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金の落下傘

/金の落下傘


 
 
 

 空が白けるにはまだ早い。ポッポの鳴き声さえ聞こえない。
 そんな早朝の深い森を、一匹のフローゼルがほてほてと歩いていた。
 肩から小さなポーチを掛け、反対側の肩には木の枝を担いでいる。その先には小さなランタンが取り付けられており、月明かりさえ届かない森の道を頼りなく照らしている。しかしその足取りは確かであるから、その灯りは道を探すというよりは足元を確認するためのものらしい。
 時折風が吹き抜けて、静かに木の葉の擦り合わせる。聞こえる音はその森の歌と自身の足音ばかり。そんな道のりを大分歩いてから、ぴたりとフローゼルが足を止めた。森の小道を塞ぐようにして、巨大な壁が立ち塞がっているのだ。
 フローゼルはその『壁』を仰ぎ見た。暗い暗い森の中、その中を更に切り取ったように黒い壁は、夜空を突き抜けてしまうほどに高い。陵雲、そう言っても憚らないほどの壁を、フローゼルは黙って見上げている。
 ――いや、壁ではない。そのごつごつした壁は、無機的な平面とはかけ離れている。穿ったような窪みがあり、ささくれた表面が重なって奇妙な模様を描いていたりするその壁は、確かに生き物に共通する何かを感じさせる。
 その天井から、薄っすらと白い明かりが差した。幾重の重なりから零れ落ちるような朝の光は、足元を照らすには頼りない。しかし、フローゼルはその頼りない日差しが好きであった。天使の階段とも呼ばれるその木漏れ日は、何かの終わりと何かの始まりを仄めかすようでもある。
 フローゼルは、その呆れるほどに大きな樹を仰ぎながら、世界の目覚めを感じていた。
 
 
 
 
金の落下傘 (作者: ハコ)
 
 
 
 
 その樹は『長老』と呼ばれていた。
 単純にこの森で一番の長生きだからである。千年生きるといわれるキュウコンを十匹並べたところで、それには遠く及ばない。果てなく長い悠寧の時を見てきたその大樹を、しかし敬うような敬虔な輩はこの森には居なかった。年寄りは大切に、などという標語は現実の前に消えてしまう。老いて弱った者は他者の餌食になるだけだ。
 だからその長老の幹を改造して住処にしている輩も、悪気など微塵とも感じていなかった。岩盤を削って洞窟を掘ったり、他者を追い出して住処を奪うよりよっぽど労力が掛からない。皆が皆現実的で、そうでなければ生きていけない。世界はそういう風に出来ている。
 だから仕事が長引いてこんな朝帰りになってしまっても、もうそろそろ一般的な起床時間であろうと、フローゼルは皆を起こすつもりなど毛頭無かった。夜通し歩けば足が疲れるのは当たり前で、眠って休まなければ生きていけない。少なくともフローゼルの体はそういう風に出来ている。
 だから例え自分が厨を任されている立場だとしても、もう仲間のために朝食を用意していなければならない時間だとしても、フローゼルは現実的に、自分の体を休めるために、『住処』の入り口から真っ直ぐ自室へ向かって行った。
 が。

「おー……」

 間延びするような声がどこからか響いて、フローゼルは全身を緊張させた。まだ空が白み始めた程度の外とは違い、幹を削った住処の中には幾つもランプが灯っている。だがしかし、その声の主の姿はどこにも見当たらない。
 背負っていた枝とランプを床に置いて、左右に視線を走らせた。妬き付くような空気の中、フローゼルは全神経を集中させる。だが、揺らめく明かりの中に映るのはぴったり閉じた各々の部屋のドアと、そして上階へ続く階段のみ。その階段の先に意識を向けてみるものの、やはり何者の気配も感じられない。
 誰も居ない。そんなことは有り得ない。声がしたということは、間違いなく奴がやって来る。この広間ではない。階段の先でもない。ドアの奥でもない。ならば一体、
 まさか――と思ったそのときだった。

「……っかえりぃいいいいいっ!!」

 じっくり溜め込んだような元気な声とともに、一匹のコリンクが、フローゼルの真上から猛スピードで『降ってきた』。自由落下の加速度では有り得ない。明らかに天井を思い切り蹴って、爆発的な初速を得た上でのスピードだ。
 その種族独特の可愛らしい前足をフローゼルに向けて、太陽を丸ごと埋め込んだような嬉々とした表情でフローゼルに向かってくる。傍から見れば感動的な再会の光景だろう。
 ただ一点、そのコリンクの体が充電率百パーセントで、バチバチと凄まじい火花を放っていることを除けば。
「う、ぉぉおおおおぉっ!」
 一体どうやって天井にへばり付いてたんだ、と問う暇も無く、フローゼルが交錯寸前のところで大きくバックステップを踏む。上体から先に流したので大きくバランスを崩すが、しかし空中で素早く一回転、美しい着地を決めた。
「ちぃぃっ!」
 その降ってきた小悪魔も前足から着地を決めて、悔しそうに舌打ちをくれる。しかし体は強い電気を纏ったままだ。次のチャンスを狙おうと、体勢を低く、前足で軽く床を掻きながら金色の強い視線を向けてくる。先ほどの笑顔がまるで嘘のようで、それは明らかに肉食獣が獲物を狙う目だった。
 両者の間は数メートル。しかしその程度の距離が何の意味も持たないことは、フローゼルも良く分かっていた。コリンクの脚力をもってすれば、瞬きほどの間に肉薄されるだろう。
 威嚇の唸り声を上げるコリンクと、ファイティングポーズを取って前後にステップを踏むフローゼル。張り詰めた空気の中、そこに割って入った声は、睨み合う両者のどちらのものでもなかった。

「――あら、おはよう。……またやってるの? あなたたち」

 落ち着いた声とともに、一匹のグレイシアが階段から降りてきた。顔を背けるように小さなあくびを隠してから、呆れたような視線を両者にくれる。
「最近恒例になってる気がするけど。できるなら朝は止めて欲しいわね」
「俺のせいじゃねえっ」
 フローゼルがファイティングポーズを解き、ビシィっとコリンクのことを指差した。そのコリンクは我関せずとばかりにそっぽ向いている。いつのまにか充電も解けてしまったようだ。
「コイツが隙有らば俺を闇討ちしようと襲い掛かってくるのが悪いんだろっ。この前なんかわざわざ地面に穴掘って――」
「……子供相手にムキになる方もどうかと思うけどー?」
 早口で捲くし立てるフローゼルに、子供とは思えない冷ややかな目線をコリンクが浴びせた。
「コ、コイツ……!」
「ぼくは朝帰りのフローゼルにおかえりなさいを言ってあげただけだもーん!」
「おかえりなさいどころかアレは天国にいってらっしゃいだろーが!」
「止めなさいよ二人とも……」
 グレイシアがフローゼルを宥める。『二人』と言ってはいるが、エキサイトしているのは明らかにフローゼルの方で、額に青筋が浮かびそうな勢いだ。テメェ次は覚悟しとけよ、と捨て台詞を残して部屋に戻ったコリンクに、黙れこのクソガキが、と中指を立てている。
「全くもう……」
 一つ溜息を吐いてから、グレイシアが話題を変えた。
「……それで、伝票は?」
「ん。ああ、忘れるところだった。――ほい、確かに荷物お届けしてきました、っと」
 今更思い出したように、慌ててポーチの中を探る。幸いにもすぐに見つかったようで、先ほどの沸騰が嘘のように、胸を張って伝票を差し出している。単純で扱いやすい……などと思われていることを、当のフローゼルは知らない。
「お疲れ様。仕事は完了ね。連絡は私がしておくわ」
 軽く眺めてから、グレイシアがそれを受け取った。
「あーもう。荷届けなんて久々だから体ガッタガタで」
 フローゼルがその場で大きく伸びをした。ついでにあくびが漏れる。夜通し歩いたおかげで、丸一日殆ど眠れておらず、今日は良く眠れそうだー、と小さく口に出てしまう。
 しかし。
「ゆっくり休んで……と言いたいところだけど」
 そのまま部屋に逃げ帰ろうとするフローゼルの背中に、冷ややかな声が掛かった。その声と気配には言い様のない迫力が篭もっており、ナチュラルな黒い眼差しとなってフローゼルをその場に縛り付ける。
「朝食の準備、忘れないように。……ちなみにみんな居るから。あの仔も昨日の夜に帰ってきてるわ」
 その言葉は単純なフローゼルを絶望の底に叩き落とすのに十分だったらしい。激しく項垂れるフローゼルに一片の慈悲をくれることもなく、グレイシアは伝票処理のために自室へと戻って行った。
 
 
 
「そりゃー大変だったなー」
 バゲットを頬張りながら笑うのはグラエナだった。その隣でエネコロロが苦笑している。
 スケジュールの都合で徹夜で帰路についた挙句、住処に帰れば悪魔に命を狙われるという苦行をフローゼルが粛々と語ってやったところだった。
「……まあ仕方ないんじゃないか? フライゴンは別の仕事で遠出してたし、運ぶ物が物だったから俺らじゃ厳しかっただろうし」
「無事にこうやって朝食の支度が出来てるんだから、いいんじゃない?」
「だよなー」
「ねー」
「ふふ」
「よくねえよっ!」
 仲睦まじい朝食の光景を見せるグラエナとエネコロロに、フローゼルは思わず手に持っていたナイフを投げつけたくなる衝動に襲われていた。このグラエナとエネコロロは常に二匹でワンセット、いわゆる公認のバカップルとして取扱われており、彼らが現れると周囲の体感気温が三度は上昇すると言われている。
「まあ仕事はどうしようも無かったのは認めるけどな。けど俺には平和な時間ってものが無いのか。殆ど毎日一回はコリンクかフライゴンに襲われてるんだぞ、俺」
 フローゼルが溜息とともに愚痴をこぼした。運ぶ荷がいわゆる『割れ物』で、丁寧な取り扱いを要求されていた。四足歩行のグラエナやエネコロロには難しいということで、フライゴンを除いた仲間の中で唯一の二足歩行ポケモン、フローゼルに白羽の矢が立ったというわけだ。
 人気者は辛いねー、とバカップルが笑い、うるせーそんな人気は要らねー、とフローゼルが項垂れる。
「……あれ、そのライちゃんはどうしたの?」
 そんな光景を楽しそうに見つつ、木の実のサラダを頬張りながら部屋を見渡すのはエーフィだ。
「お姉ちゃんとコリンクはもう食べ終わったみたいだけど……」
「こらこら。ちゃんと『副長』って呼ばないと、また後で怒られるぞー?」
 窘めるようにグラエナも笑った。エーフィはグレイシアの妹である。が、公の場に血縁関係を持ち込まれることを良しとしないグレイシアに、『お姉ちゃん』と呼ぶことを禁止されていた。ここでは誰もがグレイシアのことを『副長』と呼ぶ。この仲間内で二番目に格が上という、言葉そのままの意味だった。
「良いのっ。バレなければ……ね?」
 子供っぽい笑顔とともに、前足を口元に当てて見せる。太陽ポケモンという名の通りなのか、エーフィのその笑顔には場の雰囲気を和ませる不思議な力がある。淡々とした姉のグレイシアとは対象的で、よく姉妹らしくないと言われることもあった。暗いところが苦手だったりと多少子供っぽいところはあるが、それでもエーフィは皆から可愛がられている。
「ライちゃん、昨日も遅かったからまだ疲れて寝てるのかなあ」
 少し心配そうな表情で、エーフィがフライゴンの部屋に視線を向けた。扉は閉まったきりで、その先からは物音一つさえしない。
 ――ちなみに、『ライちゃん』とは件のフライゴンのニックネームのようなものである。以前は『フライちゃん』と呼ばれていたのだが、『フライ』に『蠅』という意味があることを知った彼女が大暴れし、その凶悪な破壊光線を以ってして『長老』の一部を分子レベルまで破壊、大騒ぎになったことがあった。
「まあ、疲れてるんならそっとさせておけば良いだろ。わざわざ起こす必要も無いだろうし」
「……ああ、そういえば。フローゼル」
「ん?」
 殆ど朝食を食べ終えたグラエナが、思い出したようにフローゼルの方を向いた。隣のエネコロロがグラエナの頬にキスを落としているのは、この際目に入らなかったことにする。……フローゼルには、未だ彼女と呼べる存在が居ない。目下七連敗中である。
「何だ。惚気話なら聞く気は無いからな」
「いや、そうじゃなくて」
「じゃあ何だ。俺の料理に文句つける気なら許さんぞ。ドキッ、二人きりの寒中水泳inシンオウに招待してやる」
「だから違うって。今日も美味かったさ。ていうか夏でも寒いだろうそれは」
「流氷もあるぞ」
「殺す気かよ。……えーと、フライゴンがまた」
「ああー何かもうその時点で聞きたくない聞きたくない」
 フローゼルが頭を抱えて蹲った。尻尾まで垂れ下がってしまっているあたり、本気で聞きたくないのかもしれない。が、グラエナは特に気にすることもなく続ける。
「またデートしたいって騒いでたぞ。別に良いじゃないか一回くらい。せっかく思いを寄せてくれてるんだからそこは雄として――」
 そうやって、グラエナがフローゼルを宥めようとしたときだった。

「おかえりフローゼルくううううううううん!!」

 壊れるんじゃないかという勢いでドアが開く。はっと顔を上げたフローゼルに、凄まじい速度で突撃をかましたのは噂のフライゴンだった。両手を突き出し、太陽のような笑みとともに――しかし体に電撃は帯びておらず、垂直落下ではなく水平飛行だ。
「ちょ、ごふぉっ」
 あまりにも唐突すぎるその攻撃に、反応する暇さえ与えてもらえず、フローゼルは正面から突撃を食らう羽目になった。明らかに致命的と思われる呻き声を上げながら吹っ飛ばされる。
 その激突から約二秒、慣性の法則に従って椅子ごと八メートルほど床を滑ってから、やっとフローゼルの体が止まった。
「あれ。……だいじょうぶ?」
 まるで何事も無かったかのように、フライゴンが口元に手を当てつつ聞いた。周りの面々はそれを見て見ぬ振りしながらテーブルの皿を片付け始めていたりする。フローゼルとフライゴン、その二匹とその他各々の間に見えない壁ができ上がっていた。皆が皆現実的で、そうでなければ生きていけないのだ。触らぬ神に祟りなし、という奴である。
「だ……」
 小さく体を痙攣させつつ、引き攣った笑顔でフローゼルが圧し掛かったフライゴンを睨む。
「大丈夫なわけがあるかっ! 一瞬目の前に綺麗な星空が広がったぞ!」
「すごーい! 綺麗だった!?」
「うぎょごぶがぁはっ」
 フライゴンが勢いに任せてフローゼルの体を強く強く強く抱き締めた。ナナシの実を片手で粉砕できる彼女はそのパワフルさで名を馳せている。聞こえてはいけない音がフローゼルの体から響いているような気がするが、誰も助けの手を差し伸べようとはしない。エネコロロとエーフィなど、揃って前足を合わせていたりした。
「星空の下でデートっていうのも良いよねっ。夜空には綺麗なお月様が浮かんでて、その下で恋人同士が……きゃー!」
 押し倒したままフライゴンが物凄い勢いでフローゼルの体を揺さぶると、彼の頭はリズミカルにゴンゴンゴンゴンと床に叩きつけられることになる。周囲の誰もが目を伏せた。私達、俺達って無力だな――ああフローゼル、君のことは決して忘れない、そんな静かな慟哭が皆の心に響き渡った。
「じゃあ早速デート……あれ? あれれ? ……フローゼルくーん?」
 しかし返事は返ってこない。皿を洗っていたグラエナは、彼の体が小さく痙攣しているのを見逃さなかったが、自分のめまいのせいだと結論付けて何も言わなかった。おかしいなあと不思議そうな顔をしつつ、フライゴンがフローゼルの頬を、本人の尺度で軽く優しくそーっと叩く。
 パァンと乾いた音が鳴り響き、フローゼルが完全に静かになった頃、その広間にコリンクとグレイシアが入ってきた。
「……あら。また?」
 隅っこの方の、傍目から見たらお子様お断りにしか見えないその光景を一瞥してから、グレイシアは何事もなかったかのようにテーブルに着いた。雌が雄の上に圧し掛かって体を揺さぶっている。世間一般的に考えればお子様の精神発達に悪影響を与えかねない光景だ。しかしどう考えてもそのお子様にしか見えないコリンクは、ぶっ倒れているフローゼルの顔を面白そうに覗きこみつつ、にちじょーちゃめしごと、とか言っていたりする。日常の光景である。
「茶飯事、ね。みんな朝食済んだみたいだから、そろそろ新しい仕事の振り分けしたいと思うんだけど……良いかしら?」
 紙の束を広げつつ、皆をテーブルへと呼び集める。毎朝のこの会議は副長であるグレイシアの仕事だった。
「じゃあ……」
 皿洗いを終えたグラエナと、フローゼルの顔を突っついていたコリンクが席に着いたのを確認してから、グレイシアが話し始めた。フローゼルとフライゴンは特例、というか、やはり諦められているらしい。デートデートという呪文のような声は聞こえないことになっているようだ。
「エーフィは今日はお休み。グラエナとエネコロロはこの前の荷物の残りを届けて頂戴。途中の谷に気をつけて。……コリンクはいつものように、森のお友達と遊んでらっしゃい」
 はーい、とコリンクが尻尾を振りながら笑う。森に住むポケモン達と膨大な交友関係を築いているコリンクが仕入れてくる情報は、ここの仲間たちにとって貴重なものだ。
「あとは……」
 さて、という感じでグレイシアがフローゼル達に視線を移す。移してから、もう一度依頼の紙に視線を戻したりしているのは、マウストゥマウス……マウストゥマウス……と呟くフライゴンに躊躇いがあるかららしい。
「……フローゼルは、隣の山に逃げ込んだっていう盗人の捕縛のお手伝いに。フライゴンは、もう一件荷運びの依頼があるから……また少し遠いけど、お願いできるかしら」
「えー!?」
 できるかしら、の「ら」のあたりでフライゴンが大きく抗議の声を上げた。
「この前、荷運びの仕事減らしてってお願いしたのにー! また何日もフローゼルくんに会えないしデートできないし一緒に寝れないよー!」
「そうは言っても……ね。お願いされちゃったものだから……」
 なるべく語調を緩くして言いつつ、グレイシアは密かに溜息を吐いた。……視界の隅ではフローゼルが相変わらずの狸寝入りを決め込んでいる。毎日のようにフライゴンの強烈なタックルを食らっているくせに、あの程度で気絶するはずがない。
 記憶が正しければ、あの二人は一緒にデートしたことも一緒に寝たことも無かったはずなのだが。グレイシアが頭を悩ませる。周囲の面々も、フライゴンが以前から何度もフローゼルにアプローチを仕掛け、グレイシアに荷運びを減らすようにお願いしているのを知っているだけに、気まずい表情を浮かべるしかない。
「この仕事ができるのは、この中であなたしかいないし」
 そのグレイシアが軽く首を傾げつつ、何とか説得を試みる。……副長の立場は強いのだ。これまで何度もフライゴンが駄々を捏ねることはあったのだが、毎回こうやってグレイシアに窘められ、渋々従うということが続いていた。
 胸元で組んだ自分の手を見下ろしつつ、拗ねたように口を尖らせていたフライゴンがゆっくり顔を上げる。その言葉はいつものように、やはり拗ねた子供のような声で、本当に仕方なくといった感じで結局承諾するのだろう。そう誰もが予想して、また始まるいつも通りの一日の準備を始めようとしていた。
 が、

「……じゃあ、デートできないならお仕事しないっ!」
 大きく言い放たれたその宣言に、誰もが目を丸くして動きを止めた。

 遂にむくれてしまったフライゴンに、グレイシアはいよいよ深い溜息を吐いた。ストライキされてはたまらない。依頼は受けてしまったのだからやるしかない。が、普通の陸上ポケモンでは一週間以上掛かるような距離なのだ。どうあってもフライゴンに動いてもらうしかない。
「……あ、ちょっと!」
 そんなことを考えている間に、フライゴンはさっさと自分の部屋へと戻ってしまっていた。背中だけが見えたが、少なくとも譲歩してくれる雰囲気は感じられない。気まずさを感じているのか、沈黙の中で皆が互いに顔を見合わせていた。フライゴンが毎日のようにフローゼルのことを話しているのを知っているだけに、誰も彼女を責められない。
「……フローゼル」
 その凍りついた空気を破ったのは、氷のように冷たい声だった。
 グレイシアが、未だに狸寝入りを決め込んでいるフローゼルに視線を向けている。心なしか、寝転がったその身体も強張っているようだ。……副長の立場は強いのだ。これまで何度もフローゼルが駄々を捏ねることはあったのだが、毎回こうやってグレイシアの有無を言わさぬ命令に首を縦に振る他無く、渋々従うということが続いていた。雌は雌の味方というのは世の常である。
「フローゼル」
「……はい」
 恐縮しきったような声を上げつつ、フローゼルがゆっくり身体を起こした。最早グレイシアの次の言が予想できるらしく、他の皆は目を伏せていたり合掌していたりする。
「盗人の捕縛はやらなくて良いわ。私が直々に出向くから。……明日一日、暇をあげる。だからフライゴンと遊んできなさい。たっぷりと」
 上司から部下への心温まるご提案では有り得ない。人柱――グレイシア以外の誰もがその単語を頭の中に思い浮かべた。しかし誰も助けの手を差し伸べようとはしない。できない。
「い、いやいやいやいやちょっとそれは冗談じゃないっていうかむしろ副長が現場に出てくるなんてそんな」
 酷く顔を引き攣らせつつフローゼルが捲くし立てる。瞳の中に映るのは一握の希望か。しかしグレイシアは表情を一片も変えず、その希望を冷たい氷で磨り潰す。
「良いじゃない。私も久しぶりに暴れたいって思ってたところだから」
「いや、でも駆逐とかじゃなくて捕縛って副長……」
「………………まあ、手加減くらいは忘れないわよ」
 因みに、先ほどの合掌は盗人に向けられたものでもある。
 とにかく勝負は決した。フローゼルはがっくりと肩を落とし、頭を抱えている。
「ああああもう何で俺がこんな目に……」
「仕事のためだけじゃないんだから。……明日、よろしくお願いね」
 泣きそうな声で頭を左右に振ってるフローゼルを尻目に、グレイシアもさっさと部屋へと戻って行った。軽く尻尾が左右に揺れているあたり、久しぶりの現場が楽しみらしい。明日の天気が局地的な嵐になるのは間違いない。ただし降ってくるのは氷柱である。
「……や、まあ、さっきも言ったけどさ、せっかく思いを寄せてくれてるんだし……」
 微妙な哀れみの視線をくれつつ、そう言葉を掛けたのはグラエナだった。
「別に一回くらいデートしてあげても」
「おーまーえーはーアイツの恐ろしさを全ッ然分かっていないッ!」
 びしぃっとグラエナへ向けて指を差しつつ、助けを差し伸べなかった仲間たちへ恨みの篭もった視線を向けた。
「いいじゃんモテモテの色男ー」
「俺は歩くっつーか飛ぶ重火器にモテたくは無いわー!」
「あ、ちょっ……、女の子にそんな言い方はないでしょー!? 可哀想じゃないっ!」
「事実だろーがっ! 山火事起こしそうになったあの事件を忘れたとは言わせねーぞ!」
「確かにそんなこともあったけどっ! ナナシの実とか片手で砕いちゃったり捕縛対象のサイドンに入院三ヶ月ものの重症負わせたりしたこともあったけど! ライちゃんだって可愛いところあるんだからねー!?」
「いやエーフィ、それ全然フォローになってない……」
 エネコロロの苦笑とともに、他の皆も顔を引き攣らせた。エーフィの言ったことが全て事実だからである。コリンクだけがけらけらと楽しそうに笑っているが、フローゼルを次に見るのはポケモンセンターだった……なんてことも有り得ないとは言い切れない。何しろ件のサイドンに関しても、本人曰く『うっかり』である。全くの故意ではない。
「いやマジで洒落にならないんだっつーの……。俺だってうっかり複雑骨折させられたくねーよ……」
「さすがにそこはフライゴンも気を遣うだろ……、多分」
「そうね、気を寄せてる相手だもんね……、多分」
「ライちゃんだって女の子だし……、多分」
「次に会うときはホータイまみれのミイラかな……、絶対」
「お前ら絶対楽しんでるだろー!」
 拳を震わせつつフローゼルが叫ぶと、蜘蛛の子を散らすようにして皆それぞれの部屋へと逃げ帰って行った。皆が皆現実的なのに、それでも首を突っ込むのは楽しさを見出しているからに他ならない。誰だって他人がデートすると聞いたら何かが沸き起こるものである。
「ああもう……」
 深い深い溜息を吐いた。味方は居ない。明日一日をどうやって生き延びるべきか、対策を練るためにフローゼルも自室へと戻って行った。



 翌朝。
 快晴である。せめて豪雨にでもなればデートは中止になるんではないか、というフローゼルの願いは叶わなかったらしい。天使の階段とも呼ばれるその朝の木漏れ日は、何かの始まりと何かの終わりを感じさせるのだ。
 ――始まるのはデートで終わるのは俺の命か。
 そんなことを思いながら、フローゼルは小さく肩を竦めた。長老の樹を出て、暫く進んだ先のこの広場は待ち合わせによく使われる。生い茂る木々がここの部分だけ開けており、少なくとも大木の表と裏ですれ違う青春の一ページは起こり得ないからだ。
 ――起こってしまえば良いのに。
 そんなことを願っていたのだが、デートするという旨をフライゴンに伝えたところ、待ち合わせにこの場所を指定されてしまった。何も同じ場所に住んでるんだから待ち合わせなんて必要無いと思うのだが、乙女心としては待ち合わせの段階から別れてお互いの姿が見えなくなるまでがデート、らしい。
 ――意味が分からん。
 大木に身体をもたれさせると、視界には青い空が広がっていた。一点の曇りさえ見えないその青空を見上げて、フローゼルは苦笑を漏らす。
「……しっかし」
 肩に掛けたポーチから小さな懐中時計を取り出しつつ、あと五分で来なかったら帰るか、と心の中で呟いた。割と正確な体内時計を持ち合わせる身としては、それ以上に正確な時を知る必要など滅多に無いのだが、この場合相手が相手である。万が一半刻でも遅れたらこの森が消し飛びかねないため、念には念を入れて持ってきたのだ。
「一体、何やってるんだか……」
 小さく呟いたその言葉は、フローゼル自身に向けられたものではない。仕事柄、周囲の気配には気を遣っている故に、フローゼルの背後二十五メートル先に隠れているフライゴンには十分前から気づいていた。フライゴン当人は隠れているつもりらしいが、何しろ体長二メートルを超える図体を隠すに樹木一本では頼りない。ついでにその存在によって風の流れが変わっていることにも、フライゴンが到着したときに小鳥が数羽飛び去ったことにもフローゼルはしっかり気づいていた。
「まあ、来る気が無いなら帰れば良いだけだしな」
 独りごちるように呟いて、再び懐中時計に視線を落とした。しかし先ほどから針は全く動いておらず、思わず壊れているんじゃないかと疑ってしまう。待ち合わせの時刻まであと五分。これほどまでに長い五分間を、フローゼルは今まで味わったことが無い。

 そのままフローゼルが八回ほど溜息を吐いて、十回ほど懐中時計を確認した頃、やっと後方の影が動き出した。

「ごめーんっ! 待った?」
 フローゼルが寄りかかっていた大木の裏から、覗き込むようにしてフライゴンが顔を見せた。まるで夜中に何十回も練習したかのような、完璧な表情と声色である。初心な年下の雄なら、それだけで恋に落ちるかもしれない。
「……何だ、やっぱり来たのか」
 しかしそこは百戦錬磨、目下七連敗中のフローゼルである。特に表情を変えることなく言ってのけて、三秒ほど空気を凍らせた。
「ちっがぁぁぁぁうっ!」
 フライゴンが叫んだ。ブンッ、と重量感のある風切り音が鳴って、ドゴォ、とフライゴンの左前足が大木の幹にめり込む。衝撃で木の皮が剥がれ落ちるとともに、哀れなキャタピーも三匹ほど地面へと転がり落ちてきた。
「な、何だよ。ちゃんと遅刻せずに」
「違うのっ! そこはどう考えても『いや、ついさっき来たばかりだよ』か、百歩譲っても『全然気にしてないから大丈夫だよ』でしょっ!?」
 大地を揺るがすようなその絶叫に、小鳥が飛び去る音が重なった。足元では、世にも珍しいキャタピーの後ずさり大行進が催されている。
「んなこと別にどうだっ」
「乙女心っていうのはそういうものなのーっ!! ほら、もう一回やるからそこに座っててっ」
 半ば無理矢理大木の根元に座らされて、フローゼルは呆然としつつフライゴンの背中を見送った。尻の痛みに顔を引き攣らせつつ、ゆっくり視線を上げれば、そこには先ほど鉄拳を食らった大木に大きな傷跡が残っている。
 直径十五センチ程度のクレーターである。
 ――いや、ついさっき来たばかりだよ。全然気にしてないから大丈夫。
 そう心の中で復唱して、フローゼルは深呼吸した。脳漿をブチ撒けて死ぬなんて、絶対に避けたい死亡状況トップテンには必ず入っているだろう。
 再びフライゴンの足音が背後から近づいてくる。フローゼルはもう一度、樹の幹に突如出来上がったクレーターを見上げつつ、自身の無事を祈らずには居られなかった。

「ごめーんっ! 待った?」
「い、いや、全然。ついさっき来たばっかりさ」
「あ、それなら良かったぁ……。ごめんね、フローゼル君とデートだから、色々準備してたら遅れちゃって……」
「はは、そりゃー嬉しいな。……っと、待ち合わせ場所で時間潰すのも何だから、歩きながら話でもするか」
「うんっ!」
 完璧。パーフェクトである。声色まで変えて滑らかに言ったその台詞は、随分とフライゴンのお気に召したようだ。傍から見ても笑顔百パーセント、第一関門突破である。
 鼻歌混じりで実に嬉しそうに歩きながら、フライゴンがフローゼルに腕を絡ませた。無論、そこでフローゼルが骨折の心配をしたのは言うまでも無い。悟られないように息を吐きつつ、肩のポーチを背負い直し、二匹で歩くには狭い森の小道をゆっくり歩き始めたのだった。



 街と呼ぶには小さすぎるし、村と呼ぶには大きすぎる。
 以上がこの“街”に抱いている、フローゼルの感想である。
 カクレオンが営む食堂もあればキュウコンが営む喫茶店もある。ヤミカラスの雑貨屋もそこそこ賑わいを見せているし、娯楽のための小さな劇場なんてものまである。だが山を一つ越えた先にある大きな街と比べればその差は歴然で、売っている物の質なども、見る者が見ればすぐにわかってしまう程の差があるのだ。以前エーフィがナイフを買ってきたのだが、これがモモンさえまともに切れないという歴代の代物で、今では専ら細い溝に詰まった汚れを落とす救世主となっていたりする。フローゼルも、何か入用なときには山を越えた先まで足を伸ばしていることが多いため、実際にこの山の麓の“街”を訪れたことは殆ど無かった。
 つまり、フローゼルがこの“街”に関して知っていることなど、先程述べたことが精々ということだ。
 どうせその辺適当に散歩して終わりかな、などと軽く考えていたのが失敗だった。『百年の愛も隣街でのデートからだよね!』というフライゴンの言葉を受け流すほどフローゼルもバカではない。自分がこの状況で何を求められているのかを瞬時に判断、更に山を越えた先の街では大きすぎて、いつまで経っても帰らせてもらえない――買い物する店を廻るだけで二日掛かる――可能性があることを加味し、じゃあ麓の街に行こうか、と提案したのだった。
「さて……着いたは良いが……」
 その中途半端な“街”に到着し、とりあえず、といった感じでフローゼルとフライゴンは目抜き通りを歩いていた。青空市場という看板が立っていた通りで、左右には様々な屋根の無い商店が立ち並んでいる。人の入りも上々のようで、それなりに賑わっているようだった。
「すごーい混んでるねー……。迷子にならないようにしなくっちゃ」
 甘えたような声を出して、フライゴンがフローゼルの腕に絡みつく。大きい街での混雑を何度も経験したフローゼルにとってこの程度は何でもないのだが、あえて藪を突くようなことはせず、そうだなあと頭を掻くに留めておいた。
 どこに行くべきか、と頭の中で考えを練っていたところである。
「いらっしゃぁ~ぃん、うふん」
 怪しい小瓶が立ち並んだ露店の奥から、良い感じにお年を召したチャーレムとルージュラの声が艶かしく響いた。本能的な警告――身体中の細胞がアドレナリンを分泌しているような――を感じ取ったフローゼルは、視線を向けることさえせずに足早にフローゼルの手を引いて立ち去った。熟れすぎた果実は腐るものなのである。スローモーションで手招きを繰り返すその二匹に、しかしフライゴンが興味を持たなかったことは実に幸いだった。
「……ど、どうかした? 何だか顔が青いけど……大丈夫?」
「あ、あぁ。いや……何でもないから、うん」
 額に手を当てて眩暈に耐えつつ、フローゼルは背後を振り返る。さすがに追いかけてくるようなことは無かったようで、安堵の溜息を一つ吐いた。いきなり闇の眷属に追われるような、波乱万丈のデートはご遠慮願いたい。
「うーん。まだ飯食うには早いしなあ。どうするか……」
 険しい魔境を乗り越えて、様々な露店の商品を眺めつつ、フローゼルは頭を悩ませる。何しろ街の見所がさっぱり分からない。近くに海でもあればそれなりにロマンチックな雰囲気が期待できるだろうが、残念ながら『海』という看板が下がった裏路地のスナックしか見当たらない。さすがに初デートで向かう場所ではないだろう。薄暗い照明、酔っ払いの喧騒、皺が目立ち始めたブニャットのママ、そして恋人。――万死に値するシチュエーションだ。
「どっか行ってみたいところ、あるか?」
 混沌としてきた頭の中を整理しつつ、フライゴンの方を振り返って聞いてみる。何か綺麗な木彫り細工の小物を見つけていたところらしく、手に持っていた商品を店主に返しながらフライゴンが笑った。
「んー。……フローゼル君にお任せっ。……かな?」
「とは言ってもなー……。んー……」
 その辺で適当に時間潰して……とは言えないだろう。そろそろどこか行く場所をしっかり決めないと、フライゴンのご機嫌が垂直落下するのは明らかだ。露店が三つほど消し飛ぶ可能性が高い。
「あっ。ねえ、アレはどう?」
「ん……?」
 いよいよ本気でフローゼルが焦りを感じ始めたところである。嬉々とした声を出しつつ、フライゴンが指を差した。その先を見遣ると、『本日上演中』という五文字が見える。
「ああ、劇場か」
 ふむ、とフローゼルは頷いた。悪くないかもしれない。劇場一本は約二時間強、と聞いたことがある。今からなら、丁度上演が終わる頃に昼食の時間だし、何より、自分から気を遣うことなく時間を潰せるというのが非常に魅力的だ。
「そうだな、面白そうだ。……行ってみるか」
 肩に掛けたポーチを背負い直しつつ、フライゴンの腕を引くようにして歩き始める。どうやらそれなりに賑わっているようで、劇場の周囲には客引きの声が飛び交っていた。――いかがですかお客さん、アブソルとグラエナ、ブラッキーの愛憎劇、『黒い渦の巻くところ』! ――いやいやお客さん、お子様連れなら是非こちらに! 『崖の上のフワンテ』、大人気ですっ!
「ラブストーリーとか……あったりしないかなあ?」
「さあ、どうだろうな?」
 はいみんなご一緒にっ、ぷ~わぷ~わぷわお化けの仔っ♪(Puwawa-!!) という、妙に頭に残るメロディーを聴きつつ、二匹は劇場の中へと入っていった。



 日も高く昇り、刳り貫きの窓からも明るい日差しが差し込んできた頃である。風に揺れる木の葉が美しい光の揺らめきを生み出して、森のあちこちに眩い宝石を散らしていた。潮騒のように静かに響く葉擦れの音は、鳥ポケモン達の囀りの伴奏となって、幻想的な雰囲気を作り出していく。
 その中にあって、一日の暇を貰ったエーフィは、念力で器用に箒を動かしてリビングの掃除をしていた。非常に現実的な光景だ。本当は水で濡らした布などで拭いてやればもっと綺麗になるのだろうが、水分を吸って幹にヒビが入る可能性があるために、普段の簡単な掃除では掃き掃除が基本になっている。
 ちなみに彼女が掃除の役をいつも請け負っているというわけではない。仕事をもらっていない誰かがやる、という程度で、たまたま今日はそれが彼女だっただけの話である。掃除の仕方も役目を負った者によってまちまちで、コリンクなどは箒を口に咥えて部屋を一周、それで終わりだ。基本的に雄軍団は手抜き気味、フライゴン含めた雌達は簡潔ではあるものの、それなりに丁寧に掃除をしているらしい。今日は彼女も他の皆が出発してからすぐ始めたらしく、もう天井やら壁やらの埃も落とし終えて仕上げに取り掛かるところだった。
「……あれ」
 念力で塵取りを浮かせたところで、軋んだ音を立てつつリビングのドアが開く。その先に立っていた姿に、エーフィは大きな瞳を丸くしてから、笑みを零した。
「お姉ちゃん。どうしたの? 何か忘れ物でもした?」
 箒を床に置きつつ、グレイシアに声を掛ける。そのグレイシアは、エーフィが掃除をしていたらしいところを見て取ってか、軽く足を払ってからリビングに入ってきた。
「副長って呼びなさいって、いつも言ってるでしょう? 仕事終わって戻ってきたところよ」
 それを聞いて、思わずエーフィが怪訝そうな目で見つめる。
「……何よ。前にも言ったでしょう? 姉妹だって周りに知られて、悪いことはあっても良いことなんて無いんだから、」
「いや、そうじゃなくて、えっと」
 言い淀むエーフィに、今度はグレイシアの方が怪訝そうな表情をする番だった。
「盗賊の捕縛、だったっけ。朝出かけて……もう終わったの?」
 エーフィは昨夜見せてもらった依頼書の中身を思い出す。確か、潜伏しているらしい場所に出向くだけでも一時間以上は掛かるはずだ。朝出かけて、今が昼前。ということはつまり、長く見積もっても三時間強の時間で戻ってきたことになる。
 ちょっと早過ぎるんじゃないのと首を傾げるエーフィに、グレイシアが溜息を吐くように言った。
「とりあえず潜伏してるらしいアジトごと攻撃してみたら、慌てて外に出てきたわよ。黙ってじっとしてれば気づかなかったかもしれないのにね。まあ、おかげですぐ捕まえられて助かったけど」
 それを聞いて、エーフィがあからさまに目を細める。何かを疑っているような表情を見せた。
「何よ」
「別に。……ちなみに、相手はどれくらい?」
「チンピラ上がりが五匹くらいだったかしら。私も結構腕が鈍ってたけど、倍はいけたわね」
「……豪胆」
 頭の飾りを揺らしつつ、さらりと言ってのけるグレイシアに、今度はエーフィが溜息を吐いた。そもそも真冬でもないのに、突然零下三十度を下回る気温に曝されてはじっとしていられる輩の方が少ないだろう。寒い、というよりは痛いレベルで、呼吸をすると鼻の中で何かが――具体的に言うと、極小の氷柱が出来上がってしまう程度の寒さである。盗人達には相手が悪かったと思ってもらう他あるまい。
「ほんとに、また重症を負わせた、とかじゃないでしょーね?」
 グレイシアは以前、お尋ね者を捕まえるためにうっかり広域にあられ……というよりは氷柱を降り注がせ、標的に酷い傷を負わせてしまったことがあるのだ。結果、保安の方からありがたい小言を頂戴してしまい、今でも副長の汚点として語り継がれている。
「ちゃんと手加減したわよ。勿論、全くの無傷でってわけにはいかなかったけど。まあ、久しぶりの実戦だったしそれなりに楽しかったわ」
 普段より饒舌であるあたり、本当に楽しんできたのだろう。エーフィは改めて標的となった盗人達を憐れまずにはいられなかった。
 グレイシアがリビングに視線を巡らせる。
「えっと、……コリンクは? まだ遊んでるのかしら」
「コリンクはー、んと……」
 掃除をしているときに、楽しそうにミミロルと追いかけっこをしてる姿が窓から見えたのを思い出した。
「さっきその辺駆け回ってるのが見えたよ。その内戻ってくるんじゃない?」
「そう、なら良いわ。グラエナとエネコロロも午後に戻ってくるでしょうし」
 首に掛けた懐中時計に視線を落としつつ、何かを考える風なグレイシアを見て、再びエーフィは首を捻った。
「……どうしたの? また会議とか?」
「違うわ。ちょっと、フローゼルとフライゴンが戻ってくる前に模様替えをしようと思っててね。みんなにも手伝って欲しいのよ」
「も、模様替え?」
「そう。ガタがきてるところもあるし、簡単な補修も込めてね」
 ガタがきている、という点は事実であり、件の『フライちゃんブチ切れ破壊光線大事件』によって破損した部分が崩落しそうになっていたりする。だから百歩譲って突然の模様替えは良しとしても、何故それを朝の会議のときに言わなかったのか。頭に疑問符を浮かべつつ、エーフィは困惑の表情を露にする。
「……まあ、私はお休みだし、構わないけど。って、え。今もう始めるの?」
「ええ、そうよ。部屋も変えることになりそうだから、なるべく早く始めないとね。間に合わないわ」
 補修のための道具を取りに倉庫へ向かおうとするグレイシアを、慌ててエーフィが追い掛けた。傍目から見たらグレイシアは普段と変わらない表情であるが、妹であるエーフィは、それが実に楽しそうな表情であることが良く分かる。
 もしこれが久しぶりの現場で気分が昂った結果なのだとしたら、やっぱり盗賊達を恨まずには居られないかもしれない。
  エーフィは小さく項垂れた。掃除を終えて昼食にしようと思っていたが、どうやら随分先になりそうだった。



「あ゙ー……」
 肩に掛けた小さなポーチが何度もズリ落ちそうになっている。その度に非常に渋い顔をしながら、フローゼルはポーチの紐を肩に掛け直していた。明らかに背筋が曲がっている。その隣では、フライゴンが妙に機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら歩いていたりした。
 時刻は丁度昼過ぎ、フローゼルとフライゴンが映画を見終わって、劇場から出てきたところだった。
 仲を引き裂かれた恋人同士が何たらして最後にはハッピーエンド、という良くあるラブストーリーだった。らしい。とりあえず最初と最後は覚えているものの、中盤あたりの記憶が見事にすっ飛んでいるのは、決してフローゼルが睡魔に負けたからではない。
「ああー……、すっごく良かったねー。もうホントどきどきしちゃった」
 俺はミシミシいってた、とは言えなかった。
 何のことはない、場面が盛り上がる度にフライゴンがフローゼルに強く強く強く抱きついてきたからである。十分ごとに暗い劇場の中で繰り出されるチョークスリーパー、哀れその餌食となったフローゼルの意識は飛び、泡を吹いた回数など片手で数えるのでは足りない。
「まあ、楽しんでくれたんなら良いけどさ……」
 首をさすりながらフローゼルが溜息を吐く。ホラーなんかにしなくて良かったと思う。恋愛モノでアレなら、絶叫系では確実に背骨を持っていかれただろう。或いは手を握られてそのまま凄まじい握力で粉砕されていたはずだ。フローゼルの手はナナシの実よりは柔らかいのである。
「前々からね、こうやって映画を見るのが夢だったんだー」
 フライゴンが軽く羽ばたき、宙でくるりと一回転した。その嬉しそうな表情を見上げながら、フローゼルは複雑な表情を浮かべて口元を掻く。フローゼル自身も気づかないくらい、微かに二又の尾の先が垂れていた。
「……? どうしたの?」
「いや、何でも。それよりどこかで昼飯食おうぜ。歩きで来たから結構腹減って」
 無邪気そうに首を傾げるフライゴンを見上げて、そしてそのまま逃げるように視線を逸らした。空腹なのは事実だ。念には念を入れて朝食は少なめにしておいたからだ。無論、フライゴンの強烈なハグを食らってゲロを吐かないためである。正解だったと思う。初デートで抱きついたら相手がゲロしました――フライゴン的には、万死に値する状況だろう。
「あ、それなら」
「ん?」
 フライゴンが、ぽんっと両手を合わせて言った。何か案でもあるのか、まるで子供のように嬉しそうな表情を浮かべている。
「さっきの通りに、食べ物売ってるお店もいっぱい並んでたよ。木の実の飴とか、美味しそうなのがいっぱい」
「あー……」
 そう言えば確かに色々売っていた気もする。さっきはそれなりに混雑していたから覗く程度だったが、この時間なら逆に客足も食事処に流れているかもしれない。
「それ、良いかもな。種類も食えるだろうし、ついでに買い物も一緒に出来そうだ」
「ねっ。そうしよそうしよ」
 フライゴンが嬉しそうな笑顔を見せた。まるでお祭りの屋台通りにでも来ている気分なのだろうか、その視線は既に色とりどりの出店の間を忙しなく動き回っている。時折フローゼルに何かを期待するような顔を向けるその様子は、親の許しを待つ小さな子供のようでもあった。
――全く。
「……ダメなんて言うわけないだろ? デートなんだから」
「やったー!」
 フローゼルが腰に手を当てて頷けば、その喜びを一杯に、早速弾けるようにして駆け出していく。勿論、フローゼルの腕を握って。
「お、おいこらっ。引っ張ったら危ないって――おわっ!」
「あっ、モモン飴あるよモモン飴! おじさーん、二個くださーい!」
 いくらフライゴンが標準体型より一回り小さいとはいえ、それでもフローゼルとそこそこの体格差があることは否めない。そんなことお構いなしにフライゴンはフローゼルの腕を引っ張るものだから、彼の方としては堪ったものではない。最早走るというより地面スレスレの滑空に近い。慣れない体勢での全力疾走を強要され、最初の出店に着いたときには既に息が荒くなっていた。
 生傷だらけになるのは御免である。そこでフローゼルが採った策は、目下七連敗中の彼が咄嗟に思いついたものとしては中々に優秀なものだった。
 息を切らせながら、顔を上げてフローゼルは口を開く。
「……つ、ついでに何か飲み物も二つ。あ、良いよフライゴン。どっちも俺が出しておくから……」
 即ち、『雌の分まできちんと代金を払う器の広さをアピールしつつ、高速で引っ張られないように飲み物を持たせてしまおう大作戦』である。
 いくらフライゴンとはいえども物理法則は無視出来ないのだ。飲み物を持ったまま走ったり飛んだりすれば中身は零れる。素敵な雄とのデートを夢見るフライゴンが、その雄に買ってもらった飲み物を無下に扱うようなことはしない筈だ。
 フローゼルは肩で息をしながら、店主のコータスに代金を差し出した。……どうやら甲羅の上に固定された缶に入れることになっているらしい。四枚のコインを滑り込ませつつ、モモン飴二つとパイルのジュースを受け取った。
 これでどうだ、と様子を伺うようにフライゴンの方に視線を遣ってみる。
 まるで目の前で神でも拝んだかのように、前足を胸の前で組んで、その大きな瞳を潤ませていた。
 どうやら正解だったらしい。この町の平和は守られた。
「若ぇねえ。しっかりやれよ」
 フローゼルはコータスのそんな言葉をありがたく頂戴しつつ、フライゴンは元気良く返事をしつつ。出来立ての甘いモモン飴を舐めながら、次の出店へと向かっていく。
 傍から見ればデートである。間違いなく、フローゼルとフライゴンの若々しいカップルのデートだ。
 そのカップルの片割れ、フローゼルが、隣を歩くフライゴンに気づかれないように小さく溜息を漏らしていることに誰も気づかない。
 
 
 


金銀リメイク発売なので(嘘です)。



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Last-modified: 2013-01-22 (火) 00:00:00
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