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雨が呼ぶ絆

/雨が呼ぶ絆

雨が呼ぶ絆 

writer――――カゲフミ

―1―

 山の麓に小さな村があった。山裾まで伸びてきている青々とした木々に寄り添うかのように、ひっそりと佇んでいる。
家の数は十、二十、三十は行かないくらいか。家の数よりも整備された畑の数の方が圧倒的に多い。
耕された大地からは様々な作物が伸び、色とりどりの木の実を実らせている。赤や黄色に緑のものまで。
おそらくこの村で一番色どりがあって華やかな風景は、風に揺れる多種多様な木の実の生る畑で間違いなさそうだ。
 そんな田舎の村のとある家。周りと比べても別段特徴もない、ありふれた一般的な家屋。そこから飛び出してきた一人の少年がいた。
ばたんと勢いよく玄関の戸を閉めると、そのまま早足で家の前から立ち去っていく。
まだ十歳にも満たないと思われる幼い瞳には、涙の跡がほんのりと残っていた。
服の袖でごしごしと目を拭うと少年は歩き出す。辛うじて舗装はされているものの、車一つがやっと通れそうな細い道。
所々にある微妙な凹凸が曲者で、外に出て間もない頃は良く転んで擦り傷を作ったものだった。
今となっては家の前の歩き慣れた道。もう何もないところで転ぶようなことはなかった。
何歩か歩いたところで、ふと少年は立ち止まって振り返る。まだ自分の家は見える範囲にあった。
急いで歩いているつもりでも幼い彼の足だ。どんなに頑張ってみても限界はある。
視界に家が映ると、ついさっきの母親の声が少年の頭の中に蘇ってきた。

『仕方ないじゃない。お父さん、どうしても仕事で戻って来られないんだから』

 明日は少年の誕生日。普段は遠くの街に出稼ぎに行っており家にはいない父親も戻ってきて一緒に祝ってくれる、そのはずだった。
しかし、何の不運かその日はどうしても断ることが出来ない仕事が入ったと、父親からの連絡があったのだ。
ほんの一時間前の出来事だった。知らせを受けた母親は残念そうにしながらも、仕事だから仕方ないと割り切っていたようだが。
誕生日には家に戻ってくると父親と約束し、半月も前からそれを楽しみにしていた少年には到底納得できるものではない。
本来少年が怒りをぶつけるべき父親はここにはおらず。よって、その苛立ちの矛先は彼の母親へと向けられる。
父さんも一緒じゃないと嫌だとだだをこねる少年に、最初は母親もなだめるように説得していた。
だが、少年がいつまで経ってもごねていたため、いい加減にしなさいと母親からぴしゃりときつい仕置きを受けてしまったのだ。
泣きながら部屋に閉じこもっていた少年だったが、やがてそのまま黙って家を飛び出してきた。
もちろん母親には気付かれないように。これ以上こんな家に居たくなかったし、戻らないつもりだった。
約束を守ってくれなかった父親。自分の悲しみを分かってくれなかった母親。どちらの顔ももう見たくなかった。
 出来るだけ遠いところまで行ってやろうと意気込んで家を出てきたまではいい。しかしどこへ行くのか、どこまで行くのか。
そんな当てがあるはずもなく。村はずれまでやってきてようやく少年はそのことに気が付いたのだ。
ここまで来ると周辺にほとんど家も見当たらない。さらには手入れすらされていない荒地ばかりで、殺風景で寂しい景色が広がる。
野生のポケモンが畑の作物を荒らさないように見張っている大人も、その連れのポケモンもどこにもいない。
木の実を育てていない荒地を監視する必要などないからなのだろう。むしろその方が少年にとって好都合。
もうすぐ夕方に差し掛かるであろう時間帯。そんな中、村外れに一人佇む幼い男の子の姿を見れば。
どうしたのかと声を掛けられることは間違いない。そして、大人をやり過ごすほどの上手い言い訳が出来る自信は少年にはなかった。
言葉に詰まっているうちに間違いなく連れ戻されてしまうだろう。そうなってはここまで来た意味がない。家に帰らされるのはごめんだ。
少し先で舗装された道は途切れ、むき出しの地面が顔を出し始める。おそらくそこが村と外との境目となっているのであろう。
村の外に出るなら誰もいない今がチャンス、なのだが。生まれてからまだ一度も村から出たことのない少年にとっては未知の領域だった。
一歩踏み出してしまえば、もう二度と村に戻ってこれないのではないかと、漠然とした不安が少年に襲いかかる。
「戻らないって決めたじゃないか……。こんな所で止まってちゃだめだ」
 自分自身に言い聞かせるかのように、少年は己の決意を口にする。家を出ることは村を出ること。そのためには踏み出さねばならない。
道の境目に立ち一度深呼吸してから、一歩足を前に出す。靴の裏で砂利が擦れる音。彼が最初に感じた、村と外との違いだった。
地面の違いはあったものの、それ以外に何が起こるわけでもなく。村はちゃんと少年の背後にあるし、外の世界は彼の前にある。
最初はどうなるんだろうどきどきしていたが、いざ乗り越えてみると大したことはない。大丈夫だ。
このまま進んでいくと、どこに行けるのかはもちろん少年は知らない。だが今は境界を乗り越えたことによる達成感の方が遥かに大きかった。
知らない場所へ進む不安よりも、未知の領域への期待の方が勝っている。家を、そして村も飛び出した幼い少年はどんどん先へと進み始めた。

―2―

 砂利道の両端は村外れと同じような荒れた草地になっていた。草地を少し越えた先には山の木々が顔を覗かせ始めている。
木と木の間はまだ日があるのに薄暗く、何となく嫌な雰囲気だなと感じはしたが。
自分がそこに入るわけでもないので少年はそれほど気に留めずに歩いていく。
村の舗装された道に比べれば、もちろん砂利道に多少の歩きづらさはあったものの。
少年は進み続けることに恐怖や不安を抱きはしなかった。その砂利道が、侵食してきた草に覆われ始めるまでは。
どれくらい歩いたのだろう。いつの間にかむき出しの地面はほとんどなくなっていた。彼の踝辺りまでの短い草が足元に広がっている。
これまで見えていた道、頼りにしていた道が希薄になってしまうと、途端に少年は心細くなってきた。
うっすらと続いている道の先も何か目印になるような物があるわけでもなく、ずっと草地が続いている。
山の木々も少しずつ道の方へ迫ってきているし、このまま進めば本当に暗い木々の間を進まなければならなくなるのではないか。
どうしよう、と思わず少年は後ろを振り返る。幸いここに至るまで別れ道などはなかった。今から引き返せば村に戻るのは難しいことではない。
いやいや自分の決意はこんな簡単に揺らぐものじゃないと再び前に向き直った少年の鼻先に、冷たい雫がぽつりと落ちる。
はっと少年が空を見上げると、いつの間にやら雲行きが怪しくなっており、空は重々しい灰色に覆われていた。
周囲が薄暗いのは木々が近くにあるせいだとばかり。前と足元しか見ていなかった少年は天候の変化に気付かなかったのだ。
よりにもよってこんな時にどうして。間の悪さに苛立ちを覚えていても天気は待っていてくれなかった。思いつきの家出である。傘の準備などあるはずもない。
そうこうしている間にも一滴、また一滴と雨はぽつぽつと勢いを増し始め、草の上、木々の上、そして少年の上に容赦なく降り注いできた。
迷っている場合ではなかった。このままでは濡れて風邪をひいてしまう。どこか、どこか雨宿りできるところを探さなければ。
きょろきょろと辺りを見回したところ、右手側の草地の奥、山の木々の隙間にひっそりと。ぽっかりと口を開けた暗闇が少年の目に入ってきた。
木々の生えそろう地帯を少し奥に進むと山の岩壁が露出した個所があり、そこの壁面に出来た空洞らしい。
薄暗くて嫌な感じだから出来るだけ見ないようにしていたため、少年はさっきまで気がつかなかったのだ。
膝の高さまである草むらを掻き分けて進み、彼は洞窟の前に立つ。想像以上に奥行きがあるらしく、どこまで暗闇が続いているのか分からない。
天井の高さは少年をゆうに越えており、身を屈める必要はなさそうだ。問題は洞穴が暗いということだった。
留まりのない暗がりは少年の恐怖を増幅させる。闇の奥から得体のしれない何かが出てきそうで、彼は思わず身を震わせた。
しかし、頭や肩や背中にまで降りしきる冷たい雨に彼の心は揺らぐ。ここに非難すればひとまず雨は凌げるだろう。
闇は確かに怖かったがこのまま雨に打たれ続けるのは、今の彼には暗闇に自ら飛び込むよりも耐え難いことだったのだ。
勢いを増しつつある雨から逃げるかのように、少年は洞窟へと駆け込んでいった。

   ◇

 湿った空気を感じた。自分の首周りの長い毛に湿気が絡みついてくるのが分かる。
ここは洞窟の中。普段から空気は外よりも湿ってはいるが、どうやらそれだけが原因ではなさそうだ。
洞内だけではなく、空気自体がいつもよりじっとりと重苦しい。これは間違いなく、近いうちに一雨来る。
食料を調達しに森へ出かけようかと思っていたのだが、この様子だとしばらく後にした方がよさそうだった。
雨の降る風景や、しとしとと心に沁み入ってくるような音は風情があって嫌いではなかったが、何せこの体毛だ。
水気を吸いやすい割には乾きにくいと来ている。一度濡れると完全に水分が蒸発するまでかなりの時間を要するのだ。
彼女は上げかけた腰を再び下ろし蹲る。特にすることもないのでこれから降るであろう雨が止むまで一眠りしよう。
と、目を閉じた矢先に雨の音が外に響き渡り始めた。やはり降りだしたか。短時間で一気に強くなる、通り雨の類だろう。
それほど長時間は降らないとは思うが、こんな中外に出ていたら間違いなくずぶ濡れになっていた所だ。洞窟にとどまっていて正解だったな。
「……?」
 間も無くして、何者かの気配を感じた。すぐ近くだ。彼女は顔を上げて、感覚を研ぎ澄ませる。
雨で跳ね返った土の匂いが少し紛らわしかったが。この匂いはポケモンではない、人間だ。まさか、村人なのか。
彼らがこの洞窟に近づくなどあり得ないと思っていたが。この周辺に人間がいるとなると、あの村の住民しか思い当たらなかった。
 ここに住み始めてからもう長い時間が経つ。初めのうちは恐れおののいていた村人も、今は彼女が危険な存在ではないと気付いている。
種族故に新たな土地では招かれざる客である場合が多い彼女にとって、村人たちの反応は特別珍しいものでもなかった。
何度か戦いを挑まれたこともあったが、村人の手持ちのポケモンを軽くあしらうくらいの実力は兼ね備えていた。
相手に怪我をさせないように配慮するのはなかなか骨が折れたが。そのおかげで、村人たちを諦めさせることは出来たのだ。
村人とて馬鹿ではない。納得はしていない者も多いが、彼女は自分たちがどうこう出来る相手ではないと悟ったのだろう。
それ故か、村人との距離はいつまで経っても埋まらなかった。外で偶然出くわしたとしても、お互いに話しかけたりせず決して目も合わさない。
また、彼女も村人や畑の見張りをしているポケモンに危害を加えたり、木の実を奪ったりするようなことはしない。
自分より明らかに体格のいいウインディやリングマが、出会った途端におどおどして目を反らす光景はなかなか滑稽ではあったが。
そう。彼女と村人との間では、お互いに干渉し合わないことがいつしか暗黙の了解となっていた。そのはずだった。
しかし、この足音の主は洞窟へと近づいてくる。さらには入り口に足まで踏み入れてきたではないか。
入ってきたのは入り口までで、奥へと踏み込んでくる様子はなさそうだったが。それにしても。彼女は驚きを隠せずにいた。
雨宿りをするにしても先住者のいるこんな薄暗い洞窟を選ぶとは、かなり厳しい選択だ。よほど切羽詰まっていたのだろうか。
予想だにしない来訪者に不思議な興味が湧く。雨が止むまですることもないし、どんな人間か見ておいてもいいだろう。
彼女はゆっくりと腰を上げると、不用意に足音を立てないように慎重に、洞窟の入口へと向かっていった。

―3―

「なんでこんなときに雨なんか……はあ」
 ため息交じりに呟く少年。自分なりに急いだとはいえ雨の増す勢いは強く、肩から背中に掛けてしっとりと濡れてしまった。
草むらを通ったときに膝下に付いたであろう枯れ草を手で払いのけ、少年は洞窟の入り口の壁にもたれかかりしゃがみ込む。
本格的に降りだした雨は、草木を揺らしながら静かな音色を奏でている。ひとまずここに居れば雨を凌ぐことはできそうだった。
ただ、ここの居心地は少年にとって決して良いものではなく。
洞窟の奥は薄暗くてどこまで続いているのか分からない闇が広がっている。
暗がりを眺めているだけでそこから得体のしれない何かが飛び出してくるんじゃないかと思うと気が気ではなかった。
沸々と湧きあがる恐怖心と戦いながら、少年は出来る限り奥の方を見てしまわないように外に視線を移す。
止む気配のない雨。強くなりこそしていないもののしばらくは降り続くことを思わせる。
そんな現実がますます少年を懸念させていた。もしかしたら本当にあの村に、そして自分の家に帰れなくなるんじゃないだろうか、と。
もちろんそれは彼の杞憂であり、来た道を辿っていけばちゃんと戻ることが出来るのは間違いない。
ただ、雨によって行動を大きく制限された事が少年の中に不安の影を落としていた。
やっぱり、村を飛び出そうなんて考えないで自分の部屋で大人しくしていた方が良かったのだろうか。
家を出ると決意してからまだ一時間も経っていないというのに、少年は既に後悔し始めていたのだ。
 ふいに背後で物音が聞こえた、ような気がした。いや、きっと気のせいだ何もいない。
必死でそう思いこもうとしても。もし何かいたときのことを考えると。後ろを振り返って確認せずにはいられなかった。
大丈夫、何もいないことを確認してからゆっくり雨宿りを続ければいい。
暗示のように自分に言い聞かせながら、少年は慎重に背後に視線を送る。何もない。何も見当たらなかった。
洞窟の中が薄暗くても何かが動けば分かるはず。
やっぱり気のせいだったんだなと、安心して外に視線を戻そうとした時だった。
ぬっと大きな影が奥から現れたのだ。暗がりでもはっきりと分かる二つの赤い光が少年の方へじわじわと近づいてくる。
「ひっ……」
 勘違いじゃなかった。やっぱり何かいたんだ。逃げなくては。
少年の意識は洞窟の外へ行こうとしているのだが、体がついていかなかった。
完全に腰が抜けてしまい動くことすらままならない。
彼が口をぱくぱくとさせ声にならない声を上げているうちに、その影はすぐ近くまで迫っていた。
薄暗い洞窟の中でもはっきりと分かる、つややかで真っ白な毛並み。
顔の部分は藍色をさらに暗くした感じの色合いで表情は読み取れない。頭の左側からは鎌のように湾曲した角が一本。
四肢には鋭くとがった爪が鈍い輝きを放っていた。赤い瞳が真っ直ぐに少年を捉えている。
「ぽ、ポケモン……なの?」
 影の姿が鮮明になってくると、少年にも僅かながら落ち着きが戻ってくる。
何か別の存在が自分の近くにいて、姿が確認できるのとできないのとでは感じる恐怖もまるで違うのだ。
初めて接する対象への不安はもちろん残ってはいたものの、さっきよりはずっと冷静に影に目を向けることが出来ていた。
しかし、この影は村にいるポケモンとはどれも違っている。少なくとも少年はこんな姿のポケモンを見たことがなかったのだ。
「お前のような子供がこんなところで何をしている?」
 少年の問いかけには答えず、影の主は逆に質問を返してきた。
人間のものとは少し響きが違うように思えたが、意外にも落ち着いた女性を匂わせる声。
想像していたよりもどことなく穏やかそうな雰囲気がある。少年の心に徐々に安堵の光が灯り始めていた。
脱力しきっていた足腰にも再び力が戻ってくる。彼はゆっくりと身体を起こすと、恐る恐るその赤い瞳に焦点を合わせてみる。
暗がりでも衰えることのないその輝きは、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうなくらいきれいだった。
目線の高さは立ち上がった少年と同じかやや低いくらいだろうか。
四足であるため奥行きがあるので、総合的な体格は少年よりもずっと大きいだろう。
「えと、あ、雨が降ってきたから……ちょっと雨宿りをしよう、と思って」
 激しい雨音にかき消されないぎりぎりの声量だったと思われる。
幾度か声を詰まらせながらも、少年は自分がここへと至った理由を告げた。
喧嘩をして家を飛び出してきたことは含まれていなかったが、そこまで説明する余裕がなかったのだ。
少年の言葉を聞いた影は一度目を伏せると、ふうと小さく息をつく。
それが安堵から来るものなのか、呆れから来るものなのか。少年には分からない。
「そうか……ならば雨が止むまではここにいるといい」
「えっ?」
「この土砂降りの中お前を外に放り出すのも酷な話。ここは私の住処ではあるが、雨宿りさせてやろう」
 そういって影はくるりと向きを変え、洞窟の奥へと戻っていく。
踵を返す時にちらりと見えた横顔が笑っているように感じたのは気のせいだろうか。
暗闇に大分目が慣れてきたおかげで、うっすらと内部の構造も見える。影はその一番奥に戻り、腰を下ろしたようだ。
てっきり追い出されてしまうものだとばかり思っていた少年からすれば随分と拍子抜けな、想像以上に優しい言葉だった。
影が奥に行った後もしばらく少年は呆然と立ち尽くしていたが、ようやく自分が雨宿りさせてもらえるのだと理解に至る。
雨から逃れるために洞窟に入って、そこで未知なる存在と遭遇して。
少しばかりの言葉を交わしただけだというのに、とてつもなく長い時間が過ぎ去ったような感覚。
とりあえず自分はここにいていいらしい。雨の心配はしなくてよさそうな感じだ。良かった、本当に。
影を前にして張りつめていた緊張の糸が解けると共に、少年は洞窟の壁を背にしてその場にへなへなと座り込んでしまったのだ。

―4―

 再び洞窟の奥に腰を下ろしながら、彼女は小さくふうと息をついた。
どんな人間が来たのかと興味本位で見に行ってみれば、年端もいかぬ少年だったとは。こんな雨の中一人で何をしていたのやら。
子供心からの好奇心でこの洞窟を訪れたとは考えにくい。試しに探検してみるなら、わざわざ天気の悪い日を選びはしないだろう。
彼はこの洞窟のこと、そしてここに住む自分のことを親から聞かされていなかったのか。
あの村に住む人間の親ならば、絶対に近づかないように釘を刺しておくのがむしろ自然なように思える。
彼がここへ至った経緯は判断しかねるが、雨に濡れた姿が哀れに感じられたので雨宿りさせてやることにはした。
少年は未だに入り口でへたり込んだまま動こうとしない。
もちろん彼女にそんな気はなかったのだが、無意識のうちに圧迫感を与えてしまっていたのかもしれない。
ただ、こんな暗がりで見知らぬポケモンの姿を目の当たりにした割には、なかなか冷静だったのではなかろうか。
泣きわめいて話が通じない状態にならなかったことは褒めるべき点であろう。
 ふいに少年が立ち上がった。凹凸のある洞窟の床は不慣れならしく、いつ転んでもおかしくない不安定な足取りでゆっくりとこちらに近づいてくる。
何をするつもりなのか見ていると、自分のすぐ傍まで来て何か言いたげな瞳を投げかけてくる。もう足元が震えてはいなかった。
「どうした?」
 彼女が問いかけると、少年は少しだけ息を整えてから口を開いた。
「えっと、君は……なんて言うポケモンなの?」
 そういえば彼は最初自分を見たときにポケモンかどうか疑問を抱いていたようだった。
少年が彼女の種族を知らなかったということは、やはり親や他の村人からは注意を促されていなかったのだろう。
「私は、アブソル。そう呼ばれているよ」
 自分が村人の間でどういうポケモンだと認識されているか。それは彼に今教えなくても良いこと。
悪戯に不安を煽るのも考え物だ。少年があの村で生活している以上、そう遠くない将来知ることになるであろうから。
「そっか。ありがとう、アブソル。雨宿りさせてくれて」
 まだぎこちなさは多少残っているものの、大分はっきりと声が耳に届くようになってきた。
そんなことよりも、わざわざ自分に礼を言うために傍までやってきたというのだろうか。
アブソルが立ち上がって数歩距離を詰めれば簡単に少年に触れてしまえる間隔だ。
会って間もない相手への警戒をこうも簡単に解いてしまえるのは、子供ならではの無邪気さ故か。
彼の意思をはかりかねたアブソルはじっと少年の瞳を見つめてみる。
目は心を写す鏡。彼の目を見れば少年が何を考えているのか、少しは分かるような気がしたのだ。
まだ幼さを残していて随分とあどけない瞳の中にも仄かに芯の強さを匂わせるものがある。
「誰かに何かをしてもらったらちゃんとお礼を言いなさいって、お母さんがいつも言ってるから」
「そうか、偉いな」
「へへ」
 少年は照れくさそうに笑う。アブソルの前で彼が初めて見せた笑顔だった。
屈託のない笑みはこちらまで穏やかな気持ちにさせてくれる。こんな心がほっとするような感覚は本当に何年振りだろうか。
人間の子供とちゃんと接するのは初めてだが、子供が無邪気というのは種族が違っても変わらない。
少年の眩しい笑顔や覚束ない一挙一動を見ていると、もう何年も前に独り立ちしていった自分の子供のことを思い出す。
今頃どこで何をしているのだろうか、元気でやっているのだろうか、と。
とうの昔に見送った者へいらぬ心配をしてしまうのは老婆心かもしれないな。
彼女が感慨に耽っていると小さなくしゃみの声で現実に引き戻される。見ると、少年が小さく肩を震わせていた。
「大丈夫か?」
「うん。でもちょっと寒い、かな……」
 無理もない。肩や髪を濡らした少年の様子から察するに、雨が降り出してからこの洞窟に駆け込んできたのだろう。
気温が低い季節ではないとはいえ体が湿っていれば温度以上に寒く感じてしまうはず。
あいにく雨はまだ降り続いてる。このまま彼を放っておくと風邪をひいてしまいそうだ。
「近くに来ないか。少しは暖かいと思うぞ」
 アブソルは腰を下ろしたまま自分の横腹の辺りに視線を送る。少年が身を預けるとすればそこが一番都合が良さそうに思えた。
もう警戒されてはいなさそうだが、さすがに身を寄せるとなると抵抗があってもおかしくはない。
断られることそ想定しつつもアブソルは少年に問いかけていた。一人で居させるにはあまりにも頼りない幼い少年。
久しく動いていなかった母性本能が彼によってつき動かされていたのかもしれない。
「え、いいの?」
「ああ。お前さえ良ければ私は構わないよ」
「ありがとう」
 少年の表情がぱっと明るくなる。そしてアブソルの元に歩み寄り、脇腹にもたれ掛るような形で地面に腰を下ろした。
彼があっさりと提案を受け入れてくれたことよりも、その堂々とした態度に少々面食らってしまったくらいだ。
目の前のポケモンは危険ではないと判断して心を許してくれたのだろうか。会ってからまだ数分しか経っていないというのに。
いや、それは自分も同じことか。彼女も会って間もない少年に気を許してしまっている。
何の偏見もなく真っ直ぐに自分を見てくれていた彼に心のどこかで安心感を覚えてしまったらしい。
身を寄せてきた少年の体温がアブソルに伝わってくる。誰かが傍にいる感覚は、こんなにも安堵できることだっただろうか。

―5―

 寝そべったアブソルの体は少年が身を預けるには些か大きさが足りないように感じられた。
元々そこまで大きなポケモンではないのだ。もしもウインディくらいの体格があれば、より安定感があったかもしれない。
腰を下ろしてもたれ掛かった彼の肩がアブソルの背中から少しはみ出してしまっていた。
とは言え、誰かが自分のすぐ傍にいる感覚はそれだけで心強い。少年はほっと安堵の息を零した。
彼女の白く美しい毛並みはその外見に恥じない柔らかさとぬくもりを併せ持つ。
湿った服を通してでも、少年の背中にはアブソルの温かさが静かに伝わってきていた。
一人で家を飛び出してきたときの不安や、止みそうにない雨に対する不安を拭い去ってくれるような不思議な安心感がある。
「なんか、こうしてるとお母さんといるみたいだ」
 最初は角や爪の鋭さやきりりとした目つきで、怖いポケモンなのかなとも思ったけれど。
別に何かされたわけでもなく、話してみるとずっと穏やかな雰囲気でさらには雨宿りまでさせてくれて。
きっと、悪いポケモンじゃないんだろう。それに、このアブソルの優しさや温かさはどこか自分の母親を彷彿とさせるものがあった。
「お母さん……か」
 少年の言葉に、アブソルはふっと口元を上げる。しんみりと感慨に耽っているように見えるその瞳はとても温かい光を宿していた。
「どうしたの?」
「いや、何でもないさ。少し昔のことを思い出しただけだ」
「そっか」
 このアブソルがどれだけの時間を生きてきているのか、少年には想像もつかない。
たぶんアブソルは自分よりもずっと長い時を過ごしているはずだ。そんな彼女の言う昔が何を指すのか知る由もなかった。
だけどきっと素敵な思い出なのだろう。あんなにも穏やかで、優しさに満ちた表情をしていたのだから。
「ところで、お前はなぜ一人で洞窟の前にいたのだ。森が危険なことは知っているだろう?」
 聞かれるような予感はあった。自分のような子供が外で遊ぶには場所も時間帯も、ついでに言うと天候もおかしかった。
何より自分のポケモンも持っていない少年が丸腰で村の外に出ること自体、とても危険なことだったのだ。
そんな場所に少年はいた。しかも、雨の中たった一人で。アブソルが疑問に感じてもなんら不思議はない。
「……家出、してきたんだ」
 適当なことを言って誤魔化そうかなとも思ったけれど、アブソルの静かな赤い瞳に見つめられていると簡単に見透かされてしまいそうで。
それに彼女はおそらく本気で心配してくれている。そんな相手に嘘は言えなかった。
もしかすると自分の家で起こった出来事も真剣に聞いてくれるかもしれない。少年は腹を決めてこれまでの経緯を話すことにしたのだ。
自分の父親は遠くの街で働いていて、母親と二人で暮らしていること。今日は自分の誕生日で父親も帰ってきてくれる約束だったこと。
そしてその約束が叶わなくなり、辛くて悲しくて苛立って。ついには母親とまで諍いを起こして家を飛び出してきてしまったこと。
一つ一つ、少年は言葉を紡いでいく。アブソルは静かな瞳で、黙って少年の話に耳を傾けてくれていた。
「父親が帰ってきてくれなかったことが、お前にとってはいてもたってもいられないくらいに辛いことだったのだろうな」
「うん……それにその後お母さんともケンカしちゃって。家にいるのが嫌になって飛び出してきたんだ」
 もうこんな家には居たくないと飛び出した直後は思っていた。
しかし今、雨に打たれ冷えた頭で考えてみると、家を出ていったいどうするつもりだったのだろうか。
少年がもっと幼い頃、だだをこねていると母親に「じゃあよそのうちの子になる?」と言われ何も言い返せなかったことを思い出す。
いきなり他の家に押しかけて、そこで住めるはずがないことくらい少年にも分かる。
結局少年が帰るべき場所は、ついさっき自分が飛び出してきてしまったあの家しかないのだ。
「約束を破った父親がどうしても許せないか?」
「だって、僕はもうずっと前から楽しみにしてたんだ。それなのに……。きっと父さんは僕のことなんかどうでもよかったんだよ!」
 少年の声が洞窟の中にこだまする。ぶつけようにもぶつけられなかった父に対する怒りが、少年を叫ばせていた。
がむしゃらに声を上げて、少しはすっきりしたかと言われれば全然そんなことはなく。ただやるせない気持ちが少年の中に残っただけ。
「違うな」
「えっ?」
 きっぱりと言い切ったアブソルの声。少年は彼女の方を見、そしてぎくりと身を竦ませる。
優しい瞳から一転した、鋭い視線が少年を射抜いていたからだ。まるで赤い刃のようなアブソルの眼光が彼に突き刺さる。
ただ単に睨んでいるのとは違う。心の奥へ奥へと入り込んでくる、強い意志のようなものがそこから感じられた。
「本当にお前のことをどうでもいいと思っているなら、最初から約束をしたりしないさ」
「だ、だけど」
 言い返そうとして、少年は言葉に詰まる。 帰ってくると約束をしてくれたときの父の顔は紛れもなく笑顔だったのを覚えていたからだ。
単なる少年への気休めで、その場しのぎの嘘を言っていたようには到底思えなかった。
「約束が守れなくなった父親も、父親が帰ってこられないと知った母親も辛かったはずだ。お前と同じように、あるいはそれ以上にな」
 返す言葉もなかった。自分の誕生日、自分との約束。少年の頭の中にあったのは全て自分のことばかりで、父や母の気持ちなど全く考えていなかったからだ。
遠くにいる父が何を感じていたのかはさすがに分からない。ただ、自分をなだめていた母がちらりと見せた寂しげな表情を、少年はふと思い出したのだ。
「離れていても親は子供のことを大切に思っているものだ。誕生日に戻ってこようとしてくれただけでも良い親ではないか」
「そう、なのかなあ?」
「ああ。私はそう思う」
 アブソルに諭すように言われると本当にそう感じてくる。
落ち着いた話し方は少年の気持ちを引き込み、聞くものを納得させてくれる不思議な力があるように思えた。
「それともお前は、本気で二度と家に帰りたくないと思っているのか?」
「そんなこと……そんなことない!」
 村の外に一歩踏み出すまでは、本気で考えていたかもしれない。ただ、いざ村を出て一人歩いていたときの孤独感、雨に打たれたときの心細さ。
一人で闇雲に飛び出してきたことを少年に後悔させるには十分すぎる要素が揃っていた。
このまま意地を張って帰らなかったところで、いったい自分に何ができるというのだろう。
「家に、帰りたい。帰りたいよ……」
「きっと母親も心配している。雨が止んだらすぐに帰るんだ、いいな」
 もう洞窟の外は薄暗くなり始めている。こんなにも遅くまでの外出は少年にとって初めてだった。
そろそろ少年がいないことに母が気づいているかもしれない。雨の中傘をさして慌てて近所を駆け回っている母の姿が目に浮かんだ。
「うん、帰ったらお母さんに謝るよ」
「それがいい」
 アブソルは安心したように言うと、外へと視線を移した。雨はまだ降り止む気配を見せない。
洞窟の中からでも地面に降りしきる水の様子が確認できるくらいだ。少年が村に戻れるようになるのはもう少し後になりそうだった。
少年は小さなあくびをする。慣れないことの連続でどうやら疲れてしまったらしい。
「雨が止んだら私が教えてやろう。それまで一眠りしたらどうだ?」
「……そうする。ありがとね、アブソル」
 少年はアブソルに身を寄せるようにして横たわる。彼女の体温とふさふさの体毛の感触が心地よい。地面の硬さなんて気にならないくらいだ。
優しいぬくもりは穏やかな眠気を誘う。そう時間が立たないうちに少年は静かな眠りへと落ちていった。

―6―

 アブソルは頭を起こした。少しだけぼんやりしている。少年に釣られて、自分も眠ってしまっていたのだろうか。
おぼろげながら外の様子を覗っていた記憶はある。どうやら、夢と現実の間を行ったり来たりしていたらしい。
外を見るともう雨は止んでいた。しんと静まり返った冷たい夜の空気が体毛をすり抜けて伝わってくる。
教えると言っておきながら、自分も一緒になって寝ていては世話がない。軽く自嘲しながら、アブソルは少年の肩を鼻先でつついた。
「雨が止んだぞ」
 まだまだ眠そうにしながらも、少年はうっすらと目を開ける。体を起こして小さく伸びをした。
ポケモンならまだしも、人間がこんな硬い地面の上で眠るのは慣れていないだろうに。よっぽど疲れていたようだ。
「そっか。今日は本当にありがとう。アブソルのおかげで僕、お父さんやお母さんと仲直りできそうだよ」
「それはよかった。家族を大切にな、少年」
「うん!」
 少年は駆け足で洞窟の入口へと向かって行く。まだ走れる元気が残っているなら十分だ。夜の暗がりを恐れている様子もない。
初めて見たポケモンであるはずの自分にも臆することなく近づいてきたりと、彼は見た目以上に肝が据わっているようだ。
出口まで後数歩の所で少年はふいに立ち止まり、こちらを振り返る。おや、どうしたのだろう。何かやり残したことでもあるのだろうか。
「……どうした?」
「あのさ、また会いにきてもいい?」
 一瞬、彼が何を言ったのか分からなかった。数秒の間、時が止まっていたような気さえする。言葉の意味を飲み込むのに僅かながらの間を要した。
村の人間だけでなくポケモンですら、自分のことを避けて。蔑ろにしているというのに。もう一度会いたい。それは何かの冗談ではないのか。
「なぜ、そう思った?」
「なぜって……今日はアブソルと会えてよかったし、またいつか一緒にお話できたらなあって」
 彼からはアブソルに対する恐れや怯えといったものが全く感じられなかった。最初こそ震えていたが、それは未知なるものへの不安や恐怖。
普段、自分に向けられている視線とはまるで別のもの。純粋に自分のことを一匹のポケモンとして、彼は見てくれているのだ。
もしも村人達が少年のような心の持ち主ばかりならば、という考えが頭を過ぎったが、それは叶わぬことだと分かっている。
一度根付いた思想や意識は一朝一夕で変わるようなものではない。長命な種族であるアブソルはそれをよく知っていた。
「やめておけ。村人達は、私と会うことを快く思わない。お前が周囲からおかしな目で見られることになるかもしれないぞ?」
「どうして?」
「今は分からずとも、いつか必ず理由が分かる時がくる。近い将来、必ずな……」
 あの村で暮らしている限りは、村人たちが気を許せない存在である自分のことは嫌でも少年の耳に入ってくるだろう。
もしかすると彼の母親から教えられる可能性だってある。別におかしなことではない。
村に住む大人ならば、子供が危ない場所へ近づかないように注意するのは至って自然な振る舞いだ。
正直なところ、自分の本心としてはまた少年と話してみたいとは思ってはいた。
誰かが側にいて、何気ない会話をするということ。久々の感覚はアブソルの心に確かな安らぎを与えてくれていたのだ。
しかし少年のことを考えると、安易に頷くわけにはいかなかった。
自分たちと違う者、自分たちが理解できない者に対して人間は冷たい態度や攻撃的な態度を取る。アブソルが身をもって感じてきたことだ。
彼が自分と同じような境遇になってしまうことは避けたかった。
「アブソルが気にしてること、あんまり分からないけど……僕はまた会いたいって思ってるんだ。だから、だめかなあ?」
 周りの目などは気にしない、己がこうしたいと思った方向へ突き進む。まさに子供らしい素直な発想だ。
そんな真っ直ぐな少年の瞳を見ていると、自分があれこれ思考を巡らせていたことがすべて杞憂だったのではないかと感じてしまう。
自分に会いに来ることは村からすれば好ましくないことであろう。だが少年の純粋な気持ちを無視してまで、彼を遠ざけることはしたくなかった。
「……好きにしろ」
 自らは頭を縦に振らず、今後の動向を少年に任せたのは少なからず後ろめたさがあったから。こう言えば彼がどう出るかは察しがつく。
少年のようには自分に正直になりきれはしなかったが、最大限の願望を含めた返答が出来たのではないだろうか。もう一度会ってみたかった。
「ほんとに? じゃあ約束だよ、また会って話をするって」
 少年の顔がぱあっと明るくなった。夜の暗闇をすべて跳ね返してしまいそうなくらい。こうも分かりやすい反応だと見ていて微笑ましい。
約束、か。彼が約束を破られることを何よりも嫌うのは、今までの話で分かりきっていること。
必ずなんて保証はどこにもないのに、安易に約束など交わしてしまってもいいものかどうか。
しかしここで首を横に振れば、せっかく晴れた彼の表情をみるみるうちに曇らせてしまうのは想像に容易い。
ちゃんと両親と仲直りする決心もついたことだし、少年には清々しい気持ちのままで洞窟を去ってほしかった。
「分かった。約束だ、少年」
 満面の笑みで頷くと、少年はこちらへ再び駆け寄ってくる。何をするつもりなのかと見ていると、自分の手を差し出してきた。
小さな手だった。触れることを躊躇わせるほどに。自然と守ってやりたくなるような、そんな手。
「指切りしよう。人間は大事な約束の時にはこうするんだ。アブソルも手、出して」
「あ、ああ」
 アブソルも言われるがままに自分の前足を差し出した。爪で少年の手を傷つけないよう、慎重に。
人間の決め事のようなものを信じたわけではなかったが、それをしておけば本当に約束が守れそうな気がしたからだ。
「指切りげんまん嘘ついたらはりせんぼんのーますっ、指きった!」
 何かの呪文のような言葉。アブソルには皆目意味がわからない。それでも少年は満足げに指を離した。
「約束するときはこれを言うんだ。げんまんはげんこつ一万回のこと。でも、本当に叩いたり針を飲ませるわけじゃないよ。嘘をついたらそれくらいのつもりでいなさいってことだと思う」
 なかなか面白い例えだ。確かに約束を守ることは大切だし、それぐらいの気負いがあってもいいかもしれない。
最初は半信半疑ではあったが人間の決め事も興味深いものがあるものだなと、アブソルは感じたのだ。
「なるほど。では私からの約束だ。今後どんなに親と喧嘩をすることがあっても、もう家出なんて考えるのはやめておけ。いいな?」
「うん……約束する」
 頷き、手を再び差し出そうとした少年。また、指切りを交わすつもりだったのだろう。しかしアブソルはゆっくりと首を横に振った。
「お前は約束は守る子だ。ならば、指切りは必要ないだろう?」
 少し戸惑った様子の少年だったが、やがて静かに頭を縦に振る。
「……そうだね。もう僕、家出したりしないよ」
 あえて指切りを交わさないことで、強まる覚悟もある。そう思ってアブソルはあえて手を差し出さなかった。
少年の意志の篭った瞳を見る限りだと、どうやら少なからず効果はあったようだ。
「それじゃ、ばいばい。アブソル」
「ああ、元気でな」
「うんっ!」
 最初の返事よりも、更に生き生きとした声が洞内に響き渡った。
いそいそと忙しない駆け足の音もすぐに聞こえなくなり、辺りには夜の静寂が訪れる。
本当にあっという間の出来事で、まだそこには少年がいるような感覚がアブソルの中に残っていた。
静かな洞窟の中など当たり前の日常であるはずなのに、妙な心苦しさを覚えてしまう。それだけ少年の存在が大きかったらしい。
「礼を言うのは私の方だったのかもしれないな」
 自分でも不思議なくらい、穏やかで暖かい気持ちにさせられた。寂しさが残りはしたものの、それを十分に埋め合わせてくれるくらいの充実感はあった。
孤独にはとっくの昔に慣れていたつもりでいたのに。自分の中にも他者の存在を許容し、求める心がちゃんと残っていたということか。
「ありがとう……」
 アブソルは小さく呟く。彼に届きはしないと分かっていても、言葉にしておきたかったのだ。
自分の前足をじっと見つめ、アブソルは蹲ると静かに目を閉じた。約束を交わした少年の小さな手を思い起こしながら。

 END



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Last-modified: 2014-12-30 (火) 20:45:59
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