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薄ら氷、味蕾に口溶けて

/薄ら氷、味蕾に口溶けて

♂×♂、R-15?


「ではここを、ロコンくん」
「ふぁいっ?!」

 中天をやや過ぎた陽光が射し込む教室。後方の席で舟を漕いでいた幼い身体が跳ね上がる。
名を呼ばれ咄嗟に返事をし、眠気でくらくらする視線を前に向けると、切り株の教壇でチョークを持つマフォクシーと目が合った。

「さっきの問題の答えだけど、分かる?」
「え、えっと」

 戸惑いながら教科書を捲るが、彼女の言う"問題"が何を指しているのか見当もつかない。
ロコンの慌て振りから全てを察した女教師は、透かさず次の生徒を指名する。

「んー、ではケオンくん」

 ケオンという名前に、ロコンの三角耳がぴくんと動いた。
指名を受けた白狐の仔が立ち上がると、ロコンの巻き毛とは対照的な、細雪のような髪と尻尾がふわりと揺れた。
 とある絶海の果てに浮かぶ群島では、真っ白な雪をケオケオと呼ぶらしい。
つい一月程前にこの街へと移り住んできた白いロコンの少年は、そこから名前を肖ってケオンと呼ばれるようになった。

「モモンの実、です」

 ロコンよりも少し低目の、凛と響き渡る声。
教室にいる子供の中でも大人びた精悍な目鼻立ちで、勉強とバトルに秀でた文武両道。おまけに両親がダンジョン研究者とあって探検家の素質も抜群で、他の生徒からも受けが良く教室にも直ぐに溶け込んだ。
――だが、ロコンは彼が苦手だった。

「正解、ありがとねケオンくん」

 ケオンが座り様にちらりと目線を後方へ動かすが、ロコンは咄嗟に首を背けて見ていない振り。
一方のケオンは何時ものようにロコンから避けられた事を察し、諦めたように再び前を向く。
 そんな様子を教壇から見ていた女教師は、両者の関係を気に掛けながらも授業を進めた。

「毒消し薬が無くなったときは、モモンの果実を食べることでも毒を和らげることが出来るの。明後日の体験学習で皆に入ってもらうダンジョンも、敵が居ない代わりに危険な地形と植物で沢山だから覚えておくといいわ」

 例えばこんなのがね、とマフォクシーが黒板の一角を指し示す。
その先には花弁に斑点を纏った蔦植物が、色付きのチョークで精巧に描かれていた。

「沼地なんかに生えてるこの花はとても綺麗だけど、根元の棘に刺されると猛毒と麻痺で気付かないうちに動けなくなって命に関わるの。他にも色んな植物があるから、明後日はちゃんと薬の準備を忘れずにね」
「はーい!」

 子供の返事に呼応するように、今日の終わりを告げる校舎の鐘が鳴った。



「ねえ、ロコン君。ちょっといいかな」

 子供達が三々五々と捌けていく中、教科書や糸巻き鉛筆を木鞄に押し込んでいたロコンの傍にマフォクシーが歩み寄る。
きっと、居眠りを叱りに来たのだろうと、少年は帰り支度を進めていた前脚を止め、覚悟して耳を伏せる。

「ケオンくんと、まだ仲が悪いの?」
「え……」

 きょとんとして首を上げると、緩やかな笑みを浮かべた顔。
彼女はロコンと目線を合わせる為に膝を折って腰を下ろすが、それでも少し顔は下向きになってしまう。

(ふふ、小っちゃいなぁ)

 同じ姿勢でケオンと会話した時は、目線を合わせられたのだが。
個体差なのか、それとも一つ二つ歳が離れると身長の差が付く年頃だからか、ロコンはケオンと比べて一回り小柄で、身体付きも中性的。だがこの容姿が、ケオンとの確執を引き起こしてしまったのだ。

「気にしてないもん、あんな奴」

 少年は教師から目を逸らして、ぷいと横顔を見せる。
言葉とは裏腹に、垂れ萎む尻尾と僅かに角度を落とす小さな耳。
少年は口こそ強がってはいるものの、身体の動きは驚くほど心に従順だ。
実に分かりやすいと、マフォクシーは思った。

「まだケオン君のこと、怒ってる?」
「怒ってない」

 横顔で丸い瞳をマフォクシーに向けながら、耳がくるんと一回転。怒ってないのは本当らしい。
ならばケオンを避ける訳は何なのかと、狐の教師は口に手を当てて考え込んだ。

 切っ掛けは間違いなく、ケオンが転校してきた初日にロコンを女の仔だと勘違いしてしまったことだ。
ケオンは直ぐに謝ったが、丁度自身の容姿を気にする年頃になっていたロコンは火を噴くほどに怒ったらしい。
以来、二匹の間にはぎくしゃくとした空気が漂っている。

(うーん……)

 頭に浮かんだ推論をいくつか絞り込んでいたさなか、彼女の眼が窓外で会話をしながら移動する先生の一団を捉える。
今日は午後から体験学習の事前会議が控えていることを、今更になって思い出した。

「あ、ごめんねロコン君。先生会議あるの忘れてた見たい」

 消化不良で終わってしまった事に後ろ髪を引かれつつ、隣の机に置いていた教材を手早く纏める。
そして窓の横に設けられた二足用の入口に差し掛かかる手前で、思い出したかのように振り向いた。

「ロコン君、少しは素直にならなきゃだめよ?」



 教室に一匹だけとなったロコンは、先生の言葉を反芻しながら前脚で机の鉛筆を転がした。

(素直にってなんだよ。ホントに怒ってないし)

 ロコンが女の子として間違われたのは、何もあの事件が初めてでは無い。
種族としての性別の偏りに加え、幼さが残る外観と同い年と比べて高めの声質も相まってか、初見の相手は大体がロコンを雌だと勘違いしてくる。
少年もそんな扱いに慣れてしまって、揶揄ってくる友達を怒るフリをして追い掛け回すのが日常茶飯事だった。
だが、当たり前がある日そうじゃなくなった。

――よ、よろしくな、ロコンちゃん。

 照れ気味に耳を伏せながら目を泳がせつつ、振り絞るような少年の声。
姿形が似通ったちょっぴり年上の少年にそう言われた時、ロコンは自分でも訳が分からない位に体温が昂った。
そして、抑えきれない熱を逃がすために本能的に炎を吐いた。それが事の顛末だ。
 ロコンが恒常性を保つ為に狐火を吐くことは良く知られている物の、傍から見れば怒ったロコンがケオンに攻撃したと判断されても仕方が無く。結局、その一件は学校中を駆け巡って尾鰭が付きまくった挙句、『ロコンマジ切れ事件』として皆の記憶に定着していった。
 あの日以降、姿形が似通っている筈の両者の関係は平行線を辿り続ける。
だが、特定のポケモンと距離を置くことは悪い事ではない筈だ。あまり話をしない友達は学校に幾らでもいるし、ケオンもそんな一匹に数えてしまえばいい。
頭では分かっている。分かっているのに。

 首を持ち上げて黒板を見ると、使い古したスポンジでは拭い切れないチョークの粉が雪煙の様に黒板を覆い尽くしている。
それがどうにも白いロコンの尻尾を連想させ、思わず溜息を零した。

(なんで、ケオンの事が気になるんだろ)

 授業で当てられて立ち上がる姿、バトルで後方にステップを踏む姿、昼食の木の実を頬張る姿。
ケオンと同じ空間に居る時は、知らず知らずのうちに視線が彼の姿を追っていた。
彼の存在を意識の中から追い出そうとしても、気が付けば頭の中に入り込んでくる。
変な技でも掛けられたのかと思いタブンネの所に立ち寄ったが、至って健康だねと褒められてしまった。
ならばと、街の小さな図書館でお気に入りの冒険小説を読み漁ってみるも、似た感情は嫉妬や怒りという尖った形だけ。
本の中で瞑想を通じて苦手な物と向き合う主人公の真似をして、昨晩はベッドの中で一晩中ケオンの事を考えてみたが、目が冴え渡って眠れなくなる始末。

「はぁぁ」

 今度は深めの溜息を吐くと、机に横付けした木鞄の口に学校の道具を放り込んでいく。
雑多な物で溢れ返る鞄の中身。
よく母親から整理しなさいと口酸っぱく注意されるが、その度にひっくり返せば全部出てくるから心配ないと言い張っていた。

(心の中も全部ひっくり返せればいいのに)

 そうすれば、ケオンへの自分の気持ちも、見つかるかもしれないのに、と。
そやって再び白いアイツの事を考えてしまった自分に、いい加減嫌気がさしてきた。

 ぶるぶると頭を振って思考を紛らわすと、木鞄の下に潜って紐を身体に固定させる。
身体を揺らして付け心地を確かめると、開かれた窓からグラウンドを横切って、街へと続く坂道を駆けて行く。
今日のおやつは大好物のモモンだと母親が言っていたのを思い出し、少し足取りが軽やかになった。



 模擬探検を控えた前日。
この日の最後を締め括る体育ではチャーレム先生の指導で簡単なヨガを行い、明日の体験学習に備え早めに解散。
――の筈だったのだが。

「行くよパラス!」
「がってん、首尾よくやりや!」

 グラウンドに引かれた大雑把な枠線の中で、パラスとホゲータが二手に分かれる。
狙うは、只一匹の対戦相手である白いロコン。

「へー、今回は正面からじゃないんだな」

 ケオンは構えることも無く不敵な笑みを浮かべるが、その目線の動きに隙は無い。

「あたぼうよ。負けっぱはつまらんけんね!」

 白狐の真横に滑り込んだパラスが小刻みに身体を震わせて、臀部のキノコの胞子を一面に振り撒く。
眠気を誘う霧がケオンの視界を封じ込めるが、状態異常が狙いではない事をケオンは見抜いていた。
瞳を閉じ、息を止めて数拍。パラスと正反対の方向から迫り来る大きな気配。

「貰ったァ!」

 ホゲータの大顎がケオンを捉える寸前に、白い影が上へ飛ぶ。
ケオンを見失って動じる鰐の背中に、冷たい四足の感覚が走った。

「ナイストライ」

 技を撃つまでもなく、四肢の脚力だけでホゲータを背後から突き飛ばす。
速度に乗りすぎて制御できないまま霧の外に飛び出した赤鰐は、行く先に居たパラスを巻き込んだ。
そのまま二匹仲良く奇怪な声を上げながら白線の外まで転がり落ちる。
決着は一目瞭然だった。
 観戦していた子供達が一様に沸き上がり、少年の周りに駆け寄って好き好きに囃し立てる。

――胞子の中なのにアレを避れんのすっげえ!
「へへっ、音を上手く掴むんだよ」
――2対1で、も勝てるとか、もうケオンが最強じゃん
「さっきはホゲータちゃんが炎タイプの技使ってこなかったら何とかなったんだ」
――へー。でもケオンなら炎タイプの強い奴とタイマンでやっても勝てそうだよな
「んー、差しならチャンスがあるかもな。この学校で一番強い炎タイプって誰?」
――んーっと、確かロコン
「えっ?」

 少し離れた木陰で茫とバトルを見守っていたロコンは、突然注目の的となり戸惑った。
当のケオンも、予想だにしていなかった名前が浮上し当惑の色を隠せない。

――なあ、ロコンとケオンってどっちが強いの?

 そんな誰とも分からないポケモンの一言で、全員の興味が両者の対戦へと注がれる。
乗り気ではないロコンは足早に立ち去ろうとしたが、先程ケオンに叩きのめされた虫と鰐が少年に纏わり付いた。

「頼むでロコンはん! 敵討ってくれたらワシのキノコの一本譲ったるけん!」
「いらないよそんな汚いの」
「きた……」

 愕然と固まったパラスに代わり、今度はホゲータが説得に掛かる。

「じゃあロコン君が好きなモモン4つでどう!?」

少女の提示した条件に、ロコンの脚がぴたりと止まる。

「4つって、当てはあるの?」
「今度行くダンジョンの崖際の何処かに、結構大きいモモンの木が生えてるって噂なの。勝ってくれたらその木の実全部上げてもいいわよ!……ごめんやっぱ半分」
「噂かぁ。ま、いいや。乗った」

 くるりと踵を返し、ホゲータと並んで元来た道を辿って行く。

「でも、ケオン君かなり強いよ。いける?」
「大丈夫、アイツのバトルはずっと見て来たから」

 確かにケオンの戦闘技量は飛び抜けているが、ロコンもバトルに関しては腕に覚えがある。
少し年上とは言え似通った種族で、しかも相手は氷タイプ。
絶対に負けたくなかった。

 ロコンがエリアを示す白線の中に踏み込むと、ケオンも少し遅れてフィールドに入る。
そういえば、彼と向かい合うのは、あの事件以来初めてだ。
 ロコンは四肢を曲げて体高を落とし、6本の尻尾を扇状に膨らませて臨戦態勢になると、同時にケオンも低めに姿勢を構えた。

勝負は、一瞬で付けてやる。

――始め!

 開始早々にロコンの周りに3玉の紫黒の火球が現れ出でると、それぞれが屈折の軌跡を描きながらケオンへと飛び掛かった。
追尾性の炎技を迎撃するために、ケオンは凍える風を巻き起こして技と技との相殺を狙う。
ロコンの読み通りの動きだった。
 氷と炎が打ち消し合って爆散する直前、ロコンは一足飛びの電光石火で鬼火の爆風に飛び込むと、火傷を自らその身に纏う。
普通のロコンでは決してできない特別な戦法だ。
鬼火と氷が蒸散する黒煙の中で二足目を大きく踏み込み、ケオン目掛けて二度目の電光石火で肉薄した。

「なっ、ぐっ!」

 ケオンは突如として眼前に現れたロコンに動揺し、電光石火の直撃を受ける。
姿勢を崩したケオン目掛けてロコンは更に一歩踏み込み、前脚を軸とした空元気の回転蹴りを放った。
状態異常により強化された一撃は、当たれば一撃必殺の威力。
しかし、後ろ脚が空を切る。避けられた。

「くそっ」

 何らかの技を使って逃げられたと察し、蹴りの後の隙を殺すために三度目の電光石火で横へと逃れる。
だがそこは、祟り目によって影に潜航することで回避を図ったケオンの出現先でもあった。

「えっ」

 二匹の声が重なって、間髪入れずケオンの纏っていた霊属性のエネルギーが小さなロコンを弾き飛ばす。
試合開始からものの十数秒で、火狐の身体が地面へ転がった。
見守っていた子供たちも、何が起こったのか理解できていない。

「ロコン! 大丈夫か!?」

 衝撃で身体が動かないロコンの元に、ケオンが駆けつける。
氷タイプにあっけなく負けたという事実が、火狐の心を締め付けた。

「オ、オレはへーきだし」

 覚束ない脚で立ちながら震える声で平然を装うが、誰の目から見ても強がりなのは明らかだ。
ロコンの俯いた顔から、ぱたぱたと涙が滴り落ちる。

「ごめんなロコン。保健室、一緒に行こ」

 言って、ひんやりとした感覚が横からロコンの身体を支える。
少年を泣かせてしまった彼なりの精一杯の配慮なのかもしれないが、そんな優しささえ、今のロコンには耐えきれない。

「ロコン!?」

 気が付けばグラウンドを飛び出して、一目散に家へと続く下り坂を駆けていた。
こんな顔を、ケオンに見られたくなかったから。



 楽しいはずの探検学習は、ホゲータにとって辛い時間となった。
なんせ今日のダンジョン探検のパートナーが、よりによってロコンなのだから。
 森のダンジョンの中を先導する年下の仔狐の尾は、明らかに普段よりも萎んでいる。

(き、気まずい)

 とはいえ、元はと言えば彼女の所為である事は確かだ。
無理やりロコンをケオンとのバトルに駆り立てて、負けたことによりロコンを泣かせてしまった。
勝利したはずのケオンも何故か深く落ち込んでしまい、文字通り勝者のいないバトルとなる有様。
そして、その元凶がモモンで釣った自分という訳だ。

(こりゃ、何とかせねば)

 手始めに、目の前の仔に笑顔を取り戻す。
固く決意したホゲータは、確たる眼差しでリンゴを真っ二つに齧り取ると、それぞれを片手に持ってロコンの前に進み出る。

「ロコンくん、見て」

 少年がゆっくりと顔を上げた。

「サザンドラ!」

 真っ二つに切れたリンゴが二つに、その断面と良く似たホゲータの顔。
ロコンは彼女の言いたいことを察したものの、昨日の今日で冗談に乗る気力など無く。

「うん」

 そう一言だけ発して、ロコンは再びダンジョンを進み始めた。

(くっ、負けん。私は負けんよ!)

 ホゲータは挫けそうになる心を奮い立たせ、リンゴを口に放り込んだ。

「んんっ!? うまっ!」

 ついでにもう一個。



 その後、ホゲータの顔芸を駆使した並々ならぬ努力により、探検学習の目的である旗を手に入れた頃にはロコンは少しだけ笑顔を見せるようになっていた。
そこからゴールである学校までの道のりを、夕日を背に雑談を交わしながら二匹は進む。

「そんな事があったから、パラスって今でもケツキノコって言われてんのよ」
「えー、何それ……あれっ?」

 丁度、大木の脇に差し掛かった時だった。
足元に妙な染みがあるのを見つけ、ロコンが顔を近づける。

「これ、ミニーブちゃんのオイルだ」
「あら、ほんとだ」

 よく見れば、オイルの跡は大小を繰り返しながら点々と続いている。
だが振れ幅は大きく、動揺しながら森の中を歩いてきたようだった。
と、その時。大木の中で音がした。
 二匹は二手に分かれて木の裏に回り込むと、ホゲータが樹幹に空いた洞を見つけた。
その中には、横たわる若草色のポケモンが一匹。

「ミニーブちゃん!」

 ホゲータは慌てて少女の傍らに駆け寄る。
彼女のエネルギー源である頭部のオイルは既に空っぽだった。

「何があったの!?」
「う、あ。ホゲータちゃん、ケオンくんが、崖から……落ちちゃって......」

 どきりと、ロコンの身体に電流が走る。
慌ててミニーブに詰め寄った。

「崖から落ちたのか!?」
「う、うん、あたし、止めようとしたのに……」
「何処で!」
「わ、わかんない。崖から必死で走ってきて。それで、それで……うぅ、うええっ」

 混乱して泣き出した幼い少女を、ホゲータがそっと抱き締める。

「ロコン君……」
「分かってる」

 ケオンが崖から落ちたのは理解したが、それだけでは捜索範囲が広すぎる。
何か手掛かりはないかと視線を走らせ、地面の一点に目が留まった。

「ホゲータはミニーブと戻ってて」

 言ってロコンは身を屈め、地面と平行に細い火炎放射を吹く。
一直線の炎が地表を掠めた直後、地に染み込んだミニーブのオイルが燃え立った。
仄暗い森の中で点々と続く燈火は、ミニーブが来た道、そしてロコンが行くべき先を照らし出す。

「オレはケオンのとこに行ってくるから」
「う、うん。暗くなってるから気を付けてね」

 彼の返事を聞く前に道標に沿って飛び出すと、次の火炎放射を詠唱する。
口端から炎を零れ落としながら、少年は森の奥へと駆けて行った。



 陽が沈み始めた森の中、茂みを潜り、倒木を飛び超え、道標となるオイルに火を燈しながらロコンは木々の間を駆け抜ける。
しかし沼地を横切った時に鋭い痛みが後ろの肉球に走り、次いで殴られた様な鈍痛が脚全体に広がった。

「うっ!?」

 立ち止まって肉球を見ると、薄っすらと滲む血が小さな球を作るが、大した傷ではない。
痛みも一瞬で引いて今は何も感じない。恐らく小さな植物の棘でも踏んだのだろう。
顔を上げて元来た道を見ると、釣鐘型の花びらに斑点を付けた珍しい花が目に付いた。
何処かで見たような花だったが、今はそんな既視感に構っている暇はない。
再び、ロコンは全速力で駆け出した。

 暗く鬱蒼とした森を走るうちに、ロコンの身体の中で違和感が広がる。
疲労が蓄積している筈の後ろ脚から、筋肉の痛みを感じなくなったのだ。
前脚は依然として、走り続けた疲れが肉を圧迫しているのにも関わらず。

呼吸も心なしか浅くなり、平衡感覚も可笑しくなっているような。

 そんな矢先に視界から木々が消え、地面を割ったような絶壁が広がる
どうやら、ここがゴールらしい。
 崖の端に立って数十メートル先の底を覗き込むが、ケオンらしい影は見当たらない。
だが。

(あれは……)

 崖の壁面に根を穿ち、何もない空間へと向けて枝を伸ばすモモンの木。
所々に実を付けた木は途中からぽっきりと折れ、白い樹幹が剥き出しになった先端に鞄が一つぶら下がっていた。
きっとここからケオンは転落したのだろう。
 陽の光が当たらない崖底を照らし出そうと、崖際から身を乗り出して火の粉を放とうと口に火を溜めた時だった。
強烈な吐き気が全身を貫いたかと思えば、平衡感覚が消え失せる。

(あ――)

 ぐらりと、視界が横転した。
次いで開けた崖の虚空へと、吸い込まれるように身体が投げ出される。
たった一瞬の時間が、まるでトリックルームの中に居るみたいに引き延ばされて――

「ロコン!」

 落ちていくだけの身体が、誰かによって掴まれた。
そのままずるずると壁面に沿って引き上げられ、再び地面を前脚が踏みしめる。
後ろを振り向くと、尻尾の一本を咥えたケオンの姿が。

「死ぬほどびっくりした。何やってんだ、こんなところで!」
「オ、オレ。お前が崖から落ちたって、ミニーブから聞いて、それで、それでっ……!」

 ロコンの目尻からぼろぼろと、止めどない涙の粒が零れ落ちる。
ケオンが目を見開き、急いで少年に寄り添うと、ロコンは彼の白い胸に鼻先を突っ込んだ。

「オレの方がぁ、ケオンが死んだって、死ぬほどびっくりしたんだぞ!」
「ご、ごめんな、ロコン」

 泣きじゃくる仔狐と、謝る仔狐と。
お互いの尻尾は、仄かに揺れていた。

「ほら、これ」

 言って、ケオンは直ぐ傍に置かれていたモモンの枝を咥え上げる。
丸々と熟れた果実が数個、甘い匂いを放っていた。

「最初に会った時と、そして昨日のバトル。俺、絶対ロコンに嫌われたって思ってさ。だからロコンがモモン好きだって聞いて、探してたんだよ。それであそこにいい感じの生えてたから、取ろうと思ったらぽっきり行っちゃって......。祟り目と高速移動で軟着地できなかったら、多分死んでた」

 登の大変だったけど、と笑って見せるが、ロコンにとっては笑い事ではない。
再び泣き出しそうになるロコンの口先に、ケオンがモモンの枝を差し出す。

「ほら」
「うん」

 枝を口にはさみ、ゆっくりと顎に力を掛けた時。
――咥え込めない事に気が付いた。
 どさりとモモンの枝が落ち、その真横にロコンが倒れ込む。

「ロコン!? お前、脚が!」

 言われるがまま後ろ脚を見ると、肉球が見たことも無い深紫に変色していた。
そこで、沼地で見たあの花の正体を思い出す。その根元には麻痺と猛毒の棘がある事も。
気が付かぬうちに、身体を蝕んでいく事も。
違和感の正体を知り、全身に悪寒が走った。

「あ、あ」
「ロコン!」

 ロコンの症状から状態を察したケオンは、急いで房から実をもぎ取ってロコンの口に当てがった。
ロコンは顎に力を込めるが、既に首元まで侵食してきた毒に阻害され、嚙み切ろうとする意思だけが空回りする。
モモンに牙は食い込むが、皮を破るには至らない。
やがて顎の力が尽き、口から実がごろりと地面に零れ落ちた。
モモンがロコンの鼻先に転がるが、拾い上げる力すら毒に侵されて絞り出せない。
無力感と絶望に滲む視界の中、歯形の付いたモモンの実にケオンが前脚を添えた。
そして、その実に食らいつく。

「け、お……」

 少年の方に視線を向けつつ、白狐はモモンを喰齧って咀嚼を続ける。
果実の半分に達した時、ケオンは改めてロコンに向き直ると、少年の肩を押し込んで仰向けに寝かせた。
ぐっとロコンに顔を近づけ、短く薄い褐色の鼻先と、白いマズルを交差させる。
口と口が繋がった。

「――――」

 冷感が唇を覆ったと思えば、冷やされた果肉がどろりと口内に広がった。
舌を下る果汁が味蕾を辿り、優しい甘味が毒の痺れを解きほぐす。
ケオンの舌の動きで、柔らかい塊が喉元に押し込まれる。
ぱっと、唇が離れた。

「飲んで」

 言われるがままに、ロコンの喉が上下する。
ひんやりとした冷感が喉から胃へと流れ込むと同時に、全身の懈怠感が少しだけ和らいだ気がした。
胸の圧迫感が消え、呼吸を意識せずとも空気が自然と肺に満ちる。

「次、行けるか?」

 首を小さく縦に動かすと、再びお互いのマズルが重なる。
冷たい甘みを感じならが、ロコンはすっと目を細めた。

 口移されたモモンを飲み込む度に、ロコンの容態は回復していく。
だが一方で、今までとは違う苦しさが、少年の胸を押し上げる。
 そんな火照る身体にケオンが覆い被さって、再び口先同士を寄せた。
大好きな甘味を期待しながら口を開く。
だけど舌先に感じたのは、一層強い冷感の滑り。
ロコンは驚いて目を開くが、ケオンは構わず舌を這わせる。
胸の締め付けが一層強まり、激しく脈打つ心臓がはち切れんばかり。
 やがて離れた両者の間を、荒い息が往来する。
月の光が桃色に染まったケオンの頬を照らし出した。

「ロコン、好きだ」

 ケオンがロコンの頬に鼻を埋め、次いで自分の頬とを摺合せる。
心地良い冷感が伝わるが、身体の熱はどんどん高まっていく。

「多分、最初に会った時からずっと。ロコンを泣かせちゃったときは凄く後悔して、猛毒で倒れた時は怖かった。だからさ、俺の事心配してくれてたのが分かった時、本当に嬉しかったよ」

 ケオンの顔が正面に来ると、その大きな蒼色の瞳には自分の顔が写り込んでいた。
そこに来て、ロコンは自身が微笑んでいることに気が付いた。
先生の言っていた素直になるという意味が、やっと分かった。

「ケオン、オレはね」

 少しだけ動くようになった首を動かし、鼻と鼻とを近づける。

「ケオンが大好き」

 口と口とが繋がって、今度はロコンがケオンへと舌を絡み付ける。
ケオンの舌はまだ少しだけ、モモンの甘い味がした。


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Last-modified: 2022-06-25 (土) 23:22:26
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