神社がまばゆい光に包まれた。僕はまたも腰を抜かして、後ろに倒れた。
 “たっちゃん”
 マシロの声が頭の中に響いた。
 “ありがとう――”
 その言葉を最後に、僕は気を失ってしまった。

   ~~~

 それからどうなったかは、後で聞かされることになる。気付けば、僕はとなり町の病院まで運ばれて、医療ベッドの上で寝ていた。
「たっちゃん」
 母が、ベッドの脇に座っていた。
「タツミ!」
 父も居ることが分かった。
 両親が話すに、昼間なのにまばゆい光が漏れたことが分かったという。おかしいと思った両親は捜索を開始。山の麓で倒れている僕を見つけたのだそうだ。その時はひどい熱で、四〇度を超えていたという。僕は緊急入院の措置が取られた。
 それから五日間、危ない状態が続いた。熱は一向に下がることはなく、一時は危篤の状態にまで陥った。
 だが六日目の今日、無事に目を覚まし、あれだけ下がらなかった熱があっさりと平熱に戻ったのだった。
 母は僕の手を握りしめ、父は想像もしないあたたかい言葉を僕にかけた。もちろん、五日間の記憶が僕にはないから、呆けた顔をしていたと思う。
 さらにもう一つ、大きな違和感があった。
 マシロという名前も、オキリヒメという名前も、記憶の奥底に沈んでしまっていた。




 あの事件が起こった後、集落はすぐに宅地造成が始まって、山頂の社の位置は変わってしまった。さらに麓の小さな社に至っては、何を祀っていたか記録に残っていないため、取り壊される予定だと小耳に挟んだ。
 木は切られ、山は削られ、それまでの未開の地という印象が一気に崩されるような、町と呼ばれるくらいまで規模を拡大していた。
 八百万の神々は、位置と、建物と、そして気象や生態系などなど、ありとあらゆるものに関係があるという。
 かつての面影がなくなったその集落は、ありとあらゆる古いものが壊され、新しいものが作られたのではないだろうか。
 だが、このことを知ったのは数年後だ。
 祖父母の家に行くという毎年の恒例行事が、無くなってしまったからだ。両親は、あの山の麓で倒れていた僕を気遣って、祖父母の家に行かなくなった。




 冬休みは二週間という短い期間だ。病床から復帰した僕は、学校に通っていた。
 始業式も終わり、三学期が始まっていたある日のこと。
「なに、あれ」
 同級生の友だちと学校の帰路についていると、彼は目の前を指差して言った。
「ん?」
 帰り道なんて、話をしていればあっという間に過ぎる。見慣れた風景よりも、話に夢中になる時間のほうがよほど有意義だった。
 僕が顔を上げて見てみても、路地に空き地の住宅団地。他の学年の子どもたちも見えるが、特に変わった様子はない。
「たっちゃん、見えなかった? さっきの」
 いわく、銀色できらきら光る綺麗な姿をした生き物が、空き地を素早く横切ったというのだ。尾も銀色で、先端は青っぽく、一度に数えられないほどたくさんあったらしい。普段は全く見かけない珍しい現象に、目が釘付けになったという。
 俯いていた僕にはさっぱり分からないものだった。
「さあ、知らないけど」
「いや、絶対居た。見に行こ」
 彼が走って行くので、僕はついて行かざるを得なかった。


 果たして、空き地はもぬけの殻だった。
 土管が地面に二つ、その上に一つ載せられていたが、くまなく探しても見つからない。
 柵で囲まれた敷地内なので、他に隠れるところはない。隣の民家のブロック塀に飛び乗って、姿を消してしまったのではないか、という結論が出た。
「おかしいなあ」
 彼は納得いかない様子で、膨れ面をしていた。
「そんなに素早いなら、すぐ隠れるに決まってるよ」
 僕はそう言って、二人揃って空き地を出ようとした時だった。
 背後に視線を感じた。
 誰かが居る。そう確信した僕の背中が、冷たくなる。
 驚いて勢いよく振り向いた。
 天気の変わりやすい冬空には似合わず、その日は一日中晴れていた。夕焼け空が赤く染まっていた。
 誰も居ない。
「たっちゃん? どうしたんだ?」
「うわっ」
 彼が目の前に踊り出てくる。僕の意識を鷲掴みにした気配に気を取られていたため、驚いて変な声を出してしまった。
「び、びっくりさせないでよ」
 彼は訝しげな表情をしていた。

   ◇◆◇

 家に帰って食事をしていても、お風呂に入っていても、寝る時間になっても。
 僕を見つめる視線は、相変わらず存在していた。
 布団に入っても、気になって眠れない。いや、そもそも、もう眠っているかどうかさえ分からない。
「たっちゃん」
 ふと聞こえた言葉。誰かが僕を呼んでいる。
 柔らかい声は、僕の記憶の引き出しを優しくノックした。僕の愛称を知っているのは、仲の良い友だちか、両親か、祖父母だけだ。
「たっちゃんってば」
 意識を集中させると、おぼろげながら輪郭が見えてくる。黒髪が長い着物姿をしていた。
 不思議と、その双眸がはっきりと映し出される。吸い込まれそうなほど、透き通った赤褐色だった。
 えくぼができて、笑った表情が見て取れる。
 どこか懐かしい思いがした。
「私、見てるよ」
 口の端を歪めるような笑顔が、だんだんと近づいてくる。瞳孔が縦に割れて、大きく開く。瞳の黒さが僕の周りを包み込んだ瞬間。
 僕の意識は、暗転した。

   ―――

 朝の目覚めは重苦しかった。深い深い眠りの底から這い上がってくるようで、頭の中に鈍痛が走った。
 時計を見ると、時刻は朝六時を回ったところ。思いがけず早起きをしてしまった。今日は土曜日なのに。
 冴えない頭を反対側に向けると、ベッドの前の床に何かが座っていた。
 それは、白っぽい色をしていた。日の出にはまだ早い時間だった。
「へ」
 驚いて声が出なかった割に、なにか精神的に大きすぎるものを見てしまったせいか、驚くとも似つかないような変な声を上げたと思う。
『たっちゃん』
 狐のような顔をした生き物が、そこには居た。
 一度には数えきれないほどたくさんの尾を持つ生き物が、そこには居た。
 赤褐色の双眸が、確かに僕を見つめている。
 そして決まって、僕の愛称を口に出すのだ。
「え、えっ」
 鈍痛が、しだいに治まっていった。
 あまりに突然で、でもどこか、約束された出会いのようで。
 鮮明に浮かんだ記憶が、僕の視界を歪ませていた。彼女はマシロと言っていた。
『おはよ、たっちゃん』
「ま、マシロ、ちゃん」
 僕は布団から飛び起きて、彼女の柔らかな背中に手を回した。
 朝の寒さを忘れるほど温かくて。
 気付けば、涙が頬を伝っていた。




 俺は鉛筆を置く。時計を見ると、夜中の三時を回っていた。
 思いがけず筆が進んでしまった。時間を忘れて没頭するとは、まさしくこのことだ。
 ふと思い立って昔話をさらっと書くつもりだったが、ここまで夢中になるとは思わなかった。
 俺がいつも眠るベッドを見ると、先客が居た。
 銀色の姿をした、九つの尾を持つ、麗しい狐があくびをしていた。どうやらそいつはポケモンで、キュウコンと呼ばれる種族らしい。
『……いつもいつも、夜遅くまで、お疲れね』
「ああ、たまには体を休めないとな。こんな時間まで起きると、どうしても夜食に手が伸びる。悪い癖だ」
 人の言葉を操ることができるポケモンは、巷では珍しいと聞く。だが、目の前の彼女とは、出会った頃から会話をしていた記憶がある。
『たっちゃん、今、何書いてるの?』
「おう。これ、お前との出会いだよ」
『はあ、私と? 何か……嫌な予感がする。可愛く書いてよね』
 俺は銀の毛が綺麗な彼女に、苦笑いを向ける。そんなこと言われなくたって、牝の子くらい牝の子らしく書いてみせるさ。
 彼女は訝しげな表情を見せるが、すぐ笑顔に変わった。
「はは。で、お前、どうやってうちに来たっけ」
 俺の記憶が確かなら、オキリヒメの言った『霧散する』を確かに覚えている。神社の目の前で居なくなったはずだった。
『何よ、うなされるあなたを山頂から運んだこと、覚えてないの?』
 ああ、熱が出ていた時のことだ。あれは気が付いたら日付が五日ほど進んでいた。
 ではなく。
「違う違う。お前、俺に乗り移るとか、いろいろやってたみたいじゃん。何だったんだ?」
 霊的なものに一切関心がない俺は、そういう説明が下手で、手記の中でも曖昧にする節がある。だから、当人である彼女に聞いてみようと思ったのだ。
 彼女は少しだけ考える様子を見せたあと、調子に乗るような口調になった。
『あーはいはい。あはは。私のこと、死んだと思ってたんでしょ。残念ながら、ご覧のとおり、私にはまだ体があります』
 そして、今度は申し訳無さそうに続ける。
『……ごめんなさい、乗り移るっていうのは、あれは比喩。隠霧氷女と戦ったあの頃から、たっちゃんのこと、ずっと陰から見てた。それでも、人間に化けるときに、特に隠霧氷女のテリトリーで姿を現すには、私の名をあなたが喋ることが必要だったの。九尾の狐のまま出てくれば、奴も警戒するし、たっちゃん、あなたも怖かったと思ったから』
 よく分からないところで思慮深いというか、考え過ぎなところもある。少し尾を下げて表情を曇らせる彼女もまた、一つの素顔なのだ。
『契りを交わして、はじめは私の気配を、隠霧氷女の一件の後は私の精神を、たっちゃんの体に隠した。あなたの記憶から消えてしまったのも、隠霧氷女が勘違いしたのも、それが原因。でも、あれほどうまく行くとは思わなかったわ。くっついたと言っても過言じゃない……あっ、えっと、深い意味はないから。に、人間の姿にならずに、こうして言葉が喋られるから』
 恥ずかしそうに話す様子が可愛らしくて、俺はついつい見入ってしまう。話していることはあまり頭に入ってきていなかったから、俺は口を半開きにしていたかもしれない。
『たとえこの体がなくても、契約したたっちゃんになら、精神転移もできる。名前を覚えててくれれば、実体として宿主のそばに居られる。信仰心がものを云うとはこのことよ』
 一通り話したことで満足したのか、彼女は一つ、ため息を吐いた。
 しかしこの牝狐、よく喋る。俺は苦笑いを浮かべた。
「ふうん……そうか。体があるのに、宿主を選ぶのか」
 俺はベッドに腰掛けて、彼女をまじまじと見つめる。
『ええ。不思議だと思うでしょ、祀られる側はつらいのよ』
 彼女の背中を撫でる。ふんわりして柔らかな肌ざわりは、今確かにここにあるものだと確信する。
「神の世界はよく分からんが、これからもずっと、マシロと一緒に居られるんだろ。どんな姿でも、マシロはマシロ。俺はそれだけで、幸せだ」
 銀の体毛を通して、彼女の頬が紅潮したことが分かった。耳を伏せる姿がまた可愛らしい。
『社が無くなったから、私の役割は剥奪された。せ、せがまれたってもう姿を変えられない』
 人間の姿だった頃のことを言っているのだろう。だが俺は、今しがた、暗に気にしないと表現したばかりなのに。
 慌てる彼女に、俺は微笑みかけた。
「着物の女の子に、艶のある銀の毛。若々しくて良いねえ」
 どこか俺が変態だと思えるような発言に、俺自身が苦笑いをしていたかもしれない。
『……また一つ、伝説が始まる』
 彼女は俺の言葉を無視して、ぽつりとつぶやいた。
『雪女を退治して、怪異を平定、集落に平和をもたらした男の子の話。それまで禁足地とされていた山に、入れるようになるの』
「なるほどな。だが、俺だけじゃ楽しくない。マシロ、見せ場には、お前が居なくちゃな。麓の社の守り神は可憐な銀狐だった、てな」
 彼女の温かい体に触れていると、彼女も俺のほうにくっついてくる。彼女は微笑んでいたが、目尻は少し沈んでいた。
『たっちゃんと会えて、ほんとに良かった。覚えてる? 私と一緒が良いって、泣いた時のこと……あの一言がなかったら、私は』
 彼女が言わんとしていることが伝わってきたから、俺は目を合わせて彼女の口に手を当てる。
「覚えてる。だからもう、それ以上言うな。心細い顔は、神様には似合わないぜ」
 クリッとした赤褐色の目が、あの日と同じように、柔らかく俺を見つめていた。


 そして俺には、もう一つ気になっていることがある。
「ところでマシロツチ、一つ聞いてもいいか?」
『ん、良いけど、その呼び方やめなさい』
「お前って何歳?」
 突如、彼女の顔が豹変した。地の底から湧き上がる声が轟いた。
『ははっ……()ぁつ()ぃ。何歳に見えるかしら? ねえ、一之瀬颯海!』
 俺の名前が呼ばれた後、彼女の九尾がふわりと浮き上がる。呪詛が吐かれ、俺は動けなくなった。
 それから、高く笑う声とともに九回もの頬を叩く音が響いたことは、さらに俺が仰向けに寝転ばされたことは、また別の話だ。

 いや、未練の残らないうちに、一つ感想だけ言わせてくれ。
 やはり彼女はホンモノだ。


『雪が解けた冬』 ―了―

むすび 

 あとがきと銘打つと違和感を覚えるので、謝辞の意味も含めてむすびとします。
 まずはご挨拶を。ここまで拝読賜り恐悦至極に存じます。
 ええ、ちょーオカルトチックで心霊的で、作品とは言いがたい得体のしれない物語になりました。誰得ですかと聞かれると、たぶん作者の脳内世界です。てへ。

 さて、気を取り直して裏話です。
 この物語には怖い話という属性が付加された元ネタが存在します。
 解釈の違いはあれど、ストーリー構成はそれとほとんど差異はありません。参考にさせていただいたサイト様に厚くお礼申し上げます。お暇があれば探してほっこりなさってくださいませ。
 そして、怖い話の一部ということで、心霊っぽいドッキリ描写も挿し入れました。窓の外を見ても、安心してください、キュウコンがあなたを見つめています(蹴

 最後になりますが。
 作者は最近キュウコン姐様の魅力に目覚めました。あの九尾のふさふさ感。殴られたいです。ありったけ。
 ではなく。
 お読みいただきありがとうございました。もし辻褄が合わないなどの齟齬がありましたら、すべて作者の筆の至らなさによるものです。
 拙い作者でございますが、物語を楽しんでいただけましたら幸いです。


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Last-modified: 2015-12-27 (日) 20:49:48
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