てるてる
この小説は、特殊な性描写(にんっしんっプレイ)を若干含みはじめたような気がしないでもないような感じです。
本番のシーンまではもうしばらくお待ち下さい。
2/19更新分にジャンプ!
いつのまにかうたた寝してたのか。ひんやりとした洞窟で顔だけ上げた私は、出口のほうから差し込む夏の日差しに目を細めた。出口の近くに茂った草花が風に揺れる。雲一つない真夏の大気にほぐされた心地よい草の香りが鼻の奥をくすぐるのに、思わずわたしは顔をほころばせてしまう。そしてふと、草の香りなんかで気持ち良くなってる自分に気づいて苦笑した。
ちょっと前まで、そんな草の香りなんかで喜ぶような素朴な性格なんかしてなかったのに。それを思うとなんだか不思議な気分になる。トレーナーの元を離れ、バトルから離れ、慌ただしい日常から降りてしまうとこうまで変わってしまうものなんだろうか。もちろん、それだけが原因じゃないことは知っていた。それは……。
私はお腹に片手を添えた。横様に寝転がっているせいか、いつもよりぽっこり張り出してるように見える。それを私はそっと愛撫した。黄色い体毛越しに、自分のものとは違うまた別の鼓動が感じられる気がする。ほんのちょっと前に始まったばかりの命の兆し。指先から伝わるぬくもりが自分のものだけじゃないのがたまらなく嬉しい。
彼と始めての夜を過ごしてから数日後、初めの頃は軽い違和感でしかなかったそれは、今では起き上がるだけでも一苦労するほどに大きくなった。一体いつ生まれるんだろう。子育ての経験がない私には皆目見当もつかなかったが、ポケモンはお母さんのお腹の中よりもタマゴとして外で過ごす期間のほうが長いという話だし、とすれば時期的にはもうそろそろかもしれない。
「もうそろそろ、か」
なんとなく呟いてみたそれは、岩壁に響いて私の耳に返ってくる。確証があるわけではない。ここまでお腹が大きくなったのだ。生まれてくるのも時間の問題だろう。正直な気持ち、早く生まれて欲しかった。苦しい
ここは俗に言う育て屋さんと呼ばれるところだった。何ヶ月か前にご主人の友達から紹介されて、愛する彼と一緒に――今思えば、ご主人なりの配慮だったのかも知れない。――やってきたのだった。もちろん、普通の育て屋さんには今私がいるような洞窟なんて代物はない。まして、こんな風に整った自然環境なんてあるわけがない。受付の待ち時間にご主人の読んでいたパンフレットを盗み見しただけだから確かなことは言えないが、なんでも、周囲一帯の自然をそのまま育て屋さんの敷地にしてしまったとか。そんな広大な土地をどうやって買い取ったのか最初は分からなかったが、近くを走るサイクリングロードを何百台という自転車がひっきりなしに爆走してたのと、受付に応じてくれたおじいさんとおばあさんが高そうな指輪やネックレスをじゃらじゃらさせていた辺り、そういうことなのだろう。
私はゆっくりと起き上がると、体を反らして伸びをする。起きて間もないせいか、何となく体がふわふわする。そのまま洞窟の外に歩き出してみると眩しい太陽に目がくらんでしまいそうになる。それが収まってみれば、目の前には見渡す限りの広大な緑が広がっていた。大きく開けた草原はどこまでも穏やかに広がり、その中の鏡のように凪いだ湖の水面に浮かぶ空は高い。森を裾に彼方に佇立する山々の深い青は目に痛いほどに鮮明で、混ざりもののない空はどこまでも見渡せた。
たとえ人の手が入ってるのだとしても、私にとっては完膚無きまでに調和した自然。それを享受するように駆け回るポケモンたちの姿。動きたくても動けない自分を差し置いて……、なんて思っちゃいけないんだろうけれど、やっぱりというか、どうしても見てて腹が立ってくる。
やっぱり外は見るべきじゃなかったのかも。と洞窟の中に戻ろうとしたとき、ふとポケモンが一匹、湖のそばの木によじ登ろうとしているのが目に入った。本来なら青々と茂っているであろうその木は、どうやら虫ポケモンにすっかり食べ尽くされてしまったらしい。樹幹から湖に向かって張り出した太い枝が丸見えになっている。その枝に手を掛けたポケモンは、ゆっくりと身をたぐって枝の上に立つ。そのまま枝の先までじりじりと進んでいく。遠いせいでほとんど判別がつかないが、どうやら枝の先にみのった木の実を取ろうとしているらしかった。遠目に見ても分かるくらいにしなっていく枝に、よせばいいのに、と思ったそのときだった。案の定、根本から枝が折れてポケモンもろとも湖に落ちていった。盛大な水柱が上がり、端で見ていたポケモンたちがどっと腹を抱えて笑う。落ちた本人はバツが悪そうに湖から上がると、そそくさと湖から離れていった。
そんな様子をウズウズと眺めながら、私はため息を吐く。いいなあ、あんなことできて。羨ましく感じてしょうがない。
もちろん、私は動けないわけではない。足だってちゃんと付いてるし、体が重たいとはいえ赤ちゃん一人、たかが知れてる。お腹に負担が掛からないように走ろうと思えば走れるし、さっきのおドジさんみたいに湖にだって飛び込んでやれる。少なくとも私はそう思っている。なのに……。
「ホント、あいつも心配性よねえ……」
私は洞窟をふり返る。そこあるのは、さっきまで私が横になってた干し草を伸ばしただけの寝床。その隣に、ピタッとくっつけるようにしてもう一つ空の寝床があった。肝心の持ち主は今朝、木の実を取りに行くと出て行ったきり帰ってきていない。「転ぶと危ないから」と言い置いて出かけていった彼。心配してくれるのはありがたかったが、こう、洞窟から一歩も出られないんじゃ、ストレスが溜まって仕方がない。
最初のころは、ちょっとふらっと散歩しにいく程度なら何も言わなかった。だんだんとお腹が大きくなるに従って、ちょっとずつ私の外出を渋るようになった。と言ってもそのときはまだ不平を言うくらいで特に咎めてくるようなことはしてこなかった。もともと私のほうが年上な分、彼もあからさまには言いにくかったのかもしれない。だから私はいつも適当に返事をしてあしらっていた。だが、ついこの間、ぬかるんだ地面に足を取られそうになった所を見られて、とうとう泣き付かれてしまった。きつく当たってくるようならまだ反論のしがいもあっただろうけど、泣きながら縋り付かれたんじゃ、さすがに言うことを聞かないわけにはいかない。
彼の過保護っぷりに呆れることも多々あるが、それも彼なりの気遣いなのだろうということで納得している。そもそも、それくらいのことで仲違いしてるようじゃ、こうしてタマゴなんか作れないだろう。それに、私は彼のそういうところが好きだった。
苦笑しながらそう思ったそのとき、ぐう、とお腹が鳴った。胃の辺りがキリキリと痛む。ふと彼の寝床と洞窟の外を見比べる。
「そういえば、なかなか帰ってこないわね」
「木の実を取ってくる」と言って出ていったのは朝方のことだ。見送る際、洞窟の入り口から顔を覗かせていた太陽は、今や中天に差し掛かろうとしている。少なくとも朝ご飯の時間はとっくに過ぎている。なのにまだ帰ってこない。
まったく、どごで道草食ってるんだか。やれやれと腰を下ろそうとしたそのとき、遠くの方から複数の笑い声が近づいてくるのに気づいた。聞くともなく聞き耳を立てていると、
「――でさあ、そういう訳でご主人ったらうっかりマスターボールを投げちゃったんだよ」
「お前のご主人、えらい災難だったな」
「そうだよ。おがげでご主人、しばらく部屋に籠もって出てこなかったもん」
「へえ」
「部屋から出てくるまで二、三日かかったもん。それまでゲットされたコラッタはコラッタで気まずくてオロオロしてるし。さすがにぼくもサンダースも呆れちゃった」
どっと複数の笑い声が聞こえる。あれ、と思って顔を上げたのは、さらに集団が近づいたときだった。
「……シャワーズ?」
私は起き出して洞穴から顔を出す。人違いだったらやだな、とふと目に入った近くの草むらに身を隠した。
寄り集まるように茂った草むら越しに目をこらすと、見覚えのあるシャワーズがこちらに歩いてくるのが見えた。後ろにドテッコツとコジョンドを従えながら。
「まあ、愉快でいい主人じゃねえか」
「愉快なのは周りだけだってば。ずっと一緒にいる僕の身にもなってよ」
ちげえねえ。とドテッコツが低く笑うと、それに呼応するようにコジョンドも笑う。当のシャワーズもにこにこと屈託なく微笑んでいる。背中に明るい色の花の束を背負ってるせいか、その顔はいつもより陽気に見えた。
雰囲気からしてあの二人はシャワーズの友達らしかった。私が子供を身籠もってから一人で外に行く機会が増えたから、そのときにできたのだろう。夏の色をした眩しい草原の中を歩くシャワーズたち。どこで道草食ってきたのか、三人とも手足が泥だらけだった。和気藹々と話し込んでいる辺りが、とても仲が良さそうだった。――なんだか、おもしろくない。
自然と指先に力がこもり、爪が地面に食い込む。悔しいのだと思う。自分だけ洞窟の中なのに、彼は自由に外を出歩いて、遊んで、おまけに友達まで作っている。走り回りたいのも我慢して、青い空を見ないようにする私を差し置いて。
自分の中にイライラが募る。外は危ない、という彼の言うことを素直に聞いていた自分がバカみたいに思えてくる。目の前のシャワーズを見ていたら余計にそう思えてきた。
三人は洞窟の前に差し掛かった。そうだ、と通り過ぎかけた所でシャワーズは洞窟をふり返る。集団から抜けて小走りで駆け寄りかけて、ふと茂みに隠れた私と目があった。
「あれ! 起きてたんだ。――ってダメじゃん、外に出ちゃ。危ないよ」
シャワーズはそういうと、私の側までやってくる。「どうした?」と後ろのドテッコツとコジョンドもやってきた。私はつい、と顔を逸らす。
「別に。あんまり天気がよかったもんだから。それにずっと洞窟の中じゃ退屈だし」
「でも、だからって……。何かあったらどうすんのさ? 怪我は? 変わったところはない?」
「おかげさまで。何にもなくって死にそうよ」
私は起き上がると、首をかしげるシャワーズを
「本当に。誰が好きこのんでこんな狭苦しい洞窟に一日中いなきゃならないのって感じよ。ま、ずっと外にいるアンタには分からないわよねえ?」
「うん。ずっと外にいたから洞窟のことはよくわかんないや。もしかして死にそうになるほど狭苦しいの?」
なっ、と私は思わずのけぞってしまう。質問に質問で返してきたのは別に良いとして、私の皮肉にまったく気づいてないってのは……。あからさまに悪意の欠片も感じられない彼の目を見てると、そろそろワザとやってるのかと言いたくなってきた。
「あのさあ、私が言いたいのはそういうことじゃなくって――」
言いかけて、私はシャワーズの背後にいる二人がくすくすと私たちの掛け合いを見て笑ってるのに気がついた。私は咳払いをすると、彼らの元に歩み寄る。
「ところであなたたちは? 彼のお友達?」
これにはシャワーズが答えてくれた。
「う、うん。木の実を取りに行った帰りに知り合ったんだ。二人とも違うご主人に預けられたんだけど、なんだか意気投合しちゃってねー」
へえ、と私が彼らを見ながら言うと、ドテッコツとコジョンドは顔を見合わせながらも会釈するように頭を下げる。私もそれに倣い、またシャワーズに視線を戻す。
「そういえばあんた、木の実を取りに行ったんじゃなかったっけ」
うん、とシャワーズは私から目をそらす。
「それが、その。木の実、見つからなくて」
「じゃあその花はなに」
「こ、これ? これは、その……。木の実が見つからなかったから、その代わりに、と思って」
言って、体を揺すって花の束を落とした。前足で器用に掴むと、はい、とにっこり微笑んで私に突き出してきた。
「はいどうぞ」
差し出されたそれは赤や黄や白や、色とりどり花の根本を、蔓で縛って一つにまとめたものだった。目の前の花束とシャワーズとを見比べる。木の実が見つからない。もしくは遊びほうけてて木の実を取ってくる時間が無くなってしまった。だから代わりに花を持ってきたからそれで勘弁してくれ。そう言いたいんだろうか。
私はため息を吐く。別に怒ってるわけではない。ただ、ちょっと落胆みたいなものを感じてるだけ。
木の実を取って来れなかった。だから代わりのものをもってきてくれる。私も花は好きだし、それだけならばむしろ嬉しいことだけど、今は違う。私は子供を身籠もってるし、彼はその子供の父親なのだ。見るだけの花はあっても意味がない。私は母としての務めを果たしているのに、それはないはずだ。赤ちゃんのためなら仕方ない、と洞私には洞窟の中にいることを強要するのなら、自分だってちゃんと父としての務めを果たしたらどうなんだ。
ふつふつと何とも言えない感情がわき上がってくる。それは腹が立つと言うより、むしろ失望に近いかもしれない。
「どうかしたの?」
ふと、私を呼ぶ声がした。顔を上げると、相変わらず悪意のない顔つきのシャワーズがいる。私は首を振った。
「ううん、別に。あのさ、シャワーズ。ちょっといい? 二人だけで話がしたいの」
そう言って、彼を洞窟の中に入るよう促した。とにかく二人きりで話がしたい。性格の問題なだけに話し合っただけで変わるもんじゃないかもしれないが、彼も私ももう他人じゃないのだ。けじめはつけてもらわないと。
「わかった」とシャワーズは頷く。後ろに控えていた連れの二人組に待ってるよう頼むと、花束を口に持ち直して、私と一緒に洞窟に入っていった。
洞窟の入り口をくぐり、日ざしと影の境を踏み越えた辺りでシャワーズはふり返った。
「ねえサンダース。ところでこれ、どこに飾ろうかな」
口に咥えた花束を前足に持ち替えながら、きょろきょろと周りに視線を向けるシャワーズ。
「そんなことはいいから。ちょっと話がしたいの」
「はーい。――あ、寝床の近くなんてどう? ここなら……」
「いいから。こっちにきて」
ぴしゃりと言い放った声は洞窟内に乱反射して響き渡る。私は洞窟の一番奥の方まで来ていた。明るい野外に暗い洞窟内、ここなら外にいるあの二人組に見られる心配はないし、何を言ってるかバレることもないだろう。
うん、とさすがに雰囲気の違いに気づいたのか、困惑気味にシャワーズは頷いた。足下に花束を置いて私の前に腰を下ろす。
「ええと、どうかしたの?」
上目遣いに問うてきたシャワーズに対し、私は深々とため息を吐いて見せた。びくんと肩が揺れる。
「ホントにどうしたの。調子、悪いの?」
「ううん。別に。ちょっと言いたいことがあるだけ」
私はシャワーズに視線を定める。
「あのさあシャワーズ。こんなこと言いたくないんだけどね。あんた、ちょっと意識が少なすぎるんじゃないかな」
「意識って、なんのこと」
「子供がいるってことに対してよ。生まれてくるまでまだまだ掛かるんだから、ちゃんとしてくれないと」
「それくらい分かってるって。だから僕だって色々努力してるんだよ」
「努力って何を。これのこと?」
私は彼の足下の花束を掴み上げる。
「何よ、これ。花なんて持ってきてどうするのさ」
「それは、ほら。食べ物が無かったから。代わりにと思って」
「花なんかじゃお腹いっぱいにはならないわ。そのことくらい分かるでしょうが」
「うん。だけど、喜んでくれるかなあ、と思って」
喜べるわけないじゃない。と私は心の中で吐き捨てる。
私は花束を下に落とす。それを目で追うシャワーズの顔に、ぐいと自分の顔を近づける。
「ねえ聞いて。私もあんたも、子供を作るのはこれが初めてよ。だから何があるかわからないの。生まれるまでの間に、何かあるかもしれない。そんなときに私が頼れるのはあなただけなの。だからね、あなたには必要なとき以外はそばにいて欲しいの。わかった?」
うん、と若干のけぞり気味で頷くシャワーズ。私はさらに続ける。
「だからさ。なるべく無駄なことはしないで欲しいの。食べ物が見つからなかったのはしょうがないわ。でも、だったらすぐに帰ってこれるわよね。代わりの物を探す必要なんてないから、さっさと洞窟に戻ってきて」
「で、でも、それじゃサンダースに悪いよ……」
「道草食われるよりはずっとマシよ。お父さんになるんだったらそれくらい自分で判断してちょうだい」
「お父さん……」
びくん、とわずかにシャワーズの体が揺れる。
「お父さんになる……ぼくが」
「そ、お父さん。お父さんになるんだから、それくらい当然できるわよね?」
促すように私が言ったセリフに、しかしシャワーズは答えなかった。ただ、何かに耐えるように口を引き結んだ。どうしたのだろう、と思う私の前で何度も目を泳がせ、やがて口を開いた。
「違う」
「違うってなにが。できないってこと?」
「違う……」
「じゃあ何が違うの。ハッキリしてちょうだい」
曖昧な態度を崩そうとしない。にもかかわらず、自分からは何も言わない。誰か(当然私しかいないのだが)が自分の思い描く通りの解答を持ってきてくれるのを待っているのだ。まるで物の道理の分からない子供を相手にしてるみたいだ。言いたいことがあるならハッキリ言ったらいいのに。私はあからさまに大きく息を吐いた。
「答える気、ないの」
ふるふると俯いて首を振るシャワーズ。じゃあなんで、と聞く私に、シャワーズはまた口をつぐむ。要領を得ない態度が神経を苛立たせる。私はさらにシャワーズに詰め寄った。身長の差からか、ちょうど私が彼を見下すような形になった。
「いいこと。できない、じゃ困るの」
軽蔑を
「あなたはこれからお父さんになるの。だったら父親としての役目を果たしたらどうなの。なのになんであんたはそんなきょろきょろ落ち着きがないの。いい加減、人の目を見て話してちょうだい。どうしてあんたはいつもそうなの。パパになりたいんでしょ。だったらふざけてないでちゃんとして。こんなんじゃパパ失格なんだからね。他のオスができることを、どうしてあんたはできないの! 聞いてるのシャワーズ――」
「うるさい!」
私は顔が強張った。それは怒鳴られたからでもあったし、その際に顔を上げたシャワーズの表情に、今まで見たことのない色合いを見つけたからでもある。両目を
シャワーズは感情にまかせて片手を振り上げ、私に向かって突き出してきた。
「勝手なこと言うなよ!」
体重を乗せた一撃に肩を衝かれ、私はバランスを崩す。咄嗟に後ろ足で踏ん張ろうとしたが、湿った岩に足がもつれてしまう。そのとき何とか前足で体を庇おうとしたせいで、横様に突き飛ばされてしまう形になった。鈍く角度のついた岩に腹が当たる。ぶつけた衝撃に、痛みよりも先に血の気が引くのを感じた。
私は悲鳴を上げて自分の腹を掻き抱く。撫で回し、違和感がないか探る。もし何かあったら、という脳裏をよぎる不安に恐慌をきたしそうになる。
その時、上から声がした。
「サンダース……」
私はハッとして顔を振り上げる。そこにはいつものシャワーズがいた。――いかにも子供っぽくて、頑是無くて、頼りない。
「……ご、ごめん。だってサンダースが――」
私は彼に最後まで言わせる気はなかった。
洞窟から鋭い閃光と爆音が轟く。細かい石の破片と共にシャワーズがはじき出されてきた。入り口手前で待っていたドテッコツとコジョンドが慌てて駆け寄った。ついさっき、サンダースの方と思しき悲鳴が聞こえてきたのに、様子を見に行こうかどうか思案していたところだった。二人は地面に伏したまま呻くシャワーズを引き起こしながら問いかける。
「おい、大丈夫か?」
「すごい音だったぞ。サンダースの方は。大丈夫なのか?」
左右から支え上げられてなんとか立ち上がったシャワーズの体からは薄く白煙が上がっていた。喉の奥から呻きとも返事ともつかない声を上げる。煤で汚れた顔で辺りを見回す。惚けたように左右を見渡していて、前触れなくシャワーズが表情を固まらせる。コジョンドはその時、シャワーズの瞳にたしかに激しい感情の色を見た気がした。
コジョンドは視線を追って顔を上げる。そこには洞窟が――サンダースがいた。明るい日ざしの中、洞窟の縁にもたれ掛かるようにして立つサンダースの顔には影が降りていた。そこに憮然とした雰囲気を感じてしまうのはそのせいであろうか。
シャワーズは二人の手を振りほどこうとする。コジョンドはなすがままに手を放した。横目にドテッコツの方を窺い見ると、同じようにした彼と目があう。その様子から、どうやら自分と同じことを考えているらしいのが分かった。
シャワーズは大股でサンダースに歩み寄る。思い切り前足を伸ばして背伸びをして、自身の顎をサンダースののど元に突きつけるようにしてサンダースに凄む。
「嫌いだ。お前も赤ちゃんも、みんな大嫌いだ」
そう、低く言って睨め付ける。サンダースは目を見開くと、片方の前足を振り上げた。
コジョンド達が息を呑んだ刹那、乾いた音が一回、夏の空に嫌と言うほど鳴り響いた。
ひ、とシャワーズは喉の奥で短く鳴いた。放心したように頬を押さえる。爪が出ていたのだろう。叩かれた場所からじんわりと血が滲んできた。唖然とサンダースを見つめるシャワーズ。なんで、と弱々しく呟いたのに、サンダースは吠え立てた。
「あっちへ行ってちょうだい! もう帰ってこないで! 私もあんたなんか嫌いよ」
サンダースの声に我に返ったシャワーズは、わなわなと表情を歪ませる。
「……大っ嫌いだ!」
そう上擦りながら叫んで、シャワーズはサンダースに背を向ける。俯いて、逃げるようにコジョンド達の脇を通り抜けて洞窟から遠ざかっていく。すれ違い様、コジョンドは確かにシャワーズが泣いているのを見た。唖然と走り去っていく背中を眺めていると、後ろからサンダースに声を掛けられた。
「あなた達も、用がないならどっかに行ってちょうだい」
お願いだから、と言い置いて、悄然と肩を落として洞窟の中に消えていくサンダース。二人の消えた方向を、取り残されたコジョンドとドテッコツは困惑しながら見比べていた。
頭上に生い茂る枝葉は、夜空の朧気な光の下、足下に樹影の形に黒く地面を
これで幾分か涼しくなってくれればいいが、とドテッコツと下生えをかき分けて森を歩きながら、コジョンドは額を拭う。こういった、周辺を山に囲まれた土地は空気が淀みやすい。そういう土地は得てして日中の熱気が淀んだまま夜へと持ち越され、冷め切らないまま次の朝を迎えることが多い。最近はそういう日が増えてきような気がする。こうして眺めている正面の山に隠れた太陽が、一晩おいて反対側から顔を出してくることを考えると嫌になる。――もっとも、今の悩みのタネは別にあるのだが。
コジョンドは背後をふり返る。少し離れたところを一人黙々と歩く人影があった。俯き、自分の影を拾うように歩いてるせいか、コジョンドに見られてることには気づいていない。
「なあ、どうすんだよアイツ」
小声で隣のドテッコツを小突く。視線で背後のシャワーズを示すと、ドテッコツは首を振った。
「お前が誘ったんだろ。お前が何とかするのが筋ってもんじゃねえのかよ」
「だって、あんなに落ち込んでるのに一人にできないだろ。もし目を離したスキに崖下にでも転がってたりしてみろ。どう責任とるんだよ」
そりゃそうだが、とドテッコツが溜め息を吐く。
今朝、二人はここの育て屋に詳しいメタモンと知り合った。メタモンが言うには、もう何年も育て屋から出たことがないらしかった。その時に聞いた話の中で、どうやら半年ほど前に木に開いた穴に木の実を入れて貯蔵してたポケモンがいたらしかった。話によると、結局そのポケモンは貯め込んだ木の実をすべて消費する前に主人に引き取られていったそうだが、取り残された木の実が穴の中で溶けて発酵し、自重で滲み出した果汁に酒のような風味が移ってるという。丁度主人が引き取りに来るまで暇を持て余していた彼らは、暇つぶしのついでに行ってみようということになり、メタモンからその場所を聞いた。シャワーズと出会ったのはそのすぐ後だ。本当ならシャワーズを住処に送り届けてからその場所に行くつもりだったが、予定外のこともあり、森の中で泣きじゃくるシャワーズを宥めていたら思いの外時間が経ってしまった。夜になり、シャワーズが落ち着いてきたのを見計らって改めて出発しようという話になり、そのままなし崩し的にシャワーズを連れることになったのだった。
ドテッコツは背後を顎をしゃくる。
「とにかく、なんとかしてくれよ。辛気くさくてかなわん」
わかった。とコジョンドは一つ息を吸うと、歩調を落としてシャワーズと並んだ。コジョンドに気づき、シャワーズは反対側に顔を背ける。その間際、彼の頬にうっすら涙の跡がこびりついてるのが見えた。
「……なんだよ」
「別に。一人だったから」
「用がないならあっち行っててよ」
「そういうわけには行かねえだろ?」
おどけながらシャワーズの肩に手をやるが、それをシャワーズは無言で振り払ってしまう。コジョンドははね除けられた手を持て余すように目の前でかざし、しばらくして深々とため息をついた。
「なあ。おまえ、あの子といっしょにいてやらなくていいのか」
シャワーズの体がわずかに震えた。赤らんだ目がこちらを向いた。あの子、と反芻するように口の中で呟く。
「そう、あの子。大切な奥さんなんだろ。おまえが守ってやらないと」
「いいんだよ。ここのところずっと赤ちゃんのことしか気にしてないんだから。僕のことなんか嫌いで、僕なんかいなくたってアイツは平気なんだ」
そう吐き捨てるシャワーズだったが、表情を見れば、それが本心でないことはよくわかった。
「そりゃ子供が生まれるわけだからな。おまえばかり相手にしてられないんだろ」
「だからってぼくのことあんな風に言うことないだろ」
シャワーズは地面を八つ当たるように蹴りつけた。それからコジョンドを睨み付ける。
「それとも何。コジョンドはアイツなんかの味方するの?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあほっといてよ」
つい、とそっぽを向いてしまうシャワーズに、コジョンドはやれやれと首を振る。仕方なしにドテッコツの下に戻ると、ため息混じりにシャワーズの方を示した。
「すまん。逆にこじれちまった。ああ見えて、結構頑固だからなあ、アイツも」
コジョンドが言うと、ドテッコツは苦笑しながら、処置無し、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。
「あいつも若いからな。甘えたいんだろ」
「お母さんに甘えてたら弟が生まれて来ちゃったお兄ちゃんって感じか。なんだかかわいそうだな」
「いや、一番かわいそうなのは奥さんのほうだろ」
ちげえねえ、と笑う二人。ひとしきり笑って、ふと神妙な顔つきになった。下生えの間を抜ける風が気怠く草木を揺らす。
ドテッコツがため息を吐いた。
「でもよ、本当にしょうもない話だよな。赤ちゃんができて、幸せの絶頂って時に喧嘩なんてな」
「雨降って地固まるって言うけど、あの様子じゃな。……どうするよ」
「どうする、つっても。そもそも俺たち関係ねえしな。構うことはないんじゃねえのか」
そう言って、会話を遮るように前方に向き直るドテッコツ。その様子にはどこか冷淡を装ってる感があった。突き放されるように言われ、言葉の接ぎ穂を見失ったコジョンドも仕方なく前に向き直る。
木々の投げかける薄闇を拾うようにして歩いていると、ふとドテッコツが足を止めた。周りを見渡し、口の端に笑みを浮かべる。
「見つけたぜ」
「何を」
コジョンドが言うと、ドテッコツは赤い鼻をひくつかせながら振り向いた。
「酒だよ酒。見てみろ。枯れたでっかい木の幹に大きな穴。近くに岩もあるし、メタモンの言ってた場所に間違いねえ」
ドテッコツの示す方には、生い茂った木々の間に一本だけ、たしかに二回り近く大きな幹の大木が佇立していた。周囲とは一線を画すほどに大きく育った幹は中程から引き裂かれるように腐り落ち、その頭上には夜空が垣間見られた。そこから差し込む薄明かりに照らされた苔むした表皮が鈍く光り、幹の中程に黒々と穿たれた大穴が見て取れる。
ドテッコツは前のめりになって駆け出すと、大穴を覗き込む。奥行きはかなりあるようだった。
「どうやら割と名所だったらしいな。匂いが漏れてバレないよう、ご丁寧に蓋までしてあるぜ」
穴の中には、穴の縁ギリギリの高さに大きな葉が数枚、隙間なく敷き詰められていた。指で押してみると、すぐ真下に液体が詰まってるのが分かった。葉を何枚かつまみ上げて穴の外にひっぱり出すと、発酵した果物の放つ強烈な匂いが漏れ出た。ドテッコツは大きく破顔させると、コジョンドの方を振り仰いだ。
「へへへ。お前も来いよ」
猿酒の放つ甘いような、鼻につくような臭いはシャワーズの方まで漂ってきていた。うっそりと顔を上げると、古い大きな木の前にコジョンドらが立ってるのが見えた。幹にできた大きな穴の前で、なにやら浮き足立っている。他愛のないことを言い合いながら、時々思い出したように穴から直接、酒をすすっていた。
そのいかにも楽しげな様子に、なんだか傷ついた気がしたシャワーズは、追い立てられるように二人から離れ、地面から突き出した岩に腰を下ろした。気に掛けてくれる人がいなくなり、ホントにひとりぼっちになってしまった。
シャワーズはすり切れて痛む目元を拭った。できることならいっそのこと、自分も彼らに加わってしまいたい。シャワーズ自身、酒というものを口にしたことはなかった。しかし、それがいわゆる「大人の飲み物」というもので、口にした者を良い気分にさせてくれるということくらいは、何かの折に小耳に挟んでいた。良い気分にさせてくれる。それはきっと、嫌なことを忘れさせてくれるということに違いない、と思う。少なくともこの気分をどうにかできるのは確かだろう。
シャワーズは腰を浮かせかける。その時、コジョンドらの方から笑い声が上がった。屈託なく破顔する二人の姿が見える。笑いながら何事かを言うコジョンド。それを面白そうに聞いているのはドテッコツだ。ドテッコツは相づちを打ちながらうっすら上気した頬に拳を置くと、幹に肘をついてもたれ掛かった。
ふいに、ちくりと胸に痛みを感じてシャワーズは動きを止めた。思わず自分の頬に手をやる。昼間の
(……サンダース)
シャワーズはその場に座り込んだ。急速に気持ちが萎えていく。かわりに何か、暗い感情のようなものが心奥から沸きあがってくる。それから目を背けるように、シャワーズはコジョンドたちから顔を逸らした。
嫌なことがあった、だから別のことをして誤魔化す。何もかも忘れるということは卑怯なことだ。そんなこと、まさに子供のやることだ。そして自分はそれをやろうとした。酒を飲むことで。子供っぽいと言ったサンダースの言葉は不当ではないだろう。現に、自分は子供なのだから。
シャワーズは泣きたくなった。こんなだから、自分はサンダースを怒らせてしまったのだ。どうして自分は、木の実が見つからなかったからと言って、花束なんか持っていったのだろう。落ち着いて考えれば、サンダースの言ったとおり、さっさと住処に戻った方が賢明だったに違いないのに。今さらながら後悔がせり上がってくる。
また笑い声が上がった。それに追い立てられるように、シャワーズは立ち上がる。自分には楽しくなる権利なんてない。だからここにいても意味がない。どこかよそへ行こう。
シャワーズは彼らに背を向ける。重たい足取りで森の中に入っていこうとした時、後ろから声を掛けられた。
「おい。どこ行くんだよ」
足を止めてふり返ると、すっかり舌の回りが怪しくなったドテッコツが木に寄りかかっている。
「そんなとこにいねえで、おまえもこっちにきて一緒に飲もうぜ」
「ドテッコツ、やめとけ」
隣で酒を飲んでいたコジョンドが咎めるように肘で小突くのが見えた。ドテッコツは不服そうにふり返る。
「なんでだよ」
「飲み過ぎて倒れたらどうすんだ。責任取れんだろ」
「大丈夫だって。あいつだってもう子供じゃねえんだ。現にガキだって作ったんだ。お父さんになるんだから、自分の限界くらい自分で判断できるだろ」
お父さんになるんだったらそれくらい自分で判断してちょうだい
シャワーズは全身を強張らせた。お父さん、という言葉に否応に体が反応してしまう。昼間の出来事が脳裏に閃き、異質な感情が腹の底に蟠っていくのを感じた。
(……サンダース)
自らの責任を果たせなかったことを咎め、父としての器ではないと責め立てたサンダース。自分が何を思ってそれをしたのかすら聞こうともせず、シャワーズの非を責め立ててきた。あのときは気がつかなかったが、今思えばサンダースのしたことはかなり不当なことに思われる。
(どうして……)
どうしてそんなことを、思いかけ、シャワーズは気がついた。サンダースは子供ができてから、いつだって、自分にそういう態度を取っていた。何かにつけて口うるさく叱りつけ、自分の行動を指図してきたサンダース。「お父さんになるんだから」を理由に掲げ、何から何まで自分を束縛していた。サンダースにとっての大人とは、自分にとって都合の良い存在だけを指すのだ。そして自分は、その役割を演じることを強いられた。それで演じられない自分を責めるのは不当なことだ。なのにサンダースはそれすら気がつかず、さらにシャワーズを責めた。きっと、自分がこうして酒を我慢していることも、サンダースは褒めてくれないだろう。そんなことはできて当然とさも当たり前という顔をしてみせるに違いない。それだけじゃない。きっとあの女は一瞬でも酒を飲もうとしたシャワーズの優柔不断を責め立て、これ見よがしに嘆いてみせるのだ。自分の気持ちを忖度してくれることなんかないだろう。――昼間の時のように。「子供っぽい」と言って片付けてしまうだろう。
シャワーズは悟った。今まで心の中で弄んでいた感情は罪悪感なんかではない。強い悔しさだったんだ、と。自分がもう子供ではないことをサンダースに分からせてやりたい。でもどうやって?
「だから、ダメだっつの」
コジョンドの声が聞こえた。それで現実に引き戻されたシャワーズは、二人が今だに言い合ってるのに気がついた。
「ジュースじゃねえんだ。酒だぞ、酒。もしかしたら一大事になるかもしれないんだぞ」
「固いこと言うなって。大丈夫、ちゃんと加減すりゃ大事にゃならねえって。だよなシャワーズ」
ドテッコツはシャワーズをふり返った。
「なあシャワーズ、お前も言ってやれよ。お父さんになるんだから、それくらい当然できる、ってな」
そ、お父さん お父さんになるんだから、それくらい当然できるわよね?
シャワーズは首を振りかけ、ふと思いついた。かつて、サンダースは酒は大人の飲み物だと言ったことがあった。子供は飲むべきじゃない、そうも言った気がする。
それは逆に、酒を口にできる者は子供ではないということに他ならないはずだ。サンダースが大人になれと言うなら、なってやろうじゃないか。それに、いつも子供子供だと言われる自分が酒を口にしたと知ったら、サンダースはどう思うだろうか。きっと、自分の描くシナリオ通りにいかなかったことを怒るに違いない。
シャワーズは口の端に暗い笑みを浮かべると頷いた。コジョンドが何か言ってきたが、気にならなかった。彼らの下に歩み寄ると、木の幹に前足をかけて掴まり立つ。ほとんどつま先立ちみたいになりながら穴を覗き込む。強烈な酒の臭気にえずきそうになる。早く飲んで楽になりたかった。だが、コジョンドたちが浴びるように飲んだせいで、穴の縁ギリギリまであった水位はだいぶ下がってしまっている。あと少し、思いながら首を伸ばして奮闘する。水面に口が届く頃には、片方の後ろ足を穴の縁に引っかけて跨がるような体勢になった。不安定な体勢。今にも穴の中に落ちそうになるのを、空いた前足と後ろ足で縁を引っ掻いて支える。さあ飲もうかという段になって、シャワーズは後ろに引っ張られた。
「おいよせ。何考えてるか知らねえが、やめとけって」
振り向くと、穴と体の隙間からコジョンドが自分の尻尾を引っ張ってるのが見えた。シャワーズは彼を睨み付ける。拘束を解こうと力任せに引っ張る。がコジョンドの手は固く離れない。むしろじりじりと穴の外に引っ張られそうになる。シャワーズは体に力を込めた。隙を見て蹴りつけようか。力任せに引っ張ろうとするコジョンドを窺い、ふとある考えが浮かんだ。
シャワーズの胸の辺りがわずかに揺らいだ。それは凪いだ水面を打つように目立たず、それでいて急速にシャワーズの表面に広がっていくと、やがて全身に及んでいく。尻尾の先に達した瞬間、コジョンドの手が文字通り水を掴むようにシャワーズをすり抜けた。掴み所を失い、尻尾の一部だった液体を手にしたまま
腕を失ったことにはさして衝撃はなかった。普段のバトルでも、溶けてもろくなった体を吹き飛ばされることはよくあった。それでも無事でいられるのは、失われた分をどこかで補っていたからだ。しかし、水と同化した体は失われた体積を補おうと、周囲にある物から構わず水を得ようとする。いまここにあるのは猿酒しかない。
自分は一体、どうなってしまうのだろうか。
何度目か、私は寝床を起き出して外を眺めた。確かな光源を失った景色は、あらゆる色彩を失って見える。当然のことながらそこにポケモンの姿はない。昼間草原や湖で遊んでいたポケモン達は、暗くなるとパートナーを引き連れて森の奥のどこかへと消えていく。ここ数日の経験で私はそういうものだと理解した。
半ば納得しつつ、半ば落胆しつつ、私は寝床に腰を下ろした。隣を見やり、誰もいない寝床が放置されているのに肩を落とす。どこに行ったんだろう。いつもならとっくに帰ってきて寝てる時間だってのに。
シャワーズは夜更かしが苦手だった。にも関わらず、いつも私に合わせて起きていようとしているのだが、結局彼は自分より起きれていた例しはなかった。大人だという所を私に見せつけようとしていたのたろうが、私にしてみれば、わざわざ張り合おうとすること自体が子供の証拠だと思う。
私は目の前に両手両足を投げ出して仰向けで寝ている誰かさんの姿を想像してみる。寝相が悪く、深夜に蹴りを入れられて目覚めることも少なくない。そのたびに怒鳴りつけようと思うのだが、実際に怒ったことは一度もなかったと思う。全身で睡眠を貪る姿に、仕方ないか、とつい許してしまうのだ。つくづく自分はシャワーズに甘いと思う。今思えばそれは間違いだったのかも知れない。
私は寝床に横になった。ふと目の前に花の束が転がってるのに気づいた。昼間シャワーズが持ってきた花だった。置く場所がなくて、仕方なく寝床の近くに転がしておいたんだっけか。
花束を手に取り、しげしげと眺める。明らかにその辺に自生していたであろう花が数輪、根本で縛られて束にされている。不器用な形の結び目を撫でそっと撫でる。
ここに来る前からシャワーズとの間には色々なことがあった。私の分のご飯を勝手に食べられたり、バトルの前に愚図られたり。そのたびに叱ることはあったが、心の底から怒り立てたことはなかった。怒れなかった。寝顔と同じで、シャワーズには私に怒る気力を萎えさせる「何か」があるらしかった。もちろん、その「何か」の正体は分かってる。分かってなければ、私はここには来なかっただろう。
だが、そうやって普段から甘い顔をしていたから――シャワーズをつけ上がらせていたから――こういう大切な場面になっても彼は相変わらず軽挙妄動な態度を改めることができなかったのだろう。悪気や善意の有無はこの際無意味だ。行動の結果に意味があるのだ。私を置いて遊びほうけてたことも許せなかったが、花を探してまっすぐ私のもとに帰ってきてくれないことはさらに許せなかった――シャワーズには普段からそばにいて欲しかった。もし何かあったとき、赤ちゃんを助けられるのは彼だけなのだから。
私は無意識に右の前足を握り込んでいたのに気づいた。シャワーズの頬を叩いた方の手だ。叩いた直後の、あの鈍いような痛みは消えていたが、叩いたんだという感覚は嫌と言うほど鮮明に覚えていた。シャワーズ……。
そんなときだった。私は洞窟の外から笑い声が近づいてくるのに気づいた。思わず寝床から起き出して洞窟から身を乗り出すと、いつかの時のように、シャワーズと昼間の二人が並んでこちらに向かってきているところだった。ただ、笑っているのはシャワーズだけで、それをコジョンドとドテッコツが両側から抱え込むようにして引きずっている所が違っていた。
「ちょ、ちょっと、どうしたの。シャワーズに何して――」
ただ事ではない様子に、慌てて三人の下に駆け寄り掛け、そして鼻面を覆った。きつい酒の匂いが鼻孔を刺す。困惑して三人を見つめ、私は三人の頬がそれぞれ上気しているのに気づいた。
「……酔ってるの」
シャワーズの両脇の二人が目を逸らした。それを見てもう一度問いただそうと口を開きかけたところでコジョンドが頭を下げた。
「申し訳ない。色々あって」
「色々って何が? 人の旦那になんてことしてくれるの」
つい口調がきつくなる。コジョンドが助けを求めるようにドテッコツの方を見た。ドテッコツは一つ咳払いをすると、上気した頬をにい、つり上げる。
「まあまあ、そう熱くなるなって。別に俺たちが無理矢理飲ませたわけじゃねえよ」
「じゃあどうしてこうなるのよ」
これにはコジョンドが答えてくれた。猿酒の中に落ちた話の顛末を聞いて私はさらに怒りがこみ上げてきた。
「だったらどうしてちゃんと見ててくれなかったの。この子はまだ子供なのよ。一緒に行ったのなら、きちんと面倒見てあげるのが筋ってもんじゃないの」
「子供じゃないもんー」
手足をだらんとさせていたシャワーズが顔を上げた。私を睨んで頬を膨らませるが、肝心の目の焦点が合ってない。私は目をくるりと回して仰々しくため息を吐き捨てる。
「とにかく、二人とも早く帰ってちょうだい」
「いいのか?」
「もう飲んじゃったんでしょ。それだったら今さらあんたたちに何を言ったって無駄じゃないの」
そう言うと、コジョンドは詫びを入れながら私の背中にシャワーズを担がせてくれた。酒の染みこんだ体は思ったよりも重く、少しよろめいてしまう。全身から漂ってくる酒のツンとした匂いが直に鼻孔を打つ。思わず顔を
「一応、これでも体の酒を抜けるだけ抜いてみたんだけどなあ」
「そうそう。川ん中に叩き付けてみたりとか、頭と尻尾を掴んで捻り上げてみたりとか、そりゃもう色々と……」
そこまで言って、ドテッコツはコジョンドの鋭い回し蹴りを腹に受け、体を二つに折ってその場にうずくまってしまった。コジョンドはそんなドテッコツを無理矢理引き立たせると、二言三言早口に辞去の意を伝えてそそくさと茂みの方に消えていった。
彼らが去っていくのを確認し、私はため息を吐いた。中々帰ってこないと思ったら、こういうことだったのか。私は胸をなで下ろし、安堵する。おそらく、心のどこかで二度とシャワーズが帰ってこないかもしれないと考えていたのかもしれない。
私は背中で伸びきってるシャワーズを背負い直すと、落とさないように洞窟の中へと引き返す。何か言ってやりたかったが、酔いの回ったシャワーズの耳には何も入らないだろう。
入り口をくぐり、寝床に歩み寄る。シャワーズの寝床のそばで体勢を低くしてひとりでに降りてくれるのを待ったが、中々降りてくれない。そうこうしているうちに背中の方から寝息が聞こえだしたので、私は強引にシャワーズを背中から落とした。
「もう、何すんのさ……」
「あんたが私の背中で寝るからでしょうが」
むっくりと寝床から起き出したシャワーズは、落とされてぶつけた頭を撫でながら頬を膨らます。私が言い返すと、シャワーズはちょっと考え込むようにしてから、にいっと笑ってみせた。
「気持ち良かったよ」
私はうっかり微笑みそうになったのを、鼻を鳴らして誤魔化した。シャワーズに背を向けて寝床に横になる。話し相手がいなくなれば勝手に寝てくれるだろう。
「バカなこと言ってないでさっさと寝なさい」
はーい、と間延びした返事を横目に、私はぐっと横様に背中を丸め、後ろ足に顎を乗せて目をつぶる。体をリラックスさせようと息を吐いたところで、額をつつかれた。目を開けると、いつの間にか前に移動してきたシャワーズが覗き込んでいた。
「……なに」
「喉渇いた」
「近くに川があるでしょうが、勝手に飲んでくればいいじゃない」
「サンダースもついてきてってば」
「おあいにく様、私は眠たいの。一人で行ってくれば?」
言って私は寝返りを打ってシャワーズに背中を向ける。えー、と後ろで不平を漏らす声がした。
「ついてきてよー。外暗いし、一人じゃ寂しいんだってばー……」
今までほっつき歩いてた奴が何を言う、と私は冷ややかに思う。酒が入ってるとは言え、いつも以上に我が儘を振りまかれては気が立ってしょうがない。帰りの遅いことを心配していた自分がバカみたいに思えてくる。
しばらく無言が続き、それで言っても効かないと判断したらしいシャワーズは、今度は私の体に両手を掛けてゆさゆさと揺らし始めた。
「ねえサンダースぅ、お願い……」
甘えたようにささやきかけてくるのを、私は一切無視した。もはや言い返す気力すら持てない。代わりに心の奥に失望めいた感情がわき上がってくる。昼間シャワーズに対して抱いた感情がぶり返す。「どうしていつまでたってもあなたは」という感情が渦を巻く。
そんなことを考えているだなんて知りもしないシャワーズ。ひとしきり揺さぶった後、反応が無いことにふて腐れたように私の横腹を手で突き放した。その手つきは見るからに不機嫌そうだった。
「ちぇ、なんだよ。ツンツンしちゃってさ。なんか不満でもあるの?」
すっかり機嫌を損ねてしまったらしく、不平を言いながら私の前に回り込む。ねえ、としつこく追求しながら額を鼻の先で小突き回される。吐息に混じる酒の強い匂いを我慢ならず、思わず私は起き上がると、シャワーズを凄んだ。
「……な、なんだよ」
「いい加減にしてよ」
「なにをさ」
睨まれ、わずかにひるんだシャワーズだったが、すぐに真っ向から私を睨み返してきた。
「サンダースが起きてるのに無視するからだろ」
「そんなことじゃないの」
「じゃあなんだよ」
「言ったわよね、昼間。もっと大人になれって。なのに何。夜遅くに酔っ払いになって帰ってきたと思ったら、やれ水がどうのこうのって。私の気も知らないで、何勝手なこと言ってるのよ!」
私の怒声が洞窟の中を反響する。
「いつもそう。私がじっと洞窟の中で子供のことを心配してるってのに、あなたは何。遊びほうけてばっかりで、少しも分かち合ってくれない。私に母親役を全部押しつければ、あなたは父親役を演じる必要がなくなるとでも思ってんの? いつまでも子供みたいな我が儘言って甘ったれるんじゃないわよ!」
泡を飛ばす内、自然と語調が強くなっていく。畳みかけるように降りかかる怒声に耐えかねてシャワーズは頭を下げる。自然と私が彼を見下ろすような格好になった。
怒鳴る私と、怒鳴られるシャワーズ。これではまるで昼間の時と同じじゃないか。私は失笑した。昼間と変わらずシャワーズに向かって吠え立てる私。いや、変わってないのはシャワーズの方か。散々言い聞かせたにもかかわらず、何も変わろうとしない。これでは怒鳴ったことを後悔してた私がバカみたいだ。
私は深々とため息を吐いて、心の中でざわつく物を一緒にはき出した。ため息に驚いたシャワーズの肩がぴくりと跳ねた。恐る恐る上目遣いに私を見つめる表情が、いつにも増して頼りなく見える。
「悪いけど、あなた、そんなんじゃ父親失格だから」
私はシャワーズの顔を見つめる。様々なものが入り交じった目をしていた。
「今さら傷ついたって遅いわよ。あんたが少しでも赤ちゃんを愛してるのなら、少しはその態度を改めなさい」
吐き捨て、私は寝返りを打ってシャワーズを背後に置き去りにする。それきり無言が降り積もる。私とシャワーズの吐息だけが場違いな程に大きく岩壁に木霊して聞こえる。後ろでこそとも身じろぎしないシャワーズをあえて意識しないようにし、私はお腹をさする。気のせいか、わずかに洞窟に吹き込む風の温度が下がった気がした。
シャワーズがぽつりと口を開いたのは、私が無意識に入り口の方に視線をやりかけたその時だった。
「……サンダースってさ。最近ぼくに愛してるって言ってくれないよね。いつも赤ちゃんにばかり大好きって言って」
「それがどうしたってのよ」
「どうしてぼくには言ってくれなくなったのさ。やっぱりぼくなんかより赤ちゃんの方が好きってことなの」
ぞわりと背筋の毛皮が粟立つ。思わず立ち上がってシャワーズの方を見た。表情のない顔がこちらを捉えていた。
「ちょっとシャワーズ。あんた何言ってんの」
「だってそういうことだよね。愛してるって言ってくれないのは、ぼくより赤ちゃんの方が好きだからじゃないの」
「そんな訳ないわよ」
「じゃあ証明してよ!」
叫ぶや否や、ぱっとその場で低く構えたシャワーズ。おもむろに地面を蹴りあげた。空気が視界と共に激しくかき回され、私は寝床の上に仰向けに押し倒される。頭の両側に前足が突き立てられ、胸にずっしりとした重みを伴って酒で火照った体が密着する。倒されて思わずつぶってしまった目を開けると、目の前にはシャワーズの顔があった。あえてお腹を避けたのか、私の胸の上に馬乗りになった彼は真下にある私を見下ろしている。ふと片手が私の頬に触れた。動揺する私を余所に、つうっと指先を顎の先に滑らせていく。
「……何を」
しているのか。言おうとした私の口を塞ぐように、顎にやった指がそっと頭を上向きにする。その手の陰から、勝ち誇ったように目を細くして口の端を歪ませるシャワーズの顔が見えた。初めて見る表情に、ごくり、と――きっと彼からは良く見えたことだろう――息を呑む。
「証明してよ。さあ」
そして、それはシャワーズに押し倒され、仰向けに押さえつけられた私の相好もまた、同じく色味を失っていることだろう。
「証明、してくれるんだよね」
返事を待つこともなく、シャワーズはぐいと背中を丸めると、鼻先を無防備になった私の喉に押しつけた。白いむく毛をかき分けられ、肌にじかに舌が触れる。その感触に思わず身を強張らせると、それに気を良くしたらしい彼は鼻息も荒く喉元をなめ回し始めた。柔らかく潤った感触が地肌をなぞり、冷たい外気と熱い呼気がそれに続く。くすぐったいような気持ちいいような、何とも言えない感覚に私は身をよじらせる。
「ち、ちょっと、なんのつもりなの」
シャワーズがちらりと顔を上げる。口を挟んだ私に対してさも不快気に鼻を鳴らしてみせると、鼻と鼻がくっつかんばかりに顔を寄せてきた。目を見張る私に、彼はそっとうなじに前足をやると、宥めるようにさすり上げた。
「もう。分かってるくせに。サンダースも意地悪だなァ」
そう言って、屈託のない笑みを見せるシャワーズ。いかにも悪気のない様子だった。こんなことしておいて、さらに楽しげに振舞えるシャワーズに薄ら寒いものを覚える。
「ふざけるんじゃないわよ。いきなりこんなことして、一体どういうつもりなの!」
「言ったじゃん。サンダースが僕のことを愛してるかどうか――僕がサンダースを愛してるのと同じくらいに――確かめたいんだよ」
「そんなの、愛してるに決まってるじゃない」
「それは赤ちゃんよりも?」
言葉では言い表せない感情が押し寄せてくる。自分の愛を疑うことへの怒りか、そんなことを平然と言ってのけるシャワーズへの恐怖か。
「そんなの……、答えられるわけないじゃない。馬鹿じゃないの!?」
「どうしてなのさ?」
「どうしてって……」
私は慎重に言葉を選ぶ。ここで私が
「当たり前じゃない。あなたも赤ちゃんも大切に思ってるわ。どっちが大切かなんて、選べるわけないじゃない。そんなことも分からないの? お願いだからさっさと――」
――こんなバカなことは終わりにしよう。
そう言おうとした言葉を、しかし私は最後まで言い切ることはできなかった。
「そんなこと言って誤魔化したってダメだよ。いつだってそう言って、はっきり教えてくれなかったんだもん。ちゃんと答えてよ」
言って、私に笑いかけるシャワーズ。私は首を振って否定したかったが、突き出された前足に顎を掴まれ地面に縫い止められた状態では、呻くのがせいぜいだ。
「変な事したらどうなるか、わかってるよね」
私は彼を睨み付ける。仰向けにされ、押さえつけられ。ずいぶん迫力のないことだろう。口の端から荒い呼吸をする私を愉快げに見下ろすシャワーズは、尾びれのような尻尾の先でゆらりとお腹をなぞりあげる。へそを弄び、下腹部の膨らみをそっとひと撫でしてみせる。
「さてと。さっきの質問だけど、答えてくれるよね?」
私を押さえつけたまま、シャワーズが声を低める。私は何も言えなかった。体格の違いこそあれ、私はサンダースだ。仰向けにされれば抵抗のしようがない。それに今は無防備な腹を晒してる状況なのだ。ほんの少しの思い切りを引き出しさえすれば、お腹の子供に対する決着は容易につけることができるだろう。
そこまで考え、自分自身、顔から血の気が引いていくのが分かった。単なる想像だが、今の彼ならやりかねない。最悪の結末に至れるだけの危うさを、今の彼は孕んでいる。
「……愛してるわ」
やっとの思いで引き出した一言。何気ないものなんだろうが、今の私にはかなりの勇気がいった。
「あなたのこと、すごく愛してる。赤ちゃんも愛してるけど、あなた以上に大切なものは他にないわ」
「本当に?」
「本当よ。嘘つくわけないじゃない」
こんなこと言いたくないというのが本音だったが、子供のためなら致し方ない。それに、こうしてこの場さえ乗り切っておけば、そのうちシャワーズも正気に戻るだろうと思った。そう、これば全部彼が飲んだ酒のせいなんだ。酒さえ抜ければ、馬鹿げたことをしたことへの埋め合わせだってさせられるだろう。そうに違いない。
私の見上げる前で、シャワーズは小さく何度かうなずいて見せる。納得してくれたのか。期待をよそに、シャワーズは不愉快げに鼻を鳴らした。
「信じられないね」
沈黙の後、シャワーズは言い放つ。不満げに漏らした吐息に混じる酒のにおいが顔を打った。慣れないにおいに思わず咳き込んでいると、彼はやれやれといった風に顔を離した。
「嘘なんでしょ。分かってる。きみがそんな簡単に意地を曲げるはず、ないもん。口ばっかりっていうんだよ、そういうの。赤ちゃんより僕のことを愛してるって言うのなら……」
にやり、と牙を見せて口元を歪ませるシャワーズ。そこに残忍な感情を嗅ぎ取ったのは、笑みを浮かべる口元に対して、目元がまったく笑っていなかったからだった。
「口先だけじゃなく、心の底からそう思えるようにお仕置きしてあげる」
それは一体どういう意味か、口を開きかけたその時だった。飛びかかるような勢いで眼前に迫ったシャワーズが、自らの鼻先でこじ開けるようにして、強引に私の口に割り込んできた。短いマズルを直角に交わらせ、大きく開かれた口が隙間無く塞がれる。
咄嗟にシャワーズの頭を何度も叩いて引きはがそうとした。が、いつの間にか回された両手で頭を羽交い締められ、どうにもならなかった。悲鳴を上げることができなかったのは、勢いよく口の中に液体が飛び込んできたからだった。まるで蛇口を一気に捻ったようだ。間断なく何かが注ぎ込まれていく。
口腔へと否応なく流し込まれていく液体。飲めと言わんばかりに口内を満たしていくそれに、堪らず私は喉を動かした。味と匂いがしたのは、それが酒気を帯びているからなのだろう。さっきシャワーズが飲んだという猿酒。それが今、直に注がれているのだ。
掻き抱かれ、身動きがとれないまま、流し込まれる酒を何とか飲み干し続けていく。解放されるには時間が掛かった。唐突に口を離したシャワーズ。うなじの拘束が緩んだのに、私はシャワーズを突き飛ばしながら起き上がり、地面に向かって
ひとしきり吐き戻し、限界を超えた胃が元に戻る頃には水たまりが出来ていた。焼け付く食道に咳き込んでいると、するり、と伸びてきた前足に顎を引き上げられた。潤んだ私の目がシャワーズを捉える。空気を求めて喘ぐ私をよそに、彼は私の口の端についた涎を舐め取り、目を細めた。
「さっきぼくが飲んだやつだよ。おいしかった?」
私はかぶりを振った。飲み慣れてないアルコールで頭が揺れる。
「そ……んなことあるわけない。あんた、今自分が何したか分かって――」
否定しようとした私を、シャワーズは胸元への突きで無理矢理遮った。
的確に鳩尾に入った前足の一撃。ごぽりと残りの酒が戻ってくる。食道と鼻腔に灼熱感が蘇り、私はたまらず吐き戻した。跪き、再び足下を汚す。荒い呼吸を繰り返しながら、思わずつむった目を開いた。涙で霞んだ視界に彼の姿を捉えた。
「ごめんね。ちょっと強すぎちっゃたかも」
そう言って、すまなさそうに舌を出してみせる彼。何かに失敗したとき、彼がよくやる癖だった。状況も相まって、それは酷くおぞましいものに見える。
「な、なんなのよ、一体……」
歯を食いしばって、震える前足に力を込めて起き上がる。精一杯の虚勢を張って真っ向からシャワーズねめつけた。言いながら、自分自身震えてるのがわかった。痛みと恐怖に体が萎縮してしまってるのだ。
「……こんなことして、ただで済むと思ってるの」
「ごめんごめん。いやね、本当は押し返そうとしただけなんだけど、なんか失敗しちゃって。だからそんな怒らないでよ、ね」
へらへらと拝むように両手を顔の前で合わせてみせるシャワーズ。
「だからさ、怒らないでよ。だってまだ……」
私と彼の間に掲げられた両の前足。その陰から彼が笑むのが見えた。悪寒を感じたのは何度目だろうか。何があってもいいように震える足腰に力を込めると、それに気づいたシャワーズは一旦言葉を区切る。すぅと目を細め、もったいぶるような口ぶりで残りの台詞を読み上げた。
「お仕置きは終わってないんだからね」
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