内務省照和××年△月○○日禁止 第▽▽▽號 人閒ト
公開者による前書
カントーに住む祖父が亡くなってから、誰も立ち入らなくなって久しい古めかしい蔵を、とうとう取り壊すという運びになって、蔵内の整理をしていた折、孫である私は珍妙な箱を見出した。無造作に置かれた割には、何重もの封がしてあってどこか物々しい印象を与える黒い小箱であった。不思議な好奇心に囚われた私は、蔵の整理を中断してまでその箱の中身を確認することにした。すると、中からは山のような古新聞の切り取りと、誰の手によるのかははっきりしないが、やけて色褪せた何枚かの原稿用紙が現れた。古新聞はいずれも
仕方なく私は、この珍妙な小説とも手記とも言い難い文章を、インターネット上に公開することにした次第だ。経歴のわからないものではあるが、この時代にもポケモン(当時は「衣布妖怪」、略語では「
序
犬正△年⚪︎月⚪︎日ニ關東郡山吹市ニテ發生セル
鎌之重ツ三 譚奇猟ンモキパ東關
記事が揃つて
彼の愉しみと云へば、難渋な古今東西の哲学書や宗教書、浩瀚な文学書を渉猟することであり、或は詩的靈感を求るが如く目に寫る景色を茫洋と眺めて過す計りで、同年代の幼兒や少年が外へ駆けずり
此の憂慮さるべき家督の一大事に對して、玉蟲大學考古學科の教授である彼の父親は一計を案じたのであつたが、其れは尋常ならぬ憂鬱症に囚われた少年の精神に一時の平穩を
其れこそが、件の教授が關わつてゐた案件であり、事件より数年を經た今も猶、信じ難い話にも思われるのであるが、發明された新裝置を使つて關東の月見山や條都の亞留不遺跡等各地で發掘された古代衣怪と思しき化石を現代に復原させると云ふのであつた。此れは今世紀最大の科學的成果であると、識者達が誇らしげに誌面で宣言した事は好く
この教授氏が如何にも得意気な顏で少年に贈つたのが、その實驗によつて古代より犬正の世に蘇生を果たしたカブトなる衣怪なのであつた。私も當時の寫眞入りの『キングラア』の記事にて、其の姿を目にした事があるが、黄褐色の甲羅に覆われ、縁に一対の小點の付いた背中は、精々近所を飛び囘るピジヨンやらオニドリル位しか目にした事の無かつた私にとつて、大變奇異な印象を齎した事を好うく覺江てゐる。其の上、腹部には左右四本ずつの脚が蠢き、赤く發光するぼんやりとした目は、餘り長く見詰めてゐると、その内奧へと引き摺りこまれてしまいさうな
寫眞を通してさへ、私が眩暈がする程の衣怪であるからには、父親よりカブトを貰つた少年の衝撃は如何許りであつただらうか? 記事を追う毎に窺ひ識れるのは、私など到底比較になどならないレヴエルの少年のカブトに對する陶醉振りである。
カブトを其の眼に收めた途端、今迄少年を覆つてゐた憂鬱は、忽ちにして雲散霧消し、人が變つたやうに快活になつたのを見て、彼の両親は安堵し、大ひに悅んだ。少年の眼には、最早書物も退廃的な景色も無く、只カブトのみがあるかのやうで、毎日連れ歩ひて、その後ろに隨へては、ぴよんぴよんと跳ねるが如く付いてくる姿を、大層面白がり、可愛がつて何時迄も飽きる事が無かつた。
メランコリツクな時期に散々彼の頭腦に溜め込まれてきた智識が、烈火の如くに其の才能を芽吹かせ始めたのも、カブトのお蔭かも知れなかつた。少年は膝にカブトを置いて矢庭に繪筆を握ると、腦内の心象風景とでも云ふ可きイメージをカロスの印象派達を彷彿させる色鮮やかな筆致で
少年の両親や地元の人閒からすれば、此れは神童の誕生であつたらう。少年も又、藝術家特有の天啓と心得て、其れが己が進む可き道であると感じたに違いない。然し、其れらの素晴らしい表現は、畢竟、
識布カンパニヰ社の話が出たので、此処で僭越ながら、當時は未だ「衣怪ボウル」なぞといふものは發明されていなかつた事を付言させて戴かう。
兎も角、靑年とカブトの絆は傍目から見ても強固なものが認められた。カブトは大人しい氣性で、主の手を離れたところで逃脚も遅かつたから、靑年は大學にせよ、街を逍遙するにせよ、
講義の
蓋し、神武なるアルセウスより此の方、凡そ世に出來してきたアクシデントと云ふものは、何処か宿命的なる諸要素に支配されてゐるやうに感じられる。其れは喩えれば、古代
靑年はカブトと共に山吹の街を隅から隅まで散策するのであつた。ギムナヂウム通りから八番道路通り、最近創業した計りの衣怪用の道具等を賣るフレンドリヰショツプの前を通つて、黄金色の煉瓦で彩られたモダンな建築の立ち竝ぶ大通りの景觀を滿喫しつつ、腦神経たつぷりにインスピレヱシオンを吸い込んで、識布通りのアパルトマンへ歸ると、靑年は早速帆布の前に座つて繪を描き始めた。膝には勿論カブトを載せてゐた。寝食も忘れて繪筆を奮つて、イメージを平面上に投影する。他の學生達が
カアテンの向こうで鳴くポツポの声で、朝になつた事を靑年は識つた。膝上で微かな息を立てて眠つてゐたカブトを抱き上げると、赤い目を薄く發光させながら、如何にも眠たげな気色を示すが、ぼんやりとした焦点が靑年の繪畫に合うと、衣怪乍ら藝術の微妙が解つたものか、腕代わりの前爪をピンと伸ばして、感嘆のやうなものを表明した。
「さうか、さうか、お前にも、解るのだな」
靑年はいたいけなカブトの甲羅を掻き撫でながら、己が魂の投影を見詰めてゐた。然しながら、相変わらず其れが何であるのかは理解し得ないのであつた。靑年は、今カロスで持て囃されていると云ふシュルレアリスムなる藝術精神に於ける新運動の事を考へた。其の作品羣に直に接した事は未だ無いが、藝術雑誌の翻譯で讀んだ彼らの主張には共感する處が多かつた。無意識と云ふ人閒精神の秘められた領域を
如此く、靑年の不幸を叙述し乍らも、筆者たる私は此処で擱筆して、靑年とカブトの幸福を紙上に留めて終いたいという慾望に必死に逆らつてゐる處である。無論、起きてしまつた事は起きたことであり、尾の焔が消えたヒトカゲのやうに最早取り返しが付かぬと云ふのは解ってゐる。けれども、起こり得た一つの可能性を表現するのも又筆の力ではあるまいか。しつこくアリストテレヱスを引けば、歴史家が既に起こつた事を語る者ならば、詩人とは起こり得る事を語る者である。今、私は歴史家と詩人との閒で絶え閒無く搖れ動いてゐる。考えやうによれば、靑年とカブトの平凡なれど幸福なる結末も起こり得たのであるから、詩人としての私は其れを夢想せざるを得ない。一方で、歴史家としての私は質が悪く、(……)。
靑年は次第に、學校での教條的な講義に飽いてきた。カロスやガラル、さらにはウノバより發信される前衛藝術の消息に、早熟な我が主人公はすつかり心惹かれてゐたのである。だのに、教えられる事と云へば前時代の遺物のやうな骨董品に過ぎない舊藝術計りで、靑年を辟易させるには充分であつた。當然の成り行きとして、靑年は大學の講義をサボタアジユするやうになつた。其れは靑年個人の精神的ストライキでもあつた。退屈な講義で時閒を屑籠に捨てるよりは、只管帆布に向かつて己の藝術を鍛錬する方が遙かにましであつたのだ。
何よりも、カブトと共にゐる時閒が靑年にとつて代え難い至福だつた。無我夢中で繪筆を操つてゐても、膝上のカブトの凡そ三貫の重量は否応にもしつかりと感じられ、忘我の世界にあつても、カブトがいるのだと云ふこよない安心感を覺江るのである。其れは恰も、悪夢から目覚めて夢現も判らずに戰栗する兒を、優しく掻き抱いて接吻する母親のやうであつた。
頭腦が疲れて來ると、靑年はカブトを抱いて何時ものギムナヂウム通りのカフエヱへと向かつた。給仕役のラッキヰとはすつかり顏馴染みになつていて、靑年を見るや萬面の笑みで迎へては何時もの席へと案内してくれる。看板衣怪のイヰブイも、初めは見慣れぬカブトを懼れてゐたが、軈て好奇心が勝ると勝手に近寄つて來ては、その栗色の毛竝を纏つた脚でちよんちよんとカブトの甲羅を觸つて驚き、觸つてはぶいと鳴いて又驚いた。然し互いに其の存在を面白がつてゐるやうであり、靑年が學校をサボつて此処で暇を潰す頻度が増えた此の頃では、カブトを床に置いてイヰブイと遊ばせる事にしてゐたし、四つ脚の獸と不器用に戯れるカブトを眺めるのも乙であつた。
「どうです。貴方の藝術は、完成されたのでせうか」
カフエヱの店主を務める女が、茶目つ氣を見せ乍ら靑年に話しかける。この時代にしては珍しくも新しい女性の一類型として、彼女は山吹の街でも名の知れた存在で、藝術仲閒達からはミユウズと讃へられてゐた。常連の一人である靑年も又、彼女に心惹かれる者の仲閒であつた。カロスより傳來して閒もない新志向の洋服に身を包んだ彼女の容姿はムハのポスタア畫に描かれた聖なるサラさへ連想させると云つてもけして大袈裟の謗りを受ける事はないであらうと思われた。先に觸れたイヰブイも矢張り、彼女の信奉者の一人が、貴重な野生個体の一体を贈つたものである。私も此のカフエヱには数度訪れたことがあるけれども、遺憾乍ら近年閉店して終つたと云ふのだが、往時の彼女の魅惑と云つたら、(……)。
「えゝ、ここの珈琲のお蔭で、隨分と好調なのですよ」
微笑を送つて、ラツキヰの給仕する珈琲を飲み乍ら、靑年はやうやく衣布より封筒を取り出して讀み始めた。と云つても内容は讀むまでもなく、父からの消息であつた。件の化石の復原によつてすつかり高名な衣怪博士となつていた靑年の父は、其の革新的研究をいっさう推進する爲に、近頃は紅蓮島に留まつて計りゐるのださうだ。そして、近況を傳へがてら、靑年にカブトの樣子を逐一教えてくれるやうに頻りに要求してゐた。
靑年は重い吐息をつひた。どうも父の期待に沿う返事をするのに貴重な時閒を浪費するのは億劫以外の何者でもなかつたが、彼の高等遊民なる生活は又此の父親に支へられているのも否み難い事實であつた。周囲より將來を囑望されてゐるとは云へ、猶も己の藝術で立つには及ばぬ身をもどかしく思い乍ら、畢竟經濟的恩恵に縋らざるを得ない己が身を自嘲しつつ、靑年はクシヤクシヤにした手紙を衣布に突つ込んで、少し冷めた珈琲の餘りを麦酒のやうに飲み干した。
「まあ先生たら、隨分と醉狂な真似も爲さるのねえ」
「先生」なぞと女が揶揄うので、靑年は赤面した。照れ隠しと計りに今度はスケツチブツクを開き、戯れるイヰブイとカブトを其のタブラ・ラアサなる紙の上に再現した。毛竝み豐かなイヰブイの絶え閒無く跳ねる鞠玉を思わせる一挙一動は、靑年を和ませると同時に彼の藝術的感性を甚く感動させた。ニドランのやうに長い耳は併し軟らかく、首元を飾る白百合を思わせる輝かしい房は、何処か人の憧憬を誘うものが感じられた。イヰブイの反應に、カブトは困惑し憤怒し欣喜して忙しく、其の一つ一つの振舞を如何にも可愛らしく思つた。まるで外界の刺激に對して一々大袈裟に驚いて見せる姿が、単なる無垢な赤兒を超えて、当世流行の空想科学小説に於ける地球に飛來した異星人や、現世にタイムリヰプをした原始人などの感性を思わせた。最近亞大陸の地方にて發見されたと云ふルガルガンなる衣怪に育てられた双兒の少女の有り樣も此のやうなのであらうかと想像を巡らせたが、現實彼の前にカブトがいる事と較べれば其れが一体何であらうかとも考えるのだつた。
無我夢中で幾枚もの素描を仕上げると、靑年はふうと快く息を吐いて、カフエヱの装飾を淸新なる目で觀察した。壁に貼られた真新しいポスタアには、真白と思しき田舎町を背景にして肥滿体の農民風の男が叫んでゐる構図で、下側に「科學の力ぞ凄し!」と謳ふ文句が派手派手しく飾られてゐた。マガヂンラツクに竝べられた雑誌には諸藝術や文藝のみならず最新の衣怪の本や雜誌まで置いてあつて、何とは無しに最前列の
ラツキヰが二杯目の珈琲を注いだ。山吹のサラは特製のカロスポフレを靑年に振舞つた。イヰブイはカブトの甲羅に乗つており、重みで移動することも出來ぬカブトは抗議するやうに蠢動するので、その上で面白がつて均衡を取つてゐた。御代わりの珈琲を飲む閒に、靑年は父への便りを単簡に書き上げて終つた。
カフエヱを後にすると、近鄰の格鬪道場から門下生達のけたたましい鬨の声が聞こえて來る。ガラルに倣つて整備される事となつた來たる可き關東條都統一衣怪リヰグ全國大会に向けて、この山吹市に創設されたるギムナジウムに指定された此の歴史と傳統を持つたこの格鬪道場の熱氣は、當時いやましに高揚してゐる處であつたが、一方で、市内の片隅の荒屋に住む浮浪者のやうな男が可笑しな妄言を吹聴し、それに
賑やかな声にカブトが好奇心を示したので、郵便局へ向かいがてらに、靑年は道場の前をそぞろ歩く事にした。荘厳な門の前を通りがかると、其の前で二匹の衣怪が獨自に鍛錬をしてゐる處であつた。道場主たる格鬪大王の秘藏つ子でもあるサワムラアとヱビワラアである。脚を絡め合わせ乍ら、交互に腹筋運動を續けて、只管に筋力を競い合つてゐるやうな風情である。
其の光景を遠目よりカブトを抱きながら眺めてゐると、しゆぴんしゆぴんと頻りに鳴くカブトに気づいたか、二匹は上下する上体の動きを止めて、凝ろりと靑年の方を視た。衣怪と雖も、形相の凄まじい彼らに睨まれれば、流石に靑年の心肝を寒からしめたが、飽く迄も其の内面も衣怪であるらしく、胸元のカブトに近寄ると、面白がるやうに其の甲羅や真黑の腹を弄り出した。驚いてゐるのか、嫌がつてゐるのか、寧ろ愉しんでゐるのか、その何れでもあるやうな態度をカブトは示す。ヱビワラアの布手袋のやうな手が肉感のあるカブトの腹を突つき、サワムラアの節くれ立つた指が甲羅の凹凸面を幾度も擽つた。
「これ、何を油を賣つてゐるかつ」
怒鳴り声と倶に門から厳しいがかいの大男が出てくると、サワムラアもヱビワラアもはつとして垂直に縮こまつてしまつたので、靑年も呆氣に取られて見つめてゐた。其の樣子からして、彼がこの格鬪道場の主である空手大王に違ひなかつた。大丈夫は靑年とその腕のカブトを交互に見遣つて、沈思默考した。鹿爪顔の男のことを、両匹が震撼しながら見ているのが、靑年にはいつそ面白く感ぜられた。
「ふむ、貴様、珍奇な衣怪を所有しておる」
「近年發見されたカブトと云ふ種族ですよ」
「成程。近頃、街を闊歩する奇怪なる衣怪があるとは聞き及んでゐたが、これは、中々に」
そう言つて、強張つた表情のすつかり失せた大男は、サワムラアとヱビワラアよろしくカブトの甲羅を弄り始めたので、靑年は覺江ず微笑してしまつた。すつかり安心した二匹も、しれつと男と交じつてカブトに悪戯をするものだから、カブトもシユピンという声を立てて抗議するも虚しく、今日の處は只玩ばれるが儘に甘んじてゐるのを、靑年は愛おしんだ。
あの怪文書としか言いようのない文章をネットに上げてからしばらく経った。反響は思っていたよりも大きなものだった。誰かがSNSサイトであの『三ツ重之鎌』を紹介すると、やはりというか、その奇異な内容は人びとの興味関心をそそったものらしく、瞬く間に拡散されたようだった。その有り様は、あたかもちょっとしたお祭りのようだった。好奇心につられてやってきた人々(もしかしたら人ではないのかもしれないけれど)が、100年前に書かれた謎めいた文章について、あれこれと論評したり、考察をしたり、喧嘩したり、あるいは全く関係のない話をし始めたりするのを眺めながら、私はかつてのウノバ、つまり現在のイッシュで、落とし穴に落ちた男の救出劇を見物するために群衆が集って、彼ら目当てに的屋や大道芸人たちまでが軒を連ねていたという話を思い浮かべた。
私のもとにも、いくつかのネットメディアから取材の申し込みが来た。この怪文書を見つけた経緯や、祖父の人となり、書かれている内容についての感想を、私は繰り返し話した。ネットニュースサイトに載ったその記事には、問題の原稿の1枚目と、発見者としての私の姿が掲載されていた少し気恥ずかしかったし、私に協力してくれたタマムシ大学の知り合いも、取材に応じて当時のことを話していた。
しかし、お祭りというのは長く続かないからこそ、お祭りである。数日もすれば、人々は『三ツ重之鎌』を忘れて、また目新しい話題へと飛びついて行った。だからといって私は失望したりはしなかった。世の中とは往々としてそういうものなのである。ただ、この謎めいた作者がそれを知ったら、非常に腹を立てることだろうと思う。忘れ去られないために書いた文章が、数日で忘れ去られてしまうのだから、それは書き手としてはとても心苦しいことだろう。
そういうこともあって、私自身も忙しかったこともあるし、あの青年とカブトの物語をしばらく忘れていたのだった。そのため、ほとんどログインもしなくなった私の『Poketter』アカウントのDMに連絡が来ていることに、数日間気付くのが遅れてしまった。『三ツ重之鎌』がSNS上でバズっていた時には、メディアだけではなく、よくわからない人々からのリプライやDM (なぜかルカリオの可愛さを延々と私に捲し立てて来る人もいた)も少なからず送られてきて辟易してしまっていたから、通知さえ切ってしまっていたのだったし、仮に誰かからの連絡があったとしても、いちいち確認することもしなくなっていたのだ。
けれども、そのシンオウの美術史家を名乗る人物からのDMに、私は興味を唆られた。もちろん、そのユニークな肩書きを見て信頼感を抱いたのも事実だが、何よりもあの『三ツ重之鎌』に対して、単なる興味本位ではない極めて真剣な関心を持っていることが、その文章から読み取れたので、私はその人物がカントーを訪れるという日に合わせて、古びた原稿を持参してヤマブキを訪れたのだった。
コガネから直通のリニアを降りて、ヤマブキの地を踏むと、かつてあの青年が当時の「鐵道」によってこのかつて帝都と呼ばれた場所へ降り立った時のことを、どうしても思い起こさないわけにはいかなかった。街そのものの由来ともなっている山吹色の屋根に満ちた美しい街並みを歩きながら、私はついシルフカンパニーの社屋を、今はジムの資格を剥奪されている格闘道場に立ち寄って、青年の心情を少しでも追体験しようとした。もちろん、青年とカブトが住んでいたというガラル式の建造物は残念ながら後の混乱の中で失われてしまったし、ヤマブキの「ミウズ」と呼ばれた女性が切り盛りしていたカフェがあった場所は、すっかり様変わりしてしまっていた。
私に連絡を寄越したその美術史家の男とは、クチバ方面にあるポケモンセンターで待ち合わせることにした。ここ数年になって、センター内には喫茶スペースが新設されていた。マスターとラッキーがカウンターに佇んで、オリジナルブレンドのコーヒーを振る舞っていた。アローラやガラルにおける風習を、カントーでも取り入れているのだ。とはいえ、フレンドリーショップは、従来通り別の敷地で営業しているのだが。少なくとも、ポケモンセンターとフレンドリーショップは、青年が生きていた時代から今に至るまで同じ場所に存在していることが、私にはどことなく嬉しかった。
「……さんでいらっしゃいますか」
椅子から振り向くと、DMで送られてきた肖像写真通りの若い男が、私の前に立っていた。水色のTシャツの上に、黒いジャケットをボタンを留めずに着ていて、首元にはアクセントのためにか、金色のネックレスをぶら下げていて、色合いだけを見れば、まるでレントラーだった。鬣を思わせるような髪型も、なおさらそういう印象を与えた。率直に言って、学者というよりはカントーの短パン小僧が順当に大人になった姿のようにも見えた。
「初めまして、私、コトブキ大学で美術史を研究しております、ヒロミと申します。お会い出来て大変光栄です。……さんが公開された文章、大変興味深く読ませていただきました」
と、私とテーブルを挟んで正面に座ったヒロミさんは、思いの外丁重な口調で言った。研究者にしては、随分とラフな格好をしているから、念のためコトブキ大学のホームページを確認したりもしたのだが、紛れもなくヒロミさんはそこの美学美術史科の准教授のポストにあった。だから言葉遣いが丁寧なのは、考えてみれば当たり前のことなのだが。
「写真と同じ姿ですね」
と、私はヒロミさんからの名刺を受け取りながら、率直な感想を言った。
「同じ服をいくつか持ってるんです。こういう服装ばかり着ていたら、みんな私と『レントラー』と呼ぶものですから、つい私もムキになって、同じ服ばかり着てしまうんです」
いかにも照れ臭そうにヒロミさんは言ったので、私は何となく納得した。確かに、芸術を研究している人間なのだから、独特のセンスを放っていても無理はない。
「私があなたの持たれる原稿に興味があるのは」
と、ヒロミさんは切り出した。そこは、いかにも大学で研究と教育を行なっている者らしかった。
「もちろんその内容が興味深いからです。今から100年近く前に、ヒトとポケモンとの間にそのような関係性が持たれているという具体的な証言が存在したことです。あなたもよくご存知でしょうが、シンオウにはよく知られた昔話が伝わっていますね」
と、ヒロミさんはそのまま朗々と民話の一節を聞かせた。
人と結婚したポケモンがいた
ポケモンと結婚した人がいた
昔は人もポケモンも
おなじだったから普通のことだった
「とはいえ、現実にヒトとポケモンが婚姻したという事実となると、非常に少ない。シンオウ地方においても、この民話の記述が事実に基づいたものなのかどうかさえ、少なからず異論も多いのです。が、私も師事したことのある著名な考古学者は、閒違いなくそうした営みはあったと言い切っていましたし、私もその方の説を支持しています」
「なるほど」
と、私は答えた。なるほど、としか言いようがなかった。
「ですから、今から100年前のカントー地方において、それを髣髴させる話があったことは、シンオウの人閒にとって大変興味深いことではありました」
「ですが、あなたの関心はもっと別なところにある」
「ええ」
ヒロミさんの目が俄に輝いた。専門家の中には、得意分野の話題となれば目の色を変えて、まるでゴーストタイプのポケモンに憑依でもされたみたいに滔々と話して止まらなくなる人種というのがいるが、ヒロミさんはまさにそういう研究者だと言えた。
「私はこの彼の人生を、個人的に研究していますから」
拝啓
山吹では時候柄アルキメンデスの葉をあちこちで目にするやうになり、常盤森からやつて來たのか、バタフリヰやスピヤアのけたたましい羽音が市中までも及んでおります。
父上の紅蓮島での研究は如何でせうか。双子島のフリヰザアも蟄居あらせらる程の暑天と拝察されます故、御身体に無理の無きやうに。
敬具
追伸に、靑年はカブトの寸法と重量を、走り書きの如く単簡に書き加へておいた。此のやうな手紙を靑年は義務として今も紅蓮島の父に宛てて書くのが月に一度の習慣となつてゐた。先述した通り、當時の靑年の高等なる生活は父からの經濟的援助の産物であつたし、何より此のカブトを靑年に
其の手紙を郵便局で速達にして送ると、靑年はカブトと共に盛夏の山吹の街をそぞろ歩いて囘つた。手紙は
靑年自身の生活も此の時期、大きな転換期にあつた。彼の藝術は一層の變貌を遂げ、彼自身も長らく浸かつた舊式の古典主義を打破せんとするかの如く、遠い地方のシユルレアリスト達に倣つてアヴアンギヤルドな絵畫を描くやうになり、写実的であつた風景畫は色彩のパズルの如き抽象畫となり、人物畫は幾多の図形のコムポジシオンとして再創造された。前衛を瞬く閒に自家薬籠中の物として見せた靑年に對して世閒は兩極の反應を示し、就中畫壇の主舊派からは糺弾される一方で、少なからぬ藝術家達が彼の才覺に驚嘆し、彼の周囲には自ずから新派と云ふべき藝術集團が形成される迄になつてゐたし、そんな彼に興味關心を抱いた連中とも多く親交を持つやうにもなつた。
さうした連中の中で、靑年は或る一人物と意気投合する事となつた。恆に草臥れた安着物を身に纏つて傍目には異様な風貌をした、自稱文学靑年のこの男は、そのくせ小説を書く素振りは些かも見せず、ふらふらと靑年の通うカフエヱに現れては、一杯の珈琲だけで日の暮れるまで、相席の客たちに己の文学論やら藝術論を披瀝し乍ら過ごしてゐたが、奇矯な事に靑年は其のやうな彼の風来坊振りに心惹かれたらしかつたのである。裕福な生まれの靑年とは
「君、まあなんだい」
カフエヱで偶々出会つた時には、このシユトルベルぺヱタアは、何時も必ず其のやうに挨拶をした。そして、靑年が応えるのも聞かずに滔滔と語り始めるのが恆であつた。然も、その
「当世流行の私小説なぞというのはまあ古いね。カロスじやあとつくのたうに時代遅れになつた自然主義なんてのを關東では未だに崇拝しているのだから呆れる。これからは、プルウストやジヨイスを読まねばならんよ、君」
さう言つて、この奇特な男は靑年にウノバ語やカロス語の浩瀚な書物を手渡した。靑年がパラパラと頁を捲ると、其処には見たこともないやうな文章が連なつてゐた。その異樣であり新鮮な言語藝術に魅せられてゐる靑年の足元でカブトが不服さうに跳ね囘つてゐるのは健気であつた。
「確かに、花袋の小説は偉大さ。何せ、ゾラの自然主義をあんな形で歪曲せしめたのだからね。偉大であつたと言うよりは、閒が抜けてゐたとも言へる。おつと曲解しないでもらいたいがね、君、片想いした女が寝てゐた布団の臭いを嗅ぐことが自然主義だと勘違いしてゐた、だからこそ花袋は偉大であつたのだよ。今の有象無象なんてのは、あまりにも素朴な連中だから、其れを猿真似してゐるだけに過ぎんのさ。その程度の事も分からんやうな奴らが、文壇にあつてケンタロスの耳を握つてゐると言うんだから、何とも呆れる話じやあないか。文學の世界なぞ、君らの藝術と比ぶれば、取るに足りない。君、笑つているね、だが是は国辱とも言つていい位の話なのさ。実際、カロスやウノバの人閒が我が關東の小説を讀んだらば、きつと其の舊弊さを嘲笑することだらうよ。大袈裟な事じやあない。嘗て子規がしたやうに古今集さへ貶すやうな気概を持たねば、一世紀の後には文學なんて諸藝術の婢女に過ぎなくなるだらうね」
給仕するラツキヰや、妙に懷ひたイヰブイと戯れつつ披露されるシユトルベルぺヱタアの珍奇なる言説は、現代世界に飽き足らぬ靑年のコスモポリタンなる心情には、大ひに響いたものと思われる。この素性も碌に知れぬ男に連れられて、靑年は山吹の都を連日遊び囘つたものであつた。勿論其の胸にはカブトを抱えて。或る日は、活動寫眞館へと赴きバリコオルが演ずる喜劇に抱腹絶倒し、又別日には國技館ではオウダイルとカビグオンの衣怪相撲を見物し、大ひに興じたりした。軈ては、互ひの部屋を行き来する程の仲となり、この謎多き人物の古今東西の書物の亂雜に積み重なつた異樣な部屋を、恰も自室であるかのやうに親しんだ。文字の分からぬカブトが、只書物の山を単なる障害物と看做して労苦して這い囘るのを、面白がつて眺めた。
書き忘れる處であつたが、この異樣なる文學者は恆にして一匹のガラガラを付き隨へてゐた。何時も彼の数尺程後ろを歩いてゐて、傍目には人のお零れを付け狙うコラツタにも見えた。何、勝手に付いてきてゐるだけさと、男は頭を掻ひてはぐらかす計りであつたが、彼と其のガラガラとの閒には明らかに強固な關係が認められたし、其れは靑年とカブトとの
或る時、靑年とシユトルベルぺヱタア君が街を逍遥してゐた折、二人とカブトの周りを如何にも強面な男たちが立ち塞がつたことがあつた。難癖をつけてきた連中は、力づくで靑年のカブトを奪取せんとしたのだが、男の相棒たるガラガラが手持ちの骨を振り囘して忽ちにして
「何、大したものではない」
男は淡淡と言葉を零した。
「最近、條都の
靑年はカブトの事を強く胸に抱き留めてゐた。怯えて神経質になつて全身を顫動させるカブトを宥めるやうに茶色の甲羅を撫で摩ると、安心したのか直ぐに寢息を立てた。
「まあ、君は珍かな衣怪を所持してゐるから、特段用心せねばなるまい。しかも、君はかのF教授の御子息であるからね」
シユトルベルぺヱタアが不敵に笑ふと、靑年も穩やかに微笑んだ。
斯くして、此の靑年と原始
處で、「シユトルベルぺヱタア」と云ふのは、「もじやもじやぺヱタア」と云ふ事であるが、(……)、從つて此処據り先では、聞き慣れぬ長大な名前である故の煩雜を厭う讀者もあるであらうから、彼を單に「ぺヱタア」と呼稱する事にしやうと思ふ。
カロスにいるであらう父たる教授氏に向けても、靑年は内心呆れ乍らも消息を送り續けてゐた。當時としても大層驚きの事であるのだが、關東・カロス閒と雖も海外便で送付して數日の後にはカイリウ便に據つて父より返信が屆くのであつたが、其れにも劣らず、父の認める文体の猶の事熱情的且つ或種の狂氣を孕んだ気配を、靑年の感性は流石に不穩がつた。其の事を、不意にカフエヱにて、相變わらず舊弊な犬正文壇に猛然と孤高なる戰ひを挑んでゐたペヱタア君に話すと、彼はさつと目の色を變じた。
「其れはだね、君」
ペヱタア君は一席ぶつた。
「父上は恐らくはカブトの復原を超える大事業をせんと奮鬪してゐる樣に見受けられるよ」
「其れは言ふまでもない事じやあないかね」
靑年は應へた。
「あの父親の事だからね。
「いやはや、いやはや!」
ぺヱタアは態とらしく叫んだ。そして給仕のラツキヰに對して一杯の水を希求した。
「君と云ふ者が其の樣な誤謬に陷るとは嘆かわしいではないか。僕が言つたのは、
「詰り其れはどう云ふ事なのだい」
「何、君が今答えを言つたではないかね。バルザツクの書いた樣に『絶對の探求』、此れさ。はははは、まだ合点の行かぬ顏をしてゐるね。おやおや、ミウズさんも怪訝な表情をしていらつしやる、此れは此れは。然し何を隠さう、『草の葉』宜しく僕は僕として僕自身を語る者故。此れは『絶對の探求』さ、『人閒喜劇』なのさ。おつと、ラツキヰ君、水を有難う。チツプを上げやうではないか……」
「何です、貴方。チツプと言つて衣怪にそんな苦い実を渡すんだからつ」
「ペロペロ」ならまだしもねゑとミウズが茶茶を入れたので場がどつと笑ふと、其の話は何と無くお開きになつてしまつた。が、ぺヱタア君が矢鱈に振り囘した「絶對の探求」なる單語は妙に靑年の頭腦に
時期を同じくして、其迄は只靑年の腕に抱かれるか、その直ぐ後ろを跳ねる計りであつたカブトにも新傾向が顕れて來てゐた。突如として、野生の衣怪に對する攻撃性が認められる樣になつたのである。初めは山吹の街を散策していた折に、
例に據つて面白がつたぺヱタア君は、靑年とカブトを野生の數多棲息する草叢やら洞窟やらへと頻りに案内した。山吹・玉蟲閒の國道七號ではポツポやアルキメンデスを追い駆け囘らせ、北
餘談なれど當世の衣怪センタアは、
然し乍ら、カブトが必死に野生を爪で引つ掻かんとする姿は、其迄見せることの無かつた衣怪の野蠻の魅惑を靑年に植ゑ付けた。獰猛なる野生の攻撃より身を守らんと甲羅を硬くする姿は、強烈な生存本能の迸りを靑年に感じさせ、其の何れも甚く彼の精神を蠱惑した。忽ちにして、靑年のイマジネエシオンは新たなる繪畫を発想した。アパルトマンへ歸るや否や、直ぐに繪筆を執つた靑年は、帆布にけばけばしくも斬新なる意匠の一枚を仕上げたのであつた。其れは、傍目には繪具をぶち撒けた樣な言語に絶する作品であつた。キユビスムもフォオビズムも、かと言つてコムポジシオンをも度外視したとも言へ、私には其の先鋭も先鋭なる靑年の作を正確に評する見識眼はあるべくも無いが、(……)。此の作品を鑑賞した人閒は只呆気に取られ、
軈てカブトは新たに野生の身から体液を吸い取る事を習得した。弱つたポツポ等の
靑年の父が、カロスより紅蓮に歸島したという報せを受けたのは、漸く晩夏も過ぎた秋の一日であつた。封筒には、紅蓮行きの鐵道と連絡船の切符が同封されてゐた。
靑年はカブトと共に
然うした面倒を
漸く一つのケンタロス便を捕まへる事が出來たので、靑年とカブトが港街にも餘り似つかわしくもない
石竹の街へと着く頃合にはすつかり晩となつてゐたので、其の日は石竹に名高い資産家の家へ泊めて貰う樣に父からは言われてゐた。石竹の土地の半分を所有する程の資産家乍ら珍奇な衣怪の収集家にして慈善家として關東にも知られてゐた其の富豪は父親氏とも親交があつたし、カブトの樣な衣怪を連れていれば目を付けぬ譯も無く、素性さへ名稱れば快く泊めてくれる筈であらうと云ふ事であつたが、靑年は其の薦めを無視して、十六號水道を臨む浜邊の民宿に泊まつた。田舎らしく、丸でバラツクの樣に見窄らしい小屋で、只板閒に薄い布団が敷かれるだけのお粗末な宿であつたが、ペヱタア君のベトベトンにも比肩するあの部屋に親しんだ靑年とカブトにとつては、全く快適であつた。夜更けには海岸に出て、カブトと共に遠目に双子島を眺め乍ら
翌朝、水道へ彼等を迎へに來たのは、連絡船と云ふ名のラプラスであつた。人語を解すると云われるこの衣怪は人馴れし気性も穩やかで、然も双子島界隈には無数に生息してあるから、幾つか捕獲された個體は此うして石竹、紅蓮、更には真白を航行して人人を運んでゐた。分類も其の儘乘物衣怪とされてゐた。浜邊に辿り着ひたラプラスは靑年とカブトを見るや否や、柔和な面持でセイレヱンの樣な鳴き声を挙げ乍ら長い頸を屈めて其の鼻先を靑年の腕に抱かれるカブトに当てた。しゆぴんとカブトは
晝閒には紅蓮の岸邊に着いた。和かなラプラスに氣持良く別れを告げた靑年とカブトであつたが、父の迎へは未だ來てゐなかつた。かと言つて幾ら待つても來る樣子も無い。其の内、陽が高く昇つた。彼自身は平氣であつたが、カブトは陽射しに酷く弱つた。痺れを切らした靑年は最う自分で父の元へ向かふ事にした。父の其う云ふ無神經さには至極憤慨してゐる靑年であつた。研究所は島の南西部にあると云ふ事だつたから、最低限に舖装された道路を賴りに歩ひては、民家の住民にも道筋を訊ね乍らも、靑年は何とか其の邊り迄向かふ事が出來た。
漸とカブトを憩わせる事の出來ると安堵した靑年であつたが、彼の前に
「何でいオメエさん、隨分と珍しい衣怪を持つてるじやねえかい。ちよいと、俺らにも見せてくんねエかい」
「へへへ、何怖がつていやがる。とつとと其の腕から其奴を離しやがれ」
言葉とは裏腹に男たちは亂暴にカブトを奪い取らうとするので、靑年は抵抗しやうとしたが、元来虚弱な身であつたから二人がかりとなつては
此の手よりカブトを喪つては如何して生きて行かれやう等と靑年が絶命せん計りの心的狂亂にあつた其の時である。賤しく笑ふ男どもに掴まれたカブトがじゆぴんと異樣な威嚇をしたと思ふと、丸でつるつるとした卵が拳を滑る樣に男たちの手から擦り拔けた刹那、甲の裏の四本の鋭利なる爪を鎌の樣に動かして、忽ちにして男たちの皮膚を切り裂いたのである。静けさの後に、ラケツト團員どもの體據り鮮血が噴き出した。餘りの事に男達だけでなく、靑年自身も呆氣に取られる程であつたが、爪の上に光るカブトの街の燈の樣な紅い瞳は恰も鬼かニドキングの形相にも思へた。
「何しやがる、此奴めつ」
「おめえら、行け、行け」
周章狼狽した男達が嗾けると、きつと靑年を睨み續けてゐたラツタとアヽボが慌ててカブトを襲つたが、鬼神の如き甲羅衣怪は二匹の攻撃を物ともせず飛び跳ねると、ラツタの顏面へと巧みに着地して、其の爪で甚く切り裂ひて瞬く閒に瀕死の體にして了つた。アヽボも又同樣に仕留めた。アツと謂う閒に天を仰ぐが如くに失神した二匹を目にして、ラケツト團員どもは恐慌状態に陥つた。
「畜生、覺江てゐやがれつ」
「組長相手じや、然ふは行かねえぞつ」
「あゝ、カブトよ、僕が知らぬ閒に隨分と逞しくなつたものだね。人の
主人たる靑年の柔和な語調を聞いてカブトは、しゆぴん、しゆぴん、しゆぴんと萬歳三唱して見せ、靑年の腫れた頬を綻ばせた。ちちんぷいぷい
研究所のロビヰに設えられたカロス製の優美な椅子に腰掛けると、靑年はF教授と向かひ合つた。カブトは二人を隔てる瀟酒な
「石竹の友人から電話があつた」
靑年の父は飽く迄も柔和に言つた。
「豫定の日時に來なかつたと言ふものだから、懸念していたのだ」
「せつかくの石竹ですし、カブトに海邊の景色を見せて遣りたかつたものですから」
毅然とした態度で靑年は言つた。元より細やかな反發心から父の
「
「其れは一體どう云ふ事でせうか」
靑年は他人行儀で訊ねた。カブトが卓士の端から大理石の硬質な
「手紙でも傳へたが、カブトは程無く進化するであらうと云ふ事だ」
「其れと僕等を
F教授は靑年の不快さうな語調にも一向に怯む氣配が無かつた。靑年を見据江る目つきは無氣味な程に真剣で無垢であり、今夏にペヱタア君の言つてゐた「絶對の探求」なる言葉を
「極端に言へば、カブトはお前の手に負へぬ程
其の言葉の孕むニユアンスの爲に靑年は逆上しさうになつたが、不穩な氣配に怖氣付いたカブトの姿を見て餘り不安にさせぬ樣何とか堪へた。
「先ずは詳細をお聴きしない事には、何も分かりませんね」
靑年の落ち着いた物言ひを聞ひてF教授は一先ず安堵した樣に立ち上がつて、着いて來る樣に指示した。怪訝な顏をし乍ら靑年はカブトを抱き抱へて後に續ひた。
靑年とカブトが通されたのは一角に奇怪な裝置の竝んだ部屋であつた。其の機械の前では、F教授と同樣に白衣を着た飄々たる男が佇んでゐた。
「アイヤー! F博士殿、いきなり來る、我、驚きアルネ」
短髮で流行のロヰド眼鏡をかけ、着けた樣なちよび髭を生やした剽軽な男である。F教授の背後に立つてゐる靑年に気がつくと、如何にも興味深さうに近寄つた。
「
身振り手振りを交えて矢鱈と聲を張る彼の
「此處で化石の復原をしてゐる」
淡淡とした父の言葉で、靑年は綻びかけた表情を俄に引き締めた。
「無論、お前のカブトも此處で蘇つたのだよ」
「此れ、我も立ち会つたアルね」
靑年は默つてゐた。謂はば、此の裝置がカブトの故郷と云ふ譯であつたが、其の神祕に據る感慨よりも、カブトの生誕を巡る事情に對する複雜な心境を隱す事は如何しても出來無かつた。併し乍ら衣怪學の進歩の名の下に復活せられたカブトの境遇と、カブトと出会ひ得た事で齎された靑年の幸福とを厳正な天秤にかける事は憚られたのである。誠に社會と云ふのは難解なからくりの樣であり、あつちを動かすとこつちが儘ならぬ局面が存ずるのである。
「其れは分かりましたが、未だ本題を聞いておりませんが」
「扨だ。君、あれを見せ給へ」
「
教授氏の指示を受けると助手君は手際良く、研究室の片隅に掛けられた覆ひを取り外した。すると、何やら異樣なる風貌の骨格が現れ出た。人體の樣な体格を取つてあるが、其の頭部は丸でカブトにも思へたが、何より際立つてゐるのは兩腕の代はりに伸びた鋭利な鎌の樣な部位であつた。一言で言へば、其れは怪人とでも形容す可き風體なのであつた。
「未だ學術的に
靑年の父は言つた。
「此れはカブトの進化形態の
「生態、猶研究中アルが、大昔、海を泳ぎ囘つて、手頃のオムナイトを襲ふ、鎌で切り裂く、體液を啜る、此れ、確かネ」
「
靑年はカブトに目を落とし乍ら應へた。
「僕が此れ以上カブトと居るのは危險だから手放せとでも仰るつもりですか」
F氏はほんの一瞬、默した。
「必ずしも否定はせぬ」
「ならば斷言致しますが、如何なる事があらうとも、僕はこの子と共にある積もりですよ」
「まあ、落ち着くがいい。私としても其の樣な事を強いるのは不本意と考へてゐる」
「併し、あなたは僕を此處へ呼び出したからには、万一と云ふ事も考えておられるのでせうね」
「遺憾乍ら、無論と言わざるを得ぬ」
精精の皮肉の込もつた靑年の物言ひに、父は即答した。
「だが、極力善處する積もりでゐる」
「然ふであつて戴きたいものですね」
「何、私は父として、お前とカブトの幸福を誰よりも願つてゐるのだよ」
靑年は閉口した。此の父親の家長であると同時に名高い衣怪博士である處から來る
「然るべき検査が終はつて特段の問題が無い樣であれば、直ぐにカブトはお前に返すだらう。進化前かも知れぬと云ふから、念には念を置かねばならぬと云ふだけの事だよ」
「僕だつて大人だ。軈ては藝術で獨立する氣でおります。あなたにとつての結果が如何であれ、カブトはずつと僕のものであることに變はりはありませんよ」
「私は人道主義に則つて行動する心算でゐる」
「ならば衣怪に對しては如何なのです」
靑年と父の閒に助手君が割つて入つた。
「君、心細いの氣持ち、よく分かるアルが、安心するヨロシ。カブト、進化するアルカ、進化するないアルか、單簡にチエツクするアル。其れに、人、衣怪、閒に
と言つて助手君が民話の一節を朗誦したが、餘程記臆し暗唱さへしてゐたのか、訛りこそあれ流麗な發音であつた。
「『人の衣怪と交はれるあり、衣怪の人と交はれるあり、
「研究員達は、衣怪を第一に考へてゐる。其處は信賴して呉れ給へ」
靑年は分かつたとも嫌だとも言へなかつた。畢竟此處迄來た以上は幾ら議論しても埒の明かぬ事はヒトカゲの尾の炎を見るより明白なのであつた。何だか、此の儘じつとしてゐる自分の方が終ひには子共染みる樣に思つて了ひ、最後は研究員達に言はれるが儘にカブトを一旦引き渡さざるを得なかつた。大丈夫だと傳へる代はりに、靑年はカブトの茶の甲羅に覺江ず接吻を施した。カブトは分かつた樣な分からない樣な態度で、例の如くしゆぴんと鳴くだけであつた。
カブトを研究所に預けた其の晩、靑年は紅蓮山の麓の町を何とは無しに散策してゐた。父からの夕食の誘ひを受ける氣にはならなかつた。F教授は別に咎める事もせず、眠るなら二階の客閒を使つて慾しいとだけ言つた。だから眠くなる迄、適當に時閒を潰す事にした。併し町の食堂で飯を食つて了ひと、まふする事が無くなつた。心が無性に退屈であつた。思へばカブトの全くおらぬのは憂鬱に捉われてゐた幼年期以來殆ど無かつたから至極當然の事ではあつた。紅蓮の町にしても然程廣くもなく、抑も夜になれば大概の店は閉まつてゐた。研究所の出來る前は無論、自然がある計りの孤島である。同時期に設立されたと云ふギムナヂウムを除けば、目新しいものとて存在し無かつた。
人氣も失せて了ふと、あの黑衣の男の連中の事が急に思ひ出されて來て、カブトこそ今はいないが又遭遇しても困るから、何處か適當な場所を探してゐると靑年は思いがけないものを見かけて、覺江ず驚愕した。見閒違ひで無ければ、靑年の目には一匹のガラガラが遠くから彼の事を見詰めてゐたからである。あの、ぺヱタア君の数尺後方を隨き從ふガラガラである。まさかとは思い乍らも、よもや出立した彼が偶偶紅蓮に滯在してゐるかもしれぬと云ふ期待で靑年がガラガラへと近寄ると、この
此處で読者諸兄に繰返し言明しなければならぬであらう。私は「序」に於て斯う書いた。「餘ハ當時ノ記事ト自己ノ見聞ヤ印象ヲ基ニ、人々ヲシテ其ノ記臆ヲ喚ビ醒サシメント慾シテ、拙キ筆ヲ執リキ。庶幾ハ、読者諸兄、餘ガ意圖ニ首肯セラルル事ヲ大ヒニ祈念スルモノナリ」と。此れを又思ひ出して戴きたいと思ふのである。何故ならば、私は筆を此處迄運ぶに及んで懸念するのであるが、既に私の綴る事が虚飾に塗れてゐるのではないかと疑ふ向きもあるのでは無からうかと感ずるからである。何故自己の見聞と印象だけで、靑年のプライベヱトや紅蓮の研究所の詳細まで記述し得るのか、首を傾げるのは
閑話休題、靑年は夜の屋敷の扉を
靑年は聴覺を賴りにし乍ら暗い洋館の中を進んだ。屋敷は、驚く程に静かであつた。自分の足音が響くだけで、コラツタ一匹いない樣である。あの研究所の別館と云ふからには誰かしらが駐在してゐても可笑しくないものなのにと、靑年は却つて怪訝に感じつつも屋敷の奧へと踏み入つたが、ガラガラの姿はなく、聲のする
玄関の大階段から二階へと上つた靑年は、ペヱタア君の相棒の聲に導かれる樣に部屋から部屋へと歩き囘つた。幾つもの高級な机と書棚の竝んだ部屋部屋には、暗がりで良く見えぬが相當數の資料も積み重なつていると思われた。其の階の全ての部屋を見盡くしても猶ガラガラの見つからぬのに流石に靑年は不安を覺江、あれは本當に只の思違ひであつたのだらうかとも思案し、又唐突に研究者と遭遇したりはせぬかと焦燥に駆られたのであるが、再び上階據りガラガラのか細い聲を聞くと、誘き寄せられでもするかの樣に更に三階へと上つて行つて了ふのだつた。
階段を上りきると
真先に目に入つたのは筆蹟から、此れが父の手記であることを靑年は瞬時に察した。如何にも研究にあつては完璧主義の父らしい神經質と嚴格さが其處には現れてゐて、文字だけで夕方のあの遣り取りを囘想して了ふ位だつた。珍妙な助手君の話し振りも加わると、餘計にさつきの事を思ひ返して嫌になる。
七月五日、此處ハ南ウノバノギアナ。ジヤングルノ奧地ニテ「新種」ノ
靑年は頁を捲つた。
七月十日、新發見ノ衣怪ヲ私ハ「ミウ」と命名ス
明らかに冷静を缺ひた筆致に靑年は或る種の畏怖を感じ、先の記述を読まない譯には行かなかつた。餘りにも了解の出來ぬ事が多過ぎた。七月と云へば
靑年は直近の記載迄讀み進めた。其處には斯う書かれてゐた。
十一月四日、息子ニ消息送ル。カブトト共ニ紅蓮ヘ來ヨト傳ヘル。進化兆候甚シキ故
十一月五日、S御大ヨリ電報。只今常盤ニアリ。近日來訪ス。例ノ計畫ニ就テ一考
刹那、何處からか一葉の紙がひらひらとバタフリヰの樣に靑年の頭上を羽撃ひた。手を伸ばすも僅かに屆かず、摑み取らんとする靑年の腕をのらくらと
恰も精密に計算された如くに机の端に着地した其の紙を靑年はさつと手に取つて讀んだ。併し其れは單なる白紙であつた。拍子拔けし落胆しかけた靑年であつたが、窗からの月明かりが一瞬紙面を照らすと、うつすらと鉛筆蹟の樣な溝の線が浮かび上がつたのに靑年は気がつひた。目を凝らして良く見ると、何やら強い
其の異樣な文字を判読したのと、陰から飛び込んで來たガアデヰに脅かされたのは
全く四面楚歌の體の靑年に奇妙な事が起こつたのは、階段を駆け上がる何者かの靴音が高まつた刹那であつた。驚く事勿れ、忠犬と膠着してゐた靑年の眼前に突如としてケイシヰが現出したのである。靑年が瞠目するべくも無く、ケイシヰは細目を微かに歪ませて
靑年が餘りの事に怖気付く暇も無い儘、呆然とする内に全ては終わつてゐた。何故ならば、次の瞬閒には靑年は最早あの屋敷ではなく、研究所の門前にゐたからである。四圍を見渡したが、あのケイシヰの姿は何處にも無かつた。丸でキウコンに化かされた心地で研究所へ戻つて來ると、すつかり助手君初め研究員達に慣れ親しんだカブトが、同じ研究室から復原したオムナイトと意気投合して遊んでゐるのを見て、流石に靑年も安堵した。カブトの姿を見るだけで今さつき迄の冒險の疲労も忽ちにして癒える樣に思つた。
「このカブト、人懷こいの氣質アル、此の上無く、
檢査の結果は恐らくは問題無いであらうと云ふ事が助手君からは傳へられた。カブトの靑年への懷き具合を勘案するに、
「此れ、博士の親心、言ふ可きアルか!」
朗らかに助手君は言つた。其れは純粋な思いから來た言葉であつたらうが、此れも矢張り又、父の絶大なる力から齎された安寧と思ふと、複雜な心情を拭い去る事は出來無かつた。
翌朝、研究所は騷がしかつた。果たして、あの屋敷の件であつた。昨晩野盜が館内に忍び入り、ガアデヰの吠声を聞きつけた職員達が駆け付けたものの、幾らか
結局其の騷ぎの顛末も知らぬ儘に、靑年は研究所特産のプテラ號の背に乘つて、帝都に歸る事となつた。父は最後まで姿を見せず、只助手君傳ひに、異變があつたら直ぐに電報すべしとだけ言ひ残した。カブトと同時に學會にて認定された計りの此の新種の化石衣怪の壯健な背に跨り乍ら、眼下に廣がる關東平野を鳥瞰するのは實に爽快であつた。カブトはプテラ號の頸から吊り下げられた籠に收められて、網目より覗かれる光景に恐懼してゐる心地で盛んに鳴き声を立て、もぞもぞというささめきが聴こへた。
此の雄大なる、浪漫主義的感傷を喚起させる程の壓倒的自然は、靑年に多大なる靈感を與へる事大であつたが、其れと共にあの晩の奇妙な出來事を回顧せずにはゐられなかつた。一體、靑年の目に見えたあのガラガラは幻か、其れとも本當にペヱタア君の相棒であつたのか。化石復原と云ふ事業の裏で、父は何を企まむとしてゐるのか。
そして、あの月明かりに照した紙に浮上した「ミウ貳號計畫」と云ふ字面は、何を意味してゐるのであらうか?
私が有象無象のDMの中で、ただヒロミ准教授のことを信用することにしたのは、彼の視点が一際ユニークだったことによる。ヒロミさんは、あの物語の主人公である青年のことを、私よりもよく知っていたからだった。犬正から照和、
「ですからこんな形で、彼に触れた文献に触れることがあるとは思わなかったのです。やはりというかなんというか、思いがけない形で文献に巡り会うことほど、研究者の喜びったらありませんね」
ヒロミさんは照れ臭そうに言った。そして、テーブルにいくつか資料を廣げた。それは、あの青年が生前に制作した絵画の図版だった。確か、あの文章にはこう書かれていた。「繪具をぶち撒けた樣な言語に絶する作品」だと。そこに示されていたのは、その通りに、前衛的としか言いようのないビジョンだった。抽象的な画面の中に、とにかく絵具を塗るという言葉では適切ではないほどに、乱雑なまでにキャンバスにぶつけられた激しい色彩の調子があった。言葉は不適切かもしれないが、それは精液をぶち撒けたような光景であるとも言えた。靑年の芸術に初めて接した私からすると、得も言い難い印象だった。
「驚くのも無理はありません」
まるで私の頭の中を読み取ってでもいたかのように、ヒロミさんはにんまりとしながら言った。
「彼の絵画は、まるで時代を遥かに先取りしていたかのようなのです。犬正時代にして、遥か後のアクション・ペインティングだとか、ネオ・ダダですとか、あるいはフランシス・ベーコンの徹底的に肉体の解体された絵画ですとか、あるいは、バルテュスを思わせる奇妙で神秘的な官能性、ああいうのを既に包摂したかのような絵画空間を、既に表現したとも言えるのです」
ヒロミさんはとても熱っぽく語ってみせた。さすがに、大学で美術史を研究しているだけのことはあると思った。目の前に置かれた一枚一枚の絵画について、その美術的な価値を彼は極めて学術的に話してくれたし、これらの優れた作品が今日に至るまでに、全くと言っていいほど忘れ去られているのが、どれだけ美術界にとっての損失であるかを、くどいほどまでに私に説明してみせた。私はずっと彼に圧倒されながら、これが大学で真剣に美術を教える人間の熱量かと感じていた。
「ということですから」
長い熱弁を終えて、ヒロミさんは言葉を切った。紙の資料の上には、いくらかツバによる黒いシミができていた。
「あなたが公表された小説を目にした時、とても心が躍る思いでした。これこそ、私がずっと探していたものだと、そう思ったんです」
「なるほど」
私は指を口にあてながら言った。
「ですが、シンオウからわざわざ私に会いに来たということは、ただあなたの感激を伝えるためだけ、というわけではなかったわけですね」
「もちろん、その通りです」
ヒロミさんは微笑んだ。カントーではもう少なくなった、ラプラスみたいな微笑みだった。
「私はあなたが所持されているその小説の草稿を直に見てみたいと思って、やって来た次第なのです」
私の目をしっかりと見据えながら、彼は言った。彼の態度は、いかにも奇妙な情熱、とでも言うしかないようなものに思えた。ほんの少々の狂気、とでも言うべきものが、ヒロミさんには込められているように見受けられた。でも確かに世の中というものは、隠し味程度の狂気がなければ切り開くことができないのかもしれなかった。
私は謎だらけの原稿の入った封筒を彼の前に差し出した。彼はセピア色の原稿用紙を取り出すと、一枚目から熱心に読み始めた。内容自体は私がSNS上で公開したものと、一字一句違いはないが、ヒロミさんはこの得体の知れない作者の残した筆致を、鑑定人であるかのようにじっくりと観察していた。なるほど、大学人というのは変人でもあるなと思った。一度原稿に食いつくと、彼はすっかり時間も、私の存在も忘れて、『三ツ重之鎌』の世界にのめり込んでしまったかのようだった。ちょうど、オンラインゲームに入り浸りになる若者そのままだった。私は彼が読了するまで、たびたびコーヒーをお代わりした。意外と、読書に熱中している人間を眺めるのは退屈ではなかった。
「申し訳ありません」
百枚ほどもある原稿用紙に全て目を通し終わったヒロミさんは、丁寧に頭を下げた。狂気と正気の切り替えの速さも、なんというか、研究者の貫禄を感じさせた。
「すっかり、彼らがいた犬正の時代に思いを馳せてしまいまして」
そう言うヒロミさんの態度は、まるで何十年かぶりに故郷の地を訪ねた感慨に溢れているかのようだった。妙に大袈裟な気がして、私は思わず笑いそうになってしまうくらいだった。
「折り入って、あなたにお願いがあります」
「ええ、ヒロミさんであれば、なんでもお聞きしますよ」
「翌日、私はタマムシ大学に赴く予定なのです。遺憾ながら、この青年とは異なるテーマについてのシンポジウムのためなのですが。とはいえ、議論の展開によっては、彼の芸術的業績について是非とも言及しておきたいのです。そのために、あなたのこの原稿をお借りしたいのですが」
「ふむ」
私は相槌を打った。
「もちろん、ヒロミさんたってのお願いであれば、私としては全く構いませんよ。しかし、あなたが関心を寄せる青年に関係する文章とはいえ、これはあくまでも作者不詳の小説に過ぎません。知人の文学者に訊ねても、詳細ははっきりとわからなかったのです。書き手の言葉を信じるならば、青年の事件に取材して照和の初期に密かに書かれていた、それだけしか情報らしい情報がない。正直言って、これがあなたの研究にどれだけ資するのか、素人の私には判断しかねるんです」
私はヒロミさんの目をじっと觀察してみた。彼は私の話を聞きながら、にこやかながらも強靭な眼差しを少しも崩すことがなかった。レントラーを思わせるユニークな格好はしているけれども、そこには野次馬的な下世話さや、軽薄な興味関心といったものを、些かも読み取ることはできなかった。これが研究者の情熱、とでも言うべきものなのかもしれない。ヒロミさんは本気だった。
「とはいえ、私はたまたまこの原稿を発見しただけの立場です。もしかしたら、この怪文書には何か特別な価値があるのかもしれない。だとすれば、あるいはこれはヒロミさんのような方が所有されて然るべきなのかもしれません」
「恐縮です」
ヒロミさんは照れ臭そうに答えた。
『三ツ重之鎌』をヒロミさんに託すと、後日またこのポケモンセンターで合流する約束を私たちは交わした。ヒロミさんは、青年とカブトとの物語が書き記された原稿の入った封筒を大切そうにリュックサックに閉まって、丁寧に私に別れを告げた。
「ありがとうございました、……さん」
「あなたにとって、いい結果になることをお祈りしています」
ヒロミさんの後ろ姿を見つめながら、でもやっぱり、レントラーの鬣のような髪の毛は独特だなと感じた。もしかしたら、こっそり副業でコトブキの繁華街で夜な夜な働いているんじゃなかろうか、そんなありふれた空想を私はしていた。
それはともかく、せっかくカントーに来たということもあり、ヒロミさんとまた会う日までは、青年にまつわる土地をできる限り訪れることにしていた。ヤマブキシティをあらかた散策し終えると、私はまず、関鉄の列車に乗ってクチバシティへ向かった。鉄道の路線自体は、かつて青年がカブトと共に旅した頃から全く変わっていなかった。関東湾に面した港には、代替わりしたセントアンヌ号が今も就航していた。
とはいえ当然のことだが、ケンタロス便なんていうものはもう面影すら残っていなかったから、セキチクまでは普通のタクシーを使うことになった。海沿いを通る12番道路と13番道路の景色は、手厚く保護されているおかげで今も昔もほとんど変わっていないようだった。一応、一旦車を止めてもらって、「そこそこ! 杭を挟んで左側」と書かれたお得な掲示板を見ることも忘れなかった。
セキチクに到着するまで、さほど時間はかからなかった。青年の時代に比べれば、かなりの進歩だ。もちろん、リーグに認定された一部のトレーナーにしか許可されていないけれども、空を飛べばさらに一瞬で行くことができただろう(靑年が研究所産のプテラに乗って帰京していたように。とはいえ、あれは今から考えれば相当危険な話ではある)。少なくとも、あの謎の作者が嘆いた頃からすれば、艱難辛苦を舐める必要は無くなったわけだ。
時間に余裕もあり、なおかつセキチクシティに来たからには、サファリパークを見物しないわけにはいかなかった。開園者は、このセキチクで財を成した海運王、
そんな彼の遺産とも言える街を私は歩き回り、世界各地から収集され飼育されている珍しいポケモンたちを面白く眺めた後で、私の足は自然とふたごじまを望む浜辺に来ていた。19番水道、旧16号水道であるこの辺りで、あの青年はカブトとの一夜を過ごしたのだった。海岸にはただ一軒の海の家があるだけで、それも今は休業中である。薫ってくる潮風は、当時と変わらないだろうか、そんなことを私は考えないわけにはいかなかった。
残念ながら、青年の足跡を追う旅はここで止めざるを得なかった。数十年前に起きた大噴火によって、グレン島の大半は消滅してしまい、現在は、ふたごじまジムに挑むトレーナーたちの休憩所として、ポケモンセンターが佇むのみだという。それに、犬正の世にはこの海域にたくさん屯していたラプラスたちもすっかり姿を消してしまっていた。連絡船すらも途絶えて、ただジム巡りをする若いトレーナーたちが各々のポケモンの背に乗って海を渡る姿がちらほらと見受けられるだけだ。
ありきたりだが、だからこそ痛ましい感情が私の身の内に起こった。時の流れを思い、その緩やかな潮流の中で角の立った石が丸くなるように、失われていったものについて、私は考えないわけにはいかなかった。消え去り、忘れ去られた、けれども確かに存在したものたちについて、私は思い、胸を痛めていた。多分、私のような者が存在することによって、過去は記憶として生きることとなり、あの戯作者の祈りも叶えられるのだろう。
波の打つ音が一際高くなった。私はふと視線のようなものを感じて、海の家を振り返った。物陰に奇妙な男の姿があった。現代にはおよそ不釣り合いなみすぼらしい着物を身に纏い、頭にはかんかん帽を被って、ニヤニヤしながらこちらを観察しているようだった。何より特徴的なのは、その帽子に収まりきらないほどに爆発したもじゃもじゃの頭髪だった。だから、帽子を被っていると言うよりも、置いていると言った方がいいくらいのものであった。
見るからに不審な風貌の男だったが、私はすぐに『もじゃもじゃ頭のペーター』という絵本を連想した。そして、そのイメージは言うまでもなく『三ツ重之鎌』に登場した「ぺヱタア君」から来たものだった。しかし彼は犬正時代の人間であり、現代に生きているはずがない。よしんば彼が長命であったとしても、おそらくはすっかり年老いて、タマムシシティ辺りの老人ホームなどで余生を過ごしているに違いなかった。
私はもう一度、その男を見た。しかし、やはり彼は現実に存在している。「ぺヱタア君」そのままの風貌で、遠目から私を見つめている。私は立ち上がって、彼へと近づこうとすると、男はこちらをからかうような表情のまま、逃げるようにか、誘うようにか、海の家の裏手へと姿を隠した。私も彼を追いかけて、小高い丘からなる建物の裏に足を踏み入れたが、そこに「ぺヱタア君」の姿はなかった。物陰という物陰を調べ回ったが、人っこ一人、ポケモン一匹いなかった。私は困惑した。キュウコンにつままれたような、そんなことが起こるとは、私もそろそろ年か。
そんなことを考えていたら、私の靴が何か丸いものにぶつかった。見ると、足元に木の実が一つ転がっていた。けれど、この辺りに実のなる木はない。野生のポケモンが潜んでいそうな草むらだって近くにはなかった。トレーナーの落とし物と言うにも、こんな場所にわざわざ忍び入るトレーナーがいるとも思えなかった。何もかもが不可解だ。
仕方なく、私はその木の実を手に取ってみた。何の変哲もないキーの実だった。全く。これを
君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
蓄音機から流れる流行歌を
カブトは店内でずつと一處に留まつて暖を取らうとしてゐた。と言ふよりはずつと一處にべつたりとくつ付いてゐた。何故なら其の暖の元はブウスタアだつたからである。賢明な読者諸兄は、以前私が披瀝した蘊蓄を憶江ておいでだらう。此れはかのミウズのイヰブイであつた。併し、或日ミウズを口説く男どもの一人から貰つたと云ふ
「つまりは、飛んだ食はせもの、だつたのねえ」
ミウズは大したもので、然程驚嘆する事も無く言つてのける。實際、ブウスタアも思い掛けぬ此の姿を甚く気に入つてゐる樣で、クリヰムみたいな房房した白毛を自慢氣に揺らし乍らカフエヱを闊歩する姿は大変な評判と云ふ事であつた。
「衣怪研究者と名稱るお方が血眼になつてウチへ來てね。世紀の大發見だなどと仰つて根掘り葉掘り聞かれるものですから、うんざりして了ひました」
作者據り付言させて戴ければ、此れは確かに大發見なのであつた。ブウスタア、シヤワーズ、サンダアスなどは其の外見からイヰブイと何らかの関係性を有してゐるものとは古くから推測されてゐたものの、長らく其の進化條件は不明だつたのである。此れも又犬正の世の成した
君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
ブウスタアはカブトに抱かれる儘にして、疲れたか
「此閒は小金キマワリですとか、豐縁日日ですとか。キングラアも取材に來ましたわ」
「通りで、此頃繁盛してゐるわけですね」
「取んでも無い。こつちは伸んびりとやつて行きたいのに、良い迷惑ですわ」
其の時、扉のベルをけたたましく鳴らす者があつた。勢ひ良く開かれた扉から現れ出たのはサワムラアとヱビワラアのコムビネーションである。そして二匹の背後には物物しい態度で、空手大王が仁王立ちしてゐる。
「あら、いらつしやい。大王樣」
「やれやれ」
大王は態とらしく、呟く樣に言つた。
「此奴どもめが連れて行つて來れと餘りにも喧しいから、仕方が無く來た迄だ」
「あら、さうですか」
とミウズは取り敢えず相槌を打つたが、如何にも來店したのは己の意思である事を隱し切れてゐない大王を揶揄う樣に微笑んだ。
「本當に、ブウスタアは可愛いですものねえ」
「全くである。此奴どもめ、すつかり一目惚れをして了つて。情けなや、
なぞと白を切る大王の背中を、ヱビワラアは
「
「ええ、全くですね」
靑年は適當に應へた。さうは言つても、ふんわりとした白毛を撫ぜる手の止まない大王を見て、ミウズは笑つてゐた。靑年も笑いを禁じ得なかつた。
君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
勇ましい樣で、儚げな気風のある流行歌のフレヱズを流れる度に靑年は口遊んでは、カフエヱの樣子を思ふが儘にスケツチした。サワムラアに抱かれるカブト、大王の膝を我が物とするブウスタア、給仕のラツキヰに突つかかるヱビワラア、其れを穩やかに眺めるミウズの橫顏とを。窗に叩きつける雨音が大きくなつた。カフエヱの賑やかさに比して、外界の静けさは愈愈甚だしかつた。靑年はふと、自分が或る種の夢幻の世界に漂つてゐる樣な錯覺を感じた。
君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
「君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり」
「何だつたら、君、地図を見て確かむる可し」
何だつたら、君、地図を見て確かむる可し——
聞き馴染みのある韜晦した聲がして振り向くと、其處にはぺヱタア君が立つてゐた。最後、夏に会つた時と幾分も變はらぬ風體である。背後には何時もの如く相方のガラガラも付き隨つてゐた。呆れる程にちつとも變化してゐないシユトルベルぺヱタア其の人であつた。
「やあやあ、皆さん、お久しう御座い」
もじやもじや頭を掻き囘し乍ら、大王やミウズに一方的な握手をし、衣怪達にはチツプと稱した苦い木の実を渡すと、その姿を呆然と眺めてゐる靑年の元へ最後にやつて來た。
「君、まあなんだい」
會ふ事自体久久だと云ふのに、丸で昨日も一昨日も此うして會つてゐたかの樣に、ぺヱタア君は何食わぬ顏で何時もの挨拶を言つてのけた。
「志賀の『暗夜行路』を読んだかい。時任謙作と云ふのは實に非道い男だよ。苛苛して自分の妻を
「不思議と云ふ意味では君も同類ではないかね」
ぺヱタア君の斯くなる調子に、再會の喜びはたうに薄れて、靑年は何時もの樣に彼と接してゐた。如何にも、この奇妙奇天烈な人物には其の樣な振舞いが相應しいと感じた。一方で、紅蓮での出來事以來、靑年の心に引つかかつてゐる事を訊ねる可き時でもあつた。
「併し、冬まで其んな身形で旅とは、隨分と突飛な事さへするものだつたね」
「何、僕は氣の赴く儘に旅をするまででね」
「紅蓮島にも行つたのかね」
「何故かな」
「實を言へば、君のガラガラを紅蓮で見掛けたのだよ」
ぺヱタア君は一瞬、沈默した。
「ふむふむ、成程」
「父に呼び出されて、態態行く羽目になつたのだがね」
「へゑ」
ぺヱタア君は靑年の眼前で頬杖をついた。其の問題の相方のガラガラはさつきからずつと店の片隅に立つて、誰とも関らずに静かにしてゐる。
「其の晩、君のガラガラと思しき衣怪が現れて、妙な屋敷の中を冒險する事になつたのさ」
靑年は其處が父のゐた研究所の別館である事は言はなかつた。其處で目にしたあのノオトに就ても無論伏せた。ぺヱタア君は取り立てて表情を變へる事もなく、頭髪を掻ひた。白い頭垢が、近くで戯れるカブトとサワムラアとに花粉の樣にこびり付ひた。
「中中の冒險譚ではないか、君、『新靑年』にでも書いてみるかい」
「君は紅蓮島には旅をしたのかい、と僕は訊いてゐるのだよ」
靑年はまう一度、強い口調で問ひ質した。ぺヱタア君は何も應へず、ちらと窗硝子に目を遣り、雨降る帝都の樣を眺めるともなく眺め乍ら
「山吹の花色衣ぬしや誰
とへどこたへず口なしにして」
素性法師の句をぺヱタア君は吟じた。彼の通った聲に、カフエヱは水を打つた樣に静かになつた。
「あらまあ」
ミウズは二人の珈琲を小卓に置き乍ら言つた。
「貴方も時には
「何、ふと口をついて出ただけ、でね」
ぺヱタア君は不敵に微笑んで見せた。其れと同時に、ブウスタアが凛凛しく鳴くと、カフエヱは又時を取り戻したかの樣に賑かになり出した。何だか、又しても彼に巧くはぐらかされた樣な氣がした。
「併し、其れはだう云ふ心なんだい」
「まあ、なんだね」
すつかり平常の調子に戻つて了つたぺヱタア君は、
「口の無い僕には應へられぬ、と云ふ計りの事さ」
ぺヱタア君はくつくつと笑つた。靑年も覺江ず笑つて了つた。何だか、鹿爪らしい事を考へてゐる自分の方が莫迦に思へて來た。後はまう如何でも良かつた。靑年はカフエヱで暫し楽しい時を過ごした。
其の歸路の事であつた。靑年は何時もの如くカブトを腕に抱えた儘、識布通りを歩ひてゐた。すると、前方で此方を待ち構へてゐるものがある。見ると、一匹のガアデヰである。野生のものか、誰かに飼はれてゐるのか迄は判らぬが、如何せん獰猛さうな樣子で睨み付けてゐた。避けて通らうとしても、靑年の真似をするかの如くに動ひて通せんぼをするので、靑年は閉口した。牙を大いに剥き出して、近付けば必ずや挑みかかつて來るものと思はれた。
而も、靑年はあの晩の紅蓮島での出來事を思ひ出して、つひ足が震へて了ふ。走らうとしても、此れでは巧く走行出來ぬに違ひ無かつた。併し迂回するにせよ、識布通りに逆から入るにも時閒の掛かる事であつた。如何しやうか、と思ひ乍らも良い案も浮かんで來ぬ内に時が經つてゐく計りであつた處であつた。
カブトが靑年から飛出して、果敢にガアデヰに立ち向かつた。仔犬衣怪が嚙付き、引掻かうとするのを甲羅で
「いやはや、たうたうお前は僕の保護者になるか。すつかり女房にでもなつた氣分だよ」
戯言の樣に呟き、たつぷりとカブトを胸に愛で乍ら漸く部屋へと戻つて來ると、行成眼前が光輝ひた。靑年は何か事故でも起きたのかと勘違ひした。併し、光源は他でも無くカブトそのものであつた。思はず、牀に投げ出して了つたカブトは猶の事眩く光を放つた。靑年は目を瞑つた。これは如何に、凡ゆる闇を振払ひさうな妙なる光、神聖なる光か、と思考した。
数十秒の後、視神經を甚く刺激する光が止むと、靑年はゆつくりと瞼を開ひた。そして目にした光景に
靑年は改めて眼前の生物を凝視した。今さつき迄確かにカブトだつたその容貌は、餘りにも大きく變貌を遂げてゐた。僅か乍らカブトの甲羅の形状を保存した頭部の兩側面には、三角の
此れを目前にした靑年は暫くの閒、沈默して了つた。断じて其れは恐怖に據るものでは無かつた。嫌悪に據るものでも無かつた。紅蓮島で父から告げられたことを、失念してゐた譯でも無論無かつた。彼らの説が正しければ、此れはカブトプスなる衣怪であるに違ひ無かつた。あの時、靑年に示されたのは、出土した骨の化石等を基に再現された單なる模型に過ぎなかつたが、その骨格から受肉したカブトプスの姿は只只靑年の審美學を大いに揺るがしたものである。
餘りに觀察された為に、軈て進化した側のカブトプスが不安氣に懼る懼る彼の側へと近寄つて來た。變化した計り故に脚の使い方もぎこちなく、蹌踉めきつつ進むのは漸く二足で立ち上がつて閒もない赤兒のやうである。行成出現した鎌に戸惑つて、靑年に救ひを求めてゐるやうでもあつた。
「刹那よ」
掌でカブトプスを制止し乍ら、自ずとギヨエテの名句を靑年は口ずさんでいた。
「まあ、待て、お前は實に美しいから」
さう呟くと、忽ちにして穩やかな表情に變じた靑年が、崩れるやうに跪いてカブトプスを熱く抱擁した。咄嗟にカブトプスは兩鎌を擡げて、されるが儘になつた。靑年はと言へば、顏面を白い胸に埋めて、薔薇のやうに相棒の薫りを吸つてゐた。カブトとして出会つて以來、最も激烈な情愛の發露であつた。フアウスト博士の如く、此の「刹那」の為ならば、己を縛り上げてくれても好い、己はそれきり滅びても好いと云ふ、稻妻のやうな感激が心理の深淵據り沸沸と湧き上がつて來るのを最う留めやうが無かつた。其の發作は孤獨な幼年期に屡屡起こつた恐慌状態にも近かつたが、併し極めて幸福な發作であつた。
過呼吸氣味となつてゐた靑年の息は、軈て感涙の
「カブトよ、いや、最うカブトプスと呼ぶ可きだらう」
漸と顏を上げ得た靑年は万感たる想ひでさう告げた。そして取り憑かれたやうに直ぐ樣畫室を兼ねた一室に据江置かれた
「其の儘で待つてゐて呉れ、カブトプスよ」
使ひ慣れた繪筆を手に取ると後は瞬時であつた。畫布とカブトプスの肉體とを交互に見囘し乍ら無我夢中で空白に色を置き續けた。餘りの亢奮に泣き腫らした事に據つて彼の眼は充血し、ぎよろぎよろと行き來する瞳孔は狂氣の沙汰としか言ひやうの無い樣相を呈してゐた。カブトプスとても、靑年の氣迫に壓倒されて動くに動けなかつたに相違ない。
カアテンも閉められぬ儘の
突然、畫筆が落ちた。思ひがけず弾けるやうな音が鳴つたので、靑年も白晝夢から覺めたかの如く顏を上げた。そして今になつて、室内が暗闇に包まれていた事に気付いたのである。ずつと心眼で
「カブトプスよ、來たまへ」
今に至る迄、立ち盡くしてゐたカブトプスを靑年は手招きしたが、カブトプスは慣れない脚で直立し續けたせいか、一歩さへ踏み出す事も出來ずに頽れて了つたのを、慌てて彼は抱き止めた。
「痺れて了つたか。可哀さうな事をさせた。済まぬ、済まぬ」
恰で同年代の輩に接するかのやうに腰を屈めてカブトプスの肩を担いでやると、恰度其の鋭い鎌が靑年の頸を取圍むやうに巡つたのには一瞬ぞくりとさせられたが、閒近に眺める鎌の美しさに據つて直ぐに恐怖心は掻消された。触覺に傳はるカブトプスの肉體には凡そ人閒とは異なる性質の官能があると感じられ、靑年を益益高揚させた。
カブトプスを先つき迄靑年の腰掛けていた木椅子に座らせてやり、部屋の電燈を點けると、行成明るくなつた空閒に先ず目眩がして、お互いを見遣ると兩名共、人と衣怪乍ら同じやうな動作をしてゐたので、靑年は可笑しさと悦びの為にくつくつと笑うのだつた。其れに合わせてカブトプスも笑わうとして心なしか目元をニンマリとさせたのが新鮮である。此れ迄は茫洋とした赤目であつたから表情は殆ど變はらなかつたのだ。
畫布には、此のアパルトマンの一室を背景としたカブトプスの肖像が描かれてゐた。初めは憑かれたやうな目で、最後は闇さへ透視する氷鳥のやうな心眼で描いた一枚であつた。中央に構へるカブトプスの姿は新古典主義風の寫實性を纏ひつつも、其の色彩や技法には、藝術家たる靑年の本領たるアヴアンギヤルドの精神性を兼ね備へた独自の畫風であつた。
「
さう言つて、カブトプスの鍬のやうな形状をした脚を持ち上げると、其の妖鬼の如き風體にも拘らず四、五寸程の恰で小學生徒の幼さがあつて可愛らしかつた。先端據り生江出る二つの爪の閒に靑年は自らの畫筆を挟ませた。
靑年の顏を窺ひ乍らカブトプスは徐に脚を上げた。痺れたやうに震えつつも器用に柄を摘んでゐる。靑年は微笑して其の脚に手を添へると、畫筆の先をゆつくりと畫布迄運んで遣る。オコリザルの体毛を用ひた平筆が觸れた一點で、靑年の敢へて描き残したカブトプスの瞳が畫布に燈された。
斯くしてカブトプスは、靑年の作品に據つて初めて自己の姿を知覺し得たのである。再現された肖像と自らの胴と鎌とを見較べ、次に主人たる優しき靑年の顏を凝つと眺めた。餘りの忘我に目元に隈の浮かび乍らも滿足して、カブトとカブトプスに心を亂された藝術家は滿悅の破顏をして、進化の本懷を遂げた相棒へ縋り付くやうに再び抱擁した。
「嗚呼、カブトプス、何とお前は美しくなつた事だらう! 何とダビデのやうに逞しい肉体を得た事であらう! 其れに、何と眩暈のする程惱ましい鎌である事だらう!」
胴に頬擦りをされて、カブトプスは茶色の甲を微かに赤面させつつも、歎感の譫言を上げる靑年の愛撫をたつぷりと受け乍ら、木椅子に無骨な背を凭れた儘安らかに寢息を立てた。靑年もいつしか眠つた。素晴らしき幸福なる一夜であつた。併し此の日の運命的なるも致命的な交歓に據つて、愈愈事前から準備せられて來たトラジヱヂイの幕が開かれる事となつて了つたのである。私が詩学を度外視して、此の出來事に態態一章を費やしたのは、以前叙述したやうに、歴史家と詩人との閒で絶え閒無く搖れ動いてゐるからである。猶も其れを語る事を躊躇う我が詩人の感性の現象に他ならぬ。
だが、此處迄筆を運んで來たからには、最う引下る事などしない積りである。嗚呼、未來の大藝術家たる可きであつた靑年は、カブトプスの始原たる美の惡魔に取憑かれ、而も其の前代未聞の衝動を到頭言語にする事が出來ず、理性の支配下に置く事能わずだつたのである。
カフトシンカス
それだけの單簡な靑年の電報に對する紅蓮のF教授の返信は此くの如くであつた。
シヨシユヨコスヘヤニトトメテマテ
併し基
暫し思案した末、靑年はカブトプスに一寸待つやうに言ひ、階下に設へられた自働電話に赴き交換手を呼んだのであつた。部屋へ戻ると、カブトプスは部屋の片隅で窮鼠となつたコラツタかピカチウのやうにそわそわしてゐたので、彼はそつと腕に抱き留めた。
暫くして玄関のベルも鳴らさずに開く音のあつた。先に部屋へと飛込んで來たのはガラガラである。太い白骨を片手に握り締め乍ら、きよろきよろと畫材に溢れたガラル式の室内を見渡してゐるのは無骨と雖も衣怪ならではのあどけなさである。
「いや、はや」
後からによろりと現れ出たのは言ふ迄も無くシユトルベルぺヱタア君其の人である。淸新なる一室には凡そ吊り合はない薄汚れた着物の裾は水溜りでも踏みつけたのか灰色の
「カフヱエを訊ねたら行成ミウズから
「君、まあなんだい」
ぺヱタア君の口振りを敢へて真似して、靑年は戯けつつ状況を説明した。斯ふ云ふ相手であるから、どんな事態であつても動じないと彼は確信してゐたし、實際ぺヱタア君はカブトプスの要望を見ても危懼するどころか、其の姿體を興味深さうに觀察してカブトプスを困惑させてゐるのには寧ろ安心であつた。
「斯ふ云ふ譯なんだ。君のアイデヰアを聴きたい」
ぺヱタア君は相變はらずカブトプスの甲殻なる肉體を凝視してゐた。
「君、微苦笑してるね」
「何だつて」
「まあ、なんだい」
ぺヱタア君は無精髭を掻毟り乍ら滔滔と何時もの調子で演説をし始める。其の振舞ひは
「
「差し當たつては、此の儘外へ出しては具合が惡いのだが、僕としては熱り冷める迄部屋に置くのは癪だし、何より此奴を長く孤獨にさせるのは可哀相でならぬ。周圍を誤魔化すのに良い手段はあるまいか」
「なに、其の程度の事なら」
ぺヱタア君は賢くも言ひ放つた。其の胡散臭いとも呼べる自信過剩振りは安泰を
軈てぺヱタア君が若気乍ら靑年の部屋に戻つて來た。手には何とも觸り心地の良ささうな絹製の黑布が垂下がつてゐる。其の上に重ねられた茶色の格子からぺヱタア君の持つて來たのが法衣であると了解された。何よりトレヱドマアクのもじやもじや頭に
「君が僧侶の衣裝を持参して來るとは意外だね」
「なに、此れは斷じて珍奇な事ではないのだよ」
然ふ言ふぺヱタア君の語調は如何にも得意氣なのである。其の振舞ひは恰で破戒僧の如きである。
「秋に
「相變はらず妙な事計りするものだ。まさか本當に鳳凰に謁見したと云ふのでもあるまいね」
「うむ、其れは祕密にしておかうではないか」
頭垢の俄雨を牀に振らせ乍ら、ペヱタア君は微笑した。
「神祕は神祕であるが故に神祕である。此の意味に於ては貴族院議員の弄する
靑年は不思議な事と思ひ乍らもぺヱタア君の持つて來た法衣を早速カブトプスに合わせてみると、丁度兒童と同程度の背丈であつたカブトプスにはぴつたりであつた。鎌が絹を破らぬやうに氣を付け乍ら袖を通すと、兩腕の鎌から脚迄先端をほんの少し残してすつぽりと隱れた。
「衣怪に法衣を着せるとは、思いがけずも
「うむ」
修行者の如きカブトプスの姿を腕を組んで眺めつつ、ぺヱタア君は納得したかの體で頷ひた。
「良いではないか。ぢやあ、いざ給へかし、だ」
然して二人と二匹で此れ迄通りに冬の帝都を散策したが、素知らぬ通行人から見れば、誰の目にも三人と一匹に見えたであらう事は相違ない。而も一人は網代笠を目深に被つた仏法僧の
一行は小高い丘に整備された長閑な公園へと足を運んでゐた。一帶を植樹された
其の戦死者を悼むキウコン像の前を過ぎて、ぺヱタア君と靑年、僧侶カブトプスとガラガラは枯葉の積る公園内を歩き囘つた。其の閒、ぺヱタア君の方が人の舌を持つと云ふペラツプのやうに終始喋り續けてゐるのを、彼は逐一頷き乍ら聴いてゐた。
「おつと」
行成、ぺヱタア君が或る銅像の前で立止つて顏を見上げて鑑賞した。其れは創世神アルセウスを模した靑銅の彫刻であつた。犬正の国家を擧げての大典で關東各地が奉祝の萬歳斉唱で覆われた時期に、山吹帝國大學の助成で除幕されたものであつたが、神武なるアルセウスの創世を記念した此の像の土台部分には以下の如く刻まれてゐるのである。
神奧傳曰原初在混沌之畝萬物混在而殻子現出於中心殻子零而或神生或神成双分身或
曰剛牙神時而成時閒又曰珠光神空而成空閒蓋世界發現於此更成三命於身其分身剛牙
珠光祈念成事物而三命祈念成精神於此世界創造故或神永眠矣然推或神爲世界鼻祖焉
右創世傳
新戸博士識
ぺヱタア君は碑文の漢語を顎髭を撫で乍ら時閒をかけて訓讀する。
「神奧に傳へられる處では初めに混沌の畝りありき。萬物混在して中心に
「なんだい、民俗學にでも凝り出したのかしらん」
「いや、其處の修行僧君を見給へ」
ぺヱタア君が石碑を讀んでいる閒、カブトプスは銅像の傍で直立姿勢を保つてゐたが、其の姿を托鉢僧と勘違いした通りがかつた老人達に拝まれては喜捨さへされてゐる。前傾した網代笠が微かに震えてゐた。地べたに御布施された小銭をガラガラが骨で掻集めてゐるのが拔け目ない。
「全く以て此れは、此れはだね、此れは今世紀最大の科學的成果だよ、君」
さも愉快さうにぺヱタア君が手を叩きながら哄笑した。其の馬鹿笑ひはピジヨツトの風起こしの如く公園中を劈き、枯葉を吹飛ばし、枝枝を揺るがし、靑銅のアルセウス神に生氣を吹込まんとするかのやうなエネルギヰを孕んでゐるかと靑年には思はれた。譯も判らず自己をして
夕焼、オニドリルどもの悠然と列を成して飛行するシルウエツトが西の空に浮かぶ刻限、彼は托鉢僧君と共に一室へと歸宅したのである。集まつた小銭で
四尺三寸のカブトプスの裸體は慣れぬ布地の衣擦にか、此のやうな恰好で歩かされた氣恥ずかしさにか、冬にも拘らず汗が滲んでゐた。白いタウルで其の滴を拭つて遣ると、布越しに裝甲の逞しさを鋭敏に感じては、言いやうのない動悸を堪えるのに酷い困難を覺江てゐた。カブトに抱いてゐた情愛よりも熱く、
紅蓮據り急遽派遣された助手君が靑年の元を訪れたのは、父の電報から數日後の事であつた。研究所とは違つて背廣に身を
「
さう言つて助手君は嬉嬉として靑年と握手をする。斷る理由も無かつたから、彼も素直に握手をした。ふと背後に突つ立つてゐる蒼白の男に目を遣ると、其の視線は二人ではなく、だうやらカブトプスの事をまじまじと見つめてゐるやうであつた。羨ましげと云ふ可きか、妬ましげな氣配が重重に感じられた。此の男の視線は斯ふ言つてゐるやうに思へた。こら待て、其の化石は僕が見つけたのだ。其れだつて元来僕のだ、と。
「アイヤー!」
助手君は部下の怨念籠つた黑い眼差を察してか叫んだ。
「初めての、アルね。彼、君のカブト、否、カブトプス、甲羅の化石、發掘した者アル。以後、お見知り置きする、ヨロシ」
「
助手君はソオナンスのやうに陽氣に後頭部を掻ひた。
「彼、餘りお喋りする、ないアル。併し研究の熱情、誰據り抱くアルね!」
兎角、助手君と陰鬱なる理科系の男とは、早速カブトプスの調査を始めたのである。助手君は手持の巻尺で頭部や胴や
ゴオスのやうな氣迫で默默とカブトプスを撮る男を尻目に助手君は言つた。
「君、
「何でせう」
「君の其の、カブトプスのスケツチ、幾許か頂く、ないアルか」
此の愉快な研究員に對して些か心も和らいでゐた靑年は氣さくに應じて、相棒を写生した何葉かを助手君に提供するのを了承した。キヤメラの前で理屈も飲み込めずに畏つてゐるカブトプスの健氣さにも少少氣の揺らいだ事も無いでは無かつた。猶も執念く続く男の撮影を待ち乍ら二人は何氣無い世閒話をした。氣の揺らいでゐる事にかけては助手君も同事情であるやうであつた。年中紅蓮島に
其れで靑年の内には密かな探偵が目覺めてゐた。紅蓮からの去り際に、あの研究所別館の事で大騷ぎをしてゐた顚末を聞く可きだと潜在する彼の意識が命じてゐたのである。
「併し、
「アイヤー! それアルね」
助手君は躊躇せずに言葉を繼いだ。
「
「と云ふ事は、何か大事な物でも盜まれたのですか」
其の時、ずつとカブトプスに熱を上げてゐた部下の男が顔を上げて、眼鏡ごしにきつと二人を睨み付けた。無言乍ら矢鱈と物言わせぬ
「申し譯無いアルが、研究に關はる事。何も言ふ、ないアルね」
靑年には其れでも充分であつた。何喰わぬ顏で無邪氣に話題を逸らすと、二人は又陽氣な雜談を交はし、男は結局フヰルムの切れるまで撮影したので、彼らが歸る頃には
いとも氣高い三鳥に謁見するかのやうなプレシユアから解放されたカブトプスが膝から
其の珍奇なる姿態を目にして、先刻の理科系の男から發してゐた怨念めくものが自然と靑年にも理解されたのである。彼の悟性は瞬時に
果たして、夜は更けてゐた。遊説を終えた議員のやうな吐息を吐ひて、靑年はぐつたりと木椅子に凭れ掛かつた。モデルへ目を遣ると、カブトプスは先刻の姿勢の儘目を閉じて無邪氣な寢息を立ててゐる。數刻も凝視した畫布には、其の寢息を立てる哀しき兩鎌の古代衣怪の恍惚たるビジヨンが展開されてある。オダリスクを思はせるが東洋趣味とは異るエキゾチスムがあり、或は芳崖の悲母観音の母性を以て見つめられる子のやうな趣もあつた。
靑年は爽快に伸びをするとそつと
「おいで」
さう言ふと靑年はカブトプスの鎌を引いて畫布迄導いた。再度木椅子に腰掛けた彼は、側に侍るカブトプスに彼の作品を示した。無論、衣怪であるカブトプスの感性は其れがだうやら己が寢姿であると云ふ事しか受取らなかつたであらう。弓形の頭を畫に近寄せて眺めるカブトプスの腰に靑年は深い情から腕を囘し、其の甲殻と彼の皮膚とを重疊させた。骨張った琥珀色の腰の縊れを指先に感じ乍ら靑年は自己が狂人になつていくのを白晝夢か何かのやうに感じてゐたに相違ない。
刹那彼はカブトプスを自らの膝に着席させた。カブトの頃に毎晩其れを抱えて物したのと同じやうにである。併し往時には感じ無かつた背甲に生江出た三対の鰭や尾を其の身に感じては只ならぬ情感に浸つた。しゆぴんから一層と鋭利になつた金屬音の鳴声を漏らすカブトプスの獰猛な肉體を憑かれたやうに掻撫でると、軈て靑年は指に新たなる物の存在を感じた。緊張して坐高を高くしてゐたカブトプスが苦しげに、背の重みをすつかり靑年に預けてゐた。
「カブトプスよ」
靑年は
「其のやうな鎌では辛かろう」
彼は掌に柔らかくもでんだう傳導する火照りを感じ乍ら、熱心に其れを弄んだ。噴き出す蒸氣機關のやうな呻吟が夜更を迎へた一室に響いたが、其の内實は一人と一體の祕密であるだけに、猶更慾望が暴れ囘つていた事であらう。
其れからの事に就ては、往時書き散らされた數數のゴシツプを記臆する殊勝な讀者諸兄ならば、御察し頂ける事でもあらう。はて何のことかしらんという向きも新聞の雜報、『キングラア』や『
鋏角とも甲殻とも呼び難い何處かシステマチツクに緊縮したカブトプスの裸體畫に飛散つたしみ染を靑年はつとして見つめた。膝上のカブトプスが弱弱しく蠢ひてゐるのを觸覺して、項垂れる其の頭を撫ぜ乍ら彼は言表を超越したものの顕現するのを感じ取つた。畫面から滲出る夥しい生命力は、語彙を消失せしむるに事足りたのである。高次の交歓とも言ふ可きものが、靑年の精神とカブトプスの原始の肉體を通じて發現するのは、如何にも堪らないと云ふ氣がした。
斯くして彼らの師走は過ぎ、時は愈愈驚異の年を迎へる事となる。私は強い決意を以て宣言する。三ツ重之鎌と題せる物語は、ドライデンの謳ふアヌス・ミラビリスの如き樣相を呈する事となるであらう。
斯くして關東地方は新年を迎へた。市井の人人は創建されて閒もない明冶神宮を詣でたり亥年に因んでイノムウの描かれた年賀状を送り合つては雜煮を啜る三箇日を過ごすのである。靑年とカブトプスも又例外では無く、數は少ない乍らも此の正月の風物詩を楽しんでゐた。ぺヱタア君、ミウズ、其れに大王へ賀正の言葉を送り、其の葉書には各各の伴侶たるガラガラ、ブウスタア、サワムラアとヱビワラアを描き添へて置ひた。
ミウズからの挨拶はさつぱりとしたもので、餘白に一筆描きしたやうなブウスタアが存外魅力的で、空手大王殿の其れは達筆な文面乍ら端にはあの二匹と思しき手形か足形かが血盟の如く捺印されてゐて面白かつた。ぺヱタア君の挨拶が無いのは元より想定内の事であるから驚きはしなかつた。
一方で故郷からの母のものは簡素な文面である。だうやら父はカブトプスの事を彼自身の
「ボナネ・エ・ボン・サンテ」
机に向かつてゐた靑年が年賀状を一通り讀み終えると、彼の傍にずつと控へてゐたカブトプスに振向き、カロス風の謹賀新年を述べた。意味は判らぬ乍らもカブトプスは兩鎌を軽く擡げて靑年と感情を共有して健氣である。彼は徐に掌を少年の日からの相棒である衣怪の胸に当てると、其の甲の硬さと指で押すと感じられる僅かな柔軟さを同時に触覺して胸が騷ひだ。其れは藝術に蒙を啓かれて以來、繰返し其の圖版を參照した『アダムの創世』の場面のやうに、神なるもの據り生命を吹込まれる
思へば恍惚する儘にカブトプスを手淫した師走の晩、畫布に撒布された白濁を凝視して彼は其の夥しい量と粘質に奔放なる原始の生命力を感じずにはゐなかつた。謂はばカブトプスのまう一つの鎌とでも呼稱す可き其れは全く偉大であり、文明に據つて衰弱した人閒の持ち得る貧弱な其れが及ぶ可くも無かつたのである。往時カロスやガラルの知性を震撼せしめてゐたシユペングラアの著作が喝破したやうな没落の感覚とは對極にある生命を高らかに謳歌する屹立に蠱惑された爲に靑年は、寝そべるカブトプスの具象に浴びせられた染を拭取る事さへ考へ無かつた。其れは雄大なる自然に對する不敬であるとさへ思つた。詰り畫龍點睛の境地とは斯くの如しであつたと云ふ譯である。
瞑想から覺めると、カブトプスは周章狼狽しつつ主を見つめてゐた。外見は獰猛と
「扨」
靑年は處女のやうに初心いカブトプスに語り掛けた。
「折角の正月だ。籠つて計りでは面白くも無い」
其ふ言つてカブトプスに例の法衣と網代笠を着せると、彼らは帝都の雜沓へ紛れ込んだ。カフエヱは休業であつたから、格鬪道場の門を叩ひてみる事にした。押忍と云ふ掛聲と共に門下生が應對する據り早くサワムラアとヱビワラアの二體が門戸を蹴破るやうに飛出して來ると、早速托鉢僧君を揶揄うやうにぺたぺたと突ひて興じる。續けて大王が表向きは仏頂面して現れて門下生達を退けた。
「全く、新年早早騷騷しい事此の上無い」
「ふむ、中中に、中中に」
と云ふのも、靑年は紅蓮據り祕匿す可きと傳へられたカブトプスの姿を内密には明かしていたからである。行成僧侶と共に現れて訝しがらせては、網代笠を外して惡戯に驚かせやうとしたのであつた。大王は無論の事、ミウズにも其ふした。併し彼らは肝が座つてゐた。初めて見るカブトプスの姿にも、研究員達が恐れたやうな恐慌に陥る事無く、却つて靑年も呆氣に取られて了ふ程に順應してゐるから流石であつた。
サワムラアが手合せを
「併し乍ら、お主。此奴を此處で修行させる心算はあるまいか。實に良き筋と見える」
「此の姿を見たら卒倒する弟子もいさうですがね」
「其んな軟弱者は國賊も同然。儂の道場には、要らぬ」
靑年は苦笑し乍ら二匹の試合を見つめた。カブトプスの反撃をサワムラアは難なく躱したところであつた。未だ自己の鎌を扱いかねるカブトプスの隙を突ひて脚をさつと伸ばすと、
「だうも、可成の修行が要るやうですね」
「何てことはない。寧ろ鍛へ甲斐のあると云ふもの」
其ふ言い切つて了ふ空手大王に閉口してゐると、向かふの茂みから何かがさごそと動く音がある。皆の視線が自然其處へ向くと、そよめきは一層大になつた。ラツタかアヽボの類かと訝しんでゐると、突然白い物がによきによきと現れる。白骨の頭蓋が勢ひ良く飛出て來る。正體がガラガラであると氣付く閒も無く、彼は突然顏を出した。呆れる事に、あのペヱタア君の顏面ともじやもじや頭であつた。
「いやはや、明けましておめでとう皆の衆」
誰もが絶句しているのを如何ともせずにぺヱタア君が茂みから飛出して來るのには、絡れ合つてゐた衣怪達も呆氣に取られて其の異樣な姿を見てゐる計りである。頭髮には木の葉やらキヤタピヰだかビイドルの吐いた
「貴様ツ、我が道場で何をしているかつ」
大王は当然のやうに喝を飛ばしたが、ぺヱタア君は平然と其れを受け流して立竝ぶ二人の顏をにやにやと見渡した。
「いやね、此れは謂はばサイドチヱンジと云ふ奴なのだよ。何れ大王殿も衣怪大会に帝都を代表して出られる身だから知つてるでせうが、おつと、さうきよとんとされては困りますね。
「詰りだういふ事なのだい」
相變はらず人を喰つたやうな返答に、靑年も思はず訊ね返して了ふ。
「なに、今日はただ彼奴に好きなやうに歩かせて、僕は只其の数寸後方を逍遥する事にしたと云ふわけさ」
先行して現れたガラガラは手持の太い骨でサワムラアの平坦な肩を叩ひて勝負を挑まんとしてゐる。相手もやうやくカブトプスを解放して立ち上がつた。彼等の閒に走る緊張感が俄に感じられた。
「君が風變はりなのは重重承知だが、其れにしても
「はははは、併し阿弥陀式に歩くのも又乙だよ、君」
サワムラアが得意の蹴りを囘した。ガラガラは器用にも骨で攻撃を受流すや、力を其の儘返すやうに相手を弾き飛ばした。何とか後方へと着地したサワムラアは片脚を擧げて再攻撃の機会を伺つた束の閒、ガラガラは目紛しい速さで敵の
「むむつ、此れは、何とツ」
空手大王殿は譯も解らず目を丸くして、悠然と佇むガラガラを見つめた。
「貴様、此奴を此處で修行させる心算はあるまいか」
「やれやれ、有難い御言葉ですがね、貴殿の道場は格鬪型の専任なのですから、自己の領分を護つて頂かない事には仕方が無いですな」
「むむう」
大王が腕を強く組んで物惜氣にガラガラの勇姿を眺めてゐるのを尻目に、ぺヱタア君は髪から
「まあ、なんだい、其のカブトプス君に法衣を着せて了つて。ちよつくら、行かうではないか」
「阿弥陀式にかい」
「其れも良いがね、まあ、來給へ、來給へ」
「仕方あるまい。だうせ此の後何をしてゐるものかと訪ねに行く積りだつたから、面倒が省けて良かつた」
ぺヱタア君に引摺られるやうに、靑年は隨行する。恩賜公園を訪れた時のやうに、二人と、僧侶に扮したカブトプスの後方をガラガラが尾行する形である。迎春の帝都の街竝は鳳凰の羽根にも劣らぬ煌びやかさで、關劇や歌舞伎座を彩る
軈て一同は郊外の國道八號に出た。國道とは云ひ乍らも周圍には草叢や田園の廣がる
「其れにしても」
靑年は時の止まつたかのやうな墓園の静謐さを感じ乍ら稍前方を歩くぺヱタア君に問掛ける。
「何しに來たのだい。君の衣怪が死んだとでも云ふのかね」
奇怪な彼は其の問いには應答しなかつた。中心の一際大きい「無名衣怪追悼三重小塔」の前でぺヱタア君は立ち止まると、彫刻でも眺めるかのやうに忙しなく頸と掻き乍ら其の意匠を隅隅迄面白ろさうに彼方此方から觀察し始めた。
「君にとつて衣怪とは何だね」
小塔の陰から顏を出し乍らぺヱタア君が不意に訊ねたのは其の刹那の事であつた。
「其れを訊く爲に態態紫苑くんだり迄來たと云ふのかい」
「雰囲氣が出て良いじやないか。シリヤスな一場面には如何にもうつてつけだよ、此れは」
「成程。人生は一つの舞臺とでも云ひたい譯か」
「まあ良いでは無いか。扨、君にとつての衣怪とは何だい」
ぺヱタア君は
「比翼連理と云ふ奴さ」
靑年はそんなカブトプスの清しさに瞠目する儘にきつぱりと應へて了つた。
「ふむ」
ぺヱタア君は彼にしては珍しく感心したやうに腕を窮窟に組み、暫く考へ込んだ。
「長恨歌を引き合いに出すとは大胆だね」
「此處迄共に在つたのだから、其の位には考へて了ふよ」
「流石に蒼白なる藝術家の血髓には尋常ならざるものが流れているやうだ」
「君が言ふ事かね」
靑年は笑つた。續けてぺヱタア君も笑つた。ガラガラは三重塔に攀登つて上方からカブトプスの頭を木琴の如く叩ひて興じ、其の硬質な音が靈園に響くのは何かを悼むやうでもあつた。
「僕は又當分帝都を離れる事にするよ」
急に笑ひ治つたもじやもじや頭のぺヱタア君は言つた。
「君という男が豫告とは如何云ふピツピの指振りだね」
「なに、其ふ云ふピツピの指振りだからだよ」
「何時、戻るのだい」
「其れもピツピの指振り次第さ」
ぺヱタア君は兩手の食指を突立てて、月見山のピツピ式に指振りをした。氣紛れ次第で地震も海嘯も火炎放射も起こせると云ふ怖る可き指の振り方を真似して此の奇人は大層面白がつた。靑年が其れを笑ひ乍ら凝視する内、少年少女を拐かすと云ふスリヰパアの催眠術の如くに氣がぼんやりとしていくやうに感じられた。歸つたら又カブトプスの写生でもしやうと思つた。
ぺヱタア君と彼に
「『「
朝刊から視線を逸らして靑年はミウズに声を掛けた。ラツキヰの給仕した卓上の珈琲の湯気が一層白く揺蕩つてゐる向かうから、彼女の凛たる姿が浮かび上がつて來る。
「九段は此處から遠いのが救ひね」
「大王も參加するんじやなからうね」
「だうでせうねえ」
ミウズは困つたやうに笑ひ乍ら、店の片隅に目を遣つた。其處では冬毛を逞しくしたブウスタアが香箱を作つてゐたが、此の炎衣怪は太々しくも法衣を着たカブトプスの膝上に載つてゐる。幾らカブトが進化して肉體が發達しやうが、ブウスタアは何食はぬ顏で相手を從へ無邪氣に戯れて平氣だつた。先刻も網代笠を奪取して、追跡するにもし難いカブトプスを只ウソツキヰの如く棒立ちにさせて興じるのを微笑ましくも二人で眺めたところである。
今はすつかり疲れて休息してゐる二匹に靑年も心穩やかになると、彼は再び朝刊の處處方方に目を走らせた。
飛雲本街大爆發
兇熱遊戯會社大損害他
建物多數破壊し
負傷者百餘名に達す
ナツトレイ複數體囘收
靑年が再び視線を移すと、カブトプスと目が合つた。ブウスタアと主人たる靑年とを交互に見遣り乍ら、己は如何すれば良いのかと問ふやうに頭部を曖昧に搖り動かすのが情け無くも愛おしいと感じられたが、其の感慨は件の藝術的交歓の爲に愈愈強化されてゐた。畫龍點睛の繰返しの度に曝されるカブトプスの内なる鎌の自ずから鋭利な形態は、靑年の印象を通過すれば官能的である以前にホイツトマンの自由詩の如き奔放さを喚起させたのである。私は読者諸兄に改めて注意を促したいと思ふ。彼等の歓喜は生命原初の歓びであり、年端の行かぬ子が初めて厠や叢に放つ其れのやうに、吃驚を齎す現象に他ならなかつたのだ。靑年は憂鬱に苛まれた幼年期以降只カブト丈けを見詰めてゐたと云ふ特異な情況を我我が失念する限り、斷じて彼とカブトプスを理解する事は出來ぬ。
紙面を
鉱夫大募集
關東の丈夫ども豐縁へ來たれ!
有資格二十一歳より五十歳迄の男子 希望者山吹市職業課担当係に照會又は來談の事
豐縁郡金炭町 石蕗鉱業株式會社
「けれどあの人が缺けると妙に味氣無いものね」
ミウズがぽつりと洩らした。靑年は新聞を閉じて、元あつたマガヂンラツクに戻した。
「奴は
ラツキヰにチツプ代わりにペロペロを渡し乍ら彼は明言した。
「賽を振つて出た目の通りに進んで、其れで生きて滿足してゐるのだから大した男です」
「あら、あなただつて賽を打つてゐる事よ」
「彼奴に較べれば、僕は憶病ですよ」
「藝術で身を立てるのも充分ロマンチツクですわ、先生」
靑年は頭を掻ひた。片隅ではブウスタアが目を覺まして身震ひし、豐かな白毛が正面にカブトプスの鼻腔を擽つて小さな嚔を出させた。ミウズは微笑し乍ら衣怪達の分迄ポフレを用意した。
靑年は先刻から卓上に置き放しにしてゐた書物を手に取る事にした。其れはペヱタア君が紫苑での別れ際に不意に着物の袖から取出して手渡して來たものであつた。
「いやね、君も何時か新聞で讀んだらう、
と一方的に言はれるが儘に受け取つた其の『現代文化の哲學』なる本を、何とは無しに此れ迄讀まずに置ひてゐたのであつた。不意にぱらぱらと
吾吾の生活乃至文化の廣い範圍に於てたゞ『愛』といふものゝ外に、もつと具體的で綜合
的でそしてもつと直截的燃焼的な根本意識はないと信ずる。
其處では舊來の封建的戀愛感が痛罵され、
靑年は、ミウズからポフレを口で受け取つてゐるカブトプスを見遣つた。彼女が淸らかな手を顎下に添へると、カブトプスは上目遣いをし乍ら掌上のポフレを少量ずつ咥へて静かに咀嚼して美味そうにしてゐる。怪物的武骨な風貌と裏腹に小衣怪のやうな仕種は靑年の心を愉しませた。
さうしてゐる内に午砲が鳴つた。宮城に在る報時場據りカメツクスの空砲が正午を報せるのも往時の山吹の風物であつたものだと、私が懷かしく思はれる程であるが、此の見聞録の舞臺たる當時には、折しも軍縮の機運の高まつた事で、長らく午砲を運營してゐた海軍がカメツクスを山吹市へと譲渡した計りの頃である。當の甲羅衣怪に其のやうな事情が理解されたかは判らぬし、其頃の靈龜は飽く迄も職務に忠実に正午恰度の空砲を撃ち續けてゐたのであつたが、照和の世に於る斯くも數奇な運命に關しては、(……)
カブトプスの法衣に纏はり付ひた食滓を払ひ乍ら靑年がカフエヱを出たのは其の午砲の反響の残る
口笛さへ吹き乍ら靑年は、扮裝したカブトプスと連添つてアパルトマンへ歸つたが、廊下に散らばつた紙屑が氣になつた。其の枚数も多量で、どぢを踏んだ誰かが散亂させて收集が付かなくなつたとしか思へない有樣である。洋靴が紙を上滑りして轉びさうになるのを鬱陶しく思ひ乍ら自室へと向かふと、ビラは牀のみならず、壁に迄貼り付けられるやうになつてゐて、其處は廊下と云ふ據り『アリス物語』の如き異空閒のやうに思はれた。嫌な豫感がし、西洋骨牌の官憲に追掛けられる幼女のやうに、靑年は顏面蒼白にして走狗した。カブトプスも判然としない儘に飛脚のやうに主人の背を追掛けた。
玄関の前に立つて、靑年は初めて其の紙を直視した。扉に直に貼付けられてゐる以上、其れを正面に見るのは必定であつた。そして、墨汁で大大的に書かれた「某博士の橫暴不敬」の見出に脂汗を流した。如何にも此の怪文書が靑年の父であるF氏、元據り靑年自身を標的にしたものである事は疑ひ得なかつた。鳥子紙に巧みに墨書された其の文面に靑年は顏面蒼白となつた。
嗚呼某博士ノ橫暴不逞
貳號計畫ト稱シ
テ或神以來ノ皇統ヲ危ク
シテ人倫ヲ紊サントス姦賊
ノ姦謀既ニネイチオノ心眼
シテ視ルガ如シ
涜神ノ隻手ヲ加フルコト
是則 大罪ヲ頒ツ者ニ候
義民何ヲ爲スカ
之ヲ旬日以後ニ於テ
御覧可被成候
恐懼死テ措ク能ワズ
死罪 死罪
「行かう、カブトプス」
靑年は扉に背を向けて言つた。激甚な動悸と寒氣がした。
「此處はだうも不穩らしい。行かう、行かねば」
立竦んだカブトプスの法衣の袖を引いて彼はアパルトマンを離れた。早足で街頭を歩き囘り乍ら怪文書に就て考へた。紅蓮での一夜に經驗した事の一切が想起されて來た。あの時月明かりに照らされた「貳號計畫」と云ふ謎めいた言葉が改めて浮上した。怪文書の檄文に據れば涜神行爲とされてゐる其れは、猶も其の実態は茫洋としてゐた。併し父は一體何をしでかさうとしてゐるのか、不安を募らせるに充分であつた。兎角、父の行爲が巡りに巡つて何者かに據る告發が息子たる自分の元に迄屆ひたからには、事情も飲み込めぬと云ふのに最早無關係では居られぬらしいのは確かであつた。
靑年がカブトプスを連れて向かつたのはぺヱタア君の部屋であつた。だうせ彼は放浪してゐる所だし、其の閒は好きに使つて呉れ給へと言はれているのだから使はない義理は無い。差當たつては此處を借りて樣子を見つつ、紅蓮にも便りを送ろうと云ふ算段である。併し一體元旦據り連絡の無い事が急に深刻な意味を帶びて來るやうに思はれた。
而して晩の事である。和洋の書物を掻き分けた中に埋もれ乍ら靑年とカブトプスは自然寄添うやうに臥してゐた。進化前から慣れ親しんでゐたペヱタア君の四疊半で、すつかり健やかな寢息を立ててゐるのを、横臥する靑年は染み染みとして見詰めた。胸から腹にかけての甲羅は力強く割れ、其れ丈けではち切れん計りの生命を泉のやうに湛えており、彼の美學を大いに滿足させた。其の壮健な鎧の體躯を窶してゐた黑法衣を布団代はりにし乍ら靑年は隈畔の續きを讀んで暇を潰した。彼は其の浪漫的熱情を理解しつつも併し單に皮層の判斷として受け止めたに過ぎなかつた。文學的哲學的言語では、彼の情念には厭き足りなかつたのである。
靑年のカブトプスへの情感は愛翫に據るもの丈けでは無論無かつたのだ。其以上の言語に絶する心理に由來して居り、隈畔の云ふ「愛」の概念を超越してゐたものであつた故に、靑年は目前の衣怪に對する情愛の實際を把握する事が猶も出來無かつた。其れは眞の藝術のやうに言語に絶するものなのであつた。詰りカブトプスは藝術足り得てゐたのである。蓋し、隈畔にせよ『近代の戀愛観』を物した彼の白村にせよ、彼らの主張する「愛」は畢竟ヒウマニズムに過ぎなかつた。靑年に呼応する得も言われぬ思想の持主は照和の今になつてさへ現れておらぬし、況や末代をやと云ふ絶望に私は嘆息せざる能わずであるが、(……)
突如として部屋に異臭が滿ちたのは其のやうな時であつた。立付けの惡い窗の隙閒から紫煙が棚引ひて來たかと思う閒に、靑年は著しく氣分を害した。鼻口を手で覆う暇も無く強烈な嘔吐感に襲はれて、意識が朦朧とした。カブトプスも異常を察してすっくと立ち上がると、主人を護るやうにその小柄な身で靑年を庇う姿勢を取つた。本能が危險を告げてゐた。最早外面を取り繕う可くもなく、靑年と裸のカブトプスは追ひ立てられるやうにして書物だらけの一閒を脱出し、新鮮な空気を希求して外に出た。其れこそが計畧の内である事等知る可くもなかった。
命辛辛の體の靑年達の前に待ち構へてゐたのは、靑紫の強靭な皮膚を鎧のやうに負つた衣怪であつた。其れが名にし聞くニドキングであると云ふ事、其のやうな衣怪が何故此處に居るのかと云ふ事情が認識される據りも早く錐衣怪は彼等へ襲ひ掛かつた。兇悪な尾の激烈な一振りすると、身構へる暇すら無く、カブトプスは正面に腹甲に其の攻撃を受けて了つた。ニドキングの強靭な尻尾にトルソオを痛打されたカブトプスが吹飛ばされ、強かに地面に打付けられる映像を以て靑年の眼前は恐慌と絶叫の餘り真白となつた。
詩神よ、此處で私はホオマアに倣つて宣言するのである。彼は怒りを唄ふ爲に彼のムウサの助力を乞うたのだが、私は至福を唄う爲に今一度貴女の名を呼ぶ事としやう。聖アウグスチンの懺悔録の如く貴女を稱へる事に大袈裟なぞと云ふ論難は一向当たらぬ。
靑年が覺醒したのは、薄暗い空閒のやうな何處かであつた。何處かと云ふのは、彼にとつては正にさうとしか言ひ樣の無いからさう書ひた迄である。
彼は冷静に自身に繼起した出來事を囘顧した。心肝を寒からしめる件の怪文書に危險を察知した靑年はカブトプスと共にぺヱタア君の
併し
「
靑年は聲を聞いてはつとした。其れは隨分と聞き馴染みのあつて然も久しい聲である。其の筈にも関らず彼は餘りの事故に其の聲の主を斷定しかねてゐた。首を動かしてみても誰も居らぬ。行成、寢臺に飛乘る音がした。視線を胸元へ下げると其處には、彼のガラガラが平常の無愛想さで佇んでゐたのである。呆氣に取られたやうな、馬鹿を見たやうな印象を靑年は受けた。
「ハハハ、さうだよ、僕さ」
例に據て彼は古びた寢臺の下からひよつこりと首を出して來た。三が日に會つた時と全く同じ調子で一向變はらぬもじやもじやの頭髮のペヱタア君が靑年の前に現れたのである。餘り俗つぽいので、靑年のラピスラズリのイメヱジは忽ち雲散霧消して了つた。
「何だね」
彼が久久に發した言葉は呆れを含んだ其れであつた。
「此れは、一體だう云ふ事なんだい」
「ふむ」
ぺヱタア君はすつくと直立すると、取敢へずとでも言ふやうに頭を掻ひた。芳しくない雪が薄暗い一室に舞ふと、其れが
「中中だね、此れは少少混入った問題と謂はざるを得ないのだ」
「大體君は長い閒歸らないとさう言つていたじやないか。此れはだう云ふピジヨンの吹飛ばしなのだい」
「うむ。だがね、君も相當な
刹那靑年は
嗚呼! 幸福にも不幸な藝術精神を持つ靑年はあの一瞬閒に、絶望と至福を同時に味覺したのである。幼年期からの相棒を喪ふ慟哭に苦悶し乍ら、其處に殉教の美を捉へて感佩したのだ。彼は首を橫に振つたが、成程此の倒錯を否定し去る事は出來無かつた。何れにせよ、カブトプスの危機を傍観するに過ぎなかつた自己を嘲笑するので滿足した。
「死んだと言はれても驚く積りはないさ」
彼が
「成程冷笑的だね。ニイチエの毒でも序でに浴びたかい」
「僕には一向事態が判らぬ」
靑年はやおら上體を起こして寢臺の縁に腰掛けて、飄然たるぺヱタア君と向い合つた。空閒が空ひたのを良い事にガラガラが其の上で数寸跳躍して白い布団の弾みを淡淡と享受してゐる。改めて陰氣な部屋内を見渡すと、此の
「第一僕等は何處に居るのだい」
「此處は玉蟲の知人の醫院なのだ。彼は曾て神奧の地で開拓吏をしてゐて、銀河團とか云ふ開拓使の醫療隊員に屬して人やら衣怪やらの救命をしてゐたさうだが、今は關東に隠棲して悠悠然としてゐる。まあ、
「カブトプスは」
「別室で治療中さ。君は只氣絶してゐた丈けだが、彼奴は少少傷を負つてゐてね、おつと慌ててはいけない。何、安心し給へ。別条が有ると云ふでもないのだ。衣怪センタアでも不足は無い程度の傷だが大ぴらにしては不都合だからかうしてゐる迄なのだ。所でだね、君は動顚して、記臆も幾らか缺落してゐるやうだから此の僕が代理して其の空白を埋めて御覧にいれやうと思ふのだが、如何だね」
「君が結構なら、好きに吹聴すればいいさ」
「一體全體何時迄、カツチリイナよ、我我に忍耐を強いる心算か!」
なぞとキケロオの口真似をし乍らぺヱタア君は事の次第を語り出したのである。
「予め白状すると僕はだね、畏くも君の御父上に就てちと調査と云ふものをしてゐたのだ。君も薄薄察してゐるかも知れぬが、其れと謂ふのも教授氏の『絶對の探究』に關する物だよ。ハハハ、氣を喪ふ前に君は『某博士ノ橫暴不逞』なる怪文書とやらを目にした筈だ。實の所君の御父上はさう言つても差支への無い所業を犯したのだが、果たして此の事は君が襲はれた事と深淵な關係に有る。併し乍ら君も恐らくは其の橫暴不逞の何たるかを認知してゐると思ふ。君は紅蓮の
「
「昨夏のF氏のカロス行と云ふのも、化石研究とは無論建前に過ぎなかつたのだ。其の真の目的は近年南ウノバで目撃された
「僕は折を見て關東や條都を經巡つてラケツト團の連中の動向を探つてゐた。
「何も新種の、其れも幻の衣怪を手中に收めた丈けでも充分なのに祕匿するのは如何にも不自然だ。御父上が企んでゐたのは、無限の潛在態であるミウを母胎として全く別の衣怪を創造し果せる計畫だつたのだ。曰く其れを『ミウ貳號』と呼稱するのだね。君が紅蓮で見た言葉の意味するところとは乃ち是れさ。さうなのだ、『ミウ』は今もあの館の地下に設えられた極祕の研究室に居る。あの霜月の日も、F氏とラケツト團の酒木氏——教授氏は暗にS御大と呼んでいたがね——との會談があると云ふ話を得てゐたから、彼等のどさくさに紛れて僕は急ぎ紅蓮へと御邪魔した次第なのだ。君迄其處へ招待されてゐたと云ふのは意外な事であつたし、よもや運命的にと言ふ可きか、あの研究所別館へやつて來たと後で聞かされた時には驚きでさへあつたがね。此れも又君のカブトの導きと云ふ可き哉! 實の所僕は最う少しで研究所の奧地に踏込める所であつたのだが、ガアデイの咆哮を以て少少亂雜に退散しなくてはならなかつたが、其れも又中中刺激的な
ぺヱタア君の演説は更に續ひた。
「君とカブトプスが忽然と失踪したと云ふ報せを知つた時僕等は恰度紅蓮に潜入してゐたのだ。ラプラスに乘つてゐたら一寸した冒險活劇もあつたのだがね、スタアミヰの羣れとの神祕なる邂逅! 遺憾乍ら其處は
「兎角僕はガラガラと共に急ぎ紅蓮島に上陸し、事の次第を確かめに參上した次第でね。果たして研究所は騷騷しかつた。陰氣を帶びた白衣の男どもは慌しく出入して、僕みたやうな部外者を
「扨、別館の周邊には君も恐らくは見知つた黑衣の連中どもがこつそりと屯してゐるのに僕は氣付いた。此閒の黑シヤツ隊とか云ふ偉大なるダンヌンチオの模倣者どもの趣を僕は一見して其の羣から感じ取つたものだ。併し少少距離を置き乍ら
「閑話休題、僕は隙を見て再び大活劇を敢行して別館の中へ忍び込んだが、其奴はさして難儀な事でも無かったよ。元據りだだつ広い屋敷だから、ラケツト團やら研究員やらの目を眩ますのは容易であり、寧ろ心躍らせるものすらあつた。君は知らないだらうが、あの屋敷の中二階のバルコンから見下す深淵は其儘地下の隱し部屋への入口なのだ。梯子なぞ立掛ける暇は無論無いから、僕は其處からひよいと飛降りると、後は最奥へ忍込むのは直ぐだつた。
「『ミウ』は試驗管の中で眠つてゐた。そして、幾つも立竝んだ其れ等の内に丸で生まれたてのタツヽウの如き幼体を僕は發見した。其の見目形は、『ミウ』と似て稚いものの、母胎には無い異樣なるものを内に祕めてゐると云ふ印象を僕は受けた。
「軈て梯子のきうきうと軋む音のしたから、僕とガラガラはそつと物陰に隱れると、F教授と酒木氏が揃つて現れて『ミウ』と其の鄰の幼体の前に立つた。果たして其の幼体こそが『ミウ貳號』である事を、僕はF氏の説明から得心した。博士は、考え得るありと凡ゆる交雜の果てに残された最後の可能性に賭け、見事に勝利したと云ふ譯なのだね。神奧民話の一節を引用し乍ら、君の父上は彼の決定的瞬閒を語つた。確かに遠い舊翡翠の民の聲が無ければ、其のやうな發想は何人足りとも浮かび上がつては來なかつたであらう事は想像には難く無いがね。併し事實として『ミウ』は子供を産んだ。正しく可能性の獸たる『ミウ貳號』と目される可き存在をね。酒木はF氏の熱血小説的談話に神妙に耳を傾けてゐた。暫くして、奴は教授に恭しく或る提案を持掛けた……」
もじやもじや頭を一頻り掻き乍ら、ペヱタア君は靑年の顏をまじまじと見詰めた。ガラガラは跳ね囘るのにも飽ひて靑年の鄰で同じやうに坐した姿勢を取つてゐて健氣である。父の所業を聞かされる彼は只默つて續きを促した。
「詰りだね、酒木は此れ迄の支援の見返りとして『ミウ貳號』を寄越せと言つたのだ。無論F氏は同意しかねた。科學的見地から種種の反論を試みたが、酒木も酒木で泰然として一向動じない。而も其の内奴が手を一打したのを合圖に、先刻の黑衣の男達がタマタマのやうに羣れ集まつて、教授を取圍んで脅して來る。其處で漸く僕は君の境遇に就て知る事となつたのだね。要求を飮まねば御子息と其の衣怪の命は無い、と云ふ陳腐な極り文句と共にね。行成子供達を天秤にかけられた教授氏は苦悶の表情で讓歩を請ふた。曰く個體の成熟には猶半年を要するのであり、引渡すにしても其れからで無ければならぬと。黑衣のラケツト團員どもは姑息だと氏に腕を擧げんとしたのを酒木は
「畢竟は樣樣な取決めと共にF氏には猶豫が與へられる事に極まり、酒木と其の取巻連中は去つて行つた。君の父上はぼんやりと試驗管の子らを直視し乍ら何を考へたものやら、深く嘆息したのを見屆けて、僕等は玉蟲へと急ぐ事にした。
「其處に出來た當世流行の遊戯場は酒木組の資本で囘つてゐるし、何なら連中の關東の
「全く大したものだつた。僕とガラガラを中央として黑ずくめの奴らが大囘りをするのは中中、歌舞伎座の観客も瞠目したと思ふよ、いやはや、流石の僕も眩暈のするし、ガラガラの體力も心配せぬでは無かつたが、其れも又冒險の一部分であるから一興だ。併し乍らニドキングやサイドンに遭遇した時には肝を潰さない事も無かつたがね。不良とは雖も衣怪達の忠誠は本物だから振切るのは大仕事だつたが、同時に心躍る瞬閒でもあるのだよ、僕にはね。
「そしてアヂトの奧、貧乏宿かと見紛うやうな貧相な一室に君は捕らえられ、朦朧として、衰弱もしてゐるのを僕は見つけ、介抱した。横たわる君の側を守らうとするみたいに、カブトプスも又其處に
暫し哄笑してぺヱタア君がぴたりと口を鉗むと、室内は水を打つたやうに静謐となつて、靑年は却て耳鳴のする程であつた。
「併し君は」
真空に自己を漂わせてゐるやうな落着かない心持で、眼前のもじやもじや頭の開陳した話に少なからぬ
「止めやうと言ふのかね。父と、連中の犯さうとしてゐる事を」
「何、僕は只好奇心に憑かれて動いた丈けの事さ」
靑年は發作的には、は、は、と嗤つた。
「其のやうな事案を目撃したにしては、隨分と軽佻浮薄ではないか!」
爆発せん計りの衝動を抑へ付ける可くにきつく腕を組んで、くつくつと震へる藝術家の姿を、ぺヱタア君もアルカイツクな微笑で以て凝視した。
「其れに僕はコスモポリタンだからね。最後はヒウマニズムを信奉する者なのだよ。Bonan tagon, sinjoroj!」
聞き慣れぬエスペラントなどを弄して、又してもはぐらかされたやうな、けれども其れが此の男なのだと云ふ妙な氣持ちに靑年は陥つた。其の彼等を尻目にガラガラは寝臺を飛降りて、つかつかと戸へと歩出したと思ふと
「まあ、君。寝てゐる計りも體に毒だから、一寸歩かうではないか。其れに、早うカブトプスに會ひたいと氣が逸つてゐるだらう」
靑年は久久に腰を擡げて牀の上に直立した。上體が木偶坊のやうにふらふらと
「治癒室」と筆書された木札の掛かつた戸を押開くと、靑年が臥してゐたのと同樣の構造の一室に、背中を丸めた院長の背中が大きかつた。
「恢復したのけ」
大型の黒縁の蔓を摘み、まじまじと靑年を観察し乍ら醫者は呟ひた。
「ええ」
寡黙な老醫者は静かに頷くと、暫時安静が肝要だでと繰返しつつ時閒をかけて木椅子から立上がる。其の樣はカビゴンの如く悠然として、正しく舊翡翠の悠久の時流に生きた大丈夫の貫祿とは斯くもあるかと感じられた。彼の巨軀が橫滑りするにつれて幕の開くやうに靑年の前に寝臺の光景が開けて來た。
「囘復藥打つたから、數日寢かせとけば大丈夫だべや。だけんど、虫の息乍ら連隊一つを壊滅させつ程の毒毒をどかんと浴びて猶も生命保つてるのだからおつ
病牀には傷付ひたカブトプスが橫臥してゐた。無骨な痩躯を弱弱しく寢臺に凭れて、平常は目立たぬお猪口のやうな口が視江る程に半月上の頭を擡げて苦し氣な喘ぎを微少に洩らしてゐる。胸甲が呼吸に合はせて上下するに合はせて、其の堪へ忍ぶ化石の肉體から滲出る汗が電燈に照されて白い高光を放つた。苦難に據り腰部の括れは痩せ細つて峻厳さを增してゐたが、削落とされた肉から骨盤の一角が浮沈するのには意地らしい思ひを禁じ得なかつた。
靑年は憶江ず膝を突ひて祈るやうに組んだ兩手を苦悶する白い腹甲の傍に添へた。荒氣な
「化石と云ふのは此處迄しぶといものかえ」
カインの末裔たる醫者は息を吐き乍ら額の汗をハンケチで拭つて、患者たる異樣な風貌の化石衣怪を驚嘆の眼で見てゐた。暫く一匹の爲に時を費やしたにも拘らず、興味は猶も厭く事も無いかのやうである。
「我我は、まあ、科學の力つて奴のお陰で、原始と云ふものを垣閒見る事が出來るのですよ。其れを幸福に思ふかさうでないかも、其れを幸福にするのも真逆にするのも、全く人閒、此の懼るべきもの如何ですよ。僕は極力精神は健全であつた方が良からうかと思うんですけれどもね……おつと、さう言へば今日の夕刊は何處です。さうさう、何時もすまぬね。ええと、いやね、僕は芦原将軍の詔勅を拝謁しなければならないのでね。あれは臣民の義務ですよ。将軍は實に偉大な御方だ……ふむ、あつた。今日の「松澤村通信」……
『世界平和ニ付、シガナ師を以て
犬正拾貳年參月玖日 芦原将軍
梧桐、松房兩閣下』……」
『世界政府ヲ
犬正拾貳年參月拾日
フルドリ殿』
「いやあ此れは拝読す可き勅語ですよあなた、ねえ、全く。将軍は何時だつて正鵠を得てゐますなあ……」
ぺヱタア君が普段の調子で應じてゐるのも、祈るかのやうな靑年には上の空であつた。自己の事も放棄して、彼は衣怪の傍から一歩も離れやうとはしなかつた。醫者は彼に病室に戻るやう催促したのをぺヱタア君は默つて引留めて、ガラガラと共に音低く戸を閉めた。夜になるのは瞬時であつたが靑年にとつては永遠であつた。彼は隈無く殉難者の肉體を彼の目を通して見つめ、認識し、感情し、繰返し深く嘆息した。窗からの月灯りが朦朧するカブトプスの全體を照らしてゐるのが、聖性の兆しであるかのやうに感知され、其れと同時に靑年の靈感が高揚して或る種の天啓を得た。
カブトに據て蒙を啓かれ藝術に開眼した頃おいに、少年であつた所の彼の心を摑んだ繪畫の記臆が不意に想起されたのである。父の海外渡航の土産に貰つた外地の美術雜誌に挿入されてゐた一葉の圖版に猶も幼かつた少年の精神の祕奧は甚くも
今、彼の前には聖セバスチアンがゐたのである。彼の豐かで隆隆たる胸と腹の筋とを射拔く矢が視江た。其の悲痛な疵口から流れる血は、天上を思はせる鮮かな靑であつた。彼の表情は苦悶に押默り乍らも勇壯であつた。靑年は聖なる彼を抱く神を其處に確かに目撃した。
視界に電撃の走つて一面真白となるやうな感覚の後で不可避の運命に邁進しつつある靑年はカブトプスの白甲の上を緩慢に垂れる汚泥を眺めてゐた。思へば、カブトとして復原された彼は、父親の狂つた野心の副産物に過ぎ無かつた。何か良からぬ事を爲さんとしてゐる家父を彼は苦苦しく思つたが、自己が浸つてゐる感慨は父の破滅的行動と不可分である。古代衣怪を態態犬正の世に活かしたのは全く人閒のエゴだが、だからと云つて其の因果を怨む決意を懷かせぬのは、しゆぴんと鳴くカブトの愛らしさであり、カブトプスの崇高な美であつた。其れは彼にとつての本質に他ならなくなつてゐた。
風船から空氣の拔ける音を立て乍ら、カブトプスが目を開いて其の視界に靑年を捉へた。自らの体躯に浴びせられた雫の感覚に身悶えしつつ、靑年に合圖を送らうと其の鎌を徐に擡げた。未だ弱弱しくも、自らの個性を指示す可く鋭利で優美な曲線を示さうと頑張つてゐた。
「カブトプス、まう、大丈夫なのだ。安心するが良い。僕は二度とお前から離れぬ」
靑年はカブトプスにさう呼掛け、病牀の衣怪の鄰に添寢した。彼の指が汚泥ごとカブトプスの肉體の凹凸を賞味する如くになぞり、各各の鎌も一本ずつ讃えるやうに愛撫して遣つた。一人と一匹は其の刹那、法悅の極みに屬してゐた。其れは呆氣なく終わると丸で夢の如くに次第に色褪せて了つたが、靑年は私が曾て紲より固きものと書表したものの何たるかを理解した。カブトプスを鏡として、幼き時分に「聖セバスチアン」に豫感された境地に竟に到達したのである。最早彼等に主從は無く、法悅への深き祈念丈けがあつた。
彼等が隱密の内に山吹へ歸京して據り暫くは、ラケツト團どもを恐れて室に留まつて日日を過ごしてゐたが、軈て連中が最早自分に固執してゐないらしいと悟ると、恐怖心は次第に和らいで來た。特段靑年とカブトプスが交渉の材料として然程肝要では無くなつたのであらうと云ふのがぺヱタア君の言であつた。其れに父の所業で自己の行動が制限される事への業腹が、靑年を愈愈奔放にさせた。
父の消息に就てはぺヱタア君斯く語りし如くであつたが、紅蓮からの連絡が猶も途絶えてゐるのも靑年を不快にさせるには充分であつた。助手君の話したカブトプスの學術認定云云の話も文字通り七島の不歸窟の霧の如く有耶無耶である。父は矢張例の「ミウ二號」なるものに執心であるのかと想像を働かせると、元據り孝行の念の薄かつたとは雖も何處か自己を裏切られたと云ふやうな屈辱を覺江ずにはいなかつた。
折しも卯月の初め、恩賜公園での展覽があつた。其れは靑年が焦がれたカロスの美術を一同に竝べた催しであり、多少の無理も惜しまれない機會であつた。僭越乍ら私の記臆に據て註釈すれば名稱を「第貮囘
併しカブトプスは扮裝させたにしても、正裝の紳士淑女が蔓延する展示室の混雜に置く事は出來かねたので、止むを得ずに格鬪大王の元に預かつて貰ふ事にした。嬉嬉としてサワムラアとヱビワラアが困惑し懇願するカブトプスの兩脇を掴んで道場へと連去るのを申訳なく見送りつつ、彼は陳列館へ急ひだ。殊藝術に關しては靑年にも讓歩せざるべからぬ事項もある譯で、猶且つ脚をじたばたさせ乍ら格鬪衣怪どもに抵抗する姿も又チヤアミングなので良しとした。
果たして展覽會は收穫であつた。眼前には念願の光景が廣がつてゐた。心寄せてゐたダダヰズムがあり、シユルレアリスムがあつた。直に觀る魅惑的な「優美なる屍骸」の一覽は靑年の藝術感性を十全と刺激して止まなかつた。更に彼等の先達となつたルノワアルの華やかなミアレを、深淵なるセザンヌのキナンの山脈を、ゴオガンの野生味あるフヱルムを、クリムガンの配色に影響されたとも云ふブラツクの眩い抽象を矯つ眇すがめつして其等の清新さに逐一溜息を吐ひてゐた。正鵠なる新しい表現の息吹はフアイヤアが齎す春にも似て若き藝術家にマルドロオルが大わたつみに向ひて喚呼する
今度の催事には又、美術商が殊更に力を入れてロダンの彫刻羣を關東へ送り出してゐたのも靑年は觀覽した。彫刻家の創造した懊悩するトルソを石を穿つ程迄凝視した。古來の傳統に倣つた男性的肉體の美を帶びるも、其のトルソは己が體躯を畝らせて筋肉を緊張させた儘の姿には強烈な精神の發露が見受けられ、古典主義を脱した藝術の内包する生命に心打たれた。其れは關はりの無い
「以前にも增して骨のある事だな」
彼等を橫目に正坐して書を認め乍ら大王は呟いた。見るとサニヰゴを筆軸にした毛筆で「因果應報」「四面楚歌」と隷書してゐる。亂暴乍らも力強い筆致は丸で足で書ひたやうな趣で、畫作の戯れにカブトプスの脚に筆を持たせて好き勝手に描かせた物を思はせた。眼前のカブトプスは少年のやうに騷ひでゐる。
「さう云ふものですか」
凝と主を見詰めるカブトプスに網代笠を被せ乍ら、又しても此處で鍛錬をさせぬかと勧誘をして來るのを靑年は微笑み乍ら遇らつた。だが彼の意識は既に畫室にあるも同然であつた。弱弱しい胸は激しく動悸もしてゐた。
部屋へ歸つた靑年は徐にカブトプスの上衣を脱がすと、汗の雫の浮んだ肌けた胸甲に掌を押當てた。丈夫の如く逞しく隆起した胸の深奧據り化石衣怪の心臓の鼓動するのを感知し、其れが流動體として靑年の肉體に循環し燃立つやうな思ひにさせられると、彼の掌は熱心に骨張つた岩型の壯健を感じつつ愛撫した。急勾配に傾斜する曲線を滑落ちると、麓の鳩尾の凹みに指が觸れたのを原點にして、彼はカブトプスの胸の輪郭を心行く迄反芻した。
法衣は花弁の如くカブトプスの脚元に放置されて、今や着衣を脱ぎ去つた衣怪の硬質な肉體が顕となつて靑年の精神は其れ丈けに占有されてゐた。彼は兩手で其の自然のトルソを鷲摑むと、肋骨に直に觸れん計りに力強い、按摩のやうな熱烈な愛撫を加えた。此の言語に絶する感激を表現するには只行爲丈けが相応しかつた。眼前にあるのは觸智出來るロダンなのであつた。あの情感瑞瑞しいトルソに載る可きは、カブトプスの三日月狀の頭部を置ひて他に無いと云ふ事が靑年には真実であると思はれたのである。居ても立ても居られず、彼は腰を摑んだ儘、夢中になつて唇を鳩尾へと押付け、滲む汗の雫を啜つた。生温く甘い味を舌に覺江ると、彼は至る處に接吻の雨を降らしても未だ足り無かつた。カブトプスが静かに靑年のサクラメントを受け乍ら、其の身をもぞもぞと拗ねらせると、トルソの勇壮さは愈愈苛烈な阿片の作用のやうに主人を恍惚とさせた。
靑年は熱情を以てカブトプスを寢臺の上に押倒した。兩鎌と華奢な脚を寢臺の外側にだらりと垂らすと、茶色の体色に比して珠のやうに白い腹と胸が生贄に捧げられる如くに誇示された。親愛なる手に據て昂つた化石の身體は媚びるペルシアンのやうに頻りに腰を動かした。漏斗のやうに細まる下腹から熱を持つて芽を出したものを、靑年はまじまじと見詰めた。凡そ今世の人閒が野蛮と見做したものの崇高さは、一箇の藝術に匹敵し得ることを其の熱に據て信じた。
「カブトプス」
叫び出さん計りに靑年は喚呼した。
「待つてゐてくれ、待つてゐるのだ、さうだ、其の儘、留まるのだ……いいかい」
彼はまう熱に駆られて畫布の前に坐してゐた。繪筆に着手すると彼の目はカメラ・オブスクラとなつて此のヴイジヨンを些細な迄に腦髄に焼付けるやうにして、目と心を通じて浮び上がつた畫想を具體しやうと熱中した。描いてゐるやうな、描かれてゐるやうな、切り分ける事の困難な意識で、表現す可きものへとサイホオンのやうに猛進した。只此の時計りは藝術の神に呼ばれてゐるやうに思へた。アポロオンが畫を物する彼の手を取ってゐるかの錯覚に彼は陥り、憑かれたやうに色彩を畫面に浴びせた。
完成した畫布には寢そべるカブトプスのトルソの具象があつた。クウルベの醜聞的な繪畫を髣髴させる程大胆に描冩された「鎌」は中心に直線に伸びて畫面を二分するかの如き存在感を放つて威風堂堂然としてゐるが、瞠目す可きは其の土臺となる腹甲の色彩であつた。若き畫家は視覚以上の物を見、其れらの總合を平面上に託したのである。彼はカブトプスのしなやかで強固な筋骨の内側を循環する靑き血汐さへも其處に浮上せしめてゐた。而して肌理は蒼白とし乍らも硫黄の燃え立つかのやうな潑剌たる生氣を湛へ得たのである。太陽光線を青褪めた色彩で描出したゴツホを自家薬籠中とした靑年の筆はカブトプスへの情感を通じて恐る可き畫境に到達したかに見えた。餘りにスカンダルを喚起せしめる計りの畫題にも拘らず、此のタブロオを真當に觀たならば余人必ずや陳腐な博愛主義を超越した情感を見出すであらう。
處で讀者諸兄ならば何故私が此處で恰も其の繪畫を観たかの如く敍述できるか察しが付くとは思ふけれども、我が懷には今も猶數葉の繪葉書が残存してゐる。あの年の夏に帝都の至る所で香具師達が密かに賣り捌ひてゐた代物である。仮令世人が失念しやうとも其れは一瞬閒の燦きのやうな騷めきであり、其れ等逐一を、香具師連が捲立てた悍ましき言回しやら、其れを買い求める羣衆のにやにやとした好奇の面を私は鮮明に記臆してゐるし、無論其の一人に當時の私も居た譯であるが、此れから世に何が起こらうとも私は記臆し續けるだらう。兎角に此れらの繪葉書は當時の民衆の狂熱の紛う事無き證明である。軽薄な好奇の産物に據て私が彼の畫業を知る事が出來るのだから皮肉めいてはゐる。靑年の藝術がさうして消費せられたのは甚だ遺憾であるけれども必ずや此れが一世紀後の關東に於て正當な價値を認められると信ずる者である。
靑年は此の時自分が紛れも無い傑作を成した事を確信した。藝術家としての現世的野心とは別物の、純粋完全に自己の意識と無意識が畫布の上に吐出された詩としての平面藝術を生んだと云ふ実感をである。どれだけの才能の天恵に與からうとも、此れを表出出來ねば全ては塵埃のやうに虚しいとすら思へてしまう程の表現を、靑年は爲したと思つた。其れは言ふ迄も無く、勝利の時に他ならなかつた。
椅子に深く背を凭れて呆然とした靑年は、樣子を窺わうとして首を擡げるカブトプスと目が合つて直ぐ樣正気に戻つた。不安がつてゐるやうな、待望してゐるかのやうな視線は、靑年の感動をマルマインの如くに爆發させた。彼は寢臺に飛込むやうに近寄つた。カブトプスは兩鎌を廣げた儘靑年を受止める姿勢を示した。まう一つの「鎌」も力強く擡げられてゐた。
「カブトプス。太古から來たお前よ。僕が、お前を此の世で一番幸福な衣怪に、いや、雄にしてやらう」
彼は躊躇する事もなく、「鎌」を咥へ、sucer した。犀鈍の一突きに接吻を施し、飴のやうに舐り慰め、味蕾に其の熱と粘着を感觸したのに、何らの不自然も異常も認め得無かつた。カブトプスが俄に息を噴射すると、腹部が甚く収縮して陥没部に薄らと穹窿を描ひた陰が落ちるのを眼下に目撃した。鳥瞰図のやうに見渡せる腹甲の成す渓谷の引締りは雄雄しく、隆起の谷閒には黒影が深く線となつて走つてゐるのは堪らないと云ふ思ひがし、自然が創造した耿耿たるトルソへと細細しい手指を這わせて其の形に感じ入り乍ら、彼は一心に口淫を續けた。
窗からは沈む夕陽の光が差し始め、其の淡い橙色の光線が恰度悶えるカブトプスの胸部を照らすのに靑年は劇烈な快楽を見出した。万物が彼の野生を賛美してゐた! 有りの儘の肉體を呈示し、有りの儘の生命を誇示し、有りの儘の情感に身體を委ねる樣は、凡そ稱へられる可きである! 彼は口を狭隘に窄めた。カブトプスは鳴ひた。カブトのしゆぴんとは異なる複雜微妙な音聲を、氣の拔けるやうな調子で洩らした。其れは言い樣の無い歓喜を肯んずる一聲であつた。
其れはジヤラランガの鱗でのギアルとオンバツトの邂逅據りも、況や『南風』の只一人神話的な肉體を備へた漁師據りも美しかつた。彼の行爲は其の超越的始原の美の欠片にでも觸れたいと云ふ其れ丈に盡きた。
口内に注がれるねちやねちやとした熱き潮を丸で「如何でも治し」の如くに靑年は飮み干そうとした。鯉王のやうに跳回る射精を留め切れずに靑年の顏面に飛沫が散るのも拘泥せず、彼はカブトプスがとくとくと發射する白水を喉仏を蠢かすやうに上下させ乍ら腹へ收めやうとした。堪へられず、靑年は噎返つた。而してカブトプスの腹に吐き出されたものを彼は直視した。
「赤い椿、白い椿と落ちにけりだ」
碧梧桐の句など嘯ひて、旭日旗のやうに染まつたカブトプスの腹を指で撫ぜ乍ら靑年は微笑み、促すやうに腰部を擡げると、カブトプスは從順に軀を裏返した。最早世界には彼等丈けであつた。
帝都の櫻は今や花盛りであつた。
奇妙な出来事はあったものの、私の関東旅行は概ねスケジュール通りに過ぎた。セキチクからヤマブキへは、犬正当時にはなかった18番道路を北上してタマムシを経由して戻ることにした。『三ツ重之鎌』において、青年とカブトプスが拉致されていたという遊郭は、後に娯楽場に成り代わったが、それも閉鎖されてから久しく、往時を偲ぶ面影はどこにもなくなっていた。今ではすっかり閑静な一帯となったその土地の一角で、眼鏡をかけた老人が穏やかな目つきで池を眺めて佇んでいた。獲物を狙うために胸の模様以外の全てを透明にしてじっとしているカクレオンを思わせて印象的だった。
その南側のタマムシジムの構える通りには、ジムリーダーの趣向でか、色取り取りの花々が植えられて、まるで絵画を眺めているほどにそこを通る私たちを心躍らせるものがあったが、これもまた青年のいた時代には無かったものである。近くにあった庶民的な食堂で軽い食事を取ると、腹ごなしにと私はもうしばらくタマムシを散歩することにした。ひと昔前まではロケット団の関係者たちと思われる連中も闊歩して治安の悪かった辺りも、我がコガネのラジオ塔での一件以来、すっかり見違えるようになっていた。
エレベーターに乗って一気にタマムシデパートの屋上へ上ると、自販機でおいしいみずを買ってテラス席に腰掛けて一休みをしながら、変わりゆくタマムシの景色を眺めていた。喧騒としたコガネに比べると穏やかなこの街で、さっき見た老人のように日々を過ごしていくのも悪くはないなと考えた。いっそ亡くなった祖父の土地にそのまま越してしまおうか、などと頭を巡らせているうちに、近くにいた女の子が、うーん、やっぱり我慢する! と叫びながらドードーのようにクシャクシャと首を横に振った動きで、私の意識は俄かに冴えた。
全く。私も年を取ってしまった。
ヒロミさんの発表は果たしてうまくいったのかどうか。タマムシ大学はさして遠くもないところではあったけれど、後日ヤマブキのポケモンセンターで会おうと約束をしているからには、飛び入りで顔を出すというのも考えかねた。別にアカデミズムなものに対してアレルギーを持っているわけでもなかったが、わずかな期間とはいえ、あの謎めいた文書の発見者としてメディアの取材も受けた私だった。余計な好奇の目に晒されるのは嫌だったし、何よりあの文書のことを表面的な興味関心で語られて欲しくなかった。そんなものは、大量に送られてきた通知やDMの文面だけで十分だった。
結局、私はごく普通にヤマブキへと戻ってきた次第だった。そして翌日、取り決めていた通りにポケモンセンターのカフェテリアでヒロミさんと再会した。
「おかげさまで意義のある発表になりましたよ」
と、ホクホクした表情で古びた原稿を渡したヒロミさんは、レントラーのような鬣を揺らした。
「犬正期の知られざる画家にこうしてようやく光を当てることができたという手応えがありました。スキャンダリスムと大衆消費社会の奔流に飲み込まれてしまった彼の作品が日の目を見る時も近いかもしれません」
ヒロミさんはこの間会った時に比べても陽気だった。話によれば、シンポジウムでの発表は上々なものだったようだ。これまでほとんど知られていなかった犬正の画家の作品とその人となりについて、少しでも世間に知らしめることができたことに対して、新進の美術史家である彼は大いに興奮しているみたいだった。確かに、知られざる作家の再発見という作業は、とてもスリリングな営みなのだろう。
「勝手ながらコピーを取らせていただきました。『三ツ重之鎌』はこれからも私にとって大切な資料の一つであり続けるでしょう。またあちこちの学会で彼のことについて語る機会もありますし」
「もちろん構わないですよ。まさかあの文章がこんな役に立つだなんて、思いがけないことでしたが」
「いえいえ……本当に、何とお礼を言ったらいいか」
ヒロミさんは、
私はふと、先日体験したあの奇妙な出来事をヒロミさんに話してみたくなった。けれど、そんな突拍子もない話を切り出すタイミングをなかなか見つけられず、青年の画業についていきいきと話す彼に相槌を打つばかりだった。そのうち、こんなおかしなことは口に出すでもないと居直るような気分になってしまった。私も一人で勝手に混乱する程度には人生を生きてきたのだと。
「まあ、何でしょう」
あの文書を読み過ぎて「ぺヱタア君」の口調が移りでもしたのか、ヒロミさんはそんな前置きをした。
「少し、外に出ませんか」
私たちは二人揃ってヤマブキの街へ出た。ヒロミさんがなおも熱心に青年のこと、彼のインスピレーションの源泉となったあの精悍なカブトプスのことについて話すのに耳を傾けながら、向かっていたのは恩賜公園であった。今も緑豊かで、いくつもの文化施設の立ち並んで人の絶えない場所であり、このようにして青年やカブトプス、それに「ぺヱタア君」とガラガラといった面々が歩いていたのと同じ道を、私たちは歩いているのだった。道中にはシント博士によるアルセウス像が現在も鎮座していた。石碑に刻まれた文字は長らく風雨に晒されたために掠れて読みにくくなっていたが、確かにあの文書に記された通りのことが書かれているようだった。この脇で網代笠を深く被ったカブトプスが喜捨を貰っていたと思うと確かに微笑ましかった。
「あの青年がロダンを観たのは、あの美術館でしたか」
「いえ、こちらではなくて、もっと先にある『YMAM』です。もっとも、犬正の頃からは何度か建て替えがされてしまいましたが」
「ワイ・エム・エー・エム?」
「すみません、つい私たちの用語で言ってしまいまして。ヤマブキシティミュージアムのことですね」
そんなことを織りまぜながら、私たちは青年とカブトプスのことについて、まるで互いに見知った友人であるかのように語りながら散歩道を歩いた。この自然豊かな景観は犬正の世と比べてもさして変わっていないどころかその緑をいっそう濃くしていることを思えば、やはり感慨深いものがある。もちろん、玲和のヤマブキシティでは、老いたカメックスによる午砲が市街に響き渡ることもなければ、虚無僧のような格好をしたかせきポケモンがヨタヨタと歩いていることもないのだが。
「しかし、どうしても気にかかることがあります」
私はヒロミさんにそう訊ねてみた。
「あの小説ともつかない奇妙な話は、一体どこまでが事実と言えるのでしょう? もちろん事件自体は実際に起きたことであることは確かでしょう。しかし、例えば『ぺヱタア君』という男が長々と語ったあの冒険譚には、100年前とはいえ信じ難いことが書かれています。文学には疎いながらも、どこか当時のエログロナンセンスの風潮に迎合して書かれたかのような趣は否めません。それにあの物語の語り手は異常なほどに青年に、何と言うんでしょう、憑依してものを書いているかのようです。どこか、青年本人か、『ぺヱタア君』が書きでもしたかみたいに、やたらと細部がリアルなのも奇妙に思えます。少なくとも、青年の完全なる伝記と呼ぶにはあまりにも創意が入り過ぎていると思うのですが、果たしてあなたが言うほどまでに資料としての価値はあるのでしょうか」
ヒロミさんは公園の木々を眺めながら、私の質問について考えていた。
「もちろん、記述の内容には検証の余地はあるでしょうが」
ゆっくりと肩を回しながら、ヒロミさんは溌剌とした調子で答えた。その表情は好奇心と冒険心に満ち溢れていて、前触れもなしにいきなりその辺りの茂みに飛び込んで虫ポケモンの一匹でも捕まえて来そうな気配だった。
「私は個人的にあの青年の散逸した作品を探し出してきました。そんな自分なりの体感として、『三ツ重之鎌』の少なくとも、画家に関する記述は概ね真実ではないかと思っています。ご存知かとは思いますが彼の家は当時の名家でもありましたから、その消息についてある程度は追跡することが可能でした。その中にはこの『三ツ重之鎌』で言及された作品も含まれています。彼の相棒であったカブトプスを描いた一連の絵画ですね。その画題は当時としては極めて挑発的で反時代的であったであろうことは十分ご想像いただけると思いますが、あの文書は実物にかなり沿った描写をしているのです。この正体不明の著者は、照和の時代になってから何らかの機会があって青年の作品を間近で観ることができたのでしょう。恐らくは私のように作品を探し求めて全国を駆け回っていたのかもしれない。そしてこの人物は、青年の絵画が醜聞のために描かれたわけではなく、ましてや一過性のポルノグラフィでもなく、あくまでも崇高な美だけを見据えていたことを、あの時代の狂騒にもかかわらず、いみじくも見抜いていたのです。それはとても驚くべきことに私なんかには思えます。つまるところ、私はこの書き手の熱烈さに心底惹かれているんですね。こうした巡り合わせがあったからには何としてでも、彼の思いを受け継いでいかなければならないと、この情熱を無駄にはしたくないと、この文書をネットで見つけた時に感じたんです。私はこの書き手の仕事を引き継いで、完成させてやりたいんです」
今時の若者の外見に見合わず、ヒロミさんは私のことを真剣に見据えながらそう答えてくれた。レントラーが透視能力を働かせているのと同じような眼差しだった。やはりこの人は変わっていると思うと同時に、彼が私の見つけた謎めいた文書に惹きつけられたのも宜なるかな、と納得させられるものがそこには宿っていた。『三ツ重之鎌』なる怪文書の著者もまた、そのような人間であったのだろうか? よしんばその人物は、ヒロミさんのような人が現れることを確信していたのだろうか?
「根本的なことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「あなたが青年のことを研究するようになったのは、一体どういう経緯だったのです?」
「それを話すと、なかなか話が入り組んでいましてね」
ヒロミさんは照れ笑いしながら、しきりに頭を掻いたのだった。
「勞瘵だべや、こりや」
ペヱタア君に呼ばせた件の玉蟲の老
靑年は血眼になつて醫者の提案を突跳ねた。ほんの一瞬閒でも相棒と距離を置く事は万病にも優る苦痛であると
第一未だ巷閒に認知されぬ衣怪を如何するかが問題であつた。カブトの頃より一瞬刻も靑年の側を離れた事の無かつとさへ言へるカブトプスが如何なる理由であれ、主人から長く引離す事は凡そ困難である。一緖に療養地へ連れて行くのも論外であつた。餘計な醜聞は靑年にとつても誰にとつてもゴオスの
終に醫者は根負けして了つた。如何するべや、と独言を漏らし乍ら游ぐ視線がもぢやもぢや頭の方へ否応無く向かふ。先刻からペヱタア君は橫槍を入るでも無く、腕組みをしてマントルピイスに寄掛かり窗枠から覗く電線の区切る空閒を打ち眺めてゐた。部屋の片隅でカブトプスは縮こまつて坐し、其の
「
ぽつりと御老體は漏らした。曰く舊翡翠の開拓を共にした同志が故郷の胆礬へ歸つて辺境の崖淵にある先祖代代の藥屋を繼ひださうだが、其處で祕かに繼承されてゐる藥と云ふのが萬病を忽ちにして治癒して了うなぞと云ふ蓬莱の玉の枝のやうな代物なのだと耳にしたと、さう云ふ意味の事を言つたのである。
「成程さうかい、ぢや、其れを貰つれくれば萬事解決と云ふ譯だね」
「わがんね。だけんど梃子でも動がねえつうんなら博打打つしか仕方ねえべや」
ぺヱタア君は猫騙しのやうに醫者の眼前で拍手して媚びるガアデヰのやうに笑つた。悪戯心溢れる滿面の笑みである。
「いいさ。生きる事だつて元來博打みたやうなものだよ、ねえ、君?」
靑年は即坐に首肯した。ガラガラが骨を振るつてカブトプスの仙骨をこつと打つと、脚氣患者の如くに敏感な反應を示し乍ら尻餅をつひたので、ペヱタア君も靑年も其れを視て一頻り興じた。
「だが、車持皇子みたやうでは困るね」
「何。其奴據り面白い話でも拵えて來やうぢやないか」
結局靑年は部屋へ留まり、醫者が月に数度往診して貰ふ事で兩者は同意した。そしてぺヱタア君は老醫者の紹介状を攜へて胆礬を訪ねる段に決まつた。呉呉も此の事は當分は自分等丈けの祕密であると何重にも念押しさせた。
「參つた、參つた」
驚呆れる無骨な老人に靑年の知友は口端を歪めてキマワリのやうな莞爾顏を送つた。一先ず次回の往診の予定を告げて輪熊氏が歸ると、夕暮時の一室に二人と二匹が残された。
「漢劍當に飛び去るべし、とはさうは問屋が卸さぬね」
「李賀宜しく病みて郷里に歸るとでも思ふかい」
靑年は
「其れにしても良い伴侶を得た事だね。どんな御婦人據りも御婦人らしい貞淑振りではないか。甘やかされ續けたイヰブイとて、此處までは懷くまい」
「功徳と言ふものさ」
「やけに信心深くなつたものだね、君」
「大本教も
二人は相互に微笑を浮べた。其處には暗默の了解が橫たはつてゐた。即ち絶對的自由の誓約とでも言ふ可きものが。
「君は僕を一向心配するでも無いね」
「君は君の事を一寸も不運と思つてゐないからには、如何して君を憐む必要があるのだい」
靑年は深く首肯した。
「君は解答を知つてゐ乍ら答案を白紙で出す落第生のやうだ」
「お陰で尋常さへ
二人は快活に笑ひ合つた。
「正月に散歩した時、君が言つた事を覺江てゐるかね」
「比翼連理の事かい」
「流石だね。即答だ」
ぺヱタア君は拍手を送つた。靑年は惡漢小説の主役の如く不敵になつてカブトプスの腰を片腕に抱止めて白い齒を見せた。
「僕は此奴に誓つたのさ。先だつて玉蟲でね、僕は二度とお前から離れぬ、と。一度誓つた事は墨守するさ。
「丸で戀愛小説のプロタゴニストだ!」
ぺヱタア君は頻りに髮を掻き上げた。入道雲のやうに俄に膨張した黒髮から香炉峰の雪の如くに頭垢が舞ひ降りた。
「ダプニスとクロエヱ! トリスタンとイズユウ! ポオルとヴイルヂニヰ! 騎士デ・グリウ! マノン! 全く天晴れな事だ!」
もぢやもぢや頭の男はげらげらと哄笑し乍ら手を一層高く鳴らし續けた。其れに併せてガラガラがこつこつとカブトプスの背を叩くと乾ひた音が鳴つた。靑年も餘り可笑しいので破顏一笑した。喧しい管弦樂であつた。
さうして一旅がてら胆礬詣ででもしてやらうと言つてぺヱタア君とガラガラは三度風のやうに山吹を離れて行つたのであつた。逗留先から便りを寄越すから何かあつたら連絡すると良いと彼にしては珍しい気遣ひを見せたのが、當然の事乍ら靑年には妙であつた。
「聞く所に據れば胆礬には
なぞと軽薄に言ひ残して去るのも如何にもコスモポリタンらしい振舞である。
而して彼の言の通り、識布通りのガラル風アパルトマンの一室は彼等にとつての小宇宙と爲つたのである。淸新な空氣なぞ據りも療養する閒中カブトプスの躯體を飽かず眺め戯れてゐる方が靑年には遙かに効ひた。實際、胸は小康になり出してゐるやうに感じられ、氣分も隨分と樂になつたやうに思はれた。苦痛を抑へる爲の阿片やモルヒネなど無論不要であつた。私は其處は何度強調してもし足りぬ。大衆は當時靑年を阿片中毒のボヱミアンであると決付け新聞各紙も連中に迎合したが、私は奮激して斷言する。其のやうな戯言は何等
事實としては、苦痛の折は只寢臺に橫たはり乍ら、或は牀上で結跏趺坐し乍ら化石衣怪の躯幹を愛でてゐれば事足りたのである。さうする丈けで靑年の諸神経は忽ちにして工場の如くに立働ひては、ドガアスの噴出する毒
畫作の構想はギヤロツプの跳躍のやうに軽快に浮上し、彼は何時の閒にか畫布の前に坐してゐるのはヂアルガ時神の御業かとも思はれる程であつた。兩鎌を構へつつ前傾姿勢を取つて固唾を飲んでゐるカブトプスを凝視し乍ら、畫家は繪筆を書家の如く狂熱的に走らせた。日がな一日、視て、兎角視て感知した事全體を白い画布へと衝突させて具象を描き出して行つた。恐懼す可き事であつた。彼の眼力はボツシユやらブリウゲルやらと云つたフランドルの畫家達の幻視にも引けを取らなかつたであらう事は彼の繪を御覽戴ければ容易に了解出來る。此處で私は此の致命的數ヶ月に於る大傑作の一枚を如何しても描寫する爲に餘計な字數を弄する事を御許し戴きたいのである。
其の繪では、畫面の中心に据江られた一體の、見事な英雄と少年の美とを其の痩躯に凝縮したカブトプスが己が鎌を鮮血に染めてゐるのだ。鎌は美しい反りと起りを描き乍ら、女の肌のやうな艶かしい白を誇つてゐたが、研ぎ澄まされた先端が黒ずんだ薔薇色に汚れ、其れが人閒で云ふ肘の方にまで流れ傳つてゐるのである。他方、壮健な男子のやうな膨みを持つた胸と腹には矢が深く突き刺さり、疵口から目の醒めるやうな羣靑の血が垂れてゐた。然して、視よ、肘に達した流血が涙のやうにトルソオへと流れ落ち、カブトプスの靑い血と混ざり合うのである。二種の血の交差する領域は紫に変色し、悍しくも崇高な印象を掻立ててゐた。疵ついたにも拘らず眈眈とした眼で此方側の我我を視遣るカブトプスの表情が、此の不可解乍らも観者を惹付ける繪の動力源とも爲つてゐる。或は其の表情はセバスチアン宜しく恍惚の體であるかも知れぬ。長く其の繪に對してゐれば、畫面に固定されてゐる筈のカブトプスが超越的な存在のやうにさへ思へて來る。只確信出來るのは、靑年は閒違い無く此のカブトプスを彼の悟性に於て見出し得たと云ふ事なのだ。さうして畫面下方の化石衣怪の鼠蹊部を區切るやうに橫に描かれた食卓があり、果物や陶器で構成された静物があるのだが其處で一際目を引くのが、と云ふ據り明かに異樣な風體を放つてゐるのは片隅に轉がつた一人の男の首である。截斷面は美しい程に直線であり、赤色と微かな紫とを織り混ぜてだらりと卓上へ流れてゐるのは生生しい。而も驚く可きは、其の首の正體である。最早言迄も無いかも知らない。其れは紛れも無く其の男の顏は靑年の自畫像に他ならなかつたのだ!
此の繪を描き了えた狂熱の畫家は兩肺に窗からの新鮮な空氣を何度も發情氣味に呼吸し乍ら、畫布に描上げられた強烈なヴイジヨンを事細かに点検して大いに滿足した。視線を落とすと、何時の閒にであつたであらう、カブトプスが側で膝立ちになつて、靑年を見上げてゐるのだつた。彼は莞爾と其の半月状の頭を掻撫でて遣つた。カブトプスは豪胆になつて顏の底面を靑年の膝に載せた。然うして其處にある口をトサキントのやうにぱくぱくと動かし始める。不器用にも異形な頭を股下へ押し付けてゐると、軈て蠢動する物を捉え、生地越しにちうちう、とカブトの頃のやうに吸付いて來た。
「さうか、お前も戀しかつたのだな」
靑年は笑ひ乍ら寢閒着の下を捲り、椅子から微に下半を浮かせつつ猿股を引摺り下ろした。直樣カブトプスは釣餌にかかつたコイキング宜しく露出した物を小さな口に挟み込んだ。懼る懼る其の半月頭を下げていくにつれて、皮が捲れて内側の肉が膨張する感覺に靑年は大いに高揚した。魂を一にして過した朋輩から受ける奉公は皮つるみ等及ぶ可くも無い無上の悦びを彼に提供して呉れたのである。僅かな口腔を目一杯に開ひて人閒の男性器を咥へ込んで吸上げる有樣は凡そ娼婦にも劣らぬ程に煽情的であり、其れを衣怪が、更に化石だつたものがしてゐる事案に彼は深い感慨を覺江てゐた。
「人の衣怪と交はれるあり、衣怪の人と交はれるあり、昔方には人も衣怪も同じければ世の常なりき」
紅蓮の研究所で助手君が朗じた古詩の一節を口遊み、正に今自分とカブトプスがさうである事を若き藝術家は實感してゐた。假令其れが幾重もの倒錯と見做されやうが、戀愛の本懷は此處にこそ在ると信じる事が出來た。
「カブトプス。お前が人の女であつたなら、どれ程氣が樂だつた事だらう。併しお前が假令人であつたとして、僕が此處迄お前に情愛を懷く事があるだらうか。女であつたとして、僕がお前の肉體の美に見惚れる事があるだらうか……」
頭を上げて身を少し計り痙攣させて、薄暗い天井を恍惚の體で見詰めてゐると靈魂の拔けたやうになり、其れと同時に微かに空虚となつた精神の閒隙に不穩が流入して來て、物哀しい氣持にさせられるのであつた。不本意にも袋小路に追ひやられた仔ラツタのやうな心細さに身を切られる思ひに彼は身を沈めさうになつた。成程自分はカブトプスと共にある限り肺を犯されつつあらうとも一向幸福である。併し狂熱が離れた一瞬閒此の麻藥的至福が何時迄持續するか如何かはピツピの指振よろしく未知數である事にも變はりは無いのであつた。ぺヱタア君の指が腦裏に想起された。彼は胆礬の祕傳藥を恙無く提攜して歸つて來るのか否か。懸念は數へ出せば盡きる事が無かつた。
だが主人に漂つた黑雲を敏くも察知して、カブトプスは熱棒を勢い良く、ぢゆる、ぢゆると啜り上げたのである。
「おゝ、/\。さうだ。もつと、/\……」
悶へ喘ぎ乍ら彼は声高く絶叫した。粘膜の鈍く擦合う音は言語を絶して堪らなく思つた。肝要な所で弱氣になるのは人閒理性の惡しき缺陥であると靑年は自省した。カブトプスが自己の愛情に報いたからには、此方も其の忠義に應へねばならぬ。白濁に甲顏を汚して得得としたカブトプスを見遣り乍ら、彼は心にハガネヱルの身據りも堅く誓ふのであつた。
嗚呼、私は楚の屈原に倣つて語尾には一一「兮」と付けたいやうな、胡ぞ慨嘆せざるの境地である。此處まで書連ねて來た以上は今更後退する譯にも行かなくなつて了つた。ソオナンスに影踏されたやうに、黑き眼差しで視詰められたやうに、私は逃げられないし他人に縋る事も能わぬのである。
新緑の頃ほひ、土壤からアルキメンデスどもがちらほらと
識布通りの街路から学童らの歌聲が靑年の
歌を忘れた ペラツプは
うしろの山に すてましよか
いへ/\それは なりませぬ
歌を忘れた ペラツプは
いへ/\それも なりませぬ
歌を忘れた ペラツプは
柳のむちで ぶちましよか
いへ/\それは かはいさう
歌を忘れた ペラツプは
ざうげの舟に 銀のかい
月夜の海に 浮かべれば
忘れた歌を 思ひ出す
靑年も又流行の童謡を口遊んだ。ミウズのカフエヱでも聴ひた覺へのある樂句は童歌乍らも今の彼のサウダアデに滲入るものがあつた。困難にも拘らず彼を生かしてゐたのは燃盛る制作への熱情に他ならぬ。謂はば常人には凡そ到達し得ぬルカリオの如き鋼の精神力の
カブトプスは椅子に凭れて
學童達が去つても何時迄も彼は童謡を口遊んでゐた。窮まつてゐる等と言ふのは丸で検討違ひやも知れぬが、其のやうな中でも靑年は未來派的樂觀と信賴の下にあつた。彼にとつて現在の持續こそが生であると思はれた。其の思想に據ればペヱタア君がコダツクの頭痛さへ治すと云ふ祕傳藥を攜へて歸つて來るだらうし、靑年の病は癒江るだらう。さうしてカブトプスとの日日は續ひて畫家は名を成すであらう。窗に差す光輝は彼の天冠山の後光の如き眩さを誇つてゐた。
遠景には下町の立ち竝ぶ一帶據り十二階の
二度識布の街路に目を遣ると、街燈の側に此方を物静かに視詰める人影を見出した。其の風貌が帝都の風俗からすれば如何にも奇異であつたから靑年も直ぐに目が留まつた。頭髮はモンヂヤラのやうに亂れ果てて物乞同然の體で、ペヱタア君のもぢやもぢやと較べても隨分と不整な印象を與へた。其のやうな頭蓋に大振の眼鏡を吊り下げて、而も口元を
其のやうな男が窗際に彳む靑年を睨め付けるやうに觀察してゐる。不吉な兆候を感知するには充分であつた。靑年は凝と眼下の男を睨み付けた。さうすれば霧の晴れるやうに此の人閒も消去せられるのでは無いかと空想した。果たして、男は其處に居続けた。
玄関の鈴がチリヰンと鳴つた。硬直した彼であつたが、毅然として進んで扉を開けた。
「あゝ」
男の聲は餘り低くぼそぼそとしてゐるので母音が濁つてゐるやうに聞取れた。靑年は何と應へて良いやら分からずぼうとした。カブトプスも尚更困惑し、恥じらう素振りで鎌を下ろした。又しても玄関で長い沈默が續ひた。俄に男はふうと大袈裟に嘆息して見せた。仄かに晴れたレンズ越しから覗ひた瞳が潤んでゐる。男はよたよたと靑年の脇をゴオストみたやうに擦り抜けて、カブトプスの脚元に膝を付ひた。
「僕の、僕の」
譫妄染みた男の容貌を閒近から視て靑年は漸く思ひ出した。先年ロイド眼鏡の助手君に隨行してゐた物言わぬ理科系の男だ。強い主張の籠つた視線で自分を見詰め、默默とコダツクキヤメラでカブトプスを撮影してゐた者が、ルムペン同然の形をして此處に佇立してゐる。只ならぬ事態を察して彼は慄然とした。一先ずはカブトプスに縋る此の男を立たせやうと背中を持上げたが、体重はぞつとする程に輕かつた。骨皮筋右衛門は羽交締めにされた儘捉えられたコラツタかピカチウのやうに項垂れて埒が明かぬので其の身を椅子へと引き摺つた。丸で死體を隠蔽してゐるみたいであると、探偵小説に見られる殺人者の心理を靑年は感じた。
アラベスクの紅茶を差出して、男が何か喋り出すのを待つてゐた。テヰカツプから白桃色の湯氣が立上つて部屋の空氣と溶合うのを觀察し乍ら、其の向かうで肩を落とし恍惚然としてゐる男と辛抱強く對峙した。奇妙な静穩が流れた。カブトプスは緊迫して肩を俄に聳かした儘の姿勢で硬直してゐる。
「さう沈默してゐても解りませんから」
靑年は焦つたくなつて遂に先んじて聲を掛けた。
「一體全體何が起こつたと云ふのです」
男は轉寢から突如として覺醒した者のやうに反射的に上體を動かした。勢い平衡を失して椅子から倒れ落ちさうになつたのを慌てて取繕つた。神奧の故事に聞くダアクライの餌食に爲つたかの風情で男は唖然として周圍を鳥
「あゝ」
男はくぐもつた聲を出した。
「相済まぬ、相済まぬ」
と言つて頻りに謝罪する。譯も解らぬので閉口してゐると、
「僕は、何もかも、破滅させて、了ひました」
なぞと洩らしたのだから驚愕させられる。
「君、何を言つてゐるのだい」
靑年は身を乘出した。テヰカツプがかちやりと音を立てて紅茶が微かに卓上に零れた。
「僕等は、最う、お仕舞いなのだ」
其れからの男の話は熱病に浮された調子で一向要領を得なかつた。意味の纏まらぬ単語を一二發語しては默込むかと思ふと、メエトルを上げた如く語るに熱中する餘り話の糸筋を失念して而も猶話散らした。其の上マスクも外さないもので低音の聲は一層聞江にくかつた。斯く有樣であるから此處に彼の言を忠實に書写するのは、
肩を震はせて卓上の紅茶を凝視し乍ら男は吶吶と彼自身の身の上から語り出した。
「僕が研究者を志したのは幼時彼のラヴエン氏の浩瀚な翡翠衣怪圖鑑を
と理科系の男が言つたのを、敢へて靑年は急かさず傾聴する事にしたのである。
「氏に憧れる餘りに僕は神奧に游學し、嘗ての銀河團本部だつた今の
「F氏の称へる衣怪考古學に僕は興味を惹かれました。神奧では化石が良く出土してゐたものでしたから、所謂化石衣怪に就ても僕は尠からず關心を
「紅蓮には玉蟲と山吹のみならず全國から多くの研究者が集ひました。其の熱氣たるや、誰だつて發奮せざる者は無いと云ふ環境でした。誰もが理想の爲一致團結して刻苦勉励しました。無論僕も又大いに燃江ました。鈍研究所に赴任した際も一寸も苦では無く、寧ろ翡翠の日日を思ひ起こして快い位でした。祕密の琥珀やら貝の化石と共に、甲羅の化石を發掘したのは其の折の月見山探査の時だつたのです」
其の一言と共に男はカブトプスを一瞥した。白く曇つた眼鏡がゆつくりと晴れると、引絞られた瞳孔が化石衣怪を刺したので思はず鎌を掲げて身構へる姿勢を取つた。理科系の男はめげずに其の姿体を視詰めてゐる。其れは何處か指咥へて物惜氣に玩具を強請る幼兒みたいな視線であつた。
「復原したカブトを見出した時に沸き起こつたものを僕は忘れてゐません。其れは母が子に懷く情愛と等しい
男は両肘を卓に突ひて頭を抱へた。徐徐に重苦しくなる空氣を感じ乍ら靑年は腕組して坐してゐた。弱弱しくカブトプスのじゆと鳴くのが傍から聞江た。
「併し僕は博士の行動の穩やかでは無いのを訝しむやうに爲つてゐました。其れは紅蓮の僻地に別館を普請した時から一層顕著と爲りました。F博士は明らかに腹蔵してゐた。併し其の内は一向に伺いやうが有りませんでした。其れに研究所の周圍に度度黑づくめの見るからに不逞の徒が出没するやうにも爲つてから愈愈樣子がおかしく、僕は氣が氣で無かつた折、「彼」と邂逅したのでした、……と名告つた「彼」が語つた事で私は全てを了解したのでした」
併し其の名前には一向聞覺江が無かつたので、靑年は何故男が意味深な視線で此方を見据江て來たのか意圖を理解しかねた。研究員の男は二度わなわなと震へ出した。恐慌を來して全身が大震してゐた。
「あゝ、僕は「彼」を殺して了つたも同然の真似を犯したんだ。あゝ、あゝ!」
不圖、近く浅葱に着くと電報を送つて來たぺヱタア君の事が靑年の腦裏に浮んだ。急激な寒氣が背筋にぞうと走るのを覺江た。
男は機械の立働くが如くに話續けた。靑年も元
「「彼」は聞慣れぬ
「果たして僕のやうな
其處で理科系の男は初めてくつくつと嗤つたが、そのくせ然程愉快にも見えなかつた。理解して呉れとも言はさぬ氣配であつた。
「件の黑づくめの連中が研究所に現れる日程やら、「ミウ」を保管してゐる祕密部屋の場所に就て僕は朧げ乍らに察すると、逐一「彼」に傳へました。連絡の爲には一羽のポツポを用いました。研究所の裏庭に屯す小鳥衣怪に雜つてゐた其奴は他の個體と比して全身が黄身がかつてゐるのが
「併し今にして顧れば僕の目的と云ふのも大した正義や義侠心、研究者としての矜持なんかでは無かつたのではないかと思はれます。畢竟僕の演じたのは
「一體其れは如何云ふ事でせう」
靑年は口唇を
「あゝ、骨格を見出した時からお前の事を美しいと思つてゐたのに、僕は、ヒ、ヒヒ」
不氣味な嗤ひを漏らし乍ら逞しい凹凸を觸診する手にもぞもぞしたカブトプスは困惑の内に靑年を見遣つた。併し得も言われぬ凄味に
「僕は二つの過失を犯しました。総ての源因は極めて單純乍らカブトの愛を勝得た貴方への嫉妬心を否み難かつたからなのです。生れたてのカブトを僅か乍らも豢養したのは紛う事無く僕であり、貴方は只恩恵に與つたに過ぎぬのにという思ひを如何しても払拭し切る事が出來無かつた。
「思ひ掛けず當日に貴方とカブトが紅蓮へ來る事を僕はF博士據り告られたのです。其れに就て彼等を紅蓮港に迎へに行つては呉れないかと僕の情感を露も知らぬ博士は賴んだのです。僕は不意の事に心の整理が付かぬ自己を意識しました」
カブトプスは窮屈さうに腰を捻つた。脇の腹がきゆうと凹み、膚と一體となつた肉の形が浮き上がつた。
「到頭僕は貴方の前に姿を見せずに了ひました。餘りの研究室の
「
心臓が轟然と爆音を立てているやうだつた。其の刹那の靑年の不穏は想像するに餘りあらう。
「えゝ、師走に上長と貴方の部屋を訪ねた時にこそ僕は如何かして了つたのです。コダツクカメラを抱へ乍ら僕は生きたカブトプスの容姿に大ひに動揺さへしてゐました。復原された此奴を初めて腕に抱ひたのは僕であつたにも拘らず、僕の事など疾くの前に忘れてしまつてゐた事も悲しかつた。次第に僕は譯も無く腹立たしくなりました。酷く意固地な餓鬼のやうで、貴方の事が恨めしくてたまらなくなつた。
男の手はカブトプスの肉體から離れやうとはしなかつた。カブトプスが
「ラケツト團の連中に目を付けられたのも、そんな折でした」
「君、其れは、夙く」
「彼奴らは自分らの計畫が何處かから漏れてゐると疑ひ出しました。例の別館の
「紀元節を過ぎて暫く経つた或日、遂に僕は博士に呼び止められて彼の室へと通されました。すると、黑衣の不良達が數人徒党を組んでおるのです。彼らは忽ち僕を取
男の掌がカブトプスの胸部を摑んだ。子らが母親の裾に縋るやうに意固地な手の甲から骨の形が其の儘浮上がつて脆弱な皮膚を引裂かん許りであつた。
「そして僕は極て安易な
握拳を力無くカブトプスの胸に押込むと、小指が微に肉へと沈込んだ。カブトプスは身動ひた。
「詰るところ僕は其の慾望に抗う事が遂に叶はなかつたのです。えゝ、僕はあつさりと寢返つて遣つたのだ。只カブトプス慾しさ丈けで僕は「彼」のみならず貴方をも
男は大袈裟にも全身を揺らした。分厚い眼鏡とマスクに覆はれて表情を窺い知れ無いにも拘らず、靑年は此の男が愉しげであると感じた。如何なる内容にせよ、言葉を括つてゐる内に饒舌其れ自體の快樂に耽溺して了ふ、其のやうな
「僕はあつさりと「彼」との共謀を洩らしました。「彼」の自稱する團體に就ても言われた通りの事を其の儘連中に暴露致しました。色の違ふ珍奇なポツポを連絡手段に用いてゐた事も率直に自白し、「彼」が「ミウ貳號計畫」に就て核心迄知悉してゐる事をも僕はF氏に傳達したのです。僕は一切の罪状を認め、彼等の計畫に加担する事となつたのです。然してF博士とラケツト團の面面は暗默の内に「彼」の口を一刻も早く塞がねばならぬとの結論に至つたのです」
「貴方が結核を發症した事も僕等には好都合でした。其處に於て「彼」が友情の證を示さうとしたか如何かは判りませんが、祕傳藥を
靑年は心臓が止まらん許りであつた。
「詰まり何を言ひたいのだい」
「「彼」は最う山吹には歸つては來ないのですよ」
「馬鹿を云へ」
精一杯の餘裕を湛えた積りで靑年は聲を振絞つたが卓上に臥された拳は小刻みに振れてゐた。理科系の男は
「僕は彼に喫緊の連絡があると嘘を傳へ、亞留不遺跡へ探査の合閒に浅葱港に立寄る折だから其處で會わうと取決めたのです。「彼」も丁度
「僕が現地へ赴くと「彼」は
「然してはつきりと僕は見たのです。窮まつた「彼」がガラガラと共に身を投げたのを」
男は靑年の顏から微塵も目を逸らす事無く言つてのけた。サンドパンの背の棘の如き辛辣が靑年の胸を突刺すかのやうであつた。
「彼」は最期にたにたと嗤ひ乍らこう言ひ遺したのを僕は見ました。「いやはや、參つたねえ、如何も」。其れからふらりと倒れるやうにして海上へ姿を消したのです」
靑年はだらりと兩腕を落とした。眼光は虚にして最早何物をも見定められ無かつた。
「以上が僕の犯した裏切行爲です。僕は既にして犯した事の重大さに懼れ慄きつつも、只カブトプス丈けを念じてゐました。其奴が僕の手に收まるならば何をか言わんと云ふ心持でした」
男は言葉を切ると初めて口元のマスクをずらし、とうに冷めたアラベスクの紅茶を飮んだ。消江入りさうな聲で旨いとさう呟いた。
「併し僕は所詮は大いなるものの掌上で転がされてゐる丈けの
男は發作の如き體で嗤ひ聲を吐ひた(重重繰返すが此れは讀者諸兄の讀解の便の爲に作者たる私が大分掻摘んで整理した言葉に過ぎないのである。實際男の話は永遠のやうに、現とも知れぬ白日夢のやうに續ひてゐたのだ……)。靑年は喉元迄込上げて來る吐瀉物の惡寒を凝と堪へ乍ら、此の世のものとも思はれぬ男の立振舞に目を見張つてゐた。
「併し其れでも僕は務めを果たしたのだから、さあカブトプスを、僕に、寄越せ、寄越せ」
唐突に男は懇願するやうに腕を伸ばし、カブトプスの腰を自己へとぐつと引寄せた。咄嗟の事に兩鎌を高く掲げて腋を曝す姿勢になつた其の痩躯の隈無くを執念く愛撫した。
「あゝ、此れは僕んだ! 此れは僕んだ!」
さう言つて駄駄を捏ねる男の手を、靑年は塵埃を払ふ動作でカブトプスの體から振払つた。毆打され椅子から放り出された男は膝立ちになると、部屋の片隅に立掛けられた画布に目を留めた。正體も無く其方へ躄寄ると、ひよひと一枚の繪を引出して其の鮮烈なる畫題に瞠目した。男は狂つたやうな微笑を浮べた。
「或は此れを疾く目にしてゐれば諦めも付いたかも知りませんね」
噎せる餘りに四這いになつて咳嗽し、カーペツトを幾度も拳で叩き付けた。凡ゆるものが可笑しく狂つてゐるとでも言ひたげに牀上へ其の骨と皮を投出した。
「えゝ、/\! 歸島後に上長から貴方の描いたカブトプスのスケツチを幾葉か讓つて貰ひました。僕は藝術なぞとんと解しませんが、只貴方の筆致で描かれた化石衣怪の體躯を観て成程斯ふ云ふのを藝術と稱ぶのかと感嘆しましたよ。紙がくしやくしやになる迄晝夜凝視致しましたし、隨分と世話になつたものですよ!……」
「歸り給へ」
漸との事で靑年は言放つた。全身は餘程震撼してタマタマの一團が寄集まつてかち鳴らすやうな音がした。男は猶も發作的な哄笑を止めず、
「此處を去れ。
「へ、へへ、へ!」
襤褸切れとなつた白衣を旗の如くはためかせ乍ら、男は壁から壁へ跳ねるやうに巫山戯囘つて絶叫した。靑年の肩に打つかりカブトプスの胸元に突進し、画布に足を引掛けて転んでは喉をくつくつと鼓動させたが、最早掠れて
靑年の唇はわなわなと震へ血氣も失せて蒼白であつた。己が慾望を現實させる度に縮んで行く
先ず第一に事實として、ぺヱタア君は遂に歸つて來なかつたのである。果たしてあの理科系の男が斷言した通りであつた。真偽其れ自體は確かめやうも無い事ではあつたが、過ぎて行く時閒と、其れにつれて確実に衰弱してゐく靑年の肉體が全てを肯つてゐた。忽ちにして
懼る可き豫感が侵食する
粛啓
私はお前とカブトプスの身を案じて此の消息を物してゐる事を如何か判つて慾しい。實を言へば玉蟲の醫者が良心を以て此方に教示して呉れたのだ。お前は直にでも山吹を離れて空氣の良い土地で治癒に専念しなければならぬ。父として如何して今迄默つてゐたのかは敢へて問はぬが、カブトプスと引離されるやも知れぬと懸念してゐたならば杞憂と言つて置かう。丁度豐縁の
頓首
一見冷静な文體で親心さへ滲ませてゐ乍らも、父親の主張は頑なで斷じて讓歩するところは無く、家父の威厳を用ひる丈け用ひて靑年の疑念の一切を封じてゐる調子であつた。輪熊醫師の事に恭しく言及してゐるのも克明なメツセエジであると彼は解釋した。あの連中は玉蟲の醫院に押掛けて散散問詰したに違ひ無いのである。詰る所自分はアヽボツクの尾に絡め取られたピカチウが如き窮鼠の立場に置かれてゐる事を理解した。あの父は今直ぐに息子である自分を僻地のサナトリウムに押込みたくて堪らないらしい。靑年に對する豐縁行きの薦めは彼の身を案ずる據りも單に體の良い口封じに他ならない。果して實の父と雖も其の恩情に與かる氣には到底ならないのであつた。其の男は「絶對の探求」の爲に我が親友を手に掛けたも同然の所業を犯したのであるから。何よりカブトプスもちやんと豐縁へ連れて呉れると請け合ふ事の白白しさと云つたら無かつた。事此處に至つて其のやうな事など素朴にも信じる事が出來たであらうか? 文面に目を滑らせ乍ら靑年の手はかたかたと震へてゐた。逆上した儘、手紙を真二つに破り捨てると後は最う一顧だにしなかつた。其れからも繰返しピジヨツトが紙を運んで來たやうな氣がするが、彼は知らぬ振りを貫ひてゐた。
只カブトプスの事が氣掛かりであつた。生き別れか死に別れか、孰れにせよ靑年據り引離される化石衣怪の處遇を考えれば考へる程痛ましかつた。
唯一集中力を搾出して繪筆を握る刹那には俄に生命が發露したと見江て、殆ど摘むやうな手先乍ら筆先を操つて畫布に彼のヴイヂヨンを衝突させるのであつた。無論モデルとなつたのは彼のカブトプスの駆體に他ならぬ。刀のやうな鎌の反り立ち、峻厳な腰付きに、腹胸の壮健さ、其れら完璧な甲骨の美を鬼氣迫る瞳で睨め付けると、彼の體温は何時だつてリザアドンのやうに火照るのである。
震へる手で描き終えると、愕然とした態で兩腕を垂らした。作畫との鬪ひが終ると體力も盡き、魂の拔けたやうに呆けて暫し人事不省に陥つた。氣が付けば側にカブトプスが寄添い立つてゐた。
「進化してからと言ふもの、お前には苦勞を掛けさせて許りだ」
漸と譫言のやうな口調でカブトプスに語り掛けるのであつた。
「其れでもお前は倖せだらうか」
するとシユイ、シユイ、と一際甲高い聲でカブトプスは鬨の聲を擧げるのである。力強く突上げられた右肘が空氣を斬る音は爽かで、靑年の迷ひを斷切つて呉れるかのやうであつた。
「さうか、さうか」
靑年は滿足氣に頷き、カブトプスの頭部を撫ぜた。肉の減つて骨張つた指の腹のお蔭で其の堅さが一層良く感じられ、
「ならば」
見下ろせば、衣怪は發情してゐた。靑年は疲勞も忘れて柔かに嗤ふ。
「もつと倖せにして遣らねばならぬな」
股倉の肉襞を搔分けて食出た一尺は優に超えるセクスは雄壮であつた。背丈は小人乍らも迸る生命力の劇烈さには頭を撃拔かれたやうな眩暈がした。靑年は古代の海岸の樣子を想像した。焔のやうに濱に巌に打付ける泡立つ白浪から這出るやうに現れたカブトプスがすつくと起立して、其の爪で砂地を摑み大地に立つ姿がありありと想像出來た。此奴はきつと其のやうに血腥くも溌剌とした世界に根を張つて異国の龍血樹のやうに自立してゐたに相違ないと思つた。
「一體此れで何れ程相手をしたのだい」
揶揄うやうに呟き乍ら空ひた掌上にカブトプスのセクスを載せた。其の硬軟の感觸を堪能す可く添へたやうな姿勢で紙風船を飛ばすやうに指先をしならせると、一つ弾ませる度に男根は熱く膨張し硬さを一層增し、刀劍のやうに見事な反りを見せるのである。其れが両傍に侍る鎌と良く映えるのを靑年は面白がつた。
「道鏡は座ると膝が三つでき」
なぞと江戸の狂歌を不意に口遊んだ。何て事は無い、只學童時に良くませた惡童どもが御題目のやうに唱へた戲言が自働筆記的に浮んだ迄の事であるが、そんな莫迦氣た事案ですら愛しくも懷かしいと思へた。
「なら、お前が立てば三ツ重の鎌、か」
とふはふはした心持で言ふと、其の譯の判らない無意識の發露に憶江ず微笑した。カブトプスが反應を返す閒も無く、彼は牀上に跪ひて口を開くと忽ちにして其れを中に迎入れた。カブトプスが反射的に腰を震はせ息を荒げるのも構わず盲滅法に口に突込んだ。口淫の仕方どころか吉原通ひさへした事も無い靑年であるが、只其の聳立つ樣を見て了つたら、さうしない譯には行かないと亢奮の内に思つたのである。到底口では咥へ切れず、口角のはち切れる許りの大口でも半ばまで啜るのが精一杯であつたが、舌越しに感じられるセクスの肉感と弾力は愈愈堪らない氣がした。勢餘つて喉奧迄突込みさうになると口を窄めた儘咽せ返つたが、舌先をぺろぺろと動かす事は止めず、じわと浮ぶ血管の凹凸を愉しんだ。顏面筋を痙攣する許りに迄收縮させて、搾出すかの心積りで、ぢゆぢゆぢゆツ、と排泄のやうな音を立てて立派な雄を啜上げると閒髮も入れず再度口内一杯に含んでうつとりとしてゐる。
カブトプスが一層怒張した。其れに押出されるやうにして靑年の口が人で云ふ龜頭の
「嗚呼! お前は何と云ふ「生」を其處に宿してゐる事か!」
突出した後脚を平手で打ち乍ら靑年は其の肉體を讃美した。極限迄引締められた肉から鳴る音は一層健やかに聽江た。彼の手は化石衣怪の體躯の一一を愛した。カブトプスはじつと默つて靑年の爲すが儘になり乍ら兩脚をがたがたと震わせた。
「カブトプス、カブトプス、カブトプス!」
肉體を弄する内精神が野獸になるのを感じ乍ら遮二無二相棒に聲を掛け續けた。
何れ丈け嘗めてゐたかもわからない程菊門の虜になつて了つた。漸く口を離せば尾の付根にはぽつかりと口を窄めたやうな輪郭をしたアヌスの深淵が良く視江て壯觀であつた。カブトプスの腰が痺れたやうに顫動し、丸で遊女のやうに誘つてゐるかのやうで、氣が付けば靑年は洋袴を下ろしてゐた。強烈な肉慾とカブトプスへのはち切れん計りの愛情の綯交ぜとなつた渾沌が彼の心を疾に支配し盡してゐて、
ぱちん、とピカチウの頬に觸れたかの如き茫然自失の後で靑年は己が尠しづつ萎江てゐくのを感じてゐた。何時の閒にか股倉はぐしよぐしよと甚だ濡れてゐる。汗の一層饐江た臭いが鼻腔を刺激する。氣付けば體中からじわと分泌した汗のせいで、俄に全身が冷やりとして來た。息せき、じんわりと下半の疲勞感と筋肉の痛みを憶江つつ、カブトプスを視遣る。互いの接合部がびぢゆぢゆぢゆ……と
彼は接続した儘
蓋し斯うした日日でさへも永遠に續くと云ふものならば未だ幸福であつたと云へやう。併し運命は不可逆かつ不可避である。賢明な讀者諸兄にあつては最う暫く私の朴訥なる筆にお付合ひを願ひたい。孰れ其の日は影に纏付くゲンガアのやうに現れ出て破局を招來するのであるから!
扨、此れ據り私はヂアルガの心の臓の鼓動を更に加速させる事にしたい。すると讀者諸兄の瞳は瞬く閒に路地裏にベトベタアの臭氣芬芬たる帝都の盛夏へと、謂はば彼等にも關東にとつてもフヱイタルな彼の夏の一日へとケヱシイの如く移動せられている筈である。だが此れは單に小説の都合に有らず、此の事象はヂアルガをして心肝を寒からしめた爲に其の心搏が甚だしい故である(…)
往時は、
併し當の靑年とカブトプスに關して云へばそのやうな事は些事であるどころか、最早チヤツプリンの喜劇の次元の事としか想起出來無かつたに相違ないと思はれる。やもすれば彼等と外界との關係は既にして倒錯してゐたと云へるかも知れぬ。名にし聞くド・メエストルの奇書の如くアトリヱであり牢獄でもあつたこの一室が
無論靑年の病状は明かに惡化してゐた。熱情と云ふ言語化不能な作用がモルヒネのやうに靑年の神經に働き、其れのみに
靑年は最早自己に嘘を吐く事は無くなつてゐた。頭の半月を何時迄も愛撫した。反返つた鎌の形をじつくりと觀賞した。しかと抱擁し互いの不器用な舌を絡め合つた。装甲に接吻し噴出する
靑年は息せきつつ繪筆を振囘してゐた。丸で一樂団の指揮者のやうな手振をして畫布に色を載せ、彼の理想幻想の一切を思ふが儘に其の平面へと定着させる。怒濤の如き制作が終わり、彼は筆をぽとりと牀上に落とした。室内に乾ひた響きが鳴ると、ずつと靜かにしてゐたカブトプスが微かに身を震はせた。畫家は水中を歩ひてゐるかのやうに重たげな足取りで化石
「カブトプス、待たせたかい」
掌を骨ばつた胸甲に這はせると、湿り氣がじわりと皮膚に傳はつて來た。彼は
「心配なんてして呉れるな。僕は未だ壯健だから……」
鋭利な鎌が弱弱しい膚を切裂かぬやうに、恰度付根の邊りで主人の腋を挟んで其の痩躯を支へた。彼等は然ふして凝と絡み合つてゐたが、其の内カブトプスの肉體の俄に火照るのが傳導してくるのが靑年には感じられた。く、く、とくぐもつた嗤聲を立て乍ら惡戯に
カブトプスの總てを慈しんでゐた靑年が
此迄とは比較にもならぬ程の喀血は瞬く閒に洗面噐を滿し、強烈な嗚咽と肉體の裂けん許りの熱に犯されて靑年の意識は暫し朦朧とした。最早自身でも何を如何したか判らぬが、正氣に戻つた時に彼は薄暮の寢臺に臥してゐた。傍には從者的な忠實さを以てカブトプスが起立してゐた。白磁のやうな艶と凛凛しさを湛へた胸と腹が血染めに爲つてゐるのを視るにつけ、如何程此奴が骨を折つて不慣れな介抱をしたものかが知れた。思ふやうに抑へ切れぬ
無論此のやうな道を選んだのは靑年自身である。凡そ救はれる見込の薄い事を知り乍ら、敢へて父の差出した手を振払つたのは彼である。如何なる状況であれ己が生命に固執する可きと云ふ觀點からすれば靑年の無責任を難じる向きも有るやも知れぬが、忘るる勿れ、彼が美の狂氣に捕へられて了つた俘虜であつたと云ふ事を!
恰度野外から何處かに据江付けられた蓄音機から巷閒で流行の『船頭小唄』の調べがさめざめと流れて來てゐた。
おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき……
其の沈痛たる呻吟と云つたら、聴く者總てに感染しては得も言われぬ情感を喚起せしめるものであつた! 而も其の調べは表向き穩やか乍らも其の深奧には大ひなる不穩を孕んでゐた帝都を覆う空氣とも調和してゐるのであつた。私や彼等と同時代を生きた者ならば、私の了見を承知戴ける事であらうと思ふ。私は讀者諸兄に數多くの符牒を示して來てゐる。此の場合で言へば其の憂愁の旋律を以てプルウストのマドレヱヌの如き作用を起こさしめ諸君等に如何にかして消江かけた記臆を惹起せしめんと漸と此處迄重い筆を進めて來たのであつた。
苦しげに腕を擡げ、そつとカブトプスの鳩尾の邊りに澱んだ血の塊を指で掬ふと、其れでカブトプスの腹直に刺青を刻込むかの如く、一輪の薔薇を素描した。靑年は
靑年は上衣を肌けると、ペルシアンのやうな姿態で痩身を気怠く捩らせて見せた。その仕種は丸で新吉原の遊女然としてゐた。猶もカブトプスは傍で躊躇してゐる風なのを微笑ましく視詰め乍ら寢臺の片側を空けた。懼る/\化石怪衣は、古代羅馬の詩人が少年の頬の染る樣を薔薇の如くと讃へたやうに
「いいかい、良く聴くのだ」
今にも消江入りさうな聲でカブトプスに靑年は囁ひた。
「總てが終わつたらお前は自由にならう。僕の肉體はお前に不可視に爲るが、斷じて存在を止めた譯では無いのだ。僕の精神は常にお前の内にある。お前が僕を感じれば即ち僕は其處に在るのだし、お前は其れを感知する能力を有つのだ……」
さう言聞かす主人の言葉を神妙な面持でカブトプスは拝聴し、掠れるやうな鳴聲で以て應じた。仔細な意味は把握出來ずとも、鋭敏な本能はそのニユアンスを感じ取つてゐたに相違無い。
「併し其の前に僕は、お前と」
漸とさう言ひ掛けるのを待たずして、カブトプスは徐に上體を擡げた。美事な膂力で立上がつた上半の胸腹はバロツク式の鮮烈な陰翳を帶びて、一層筋骨隆隆と見せてゐた。其の胴體の根本據り際立つて鋭く直立する其の威容に、靑年は惑溺せざるを得なかつた。
「一つに爲りたい、如何だい」
彼はさう問掛けた。深い沈默が室内に流れた。只ぴくりと其逸物が跳上がる丈けであつた。靑年は其れを肯定の返事と受取るや否や悶えるやうに嗄れ聲を擧げた。
「僕もお前と一にして慾しいよ」
遮二無二キヤタピイの如く體を蠢かして着衣の一切を脱拂つて了ふと、大股開きに爲つた靑年は、細指を震はせ乍ら己がアヌスを
交合の瞬閒、靑年は總てを忘却した。父との爭ひから其れに纏はる全登場人物が矮小な存在に爲り仰せた。ラケツト團の何某も、あの理科系の男も、陽氣なる助手君の
「カブトプス、カブトプ、ス」
咆哮する靑年にとつて最早希望は無く、かと云つて絶望もありはしなかつたのである。併し古來如何な悲戀を迎へた男女達に劣らず自分等の愛は勝利したのであると靑年は激甚なる痛痒に溺れ乍ら感じてゐたに違ひ無い。
「あゝ……! うおゝ……!」
靑年の渾身の悶絶は併し極めて静かであつた。鄰人すらも此の室で起きてゐる驚嘆す可き事案を凡そ想像だに出來無かつた。抑も彼等の眼には全く異星外人にしか見江ぬ衣怪がずつと其處に住まつてゐた等とは! 其の衣怪はひたぶるに靑年の爲に行爲をし續けてゐた。單純な前後動作を繰返す程に其れは愈愈熱烈の極みに達した。締付けるやうな窮屈さに狂おしくなり乍ら言語に絶する情感を靑年に衝突させている内に、古代の野獸の本能が覺醒したと覺しかつた。途切れ/\になつた靑年の聲は最早ギギギと軋むマツトレスの音と區別出來無くなつていつた。兩者の心理を占有したのはとくとくと噴出する無上の官能此れ許りであつた。
——虚脱感と共に腰の振りを弱めたカブトプスは今さつき迄自己が何をしてゐたのかを思ひ出さなかつた。視下すと萎えた己の物がけたたましい汚濁を纏ひ乍ら宙吊りに爲つてゐる。氣味惡い感觸を今に爲つて感じ背筋がゾつとする。シヰツは酷く亂れ、皺苦茶に爲つてゐる上、脚元は著しく湿つてゐるのをカブトプスは視、感じた。兩膝を立ててマツトレスが深く沈込んだ邊りには桃色のクリヰム染みた泥土が水溜りを作つて、カブトプスの鎌に據て引裂かれた寢臺の切込へと流込んでゐるのである。
所で靑年は兩腕を万歳三唱の體で投出し乍ら其の裸體を伸ばしてゐた。蒼白とし、肋骨も浮出た其の裸姿は餘りにも弱弱しく視江たであらうか。室内は何時にも無く静謐としてゐ、カブトプスの荒げる息音が更に空閒の沈默を際立たせてゐた。そつと顏を靑年へ近寄せると、外貌は睡つてゐるやうにしか視江ないが、鼻腔からは健やかな息とて聴取り難かつた。暫く慎ましく默してゐても甲斐は無かつた。
カブトプスは咄嗟に主人の身を強く抱寄せた。其の刹那、ゼクロムの放つたかのやうな雷鳴が鳴響いたのであつた。嗚呼、此奴は自身の兩肩據り生江出るものが腕ではなく鎌であると云ふ事を失念したのである。靑年を介抱し乍ら瞠目し、戦慄する姿はレヱピンの描ける雷帝を髣髴とさせる壯絶な情景にも比肩したに相違ない。
鎌先が鮮血に染まつてゐる事に氣が付く迄に如何程の時閒が流れたものか、カブトプスには分らう筈も無かつたであらう。俄に雷鳴と豪雨の騷音が聴覺に蘇生して來た時、カブトプスには總てが判つた。ぽたと絨毯へ止所なく流れ落ちる黑ずんだ血液を視た時、一體何を感じたことであらう。懼る/\抱締めた靑年を視下ろし、己が鎌が彼の喉頭の奧深く迄切裂ひてゐたのを、どの樣な面持で視たであらうか。其處から血は
カブトプスは其れが曾て靑年であつた部位を慄然として視詰め乍ら、首の無い體を抱擁し續けてゐたが、軈て立上がると、決然として「靑年」ににじり寄り、今度こそは一切傷つけぬやう用心し乍ら上膊と胸甲の閒に其れを丁寧に挟んだ。窗據り眺められる帝都の夜更けは雷雲立込め、
人氣も絶江た街路にカブトプスは着地すると、胸中に抱へ込んだ「靑年」を今一度視つめた。軈て飛脚のやうに地を駆け乍ら、宵闇の中へ誘われるやうに疾走し、消江てゐつたのであつた……
關東日日新聞 犬正拾×年八月××日 夕刊
體首斬れ哀はにヱリトアたれ塗血 !劇慘の街布識
報情怪のとす徊徘物怪るな樣異に都帝
言證の慄戰と物化の腕鎌兩で頭月日三
明る日の帝都の
先ず第一に發見者は何言わうミウズ女史と大王であつた。定期の見舞の爲にアパルトマンを訪ねた彼女は、識布通りに妙な
騷ぎは電光石火の如く廣がつた。只でさへ識布と云ふ新興の土地で殺人が起る丈けでも關心を喚起こすと言ふのに、出て來た死體には頸が無いときてゐる。アパルトマンの
新聞紙上に悍ましき倒錯を窮めた繪畫の數數などと踊れば、其の中身を知りたくなるのが大衆心理と云ふものであつたが、果敢な日刊誌記者が體良く警察内に乘込んで盜撮した畫像が其日の夕刊の一面に大大的に載せられると此れが飛ぶやうに賣れた。其處にあつた奇怪としか呼べぬ圖案を人人は眉を顰め乍らも興奮して刮目せずにはゐなかつた。此の何だか判らぬ
然して、プレスでは言葉にするだに憚られる事案を吹聴するのは香具師どもの役目である。彼等は連日聲を張上げ大量の繪葉書を賣捌ひたものである。かく言ふ私とて其の繪葉書を熱狂に駆られて幾つも
紅蓮島は一種傷ましい沈默の中にあつた。他方、其の沈默には火山の如く噴出せんヒステリツクな大衆の好奇心を抑壓してゐたのであるが。慘死體で發見された靑年の身元が判つて以來、支局の記者達が父親のF氏を訪ねんとして研究所は連日凄まじい騷擾にあつたと云ふ。茲に於て研究員達は
當のF博士は
さうして怪物の話で持切と爲つた帝都は
だが一方で其の姿を一目視んとする物好きも隨分とあつて、新聞の三半広告に懸賞金の類等が載つてから餘計に其れは酷く爲つた。一度何處からか怪物を視たと風聞があれば、忽ち其處は羣衆と警官でごつた返した。尤も然うした噂の大半は單なる風説に過ぎず、カブトプスが現れぬとなると皆一樣に溜息や罵聲を吐いて
斯くの如く、新聞各社の勃興し羣雄割拠して姦しい事久く、
だが、然程の騷ぎにも
併し乍ら、嗚呼、さうした喧騷は僅かの内に絶頂に達した後、
私は其日、開幕した計りの院展を観覽しに陳列館に赴ひてゐた。
展示に大いに滿足を覺江た私は、此の昂つた情感の
揺れは胴を突かれたヤドンが反應する位には長かつた。落着して直ぐに、陳列館のある山には避難民が堰を切つた樣に押寄せて瞬く閒に渾沌の極みに陥つた。更には彼處は危い此處も直火の手が來るなどと皆が皆違う事を吹聴するから、私としても何れを信じて良いか判らず、只混亂した思考の儘、其の日は一晩中其儘留まつて過ごす羽目に爲つた。併し乍らあれ丈け人や衣怪等と密接だと眠るにも眠れぬ有樣であつたのだが、其處に誰の所有であつたか、一匹のプリンが現れ出て子守唄を口遊んだのは有難かつた。他所ではパラス、パラセクトの類が胞子を撒ひて人人に安眠を與へてゐた。御蔭で罹災の身とて不安な夜を平穩に遣過す事が叶つたのである。
翌朝、尚も遠目に火の手の視へる帝都を歩き、歸路を急ひだ。時の経つにつれ其處此處據り漏れ聞江て來る傳聞は、私の幸甚なる事を
私は歸路でも多くの悍しい、信じ難い悲慘を目の當りにした。道端に炭化した死體と、其の傍には最早コラツタかニドランかも見分けの付かぬ死骸が幾つも轉がつてゐるのを此の眼で視た。河川の光景は尚更陰慘を窮め、直視するだに困難であつた……官憲の手が囘らずに放置された無數の遺體が水面に浮んで非道い異臭を撒散らしてゐたのである。屍と爲つた其れ等は一見して一向誰だか判別も付かぬ。併し良く/\觀察すれば大概が逃遲れた女子供に小衣怪の類であると知れ、誠居た堪れぬ思ひであつた。芥川氏の『羅生門』の
閑話休題、私は其の時奇妙なものを視たのである。此れで幾度目か判らぬ屍の山の傍を通り掛かつた時である。矢庭に、其處に蠢く何かの氣配を私は感じた。餘りの事に私の精神も疲勞困憊し、最早死骸程度には、月並な悲哀こそ覺江ても特段の感情も抱く事が出來無く爲つてゐた折りである。私は思わず其方を視遣り、よもや生還者が埋れてゐるのではないかと思つたが、其等は只死骸としてひつそりとしてゐる計りであつた。けれども私を不穩がらせた氣配は依然其の場に留まつてゐるようだつた。私は其れを不氣味に思つて足早に離れやうと思つた刹那である。猛火で溶解し變形した鉄骨の陰に蹲る何ものかを私は認めた。
其れは無我夢中で屍の上で何かを物色してゐる風であつた。人心荒廃の折りからか、山ほどある遺體を漁つて焼殘つた金品を奪取る不逞な輩の數多あることを耳にしてゐた私は、奴も其の類の者かと疑つた。ならば一つ、やい、と大聲を擧げて取つちめてやらうなどと云ふ氣紛れを起したのは、恰度昼閒に喰った
瞬閒、私の印象は忽ち大震前の空氣の中に戻つた事を強調しなければならない。驚く可き事に其れは直近迄、新聞雜誌で頻繁に見掛けた姿體であつた。遂ひ先月迄、帝都中の臣民達がやれ玉蟲方面に出たと聲のすれば、皆探偵氣取りで羣れを爲し七號道路に詰掛けて探囘つた異形の衣怪其の物であつた。半月状をした頭部、背中から生へた三對の突起が視江ると、私は心の臟が俄に止まりさうであつた。往時、未だ充分な真實なぞ知らなかつた私からすれば、「カブトプス」と云ふ單語は懼る可き殺人鬼と同等の響きを持つてゐたのだから無理からぬ事であつた。
勢ひ、私の足はがたがたと震へ出した。逃仰せなければならぬとは雖も生まれたてのポニイタのやうな足取りでは到底覺束ない。全く私に醉狂を起こさせた水團屋の野朗の怨めしい事と言つたら無かつた。
カブトプスは背後の氣配を察して不意に立ち上がり、
私は此の衣怪と長い事對峙してゐた。其の瞳を凝と視るにつけ、彼の衣怪は何かを切實に傳達せんとしているやうに視江た。併し其の言語を私の頭腦は十全に理解する事は叶わなかつた。何とか彼の言わんとする事を何度も言語化しやうと試してみたが、十何年経つた今も猶其れが出來るとは
私は覺江ずカブトプスに心を許しても良い心地に爲つて、ほつと息を吐ひた。だが、其のやうな安堵も刹那の事であつた。私はほんの尠し目線を彼の胸元に落したのである。すると、不器用にも組まれた鎌の閒に何かが挾まつてゐるのを私は視たのである。宵闇に黑黑として初めは判別も付かなかつたが、不意に月光の差して恰度カブトプスの體を照らしたのであつた。私は刮目し、心の音が絶えさうな程の
當時の私の心理領域に於て恐怖が勝り、其れに伴う俗物的な排他意識が湧出した。嗚呼、私は折角彼と心中から對話する好機を斯くの如く見す見す逸して了つたのであつた。
あらん許りの威勢を以て私は震へ聲で叫んだ。失せろ、怪物めが!
すると、其れ迄只靜かに佇んでゐた丈けのカブトプスは
その後姿を、私は今も忘れる事が出來ぬ。
擱筆シテ暫シ詩仙ニ倣ヒテ月下独酌シテ慮ルニ恰度月ハ半月ニシテ影ニ對シテ三名ト成ラン爾來餘興ジテ之ヲ以テ比翼ト成シ永ク無情ノ遊ヲ結バント慾ス戲レニ問ヒケラク相期シ今ヤ雲漢ニ有リヤト名月皓皓トシテ影愈愈烱然タリ俄ニ風ノ來タリテ耳ヲ欹テ其ノ聲ヲ聞ケリ餘頭ヲ上ゲテ交ワス一杯ノ酒今ゾ須ク醉フ可シ陶然トシテ思フ可シ餘ガ逸文焉ンゾ飄然トシテ思ヒ羣セザランヤト照和×年識羣羣
内覧の案内が私の手元に届いたのは、あれからヒロミさんと別れて、私もコガネの自宅に戻ってからだいぶ日が経ってからのことだった。送り主はもちろんヒロミさんである。今度ヤマブキの画廊であの青年の回顧展が開かれることになったというから、是非ご高覧にあずかってほしい、という内容だった。会場の圖犬画廊は照和の初めから続いているという老舗で、私もぼんやりながらその名を耳にしたことがあった。私はすぐにヒロミさんのアドレスに承諾のメールを送った。
それでは「エンツバ」の彫刻を目印にしましょう、とヒロミさんは言った。それはヤマブキ駅のリニア改札を入ってすぐ近くにあるということだったが、そんなところに彫刻なんてあっただろうか、メールでのやりとりを終えて私はふと思った。
後日、ヤマブキ駅に到着すると、改札口あたりの開けたところに出た私はキョロキョロと周囲を見渡した。ヒロミさんによれば、この辺りが待ち合わせ場所のはずだった。しかしいかんせんカントー地方の交通の要である駅内は人やポケモンでごった返していて、「エンツバ」の彫刻どころではない。あまりの人混みに尻込みして、壁際に押しやられる形になった私は、軽く爪先立ちになってなおも目印を探した。
目印になったのは「エンツバ」の彫刻よりもむしろ、その隣に立っている一際背が高く、しかも髪の毛がレントラーのたてがみのようになった男だった。久々に見ても少しも見間違えようもない、完璧なまでにユニークな外見をしているヒロミさんに、私は躊躇うこともなく声をかけた。
「ご無沙汰しております」
派手な見た目とは裏腹な丁重な振る舞いも相変わらずだった。純度100パーセントの、コトブキ大学准教授のヒロミさんの振る舞いである。
ところで、ヒロミさんが目印にと言っていた肝心の「エンツバ」の彫刻はシースルーエレベーターの脇にさりげなく設置されているに過ぎなかった。
「『エンツバ』の彫刻と聞いていたんですが、思っていたのとはなんだか違いますね」
「いやあ、こちらが舌足らずなばかりに」
と、しきりにぺこぺこと頭を下げながらヒロミさんは言うのだった。
「美術の世界にかかずらわっていると、僕らにとっての常識が、世間一般のものとは微妙なズレを起こすということを、つい忘れがちになってしまうものです。僕があなたに連絡をした時も、ごく自然に本文を打ってしまっていて、送信ボタンを押したあとで『しまった!』なんて思いましたよ。もっとも、あなたなら僕を見つけ出すことはできるだろうと思っていましたが」
それにしても、とヒロミさんは「エンツバ」の像を眺めながら言った。
「曲がりなりにも美術関係の仕事をさせていただいている身からすれば、せっかくの美術品をこんな形で駅の片隅に追いやるのには忿懣やる方ない思いです。もっとも、駅の側にもそれなりの理屈というものがあるのかもしれません。公共空間が、あらゆる立場の人々に開かれた場所であるべきということは論を俟たない。それは納得できます。車椅子の方のためにエレベーターを新設することもそうですし、場合によっては中〜大型ポケモンの利用も見越して道幅も考慮する必要もあるでしょう。しかしながら、パブリックアートの効用についてもっと目を向けるべきです。美術には人と社会を結びつける力があると信じる者としては、ですが……」
ヒロミさんが熱くまくしたてるのを私はとても好ましいと思った。美術、芸術、アートだとかそれを指し示す言葉はあまたあれど、彼はそのようなものを心から愛していることがよくわかり、改めてあの謎めいた文書を彼に委ねたことに間違いはなかったのだと安心した。
ヤマブキでも一際賑やかな地区に会場の圖犬画廊はあった。犬正モダンの趣を今に残す外観のビルディングの1階に展示場が設られ、正面入り口の両端にはウインディを象った堂々とした像柱が来客を待ち構えていた。今日は会期前の内覧会だということで、一般のお客はまだ来場していなかったが、その代わりに全国の名だたる美術関係者や大手新聞社の文化部記者たちが犬正期の知られざる画家の作品を観るためにこぞって駆けつけていた。私はヒロミさんに案内されながらおずおずと画廊に足を踏み入れた。
いかにもフォーマルでコンサバティブな雰囲気漂うこの場所を、ヒロミさんは自分の部屋であるかのように悠々と歩いて回り会場に来ていた高名な人々と挨拶を交わし、丁寧で美しい所作で名刺を交換し、ひとしきり談笑していた。私もヒロミさんを介してそうした人々に挨拶する機会を得ることができたが、私のような浅学非才でも知っているような人々ばかりでつい呆気に取られてしまうほどだ。
「……あの方はホウエンにあるミナモ美術館の学芸員さんです。あちらにおられるのはミアレ美術館の方、それからあちらにおられるのは確か……パルデア地方の美術家の方と、かの創立805年の名高いアカデミーの美術主任を務めている方で、二人ともポケモントレーナーとしても著名ですね……後でサインでももらっておきましょうか」
そして、今回の企画に協力してくれた圖犬画廊の社長は、ハリテヤマのような恰幅をし、話し振りも随分と豪胆な大男という印象だったが、こと美術の話題となればその学識の広さは驚くべきほどで、カントー随一の美術商とはこういう人物かと思わせた。私が件の青年に関する文書の持ち主であることを知ると、彼は非常に興味深そうに発見の経緯や、その内容について事細かに訊ねてきた。
「展覧会を計画するにあたって、彼が蒐集した資料や実作を拝見させていただきましたがね」
と、画廊主の社長は壁に掛けられたその一作を指差しながら所見を披露した。
「犬正期にこのような知られざる画家がいたことには正直驚きを禁じ得ませんでした。これなんか最初に目に入ったもので、画家の愛したカブトプスの後姿を描いたものですが、コイデの『裸女髪結』の官能性と艶かしさに近しいものを感じ、一気に興味を惹かれ、次々と彼の遺した油彩やスケッチを拝見しました。それは、魔に囚われたとでも言いましょうか、そんな感覚はこの仕事をして随分と経ちますが、久々のことでしたよ。作風はリアリズムを基調にしてはいますが、同時代のセキネやカイタのような感情の発露を彷彿とさせながら、現代で言うカモイのような苦渋さも兼ね備えています。それに、マキノの執拗で過剰な写実とも通じるところがあると思われますな……カブトプスを通じ、画家が何を見出し、何を表現しようとしたか? これらの作品は何よりも雄弁に語っているように思われます……」
私は驚きながらそうした品評を聞いていた。会場に居合わせた他の人々からも、さまざまな感想を頂戴したが、どれも好意的なものであったので、私は実作者でもないのに誇らしい気分になると同時に、誰もが例の『三ツ重之鎌』なる文章について感想を語るものだから、まるで自分が趣味で書いた小説が不本意にも晒され批評の対象になってでもいるかのような気恥ずかしさを覚えないわけにはいかなかった。
数々の新聞社やメディアの文化記者たちにも次々と声をかけられた。私は簡単な質問に答えるにもガチガチに緊張してしまって、果たして意味を成しているのか心もとないことばかり言ったように思う。一方、ヒロミさんは悠々とした態度で青年の画業について簡潔にして要を得たコメントをするから感心した。
一通りの挨拶を終えて、私たちはようやくかの青年の作品を観賞することができた。祖父の蔵から忘れ去られた原稿が見つかって以来、まるで親友ででもあるかのように感じてきた彼ではあるが、その実作に触れるのはこれが初めてなのであった。会場には青年の油彩に加えスケッチなど30点が展示されていたのだが、彼の愛したポケモン(衣怪)の肖像は半分ほどを占めていた。先ほど画廊主が言及した寝台に腰掛けた後姿の絵を始め、モデルとなったおよそ100年前の時代に生きたカブトプスの姿が艶かしくも生き生きと描写されていた。一見して堅実な写実ではあるのだが、鎌の色合いは複雑に絵の具が入り混じって私には何とも言いようのない独特の白となっていたし、黄土色の鎧めいた甲羅のグラデーションからは大胆な画材のマチエールが露出して迫力を感じさせた。観覧する人々の口からはその塗りについて、サエキだとかオギスといった名前と比較する声もあった。
それにしても青年の描くカブトプスの精悍さには目を瞠った。胸甲の逞しい膨らみは、まるで古代ローマの百人隊長を思わせたし、括れた腰から鼠蹊部の一点へと収斂していくような身体の輪郭は、確かに磔刑図のイエスを連想させた。あの文書でもたびたび強調されていたように、一体の化石ポケモンに西洋の古典美と原始の荒々しさとの融合を見た青年の目がただならぬものであったことを、これらの作品は物語っていると思えた。かの文書の著者があの興奮と執着のうちに書き連ねたことは断じて誇張などではないという気がした。
「彼の画業を世間に紹介するにあたって」
とヒロミさんは私に耳打ちする。
「圖犬画廊のスタッフと随分話し合いを持ちました。やはり彼の存在をもって、犬正の近代美術史の書き換えを行いたいという思いが強かったものですから、僕としても非常に悩んだ末、展示を見送ったものも少なくありませんでした。その中には当然、あの文書に言及された作品も含まれているのですが」
そう言って、私に向かってそっと会場の片隅の扉の方を指差した。画廊のオフィスへ繋がると思しき扉の周りには正装をした画廊の社員たちが構え、どこかものものしい様子で展示場の様子を観察しながら、こそこそと何かを話し合っているのが見えた。いかにも格式高い画廊の人々といった趣である。
「例の作品もいくつか、こっそりと裏に置いてあるんです。今回は内覧会中に一部美術関係者のみに特別に公開するという形なんですが……もちろん、ご覧になりますよね」
私は頷いた。もちろん。ヒロミさんに先導されるがままに画廊の裏側に案内されると、まるで官庁舎を思わせる整然と並べられた事務机、山積した資料、デスクトップで構成されたオフィスを通り抜け、さらにその先にある応接室に通される。少し薄暗い照明が灯ったその部屋の壁に立てかけられていた幾枚かの絵に、私は思わず目を奪われた。
それは、まさしくあの『三ツ重之鎌』の記録者が克明に書き記した、青年のあの疾風怒濤の生涯の最期の日々に、描き散らした作品群そのものであった。言うまでもないことであるが、そこに表現される図像は生々しく、あられもないものばかりである。ベッドに寝そべったカブトプスの猛々しく勃起したままの性器を露骨なまでに描写した絵などは、同時代のみならず、現代でさえ挑発的な画題に思えた。私はしばし呆気に取られていたが、しかしその一見過激な図像に見慣れてくると、青年の作品は私の感情を複雑に揺さぶるようになった。青年とカブトプスの間にあったことからして、そこには確かに狂おしいほどの欲望があるのは確かではあるのだが、決してそこに留まることのない強靭な青年の眼差しというものがそこには感じられるのだ。ただ、美術評論なんて柄ではない私には、それをうまく言葉にすることはできなかった。
「これらの絵は、現在巷に満ち溢れているポルノグラフィの一種に解釈されてしまいそうですが」
私の横でヒロミさんはじっと襞まで読み取るように絵画をじっくりと見つめながら話した。
「単なる性的消費のために描かれたものではありません。それは、生死の際にありながら生命力を感じさせる絵筆のタッチや、これだけ大胆な画題を扱っているにもかかわらず、そこにばかり目を向けさせないように考え抜かれたポージングや小物の配置——恐らくこれは青年の天性の画才を示すものと思いますが——からも明らかではないかと思うのです。もしかしたら、彼はカブトプスの全体を通じて未知なる世界を幻視していたのかもしれません。それは孤独な芸術家でしか到達しえない、ある種誰も立ち入れぬパルデアの大穴以上に恐るべき領域であったのかもしれないなどと、僕なんかは考えてしまうわけですが……」
そう言いながら、ヒロミさんは照れ臭そうにレントラーのたてがみのような髪の毛をくしゃくしゃと掻いた。彼の言葉に同意すると、ヒロミさんもにこやかに頷き返した。今回はこのような密かな展示にはなってしまうが、もっと研究を深化させて、いずれは堂々と展観できるように努力しますよ、とヒロミさんは受けあった。
内覧会の後には関係者だけを交えたささやかなパーティが予定されていたが、それにはまだ時間があったので、ヒロミさんはちょっと外を歩きませんかと聞いた。私も緊張ですっかり体が硬くなってしまっていたので、一も二もなく同意した。
私たちは再び恩賜公園を歩いていた。以前ヒロミさんと会ったときにも来た場所であるが、何度訪れても自然豊かなこの場所は心の落ち着くことであった。広場では大道芸人たちが見世物をして、その周囲を通行人たちが取り囲んで見物をしていた。紳士服を身にまとい、ピエロの鼻をつけた芸人は、右肩に乗せたイーブイとジャズの軽妙なリズムにのりながらシルクハットを奪い合い、見る人を笑わせていた。また別のところではストリートミュージシャンが、カントーでは珍しいローのストリンダーにベースを弾かせながら、ポピュラーソングを演奏して観衆を沸かせていた。
「この場所は、本当に今も昔も文化が息づいていると感じます。まるで、100年前に生きていた人々とも心が通じ合わせることができるのではないか? なんて想像が膨らまないでしょうか?」
ヒロミさんは賑やかな恩賜公園の雰囲気を心の底から楽しんでいるように言った。私はこの土地がここ150年の間に経験した歴史を思った。あの小高い丘では明冶の初め旧軍と新軍の間に血で血を洗う争いがあったこと、犬正の大震災の際には避難民たちがごった返し、維新の英雄とその愛犬であったグラエナを象った銅像には人々が安否を募る貼り紙を至る所に貼り付けていたこと、それからこの場所を行き来したであろう名だたる美術家たちから名も知れぬ人々のことを思い返し、それらの気配が今もなおこの場所には息づいているのではないかという感慨に耽った。
「そういえば、不思議なことがあったのです」
思い切って、私はヒロミさんにあることを打ち明けることにした。『三ツ重之鎌』に関して、どうしても不思議に思われることについて。ヒロミさんは興味深げに私を見つめ、そのたてがみをぽりぽりと掻く。つい口ごもってしまった私の緊張を解そうとして、ヒロミさんはにこやかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。続けてください」
「何と言えばいいんでしょうか」
私は何とかわだかまる思いを言葉にしようとする。筋の通らない話であることは私自身が一番よく知っていたが、だからと言って、単なる気のせいで終わらせたいことでもなかった。
「……実はあなたとお会いする前にカントー地方を巡っていた時、セキチクの海岸で不思議な体験をしたのです。何かというと、私はそこで、『ぺヱタア君』を目撃したのです。玲和の時代にはおよそ見かけないような袴姿で、何よりあの特徴的なモンジャラのような髪の毛、見間違いようはありませんでした。それが一体なぜなのかは私にも全然わからないのですが、『ぺヱタア君』は物陰から私を見つめ、ニヤニヤと笑いながらあの髪をクシャクシャと掻くのを確かに見たんです」
ヒロミさんは私の話を黙って真剣に聞いてくれていた。そこには、私の言っていることを何かの見間違いと決めつけるような揶揄いの様子は一切感じられなかったので、私も話終えたあとホッとすることができた。
「なるほど。それは確かに不可解なことです。何とも不思議なことだ……」
「当然、100年前の人物がいま同じ姿で生きているとは到底思えません。ですが、私が見た光景は間違いなく現実のものであったとしか思われないんです。こんなことをあなたに話しても仕方がないかとは思いながらも、やはりあの不可思議な手記を通じて出会った縁ですから、お伝えしておきたいと思い……」
ヒロミさんは少し待っていてくださいと私に言うと、いきなりそばにあった公衆トイレに駆け込んでいった。急に用を足したくなったにしては唐突だったので、私は妙に思いながらしばらく公園を行き交う人々を眺めて待っていたが、ヒロミさんはなかなか帰って来なかった。私は不安に思い、さっきヒロミさんが入って行った男子用トイレの中を探したが、そこには誰もいなかった。個室トイレも全て鍵が空いていたし、どの部屋も無人であった。
「ねえ、ねえ」
慌ててトイレを飛び出そうとした私に、声をかける者があった。振り返ると、相変わらずトイレには私を除いて誰もいなかった。
「ここだよ、君」
そう言いながら、小便器の並ぶ壁に取り付けられた小窓をコンコンと叩く誰かに私は気づいた。
「いやはや、どうも、どうも……」
窓の隙間から私を覗き込んでいるのは、目元だけしか見えなかったとはいえ、明らかに異様な風体をした人物であると同時に、私にとってはしごく見覚えと親しみのある人物でもあったが、この状況に対して私は何と反応すればいいのかわからず、呆気に取られていた。その人は小窓から手首を伸ばして、指先で外側を差して、それからおいでという手振りをした。
外に出て、公衆トイレの裏側へ回ると、やはり間違えようもなく彼がそこに立っていた。『三ツ重之鎌』のもう一人の主人公と言うべき『シユトルベルぺヱタア』君その人である。それは分かるのだが、それでもなお状況の飲み込めない私に、目の前の「ぺヱタア」君はぽりぽりとその頭を掻きながら、ニヤニヤと私のことを見つめている。
「ご紹介に与りまして、ええ、お会い出来て光栄です……と、冗談はここまでにしておきましょうかね」
『ぺヱタア』君は急に口調を改めた。それは、さっきまで私と行動を共にしていたヒロミさんの声で間違いなかった。
「どういうことですか?」
私はそう訊ねるしかなかった。一体全体、これはどういうことなのだろう?
「まず、詫びなければいけないことがあります」
「ぺヱタア」君? ヒロミさん? は言った。
「いや、そのですね、時々こうやって揶揄いたくなってしまう性分がありましてね。あの時お世話になった彼の振る舞いは事あるごとに真似したくなりましてね。誤解を招くようなことをしてしまいましたね」
私はなおも目を丸くしていた。
「それともう一つ。以前、あなたにかの青年を研究するようになった経緯について、ちゃんとお答えしていませんでしたね。この通り、話はなかなか複雑でして、事は100年前から話さなければならないのですが……」
「100年前?」
私は思わず口に出してしまった。彼が一体何を言おうとしているのか、あまりに突拍子がなかったために、まったく頭の中で考えを整理できなかった。
「まあ、百聞は一見に如かず、でしょうか」
そう彼は言うと、いきなりキラキラとした光を身にまとい、みるみるうちにその姿を変え始めた。私が驚きで何も言えないでいる間に、細長い「ぺヱタア」君の輪郭は粘土を小さく丸めたように小さくなった。光は収まり、「へんしん」は終わったようだった。
「改めまして、お初にお目にかかります……」
彼はフワフワと浮かび上がりながら私に近づき、恭しくお辞儀をした。
「『三ツ重之鎌』にも登場させていただきました『ミウ』と申します。現在では『ミュウ』と呼んだ方が良いかと思いますが」
私はなおも驚きに囚われながらミュウを見つめていた。小さな体ではあるが、落ち着き払った彼(と言うべきなのかわからないが)はその赤ん坊のような手で私の両手を優しく握りしめた。
「驚くのも無理はなかろうかと思います」
ミュウは淡々とした調子で続ける。
「僕は100年前、この地方の人々が犬正と呼んでいるあの時代にF博士に発見され、カントーの地へやって来ました」
高級な座椅子に身を委ねるように空中に深く背中を沈み込ませながら、ミュウはしばし物思いに耽るような仕草をした。
「あれやこれやがありまして、しばらくここを離れざるを得なくなったりもしたのですが、そのうちまたカントーに舞い戻って、こっそりと人間の社会に紛れて生活をするようになっていました。なんだかんだ、あそこの居心地は悪くありませんでしたから。照和の初めの頃でした」
ミュウは「ぺヱタア」君のように頭を掻こうと手を伸ばしたが届かなかったので、代わりに頬の辺りを指先でくすぐるように掻く。
「そんな風に暮らしていたある時、古書店を漁っていたら、偶然投げ売りされていた古い絵葉書に思いっきり目を奪われたのです」
ミュウ、あるいは「ぺヱタア」君、あるいはヒロミさんがそう話すのを聞きながら、私は深海から少しずつ海面へと浮上して少しずつ光がくっきりと見えるように、状況を理解しつつあった。
「それが——もうお分かりかと思いますが——あの青年のセンセーショナルな絵だったんです。それで、もじゃもじゃ頭で『ぺヱタア』と呼ばれていた彼とよくつるんでいた画家のことを僕はすぐに思い出しました。そして、いつも側に連れ立っていたカブト、もといカブトプスのことをです」
「ということは、『三ツ重之鎌』を書いたのは」
「恥ずかしながら、僕、なのですよね」
いやはや、と照れ臭そうにミュウは空中で錐揉みした。
「当時、画廊で見かけたフジタですとかウメハラといった巨匠の作品にひどく心惹かれたりして、ちょうど美術に開眼したということもありまして。そういうわけで僕は、あの青年の評伝を書きがてら犬正時代の日々を振り返ってみようと思って筆を振るった次第なのです。結果的にはそれが『三ツ重之鎌』に化けてしまったわけなんですが……」
ミュウは短い腕を組んで、渋い表情で考え込むようなそぶりをした。
「とりあえず、あの事件について真に迫ったことを書くとしたら、やっぱり当事者の証言を聞くのが一番かなと思いました。しかし青年は言わずもがなですけれど、関係者たちの消息を掴むことは容易ではありませんでした。格闘大王は鬼籍に入られてしまっていたし、ミウズのカフェも姿を消してしまって、途方に暮れるところでした」
「となると、『三ツ重之鎌』は」
突然疑念に襲われた私は少々問い詰めるような調子になってしまう。
「その多くがあなたの、その……創作、ということになってしまうのでしょうか」
「いえいえ!」
ミュウはちょっとムキになってぶんぶんと首を横に振った。
「もちろん、僕は当時を生きた一臣民の手記というテイで書きましたから、その点に関しては作為はあるわけなんです。それに、初めは評伝のつもりで書き始めましたけど、当時の文芸思潮にも感化されたせいで、結果的に恥ずかしながら『三ツ重之鎌』なんてタイトルをつけてしまったわけですけれど、けれど! あそこに書かれた青年とカブトプスを巡る物語については概ね事実に沿っていると自負しているんですから」
そう断言しながら腰に手を当てて胸を張る様子は少し可愛げがあった。私の顔がニヤけているのを察すると、ミュウは頬を膨らませて不満を示した。
「僕が当時『三ツ重之鎌』を書くにあたっては、多くの方のご協力を仰がせていただいたんです」
早口気味にミュウは捲し立てた。
「例えば……F博士その人ですとか」
ここだけの話ですよ、とでも言うようにミュウは厳格な面持ちで言った。それは見た目のかわいらしさにそぐわないシリアスなものだったので、私も思わず真顔になってしまう。
「後年、F氏がシオンに隠居していることを人伝てに知りまして、随分難儀はしましたが彼と会見する機会に恵まれたのです。僕が正体を明かしたときの彼の驚きようと言ったらなかったです。今にも僕の前で土下座をせんとばかりの振る舞いでした。けれど、僕にとってもすっかり過去の話と言いますか、さほど根に持つことではありませんでしたから——子どもの方はまあ知らないですが——その後僕たちは至極冷静に、往時のことを振り返ることができました。最終的には、あの頃を懐かしみ、噛み締めるような気持ちに僕らはなっていました……」
うんうん、と頷きながらミュウは続ける。
「せめてもの罪滅ぼしというF氏のご好意もあって、僕は早くから青年の書簡ですとか、遺された作品などを閲覧することが許されたのです……博士はあれからさほど時が経っていなかったにもかかわらず、まるでこの地方に伝わるウラシマの伝説のように、まあ道理なのかもしれないですが、随分と老いてしまったかのようでしたが、犬正の時代の記憶は鮮明なものでしたから、僕の記述に大いに役立たせていただきました。これらの資料は無論、今の僕が青年の画業を研究する上での基礎資料の一部にもなっているのです」
「ですが、あの手記に書かれた内容はF氏の証言だけではとても描写できないことばかりでしたよね」
「まあまあ、話はここからなんですよ。僕が頼ったのは何も人間ばかりではありませんでしたから」
「人間ばかりではない?」
私はついミュウの言葉を復唱してしまった。
「そうなんですよ!」
ミュウは満足げに頷いて見せる。
「青年の作品とその時代について語るために、僕はポケモンたちの力を借りることができましたから。例えば、格闘大王は鬼籍に入られたとはいえ、エビワラーとサワムラーは健在でしたから、カブトプスとの思い出について色々とお話を伺いました。一度、サワムラーの蹴りがカブトプスの鳩尾に深く入ってひどくえずいた話なんかはなかなか面白かったです。残念ながら『三ツ重之鎌』では省略してしまいましたが」
それに、と人差し指をピッピのように立てながらミュウは話を続けた。
「実を言うと……後でカブトプス自身から話を聞いたわけなんです」
「……カブトプスに?」
私はギョッとしながら、ミュウに訊ねた。
「最後の大震災のくだりは往時の文献を参照にした私の創作ではありますが——ええ、なかなか真に迫ってましたでしょ?——後年偶然にもあのカブトプスと出会ったことは事実です。僕がかの青年についての話をものそうと色々と資料集めをしていた照和の初期にも、怪物騒ぎがありましてね、そこで噂に上っていたのがハナダ郊外の洞窟で、僕としてはまあ近づきたくない場所の一つではあったわけですが、どうしても行かないわけには行かないと思って意を決して向かったら、です」
ミュウは短い指を私の鼻先でピンと立てた。
「まあ状況についてはここでは説明を省きましょう。重要なのは照和の初めにはかのカブトプスはハナダ洞窟に潜んでいたのです。青年の最期から間も無く起こったカントー大震災の混乱に乗じて、カブトプスは誰にも見つからずにそこまで隠れ仰ることができたようでした。そんな彼と僕は幸運にも再会することができたのです……僕は彼と腹を割って話しました。カブトプスは非常にたどたどしくはありましたが、青年との出会いからあの事件の日のことまで僕はこの耳でしかと聞くことができました」
私はハナダの寂れた洞窟の中で、ミュウとカブトプスが静かに往時のことについて語り合っている様子を想像した。しかしその光景にしても、もう80年くらい昔のことだと思うと私は目まいがするのだった。
「僕自身の体験と照らし合わせて、書く内容の大筋はこれで決まったってワケでした。まあ、実際の作業は困難を極めたわけですが。文章を認めるというのも、なるほど立派な知的行為であり芸術の一分野であると思いましたよ。当時の僕は付け焼き刃の知識でどうにかこうにか形にはしましたが、やはり力不足だった感は否めません」
「カブトプスはその後、どうなったのです?」
「そこで別れたきりです。ご存じのとおり、あの洞窟には僕の子どもが住み着いていたというのもあって、気軽に何度も足が向く場所ではありませんでしたからね……」
ミュウはいかにも残念そうに首を振った。
「『三ツ重之鎌』を書き上げた私はどうせならと思って、原稿を某出版社へと送ったのですが、ろくな返事もないまま、それっきりになってしまったのですよね。原稿を突き返すことすらしてこないので、正直僕も腹が立たないと言ったら嘘になるんですが、いくら問い合わせても埒が開かなかったし、それに世相も穏やかならぬ頃合いになってきていましたから、これ以上厄介ごとに巻き込まれるのは勘弁と思い、しばらく最果ての島にこもってミュウとしての暮らしに戻ることにしたのでした」
重力から自由になったミュウはゆっくりと体をねじらせながらぐっと背伸びをし、ふう、と溜息をついた。
「それからまた長い時間が経ちまして。ポケモンとの共存を掲げた自由闊達な時代を迎えてからは、僕もそんな社会の中にまたぞろ出戻って、溶け込み、安穏のうちに暮らして、そうして今に至るわけです。あれからだいぶ長い時が経ってしまいました。僕は今や『ヒロミ』という名前でシンオウ地方で美術を研究する暮らしを送っているわけですが、そんな時に偶然あなたが、あの原稿を見つけ出してくれたわけで、あの当時からずっと僕が密かに念じていた願いが叶ったのは、何度も繰り返しますが、つくづく不思議な因果でした」
そう言って、ミュウは別にそうする必要もないのに、物陰に隠れた。しばらくしてその辺りにほんのりと光が灯り、消えた。茂みの中から何事も無かったかのようにヒロミさんが戻ってきた。
「いやいや……長くなってしまいましたが、これが『三ツ重之鎌』を巡る顛末です。僕としてはこれから本格的に青年の評伝に取り掛かりたいと思っています。いわばリベンジというやつです。さて!」
ヒロミさんはチラッと腕時計に目をやった。
「そろそろパーティの時間ですね。行きましょうか。積もる話はまたの機会に……」
そう言って、ヒロミさんはレントラーのたてがみのような髪の毛をぽりぽりと掻いた。私も頷き、彼の後について圖犬画廊へと向かおうと歩き出したとき、不意にしゆぴん、という音を聞いた気がした。それは木々が風にそよいで擦れあった音だったのかもしれないが、私には判然としなかった。ただ、彼らがいまどこにあろうとも、幸福であって欲しいと心から思うのだった。
後書き
この作品を着想したのは2020年の秋頃のことでしたから、2年近くも悪戦苦闘して完結に至ったということで……。カブトプスと人間(男)とのエログロありのロマンスを大正風の擬古文体で書こうなどと軽い気持ちで考えたのは、同じ頃『はいけいで始まる長いお手紙』で、小学生のような拙い語り口で小説を書いていたり、あるいはマジック・リアリズム風の調子で『首領偉大なる、偉大なれ首領』を書いたように、プロットよりも、それを語る文体が小説を方向づけていたのと傾向としては一緒なのでした。実際、冒頭の1〜3章はほとんど一気に書き上げた(同時期には確かイオルブとアップリューのCP小説——諸事情でwikiには上げていないけど——の合間だったかな)、んですけど!
wikiに公開し連載を始めたのは2021年初頭、ちょうど仮面小説大会も終わったばかりのタイミング、もはや懐かしくなってきます。その時にはここまで長く続けるつもりはなかったんです。せいぜい、3〜4万字程度の長めの短篇で済ますはずでした。それがここまで長引き、かつ書きあぐねたのにはさほど間も空けずに始めた『Farewell, My Child of Nature』と同時進行になったためもあるし、プライベートの環境の変化のためでもあるかもしれないですけど、まあ、ちょっと冒険をし過ぎたというのが一番でした。
エピローグは実質的な後書きでもあり、僕自身の反省でもあります。まあ思うところはあれ、作中のセリフを借りれば「付け焼き刃の知識でどうにかこうにか形にはしましたが、やはり力不足だった感は否めません」といった心境ではあります。ただ、このような読者にも作者にも過酷な話を完走できたことは誉めてやろうか、というところです。あと、カブトプスは僕にとってのダビデです。
とりあえずこれだけ言っておきましょう。さて、次は何を書こうか……
※2023/01/24追記 ブログにて振り返り記事公開しました
読者諸兄の御感想や御指摘は此方にて
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照