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薄毛小説家の苦悩

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作者亀の万年堂

タイトルは『薄毛小説家の苦悩』ですが、今回のお話は三本立てとなっております。
どうぞごゆっくりとお楽しみください。


・もくじ


更新履歴

2010年7月17日投稿

『薄毛小説家の苦悩』 

小説家(おれ)の気持ち 

 「艶消しをした刃のごとく……あ~、いや、暗く鈍色に光るアブソルの鋭い刃が、今まさに、まさに…えーっと、だから……あーっ、もう無理だ!」
 両手を目の前の机に向かって降り下ろし、バンッ! と大きく音をたてて俺は自分の声を録音し、好きな時に聞くことができる便利な道具であるレコーダーのスイッチを切った。だが、何故か便利なはずのレコーダーの電源はつきっぱなしだ。
「くそっ!」
 何度かスイッチを切ったりつけたりを繰り返す。そしていよいよレコーダーが壊れるかもという所で電源が落ちる。
「このオンボロめっ!」
 まるで俺をバカにしているようなレコーダーへの怒りはおさまらず、今度は手近なところにあったクッションを掴んで部屋の角に放り投げた。そのむなしい反動で俺の首の回りからは、パラパラと白い毛が抜け落ちる。残り少ない白い毛が。
 どうやら俺の声を録音してくれるこのレコーダーと同じく、俺も最近はオンボロになってきたらしい。明日にはここに来る、憎たらしいペリッパーのことを考えると、毛が抜けるし腹が痛くなるのだ。これが噂のストレスというやつなのだろうか。
「うーっ……ずびーっ!」
 頭を抱えても、鼻水をすすってチリ紙をゴミ箱に投げても――おまけにそれが外れても、明日やってくるぺリッパーが急病をこじらせて消滅するわけでもない。このまま時間が過ぎれば、明日の朝には
「スリーパーさん、 原稿を頂きにきました」
 と悪魔の笑顔と声が俺に届けられるのだ。
「やっていられるかっ!」
 再び俺は声を荒げたが、この狭い缶詰め部屋の中には答えてくれる奴なんかいない。百歩譲ってこの壊れかけたレコーダーくらいだ。寂しすぎる。
「はぁ……」
 何だか急に萎えてしまった。これでは本当に原稿を落としかねない。書き始めたあの頃はこんな風になるなんて想像もできなかったのに。
「あの頃はよかったな……」
 考えてみるとおかしいもんだ。一度は賞金首としてジバコイルの世話になった俺が、今こうして島中、いや、話によると世界を沸かす作家になっているというのだから。
 おかげで今は昔に比べてずっと楽な暮らしができているが、もしも処女作である『ルリリの小さな穴』が、全く有名にならずに終わっていたら、今のようにはなっていないだろう。そう考えれば、今を乗り越えることもできそうだが……。
「うーっ……ぐむむむ」
 だが、書けないのだ。いや、正確には言葉がでないのだ。明日までに何とかしないといけないのに。仮に原稿を落とそうものなら……。
「う、うわああっ!」
 最悪の事態を想像してパニックになった俺は、後ろにひっくり返ると同時にレコーダーを放り投げてしまった。しかもそうすることによってこの狭い部屋の壁にぶちあたり、また勝手にレコーダーの電源が入り始めた。一体どこまで俺のことを馬鹿に……。
「……うわけで、尊敬するスリーパー先生にメッセージを贈ってます。えっと、私はスリーパー先生のお話が大好きなんです! 微妙にえっちいところとか、白熱したバトルシーンがあるところとか!」
 勝手に動き出したレコーダーから聞こえてきたのは明るい子どもの、しかも女の子であろう可愛らしい声。どうやらこれは俺のファンからのメッセージのようだった。いつか届いたのをとっておいたものらしい。ファンからのメッセージなどというのはしょっちゅう届くものだから、どこの誰なのかはまったくわからないが……。
「……それで私、スリーパー先生みたいに作家になりたいんです! 難しいかもしれないけど、書いてみたいんです! スリーパー先生みたいに、読む人皆が楽しくなれるお話を!」
 俺、みたいに……?
「長くなってごめんなさい。次回作も楽しみに待ってます! そしていつか私のお話を見てください! ありがとうございました!」
 そこまで音声が再生されたところで、ブツっと音をたててレコーダーは自動的に電源が落ちた。まるで俺のことを、見透かしているように。
「…ふう」
 ため息を軽くひとつ。そして俺は部屋の角に放り投げたクッションをとってきて自分の尻の下に敷いた。今は沈黙している、この島には似合わない、使い込まれたレコーダーも回収して目の前に置く。これでいつもどおりの戦闘体勢だ。
 きっかけはたった一つのメッセージ。我ながら単純だと思う。でもそれがどうしたというのだ。俺はだから小説家(おれ)なのだ。
 大きく息を吸って少し吐く。そして俺はレコーダーのスイッチを入れた。

編集者(わたし)の気持ち 

 《もうだめだ~。書けない~。しむぅ~。サガサナイデクダサイ。 すりーぱーより》
 今までに何百回と送られてきたメッセージを見つつ、何百回と繰り返してきたため息を吐く。
 わかってはいるのだ。編集者として何をすべきなのかということは。どうするのが簡単なのかというのは。何故なら私は敏腕の最強の編集者なのだから。小説家が原稿を落としそうであっても、私がいれば書かせることなどいくらでも可能なのだ。しかし……
「なんだかなぁ」
 どういうわけか今回は重い。気乗りがしない。別にホウエンからいつも頼んで贈ってきてもらうオレン酒に酔いすぎているわけでもない。過度の疲労によるだるさは規格外の精力増強効果をもつサイコソーダでごまかしてある。頭ごなしに面倒な仕事を頼みまくる編集長は無視で対応している。故に何も問題などない――はずなのだが……。
「ふぅ……」
 一分一秒を争うこの世界において、このようにため息を無駄に二度もしているのは業務上の致命的な遅延といってもおかしくない。それもわかっているのだが、このいつもの見慣れたメッセージを見ると、どうにも出てしまうのもまた事実だ。
 別に珍しくはない。ため息ではなく、こういったメッセージが担当している小説家達から送られてくることがだ。その才能や技量、性格に関わらず、そして書いている物に関わらず、小説家というのは等しくこういった状態になる。こういった状態というのはつまり「メッセージを送ることで現実逃避をしつつストレスを解消し編集から怒られるか励まされるかして再び原稿という名の束縛と目標に立ち向かうようにするための儀式に望まざるをえない状態」である。この業界で何年もやってきて、しかも最強の私がそのことを理解できていないわけがない。
「だけど、ねぇ……」
 才能はある。努力もしている。私が担当している小説家の中では、相当に本の売り上げもいい。おまけに、私との関係も壊滅的であるわけではない。少なくとも、私にとっては。
 ようするに、この小説家は潰してはいけないのである。私のためにも、本を待っている読者のためにも、そして何よりも……
「この子のために、ね」
 必ずしもこの子、つまりスリーパーのようなタイプしかいないわけではない。中には小説以外にも、何か自分を自分として認められる術を持ち合わせている小説家もいる。そういった小説家は得てして幅広い世界観を描けたりもするのだが、同時に挫折しやすいというリスクをも抱えている。
 それに対してスリーパーのようなタイプは実にわかりやすい。小説しかないが故に、小説に対してどんどんとのめりこんでいく。己の全てをそこに表そうとする。だからこそそれは良くも悪くも凄まじい作品を生み出す原動力になる。そして同時に、それが無くなれば自分が崩壊することも意味している。ようするに小説という手段が無くなったらダメになるのだ。それなのに、もう書けないなどとギブアップするということは、即ち自殺行為以外の何物でもない。
 仮にである。私がここでこのスリーパーに対して、「わかった。じゃあもう書かなくていい」などと言おうものなら、恐らくスリーパーは崩壊してそれこそ廃人、いや、廃ポケになってしまうだろう。それほどまでに追い詰められた小説家の精神的支柱というのは脆い。
 だとしたらやはり私のとる手段は一つしかない。私はまだこのスリーパーを潰したくはないのだから、いつものように叱咤激励を浴びせるのだ。そうすれば、スリーパーは再び世に知れ渡り、売れまくる小説を書き始めるだろう。
「でも、なんでかな…」
 どこか引っかかっている。打破すべき問題、用いるべき手段がハッキリとしていて、しかもそれをこなすことに何の問題もないのに、私は戸惑っている。躊躇っている。果たすべき責任に、そう、その果たすべき責任に私は躊躇いを感じているのだ。
 責任、それはつまり編集者としての責任だ。小説家に対する責任、読者に対する責任、編集長、並びにこの出版社に対する責任、それらを全て併せて生まれる編集者としての責任。
 どうしてなのだろう。今までだってこなしてきたのだ。なのにどうして今になって躊躇うのか。いったい今に、それを躊躇う何があるというのか。
「つまり、私も見失っているわけか」
 どうやらそうらしい。気に食わないが、それは認めなければならない。強さというのはそうして己を顧みることで積み重ねていくものであるし、私が最強に成りえたのも、それを怠ることなく続けてきたからだ。そうして私はこの島を守る一員となり、今の平和を築くことに貢献したのだ。
 生きているが故に、誰もが持つ「強くなりたい」という本能のもと、私は限りなく最強といってもいい強さを手に入れ、そしてそれを行使する対象をも見つけた。あの薄気味悪い生き物を、数百という単位でねじ伏せていた時のことを思い返せば、今でも眠っている力がうずくというものだ。
 だが、それを行使する時は今はもう終わっている。その証として、今の島の平和がある。そしてそれと同時に、私はただひたすら得てきた力の使い道を見失ったのだ。ただ唯一の、自分の証明を打ち出す対象をも見失ってしまったのだ。
 もともと平和のために力を行使したのだから、その目的が果たせたことについては後悔も何も無い。ただ、それが終わってしまったということで、私はどうしようもなく空虚になっていたのだと思う。もしもそのまま何とも出会わなかったら、私はもしかしたら、この力を何か間違ったことに使っていたのかもしれない。だからこそ、「本」という世界に出会えたのは、私には……とても大きなことだった。
 もともと本などという代物には、当時の私はまったく興味をもっていなかった。だが、当時の私は必死だったのかもしれない。何かをしなければいけないと思っていたのかもしれない。だから、人間の世界で言う「こうこく」とかいうやつと同じように、私の住まいに何の許可も無く突然放り込まれてきた、拙い作りの本などに目を通そうなどと思ったのかもしれない。
 その本は驚くべきことに、人間ではなくポケモンが書いたものだった。確かにポケモンにも、人間ほどではないが、人間の言葉をもって文章を嗜む者はいる。しかし、当時から博識に違いなかった私からしても、ポケモンが本を書くということはとても衝撃的だった。そして何よりも、興味を惹かれたのはその内容で、その本には私だけでなく、島を守り抜いたポケモン達の功績がしっかりと書かれていたのである。
 実はその本こそが、世界に唯一存在するポケモンの出版社である、我らが「セカイイチ出版」が生まれるを記念して刷られたものだったのだが、当時の私はそんなことはまったく考えていなかった。ただこの「本」というものに携わりたい。私も自分達の功績を残すことに一生をかけたい。いや、自分の功績をこの「本」という形に残し、島だけではなく全世界に示して生きたい。そう思ったのだ。
 その思いからすれば、編集者ではなく小説家となるべきだったのかもしれない。だが、当時私が調べた結果からして、どうやら小説家というのは編集者から凄まじく酷い扱いを受けるらしいということが、強く印象に残っていた。故に、本の世界においても最強を目指さざるを得ない私には、小説家になるという考えはまったく浮かばなかったのである。実際、島から一時的に出てまで十分に本の世界についての知識を深めてから「セカイイチ出版」の扉を叩き、着々と最強敏腕天才編集者になるに至るまでも、そして今現在もそのことは後悔していない。――そう、そうして私は本能ではない目的を見つけてきたのだ。そうして自分の意思のもとで私は
「そう、私はそうして編集者になった」
 敢えて口にするまでもないことを口にする前と後とで、周囲の状況が変わったわけではない。しかし、なるほど、さっきまでは静かだったのだと思う。何故なら、もう慣れ親しみすぎている喧騒が戻ってきたように感じるからだ。改めてここはうるさいと思わされるほどに。
 何も変わることはない。あっちこっちで編集者が悲鳴をあげているし、貴重であるはずの原稿が飛び交っている。でも、それが今の私の場所なのだ。もう変わることはない私の場所だ。
 ……やれやれ、今日は早めに帰れると思ったのになぁ。でもそれが一回として叶ったことがないのは、叶うはずがないことなのは、この仕事に就いているものなら誰もが痛感していることだ。そして私もそのうちの一人。
 だが、それだけだったら、私は当にこの世界から足を引いているだろう。安定性も無い。給金も安い。超過勤務もざら。その気になれば、地位も名誉も金も思うがままの最強の私が、そんな条件だけみたらクソみたいな仕事を続けているからには、それなりの理由があるのだ。そう、それなりの理由が。
「それが凡夫には見つからない、忘れてしまうものなんだろうな」
 やはり私は最強に違いない。あの馬鹿で根性なしで、おまけに処女作で『ルリリの小さな穴』なんていうギリギリの話を送ってくるような、ド変態スリーパーには決してできない芸当だろう。だからあいつには私がいないとダメなのだ。この最強敏腕天才編集者のペリッパーがいなければ。
 今、私の天才的な頭の中に浮かんだのは、誰にも頼らずに出した答えだ。そしてスリーパーには独りで出すことの出来ない答えでもある。いや、何もスリーパーに限ったことではない。小説家というのはそういうものだ。それでいいのだ。だから独りではないのだ。そのために私、そう編集者がいるのだから。私はそうして世にたくさんの小説家を送り出し、今もなお、多くの夢を抱えているのだ。
「ふん、まったく世話の焼ける」
 だがそれもいい。そう思っている私も相当に狂っているのだろうが、今はようやくそう思えるところまで回復したということだろう。認めたくはないが、それは認めなければどうしようもない。
 私がスリーパーより劣っているということはないし、それはこの際問題ではない。スリーパーは小説を書き、私はスリーパーを見る。つまりはそういうことだ。
 さあ薄毛小説家(あいつ)からのくだらないメッセージがきてから15分が経過した。そろそろスリーパーは荷物をまとめる頃だろう。光の速さでおいかけるのは容易だが、それにしても缶詰から出られると面倒だ。そして飛んでいくのも面倒くさい。だとすればここで必要なのは電話だ。本当に逃亡する気なら、電話に出ることもないが、今なら出るに決まっている。私には全部お見通しなのだ。
 私の大きな()でも簡単に押せるスイッチを一押しし、人間達からもらった、小説家にとってはこの世から消滅して欲しい存在から、私のおかげでその第一人者になるに違いない者に向けて電波が飛ぶ。恐らくは出るまで5秒から6秒だろう。
「最初に言うことは?」
 敢えて誰にとも知れず口に出してみる。そんなことは決まっている。私はいつも私なのだ。どんな状況であっても、決して揺るがないのが編集者(わたし)なのだ。
 そうこういっている内に、プッと音をたててスリーパーに音声のみの電話が繋がる。きょどきょどとした阿呆らしい言い訳を聞き流し、私は電話が乗っている机の上に身を乗り出し、努めて平和的な声で話を始めた。
「スリーパーさん。原稿が落ちるまで後3時間ですよ?」

『てれぽーと』 


 赤く精細な刺繍の施された巨大な絨毯が床に敷かれ、それに十分に見合う広さを備えている空間。天井には、恐らくどれ程の暗闇をもっても喰らうことができないくらいに煌々と光る硝子の光があり、使用されるためではない芸術品達を照らしている。
 光は空間の外にあった。それは半日と呼ばれる時間の間だけ在る光よりも明るかったが、それとは異なり、暖かさは無かった。しかし、空間の中は触れない火によって暖気されており、その主を凍えさせることは無かった。
 空間の中央には、ここでは極めて珍しい純粋な木製の長テーブルが置かれている。それはその大きさもさることながら、それだけでヒトと呼ばれる生き物が、一生不自由なく暮らせていけるほどの財産にも値する物だった。多くのヒトが一生をかけて働いても、その糧はこの長テーブル一つにすら届かないのである。そしてさらにその不条理な差を決定付けるかのように、長テーブルの上には最早無駄であるとしかいいようのない程に装飾が施された皿と、その上に盛られる数々の芳香豊かな料理があった。
 どれほどの手間をかけて作られたのかわからぬ乳白色のスープ。すでに目に光を宿さず、己の臭いをかき消す大量の草に包まれ、焼かれ、骨すら取り除かれた魚。未だに瑞々しさを保ち、時間の感覚を狂わせるような組み合わせの、しかし彩りとしては一級品であろうきのみの盛り合わせ。その他にも黄金色に輝くライスや、ソースに混じって血の滴っている厚切りの肉、ふんだんにという言葉がこれほど似つかわしいと思わせる物はないだろうといわんばかりにクリームの乗ったプディングなどがそこには有った。
 テーブルはある。料理もある。しかし椅子は一つしかない。決して少数に留まらず、多くを満足させるだけの準備がここには成されているのに、ここにはそれを堪能できる席が一つしかなかった。故にこの静まりきった世界に在るのもまた一人。

 ヒトに留まらず、一部の生き物ですら望んで止まぬ贅沢を前にして、彼女はそれを辟易しているかのような目で見渡した。一息すら漏らさず、感動も無く佇んでいる。
 翠玉がごとき色合いと輝きを持つ髪。紅玉がそのままはめこまれたかのような瞳。どのような毛織物ですら織り成せないであろう白と滑らかさを兼ね備えるドレスのような体にしなやかで細長い腕。
 彼女はヒトと呼ばれる生き物ではなかった。この世界に同族を多く持つポケットモンスターと呼ばれる生き物だった。その彼女が今、ヒトが作ったヒトが望むヒトのための場に在る。望んでも多くは手に入らず、しかし望まねば手に入れようも無い場に在りながら、何故に彼女はそれに辟易しているというのか。

 紅玉がすうっと閉じられる。空間は依然としてそこに在ったが、今や彼女はそこには無いはずであった。

 幾許かの時が経ち、閉ざされているはずの紅玉からは一筋の煌きが溢れた。それは頬を伝い、顎の先までいって床へと落ちた。ぽたぽた、ぽたぽたとそれは落ち続けた。そしてその度に床の絨毯はそれを吸い取っていった。
 彼女はそのままに両腕を胸の前へともってきた。そのまま先を合わせて呟いた。しかし、誰に向けたかもわからぬそれは静寂の力場に吸い込まれ、そしてまた彼女も吸い込まれたかのようにそこから消えた。

 空間は流転し、彼女は今、夜の開けた闇の中にあった。天井にはつい先程まであったような灯りは無いが、十分な明かりが散らばっていた。故に彼女はそこに自分の存在があるのだと認知することができた。
 彼女の周りには生い茂る樹木があった。何かが飛び出してきそうな草むらがあった。夜の中ではそれは危険きわまり無い環境であると言えた。
 しかし、彼女は恐怖しない。それは知らぬがゆえの蛮勇ではなく、知っているがゆえの不敵さであった。事実、彼女がそこに降りてからいくらかの時が過ぎたが、彼女には何の牙も爪も襲い掛かってはこなかった。

 そらとぶひかりから瞳を降ろし、彼女は目の前を見据えた。正確極まりない彼女の能力によって、彼女がここまで飛んできた意味、目的がそこにはあった。
 つい先程までいた場所とは桁違いに狭いであろう建造物。それは決して珍しくない建材によって組まれたありふれた住居。どこからが森で、どこからが庭なのかわからない程こじんまりとしているそれこそが、その空間こそが彼女の理由なのか。

 彼女は足を進める。宙に浮いてるがごとく、足音を立てず、そこへと向かっていく。遮るものは何も無い。彼女は次第にそこへの入り口へと近づいていった。

 彼女から見える場所には存在を確認する材料が無かった。が、入り口を目の前にして、その下から僅かに零れる光を彼女は見た。懐かしくて止まないか細い光、そして暖かさが、その中にはあるに違いなかった。
 凍り付いていたはずの存在が、今はもう動いている。しかし、その表情は未だに固い。野生の恐怖に動じず、闇を思わず、堂々と辿り着いたにも関わらず、彼女の体は震えていた。全てはその瞳の波が物語っている。

 能力を使えば瞬時にわかる。しかし、彼女はそうはしない。それを封印してここに在る。

 彼女は腕を上げる。転移するための腕を上げる。ずっとそうしてきたように、これからもそうするために腕を上げる。全ての動作はそこから始まる。
 
 そして彼女は入り口の扉を叩いた。

『勇気の代償は』 

''※注意※
この作品には暴力的なシーンや、グロテスクな表現が含まれています。''

青の世界 

 上には青があり、下には光がある空間の中、灰色の硬い欠片の上を、白い網がゆらり、ゆらり、と動いていく。網は網といえども獲物を捕らえることはなく、獲物とならざる者もまた、それを気にせずその身を空間に委ねている。上に広がる世界に在る生と同じく、青の世界とも言うべきここに在る生もまた、その色に染められながらも個々に己の時を表している。
 穏やかに差し込む光。それはこの青の世界が、その色を保つためには無くてはならぬ物。それは世界に在る生の源たる、このゆりかごをゆりかご足らしめる物。
 その光に訊ねられて動かぬ時の中から、こぽこぽと揺らぎの塊が上へと昇っていく。透明なそれは青から白へと染まり、やがて見えなくなった。――が、その元には…。

 小さな命は群を成し、遠めに見れば巨大な橙の扇のように形を保って動いていく。それはそれらでなくてはわからぬ目的を持ち、あたかも一つの意志の元で統一されているかのように、全てが規則正しくうねっている。
 緩やかに動き、止まり、そしてまた動き続ける巨大な色を妨げるものはそこにはなかった。その下には恵みの光の物言わぬ受け皿があり、上にはどこ行くとも知れずに浮かぶ透明な凧があるのみ。――故に、それは思考の必要も無く、また、そのかぼそくも多くの命を守るための機構を働かせることはなかった。
 それも世界という名の機構からすれば、一つの命令とも定めともいえたかも知れぬ。先を取ればそれは不幸であり、また終わりであった。

 命の塊が探し物をするかのように円を描いているその中心で、その下にある時を刻みきった地の中で、何一つとしてそこより出でぬはずの暗がりの中から、こぽこぽと証が昇っていく。
 それはあまりにも小さく、そして静かであった。漂い続ける塊を構成する無数の命の中でそれに気づかない者は多くいたが、それに気づいている者もまた少なからずいた。
 危険であればそれを知らせもしよう。己の色を光に多く当てるだけでそれは全てに伝わる。それにより数瞬の間もおかずに一本の扇は数百の色紙へと変貌し、そして散る。さすれば、その危険によりけりではあるが、数個の消失を嘆くのみで、豊かな色は変わらずに在れるのだ。
 しかし、一はそれを危険と判断せず、ニもまた同様に判断した。形は崩れず、時をも崩さずに極めて規則正しく――恐らく、多くは上に住む英知を振りかざす生き物でさえ、同様に動く、生に在らざる物を作ることはできないだろう――その生を全うし続けていた。
 星が生まれた時から在り、誕生も消失も見続けてきた白の網は、警告することもなく、それらを止めることもなく、ただ揺れ続けている。その揺らぎもまた正確な間隔を表し、巨大な色の探し物の標として確かに在り続けていた。

 徐々に未来が定まり行くことに巨大な色は未だに気づかぬ。警報はかすかに、しかし、確実にその音を大きくしている。その色を濃くしている。だが、未だに群は群として在り、決して散り散りになろうとはせぬ。
 よくよく見れば、それらは円状ではなく、等間隔の線で結ばれる五点を拠点として動いていた。一つの点から一つの点へ、点に止まる時には全ての動きを止め、そうして次の点へと向かっていく。
 群は場所を変えず、ただそこで動き続ける。それは誰が見ても変わらぬ動きであり、変わらぬ情景であるはずだった。――そう、誰が見てもそれは変わることのない動きだった。

 こぽこぽ こぽこぽっ

 枠に囚われずに時を刻み続ける証が、また上へと昇っていく。それは今までよりもはっきりと強く昇っていった。
 証が動いたと同時に、正確な方形の中心はやがてその中心ではなくなった。点は点へと動いてゆき、それに伴って泡という名の気配はその濃さを増していく。しかし、それは気づかぬ者達の意識の線を越えることはなく、ただただ忍び寄っている。

 こぽっ

 緩やかな動きの元、今や点は中心と重なった。その気配が青の世界に引かれた線を貫こうとも、後ろを見れぬ者達はそれには気づかぬ。音としては僅かに把握できようとも、それは世界の音であるとして意に留めぬ。
 不幸なことに、決まりきった流れは隠蔽された危機によっては変わらなかった。よってただひたすらに点から点へ、点から点へと群は動いてゆく。ひとつ、ふたつ、みっつ…よっつ……そして――

 ごぼぼぼっ!

 青い世界においてなお蒼い光が一瞬、激しく散った。その瞬間、青の世界は混沌とした一色に包まれ、そしてすぐに解放された。その後には、色を光に照らすことはできても、二度と他の色と一緒になることは亡くなった無数の命が浮かんでいた。それはまるで天へと昇っていくように青の世界から離れて行き、やがてより強い光へと吸い込まれていった。それに追随するようにして、もう一つの光の元もまた、僅かに泡状の軌跡を残して昇っていった。

 青の世界には再び静寂が戻った。風も吹かぬ、花も咲かぬ、しかし、絶えず生は揺れ、枯れきった永遠の華が網に捉え続けられるこの世界は、その姿を何者にも変えられることなく、ただ世界の大半をその体に抱いていた。

緑の世界 

 勢いよく跳ねた水しぶきに光が反射し、まるで無数の宝石のようなきらめきが穏やかな流れの中へと吸い込まれていく。その元は流れの中心から静かに、しかし流れに呑まれることはなく、緑の岸辺へと進んでいく。そして流れから上がると、その青と蒼の毛並みをぶるぶると震わせ、身に纏った恵みの元を打ち払う。そうして払われた物は元の対象から別の対象へと恵みをもたらし、それらが張り付いていた者の口からは、それらが恵みをもたらしていたモノが落とされた。
 
 青い獣。豊かではあるが見ようによっては中途半端な、そしてまだ成熟はしきっていないとわかる、青空のそれといっても差し支えの無い色の毛並みと、全ての世界を照らすモノが落ちた後の空の色の毛並みとに己の体躯の彩りを表させている獣。前と後ろとで色の異なる四肢をもって大地に立つそれは、尾の先に備えられている星を揺らし、どのような闇夜であってもそれだけは爛々として輝いて見えるであろう黄金の眼をもって、流れの行き着く青の世界に身を投じてから、今に至るまでの戦果を見下ろしている。
 
 無限の明かりを遮るものの無い、おぼろげに見える遠景が無ければ、世の果てまでも続いているとさえ思えそうな緑の世界。それは背の低い、花の咲かぬ食物と植物によって織り成されていた。気まぐれな透明な手がそれらを撫でていくと、それらはその後を追いかけるように揺れて、高みから見下ろす者達にもう一つの海を見せる。

 ゆるやかで静かな流れから少し離れ、青い獣はゆっくりと、しかし、乱暴に口を動かす。英知を振りかざす者達からすれば、その光景は決して上品であるとはいえぬ。しかし、そういわれぬようにできたとしても、ここにおいてそうすることに一体何の意味があろうか。
 青い獣は英知ある者のことなど知らぬ。故にこそ、いや、そうであるかどうかは無関係に、この上の世界の海においては唯一のと言ってもおかしくはない程に浮いている獣は、その眼を、その耳を周囲から逸らそうとはせず、ただ己の戦果を平らげていく。
 僅かな時間をもって背の低い緑を十分に汚した後、青い獣は立ち上がり、身を投じた世界から逆らい続けてきた流れに向かい、自分についた欠片と喉を洗った。その一瞬、体からは大気を割く鋭い光が出たが、それは誰を害することもなく役目を終えた。そうして青い獣は身を翻し、流れがある所とは逆の方向へと、油断無く歩みを進めていった。

 根を張り、幹を伸ばし、枝を増やして葉をつけるモノはこの緑の世界にはなかった。だが、その中ではまさに異色といってよい背の高い不自然な色がそこにはあった。どこから沸いて出たのかは一見してはわからぬ、平原をその通りにはせぬ灰色の塊。それはそれ自体では何にも恵みを与えそうにもないモノであったが、しかし、確かにそこにはそれらが点在していた。よくよく見てみれば、その周りには僅かながらの、そして動かぬモノ達の中では、この平原において数少ない異なる色が芽生えている。
 
 空には様々に練られた水と氷の塊が浮かんでいた。澄み切った世界の中で、透明な手に押されるそれらは、決まりきった流れでどこまでも流れていく。
 遥かな上天の峰から見たらどのような絵に見えようか。それはきっと、そしてやはり浮いて見えるに違いない。青い獣は灰色の塊よりも、そこに身を寄せる小さな色よりも、ずっとずっとこの世界には相応しくないように見えたに違いない。どれだけ上に行こうとも、どれだけそこから見ようとも、遮られぬ世界には同じ色は一つとしてないのだ。
 しかし、獣はそれを云わぬ。それを嘆こうともせず、ただ警戒をしながら緑の波を越えていく。そうして幸いにもというべきなのだろうか、獣は恐らくは敵と会うことなく一つの大きな灰色の塊の元へと辿り着いた。物云わぬ自然の造形物は独りの警戒心を呑み込まんとする程に大きく、何者にも触れようとも手が届くことの無い熱にさえ、その大きく反り返って立つ巨躯は盾となって自らの元に集まる者に安息をもたらす。そして時には――

 ぽつっ ぽつっ

 頑強な造形物に、それを取り巻く緑の海に、一筋、二筋の透明な糸が沈んでいった。気がつけば澄み渡っていたはずの空に浮かんでいた白い塊は、急速に己の一つの役目を果たさんと、その色を変えていきつつあった。穏やかに上天の流れを動かしていた手もまたその強さを増し、緩やかな波もそれに合わせて大きくなった。
 しかし獣は動かぬ。つい先程までは海に突き立てていた四肢も、今は体と共に寝かせている。それはまるでその力を使い果たしたかのように、しかし、徐々に暗くなっていく世界の中においても、黄金の眼は依然としてその光を保ち、最低限の警戒を払っていることを示していた。

 僅かながらに海を栄えさせていた糸は、やがてその数を増し、今や数え切れないほどになっていた。遥かな高みに浮かんでいた白の塊はその真逆の色へと変わり果て、世界の色もまた凄まじい速さで変貌していった。海が揺れるか細い音は空が割れる激しい音にかき消され、自然の力はそれにさらされる者達に暴力的な恩恵を与えていた。仮にそれに気づかず、その下に何者かが在ったとすれば、たちまちに荒れ狂っている海の力に飲み込まれてしまっていることだろう。

 そんな世界から隔離されているといってもいい影の中、青い獣はやはり動かなかった。視界などという言葉が意味を成さない世界にあってもなお眼の光を絶やさず、あたかも全てを見通しているかのようにジッとして動かずに身を横たえていた。――しかし、その最後の光も、世界を襲う力の激しさがいよいよ頂点に達したかというところに至って、闇に閉ざされつつあった。
 触れられるもの全てに打ちつける暴力も、獣が身を寄せる巨大な造形物には打ち勝てはしない。そしてまた、この世界に住むほとんどの者が――青い獣が警戒するに足る者達は、今この時は動けずにいる。それを破ろうとすれば、間違いなく己の身を滅ぼすことはわかっているのだ。それらの多くは今も緑の海の下に構えており、古来より根付き栄えてきた習慣という名の技法をもって、この暴力を恵みへと変えている。
 獣は知っていた。自らを護る守護者が絶対に破壊されないことを、自分に危害を加えるであろう者達は今はでてこれないことを、確かに知っていた。故に、獣は最後の警戒を解き、眠りにつこうとしていた。暗闇の中にあってもなおその色を絶やそうとはせぬ緑の海の上に身を揺られ、物言わぬ灰色の巨体に護られ、破壊の力と言ってもおかしくはない上天の意志を子守唄に、青い獣は細く息を吐いていく。未熟な体には似つかわしくない警戒という名の鎧を解いて、ようやくそれこそが本来あるべきはずだった姿なのだとわかる、穏やかな顔に戻っていく。
 ほどなくして、青い獣の体が規則正しく上下するようになると、今は一筋の線となった黄金から、透明な線が零れていった。それはそのまま未熟な青い波を越えて行き、やがて主と同じく、緑の海へとその身を投じていった。
 青い獣は僅かにないた。だが、何を見ているとも知れぬ力は開かず、その声もまた、今は全てに吸い込まれていき、そして消えた。

上の世界 

 空に近い岬の先に、緑とは決して相容れぬ青の群生があった。いくつかは見上げた先にある淡い色に近く、いくつかはこれからの時を染める深い色に近かった。それはそれらの大きさと同じく、全てにおいて等しいものはなく、それらが決して何かを一とする模造品ではないことを示している。
 もしも、それらが叡智を振りかざす者の物であるとすれば、物は物らしく何も考えずに生きてゆけるのだろう。その特性を己の意思をもって活かす必要も恐らくは無いが故に、螺旋の眼を宿すものはそれを行使させらされることはあっても、行使することは無いであろうし、蒼い力をもって他者を害させられることはあっても、害することも無いのだから。
 だが、それらは決してそうではなかった。それらの纏う青と蒼、または黒の衣の傷跡、そして何よりもその眼の力と大気を裂かんばかりに膨張している力とが、決してそれらが意思なき安寧の元で生きているわけではないと物語っている。
 
 青の群生は天からの恵みがあってもなお、未だ無機質を保ち続ける場に在った。生きていくだけならば、ただ生活を営んでいくだけならば、そのような生きるための恵みたる収穫物が一切期待できない場所になど在るはずがない。また、それらが背を向けている方向には、遥かな下の世界では決して見られぬ深く豊かな緑の世界があり、それらが今、生活をするためにこの場に今在るわけではないことを示していた。
 だが、青が求めているものは緑ではない。それは必要ではあるが目指すものではない。今は青が求めるものは青の中に在る。しかし、それは彼らが住む世界からはあまりに遠すぎた。

 
 青と白しか無い上天の下では決して起こらぬ自然の力の行使。それを、またはそれに類する力を何も無しでは生み出せぬ者達は、唯一持ちうる叡智という名の力を行使してどこまでも執拗にそれを求めてきた。そうして遥かな昔より共に生きてきたはずの者の力に気づき、なんとしてでもそれを手中に治めんとしてきた。
 理に適っていないとは云えぬ。それを以ってすれば、己ら全ての生命の基盤が永らえる。それは生きる者の本能からすれば、つまりは己が生きることに繋がるのだから当然のことだった。――が、それはあくまで使う者からすればの話。使う者が快適に生を全うしたいと思うが故に生まれる詭弁。如何様にも手を巡らすことは、その叡智がただの化石でないとするならば可能なはずで、そうとしないのは、片方は刻まれた命を怠らず、片方はそれを自らの手で捨ててきたということに他ならなかった。
 多くの者は――否、僅かを除くのみは全て古より刻まれし痕を知らぬ。それはそれを守る者、守らぬ者に限らず、である。しかしながらそれは当然のこと。日々を生き、己と己が身と同じほどに愛しい者を守るのとで精一杯なればこそ、定めに身をやつすのは限られし者のみでよい。――少なくとも、今は、まだ。 

 
 
 誰にも手の届かぬ恵みの元が、いよいよもって岬の先に浮かんだのを頃合いとしてか、群生から一つ、そしてさらにもう一つが離れていった。それらのうちの一つは、濃淡の差こそあれど、すべからく毛並みを青天のそれと似通わせており、もう片方は、それを未熟と云わんばかりに青と黒とをはっきりと分けた毛並みを誇っている。色の差のみならず、その体の大きさにおいても差ははっきりとしていて、血を分け合っているのかどうかはおいても、言うなればそれは親と子程の開きがあった。
 青い者はその後ろを黒い者に追わせるのを良しとして歩みを止めず、やがて岬の先へと辿り着いた。そして一瞬、その体の小ささに反して大きな眼を後ろへと向ける。その眼には――恐らくはその者の同胞なのであろう、青い者と色を同じくする、または類する大小様々な者達が映っていた。そこに明確な感情は表れてはいなかったが、しかし、青い者に今や寄り添う程に近くまでやってきた黒い者に関してはそうではないようだった。黒い者は何もかもを見通せそうな黄金の眼をそっと細め、決して害する意味合いではなく、愛しげに、それでいてどこか悲しげになきながら、何度も何度も己よりもずっと小さな色に自分の色を擦りつけた。

 青い者は――恐らくは甘んじて黒い獣の別れの名残を受けていた。だが、青い者はそれを受けても決して振り返らなかった。そして一閃、蒼い光を全身にほとばしらせると、それまで擦りついていてやまなかった黒い者もその身を――依然として名残惜しそうではあったが、ようやく退かせた。そうして、いよいよ青い者はその体を一歩、また一歩と下の世界への架け橋に近づけていった。
 それを止めることは何者にもできぬ。もしもそうしてしまえば、この青い者は群生に留まることはできぬ。これから行うことが命を失う可能性を十分に孕むものだとしても、留まれば確実な眠りが舞い込むと知れば、どのような愚者であろうとも進まぬことはできぬ。故に群生の保護を脱却し、己が受けてきた恩情を受ける側から与える側へとならんと――すなわち、群生に在りてその生を全うすることを良しとする者達は皆、この岬の先へとその身を奮い立たせてきたのであった。それはもはや覆すことの適わぬ慣わしであり、掟であり、定めであった。

 そして――おお、何とその果て無きことか雄大なことか。いよいよもって岬の先へと立つことを許された青い者の眼下には、今は無限の青の世界が在った。そしてその眼には確実に、青の世界と緑の世界とがぶつかって生まれる白の飛沫が映っていた。それはややもすれば己自身が辿る末路になるやもしれぬ。如何に青い者がこれまでに幾度も――それらのほとんどは半ば遊戯としての試みではあったが、上の世界から下の世界への跳躍を成功させていたとはいえ、決して起こりえぬとは言い切れないのである。
 そう、だがしかし、青い者に自信という名の慢心が欠片も無いなどということは無いというのは明らかだった。永遠の眠りを恐れるにしてはその体は微動だにしておらず、冷静というにはその吐息はあまりにも温かだった。そして何よりもその眼が――今も遠くを、多くを見通すことのできるとはいえ、将来的にはその血を以ってありとあらゆるものを見透かすことができるであろうと捉えられ、それはすなわち群生の主となるに値すると言える宝が、未来に得られるその輝きをも現在に吸寄せているかの如く光っていた。

 そうしていよいよ、直前に僅かな逡巡も見せず、半ば唐突に、しかし、明らかな確信のもとに青い者は跳躍した。それと同時にその背の先に在った者達は体を震わせたが、それらに備わっている力を行使して結果を見ようとする者は一つとして――いや、己の色を初々しくも猛々しい青に愛しげに擦り付けていた者だけは、そうせずにいるのを我慢できずに飛び出し、下の世界へと向かっていく、大きな色に対してはあまりにも微弱で小さな色を見つめた。それは黒い者以外の目で以って見れば一瞬のことだったかもしれないが、黒い者の血はその理を排する力を黄金の眼にもたらしていた。故に黒い者には、下の世界へと吸い込まれていく青の時間が、内面が、さらにはそれらを以って明らかになる結果までもが見えていたはずだった。
 
 誰が止められるだろう。誰が答えられるだろう。永遠の命題を胸に、刹那の瞬間が無限に引き伸ばされる空間の中で、その瞬間は全てを見通していた黒い者は血涙を流すほどに悩んだに違いない。それは今、過去、未来に多くの者が直面し、抱えることで、共通の答えなどという便利な代物の存在しない問い。しかし、黒い者はその問いを放棄しようとはしなかった。目の前で己の半身が決断したように、自分もまた決断し、そして岐路を踏み越えて黄金の眼の力の例外足りうる流れへと、その身を投じていった。

黒の世界 

 それは見慣れた世界であり、遠い世界だった。ある時は激しく、ある時は静かな世界。
 見上げる度に何を感じたのだろうか。名前としては同じ光景であったにしても、絶対的な差があるに違いないその世界を見て、一体何を思ったのだろうか。
 
 まさにこれから燃えんとするその世界の下、そしてその炎に照らされようとしている緑の海の上に、一匹の獣が横たわっていた。獣の傍には大きな、そして物言わぬ巨大な灰色の塊が在った。それは横たわっている獣を覆う程に反り返り、上天の恵みが仇となる時には、恐らくはその身を挺して自らの下に集う者を護るのだろう。それ故にか、横たわっている獣は、時々苦悶の呻きを洩らしはしていたが、そこから動くことはなかった。影の中でもなお青く見える自分の毛並みを、緑の海の上を駆けていく波に撫でさせながら、ただただじっと眠っていた。

 薄い世界が次第に終わりを告げていき、今や緑の海は燃えていた。沈み行く恵みの元からはどんどんと力が放たれていき、眠りゆく者達に、そしてこれから目覚めんとする者達に通じて伝わる兆候が示されていた。そうして薄い世界の住民は早々に己が場の安全を確かめ、静かな世界の住民は己の場を発つ準備を始める。
 しかし、独りであるように見える獣は、段々とその足を伸ばしていく暗い世界の中で、他者よりも一足早い安息に身を未だ委ねている。今はまだそうしていても、それを妨げんとするものはいない。今はまだ、突然の上天からの暴力的な恵みが訪れる時期ではない。仮にそれが訪れたとしても、獣が身を委ねている所は、その脅威からすべからく多くの者を守るはずだった。
 だが、その恩恵に預かる者はこの地にはほとんどいない。何故ならこの地に住むほとんどの者は大地という名の巨大な家に住まい、そしてまたそれを盾にすることで自分達の身を守っているからである。よって、天上より打ち付ける無数の飛礫も、大気を引き裂く一閃もそれらに届きはしないのであった。


 閉ざされた獣の瞳に暗闇が訪れてから少しして、とうとう世界は恵みの影によって照らされる時を迎えた。柔らかでありながら儚げに浮かぶ白の遮蔽物はいずこかへと消え、今や濃紺色に染まった世界には、数えるのが愚かなほどに遠天の輝きが散らされていた。
 悲しいことに、それは全てを合わせても表の恵みには決して届きはせず、一度気まぐれな暗幕に覆われてしまえばそれを貫くこともあたわず、実にか細き明かりであると言わざるを得ない。それはそれらよりも近くにありながら遠くにある中心の影にしても同じであったが、しかし、それ故に生きる命があるのもまた事実だった。

 か弱く、だがそれ故に柔らかくなる光に包まれて、今はもう上を見つめることのできぬ状態になった獣は、その体をゆっくりと上下させていた。それはあまりにも無防備で、もしもそれを害することを厭わぬ意思に襲われでもすれば、一瞬で、その唯一といってもおかしくない動きすら止められてしまうだろう。
 しかし、それがそうなってはいない以上――この絶対的に安全とは言い切れぬ環境においてそうであるために、獣は確かに守られていたのであった。それは主の近くに何者も寄せ付けぬ程に強大で、揺ぎ無い力を持つ者によるものだということは明らかだった。そしてその力の元は――眠れる獣は気づく術も無かったのだが、今はそれが守らんとする対象のすぐ傍に在った。

 見た目は安全な場においても、今は漆黒となった獣は守るべき者ものよりも遥かに強大な四肢の力を緩めようとはしていなかった。力の元は己の存在がそこに在ることを禁じていると言うほどに吐息を押し殺し、自らの気配を完全に闇の中に溶け込ませていた。黒はそのまま闇に、残された青さは、沈んだ緑の海に。

 
 辺りは明るかった時に比べて静かだった。下の世界の住人はすでに目覚めているはずなのに、巨大な無機質の守り手の周りにはその気配すらない。それらからすれば、守り手に身を寄せている侵入者達のことに気づいているのは当然で、さらには己らが力を行使していてもおかしくないのに、である。だからこそ、この場は見た目に反して安全であるとは言えず、恐らくはそれ故に漆黒の獣もまたその警戒を緩めようとはせず、それ故にその力を――すべての力の元はそこであり、何者も近づけさせないのもまたそれがあるためにだと思わせるに値する黄金の眼を、決して休ませようとはしていないのだろう。 

 だが、当然のように守られている者はそれに気づかない。己が死に瀕し、最早助かりようもないような状況に陥り、誰しもが救うことを諦めていた状況の中、漆黒の獣に――そうしようとすることで、自分もまた死ぬことを意味するにもかかわらず助けられたことを。そうすることで疲労の限界にありながらも、蒼の力を行使して己の身を守る場を生み出してくれたことを。そしてそれからも自分の身を顧みずに自分の糧を与え、自分の源をも与え、さらには自分の刻すらをもすり減らしてもらってきたことを。そうして今の今に至るまで漆黒の獣に守られてきたことに、青い獣は気づかぬ。気づきようも無い。
 それ程までに青い獣が負った傷は深かったのは確かだった。体も、そして心もまた傷ついていたのは間違いないのだ。しかし、それだけでは決して無い。青い獣は気づけなかったのではない。気づかされなかったのだ。全ては漆黒の獣が青い獣に抱く、唯一つの想いの元に。


 静かに時が流れていく中、気まぐれな暗幕が今は最大の光の源を、ふっと覆った。世界は一層暗闇に閉ざされて、沈んだ緑の海も、物言わぬ守護者も、そして眠れる青い獣も、本来の色を失っていき、一つの色へと染まっていった。
 その中、音を鳴らさず、今の今まで動こうとはしていなかった漆黒の大きな塊は、世界の誰にも気づかれることなく青かった小さな塊へと近づいた。全てが同じ世界に在っても、黄金の眼をもつ者であれば、己が対象を違えることは無かった。
 一方で、眠れる獣はまたしてもそれには気づかない。それどころか、安らかに夢でも見ているのか、その顔には自分の身に在る絶望的な状況など意に介さぬと言う程に穏やかな表情を浮かべている。

 漆黒の獣は――守る者としての役割を考えれば、決してそうすべきではないが、今はその眼を周囲には向けずに、目の前で眠っている青かった獣に向けていた。そして静かに、この上ないくらいに慎重に、青かった獣へさらに近づいていき、やがて吐息を交わすこともできる距離にまで辿り着いた。
 
 暗闇の中では難しいが――しかし、もしも守る者のその眼を見ることができる者がいたなら、果たしてどのように思うことだろう。黄金にしか染まりようのなくなったその眼に、どのような感情を見出すのだろう。だが、それは決してありえないことだった。いや、ほとんどありえないことだった。思念の中に生きる者を除いて、生きとし生ける者達は、その黄金の眼に見透かされることはあっても、それを見透かすことはできないのだから。
 
 黄金の力は偉大だった。それはそこに映るものは全て真実でしかなく、起こり得るどころか、起こることすらも見透かすことができる魔眼。宿す者でなければ、間違いなく漆黒の獣は長としてその眼を持ち、一族をさらなる繁栄へと導いたことだろう。
 しかし、漆黒の獣がそれを望んで得たのかどうかは誰にもわからなかった。その血の力によって、誰にも消滅させられないはずの感情を殺され、それを現す力すらも血に吸われ、しかし、その意思は残っているが故に、死に至る程の苦しみを抱えている獣が、果たしてその力を得ることで幸福足りえるのかは、今は何者にもわからなかったのである。

 感情はそこには現れぬ。現せないのだ。どれだけ出そうとしても、その眼は見透かすばかりで映すことはできないのだ。
 眼以外の部分をもってすればそれはできるだろう。体をこすり付ければいい。甘くその鋭い牙をたてればいい。しかし、その眼には絶対に現せない。だが、だが……
 
 漆黒の獣は今やその顔の先を、青かった獣に重ねんばかりに突き出していた。最早そこには眠れる者の生きている証が降りかかっているに違いない。その温かさを感じているに違いない。
 しかし――しかし、青い獣は目覚めぬ。漆黒の獣もそれを阻害せぬようにと音は決して出さぬ。一方が閉じられていては、唯一の感情の通り道が閉ざされているのでは――それは遠い遠い未来のことではあったとしても、どれだけ見つめようとも伝えることも叶わぬ。
 
 もしも、理性という名の枷が無かったとしたら、漆黒はをどうしていたのだろうか。古より定められた命が無かったら、大きな獣は自らの目の前に眠る、自らの血を分けた小さな獣を、一体どのようにしていたのだろうか。
 全ての生き物において、およそ禁忌とされている欲望の元、自らの肉をもって小さな獣を貪っていたかもしれない。動けぬのをいいことに、決して満たされることのない飢えを満たそうと、全ての感情を打ち消さんと力を振るっていたかもしれない。秘められた想いを打ち明け、それが砕かれるがままに永遠の眠りを望んでいたかもしれない。
 だが、それはもう誰にもわからない。誰もそれを知ることはできない。今は――今しかないからこそ、漆黒の獣の、その狂おしいほどに震えている心を知ることは、決して適うことはなかったのである。


 依然として保たれている静寂の中、闇夜を生み出していた暗幕はその役目を終えたかのように、何も言わずにあるべき場所へと去っていった。それと同時に世界は再び薄らと照らされ、漆黒の獣はゆっくりとその眼を閉じた。
 それはやはり誤っているといわざるを得ない。しかし、その者の目の前にその者が愛しく想う者が在るとわかっていながら、それを見つめてしまえばその者には全てがわかってしまうとわかっていながら、一体誰がそれを止めさせることができるだろうか。誰が死よりも辛い役目を全うしろと命じられるのか。
 漆黒の獣は、恐らくは先において青い獣とのみに通ずる光を放たなくなった。そうすることで、古より刻まれし定めによって与えられた呪いの道具に仮初の死を与え、恐らくはその血すらをも流すことを殺し、ただひたすらに震えてその身を自らの鏡に合わせる。合わせようとしている。どのように導かれようとも、この世の法則が乱されない限り、決して叶わぬ願いだとわかりながら、そうせずにはいられなかったのだろうか。


 下の世界に静かな吐息が流れていった。それは沈んだ緑の水面に明るかった時よりも静かに波をたて、その上に眠る者達を優しく包んでいった。
 その広大な時の中に、眠る二匹の獣がいた。それらは互いに顔と顔とを向き合わせ、瞳を閉じてゆっくりと体を上下させていた。大きさも、色も、毛並みも、およそ何もかも違ってはいたが、それらはどこか同じ雰囲気を漂わせていた。
 
 空に瞬く無数の明かりの中の一つが、猛烈に、しかし細く静かに輝きながら、遠い地の果てへと吸い込まれていった。それと同じくして、眠る二匹のうちの一方には思わぬ雫が、一方には見えぬ雫が、それぞれ零れて近くとも遠い海へと吸い込まれていった。それは何も癒しはしない。それは何も育むことはない。黒と青は交わることなく濃紺天の静けさに身を横たえ、今は暗くなった世界に眠り続けた。それは二度とは訪れるはずのない空間だった。そして永遠に訪れることのない時間だった。

下の世界 

 誰にも妨げることの適わない恵みが去った後に、休みから明けた力の象徴が顔を出し、栄えの極みにある緑の海を照らしていった。それは力を喪ってしまったかのように項垂れている生命に、確かな活力を与え、再び立ち上がることを許した。全ての時間の中で、決して永いとは言えない今の時間。今の世界。それは一瞬の瞬きのようで、空に散る花のようでもあり、美しくも儚い。今より数旬も過ぎれば、再び術を持たぬ命に生きることを許さぬ荒野へと変わるというのに、いや、そうであるが故に、今は幼子の見る夢のように明るいのだろうか。

 
 危機が去れば現れる者達もいる。こと、この緑の海においてはそれらの姿を見ることは困難であるが、その中で一際目立つ者達がいた。
 緑一色には似つかわしくない色の下、強大な力によって生み出された巨大な塊の傍に、大きな獣と小さな獣が一匹ずつ。それはどちらも――濃淡の差と量の差はあれど、同じ色の毛並みを持ち、身をすり寄せずに同じ場に在った。大きい獣に対して、小さな獣は体を動かすことが難しいのか、今にも倒れてしまいそうに四肢を立てて体を起こしている。そして大きい獣はその大きく、そして黄金色に輝く眼をもって、その頼りなさげな動きを見つめている。
 恐らくはその動きは意思に反しているのだろう。小さな獣は立ち上がり、少し歩いてはすぐに倒れた。その度にはっきりとした苛立ちを込めて呻きながら、しかし、そのまま伏せってしまうことはせずに、すぐに再び立ち上がる。大きな獣はそれを監視しているかというように、じっとして動かない。力を振り絞り、四肢のみにあらず、全身をも震わせて歩もうとする小さな獣がどれだけ倒れようとも、決してそれを助け起こそうとはしない。
 光景としては残酷であるように見えるが、正しくもある。大きな獣が助ければ、確実に小さな獣は立ち上がることも、歩くことも――少なくとも今よりかは楽に行うことができるだろう。続けることができるだろう。しかし、それは大きな獣の力があってこそ。決して小さな獣のみによって出来得ることではない。それらがどこまで考えて今を行っているのかはわからないが、もしも先を見通して、それも独りになることを考えているのだとすれば、やはり正しいのだろう。
 それ故にか、大きな獣も、小さな獣も、お互いの動きを止めて相手に依ろうとはしない。小さな獣は体に対して鋭い刃を食いしばり、ただただ懸命に己を戻そうとして立ち上がり続ける。そして、大きな獣は……



 野性の力。それは望むべくして与えられたとは厳密には言えない。そうでなければ生きられないがために得られた……そう言うべきなのだろう。
 老いたる生命にもなれば、当然その力は衰える。一度骨が砕ければそれは癒えず、一度臓腑が損なわれれば、永久の眠りがやってくる。しかし、老いていなければ、未だその生命が青々しく、そして猛々しくもあればどうだろうか。

 確かに小さな獣は傷ついていた。それは知識ある者、経験を育んだものからすれば、永劫取り去ることのできぬ傷であると知れた。その傷は小さな獣の動きを奪い、夢を取り去るには十分すぎたのだ。
 本当に独りだったのなら、それを知ることも無く眠りについていただろう。しかし、小さな獣は独りではなかった。故に今を生きていて、その喪った力を、その猛々しく生に震える命によって取り戻しつつあった。それも、急速に。


 小さな獣はあり得ぬ程の速さでその体躯に宿っていた力をかき集めていた。一時は動くことも叶わず、一時は立ち上がれもせず、一時は歩くのがやっとだったというのに、今や小さな獣は――もちろんそれは元来のそれと比べれば、実に遅々たるものではあったが、走ることすら可能となっていた。
 だが、小さな獣は、そして大きな獣もまたそうではあったが、それではまだ満足はしていなかった。それではまだ足りないとしているのは明らかだった。今だからこそ得られる糧を得る時にも、今だからこそ流れる恵みによって体を清め、潤す時にも、決して再起のための行動を疎かにしようとはしていなかった。
 
 
 小さな獣が己を奮い立たせている内に、数旬と残されていたはずの時間も、瞬く間に僅か一旬となった。生命の繁茂を増長させたる今の時期が終わるまで、後僅か。もしも今の時期が終わってしまえば、大きな獣も小さな獣も生きることは適わない。本来は侵入者であり、部外者であるそれらにとって、ここは在るべくして在る世界ではない。
 静かな世界の住民であれば、残った恵みを頼りに死の世界を乗り越えることはできる。しかし、それらよりも上に住まう者達にとっては、死の世界は死の世界でしかない。大きな獣も、小さな獣も、そうと知っているが故に、無理という言葉が生ぬるい程に、休むことを許さずに動き続けていたのである。そして、その試みは成功しつつあった。


 いよいよ一旬と残された時間の砂が零れきろうとする中、二匹の獣は緩やかに歩いていた。この世界に道などはなく、見渡す限り同じ光景のそこには、道標も無ければ目印もなかった。しかし、それらを護ってきた巨大な造形物を後にした二匹には、自分達が目指すべき世界がどこにあるのかがわかっていた。何故なら、それらは――それぞれ時期も回数も違ってはいたが、何度となくこの道無き道を経てきたのだから。この今は澄み切った世界を見てきたのだから。
 故に、小さな獣を筆頭にして、大きな獣がそれを追う形で、それぞれが警戒を怠らずに、二匹は着々と世界を昇っていった。
 それは二匹の心情はどうあれ、穏やかであるように見えた。しかし、一度きまぐれが起きてしまえば、一転して受け入れぬものを全て破壊する殴打を浴びせられる世界であることには違いない。少しの油断をすれば、たちまち上へと昇っていく道から落ちてしまう危険な中、小さな獣は上を、大きな獣を前をひたすらに見つめ続け、そして歩み続けていた。

 
 不規則な間断のもと、振り下ろされる殴打に耐えながら――小さな獣にとって、それは大変にこたえるに違いなかったが、それを耐えられるようになるための時間を二匹は過ごしてきたのであり、事実それに耐えることに成功し、二匹は道を昇り続けた。二匹でなければ昇り続けられなかった。それが望んだことなのか望まぬことだったのかにかかわらず、二匹は互いを必要として、またその互いの距離も必要以上に縮まっていっていたのである。――そして少なくとも一方にとって、それは、


 
 時が移り行く毎に劇的に変貌を遂げ続けるこの地において、二匹と種を同じくする群れが住処としている場所は比較的その影響を受けにくい場所にあった。二匹が堕ちていった場所から見て、それはまさに雲上に等しい高みにあり、群を脅かす外敵を寄せ付けなかった。そうでなければ、この地においては決して生きてこれなかったのである。青と黒の獣達の最大の力はこの地に住まう大半の者――特に下の世界に住む者達には全く効果が無く、一度襲われでもしたら容易に群れ全体が壊滅するのは明らかだった。
 にもかかわらず、群れがこの地にやってきたのには正しく理由があった。極めて危険なこの地に留まり続けているのには確かな目的があったのだ。
 群れは虐げられし者達だった。抗えぬ力をもって仲間達を大勢消されてきたそれらは逃げてきたのだ。その抗えぬ力はまさにこの地の下の世界に住まう者達のそれと同じで、群れの中には対抗できる者が一匹としていなかった。
 
 群を襲ったこと自体は悲惨な出来事として見られよう。しかし、それが世界の真理であり定めであった。一つの力をもって一つの力を制することはあれど、全ての力を制することができるわけではないのだ。
 だが、抗えぬ力は確かにあれど、一所においては頂点とも言うべき位置に君臨していた群の力そのものは凄まじいものであったに違いない。故に、真理と定めにのっとって安全な地へと落ち延びていれば、それこそ青と黒の獣達が絶対的優位に立てるような場所に行けば、群れは今とは比べ物にならないくらいに繁栄していたころだろう。それは獣達にも十分にわかっていたはずだし、そうすることも可能であったに違いない。しかし、獣達は敢えてそうしなかったのである。多くの生命が従うであろう道へは進まなかったのである。とただ一つの、暗く、原初的な感情に基づく確かな目的のために。



 辿り着くには通過しなければならない露の幕を潜りながら、二匹はやがて目的の場所へ、目指してきた帰るべき場所へと辿り着こうとしていた。それはまさに終わりであって、決して始まることには繋がらない結果への道だった。群れが一つの目的のために生きていくためには秩序が必要であり、そのためには掟が必要だった。それは絶対に覆されてはいけないことであり、そのために、それを守ることのできなかった二匹の獣を待つのは終わりでしかなかったのである。
 そう、二匹は終わりのためにこの道を歩んできた。そのために二匹は寄り添って、今もなお、その尾に、その背に、そして顔に露をしたたらせ、無言のままに歩み続けている。この幕が明けてしまえば、そこには何の力を用いずとも二匹の到着を知り待ち受ける同胞達がいるはずだった。そうして一匹はそのまま従い、もう一匹は更なる罪を犯すはずだった。しかし、


 下の世界からの道の終わりを示す露の幕が明けた。景色は幕の前とそれ程異なってはいなかった。下の世界に比べれば薄いと言えども、緑の海は確かにそこにもあり、仰げばそこにはより近くなった青の海と白の島があった。
 上の世界は依然として上の世界のままであるように、あるいは微妙な大気の変化を捉えていたかもしれないが、二匹にはそのように映っているはずだった。そのはずだった。

 二匹は懐かしもうともしていなかった。ただ露の幕をもって濡れそぼった毛並みをそのままに、その場に立ち尽くしていた。そして前にいた小さな獣の隣へ、後ろにいた大きな獣はゆっくりと移動し、そのまま自分が前を行く形となった。それまで寄り添っていたにもかかわらず、小さな獣は大きな獣を追いかけられずに、ただ目の前の光景を、あるはずのない世界を凝視していた。

一匹と一匹の世界 (暴力シーンやグロテスクな表現あり) 

 そこに生き物はいなかった。あるのは自分達と種を同じくする、群れの仲間だった者達だけだった。それは見るも明らかに時を刻むことを終えていた。
 ある者は死して伏せてなお、二度と大地を翔けるに貢献することのできない四肢を狂ったように動かしていた。ある者は青でも黒でもなく、もはや毛並みですらない色を全身に纏わさせられていた。ある者は閉じられたのではなく、見ることそのものを奪われていた。ある者は奇抜な芸術作品のように変則的に体のあちこちを組み合わさせられていた。
 
 あたり一面には健全な魂を持つ者なら等しく嫌悪感を催す臭いが立ち込めていた。その光景と合わさり、すべからく多くの者が嘔吐をすることを辞さないような、禁忌とされることも止まないような恐ろしい香りしかそこにはなかった。
 ただの死ではない。ただの殺戮ではない。それは本能によるものでは決してなかった。仮に、万が一にもありえないが、下の世界からの、そこに住んでいるべき者達の襲撃によるものならば、このような世界は生まれようがない。偶然にもこのようなことが起きるはずがないのだ。
 そもそも下の世界の者達には理由が無い。上の世界は下の世界を通過することはあっても今はまだ脅かすことはなく、下の世界もまた上の世界を今はまだ脅かす意味はなく、それ故に世界は、少なくとも今の今まで秩序を保ってきたのだ。それ故に生きている者達はそれぞれの世界に生きることができているのだ。そうであるがために、これが言葉として存在するわけではない秩序の元に生きている者達によるものではないことは明らかだった。

 外部の者、否、者達。群の力を考えれば、この現状が複数の何かによるものであると行き着くのは必然的だった。しかし、小さな獣がそれを考え得るとしても、感じ得るとしても、到底今そうできるはずもなかった。突然の死、それも永遠に呪われることを全く意に介さぬような、狂った殺戮をもって生まれた、安寧の眠りなどとは程遠い死を見て、やがては自分が治めることになっていたはずの生きていた者達を見て、冷静にそのようなことができるはずがなかったのである。
 
 小さな獣は動かなかった。まるで小さな獣もまた、その目の前に転がる仲間だった者達の列に加わってしまったかのように固まってしまっていた。そして小さな獣がそうしている内に、ずっと小さな獣の傍にあり、ずっと小さな獣を守り、ずっと小さな獣を見つめてきた大きな獣は、もう小さな獣の目には映らない場所へと行ってしまっていた。
 それに気づいたからなのか、もしくはもうその場に立ち尽くすのに耐えられなくなったのか、小さな獣は大きな獣がそうしたよりも速くその場を駆け抜けていった。そうする途中で、かつては仲間を形作っていた様々な物を踏みしめ、それが自身の体にまとわりついていったが、それでも小さな獣はその脚を止めようとはしなかった。

 上の世界であるここが、下に広がる緑の世界であるとはいえない。しかし、深くも豊かな緑が確かにそこにはあったはずなのではないのか。虐げられて移り住み、ただ一つの復讐のために必要な時を刻むための、それだけの地ではあったが、確かに群はこの地で、認めはしなかったかもしれないが、安らぎ、子を育み、忘れかけた感情を思い出しつつあったはずではないのか。
 小さな獣によってそのような述懐がなされるかどうかはわからぬ。しかし、小さな獣は走っていた。ただひたすらに走っていた。

 下の世界よりも薄い緑は今や不可思議な色合いに染まっていた。それは狭くも広大で、やがては無限の海原へと繰り出すための宿営地であったはずなのに、今は生に恵みをもたらすはずの光をもって死を映えさせる屠殺場となりはてている。
 感情があるとするなら、小さな獣には恐らく悲しみよりも憎しみがあったに違いない。故にその目をもって捉えようとするのは敵。自分の同胞を殺めるに留まらず、玩具のように弄び、未来を絶ち、世界を汚した忌むべき相手。気づかぬうちに消えてしまった、離れてしまった無二の存在よりも、そうした相手こそを求めているに違いなかった。

 下の世界から一環して上へ上へと伸び続けていく道をいよいよ終え、小さな獣は己が裁かれるはずだった場所に辿り着いた。そこにはやはり大勢の仲間だった者が有った。在ったのではなく有った。しかし、小さな獣の目には最早それは留まらなかっただろう。見慣れたからではない。見たくないからでもない。ただ小さな獣の前には在ったのである。そう、今はそれこそが何よりも求める相手であり、何よりもその力を向けるに違いないであろう相手が。

 
 それは一匹ではなかった。大雑把に言っても、大きな者と小さな者が数匹。
 ある者は手があるべき場所に刃を携え、それをひたすらに同胞だった者に振り下ろして世界を汚し続けている。ある者は額に埋め込まれている野太い棘を凶器として、その先に四角形の塊をぶら下げ、赤い雨をもって自分の体を染め上げている。ある者は声も上げぬ同胞を無理やり抱き起こし、その口から粘りつく何かを浅ましくも撒き散らしながら、己の原初的な欲求をひたすら満たし続けている。ある者は同胞だった者から少し離れ、そのパックリと割れた、しまわれているはずの小さな半円型の箱に無慈悲な力を注いで死者を躍らせていた。

 狂っているとしかいいようのない光景。小さな獣がこれまでに見てきた仲間達は皆この犠牲になってきたのだと、この上なく明らかにさせる、あってはならない饗宴。
 小さな獣はその鋭い歯が砕けてしまいそうなくらいに昂ぶっていた。体の状態など構うこともなしに四肢に力が篭っていた。その目は一度たりとも瞬くことはなく、一方的な殺戮を繰り広げている生者達の、その先を見つめ続けていた。

 小さな獣の目の先には自分達の同胞ではなく、殺戮を繰り広げている者達の同胞でも――そもそもそれらは大きな分類では同胞とは言えたが、厳密には小さな獣とそれらが違うように異なる生き物達ではあったが、それをそうとしても同じくくりでは見れない生き物がいた。
 それは小さな獣には欲求を満たし続けているようにしか見えないであろう者達とは異なり、小さく、細く、何よりも弱そうに見えた。それこそひたすら虐殺をしている者達がその気になれば、一息で殺せてしまいそうな生き物だった。しかし、その者の体は、その者の目の前にある者達と異なり、一切汚れてはいなかった。どれだけ凄惨な光景が拡大されていっても、その者の纏っているであろう毛並みではない何かは汚れることは無かったのである。それはつまり、その者自身が全く手を汚していないことを意味していた。

 見ようによっては関係の無い者であるとも捉えられたかもしれない。しかし小さな獣は一度その者に目が留まった瞬間から、もうその者以外のことを見てはいなかった。その者こそが最大の元凶であると見抜いているが如く、狙いを絞っていた。
 直感、と言えるかもしれない。だが、その者がそう捉えられるには確かな理由があった。見た目こそ一切汚れておらず、ただそこに在るだけであると――もちろんそうであったとしても許されるはずはないが、しかし、そう見られてもおかしくない。――あくまで、その見た目、その者の体だけを見る限りでは。


 凄惨な光景には臭いだけではなく陰惨な音も付き纏うものだ。切られる音、潰される音、繋がる音、そのいずれもが生ある者に嫌悪の感情をもたらすには凄まじいまでの効果がある。
 当然、ここにもそれはあった。しかし、それはある一つのものに全て打ち消されていた。確かにそれはあったのだが、それよりも遥かに――少なくとも小さな獣にそれを発するものこそが最大の敵であると思わせるには十分な音があったのである。そしてそれは小さな獣が凝視する生き物から発せられていた。


 笑っていた。何も知らぬ子どものように、ただひたすらに喜びの感情しか感じられる響きで、その小さな獣の目の先にいる生き物は笑っていたのだ。
 小さな獣の仲間だった者の体が舞うたびに、望むはずの無い物をその冷え切った体に受け入れるたびに、内包する物が飛び出るたびに、狂ったように笑っていたのだ。腹に手を当て、身をよじり、汚されてはいても未だ綺麗な緑の世界に体を横たえ、痙攣しているともとれるほど激しく笑い声をあげ続けていたのだ。


 小さな獣はもうそこにいることはできなかった。目の前の殺戮者達が、少なくともこれまで研鑽を積み重ね続けてきた仲間達を容易に全滅させるだけの力を擁し、自分の状態が最良であっても決して叶わないであろうとしても、例えそれが判断できるだけの冷静さがあったとしても、小さな獣は留まることなく突き進んでいたに違いなく、今もなおそうすることを躊躇おうとはしなかった。
 それは勇気ではなく蛮勇というべきなのかもしれない。だが今はそれを止めるものは傍にはいない。小さな獣はそれを探すよりも敵を探してしまった。そしてそれを見つけてしまった。そうであるが故に敵と対峙してしまった。


 小さな獣が最大の敵として見つめていた相手の前に、小さな獣の存在に気づいた赤く染まった灰色の巨躯を持つ怪物が立ちはだかった。その怪物は自身の額から生えていた、今はもうそれがかつては何だったのかよくわからないものを振り飛ばし、大きく太い二足をもって小さな獣に近づいていった。それに応じて、それまで饗宴に興じていた者達もその作業を止め、小さな獣と赤く巨大な怪物とを見始めた。
 怪物がその背の下から生える恐ろしく太い尾を振りながら地面に叩きつけるたび、世界は大きく揺れた。その両手に生える爪の鋭さもさることながら、額より生える虐殺の針の禍々しさのなんたることか。しかし小さな獣は怯まない。全てを見透かせるようになるはずの眼は、今や憎しみの光に囚われて濁り、自分に振り下ろされる巨椀すらも見ることができず……


 その刹那、最早誰もが止めようのない事象の空間に光が走った。それは凶悪な殺戮者の腕を打ち払い、一つの感情に支配されていた小さな獣を奪い去っていった。そしてそのままの速さを維持し、光は役目を終えて眠りにつこうとしている恵みの元を目指してその場を去っていった。後に残る――恐らく賞賛なのだろう、笑い転げていた小さな生き物の口から生み出された細くも高い音と、その後に続く定期的なリズムで何かが弾けるような音を背に受けながら。

 
 全てが始まってしまった場所まで来て、まさに疾風迅雷となっていた大きな獣は小さな獣をその口から離した。小さな獣は、明らかに救われたにもかかわらず、何にも代え難い相手である大きな獣を一つの感情で飲み込もうとしていた。そして大きな獣もまた、その眼に一つの感情を残して小さな獣に触れようとした。しかし、二匹の間には今は激しく発現する蒼い力しか存在しなかった。それは二匹が交わるのを拒絶し、残されたほんの僅かな時間を削り、大きな獣に選択を迫らせた。

 二人の道の果てを見ている大きな獣は、すぐにでも自分たちの所へ到達するのがわかっている殺戮者達に背を向けている。しかし、同時に大きな獣には、殺戮者達が自分達を快楽の源とするのに十分な距離に達するまで、まだ幾許かの猶予があることもわかっていた。
 大きな獣は小さな獣をもう一度見つめた。もうわだかまりをほぐす時間はなかった。だが、血を分けた相手を、禁忌を抱く相手を、そしてもう恐らくは二度とは会えないであろう相手に対して、大きな獣は一瞬顔を伏せ、そして……


 小さな獣はその意味がわからなかったかもしれない。わからないかもしれない。故に、その憎しみの色は一瞬消え、最愛の相手をその眼に収めることができた。しかし、その相手はどんどんと自分から遠ざかっていた。近い昔にもあったように。だが、その時とは全く違う大きな獣の顔を見ながら、同じ黄金の眼で見つめあいながら、小さな獣は落ちていった。まっすぐに違う世界へと落ちていった。

終わった世界 

 これまでとは、いや、ほんの一瞬前までとは打って変わって、遥かな上の世界からの恵みは静かに緑の海へと降り注いでいた。暴力的な恵みという名をもったそれは、急速に始まって急速終わるものだったが、今のそれは、まるで去るのを名残惜しんでいるかのように儚く、弱弱しく終わりを迎えようとしていた。

 灰色の造形物の下に身を横たえる青い獣は意味を知っていた。即ち、これまで降り注いでいた恵みがもうすぐ終わることを。世界がまもなく移り変わっていくことを。旅立ちの時がまさに目の前に迫ってきていることを。

 二度に渡る意図せぬ結果をもたらした跳躍は、青い獣の体に致命的といってもいいような損傷を与えていた。一度目の跳躍によって傷ついた部分が完全には癒えていなかったのだからそれは当然である。動くのにもっとも重要な部位は二度とは元に戻らぬかもしれぬと言うほどに歪み、本来の力を行使するのに必要な体力は動けるようになるために半ば使い果たしている。つまり、過去にどれ程の強さをもっていたとしても、今の青い獣はほぼ完全に無力化されているといえる。それは極めて不幸なことであるように思われるかもしれないが、しかし、かろうじてそこで留まれたのは一体何のためか。確実に訪れるはずだった眠りを回避できたのは一体どうしてなのか。

 一層その細さを際立たせていく静かな恵みを見つめながら、青い獣は横たえた身を僅かによじらせた。落ちてきた当初は、そうするだけでも激痛に呻きを洩らし、それによってさらなる痛みを巻き起こし、救われぬ輪廻に苦しまされもしていたが、今は至って平然としている。

 青い獣は知っていた。わかっていた。どうして二度目の跳躍に自分が耐えられたのか。どうして自分が二度目の跳躍をすることになったのか。どうしてあの時、自分の黄金の眼が大きな意思を見抜くことができなかったのか。そしてその大きな意思の意味を。
 自分でなければ、いや、今の自分以上の力をもっている者でなければ、それはできなかった。最小限の衝撃で済むよう、しかも可能な限り下の世界へと繋がる道へと近づけるように小さな獣を落とすには、完全に先を見透かしていなければできなかったのだ。そうする以外に、ただでさえ重傷を負っていた小さな獣を助けられるはずがなかったのだ。
 もちろん、そうであったとしても小さな獣自体が最小限の衝撃に耐えられなければ無駄である。しかし、裁かれるために培われてきた、戻してきた力はそれに耐えた。死ぬために蓄えられてきた力をもって、小さな獣は生きたのだ。何よりも……何よりも代えられない、たった一つの犠牲をもって。

 犠牲を払って得たものはただの命ではなかった。ただ助かっただけというのなら、何の目的も得られぬ命でしかなかったのなら、青い獣は三度その身を帰れぬ場所に投じていたに違いない。そうではない以上、青い獣には目的が生まれたのである。それも、絶望以上の絶望から再び歩ませるだけの目的が。

 
 世界を照らす恵みが先に僅かに姿を見せてから、次第に最後の恵みが止んでいく。渇きの長い長い舞台への幕が引かれていく。そうして遥かな上の世界には二つの色しかなくなっていった。これからは気まぐれに漂うはぐれ物以外はそこにやってくることはないのだ。

 世界がようやく移り変わったことで、それまで休息にあった住人達が今はまだ緑の海となっている場所に戻ってきた。それらは一体どこに姿を隠していたのかというほどに多く、そしてその身を歓喜に躍らせて緑の海を破壊していった。今からかつてはと言われるような姿になってしまおうとも、緑の海はそれらに抵抗することもできずに蹂躙されている。
 その光景を青い獣も見ていた。これまではなりを潜めていた住人が自分の方へと近づいてくるのも見ていた。そしてその意図が何であるかすらも見ていた。それらを全てわかった上で、青い獣は伏せていた身を起こし、迫りくる敵に身構えた。

 
 青い獣の一族は蒼い力の使い手である。それは飛ぶ者を撃ち落し、泳ぐ者を浮き上がらせる、回避することのできない力であり、極めて強力な力であった。事実、その力をもって一族は王者たる位置にいたのである。
 しかし、一族はその世界を追われるに至った。そしてこの世界へとやってきた。その力を牙と共に研ぐために、そして何よりも生まれくる力を待つために。
 一部には絶大な力を発揮するとはいえ、それ以外の者に対しても蒼い力は極めて強力である。そうでなければ一族は過去の世界において王者足り得なかったし、追われて落ち延びることすらもできなかっただろう。
 その理由、そして今回の理由、それは誰よりも青い獣、小さな獣にはよくわかっていた。それらは全て、自分達の力が通じない相手によるものだったのだと。


 同じ顔を三つ連ねる今の世界の住人が青い獣の前にいよいよ迫ってきた。それはもう蒼い力の射程内であったが、青い獣はそれを使わず、迫りくる者もまた全く気にしないといった様子である。表情に乏しい今の世界の住人だが、しかし、その顔には明らかに勝者の笑みとでも言うべき余裕が見えていた。
 今は満足に動けない青い獣には絶望的な状況であるといってもおかしくはない。それに対しては自分の今までの力は全く通用せず、見かけに反して凄まじいまでの速さを持つそれからは逃げることすらもかなわないのだから。
 だが、青い獣は相手を見つめたまま動こうとはしなかった。怯えを表情に出すこともなかった。自分が今までだったら飛びかかれた距離から僅かに離れた所に位置し、今の世界の住人であるために必要な力をその身に溜め、それを自分に行使しようとしている相手を見ても、そしていよいよ自分に放たれた、消え行く緑の海を裂きながら迫ってくる力を見ても、動じずに青い獣は――いや、僅かにその身を前へと傾けた。


 青い獣には目的が必要だった。何よりも強い目的が必要だった。それが一つである必要はなく、事実それは一つではなかった。
 大切な者を救うため。大切な者達を屠った者達を消すため。それから、


 緑の海を激しく蹂躙しながら突き進んでいた力は青い獣に届くがどうかというところで弾けた。青い獣にはもちろん傷一つとない。
 その奇怪な現象に今の世界の住人も恐らくは驚いたのだろう。一瞬といわずに動きが止まっていたが、すぐにもう一度同じ力を溜め、そして放った。それは先と同じくまっすぐに青い獣に向かっていき、そのまま対象を破壊するはずだった。
 しかし、それが到達するか否かという時、さらに体を前に倒した青い獣の体が青く輝いた。それによって生まれた光は蹂躙の力を再び弾けさせ、新たにその光から生まれた弾は力が跳ね返っていくかのように今の世界の住人に向かって飛んでいった。凄まじいまでの速さをもつ者だとはいえ――今の状況を理解することができなかったのだろう。全く反応できずにその青い光を受け、そして体を激しく震わせて、そのまま沈黙した。

 青い獣はゆっくりと傾けていた身を起こした。そしてそれから今まで身を寄せていた灰色の造形物から離れ、今の世界へと足を踏み出していった。その歩みの途中で、周囲では緑の海が蹂躙され続けていたが、その力の主達は青い獣には向かってこようとはしなかった。そして青い獣もまたそれらに対して力を行使しようとはしなかった。

 遥かな上から照りつける恵みを全身で受けながら、青い獣はすでに変わってしまった世界を歩いていた。その行き先をどこまで見ているのかはわからない。その黄金の眼が何を見ているのかはわからない。唯一わかるのは、その眼にはもう過去は映ってはいないということだけだった。


 今、一つの世界が終わろうとしていた。かつては青かった世界。蒼かった世界。それらは追憶の彼方へと葬られ、そして一匹の獣となった者は、その終わり逝く世界から旅立っていった。


あとがき 


 こんにちは。おはようございます。こんばんは。亀の万年堂でございます。生きていたのか死んでいたのか復活したのかよくわかりませんが、亀の万年堂です。
 まず、今回は予定していた、そして告知していた期間をかつてないほどにぶっちぎりでぶっちぎってしまったことを深くお詫びします。第二回1レス小説大会の結果が出るまでには済まそう、そしてそれは楽勝だろうと思っておきながらこの始末です。コツコツと更新していく方はともかくとして、私のように一発でドーンと作品を載せる方、どうか私のようにはならないようにしてください。期待して待ってくださっていた方々には本当に申し訳ない限りです。頭をPCラックのキーボード収納スペースにぶつけたまま作品の解説に移りたいと思います。


・『薄毛小説家の苦悩』
 第一回1レス小説大会にて優勝させていただいた作品です。大会の時はスリーパーの視点のみでしたが、今回は再収録ということで編集者であるペリッパーさんの視点も出してみました。小説板の中で編集者としての編集に携わっている方はとても少ないと思うのですが、もしもいらっしゃったら少しはペリッパーさんの気持ちもわかるのではないでしょうか。
 ちなみに私はペリッパーさんの視点の冒頭にあるスリーパーさんの電文を実際に受け取ったことがあります。その時は相手の携帯電話に50回くらいコールしましたが出ませんでした。もしも私がペリッパーだったら間違いなく”そらをとぶ”をしているところです。
 なお、字数・byteについてはスリーパーが1820文字の3936byte で、ペリッパーが4,590文字の9,588byteでした。スリーパーさんはともかくとして、ペリッパーさんのは1レスではおさまりきりません。おしゃべりさんですね。

・『てれぽーと』
 亀日記20010年2月16日に掲載した短編です。本当はこれを第一回1レス小説大会に出すつもりだったのですが、何の因果かこのようなところに出てくることになってしまいました。当時私は、今よりもステップアップするために、自分の強みだと思っている”会話文を用いた会話”を一切出さずに小説を書いてみよう、練習をしてみようと思っていまして、この作品はその一環で生まれました。しかしながら、会話文を使わない=一人称とこの作品ではなってしまい、ちょっと本来意図するところとはずれてしまいました。結局何も変わっていないじゃないか、という話です。
 それはさておき、この話ではポケモンって”わざ”を使う時どんな気持ちなのかな、というところを考えてみました。キャラの心情についてもそうなんですが、こうやって”わざ”一つとってみても、よく考えてみると結構面白いものです。そのうちまた別の”わざ”を出すかもしれません。”しっぽをふる”とか。
 ちなみに、サーナイト自体、そのいわゆる”努力値””個体値”はともかくとして、私の世界ではかなり強力なサイキッカーなんですが、このお話ではあまりそういうところが出てきていませんね。そこんところがちょっぴり残念だったかもしれません。

・『勇気の代償は』
 今回の投稿が遅れた最大の原因です。この作品のためにPS3用ゲーム『ト○リのアトリエ』のRed Zone という曲を40000回くらいリピートすることになりました。楽しくもカッコイイいい曲です。
 それはともかくとして、この作品も『てれぽーと』と同じく会話文が一切ありません。私にしては極めて稀なことです。さらに描写をいつもの、某作者様がいうような”く○の○ーさん”のような雰囲気ではなく、努めて”キリッ”とした形に仕上げてみました。要するに小難しい言葉やら比喩やらがてんこもりということです。大変読みにくいことが予想されます。残虐描写のところは書いていて「うへへ」ってなりました。結構ああいうグロっちいのを書くのは面白いです。いや、専門の方に比べたら全然稚拙なんですけれど。

 ちなみに、この『勇気の代償は』については『地面に電気を通す方法(レシピ)』と同じく、さる作者様からのリクエストによって生まれました。リクエストの内容としては”ルクシオを出す(にょきにょきが生えている方)””会話文無し””一人称じゃない”というもので、それを受けて私が”レントラー(にょきにょきがない方)を出す”を加え、このようになりました。『てれぽーと』の時は一人称の会話文無しだったので、そこからさらに条件の難易度をあげてみようということでの挑戦でした。
 ”高い所からオッコチタ情けないヘタレなるくしおを、カッコイイ女の子のレントラーが助けるけど、その馬鹿るくしおのせいでレントラーはての届かない所にいっちゃって、男の子は女の尻をおっかけて飛び出していく。ついでになんか強い力も手に入れる。”というストーリーは話を受けて5分足らずで構築されたのですが――依頼者K様はよくよくご存知のはず(笑)――描写についてはなかなかに困りました。何分、これまで散々色々な場所に書いていますが、こういった描写が私はまだまだ未熟なものですから、読めるような形、しかもストーリーを追っていけるようにするというのは難しかったのです。それでも、一応今回は形になったのではないかと思います。あうあう。
 なお、当然のように今回のルクシオとレントラーはレポート本編にも出てきます。どっちも文中から察することができる(?)ようなチートポケモンです。


 以上、作品の紹介でした。久しぶりの投稿でしたが、いかがだったでしょうか。今回は3本立て(本当は4本だったんですが)という初の試みで、携帯ユーザーの方には申し訳ないことをしてしまいましたが、楽しんでいただければなーと思います。
 なお、今回入れ損ねた『決戦前夜』については、また同じような機会を設けて投稿したいと思います。その前にレポートNo.8を出したいところです。夏が暑いです。コ○ケもきっと暑いし熱いでしょう。ジャンルがジャンルなだけに高確率で遭遇するのがこの世界の恐ろしい所です。最近は人数もおかしいくらい増えましたけれどね。この影響でケモノ系のなにがしかが膨張しt

 暴走しそうになったところで終わります。またどこかでお会いしましょう。次回も私の世界にお付き合いしていただければ幸いです。亀の万年堂でした。


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何かありましたら投下どうぞ。

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 読了いたしました。
    最初に題を出させて頂いた時はまさかこのような物語になるとは思ってもみませんでした。
    と言うのも作者様は失礼ながら童話調、むしろ絵本体とでも呼ぶべき独特の表現で、
    メインである【テンテンテテテンのレポート】を書かれていらっしゃるので、そのイメージがあまりにも強すぎたのです。
    勿論おはなしの構築速度については私の知る限りでは他に並ぶ人が居ない位凄いのですけども。本当に速攻で組み立てる事が出来る(口が全く止まらない)素晴らしい人ですよ、と褒め殺しておきます。ええ、ちゃんと読めるし私好みの堅めで捏ね繰り回した文章と言いまわしになっていましたよ。自信を持ってくださいね。

    ただどう考えても読者を置き去りにしているのが気になりました。
    よっぽど作者の作品に慣れた人で無いと【勇気の代償は】は最初の10行でバイバイ、になりそうな感じです。
    こういう表現の力加減はとても難しいですが、少し濃過ぎる側に傾いているきらいがあります。
    もう少し掴みを頑張ってください。貴方は出来る人なんですから。
    ――依頼者 ? 2010-07-18 (日) 00:02:50
  • >依頼者様
    早速のコメントありがとうございます。
    確かに今回依頼をいただきました『勇気の代償は』につきましては、普段の私の作品とは大分かけ離れた雰囲気をもつものになったと思います。私が意図するところとして、その普段の雰囲気から敢えて脱却してみようというものがありましたので、ある意味ではそのように感じていただけて幸いでした。いい意味で期待を裏切れていたのならさらに良いのですが・・・。
    描写や言い回しについては依頼者様の好みのものであったということで、一番の目的は達成できたようですね。ただ、指摘していただいたように、そこに沿うことを考えすぎた結果、他の読者様が寄り付きそうもないものとなってしまいましたが・・・。自分がどこまで濃くできるのかと試した部分も多分にありますが、次回にまた”キリッ”としたお話を書く時には、今回のことを教訓として頑張っていきたいと思います。
    繰り返しになりますが、長いコメントをありがとうございました。またのご依頼をお待ちしております。
    ――亀の万年堂 2010-07-18 (日) 09:37:08
  • サーナイトのがいちばん短いのにいちばん味があるw
    ―― 2010-07-18 (日) 16:07:22
  • >名無し様
    『てれぽーと』を気に入ってくださったようでありがとうございます。
    確かに他2作と比べてみますと短いため読みやすく、入ってきやすかったかもしれません。
    コメントどうもありがとうございました。
    ――亀の万年堂 2010-07-19 (月) 23:40:12
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Last-modified: 2010-07-17 (土) 00:00:00
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