Writer:Lem
この小説には同性愛の表現、流血表現が含まれています。苦手な人はお引取り下さい。
Introduction.
かつてはこの地にも人間がいた。それは決して多くはなく有体に述べれば集落がそこかしこに在る土地だった。
何時、誰が、どうやって広めたか。何故広まったのか。確かなのは何処にでも宗教文化が存在するという歴史的事実。
神、悪魔、聖霊、精霊、祖霊……人間は数多の概念を信じ、崇め奉り、果ては形に残そうとした。
やがて宗教文化は拡大、肥大化し、吸収、分裂、衝突を繰り広げる不毛の時代へと移行する折、この地の彼らは異色と呼べる文化を布いている。
彼らは神は人に宿り、人が死ねば他の人へと移ろい往く存在であると説き、彼らは狂信的なまでにそれを信じて疑わず、他の布教を拒絶した。
故に彼らは人に似せた神像を創り、
大災害。それが神によるものか悪魔によるものかはさて置きつつ、彼らは自然の呼吸に耐えられなかった。彼らだけではない。その周辺にある
彼らの遺したものに加護が宿っていたのかどうか。被害の影響が少なかった土地では未だ命が息衝いていたが、それも次第に数を減らし、最後には文化の骸だけが残った。
彼らを滅ぼしたのは神か、悪魔か、自然なのか。唯言える事は一つ。彼らは最後まで狂信的に自らを信じていた。
悠久の
噂が風に乗り、風から鳥へ、鳥から木々へと広まっていく中、何時しかこの土地はこう呼ばれていくようになった。
流れ者と炎が集う島国――と。
1.
恐らくは大昔に噴火でもあったのだろう。今でも時折降り出す火山灰や粘土状になった地面、地震や地殻変動で断層が丸見えの隆起した岩壁は巨大なバウムクーヘンにも見える。尤も齧ってみたところで俺の腹が満たされるかといえば、そんな事ある訳が無い。一部の同属には土塊を喰って生きる奴も居るが、仮にそいつらに味を伺って美味しいと返されても何かが変わる事は無いし、そもそも俺は土塊を食する文化は持ち合わせていない。喰うならば肉と、女だ。
視線をずらし、断崖を横に道なりに歩いていく。他に見えるものといえば夜空と星、隆起の激しい崖に生える木々を越した先には昏い海しかない。陸と海のアンバランス、不調和が生み出す自然美を素晴らしいと言う奴が居るならば、そいつを押し倒して現実というものを見せてやりたくなる。
風景はまだ続く。正直、美的感覚に興味が無い俺にとってはさっさとその場を抜けてしまいたいのだが、如何せん道が悪く、下手をして足を滑らせようものなら一瞬で彼の世逝きである。生憎と冥界の番犬になるつもりもない。
慎重かつ迅速に、
ざぶん、と水音が撥ね、水を掻き分ける音と弾く音が続き、再びざぶん、と水音が撥ねる。対岸へ上がりきると体を震わせては水滴を飛ばし、最後に体内の毒素を燃焼して体温を調整するのだがそこは省いた。あれをやると腹が減り、又使いすぎれば武器である炎を吐けなくなるのもあるが、本当の理由は暑いの一言に尽きる。今の時期ならば少し歩くだけで直ぐに乾くだろうし、離れていようともここは火山地帯で常に気温が高い。とはいえ水源の近くにいては乾くものも乾かないので、さっさとその場を離れる事にした。
もし先程の渡河を他の者が見ていたならば誰もが口を揃えてこう言うのだろう。あいつは自殺するつもりか、と。
確かに炎を武器とする種族が水に入るという行為は、傍から見て自殺行為に等しいばかりか愚の骨頂である。にも拘らず渡河するからにはその先に相応かそれ以上の価値がある事に他ならない。現に先へ進めば進む程、その価値は様々な形となって俺の感覚を刺激していた。
木々は青々とし、極限にまで澄み切った空気に、冷えゆく気温が夏である事を忘れさせた。風の音も鳥の音色も聞き取れぬ程広がる静寂へ、落ち葉を踏みしめる自らの足音が、唯々静かに、耳の中を木霊する。
俺の五官の機能がおかしくなった訳じゃない。寧ろ研ぎ澄ませば研ぎ澄ます程それは多大なダメージを俺へと送り返してくる。果ては極楽浄土に居る様な気分に陥りそうになる。それほどまでにこの空間は異常だった。言うなればあの河川は三途の川で、死後の道を俺は今辿っている。
喩えの話とはいえ、もしかしたら本当にそうなっているのではないかと不安にもなる心へ、一心の思いを込めて一歩一歩と突き進む。その足取りに迷いは無い。招かれている――そんな気さえもする。或いは招かれざるものを招いているのかどうなのか。ならば俺は後者だろうと一人肯くや、周りの木々に隠れる様にして巨大な洞が見えてきた。一見すればそれは洞ではなく木造造りの社だが、俺にはそう見えた。初見の時から、今でも、同じ感想を抱いていた。
その社は是までの道程に反して所々が朽ち果て、入口の戸棚と思わしき屏風は変色と穴が開いており、それこそ正に洞と称しても文句の付け様が無い深い闇を覗かせる。一飛びで越せる段差を順に上り、屏風の右下にぽっかりと開いた洞へ身体を潜らせて。
そして何時、何度見ても不気味にしか思えない木像が必ず一目に入る。それは大樹の様に屋根まで届き、合掌と胡座を組んで佇んでいた。
その木像の胡座の上に、彼女も又、前足を交差させて寝そべっていた。
月明かりでおぼろげな薄暗い室内でも見て分かる。或いは完全な闇の中だろうと、その毛色が放つ白金によって彼女を認識できるだろう。
彼女の後ろでふわり、と無数の尻尾が舞い、炎の様に輝く瞳に、妖しさをも湛える笑みを浮かべ、白狐の口から音色が洩れる。
「今宵も又、参拝かえ?」
夜半を過ぎ、生物が限りなく死に近い眠りへと誘われる時刻に彼はやってきた。闇から抜け落ちた様な被毛は周囲の風景と混ざり合い、元は乳白色であろう二対の角も灰で薄黒く染まっている。その色は是までを経てきた彼の業と取れなくも無い。
「俺がそんな口に見えるか」
面白くないのか元々低い声を更に低くする彼へ、シニカルな笑みで返しつつ。
「それで何用じゃ? 主が用も無くここへ来る事もあるまいて」
「この地は流れ者と炎が集う。あんたも知らん訳はないだろう」
「ほう? それは初耳じゃの」
「まどろっこしいのは嫌いなんでな。単刀直入に聞く」
無視されてしまった。全く冗談の通じない殿方で面白くない。もう少し愛嬌というものがあっても良かろうに。
「あんた――子はいるのか?」
「生憎と主の子を孕んだ記憶は無いのう」
「そうか。それならいい。邪魔をしたな」
「嗚呼――待て待て」
踵を返して早急に立ち去ろうとしながらも、振り向きはせずその場で立ち止まる彼へ。
「聞くだけ聞いて帰るつもりか戯け者。
「何だ」
「その流れ者――此方と同種と見て良いのじゃな?」
そうだ――とは答えず彼はしばし無言の侭、程なくして屏風の外へと姿を消していった。必要最低限だけを述べ、それ以上は無駄とみるのが彼の観念であるらしい。先の沈黙も肯定を意味するものだろうが、それにしてもだ。
「若い内から無愛想では色々と損じゃろうに。嘆かわしいのう」
やれやれと嘆息を吐きつつ顎を手の上に乗せる。そのまま何も考えずに思考を泳がせるが、胸の奥で好奇心が右往左往しては無垢な瞳で訴えかけた。
二度目の、やれやれであった。
「彼奴を見失う前にさっさと出立するかの」
のっそりと神像の胡座から降り、伸び伸びと体中の筋肉をほぐしていく。最後に寝たのは……はて、何時だったか。
記憶を巡らせながら毛並みを整えている中、自らの被毛の色を見る。白んだ毛束の中に僅かに残る金色の毛。過ぎ去った時間への哀愁を感じながらも当の目的を思い出す。今優先すべきはそちらではない。
身支度を整え終え、屏風の外に向かって歩き出す。潜り抜けた先に広がる景色は最後に見た記憶と変わらず、先の見えない一本の道が伸びる様に続いている。
ゆったりと最後の段差から地面へと降り立つ。足元から伝わる土の体温さえも酷く懐かしい。懐古の情は生への執着ともいう。全く、老いたものだ。
一歩、二歩、三歩、四歩と徐々にペースを速めていく。緩慢な動作に緩急が加わり始め、気付けば身体は風を切るように疾走している。それでも。
幾ら我が身が衰えずとも、心は老いていく。身体が覚えているだけで、それも徐々に失速していく。緩やかに、確実に、後ろから距離を詰めてくる。どれだけ逃げる様に駈けていっても――
「――っ!」
河川が視界に入る。正確にはそれは直前の所まで詰まり、つまり気付かない侭走り寄っていた。急停止するには距離足らず、飛び越すには長すぎる。このままでは河川の中へと落水、はては溺死してしまう。泳ぐ方法なぞ、我が身は持ち合わせていない。後三歩分。
是は宜しくない。非常にあまりにも宜しくない。老いを恐れるが故に自ら死の渦中へ飛び込むなぞ、そんな気は九牛の一毛たりとも存在しない。何とかして状況を切り抜けなくてはと思うのだが一向に解決策を見出せない侭――二歩分。
最早已む無しと制限時間が尽きる刹那。一歩半分の所で、河川の中央に小さな岩が頭を出す一歩分。
そこを目掛けて飛翔する。地を蹴る際の微妙な軌道修正が功を成したか、前足は頭上へ着地、後ろはどうにもならずやや水に濡れ、それでも確かな手ごたえを足裏から感じつつ対岸へ向けて二度飛んだ。
その様を他の者が見ていたならば、月光に映し出された彼女の姿がまるで金色の流星の様に見てとれただろう。
とん、ととん、とん、と軽やかな音を奏で、流星の足が止まった。動悸が激しいのか荒い息を吐いては吸いを繰り返す。やがて落ち着きを取り戻す頃には、後ろ足の濡れ水が地に染みを作っていた。
片方ずつ脚を振って水分を掃い、被毛に染み付いた余分な水分を舌で掬い取る。全く、地肌に被毛が貼り付いて実に気持悪い。以前はこんな所に河川など無かったはずなのだが。
何にせよ考えながらの行動は非常に宜しくない。危うく黄泉送りになっていた所を思うとぞっとする。身震いを感じつつ下流を眺めていると、黄昏*1が見えた。
「おお、丁度良い処へ参ったのう。む、何じゃ? 何で主はそんなに水浸しなのじゃ。飛び越すのに失敗したのかの?」
「……ああ、運が悪い事に岩が崩れてな。おかげ様で大分流された」
「それは難儀じゃったのう。嗚呼、こちらに
「元々こういう目つきだ」
やや腑に落ちぬものの、余計な詮索はしない方が得策と思いそれ以上は問わなかった。
しかし改めて見ると彼の風体は筋骨隆々である事が覗える。極端に被毛が短いのか、あの部屋が暗すぎて彼の印象を捉えきれていなかったのか。
「何の用だ」
「おお、そうじゃった。先の流れ者が気になったのでな。唯、此方は
それだけを聞くと彼は訝しげな目つきでこちらを見るが、直ぐ様に踵を返すと脇道へそれ、続けて一言。
「勝手についてこい」
「おお、そうさせてもらおう。しかしあれじゃのう。水も滴るいい男という言葉は主のことを言うんじゃな」
本日三度目の冗談だったが、一方はそれすらも無視し、一方は気にする事もなく、双方とも茂みの中へと消えていった。
もうウンザリだ。コイツ等は僕に何をさせたがっているのか。
流れ者と炎が集う島国があるという噂を耳にし、そこでなら僕の様な厄介者でも受け入れてくれるのだろうかと思っていた。それなのに。
結局何処へ行っても同じで楽園なんてありはしなかった。
仮に周りの反応が正常で、世界が正常で、僕が異常なのだとしても。それを受け入れたら僕という存在は何処にあるというのだろう。僕が僕で無くなるとしたらそれは一体誰なのか。分からない。自分の意思も周りの雄も、この状況下も全てが不鮮明で気持悪い。この視線の嵐が訴えるむず痒さも、周囲の雄が抱く感情も、息遣いも、何もかもが気持悪い。
距離を詰めるなら詰めればいい、手を出すなら出せばいい、辱めるなら辱めればいい。僕はどれにも逆らって、歯向かって、抗って、食い千切ってでも生き延びる。けれど連中はそれのどれすらも行わず僕を凝視し続ける。
視線の陵辱に耐え続けて早数時間。もうウンザリだ。二回言った気がするけどこんな最悪な気分を変えられるなら三度でも十度でも繰り返してやりたい。いっそ呪詛の様に百まで呟こうかと思い始めたその矢先、咆哮が空から轟き、それは空気を切り裂いて僕の身体を振動させる。背後は断崖絶壁。周囲は平地と雄の群れ。当然そいつ等が発した遠吠えでない事は、凝視し返していた僕が一番よく分かっている。
だからこそ、突然のその出来事に僕は一瞬理解が遅れた。周囲の雄が一斉に天を見上げている事に。
「御苦労だった御前達」
視線に導かれる侭、声に誘われる侭、僕は天を仰ぎ見た。立ち位置が悪いのか崖が高すぎるのか姿はよく見えないが、背後の月光が声の主らしきものを朧に映し出している。姿をもっと確認すべく石壁から数歩後退ると、そいつは空でも飛ばない限り飛び越せそうにない崖を滑り降り、中間に差し当たる所で身を屈め、宙を舞って僕の背後へと流れる様に落ちていく。
強烈な地の鳴動、遅れて背後を振り向く僕、更に遅れて石崖から流れ落ちる無数の小石、そして静寂。
あれほど気持ち悪かった周囲の凝視が嘘の様に感じるとともに、僕は降ってきたそいつに対して明らかな恐怖を抱いていた。得体の知れない雄というのもあるが、一番の理由は周囲の雄とは違って、見るだけで全てを切り刻みそうな鋭い眼光を放ち、決して大柄ではないのにごつごつとしたその筋骨。宵闇より直昏く、禍々しささえ感じる被毛の色。口端からはつい先程まで血を滴らせたかの様な赤黒い舌を覗かせる。その姿は同類と呼ぶにはとても異質過ぎ、異形を越して別物にしか見えなかった。
「小娘。ここがどういう地か知っての事か?」
吐き気さえ覚えるおぞましき威圧感が声に乗って僕の脳を掻き乱す。逃げ出せるものなら今直ぐにでもそうしたいが、後足は意思に反してがくがくと震え、尻尾が勝手に股下へと潜り込んでいる。眼光が更に鋭くなる中、僕は切れ切れな言葉で答えを返す。
「この地は見ての通り荒くれ者が多い。争いも常時盛んに行われるがそんな場でも
「……何の規則だ」
「だからこそ聞いているのだ。力も知らぬ小娘が何故こんな所へやってきているのか、とな」
「ッ……バカにするなっ! 力くらい僕だって知ってる! それに僕は小娘じゃない! 雄だ!」
周囲の雄からどっと爆笑が噴出す。「雄? おいオマエあれが雄に見えるか?」「オレには雌にしか見えねぇぜ」「オレもだ」等、好き勝手に罵声が飛び交う。煩い、煩い、煩い……僕は……!
「僕は――」
「手前等は黙ってろ!」
轟く怒声が罵声を掻き消した。逸れた視線が再び僕へと移り、鋭さを増す眼光とともに雄が問う。
「ならば坊主、力で証明しろ。俺を屈服させてみろ。それで手前は晴れてここの住人だ」
「…………」
「手前が負けた場合は……どうなるかは分かるな」
空気がしんと静まる。事態は最早避けられない方向へと加速している。周囲の雄もそのやり取りを真剣な眼差しで僕等を見ている。一方の雄は座した体勢から不動の侭、変わらぬ眼光を以って僕を睨み続け、対する僕は目の前の巨漢を倒すイメージが浮かばない。
威風堂々、大胆不敵とも取れる様には微塵も油断が感じられない。勝てない。けれど退く事もできない。恐らくとは言わず倒すことは無理だろう。だから。狙うのは一瞬の隙を作り、急所を突くこと――これしかなく、それしか自分ができる範囲の、限りなく低くて高い可能性。
仮に負けたらどうなるかなんてものは考えない。そんな未来を想像したら現実になってしまいそうだから。
僕が僕である為に。生きる為に。そう自分を活気付け、震えが和らぐと同時に地を蹴って走る。狙いは一直線に。そう――思わせるんだ。
風を纏う感触すら切り裂く様に僕は巨漢へと疾走する。巨漢は動かない。
永遠のものか、一瞬のものか。一秒間が長く感じる。巨漢は動かない。
積み重なるコンマの数字がついに一秒を告げる。巨漢は未だ動かず――その身に僕は激突した。
爆発するような衝撃はまるで岩に体当たりしたかのようで、反動に耐え切れず僕はそのまま逆方向へ投げ出される。受身を取ることすらも忘れ、地べたを擦る様にして落ちた。巨漢は不動の侭、僕をじっと見つめている。
避けもせず真っ向から僕の攻撃を受け止めた事もそうだが、全く効いていないというのは予想の範疇を超えていた。僕の身体は未だ衝撃で麻痺も抜けきらないというのに。
よろめく身体を鞭打って無理矢理立たせ、再び対峙しては睨み合う。巨漢が何かを呟いているが聞き取れなかった。疾走の際に発した風切り音の影響だろう。耳までもが麻痺している。耳の中がきんきんとして頭が痛い。
一度目は失敗したが構うものか。二度目はない。そう思わせられるならこれしきの事は安いものだ。次で隙を作れる。そうなる自信が僕にはあった。根拠の無いその自信は何処からくるのか、そんなことは微塵も思わなかった。
二度目の疾走。再び走る風切り音。巨漢は動かない。
さっきと同じ。けれど僅かに違う時間の経過。巨漢は動かない。
激突するその刹那、僕は身体を急反転させると同時に後ろ足で土を蹴り飛ばす。弾丸の如く飛来する土塊はそのまま巨漢の顔を襲い、視界を奪い、一瞬の隙を作った。
訪れた絶好の好機を逃すはずもなく、速攻で身体を反転。そして相手の首筋へと向かって食らい付く。歯牙が皮下を貫き、その勢いは根元まで沈む。それ程の全力を込めたつもりなのに、歯牙は半分はおろか首筋の筋肉に阻まれ、それは刺さっているというよりも引っ掛かっているという表現に近かった。
何度も何度も口に力を込めるがびくともしない。まるで石を噛んでいるみたいだった。
「どうした……食い破らないのか」
巨漢の喉下からくぐもった声が歯牙を通して伝わってくる。言われなくてもそのつもりだというのに。くそ、くそ、くそ。どんだけ硬いんだよコイツは!
「悠長に遊んでいられる程、俺も暇ではないのでな。恐れに臆せず立ち向かったその勇気に免じて……」
巨漢は僕をぶら下げたまま立ち上がると、続けて「じわじわと嬲らず、一瞬で終らせてやる」と言葉が終る頃にはその身は風を切っている。一体何をするつもりなのか。
その考えは直ぐに把握できた。巨漢が前にしていた先の方向。即ちそこは――
僕は直様に顎の力を緩め、歯牙を抜こうと力を込める――が。抜けない。いや、抜く事ができない。僕の歯牙は巨漢の筋肉の収縮によって拘束されていた。まずい。コイツは石壁に僕ごとその身を叩き付けるつもりで疾走している。早く何とかしなくてはと焦りが僕を急かす。
抜けろ、抜けろ、抜けろ……何度頭の中で繰り返したか。石壁はもう目と鼻の先に迫っていた。
再び衝撃。そこから先は何も覚えていない。薄れゆく意識が最後に見たのは巨漢が何かを呟く所だったが、耳は未だ風の通り道を走り続けていた。
はしがき。
ようやく舞台者が揃いましたね。
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