writer――――カゲフミ
―1―
周りには家らしき家はない。舗装されていない道の両側には緑豊かな草原が広がっている。
そんな景色を堪能しながら、私はのんびりと歩いていた。
街からそんなに離れていないのに、こんなに素敵な場所があるなんて思いもしなかった。
さわやかな景色になんだか気分も晴れ晴れとしてくる。
「こんなことなら他のみんなも連れてきてあげたかったな」
私は預けてきた他のポケモンたちのことを思った。
喜んで草原の中を元気に駆け回る姿がありありと浮かんでくる。
ここからそう遠くない小さな町。
そこにあるポケモンセンターに手持ちを預けたその間、特にすることもなかった私は辺りを散歩することにした。
そして、ぶらぶらと歩くうちに私はこの草原にさしかかったのだ。
町から多少離れているとはいえ、こんなに青々とした自然が残っている。
なんだか不思議な感じだ。この場所だけ緑に守られているかのような。
緑に囲まれしみじみとしていた私の鼻先に突如、冷たい感覚が走る。
何だろうと思い、触ってみる。濡れた。私はあわてて空を見上げた。
さっきまではうす曇りだったのに、本格的な厚い雲が空を覆っている。
周囲の緑に感動しすぎて、空まで気が回っていなかったのだ。
まずい。これは本格的な雨になりそうな予感がする。
町まではそこまで遠いわけではないが、ここから帰れば確実に雨の襲撃に遭いそうだった。
―2―
どうしようかと、考えているうちにも雨は次第に強くなってくる。
地に落ちるいくつかの雨の筋が、私の目に飛び込んできた。
どこか、どこか雨宿りできそうな場所はないだろうか。
きょろきょろとあたりを見回すも、ここは開けた草原。
せめて木でもどこかにあれば、まだ希望があるのだが。
ふと、私の目にとまったものがあった。
小さな小屋のような茶色の建物。その角ばった形は明らかに人工物を思わせる。
建物と言うにはあまりにも小さい気がしたが、もし建物なら雨くらいはしのげるだろう。
服が濡れて冷たいと感じるほどになった。選択の余地はない。
私は駆け足でその建物のもとに向かった。
小屋だと思って近づいた私の期待は見事に裏切られていた。
茶色の建物に見えたのは、小さな休憩所のようなものだった。
木製のベンチに雨風をしのげる屋根と囲いが施されている。
とはいえ、すべてにおいて相当の時間が経過していることを思わせるほど古い。
ベンチは所々腐敗していて、私が座ると壊れてしまいそうだ。
屋根や囲いも雨風にさらし続けられた結果、いくつかの穴が見られる。
それでも、雨のなか立ち尽くすよりはいい。
私は休憩所の中に入ると、屋根の穴から滴り落ちる水滴を避けてベンチの前に立つ。
手で軽く揺すってみる。動かない。意外としっかりした作りになっているようだ。
腰かけてみる。少し軋むような音はしたが、ここまま壊れてしまいそうな気配はない。
雨はやむ気配を見せず、その雨足を強める一方だ。
仕方ない。しばらくここで気長に雨宿りすることにしよう。
―3―
雨は相変わらず緑の大地に降り注いでいる。風がないため雨は比較的穏やかだ。
大地に対してまっすぐな雨。純粋な草原の景色ではなくともこれはこれで一つの風景として絵になっている。
しかし、このまま止まないとなると少々困りものだ。服が濡れたせいか寒くなってきた。
このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。私は両手をこすり合わせてみたが、あまり温かくはならなかった。
ふいに、小さな物音が聞こえた。風や雨が立てた音ではない、明らかに何かが動いた時に生ずる音だった。
こんな草原だから野生のポケモンがいてもおかしくはないが。もし、凶暴なポケモンだったらどうしよう。
あいにく手持ちはすべてセンターに預けてきてしまった。こんなことならせめて一匹くらいは持っておくべきだったか。
ガサガサという茂みの音がいっそう近くなる。私の周りに嫌な緊張感が漂った。
壁に空いていた穴から姿を現した何かに、私は思わず息をのむ。
「……!」
「グルゥ……」
私と目が合い、小さな鳴き声を上げたもの。
それは、茶色とクリーム色の混じった毛並みに細長い体を持つポケモン、マッスグマだったのだ。
穴からひょっこりと顔を出した様子が愛らしくて、私は思わず笑顔になっていた。
私に警戒する意志は見せつつも、マッスグマは穴から這いだすとひらりと身軽にベンチの上に飛び乗った。
マッスグマの体重が何キロだったかは忘れたけど、それでも全く壊れる気配を見せなかったベンチは称賛に値すると思う。
私と少し距離を置いて、マッスグマはベンチの上で待機している。時々私の方をちらちら見ているが、近づいてこようとはしない。
野生のポケモンと一緒に雨宿りだなんて変な状況だったけど、私は一人でここにいるよりずっと安心できたのだ。
―4―
何度かマッスグマと目が合う。目が合うのだが、マッスグマはすぐに視線を逸らしてしまう。
よくよく見るとマッスグマの立った位置のベンチが濡れている。
そうか。この雨の中ここに避難してきたぐらいだから、ずいぶんと雨に打たれてしまったのだろう。
普段なら真直ぐであろう背中の毛並みも、水気のせいであちこちにはねてしまっていた。
時折ぶるっと身を震わせる。ポケモンでも雨に濡れればやはり寒いらしい。
私はそっと、マッスグマに手を差し出していた。引っ掻かれるかもしれないという怖れは特に抱かなかったような気がする。
それだけ無意識のうちに私は手を差し伸べていたのだ。
一瞬驚いたように目を見開いたが、その後はじっと私の目を凝視している。
水色の混じったきれいな瞳。晴れた日の空の色だった。
「寒いでしょう。おいで?」
言葉が通じるかどうかはは分からない。自分に懐いてくれているポケモンならともかく、野生のポケモンなのだ。
それでも、言葉にしなければ意志は伝わらない。少なくとも私はそう思っていた。
しばらく目を逸らさなかったマッスグマだが、やがて私の方へ一歩踏み出す。私の手がマッスグマの体に触れた。
水気を帯びてはいるがそれでもまだ柔らかい毛の感触だ。
私はマッスグマを抱き上げると、自分の膝の上に乗せた。
「クルゥ……」
少し不安げな瞳をこちらに向けてくるマッスグマ。まだどこかで警戒されているのだろうか。
大丈夫だよと言いながら、私はマッスグマの頭を優しくなでた。ふさふさの毛並みは本当に触り心地がいい。
私の気持ちは一応伝わったらしい。落ちついたマッスグマは私に身を預け、もたれかかる。
抱き上げたときはそれほどでもなかったのだが、膝の上に体重が掛かると意外と重い。
でも、今はその重みがただただ暖かかった。
―5―
マッスグマを抱いたまま、私は再び空を見る。
相変わらず灰色の雲で覆われていたが、空から落ちる雨の筋は心なしか細くなっているような気がした。
「もうすぐ止むといいのにね」
「クゥ……」
雨にはうんざりさせられていたのか、マッスグマが嘆息したような声を出す。
何を言っているのかはもちろん分からないけど、なんとなく私の言葉が伝わっているようで嬉しい。
喋りかけて何か声が返ってくる。それが鳴き声でも私にとってはありがたいものだった。
「でも、君がいてくれてよかったよ。一人じゃ寂しかったから」
ありがとうの意味も込めて、マッスグマの喉元をそっとなでた。
多少水気を含んではいたが、やわらかな毛の感触が私の手の中に滑り込んでくる。
こうやってなでているだけで、ずいぶんと気持ちが安らぐ。
「キュゥ……」
気持ち良さそうに目を細めるマッスグマ。なでてもらうのはやっぱり気持ちがいいものなのだろうか。
私としても、マッスグマの一つ一つの仕草を見ているだけでなんだか癒される。
雨の中一人で心細かったせいもあるだろうが、そばにいてくれると安心できた。
そうやって和んでいるうちに雨は勢いを無くし、まだらに線が見える程度になった。
これぐらいなら外を歩いても問題ないだろう。外の様子を察したマッスグマはひらりと私の膝から飛び降りる。
さすがは野生のポケモン。周囲の様子を敏感に感じ取ったようだ。
そのまま草むらへ歩いて行きかけて、ふと立ち止まり私の方を振り返った。
目と目が合う。何度目か分からない。でも、たぶんこれが最後だ。
「バイバイ」
私は笑顔でマッスグマに手を振る。雨のせいで冷えた体を、そして心まで温めてくれたお礼も含めて。
マッスグマは何も言わなかった。しばらく私の目を見ていたが、やがて踵を返すと草むらの中へと姿を消した。
私の気のせいかもしれないが去り際に見えたその表情は、かすかな笑顔だったのだ。
この草原を見つけて、景色に感動して、雨に打たれて、雨宿りをして。
それだけのことだったのに、なんだかずいぶん満たされたような感覚だ。きっとこれはマッスグマのおかげだろう。
空はまだまだ曇り空だったが、晴々とした気分で私は町へと向かったのだ。
END
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