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落体T

/落体T

Writer:朱烏


 落体T



零 滑水体 


 空から落ちてくるものは素敵なものが多い。僕は疑うことなくそう信じている。
 ひんやりしていて気持ちがいい雨は、地に落ちるとぽたりぽたりと心地よい音を立てる。
 鳥ポケモンの羽根が落ちてくることもある。黒かったり、赤かったり、綿毛のような羽だったり、銀色の硬い羽根だったり。どれも個性的で、どんな鳥ポケモンが落としたのだろうと、僕は小さな頭で想像を掻き立てる。
 冬になると綿毛のようなものが降ってくる。けれど、ちょっと冷たすぎる。僕はひんやりしているものは好きだけれど、ひんやりしすぎているものは少々苦手だ。
 だが、光が反射してきらきらと光り、ふわふわしていて柔らかく、モンメンのように風の中をゆるりと流れる様は、僕の気持ちを優しく刺激する。冷たすぎたって素敵なところはいっぱいあるのだ。
 今日はどんなものが空と地のあいだを彩るのだろうか。雨か、羽根か、はたまた季節外れの雪か。
 しかし、まさかそのどれでもないものに出会うことになるとは、このときの僕は思いもしなかったのだ。

 ある日のこと。
 いつもより水溜まりが少ないと思った。僕は、鬱蒼とした森林に囲まれた、さほど広くない湿原のど真ん中にたたずんでいる。死活問題と言うには大げさだ。でも、僕は水の上を四本の足で滑って移動するので、水溜まりがなくなってしまうのはあまり好ましいことではなかった。
 空を仰ぐと、西の方に黒黒しい雲がかかっているのが見えた。風も強くなってきている。じきに雨が降るのだろう。
 湿原の潤い、そして雨粒との出会いは、生きる理由そのもの。期待は高まるばかりだった。
 だが、呑気に構えていられるわけではない。頭のてっぺんから生えたアンテナがぴりぴりと反応している。本来ならば甘いにおいの蜜をだす役割を持つ僕のアンテナだが、このように動きは滅多にしない。どうやらただの雨ではないようだ。
「嵐がやってくるんだ」
 吹き飛ばされないように気をつけなきゃ、早く棲みかに戻ろう。僕はそう思ってみたものの、足はまったく動いていない。不気味な風の音を大地に響かせる空に、僕の目は釘付けだった。
 そうこうしているうちに空一面が真っ黒に染まり、たちまち土砂降りになった。完全に逃げ遅れた僕は強風に煽られ、よろけ、水溜まりに頭から突っ込んだ。
 今日の天気は機嫌が悪いようだ。もう少し穏やかな雨の降らし方はできないのだろうか。
もちろん、嵐を予知しながら逃げない僕が一番悪いのだけれども。
 時間が経つにつれ、水溜まりがどんどん広がって、やがて湖と見紛うほどの大きなものになった。強雨強風で激しく波立つ湖面を、僕は心を躍らせながら眺めた。一面滑り放題の、大きな大きな水溜まりだ。
 どれくらい経てば雨が弱まるだろうかと、目を凝らして空を見る。雲は分厚く、動きも鈍重だ。今し方降り始めたばかりなのだから、いつ止むのかを考えるのはいたずらなこと。けれど、どうしても気持ちがはやった。
 ほの暗い空気の流れ。まだまだ荒れる気配だ。
「やっぱり棲みかに……」
 戻ろう。そう決心したときだった。
 ヤミカラスを万も億も散らしたような空に、白い何かを見た。動いている。ポケモンだろうか。わかるのは色くらいで、遥か上空にいるので点のようにしか見えない。
 しかし、その点はどんどん大きくなっている。上空を飛んでいるように見えたそれは、どうやら着陸体勢に入っているようだ。しかも、僕のいる方に向かっている。とんでもない速度だ。
 なんだかふらついているようにも見えて――。
 いや、違う。あれは、目を閉じている――気を失っているのだ。着陸ではなく、墜落だ。
「助けなきゃ!」
 だが、どうやって? 脳を高速回転させる。しかし、考えていられる時間はない。墜落まで数秒もない。
 とにかく、受けとめなければ! そこまで思って、僕は消沈した。空から高速で飛んでくるものを受けとめられるだけの力強い手足など持っていない。僕は自らの細い四本の脚を恨んだ。
「誰か……」
 か細い声が、聞こえた。
 そして。

一 落体 


 雨は止んでいる。空が幾分か明るい。
 とにかく頭が痛い。しばらく気を失っていたようだった。僕は何をしていたのだったか。
 ああ、そうだ。墜落する白いポケモンを受けとめようとして――そのまま激突したのだ。
 そういえば、そのポケモンは――いた!
「ねえ、大丈夫!? 起きて!」
 ぐったりした様子で倒れているポケモンが、僕のすぐそばに。水溜まりに半身を浸らせた状態で、横向きに倒れていた。
 純白にうっすらと金色の色素を混ぜたような、不思議な色。羽毛は濡れて寝てしまっているが、細やかで綺麗だった。胴は卵のような形をしており、奇妙な赤や青の三角模様が描かれている。長めの首、そして頭頂部はぎざぎざしている。背中には――小さな翼。
 確か、トゲチックといったはずだ。一度見たことがある。ただ、トゲチックは雪のような純白の体色をしていたはずだが、記憶違いだろうか。
 しかし、そんなものはもはやどうでもよかった。体の至るところに大小さまざまな傷があり、綺麗な毛色は一部が深紅に滲んでいる。痛痛しいことこの上ない。
 目はまだ閉じたままだ。顔つきから見るに、雌のようだった。
「起きて」
 もう一度声をかけた。それが傷ついたトゲチックの耳に届いたらしい。
 トゲチックはおもむろに目を開いた。
 円らな瞳だった。雨に濡れそぼち、流れる血がまだらに染め上げるその体に、潤った瞳が映えていて――。思わず見惚れた。こんなに綺麗なポケモンがこの世にいていいのだろうか。途方もなく眩惑的――、
 などと考えていられたのはほんの数秒だった。精神的な意味でも物理的な意味でも、この出会いの衝撃はあまりにも非日常的で、僕の頭は一刻も早く現実感を取り戻そうと働いた。
「よかった、目が覚めたんだね」
 トゲチックはゆっくりと体を起こし、僕を見据えた。
 目をぱちぱちと瞬かせて、小さな口を開け閉めしている。何かを喋ろうとしているのだろうか。
「……逃げなきゃ」
「え?」
 トゲチックはそう言うや否や、翼を動かさずに浮遊し始め、静かに飛び立った――ように見えた。見えた、というのは、そう認識するには時間があまりにも短すぎたからだ。トゲチックは間もなく地面にぽとりと落ちていた。その間抜けな所作は、僕が抱いた可憐なトゲチックのイメージをわずかに崩した。
「だめだよ無理しちゃ! 怪我してるんだから」
「で、でも、逃げなきゃ……」
「逃げるって……」
 誰かに追われているのだろうか。もしかして、体の傷もそいつが原因なのか。こんな可愛らしいポケモンを傷つけるなんて――。
「ハンターが……来るかもしれないの。だからここにいると狙われちゃう……」
「ハンター? よくわからないけどそんな奴、僕がやっつけるよ!」
「……ありがとう。でも見ず知らずのポケモンを危ない目に遭わせるのは」
そのとき、そう遠くないところから、湿った空気を打ち震わせるような怒声が聞こえてきた。
「この辺りをくまなく探せ! 絶対に近くにいるはずだ」
 トゲチックの言葉尻は掻き消えた。
「そんな……ハンターが」
 今の声の主が、ハンター――。
 絶望に打ちひしがれているようなトゲチックの表情が、僕の心を強く締めつける。
 戦闘は決して得意じゃない。でも、追っ手を追い払うくらいはしなければ。
 声のする方に向かって一歩踏み出す。
「だめ! 行かないで……お願い」
 トゲチックは僕が行こうとするのを止めるべく、僕の細い脚を掴んだ。目を潤ませて懇願してくる。
 なんだってこんなときに色仕掛けじみたことをするのだろう。こっちが折れるしかないではないか。
「どこかに、隠れられる場所は……?」
 トゲチックは、戦ったり、追い払ったりという危険な選択よりも、身を隠すほうが賢明だと考えているらしかった。ここは一度彼女の考えに任せることにする。元から開けていない湿原には、身を隠せる場所は山ほどある。
「こっち」
 そして、最適な場所を思いついた。目立たぬよう、嗄れた怒鳴り声が絶え間なく聞こえる方とは逆の方角に向かう。僕の後ろをついてくるトゲチックは、この湿原ではいささか目立つ体色だったが、どうにかして発見されないようにと長い首を屈ませている。
 そうしてなんとか湿原の端を切り取る森林まで辿り着き、乱雑に生えている木々の根元――隆起している土や絡まりあった草の間に紛れた。
「流石にこっちまでは追ってこないと思うよ」
 そうは言いつつ、やはり声をひそめてしまう。
「……でも」
 見つかったらどうしよう、とトゲチックは続けるのだろうか。トゲチックの不安の度合いは、ここに隠れる前とほとんど変わっていないように見えた。その傷ついた体では、見つかってしまえば最後、逃げおおせないことをわかっているのだ。
 なんとかして安心させたい。
 トゲチックの不安を取り除くために、僕はもう一度腹を決めた。
「絶対に見つからないよ。もし見つかったって、僕が絶対に君を守ってみせるから!」
 知り合って間もない、見るからに非力そうなポケモンから『絶対に君を守る』と宣言されて、いったいどれだけのポケモンが安心できるのだろうかと自問する。
 頼りないことはわかっている。でも、どれだけ滑稽であろうとできることはこれしかない。
「絶対に……守ってくれる?」
 トゲチックは未だに不安げな顔を僕に向ける。僕は静かに、そして力強く頷いた。
 するとどうだろう。彼女の顔に――ともすれば見逃してしまいそうなくらいわずかな変化だったが――微笑みの色が灯った。
「ありがとう」
 トゲチックはふっと目を閉じた。

 不快な怒声が湿原をうろついている間、僕はずっと押し黙っていた。神経を尖らせ、トゲチックを探さんとする人影の行く先を注視する。空にはハンターの仲間と思しきポケモンたちが円を描いて飛んでいた。
 緊張は最高潮に達していた。見つかれば、トゲチックは連れて行かれる。そのときは当然戦うが、もし敵わなかったら――。最悪の事態が頭をもたげる。
 だが、張りつめた空気は唐突に緩んだ。
「ここにはいない! 他の所を探すぞ!」
 地鳴りのような声は、その仲間たちに移動することを告げて慌ただしく去っていった。
 ああ、ようやく乗り切れた。
「あいつら、どこかに行ったみたいよ」
 僕は、背後に身をひそめているトゲチックの方を振り向いた。トゲチックは血に染まった小さな翼を無造作に広げ、木の根元に寄りかかってずっと眠っている。体力的に限界に達していたのだろうが、それにしたってなかなか図太い神経をしている。
 西の空を見やる。太陽は煌煌と燃えていて、空もそれに倣って黄金色に輝いている。あれほど美しく映えた夕焼けは久方振りだ。
 ふと、トゲチックはいったいどれだけの距離を飛んでいたのだろうかと考えた。しかし、想像するには空はあまりにも果てしなかった。

 月明かりが湿原を照らす。鏡のような湖面が、湿原全体を青白く染め抜いていた。
 あの忌々しいハンター達はもう来ないだろうと、僕らは水浸しの草原に繰り出していた。
「そういえば、まだ名前聞いていなかったね。あ、僕はアメタマ」
 僕らが並ぶと、トゲチックの方が幾分か背丈は高い。草に滴る露がトゲチックへまとわりつき、月光を淡く反射している。目を逸らさずにはいられない。顔つきはあどけないのに、どうしてこんなにも妖艶で綺麗なのだろう。
「私は見ての通りトゲチック。助けてくれて本当にありがとう、アメタマ」
 顔がさあっと紅潮するのが自分でもわかった。お礼など改めてしなくてもいいのに。
「顔、赤いよ?」
「気のせいだよ! そんなことより、どうしてハンターに追われていたの?」
「それは……」
 トゲチックは大きな水溜まりに足を踏み入れ、まだ血で汚れている部分を水ですすぎ始めた。
「たぶん、私が色違いだからだと思う」
 色違い。ポケモンは何万匹に一匹という割合で、通常とは異なる体色を持って生まれる。彼女が変わった色をしているのもそれで納得した。
「それを差し引いてもトゲピーとかトゲチックって珍しいポケモンらしくて、よく人間から狙われるの。それだけでも参っちゃうのに、仲間と色が違うせいで余計に狙われやすいの。いつも気がつけばハンターに追われて、その度に逃げたり隠れたりする生活」
 月光に照らされたトゲチックの顔は、とても悲しい顔をしていた。まるで、生まれたときから世を儚むことを課せられていたように、悲しみが顔に馴染んでいた。それがまたひどく美しく感じるのはどういうわけだろう。自らの妙な不健全さに罪悪感を覚えるが、トゲチック自身が、周りにそう思わせてしまう不思議な魅力を持っているのだとも言える。
「仲間と力を合わせて戦おうとしても、こっち以上の敵の数にいつも押し切られる。初めから負け戦なんだよ。それでも最初の頃はよかったの。私の体を傷つけると価値が下がるからって、できるだけ穏やかなやり方で捕まえようとしてたから、隙をついて追い返せたの。でも、なかなか捕まえられないからって日に日に執拗になって、攻撃も厭わなくなって……」
 トゲチックの醸し出す雰囲気に飲み込まれて、僕は一言も言葉を発せない。トゲチックが完全に背をこちらに向けたので、表情はまったく見えなくなった。
「しあわせのこな、って知ってる?」
「……しあわせのこな?」
 トゲチックは聞いたことのない単語を口に出した。
「私たちの種族は、優しいひとやポケモンに幸せを分け与えるって言われているらしいの。そのとき、そのひとに振りまくのが光る羽毛。それをしあわせのこなと言うらしいの」
「素敵だね」
 雪よりも細やかな、きらきらと淡く輝く羽毛のような粉を想像した。ぎんいろのかぜに舞い散る銀粉のようなものだろうか。空から降ってきたらとても綺麗だろうなと思った。
「どうやら人間たちはそれが欲しいみたい。しかも色違いのものとなればすごく珍しい。だから喉から手が出るほど欲しい……、そう思われてる」
 人間は喉から手が出せるらしいことに驚きながら、トゲチックの物言いに違和感を覚えた。自分の種族のことを語っているのに、ほとんど断定的に喋らない。
「こなを人間に分けちゃえば追われないかも」
「幸せを分け与えるってこと?」
 トゲチックはこちらを振り向いた。その瞬間、心臓がぎゅっと締めつけられて苦しくなった。
 トゲチックは涙を流していた。とめどなく流れるそれは、水溜まりにぽたりぽたりと落ち込んだ。
「ないものを、どうやって分け与えればいいの?」
 星を散りばめた夜空を映す大きな湖面が、青白い愁いを帯びていた。
 
 トゲチックが幸せを知らないのか、それとも感じられないのか、僕にはわからない。
 再び眠りについたトゲチックの背中は寂寞としていて、今にも露と消えてしまいそうだ。血は洗い落せても、負った傷はまだ癒えていない。それでも、体の傷なのだからそのうち治るだろう。
 だが、心の傷はそう容易く癒せない。そして、日々ハンターに追われる恐怖と戦うトゲチックの心情を推し量る術を、僕は持ち合わせていない。
 どうしたらトゲチックは幸せになれるのだろうか。小さい頭で考える。考えて、考えて、考えて。
 それでも、よくわからなかった。
 僕の幸せは、とても簡単にできているのだけれど。
 雨の中を散歩し、鳥ポケモンの落とした羽根を拾い、粉雪に身を震わせる。全部楽しくて、幸せを感じられる。空が落とすものは、僕に幸せを運んでくれるのだ。
 あとは――トゲチックと一緒にいるときも、同じような幸せを感じている気がする。なぜだろう。
 もしかしたら、トゲチックも空から降ってきたものだったからなのかもしれない。
 トゲチックもそう感じてくれているといいなと思う。僕の一方的な押し付けかもしれないが、それが叶わないのならば、せめて幸せになる手伝いくらいはさせてほしい。
 きらりと瞬いた星に、そっと願いを乗せた。

 トゲチックの体の傷はゆっくりと、しかし確実に癒えていった。元気に飛べるようになるのも時間の問題だろう。しかし、それを喜ぶようなことをトゲチックはしなかった。体の傷に対しては無関心を貫いているようにも見えた。「傷、良くなってきてるね」と声をかけると、「うん」と笑顔で返してくれるものの、そこに漂う悲しさは濃さを増していた。
 トゲチックがここに留まってくれるのはとても嬉しいが、帰る場所がないわけではないだろうし、何より慣れない場所にずっといることで、ただでさえ疲弊している心に余計な疲れを与えてしまうのではないかという危惧があった。幸せにするどころか、これ以上不幸にならないようにすることで手いっぱいだった。
「元いた場所に帰ることは考えていないの?」
 それで、魔が差して要らないことを言ってしまった。トゲチックの悲哀がより暗く深くなった。
「帰っても、また追われるだけ。そうなるんだったら、ここでずっと暮らしていた方がいい。人間もあまり来ないみたいだし、安らげるから」
 トゲチックは、不幸を消すことは考えていても、幸せになることは考えていなかった。
 何度も自分の無力さを実感した。不安を取り除くことも、笑わせることも、トゲチック相手には何一つ満足にできなかった。でも――、
「トゲチックがそうしたいなら、僕はずっとそばにいるよ」
 僕がそう言った後にトゲチックが向けてくれた一瞬の微笑みを、絶対に守りたいと思った。

 その日もちょうど一週間前と同じく、空に居座る雨雲は大量の水を抱えている様子だった。
 以前のように強風が伴わなければ、そう危険には晒されないだろう。だから、もし雨が降ったら波立つ水溜まりの上を泥だらけになって遊ぼう、とトゲチックに提案した。けれどもトゲチックは露骨に嫌がった。トゲチックと僕では感性があまりにも違いすぎたのだ。それを計算に入れていなかったのは完全な過ちだった。
 トゲチックはというと、いつ降るかわからない雨のために、木の下に避難していた。行動が消極的なのはいつも通りだった。
「一緒に遊びたかったけれど……しかたないか」
 何かふたりで一緒にできることはないだろうか。いつも憂鬱そうなトゲチックを無理に連れ出すのは気が引ける。かといってこのまま放っておいたって幸せになれるはずもない。トゲチックが自ら動こうとしないのは、目立つ行動が命の危険に直結してしまう生活をしてきたからだろう。だから静謐を好むのだ。しかしそれは不幸を避けると同時に、幸せの放棄だ。事実、トゲチックはとてもつまらなそうな顔をしている。ならばきっと、その板挟みから引っ張り出してあげるのが僕の役目だと思っている。でも、
「どうやってそんなこと……」
 方法がまったく思いつかなかった。共有できる楽しみなんてないし、そもそもトゲチックが何に楽しみや幸せを感じるのかがわからない。
 この地に留まり、時間を経れば、トゲチックは自然と幸せに巡り合えるのだろうか。ならば何もせず、一緒にいて、その時を待つべきなのではないだろうか。
 それが僕にできる唯一の方法のような気がした。
 だが、小さな頭を絞りに絞って至った結論は、トゲチックの一言によって立ち消えた。
「私、明日にはここを発とうと思うの」
 再び性懲りもなくトゲチックを湿原の真ん中に連れ出そうとした、そんな矢先のことだった。
「ど、どうして?」
「やっぱり、これ以上あなたに迷惑かけられないもの」
 全く予期していない答えだった。何日か前には、ずっとここにいたいなんて話していたはずなのに。この心変わりは解せなかった。
「迷惑だなんて、そんなこと一度も思ったことないよ」
「あなたならきっとそう言うだろうと思ってた。でもね、やっぱり私ひとりの問題にあなたを巻き込んじゃいけない」
「そんな……」
「わかって。誰かに迷惑をかけてると思うと、ただでさえ心が苦しいのに余計に参っちゃうの」
 ただただ呆然とするしかなかった。ひょっとしたら、僕はトゲチックにとって足枷のような存在でしかなかったのかもしれない。
「誤解しないでね。私、あなたと会えて本当に良かった。安らぎとか静穏とか、私には無縁なものだと思っていたけど、あなたといるときはずっと平和で……平和で……」
 トゲチックが言葉を詰まらせる。円らな瞳には涙を湛えていた。その表情には、いつも悲しさと美しさが同居している。悲しみをぼかすために、別の要素を併せ持たずにはいられないのだ、と僕は一目見たときから勝手に決めつけていた。
 そのせいかもしれない。今のトゲチックの涙は、悲しみを表すために流されたものなのではないと気づくことができなかった。
「これでも、幸せだったんだから」
 濡れそぼったトゲチックの体が光った。何かの粉か、粒か、それとも細かな羽毛か。きらりきらりと僕たちの周りを舞い、降りかかるそれは、紛れもなくトゲチックの言っていた『しあわせのこな』だった。
 トゲチックが何に幸せに感じて、しあわせのこなを振りまけるようになったのか。僕の小さな頭じゃやはりわからなかった。けれど、そんなことはどうでもよかった。
 今、トゲチックは幸せで、僕はそれが嬉しい。

 そして、幸せが壊れるのはいつだって唐突だ。
「きゃっ!」
「うわっ!」
 僕たちの間を何かが通り抜け、凄まじい風圧で弾き飛ばされた。一瞬の出来事に転がり倒れ、その間に考えることができたのは、何かの正体よりも、トゲチックが無事かどうかであるだけだった。
 上方から悲鳴が聞こえる。空を見やると、信じられない光景が繰り広げられていた。
 トゲチックが三匹の鳥ポケモンに追い回されていて、その攻撃を必死に回避していた。
「ハトーボー、かぜおこし! オニスズメ、みだれづき! ウォーグル、エアスラッシュ!」
 思わぬ襲来は、既にここを去っていたはずだったハンターとその仲間だった。ハンターは僕から少し離れた所に立って鳥ポケモンたちに指示を出していた。ここまではっきりとハンターの風貌を確認できたのは初めてだった。体格はよく、黒ずくめで、帽子を目深に被っている。ドンカラスを思わせる様だった。
「きゃあ!」
 悲鳴。かぜおこしでバランスを崩されたトゲチックが、オニスズメとウォーグルの攻撃の餌食になっていた。
「トゲチック! くそっ、バブルこうせん!」
 すべてをぶち壊そうとする理不尽を薙ぎ払うかのように、僕は目いっぱいの力で上空にバブルこうせんを放った。しかし、鳥ポケモンたちの動きはあまりにも速く、泡は一つたりとも当たらなかった。その間にもトゲチックの体には傷がつけられようとしていた。
 幸せだと僕に言ってくれたトゲチックの心が、またこんな奴らに蝕まれるのか。それだけは絶対にさせてはいけない!
「バブルこうせん!」
 もう一度同じ技を放った。ただし今度は空ではなく、ハンターに向かって、だ。
「なっ!」
 ハンターは驚きの声を発し、乱れ飛んでくる膨大な泡に圧倒され、地面に倒れた。同時に、鳥ポケモンたちの動きも緩慢になった。あいつらはハンターの指示なしには動けないのだ。
 その拍子に、すかさずトゲチックは反撃を開始した。
 無数の木の葉がトゲチックの周囲にゆらゆらと現れると、不規則な動きで鳥ポケモンたちに襲いかかった。マジカルリーフは必ず敵を捉える技だと、以前トゲチックは言っていた。
 鳥ポケモンたちはぎゃあぎゃあと喚きながら四散した。一方的だった形勢はなんとか持ち直ったが、それでも数的には依然不利だった。
「トゲチック、逃げよう!」
「うん!」
 トゲチックはすぐさま鳥ポケモンたちから離れ、僕もついていこうとした。が、
「エアスラッシュ!」
 背を見せたときに、僕はまともに攻撃を喰らった。僕の軽い体はいとも簡単に吹っ飛び、水溜まりに打ちつけられた。
「アメタマぁ!」
 トゲチックの叫びが湿原に木霊する。
「ふん、邪魔が入ったか。おい、先にこいつを片付けるぞ! ハトーボー、でんこうせっか! オニスズメ、つばめがえし!」
 既に立ち上がっていたハンターは己の分身たちに迅速に指示を出していた。
 避けなければ――そう思った。しかし、遅かった。
僕の体は宙に弾き飛ばされていた。指示と攻撃の間にまったく時間差がなかったと錯覚してしまうほどに速いでんこうせっかだった。
「やめてぇ!!」
 トゲチックが一体何を叫んだのかは聞き取れなかった。直後につばめがえしという二連攻撃が襲いかかり、僕はうめいた。飛行タイプの技は、受けてしまえば大ダメージだ。視界が暗転し、地面に叩きつけられる。
「あ……あ……」
 奈落の底に霞んでいるような意識の中で、虫の息とはこういうことなのかと思った。トゲチックは生け捕りにしなければいけないのだろうが、連中にとっては僕のような虫ポケモン一匹何とも思っていないのだ。
 霞む視界にかすかに白く映っているのは――トゲチックだった。僕のそばから離れない。
 なんで逃げないんだ。僕を気にかけているからか。これじゃ本末転倒ではないか。こんなことになるなら、仲良くなんてしなければよかった。
「アメタマ! アメタマ! しっかりして!」
 トゲチックは僕の名を何度も呼ぶ。ただの残響のようにも思えた。
 額に何かが落ちた。トゲチックが流し落とした涙だろうか。
 いや、違う――。
 ぽつり、ぽつり、と淡く静かな音がする。湿原中の水溜まりが、トゲチックの残響を強める。
 やがてそれは土砂降りになった。
「……雨だ」
 それは、僕を幸せにしてくれるもの。
僕はゆっくりと立ち上がる。
まだ負けてはいけない。天気はまだ、僕の味方をしてくれている。

二 飛翔体 


「まだ息があるぞ。ハトーボー、オニスズメ、とどめを刺してやれ。ウォーグル、お前はトゲチックだ!」
 激しい雨音に怒声は紛れ、羽ばたきと悲鳴が交錯する。心を奮い立たせ、なんとか立ち上がった僕に、鳥ポケモンたちが凄まじい勢いで迫ってくる。本来ならば、恐怖に再び心がしぼみ、足がすくんで動けなくなるところだ。
 だが、もうさっきまでの僕とは違う。
「何!?」
 濁った素っ頓狂なハンターの声は、やはり雨に掻き消された。多分、なぜ避けられたのだと問いたいのだろう。遥か後方で間抜けに目を瞬かせている鳥ポケモンも同様だ。
 すいすい――雨の中では、僕の動きは見違えるほど速くなる。
「喰らえ!」
 僕の得意技のバブルこうせん。雨で威力もかさも倍増したそれは、二匹に逃げるいとまを与えなかった。
「避けろ! ハトーボー、オニス……」
 ハンターの指示は、惜しくも二匹に届かなかった。泡が次々と爆ぜ、強力な水のエネルギーが彼らに飛散する。うめき声を上げながらどしゃり、と鈍い音を立てて水溜まりに墜ちた彼らは、そのまま動かくなった。気を失ったようだ。
「あとは……あいつだ!」
 雷鳴の轟く空に、大きな影と小さな影が激しく乱れている。優勢なのは大きな影であり、トゲチックは攻撃に当たらないようにするだけで精一杯のようだった。
「トゲチック、こっちに!」
 空では、トゲチックと共闘することはできない。だからトゲチックをこっちに呼び寄せる必要があった。
トゲチックはウォーグルの一撃をするりとかわすと、再び攻撃される前に地面に降りてきた。そして、僕の背後に陣取る。
 ウォーグルは一度態勢を整えるために、ハンターのそばに寄った。
「ちっ、二対一か。まあいい。ウォーグル、先に倒すのは邪魔者の方だ」
 ハンターは狙いを僕に変更してきた。ウォーグルはハンターの腕に止まり、こちらをじっと見据えている。
「アメタマ、気を付けて!」
「大丈夫、地面での戦いなら……」
 スピードは負けないはずだ。そう、思っていた。
「やれ」
 ハンターの冷淡な声に、僕とトゲチックは震えた。まるで、今から本気を出すと警告しているようだった。雨音がいやに大きく聞こえる。
 ウォーグルがハンターの腕を蹴り、飛び立った。そこまではしっかりと見えていたはずだった。
「アメタ……」
 トゲチックの声が急激に遠ざかる。自分の身に何が起こったのかわからない。ウォーグルの爪が僕の体にぐいぐいと食い込んだ。まるで握りつぶされてしまうかのような痛みに、僕は声が出すこともできない。今にも失神してしまいそうだった。
「地面での戦い? お前馬鹿じゃねえの?」
 乱暴な言葉は、爪同様に鋭かった。きっとこのポケモンは、ハンター同様、完膚なきまでに叩きのめすことになんら抵抗を感じないのだ。爪が食い込んだ部分から血が流れる。
 また意識が飛びかける。既に地面は遠く、空が近い。上昇を続けるウォーグルが何をしようとしているのかがわかってしまい、恐怖が滲み上がってくる。
 暗黒の空は――僕に素敵なものを沢山落としてくれる空は、こんなにも怖いものだったのか。
「てこずらせやがってよ。これで終わりだ。あばよ」
 ウォーグルの爪に込められていた力が、緩んだ。僕の体は、自由落下していく。景色が高速で流れる。雨粒だけは止まっているように見えた。
 きっとこのまま死ぬのだと直感した。
 まだやり残したことはいっぱいあるのに。もっと泥遊びしたかった。もっと水溜まりを滑走したかった。もっと羽根も拾い集めたかった。
 それにもっと――トゲチックと一緒にいたかった。
 トゲチックはいつだって悲しい顔をしているけど、僕はトゲチックのそばにいるだけで幸せだった。
 ――トゲチックが「幸せだった」と嘘か本当かわからないようなことを言ったけど、もしかして特別なことをしなくたって、一緒に寄り添いあうだけで幸せを感じていられたのかもしれない。こんなことになるのなら、ちゃんと僕の気持ちを伝えておけばよかった。
 地面に激突まで残り、数秒。せめて一瞬で逝けるようにと、目をぎゅっとつぶり、祈った。
 しかし、何かに当たった感触は地面のそれではなかった。
「……トゲチック?」
 墜落する直前に、トゲチックが背中で僕を受けとめていた。あの日僕らが果たした衝撃的な出会いと重なる光景だった。しかし、受けとめたのは僕ではなくトゲチックの方で、そのやり方も僕の数十倍上手かった。痛みはまったく感じず、まるで綿の上に着地したような感覚だ。
「大丈夫? 今降ろすからね」
「うん。ありがとう」
 地面がこんなにも愛おしいものだとは思わなかった。ウォーグルに捕まっている間、生きた心地というものを感じられなかった。
 しかし、それは今でもあまり変わらないのかもしれない。ウォーグルの爪が僕の体力をかなり奪っていたせいで瀕死寸前、トゲチックだって傷だらけだ。正直、あの強力なウォーグル相手にどう勝てばいいのかが皆目見当がつかなかった。
「ったく、仕留め損ねやがって」
 上空から戻ってきて僕が死んでいないことに驚く顔をするウォーグルを、ハンターはねめつけた。ウォーグルは悔しそうに僕らを睨みつけている。
「もう生け捕りにできりゃ何でもいい! 奴らにいわなだれだ!」
「そんな……飛行タイプなのに岩タイプの技を使えるなんて……」
 ここにきて真の危機が訪れる。僕もトゲチックも、岩タイプの技は弱点だ。疲労困憊、これ以上攻撃を受けたら一貫の終わりというときに、そんなものを喰らってしまったら、ただでは済まない。
「避けないと……!」
 だが、ウォーグルは既に技を発動していた。何もない上方の空間からおびただしい数の岩が創り出され、僕たちに降りかかる。逃げる猶予などないに等しかった。
「げんしのちから!」
「えっ!?」
 しかし、こっちも負けてはいなかった。なんとトゲチックも岩タイプの技を使えたらしい。地面からせり上がってきた、やはりおびただしい数の岩が次々と降りかかってくる岩に飛んでいき、ぶつかり合って相殺した。
「す、すごい……」
 けれども、感心している余裕はなかった。相殺しきれなかった岩が僕ら目がけて降ってくる。避けきれない。
「トゲチック、逃げて!」
 トゲチックは精一杯応戦したが、僕はもう助からない。せめてトゲチックだけには逃げ切ってほしい。体力的に辛いかもしれないが、飛んでいけば逃げられるだろう。そう思って叫んだときには、トゲチックはそばにはいなかった。
 既に退避していたのか。良かった、これでトゲチックは助かる。僕にはもう避けきるだけの体力は残っていない。迫り来る岩石が死神そのものに見えた。
 だが、想定外のことが起こった。真っ直ぐに落下してきたはずの岩石が、突如として軌道を変えた。僕には当たらず、とんでもない方向に飛んで行った。
「な、なんで……」
 その方向には、なんとトゲチックがいた。
まさか――。

『このゆびとまれ』
「トゲチックうううっ!」
 僕の叫びにならない叫びは、きっとトゲチックに届かなかった。
 岩石が爆砕する音。墜落するトゲチック。僕だけを狙い、トゲチックには本気で当てることを考えていなかったであろうウォーグルは呆然とし、ハンターは慌てふためいた様子でトゲチックの元へと駆け寄った。
「トゲチック……そんな……そんな……」
 あんなものが当たって無事であるはずがない。トゲチックは水溜まりの上でぐったりとしていて、動く気配はない。助かるようには見えなかったし、そもそも息をしていないようにも見えた。雨の音がうるさい。
「おい、しっかりしろ! おい! くそっ、何でこんなことに! ウォーグル、お前命令の意味わかってたのかっ!」
 ハンターがトゲチックを持ち上げて、乱暴に揺さぶる。それでもトゲチックが目を開けることはなかった。
 僕の心にふつふつと湧き上がるこの感情は、怒りか、悲しみか。ない交ぜになっていて、判別のしようがない。ただ一つ、間違いなくやらなければいけないことは、奴らの手からトゲチックを引き離さなければならないことだった。
「トゲチックに触るなあ!!」
「な、なんだっ!? あいつ、光って……!?」
 体が眩い光に包まれ、姿形が変わる兆しを見せる。本来ならば、かつての自分と決別し、新しい自分に出会う大切な通過点のはずなのに、感慨はまったくなかった。ただ、奴らを許せない気持ちと、トゲチックを想う気持ちだけが湧きあがる。
 四枚の白い側翅。大きな目玉模様のついた、頭部から生えた翅。トゲチックと同じ色の白い体。真新しい貌を身にまとい、僕は攻撃を開始した。
「かぜおこし!」
 怒りを翅に乗せて大きく羽ばたかせると、たちまち強風が巻き起こった。それは大きな雨粒を伴って、さながら嵐のようだった。
「た、ただのかぜおこしが……何でこんなに……!」
 ウォーグルはなす術もなく吹き飛ばされ、ハンターは二本の足で踏ん張ることが精いっぱいだった。
「トゲチックを離せ!」
 より強く羽ばたくと、ついに耐えきれなくなったハンターの手からトゲチックが解放され、その白い肢体は雨の中に舞い上がった。風に飛んでいくハンターを尻目に、僕は全速力でトゲチックの元へと向かい、地面に落ちてしまう前にその体を背中で拾った。
 雨ですっかり冷えてしまったトゲチックの体を、ゆっくりと地面に降ろす。なんだってこんな悲しいことをしなければならないのだろう。こうなるはずだったのは僕の方で、君がこんな風になってしまう道理なんてなかったのに。
「ごめんね。僕のせいで」
 本当に情けなかった。幸せにするどころか、もう生きている姿を見ることすら叶わないなんて。
 涙が雨に、水溜まりに、溶けた。
「私、まだ……死んでないよ?」
「トゲチック……?」
 トゲチックは生きていた。息をするのも苦しそうで、やはりそんな姿を見るのも苦しい。だが――、
「良かった。良かった。本当に……」
 涙でトゲチックの顔が滲んだ。
「進化したんだね……。心配かけてごめんね。でも私、ずっとハンターから追われる生活してきたから、避けるのだけはひと一倍上手いんだよ? 直撃だけはなんとか……ね」
「それで攻撃を自分に向けるなんて、危なすぎるよ……」
「おい、ウォーグルう! 諦めてんじゃねえぞおお!」
 醜悪な怒声が、凄みと執念深さを帯びてやって来る。
「あいつら……!」
「大丈夫、もうこれで終わりだから」
「え?」
「あんな無茶をしたのにはちゃんと訳があるの。聞いて、アメモース……」
 僕はトゲチックの言葉に耳を傾けた。作戦というにはあまりにも単純だ。だが、この地獄を終わらせるにはもうこれしかない。この一撃にすべてを託そう。
「ウォーグルうう! つばさでうつだああ!」
 ハンターは半狂乱で、ウォーグルもまた主人の魂が乗り移ったかのように突進してくる。トゲチックを生け捕りにすることはもう忘れているのだろう。
「アメモース!」
「うん! ぎんいろのかぜ!」
 僕は飛翔し、しあわせのこなに似た銀色に光る鱗粉を暴風雨に乗せた。僕の最高の技であるぎんいろのかぜは、向かってきたウォーグルを直撃した。しかし、勢いを完全に殺すには至らない。ウォーグルの必死さがまだ勝っていたのだ。
 こっちが勝つには、有らん限りの力を使い、トゲチックと一緒に迎撃するほかに方法はない。
「トゲチック! いっけええ!」
 トゲチックが最後の力を振り絞って技を繰り出す。
 金色の光を纏ったトゲチックは、銀色の暴風に乗り、ウォーグルへと向かっていった。
 トゲチックが言うには、この技は、自分の持っているこの技以外の技を戦闘中にすべて使ったときにようやく繰り出せるようになる、いわば必殺技なのだそうだ。
 僕とトゲチックの、光り輝く『とっておき』。確かにウォーグルはとんでもない強さだった。僕らにはもう一分の余裕さえ残されていない。しかし、僕らの合わせ技に対抗し得るだけの力は、もうウォーグルにはない。
 衝撃波が湿原全体を揺らした。暗い空が、目の眩むような眩しさに染まった。煌煌と宙に留まり続けるトゲチックと、墜落していくウォーグル。もう、脅威はなくなった。
 雨が冷たい。火照った体が、ゆっくりと冷えていく。

三 幸福体 


「一か月以上もハンターに追いかけられないなんて、なんだか変な感じがする」
 トゲチックは訪れた真の平穏を、未だにむず痒く感じるらしい。
「だったら、また追いかけられてみる?」
「それは遠慮するよ……。望まなくたって、他の仲間が私の居場所を嗅ぎつけてやってくるかもしれないし」
「そうだね。そうなったら追い返してやるけど」
「あのときは、アメモースがいてくれなかったら勝てなかった。いつも数で押されて、それでも助けてくれるひとは誰もいなかったから」
「十回は聞いたよ、その話」
「何度したっていいじゃない」
「そんなことより、ちゃんと飛ばないと危ないよ。いつ気流が乱れるか分からないんだから」
 ふらりふらりと安定しない飛び方を続けるトゲチックを、僕は咎める。しかし、トゲチックはまったく気にしない風だった。
「こうしてると不規則な風気持ちが良いんだよ。アメモースもやってごらんよ」
「もうちょっと上手く飛べるようになってからにするよ」
「何事も挑戦、だよ」
 そう言ってトゲチックはふわりと落下していった。出会った頃のか弱いイメージはがらりと変わり、ときどき驚くほど無茶な飛行をするものだから冷や冷やしてしまう。
 だが、それはきっといいことなのだろう。もうトゲチックには悲しみが似合わなくなり、代わりに笑顔が似合うようになった。幼い頃から持ち続けていた諦観も、あの戦いを経て捨てることができたようだ。
惜しいことがあるすれば、あの美しい流涙を見られなくなったことだ。もちろんそんなことは心の奥底に仕舞ってある。トゲチックに言ったら顔を赤くしてどこかへ飛んでいってしまうかもしれない。
 僕は僕でトゲチックに励まされている。あの戦いで植えつけられた空への恐怖心も、トゲチックがずっと勇気づけてくれたおかげで、徐々にではあったが克服できた。そして、今では一緒に空を飛ぶ楽しさを共有できるようになった。これも一種の幸せの形だ。
 しかし、僕にはもう一歩踏み出す勇気が要る。何十歩も前進したトゲチックのように、僕も進まなければならない。
 今よりももっと素晴らしい幸せのために。

「明日、しようかな……告白」

 翅の動きを止める。僕は、落ちていったトゲチックを追い、自由落下した。








あとがき

コミックマーケット83にて頒布されたとあるアンソロジーに寄稿させていただいたものですが、公開許可を得たので公開しました。
現在絶賛更新停止中の『晴れ渡れ、空』の執筆時期と同時期に書いており、登場ポケモンもまるかぶりしていますが、物語上の繋がりは皆無です。こっちのアメタマの方が素直で優しいですしね。
物語を書いていて、この文章はよく書けたなあと思っても後から見直すとなんだこれってなることが多いですが、この小説の最後の一文だけは、執筆から一年以上経った今でもいい文を書けたなって思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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Last-modified: 2014-01-07 (火) 15:49:00
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