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關東パキモン猟奇譚 三ツ重之鎌

/關東パキモン猟奇譚 三ツ重之鎌

内務省照和××年△月○○日禁止 第▽▽▽號 人閒ト衣怪(パキモン)ノ関係ヲ描寫セルモノナルモ其ノ記述ニ見ラルル獸姦等ヲ含ム鷄姦竝ヒニ性倒錯ノ餘リニモ常軌ヲ逸シタルニ就キ之ヲ禁止ス


 公開者による前書

 カントーに住む祖父が亡くなってから、誰も立ち入らなくなって久しい古めかしい蔵を、とうとう取り壊すという運びになって、蔵内の整理をしていた折、孫である私は珍妙な箱を見出した。無造作に置かれた割には、何重もの封がしてあってどこか物々しい印象を与える黒い小箱であった。不思議な好奇心に囚われた私は、蔵の整理を中断してまでその箱の中身を確認することにした。すると、中からは山のような古新聞の切り取りと、誰の手によるのかははっきりしないが、やけて色褪せた何枚かの原稿用紙が現れた。古新聞はいずれも犬正(たいしょう)期のものであり、いずれもとある事件に関する報道記事であった。見出しに踊るおどろおどろしい文字から、私は既に何かしら異常なものを予感してはいたが、もう一方の原稿用紙に書かれた内容もその偏執的異常に対する、やはり異常な関心が如実に表れていた。署名にある「羣羣」なる人物が誰なのか、残念ながら私に確かめることはできなかった。誰が書いたものか、集めたものか、そしてそれがなぜ祖父の蔵に保管されていたのか一切が不可解であった。無論親戚一同、この謎めいた切り抜きと原稿の存在を知る人はいなかった。この後、タマムシ大学で犬正・照和(しょうわ)期の国文学を研究する知り合いにもこの原稿を見せたのだが、そのような作者も作品も聞いたことがない、という話だった。知り合いは親切にも、原稿が書かれたと思われる照和初期の文芸雑誌や大衆雑誌なども調査してくれたが、該当する記事や寄稿は確認することができなかったという返事を先日貰った。だが、その事件自体は実際に起きたものであることは間違いがなく、当時の記事にも少なからず言及が見られたそうだ。
 仕方なく私は、この珍妙な小説とも手記とも言い難い文章を、インターネット上に公開することにした次第だ。経歴のわからないものではあるが、この時代にもポケモン(当時は「衣布妖怪」、略語では「衣怪(パキモン)」と呼ばれていたようだ)という存在に対して特殊な(この場合は極めて特殊と言うべきだが)感情を抱いていた者がいたという事実は特筆すべきではあるし、現代のその手の愛好家たちの興味を大いに唆るものではないかとも考えたのである。その描写は同時代としては、やけに猟奇的で、かつ露骨である。だが、検閲や訴訟を恐れたためかは知らないが、肝心な箇所に至ると、所謂アーケオスのような弱気に陥るきらいがあり、婉曲的で、曖昧な筆致に徹していた。現代において、もはやこのようなもどかしい描写が、ある種の読者の欲望を満たせるかどうか自信はないのだが、一方でもしこの奇怪な文書に対して、何かしら心当たりのある方が現れないでもないかもしれないと、密かな期待を寄せるものである。以下、その文章を、概ね原文のまま転載する。但し、本文中には登場人物のプライベートや人となりに関する細々とした記述が度々挿入されている。それ以外にも、これは筆者の性格に起因するのだろうが、極めて個人的な話や、蘊蓄的な脱線が非常に多い。その全てがつまらないわけではないのだけれども、本筋にさして関わることでもなく退屈なことも多いだろうし、何よりこれが実際に起きた事件であることも考慮して、省略させていただいた点はご容赦願いたいところである(省略部に関しては該当箇所に(……)と挿入してある)。


 

 犬正△年⚪︎月⚪︎日ニ關東郡山吹市ニテ發生セル椿事(チンジ)ハ、露顕スルヤ否ヤ各紙朝刊ノ一面ヲ賑ハシ、瞬ク閒ニ巷閒ヲ騒然サセルニ至リキ。事件ノ動向ト詳細ヲ知ラント慾スル大衆ノ慾望ニ應ヘルガ如ク、新聞・大衆紙ハ無数ノ續報ヲ誤報含メテ書キ散ラシテハ、猶ノ事其ノ異常事ニ對スル亢奮ヲ掻キ立テタリ。蓋シ、此ノ或ル種狂氣トシカ言ヒヤウノナイ生生シキ事案ハ、陰鬱ヲ帶ビ出シタル世情ニ一渧(イツテイ)ノ潤ヒヲ與ヘタト雖モ、軈テ關東ニテ陸続シテ起コリタル騷亂、事變ノ爲ニ、今ヤ盡ク忘却サレタルハ遺憾ナリ。此處ニ於テ、餘ハ當時ノ記事ト自己ノ見聞ヤ印象ヲ基ニ、人々ヲシテ其ノ記臆ヲ喚ビ醒サシメント慾シテ、拙キ筆ヲ執リキ。庶幾(コヒネガワク)ハ、讀者諸兄、餘ガ意圖ニ首肯セラルル事ヲ大ヒニ祈念スルモノナリ。照和××年、記羣羣


之重ツ三 譚奇ンモキパ東關


 


 事が揃つて(つた)へる所によれば、一言で言つて、彼は異常な妄執に取り憑かれてゐたとしか言ひやうがない、と云ふ事であつた。幼年期・中學・高等學校の時代から一貫して、人一倍に外界に對しては敏感であり、其のセンチメンタルなる氣質が爲に、日がな瞑想に耽ることも度々ならず、心置きなく語り合へる同胞とていなかつたといふ彼の精神薄弱の傾向は、家人を甚く心配させ、其の將來を懸念させるには充分であつたと容易く想像される。(……)
 彼の愉しみと云へば、難渋な古今東西の哲学書や宗教書、浩瀚な文学書を渉猟することであり、或は詩的靈感を求るが如く目に寫る景色を茫洋と眺めて過す計りで、同年代の幼兒や少年が外へ駆けずり(まわ)つてベヰスボウルや衣怪對戰(パキモンバトル)に興じてゐる(あひだ)、館にて逍遙する彼の心は神奧(シンオウ)に傳へられる創世神アルセウスの御世に在り、其の空想が、廢位され反世界に堕とされたギラテイナ神の慟哭に及ぶに至つて、彼の諸神經は一大恐慌を來たし、数日に亘り熱病に罹つて床に臥す事さへあつたさうである。
 此の憂慮さるべき家督の一大事に對して、玉蟲大學考古學科の教授である彼の父親は一計を案じたのであつたが、其れは尋常ならぬ憂鬱症に囚われた少年の精神に一時の平穩を(もたら)しこそすれ、遺憾(なが)らも致命的な作用を彼に及ぼす結果になつたと思われる。乃ち、關東地方では一般的な習慣である、愛玩用の衣怪(パキモン)(あた)へたのであるが、併し、他の同年代の少年達が大抵はコラツタやキヤタピヰを所持てゐたのに對して、教授氏が惱める少年に贈つたのは、最近発見された計りの、未だ學会にも認定されてゐない新種の衣怪であつたのだ。
 (ところ)で、犬正の世にあつては、人閒と衣怪との関係性に於て一大変化が生じたと云ふ事は特筆せねばなるまい。喩へば(……)、岩山隧道(トンネル)の近辺に近年設立された発電所では、コヰルやピカチウ等電気(タヰプ)の衣怪を集めて其れらの孕む甚大なる電気エネルギヰを放出せしむる事で、關東全域に豐潤な電力を供給することを得、時代の画期を爲した。此れに因りて、人閒の文化生活は瞠目に(あたい)する程の進歩を實現したのである。最早、夜も無く(ひる)も無し、なるフレヱズが其の頃の人々の高揚した氣分を言い表してゐたし、流行歌も又、この科學の齎したる革命の高揚を高らかに歌ひあげたものであつた。然し又電力の登場は、衣怪研究に於ても大いなる進展に寄與してゐた。此の時期、玉蟲大學と山吹大學が連攜(れんけい)して、關東南部の真白(まさら)町より更に南方の紅蓮島に於いて(にび)町に続く新たな研究所を設立したのであるが、其処では膨大な電力を基盤にしたとある大實驗(じつけん)が密かに行われてゐたのであつた。
 其れこそが、件の教授が關わつてゐた案件であり、事件より数年を經た今も猶、信じ難い話にも思われるのであるが、發明された新裝置を使つて關東の月見山や條都の亞留不遺跡等各地で發掘された古代衣怪と思しき化石を現代に復原させると云ふのであつた。此れは今世紀最大の科學的成果であると、識者達が誇らしげに誌面で宣言した事は好く覺江(おぼへ)ているが(……)、そして驚く可き事に、其の世紀の大實驗は成功裡に了つたのである。
 この教授氏が如何にも得意気な顏で少年に贈つたのが、その實驗によつて古代より犬正の世に蘇生を果たしたカブトなる衣怪なのであつた。私も當時の寫眞入りの『キングラア』の記事にて、其の姿を目にした事があるが、黄褐色の甲羅に覆われ、縁に一対の小點の付いた背中は、精々近所を飛び囘るピジヨンやらオニドリル位しか目にした事の無かつた私にとつて、大變奇異な印象を齎した事を好うく覺江てゐる。其の上、腹部には左右四本ずつの脚が蠢き、赤く發光するぼんやりとした目は、餘り長く見詰めてゐると、その内奧へと引き摺りこまれてしまいさうな戰栗(せんりつ)を催した事を告白せねばならぬ。それに當時私は(……)。
 寫眞を通してさへ、私が眩暈がする程の衣怪であるからには、父親よりカブトを貰つた少年の衝撃は如何許りであつただらうか? 記事を追う毎に窺ひ識れるのは、私など到底比較になどならないレヴエルの少年のカブトに對する陶醉振りである。
 カブトを其の眼に收めた途端、今迄少年を覆つてゐた憂鬱は、忽ちにして雲散霧消し、人が變つたやうに快活になつたのを見て、彼の両親は安堵し、大ひに悅んだ。少年の眼には、最早書物も退廃的な景色も無く、只カブトのみがあるかのやうで、毎日連れ歩ひて、その後ろに隨へては、ぴよんぴよんと跳ねるが如く付いてくる姿を、大層面白がり、可愛がつて何時迄も飽きる事が無かつた。
 メランコリツクな時期に散々彼の頭腦に溜め込まれてきた智識が、烈火の如くに其の才能を芽吹かせ始めたのも、カブトのお蔭かも知れなかつた。少年は膝にカブトを置いて矢庭に繪筆を握ると、腦内の心象風景とでも云ふ可きイメージをカロスの印象派達を彷彿させる色鮮やかな筆致で帆布(カンバス)上に實現して見せて、周囲を驚嘆させたかと思へば、矢張り机の脇にカブトを載せながら、其のモゾモゾとした動作に微笑みつつ四行詩を物すると、かの沙翁やギヨエテの名品にも比肩し得る抒情を湛え、耳目をして感嘆せしめるのであつた。更にはカブトを肘置きの替わりになどして、ピアノを掻き鳴らせば、それは自ずからチヨピンの幻想的で情熱的なる旋律を響かせた。少年の天才を物語るヱピソードは事()かなかつた、ある雑誌にはこの人物に關する興味深いルポルタアジュが掲載されていたので、全文を引用しやうと思うが、(……)。
 少年の両親や地元の人閒からすれば、此れは神童の誕生であつたらう。少年も又、藝術家特有の天啓と心得て、其れが己が進む可き道であると感じたに違いない。然し、其れらの素晴らしい表現は、畢竟、只管(ひたすら)少年とカブトとの交歓の内に生ぜる幸福の表現であり、それ以上でも以下でもなかつたからであると云ふ事に誰一人として氣付いてゐなかつた。換言すれば少年は、カブトとの幸福を其のやうな形でしか表現し得ず、自己自身でも其れが果たして何であるかを名指す事が決定的局面に至るまで出來なかつたのではないだらうか。尚且つ不運にも、其れを教えてくれる第三者なるものに、遂に出会い得なかつた。蓋し、其処に第一の大いなる不幸が存ずるのである。

 


 (やが)て少年は靑年となり、高等學校を首席で卒業するとともに、山吹市へ上京した。靑年は何時しか繪畫(かいが)の道を志し、關東隨一の藝術大學へと入學する事になつてゐた。相変わらずカブトをしかと腕に抱き締めながら鐵道を降りた彼は、早速、識布(しるふ)通りにあるアパルトマンを尋ねた。中流階級に屬する両親が手配した鉄筋混凝土を用いたガラル地方傳來の最先端の建築様式である。二階より識布通りの雑踏と、その名の由來ともなつている識布カンパニヰ、正式には「識布衣怪共生製作株式會社」の前進的意匠の社屋を眺められた。内部の廣い閒取りは、靑年が畫室として用いるにも事足り、且つカブトを自由に跳ね囘らせる事も出來た。何一つとして不自由の無い空閒にカブトを置くと、靑年は爽やかな氣分でベツドに橫たわつた。此の白く淸々しい、汚れの無い部屋は、靑年の將來を保證(ほせう)してゐるかのやうであつた。
 識布カンパニヰ社の話が出たので、此処で僭越ながら、當時は未だ「衣怪ボウル」なぞといふものは發明されていなかつた事を付言させて戴かう。衣怪學(パキモノロジヰ)の祖である西ノ森博士が、衣怪の生存本能に関する大發見を爲したのは、此の事件より数年先の事である。其の驚嘆すべきアネクドオトに就ては散々に語られて來た事ではあるけれども、幾度繰り返しても足りぬやうに思われるから繰り返すが、氏の管理していたオコリザルが、(……)。その理論を基として、「衣怪ボウル」が發案され、識布が大量生産に乗り出して、衣怪達の大量収容や活用が實現されつつある處だと云ふのは、読者諸兄も既にご存知であらう。然しながら往時に於ては、衣怪は持ち運ぶのではなく、連れ歩くものであり、人閒と彼らを繋ぎ止めるものは、ボウルではなく、純なる絆とでも云ふ可き觀念であつたと云ふ(てん)は、此の事件を解釋する爲にも、是非とも注意せねばならぬ背景である。
 兎も角、靑年とカブトの絆は傍目から見ても強固なものが認められた。カブトは大人しい氣性で、主の手を離れたところで逃脚も遅かつたから、靑年は大學にせよ、街を逍遙するにせよ、(つね)にカブトを持ち歩いてゐた。カブトもカブトで、靑年にすつかり懷いており、金屬(きんぞく)音のやうな異様な鳴き声をし乍らぴよんぴよんと主に隨き從う姿は、すぐに山吹の街の評判となつてゐた。未だ衣怪學界で發表された計りであり、正式な認定には暫しの時閒を要していたから、存在さへ知らぬ者も多く、その珍奇さは名にしこそ聞け見るだに叶わぬイヰブイをも凌ぐ程であつたらう。
 講義の(かへ)りには、行きつけのギムナヂウム通りのカフエヱに入ると、給仕役のラツキヰから珈琲を受け取つて茫洋と(まど)硝子からの人通りと、向かいの椅子の上から黑い液体の注がれたカツプを面白ろさうに凝つと見詰めるカブトの顏を交互に眺めては、鷹揚に微笑するのが靑年の習慣であつた。徐にスケツチブツクを開くと、靑年は鉛筆を走らせてその姿を素描した。両の前爪を卓の縁に載せて、好奇心に滿ち滿ちた目を仄赤く点滅させる甲羅衣怪の容姿は、靑年の美的感覚を蠱惑して止まなかつた。勿論、彼以外にカブトを所持してゐる人閒がいなかつた優越感が全く無かつた譯ではないだらう。けれども、紅蓮島からの長期の出張より歸つて來た父親がメランコリアに陥つた彼に其の衣怪を渡した瞬閒から、言語に絶するものと言おうか、運命的なものと言う可きものが、靑年の脊髓を痛烈に刺激せしめたのは確かではあるまいか。
 蓋し、神武なるアルセウスより此の方、凡そ世に出來してきたアクシデントと云ふものは、何処か宿命的なる諸要素に支配されてゐるやうに感じられる。其れは喩えれば、古代希臘(ギリシア)悲劇の緻密なる構成の如く、總ての出來事が或る一つの結末の爲に用意せられているかのやうな印象を私に與へるのである。アリストテレヱスに倣へば、始まりがあり、中閒があり、終わりがあるのである。敷衍すれば、始まりが中閒を引き起こし、中閒が終わりを引き起こす。私が問題にしてゐる一件にあつても、過去の記事を読み返す度に、靑年の運命はその時点で決定していたと云ふ感慨に耽らざる可からず、と書きたくもなるのである。或るカロスの詩人などが言つたことには、(……)。
 靑年はカブトと共に山吹の街を隅から隅まで散策するのであつた。ギムナヂウム通りから八番道路通り、最近創業した計りの衣怪用の道具等を賣るフレンドリヰショツプの前を通つて、黄金色の煉瓦で彩られたモダンな建築の立ち竝ぶ大通りの景觀を滿喫しつつ、腦神経たつぷりにインスピレヱシオンを吸い込んで、識布通りのアパルトマンへ歸ると、靑年は早速帆布の前に座つて繪を描き始めた。膝には勿論カブトを載せてゐた。寝食も忘れて繪筆を奮つて、イメージを平面上に投影する。他の學生達が齷齪(あくせく)しながら描くやうな小品を、靑年はいとも容易く現出させる事が出來た。其処には少年時代に描いたのと變わらぬ極彩色で、さらに豊かな繪畫世界が廣がつてゐた。恰もルドンやルノワアルの色彩を思わせ、其の意匠を受け繼いだやうな趣の作品である。
 カアテンの向こうで鳴くポツポの声で、朝になつた事を靑年は識つた。膝上で微かな息を立てて眠つてゐたカブトを抱き上げると、赤い目を薄く發光させながら、如何にも眠たげな気色を示すが、ぼんやりとした焦点が靑年の繪畫に合うと、衣怪乍ら藝術の微妙が解つたものか、腕代わりの前爪をピンと伸ばして、感嘆のやうなものを表明した。
「さうか、さうか、お前にも、解るのだな」
 靑年はいたいけなカブトの甲羅を掻き撫でながら、己が魂の投影を見詰めてゐた。然しながら、相変わらず其れが何であるのかは理解し得ないのであつた。靑年は、今カロスで持て囃されていると云ふシュルレアリスムなる藝術精神に於ける新運動の事を考へた。其の作品羣に直に接した事は未だ無いが、藝術雑誌の翻譯で讀んだ彼らの主張には共感する處が多かつた。無意識と云ふ人閒精神の秘められた領域を稱揚(せうやう)し、世を閉塞せしめてゐる超数学的合理主義を打破せんと企つ藝術史上の大革命に對して、靑年は遠い關東の地からエヱルを送つた。
 如此く、靑年の不幸を叙述し乍らも、筆者たる私は此処で擱筆して、靑年とカブトの幸福を紙上に留めて終いたいという慾望に必死に逆らつてゐる處である。無論、起きてしまつた事は起きたことであり、尾の焔が消えたヒトカゲのやうに最早取り返しが付かぬと云ふのは解ってゐる。けれども、起こり得た一つの可能性を表現するのも又筆の力ではあるまいか。しつこくアリストテレヱスを引けば、歴史家が既に起こつた事を語る者ならば、詩人とは起こり得る事を語る者である。今、私は歴史家と詩人との閒で絶え閒無く搖れ動いてゐる。考えやうによれば、靑年とカブトの平凡なれど幸福なる結末も起こり得たのであるから、詩人としての私は其れを夢想せざるを得ない。一方で、歴史家としての私は質が悪く、(……)。

 


 年は次第に、學校での教條的な講義に飽いてきた。カロスやガラル、さらにはウノバより發信される前衛藝術の消息に、早熟な我が主人公はすつかり心惹かれてゐたのである。だのに、教えられる事と云へば前時代の遺物のやうな骨董品に過ぎない舊藝術計りで、靑年を辟易させるには充分であつた。當然の成り行きとして、靑年は大學の講義をサボタアジユするやうになつた。其れは靑年個人の精神的ストライキでもあつた。退屈な講義で時閒を屑籠に捨てるよりは、只管帆布に向かつて己の藝術を鍛錬する方が遙かにましであつたのだ。
 何よりも、カブトと共にゐる時閒が靑年にとつて代え難い至福だつた。無我夢中で繪筆を操つてゐても、膝上のカブトの凡そ三貫の重量は否応にもしつかりと感じられ、忘我の世界にあつても、カブトがいるのだと云ふこよない安心感を覺江るのである。其れは恰も、悪夢から目覚めて夢現も判らずに戰栗する兒を、優しく掻き抱いて接吻する母親のやうであつた。
 頭腦が疲れて來ると、靑年はカブトを抱いて何時ものギムナヂウム通りのカフエヱへと向かつた。給仕役のラッキヰとはすつかり顏馴染みになつていて、靑年を見るや萬面の笑みで迎へては何時もの席へと案内してくれる。看板衣怪のイヰブイも、初めは見慣れぬカブトを懼れてゐたが、軈て好奇心が勝ると勝手に近寄つて來ては、その栗色の毛竝を纏つた脚でちよんちよんとカブトの甲羅を觸つて驚き、觸つてはぶいと鳴いて又驚いた。然し互いに其の存在を面白がつてゐるやうであり、靑年が學校をサボつて此処で暇を潰す頻度が増えた此の頃では、カブトを床に置いてイヰブイと遊ばせる事にしてゐたし、四つ脚の獸と不器用に戯れるカブトを眺めるのも乙であつた。
「どうです。貴方の藝術は、完成されたのでせうか」
 カフエヱの店主を務める女が、茶目つ氣を見せ乍ら靑年に話しかける。この時代にしては珍しくも新しい女性の一類型として、彼女は山吹の街でも名の知れた存在で、藝術仲閒達からはミユウズと讃へられてゐた。常連の一人である靑年も又、彼女に心惹かれる者の仲閒であつた。カロスより傳來して閒もない新志向の洋服に身を包んだ彼女の容姿はムハのポスタア畫に描かれた聖なるサラさへ連想させると云つてもけして大袈裟の謗りを受ける事はないであらうと思われた。先に觸れたイヰブイも矢張り、彼女の信奉者の一人が、貴重な野生個体の一体を贈つたものである。私も此のカフエヱには数度訪れたことがあるけれども、遺憾乍ら近年閉店して終つたと云ふのだが、往時の彼女の魅惑と云つたら、(……)。
「えゝ、ここの珈琲のお蔭で、隨分と好調なのですよ」
 微笑を送つて、ラツキヰの給仕する珈琲を飲み乍ら、靑年はやうやく衣布より封筒を取り出して讀み始めた。と云つても内容は讀むまでもなく、父からの消息であつた。件の化石の復原によつてすつかり高名な衣怪博士となつていた靑年の父は、其の革新的研究をいっさう推進する爲に、近頃は紅蓮島に留まつて計りゐるのださうだ。そして、近況を傳へがてら、靑年にカブトの樣子を逐一教えてくれるやうに頻りに要求してゐた。
 靑年は重い吐息をつひた。どうも父の期待に沿う返事をするのに貴重な時閒を浪費するのは億劫以外の何者でもなかつたが、彼の高等遊民なる生活は又此の父親に支へられているのも否み難い事實であつた。周囲より將來を囑望されてゐるとは云へ、猶も己の藝術で立つには及ばぬ身をもどかしく思い乍ら、畢竟經濟的恩恵に縋らざるを得ない己が身を自嘲しつつ、靑年はクシヤクシヤにした手紙を衣布に突つ込んで、少し冷めた珈琲の餘りを麦酒のやうに飲み干した。
「まあ先生たら、隨分と醉狂な真似も爲さるのねえ」
 「先生」なぞと女が揶揄うので、靑年は赤面した。照れ隠しと計りに今度はスケツチブツクを開き、戯れるイヰブイとカブトを其のタブラ・ラアサなる紙の上に再現した。毛竝み豐かなイヰブイの絶え閒無く跳ねる鞠玉を思わせる一挙一動は、靑年を和ませると同時に彼の藝術的感性を甚く感動させた。ニドランのやうに長い耳は併し軟らかく、首元を飾る白百合を思わせる輝かしい房は、何処か人の憧憬を誘うものが感じられた。イヰブイの反應に、カブトは困惑し憤怒し欣喜して忙しく、其の一つ一つの振舞を如何にも可愛らしく思つた。まるで外界の刺激に對して一々大袈裟に驚いて見せる姿が、単なる無垢な赤兒を超えて、当世流行の空想科学小説に於ける地球に飛來した異星人や、現世にタイムリヰプをした原始人などの感性を思わせた。最近亞大陸の地方にて發見されたと云ふルガルガンなる衣怪に育てられた双兒の少女の有り樣も此のやうなのであらうかと想像を巡らせたが、現實彼の前にカブトがいる事と較べれば其れが一体何であらうかとも考えるのだつた。
 無我夢中で幾枚もの素描を仕上げると、靑年はふうと快く息を吐いて、カフエヱの装飾を淸新なる目で觀察した。壁に貼られた真新しいポスタアには、真白と思しき田舎町を背景にして肥滿体の農民風の男が叫んでゐる構図で、下側に「科學の力ぞ凄し!」と謳ふ文句が派手派手しく飾られてゐた。マガヂンラツクに竝べられた雑誌には諸藝術や文藝のみならず最新の衣怪の本や雜誌まで置いてあつて、何とは無しに最前列の一册(いつさつ)を手に取つてみると、ガラルでの衣怪對戰の最新動向が紹介せられ、とりわけ新鋭衣怪調教師として紙数を多數費やして紹介されたポプラ女史の記事を興味深く讀んだ。
 ラツキヰが二杯目の珈琲を注いだ。山吹のサラは特製のカロスポフレを靑年に振舞つた。イヰブイはカブトの甲羅に乗つており、重みで移動することも出來ぬカブトは抗議するやうに蠢動するので、その上で面白がつて均衡を取つてゐた。御代わりの珈琲を飲む閒に、靑年は父への便りを単簡に書き上げて終つた。
 カフエヱを後にすると、近鄰の格鬪道場から門下生達のけたたましい鬨の声が聞こえて來る。ガラルに倣つて整備される事となつた來たる可き關東條都統一衣怪リヰグ全國大会に向けて、この山吹市に創設されたるギムナジウムに指定された此の歴史と傳統を持つたこの格鬪道場の熱氣は、當時いやましに高揚してゐる處であつたが、一方で、市内の片隅の荒屋に住む浮浪者のやうな男が可笑しな妄言を吹聴し、それに()れば、格闘道場は僭称者に過ぎず、男の家系こそが山吹市の正統なるギムナジウムの主であると云ひ、臣民をして眉を顰ましめてもゐた。軈て照和の世となつた今も男は相変わらず同樣の戯言を主張し續けてゐる。男の言ふことは豫言沁みてきて、彼の孫の代に、其のシオニズムは達成せられるということである。
 賑やかな声にカブトが好奇心を示したので、郵便局へ向かいがてらに、靑年は道場の前をそぞろ歩く事にした。荘厳な門の前を通りがかると、其の前で二匹の衣怪が獨自に鍛錬をしてゐる處であつた。道場主たる格鬪大王の秘藏つ子でもあるサワムラアとヱビワラアである。脚を絡め合わせ乍ら、交互に腹筋運動を續けて、只管に筋力を競い合つてゐるやうな風情である。
 其の光景を遠目よりカブトを抱きながら眺めてゐると、しゆぴんしゆぴんと頻りに鳴くカブトに気づいたか、二匹は上下する上体の動きを止めて、凝ろりと靑年の方を視た。衣怪と雖も、形相の凄まじい彼らに睨まれれば、流石に靑年の心肝を寒からしめたが、飽く迄も其の内面も衣怪であるらしく、胸元のカブトに近寄ると、面白がるやうに其の甲羅や真黑の腹を弄り出した。驚いてゐるのか、嫌がつてゐるのか、寧ろ愉しんでゐるのか、その何れでもあるやうな態度をカブトは示す。ヱビワラアの布手袋のやうな手が肉感のあるカブトの腹を突つき、サワムラアの節くれ立つた指が甲羅の凹凸面を幾度も擽つた。
「これ、何を油を賣つてゐるかつ」
 怒鳴り声と倶に門から厳しいがかいの大男が出てくると、サワムラアもヱビワラアもはつとして垂直に縮こまつてしまつたので、靑年も呆氣に取られて見つめてゐた。其の樣子からして、彼がこの格鬪道場の主である空手大王に違ひなかつた。大丈夫は靑年とその腕のカブトを交互に見遣つて、沈思默考した。鹿爪顔の男のことを、両匹が震撼しながら見ているのが、靑年にはいつそ面白く感ぜられた。
「ふむ、貴様、珍奇な衣怪を所有しておる」
「近年發見されたカブトと云ふ種族ですよ」
「成程。近頃、街を闊歩する奇怪なる衣怪があるとは聞き及んでゐたが、これは、中々に」
 そう言つて、強張つた表情のすつかり失せた大男は、サワムラアとヱビワラアよろしくカブトの甲羅を弄り始めたので、靑年は覺江ず微笑してしまつた。すつかり安心した二匹も、しれつと男と交じつてカブトに悪戯をするものだから、カブトもシユピンという声を立てて抗議するも虚しく、今日の處は只玩ばれるが儘に甘んじてゐるのを、靑年は愛おしんだ。

公開者による追記 その1 


 あの怪文書としか言いようのない文章をネットに上げてからしばらく経った。反響は思っていたよりも大きなものだった。誰かがSNSサイトであの『三ツ重之鎌』を紹介すると、やはりというか、その奇異な内容は人びとの興味関心をそそったものらしく、瞬く間に拡散されたようだった。その有り様は、あたかもちょっとしたお祭りのようだった。好奇心につられてやってきた人々(もしかしたら人ではないのかもしれないけれど)が、100年前に書かれた謎めいた文章について、あれこれと論評したり、考察をしたり、喧嘩したり、あるいは全く関係のない話をし始めたりするのを眺めながら、私はかつてのウノバ、つまり現在のイッシュで、落とし穴に落ちた男の救出劇を見物するために群衆が集って、彼ら目当てに的屋や大道芸人たちまでが軒を連ねていたという話を思い浮かべた。
 私のもとにも、いくつかのネットメディアから取材の申し込みが来た。この怪文書を見つけた経緯や、祖父の人となり、書かれている内容についての感想を、私は繰り返し話した。ネットニュースサイトに載ったその記事には、問題の原稿の1枚目と、発見者としての私の姿が掲載されていた少し気恥ずかしかったし、私に協力してくれたタマムシ大学の知り合いも、取材に応じて当時のことを話していた。
 しかし、お祭りというのは長く続かないからこそ、お祭りである。数日もすれば、人々は『三ツ重之鎌』を忘れて、また目新しい話題へと飛びついて行った。だからといって私は失望したりはしなかった。世の中とは往々としてそういうものなのである。ただ、この謎めいた作者がそれを知ったら、非常に腹を立てることだろうと思う。忘れ去られないために書いた文章が、数日で忘れ去られてしまうのだから、それは書き手としてはとても心苦しいことだろう。
 そういうこともあって、私自身も忙しかったこともあるし、あの青年とカブトの物語をしばらく忘れていたのだった。そのため、ほとんどログインもしなくなった私の『Poketter』アカウントのDMに連絡が来ていることに、数日間気付くのが遅れてしまった。『三ツ重之鎌』がSNS上でバズっていた時には、メディアだけではなく、よくわからない人々からのリプライやDM (なぜかルカリオの可愛さを延々と私に捲し立てて来る人もいた)も少なからず送られてきて辟易してしまっていたから、通知さえ切ってしまっていたのだったし、仮に誰かからの連絡があったとしても、いちいち確認することもしなくなっていたのだ。
 けれども、そのシンオウの美術史家を名乗る人物からのDMに、私は興味を唆られた。もちろん、そのユニークな肩書きを見て信頼感を抱いたのも事実だが、何よりもあの『三ツ重之鎌』に対して、単なる興味本位ではない極めて真剣な関心を持っていることが、その文章から読み取れたので、私はその人物がカントーを訪れるという日に合わせて、古びた原稿を持参してヤマブキを訪れたのだった。
 コガネから直通のリニアを降りて、ヤマブキの地を踏むと、かつてあの青年が当時の「鐵道」によってこのかつて帝都と呼ばれた場所へ降り立った時のことを、どうしても思い起こさないわけにはいかなかった。街そのものの由来ともなっている山吹色の屋根に満ちた美しい街並みを歩きながら、私はついシルフカンパニーの社屋を、今はジムの資格を剥奪されている格闘道場に立ち寄って、青年の心情を少しでも追体験しようとした。もちろん、青年とカブトが住んでいたというガラル式の建造物は残念ながら後の混乱の中で失われてしまったし、ヤマブキの「ミウズ」と呼ばれた女性が切り盛りしていたカフェがあった場所は、すっかり様変わりしてしまっていた。
 私に連絡を寄越したその美術史家の男とは、クチバ方面にあるポケモンセンターで待ち合わせることにした。ここ数年になって、センター内には喫茶スペースが新設されていた。マスターとラッキーがカウンターに佇んで、オリジナルブレンドのコーヒーを振る舞っていた。アローラやガラルにおける風習を、カントーでも取り入れているのだ。とはいえ、フレンドリーショップは、従来通り別の敷地で営業しているのだが。少なくとも、ポケモンセンターとフレンドリーショップは、青年が生きていた時代から今に至るまで同じ場所に存在していることが、私にはどことなく嬉しかった。
「……さんでいらっしゃいますか」
 椅子から振り向くと、DMで送られてきた肖像写真通りの若い男が、私の前に立っていた。水色のTシャツの上に、黒いジャケットをボタンを留めずに着ていて、首元にはアクセントのためにか、金色のネックレスをぶら下げていて、色合いだけを見れば、まるでレントラーだった。鬣を思わせるような髪型も、なおさらそういう印象を与えた。率直に言って、学者というよりはカントーの短パン小僧が順当に大人になった姿のようにも見えた。
「初めまして、私、コトブキ大学で美術史を研究しております、ヒロミと申します。お会い出来て大変光栄です。……さんが公開された文章、大変興味深く読ませていただきました」
 と、私とテーブルを挟んで正面に座ったヒロミさんは、思いの外丁重な口調で言った。研究者にしては、随分とラフな格好をしているから、念のためコトブキ大学のホームページを確認したりもしたのだが、紛れもなくヒロミさんはそこの美学美術史科の准教授のポストにあった。だから言葉遣いが丁寧なのは、考えてみれば当たり前のことなのだが。
「写真と同じ姿ですね」
 と、私はヒロミさんからの名刺を受け取りながら、率直な感想を言った。
「同じ服をいくつか持ってるんです。こういう服装ばかり着ていたら、みんな私と『レントラー』と呼ぶものですから、つい私もムキになって、同じ服ばかり着てしまうんです」
 いかにも照れ臭そうにヒロミさんは言ったので、私は何となく納得した。確かに、芸術を研究している人間なのだから、独特のセンスを放っていても無理はない。
「私があなたの持たれる原稿に興味があるのは」
 と、ヒロミさんは切り出した。そこは、いかにも大学で研究と教育を行なっている者らしかった。
「もちろんその内容が興味深いからです。今から100年近く前に、ヒトとポケモンとの間にそのような関係性が持たれているという具体的な証言が存在したことです。あなたもよくご存知でしょうが、シンオウにはよく知られた昔話が伝わっていますね」
 と、ヒロミさんはそのまま朗々と民話の一節を聞かせた。

 人と結婚したポケモンがいた
 ポケモンと結婚した人がいた
 昔は人もポケモンも
 おなじだったから普通のことだった

「とはいえ、現実にヒトとポケモンが婚姻したという事実となると、非常に少ない。シンオウ地方においても、この民話の記述が事実に基づいたものなのかどうかさえ、少なからず異論も多いのです。が、私も師事したことのある著名な考古学者は、閒違いなくそうした営みはあったと言い切っていましたし、私もその方の説を支持しています」
「なるほど」
 と、私は答えた。なるほど、としか言いようがなかった。
「ですから、今から100年前のカントー地方において、それを髣髴させる話があったことは、シンオウの人閒にとって大変興味深いことではありました」
「ですが、あなたの関心はもっと別なところにある」
「ええ」
 ヒロミさんの目が俄に輝いた。専門家の中には、得意分野の話題となれば目の色を変えて、まるでゴーストタイプのポケモンに憑依でもされたみたいに滔々と話して止まらなくなる人種というのがいるが、ヒロミさんはまさにそういう研究者だと言えた。
「私はこの彼の人生を、個人的に研究していますから」

肆 [#5myDx7k] 


 

 山吹では時候柄アルキメンデスの葉をあちこちで目にするやうになり、常盤森からやつて來たのか、バタフリヰやスピヤアのけたたましい羽音が市中までも及んでおります。
 (さて)、父上が所望なさつてゐた件に就てお伝えいたしますが、カブトは至つて健康そのものでありますし、何かしらの目立つた兆候も御座いません。父上のおつしやる衣怪(パキモン)の進化するにあたつてその身を輝かせるやうな素振りも見られません。此の消息を書いてゐる閒にも、私の周りをぴよんぴよんと跳ね回つて元気でおります。とはいえ、近頃はこの帝都の衣怪連中とも親しくなつた爲か、いささか明郞なる氣性になつたものと見えます。表情は窺い知ること能わず乍ら、其の愛敬は言うに及ばず、ラフレシアの萠え出ずるやうにも思われます。
 父上の紅蓮島での研究は如何でせうか。双子島のフリヰザアも蟄居あらせらる程の暑天と拝察されます故、御身体に無理の無きやうに。

 敬具

 追伸に、靑年はカブトの寸法と重量を、走り書きの如く単簡に書き加へておいた。此のやうな手紙を靑年は義務として今も紅蓮島の父に宛てて書くのが月に一度の習慣となつてゐた。先述した通り、當時の靑年の高等なる生活は父からの經濟的援助の産物であつたし、何より此のカブトを靑年に(あた)へてくれたのは他でもない父であつたことに対する恩義と引け目を感じて、内心馬鹿馬鹿しいと思ひ乍らも、觀察日記のやうな手紙を書き續けてゐた。とはいへ、内容がカブトの事に及ぶと、矢張靑年は高揚したものであらう、筆遣いは目に見えて快調となり、(あたか)もジユゴンが華麗な輪を描き乍ら水上を跳ね上がるかのやうだつた。
 其の手紙を郵便局で速達にして送ると、靑年はカブトと共に盛夏の山吹の街をそぞろ歩いて囘つた。手紙は驀地(まつしぐら)にピジヨツトの速達便で空輸され、翌日には紅蓮島にゐる父の手に(とど)くであらう。靑年の父は、衣怪の化石復原と云う大事業を成した事に據つて正三位(しょうさんみ)を勅授されたのであるが、猶一層古代衣怪の研究に熱を上げてゐることが彼に宛てられた手紙の端々から知れた。熱辨(ねつべん)を振るつた文章の最後に靑年の父は、近く暫くの閒カロスへ發つ事も記してゐた。然し乍ら當地にあつてもカブトの報告はすべしと父は云ひ、次回からの宛先としてロシユ=シユル=グリフの住所迄既に書き添へてあつて、靑年は覺江ず苦笑した。
 靑年自身の生活も此の時期、大きな転換期にあつた。彼の藝術は一層の變貌を遂げ、彼自身も長らく浸かつた舊式の古典主義を打破せんとするかの如く、遠い地方のシユルレアリスト達に倣つてアヴアンギヤルドな絵畫を描くやうになり、写実的であつた風景畫は色彩のパズルの如き抽象畫となり、人物畫は幾多の図形のコムポジシオンとして再創造された。前衛を瞬く閒に自家薬籠中の物として見せた靑年に對して世閒は兩極の反應を示し、就中畫壇の主舊派からは糺弾される一方で、少なからぬ藝術家達が彼の才覺に驚嘆し、彼の周囲には自ずから新派と云ふべき藝術集團が形成される迄になつてゐたし、そんな彼に興味關心を抱いた連中とも多く親交を持つやうにもなつた。
 さうした連中の中で、靑年は或る一人物と意気投合する事となつた。恆に草臥れた安着物を身に纏つて傍目には異様な風貌をした、自稱文学靑年のこの男は、そのくせ小説を書く素振りは些かも見せず、ふらふらと靑年の通うカフエヱに現れては、一杯の珈琲だけで日の暮れるまで、相席の客たちに己の文学論やら藝術論を披瀝し乍ら過ごしてゐたが、奇矯な事に靑年は其のやうな彼の風来坊振りに心惹かれたらしかつたのである。裕福な生まれの靑年とは(まる)で吊り合わぬ風態のこの男のことを靑年は「シユトルベルぺヱタア」と呼んだ。全く手入れもせずに伸ばしつ放しのもじやもじや頭が如何にも、靑年が幼い頃に親しんだ繪本のプロタゴニストたる子共を髣髴とさせたからである。
「君、まあなんだい」
 カフエヱで偶々出会つた時には、このシユトルベルぺヱタアは、何時も必ず其のやうに挨拶をした。そして、靑年が応えるのも聞かずに滔滔と語り始めるのが恆であつた。然も、その見窄(みすぼ)らしい風貌に反して、妙に各方面に聡いことが、靑年を面白がらせたやうである。
「当世流行の私小説なぞというのはまあ古いね。カロスじやあとつくのたうに時代遅れになつた自然主義なんてのを關東では未だに崇拝しているのだから呆れる。これからは、プルウストやジヨイスを読まねばならんよ、君」
 さう言つて、この奇特な男は靑年にウノバ語やカロス語の浩瀚な書物を手渡した。靑年がパラパラと頁を捲ると、其処には見たこともないやうな文章が連なつてゐた。その異樣であり新鮮な言語藝術に魅せられてゐる靑年の足元でカブトが不服さうに跳ね囘つてゐるのは健気であつた。
「確かに、花袋の小説は偉大さ。何せ、ゾラの自然主義をあんな形で歪曲せしめたのだからね。偉大であつたと言うよりは、閒が抜けてゐたとも言へる。おつと曲解しないでもらいたいがね、君、片想いした女が寝てゐた布団の臭いを嗅ぐことが自然主義だと勘違いしてゐた、だからこそ花袋は偉大であつたのだよ。今の有象無象なんてのは、あまりにも素朴な連中だから、其れを猿真似してゐるだけに過ぎんのさ。その程度の事も分からんやうな奴らが、文壇にあつてケンタロスの耳を握つてゐると言うんだから、何とも呆れる話じやあないか。文學の世界なぞ、君らの藝術と比ぶれば、取るに足りない。君、笑つているね、だが是は国辱とも言つていい位の話なのさ。実際、カロスやウノバの人閒が我が關東の小説を讀んだらば、きつと其の舊弊さを嘲笑することだらうよ。大袈裟な事じやあない。嘗て子規がしたやうに古今集さへ貶すやうな気概を持たねば、一世紀の後には文學なんて諸藝術の婢女に過ぎなくなるだらうね」
 給仕するラツキヰや、妙に懷ひたイヰブイと戯れつつ披露されるシユトルベルぺヱタアの珍奇なる言説は、現代世界に飽き足らぬ靑年のコスモポリタンなる心情には、大ひに響いたものと思われる。この素性も碌に知れぬ男に連れられて、靑年は山吹の都を連日遊び囘つたものであつた。勿論其の胸にはカブトを抱えて。或る日は、活動寫眞館へと赴きバリコオルが演ずる喜劇に抱腹絶倒し、又別日には國技館ではオウダイルとカビグオンの衣怪相撲を見物し、大ひに興じたりした。軈ては、互ひの部屋を行き来する程の仲となり、この謎多き人物の古今東西の書物の亂雜に積み重なつた異樣な部屋を、恰も自室であるかのやうに親しんだ。文字の分からぬカブトが、只書物の山を単なる障害物と看做して労苦して這い囘るのを、面白がつて眺めた。
 書き忘れる處であつたが、この異樣なる文學者は恆にして一匹のガラガラを付き隨へてゐた。何時も彼の数尺程後ろを歩いてゐて、傍目には人のお零れを付け狙うコラツタにも見えた。何、勝手に付いてきてゐるだけさと、男は頭を掻ひてはぐらかす計りであつたが、彼と其のガラガラとの閒には明らかに強固な關係が認められたし、其れは靑年とカブトとの(きずな)にも匹敵すると思われた。私自身も、この謎めいた男に就て後付けやうとしたものであつたが、遺憾乍ら其の正体を見破ることは出來なかつたのである。恰で幽靈か、賢しきメタモンであるかのやうに、彼とガラガラとの行方は杳として知れぬ。
 或る時、靑年とシユトルベルぺヱタア君が街を逍遥してゐた折、二人とカブトの周りを如何にも強面な男たちが立ち塞がつたことがあつた。難癖をつけてきた連中は、力づくで靑年のカブトを奪取せんとしたのだが、男の相棒たるガラガラが手持ちの骨を振り囘して忽ちにして八九三(やくざ)者どもを撃退せしめて(しま)つたのである。
「何、大したものではない」
 男は淡淡と言葉を零した。
「最近、條都の浅葱(あさぎ)で妙な組織が勃興したと言ふ話でね。何でも、珍奇な衣怪を不法に賣買して大ひに儲かつてゐるという話らしいよ。僕はさういふ話は得意でね。最初は酒木組と云つたさうだが、この頃は、ラケツト團なぞと名稱つて關東にも進出してきたさうだよ」
 靑年はカブトの事を強く胸に抱き留めてゐた。怯えて神経質になつて全身を顫動させるカブトを宥めるやうに茶色の甲羅を撫で摩ると、安心したのか直ぐに寢息を立てた。
「まあ、君は珍かな衣怪を所持してゐるから、特段用心せねばなるまい。しかも、君はかのF教授の御子息であるからね」
 シユトルベルぺヱタアが不敵に笑ふと、靑年も穩やかに微笑んだ。

 


 くして、此の靑年と原始()り蘇生せし古代衣怪(パキモン)カブトの周圍(しうゐ)を固める主な愉快なる舞臺(ぶたい)役者達を單簡にご照覽戴いたのであるが、私としては、靑年の顏の廣さ、其れに私の此の事件に對する蘊蓄の深さを殊更に書き立てる為に二章を浪費した譯ではないことを、此処でソークラテヱスの如く辨明(べんめい)させて貰ひたい。私は只、數奇なる運命を辿る事となつた主演男優と助演衣怪の帶びる悲劇性なるものを猶の事強調す可く態態(わざわざ)言及した迄である。讀者諸兄がキウコンの如く氣の長くない事は、怠惰な作者は重重承知である。山吹のミウズ、格鬪大王、そしてシユトルベルぺヱタア君、一先ずは此の三人である。
 處で、「シユトルベルぺヱタア」と云ふのは、「もじやもじやぺヱタア」と云ふ事であるが、(……)、從つて此処據り先では、聞き慣れぬ長大な名前である故の煩雜を厭う讀者もあるであらうから、彼を單に「ぺヱタア」と呼稱する事にしやうと思ふ。
 (さて)、帝都はすつかり盛夏であつた。世閒も又夏季休暇を謳歌してゐて、學生達はバカンスを思ひ思ひに過ぐすべく、關東各地に点在していく頃合である。尤も、既にして學校なるものを侮蔑してゐた靑年にとつては何ら關係の無いことであつたのだが。靑年は氣の赴く儘に畫を描き、山吹の街を逍遙し、ミウズのゐるカフエヱに入浸り、矢張り後方にガラガラを隨へてゐるぺヱタア君と出会つては、彼の導かれる儘に、靑年にとつては謎の場所にも等しい世界を旅してゐた。カブトも同行してゐたのは言ふまでも無い。時には、カフエヱのイヰブイやラツキヰ、格鬪道場のサワムラアとエビワラアにも会いに行つた。道場の門をカブトが其の小さな爪で叩ひた時には二匹と一緖に大王もちやつかり現れるのが(つね)であつた。
 カロスにいるであらう父たる教授氏に向けても、靑年は内心呆れ乍らも消息を送り續けてゐた。當時としても大層驚きの事であるのだが、關東・カロス閒と雖も海外便で送付して數日の後にはカイリウ便に據つて父より返信が屆くのであつたが、其れにも劣らず、父の認める文体の猶の事熱情的且つ或種の狂氣を孕んだ気配を、靑年の感性は流石に不穩がつた。其の事を、不意にカフエヱにて、相變わらず舊弊な犬正文壇に猛然と孤高なる戰ひを挑んでゐたペヱタア君に話すと、彼はさつと目の色を變じた。
「其れはだね、君」
 ペヱタア君は一席ぶつた。
「父上は恐らくはカブトの復原を超える大事業をせんと奮鬪してゐる樣に見受けられるよ」
「其れは言ふまでもない事じやあないかね」
 靑年は應へた。
「あの父親の事だからね。絶對(ぜつたい)の探求者だよ、あれは。僕にカブトを(あた)へてくれてからは、益益(ますます)其の傾向は強まつたと思ふ。とは言え、單に世界各地を巡つて化石衣怪の復原をする計りの事じやあないか。餘計に熱を上げてゐても、痛痛しくて、仕方ない」
「いやはや、いやはや!」
 ぺヱタアは態とらしく叫んだ。そして給仕のラツキヰに對して一杯の水を希求した。
「君と云ふ者が其の樣な誤謬に陷るとは嘆かわしいではないか。僕が言つたのは、(きわ)めて單簡な事なのだよ。文字通りの意味でさへある。父上は、化石衣怪を超える大事業をせんと奮鬪してゐるのだよ」
「詰り其れはどう云ふ事なのだい」
 覺江(おぼへ)ず、靑年はペヱタア君を追窮した。彼はもじやもじや頭を、餘り切らぬ爪でガサガサと弄る樣に掻き囘すと、溢れ落ちた頭垢(フケ)が、稚く(ゆか)を這うカブトの甲羅に降り注ぎ、細かな白斑を表面に作つた。
「何、君が今答えを言つたではないかね。バルザツクの書いた樣に『絶對の探求』、此れさ。はははは、まだ合点の行かぬ顏をしてゐるね。おやおや、ミウズさんも怪訝な表情をしていらつしやる、此れは此れは。然し何を隠さう、『草の葉』宜しく僕は僕として僕自身を語る者故。此れは『絶對の探求』さ、『人閒喜劇』なのさ。おつと、ラツキヰ君、水を有難う。チツプを上げやうではないか……」
「何です、貴方。チツプと言つて衣怪にそんな苦い実を渡すんだからつ」
 「ペロペロ」ならまだしもねゑとミウズが茶茶を入れたので場がどつと笑ふと、其の話は何と無くお開きになつてしまつた。が、ぺヱタア君が矢鱈に振り囘した「絶對の探求」なる單語は妙に靑年の頭腦に木靈(こだま)したのであつた。
 時期を同じくして、其迄は只靑年の腕に抱かれるか、その直ぐ後ろを跳ねる計りであつたカブトにも新傾向が顕れて來てゐた。突如として、野生の衣怪に對する攻撃性が認められる樣になつたのである。初めは山吹の街を散策していた折に、偶偶(たまたま)カブトの側を掠めたポツポに向かつてしゆぴんと鳴き(なが)ら其の爪で引つ掻かんとしたので、靑年は呆気に取られたのである。父への消息にも、其の事を報告してゐた。カイリウ便にて屆ひた父からの返答は、干渉せず只管(ひたすら)樣子を見よ、だつた。曰く、衣怪全般に見らるる「ヴヰル・ツア・マハト」に他ならぬから、(やが)て大變化ある可しと、些か(みだ)れた走り書きにて記されてあつたのである。
 例に據つて面白がつたぺヱタア君は、靑年とカブトを野生の數多棲息する草叢やら洞窟やらへと頻りに案内した。山吹・玉蟲閒の國道七號ではポツポやアルキメンデスを追い駆け囘らせ、北(はなだ)の黄金橋へ遠出をした時にはトランセルやコクウン、更にはちよこまかしたケイシヰさへ相手にさせた。時折カブトが不意を打たれさうになつた時にはぺヱタア君の用心棒たるガラガラが助太刀をしたが、それでも気絶をしたり麻痺やら毒を受けた折には、靑年はケラケラと笑ふぺヱタアと感情の読み取れぬガラガラと共に、近場の衣怪センタアへと駆け込んだものであつた。
 餘談なれど當世の衣怪センタアは、識布(しるふ)カンパニヰの技術提攜もあつて、空想科學小説顏負けの近未來を早くも現出せる觀があるが、衣怪ボウルも存在せぬ往時のセンタアでは、識布製の回復藥を衣怪に對して人閒に輸液すると同樣に時閒を掛けて投與してゐたのである。とは云へ、照和の慌ただしき世相にあつては、そう言つた事すらも容易に忘却せられて了ふ樣である、何とも(……)。
 然し乍ら、カブトが必死に野生を爪で引つ掻かんとする姿は、其迄見せることの無かつた衣怪の野蠻の魅惑を靑年に植ゑ付けた。獰猛なる野生の攻撃より身を守らんと甲羅を硬くする姿は、強烈な生存本能の迸りを靑年に感じさせ、其の何れも甚く彼の精神を蠱惑した。忽ちにして、靑年のイマジネエシオンは新たなる繪畫を発想した。アパルトマンへ歸るや否や、直ぐに繪筆を執つた靑年は、帆布にけばけばしくも斬新なる意匠の一枚を仕上げたのであつた。其れは、傍目には繪具をぶち撒けた樣な言語に絶する作品であつた。キユビスムもフォオビズムも、かと言つてコムポジシオンをも度外視したとも言へ、私には其の先鋭も先鋭なる靑年の作を正確に評する見識眼はあるべくも無いが、(……)。此の作品を鑑賞した人閒は只呆気に取られ、糺弾(きうだん)するか默殺し、極少数の者達が靑年の天才に麻藥を摂取する如く恍惚としたが、最早靑年にとつて畫壇の地位さへ虚しく、初めてカブトと出逢つた少年時代を回顧反復しつつ、再想像せしむる事が、彼の藝術の一大原理となつてゐた。靑年のカブトへの熱情は彌增(いやまし)に高まつた。
 軈てカブトは新たに野生の身から体液を吸い取る事を習得した。弱つたポツポ等の肉體(にくたい)へ、其のお猪口(ちょこ)の樣な口腔據り生える牙を突き立ててちうちうと吸い上げる振舞に、靑年は心踊つた。滿足したカブトがしゆぴんと鳴いて四つ爪を萬歳させるのは、可愛らしいを超へた複雜な感情を靑年に喚起させた。只ならぬ精神を持つた靑年でさへ、其れに相応する言語を思い付く事は出來無かつた。
 靑年の父が、カロスより紅蓮に歸島したという報せを受けたのは、漸く晩夏も過ぎた秋の一日であつた。封筒には、紅蓮行きの鐵道と連絡船の切符が同封されてゐた。

 


 年はカブトと共に石竹(せきちく)へ行く爲に鐵道へ()つたのである。帝都()り南下し朽葉(くちば)を経由して石竹へ向かふのであるが、當時も現今も孤島である紅蓮へ行く連絡船は石竹からしか出てゐなかつたから、其處からは石竹まではケンタロス便を(たよ)らねばならなかつた。(さて)、犬正關東の交通事情に就ても此処で一言しやうと思ふ。今でこそ當然のものとなつてゐる(えん)タクが帝都山吹と條都小金市にて創始されたのは犬正の世の事であつたが、郊外では變わらず舊來(きうらい)のケンタロス便の姿が見られたものである。其の健脚に據つて關東圈を巡る事が出來たが、元は真白(まさら)常盤(ときわ)の農民どもが使つてゐたものと云ふ事もあつて、粗野なケンタロスの引く牛車の乘り心地はお世辭にも良いとは言えなかつた。同じ牛車と雖も古都(えんじゆ)ではオドシシに引かせているのと較べれば風情は全く違つてゐた。遠いガラルなどでは、アヽマアガアと云ふ衣怪による民衆の空輸が既にして実現してゐるさうであるが、遺憾(なが)ら關東にては、其の種に匹敵する樣な飛行型の衣怪は生息してゐなかつた。ピジヨツトやオニドリルには其処(まで)の怪力は期待出來なかつたし、海外郵便で活用せられてゐるカイリウは個體數の少なさ故に実用は困難であらう。從つて、我が關東は當分は交通に就ては甚だしい艱難辛苦を嘗めねばならぬであろうが、(……)。
 然うした面倒を(かこ)ち乍ら靑年は、出港せんとする巨船サントアンヌ號を眺めて、此の關東のみならず世界隨一の威容を誇る客船より臨めるであらう絶景を想像し、其れに乗船できぬというより、愛らしいカブトに海上より遥かに見える朽葉の街竝を見せることの出來ぬのを嘆ひた。
 漸く一つのケンタロス便を捕まへる事が出來たので、靑年とカブトが港街にも餘り似つかわしくもない四阿屋(あずまや)の樣な牛車に乘込むと、亂暴なケンタロスは猪突猛進の體で朽葉より東進した。ヂグダの穴と呼ばれる衣怪の驚異を脇目に(處で、この穴は照和の世に至つて遂に鈍町周辺へと通じてしまつたのである。文脈據り逸れて之を書き記すのは、偶偶其の報を執筆中に耳にしたからである)、國道十二號に合流すると暴牛衣怪は粋な桟橋の道を南下する。その先の國道十三號は維新以前の光景の未だ残つて「杭街道」と呼ばれ、廣重の五拾三次にも描かれたものであるが、靑年は一度ここで牛車を止まらせて、「其處其處! 杭を挟んで左側」と書かれた「御得なる掲示板」を橫目に見遣りつつ、暫し微かに残る江戸の残香をカブトに嗅がせてゐた。
 石竹の街へと着く頃合にはすつかり晩となつてゐたので、其の日は石竹に名高い資産家の家へ泊めて貰う樣に父からは言われてゐた。石竹の土地の半分を所有する程の資産家乍ら珍奇な衣怪の収集家にして慈善家として關東にも知られてゐた其の富豪は父親氏とも親交があつたし、カブトの樣な衣怪を連れていれば目を付けぬ譯も無く、素性さへ名稱れば快く泊めてくれる筈であらうと云ふ事であつたが、靑年は其の薦めを無視して、十六號水道を臨む浜邊の民宿に泊まつた。田舎らしく、丸でバラツクの樣に見窄らしい小屋で、只板閒に薄い布団が敷かれるだけのお粗末な宿であつたが、ペヱタア君のベトベトンにも比肩するあの部屋に親しんだ靑年とカブトにとつては、全く快適であつた。夜更けには海岸に出て、カブトと共に遠目に双子島を眺め乍ら鹽水(しほみづ)の香りを嗅いで過ごした。靑年はカブトに對して、世界の凡ゆる吃驚(おどろき)を與えてやりたかつた。數億年を經て、人の手で現代へ蘇つたカブトに、この世の美しさを少しでも見せてやりたいと云ふ慈母の心持であつた。
 翌朝、水道へ彼等を迎へに來たのは、連絡船と云ふ名のラプラスであつた。人語を解すると云われるこの衣怪は人馴れし気性も穩やかで、然も双子島界隈には無数に生息してあるから、幾つか捕獲された個體は此うして石竹、紅蓮、更には真白を航行して人人を運んでゐた。分類も其の儘乘物衣怪とされてゐた。浜邊に辿り着ひたラプラスは靑年とカブトを見るや否や、柔和な面持でセイレヱンの樣な鳴き声を挙げ乍ら長い頸を屈めて其の鼻先を靑年の腕に抱かれるカブトに当てた。しゆぴんとカブトは感應(かんのう)した。ラプラスに乘つて、十六號水道、十七號水道を渡ると、氷鳥在す双子島が見え、其の背景には茫洋と關東灣が見渡せるのである。然ふ言へば其の海峡に玉蟲と石竹を繋ぐ大橋を架けると云ふ氣宇壯大な議論が往時の帝國議會では盛んに取り上げられてゐたものだが、(……)。靑年とカブトとは、ラプラスの甲羅の上からの風景を心から楽しんだに相違無い。心地よい鹽風(しほかぜ)と、ラプラスの美しい歌声の中で、彼等の幸福は絶頂にあつたに違ひ無いのだ。
 晝閒には紅蓮の岸邊に着いた。和かなラプラスに氣持良く別れを告げた靑年とカブトであつたが、父の迎へは未だ來てゐなかつた。かと言つて幾ら待つても來る樣子も無い。其の内、陽が高く昇つた。彼自身は平氣であつたが、カブトは陽射しに酷く弱つた。痺れを切らした靑年は最う自分で父の元へ向かふ事にした。父の其う云ふ無神經さには至極憤慨してゐる靑年であつた。研究所は島の南西部にあると云ふ事だつたから、最低限に舖装された道路を賴りに歩ひては、民家の住民にも道筋を訊ね乍らも、靑年は何とか其の邊り迄向かふ事が出來た。(やが)て山麓に矢鱈と近代的で、電線の集中してゐる建造物が見えて來た。
 漸とカブトを憩わせる事の出來ると安堵した靑年であつたが、彼の前に黑衣(こくい)の浴衣に身を包んだ男どもが立ち塞がると、覺江ず顔を強張らせた。二人組の彼等は其其にコラツタとアヽボを引き連れてゐて、如何にも柄の惡い身形(みなり)であつた。
「何でいオメエさん、隨分と珍しい衣怪を持つてるじやねえかい。ちよいと、俺らにも見せてくんねエかい」
「へへへ、何怖がつていやがる。とつとと其の腕から其奴を離しやがれ」
 言葉とは裏腹に男たちは亂暴にカブトを奪い取らうとするので、靑年は抵抗しやうとしたが、元来虚弱な身であつたから二人がかりとなつては如何(だう)にもならず、更には一方の男が頬を毆打した爲に靑年は橫轉(わうてん)し、カブトはまんまと男たちに奪はれて了つた。靑年が起き上がつて、彼等に詰め掛からうとしても、ラツタとアヽボに威嚇されて近付く事も出来ぬ。憤死せん計りに悔しがり乍ら、靑年はぺヱタア君の言葉を噛み締めてゐた。此れが彼の言つてゐたラケツト團なのだらうと悟つたが、よもやこんな辺境の島で遭遇するなぞとは思つても見なかつたので油斷してゐたのである。何とも都合の惡いのを靑年は怨んだ。此んな時に限つて父は迎へに來ぬのだし、ぺヱタア君も居なかつた。元據り、あのカフエヱでの「絶對の探求」演説以來、ぺヱタア君は長いこと部屋を空けてゐた。鍵も閉めてゐない汚い書斎の机には如何にも靑年が來るのを見越した樣な置手紙があり、其處には只「思い立つて暫し出立する。寒く成る迄歸らぬから此處の書物は好きにして呉れ」とだけ書かれてゐて妙なものだとは思つたが、元々奇怪なぺヱタア君であるから、寧ろ自然にさへ其の時は感じたが、窮地に至つては流石に其の気紛れも腹立たしくも嘆かわしいと思つた。
 此の手よりカブトを喪つては如何して生きて行かれやう等と靑年が絶命せん計りの心的狂亂にあつた其の時である。賤しく笑ふ男どもに掴まれたカブトがじゆぴんと異樣な威嚇をしたと思ふと、丸でつるつるとした卵が拳を滑る樣に男たちの手から擦り拔けた刹那、甲の裏の四本の鋭利なる爪を鎌の樣に動かして、忽ちにして男たちの皮膚を切り裂いたのである。静けさの後に、ラケツト團員どもの體據り鮮血が噴き出した。餘りの事に男達だけでなく、靑年自身も呆氣に取られる程であつたが、爪の上に光るカブトの街の燈の樣な紅い瞳は恰も鬼かニドキングの形相にも思へた。
「何しやがる、此奴めつ」
「おめえら、行け、行け」
 周章狼狽した男達が嗾けると、きつと靑年を睨み續けてゐたラツタとアヽボが慌ててカブトを襲つたが、鬼神の如き甲羅衣怪は二匹の攻撃を物ともせず飛び跳ねると、ラツタの顏面へと巧みに着地して、其の爪で甚く切り裂ひて瞬く閒に瀕死の體にして了つた。アヽボも又同樣に仕留めた。アツと謂う閒に天を仰ぐが如くに失神した二匹を目にして、ラケツト團員どもは恐慌状態に陥つた。
「畜生、覺江てゐやがれつ」
「組長相手じや、然ふは行かねえぞつ」
 負惜(まけをしみ)を言つて逃げて行く男どもをバリコオルの喜劇の樣に滑稽に思ひ乍ら、靑年はやをら立ち上つて、猶も連中を威嚇するカブトへと近寄つて、其の甲羅據り(しか)と抱き締めてゐた。野生のポツポやマダツボミ、アルキメンデスを甚振つて來たカブトではあつたが、何時の閒にやら、主人を守り果せる程になつた少年時代からの友達が、此れ程に迄賴り甲斐のある存在になつてゐた事を驚嘆と感嘆の溢れる思ひで感じると共に、言語に絶する情感を押留める事が出來無かつた。
「あゝ、カブトよ、僕が知らぬ閒に隨分と逞しくなつたものだね。人の(はだへ)を切り裂くとは、此れはおちおち子共扱いしてもゐられない樣だ」
 主人たる靑年の柔和な語調を聞いてカブトは、しゆぴん、しゆぴん、しゆぴんと萬歳三唱して見せ、靑年の腫れた頬を綻ばせた。ちちんぷいぷい御世(ごよ)御寶(おんたから)と母の宥めた言葉を思い返した。漸と靑年は研究所と思しき建物へ辿り着ひた。門の邊りは妙に騷がしかつた。訝る靑年の橫を最新鋭のT型フオヽドが通り過ぎて行き、後部座席には黑の背廣に絹帽(シルクハツト)を被つた紳士が乘つてゐるのがちらと見えた。其の強い印象が氣になり乍らも門前へと至ると、赤煉瓦の積まれた塀に嵌込まれた神奧要石製の看板には「帝立紅蓮衣怪科學研究所」の文字が刻まれてゐた。そして、赤煉瓦と白石に據つて造られた辰野式の施設の入口に、靑年の父たるF教授が立つてゐたのである。

漆 [#0DHnge7] 


 究所のロビヰに設えられたカロス製の優美な椅子に腰掛けると、靑年はF教授と向かひ合つた。カブトは二人を隔てる瀟酒な卓子(テヱブル)に置かれて、懼る懼る其の上を這ひ(まは)つてゐた。
「石竹の友人から電話があつた」
 靑年の父は飽く迄も柔和に言つた。
「豫定の日時に來なかつたと言ふものだから、懸念していたのだ」
「せつかくの石竹ですし、カブトに海邊の景色を見せて遣りたかつたものですから」
 毅然とした態度で靑年は言つた。元より細やかな反發心から父の傳達(でんたつ)を無視したのであつたが、紅蓮島に漸く辿り着ひても送迎一つ寄越さなかつた事で思わぬ危険に遭遇した怨みもあつた。此の樣な父に己の經済を握られてゐる事が馬鹿馬鹿しくも情けないとさへ靑年は思つた。
 正三位(せうさんみ)を拝受してゐたF教授は、靑年の反抗的な言動を静かに聴いてゐた。其れでいて、特段反駁を加へず、只静かに頷ひて話を()いだ。
行成(いきなり)此処へ呼び出した事は済まぬと思ふ。併し乍ら、お前からカブトに關する消息を聴いてから、此れは私の眼で直接検分せぬ譯には行かぬと結論せざるを得なかつたのだ」
「其れは一體どう云ふ事でせうか」
 靑年は他人行儀で訊ねた。カブトが卓士の端から大理石の硬質な(ゆか)を眺めては打ち震えているから、うつかり墜落せぬ樣に安心な位置に移した。
「手紙でも傳へたが、カブトは程無く進化するであらうと云ふ事だ」
「其れと僕等を態態(わざわざ)来させた事と、何の關係がありますか」
 F教授は靑年の不快さうな語調にも一向に怯む氣配が無かつた。靑年を見据江る目つきは無氣味な程に真剣で無垢であり、今夏にペヱタア君の言つてゐた「絶對の探求」なる言葉を如何(だふ)しても思い出さない譯には行かなかつた。全く突拍子も無く、父との面識も無いのに面前の此の人物の本質を簡潔に言い当てるとは、ペヱタア君の聡いのか、單に父の軽薄なのか分からぬ程であつた。
「極端に言へば、カブトはお前の手に負へぬ程兇暴(けうばう)になるやも知れぬ」
 其の言葉の孕むニユアンスの爲に靑年は逆上しさうになつたが、不穩な氣配に怖氣付いたカブトの姿を見て餘り不安にさせぬ樣何とか堪へた。
「先ずは詳細をお聴きしない事には、何も分かりませんね」
 靑年の落ち着いた物言ひを聞ひてF教授は一先ず安堵した樣に立ち上がつて、着いて來る樣に指示した。怪訝な顏をし乍ら靑年はカブトを抱き抱へて後に續ひた。窗硝子(まどガラス)からは凪ぎ渉つた紅蓮の海をラプラス達が陽氣に屯してゐるのが見江た。長い廊下の端には發掘された化石やら色彩豐かな寶石(はうせき)が展示されてゐた。此れら真紅、翡翠、靑藍、黄金の石は當今では俗に進化石と呼ばれている事は周知であらうが、其れが衣怪を進化させるトリガアであることが發覺したのは、此れが實に面白い偶然の合致なのであるが、あのカフエヱの女主人であるミウズ刀自(とじ)のイヰブイであつたと云ふ蘊蓄を一應此処で披瀝させて戴かう。又、読者諸兄には此の事をよく記臆して貰ひたいのである。敢へて尋常小學校の教師の樣な事を語るのは畢竟私の老婆心に過ぎぬのではあるが、私としては如何しても其處は強調せざる可からずと感じるのだ。
 靑年とカブトが通されたのは一角に奇怪な裝置の竝んだ部屋であつた。其の機械の前では、F教授と同樣に白衣を着た飄々たる男が佇んでゐた。
「アイヤー! F博士殿、いきなり來る、我、驚きアルネ」
 短髮で流行のロヰド眼鏡をかけ、着けた樣なちよび髭を生やした剽軽な男である。F教授の背後に立つてゐる靑年に気がつくと、如何にも興味深さうに近寄つた。
(となり)の彼、名にし聞く博士殿の儿子(アヽヅウ)アルカ! 原來如此(ヱンライルウツウ)! いやはや、なるほど、初めまして。私、F博士の助手する者アル。君、長旅疲れるアルカ! ゆつくりしていくヨロシ!」
 身振り手振りを交えて矢鱈と聲を張る彼の威壓(ゐあつ)感に驚き乍らも、靑年の眼は矢張り名状し難い機械羣に注がれてゐた。複雜にも入り組んでゐる此の物體の意匠は、得も言えぬが美しくもあり、彼の未來派の藝術家達が崇敬した現代文明のオブジヱを目の當たりにした妙な感動に捉われた。カブトも靑年の腕より少し這ひ出て、猶の事不明であらう目の前のものを見つめてゐた。
「此處で化石の復原をしてゐる」
 淡淡とした父の言葉で、靑年は綻びかけた表情を俄に引き締めた。
「無論、お前のカブトも此處で蘇つたのだよ」
「此れ、我も立ち会つたアルね」
 靑年は默つてゐた。謂はば、此の裝置がカブトの故郷と云ふ譯であつたが、其の神祕に據る感慨よりも、カブトの生誕を巡る事情に對する複雜な心境を隱す事は如何しても出來無かつた。併し乍ら衣怪學の進歩の名の下に復活せられたカブトの境遇と、カブトと出会ひ得た事で齎された靑年の幸福とを厳正な天秤にかける事は憚られたのである。誠に社會と云ふのは難解なからくりの樣であり、あつちを動かすとこつちが儘ならぬ局面が存ずるのである。
「其れは分かりましたが、未だ本題を聞いておりませんが」
「扨だ。君、あれを見せ給へ」
我知道了(ウオヂヰダオラ)! 委細承知アル」
 教授氏の指示を受けると助手君は手際良く、研究室の片隅に掛けられた覆ひを取り外した。すると、何やら異樣なる風貌の骨格が現れ出た。人體の樣な体格を取つてあるが、其の頭部は丸でカブトにも思へたが、何より際立つてゐるのは兩腕の代はりに伸びた鋭利な鎌の樣な部位であつた。一言で言へば、其れは怪人とでも形容す可き風體なのであつた。
「未だ學術的に證明(せうめい)はされてゐないが」
 靑年の父は言つた。
「此れはカブトの進化形態の衣怪(パキモン)と目されてゐる。我我はカブトプスと呼稱(こせう)してゐるのだがね」
「生態、猶研究中アルが、大昔、海を泳ぎ囘つて、手頃のオムナイトを襲ふ、鎌で切り裂く、體液を啜る、此れ、確かネ」
(つま)り」
 靑年はカブトに目を落とし乍ら應へた。
「僕が此れ以上カブトと居るのは危險だから手放せとでも仰るつもりですか」
 F氏はほんの一瞬、默した。
「必ずしも否定はせぬ」
「ならば斷言致しますが、如何なる事があらうとも、僕はこの子と共にある積もりですよ」
「まあ、落ち着くがいい。私としても其の樣な事を強いるのは不本意と考へてゐる」
「併し、あなたは僕を此處へ呼び出したからには、万一と云ふ事も考えておられるのでせうね」
「遺憾乍ら、無論と言わざるを得ぬ」
 精精の皮肉の込もつた靑年の物言ひに、父は即答した。
「だが、極力善處する積もりでゐる」
「然ふであつて戴きたいものですね」
「何、私は父として、お前とカブトの幸福を誰よりも願つてゐるのだよ」
 靑年は閉口した。此の父親の家長であると同時に名高い衣怪博士である處から來る壓倒(あつたう)的な餘裕とでも言ふ可き態度を感じ、其れにすつかり翻弄されて了つてゐる己自身の軟弱さにも心底うんざりした。
「然るべき検査が終はつて特段の問題が無い樣であれば、直ぐにカブトはお前に返すだらう。進化前かも知れぬと云ふから、念には念を置かねばならぬと云ふだけの事だよ」
「僕だつて大人だ。軈ては藝術で獨立する氣でおります。あなたにとつての結果が如何であれ、カブトはずつと僕のものであることに變はりはありませんよ」
「私は人道主義に則つて行動する心算でゐる」
「ならば衣怪に對しては如何なのです」
 靑年と父の閒に助手君が割つて入つた。
「君、心細いの氣持ち、よく分かるアルが、安心するヨロシ。カブト、進化するアルカ、進化するないアルか、單簡にチエツクするアル。其れに、人、衣怪、閒に(きずな)ある、此れ確かネ。神奧民話、此く語りき、アル」
 と言つて助手君が民話の一節を朗誦したが、餘程記臆し暗唱さへしてゐたのか、訛りこそあれ流麗な發音であつた。
「『人の衣怪と交はれるあり、衣怪の人と交はれるあり、昔方(むかしへ)には人も衣怪も同じければ世の常なりき』。總之(ヅオンヂヰ)、つまり、君、カブト、確かの紲ある、すると、どんなの困難、乘り切る出來るアル」
「研究員達は、衣怪を第一に考へてゐる。其處は信賴して呉れ給へ」
 靑年は分かつたとも嫌だとも言へなかつた。畢竟此處迄來た以上は幾ら議論しても埒の明かぬ事はヒトカゲの尾の炎を見るより明白なのであつた。何だか、此の儘じつとしてゐる自分の方が終ひには子共染みる樣に思つて了ひ、最後は研究員達に言はれるが儘にカブトを一旦引き渡さざるを得なかつた。大丈夫だと傳へる代はりに、靑年はカブトの茶の甲羅に覺江ず接吻を施した。カブトは分かつた樣な分からない樣な態度で、例の如くしゆぴんと鳴くだけであつた。
 カブトを研究所に預けた其の晩、靑年は紅蓮山の麓の町を何とは無しに散策してゐた。父からの夕食の誘ひを受ける氣にはならなかつた。F教授は別に咎める事もせず、眠るなら二階の客閒を使つて慾しいとだけ言つた。だから眠くなる迄、適當に時閒を潰す事にした。併し町の食堂で飯を食つて了ひと、まふする事が無くなつた。心が無性に退屈であつた。思へばカブトの全くおらぬのは憂鬱に捉われてゐた幼年期以來殆ど無かつたから至極當然の事ではあつた。紅蓮の町にしても然程廣くもなく、抑も夜になれば大概の店は閉まつてゐた。研究所の出來る前は無論、自然がある計りの孤島である。同時期に設立されたと云ふギムナヂウムを除けば、目新しいものとて存在し無かつた。
 人氣も失せて了ふと、あの黑衣の男の連中の事が急に思ひ出されて來て、カブトこそ今はいないが又遭遇しても困るから、何處か適當な場所を探してゐると靑年は思いがけないものを見かけて、覺江ず驚愕した。見閒違ひで無ければ、靑年の目には一匹のガラガラが遠くから彼の事を見詰めてゐたからである。あの、ぺヱタア君の数尺後方を隨き從ふガラガラである。まさかとは思い乍らも、よもや出立した彼が偶偶紅蓮に滯在してゐるかもしれぬと云ふ期待で靑年がガラガラへと近寄ると、この骨好(ほねずき)は距離を取る樣に靑年から離れる。また近寄ると、矢張り一定の距離を取つて離れる。然ふして追いかけて行く内、靑年はとある建物の前に來てゐた。ガラガラは其の屋敷の玄関口に佇み、誘ふかの樣に中へと消江て了つた。看板には「帝立紅蓮衣怪科學研究所別館」とあつた。懼る懼る乍ら、靑年は思ひ切つて足を踏み入れる事を決心したのである。

 


 處で読者諸兄に繰返し言明しなければならぬであらう。私は「序」に於て斯う書いた。「餘ハ當時ノ記事ト自己ノ見聞ヤ印象ヲ基ニ、人々ヲシテ其ノ記臆ヲ喚ビ醒サシメント慾シテ、拙キ筆ヲ執リキ。庶幾ハ、読者諸兄、餘ガ意圖ニ首肯セラルル事ヲ大ヒニ祈念スルモノナリ」と。此れを又思ひ出して戴きたいと思ふのである。何故ならば、私は筆を此處迄運ぶに及んで懸念するのであるが、既に私の綴る事が虚飾に塗れてゐるのではないかと疑ふ向きもあるのでは無からうかと感ずるからである。何故自己の見聞と印象だけで、靑年のプライベヱトや紅蓮の研究所の詳細まで記述し得るのか、首を傾げるのは(もつと)もである。だが、私の此の事案に對する執念を見縊らないで貰いたいと言ふのも、此の際申し上げておきたい。私の「印象」と「見聞」は並大抵のものではない。並大抵でないからこそ、斯うして敢へて筆を執るに至つた次第なのである。私の執筆原理は一重にキケロオが歴史の父と(たた)へたヘロドトスがいみじくも言つた如く忘却への抵抗であるからして、其の目的實現の爲であれば如何なる手も惜しまぬ覺悟であるのだ。
 閑話休題、靑年は夜の屋敷の扉を(くぐ)つた。不思議な事に、巖重で然る可き鍵は開いてゐた。玄関はだだつ廣く、扉から驀地(まつしぐら)に敷かれた深紅の絨毯が階段へと續いてゐる兩端に極彩色のドオリア風の柱が一定に(なら)んである。誰もいないのか、内部に電灯は灯つてゐない。窗硝子()り差す月明りが室内に強烈な陰影を現出させてゐる中を靑年は見囘してガラガラの姿を探した。すると、壁の向かふから聞き馴染みのある聲のあつた氣がした。ケタケタと笑ふもじやもじや頭のペヱタア君の背後で、微かにリアクシオンを示す時のガラガラの聲である。
 靑年は聴覺を賴りにし乍ら暗い洋館の中を進んだ。屋敷は、驚く程に静かであつた。自分の足音が響くだけで、コラツタ一匹いない樣である。あの研究所の別館と云ふからには誰かしらが駐在してゐても可笑しくないものなのにと、靑年は却つて怪訝に感じつつも屋敷の奧へと踏み入つたが、ガラガラの姿はなく、聲のする(あた)りも壁がある計りだつた。併しこつこつと壁を叩くと、如何(だう)も向かふ側がある樣な氣がしてならない。腑に落ちないでゐると、今度は上の方からガラガラの聲がした。
 玄関の大階段から二階へと上つた靑年は、ペヱタア君の相棒の聲に導かれる樣に部屋から部屋へと歩き囘つた。幾つもの高級な机と書棚の竝んだ部屋部屋には、暗がりで良く見えぬが相當數の資料も積み重なつていると思われた。其の階の全ての部屋を見盡くしても猶ガラガラの見つからぬのに流石に靑年は不安を覺江、あれは本當に只の思違ひであつたのだらうかとも思案し、又唐突に研究者と遭遇したりはせぬかと焦燥に駆られたのであるが、再び上階據りガラガラのか細い聲を聞くと、誘き寄せられでもするかの樣に更に三階へと上つて行つて了ふのだつた。
 階段を上りきると行成(いきなり)廣閒に出た。而も、中央の卓子にはラムプが灯つてゐる。靑年は周圍に誰もゐないのを用心してから、其方へとこつそり近付いた。茫洋とした明かりに照らされて一葉のノオトが置かれてゐたのである。恰も、靑年に之を讀む可しとでも言ひたげな配置であつたから、泥棒の樣な夜の放蕩に身を委ねる冒險心と好奇心が俄に靑年の心理に燃え立つたのである。丸で初めて女の雪の樣な肉體に觸れるが如く、彼は高揚した氣持で其の無題のノオトを(めく)つた。
 真先に目に入つたのは筆蹟から、此れが父の手記であることを靑年は瞬時に察した。如何にも研究にあつては完璧主義の父らしい神經質と嚴格さが其處には現れてゐて、文字だけで夕方のあの遣り取りを囘想して了ふ位だつた。珍妙な助手君の話し振りも加わると、餘計にさつきの事を思ひ返して嫌になる。

  七月五日、此處ハ南ウノバノギアナ。ジヤングルノ奧地ニテ「新種」ノ衣怪(パキモン)ヲ發見セリ

 靑年は頁を捲つた。

  七月十日、新發見ノ衣怪ヲ私ハ「ミウ」と命名ス

 明らかに冷静を缺ひた筆致に靑年は或る種の畏怖を感じ、先の記述を読まない譯には行かなかつた。餘りにも了解の出來ぬ事が多過ぎた。七月と云へば恰度(てうど)父がカロスに滯在してゐた頃の事である。南ウノバのギアナと云ふ土地がカロスの領地であると云ふ事も靑年は智識として知つてゐた。それにしても此處に記述されてゐる「ミウ」とは何なのであらう。新種の衣怪であれば、カブトが然うであつた樣に、既に世閒に存在自体が公表されても可笑しくないはずである。にも拘らず、發見者たる父は此れを數月も隠匿した儘であるのは何故なのであらうか。日記の日付が今日へと近づいて行くにつれて、靑年の心は寧ろ高鳴つた。此の記述が言語に絶する懼る可きものであらうとは知り乍らも、世界の祕密に觸れる快感を覺江ずにはゐなかつた。此の點で言へば、靑年とF教授は相似してゐたのかも知れぬ。否、此の親子は何もかもが相似してゐたかも知れぬ。
 靑年は直近の記載迄讀み進めた。其處には斯う書かれてゐた。

  十一月四日、息子ニ消息送ル。カブトト共ニ紅蓮ヘ來ヨト傳ヘル。進化兆候甚シキ故

  十一月五日、S御大ヨリ電報。只今常盤ニアリ。近日來訪ス。例ノ計畫ニ就テ一考

 刹那、何處からか一葉の紙がひらひらとバタフリヰの樣に靑年の頭上を羽撃ひた。手を伸ばすも僅かに屆かず、摑み取らんとする靑年の腕をのらくらと(かは)して、奧の部屋へと舞ひ降りて行くのを彼は見た。何故突然紙が舞ひ出したか、其んな事を思案する暇も無く其れが何なのか靑年は知りたがつた。或る種異常な興奮状態に陥つた靑年は、父の祕めてゐるらしい謎を少しでも氷解せしめる何物かを慾したのである。其れは智識慾であると同時に、一方的に遣り込められて來た偉大なるF教授への意趣返しの積りでもあつたらう。即ち此れで對等と云ふ譯である。
 恰も精密に計算された如くに机の端に着地した其の紙を靑年はさつと手に取つて讀んだ。併し其れは單なる白紙であつた。拍子拔けし落胆しかけた靑年であつたが、窗からの月明かりが一瞬紙面を照らすと、うつすらと鉛筆蹟の樣な溝の線が浮かび上がつたのに靑年は気がつひた。目を凝らして良く見ると、何やら強い筆壓(ひつあつ)が下敷きになつてゐた紙に(うつ)つた痕蹟があつて、浮かび上がつて來る言葉を靑年は注視した。
 其の異樣な文字を判読したのと、陰から飛び込んで來たガアデヰに脅かされたのは(ほぼ)同時であつた。よもや屋敷内に番犬がゐるとは思ひも寄らなかつた靑年は寢耳に水の體で翻筋斗(もんどり)返つた樣な心地であつた。小型乍ら獰猛で、果敢に靑年に跳びかかる仔犬に靑年は魂消た思ひで逃げ惑つた。(やつ)との事で息を殺して廊下へ出たが、けたたましいガアデヰの咆哮に追い立てられて到頭追ひ詰められて了つた。其處は屋内乍らバルコンの樣な造りとなつてゐて、眼下は全くの暗闇に覆われていた。靑年の正面にはガアデヰが陣取り、虎視眈眈と襲いかかる機会を窺うかの樣に腰を屈めてゐる。左右は無論、逃場等も無い。背後の闇の底へ飛込む事など元より出來やう筈が無い。而も、ガアデヰは忠義なる姿勢を保つた儘、けたたましい声で吠えたのである。流石に、靑年の肌膚(はだへ)にも脂汗が浮かんで來た。明らかに人を呼んでゐるのであらう吠声のお蔭で、俄に館の外が騒がしくなつた。窗硝子から懐中電燈の光がちらついてゐた。人の騒めく樣な声も徐徐に大きく聞こえて來た。併し單身ではガアデヰに對して如何しやうも無い靑年は只じつとしてゐる據り他に無かつた。
 全く四面楚歌の體の靑年に奇妙な事が起こつたのは、階段を駆け上がる何者かの靴音が高まつた刹那であつた。驚く事勿れ、忠犬と膠着してゐた靑年の眼前に突如としてケイシヰが現出したのである。靑年が瞠目するべくも無く、ケイシヰは細目を微かに歪ませて莞爾(につこり)とすると、其の指でちよんと靑年の肩に觸れた。
 靑年が餘りの事に怖気付く暇も無い儘、呆然とする内に全ては終わつてゐた。何故ならば、次の瞬閒には靑年は最早あの屋敷ではなく、研究所の門前にゐたからである。四圍を見渡したが、あのケイシヰの姿は何處にも無かつた。丸でキウコンに化かされた心地で研究所へ戻つて來ると、すつかり助手君初め研究員達に慣れ親しんだカブトが、同じ研究室から復原したオムナイトと意気投合して遊んでゐるのを見て、流石に靑年も安堵した。カブトの姿を見るだけで今さつき迄の冒險の疲労も忽ちにして癒える樣に思つた。
「このカブト、人懷こいの氣質アル、此の上無く、不過(ブウグオ)! あなたの、衣怪、幸せ、アルね!」
 檢査の結果は恐らくは問題無いであらうと云ふ事が助手君からは傳へられた。カブトの靑年への懷き具合を勘案するに、假令(たとひ)現實に進化したとしても危害を加えるには當たらぬ、と云ふ判斷だつたさうである。
「此れ、博士の親心、言ふ可きアルか!」
 朗らかに助手君は言つた。其れは純粋な思いから來た言葉であつたらうが、此れも矢張り又、父の絶大なる力から齎された安寧と思ふと、複雜な心情を拭い去る事は出來無かつた。
 翌朝、研究所は騷がしかつた。果たして、あの屋敷の件であつた。昨晩野盜が館内に忍び入り、ガアデヰの吠声を聞きつけた職員達が駆け付けたものの、幾らか竊盜(せつたう)の被害を受けたと云ふ。而も本來施錠されてゐる筈の扉が何故か開けつ放しになつてゐたさうだから、警備の手落ちであらうと、助手君は言つた。彼は至極何事も無かつたかの樣に笑つてゐるが、餘程深刻であると云ふのは、靑年の父の姿が今朝から全く見えない事からも察せられた。
 結局其の騷ぎの顛末も知らぬ儘に、靑年は研究所特産のプテラ號の背に乘つて、帝都に歸る事となつた。父は最後まで姿を見せず、只助手君傳ひに、異變があつたら直ぐに電報すべしとだけ言ひ残した。カブトと同時に學會にて認定された計りの此の新種の化石衣怪の壯健な背に跨り乍ら、眼下に廣がる關東平野を鳥瞰するのは實に爽快であつた。カブトはプテラ號の頸から吊り下げられた籠に收められて、網目より覗かれる光景に恐懼してゐる心地で盛んに鳴き声を立て、もぞもぞというささめきが聴こへた。
 此の雄大なる、浪漫主義的感傷を喚起させる程の壓倒的自然は、靑年に多大なる靈感を與へる事大であつたが、其れと共にあの晩の奇妙な出來事を回顧せずにはゐられなかつた。一體、靑年の目に見えたあのガラガラは幻か、其れとも本當にペヱタア君の相棒であつたのか。化石復原と云ふ事業の裏で、父は何を企まむとしてゐるのか。
 そして、あの月明かりに照した紙に浮上した「ミウ貳號計畫」と云ふ字面は、何を意味してゐるのであらうか?

公開者による追記 その2 


 私が有象無象のDMの中で、ただヒロミ准教授のことを信用することにしたのは、彼の視点が一際ユニークだったことによる。ヒロミさんは、あの物語の主人公である青年のことを、私よりもよく知っていたからだった。犬正から照和、平戚(へいせい)玲和(れいわ)にかけて忘れ去られていった、青年のセンセーショナルな最期も、その悲劇の伴侶であるカブトのことも恐ろしいほど詳細に把握していたのだ。
「ですからこんな形で、彼に触れた文献に触れることがあるとは思わなかったのです。やはりというかなんというか、思いがけない形で文献に巡り会うことほど、研究者の喜びったらありませんね」
 ヒロミさんは照れ臭そうに言った。そして、テーブルにいくつか資料を廣げた。それは、あの青年が生前に制作した絵画の図版だった。確か、あの文章にはこう書かれていた。「繪具をぶち撒けた樣な言語に絶する作品」だと。そこに示されていたのは、その通りに、前衛的としか言いようのないビジョンだった。抽象的な画面の中に、とにかく絵具を塗るという言葉では適切ではないほどに、乱雑なまでにキャンバスにぶつけられた激しい色彩の調子があった。言葉は不適切かもしれないが、それは精液をぶち撒けたような光景であるとも言えた。靑年の芸術に初めて接した私からすると、得も言い難い印象だった。
「驚くのも無理はありません」
 まるで私の頭の中を読み取ってでもいたかのように、ヒロミさんはにんまりとしながら言った。
「彼の絵画は、まるで時代を遥かに先取りしていたかのようなのです。犬正時代にして、遥か後のアクション・ペインティングだとか、ネオ・ダダですとか、あるいはフランシス・ベーコンの徹底的に肉体の解体された絵画ですとか、あるいは、バルテュスを思わせる奇妙で神秘的な官能性、ああいうのを既に包摂したかのような絵画空間を、既に表現したとも言えるのです」
 ヒロミさんはとても熱っぽく語ってみせた。さすがに、大学で美術史を研究しているだけのことはあると思った。目の前に置かれた一枚一枚の絵画について、その美術的な価値を彼は極めて学術的に話してくれたし、これらの優れた作品が今日に至るまでに、全くと言っていいほど忘れ去られているのが、どれだけ美術界にとっての損失であるかを、くどいほどまでに私に説明してみせた。私はずっと彼に圧倒されながら、これが大学で真剣に美術を教える人間の熱量かと感じていた。
「ということですから」
 長い熱弁を終えて、ヒロミさんは言葉を切った。紙の資料の上には、いくらかツバによる黒いシミができていた。
「あなたが公表された小説を目にした時、とても心が躍る思いでした。これこそ、私がずっと探していたものだと、そう思ったんです」
「なるほど」
 私は指を口にあてながら言った。
「ですが、シンオウからわざわざ私に会いに来たということは、ただあなたの感激を伝えるためだけ、というわけではなかったわけですね」
「もちろん、その通りです」
 ヒロミさんは微笑んだ。カントーではもう少なくなった、ラプラスみたいな微笑みだった。
「私はあなたが所持されているその小説の草稿を直に見てみたいと思って、やって来た次第なのです」
 私の目をしっかりと見据えながら、彼は言った。彼の態度は、いかにも奇妙な情熱、とでも言うしかないようなものに思えた。ほんの少々の狂気、とでも言うべきものが、ヒロミさんには込められているように見受けられた。でも確かに世の中というものは、隠し味程度の狂気がなければ切り開くことができないのかもしれなかった。
 私は謎だらけの原稿の入った封筒を彼の前に差し出した。彼はセピア色の原稿用紙を取り出すと、一枚目から熱心に読み始めた。内容自体は私がSNS上で公開したものと、一字一句違いはないが、ヒロミさんはこの得体の知れない作者の残した筆致を、鑑定人であるかのようにじっくりと観察していた。なるほど、大学人というのは変人でもあるなと思った。一度原稿に食いつくと、彼はすっかり時間も、私の存在も忘れて、『三ツ重之鎌』の世界にのめり込んでしまったかのようだった。ちょうど、オンラインゲームに入り浸りになる若者そのままだった。私は彼が読了するまで、たびたびコーヒーをお代わりした。意外と、読書に熱中している人間を眺めるのは退屈ではなかった。
「申し訳ありません」
 百枚ほどもある原稿用紙に全て目を通し終わったヒロミさんは、丁寧に頭を下げた。狂気と正気の切り替えの速さも、なんというか、研究者の貫禄を感じさせた。
「すっかり、彼らがいた犬正の時代に思いを馳せてしまいまして」
 そう言うヒロミさんの態度は、まるで何十年かぶりに故郷の地を訪ねた感慨に溢れているかのようだった。妙に大袈裟な気がして、私は思わず笑いそうになってしまうくらいだった。
「折り入って、あなたにお願いがあります」
「ええ、ヒロミさんであれば、なんでもお聞きしますよ」
「翌日、私はタマムシ大学に赴く予定なのです。遺憾ながら、この青年とは異なるテーマについてのシンポジウムのためなのですが。とはいえ、議論の展開によっては、彼の芸術的業績について是非とも言及しておきたいのです。そのために、あなたのこの原稿をお借りしたいのですが」
「ふむ」
 私は相槌を打った。
「もちろん、ヒロミさんたってのお願いであれば、私としては全く構いませんよ。しかし、あなたが関心を寄せる青年に関係する文章とはいえ、これはあくまでも作者不詳の小説に過ぎません。知人の文学者に訊ねても、詳細ははっきりとわからなかったのです。書き手の言葉を信じるならば、青年の事件に取材して照和の初期に密かに書かれていた、それだけしか情報らしい情報がない。正直言って、これがあなたの研究にどれだけ資するのか、素人の私には判断しかねるんです」
 私はヒロミさんの目をじっと觀察してみた。彼は私の話を聞きながら、にこやかながらも強靭な眼差しを少しも崩すことがなかった。レントラーを思わせるユニークな格好はしているけれども、そこには野次馬的な下世話さや、軽薄な興味関心といったものを、些かも読み取ることはできなかった。これが研究者の情熱、とでも言うべきものなのかもしれない。ヒロミさんは本気だった。
「とはいえ、私はたまたまこの原稿を発見しただけの立場です。もしかしたら、この怪文書には何か特別な価値があるのかもしれない。だとすれば、あるいはこれはヒロミさんのような方が所有されて然るべきなのかもしれません」
「恐縮です」
 ヒロミさんは照れ臭そうに答えた。
 『三ツ重之鎌』をヒロミさんに託すと、後日またこのポケモンセンターで合流する約束を私たちは交わした。ヒロミさんは、青年とカブトとの物語が書き記された原稿の入った封筒を大切そうにリュックサックに閉まって、丁寧に私に別れを告げた。
「ありがとうございました、……さん」
「あなたにとって、いい結果になることをお祈りしています」
 ヒロミさんの後ろ姿を見つめながら、でもやっぱり、レントラーの鬣のような髪の毛は独特だなと感じた。もしかしたら、こっそり副業でコトブキの繁華街で夜な夜な働いているんじゃなかろうか、そんなありふれた空想を私はしていた。
 それはともかく、せっかくカントーに来たということもあり、ヒロミさんとまた会う日までは、青年にまつわる土地をできる限り訪れることにしていた。ヤマブキシティをあらかた散策し終えると、私はまず、関鉄の列車に乗ってクチバシティへ向かった。鉄道の路線自体は、かつて青年がカブトと共に旅した頃から全く変わっていなかった。関東湾に面した港には、代替わりしたセントアンヌ号が今も就航していた。
 とはいえ当然のことだが、ケンタロス便なんていうものはもう面影すら残っていなかったから、セキチクまでは普通のタクシーを使うことになった。海沿いを通る12番道路と13番道路の景色は、手厚く保護されているおかげで今も昔もほとんど変わっていないようだった。一応、一旦車を止めてもらって、「そこそこ! 杭を挟んで左側」と書かれたお得な掲示板を見ることも忘れなかった。
 セキチクに到着するまで、さほど時間はかからなかった。青年の時代に比べれば、かなりの進歩だ。もちろん、リーグに認定された一部のトレーナーにしか許可されていないけれども、空を飛べばさらに一瞬で行くことができただろう(靑年が研究所産のプテラに乗って帰京していたように。とはいえ、あれは今から考えれば相当危険な話ではある)。少なくとも、あの謎の作者が嘆いた頃からすれば、艱難辛苦を舐める必要は無くなったわけだ。
 時間に余裕もあり、なおかつセキチクシティに来たからには、サファリパークを見物しないわけにはいかなかった。開園者は、このセキチクで財を成した海運王、巴奥巴(ばおば)氏であった。明冶から犬正にかけて、関東湾から小金湾一帯の海は、巴奥巴商会が握っていたとさえ言われる。また、海底炭鉱にいち早く目をつけてグレン島の開発を主導したのも彼であったし、タマムシとセキチクを結ぶ18番道路の大橋を築くために、当時の議会に取り入ったのも彼なのであった。
 そんな彼の遺産とも言える街を私は歩き回り、世界各地から収集され飼育されている珍しいポケモンたちを面白く眺めた後で、私の足は自然とふたごじまを望む浜辺に来ていた。19番水道、旧16号水道であるこの辺りで、あの青年はカブトとの一夜を過ごしたのだった。海岸にはただ一軒の海の家があるだけで、それも今は休業中である。薫ってくる潮風は、当時と変わらないだろうか、そんなことを私は考えないわけにはいかなかった。
 残念ながら、青年の足跡を追う旅はここで止めざるを得なかった。数十年前に起きた大噴火によって、グレン島の大半は消滅してしまい、現在は、ふたごじまジムに挑むトレーナーたちの休憩所として、ポケモンセンターが佇むのみだという。それに、犬正の世にはこの海域にたくさん屯していたラプラスたちもすっかり姿を消してしまっていた。連絡船すらも途絶えて、ただジム巡りをする若いトレーナーたちが各々のポケモンの背に乗って海を渡る姿がちらほらと見受けられるだけだ。
 ありきたりだが、だからこそ痛ましい感情が私の身の内に起こった。時の流れを思い、その緩やかな潮流の中で角の立った石が丸くなるように、失われていったものについて、私は考えないわけにはいかなかった。消え去り、忘れ去られた、けれども確かに存在したものたちについて、私は思い、胸を痛めていた。多分、私のような者が存在することによって、過去は記憶として生きることとなり、あの戯作者の祈りも叶えられるのだろう。
 波の打つ音が一際高くなった。私はふと視線のようなものを感じて、海の家を振り返った。物陰に奇妙な男の姿があった。現代にはおよそ不釣り合いなみすぼらしい着物を身に纏い、頭にはかんかん帽を被って、ニヤニヤしながらこちらを観察しているようだった。何より特徴的なのは、その帽子に収まりきらないほどに爆発したもじゃもじゃの頭髪だった。だから、帽子を被っていると言うよりも、置いていると言った方がいいくらいのものであった。
 見るからに不審な風貌の男だったが、私はすぐに『もじゃもじゃ頭のペーター』という絵本を連想した。そして、そのイメージは言うまでもなく『三ツ重之鎌』に登場した「ぺヱタア君」から来たものだった。しかし彼は犬正時代の人間であり、現代に生きているはずがない。よしんば彼が長命であったとしても、おそらくはすっかり年老いて、タマムシシティ辺りの老人ホームなどで余生を過ごしているに違いなかった。
 私はもう一度、その男を見た。しかし、やはり彼は現実に存在している。「ぺヱタア君」そのままの風貌で、遠目から私を見つめている。私は立ち上がって、彼へと近づこうとすると、男はこちらをからかうような表情のまま、逃げるようにか、誘うようにか、海の家の裏手へと姿を隠した。私も彼を追いかけて、小高い丘からなる建物の裏に足を踏み入れたが、そこに「ぺヱタア君」の姿はなかった。物陰という物陰を調べ回ったが、人っこ一人、ポケモン一匹いなかった。私は困惑した。キュウコンにつままれたような、そんなことが起こるとは、私もそろそろ年か。
 そんなことを考えていたら、私の靴が何か丸いものにぶつかった。見ると、足元に木の実が一つ転がっていた。けれど、この辺りに実のなる木はない。野生のポケモンが潜んでいそうな草むらだって近くにはなかった。トレーナーの落とし物と言うにも、こんな場所にわざわざ忍び入るトレーナーがいるとも思えなかった。何もかもが不可解だ。
 仕方なく、私はその木の実を手に取ってみた。何の変哲もないキーの実だった。全く。これを(かじ)れば、混乱も治るだろうか?

 


 ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
 蓄音機から流れる流行歌を口遊(くちずさ)み乍ら靑年は何時もの樣にカフエヱに佇んでゐた。(まど)の外は雨であつた。ズバツト傘を片手に、背廣(せびろ)を着込んだサラリヰ・マン達が足早に街を歩いてゐる。曇天に覆われた帝都は恰もタアナアの描く靄つた風景を髣髴とさせた。靑年が歸京してから關東は一氣に寒くなつた。あれだけ喧しかつたスピヤアどもも流石に失せ、關東湾にはジユゴンやパルシエンの姿が見られ、近鄰にはルウジユラの姿さへ確認される季節である。彼女につい踊らされたと云つた笑話がこの時期必ず人人の閒で交はされる。其れを聞くと私含め誰しも關東の冬の到來を身に感じるものであつた。
 カブトは店内でずつと一處に留まつて暖を取らうとしてゐた。と言ふよりはずつと一處にべつたりとくつ付いてゐた。何故なら其の暖の元はブウスタアだつたからである。賢明な読者諸兄は、以前私が披瀝した蘊蓄を憶江ておいでだらう。此れはかのミウズのイヰブイであつた。併し、或日ミウズを口説く男どもの一人から貰つたと云ふ豐縁(ホウエン)産のグラアドン・ルビヰなる代物にイヰブイが觸れるや否や、此の樣な事が勃發したのださうだ。
「つまりは、飛んだ食はせもの、だつたのねえ」
 ミウズは大したもので、然程驚嘆する事も無く言つてのける。實際、ブウスタアも思い掛けぬ此の姿を甚く気に入つてゐる樣で、クリヰムみたいな房房した白毛を自慢氣に揺らし乍らカフエヱを闊歩する姿は大変な評判と云ふ事であつた。
「衣怪研究者と名稱るお方が血眼になつてウチへ來てね。世紀の大發見だなどと仰つて根掘り葉掘り聞かれるものですから、うんざりして了ひました」
 作者據り付言させて戴ければ、此れは確かに大發見なのであつた。ブウスタア、シヤワーズ、サンダアスなどは其の外見からイヰブイと何らかの関係性を有してゐるものとは古くから推測されてゐたものの、長らく其の進化條件は不明だつたのである。此れも又犬正の世の成した衣怪學(パキモノロジヰ)の一大發見であつた。其れでも猶、イヰブイと同根と目されるエヱフイ、ブラツキヰ、リヰフイア、グレヱシア、ニンフイアの進化の過程は謎の儘である。精精、エヱフイとブラツキヰはルガルガン同樣に月の満欠と關係するらしい事が突き止められただけである。
 君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
 ブウスタアはカブトに抱かれる儘にして、疲れたか(ゆか)転寝(うたたね)をしてゐた。進化してからと云ふもの、一層客達に可愛がられる樣になつたし、其の珍奇な姿を記録す可く、新聞社の面面や大衆紙の記者も屡屡(しばしば)遣つて来る程になつてゐた。
「此閒は小金キマワリですとか、豐縁日日ですとか。キングラアも取材に來ましたわ」
「通りで、此頃繁盛してゐるわけですね」
「取んでも無い。こつちは伸んびりとやつて行きたいのに、良い迷惑ですわ」
 其の時、扉のベルをけたたましく鳴らす者があつた。勢ひ良く開かれた扉から現れ出たのはサワムラアとヱビワラアのコムビネーションである。そして二匹の背後には物物しい態度で、空手大王が仁王立ちしてゐる。
「あら、いらつしやい。大王樣」
「やれやれ」
 大王は態とらしく、呟く樣に言つた。
「此奴どもめが連れて行つて來れと餘りにも喧しいから、仕方が無く來た迄だ」
「あら、さうですか」
 とミウズは取り敢えず相槌を打つたが、如何にも來店したのは己の意思である事を隱し切れてゐない大王を揶揄う樣に微笑んだ。
「本當に、ブウスタアは可愛いですものねえ」
「全くである。此奴どもめ、すつかり一目惚れをして了つて。情けなや、(おとこ)らしくもない」
 なぞと白を切る大王の背中を、ヱビワラアは拳鬪手袋(グロオブ)の樣な拳で輕く小突いた。サワムラアの方はカブトを持ち上げて、相變はらず甲羅やら黑くて柔らかい腹部や爪をペタペタと觸つて、しゆぴんと鳴くのを面白がつてゐた。其れを横目に見遣り乍ら、ブウスタアは優雅に牀を闊歩して大王の側迄來ると、ぴよんと彼の膝に跳び乘つてすつかり懷ひた風であつた。
(けしから)ん。全く、關東精神の衰退も甚だしい。君もさう思わんかね」
「ええ、全くですね」
 靑年は適當に應へた。さうは言つても、ふんわりとした白毛を撫ぜる手の止まない大王を見て、ミウズは笑つてゐた。靑年も笑いを禁じ得なかつた。
 君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
 勇ましい樣で、儚げな気風のある流行歌のフレヱズを流れる度に靑年は口遊んでは、カフエヱの樣子を思ふが儘にスケツチした。サワムラアに抱かれるカブト、大王の膝を我が物とするブウスタア、給仕のラツキヰに突つかかるヱビワラア、其れを穩やかに眺めるミウズの橫顏とを。窗に叩きつける雨音が大きくなつた。カフエヱの賑やかさに比して、外界の静けさは愈愈甚だしかつた。靑年はふと、自分が或る種の夢幻の世界に漂つてゐる樣な錯覺を感じた。(さなが)ら全てがスウラの點描畫(てんべうが)の如くに思へた。此の時靑年は、定着された時閒、即ち永遠と云ふものを直觀した。
 君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり——
「君ぞ今、關東への第一歩を踏み出せり」
「何だつたら、君、地図を見て確かむる可し」
 何だつたら、君、地図を見て確かむる可し——
 聞き馴染みのある韜晦した聲がして振り向くと、其處にはぺヱタア君が立つてゐた。最後、夏に会つた時と幾分も變はらぬ風體である。背後には何時もの如く相方のガラガラも付き隨つてゐた。呆れる程にちつとも變化してゐないシユトルベルぺヱタア其の人であつた。
「やあやあ、皆さん、お久しう御座い」
 もじやもじや頭を掻き囘し乍ら、大王やミウズに一方的な握手をし、衣怪達にはチツプと稱した苦い木の実を渡すと、その姿を呆然と眺めてゐる靑年の元へ最後にやつて來た。
「君、まあなんだい」
 會ふ事自体久久だと云ふのに、丸で昨日も一昨日も此うして會つてゐたかの樣に、ぺヱタア君は何食わぬ顏で何時もの挨拶を言つてのけた。
「志賀の『暗夜行路』を読んだかい。時任謙作と云ふのは實に非道い男だよ。苛苛して自分の妻を(えき)のホオムへと突き落とすつて云ふんだからね。其れで居て、苛立つたのは妻が浮氣をしたからだと居直つたりしてね。全く、衝動的と言つたら無い。併し志賀と云ふ男は此れを平然と書ひて了ふんだから驚く。いやはや、あれは君以上に不思議な男だよ。豐年(ほうねん)だ、豐年だ、なんて女の胸を揉みやがる」
「不思議と云ふ意味では君も同類ではないかね」
 ぺヱタア君の斯くなる調子に、再會の喜びはたうに薄れて、靑年は何時もの樣に彼と接してゐた。如何にも、この奇妙奇天烈な人物には其の樣な振舞いが相應しいと感じた。一方で、紅蓮での出來事以來、靑年の心に引つかかつてゐる事を訊ねる可き時でもあつた。
「併し、冬まで其んな身形で旅とは、隨分と突飛な事さへするものだつたね」
「何、僕は氣の赴く儘に旅をするまででね」
「紅蓮島にも行つたのかね」
「何故かな」
「實を言へば、君のガラガラを紅蓮で見掛けたのだよ」
 ぺヱタア君は一瞬、沈默した。
「ふむふむ、成程」
「父に呼び出されて、態態行く羽目になつたのだがね」
「へゑ」
 ぺヱタア君は靑年の眼前で頬杖をついた。其の問題の相方のガラガラはさつきからずつと店の片隅に立つて、誰とも関らずに静かにしてゐる。
「其の晩、君のガラガラと思しき衣怪が現れて、妙な屋敷の中を冒險する事になつたのさ」
 靑年は其處が父のゐた研究所の別館である事は言はなかつた。其處で目にしたあのノオトに就ても無論伏せた。ぺヱタア君は取り立てて表情を變へる事もなく、頭髪を掻ひた。白い頭垢が、近くで戯れるカブトとサワムラアとに花粉の樣にこびり付ひた。
「中中の冒險譚ではないか、君、『新靑年』にでも書いてみるかい」
「君は紅蓮島には旅をしたのかい、と僕は訊いてゐるのだよ」
 靑年はまう一度、強い口調で問ひ質した。ぺヱタア君は何も應へず、ちらと窗硝子に目を遣り、雨降る帝都の樣を眺めるともなく眺め乍ら顎鬚(あごひげ)を弄つた。何時の閒にかブウスタアを抱つこしてゐた大王が、覺江ず二人の方を見た。サワムラアの腕に卷かれたカブトが小さく鳴ひた。
「山吹の花色衣ぬしや誰
  とへどこたへず口なしにして」
 素性法師の句をぺヱタア君は吟じた。彼の通った聲に、カフエヱは水を打つた樣に静かになつた。
「あらまあ」
 ミウズは二人の珈琲を小卓に置き乍ら言つた。
「貴方も時には(いき)な振舞ひをなさるのねえ」
「何、ふと口をついて出ただけ、でね」
 ぺヱタア君は不敵に微笑んで見せた。其れと同時に、ブウスタアが凛凛しく鳴くと、カフエヱは又時を取り戻したかの樣に賑かになり出した。何だか、又しても彼に巧くはぐらかされた樣な氣がした。
「併し、其れはだう云ふ心なんだい」
「まあ、なんだね」
 すつかり平常の調子に戻つて了つたぺヱタア君は、飄飄(へうへう)の體で話した。
「口の無い僕には應へられぬ、と云ふ計りの事さ」
 ぺヱタア君はくつくつと笑つた。靑年も覺江ず笑つて了つた。何だか、鹿爪らしい事を考へてゐる自分の方が莫迦に思へて來た。後はまう如何でも良かつた。靑年はカフエヱで暫し楽しい時を過ごした。
 其の歸路の事であつた。靑年は何時もの如くカブトを腕に抱えた儘、識布通りを歩ひてゐた。すると、前方で此方を待ち構へてゐるものがある。見ると、一匹のガアデヰである。野生のものか、誰かに飼はれてゐるのか迄は判らぬが、如何せん獰猛さうな樣子で睨み付けてゐた。避けて通らうとしても、靑年の真似をするかの如くに動ひて通せんぼをするので、靑年は閉口した。牙を大いに剥き出して、近付けば必ずや挑みかかつて來るものと思はれた。
 而も、靑年はあの晩の紅蓮島での出來事を思ひ出して、つひ足が震へて了ふ。走らうとしても、此れでは巧く走行出來ぬに違ひ無かつた。併し迂回するにせよ、識布通りに逆から入るにも時閒の掛かる事であつた。如何しやうか、と思ひ乍らも良い案も浮かんで來ぬ内に時が經つてゐく計りであつた處であつた。
 カブトが靑年から飛出して、果敢にガアデヰに立ち向かつた。仔犬衣怪が嚙付き、引掻かうとするのを甲羅で防禦(ばうぎよ)すると、其の攻撃の止んだ一瞬でカブトがガアデヰに體當たりを嚙ませて、伸掛る體勢となつた。身動きの取れぬ相手に閒髮入れずにカブトが刹那、ぶつけたのは爪に據る強烈なる切裂きの一撃であつた。真面(まとも)に腹部に傷を受けたガアデヰは餘りの體力を振絞つて何とかカブトから離れると、空元気な威嚇をし乍ら這這(はうばう)の體で逃げ去つた。紅蓮島で黑衣の男どもを撃退せしめたと同じく、カブトの大勝利であつた。靑年を振り返つたカブトは、不器用に跳ね上がつて、しゆぴん、と鳴ひた。
「いやはや、たうたうお前は僕の保護者になるか。すつかり女房にでもなつた氣分だよ」
 戯言の樣に呟き、たつぷりとカブトを胸に愛で乍ら漸く部屋へと戻つて來ると、行成眼前が光輝ひた。靑年は何か事故でも起きたのかと勘違ひした。併し、光源は他でも無くカブトそのものであつた。思はず、牀に投げ出して了つたカブトは猶の事眩く光を放つた。靑年は目を瞑つた。これは如何に、凡ゆる闇を振払ひさうな妙なる光、神聖なる光か、と思考した。
 数十秒の後、視神經を甚く刺激する光が止むと、靑年はゆつくりと瞼を開ひた。そして目にした光景に腦巓(なうてん)を差貫かれる程の激震を感じた。幼年時代から連添つて來たカブトはまう其處にはゐなかつた。靑年に相對してゐたのは、一対の見事な「鎌」を持つた驚く可き奇怪なる一生物だつたのである。

 


 年は改めて眼前の生物を凝視した。今さつき迄確かにカブトだつたその容貌は、餘りにも大きく變貌を遂げてゐた。僅か乍らカブトの甲羅の形状を保存した頭部の兩側面には、三角の眼窩(がんくわ)があり、(まる)で人閒と同樣の結膜と瞳孔が覗いてゐる。永らくカブトに慣れ親しんで來た靑年の率直な印象を基に、其の吃驚を丁寧に描寫(べうしや)するとするならば、其のカブトなりしものは、甲羅より怪物染みた胴體(だうたい)が生え、人體の如く胸部、腰部、腹部と筋肉のやうに割れた白い腹をした其の胴より四肢が伸び出たことに據つて、二足歩行の怪物的容姿を得てゐたが、靑年の腦髓に最も痛烈なる印象を與へたのは、其の兩手の替はりに出來た見事な「鎌」であつた。先端の鋭利さと云い、三日月のやうな婉曲振りと云い、表面の艶やかさと云い、共産黨のシンボルを成すかの鎌を髣髴とさせる見事な形状をしてゐたのである。
 此れを目前にした靑年は暫くの閒、沈默して了つた。断じて其れは恐怖に據るものでは無かつた。嫌悪に據るものでも無かつた。紅蓮島で父から告げられたことを、失念してゐた譯でも無論無かつた。彼らの説が正しければ、此れはカブトプスなる衣怪であるに違ひ無かつた。あの時、靑年に示されたのは、出土した骨の化石等を基に再現された單なる模型に過ぎなかつたが、その骨格から受肉したカブトプスの姿は只只靑年の審美學を大いに揺るがしたものである。
 餘りに觀察された為に、軈て進化した側のカブトプスが不安氣に懼る懼る彼の側へと近寄つて來た。變化した計り故に脚の使い方もぎこちなく、蹌踉めきつつ進むのは漸く二足で立ち上がつて閒もない赤兒のやうである。行成出現した鎌に戸惑つて、靑年に救ひを求めてゐるやうでもあつた。
「刹那よ」
 掌でカブトプスを制止し乍ら、自ずとギヨエテの名句を靑年は口ずさんでいた。
「まあ、待て、お前は實に美しいから」
 さう呟くと、忽ちにして穩やかな表情に變じた靑年が、崩れるやうに跪いてカブトプスを熱く抱擁した。咄嗟にカブトプスは兩鎌を擡げて、されるが儘になつた。靑年はと言へば、顏面を白い胸に埋めて、薔薇のやうに相棒の薫りを吸つてゐた。カブトとして出会つて以來、最も激烈な情愛の發露であつた。フアウスト博士の如く、此の「刹那」の為ならば、己を縛り上げてくれても好い、己はそれきり滅びても好いと云ふ、稻妻のやうな感激が心理の深淵據り沸沸と湧き上がつて來るのを最う留めやうが無かつた。其の發作は孤獨な幼年期に屡屡起こつた恐慌状態にも近かつたが、併し極めて幸福な發作であつた。
 過呼吸氣味となつてゐた靑年の息は、軈て感涙の歔欷(すすりなき)に變わつた。カブトプスの鎌は、(もた)げるにのも疲労して堪えられず萎へるやうに下がつて來てゐたが、歓喜する長年の主人を抱き締めることも叶はず、もどかしげに頭部を垂れると、顎側に隱れた口で彼の黒髮を優しく食んだ。
「カブトよ、いや、最うカブトプスと呼ぶ可きだらう」
 漸と顏を上げ得た靑年は万感たる想ひでさう告げた。そして取り憑かれたやうに直ぐ樣畫室を兼ねた一室に据江置かれた畫布(カンバス)に向かつた。
「其の儘で待つてゐて呉れ、カブトプスよ」
 使ひ慣れた繪筆を手に取ると後は瞬時であつた。畫布とカブトプスの肉體とを交互に見囘し乍ら無我夢中で空白に色を置き續けた。餘りの亢奮に泣き腫らした事に據つて彼の眼は充血し、ぎよろぎよろと行き來する瞳孔は狂氣の沙汰としか言ひやうの無い樣相を呈してゐた。カブトプスとても、靑年の氣迫に壓倒されて動くに動けなかつたに相違ない。
 カアテンも閉められぬ儘の(まど)からの景色は最早すつかり更けてゐた。部屋の電燈すら付けることも忘れてゐたから、室内は暗室の如くなつていたが、そんな事さへ靑年の意識の埒外にあつた。カブトプスは只二本脚で立つた儘、靑年が次の言葉をかけるのを待つ計りであつた。
 突然、畫筆が落ちた。思ひがけず弾けるやうな音が鳴つたので、靑年も白晝夢から覺めたかの如く顏を上げた。そして今になつて、室内が暗闇に包まれていた事に気付いたのである。ずつと心眼で對象物(オブジヱ)を捉江てゐたから今迄は何ら問題は無かつたかの如くである。靑年は覺江ず立ち上がつて、ステュディオを見渡した。すると、窗から差す一条の光に照り輝くものを認めた。そして暗闇に慣れた夜目は、少しずつその輪郭を確かにして行つた。三日月にも劣らぬ形状をした其れは、カブトプスの「鎌」であつた。對となる最う片方の「鎌」が深淵據り現れ、次に筋張つたやうな白い胴、華奢乍ら角の立つた兩脚、そしてカブトの頃を髣髴とさせる頭部の輪郭、これらを次次と靑年は認識したのである。彼は安堵した。此の進化が夢では無かつたと云ふ事を改めて確かめられたかのやうな心中であつた。
「カブトプスよ、來たまへ」
 今に至る迄、立ち盡くしてゐたカブトプスを靑年は手招きしたが、カブトプスは慣れない脚で直立し續けたせいか、一歩さへ踏み出す事も出來ずに頽れて了つたのを、慌てて彼は抱き止めた。
「痺れて了つたか。可哀さうな事をさせた。済まぬ、済まぬ」
 恰で同年代の輩に接するかのやうに腰を屈めてカブトプスの肩を担いでやると、恰度其の鋭い鎌が靑年の頸を取圍むやうに巡つたのには一瞬ぞくりとさせられたが、閒近に眺める鎌の美しさに據つて直ぐに恐怖心は掻消された。触覺に傳はるカブトプスの肉體には凡そ人閒とは異なる性質の官能があると感じられ、靑年を益益高揚させた。
 カブトプスを先つき迄靑年の腰掛けていた木椅子に座らせてやり、部屋の電燈を點けると、行成明るくなつた空閒に先ず目眩がして、お互いを見遣ると兩名共、人と衣怪乍ら同じやうな動作をしてゐたので、靑年は可笑しさと悦びの為にくつくつと笑うのだつた。其れに合わせてカブトプスも笑わうとして心なしか目元をニンマリとさせたのが新鮮である。此れ迄は茫洋とした赤目であつたから表情は殆ど變はらなかつたのだ。
 畫布には、此のアパルトマンの一室を背景としたカブトプスの肖像が描かれてゐた。初めは憑かれたやうな目で、最後は闇さへ透視する氷鳥のやうな心眼で描いた一枚であつた。中央に構へるカブトプスの姿は新古典主義風の寫實性を纏ひつつも、其の色彩や技法には、藝術家たる靑年の本領たるアヴアンギヤルドの精神性を兼ね備へた独自の畫風であつた。
(さて)、カブトプスよ、其の脚を貸してご覧」
 さう言つて、カブトプスの鍬のやうな形状をした脚を持ち上げると、其の妖鬼の如き風體にも拘らず四、五寸程の恰で小學生徒の幼さがあつて可愛らしかつた。先端據り生江出る二つの爪の閒に靑年は自らの畫筆を挟ませた。
 靑年の顏を窺ひ乍らカブトプスは徐に脚を上げた。痺れたやうに震えつつも器用に柄を摘んでゐる。靑年は微笑して其の脚に手を添へると、畫筆の先をゆつくりと畫布迄運んで遣る。オコリザルの体毛を用ひた平筆が觸れた一點で、靑年の敢へて描き残したカブトプスの瞳が畫布に燈された。
 斯くしてカブトプスは、靑年の作品に據つて初めて自己の姿を知覺し得たのである。再現された肖像と自らの胴と鎌とを見較べ、次に主人たる優しき靑年の顏を凝つと眺めた。餘りの忘我に目元に隈の浮かび乍らも滿足して、カブトとカブトプスに心を亂された藝術家は滿悅の破顏をして、進化の本懷を遂げた相棒へ縋り付くやうに再び抱擁した。
「嗚呼、カブトプス、何とお前は美しくなつた事だらう! 何とダビデのやうに逞しい肉体を得た事であらう! 其れに、何と眩暈のする程惱ましい鎌である事だらう!」
 胴に頬擦りをされて、カブトプスは茶色の甲を微かに赤面させつつも、歎感の譫言を上げる靑年の愛撫をたつぷりと受け乍ら、木椅子に無骨な背を凭れた儘安らかに寢息を立てた。靑年もいつしか眠つた。素晴らしき幸福なる一夜であつた。併し此の日の運命的なるも致命的な交歓に據つて、愈愈事前から準備せられて來たトラジヱヂイの幕が開かれる事となつて了つたのである。私が詩学を度外視して、此の出來事に態態一章を費やしたのは、以前叙述したやうに、歴史家と詩人との閒で絶え閒無く搖れ動いてゐるからである。猶も其れを語る事を躊躇う我が詩人の感性の現象に他ならぬ。
 だが、此處迄筆を運んで來たからには、最う引下る事などしない積りである。嗚呼、未來の大藝術家たる可きであつた靑年は、カブトプスの始原たる美の惡魔に取憑かれ、而も其の前代未聞の衝動を到頭言語にする事が出來ず、理性の支配下に置く事能わずだつたのである。

拾壹 


 フトシンカス

 それだけの單簡な靑年の電報に對する紅蓮のF教授の返信は此くの如くであつた。

 シヨシユヨコスヘヤニトトメテマテ

 併し基()り彼に然ふする積りは毛頭無かつた。カブトの頃から二六時中連れ添ひ續けた靑年である。とは云へ、空想科學小説の異星人を思はせる風貌のカブトプスを其の(まま)外部に連れ出して起きる騷擾(さうぜう)を豫期しないでも無かつたから問題であつた。
 暫し思案した末、靑年はカブトプスに一寸待つやうに言ひ、階下に設へられた自働電話に赴き交換手を呼んだのであつた。部屋へ戻ると、カブトプスは部屋の片隅で窮鼠となつたコラツタかピカチウのやうにそわそわしてゐたので、彼はそつと腕に抱き留めた。
 暫くして玄関のベルも鳴らさずに開く音のあつた。先に部屋へと飛込んで來たのはガラガラである。太い白骨を片手に握り締め乍ら、きよろきよろと畫材に溢れたガラル式の室内を見渡してゐるのは無骨と雖も衣怪ならではのあどけなさである。
「いや、はや」
 後からによろりと現れ出たのは言ふ迄も無くシユトルベルぺヱタア君其の人である。淸新なる一室には凡そ吊り合はない薄汚れた着物の裾は水溜りでも踏みつけたのか灰色の濡染(ぬれじみ)が出來てゐたし、(ことごと)く濡れそぼつた白足袋が牀にくつきりと足跡を遺しても一向に氣にする素振りも見せないのには妙な貫禄があつた。
「カフヱエを訊ねたら行成ミウズから言傳(ことづて)があると云ふものだから珍奇に思つたが、此れは、此れは大したものではないかね」
「君、まあなんだい」
 ぺヱタア君の口振りを敢へて真似して、靑年は戯けつつ状況を説明した。斯ふ云ふ相手であるから、どんな事態であつても動じないと彼は確信してゐたし、實際ぺヱタア君はカブトプスの要望を見ても危懼するどころか、其の姿體を興味深さうに觀察してカブトプスを困惑させてゐるのには寧ろ安心であつた。
「斯ふ云ふ譯なんだ。君のアイデヰアを聴きたい」
 ぺヱタア君は相變はらずカブトプスの甲殻なる肉體を凝視してゐた。
「君、微苦笑してるね」
「何だつて」
「まあ、なんだい」
 ぺヱタア君は無精髭を掻毟り乍ら滔滔と何時もの調子で演説をし始める。其の振舞ひは(さなが)らカチリナを弾劾するキケロオを気取つて、大袈裟にひよろ長い兩腕を緊張させた。
(まさ)しく久米の捏ねくり出した微苦笑と云ふのを君はしてゐたのだね。『破船』なぞと云ふ自己の大恋愛の恨み辛みを綴つた男の空想的觀念を君は顏面に表出せしめてゐた。僕も今漸く彼の妙な造語の本意を了解した氣分さ。ふむ、此れは中中、面白い現象ではあるまいか」
「差し當たつては、此の儘外へ出しては具合が惡いのだが、僕としては熱り冷める迄部屋に置くのは癪だし、何より此奴を長く孤獨にさせるのは可哀相でならぬ。周圍を誤魔化すのに良い手段はあるまいか」
「なに、其の程度の事なら」
 ぺヱタア君は賢くも言ひ放つた。其の胡散臭いとも呼べる自信過剩振りは安泰を保證(ほせう)するものと思はれた。一寸待つて居給へと言ひ残して、ガラガラさへ置き去りにしてぺヱタア君はへらへらと退出して行つた。取り残されたガラガラは併し其れを氣にするでもなく、カブトプスを見上げて、装備した太い骨を伸ばして頭部を軽く叩ひて其の硬さと音を確かめては白骨と一體化した顏を憮然とさせてゐるくせ凝とカブトプスを隈無く見つめてゐる事、常常隨き從つてゐるぺヱタア君の如しであつた。カブトプスが目を點とさせてガラガラに小突かれる儘にしてゐるのが何とも靑年には愉快である。兩腕の鎌がガラガラを傷つける事の無いやうに控えめに後手にしてあるのも健気だと思つた。
 軈てぺヱタア君が若気乍ら靑年の部屋に戻つて來た。手には何とも觸り心地の良ささうな絹製の黑布が垂下がつてゐる。其の上に重ねられた茶色の格子からぺヱタア君の持つて來たのが法衣であると了解された。何よりトレヱドマアクのもじやもじや頭に網代笠(あじろがさ)が載つてゐるとなれば尚更であつた。
「君が僧侶の衣裝を持参して來るとは意外だね」
「なに、此れは斷じて珍奇な事ではないのだよ」
 然ふ言ふぺヱタア君の語調は如何にも得意氣なのである。其の振舞ひは恰で破戒僧の如きである。
「秋に(えんじゆ)に寄つた時に、とある舞妓連中と意気投合してね。と云ふのも、此奴がね、御座敷遊びで舞妓達の前で骨を振囘して踊つて見せたのだが、だうも彼女らには面白かつたらしい。そして此處からが愉快だつたのだがね、せつかくだから鳳凰(ほうわう)樣にお會ひにならないかしらなぞと言ふから、皆して鐸塔(すずのたふ)に上つたのさ。其の舞妓連は代代鳳凰を祀る役目を負つてゐるさうでね、謂はば職權の亂用と云ふ奴なのだが、まあ僕と此奴も特別な儀式を見物する光榮に浴した譯なのだよ」
「相變はらず妙な事計りするものだ。まさか本當に鳳凰に謁見したと云ふのでもあるまいね」
「うむ、其れは祕密にしておかうではないか」
 頭垢の俄雨を牀に振らせ乍ら、ペヱタア君は微笑した。
「神祕は神祕であるが故に神祕である。此の意味に於ては貴族院議員の弄する詭辨(きべん)も馬鹿に出來たものではないね。ともかく、此れは其の記念に彼女ら據り贈呈されたのさ。『改良服』と云ふ近年の發案らしくて、槐の僧は專ら外出の折は此れを着衣するさうだ。仏教界にもモダンの波が押寄せてゐるのだねえ。御負けに此のガラガラの分まで貰つて了つたのだが、子共用とは云へだぶだぶで持て餘してゐたのを、君の進化せる衣怪(パキモン)の体躯を一瞥して、僕は思ひ出したと云ふ按配なのさ」
 靑年は不思議な事と思ひ乍らもぺヱタア君の持つて來た法衣を早速カブトプスに合わせてみると、丁度兒童と同程度の背丈であつたカブトプスにはぴつたりであつた。鎌が絹を破らぬやうに氣を付け乍ら袖を通すと、兩腕の鎌から脚迄先端をほんの少し残してすつぽりと隱れた。格子(くるす)と呼ばれる簡易の袈裟を首から吊り下げて、その甲羅頭に網代笠を被せれば、風貌は全く仏僧のやうである。靑年も一眼見て隨分似合つてゐると感心した。
「衣怪に法衣を着せるとは、思いがけずも(いき)なものだね」
「うむ」
 修行者の如きカブトプスの姿を腕を組んで眺めつつ、ぺヱタア君は納得したかの體で頷ひた。
「良いではないか。ぢやあ、いざ給へかし、だ」
 然して二人と二匹で此れ迄通りに冬の帝都を散策したが、素知らぬ通行人から見れば、誰の目にも三人と一匹に見えたであらう事は相違ない。而も一人は網代笠を目深に被つた仏法僧の(なり)をして按摩の如く二人の閒をそそくさと追從してゐるのである。其の僧の背をガラガラが手持の骨で時たま小突ひてゐると、寧ろ刑吏に追立てられる囚人をも想起させたであらう。
 一行は小高い丘に整備された長閑な公園へと足を運んでゐた。一帶を植樹された(けやき)(かへで)で覆われた人工の自然の中に、石像やら銅像が點在してゐる此處が半世紀程前には官軍と旧軍の戦場であつた。御老體などは當時の傳聞を記臆されておられるであらうが、旧軍が忽ちにして玉砕した際一匹のキウコンが何処より現れて戦死者を庇うやうに政府軍に立塞がつたと云ふ。千年の祟りを見舞ふとされるキウコンを畏怖した明冶政府が維新後此處に記念碑を建立した事に始まり、徐徐に公園として充實(じうじつ)されて現今へ至つてゐる。
 其の戦死者を悼むキウコン像の前を過ぎて、ぺヱタア君と靑年、僧侶カブトプスとガラガラは枯葉の積る公園内を歩き囘つた。其の閒、ぺヱタア君の方が人の舌を持つと云ふペラツプのやうに終始喋り續けてゐるのを、彼は逐一頷き乍ら聴いてゐた。
「おつと」
 行成、ぺヱタア君が或る銅像の前で立止つて顏を見上げて鑑賞した。其れは創世神アルセウスを模した靑銅の彫刻であつた。犬正の国家を擧げての大典で關東各地が奉祝の萬歳斉唱で覆われた時期に、山吹帝國大學の助成で除幕されたものであつたが、神武なるアルセウスの創世を記念した此の像の土台部分には以下の如く刻まれてゐるのである。

 神奧傳曰原初在混沌之畝萬物混在而殻子現出於中心殻子零而或神生或神成双分身或
 曰剛牙神時而成時閒又曰珠光神空而成空閒蓋世界發現於此更成三命於身其分身剛牙
 珠光祈念成事物而三命祈念成精神於此世界創造故或神永眠矣然推或神爲世界鼻祖焉
 右創世傳
 新戸博士識

 ぺヱタア君は碑文の漢語を顎髭を撫で乍ら時閒をかけて訓讀する。(あたか)も古老が新聞を古い作法に則つて大聲で朗讀し乍ら讀み進めるが如くで、全く滑稽なのである。
「神奧に傳へられる處では初めに混沌の畝りありき。萬物混在して中心に殻子(かひご)現る。其の殻子零れて或神(アルセウス)生ぜり。或神二つの分身を生み出し、剛牙(ヂアルガ)は時の神であり時閒を生み、又珠光(パルキア)は空の神にして空閒を作出して、此に於て世界發生せり。更に其の體據り三つの生命を生む。分身剛牙、珠光が祈念すれば事物生じ、三つの生命祈願すれば精神生ず。此れを以て世界創造せらる。故に或神永久の眠りに就きし。此の事に據つて或神を世界の鼻祖にすることを推すのである。右創世傳、新戸(しんと)博士(しる)す、と」
「なんだい、民俗學にでも凝り出したのかしらん」
「いや、其處の修行僧君を見給へ」
 ぺヱタア君が石碑を讀んでいる閒、カブトプスは銅像の傍で直立姿勢を保つてゐたが、其の姿を托鉢僧と勘違いした通りがかつた老人達に拝まれては喜捨さへされてゐる。前傾した網代笠が微かに震えてゐた。地べたに御布施された小銭をガラガラが骨で掻集めてゐるのが拔け目ない。
「全く以て此れは、此れはだね、此れは今世紀最大の科學的成果だよ、君」
 さも愉快さうにぺヱタア君が手を叩きながら哄笑した。其の馬鹿笑ひはピジヨツトの風起こしの如く公園中を劈き、枯葉を吹飛ばし、枝枝を揺るがし、靑銅のアルセウス神に生氣を吹込まんとするかのやうなエネルギヰを孕んでゐるかと靑年には思はれた。譯も判らず自己をして(びん)たせしめるやうなお喋りと發破(はつぱ)をかけたやうな爆音波を持つ此の男こそ衣怪の擬人ではあるまいかと、遠いアルトマアレの傳承を思ひ出し乍ら考へてゐた。
 夕焼、オニドリルどもの悠然と列を成して飛行するシルウエツトが西の空に浮かぶ刻限、彼は托鉢僧君と共に一室へと歸宅したのである。集まつた小銭で(あがな)つたソオダポツプの玉詰甁をマントルピイスに置くと、靑年は扮裝した僧侶と正對した。網代笠を兩手で捧げ持つて外すと、新妻のやうに甲を赤らめたカブトプスの顏が現れた。緊張した瞳を凝と主君たる靑年にひたと注いでゐる。其れから、兩鎌を擧げさせて慎重に法衣を脱がした。肉の必要最小限迄削落とされた骨ばつた脚から徐徐に露わになるカブトプスの體躯に息を飲みつつも、鎌が黑布を切裂かぬやうに氣を付けた。
 四尺三寸のカブトプスの裸體は慣れぬ布地の衣擦にか、此のやうな恰好で歩かされた氣恥ずかしさにか、冬にも拘らず汗が滲んでゐた。白いタウルで其の滴を拭つて遣ると、布越しに裝甲の逞しさを鋭敏に感じては、言いやうのない動悸を堪えるのに酷い困難を覺江てゐた。カブトに抱いてゐた情愛よりも熱く、(きづな)よりも固い何か。嗚呼、若しフロイドが最う少し早期に關東に紹介されてゐれば、靑年も心理の深き淵據り汝の名を呼び得たのかも知れぬ、リビドオ、何と時宜を失して現れた事であらう!

拾貳 


 蓮據り急遽派遣された助手君が靑年の元を訪れたのは、父の電報から數日後の事であつた。研究所とは違つて背廣に身を(まと)ひ乍らもアトリブウトたるロヰド眼鏡とちよび髭は相變はらずで、その背後には部下と思しき理科系の男を連れてある。目元が隱れる程の長髪で、靑年據りもデクの棒の形をしてゐるから、流石の靑年も笑ひさうになつたものである。
好久不見(ハオチウブイツヱン)! お久し振り、アルね!」
 さう言つて助手君は嬉嬉として靑年と握手をする。斷る理由も無かつたから、彼も素直に握手をした。ふと背後に突つ立つてゐる蒼白の男に目を遣ると、其の視線は二人ではなく、だうやらカブトプスの事をまじまじと見つめてゐるやうであつた。羨ましげと云ふ可きか、妬ましげな氣配が重重に感じられた。此の男の視線は斯ふ言つてゐるやうに思へた。こら待て、其の化石は僕が見つけたのだ。其れだつて元来僕のだ、と。
「アイヤー!」
 助手君は部下の怨念籠つた黑い眼差を察してか叫んだ。
「初めての、アルね。彼、君のカブト、否、カブトプス、甲羅の化石、發掘した者アル。以後、お見知り置きする、ヨロシ」
 (しか)し陰氣な男は凝とカブトプスを見つめた儘、助手君にも靑年にも反應(はんおう)しやうとせぬ。恰も(かつ)ての戀人(こひびと)を見るやうな氣色で、髮と眼鏡に覆はれた目を、只カブトプスの(からだ)へと注いでゐるので、流石の化石衣怪(パキモン)も困惑して一同を交互に見渡した。
對不起(ヅイブウチイ)!」
 助手君はソオナンスのやうに陽氣に後頭部を掻ひた。
「彼、餘りお喋りする、ないアル。併し研究の熱情、誰據り抱くアルね!」
 兎角、助手君と陰鬱なる理科系の男とは、早速カブトプスの調査を始めたのである。助手君は手持の巻尺で頭部や胴や兩鎌(れうがま)の寸法を單簡に計測する。カブトの頃に紅蓮の研究所で一晩世話になつたのを覺江ているらしく、カブトプスは觸診されるのもさして厭はぬ樣子である。(つひ)で控へてゐる部下の男がコダツク社製の蛇腹キヤメラを器用に使い乍ら其の全身を正面、側面、背面から撮影した。研究資材の爲の寫眞の割に妙にシヤツタアの切る囘數(くわいすう)の多いのが靑年には面白かつた。
 ゴオスのやうな氣迫で默默とカブトプスを撮る男を尻目に助手君は言つた。
「君、假令(もし)良ければアルが」
「何でせう」
「君の其の、カブトプスのスケツチ、幾許か頂く、ないアルか」
 此の愉快な研究員に對して些か心も和らいでゐた靑年は氣さくに應じて、相棒を写生した何葉かを助手君に提供するのを了承した。キヤメラの前で理屈も飲み込めずに畏つてゐるカブトプスの健氣さにも少少氣の揺らいだ事も無いでは無かつた。猶も執念く続く男の撮影を待ち乍ら二人は何氣無い世閒話をした。氣の揺らいでゐる事にかけては助手君も同事情であるやうであつた。年中紅蓮島に罐詰(かんづめ)にされ(およ)そ没世閒な彼にとつては、關東行きの機会を得たのは餘程の僥倖(げうかう)であるやうで、以前會つた時據りも明かに良く喋つた。だうも關東の新聞を讀んで知つたらしい、白銀山麓の石英高原で建造中の衣怪リヰグ大會會場を巡る勞働争議では勞働者の權利に就て熱辨を振つた。成程彼は大陸の出身だから、プロレタリアヽトには深い連帶(れんたい)を有してゐると靑年にも感じられた。
 其れで靑年の内には密かな探偵が目覺めてゐた。紅蓮からの去り際に、あの研究所別館の事で大騷ぎをしてゐた顚末を聞く可きだと潜在する彼の意識が命じてゐたのである。
「併し、此閒(こないだ)僕が研究所を去る朝何だか騷がしかつたですが、あれは結局どうなつたのです」
「アイヤー! それアルね」
 助手君は躊躇せずに言葉を繼いだ。
晝閒(ひるま)、別館調べるアルが、何者か昨晩侵入するらし。F教授殿、其の日官憲に立ち合うアル」
「と云ふ事は、何か大事な物でも盜まれたのですか」
 其の時、ずつとカブトプスに熱を上げてゐた部下の男が顔を上げて、眼鏡ごしにきつと二人を睨み付けた。無言乍ら矢鱈と物言わせぬ壓力(あつりよく)であつた。助手君も覺江ずちよび髭を弄つた。
「申し譯無いアルが、研究に關はる事。何も言ふ、ないアルね」
 靑年には其れでも充分であつた。何喰わぬ顏で無邪氣に話題を逸らすと、二人は又陽氣な雜談を交はし、男は結局フヰルムの切れるまで撮影したので、彼らが歸る頃には被寫體(ひしやたい)たるカブトプスはぐつたりと疲れ果てて了つた。別れ際に、可及的速かに學会に發表する段取であるから、其れ迄は何とか世閒に露見せぬやうにするヨロシ、と云ふやうな事を助手君は言つたのを靑年は曖昧に首肯して済ませた。
 いとも氣高い三鳥に謁見するかのやうなプレシユアから解放されたカブトプスが膝から撓垂(しなだ)れて、其の儘壁に凭れてずるずると滑り落ちると、頭だけを寄り掛からせて牀に寝そべる姿勢になつた。恰も(いとけな)い少年が着衣を亂して素肌を露にし乍ら寢轉がつている樣を思はせて、ぺヱタア君の此閒言つた久米式微苦笑なるものを禁じ得なかつた。
 其の珍奇なる姿態を目にして、先刻の理科系の男から發してゐた怨念めくものが自然と靑年にも理解されたのである。彼の悟性は瞬時に畫布(カンバス)の前に坐する事を命じてゐた。繪筆を手に執ると沈思默考しつつ彼は色彩を白地に放つた。目前の衣怪の裝甲の裏に滾る血液や鼓動する臓器迄見透かすかのやうな湧泉の橫溢する官能の有丈(ありつたけ)を、己の腦漿(なうしやう)を奴隷の如く取扱つて描寫してゐると、其れだけで阿片を吸引するに等しいだけの麻藥的愉快が靑年の全神經をドウドリオのやうに疾駆する氣がした。
 果たして、夜は更けてゐた。遊説を終えた議員のやうな吐息を吐ひて、靑年はぐつたりと木椅子に凭れ掛かつた。モデルへ目を遣ると、カブトプスは先刻の姿勢の儘目を閉じて無邪氣な寢息を立ててゐる。數刻も凝視した畫布には、其の寢息を立てる哀しき兩鎌の古代衣怪の恍惚たるビジヨンが展開されてある。オダリスクを思はせるが東洋趣味とは異るエキゾチスムがあり、或は芳崖の悲母観音の母性を以て見つめられる子のやうな趣もあつた。
 靑年は爽快に伸びをするとそつと轉寢(うたたね)するカブトプスに近寄つた。異形なる衣怪は人氣を察して周章狼狽すると、膝を鋭角に折り(たた)んで上体をやおら起こして主人と目を合わせた。しどけない姿を見られた事の困惑と主に見守られる安堵の双方に感じ入つてゐるやうである。
「おいで」
 さう言ふと靑年はカブトプスの鎌を引いて畫布迄導いた。再度木椅子に腰掛けた彼は、側に侍るカブトプスに彼の作品を示した。無論、衣怪であるカブトプスの感性は其れがだうやら己が寢姿であると云ふ事しか受取らなかつたであらう。弓形の頭を畫に近寄せて眺めるカブトプスの腰に靑年は深い情から腕を囘し、其の甲殻と彼の皮膚とを重疊させた。骨張った琥珀色の腰の縊れを指先に感じ乍ら靑年は自己が狂人になつていくのを白晝夢か何かのやうに感じてゐたに相違ない。
 刹那彼はカブトプスを自らの膝に着席させた。カブトの頃に毎晩其れを抱えて物したのと同じやうにである。併し往時には感じ無かつた背甲に生江出た三対の鰭や尾を其の身に感じては只ならぬ情感に浸つた。しゆぴんから一層と鋭利になつた金屬音の鳴声を漏らすカブトプスの獰猛な肉體を憑かれたやうに掻撫でると、軈て靑年は指に新たなる物の存在を感じた。緊張して坐高を高くしてゐたカブトプスが苦しげに、背の重みをすつかり靑年に預けてゐた。
「カブトプスよ」
 靑年は私語(ささめき)を漏らした。
「其のやうな鎌では辛かろう」
 彼は掌に柔らかくもでんだう傳導する火照りを感じ乍ら、熱心に其れを弄んだ。噴き出す蒸氣機關のやうな呻吟が夜更を迎へた一室に響いたが、其の内實は一人と一體の祕密であるだけに、猶更慾望が暴れ囘つていた事であらう。
 其れからの事に就ては、往時書き散らされた數數のゴシツプを記臆する殊勝な讀者諸兄ならば、御察し頂ける事でもあらう。はて何のことかしらんという向きも新聞の雜報、『キングラア』や『缺番(けつばん)』、『衣怪生活』の記事等を朧げでも良いから思出して頂きたいのである。嗚呼、靑年の描ひたと云ふあれらの圖版は、何よりも雄辨であつたではないか! 私が強調したいのは、此の行爲は當時認識されたやうな倒錯では有得ぬと云ふ一點である。其の事実を知るや否や、藝術に唾よりも下賎なるものを吐き掛けたとして、大衆は靑年に戰慄したものであるが、私は斷固としてさうした誤謬に對して反対の論陣を張る者であり、故に此れを書き記してゐるのである。
 鋏角とも甲殻とも呼び難い何處かシステマチツクに緊縮したカブトプスの裸體畫に飛散つたしみ染を靑年はつとして見つめた。膝上のカブトプスが弱弱しく蠢ひてゐるのを觸覺して、項垂れる其の頭を撫ぜ乍ら彼は言表を超越したものの顕現するのを感じ取つた。畫面から滲出る夥しい生命力は、語彙を消失せしむるに事足りたのである。高次の交歓とも言ふ可きものが、靑年の精神とカブトプスの原始の肉體を通じて發現するのは、如何にも堪らないと云ふ氣がした。
 斯くして彼らの師走は過ぎ、時は愈愈驚異の年を迎へる事となる。私は強い決意を以て宣言する。三ツ重之鎌と題せる物語は、ドライデンの謳ふアヌス・ミラビリスの如き樣相を呈する事となるであらう。

拾參 


 くして關東地方は新年を迎へた。市井の人人は創建されて閒もない明冶神宮を詣でたり亥年に因んでイノムウの描かれた年賀状を送り合つては雜煮を啜る三箇日を過ごすのである。靑年とカブトプスも又例外では無く、數は少ない乍らも此の正月の風物詩を楽しんでゐた。ぺヱタア君、ミウズ、其れに大王へ賀正の言葉を送り、其の葉書には各各の伴侶たるガラガラ、ブウスタア、サワムラアとヱビワラアを描き添へて置ひた。
 ミウズからの挨拶はさつぱりとしたもので、餘白に一筆描きしたやうなブウスタアが存外魅力的で、空手大王殿の其れは達筆な文面乍ら端にはあの二匹と思しき手形か足形かが血盟の如く捺印されてゐて面白かつた。ぺヱタア君の挨拶が無いのは元より想定内の事であるから驚きはしなかつた。
 一方で故郷からの母のものは簡素な文面である。だうやら父はカブトプスの事を彼自身の刀自(とじ)にも告げてゐないらしく、靑年とカブトの健康を祈念する計りである。其の父は研究生活にあつては正月も何も關係無いからなのか、特別消息とて送られて來ないのであつた。
「ボナネ・エ・ボン・サンテ」
 机に向かつてゐた靑年が年賀状を一通り讀み終えると、彼の傍にずつと控へてゐたカブトプスに振向き、カロス風の謹賀新年を述べた。意味は判らぬ乍らもカブトプスは兩鎌を軽く擡げて靑年と感情を共有して健氣である。彼は徐に掌を少年の日からの相棒である衣怪の胸に当てると、其の甲の硬さと指で押すと感じられる僅かな柔軟さを同時に触覺して胸が騷ひだ。其れは藝術に蒙を啓かれて以來、繰返し其の圖版を參照した『アダムの創世』の場面のやうに、神なるもの據り生命を吹込まれる體驗(たいけん)に相似してゐると藝術の徒たる靑年は思考した。
 思へば恍惚する儘にカブトプスを手淫した師走の晩、畫布に撒布された白濁を凝視して彼は其の夥しい量と粘質に奔放なる原始の生命力を感じずにはゐなかつた。謂はばカブトプスのまう一つの鎌とでも呼稱す可き其れは全く偉大であり、文明に據つて衰弱した人閒の持ち得る貧弱な其れが及ぶ可くも無かつたのである。往時カロスやガラルの知性を震撼せしめてゐたシユペングラアの著作が喝破したやうな没落の感覚とは對極にある生命を高らかに謳歌する屹立に蠱惑された爲に靑年は、寝そべるカブトプスの具象に浴びせられた染を拭取る事さへ考へ無かつた。其れは雄大なる自然に對する不敬であるとさへ思つた。詰り畫龍點睛の境地とは斯くの如しであつたと云ふ譯である。
 瞑想から覺めると、カブトプスは周章狼狽しつつ主を見つめてゐた。外見は獰猛と(いへど)も純な魂を持ち、猶も此の二足歩行の肉體に原罪を犯したアダムの如き羞恥を覺江てゐるらしい怪物の股が内を向いてゐるのを何とも愛らしく思つた。
「扨」
 靑年は處女のやうに初心いカブトプスに語り掛けた。
「折角の正月だ。籠つて計りでは面白くも無い」
 其ふ言つてカブトプスに例の法衣と網代笠を着せると、彼らは帝都の雜沓へ紛れ込んだ。カフエヱは休業であつたから、格鬪道場の門を叩ひてみる事にした。押忍と云ふ掛聲と共に門下生が應對する據り早くサワムラアとヱビワラアの二體が門戸を蹴破るやうに飛出して來ると、早速托鉢僧君を揶揄うやうにぺたぺたと突ひて興じる。續けて大王が表向きは仏頂面して現れて門下生達を退けた。
「全く、新年早早騷騷しい事此の上無い」
 打切棒(ぶつきらぼう)に呟き乍ら(はしや)ぐ兩匹を睥睨する。サワムラアが其の伸縮する脚で網代笠を奪取して曝されたカブトプスの頭にも一向に動じない。寧ろ腕を組み乍ら其の姿體を凝と眺めては感嘆してさへゐる。
「ふむ、中中に、中中に」
 と云ふのも、靑年は紅蓮據り祕匿す可きと傳へられたカブトプスの姿を内密には明かしていたからである。行成僧侶と共に現れて訝しがらせては、網代笠を外して惡戯に驚かせやうとしたのであつた。大王は無論の事、ミウズにも其ふした。併し彼らは肝が座つてゐた。初めて見るカブトプスの姿にも、研究員達が恐れたやうな恐慌に陥る事無く、却つて靑年も呆氣に取られて了ふ程に順應してゐるから流石であつた。
 サワムラアが手合せを強請(ねだ)つたので、取敢へず靑年はカブトプスの法衣を脱がしてやつた。サワムラアが片脚を擧げると、カブトプスも其の鎌を掲げて相對した。閒にヱビワラアが胡座を掻ひて審判の積りであるらしい。足蹴衣怪らしく早速繰出した蹴撃をカブトプスは交差した鎌で受け止めると、今度はその鋭利な鎌をさつと振るうが、其の擧動は(やや)重鈍である。
「併し乍ら、お主。此奴を此處で修行させる心算はあるまいか。實に良き筋と見える」
「此の姿を見たら卒倒する弟子もいさうですがね」
「其んな軟弱者は國賊も同然。儂の道場には、要らぬ」
 靑年は苦笑し乍ら二匹の試合を見つめた。カブトプスの反撃をサワムラアは難なく躱したところであつた。未だ自己の鎌を扱いかねるカブトプスの隙を突ひて脚をさつと伸ばすと、足蹠(そくせき)が腹甲の丁度鳩尾の辺りにぴたりと觸れた。ヱビワラアが片手をぴんと伸ばして一聲擧げた。だうやら、サワムラアの一本勝ちであつた。覺江ず尻餅を突いた化石衣怪を勝者は揶揄ふやうに押倒すと、審判のヱビワラアも加わつて體の彼方此方(あちこち)を興味深さうに(くすぐ)つた。敗者は鈍い聲を出し乍ら其の細身を捩らせて助けを求めるやうに靑年を一瞥するのは面白かつた。全くする事は幼いガアデヰやロコンの如しである。
「だうも、可成の修行が要るやうですね」
「何てことはない。寧ろ鍛へ甲斐のあると云ふもの」
 其ふ言い切つて了ふ空手大王に閉口してゐると、向かふの茂みから何かがさごそと動く音がある。皆の視線が自然其處へ向くと、そよめきは一層大になつた。ラツタかアヽボの類かと訝しんでゐると、突然白い物がによきによきと現れる。白骨の頭蓋が勢ひ良く飛出て來る。正體がガラガラであると氣付く閒も無く、彼は突然顏を出した。呆れる事に、あのペヱタア君の顏面ともじやもじや頭であつた。
「いやはや、明けましておめでとう皆の衆」
 誰もが絶句しているのを如何ともせずにぺヱタア君が茂みから飛出して來るのには、絡れ合つてゐた衣怪達も呆氣に取られて其の異樣な姿を見てゐる計りである。頭髮には木の葉やらキヤタピヰだかビイドルの吐いた(いと)だのが(まと)わりついてゐるのを氣にする素振りもせず、へらへらとした態度を保つて靑年に近寄つた。
「貴様ツ、我が道場で何をしているかつ」
 大王は当然のやうに喝を飛ばしたが、ぺヱタア君は平然と其れを受け流して立竝ぶ二人の顏をにやにやと見渡した。
「いやね、此れは謂はばサイドチヱンジと云ふ奴なのだよ。何れ大王殿も衣怪大会に帝都を代表して出られる身だから知つてるでせうが、おつと、さうきよとんとされては困りますね。(いやしく)衣怪調教師(パキモントレヱナア)を自稱するのだから知らないと云ふのは頂けませんな。ま、兎角さういふ寸法なのだ」
「詰りだういふ事なのだい」
 相變はらず人を喰つたやうな返答に、靑年も思はず訊ね返して了ふ。
「なに、今日はただ彼奴に好きなやうに歩かせて、僕は只其の数寸後方を逍遥する事にしたと云ふわけさ」
 先行して現れたガラガラは手持の太い骨でサワムラアの平坦な肩を叩ひて勝負を挑まんとしてゐる。相手もやうやくカブトプスを解放して立ち上がつた。彼等の閒に走る緊張感が俄に感じられた。
「君が風變はりなのは重重承知だが、其れにしても(つね)に想像の上を行くものだ」
「はははは、併し阿弥陀式に歩くのも又乙だよ、君」
 サワムラアが得意の蹴りを囘した。ガラガラは器用にも骨で攻撃を受流すや、力を其の儘返すやうに相手を弾き飛ばした。何とか後方へと着地したサワムラアは片脚を擧げて再攻撃の機会を伺つた束の閒、ガラガラは目紛しい速さで敵の(ふところ)に迫つてゐた。餘りにも刹那だつたので、皆キウコンに摘まれたかのやうに唖然とする内、ガラガラは劍道の要領でサワムラアの肩とひと繋がりになつた頭をこつんと骨で一打ちした。ヱビワラアは少し遅れて周章狼狽し乍ら片手を擧げた。完膚無きまでのガラガラの一本勝ちであつた。
「むむつ、此れは、何とツ」
 空手大王殿は譯も解らず目を丸くして、悠然と佇むガラガラを見つめた。
「貴様、此奴を此處で修行させる心算はあるまいか」
「やれやれ、有難い御言葉ですがね、貴殿の道場は格鬪型の専任なのですから、自己の領分を護つて頂かない事には仕方が無いですな」
「むむう」
 大王が腕を強く組んで物惜氣にガラガラの勇姿を眺めてゐるのを尻目に、ぺヱタア君は髪から(やつ)と木の葉や頭垢を振落とし乍ら靑年に言つた。
「まあ、なんだい、其のカブトプス君に法衣を着せて了つて。ちよつくら、行かうではないか」
「阿弥陀式にかい」
「其れも良いがね、まあ、來給へ、來給へ」
「仕方あるまい。だうせ此の後何をしてゐるものかと訪ねに行く積りだつたから、面倒が省けて良かつた」
 ぺヱタア君に引摺られるやうに、靑年は隨行する。恩賜公園を訪れた時のやうに、二人と、僧侶に扮したカブトプスの後方をガラガラが尾行する形である。迎春の帝都の街竝は鳳凰の羽根にも劣らぬ煌びやかさで、關劇や歌舞伎座を彩る幟旗(のぼりばた)の下には羣衆が溢れてゐた。手懷けられたニヤアスやプリンといつた衣怪達がチンドン屋として賑やかに歌ひ乍ら街路を練り歩き、路傍ではカモネギが其の長葱を振つて薪を割り或はカイリキヰが四つの腕で纏めて鐵板(てつぱん)を千切つては見物人を拍手せしめてゐる。反對側では中年の禿茶瓶が頻りに通行人の聲を張つていたが、立札には「祕密之衣怪鯉王僅五銭也」と朱書されてゐた。さふした風景をぺヱタア君は淡淡と通過して行く。靑年も默つて追從する。カブトプスもガラガラに追ひ立てられるやうにして彼等の後を追掛けた。
 軈て一同は郊外の國道八號に出た。國道とは云ひ乍らも周圍には草叢や田園の廣がる長閑(のどか)な一帶であるが、彼等の足は其の一角に往時から現今に至る迄ある紫苑靈園へ向かつてゐた。古來からの人閒と衣怪の關係を祈念して開設さた關東圏唯一の衣怪墓地として知られ、開化期に來航して朽葉に據点を置ひた耶蘇(やそ)教徒と連中の共鳴者を中心に結成された衣怪博愛倶楽部の尽力の賜であつた。餘談乍ら照和の現在に於ては紫苑本町への移轉計畫が勃興しつつある事を附記して置く。
「其れにしても」
 靑年は時の止まつたかのやうな墓園の静謐さを感じ乍ら稍前方を歩くぺヱタア君に問掛ける。
「何しに來たのだい。君の衣怪が死んだとでも云ふのかね」
 奇怪な彼は其の問いには應答しなかつた。中心の一際大きい「無名衣怪追悼三重小塔」の前でぺヱタア君は立ち止まると、彫刻でも眺めるかのやうに忙しなく頸と掻き乍ら其の意匠を隅隅迄面白ろさうに彼方此方から觀察し始めた。
「君にとつて衣怪とは何だね」
 小塔の陰から顏を出し乍らぺヱタア君が不意に訊ねたのは其の刹那の事であつた。
「其れを訊く爲に態態紫苑くんだり迄來たと云ふのかい」
「雰囲氣が出て良いじやないか。シリヤスな一場面には如何にもうつてつけだよ、此れは」
「成程。人生は一つの舞臺とでも云ひたい譯か」
「まあ良いでは無いか。扨、君にとつての衣怪とは何だい」
 ぺヱタア君は行成(いきなり)靑年の傍に侍る黒衣姿のカブトプスの網代笠を取外し、其の頭部を新春の冷氣に晒した。半月状の顏が仄かに赤面し覺江ず邊りを見渡してゐたが、周圍には彼等を除ひては人氣も無い。
「比翼連理と云ふ奴さ」
 靑年はそんなカブトプスの清しさに瞠目する儘にきつぱりと應へて了つた。
「ふむ」
 ぺヱタア君は彼にしては珍しく感心したやうに腕を窮窟に組み、暫く考へ込んだ。
「長恨歌を引き合いに出すとは大胆だね」
「此處迄共に在つたのだから、其の位には考へて了ふよ」
「流石に蒼白なる藝術家の血髓には尋常ならざるものが流れているやうだ」
「君が言ふ事かね」
 靑年は笑つた。續けてぺヱタア君も笑つた。ガラガラは三重塔に攀登つて上方からカブトプスの頭を木琴の如く叩ひて興じ、其の硬質な音が靈園に響くのは何かを悼むやうでもあつた。
「僕は又當分帝都を離れる事にするよ」
 急に笑ひ治つたもじやもじや頭のぺヱタア君は言つた。
「君という男が豫告とは如何云ふピツピの指振りだね」
「なに、其ふ云ふピツピの指振りだからだよ」
「何時、戻るのだい」
「其れもピツピの指振り次第さ」
 ぺヱタア君は兩手の食指を突立てて、月見山のピツピ式に指振りをした。氣紛れ次第で地震も海嘯も火炎放射も起こせると云ふ怖る可き指の振り方を真似して此の奇人は大層面白がつた。靑年が其れを笑ひ乍ら凝視する内、少年少女を拐かすと云ふスリヰパアの催眠術の如くに氣がぼんやりとしていくやうに感じられた。歸つたら又カブトプスの写生でもしやうと思つた。

拾肆 


 ヱタア君と彼に扈從(こせう)するガラガラが龍卷神(トルネロス)の如く靑年の眼前據り去つてから暫く、帝都は畏くも紀元節を迎へる所であつた。靑年と云へば、自室のアパルトマンとミウズのカフエヱとを往復するやうな日日を過ごしてゐた。暦の上では立春の頃合だが、關東を覆ふ寒波は猶も嚴しく、フアイヤアの來臨は程遠かつた。()てて加へて、此の時期になると何某會と云つた連中が一樣に山吹へと結集するのも煩わしかつた。殊に今年は各團の領袖が盛んに呼掛けるので、集會は大規模になると噂されてゐた。
「『「綸言(りんげん)汗の如し』とは言へ、全く騷騷しくて困りますね」
 朝刊から視線を逸らして靑年はミウズに声を掛けた。ラツキヰの給仕した卓上の珈琲の湯気が一層白く揺蕩つてゐる向かうから、彼女の凛たる姿が浮かび上がつて來る。
「九段は此處から遠いのが救ひね」
「大王も參加するんじやなからうね」
「だうでせうねえ」
 ミウズは困つたやうに笑ひ乍ら、店の片隅に目を遣つた。其處では冬毛を逞しくしたブウスタアが香箱を作つてゐたが、此の炎衣怪は太々しくも法衣を着たカブトプスの膝上に載つてゐる。幾らカブトが進化して肉體が發達しやうが、ブウスタアは何食はぬ顏で相手を從へ無邪氣に戯れて平氣だつた。先刻も網代笠を奪取して、追跡するにもし難いカブトプスを只ウソツキヰの如く棒立ちにさせて興じるのを微笑ましくも二人で眺めたところである。
 今はすつかり疲れて休息してゐる二匹に靑年も心穩やかになると、彼は再び朝刊の處處方方に目を走らせた。

 飛雲本街大爆發
 兇熱遊戯會社大損害他
 建物多數破壊し
 負傷者百餘名に達す
 ナツトレイ複數體囘收

 靑年が再び視線を移すと、カブトプスと目が合つた。ブウスタアと主人たる靑年とを交互に見遣り乍ら、己は如何すれば良いのかと問ふやうに頭部を曖昧に搖り動かすのが情け無くも愛おしいと感じられたが、其の感慨は件の藝術的交歓の爲に愈愈強化されてゐた。畫龍點睛の繰返しの度に曝されるカブトプスの内なる鎌の自ずから鋭利な形態は、靑年の印象を通過すれば官能的である以前にホイツトマンの自由詩の如き奔放さを喚起させたのである。私は読者諸兄に改めて注意を促したいと思ふ。彼等の歓喜は生命原初の歓びであり、年端の行かぬ子が初めて厠や叢に放つ其れのやうに、吃驚を齎す現象に他ならなかつたのだ。靑年は憂鬱に苛まれた幼年期以降只カブト丈けを見詰めてゐたと云ふ特異な情況を我我が失念する限り、斷じて彼とカブトプスを理解する事は出來ぬ。
 紙面を(めく)り乍ら靑年はさう云へば先月は紅蓮から何の便りも寄越さずに了つたと思ひ返した。年始以來父からも助手君からも連絡は杜絶(とぜつ)してゐた。何故かは知らぬし氣にならないでも無かつたがさりとて態態問合せる事でもあるまいし、寧ろ自分とカブトプスの事で蒼蠅(うるさ)い指示が飛んで來ないのだから楽だと云ふ程度に済ましてゐた。

 鉱夫大募集
 關東の丈夫ども豐縁へ來たれ!
 有資格二十一歳より五十歳迄の男子 希望者山吹市職業課担当係に照會又は來談の事
 豐縁郡金炭町 石蕗鉱業株式會社
 
「けれどあの人が缺けると妙に味氣無いものね」
 ミウズがぽつりと洩らした。靑年は新聞を閉じて、元あつたマガヂンラツクに戻した。
「奴は雙六(すごろく)を打つてゐるのですよ」
 ラツキヰにチツプ代わりにペロペロを渡し乍ら彼は明言した。
「賽を振つて出た目の通りに進んで、其れで生きて滿足してゐるのだから大した男です」
「あら、あなただつて賽を打つてゐる事よ」
「彼奴に較べれば、僕は憶病ですよ」
「藝術で身を立てるのも充分ロマンチツクですわ、先生」
 靑年は頭を掻ひた。片隅ではブウスタアが目を覺まして身震ひし、豐かな白毛が正面にカブトプスの鼻腔を擽つて小さな嚔を出させた。ミウズは微笑し乍ら衣怪達の分迄ポフレを用意した。
 靑年は先刻から卓上に置き放しにしてゐた書物を手に取る事にした。其れはペヱタア君が紫苑での別れ際に不意に着物の袖から取出して手渡して來たものであつた。
「いやね、君も何時か新聞で讀んだらう、隈畔(わいはん)とか云ふ男の事をね。うん、恋愛哲學を唱えて竟に情死を遂げて隨分と騷ぎになつたものだ。僕も俗つぽい男だから世情に吊られて奴の本をちと讀んでみたんだが、まあ如何にも藝術家には打つて付けの思想と云ふ可きで、君の興味を引くんじやないかと思つたのさ」
 と一方的に言はれるが儘に受け取つた其の『現代文化の哲學』なる本を、何とは無しに此れ迄讀まずに置ひてゐたのであつた。不意にぱらぱらと(ペヰヂ)を繰ると此んな一節が目に入つた。

 吾吾の生活乃至文化の廣い範圍に於てたゞ『愛』といふものゝ外に、もつと具體的で綜合
 的でそしてもつと直截的燃焼的な根本意識はないと信ずる。

 其處では舊來の封建的戀愛感が痛罵され、(あまつさ)へ新時代の自由戀愛なるものに社會變革の機運さへ見出さうとしてゐて成程面白い思想だとは思つた。愛を稱揚(せうやう)しつつも其の根底に在るのは、人閒性を剥奪する社會への憎惡とでも云ふ可きものであり、藝術界への理念的憧憬であると彼は解釈した。
 靑年は、ミウズからポフレを口で受け取つてゐるカブトプスを見遣つた。彼女が淸らかな手を顎下に添へると、カブトプスは上目遣いをし乍ら掌上のポフレを少量ずつ咥へて静かに咀嚼して美味そうにしてゐる。怪物的武骨な風貌と裏腹に小衣怪のやうな仕種は靑年の心を愉しませた。
 さうしてゐる内に午砲が鳴つた。宮城に在る報時場據りカメツクスの空砲が正午を報せるのも往時の山吹の風物であつたものだと、私が懷かしく思はれる程であるが、此の見聞録の舞臺たる當時には、折しも軍縮の機運の高まつた事で、長らく午砲を運營してゐた海軍がカメツクスを山吹市へと譲渡した計りの頃である。當の甲羅衣怪に其のやうな事情が理解されたかは判らぬし、其頃の靈龜は飽く迄も職務に忠実に正午恰度の空砲を撃ち續けてゐたのであつたが、照和の世に於る斯くも數奇な運命に關しては、(……)
 カブトプスの法衣に纏はり付ひた食滓を払ひ乍ら靑年がカフエヱを出たのは其の午砲の反響の残る白晝(はくちう)であつた。寒空には恰も喧騷たる世相に一喝するかのやうなキヤノンからの空砲が一層渇ひて聴こへてゐた。引き締まつた空気の震へを全身に浴び乍ら靑年は遊歩し、己が靈感を高めた。發想は直ぐに湧出して來た。靑年はベルグソンの云ふ「純粋持續」の精神に疾くに到達してゐた。正しく彼は完全に自由を獲得した人閒であつた。後は平常のやうに、只アパルトマンへ歸つて其の形像を写す丈けで良かつたのである。
 口笛さへ吹き乍ら靑年は、扮裝したカブトプスと連添つてアパルトマンへ歸つたが、廊下に散らばつた紙屑が氣になつた。其の枚数も多量で、どぢを踏んだ誰かが散亂させて收集が付かなくなつたとしか思へない有樣である。洋靴が紙を上滑りして轉びさうになるのを鬱陶しく思ひ乍ら自室へと向かふと、ビラは牀のみならず、壁に迄貼り付けられるやうになつてゐて、其處は廊下と云ふ據り『アリス物語』の如き異空閒のやうに思はれた。嫌な豫感がし、西洋骨牌の官憲に追掛けられる幼女のやうに、靑年は顏面蒼白にして走狗した。カブトプスも判然としない儘に飛脚のやうに主人の背を追掛けた。
 玄関の前に立つて、靑年は初めて其の紙を直視した。扉に直に貼付けられてゐる以上、其れを正面に見るのは必定であつた。そして、墨汁で大大的に書かれた「某博士の橫暴不敬」の見出に脂汗を流した。如何にも此の怪文書が靑年の父であるF氏、元據り靑年自身を標的にしたものである事は疑ひ得なかつた。鳥子紙に巧みに墨書された其の文面に靑年は顏面蒼白となつた。

 嗚呼某博士ノ橫暴不逞
 貳號計畫ト稱シ
 テ或神以來ノ皇統ヲ危ク
 シテ人倫ヲ紊サントス姦賊
 ノ姦謀既ニネイチオノ心眼
 シテ視ルガ如シ
 涜神ノ隻手ヲ加フルコト
 是則 大罪ヲ頒ツ者ニ候
 義民何ヲ爲スカ
 之ヲ旬日以後ニ於テ
 御覧可被成候
 恐懼死テ措ク能ワズ
 死罪 死罪

「行かう、カブトプス」
 靑年は扉に背を向けて言つた。激甚な動悸と寒氣がした。
「此處はだうも不穩らしい。行かう、行かねば」
 立竦んだカブトプスの法衣の袖を引いて彼はアパルトマンを離れた。早足で街頭を歩き囘り乍ら怪文書に就て考へた。紅蓮での一夜に經驗した事の一切が想起されて來た。あの時月明かりに照らされた「貳號計畫」と云ふ謎めいた言葉が改めて浮上した。怪文書の檄文に據れば涜神行爲とされてゐる其れは、猶も其の実態は茫洋としてゐた。併し父は一體何をしでかさうとしてゐるのか、不安を募らせるに充分であつた。兎角、父の行爲が巡りに巡つて何者かに據る告發が息子たる自分の元に迄屆ひたからには、事情も飲み込めぬと云ふのに最早無關係では居られぬらしいのは確かであつた。
 靑年がカブトプスを連れて向かつたのはぺヱタア君の部屋であつた。だうせ彼は放浪してゐる所だし、其の閒は好きに使つて呉れ給へと言はれているのだから使はない義理は無い。差當たつては此處を借りて樣子を見つつ、紅蓮にも便りを送ろうと云ふ算段である。併し一體元旦據り連絡の無い事が急に深刻な意味を帶びて來るやうに思はれた。
 而して晩の事である。和洋の書物を掻き分けた中に埋もれ乍ら靑年とカブトプスは自然寄添うやうに臥してゐた。進化前から慣れ親しんでゐたペヱタア君の四疊半で、すつかり健やかな寢息を立ててゐるのを、横臥する靑年は染み染みとして見詰めた。胸から腹にかけての甲羅は力強く割れ、其れ丈けではち切れん計りの生命を泉のやうに湛えており、彼の美學を大いに滿足させた。其の壮健な鎧の體躯を窶してゐた黑法衣を布団代はりにし乍ら靑年は隈畔の續きを讀んで暇を潰した。彼は其の浪漫的熱情を理解しつつも併し單に皮層の判斷として受け止めたに過ぎなかつた。文學的哲學的言語では、彼の情念には厭き足りなかつたのである。
 靑年のカブトプスへの情感は愛翫に據るもの丈けでは無論無かつたのだ。其以上の言語に絶する心理に由來して居り、隈畔の云ふ「愛」の概念を超越してゐたものであつた故に、靑年は目前の衣怪に對する情愛の實際を把握する事が猶も出來無かつた。其れは眞の藝術のやうに言語に絶するものなのであつた。詰りカブトプスは藝術足り得てゐたのである。蓋し、隈畔にせよ『近代の戀愛観』を物した彼の白村にせよ、彼らの主張する「愛」は畢竟ヒウマニズムに過ぎなかつた。靑年に呼応する得も言われぬ思想の持主は照和の今になつてさへ現れておらぬし、況や末代をやと云ふ絶望に私は嘆息せざる能わずであるが、(……)
 突如として部屋に異臭が滿ちたのは其のやうな時であつた。立付けの惡い窗の隙閒から紫煙が棚引ひて來たかと思う閒に、靑年は著しく氣分を害した。鼻口を手で覆う暇も無く強烈な嘔吐感に襲はれて、意識が朦朧とした。カブトプスも異常を察してすっくと立ち上がると、主人を護るやうにその小柄な身で靑年を庇う姿勢を取つた。本能が危險を告げてゐた。最早外面を取り繕う可くもなく、靑年と裸のカブトプスは追ひ立てられるやうにして書物だらけの一閒を脱出し、新鮮な空気を希求して外に出た。其れこそが計畧の内である事等知る可くもなかった。
 命辛辛の體の靑年達の前に待ち構へてゐたのは、靑紫の強靭な皮膚を鎧のやうに負つた衣怪であつた。其れが名にし聞くニドキングであると云ふ事、其のやうな衣怪が何故此處に居るのかと云ふ事情が認識される據りも早く錐衣怪は彼等へ襲ひ掛かつた。兇悪な尾の激烈な一振りすると、身構へる暇すら無く、カブトプスは正面に腹甲に其の攻撃を受けて了つた。ニドキングの強靭な尻尾にトルソオを痛打されたカブトプスが吹飛ばされ、強かに地面に打付けられる映像を以て靑年の眼前は恐慌と絶叫の餘り真白となつた。

拾伍 [#8bxjCVi] 


 神よ、此處で私はホオマアに倣つて宣言するのである。彼は怒りを唄ふ爲に彼のムウサの助力を乞うたのだが、私は至福を唄う爲に今一度貴女の名を呼ぶ事としやう。聖アウグスチンの懺悔録の如く貴女を稱へる事に大袈裟なぞと云ふ論難は一向当たらぬ。
 (さて)喪われし犬正の印象を復さしめんとする良識有る讀者諸兄に警告して置かねばならぬのだが、此據り靑年の印象は一段と曖昧の度を極める事となる故に、我が自負する前代未聞の見聞録も又其れに倣わねばならぬ。併し乍ら此れも返す返すも忠告せねばならないが、此の渾沌は即ちプロタゴニストたる靑年の兇氣を全く意味しない。否寧ろ彼の精神は遥かに明晰であつた。優れた哲學徒の思索が過度の明晰の爲に我我素人連中には茫漠たるものと映るのと同義である。其れが天上界を知覺するには欠く可からざるものであるとは云ふ迄も無い事であらう。然り、私はバアクの謂ふ崇高の美學を實現せんと筆を揮つてゐるのだ。即ち彼等の正當なる實像(じつざう)を只紙上に書き識す可くである。
 靑年が覺醒したのは、薄暗い空閒のやうな何處かであつた。何處かと云ふのは、彼にとつては正にさうとしか言ひ樣の無いからさう書ひた迄である。寢臺(しんだい)で氣を取戻した靑年のぼんやりとした視力は部屋全面の(くす)んだ灰色の色調を捉へた。其れからスリイパアの弄ぶ振子の如き裸電球のやうなものがちらちら發光するのに目を眩ませた。臥牀(がせう)してゐるらしいことを理解するにつれて靑年は徐徐に混亂から恢復してゐるのを感じたが、自己の置かれた状態に就ては尚も理解は朧げであつた。
 彼は冷静に自身に繼起した出來事を囘顧した。心肝を寒からしめる件の怪文書に危險を察知した靑年はカブトプスと共にぺヱタア君の荒屋(あばらや)で一晩を過ごした。其處で謎めいた襲撃を受けた後、彼は氣を喪つたのである。だが其の事は丸で夢の事であるかのやうにも思はれたし、其れ程に迄長い眠りに就ひていたやうにヂアルガの鼓動を感じ取つてゐるのは不思議であつた。
 併し(ひび)破れた硝子の斷片を逐一検討する内、若き藝術家の脳裏に(うか)んだのは、瑠璃の如き鮮烈な青であつた。其れは具象的なイメヱジを凌駕して靑年の記臆を隅隅迄埋尽くして了つた。一度目を瞑れば一面の赤か黑が眼前に占められるやうにして、彼の心象は(ことごと)く青であつた。慌惚としてくる迄に絶對的な青、空據りも海據りも斷固として青い青が、靑年の全神經をウインヂイ宜しく駆巡つてゐた。
(やつ)とお目覺めかね」
 靑年は聲を聞いてはつとした。其れは隨分と聞き馴染みのあつて然も久しい聲である。其の筈にも関らず彼は餘りの事故に其の聲の主を斷定しかねてゐた。首を動かしてみても誰も居らぬ。行成、寢臺に飛乘る音がした。視線を胸元へ下げると其處には、彼のガラガラが平常の無愛想さで佇んでゐたのである。呆氣に取られたやうな、馬鹿を見たやうな印象を靑年は受けた。
「ハハハ、さうだよ、僕さ」
 例に據て彼は古びた寢臺の下からひよつこりと首を出して來た。三が日に會つた時と全く同じ調子で一向變はらぬもじやもじやの頭髮のペヱタア君が靑年の前に現れたのである。餘り俗つぽいので、靑年のラピスラズリのイメヱジは忽ち雲散霧消して了つた。
「何だね」
 彼が久久に發した言葉は呆れを含んだ其れであつた。
「此れは、一體だう云ふ事なんだい」
「ふむ」
 ぺヱタア君はすつくと直立すると、取敢へずとでも言ふやうに頭を掻ひた。芳しくない雪が薄暗い一室に舞ふと、其れが(まど)から射す光に照らされて、埃のやうにちらついて見えた。
「中中だね、此れは少少混入った問題と謂はざるを得ないのだ」
「大體君は長い閒歸らないとさう言つていたじやないか。此れはだう云ふピジヨンの吹飛ばしなのだい」
「うむ。だがね、君も相當な打衝(シヨツク)を受けているらしい。相棒の事がすつかり缺落しているね。能楽師が能面に對すると同樣に、開口一番カブトプスの事を話さないのだからね」
 刹那靑年は(うなじ)を強かに打たれるが如き衝撃を覺江た。眼前が白くなる寸前に見たものを、今ありありと想起し、暗默裡に其れを意識に封込めてゐたのを自覺した。突然現出したニドキングの鋼の如き尻尾がスウヰングして、身構へる暇も無く胴を打たれたカブトプスは円弧を描き乍ら數米は吹飛ばして了つた。背中を石塀に強く打付けて力無く坐り込んだ化石衣怪を、靑年は只震へて見守るしか無かつたのである。ニドキングは閒髮入れず弱つたカブトプスへ近寄ると、頑丈な顎を禍禍しく開ひて鋭利な牙を覗かせた。靑年は咄嗟に顏を覆はぬ譯には行かなかつたが、其れにも拘らず指の隙閒から彼の眼は覗ひてゐたのだ。戰慄する彼は確かに直視した。錐衣怪の牙がカブトプスの肚へ食込むのを見た。そして彼の傷付き犯された肉體から流れ出る青き血潮を見た。其の青こそ、茫洋した靑年の意識を羊水のやうに浸してゐた青其れ自體、アンジツヒであつたのだ。
 嗚呼! 幸福にも不幸な藝術精神を持つ靑年はあの一瞬閒に、絶望と至福を同時に味覺したのである。幼年期からの相棒を喪ふ慟哭に苦悶し乍ら、其處に殉教の美を捉へて感佩したのだ。彼は首を橫に振つたが、成程此の倒錯を否定し去る事は出來無かつた。何れにせよ、カブトプスの危機を傍観するに過ぎなかつた自己を嘲笑するので滿足した。
「死んだと言はれても驚く積りはないさ」
 彼が打切棒(ぶつきらぼう)に言つたのをぺヱタア君は意外に思ひ乍ら、頭垢(ふけ)を宙に舞わせた。
「成程冷笑的だね。ニイチエの毒でも序でに浴びたかい」
「僕には一向事態が判らぬ」
 靑年はやおら上體を起こして寢臺の縁に腰掛けて、飄然たるぺヱタア君と向い合つた。空閒が空ひたのを良い事にガラガラが其の上で数寸跳躍して白い布団の弾みを淡淡と享受してゐる。改めて陰氣な部屋内を見渡すと、此の醫務(いむ)室の壁面には關東では見掛けぬ風體の衣怪の水墨畫が飾られてゐた。表題には「舊翡翠伊大富之圖」とあつた。
「第一僕等は何處に居るのだい」
「此處は玉蟲の知人の醫院なのだ。彼は曾て神奧の地で開拓吏をしてゐて、銀河團とか云ふ開拓使の醫療隊員に屬して人やら衣怪やらの救命をしてゐたさうだが、今は關東に隠棲して悠悠然としてゐる。まあ、(よしみ)で特別に君等を匿つて貰つたと云ふ譯なのだよ」
「カブトプスは」
「別室で治療中さ。君は只氣絶してゐた丈けだが、彼奴は少少傷を負つてゐてね、おつと慌ててはいけない。何、安心し給へ。別条が有ると云ふでもないのだ。衣怪センタアでも不足は無い程度の傷だが大ぴらにしては不都合だからかうしてゐる迄なのだ。所でだね、君は動顚して、記臆も幾らか缺落してゐるやうだから此の僕が代理して其の空白を埋めて御覧にいれやうと思ふのだが、如何だね」
「君が結構なら、好きに吹聴すればいいさ」
「一體全體何時迄、カツチリイナよ、我我に忍耐を強いる心算か!」
 なぞとキケロオの口真似をし乍らぺヱタア君は事の次第を語り出したのである。
「予め白状すると僕はだね、畏くも君の御父上に就てちと調査と云ふものをしてゐたのだ。君も薄薄察してゐるかも知れぬが、其れと謂ふのも教授氏の『絶對の探究』に關する物だよ。ハハハ、氣を喪ふ前に君は『某博士ノ橫暴不逞』なる怪文書とやらを目にした筈だ。實の所君の御父上はさう言つても差支への無い所業を犯したのだが、果たして此の事は君が襲はれた事と深淵な關係に有る。併し乍ら君も恐らくは其の橫暴不逞の何たるかを認知してゐると思ふ。君は紅蓮の()の別館で可笑しな紙切れを目にしてもゐる筈だ。如何にも、訝しい顏をしてゐるね。いや、寧ろ安堵の表情と言つた方が良いかも知れないね。さうなのだ、種を明かせば君が其處で見たガラガラは紛れも無く此處に居る我がガラガラであつたのだよ。だが事は順序立って話さねばなるまい。
(そもそ)も僕が君に関心を持つたのも元來は君がF教授の御子息であつたからなのだ。君が知らなくとも、化石復原の實驗に據り功成り名を遂げて以來御父上が不穩な動静をしてゐるからには何れ君も無關係では居られなくなるであらう事は必定であつたからね。僕はとある勇氣と良心を持つた好人物——其の人物の名は伏せる約束であるから言はないでおくがね——から彼に就ての風評を聞ひて、持前の好奇心故に彼の周圍を嗅囘(かぎまは)る事にした譯だつた。其れと云ふのも正三位さへ拝受した考古學教授が新興の穩やかならぬ組織と妙な關係を持つてゐると云ふのだから驚きだらう?
「昨夏のF氏のカロス行と云ふのも、化石研究とは無論建前に過ぎなかつたのだ。其の真の目的は近年南ウノバで目撃された衣怪(パキモン)にあつた。曾て文献上にのみ其の存在が示唆される計りであつた始原の獸、凡ての衣怪の祖たる傳説的衣怪に對して教授氏は兼ねてから強烈な關心を抱いてゐたが、ラケツト團の隱密裡の援助を受け乍ら彼は竟に其の捕獲に乘出したのだ。そして其の目論見は叶ひ、F氏殿は紅蓮島に其の衣怪を持ち歸つた。此處迄來れば君だつて何とは無しに判るであらう? 新發見の衣怪を、彼は『ミウ』と命名したのだね——
「僕は折を見て關東や條都を經巡つてラケツト團の連中の動向を探つてゐた。燻丁子(ふすべてうじ)なぞと云ふ辺境のアヂトに迄アギルダア宜しく忍び込んだ時は一寸した冒險であつたがね、其處で目撃した證據(せうこ)から僕は愈愈僕の豫感の真實ならん事を確信したのさ。と云ふのも君の御父上は更なる野心を抱いてゐたのだが、乃ち其れは自ら或神の所業を行ふと云ふ事であつたのだ。さうさ、彼は新衣怪を創造しやうという狂熱に憑かれて了つたのだよ。其れこそが彼にとつての所謂『絶對の探究』なるものだつたのだ。其の怪物的意志に誘惑させられたやうに、ラケツト團の連中がF氏に接觸(せつしよく)を圖り出したのも當然無理からぬ事であつた。無論御父上も連中の何たるかを知らない譯が無かつたらう。併し氏の空想するのは神をも恐れぬ所業故、少なからず山師の心理が働いたと見えるよ。さうした打算の爲に黑衣の八九三共は大胆にも教授氏にとつてのメフイストフエレスとして名告りを上げ、君の御父上も又フアウスト博士となる事を潔しとした。其處から惡魔的計畫が始まつたのだ。
「何も新種の、其れも幻の衣怪を手中に收めた丈けでも充分なのに祕匿するのは如何にも不自然だ。御父上が企んでゐたのは、無限の潛在態であるミウを母胎として全く別の衣怪を創造し果せる計畫だつたのだ。曰く其れを『ミウ貳號』と呼稱するのだね。君が紅蓮で見た言葉の意味するところとは乃ち是れさ。さうなのだ、『ミウ』は今もあの館の地下に設えられた極祕の研究室に居る。あの霜月の日も、F氏とラケツト團の酒木氏——教授氏は暗にS御大と呼んでいたがね——との會談があると云ふ話を得てゐたから、彼等のどさくさに紛れて僕は急ぎ紅蓮へと御邪魔した次第なのだ。君迄其處へ招待されてゐたと云ふのは意外な事であつたし、よもや運命的にと言ふ可きか、あの研究所別館へやつて來たと後で聞かされた時には驚きでさへあつたがね。此れも又君のカブトの導きと云ふ可き哉! 實の所僕は最う少しで研究所の奧地に踏込める所であつたのだが、ガアデイの咆哮を以て少少亂雜に退散しなくてはならなかつたが、其れも又中中刺激的な體驗(たいけん)であつたし、最低限得られる物は得られたのだ。御父上はだうやら始めは『ミウ』の身體の一部から『ミウ貳號』を生成せんとしてゐた。恰度アダムの肋骨を以てヱバが創造されたやうにね。併し此の手法は失敗したらしい。其れから現存する凡ゆる衣怪の検体を『ミウ』に投與したが此れも現状結果は芳しからざるもののやうであつた。少なくとも霜月の段階ではさうであつたのだ。ラケツト團の連中、性急にも計畫のサイドンの如き鈍さに苛立つたものらしい。君が紅蓮に來た日、S御大はF教授に注文を付けた。詰りは來年の紀元節迄に『ミウ貳號』を生成せよと。さもなくば御父上の不敬を世に知らしめるのもやむなし、とね——」

拾陸 


 ヱタア君の演説は更に續ひた。久闊(きうかつ)を叙するでも無い超然たる彼の辨をまう暫く御高覧戴きたい。
「君とカブトプスが忽然と失踪したと云ふ報せを知つた時僕等は恰度紅蓮に潜入してゐたのだ。ラプラスに乘つてゐたら一寸した冒險活劇もあつたのだがね、スタアミヰの羣れとの神祕なる邂逅! 遺憾乍ら其處は省畧(せうりやく)させて戴くけれど、僕は紀元節の迫る如月に件の勇氣ある氏からF氏の研究の重大局面に在るを聞かされてゐた。君の父上が到頭ミウを孕ませる事に成功したと云ふのだ。
「兎角僕はガラガラと共に急ぎ紅蓮島に上陸し、事の次第を確かめに參上した次第でね。果たして研究所は騷騷しかつた。陰氣を帶びた白衣の男どもは慌しく出入して、僕みたやうな部外者を(あし)らふ餘裕さへ喪失したかの體であつたから、事情は直ぐに飮込めた。(やが)てフオヽドが敷地内に入つて來ると、酒木御大が現れた。奴を恭しく出迎へた君の父上はそわそわとした樣子で其儘T型に乘込んで別館へと向かつて行つたのを見屆けると、僕等も動き出した。何、車が島の外周を囘つてゐる閒にちと先囘りをしやうと云ふ丈けの事でね。單簡さ、我がガラガラの進むに隨つて歩けば其れで良いのだよ。此れぞ阿弥陀式歩行の實践と云ふものだ。其れに研究所と別館の在る町外れは只山一つ隔ててゐるに過ぎないから、獸道を邁進すれば目的のミウの居場所に迄は存外早く辿り着くのはさう難儀でもないのだ。
「扨、別館の周邊には君も恐らくは見知つた黑衣の連中どもがこつそりと屯してゐるのに僕は氣付いた。此閒の黑シヤツ隊とか云ふ偉大なるダンヌンチオの模倣者どもの趣を僕は一見して其の羣から感じ取つたものだ。併し少少距離を置き乍ら破落戸(ごろつき)どものささめきを聴いてゐると、ぽつぽつと連中は肝要な情報を仄めかすから面白いね。奴らの語調は恰も件の「ミウ貳號」は我等の手中にでもあると自信滿滿であつた。とは言へ話題は専ら人造衣怪に據る金銭的功利なぞと云ふ隨分と俗な事計りであつたから所詮は八九三者さ。其の内連中が僕等に氣付いて因縁を付けて來たのをガラガラで輕く捻つてやつたが、奴等の負惜(まけおしみ)と云ふのでも無いが、何處か勝利を確信してゐるかのやうな驕慢さが何處と無く氣に掛かつた。
「閑話休題、僕は隙を見て再び大活劇を敢行して別館の中へ忍び込んだが、其奴はさして難儀な事でも無かったよ。元據りだだつ広い屋敷だから、ラケツト團やら研究員やらの目を眩ますのは容易であり、寧ろ心躍らせるものすらあつた。君は知らないだらうが、あの屋敷の中二階のバルコンから見下す深淵は其儘地下の隱し部屋への入口なのだ。梯子なぞ立掛ける暇は無論無いから、僕は其處からひよいと飛降りると、後は最奥へ忍込むのは直ぐだつた。
「『ミウ』は試驗管の中で眠つてゐた。そして、幾つも立竝んだ其れ等の内に丸で生まれたてのタツヽウの如き幼体を僕は發見した。其の見目形は、『ミウ』と似て稚いものの、母胎には無い異樣なるものを内に祕めてゐると云ふ印象を僕は受けた。
「軈て梯子のきうきうと軋む音のしたから、僕とガラガラはそつと物陰に隱れると、F教授と酒木氏が揃つて現れて『ミウ』と其の鄰の幼体の前に立つた。果たして其の幼体こそが『ミウ貳號』である事を、僕はF氏の説明から得心した。博士は、考え得るありと凡ゆる交雜の果てに残された最後の可能性に賭け、見事に勝利したと云ふ譯なのだね。神奧民話の一節を引用し乍ら、君の父上は彼の決定的瞬閒を語つた。確かに遠い舊翡翠の民の聲が無ければ、其のやうな發想は何人足りとも浮かび上がつては來なかつたであらう事は想像には難く無いがね。併し事實として『ミウ』は子供を産んだ。正しく可能性の獸たる『ミウ貳號』と目される可き存在をね。酒木はF氏の熱血小説的談話に神妙に耳を傾けてゐた。暫くして、奴は教授に恭しく或る提案を持掛けた……」
 もじやもじや頭を一頻り掻き乍ら、ペヱタア君は靑年の顏をまじまじと見詰めた。ガラガラは跳ね囘るのにも飽ひて靑年の鄰で同じやうに坐した姿勢を取つてゐて健氣である。父の所業を聞かされる彼は只默つて續きを促した。
「詰りだね、酒木は此れ迄の支援の見返りとして『ミウ貳號』を寄越せと言つたのだ。無論F氏は同意しかねた。科學的見地から種種の反論を試みたが、酒木も酒木で泰然として一向動じない。而も其の内奴が手を一打したのを合圖に、先刻の黑衣の男達がタマタマのやうに羣れ集まつて、教授を取圍んで脅して來る。其處で漸く僕は君の境遇に就て知る事となつたのだね。要求を飮まねば御子息と其の衣怪の命は無い、と云ふ陳腐な極り文句と共にね。行成子供達を天秤にかけられた教授氏は苦悶の表情で讓歩を請ふた。曰く個體の成熟には猶半年を要するのであり、引渡すにしても其れからで無ければならぬと。黑衣のラケツト團員どもは姑息だと氏に腕を擧げんとしたのを酒木は莞爾(につこり)として制止して、ならば此奴を養育してみよと言ふ。重陽の節供に我が子を迎へるのも粹だと言つて不敵に(わら)つてゐる。
「畢竟は樣樣な取決めと共にF氏には猶豫が與へられる事に極まり、酒木と其の取巻連中は去つて行つた。君の父上はぼんやりと試驗管の子らを直視し乍ら何を考へたものやら、深く嘆息したのを見屆けて、僕等は玉蟲へと急ぐ事にした。
「其處に出來た當世流行の遊戯場は酒木組の資本で囘つてゐるし、何なら連中の關東の據點(きよてん)にもなりつつある所だ。其れに、先程の下端めらが頻りに玉蟲、玉蟲と口にしてゐたから疑う餘地は無い。其處こそ君とカブトプスが俘虜となつた場所であつたのだ。僕はラケツト團どもの牛耳る一帶に堂堂と大門から乘込んださ。
「全く大したものだつた。僕とガラガラを中央として黑ずくめの奴らが大囘りをするのは中中、歌舞伎座の観客も瞠目したと思ふよ、いやはや、流石の僕も眩暈のするし、ガラガラの體力も心配せぬでは無かつたが、其れも又冒險の一部分であるから一興だ。併し乍らニドキングやサイドンに遭遇した時には肝を潰さない事も無かつたがね。不良とは雖も衣怪達の忠誠は本物だから振切るのは大仕事だつたが、同時に心躍る瞬閒でもあるのだよ、僕にはね。
「そしてアヂトの奧、貧乏宿かと見紛うやうな貧相な一室に君は捕らえられ、朦朧として、衰弱もしてゐるのを僕は見つけ、介抱した。横たわる君の側を守らうとするみたいに、カブトプスも又其處に(うづくま)つてゐたが、此奴も此奴で隨分と毒毒を浴びせられたと見え、君への忠義の爲に其の細身ノ體を鞭打つ事丈けで瀕死を免れてゐる状態であつた。其方(そちら)は手持の元氣印の欠片で應急處置すると吐血しつつも辛うじて立つて歩行する事は出來るのだから、衣怪(パキモン)の生命力と云ふのはいやはや恐る可きものだね。僕は君を背負ひ、追手どもをガラガラが遇らひ遇らひして、とまれかくまれ逃げ仰せて、此の醫院へ駆込んだと云ふのが事の長い顛末と云ふ事であつたのだ、ハハハ」
 暫し哄笑してぺヱタア君がぴたりと口を鉗むと、室内は水を打つたやうに静謐となつて、靑年は却て耳鳴のする程であつた。
「併し君は」
 真空に自己を漂わせてゐるやうな落着かない心持で、眼前のもじやもじや頭の開陳した話に少なからぬ當惑(たうわく)を覺江て、漸と口に出した。
「止めやうと言ふのかね。父と、連中の犯さうとしてゐる事を」
「何、僕は只好奇心に憑かれて動いた丈けの事さ」
 靑年は發作的には、は、は、と嗤つた。
「其のやうな事案を目撃したにしては、隨分と軽佻浮薄ではないか!」
 爆発せん計りの衝動を抑へ付ける可くにきつく腕を組んで、くつくつと震へる藝術家の姿を、ぺヱタア君もアルカイツクな微笑で以て凝視した。
「其れに僕はコスモポリタンだからね。最後はヒウマニズムを信奉する者なのだよ。Bonan tagon, sinjoroj!」
 聞き慣れぬエスペラントなどを弄して、又してもはぐらかされたやうな、けれども其れが此の男なのだと云ふ妙な氣持ちに靑年は陥つた。其の彼等を尻目にガラガラは寝臺を飛降りて、つかつかと戸へと歩出したと思ふと(しきゐ)の處で止まつて靑年に振向ひて視線を送つた。摑んだ骨で廊下の奧を指して其の先端が微かに揺らいでゐる。
「まあ、君。寝てゐる計りも體に毒だから、一寸歩かうではないか。其れに、早うカブトプスに會ひたいと氣が逸つてゐるだらう」
 靑年は久久に腰を擡げて牀の上に直立した。上體が木偶坊のやうにふらふらと蹌踉(よろ)めくのを辛うじて堪へると、懼る懼る一歩を踏む。固唾を飮み乍ら更に一歩を進む。斯くも單純運動の有難い事を實感しつつ、目眩く思ひで彼はガラガラの後ろに隨行した。ぺヱタア君が薄笑し乍ら其の傍に付添つた。
 「治癒室」と筆書された木札の掛かつた戸を押開くと、靑年が臥してゐたのと同樣の構造の一室に、背中を丸めた院長の背中が大きかつた。輪熊(リングマ)を髣髴とさせる醫者らしからぬ風體に少なからず吃驚してゐると物音に氣付ひた老醫者が徐に顔を振向ひた。憮然とした表情乍ら、不思議と險惡な印象は受けない面持ちである。
「恢復したのけ」
 大型の黒縁の蔓を摘み、まじまじと靑年を観察し乍ら醫者は呟ひた。
「ええ」
 寡黙な老醫者は静かに頷くと、暫時安静が肝要だでと繰返しつつ時閒をかけて木椅子から立上がる。其の樣はカビゴンの如く悠然として、正しく舊翡翠の悠久の時流に生きた大丈夫の貫祿とは斯くもあるかと感じられた。彼の巨軀が橫滑りするにつれて幕の開くやうに靑年の前に寝臺の光景が開けて來た。
「囘復藥打つたから、數日寢かせとけば大丈夫だべや。だけんど、虫の息乍ら連隊一つを壊滅させつ程の毒毒をどかんと浴びて猶も生命保つてるのだからおつ魂消(たまげ)つぺや」
 病牀には傷付ひたカブトプスが橫臥してゐた。無骨な痩躯を弱弱しく寢臺に凭れて、平常は目立たぬお猪口のやうな口が視江る程に半月上の頭を擡げて苦し氣な喘ぎを微少に洩らしてゐる。胸甲が呼吸に合はせて上下するに合はせて、其の堪へ忍ぶ化石の肉體から滲出る汗が電燈に照されて白い高光を放つた。苦難に據り腰部の括れは痩せ細つて峻厳さを增してゐたが、削落とされた肉から骨盤の一角が浮沈するのには意地らしい思ひを禁じ得なかつた。
 靑年は憶江ず膝を突ひて祈るやうに組んだ兩手を苦悶する白い腹甲の傍に添へた。荒氣な雷鳥(サンダア)の電撃を浴びたやうな情動の(うね)りに飜弄された彼は只管(ひたすら)恍惚の體となつた。謂わば嬉しくもあり、嘆かはしくもあり、狂おしくもあり、賛美して慈愛したくもあつたが、其れらは鉗子で選分ける事の不可能な迄にカブトプスの主人の内に結晶化した觀念であつたので、凡そ有限の言語に譯した途端に嘘になつて了ふのであつた。
「化石と云ふのは此處迄しぶといものかえ」
 カインの末裔たる醫者は息を吐き乍ら額の汗をハンケチで拭つて、患者たる異樣な風貌の化石衣怪を驚嘆の眼で見てゐた。暫く一匹の爲に時を費やしたにも拘らず、興味は猶も厭く事も無いかのやうである。
「我我は、まあ、科學の力つて奴のお陰で、原始と云ふものを垣閒見る事が出來るのですよ。其れを幸福に思ふかさうでないかも、其れを幸福にするのも真逆にするのも、全く人閒、此の懼るべきもの如何ですよ。僕は極力精神は健全であつた方が良からうかと思うんですけれどもね……おつと、さう言へば今日の夕刊は何處です。さうさう、何時もすまぬね。ええと、いやね、僕は芦原将軍の詔勅を拝謁しなければならないのでね。あれは臣民の義務ですよ。将軍は實に偉大な御方だ……ふむ、あつた。今日の「松澤村通信」……

『世界平和ニ付、シガナ師を以て烈空坐(レツクウザ)ヲ召喚セシメ海王鬼(カイオウガ)陸拉多(グラアドン)ヲ和平セシム
犬正拾貳年參月玖日 芦原将軍
梧桐、松房兩閣下』……」

『世界政府ヲ加洛斯(カロス)ニ置キ皇裔『フルドリ』ヲ以テ之ニ任ズ
犬正拾貳年參月拾日
フルドリ殿』

「いやあ此れは拝読す可き勅語ですよあなた、ねえ、全く。将軍は何時だつて正鵠を得てゐますなあ……」
 ぺヱタア君が普段の調子で應じてゐるのも、祈るかのやうな靑年には上の空であつた。自己の事も放棄して、彼は衣怪の傍から一歩も離れやうとはしなかつた。醫者は彼に病室に戻るやう催促したのをぺヱタア君は默つて引留めて、ガラガラと共に音低く戸を閉めた。夜になるのは瞬時であつたが靑年にとつては永遠であつた。彼は隈無く殉難者の肉體を彼の目を通して見つめ、認識し、感情し、繰返し深く嘆息した。窗からの月灯りが朦朧するカブトプスの全體を照らしてゐるのが、聖性の兆しであるかのやうに感知され、其れと同時に靑年の靈感が高揚して或る種の天啓を得た。
 カブトに據て蒙を啓かれ藝術に開眼した頃おいに、少年であつた所の彼の心を摑んだ繪畫の記臆が不意に想起されたのである。父の海外渡航の土産に貰つた外地の美術雜誌に挿入されてゐた一葉の圖版に猶も幼かつた少年の精神の祕奧は甚くも打擲(てうちやく)された。作者である畫家の名は美に(さと)い彼にも耳馴染みの無いものであつたのでまう忘れて了つてゐたが、其の繪の換氣するものは彼に言語に得難いものを遺したのである。畫題は『聖セバスチアンの殉教』であつた。
 今、彼の前には聖セバスチアンがゐたのである。彼の豐かで隆隆たる胸と腹の筋とを射拔く矢が視江た。其の悲痛な疵口から流れる血は、天上を思はせる鮮かな靑であつた。彼の表情は苦悶に押默り乍らも勇壯であつた。靑年は聖なる彼を抱く神を其處に確かに目撃した。
 視界に電撃の走つて一面真白となるやうな感覚の後で不可避の運命に邁進しつつある靑年はカブトプスの白甲の上を緩慢に垂れる汚泥を眺めてゐた。思へば、カブトとして復原された彼は、父親の狂つた野心の副産物に過ぎ無かつた。何か良からぬ事を爲さんとしてゐる家父を彼は苦苦しく思つたが、自己が浸つてゐる感慨は父の破滅的行動と不可分である。古代衣怪を態態犬正の世に活かしたのは全く人閒のエゴだが、だからと云つて其の因果を怨む決意を懷かせぬのは、しゆぴんと鳴くカブトの愛らしさであり、カブトプスの崇高な美であつた。其れは彼にとつての本質に他ならなくなつてゐた。
 風船から空氣の拔ける音を立て乍ら、カブトプスが目を開いて其の視界に靑年を捉へた。自らの体躯に浴びせられた雫の感覚に身悶えしつつ、靑年に合圖を送らうと其の鎌を徐に擡げた。未だ弱弱しくも、自らの個性を指示す可く鋭利で優美な曲線を示さうと頑張つてゐた。
「カブトプス、まう、大丈夫なのだ。安心するが良い。僕は二度とお前から離れぬ」
 靑年はカブトプスにさう呼掛け、病牀の衣怪の鄰に添寢した。彼の指が汚泥ごとカブトプスの肉體の凹凸を賞味する如くになぞり、各各の鎌も一本ずつ讃えるやうに愛撫して遣つた。一人と一匹は其の刹那、法悅の極みに屬してゐた。其れは呆氣なく終わると丸で夢の如くに次第に色褪せて了つたが、靑年は私が曾て紲より固きものと書表したものの何たるかを理解した。カブトプスを鏡として、幼き時分に「聖セバスチアン」に豫感された境地に竟に到達したのである。最早彼等に主從は無く、法悅への深き祈念丈けがあつた。

拾漆 [#1tYKEtl] 


 等が隱密の内に山吹へ歸京して據り暫くは、ラケツト團どもを恐れて室に留まつて日日を過ごしてゐたが、軈て連中が最早自分に固執してゐないらしいと悟ると、恐怖心は次第に和らいで來た。特段靑年とカブトプスが交渉の材料として然程肝要では無くなつたのであらうと云ふのがぺヱタア君の言であつた。其れに父の所業で自己の行動が制限される事への業腹が、靑年を愈愈奔放にさせた。
 父の消息に就てはぺヱタア君斯く語りし如くであつたが、紅蓮からの連絡が猶も途絶えてゐるのも靑年を不快にさせるには充分であつた。助手君の話したカブトプスの學術認定云云の話も文字通り七島の不歸窟の霧の如く有耶無耶である。父は矢張例の「ミウ二號」なるものに執心であるのかと想像を働かせると、元據り孝行の念の薄かつたとは雖も何處か自己を裏切られたと云ふやうな屈辱を覺江ずにはいなかつた。
 折しも卯月の初め、恩賜公園での展覽があつた。其れは靑年が焦がれたカロスの美術を一同に竝べた催しであり、多少の無理も惜しまれない機會であつた。僭越乍ら私の記臆に據て註釈すれば名稱を「第貮囘卡洛斯(カロス)現代美術展覽會」と云つた。カロスのとある美術商が自地方の最新傾向を關東に将來した此のヱヴエントは照和の世迄暫く續ひてゐたと聞く。前世紀末據り現代に至る畫期となつた作品等は、當時の観衆を熱狂させ、其れはかの靑年とて例外では無く寧ろ一典型なのであつた。
 併しカブトプスは扮裝させたにしても、正裝の紳士淑女が蔓延する展示室の混雜に置く事は出來かねたので、止むを得ずに格鬪大王の元に預かつて貰ふ事にした。嬉嬉としてサワムラアとヱビワラアが困惑し懇願するカブトプスの兩脇を掴んで道場へと連去るのを申訳なく見送りつつ、彼は陳列館へ急ひだ。殊藝術に關しては靑年にも讓歩せざるべからぬ事項もある譯で、猶且つ脚をじたばたさせ乍ら格鬪衣怪どもに抵抗する姿も又チヤアミングなので良しとした。
 果たして展覽會は收穫であつた。眼前には念願の光景が廣がつてゐた。心寄せてゐたダダヰズムがあり、シユルレアリスムがあつた。直に觀る魅惑的な「優美なる屍骸」の一覽は靑年の藝術感性を十全と刺激して止まなかつた。更に彼等の先達となつたルノワアルの華やかなミアレを、深淵なるセザンヌのキナンの山脈を、ゴオガンの野生味あるフヱルムを、クリムガンの配色に影響されたとも云ふブラツクの眩い抽象を矯つ眇すがめつして其等の清新さに逐一溜息を吐ひてゐた。正鵠なる新しい表現の息吹はフアイヤアが齎す春にも似て若き藝術家にマルドロオルが大わたつみに向ひて喚呼する courage(勇氣) を齎した。
 今度の催事には又、美術商が殊更に力を入れてロダンの彫刻羣を關東へ送り出してゐたのも靑年は觀覽した。彫刻家の創造した懊悩するトルソを石を穿つ程迄凝視した。古來の傳統に倣つた男性的肉體の美を帶びるも、其のトルソは己が體躯を畝らせて筋肉を緊張させた儘の姿には強烈な精神の發露が見受けられ、古典主義を脱した藝術の内包する生命に心打たれた。其れは關はりの無い計畧(けいりやく)に巻込まれて疲弊させられた彼の心を一刻癒し、いつそ酩酊させた。同時に彼はあらん限りの生を謳歌したくなつた。例えば預けたカブトプスに會ひたくてたまらなくなつた。一人と一匹で生きる歓びを拝受したくなつた。いつかぺヱタア君とガラガラ、そして仏法裝束のカブトプスと歩ひた道を靑年は大變愉快な心持で歸つた。道場のカブトプスは戯れるサワムラアとヱビワラアに搦められてラオコオンの如く身を捩らせて抵抗してゐるところであつた。サワムラアの指がカブトプスの胸と腰を擽つたので、其の身がぷるぷると痙攣してゐる。顏で嗤ふことの出來無いカブトプスの瞳が潤んでゐた。
「以前にも增して骨のある事だな」
 彼等を橫目に正坐して書を認め乍ら大王は呟いた。見るとサニヰゴを筆軸にした毛筆で「因果應報」「四面楚歌」と隷書してゐる。亂暴乍らも力強い筆致は丸で足で書ひたやうな趣で、畫作の戯れにカブトプスの脚に筆を持たせて好き勝手に描かせた物を思はせた。眼前のカブトプスは少年のやうに騷ひでゐる。
「さう云ふものですか」
 凝と主を見詰めるカブトプスに網代笠を被せ乍ら、又しても此處で鍛錬をさせぬかと勧誘をして來るのを靑年は微笑み乍ら遇らつた。だが彼の意識は既に畫室にあるも同然であつた。弱弱しい胸は激しく動悸もしてゐた。
 部屋へ歸つた靑年は徐にカブトプスの上衣を脱がすと、汗の雫の浮んだ肌けた胸甲に掌を押當てた。丈夫の如く逞しく隆起した胸の深奧據り化石衣怪の心臓の鼓動するのを感知し、其れが流動體として靑年の肉體に循環し燃立つやうな思ひにさせられると、彼の掌は熱心に骨張つた岩型の壯健を感じつつ愛撫した。急勾配に傾斜する曲線を滑落ちると、麓の鳩尾の凹みに指が觸れたのを原點にして、彼はカブトプスの胸の輪郭を心行く迄反芻した。
 法衣は花弁の如くカブトプスの脚元に放置されて、今や着衣を脱ぎ去つた衣怪の硬質な肉體が顕となつて靑年の精神は其れ丈けに占有されてゐた。彼は兩手で其の自然のトルソを鷲摑むと、肋骨に直に觸れん計りに力強い、按摩のやうな熱烈な愛撫を加えた。此の言語に絶する感激を表現するには只行爲丈けが相応しかつた。眼前にあるのは觸智出來るロダンなのであつた。あの情感瑞瑞しいトルソに載る可きは、カブトプスの三日月狀の頭部を置ひて他に無いと云ふ事が靑年には真実であると思はれたのである。居ても立ても居られず、彼は腰を摑んだ儘、夢中になつて唇を鳩尾へと押付け、滲む汗の雫を啜つた。生温く甘い味を舌に覺江ると、彼は至る處に接吻の雨を降らしても未だ足り無かつた。カブトプスが静かに靑年のサクラメントを受け乍ら、其の身をもぞもぞと拗ねらせると、トルソの勇壮さは愈愈苛烈な阿片の作用のやうに主人を恍惚とさせた。
 靑年は熱情を以てカブトプスを寢臺の上に押倒した。兩鎌と華奢な脚を寢臺の外側にだらりと垂らすと、茶色の体色に比して珠のやうに白い腹と胸が生贄に捧げられる如くに誇示された。親愛なる手に據て昂つた化石の身體は媚びるペルシアンのやうに頻りに腰を動かした。漏斗のやうに細まる下腹から熱を持つて芽を出したものを、靑年はまじまじと見詰めた。凡そ今世の人閒が野蛮と見做したものの崇高さは、一箇の藝術に匹敵し得ることを其の熱に據て信じた。
「カブトプス」
 叫び出さん計りに靑年は喚呼した。
「待つてゐてくれ、待つてゐるのだ、さうだ、其の儘、留まるのだ……いいかい」
 彼はまう熱に駆られて畫布の前に坐してゐた。繪筆に着手すると彼の目はカメラ・オブスクラとなつて此のヴイジヨンを些細な迄に腦髄に焼付けるやうにして、目と心を通じて浮び上がつた畫想を具體しやうと熱中した。描いてゐるやうな、描かれてゐるやうな、切り分ける事の困難な意識で、表現す可きものへとサイホオンのやうに猛進した。只此の時計りは藝術の神に呼ばれてゐるやうに思へた。アポロオンが畫を物する彼の手を取ってゐるかの錯覚に彼は陥り、憑かれたやうに色彩を畫面に浴びせた。
 完成した畫布には寢そべるカブトプスのトルソの具象があつた。クウルベの醜聞的な繪畫を髣髴させる程大胆に描冩された「鎌」は中心に直線に伸びて畫面を二分するかの如き存在感を放つて威風堂堂然としてゐるが、瞠目す可きは其の土臺となる腹甲の色彩であつた。若き畫家は視覚以上の物を見、其れらの總合を平面上に託したのである。彼はカブトプスのしなやかで強固な筋骨の内側を循環する靑き血汐さへも其處に浮上せしめてゐた。而して肌理は蒼白とし乍らも硫黄の燃え立つかのやうな潑剌たる生氣を湛へ得たのである。太陽光線を青褪めた色彩で描出したゴツホを自家薬籠中とした靑年の筆はカブトプスへの情感を通じて恐る可き畫境に到達したかに見えた。餘りにスカンダルを喚起せしめる計りの畫題にも拘らず、此のタブロオを真當に觀たならば余人必ずや陳腐な博愛主義を超越した情感を見出すであらう。
 處で讀者諸兄ならば何故私が此處で恰も其の繪畫を観たかの如く敍述できるか察しが付くとは思ふけれども、我が懷には今も猶數葉の繪葉書が残存してゐる。あの年の夏に帝都の至る所で香具師達が密かに賣り捌ひてゐた代物である。仮令世人が失念しやうとも其れは一瞬閒の燦きのやうな騷めきであり、其れ等逐一を、香具師連が捲立てた悍ましき言回しやら、其れを買い求める羣衆のにやにやとした好奇の面を私は鮮明に記臆してゐるし、無論其の一人に當時の私も居た譯であるが、此れから世に何が起こらうとも私は記臆し續けるだらう。兎角に此れらの繪葉書は當時の民衆の狂熱の紛う事無き證明である。軽薄な好奇の産物に據て私が彼の畫業を知る事が出來るのだから皮肉めいてはゐる。靑年の藝術がさうして消費せられたのは甚だ遺憾であるけれども必ずや此れが一世紀後の關東に於て正當な價値を認められると信ずる者である。
 靑年は此の時自分が紛れも無い傑作を成した事を確信した。藝術家としての現世的野心とは別物の、純粋完全に自己の意識と無意識が畫布の上に吐出された詩としての平面藝術を生んだと云ふ実感をである。どれだけの才能の天恵に與からうとも、此れを表出出來ねば全ては塵埃のやうに虚しいとすら思へてしまう程の表現を、靑年は爲したと思つた。其れは言ふ迄も無く、勝利の時に他ならなかつた。
 椅子に深く背を凭れて呆然とした靑年は、樣子を窺わうとして首を擡げるカブトプスと目が合つて直ぐ樣正気に戻つた。不安がつてゐるやうな、待望してゐるかのやうな視線は、靑年の感動をマルマインの如くに爆發させた。彼は寢臺に飛込むやうに近寄つた。カブトプスは兩鎌を廣げた儘靑年を受止める姿勢を示した。まう一つの「鎌」も力強く擡げられてゐた。
「カブトプス。太古から來たお前よ。僕が、お前を此の世で一番幸福な衣怪に、いや、雄にしてやらう」
 彼は躊躇する事もなく、「鎌」を咥へ、sucer した。犀鈍の一突きに接吻を施し、飴のやうに舐り慰め、味蕾に其の熱と粘着を感觸したのに、何らの不自然も異常も認め得無かつた。カブトプスが俄に息を噴射すると、腹部が甚く収縮して陥没部に薄らと穹窿を描ひた陰が落ちるのを眼下に目撃した。鳥瞰図のやうに見渡せる腹甲の成す渓谷の引締りは雄雄しく、隆起の谷閒には黒影が深く線となつて走つてゐるのは堪らないと云ふ思ひがし、自然が創造した耿耿たるトルソへと細細しい手指を這わせて其の形に感じ入り乍ら、彼は一心に口淫を續けた。
 窗からは沈む夕陽の光が差し始め、其の淡い橙色の光線が恰度悶えるカブトプスの胸部を照らすのに靑年は劇烈な快楽を見出した。万物が彼の野生を賛美してゐた! 有りの儘の肉體を呈示し、有りの儘の生命を誇示し、有りの儘の情感に身體を委ねる樣は、凡そ稱へられる可きである! 彼は口を狭隘に窄めた。カブトプスは鳴ひた。カブトのしゆぴんとは異なる複雜微妙な音聲を、氣の拔けるやうな調子で洩らした。其れは言い樣の無い歓喜を肯んずる一聲であつた。
 其れはジヤラランガの鱗でのギアルとオンバツトの邂逅據りも、況や『南風』の只一人神話的な肉體を備へた漁師據りも美しかつた。彼の行爲は其の超越的始原の美の欠片にでも觸れたいと云ふ其れ丈に盡きた。
 口内に注がれるねちやねちやとした熱き潮を丸で「如何でも治し」の如くに靑年は飮み干そうとした。鯉王のやうに跳回る射精を留め切れずに靑年の顏面に飛沫が散るのも拘泥せず、彼はカブトプスがとくとくと發射する白水を喉仏を蠢かすやうに上下させ乍ら腹へ收めやうとした。堪へられず、靑年は噎返つた。而してカブトプスの腹に吐き出されたものを彼は直視した。
「赤い椿、白い椿と落ちにけりだ」
 碧梧桐の句など嘯ひて、旭日旗のやうに染まつたカブトプスの腹を指で撫ぜ乍ら靑年は微笑み、促すやうに腰部を擡げると、カブトプスは從順に軀を裏返した。最早世界には彼等丈けであつた。
 帝都の櫻は今や花盛りであつた。

公開者による追記 その3 


 奇妙な出来事はあったものの、私の関東旅行は概ねスケジュール通りに過ぎた。セキチクからヤマブキへは、犬正当時にはなかった18番道路を北上してタマムシを経由して戻ることにした。『三ツ重之鎌』において、青年とカブトプスが拉致されていたという遊郭は、後に娯楽場に成り代わったが、それも閉鎖されてから久しく、往時を偲ぶ面影はどこにもなくなっていた。今ではすっかり閑静な一帯となったその土地の一角で、眼鏡をかけた老人が穏やかな目つきで池を眺めて佇んでいた。獲物を狙うために胸の模様以外の全てを透明にしてじっとしているカクレオンを思わせて印象的だった。
 その南側のタマムシジムの構える通りには、ジムリーダーの趣向でか、色取り取りの花々が植えられて、まるで絵画を眺めているほどにそこを通る私たちを心躍らせるものがあったが、これもまた青年のいた時代には無かったものである。近くにあった庶民的な食堂で軽い食事を取ると、腹ごなしにと私はもうしばらくタマムシを散歩することにした。ひと昔前まではロケット団の関係者たちと思われる連中も闊歩して治安の悪かった辺りも、我がコガネのラジオ塔での一件以来、すっかり見違えるようになっていた。
 エレベーターに乗って一気にタマムシデパートの屋上へ上ると、自販機でおいしいみずを買ってテラス席に腰掛けて一休みをしながら、変わりゆくタマムシの景色を眺めていた。喧騒としたコガネに比べると穏やかなこの街で、さっき見た老人のように日々を過ごしていくのも悪くはないなと考えた。いっそ亡くなった祖父の土地にそのまま越してしまおうか、などと頭を巡らせているうちに、近くにいた女の子が、うーん、やっぱり我慢する! と叫びながらドードーのようにクシャクシャと首を横に振った動きで、私の意識は俄かに冴えた。
 全く。私も年を取ってしまった。
 ヒロミさんの発表は果たしてうまくいったのかどうか。タマムシ大学はさして遠くもないところではあったけれど、後日ヤマブキのポケモンセンターで会おうと約束をしているからには、飛び入りで顔を出すというのも考えかねた。別にアカデミズムなものに対してアレルギーを持っているわけでもなかったが、わずかな期間とはいえ、あの謎めいた文書の発見者としてメディアの取材も受けた私だった。余計な好奇の目に晒されるのは嫌だったし、何よりあの文書のことを表面的な興味関心で語られて欲しくなかった。そんなものは、大量に送られてきた通知やDMの文面だけで十分だった。
 結局、私はごく普通にヤマブキへと戻ってきた次第だった。そして翌日、取り決めていた通りにポケモンセンターのカフェテリアでヒロミさんと再会した。
「おかげさまで意義のある発表になりましたよ」
 と、ホクホクした表情で古びた原稿を渡したヒロミさんは、レントラーのような鬣を揺らした。
「犬正期の知られざる画家にこうしてようやく光を当てることができたという手応えがありました。スキャンダリスムと大衆消費社会の奔流に飲み込まれてしまった彼の作品が日の目を見る時も近いかもしれません」
 ヒロミさんはこの間会った時に比べても陽気だった。話によれば、シンポジウムでの発表は上々なものだったようだ。これまでほとんど知られていなかった犬正の画家の作品とその人となりについて、少しでも世間に知らしめることができたことに対して、新進の美術史家である彼は大いに興奮しているみたいだった。確かに、知られざる作家の再発見という作業は、とてもスリリングな営みなのだろう。
「勝手ながらコピーを取らせていただきました。『三ツ重之鎌』はこれからも私にとって大切な資料の一つであり続けるでしょう。またあちこちの学会で彼のことについて語る機会もありますし」
「もちろん構わないですよ。まさかあの文章がこんな役に立つだなんて、思いがけないことでしたが」
「いえいえ……本当に、何とお礼を言ったらいいか」
 ヒロミさんは、
 私はふと、先日体験したあの奇妙な出来事をヒロミさんに話してみたくなった。けれど、そんな突拍子もない話を切り出すタイミングをなかなか見つけられず、青年の画業についていきいきと話す彼に相槌を打つばかりだった。そのうち、こんなおかしなことは口に出すでもないと居直るような気分になってしまった。私も一人で勝手に混乱する程度には人生を生きてきたのだと。
「まあ、何でしょう」
 あの文書を読み過ぎて「ぺヱタア君」の口調が移りでもしたのか、ヒロミさんはそんな前置きをした。
「少し、外に出ませんか」
 私たちは二人揃ってヤマブキの街へ出た。ヒロミさんがなおも熱心に青年のこと、彼のインスピレーションの源泉となったあの精悍なカブトプスのことについて話すのに耳を傾けながら、向かっていたのは恩賜公園であった。今も緑豊かで、いくつもの文化施設の立ち並んで人の絶えない場所であり、このようにして青年やカブトプス、それに「ぺヱタア君」とガラガラといった面々が歩いていたのと同じ道を、私たちは歩いているのだった。道中にはシント博士によるアルセウス像が現在も鎮座していた。石碑に刻まれた文字は長らく風雨に晒されたために掠れて読みにくくなっていたが、確かにあの文書に記された通りのことが書かれているようだった。この脇で網代笠を深く被ったカブトプスが喜捨を貰っていたと思うと確かに微笑ましかった。
「あの青年がロダンを観たのは、あの美術館でしたか」
「いえ、こちらではなくて、もっと先にある『YMAM』です。もっとも、犬正の頃からは何度か建て替えがされてしまいましたが」
「ワイ・エム・エー・エム?」
「すみません、つい私たちの用語で言ってしまいまして。ヤマブキシティミュージアムのことですね」
 そんなことを織りまぜながら、私たちは青年とカブトプスのことについて、まるで互いに見知った友人であるかのように語りながら散歩道を歩いた。この自然豊かな景観は犬正の世と比べてもさして変わっていないどころかその緑をいっそう濃くしていることを思えば、やはり感慨深いものがある。もちろん、玲和のヤマブキシティでは、老いたカメックスによる午砲が市街に響き渡ることもなければ、虚無僧のような格好をしたかせきポケモンがヨタヨタと歩いていることもないのだが。
「しかし、どうしても気にかかることがあります」
 私はヒロミさんにそう訊ねてみた。
「あの小説ともつかない奇妙な話は、一体どこまでが事実と言えるのでしょう? もちろん事件自体は実際に起きたことであることは確かでしょう。しかし、例えば『ぺヱタア君』という男が長々と語ったあの冒険譚には、100年前とはいえ信じ難いことが書かれています。文学には疎いながらも、どこか当時のエログロナンセンスの風潮に迎合して書かれたかのような趣は否めません。それにあの物語の語り手は異常なほどに青年に、何と言うんでしょう、憑依してものを書いているかのようです。どこか、青年本人か、『ぺヱタア君』が書きでもしたかみたいに、やたらと細部がリアルなのも奇妙に思えます。少なくとも、青年の完全なる伝記と呼ぶにはあまりにも創意が入り過ぎていると思うのですが、果たしてあなたが言うほどまでに資料としての価値はあるのでしょうか」
 ヒロミさんは公園の木々を眺めながら、私の質問について考えていた。
「もちろん、記述の内容には検証の余地はあるでしょうが」
 ゆっくりと肩を回しながら、ヒロミさんは溌剌とした調子で答えた。その表情は好奇心と冒険心に満ち溢れていて、前触れもなしにいきなりその辺りの茂みに飛び込んで虫ポケモンの一匹でも捕まえて来そうな気配だった。
「私は個人的にあの青年の散逸した作品を探し出してきました。そんな自分なりの体感として、『三ツ重之鎌』の少なくとも、画家に関する記述は概ね真実ではないかと思っています。ご存知かとは思いますが彼の家は当時の名家でもありましたから、その消息についてある程度は追跡することが可能でした。その中にはこの『三ツ重之鎌』で言及された作品も含まれています。彼の相棒であったカブトプスを描いた一連の絵画ですね。その画題は当時としては極めて挑発的で反時代的であったであろうことは十分ご想像いただけると思いますが、あの文書は実物にかなり沿った描写をしているのです。この正体不明の著者は、照和の時代になってから何らかの機会があって青年の作品を間近で観ることができたのでしょう。恐らくは私のように作品を探し求めて全国を駆け回っていたのかもしれない。そしてこの人物は、青年の絵画が醜聞のために描かれたわけではなく、ましてや一過性のポルノグラフィでもなく、あくまでも崇高な美だけを見据えていたことを、あの時代の狂騒にもかかわらず、いみじくも見抜いていたのです。それはとても驚くべきことに私なんかには思えます。つまるところ、私はこの書き手の熱烈さに心底惹かれているんですね。こうした巡り合わせがあったからには何としてでも、彼の思いを受け継いでいかなければならないと、この情熱を無駄にはしたくないと、この文書をネットで見つけた時に感じたんです。私はこの書き手の仕事を引き継いで、完成させてやりたいんです」
 今時の若者の外見に見合わず、ヒロミさんは私のことを真剣に見据えながらそう答えてくれた。レントラーが透視能力を働かせているのと同じような眼差しだった。やはりこの人は変わっていると思うと同時に、彼が私の見つけた謎めいた文書に惹きつけられたのも宜なるかな、と納得させられるものがそこには宿っていた。『三ツ重之鎌』なる怪文書の著者もまた、そのような人間であったのだろうか? よしんばその人物は、ヒロミさんのような人が現れることを確信していたのだろうか?
「根本的なことをお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「あなたが青年のことを研究するようになったのは、一体どういう経緯だったのです?」
「それを話すと、なかなか話が入り組んでいましてね」
 ヒロミさんは照れ笑いしながら、しきりに頭を掻いたのだった。

拾捌 


瘵だべや、こりや」
 ペヱタア君に呼ばせた件の玉蟲の老醫者(いしや)はさう診斷した。寢臺上の靑年は一息置ひて其れが肺結核の事を言つてゐるのだと了承した。頻發してゐた惡寒や喀血は明瞭に結核の初期の兆候を示してゐた。此の(まま)拗らせるやうでは行かぬ、直ぐにでも療養するがよろしと醫者は石竹沿岸のサナトリウム等を推薦したが、彼は斷固として首肯しなかつた。
 靑年は血眼になつて醫者の提案を突跳ねた。ほんの一瞬閒でも相棒と距離を置く事は万病にも優る苦痛であると雄辨(ゆうべん)した。此の蒼白で弱弱しい體躯の何處に輪熊に刄向かう底力が有るのか、驚嘆される程の迫真で、彼は意固地にも此處に留まることを主張して舊翡翠人を閉口させた。彼の言い分は丸で幼児の如きであつた。療養を推奨されればカブトプスと離れるのは厭だと言ひ、ならば玉蟲の醫院へ移るやう諭されると今度は繪に没頭できぬ環境は厭だと言ふ。病魔に侵されてゐると(いへど)も如何に此の場所が藝術家にとつて欠く可からざるものかを言張り、一歩たりとも後退しなかつた。僕は二度とお前から離れぬとあの玉蟲の夜に病牀で誓つた事を靑年は決して忘れずに墨守してゐたのである。
 第一未だ巷閒に認知されぬ衣怪を如何するかが問題であつた。カブトの頃より一瞬刻も靑年の側を離れた事の無かつとさへ言へるカブトプスが如何なる理由であれ、主人から長く引離す事は凡そ困難である。一緖に療養地へ連れて行くのも論外であつた。餘計な醜聞は靑年にとつても誰にとつてもゴオスの瘴氣(せうき)の如く毒であつたし、件の黑衣の集團に再度目を付けられるのも億劫であつた。糅てて加へてさうした動向の一切を紅蓮で猶も沈默してゐる父の耳元に入る事が癪であつた。何れにせよ其の報せが紅蓮に屆ひたら圖圖しくも父か代理の者が來て自分を石竹か何處のサナトリウムに拘禁して、此れを好奇にカブトプスを標本にでもするつもりであらう。あのカリガリに丈けは相棒を引渡す譯には斷じてゆかぬと靑年は意固地だつた。
 終に醫者は根負けして了つた。如何するべや、と独言を漏らし乍ら游ぐ視線がもぢやもぢや頭の方へ否応無く向かふ。先刻からペヱタア君は橫槍を入るでも無く、腕組みをしてマントルピイスに寄掛かり窗枠から覗く電線の区切る空閒を打ち眺めてゐた。部屋の片隅でカブトプスは縮こまつて坐し、其の(となり)でガラガラが担へ銃の如き直立不動の姿勢を取り續けてゐるが、時折太骨を以てカブトプスの逆三角の骨盤を晩鐘のやうに打鳴らした。
胆礬(たんば)の藥屋にや、祕傳藥つうもんがあんだ」
 ぽつりと御老體は漏らした。曰く舊翡翠の開拓を共にした同志が故郷の胆礬へ歸つて辺境の崖淵にある先祖代代の藥屋を繼ひださうだが、其處で祕かに繼承されてゐる藥と云ふのが萬病を忽ちにして治癒して了うなぞと云ふ蓬莱の玉の枝のやうな代物なのだと耳にしたと、さう云ふ意味の事を言つたのである。
「成程さうかい、ぢや、其れを貰つれくれば萬事解決と云ふ譯だね」
「わがんね。だけんど梃子でも動がねえつうんなら博打打つしか仕方ねえべや」
 ぺヱタア君は猫騙しのやうに醫者の眼前で拍手して媚びるガアデヰのやうに笑つた。悪戯心溢れる滿面の笑みである。
「いいさ。生きる事だつて元來博打みたやうなものだよ、ねえ、君?」
 靑年は即坐に首肯した。ガラガラが骨を振るつてカブトプスの仙骨をこつと打つと、脚氣患者の如くに敏感な反應を示し乍ら尻餅をつひたので、ペヱタア君も靑年も其れを視て一頻り興じた。
「だが、車持皇子みたやうでは困るね」
「何。其奴據り面白い話でも拵えて來やうぢやないか」
 結局靑年は部屋へ留まり、醫者が月に数度往診して貰ふ事で兩者は同意した。そしてぺヱタア君は老醫者の紹介状を攜へて胆礬を訪ねる段に決まつた。呉呉も此の事は當分は自分等丈けの祕密であると何重にも念押しさせた。
「參つた、參つた」
 驚呆れる無骨な老人に靑年の知友は口端を歪めてキマワリのやうな莞爾顏を送つた。一先ず次回の往診の予定を告げて輪熊氏が歸ると、夕暮時の一室に二人と二匹が残された。
「漢劍當に飛び去るべし、とはさうは問屋が卸さぬね」
「李賀宜しく病みて郷里に歸るとでも思ふかい」
 靑年は(わら)つた勢い激しく咳込むと、ぐつたりと仰向けに橫臥した。するとカブトプスはすつくと起立して、侍るやうに寢臺の側に移つた。ペヱタア君はクスリと笑ふ。
「其れにしても良い伴侶を得た事だね。どんな御婦人據りも御婦人らしい貞淑振りではないか。甘やかされ續けたイヰブイとて、此處までは懷くまい」
「功徳と言ふものさ」
「やけに信心深くなつたものだね、君」
「大本教も吃驚(びつくり)だ」
 二人は相互に微笑を浮べた。其處には暗默の了解が橫たはつてゐた。即ち絶對的自由の誓約とでも言ふ可きものが。
「君は僕を一向心配するでも無いね」
「君は君の事を一寸も不運と思つてゐないからには、如何して君を憐む必要があるのだい」
 靑年は深く首肯した。
「君は解答を知つてゐ乍ら答案を白紙で出す落第生のやうだ」
「お陰で尋常さへ(ろく)に上がれ無かつたものでね」
 二人は快活に笑ひ合つた。
「正月に散歩した時、君が言つた事を覺江てゐるかね」
「比翼連理の事かい」
「流石だね。即答だ」
 ぺヱタア君は拍手を送つた。靑年は惡漢小説の主役の如く不敵になつてカブトプスの腰を片腕に抱止めて白い齒を見せた。
「僕は此奴に誓つたのさ。先だつて玉蟲でね、僕は二度とお前から離れぬ、と。一度誓つた事は墨守するさ。假令(たとい)天變地異が起こらうともね」
「丸で戀愛小説のプロタゴニストだ!」
 ぺヱタア君は頻りに髮を掻き上げた。入道雲のやうに俄に膨張した黒髮から香炉峰の雪の如くに頭垢が舞ひ降りた。
「ダプニスとクロエヱ! トリスタンとイズユウ! ポオルとヴイルヂニヰ! 騎士デ・グリウ! マノン! 全く天晴れな事だ!」
 もぢやもぢや頭の男はげらげらと哄笑し乍ら手を一層高く鳴らし續けた。其れに併せてガラガラがこつこつとカブトプスの背を叩くと乾ひた音が鳴つた。靑年も餘り可笑しいので破顏一笑した。喧しい管弦樂であつた。
 さうして一旅がてら胆礬詣ででもしてやらうと言つてぺヱタア君とガラガラは三度風のやうに山吹を離れて行つたのであつた。逗留先から便りを寄越すから何かあつたら連絡すると良いと彼にしては珍しい気遣ひを見せたのが、當然の事乍ら靑年には妙であつた。
「聞く所に據れば胆礬には水君(すいくん)樣がひよつこり現れると云ふらしいよ。何、ちよいと祕傳藥と一緖に御覽にいれやうではないかね」
 なぞと軽薄に言ひ残して去るのも如何にもコスモポリタンらしい振舞である。
 而して彼の言の通り、識布通りのガラル風アパルトマンの一室は彼等にとつての小宇宙と爲つたのである。淸新な空氣なぞ據りも療養する閒中カブトプスの躯體を飽かず眺め戯れてゐる方が靑年には遙かに効ひた。實際、胸は小康になり出してゐるやうに感じられ、氣分も隨分と樂になつたやうに思はれた。苦痛を抑へる爲の阿片やモルヒネなど無論不要であつた。私は其處は何度強調してもし足りぬ。大衆は當時靑年を阿片中毒のボヱミアンであると決付け新聞各紙も連中に迎合したが、私は奮激して斷言する。其のやうな戯言は何等證據(せうこ)の無い捏造に過ぎぬのだ。私は其の爲に記録せんと慾してやうやく此處迄四苦八苦して書き繼ひで來たのである。私は小説家先生では無い。學者先生では元據り無い。只平然と流布せられてゐる誤謬に私の良心が堪へ難かつた爲なのである。私が言表するのは正氣と狂氣の彼岸に在る一存在である。其の意思自體は雲泥の差故比肩す可くも無いものの、畫家たる靑年が見たビヂヨンと同じ方向を向ひてゐるものと細やか乍ら自負してもゐるのである。
 事實としては、苦痛の折は只寢臺に橫たはり乍ら、或は牀上で結跏趺坐し乍ら化石衣怪の躯幹を愛でてゐれば事足りたのである。さうする丈けで靑年の諸神経は忽ちにして工場の如くに立働ひては、ドガアスの噴出する毒瓦斯(がす)であらうとも浄化して仕舞ふのだつた。殊に鋭利なる兩鎌の形は愈愈彼を蠱惑させた。一流の刀匠に鍛へ上げられた刀の有する其れを髣髴させる素晴らしき反りと(むく)りを鑑賞し、指で觸れては徐に撫でさすつては幾度と無くド・クヰンシイの嘆息を漏らしたのだ。其の一撫で毎に畫作への熱情はリザアドンの尾焔據りも、マグカルゴの熱據りも熱く燃え上がつた。彼は忽ちにして畫布の前に坐すると彼の心眼の見出した處の物を吐露した。カブトプスを通じて注入された詩的靈感は蒼白な靑年を今やレムブラントへと豹變させた。描く事への慾求が彼の身體を盡く滿たしてゐた。今頃關東藝大西洋畫科の學生連中が作品を展示して貰う可く刻苦勉励してゐるであらう二科や帝展等最早埒外であつた。歴史に名を留めるなぞという卑小なレゾンデヱトルすらもパアスペクチヴの消失點の如きであつた。只自己の強烈なる表現の爲に描けば其れで良いのである。字義通りの藝術の爲の藝術を靑年は実践してゐたのである。其の至上主義は蒼穹の如くして彼の畫作に觸れる者をして必ずしや畏敬の念を(いだ)かしめ自ずから情念を胸に宿らせんものであると私は自筆を以て證言(せうげん)したい所存である。
 畫作の構想はギヤロツプの跳躍のやうに軽快に浮上し、彼は何時の閒にか畫布の前に坐してゐるのはヂアルガ時神の御業かとも思はれる程であつた。兩鎌を構へつつ前傾姿勢を取つて固唾を飲んでゐるカブトプスを凝視し乍ら、畫家は繪筆を書家の如く狂熱的に走らせた。日がな一日、視て、兎角視て感知した事全體を白い画布へと衝突させて具象を描き出して行つた。恐懼す可き事であつた。彼の眼力はボツシユやらブリウゲルやらと云つたフランドルの畫家達の幻視にも引けを取らなかつたであらう事は彼の繪を御覽戴ければ容易に了解出來る。此處で私は此の致命的數ヶ月に於る大傑作の一枚を如何しても描寫する爲に餘計な字數を弄する事を御許し戴きたいのである。
 其の繪では、畫面の中心に据江られた一體の、見事な英雄と少年の美とを其の痩躯に凝縮したカブトプスが己が鎌を鮮血に染めてゐるのだ。鎌は美しい反りと起りを描き乍ら、女の肌のやうな艶かしい白を誇つてゐたが、研ぎ澄まされた先端が黒ずんだ薔薇色に汚れ、其れが人閒で云ふ肘の方にまで流れ傳つてゐるのである。他方、壮健な男子のやうな膨みを持つた胸と腹には矢が深く突き刺さり、疵口から目の醒めるやうな羣靑の血が垂れてゐた。然して、視よ、肘に達した流血が涙のやうにトルソオへと流れ落ち、カブトプスの靑い血と混ざり合うのである。二種の血の交差する領域は紫に変色し、悍しくも崇高な印象を掻立ててゐた。疵ついたにも拘らず眈眈とした眼で此方側の我我を視遣るカブトプスの表情が、此の不可解乍らも観者を惹付ける繪の動力源とも爲つてゐる。或は其の表情はセバスチアン宜しく恍惚の體であるかも知れぬ。長く其の繪に對してゐれば、畫面に固定されてゐる筈のカブトプスが超越的な存在のやうにさへ思へて來る。只確信出來るのは、靑年は閒違い無く此のカブトプスを彼の悟性に於て見出し得たと云ふ事なのだ。さうして畫面下方の化石衣怪の鼠蹊部を區切るやうに橫に描かれた食卓があり、果物や陶器で構成された静物があるのだが其處で一際目を引くのが、と云ふ據り明かに異樣な風體を放つてゐるのは片隅に轉がつた一人の男の首である。截斷面は美しい程に直線であり、赤色と微かな紫とを織り混ぜてだらりと卓上へ流れてゐるのは生生しい。而も驚く可きは、其の首の正體である。最早言迄も無いかも知らない。其れは紛れも無く其の男の顏は靑年の自畫像に他ならなかつたのだ!
 此の繪を描き了えた狂熱の畫家は兩肺に窗からの新鮮な空氣を何度も發情氣味に呼吸し乍ら、畫布に描上げられた強烈なヴイジヨンを事細かに点検して大いに滿足した。視線を落とすと、何時の閒にであつたであらう、カブトプスが側で膝立ちになつて、靑年を見上げてゐるのだつた。彼は莞爾と其の半月状の頭を掻撫でて遣つた。カブトプスは豪胆になつて顏の底面を靑年の膝に載せた。然うして其處にある口をトサキントのやうにぱくぱくと動かし始める。不器用にも異形な頭を股下へ押し付けてゐると、軈て蠢動する物を捉え、生地越しにちうちう、とカブトの頃のやうに吸付いて來た。
「さうか、お前も戀しかつたのだな」
 靑年は笑ひ乍ら寢閒着の下を捲り、椅子から微に下半を浮かせつつ猿股を引摺り下ろした。直樣カブトプスは釣餌にかかつたコイキング宜しく露出した物を小さな口に挟み込んだ。懼る懼る其の半月頭を下げていくにつれて、皮が捲れて内側の肉が膨張する感覺に靑年は大いに高揚した。魂を一にして過した朋輩から受ける奉公は皮つるみ等及ぶ可くも無い無上の悦びを彼に提供して呉れたのである。僅かな口腔を目一杯に開ひて人閒の男性器を咥へ込んで吸上げる有樣は凡そ娼婦にも劣らぬ程に煽情的であり、其れを衣怪が、更に化石だつたものがしてゐる事案に彼は深い感慨を覺江てゐた。
「人の衣怪と交はれるあり、衣怪の人と交はれるあり、昔方には人も衣怪も同じければ世の常なりき」
 紅蓮の研究所で助手君が朗じた古詩の一節を口遊み、正に今自分とカブトプスがさうである事を若き藝術家は實感してゐた。假令其れが幾重もの倒錯と見做されやうが、戀愛の本懷は此處にこそ在ると信じる事が出來た。
「カブトプス。お前が人の女であつたなら、どれ程氣が樂だつた事だらう。併しお前が假令人であつたとして、僕が此處迄お前に情愛を懷く事があるだらうか。女であつたとして、僕がお前の肉體の美に見惚れる事があるだらうか……」
 頭を上げて身を少し計り痙攣させて、薄暗い天井を恍惚の體で見詰めてゐると靈魂の拔けたやうになり、其れと同時に微かに空虚となつた精神の閒隙に不穩が流入して來て、物哀しい氣持にさせられるのであつた。不本意にも袋小路に追ひやられた仔ラツタのやうな心細さに身を切られる思ひに彼は身を沈めさうになつた。成程自分はカブトプスと共にある限り肺を犯されつつあらうとも一向幸福である。併し狂熱が離れた一瞬閒此の麻藥的至福が何時迄持續するか如何かはピツピの指振よろしく未知數である事にも變はりは無いのであつた。ぺヱタア君の指が腦裏に想起された。彼は胆礬の祕傳藥を恙無く提攜して歸つて來るのか否か。懸念は數へ出せば盡きる事が無かつた。
 だが主人に漂つた黑雲を敏くも察知して、カブトプスは熱棒を勢い良く、ぢゆる、ぢゆると啜り上げたのである。
「おゝ、/\。さうだ。もつと、/\……」
 悶へ喘ぎ乍ら彼は声高く絶叫した。粘膜の鈍く擦合う音は言語を絶して堪らなく思つた。肝要な所で弱氣になるのは人閒理性の惡しき缺陥であると靑年は自省した。カブトプスが自己の愛情に報いたからには、此方も其の忠義に應へねばならぬ。白濁に甲顏を汚して得得としたカブトプスを見遣り乍ら、彼は心にハガネヱルの身據りも堅く誓ふのであつた。
 嗚呼、私は楚の屈原に倣つて語尾には一一「兮」と付けたいやうな、胡ぞ慨嘆せざるの境地である。此處まで書連ねて來た以上は今更後退する譯にも行かなくなつて了つた。ソオナンスに影踏されたやうに、黑き眼差しで視詰められたやうに、私は逃げられないし他人に縋る事も能わぬのである。

拾玖 


 緑の頃ほひ、土壤からアルキメンデスどもがちらほらと顱頂(ろてう)を覗かせる時候となつた。靑年は畫作の息拔(いきぬき)に窗際に立つて葉の仄かに薫る新鮮な帝都の風を吸つてゐた。肺の調子は近頃は頗る良くなつてゐた。發作の苦悶はあれども堪へ難い程でも無かつた。尚も永続する熱情が症状を和らげてゐると言つても良かつた。肌膚(はだへ)は血の赤らみを徐徐に取戻しつつあつた。診療に來た輪熊氏は感心しつつもペヱタア君の旅の次第が分かる迄は養生するやう繰返し忠告した。或は祕傳藥さへ要らぬかも分からなかつた。
 識布通りの街路から学童らの歌聲が靑年の(たたず)む窗迄立上つた。往時八十(やそ)の童謡は幼兒等が口を揃へて唄つたものであつた……

 歌を忘れた ペラツプは
 うしろの山に すてましよか
 いへ/\それは なりませぬ
 
 歌を忘れた ペラツプは
 背戸(せど)のこやぶに うめましよか
 いへ/\それも なりませぬ

 歌を忘れた ペラツプは
 柳のむちで ぶちましよか
 いへ/\それは かはいさう

 歌を忘れた ペラツプは
 ざうげの舟に 銀のかい
 月夜の海に 浮かべれば
 忘れた歌を 思ひ出す

 靑年も又流行の童謡を口遊んだ。ミウズのカフエヱでも聴ひた覺へのある樂句は童歌乍らも今の彼のサウダアデに滲入るものがあつた。困難にも拘らず彼を生かしてゐたのは燃盛る制作への熱情に他ならぬ。謂はば常人には凡そ到達し得ぬルカリオの如き鋼の精神力の(たまもの)であつたからには、「歌を忘れる」事への本能的恐怖を靑年は言語化せぬ儘に抱へてゐたのである。カブトと邂逅する據り以前の記臆が茫洋と想起されたので靑年は努めて其れを海馬據り振払つた。恐る可き神經の衰弱を來した幼年の暗黑時代は思ひ返すだに悍ましい。
 カブトプスは椅子に凭れて轉寢(うたたね)をしてゐた。部屋から殆ど出られぬ無聊も深まつた靑年との一時のお陰で充分に慰められてゐるやうであつた。先刻靑年はガラル製のテヰカツプにアラベスク産の紅茶を注ひで飲んだ。事情を知つたミウズが見舞ひに持參して來て呉れたものであるが、其れを一口すると頭には真先に桃色のイメエヂが思ふ浮んで不思議である。カブトプスが興味を示したので試しに茶碗を近付けて遣ると、ちよこんと椅子に坐り込んで身を屈めた。靑年は其の樣子を仔細に觀察した。カブトプスは顎下に格納されたやうな口で茶碗の淵を咥へると、其儘ぐいと持ち上げて器用に飲む。かちやりと音を立てて茶碗を置くと、カブトプスは細長い紅色の舌をちろと垂らして苦い表情を見せた。靑年は微笑を禁じ得なかつた。半月状の顱頂部を勞るやうに撫摩つてゐるうち、穏やかな気候に吊られてカブトプスは微睡みに落ちた。
 學童達が去つても何時迄も彼は童謡を口遊んでゐた。窮まつてゐる等と言ふのは丸で検討違ひやも知れぬが、其のやうな中でも靑年は未來派的樂觀と信賴の下にあつた。彼にとつて現在の持續こそが生であると思はれた。其の思想に據ればペヱタア君がコダツクの頭痛さへ治すと云ふ祕傳藥を攜へて歸つて來るだらうし、靑年の病は癒江るだらう。さうしてカブトプスとの日日は續ひて畫家は名を成すであらう。窗に差す光輝は彼の天冠山の後光の如き眩さを誇つてゐた。
 遠景には下町の立ち竝ぶ一帶據り十二階の聳江(そびゑ)るのが遥けく眺められた。古都槐の鈴の塔に張り合わんとして畏くも明冶大帝の御代に建てられた高塔は、猶も其の姿を示しつけるが如く仁王立ちしてゐる。其處據り(すこ)し許り離れると五重塔が張合ふやうに聳江立つて視江るのも風情であつた。其の下を正月にぺヱタア君達と連立つて歩ひた事が早や懷かしく思へ出した。そんな事を考へたのも年の明けて據り思ひ掛けぬ出來事が連續して出來したからでもあつた。
 二度識布の街路に目を遣ると、街燈の側に此方を物静かに視詰める人影を見出した。其の風貌が帝都の風俗からすれば如何にも奇異であつたから靑年も直ぐに目が留まつた。頭髮はモンヂヤラのやうに亂れ果てて物乞同然の體で、ペヱタア君のもぢやもぢやと較べても隨分と不整な印象を與へた。其のやうな頭蓋に大振の眼鏡を吊り下げて、而も口元を白布(マスク)で覆つてゐるのは尚更異常である。流行性感冒(インフルエンザ)の時世でもあらぬのに嚴重な防護を施してゐるのは甚だ不氣味で只ならぬとしか思はれ無かつた。
 其のやうな男が窗際に彳む靑年を睨め付けるやうに觀察してゐる。不吉な兆候を感知するには充分であつた。靑年は凝と眼下の男を睨み付けた。さうすれば霧の晴れるやうに此の人閒も消去せられるのでは無いかと空想した。果たして、男は其處に居続けた。(あまつさ)へ、何かの合圖と思つたか彼はつかつかと靑年のアパルトマンへと入つて來る氣配であつた。俄に動悸して、靑年は仰反るやうにして窗から距離を取つた。階段をゆつくりと上がる足音が此處迄響ひて來ると感じられた。カブトプスは即座に目を覺した。只ならぬ主の樣子を見て直樣(すぐさま)側に駆付けたのは賴もしく、多少は心を落ち着かせる事が出來たのであつた。
 玄関の鈴がチリヰンと鳴つた。硬直した彼であつたが、毅然として進んで扉を開けた。襤褸(ぼろ)となつた白衣を被つた陰氣な男が眼前に起立してゐた。白布越しに唇をわなわなと震撼させて、男は暫く沈默した。靑年も決死の覺悟を以て相對してゐた。やけに靜かなのを訝しんでか、カブトプスが懼る/\靑年の背後へ進み出た。男が突如鼻息を噴出して、眼鏡のレンズを白く曇らせた。
「あゝ」
 男の聲は餘り低くぼそぼそとしてゐるので母音が濁つてゐるやうに聞取れた。靑年は何と應へて良いやら分からずぼうとした。カブトプスも尚更困惑し、恥じらう素振りで鎌を下ろした。又しても玄関で長い沈默が續ひた。俄に男はふうと大袈裟に嘆息して見せた。仄かに晴れたレンズ越しから覗ひた瞳が潤んでゐる。男はよたよたと靑年の脇をゴオストみたやうに擦り抜けて、カブトプスの脚元に膝を付ひた。
「僕の、僕の」
 譫妄染みた男の容貌を閒近から視て靑年は漸く思ひ出した。先年ロイド眼鏡の助手君に隨行してゐた物言わぬ理科系の男だ。強い主張の籠つた視線で自分を見詰め、默默とコダツクキヤメラでカブトプスを撮影してゐた者が、ルムペン同然の形をして此處に佇立してゐる。只ならぬ事態を察して彼は慄然とした。一先ずはカブトプスに縋る此の男を立たせやうと背中を持上げたが、体重はぞつとする程に輕かつた。骨皮筋右衛門は羽交締めにされた儘捉えられたコラツタかピカチウのやうに項垂れて埒が明かぬので其の身を椅子へと引き摺つた。丸で死體を隠蔽してゐるみたいであると、探偵小説に見られる殺人者の心理を靑年は感じた。
 アラベスクの紅茶を差出して、男が何か喋り出すのを待つてゐた。テヰカツプから白桃色の湯氣が立上つて部屋の空氣と溶合うのを觀察し乍ら、其の向かうで肩を落とし恍惚然としてゐる男と辛抱強く對峙した。奇妙な静穩が流れた。カブトプスは緊迫して肩を俄に聳かした儘の姿勢で硬直してゐる。
「さう沈默してゐても解りませんから」
 靑年は焦つたくなつて遂に先んじて聲を掛けた。
「一體全體何が起こつたと云ふのです」
 男は轉寢から突如として覺醒した者のやうに反射的に上體を動かした。勢い平衡を失して椅子から倒れ落ちさうになつたのを慌てて取繕つた。神奧の故事に聞くダアクライの餌食に爲つたかの風情で男は唖然として周圍を鳥衣怪(パキモン)の振舞で視囘した。
「あゝ」
 男はくぐもつた聲を出した。
「相済まぬ、相済まぬ」
 と言つて頻りに謝罪する。譯も解らぬので閉口してゐると、
「僕は、何もかも、破滅させて、了ひました」
 なぞと洩らしたのだから驚愕させられる。
「君、何を言つてゐるのだい」
 靑年は身を乘出した。テヰカツプがかちやりと音を立てて紅茶が微かに卓上に零れた。
「僕等は、最う、お仕舞いなのだ」
 其れからの男の話は熱病に浮された調子で一向要領を得なかつた。意味の纏まらぬ単語を一二發語しては默込むかと思ふと、メエトルを上げた如く語るに熱中する餘り話の糸筋を失念して而も猶話散らした。其の上マスクも外さないもので低音の聲は一層聞江にくかつた。斯く有樣であるから此處に彼の言を忠實に書写するのは、寫實(しやじつ)主義(たつと)しとされる現今であると雖も讀者諸兄に不便である事を斟酌して、尠尠(せうせう)整理して記述させて戴く事を(あらかじ)め御容赦され度い。
 肩を震はせて卓上の紅茶を凝視し乍ら男は吶吶と彼自身の身の上から語り出した。
「僕が研究者を志したのは幼時彼のラヴエン氏の浩瀚な翡翠衣怪圖鑑を(ひもと)いてからでした」
 と理科系の男が言つたのを、敢へて靑年は急かさず傾聴する事にしたのである。
「氏に憧れる餘りに僕は神奧に游學し、嘗ての銀河團本部だつた今の(ことぶき)大學で博士の門下に入りて衣怪學(パキモロジヰ)を熱心に勉學したのです。僕の熱意は一貫しておりました、衣怪を能く知り、人閒と共生し得る社會を爲すに貢献すると云ふ使命感に駆られてゐたのです。ラヴエン氏の仰つた「自己を信ぜよ、さすれば生くる道も見江ん」との教へを服膺(ふくやう)して僕は關東に歸つたのでしたが、其の時期據り關東の衣怪學で有力であつたのが貴男(あなた)の御父上でした」
「F氏の称へる衣怪考古學に僕は興味を惹かれました。神奧では化石が良く出土してゐたものでしたから、所謂化石衣怪に就ても僕は尠からず關心を(いだ)ひてゐた所に、其れを復原せんとする博士の理論は餘り刺激の強かつた。浪漫と云ふものに誘われて、必然僕は博士に接近する段と爲りました。博士の話す事は初めは夢物語かと思ふ程に途方も無いものではありましたが、紅蓮島の計畫を拝聴した際の昂奮は尋常ではありませんでした。此れは斷じて法螺話ではあるまい、彼の熱意は真實であり、丸で説教する耶蘇(やそ)であると迄僕は思つたものでしたよ。そんな事を考へたのも游学の折、塩狩峠の一件が人人の耳目を驚嘆せしめていた事もあつたのかも知れません。
「紅蓮には玉蟲と山吹のみならず全國から多くの研究者が集ひました。其の熱氣たるや、誰だつて發奮せざる者は無いと云ふ環境でした。誰もが理想の爲一致團結して刻苦勉励しました。無論僕も又大いに燃江ました。鈍研究所に赴任した際も一寸も苦では無く、寧ろ翡翠の日日を思ひ起こして快い位でした。祕密の琥珀やら貝の化石と共に、甲羅の化石を發掘したのは其の折の月見山探査の時だつたのです」
 其の一言と共に男はカブトプスを一瞥した。白く曇つた眼鏡がゆつくりと晴れると、引絞られた瞳孔が化石衣怪を刺したので思はず鎌を掲げて身構へる姿勢を取つた。理科系の男はめげずに其の姿体を視詰めてゐる。其れは何處か指咥へて物惜氣に玩具を強請る幼兒みたいな視線であつた。
「復原したカブトを見出した時に沸き起こつたものを僕は忘れてゐません。其れは母が子に懷く情愛と等しい官情(かんぜう)でした。だから博士が心身衰弱と云ふ息子たる君にカブトを贈る事になつて正直恨めしく思つたものです。此れは僕のだと。昨年此處を訪ねた時に進化したカブトプスを見た時、混濁する心理を整理し得ず、默默としてゐる他無かつた。永らく子同然に思つてゐた衣怪は今や君にぞつこんで、僕の事を最う憶江てゐなかつたから」
 男は両肘を卓に突ひて頭を抱へた。徐徐に重苦しくなる空氣を感じ乍ら靑年は腕組して坐してゐた。弱弱しくカブトプスのじゆと鳴くのが傍から聞江た。
「併し僕は博士の行動の穩やかでは無いのを訝しむやうに爲つてゐました。其れは紅蓮の僻地に別館を普請した時から一層顕著と爲りました。F博士は明らかに腹蔵してゐた。併し其の内は一向に伺いやうが有りませんでした。其れに研究所の周圍に度度黑づくめの見るからに不逞の徒が出没するやうにも爲つてから愈愈樣子がおかしく、僕は氣が氣で無かつた折、「彼」と邂逅したのでした、……と名告つた「彼」が語つた事で私は全てを了解したのでした」
 併し其の名前には一向聞覺江が無かつたので、靑年は何故男が意味深な視線で此方を見据江て來たのか意圖を理解しかねた。研究員の男は二度わなわなと震へ出した。恐慌を來して全身が大震してゐた。
「あゝ、僕は「彼」を殺して了つたも同然の真似を犯したんだ。あゝ、あゝ!」
 不圖、近く浅葱に着くと電報を送つて來たぺヱタア君の事が靑年の腦裏に浮んだ。急激な寒氣が背筋にぞうと走るのを覺江た。

廿 


 は機械の立働くが如くに話續けた。靑年も元()り話を遮る氣にもなれなかつた。心中は愈愈(いよいよ)そはそはしかつた。彼の内面は或る種の怪奇小説に認められるプロタゴニストの一典型、喩へば(つね)に懼る可き觀念に犯されたガラル紳士の如くであつた。
「「彼」は聞慣れぬ團體(だんたい)の名を口にしておりました。何でも國際警察とでも云ふ可き組織の斥候をしてゐるのだと聞きました。(およ)そ外見據りは想像だに出來ぬ事ではありましたが、「彼」は僕に真劍なる眼差を向けて、此れは關東のみならず世界の大事ですよ、君、と言つた。僕は彼を信じる事にしました。そして……は危劍な探偵役を引受けて呉れたのです。僕は紅蓮で起きたる事象に就ての謂はば内通者となり「彼」に逐一状況を報告する役目を担つたのです。斯して昨夏以來、我我はF氏の不穩な動向を監視しておつたのです。
「果たして僕のやうな下端(したつぱ)の者に迄「ミウ」という言葉が囁かれるやうになりました。とはいへ其の實體(じつたい)を視る事の出來るのはF氏はじめほんの一握りの者だけでありましたから、大概の者は何らかの隠語であると解釋(かいしやく)するしか無かつたでせう。(よしん)ば其の内實を知つたとて、沈默し、共謀せざるを得なかつたでせうが。無論僕は其の恩恵に(あづ)かれぬ立場ではありましたが幸甚にして大陸據り來たロヰド眼鏡の研究員が僕の直屬(ちよくぞく)でした。御存知の通り彼は陽氣で多辨な男でありましたから、ほんの少少問掛ける丈けで容易に口を滑らせたものです。御蔭で別館の地下に廣がる祕密の空閒で「ミウ」の研究が敢行されてゐるらしい事は知れたのです。うつかり僕に口外する度、不要泄漏(ブウヤオシエルウ)! と上司は周章(あはて)て言つたものです。僕も何度聞いたか知れません。併し僕は専ら默默と孤独に研究する男と見られておりましたから、よもやと云ふ油斷もあつたのでせう。まさか其の話が其の儘極祕裡に「彼」に傳はつてゐるとは夢にも思ひますまい。よしんば夢見こそすれ、スリヰプにでも夢喰ひされて了ふことでせうから。
 其處で理科系の男は初めてくつくつと嗤つたが、そのくせ然程愉快にも見えなかつた。理解して呉れとも言はさぬ氣配であつた。須臾(しゆゆ)にして彼は二度(ふたたび)口を開きメアクルパの如く朦朧たる言辭を續けた。
「件の黑づくめの連中が研究所に現れる日程やら、「ミウ」を保管してゐる祕密部屋の場所に就て僕は朧げ乍らに察すると、逐一「彼」に傳へました。連絡の爲には一羽のポツポを用いました。研究所の裏庭に屯す小鳥衣怪に雜つてゐた其奴は他の個體と比して全身が黄身がかつてゐるのが目標(めじるし)で、僕は散歩の振りをして認めた覺書をこつそりと其の嘴に挟めば良かつたのです。一方の「彼」は關東や條都の各地を巡つて熱心に情報を收集してゐたやうでした。面會の折には窗際からひよいと顏を出しては嬉嬉として嗤ひ乍ら現れたかと思ふと、山林の繁茂からデヰグダのやうに頭を出す事もありました。全く奇怪な男でした。常に脇に連れたガラガラは忠犬のやうでした。僕が知得た斷片的な情報を與へる丈けで、一を聞ひて十を知るが如く、「彼」は驚嘆す可き推理を展開してゐきました。兎角、「ミウ」のある部屋に入らねばならぬと我我は考へるに至り、ラケツト團の面面が來訪する霜月の日に「彼」が別館に忍入る計畫となつたのでした」
「併し今にして顧れば僕の目的と云ふのも大した正義や義侠心、研究者としての矜持なんかでは無かつたのではないかと思はれます。畢竟僕の演じたのは假初(かりそめ)の浪漫主義でしかなく、何て事は無い、單に僕のカブトを奪つたF博士に對するやつかみに過ぎなかつたのではないか? 僕の行爲は其の熱心さとは裏腹に假言的命令に類する虚偽の道德ではなかつたらうか? さすればこそ僕の優柔不斷は惹起せられたのではあるまいかとさう考えるのです」
「一體其れは如何云ふ事でせう」
 靑年は口唇を戦慄(おのの)かせ乍ら男に問ひ質した。(ゴオスト)衣怪に憑依せられたる如くに肩が鈍重に感じられてならなかつた。男は刹那覺醒したやうに俯ひた顏を上げ、兩者の閒で縮こまつてゐるカブトプスの駆體を惚惚と視詰めた。男の掌が伸びて其の白い腹甲に觸れると、カブトプスは背筋を張つて身を強張らせた。男は構わずに蒼白な手で甲羅を撫ぜた。
「あゝ、骨格を見出した時からお前の事を美しいと思つてゐたのに、僕は、ヒ、ヒヒ」
 不氣味な嗤ひを漏らし乍ら逞しい凹凸を觸診する手にもぞもぞしたカブトプスは困惑の内に靑年を見遣つた。併し得も言われぬ凄味に壓倒(あつたう)されて、彼は理科系の男が其の心腹を弄ぶのを看過せざるを得なかつた。
「僕は二つの過失を犯しました。総ての源因は極めて單純乍らカブトの愛を勝得た貴方への嫉妬心を否み難かつたからなのです。生れたてのカブトを僅か乍らも豢養したのは紛う事無く僕であり、貴方は只恩恵に與つたに過ぎぬのにという思ひを如何しても払拭し切る事が出來無かつた。
「思ひ掛けず當日に貴方とカブトが紅蓮へ來る事を僕はF博士據り告られたのです。其れに就て彼等を紅蓮港に迎へに行つては呉れないかと僕の情感を露も知らぬ博士は賴んだのです。僕は不意の事に心の整理が付かぬ自己を意識しました」
 カブトプスは窮屈さうに腰を捻つた。脇の腹がきゆうと凹み、膚と一體となつた肉の形が浮き上がつた。
「到頭僕は貴方の前に姿を見せずに了ひました。餘りの研究室の雜沓(ざつたう)に忙殺してうつかり依賴を忘れた振りをしたのです。貴方が紅蓮に滯在した閒僕はずうと一室に立籠つて居りました。平静な心持で貴方と、就中カブトと接する事が出來るか如何か知れたものでは無かつたのです。神經が昂つた勢いで不祥事等犯してはならぬと本氣で惧れてゐ、其の癖勿論其のやうな懸念なぞ、F氏の一大事にとつては誠に些細な事象に過ぎぬとは分かつておるのです。併し僕はエゴの爲にさうした勇氣を捨てて了つた。此れが惡しき一兆候でした」
(やが)て「カフトシンカス」の電報が傳はり、師走に上長と共に其の進化を確認す可く山吹へ派遣された事が僕の純真を愈愈倒錯させ、破滅へと至らしめたのです。愛こそが僕に罪過を犯さしめたのです。あゝ、只一時の氣紛れ故に人は容易に惡路を進んで了ふ。僕はすつかり後悔に苛まれてゐる」
 心臓が轟然と爆音を立てているやうだつた。其の刹那の靑年の不穏は想像するに餘りあらう。
「えゝ、師走に上長と貴方の部屋を訪ねた時にこそ僕は如何かして了つたのです。コダツクカメラを抱へ乍ら僕は生きたカブトプスの容姿に大ひに動揺さへしてゐました。復原された此奴を初めて腕に抱ひたのは僕であつたにも拘らず、僕の事など疾くの前に忘れてしまつてゐた事も悲しかつた。次第に僕は譯も無く腹立たしくなりました。酷く意固地な餓鬼のやうで、貴方の事が恨めしくてたまらなくなつた。(まま)よと僕は心中熱立つてゐました。僕とて一介の丈夫であるからにはそんな些事は元據り何らの問題にもならぬ筈であつたのに。僕は沈默した儘、只カブトプスの寫眞をフヰルム一杯に收める丈けでした」
 男の手はカブトプスの肉體から離れやうとはしなかつた。カブトプスが鯉王(コイキング)のやうに口をぱくぱくさせつつ小刻みに呼吸してゐた。口腔に溜まつた唾液の筋が煌めき乍ら垂れ落ちた。
「ラケツト團の連中に目を付けられたのも、そんな折でした」
「君、其れは、夙く」
 (はや)る餘りに靑年の聲も虚ろであつた。モンヂヤラの触手の如く縺れた舌は思掛けず進化したラツタのやうに小生意氣である。
「彼奴らは自分らの計畫が何處かから漏れてゐると疑ひ出しました。例の別館の闖入者(ちんにふしや)の一件からです。本來は「彼」一人が上手く事を運ぶ筈でしたが、多くの予想外の爲に其れが露見して了つた。F博士も次第に疑心暗鬼に陥つてゐるのを見て取る事が出來ました。危うい状況に於て僕は猶も無關係を装つてゐましたが其れも長くは保ちません。F氏とラケツト團の連中は鳩首談議の末に、兼ねて據り僕に疑ひの目を向けてゐたのでせう。上長がうつかり僕に研究の事を漏らしてゐた事が知れたのも拙かつたやうです。
「紀元節を過ぎて暫く経つた或日、遂に僕は博士に呼び止められて彼の室へと通されました。すると、黑衣の不良達が數人徒党を組んでおるのです。彼らは忽ち僕を取(かこ)んで否応も無くさせました。悪い事はせぬから正直に告白なさい、と博士は直視して僕に迫りました。君が何某かと通じてゐる事は知つてゐる、今からでも閒合ふからとさう口先では柔和に言ふのです。僕は未だすつ惚けて居りましたが、博士が不意に「彼」の名を告げた時に、全てが最早手遅れである事を察したのです」
 男の掌がカブトプスの胸部を摑んだ。子らが母親の裾に縋るやうに意固地な手の甲から骨の形が其の儘浮上がつて脆弱な皮膚を引裂かん許りであつた。
「そして僕は極て安易な計畧(けいりやく)に引掛かつて了つた。餘りにも愚かでした。F博士は僕に惡魔の囁きをしたのです。「彼」の動向を吐きさへすれば貴方の手にあるカブトを御前に返還し遣るとさう云ふのです。僕の心は揺らぎました。そんな事は貴方とカブトの樣子を一度でも見ればどだい不可能であつたにも拘らず。躊躇しておりますと黑衣の連中が俯く僕の事を亂暴に壁際へ突飛ばします。彼等の背後に佇んでゐたF博士は凝と僕の應答を待つておりました。窮地に陥つたコラツタは土壇場の馬鹿力でペルシアンを嚙殺(がうさつ)し得るなぞと申しますが、僕は所詮其んな勇氣など持合わせてはゐなかつたのです」
 握拳を力無くカブトプスの胸に押込むと、小指が微に肉へと沈込んだ。カブトプスは身動ひた。
「詰るところ僕は其の慾望に抗う事が遂に叶はなかつたのです。えゝ、僕はあつさりと寢返つて遣つたのだ。只カブトプス慾しさ丈けで僕は「彼」のみならず貴方をも(うり)払つて了つたのです。他人樣の衣怪を強盗して調教せしむる事が我我の十八番なのだよと彼等は(うそぶ)き、僕は其れを容易く信じた。カブトプスが僕のものとなる! 其れ丈けで僕は舞上がり、今や二重の間諜(かんてう)と爲り果てたのでした」
 男は大袈裟にも全身を揺らした。分厚い眼鏡とマスクに覆はれて表情を窺い知れ無いにも拘らず、靑年は此の男が愉しげであると感じた。如何なる内容にせよ、言葉を括つてゐる内に饒舌其れ自體の快樂に耽溺して了ふ、其のやうな陥穽(かんせい)に嵌つたかのやうだつた。
「僕はあつさりと「彼」との共謀を洩らしました。「彼」の自稱する團體に就ても言われた通りの事を其の儘連中に暴露致しました。色の違ふ珍奇なポツポを連絡手段に用いてゐた事も率直に自白し、「彼」が「ミウ貳號計畫」に就て核心迄知悉してゐる事をも僕はF氏に傳達したのです。僕は一切の罪状を認め、彼等の計畫に加担する事となつたのです。然してF博士とラケツト團の面面は暗默の内に「彼」の口を一刻も早く塞がねばならぬとの結論に至つたのです」
「貴方が結核を發症した事も僕等には好都合でした。其處に於て「彼」が友情の證を示さうとしたか如何かは判りませんが、祕傳藥を(あがな)ひに胆礬へ向かつた事も紅蓮には筒拔けでした。即坐にラケツト團は「彼」を消去せしめる工作に移つたのです。「彼」をして此の世から抹消せしめるならば如何樣(どのやう)な手段も弄するのでした」
 靑年は心臓が止まらん許りであつた。
「詰まり何を言ひたいのだい」
「「彼」は最う山吹には歸つては來ないのですよ」
「馬鹿を云へ」
 精一杯の餘裕を湛えた積りで靑年は聲を振絞つたが卓上に臥された拳は小刻みに振れてゐた。理科系の男は(おもむろ)に首を上げて曇つた眼鏡越しに靑年を視詰めた。表情こそ見えないものの其の視線には明確な薄笑いがあつた。
「僕は彼に喫緊の連絡があると嘘を傳へ、亞留不遺跡へ探査の合閒に浅葱港に立寄る折だから其處で會わうと取決めたのです。「彼」も丁度(えんじゆ)を過ぎて浅葱へ至る道中でありましたから好都合であつたのです。人氣の少い燈臺辺りで落合う事とし、其處で重大な事を口外にすると、其のやうに取計らひました。無論全て罠でありました」
「僕が現地へ赴くと「彼」は燈臺(とうだい)のある岸壁に彳んで待つて居りましたから、僕が祕かに合圖を送ると、物陰に潜んでゐた連中は羣を成して不意打を仕掛けました。束になつてかかつても手子摺る程の「彼」ではありましたが、遂に崖側に追詰められる格好となりました」
「然してはつきりと僕は見たのです。窮まつた「彼」がガラガラと共に身を投げたのを」
 男は靑年の顏から微塵も目を逸らす事無く言つてのけた。サンドパンの背の棘の如き辛辣が靑年の胸を突刺すかのやうであつた。
「彼」は最期にたにたと嗤ひ乍らこう言ひ遺したのを僕は見ました。「いやはや、參つたねえ、如何も」。其れからふらりと倒れるやうにして海上へ姿を消したのです」
 靑年はだらりと兩腕を落とした。眼光は虚にして最早何物をも見定められ無かつた。
「以上が僕の犯した裏切行爲です。僕は既にして犯した事の重大さに懼れ慄きつつも、只カブトプス丈けを念じてゐました。其奴が僕の手に收まるならば何をか言わんと云ふ心持でした」
 男は言葉を切ると初めて口元のマスクをずらし、とうに冷めたアラベスクの紅茶を飮んだ。消江入りさうな聲で旨いとさう呟いた。
「併し僕は所詮は大いなるものの掌上で転がされてゐる丈けの道化(ピエロ)でした。「彼」が消え去つたからには僕も又彼等にとり用済みだつたと愚かにも僕は氣付かなかつた。約束は有耶無耶(うやむや)に引延ばされる許りで守られる事はありませんでした。待兼ねた僕が問糺しても取付く島も無かつた。軈て唐突に上長據り解雇が言ひ渡されました。契約上の守祕義務を破つたと云ふ書類に記された事務的な説明を上長は繰返す許りでした。僕は放逐され遂に全てを喪つた孤客と成果てて了つた。當然の結果です。最早僕に出來る事は何一つとて御坐ひませぬ。假令僕が街頭でF氏の懼る可き所業を告發したとしても、關東一の大學者に對してしがない僕の述立てる事なぞ臣民(あに)信ずる可けんや、でせう。後は気狂いと思はれて「松澤村」に連行される許りです、ハハ、ハ、ハ、ハ」
 男は發作の如き體で嗤ひ聲を吐ひた(重重繰返すが此れは讀者諸兄の讀解の便の爲に作者たる私が大分掻摘んで整理した言葉に過ぎないのである。實際男の話は永遠のやうに、現とも知れぬ白日夢のやうに續ひてゐたのだ……)。靑年は喉元迄込上げて來る吐瀉物の惡寒を凝と堪へ乍ら、此の世のものとも思はれぬ男の立振舞に目を見張つてゐた。
「併し其れでも僕は務めを果たしたのだから、さあカブトプスを、僕に、寄越せ、寄越せ」
 唐突に男は懇願するやうに腕を伸ばし、カブトプスの腰を自己へとぐつと引寄せた。咄嗟の事に兩鎌を高く掲げて腋を曝す姿勢になつた其の痩躯の隈無くを執念く愛撫した。
「あゝ、此れは僕んだ! 此れは僕んだ!」
 さう言つて駄駄を捏ねる男の手を、靑年は塵埃を払ふ動作でカブトプスの體から振払つた。毆打され椅子から放り出された男は膝立ちになると、部屋の片隅に立掛けられた画布に目を留めた。正體も無く其方へ躄寄ると、ひよひと一枚の繪を引出して其の鮮烈なる畫題に瞠目した。男は狂つたやうな微笑を浮べた。
「或は此れを疾く目にしてゐれば諦めも付いたかも知りませんね」
 噎せる餘りに四這いになつて咳嗽し、カーペツトを幾度も拳で叩き付けた。凡ゆるものが可笑しく狂つてゐるとでも言ひたげに牀上へ其の骨と皮を投出した。
「えゝ、/\! 歸島後に上長から貴方の描いたカブトプスのスケツチを幾葉か讓つて貰ひました。僕は藝術なぞとんと解しませんが、只貴方の筆致で描かれた化石衣怪の體躯を観て成程斯ふ云ふのを藝術と稱ぶのかと感嘆しましたよ。紙がくしやくしやになる迄晝夜凝視致しましたし、隨分と世話になつたものですよ!……」
「歸り給へ」
 漸との事で靑年は言放つた。全身は餘程震撼してタマタマの一團が寄集まつてかち鳴らすやうな音がした。男は猶も發作的な哄笑を止めず、(つんざ)くやうな聲が部屋中に反響した。
「此處を去れ。二度(ふたたび)僕等の前に姿を見せてくれるな」
「へ、へへ、へ!」
 襤褸切れとなつた白衣を旗の如くはためかせ乍ら、男は壁から壁へ跳ねるやうに巫山戯囘つて絶叫した。靑年の肩に打つかりカブトプスの胸元に突進し、画布に足を引掛けて転んでは喉をくつくつと鼓動させたが、最早掠れて雜音(ノイズ)にしか聞こえないのは人とも思はれなかつた。亡霊のやうに男は部屋を飛出すと、けたたましい音を立てて階下を下つた。靑年が窗から首を覗かせると、哀れな裏切者は歩行者や自動車にも頓着せずに蹌踉(よろ)めきつつ街路を進んでゐるところであつた。何かから解放されでもしたやうな自由闊達な調子で駆ける樣は舞臺上で繰広げられる前衛舞踏の其れを思はせた。此のインセインな怪人は、ギヤロツプがすると云ふ跳躍をして空へと消失して了ふのでは無かろうとさへ見えた。此の男が其の後如何なる運命に直面したか、知る術は私とて知らぬのである。
 靑年の唇はわなわなと震へ血氣も失せて蒼白であつた。己が慾望を現實させる度に縮んで行く麤皮(あらかわ)を遂に蕩尽せんとするやうな絶望と待受ける運命への恐怖が彼の精神を見舞つた。腦髓は一時にして藝術への想念を吹消された蝋燭の如く忘却せしめた。氣付けば日の落ちた部屋で彼は呆然と佇立してゐた。壁際に貼られた一葉のポスタアと目が合つて、憶江ずぎよつとさせられた。其れはミウズ女史が見舞の折りに持參したもので、黒影に浮び上がつたプリマドンナが微笑しつつワイングラスを掲げてゐる往時大層評判になつた赤球ポオトの広告である。まあ、大王たら此れを見た途端に憤然として關東のモラアルを嘆ひてらつしやつたのよ、とミウズが穏やかな笑ひを湛へて言つて彼へと贈つたものである。併し今や彼女の純白の裸体の背後に廣がる陰翳は靑年の前途を暗示してゐた。
 (うずくま)り己が胸を抱ひて震撼する彼の側にカブトプスは如何すれば良いかも判らず立盡してゐた。靑年を抱締めるにも兇惡な鎌が邪魔をした。

廿壹 


 ず第一に事實として、ぺヱタア君は遂に歸つて來なかつたのである。果たしてあの理科系の男が斷言した通りであつた。真偽其れ自體は確かめやうも無い事ではあつたが、過ぎて行く時閒と、其れにつれて確実に衰弱してゐく靑年の肉體が全てを肯つてゐた。忽ちにして萬病(まんびやう)を癒す祕傳藥が幻と掻消江たからには、寄縋(よりすが)る藁の消江失せたからには、彼の前途は朦朧體の風景畫の如き樣相であつた。發作のやうに繰返される咳嗽(がいさう)と、何時迄も癒江る事の無い気怠い發熱で氣もそぞろになり、彼は惚けたやうに木椅子に凭れ掛つたり、寢臺に橫たわつたり、其れさへ億劫となれば(ゆか)(ころ)がつてぼうつとしてゐるのが(つね)であつた。
 懼る可き豫感が侵食する(かげ)のやうに徐徐に靑年の心理を占有してゐた。自分達の手の内が總て紅蓮に筒拔けであつたと云ふ事實は彼を大いに動揺させた。そして此處に至つて父であるF教授が如何程迄に「ミウ貳號」の爲に凡ゆるものを生贄に捧げてゐるのかを嫌な位實感させられた。表向(おもてむき)淡淡と振舞つてゐつつも計畫(けいかく)の實現こそが天命であるかのやうに考へ、敵對する者には一切容赦をしなかつたのである。部屋の角には讀棄てられた手紙の切端が風に吹飛ばされて散らばつて久しかつた。あの奇怪な男が絶叫し乍ら帝都を突風の如く駆けて消えてから數日後の事であつたが、窗外據りピジヨツト便で屆けられた其れには此のやうに書かれてゐた。

 粛啓

 私はお前とカブトプスの身を案じて此の消息を物してゐる事を如何か判つて慾しい。實を言へば玉蟲の醫者が良心を以て此方に教示して呉れたのだ。お前は直にでも山吹を離れて空氣の良い土地で治癒に専念しなければならぬ。父として如何して今迄默つてゐたのかは敢へて問はぬが、カブトプスと引離されるやも知れぬと懸念してゐたならば杞憂と言つて置かう。丁度豐縁の芝岳(しだけ)と云ふ土地に傳手(つて)がある。曾て舊翡翠據り移住した人人が興した小村ださうで、煙突山の麓にあつて大變空氣が澄明だと云ふ。骨折りだが尠尠(せうせう)登山もすれば釜焔(ふえん)という町に着いて其處の温泉は湯治に甚だ良いと聽くから、お前の用意が出來たなら體の爲もあるから是非御出でなさい。無論カブトプスも彼地に過せるやうに手配は済ませる積りだから心配は要らぬ。可及的直ぐの返信を求む。

 頓首

 一見冷静な文體で親心さへ滲ませてゐ乍らも、父親の主張は頑なで斷じて讓歩するところは無く、家父の威厳を用ひる丈け用ひて靑年の疑念の一切を封じてゐる調子であつた。輪熊醫師の事に恭しく言及してゐるのも克明なメツセエジであると彼は解釋した。あの連中は玉蟲の醫院に押掛けて散散問詰したに違ひ無いのである。詰る所自分はアヽボツクの尾に絡め取られたピカチウが如き窮鼠の立場に置かれてゐる事を理解した。あの父は今直ぐに息子である自分を僻地のサナトリウムに押込みたくて堪らないらしい。靑年に對する豐縁行きの薦めは彼の身を案ずる據りも單に體の良い口封じに他ならない。果して實の父と雖も其の恩情に與かる氣には到底ならないのであつた。其の男は「絶對の探求」の爲に我が親友を手に掛けたも同然の所業を犯したのであるから。何よりカブトプスもちやんと豐縁へ連れて呉れると請け合ふ事の白白しさと云つたら無かつた。事此處に至つて其のやうな事など素朴にも信じる事が出來たであらうか? 文面に目を滑らせ乍ら靑年の手はかたかたと震へてゐた。逆上した儘、手紙を真二つに破り捨てると後は最う一顧だにしなかつた。其れからも繰返しピジヨツトが紙を運んで來たやうな氣がするが、彼は知らぬ振りを貫ひてゐた。
 只カブトプスの事が氣掛かりであつた。生き別れか死に別れか、孰れにせよ靑年據り引離される化石衣怪の處遇を考えれば考へる程痛ましかつた。(やが)ては興味深い被驗體(ひけんたい)として施設に雁字搦めの餘生を送らせる事になるであらうかと想像すると凡ゆる情感が迸り出てビリリダマのやうに爆發しさうであつた。紅蓮と通じて了つた以上輪熊氏の助けも借りぬと意を決して了つた靑年には、ミウズが折りを見て見舞に持つて來て呉れる食物と藥丈けが賴りであつたが、心許無いのは言ふ迄も無かつた。いや、意地でも此の脆弱な體を治癒して遣るのだと何時か大王から聞き齧つた臼井靈氣療法を真似た積りで日がな一日胸上に掌を翳して瞑想等をすれば、何處となく症状の輕く爲つた氣がして得意氣になるのも束の閒で、熱の烈しくなつて幾日寢臺から身動きが取れなくなるのも屢屢(しばしば)であつた。日に日に靑年は衰弱しつつある事は避けやうも無く確實であつた。だが假令何があらうとも己の自由意志を優先させる事を彼は強く心に決めてゐた。父の軍門に降つて迄慘たらしく生き恥を曝す位ならば高潔に貧窮する方が未だましであると彼には思へたのである。
 唯一集中力を搾出して繪筆を握る刹那には俄に生命が發露したと見江て、殆ど摘むやうな手先乍ら筆先を操つて畫布に彼のヴイヂヨンを衝突させるのであつた。無論モデルとなつたのは彼のカブトプスの駆體に他ならぬ。刀のやうな鎌の反り立ち、峻厳な腰付きに、腹胸の壮健さ、其れら完璧な甲骨の美を鬼氣迫る瞳で睨め付けると、彼の體温は何時だつてリザアドンのやうに火照るのである。(ゼラオラ)圖に臨む繪師は其の獰猛さを冩実すべく、自らも虎のやうに熱立つて筆を取ると云ふが、靑年の其れは曾て三獸ごと焼盡くしたと傳へられる鐘塔焔上を此の目で見るかのやうであつたに違ひない。尠くとも彼の残した洋畫の凄まじさを観るにつけ凡庸なる藝術家の足元にすら及ばぬ私でさへ、さうした強烈な想像は不可避である。彼はカブトプスを何處迄も觀察する事が出來た。巨大な顯微鏡(けんびきやう)のやうな彼の目は、肉體の微細な凹凸や陰翳すら、或は滲出す膏汗(あぶらあせ)(もたら)す甘美な光の加減を仔細に把握し、其れ等全てに悦ばしき知恵を見出し得た。其處に見出されるのはホイツトマンが黑人奴隷の肉体から生を讃美した詩篇に比肩する程の讃歌なのであつた。
 震へる手で描き終えると、愕然とした態で兩腕を垂らした。作畫との鬪ひが終ると體力も盡き、魂の拔けたやうに呆けて暫し人事不省に陥つた。氣が付けば側にカブトプスが寄添い立つてゐた。
「進化してからと言ふもの、お前には苦勞を掛けさせて許りだ」
 漸と譫言のやうな口調でカブトプスに語り掛けるのであつた。
「其れでもお前は倖せだらうか」
 するとシユイ、シユイ、と一際甲高い聲でカブトプスは鬨の聲を擧げるのである。力強く突上げられた右肘が空氣を斬る音は爽かで、靑年の迷ひを斷切つて呉れるかのやうであつた。
「さうか、さうか」
 靑年は滿足氣に頷き、カブトプスの頭部を撫ぜた。肉の減つて骨張つた指の腹のお蔭で其の堅さが一層良く感じられ、益益(ますます)以て本質に近付いたやうに思へて嬉しく爲つた。幼兒據り回顧すれば、彼の精神の危機を克服せしめたのは何時だつてカブトでありカブトプスであつたのだ。
「ならば」
 見下ろせば、衣怪は發情してゐた。靑年は疲勞も忘れて柔かに嗤ふ。
「もつと倖せにして遣らねばならぬな」
 股倉の肉襞を搔分けて食出た一尺は優に超えるセクスは雄壮であつた。背丈は小人乍らも迸る生命力の劇烈さには頭を撃拔かれたやうな眩暈がした。靑年は古代の海岸の樣子を想像した。焔のやうに濱に巌に打付ける泡立つ白浪から這出るやうに現れたカブトプスがすつくと起立して、其の爪で砂地を摑み大地に立つ姿がありありと想像出來た。此奴はきつと其のやうに血腥くも溌剌とした世界に根を張つて異国の龍血樹のやうに自立してゐたに相違ないと思つた。
「一體此れで何れ程相手をしたのだい」
 揶揄うやうに呟き乍ら空ひた掌上にカブトプスのセクスを載せた。其の硬軟の感觸を堪能す可く添へたやうな姿勢で紙風船を飛ばすやうに指先をしならせると、一つ弾ませる度に男根は熱く膨張し硬さを一層增し、刀劍のやうに見事な反りを見せるのである。其れが両傍に侍る鎌と良く映えるのを靑年は面白がつた。
「道鏡は座ると膝が三つでき」
 なぞと江戸の狂歌を不意に口遊んだ。何て事は無い、只學童時に良くませた惡童どもが御題目のやうに唱へた戲言が自働筆記的に浮んだ迄の事であるが、そんな莫迦氣た事案ですら愛しくも懷かしいと思へた。
「なら、お前が立てば三ツ重の鎌、か」
 とふはふはした心持で言ふと、其の譯の判らない無意識の發露に憶江ず微笑した。カブトプスが反應を返す閒も無く、彼は牀上に跪ひて口を開くと忽ちにして其れを中に迎入れた。カブトプスが反射的に腰を震はせ息を荒げるのも構わず盲滅法に口に突込んだ。口淫の仕方どころか吉原通ひさへした事も無い靑年であるが、只其の聳立つ樣を見て了つたら、さうしない譯には行かないと亢奮の内に思つたのである。到底口では咥へ切れず、口角のはち切れる許りの大口でも半ばまで啜るのが精一杯であつたが、舌越しに感じられるセクスの肉感と弾力は愈愈堪らない氣がした。勢餘つて喉奧迄突込みさうになると口を窄めた儘咽せ返つたが、舌先をぺろぺろと動かす事は止めず、じわと浮ぶ血管の凹凸を愉しんだ。顏面筋を痙攣する許りに迄收縮させて、搾出すかの心積りで、ぢゆぢゆぢゆツ、と排泄のやうな音を立てて立派な雄を啜上げると閒髮も入れず再度口内一杯に含んでうつとりとしてゐる。(かつ)て誰も嘗めた事の無いものを吸つて靑年は大層至福の極みにあつた。眼前には理想美を讃へるが如き肢體が視界を占めてゐた。上目遣いに見れば楕円盤の底の口元が惚けたやうに開いた縁から一条の唾液が糸を引くのが視江、其れは緩やかに下降して(たわ)み乍ら宙に留まつたかと思つた刹那、ぷつりと切れて口淫する靑年の鼻をべとりと濡らした。發奮した彼の兩指がカブトプスの太腿を掴んで捏ねるやうに揉むと、硬質な外見の割に思ひがけず柔らかな肉の中に指先がそつと沈込んで行く。彼の口の周りからも唾液が溢れ幼兒のやうに顏をべとべとにし、顎から咽喉迄を津濕(じめじめ)と濡らした。
 カブトプスが一層怒張した。其れに押出されるやうにして靑年の口が人で云ふ龜頭の(あた)りまで滑り、口唇をつるりとさせ乍ら勃勃たるセクス據り離れた。長い銀絲を垂らしたまま、彼は勢い良く立上がつたが、其處には衰弱しつつある病人の姿は鳴りを潛めてゐた。彼は燃江るやうな熱情の儘にカブトプスを視詰め、そつと肩を摑んで後ろへ振返させ小卓迄連れて行くと、優しく背中を押伏せて腹這いの姿勢にさせた。一度其の姿を(ため)(すが)めつすると、張詰めた儘のペニスが元氣に上反つて直ぐに樂にして遣りたいと勞りつつも、荒ぶる息を堪へて其の背中や脇腹や腿を心行く迄愛撫して遣るのであつた。
「嗚呼! お前は何と云ふ「生」を其處に宿してゐる事か!」
 突出した後脚を平手で打ち乍ら靑年は其の肉體を讃美した。極限迄引締められた肉から鳴る音は一層健やかに聽江た。彼の手は化石衣怪の體躯の一一を愛した。カブトプスはじつと默つて靑年の爲すが儘になり乍ら兩脚をがたがたと震わせた。
「カブトプス、カブトプス、カブトプス!」
 肉體を弄する内精神が野獸になるのを感じ乍ら遮二無二相棒に聲を掛け續けた。感應(かんなう)してぴくと身を震わせ、垂らした兩鎌をアヽボの頭のやうに重たげに眠たげに擡げる姿は情動を掻乱した。靑年は尾を捲ると露はになるアヌスを貪るやうに顏を埋めて舐り出した。生温かい舌が菊門を撫ぜた途端に半月状の頭を忽ちに跳ね上げ窮屈に腰を畝らせると、勃起は愈愈(いよいよ)硬く甚だしく爲り、先端が小卓の縁をこつこつと幾度も叩くのであつた。靑年は忘我の體で舌をカブトプスの内へ捩込んで、内臓の顯著な凹凸を微細に感じ乍らぐぢゆぐぢゆと掻囘した。無骨なる衣怪は口を開廣げて頻りに嘆息するかのやうに熱い吐息を漏らしてゐた。腸を温かで滑らかな舌で愛される毎に苦悶とも愉悦ともつかぬきうと云う鳴聲を擧げるのに呼應して、靑年も聳立つて來るものを下半に感ぜずにはゐなかつた。
 何れ丈け嘗めてゐたかもわからない程菊門の虜になつて了つた。漸く口を離せば尾の付根にはぽつかりと口を窄めたやうな輪郭をしたアヌスの深淵が良く視江て壯觀であつた。カブトプスの腰が痺れたやうに顫動し、丸で遊女のやうに誘つてゐるかのやうで、氣が付けば靑年は洋袴を下ろしてゐた。強烈な肉慾とカブトプスへのはち切れん計りの愛情の綯交ぜとなつた渾沌が彼の心を疾に支配し盡してゐて、組臥(くみふ)された衣怪の其れに較べれば何ともはや貧弱と思はれつつも直角に勃上がつたモノを片手で確と握締めた。空いた手で一頻り人で云ふ尻臀(しりべた)に當るであらう箇所を撫囘し乍ら、腰を前へ突出した後の印象は一瞬であつた。
 ぱちん、とピカチウの頬に觸れたかの如き茫然自失の後で靑年は己が尠しづつ萎江てゐくのを感じてゐた。何時の閒にか股倉はぐしよぐしよと甚だ濡れてゐる。汗の一層饐江た臭いが鼻腔を刺激する。氣付けば體中からじわと分泌した汗のせいで、俄に全身が冷やりとして來た。息せき、じんわりと下半の疲勞感と筋肉の痛みを憶江つつ、カブトプスを視遣る。互いの接合部がびぢゆぢゆぢゆ……と透屁(すかしへ)を立て乍ら白く濃厚な體液が細やかな泡を噴出してゐる。其處を通じてカブトプスの緩慢で長い呼吸に從つて後甲が搖動くのを感じた。テラコツタの體躯は先程迄遊泳してゐたかの如く汗をだくだく滴らせて艶つぽくもあつた。
 彼は接続した儘(まど)の向かう側を眺望した。すると、遠目に視江る山脈に連なる森の草葉の一葉一葉迄もが非常な程くつきりと若き畫家の目に映じて來た。丸で爬虫類の鱗のやうであつた。今にも懼る可く程巨大な其奴が徐に動き出して頭を上げて、細長いちろちろとした舌を此のアパルトマンに迄伸ばして來るのではないかと云ふ突飛な空想が靑年を捉へると、彼は急激に四股を支へる力を失してゐく。彼のものがにゆるとカブトプスの栓から拔けると同時に、喞筒(ポンプ)からの水のやうに潺湲(せんかん)が一二度さらりと發射されると勢いは忽ち弱まつて殘滓は白い腹甲の先端を辿つて牀へ零れて行くのであつた。彼は尻餅を付いた姿勢で小卓に俯せた儘の後姿を視た。兩腿の閒から猶もセクスは隆隆(りうりう)と生江伸びてゐた。一定の鼓動に合わせて其れが一生物のやうに蠢動し、先端からは透通つた液體が垂落ちかねてゐる。行成咳の發作が起き、激しく噎せ苦しみ乍ら彼は(あしなへ)が聖人に救ひを求めるやうに其れに手を伸ばした。指先で暫く捏くり囘すと、ぴんと張詰めた陽物據り白濁が豐かに溢出した。靑年は祝別された其れで手を浄めた。ヴエヱルを纏つたかのやうな其の指先を赤子のやうに口に咥へて液體を舐つた。酸味を含んだ味わいはしつとりと汗ばんだ身には一層染入るやうに感じられた。
 蓋し斯うした日日でさへも永遠に續くと云ふものならば未だ幸福であつたと云へやう。併し運命は不可逆かつ不可避である。賢明な讀者諸兄にあつては最う暫く私の朴訥なる筆にお付合ひを願ひたい。孰れ其の日は影に纏付くゲンガアのやうに現れ出て破局を招來するのであるから!
 扨、此れ據り私はヂアルガの心の臓の鼓動を更に加速させる事にしたい。すると讀者諸兄の瞳は瞬く閒に路地裏にベトベタアの臭氣芬芬たる帝都の盛夏へと、謂はば彼等にも關東にとつてもフヱイタルな彼の夏の一日へとケヱシイの如く移動せられている筈である。だが此れは單に小説の都合に有らず、此の事象はヂアルガをして心肝を寒からしめた爲に其の心搏が甚だしい故である(…)

廿貳 


 時は、恰度(てうど)加藤男爵の容體に就て臣民の閒で俄に囁かれてゐた頃おいなのであつた。口さがない者等は閣下を最う薨御(かうぎよ)したものと看做して次の大命降下を語らんとするのは實に浅ましい事であつた。其前にはウノバ大統領急逝の報が此處關東に(まで)屆ひてゐたものである。キングラアの毒に当たつたのが死因だなどと噂が向かうでは出囘つてゐると云ふ(はなし)で、殊に石竹の漁夫等は自分等の風評の惡化するのを懼れてゐた。斯くの如く往時の關東は只でさへ平常ならぬゴシツプに滿ち/\てゐたのであつた。(さて)も囘顧すればあの夏は尋常ならざる程に暑苦しかつたものであると、羣羣と立ち上つていく路傍の艸熱(くさいき)れの凄まじい臭氣と共に私は思ひ起こすのである。
 併し當の靑年とカブトプスに關して云へばそのやうな事は些事であるどころか、最早チヤツプリンの喜劇の次元の事としか想起出來無かつたに相違ないと思はれる。やもすれば彼等と外界との關係は既にして倒錯してゐたと云へるかも知れぬ。名にし聞くド・メエストルの奇書の如くアトリヱであり牢獄でもあつたこの一室が觀照(かんせう)の内に旅に値する見知らぬ土地に変貌した、とでも表現する可きであらうか。關東の此の一地點に於て、未開の土地でタムタムを叩き鳴らす先住民族のやうに振る舞つているのも同然であつた。
 無論靑年の病状は明かに惡化してゐた。熱情と云ふ言語化不能な作用がモルヒネのやうに靑年の神經に働き、其れのみに(よつ)て彼は生き永らへてゐたのだが、其の原泉(げんせん)とは無論カブトプスであつた。彼の今迄の生にて蓄へ得た産資も此れ(すべ)てカブトプスなのである。蓋し近代に惓んだ文化人達のやうに曾ての暗黑大陸に刮目する迄も無く、逸早く靑年は文明以前の美を發見し、ホイツトマンが奴隷の肉體を湛へた如く()()()()()肉體を唄ひ得たのである。其の熱量、陶酔の如何は我が凡筆には到底表現不能である。併し然ふ思ひ乍ら、近代的人閒として真理の頂上に手を掛けたいと云ふ慾望を払底出來ぬのである。
 靑年は最早自己に嘘を吐く事は無くなつてゐた。頭の半月を何時迄も愛撫した。反返つた鎌の形をじつくりと觀賞した。しかと抱擁し互いの不器用な舌を絡め合つた。装甲に接吻し噴出する(しお)辛い汗を堪能した。結構な壺のやうに&tuby(うね){畝}つた腰の稜線に指を這わせた。峻厳な鼠蹊部を飽きずに舌で熱く舐囘した。焮腫(きんしゆ)の如く怒り果てた雄根を一口に頬張り、背丈は小兒なれど巨人のやうな其れを劇烈に口淫した。(ほとばし)る性の飛沫を飮下し或は臭氣を吸引し或は顏に浴びた。貪るやうにアヌスに顏を埋めて舐つた。生温い直腸に舌を、指を、挿入れた。カブトプスの内で靑年も又ウインデイの如く咆哮した。彼は全身全靈を込めてカブトプスの聰てを愛し讃美したのである。彼の夏の日日、彼は只カブトプスの存在丈けで充足(たり)てゐるやうなものであつた。今や其れ許りが彼の心身にとつて唯一の營養原(えいやうげん)であつた。カブトプスの肉體の孕む超弩級の古代美を讃美する爲に凡そ表現を躊躇う必要が何處にあつたであらう? 其れはF博士に據て幼き彼に與へられて以來潜伏し時につれてじつくりと醸成され、遂に結晶化したものに過ぎなかつたのではないだらうか? 謂はば彼に對してカブトプスは效果は拔羣であつたのである。口さがない巷閒(かうかん)が指弾したやうな二重の倒錯等此處には丸で存在しないと私は繰り返すが確信する立場である。此れを純粋戀愛と言はずして(なん)ぞや、そして猶未だ此れを理解し得る者の&ruby(すくな){尠};きを嗟嘆するのである。
 靑年は息せきつつ繪筆を振囘してゐた。丸で一樂団の指揮者のやうな手振をして畫布に色を載せ、彼の理想幻想の一切を思ふが儘に其の平面へと定着させる。怒濤の如き制作が終わり、彼は筆をぽとりと牀上に落とした。室内に乾ひた響きが鳴ると、ずつと靜かにしてゐたカブトプスが微かに身を震はせた。畫家は水中を歩ひてゐるかのやうに重たげな足取りで化石衣怪(パキモン)に歩寄ると、(おもむろ)に時閒を掛けて顏面に笑みを作つた。
「カブトプス、待たせたかい」
 掌を骨ばつた胸甲に這はせると、湿り氣がじわりと皮膚に傳はつて來た。彼は盡盡(つくづく)纏わつた汗を視詰めた。そしてベロリンガの舌かモンヂヤラの觸手を思はせる好奇心を以てぺろりと舌で舐めた。忽ちにして鹽味が口腔に廣がると共に靑年は常乍ら恍惚然とし、風の(まにま)に揺れる蘆のやうにふうはりとし、其儘カブトプスの體躯に撓垂(しなだ)れた。
「心配なんてして呉れるな。僕は未だ壯健だから……」
 鋭利な鎌が弱弱しい膚を切裂かぬやうに、恰度付根の邊りで主人の腋を挟んで其の痩躯を支へた。彼等は然ふして凝と絡み合つてゐたが、其の内カブトプスの肉體の俄に火照るのが傳導してくるのが靑年には感じられた。く、く、とくぐもつた嗤聲を立て乍ら惡戯に(くび)れた腰に指を食込ませれば、下半をぞくりと微かに痙攣させるのは意地らしいと思へた。靑年は膝から崩れ落ちてカブトプスの脚元に縋るやうな體になると、美しく明瞭に分たれた腹甲に顏を埋めた。ぷくりと隆起した處に熱い接吻を浴びせれば呼應して體全體がガタと揺れる。撥条(ぜんまい)仕掛けの人形の如く彼は其の動作を繰返し、彫琢された鼠蹊部を熱心に舐つて飽きなかつた。軈て勃起した古代衣怪の雄根が現出すると、一も二も無く頬張つては又口淫した。其れを噎せ返りつつ弄ばれるのを、カブトプスは只直立して爲すが儘にされてゐたが、益益(ます/\)堅く熱くなる肉の棒が雄辨にも愉樂を(あかし)てゐたのである。
 カブトプスの總てを慈しんでゐた靑年が卒爾(そつじ)な血反吐を出したのは其の刻であつた。
 此迄とは比較にもならぬ程の喀血は瞬く閒に洗面噐を滿し、強烈な嗚咽と肉體の裂けん許りの熱に犯されて靑年の意識は暫し朦朧とした。最早自身でも何を如何したか判らぬが、正氣に戻つた時に彼は薄暮の寢臺に臥してゐた。傍には從者的な忠實さを以てカブトプスが起立してゐた。白磁のやうな艶と凛凛しさを湛へた胸と腹が血染めに爲つてゐるのを視るにつけ、如何程此奴が骨を折つて不慣れな介抱をしたものかが知れた。思ふやうに抑へ切れぬ咳嗽(さうがい)をし乍ら、彼は胸が熱くなると同時に、彼等の永遠が閒も無く過ぎ去らうとしてゐる事を悟つた。併し想像したやうな深い絶望感と云ふのではなく、寧ろ穩やかな心持であつたのは妙であつた。
 無論此のやうな道を選んだのは靑年自身である。凡そ救はれる見込の薄い事を知り乍ら、敢へて父の差出した手を振払つたのは彼である。如何なる状況であれ己が生命に固執する可きと云ふ觀點からすれば靑年の無責任を難じる向きも有るやも知れぬが、忘るる勿れ、彼が美の狂氣に捕へられて了つた俘虜であつたと云ふ事を!
 恰度野外から何處かに据江付けられた蓄音機から巷閒で流行の『船頭小唄』の調べがさめざめと流れて來てゐた。

 おれは河原の 枯れすすき
 同じお前も 枯れすすき
 どうせ二人は この世では
 花の咲かない 枯れすすき……

 其の沈痛たる呻吟と云つたら、聴く者總てに感染しては得も言われぬ情感を喚起せしめるものであつた! 而も其の調べは表向き穩やか乍らも其の深奧には大ひなる不穩を孕んでゐた帝都を覆う空氣とも調和してゐるのであつた。私や彼等と同時代を生きた者ならば、私の了見を承知戴ける事であらうと思ふ。私は讀者諸兄に數多くの符牒を示して來てゐる。此の場合で言へば其の憂愁の旋律を以てプルウストのマドレヱヌの如き作用を起こさしめ諸君等に如何にかして消江かけた記臆を惹起せしめんと漸と此處迄重い筆を進めて來たのであつた。
 苦しげに腕を擡げ、そつとカブトプスの鳩尾の邊りに澱んだ血の塊を指で掬ふと、其れでカブトプスの腹直に刺青を刻込むかの如く、一輪の薔薇を素描した。靑年は(やうやつ)と口元に笑みを作つて、其の薔薇に接吻し、鼻腔を強く押し当てて其の香りを吸つた。だが其れ丈けでは最早足りなかつたと視江て、カブトプスの鎌の片方を愛しげに抱へると、其の切先を腹甲に押当てるやうにし、恰も嚴かな洗礼の儀式ででもあるかのやうに(うつむ)ひた。カブトプスは默つてゐた。靑年は僅かに残された全精力をかけてその刃を衣怪の肉體へと徐に突立てた。柔らかな甲羅に鎌が針のやうに刺さると、忽ちにしてじんわりと體液が滲んで來たのは、岩絵具の瑠璃據りも視覺に深く鮮烈なあの靑血である。靑年は歓喜に打ち震へたやうに直樣其の青に瞠目した。假に靑の薔薇が存在し得るとすれば、其れはカブトプスの血の色であるに違ひ無いと彼はきつと確信したであらう。畏敬して流れ出した血を指に受取ると、靑年はさつき大喀血をしたと云ふ事も失念して了つたかのやうに溌剌とし、傍の小卓に置かれてゐたスケツチ帳を手繰り寄せると白紙の上に矢庭にカブトプスの血糊を乗せた。白紙には俄に羣靑の背景が描出された。其の靑は單に空の靑と謂ふ可きではあらず、凡そ總ての時閒空閒を包摂する、謂はば朝の陽をも夜の闇をも同時に表す類の靑であつた。此の意味を解さんと慾するならば、喩へば、此の帝都の何氣の無い一風景畫を想像してみると宜しい。畫面の手前には能舞台の書割のやうに(まばら)に葉の散つた山毛欅(ぶな)が竝んでゐ、後景に山吹の街竝が廣がるつてゐる。所で此處に於て空一面を赤く染める表現者がゐたとして、諸君らは完成した繪畫に就て何を想起するだらうか(無論此れは真空管に於けるが如き問ひである)。赤は火焔か、灼熱か、或は破滅的情感を孕んだ色と映るであらうか。併し畫家のヴィヂヨンにとつて其れは必ずしも自明では無い事には呉呉(くれぐれ)も留意せねばならぬ。彼にとつて其の赤は太陽の神神しい光の謂ひであるかも知れない。或は字義通り彼の目には本当に空が赤く視江てゐたのかも知れないのである。蓋し藝術家の眼は我我の機械染み硬直した生活に(ひび)を生み、我我が安住すると思込んでゐる大地に激震を走らせる。押靡(おしなべ)て藝術家は怪物的である。亡靈的である。(いわん)や此の若き藝術家に於てをや!
 靑年は上衣を肌けると、ペルシアンのやうな姿態で痩身を気怠く捩らせて見せた。その仕種は丸で新吉原の遊女然としてゐた。猶もカブトプスは傍で躊躇してゐる風なのを微笑ましく視詰め乍ら寢臺の片側を空けた。懼る/\化石怪衣は、古代羅馬の詩人が少年の頬の染る樣を薔薇の如くと讃へたやうに赧然(たんぜん)として其の空所へ添寢すると、遠慮がちに振舞う少女のやうに鎌を背中に組ませつつ、ぎこちなく體躯を橫たへた。其れでは未だ足りぬと靑年の腕が腰を強く引寄せると、恰度彼をカブトプスが押倒す姿勢に爲つた。咄嗟の事に兩鎌はマツトレスに深く突刺さり、彼等の肉體は密着した。一人と一體の熱が溷濁(こんだく)し、どろりとした汗液として滲出て來るのを感じ合ふと、互いの體を引剥がすやうに勃興するものが有つた。靑年は精精カブトプスの逞しき腰を愛撫した。
「いいかい、良く聴くのだ」
 今にも消江入りさうな聲でカブトプスに靑年は囁ひた。
「總てが終わつたらお前は自由にならう。僕の肉體はお前に不可視に爲るが、斷じて存在を止めた譯では無いのだ。僕の精神は常にお前の内にある。お前が僕を感じれば即ち僕は其處に在るのだし、お前は其れを感知する能力を有つのだ……」
 さう言聞かす主人の言葉を神妙な面持でカブトプスは拝聴し、掠れるやうな鳴聲で以て應じた。仔細な意味は把握出來ずとも、鋭敏な本能はそのニユアンスを感じ取つてゐたに相違無い。
「併し其の前に僕は、お前と」
 漸とさう言ひ掛けるのを待たずして、カブトプスは徐に上體を擡げた。美事な膂力で立上がつた上半の胸腹はバロツク式の鮮烈な陰翳を帶びて、一層筋骨隆隆と見せてゐた。其の胴體の根本據り際立つて鋭く直立する其の威容に、靑年は惑溺せざるを得なかつた。
「一つに爲りたい、如何だい」
 彼はさう問掛けた。深い沈默が室内に流れた。只ぴくりと其逸物が跳上がる丈けであつた。靑年は其れを肯定の返事と受取るや否や悶えるやうに嗄れ聲を擧げた。
「僕もお前と一にして慾しいよ」
 遮二無二キヤタピイの如く體を蠢かして着衣の一切を脱拂つて了ふと、大股開きに爲つた靑年は、細指を震はせ乍ら己がアヌスを(くすぐ)つた。指を唾液で濡らしたと雖も、菊門の開きは微小な程度であつたものの、心身共に火照り切つた彼には何らの問題にも爲り得なかつた。しう、しうと息を噴射するカブトプスを急かすやうに肝要處をひくひくとさせると、勃起は一層動脈を明かにした。もぞもぞと腰を揺動かし乍ら、燃上がる先端を男膣(なか)へ押当てた。刹那の躊躇の後、靑年の掌が優しく臀部を打つた破裂音が合圖であつた。齒車が廻り、機關が作動すれば、其れは刹那の事であつた。
 交合の瞬閒、靑年は總てを忘却した。父との爭ひから其れに纏はる全登場人物が矮小な存在に爲り仰せた。ラケツト團の何某も、あの理科系の男も、陽氣なる助手君の我知道了(ウオヂヰダオラ)! も、格鬪大王もサワムラアもヱビワラアもミウズもブウスタアも、そして奇怪なるシユトルベルペヱタアとガラガラの二人組も、羣羣と彼の視界から遠去かり消江失せて了つた。恰も自分が光速の火球と爲つて此の地球の重力を久しく離れ、宇宙の果ての果て迄達しても未だ至らぬ地点へと瞬時に移動して了つたかのやうな氣がした。
「カブトプス、カブトプ、ス」
 咆哮する靑年にとつて最早希望は無く、かと云つて絶望もありはしなかつたのである。併し古來如何な悲戀を迎へた男女達に劣らず自分等の愛は勝利したのであると靑年は激甚なる痛痒に溺れ乍ら感じてゐたに違ひ無い。邈邈(ばくばく)たる地にて彼とカブトプスは屹度(きつと)又共に有る事が出來るであらうと云ふ確信が腦髓を滿たすと、忽ち山津波のやうに彼の精神を浸食して行つた。
「あゝ……! うおゝ……!」
 靑年の渾身の悶絶は併し極めて静かであつた。鄰人すらも此の室で起きてゐる驚嘆す可き事案を凡そ想像だに出來無かつた。抑も彼等の眼には全く異星外人にしか見江ぬ衣怪がずつと其處に住まつてゐた等とは! 其の衣怪はひたぶるに靑年の爲に行爲をし續けてゐた。單純な前後動作を繰返す程に其れは愈愈熱烈の極みに達した。締付けるやうな窮屈さに狂おしくなり乍ら言語に絶する情感を靑年に衝突させている内に、古代の野獸の本能が覺醒したと覺しかつた。途切れ/\になつた靑年の聲は最早ギギギと軋むマツトレスの音と區別出來無くなつていつた。兩者の心理を占有したのはとくとくと噴出する無上の官能此れ許りであつた。



 ——虚脱感と共に腰の振りを弱めたカブトプスは今さつき迄自己が何をしてゐたのかを思ひ出さなかつた。視下すと萎えた己の物がけたたましい汚濁を纏ひ乍ら宙吊りに爲つてゐる。氣味惡い感觸を今に爲つて感じ背筋がゾつとする。シヰツは酷く亂れ、皺苦茶に爲つてゐる上、脚元は著しく湿つてゐるのをカブトプスは視、感じた。兩膝を立ててマツトレスが深く沈込んだ邊りには桃色のクリヰム染みた泥土が水溜りを作つて、カブトプスの鎌に據て引裂かれた寢臺の切込へと流込んでゐるのである。
 所で靑年は兩腕を万歳三唱の體で投出し乍ら其の裸體を伸ばしてゐた。蒼白とし、肋骨も浮出た其の裸姿は餘りにも弱弱しく視江たであらうか。室内は何時にも無く静謐としてゐ、カブトプスの荒げる息音が更に空閒の沈默を際立たせてゐた。そつと顏を靑年へ近寄せると、外貌は睡つてゐるやうにしか視江ないが、鼻腔からは健やかな息とて聴取り難かつた。暫く慎ましく默してゐても甲斐は無かつた。
 カブトプスは咄嗟に主人の身を強く抱寄せた。其の刹那、ゼクロムの放つたかのやうな雷鳴が鳴響いたのであつた。嗚呼、此奴は自身の兩肩據り生江出るものが腕ではなく鎌であると云ふ事を失念したのである。靑年を介抱し乍ら瞠目し、戦慄する姿はレヱピンの描ける雷帝を髣髴とさせる壯絶な情景にも比肩したに相違ない。
 鎌先が鮮血に染まつてゐる事に氣が付く迄に如何程の時閒が流れたものか、カブトプスには分らう筈も無かつたであらう。俄に雷鳴と豪雨の騷音が聴覺に蘇生して來た時、カブトプスには總てが判つた。ぽたと絨毯へ止所なく流れ落ちる黑ずんだ血液を視た時、一體何を感じたことであらう。懼る/\抱締めた靑年を視下ろし、己が鎌が彼の喉頭の奧深く迄切裂ひてゐたのを、どの樣な面持で視たであらうか。其處から血は(ほとばしつ)て何時の閒にか絨毯に廣大な血溜まりを作つてゐたのであるから、言葉が判然とせぬ衣怪であらうと、仕出かした事の意味を理解するのは容易であつただらう。覺江ず軀をびくつかせると、靑年の首は力無く項垂れるやうにして、血でしとど濡れた絨毯の上へ音も無く落ちた。血の染込んだ絨毯は母の腕のやうに彼の首を優しく包込んだのである。
 カブトプスは其れが曾て靑年であつた部位を慄然として視詰め乍ら、首の無い體を抱擁し續けてゐたが、軈て立上がると、決然として「靑年」ににじり寄り、今度こそは一切傷つけぬやう用心し乍ら上膊と胸甲の閒に其れを丁寧に挟んだ。窗據り眺められる帝都の夜更けは雷雲立込め、海王鬼(カヰオウガ)の來臨したかの如き強雨が降續ひてゐた。カブトプスは水を浴びせた石炭が蒸氣を噴上げるやうな聲で唸ると、矢庭に上體を前傾させた姿勢で窗に向かつて突進した。窗硝子が粉粉に炸裂する音は騷騷しい雨音に掻消された。
 人氣も絶江た街路にカブトプスは着地すると、胸中に抱へ込んだ「靑年」を今一度視つめた。軈て飛脚のやうに地を駆け乍ら、宵闇の中へ誘われるやうに疾走し、消江てゐつたのであつた……

廿參 [#5UJcQBc] 


 關東日日新聞 犬正拾×年八月××日 夕刊
體首斬れ哀はにヱリトアたれ塗血 !劇慘の街布識
報情怪のとす徊徘物怪るな樣異に都帝
言證の慄戰と物化の腕鎌兩で頭月日三

 る日の帝都の忩劇(そうげき)は此の見出丈けで充分想像が可能であらうと思ふ。
 先ず第一に發見者は何言わうミウズ女史と大王であつた。定期の見舞の爲にアパルトマンを訪ねた彼女は、識布通りに妙な雜沓(ざつたう)があるのを見つけた。人混みと(やかま)しく吼えるガアデイどもを潜拔けると、弥次馬は恰度(てうど)アパルトマンの近くに集合してゐ、見ると路端(みちばた)に細かな硝子の破片が散亂してゐるのであつた。見上げれば、破られた(まど)のある場所は靑年の部屋のある場所である。不穩を覺江た女史は、ブウスタアを胸に強く抱締め乍ら扉の前迄來たが、應答(おうたう)は無い。扉を強く叩ひても物音一つせず、部屋はしんと靜まり返つてゐる。彼女は即坐に弥次馬の一人を使ひ走りにして道場から格鬪大王を呼出したと云ふ。
 (やが)て大王がましました。流石の大王も状況の尋常ならざる事を察してか、待つてゐたミウズに只こくりと頷くと、扉の前で靜かに構えを取つた。だが付ひて來たサワムラアとヱビワラアの手足の方が素早かつた。兩匹の打撃が扉を打破るや否や、彼等とブウスタアは急ぎ室内へと駆込んだ。そして續けて二人が部屋に入り、「靑年」を視た譯であつた。
 騷ぎは電光石火の如く廣がつた。只でさへ識布と云ふ新興の土地で殺人が起る丈けでも關心を喚起こすと言ふのに、出て來た死體には頸が無いときてゐる。アパルトマンの周圍(しうい)は、其れは大變な騷擾であつた。新聞記者達は(こぞ)つて現場や署に詰掛けて情報を慾した。被害者の靑年が高名な衣怪博士F氏の子息だと云ふ事も直ぐに公衆の知る所と爲つた。新聞は靑年の畫室の樣子を下世話な好奇心と文學靑年的な脚色で以て裝飾した。曰く赫の部屋と題された事件現場は、異樣なる死臭を放ち、絨毯は血潮が染み黑に變色し、寢臺は非道く亂れ、問題の死體には哀れや凌辱の痕跡が確認された。凡そ同じ人間の爲せる事とは思へぬ所業に臣民の心肝寒からしめた所へ、巡査達の搜査に及んで、靑年の部屋から陸續と發見された畫作が何處からか漏傳へられた事は、より大衆をして沸騰せしめたのである。
 新聞紙上に悍ましき倒錯を窮めた繪畫の數數などと踊れば、其の中身を知りたくなるのが大衆心理と云ふものであつたが、果敢な日刊誌記者が體良く警察内に乘込んで盜撮した畫像が其日の夕刊の一面に大大的に載せられると此れが飛ぶやうに賣れた。其處にあつた奇怪としか呼べぬ圖案を人人は眉を顰め乍らも興奮して刮目せずにはゐなかつた。此の何だか判らぬ衣怪(パキモン)とも確言出來ない何某かとの赫裸裸な體驗(たいけん)を綴つたと思しき圖版(ずはん)に就て、靑年と其の得も言われぬ生物との言つてみれば情事と思しき事案に對して、誰もが初め不意に腦天を打たれたやうに呆氣に取られ言葉を失念したが、軈て冷靜に立返ると、急に饒舌と爲つて何かしら自分の言葉を紡がずには居られなくなつた。丸で惡戲の露顕した子供が慌て言譯を捲立(まくした)てるやうに、要らぬ必死さで誰から誰迄此の事件に關して上氣して語つたのだ。作家や知識人迄總動員して三面は祭事か何かのやうな盛況であつた。殊に或る作家の言等は印象に焼付いた。仔細は憶江て居らぬが大體次のやうな事を言つてゐたと思ふ……此度發生した驚嘆に値する事件は寧ろ私に畏怖の感情を(あた)へる。大戰は古きものを(ことごと)く焼盡くして了つた一方で近代に據て私達人閒心理の内に抑壓(よくあつ)されてゐたものを露出せしめた。其れは古代的崇高さである。野蠻と表裏一體と爲つた神話的偉大さである。彼等の悍しくも美しい顛末はオヴヰツドの再話する神話にも似る。私達が恐懼しつつも續報を讀む手を止められぬのは、僞善的な道徳心に伴ふ嫌惡感から成るパルシヱンの殻の下に隱された羨望、此れ故なのだ……今と昔で斯くも印象の對照的な言辭も無いものである。
 然して、プレスでは言葉にするだに憚られる事案を吹聴するのは香具師どもの役目である。彼等は連日聲を張上げ大量の繪葉書を賣捌ひたものである。かく言ふ私とて其の繪葉書を熱狂に駆られて幾つも購賈()つた口であるし、何の因果か、私が拙文を認めてゐる机上には其の數葉が置かれてゐる。皮肉(なが)ら此の紙切れが私と彼等の因果の初めにならうとは當時は無論思はなかつたのであるが。兎角、事件の噂は帝都據り玉蟲、朽葉、紫苑、縹と同心円状に廣がつて石竹、鈍、常盤、真白の農民の口にさへ上るやうに爲り、遂には紅蓮島に迄達した。
 紅蓮島は一種傷ましい沈默の中にあつた。他方、其の沈默には火山の如く噴出せんヒステリツクな大衆の好奇心を抑壓してゐたのであるが。慘死體で發見された靑年の身元が判つて以來、支局の記者達が父親のF氏を訪ねんとして研究所は連日凄まじい騷擾にあつたと云ふ。茲に於て研究員達は(はじめ)てカブトに進化系の有る事を表明し、國際學會への手續中故に存在を伏せてあつた事を陳謝した。其處で誰もが今關東の何處かに潜伏してゐるであらう怪物の正體を知る事と爲つたのである。
 當のF博士は(つひ)ぞ姿を見せなかつた。極度の意気銷沈の爲に表へ出る事が出來ぬとは研究所の辨であつた。然もあらんと世閒が同情するのも宜なる事かと思はれたし、當時の私もよもや息子の爲にと與へた衣怪が此のやうな形で氏に復讐するとは皮肉な事だと言ふ程度に考江てゐた。
 さうして怪物の話で持切と爲つた帝都は益益(ます/\)興奮の坩堝と化した。カブトプスの生態は散散話に尾鰭が付ひて、(あたか)も異界からの怪物であるかのやうな語られ振りであつた。首刈人種據りも野蠻にして残忍を窮めた性質で、犧牲者の頸椎の截斷(せつだん)面から甲虫(ヘラクロス)が蜜を吸うやうに血を啜ると云ふ話であつた。子供女は一人出歩く可からずと布告の出囘れば、夜など本町通りは平生據りも靜まり返つて氣味の惡いと言つたら無いのであつた。
 だが一方で其の姿を一目視んとする物好きも隨分とあつて、新聞の三半広告に懸賞金の類等が載つてから餘計に其れは酷く爲つた。一度何處からか怪物を視たと風聞があれば、忽ち其處は羣衆と警官でごつた返した。尤も然うした噂の大半は單なる風説に過ぎず、カブトプスが現れぬとなると皆一樣に溜息や罵聲を吐いて(かへ)つて行く。私の近所の(あた)りでもそんな報せが飛んで來た事があつて大層な目を見たものである。兩鎌をぶら下げた怪物がさつと前庭を橫切つたなぞと近所の御婦人が言つたものだから、家の附近は見物人やら便乘の物売やら大道藝人で溢れかえつて丸で身動きが取れ無いのであつた。
 斯くの如く、新聞各社の勃興し羣雄割拠して姦しい事久く、(ことごと)く新報に(さと)く爲つた大衆と(いへど)も本邦の事態は前代未聞であつたのである。
 だが、然程の騷ぎにも(かかは)らず肝腎のカブトプスは發見されなかつた。無論官憲とて手を(こまね)ひてゐた譯では無かつた。搜索には各地で勃興しつつあつた衣怪調教師(パキモントレヱナア)達も動員して、帝都の恐怖を取除く可く連日大捕物が繰廣げられてゐたし、其の樣子も逐一紙面を飾つては皆興味津津に此れを讀んだ。被害者の靑年の知己達も悉く協力して、未だ關東の何處かに在るかと思はれたカブトプスを懸命に探したと云ふ。殊にミウズと大王の熱心さは殊勝であつた。實は(あらかじ)め其の存在を知つてもゐた二人は口口にカブトプスの氣性の穩和な事、此れには切實な事情のあるに違ひ無いと訴へた。
 併し乍ら、嗚呼、さうした喧騷は僅かの内に絶頂に達した後、烏有(うゆう)に歸して了つたのである。今でこそ帝都は何事も無かつたかの如きモダアンな繁榮を呈してゐるけれども、一方で私は忌わしきあの日の記臆を未だ払底する事が出來ぬ。最早其の樣な事さへ回顧する能はず程忙しく爲つて了つた巷閒に於て私は敢て往時の思ひ出を描冩して善ゝ加減此の手記とも付かぬ小文の筆を擱く事としたい。
 私は其日、開幕した計りの院展を観覽しに陳列館に赴ひてゐた。目當(めあて)にしてゐたのは、兼ねて據り噂に聞ひてゐた大觀氏の大作である。朝まだきから仕度をした私は恰度開場の時刻に閒合ふ樣會場に駆付けたものである。春草、觀山とで竝立つた畫壇(がだん)の華やかなりし頃の事で、先刻の異常事件の騷めきは覺めやらぬ折りではあつたけれども、兼ねて據り心に掛けた催事は、私の心を餘程落着かせて呉れた。無論何れも渾身の出來ではあつたけれども、大觀の繪は果して一際素晴らしかつた。其の『生生流轉圖』と題された絹本(けんぽん)の大繪巻は誠に壓巻(あつかん)の出來等と称賛しても足りぬ程であつた。一滴の水がレツクアザ潜む雲関の厚き據り落ち、軈て大河を爲してコイキングの羣れを蹂躙する劇流を以て溪谷を下り、遂にはルギアまします大海に出て蒸氣と化して再び雲海へと昇り行く樣の何と壮觀である事だらう。此れは氏の水墨の新樣式の探究の紛れも無い成果であると一目觀て直感した私は、感動に打ち震へて暫く其の場を離れる事が出來無いで居た。会場に來合せた氏と一二言言葉を交し、私の憶江たヱモオシオンを拙い乍らも傳達出來たのは幸運であつた。而も此の幸福は後述する通り私にとり二重に幸福なものであつた。
 展示に大いに滿足を覺江た私は、此の昂つた情感の(まま)一寸(ちよつと)下町に鰻でも摘みに行かうかとさう考江乍ら陳列館を後にせんとしたのが思へば正午閒近であつた。劇震は刹那であつた。俄に大地の震へるのを察知する閒も無く、轟音と共に一帶が(いちじるし)く動揺した。私は皆目慈姑(くわゐ)金團(きんとん)で、憶江ず尻餅を突く體で地面に投出されると、木木が恰も踊子が爆發的に其の身を振亂すかの如く滅茶苦茶に前後左右に狂れるのを茫然とし乍ら視る計りでゐた。周圍からは私同樣餘りの事に氣の動轉し絶叫する紳士淑女達の多かつた。
 揺れは胴を突かれたヤドンが反應する位には長かつた。落着して直ぐに、陳列館のある山には避難民が堰を切つた樣に押寄せて瞬く閒に渾沌の極みに陥つた。更には彼處は危い此處も直火の手が來るなどと皆が皆違う事を吹聴するから、私としても何れを信じて良いか判らず、只混亂した思考の儘、其の日は一晩中其儘留まつて過ごす羽目に爲つた。併し乍らあれ丈け人や衣怪等と密接だと眠るにも眠れぬ有樣であつたのだが、其處に誰の所有であつたか、一匹のプリンが現れ出て子守唄を口遊んだのは有難かつた。他所ではパラス、パラセクトの類が胞子を撒ひて人人に安眠を與へてゐた。御蔭で罹災の身とて不安な夜を平穩に遣過す事が叶つたのである。
 翌朝、尚も遠目に火の手の視へる帝都を歩き、歸路を急ひだ。時の経つにつれ其處此處據り漏れ聞江て來る傳聞は、私の幸甚なる事を(あか)してゐた。私が其時出向しやうとしてゐた下町一帶の慘状を人傳てに知つた時には戰慄したものだ。殊に被服廠の悲劇は如何に運命が浮薄な事かを我我に思案させざるを得ない。嗚呼、不運にもあの場に居た四萬一千の御靈の安らかならん事を! 舊翡翠の寿村民の證言に據れば、大震大火の時刻より暫くの閒、羣青海岸の邊りから源因の判らぬ白煙が昇り續けたと云ふ。傳説が真實ならば、其處は死者の靈魂を異界へ導くギラテヰナ神がいますと聞く。照和の世になれども、私は事ある毎に叛骨の神に敬虔に祈念する者である。何故ならば、陳列館を出るのがほんの(すこ)し早ければ私も黑焦(くろこげ)と爲つて身元も判らぬ儘に葬られてゐたに違ひないからである。私は遭難者と紙一重であつたのである。其の意味に於ても長く私の歩みを止めた『生生流轉圖』は我が命の恩人である。大分時の経つて『生生流轉圖』の恙無(つつがな)き報せを聞いた時、私は(まさ)しく神に感謝するやうな心持であつた。
 私は歸路でも多くの悍しい、信じ難い悲慘を目の當りにした。道端に炭化した死體と、其の傍には最早コラツタかニドランかも見分けの付かぬ死骸が幾つも轉がつてゐるのを此の眼で視た。河川の光景は尚更陰慘を窮め、直視するだに困難であつた……官憲の手が囘らずに放置された無數の遺體が水面に浮んで非道い異臭を撒散らしてゐたのである。屍と爲つた其れ等は一見して一向誰だか判別も付かぬ。併し良く/\觀察すれば大概が逃遲れた女子供に小衣怪の類であると知れ、誠居た堪れぬ思ひであつた。芥川氏の『羅生門』の描冩(べうしや)が現出せるかのやうな光景の連續に只ゝ閉口する計りの私であつた。
 閑話休題、私は其の時奇妙なものを視たのである。此れで幾度目か判らぬ屍の山の傍を通り掛かつた時である。矢庭に、其處に蠢く何かの氣配を私は感じた。餘りの事に私の精神も疲勞困憊し、最早死骸程度には、月並な悲哀こそ覺江ても特段の感情も抱く事が出來無く爲つてゐた折りである。私は思わず其方を視遣り、よもや生還者が埋れてゐるのではないかと思つたが、其等は只死骸としてひつそりとしてゐる計りであつた。けれども私を不穩がらせた氣配は依然其の場に留まつてゐるようだつた。私は其れを不氣味に思つて足早に離れやうと思つた刹那である。猛火で溶解し變形した鉄骨の陰に蹲る何ものかを私は認めた。
 其れは無我夢中で屍の上で何かを物色してゐる風であつた。人心荒廃の折りからか、山ほどある遺體を漁つて焼殘つた金品を奪取る不逞な輩の數多あることを耳にしてゐた私は、奴も其の類の者かと疑つた。ならば一つ、やい、と大聲を擧げて取つちめてやらうなどと云ふ氣紛れを起したのは、恰度昼閒に喰った水團(すいとん)屋に暴利を吹かけられ機嫌を(いた)く害した事もあつたのである。私はこつそりと其奴に近付ひたが、相手は全く氣付く樣子も無い。全く、閒の拔けた盗人もおる者よと心中嘲り乍ら私は恰度背後に立つたのである。
 瞬閒、私の印象は忽ち大震前の空氣の中に戻つた事を強調しなければならない。驚く可き事に其れは直近迄、新聞雜誌で頻繁に見掛けた姿體であつた。遂ひ先月迄、帝都中の臣民達がやれ玉蟲方面に出たと聲のすれば、皆探偵氣取りで羣れを爲し七號道路に詰掛けて探囘つた異形の衣怪其の物であつた。半月状をした頭部、背中から生へた三對の突起が視江ると、私は心の臟が俄に止まりさうであつた。往時、未だ充分な真實なぞ知らなかつた私からすれば、「カブトプス」と云ふ單語は懼る可き殺人鬼と同等の響きを持つてゐたのだから無理からぬ事であつた。
 勢ひ、私の足はがたがたと震へ出した。逃仰せなければならぬとは雖も生まれたてのポニイタのやうな足取りでは到底覺束ない。全く私に醉狂を起こさせた水團屋の野朗の怨めしい事と言つたら無かつた。
 カブトプスは背後の氣配を察して不意に立ち上がり、(おもむろ)に振返つた。私は最早生きた心地がせず、此迄と觀念してゐた。死を相當閒近に意識すると丸で人生が一遍の活動寫真の如く腦裏に映出するのは本当の事であると其の時實感された。數秒後、私は懼る可き鎌の一振にて頸を掻切られるものと覺悟し此れが最期と目を瞑つた。幾秒か経つた。何も起こらぬ。幾分か経つた。變化は無い。十分は経つたであらうか。私は戰慄し乍ら目を開ひた。カブトプスは未だ私の眼前に居た。然も何もするでも無く、只私の事を幼兒のやうな上目遣いで眺める計りであつたのだ。尋常ならざる體躯ではあつたけれども、其の素振には幼氣(いたひけ)ささへ感じられ、私も一瞬此奴が人閒に刃を剥けた凶惡衣怪である事を失念した程だ。
 私は此の衣怪と長い事對峙してゐた。其の瞳を凝と視るにつけ、彼の衣怪は何かを切實に傳達せんとしているやうに視江た。併し其の言語を私の頭腦は十全に理解する事は叶わなかつた。何とか彼の言わんとする事を何度も言語化しやうと試してみたが、十何年経つた今も猶其れが出來るとは(とて)も思へぬ。併し私が其處から感じた只唯一の感情は敬虔、此れであつた事は確實である。何と言わうか、私はさしたる信仰心など持たぬから、喩えばチエホフの短篇にあつたやうに、福音書の挿話を聞いて救主の苦難を思つて落涙する農婦のやうな事等凡そ想像し難いのであるが、カブトプスの目線から漂ふ印象は帝国議會で繰広げられる長演説に比して心を動かす物を祕めてゐると思つた。
 私は覺江ずカブトプスに心を許しても良い心地に爲つて、ほつと息を吐ひた。だが、其のやうな安堵も刹那の事であつた。私はほんの尠し目線を彼の胸元に落したのである。すると、不器用にも組まれた鎌の閒に何かが挾まつてゐるのを私は視たのである。宵闇に黑黑として初めは判別も付かなかつたが、不意に月光の差して恰度カブトプスの體を照らしたのであつた。私は刮目し、心の音が絶えさうな程の打衝(シヨツク)を受けた。何故ならば、夏の暑さの爲に腐敗の兆候を見せてゐたけれども、其れは疑いやうもなく人閒の首であつたからである。餘りにも死臭に慣切つて了つたが爲に、寸前迄私は其の事にちつとも氣付かなかつたのであつた!
 當時の私の心理領域に於て恐怖が勝り、其れに伴う俗物的な排他意識が湧出した。嗚呼、私は折角彼と心中から對話する好機を斯くの如く見す見す逸して了つたのであつた。
 あらん許りの威勢を以て私は震へ聲で叫んだ。失せろ、怪物めが!
 すると、其れ迄只靜かに佇んでゐた丈けのカブトプスは駭然(がいぜん)として私據り一二歩後退(あとずさ)ると、丸で叱りつけられた小童(こわつぱ)のやうに向きを變へると其の儘、焦土の上を逃げるやうに駆出して行つて了つた。すたすたと走去る姿に私は(かへ)つて呆氣に取られてゐた。躰から不圖力の拔出るのが感じられた。だが其れは果して命の危險から逃れた安堵其れ丈けだつたらうか。靑年であつたところの首を思ひ掛けず目にした著しい動揺に據るものか。何れにせよ、私は見る見る内に小さく爲つて行く其の背中から目を離す事が出來無いでゐた。金屬を擦り合わせたやうな言語に絶するカブトプスの鳴聲が聴江た。軈て、カブトプスは點となり、廢墟と化した帝都の闇に紛れ、私の前據り永遠に姿を消した。
 その後姿を、私は今も忘れる事が出來ぬ。

[#3Q6qxVg] 


 擱筆シテ暫シ詩仙ニ倣ヒテ月下独酌シテ慮ルニ恰度月ハ半月ニシテ影ニ對シテ三名ト成ラン爾來餘興ジテ之ヲ以テ比翼ト成シ永ク無情ノ遊ヲ結バント慾ス戲レニ問ヒケラク相期シ今ヤ雲漢ニ有リヤト名月皓皓トシテ影愈愈烱然タリ俄ニ風ノ來タリテ耳ヲ欹テ其ノ聲ヲ聞ケリ餘頭ヲ上ゲテ交ワス一杯ノ酒今ゾ須ク醉フ可シ陶然トシテ思フ可シ餘ガ逸文焉ンゾ飄然トシテ思ヒ羣セザランヤト照和×年識羣羣

公開者による追記 その4(エピローグ) [#465vbAu] 


 内覧の案内が私の手元に届いたのは、あれからヒロミさんと別れて、私もコガネの自宅に戻ってからだいぶ日が経ってからのことだった。送り主はもちろんヒロミさんである。今度ヤマブキの画廊であの青年の回顧展が開かれることになったというから、是非ご高覧にあずかってほしい、という内容だった。会場の圖犬画廊は照和の初めから続いているという老舗で、私もぼんやりながらその名を耳にしたことがあった。私はすぐにヒロミさんのアドレスに承諾のメールを送った。
 それでは「エンツバ」の彫刻を目印にしましょう、とヒロミさんは言った。それはヤマブキ駅のリニア改札を入ってすぐ近くにあるということだったが、そんなところに彫刻なんてあっただろうか、メールでのやりとりを終えて私はふと思った。
 後日、ヤマブキ駅に到着すると、改札口あたりの開けたところに出た私はキョロキョロと周囲を見渡した。ヒロミさんによれば、この辺りが待ち合わせ場所のはずだった。しかしいかんせんカントー地方の交通の要である駅内は人やポケモンでごった返していて、「エンツバ」の彫刻どころではない。あまりの人混みに尻込みして、壁際に押しやられる形になった私は、軽く爪先立ちになってなおも目印を探した。
 目印になったのは「エンツバ」の彫刻よりもむしろ、その隣に立っている一際背が高く、しかも髪の毛がレントラーのたてがみのようになった男だった。久々に見ても少しも見間違えようもない、完璧なまでにユニークな外見をしているヒロミさんに、私は躊躇うこともなく声をかけた。
「ご無沙汰しております」
 派手な見た目とは裏腹な丁重な振る舞いも相変わらずだった。純度100パーセントの、コトブキ大学准教授のヒロミさんの振る舞いである。
 ところで、ヒロミさんが目印にと言っていた肝心の「エンツバ」の彫刻はシースルーエレベーターの脇にさりげなく設置されているに過ぎなかった。
「『エンツバ』の彫刻と聞いていたんですが、思っていたのとはなんだか違いますね」
「いやあ、こちらが舌足らずなばかりに」
 と、しきりにぺこぺこと頭を下げながらヒロミさんは言うのだった。
「美術の世界にかかずらわっていると、僕らにとっての常識が、世間一般のものとは微妙なズレを起こすということを、つい忘れがちになってしまうものです。僕があなたに連絡をした時も、ごく自然に本文を打ってしまっていて、送信ボタンを押したあとで『しまった!』なんて思いましたよ。もっとも、あなたなら僕を見つけ出すことはできるだろうと思っていましたが」
 それにしても、とヒロミさんは「エンツバ」の像を眺めながら言った。
「曲がりなりにも美術関係の仕事をさせていただいている身からすれば、せっかくの美術品をこんな形で駅の片隅に追いやるのには忿懣やる方ない思いです。もっとも、駅の側にもそれなりの理屈というものがあるのかもしれません。公共空間が、あらゆる立場の人々に開かれた場所であるべきということは論を俟たない。それは納得できます。車椅子の方のためにエレベーターを新設することもそうですし、場合によっては中〜大型ポケモンの利用も見越して道幅も考慮する必要もあるでしょう。しかしながら、パブリックアートの効用についてもっと目を向けるべきです。美術には人と社会を結びつける力があると信じる者としては、ですが……」
 ヒロミさんが熱くまくしたてるのを私はとても好ましいと思った。美術、芸術、アートだとかそれを指し示す言葉はあまたあれど、彼はそのようなものを心から愛していることがよくわかり、改めてあの謎めいた文書を彼に委ねたことに間違いはなかったのだと安心した。
 ヤマブキでも一際賑やかな地区に会場の圖犬画廊はあった。犬正モダンの趣を今に残す外観のビルディングの1階に展示場が設られ、正面入り口の両端にはウインディを象った堂々とした像柱が来客を待ち構えていた。今日は会期前の内覧会だということで、一般のお客はまだ来場していなかったが、その代わりに全国の名だたる美術関係者や大手新聞社の文化部記者たちが犬正期の知られざる画家の作品を観るためにこぞって駆けつけていた。私はヒロミさんに案内されながらおずおずと画廊に足を踏み入れた。
 いかにもフォーマルでコンサバティブな雰囲気漂うこの場所を、ヒロミさんは自分の部屋であるかのように悠々と歩いて回り会場に来ていた高名な人々と挨拶を交わし、丁寧で美しい所作で名刺を交換し、ひとしきり談笑していた。私もヒロミさんを介してそうした人々に挨拶する機会を得ることができたが、私のような浅学非才でも知っているような人々ばかりでつい呆気に取られてしまうほどだ。
「……あの方はホウエンにあるミナモ美術館の学芸員さんです。あちらにおられるのはミアレ美術館の方、それからあちらにおられるのは確か……パルデア地方の美術家の方と、かの創立805年の名高いアカデミーの美術主任を務めている方で、二人ともポケモントレーナーとしても著名ですね……後でサインでももらっておきましょうか」
 そして、今回の企画に協力してくれた圖犬画廊の社長は、ハリテヤマのような恰幅をし、話し振りも随分と豪胆な大男という印象だったが、こと美術の話題となればその学識の広さは驚くべきほどで、カントー随一の美術商とはこういう人物かと思わせた。私が件の青年に関する文書の持ち主であることを知ると、彼は非常に興味深そうに発見の経緯や、その内容について事細かに訊ねてきた。
「展覧会を計画するにあたって、彼が蒐集した資料や実作を拝見させていただきましたがね」
 と、画廊主の社長は壁に掛けられたその一作を指差しながら所見を披露した。
「犬正期にこのような知られざる画家がいたことには正直驚きを禁じ得ませんでした。これなんか最初に目に入ったもので、画家の愛したカブトプスの後姿を描いたものですが、コイデの『裸女髪結』の官能性と艶かしさに近しいものを感じ、一気に興味を惹かれ、次々と彼の遺した油彩やスケッチを拝見しました。それは、魔に囚われたとでも言いましょうか、そんな感覚はこの仕事をして随分と経ちますが、久々のことでしたよ。作風はリアリズムを基調にしてはいますが、同時代のセキネやカイタのような感情の発露を彷彿とさせながら、現代で言うカモイのような苦渋さも兼ね備えています。それに、マキノの執拗で過剰な写実とも通じるところがあると思われますな……カブトプスを通じ、画家が何を見出し、何を表現しようとしたか? これらの作品は何よりも雄弁に語っているように思われます……」
 私は驚きながらそうした品評を聞いていた。会場に居合わせた他の人々からも、さまざまな感想を頂戴したが、どれも好意的なものであったので、私は実作者でもないのに誇らしい気分になると同時に、誰もが例の『三ツ重之鎌』なる文章について感想を語るものだから、まるで自分が趣味で書いた小説が不本意にも晒され批評の対象になってでもいるかのような気恥ずかしさを覚えないわけにはいかなかった。
 数々の新聞社やメディアの文化記者たちにも次々と声をかけられた。私は簡単な質問に答えるにもガチガチに緊張してしまって、果たして意味を成しているのか心もとないことばかり言ったように思う。一方、ヒロミさんは悠々とした態度で青年の画業について簡潔にして要を得たコメントをするから感心した。
 一通りの挨拶を終えて、私たちはようやくかの青年の作品を観賞することができた。祖父の蔵から忘れ去られた原稿が見つかって以来、まるで親友ででもあるかのように感じてきた彼ではあるが、その実作に触れるのはこれが初めてなのであった。会場には青年の油彩に加えスケッチなど30点が展示されていたのだが、彼の愛したポケモン(衣怪)の肖像は半分ほどを占めていた。先ほど画廊主が言及した寝台に腰掛けた後姿の絵を始め、モデルとなったおよそ100年前の時代に生きたカブトプスの姿が艶かしくも生き生きと描写されていた。一見して堅実な写実ではあるのだが、鎌の色合いは複雑に絵の具が入り混じって私には何とも言いようのない独特の白となっていたし、黄土色の鎧めいた甲羅のグラデーションからは大胆な画材のマチエールが露出して迫力を感じさせた。観覧する人々の口からはその塗りについて、サエキだとかオギスといった名前と比較する声もあった。
 それにしても青年の描くカブトプスの精悍さには目を瞠った。胸甲の逞しい膨らみは、まるで古代ローマの百人隊長を思わせたし、括れた腰から鼠蹊部の一点へと収斂していくような身体の輪郭は、確かに磔刑図のイエスを連想させた。あの文書でもたびたび強調されていたように、一体の化石ポケモンに西洋の古典美と原始の荒々しさとの融合を見た青年の目がただならぬものであったことを、これらの作品は物語っていると思えた。かの文書の著者があの興奮と執着のうちに書き連ねたことは断じて誇張などではないという気がした。
「彼の画業を世間に紹介するにあたって」
 とヒロミさんは私に耳打ちする。
「圖犬画廊のスタッフと随分話し合いを持ちました。やはり彼の存在をもって、犬正の近代美術史の書き換えを行いたいという思いが強かったものですから、僕としても非常に悩んだ末、展示を見送ったものも少なくありませんでした。その中には当然、あの文書に言及された作品も含まれているのですが」
 そう言って、私に向かってそっと会場の片隅の扉の方を指差した。画廊のオフィスへ繋がると思しき扉の周りには正装をした画廊の社員たちが構え、どこかものものしい様子で展示場の様子を観察しながら、こそこそと何かを話し合っているのが見えた。いかにも格式高い画廊の人々といった趣である。
「例の作品もいくつか、こっそりと裏に置いてあるんです。今回は内覧会中に一部美術関係者のみに特別に公開するという形なんですが……もちろん、ご覧になりますよね」
 私は頷いた。もちろん。ヒロミさんに先導されるがままに画廊の裏側に案内されると、まるで官庁舎を思わせる整然と並べられた事務机、山積した資料、デスクトップで構成されたオフィスを通り抜け、さらにその先にある応接室に通される。少し薄暗い照明が灯ったその部屋の壁に立てかけられていた幾枚かの絵に、私は思わず目を奪われた。
 それは、まさしくあの『三ツ重之鎌』の記録者が克明に書き記した、青年のあの疾風怒濤の生涯の最期の日々に、描き散らした作品群そのものであった。言うまでもないことであるが、そこに表現される図像は生々しく、あられもないものばかりである。ベッドに寝そべったカブトプスの猛々しく勃起したままの性器を露骨なまでに描写した絵などは、同時代のみならず、現代でさえ挑発的な画題に思えた。私はしばし呆気に取られていたが、しかしその一見過激な図像に見慣れてくると、青年の作品は私の感情を複雑に揺さぶるようになった。青年とカブトプスの間にあったことからして、そこには確かに狂おしいほどの欲望があるのは確かではあるのだが、決してそこに留まることのない強靭な青年の眼差しというものがそこには感じられるのだ。ただ、美術評論なんて柄ではない私には、それをうまく言葉にすることはできなかった。
「これらの絵は、現在巷に満ち溢れているポルノグラフィの一種に解釈されてしまいそうですが」
 私の横でヒロミさんはじっと襞まで読み取るように絵画をじっくりと見つめながら話した。
「単なる性的消費のために描かれたものではありません。それは、生死の際にありながら生命力を感じさせる絵筆のタッチや、これだけ大胆な画題を扱っているにもかかわらず、そこにばかり目を向けさせないように考え抜かれたポージングや小物の配置——恐らくこれは青年の天性の画才を示すものと思いますが——からも明らかではないかと思うのです。もしかしたら、彼はカブトプスの全体を通じて未知なる世界を幻視していたのかもしれません。それは孤独な芸術家でしか到達しえない、ある種誰も立ち入れぬパルデアの大穴以上に恐るべき領域であったのかもしれないなどと、僕なんかは考えてしまうわけですが……」
 そう言いながら、ヒロミさんは照れ臭そうにレントラーのたてがみのような髪の毛をくしゃくしゃと掻いた。彼の言葉に同意すると、ヒロミさんもにこやかに頷き返した。今回はこのような密かな展示にはなってしまうが、もっと研究を深化させて、いずれは堂々と展観できるように努力しますよ、とヒロミさんは受けあった。
 内覧会の後には関係者だけを交えたささやかなパーティが予定されていたが、それにはまだ時間があったので、ヒロミさんはちょっと外を歩きませんかと聞いた。私も緊張ですっかり体が硬くなってしまっていたので、一も二もなく同意した。
 私たちは再び恩賜公園を歩いていた。以前ヒロミさんと会ったときにも来た場所であるが、何度訪れても自然豊かなこの場所は心の落ち着くことであった。広場では大道芸人たちが見世物をして、その周囲を通行人たちが取り囲んで見物をしていた。紳士服を身にまとい、ピエロの鼻をつけた芸人は、右肩に乗せたイーブイとジャズの軽妙なリズムにのりながらシルクハットを奪い合い、見る人を笑わせていた。また別のところではストリートミュージシャンが、カントーでは珍しいローのストリンダーにベースを弾かせながら、ポピュラーソングを演奏して観衆を沸かせていた。
「この場所は、本当に今も昔も文化が息づいていると感じます。まるで、100年前に生きていた人々とも心が通じ合わせることができるのではないか? なんて想像が膨らまないでしょうか?」
 ヒロミさんは賑やかな恩賜公園の雰囲気を心の底から楽しんでいるように言った。私はこの土地がここ150年の間に経験した歴史を思った。あの小高い丘では明冶の初め旧軍と新軍の間に血で血を洗う争いがあったこと、犬正の大震災の際には避難民たちがごった返し、維新の英雄とその愛犬であったグラエナを象った銅像には人々が安否を募る貼り紙を至る所に貼り付けていたこと、それからこの場所を行き来したであろう名だたる美術家たちから名も知れぬ人々のことを思い返し、それらの気配が今もなおこの場所には息づいているのではないかという感慨に耽った。
「そういえば、不思議なことがあったのです」
 思い切って、私はヒロミさんにあることを打ち明けることにした。『三ツ重之鎌』に関して、どうしても不思議に思われることについて。ヒロミさんは興味深げに私を見つめ、そのたてがみをぽりぽりと掻く。つい口ごもってしまった私の緊張を解そうとして、ヒロミさんはにこやかに微笑んだ。
「大丈夫ですよ。続けてください」
「何と言えばいいんでしょうか」
 私は何とかわだかまる思いを言葉にしようとする。筋の通らない話であることは私自身が一番よく知っていたが、だからと言って、単なる気のせいで終わらせたいことでもなかった。
「……実はあなたとお会いする前にカントー地方を巡っていた時、セキチクの海岸で不思議な体験をしたのです。何かというと、私はそこで、『ぺヱタア君』を目撃したのです。玲和の時代にはおよそ見かけないような袴姿で、何よりあの特徴的なモンジャラのような髪の毛、見間違いようはありませんでした。それが一体なぜなのかは私にも全然わからないのですが、『ぺヱタア君』は物陰から私を見つめ、ニヤニヤと笑いながらあの髪をクシャクシャと掻くのを確かに見たんです」
 ヒロミさんは私の話を黙って真剣に聞いてくれていた。そこには、私の言っていることを何かの見間違いと決めつけるような揶揄いの様子は一切感じられなかったので、私も話終えたあとホッとすることができた。
「なるほど。それは確かに不可解なことです。何とも不思議なことだ……」
「当然、100年前の人物がいま同じ姿で生きているとは到底思えません。ですが、私が見た光景は間違いなく現実のものであったとしか思われないんです。こんなことをあなたに話しても仕方がないかとは思いながらも、やはりあの不可思議な手記を通じて出会った縁ですから、お伝えしておきたいと思い……」
 ヒロミさんは少し待っていてくださいと私に言うと、いきなりそばにあった公衆トイレに駆け込んでいった。急に用を足したくなったにしては唐突だったので、私は妙に思いながらしばらく公園を行き交う人々を眺めて待っていたが、ヒロミさんはなかなか帰って来なかった。私は不安に思い、さっきヒロミさんが入って行った男子用トイレの中を探したが、そこには誰もいなかった。個室トイレも全て鍵が空いていたし、どの部屋も無人であった。
「ねえ、ねえ」
 慌ててトイレを飛び出そうとした私に、声をかける者があった。振り返ると、相変わらずトイレには私を除いて誰もいなかった。
「ここだよ、君」
 そう言いながら、小便器の並ぶ壁に取り付けられた小窓をコンコンと叩く誰かに私は気づいた。
「いやはや、どうも、どうも……」
 窓の隙間から私を覗き込んでいるのは、目元だけしか見えなかったとはいえ、明らかに異様な風体をした人物であると同時に、私にとってはしごく見覚えと親しみのある人物でもあったが、この状況に対して私は何と反応すればいいのかわからず、呆気に取られていた。その人は小窓から手首を伸ばして、指先で外側を差して、それからおいでという手振りをした。
 外に出て、公衆トイレの裏側へ回ると、やはり間違えようもなく彼がそこに立っていた。『三ツ重之鎌』のもう一人の主人公と言うべき『シユトルベルぺヱタア』君その人である。それは分かるのだが、それでもなお状況の飲み込めない私に、目の前の「ぺヱタア」君はぽりぽりとその頭を掻きながら、ニヤニヤと私のことを見つめている。
「ご紹介に与りまして、ええ、お会い出来て光栄です……と、冗談はここまでにしておきましょうかね」
 『ぺヱタア』君は急に口調を改めた。それは、さっきまで私と行動を共にしていたヒロミさんの声で間違いなかった。
「どういうことですか?」
 私はそう訊ねるしかなかった。一体全体、これはどういうことなのだろう?
「まず、詫びなければいけないことがあります」
 「ぺヱタア」君? ヒロミさん? は言った。
「いや、そのですね、時々こうやって揶揄いたくなってしまう性分がありましてね。あの時お世話になった彼の振る舞いは事あるごとに真似したくなりましてね。誤解を招くようなことをしてしまいましたね」
 私はなおも目を丸くしていた。
「それともう一つ。以前、あなたにかの青年を研究するようになった経緯について、ちゃんとお答えしていませんでしたね。この通り、話はなかなか複雑でして、事は100年前から話さなければならないのですが……」
「100年前?」
 私は思わず口に出してしまった。彼が一体何を言おうとしているのか、あまりに突拍子がなかったために、まったく頭の中で考えを整理できなかった。
「まあ、百聞は一見に如かず、でしょうか」
 そう彼は言うと、いきなりキラキラとした光を身にまとい、みるみるうちにその姿を変え始めた。私が驚きで何も言えないでいる間に、細長い「ぺヱタア」君の輪郭は粘土を小さく丸めたように小さくなった。光は収まり、「へんしん」は終わったようだった。
「改めまして、お初にお目にかかります……」
 彼はフワフワと浮かび上がりながら私に近づき、恭しくお辞儀をした。
「『三ツ重之鎌』にも登場させていただきました『ミウ』と申します。現在では『ミュウ』と呼んだ方が良いかと思いますが」
 私はなおも驚きに囚われながらミュウを見つめていた。小さな体ではあるが、落ち着き払った彼(と言うべきなのかわからないが)はその赤ん坊のような手で私の両手を優しく握りしめた。
「驚くのも無理はなかろうかと思います」
 ミュウは淡々とした調子で続ける。
「僕は100年前、この地方の人々が犬正と呼んでいるあの時代にF博士に発見され、カントーの地へやって来ました」
 高級な座椅子に身を委ねるように空中に深く背中を沈み込ませながら、ミュウはしばし物思いに耽るような仕草をした。
「あれやこれやがありまして、しばらくここを離れざるを得なくなったりもしたのですが、そのうちまたカントーに舞い戻って、こっそりと人間の社会に紛れて生活をするようになっていました。なんだかんだ、あそこの居心地は悪くありませんでしたから。照和の初めの頃でした」
 ミュウは「ぺヱタア」君のように頭を掻こうと手を伸ばしたが届かなかったので、代わりに頬の辺りを指先でくすぐるように掻く。
「そんな風に暮らしていたある時、古書店を漁っていたら、偶然投げ売りされていた古い絵葉書に思いっきり目を奪われたのです」
 ミュウ、あるいは「ぺヱタア」君、あるいはヒロミさんがそう話すのを聞きながら、私は深海から少しずつ海面へと浮上して少しずつ光がくっきりと見えるように、状況を理解しつつあった。
「それが——もうお分かりかと思いますが——あの青年のセンセーショナルな絵だったんです。それで、もじゃもじゃ頭で『ぺヱタア』と呼ばれていた彼とよくつるんでいた画家のことを僕はすぐに思い出しました。そして、いつも側に連れ立っていたカブト、もといカブトプスのことをです」
「ということは、『三ツ重之鎌』を書いたのは」
「恥ずかしながら、僕、なのですよね」
 いやはや、と照れ臭そうにミュウは空中で錐揉みした。
「当時、画廊で見かけたフジタですとかウメハラといった巨匠の作品にひどく心惹かれたりして、ちょうど美術に開眼したということもありまして。そういうわけで僕は、あの青年の評伝を書きがてら犬正時代の日々を振り返ってみようと思って筆を振るった次第なのです。結果的にはそれが『三ツ重之鎌』に化けてしまったわけなんですが……」
 ミュウは短い腕を組んで、渋い表情で考え込むようなそぶりをした。
「とりあえず、あの事件について真に迫ったことを書くとしたら、やっぱり当事者の証言を聞くのが一番かなと思いました。しかし青年は言わずもがなですけれど、関係者たちの消息を掴むことは容易ではありませんでした。格闘大王は鬼籍に入られてしまっていたし、ミウズのカフェも姿を消してしまって、途方に暮れるところでした」
「となると、『三ツ重之鎌』は」
 突然疑念に襲われた私は少々問い詰めるような調子になってしまう。
「その多くがあなたの、その……創作、ということになってしまうのでしょうか」
「いえいえ!」
 ミュウはちょっとムキになってぶんぶんと首を横に振った。
「もちろん、僕は当時を生きた一臣民の手記というテイで書きましたから、その点に関しては作為はあるわけなんです。それに、初めは評伝のつもりで書き始めましたけど、当時の文芸思潮にも感化されたせいで、結果的に恥ずかしながら『三ツ重之鎌』なんてタイトルをつけてしまったわけですけれど、けれど! あそこに書かれた青年とカブトプスを巡る物語については概ね事実に沿っていると自負しているんですから」
 そう断言しながら腰に手を当てて胸を張る様子は少し可愛げがあった。私の顔がニヤけているのを察すると、ミュウは頬を膨らませて不満を示した。
「僕が当時『三ツ重之鎌』を書くにあたっては、多くの方のご協力を仰がせていただいたんです」
 早口気味にミュウは捲し立てた。
「例えば……F博士その人ですとか」
 ここだけの話ですよ、とでも言うようにミュウは厳格な面持ちで言った。それは見た目のかわいらしさにそぐわないシリアスなものだったので、私も思わず真顔になってしまう。
「後年、F氏がシオンに隠居していることを人伝てに知りまして、随分難儀はしましたが彼と会見する機会に恵まれたのです。僕が正体を明かしたときの彼の驚きようと言ったらなかったです。今にも僕の前で土下座をせんとばかりの振る舞いでした。けれど、僕にとってもすっかり過去の話と言いますか、さほど根に持つことではありませんでしたから——子どもの方はまあ知らないですが——その後僕たちは至極冷静に、往時のことを振り返ることができました。最終的には、あの頃を懐かしみ、噛み締めるような気持ちに僕らはなっていました……」
 うんうん、と頷きながらミュウは続ける。
「せめてもの罪滅ぼしというF氏のご好意もあって、僕は早くから青年の書簡ですとか、遺された作品などを閲覧することが許されたのです……博士はあれからさほど時が経っていなかったにもかかわらず、まるでこの地方に伝わるウラシマの伝説のように、まあ道理なのかもしれないですが、随分と老いてしまったかのようでしたが、犬正の時代の記憶は鮮明なものでしたから、僕の記述に大いに役立たせていただきました。これらの資料は無論、今の僕が青年の画業を研究する上での基礎資料の一部にもなっているのです」
「ですが、あの手記に書かれた内容はF氏の証言だけではとても描写できないことばかりでしたよね」
「まあまあ、話はここからなんですよ。僕が頼ったのは何も人間ばかりではありませんでしたから」
「人間ばかりではない?」
 私はついミュウの言葉を復唱してしまった。
「そうなんですよ!」
 ミュウは満足げに頷いて見せる。
「青年の作品とその時代について語るために、僕はポケモンたちの力を借りることができましたから。例えば、格闘大王は鬼籍に入られたとはいえ、エビワラーとサワムラーは健在でしたから、カブトプスとの思い出について色々とお話を伺いました。一度、サワムラーの蹴りがカブトプスの鳩尾に深く入ってひどくえずいた話なんかはなかなか面白かったです。残念ながら『三ツ重之鎌』では省略してしまいましたが」
 それに、と人差し指をピッピのように立てながらミュウは話を続けた。
「実を言うと……後でカブトプス自身から話を聞いたわけなんです」
「……カブトプスに?」
 私はギョッとしながら、ミュウに訊ねた。
「最後の大震災のくだりは往時の文献を参照にした私の創作ではありますが——ええ、なかなか真に迫ってましたでしょ?——後年偶然にもあのカブトプスと出会ったことは事実です。僕がかの青年についての話をものそうと色々と資料集めをしていた照和の初期にも、怪物騒ぎがありましてね、そこで噂に上っていたのがハナダ郊外の洞窟で、僕としてはまあ近づきたくない場所の一つではあったわけですが、どうしても行かないわけには行かないと思って意を決して向かったら、です」
 ミュウは短い指を私の鼻先でピンと立てた。
「まあ状況についてはここでは説明を省きましょう。重要なのは照和の初めにはかのカブトプスはハナダ洞窟に潜んでいたのです。青年の最期から間も無く起こったカントー大震災の混乱に乗じて、カブトプスは誰にも見つからずにそこまで隠れ仰ることができたようでした。そんな彼と僕は幸運にも再会することができたのです……僕は彼と腹を割って話しました。カブトプスは非常にたどたどしくはありましたが、青年との出会いからあの事件の日のことまで僕はこの耳でしかと聞くことができました」
 私はハナダの寂れた洞窟の中で、ミュウとカブトプスが静かに往時のことについて語り合っている様子を想像した。しかしその光景にしても、もう80年くらい昔のことだと思うと私は目まいがするのだった。
「僕自身の体験と照らし合わせて、書く内容の大筋はこれで決まったってワケでした。まあ、実際の作業は困難を極めたわけですが。文章を認めるというのも、なるほど立派な知的行為であり芸術の一分野であると思いましたよ。当時の僕は付け焼き刃の知識でどうにかこうにか形にはしましたが、やはり力不足だった感は否めません」
「カブトプスはその後、どうなったのです?」
「そこで別れたきりです。ご存じのとおり、あの洞窟には僕の子どもが住み着いていたというのもあって、気軽に何度も足が向く場所ではありませんでしたからね……」
 ミュウはいかにも残念そうに首を振った。
「『三ツ重之鎌』を書き上げた私はどうせならと思って、原稿を某出版社へと送ったのですが、ろくな返事もないまま、それっきりになってしまったのですよね。原稿を突き返すことすらしてこないので、正直僕も腹が立たないと言ったら嘘になるんですが、いくら問い合わせても埒が開かなかったし、それに世相も穏やかならぬ頃合いになってきていましたから、これ以上厄介ごとに巻き込まれるのは勘弁と思い、しばらく最果ての島にこもってミュウとしての暮らしに戻ることにしたのでした」
 重力から自由になったミュウはゆっくりと体をねじらせながらぐっと背伸びをし、ふう、と溜息をついた。
「それからまた長い時間が経ちまして。ポケモンとの共存を掲げた自由闊達な時代を迎えてからは、僕もそんな社会の中にまたぞろ出戻って、溶け込み、安穏のうちに暮らして、そうして今に至るわけです。あれからだいぶ長い時が経ってしまいました。僕は今や『ヒロミ』という名前でシンオウ地方で美術を研究する暮らしを送っているわけですが、そんな時に偶然あなたが、あの原稿を見つけ出してくれたわけで、あの当時からずっと僕が密かに念じていた願いが叶ったのは、何度も繰り返しますが、つくづく不思議な因果でした」
 そう言って、ミュウは別にそうする必要もないのに、物陰に隠れた。しばらくしてその辺りにほんのりと光が灯り、消えた。茂みの中から何事も無かったかのようにヒロミさんが戻ってきた。
「いやいや……長くなってしまいましたが、これが『三ツ重之鎌』を巡る顛末です。僕としてはこれから本格的に青年の評伝に取り掛かりたいと思っています。いわばリベンジというやつです。さて!」
 ヒロミさんはチラッと腕時計に目をやった。
「そろそろパーティの時間ですね。行きましょうか。積もる話はまたの機会に……」
 そう言って、ヒロミさんはレントラーのたてがみのような髪の毛をぽりぽりと掻いた。私も頷き、彼の後について圖犬画廊へと向かおうと歩き出したとき、不意にしゆぴん、という音を聞いた気がした。それは木々が風にそよいで擦れあった音だったのかもしれないが、私には判然としなかった。ただ、彼らがいまどこにあろうとも、幸福であって欲しいと心から思うのだった。



 後書き

 この作品を着想したのは2020年の秋頃のことでしたから、2年近くも悪戦苦闘して完結に至ったということで……。カブトプスと人間(男)とのエログロありのロマンスを大正風の擬古文体で書こうなどと軽い気持ちで考えたのは、同じ頃『はいけいで始まる長いお手紙』で、小学生のような拙い語り口で小説を書いていたり、あるいはマジック・リアリズム風の調子で『首領偉大なる、偉大なれ首領』を書いたように、プロットよりも、それを語る文体が小説を方向づけていたのと傾向としては一緒なのでした。実際、冒頭の1〜3章はほとんど一気に書き上げた(同時期には確かイオルブとアップリューのCP小説——諸事情でwikiには上げていないけど——の合間だったかな)、んですけど!
 wikiに公開し連載を始めたのは2021年初頭、ちょうど仮面小説大会も終わったばかりのタイミング、もはや懐かしくなってきます。その時にはここまで長く続けるつもりはなかったんです。せいぜい、3〜4万字程度の長めの短篇で済ますはずでした。それがここまで長引き、かつ書きあぐねたのにはさほど間も空けずに始めた『Farewell, My Child of Nature』と同時進行になったためもあるし、プライベートの環境の変化のためでもあるかもしれないですけど、まあ、ちょっと冒険をし過ぎたというのが一番でした。
 エピローグは実質的な後書きでもあり、僕自身の反省でもあります。まあ思うところはあれ、作中のセリフを借りれば「付け焼き刃の知識でどうにかこうにか形にはしましたが、やはり力不足だった感は否めません」といった心境ではあります。ただ、このような読者にも作者にも過酷な話を完走できたことは誉めてやろうか、というところです。あと、カブトプスは僕にとってのダビデです。
 とりあえずこれだけ言っておきましょう。さて、次は何を書こうか……

※2023/01/24追記 ブログにて振り返り記事公開しました

読者諸兄の御感想や御指摘は此方にて

お名前:
  • 肆まで追いつきました! どういう話になるのか楽しみです! シユトルベルぺヱタア君、個人的には吾輩は猫であるの迷亭や夜は短し歩けよ乙女の樋口などのふわふわした感じを連想させ、こういうキャラクターが出てくると楽しいし、かつそれを操る羣羣先生の力量にただただ感服するばかりです…続き楽しみにしています! -- 朱烏
  • 朱烏さん、ここまで読んでいただいてありがとうございます!
    自分でもハードな文体だと自覚はしているんですが、それも踏まえて楽しんでいただけて嬉しいです。
    シユトルベル(略)君……この時代にはああいう奇っ怪なトリツクスタアを入れたくなるものです。何せ、乱歩や横溝、夢久が跋扈してた時代ですからね……!
    とにかく完結されられるよう、喀血して頑張っていく所存です! -- 群々
  • 拾章まで読みました。いにしえの文章作法に則り旧仮名遣いをふんだんにあしらった超超超超超超固さMAX 4184kcal(消費するほう)な文体、いやはや読むのも大変ですがこれ書くのたまらなく大変でしょう……よくぞこんな茨の道を……。それでありながら読みやすい工夫――ルビ、取りやすい文章のリズム、わりかし柔らかな公開者の追記、ゲームに準拠した小ネタなどなど――も整えられていて、追いつくことができました。ちょろりと文字数調べさせていただいたんですけどまだ5万字未満……すでに20万字は読んだ気がします。密度すごいや。
    初めは青年の腕の中でしゆぴんしゆぴんと可愛く鳴くばかりだったのに、青年の危機を何度か救い、ついにカブトが進化しましたか。カフエヱでの交流を主としながら展開される青年と周囲、青年とカブトとの交流と、グレンの研究所別棟で目にした怪文書。ところどころ予言的に散りばめられた執筆者の文章からして、この世界観に圧倒されていました。これからあるらしい濡れ場をどう書かれるのか不安で仕方なかったのですが、なるほど肝要となるのはカブトプスのダビデ的な美しさなんですね。曲線美を描く犀利な鎌に、割れた腹筋のようなカブトアーマー。青年と同じ二足歩行となり、不器用ながらも抱擁できる腕を手に入れた彼がこれからどうなるのか楽しみです。 -- 水のミドリ
  • ミドリさん濃い感想ありがとうございます!
    こういう読み手にも緊張を強いる特盛ペヤング文体、『はいけい』でひらがなばかりの文体書いた反動、と言うにしても縛りがキツいことキツいこと……当初は3万字程度を見積もって書き進めていたのに、その文量を既に超えてしまいました。どうしてこうも自分を縛るのが好きなのか(?)
    いかんせん、カブトを進化させるまでにあれやこれやと書いていたらいつの間にか、です。むしろこれだけ書いてもまだ5万字じゃないと気づいてハッとさせられますが、青年とカブト以外の登場人物やらに愛着を感じ出すと止まらないのが字書きの性。本来はカブトプスとの濡れ場を書くつもりで出発したんだよなあ、ということを作者が忘れそうになるほど、書きこんでいますね……けれど、諸々の要素が揃って、ようやく進化の段階まで進んだ以上は、あとは結末まで驀地、できればいいですね。
    そうは言っても書く原動力はただ一つ「カブトプスの鋭利な鎌、程よく割れた腹筋を思わせるカブトアーマーは美しい」です。一番書きたいと思っていたくだりへ至るまでもうひと頑張りします! -- 群々

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Last-modified: 2022-12-13 (火) 01:53:16
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