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片翼のレプリカ

/片翼のレプリカ

作:朱烏



 レプリカはいつも喋らない。
 レプリカはいつも静謐だ。
 レプリカは頭の上に白い輪っかを浮かべている。
 レプリカは背中に穴が空いている。夜空のようながらんどうだ。
 レプリカは僕を抱きしめない。
 レプリカは息をしない。
 レプリカは片方の羽を紛失している。僕の仲間に捥ぎ取られた。
 レプリカは脆く、容易く壊れる。
 
 ゆえに、僕はレプリカが誰にも傷つけられないよう、いつも六本の爪の先に引っかけて抱えている。
 物言わぬ空っぽ。僕の大切な片割れ(レプリカ)





 片翼のレプリカ





 僕らの種族は、じめじめとした地中か、老木の根元に巣を作って、鳥ポケモンの餌とならぬように息を潜めて暮らしていた。
 その気配の隠し方といったらゴースやムウマのようなゴーストポケモンたちのそれ並で、鳥ポケモンどころか森に暮らす草ポケモンや虫ポケモンたちにすら存在を認知されることは稀だったし、僕らはそれを誉れとしていた。
 僕も例に漏れず、小さな木の根っこと土の隙間に入り込んで、木漏れ日も差し込まない薄暗い空間で、ただ息を吸っては吐くだけの日々を謳歌していた。
 時折爪で木の根を削っては、染み出てくる樹液を吸うのだが、それが生きる上で最大の幸福だった。巣とする場所を選ぶとき、ツチニンが第一に考えるのは外敵の目をどれだけうまく欺けるかどうかであるが、もし木の根を巣とするなら樹液の質もまた考慮すべきポイントだ。
 幸いにも僕は、極めて質の高い樹液を有しながらも、身を隠すのに適した根の形をしている樹を見つけていて、巣を作ったあとはてこでも動かぬというフォレトスさながらの鋼の意志で居座っていた。

「イシヅキ、起きて!」
 寝穢(いぎたな)さで右に出る者はいないケーシィでさえ飛び起きるであろうけたたましさが、腹の耳孔をつんざいた。
「うるさ……」
 ひっくり返りそうになった目玉を元に戻すと、同じツチニンのソラトビがいたので得心がいった。
 彼女は、じめついた性格の僕とはまったく正反対の調子の持ち主で、特筆すべきはその馬鹿でかい鳴き声だった。
「いったい何の用……」
 地面タイプなのに空を飛ぶという奇妙な名前の雌のツチニンは、大層な報せを持ってきてやったと言わんばかりに胸を張った。
「ヌイカがそろそろ進化しそうだって!」
 ヌイカは僕より一ヶ月ほど早く生まれたヌケニンだ。発育も他のヌケニンたちに比べ恵まれていた。
 そんな彼が進化するという。
「見にいこ! こっち!」
 ソラトビは僕に有無を言わさず歩き始めた。ああ、この(せわ)しさがまさしく彼女だったなと、僕もおずおずと歩いていく。
 正直なところ、いくら鳥ポケモンを見かけないじめじめとした森の中とはいえ、体を晒してまで仲間の進化を見にいきたいとは到底思えなかった。
 しかしソラトビの純粋な好意を無下にするのも同様に憚られ、気乗りはしないが結局流されるままに彼女の後ろをついていく。

「あ、いた!」
 ソラトビの爪が指し示した木には、ヌイカとおぼしき大柄のツチニンが張りついていた。不思議な青っぽい光が、彼の背中で煌々としている。
 ヌイカのまわりにはすでに多数のツチニンたちが集まっていて、群れの中の進化第一号をその目に収めんと色めき立っていた。
 道中、あまりの気怠さにげんなりしていた僕も、いざ仲間のめでたい場面の目撃者になると思うと、俄然わくわくしてきた。ソラトビの手前、表情にはおくびにも出さないようにしているが。
 もっとも、ソラトビはすでに僕のことなど眼中になく、食い入るように淡く光るヌイカを見つめている。
 ややあって、ヌイカの発す光が強くなった。太陽の光さえ忌避する僕たちにとって、その閃光は毒ですらあった。
「いよいよだね」
 ソラトビが胸を高鳴らせ、僕は静かに頷く。
 ヌイカの体が、まばゆい光に包まれた。僕もソラトビも他のツチニンたちも、その眩しさに一様に目を爪で覆い、それでもなんとか触覚に伝わる空気のわななきから、ヌイカの生まれ変わる瞬間を感じ取ろうとしていた。
 次第に光が弱まっていき、ついにヌイカは新しい姿を現した。
 赤い目、透き通った翅、黄金の体。そして独特で騒々しい翅音。
 一気に歓声が上がった。おめでとう、やったね、と口々に言祝ぎの言葉が述べられて、ヌイカはありがとうと誇らしげに六本の脚に力を込めた。
 僕は、ヌイカがその脚で抱えている何かに、目が釘付けになった。
「あれは……」
 いったい何なのだろうと思ったのもつかの間、ヌイカはそれを六本脚で砕き始めた。
 僕は驚愕で息が止まった。
 バリ、ゴリ、バキ、と翅音に紛れてそれが粉々に砕け散り地面に落ちていくのを、僕はバクバクと鳴る心音に体をこわばらせながら、見届けることしかできなかった。
 しかし、周りはその行為を特段気にしている様子もない。まるでそれが当たり前であるかのように、その行為は受け流される。
 鳴り止まぬ喝采の中、僕ひとりだけが居心地の悪さに軽い酩酊感を覚えていた。

 
「すごかったねえ! 私たちもきっと夏を迎えるくらいにはあんな風になるんだね!」
 ソラトビは無邪気にはしゃいでいた。足取りはやたらと軽やかで、一般的ツチニンらしさとは程遠い。
 僕は対照的に――もともとソラトビとは正反対だが――おもりを括りつけられたような陰気くさい足取りだ。
 ヌイカは、周りのツチニンたち一匹一匹に馬鹿丁寧な挨拶をして、どこかへ旅立っていった。囂々(ごうごう)たる翅音は一瞬にして消失し、残されたのは憧憬に焦がれるツチニンたちと、無残に破砕され塵芥となった、色褪せた何かだけ。
 それもまた一陣の風が浚っていき、あの衝撃的なヌイカの行為の痕跡は、僕ただ一匹の脳裏にのみ強くこびりついているだけとなった。
「ねえ……ヌイカは進化したあと、何をしていたの」
 僕はまとわりつく倦怠感に沈んだまま、これまた陰気くさい口調でソラトビに尋ねた。
「え、何の話?」
 ソラトビはきらきらとした目でこちらを見た。なんだか、今の僕にはそれがとても不気味なもののように思える。
「いや……進化した瞬間に何か持ってたけど、粉々にしちゃったよね。あれ、何?」
 ソラトビは固まっていた。困惑とか、逡巡とか、そんなものではなく、単純に何を訊かれているのかまったく思い当たる節がないという表情だった。
「え……僕、変なこと訊いた?」
 か細い赤橙色の光条が差し込む夕暮れ時の森は、普段なら天敵の鳥ポケモンたちが巣に帰り始める時分ゆえに僕らにとっては喜ばしい時間帯であるはずなのに、このときばかりはただただ薄気味悪かった。
 森閑とした空気に、僕の触覚は嫌な震え方をする。
「あ、ごめん! 当たり前すぎて、何のこと言ってるのかちょっとわからなくて! 抜け殻のことでしょ?」
「抜け殻?」
「知らないの? 私たち、進化するときに脱皮? っていうのかな? 自分の体を覆ってる薄い皮を脱ぐんだよね。で、その抜け殻、残しちゃうのも良くないらしくて、さっさと壊しちゃうんだよ。さっきのヌイカみたいに」
「……そっか、あれ、抜け殻だったんだ」
 脱皮するポケモンなどいくらでもいる。蛇系のポケモンの中には、脱皮したらその皮を自分で食す種もいると聞く。
 燻っていたいたたまれなさは瞬く間に氷解して、歪んで見えた景色はいつもの美しい景色に戻った。
 そもそも、なぜ僕はあの光景を嫌なものだと認識したのだろう。みんなが当たり前に受け止めているのだから、それは悪いことでも何でもない当然の行為で、僕が勝手にばつの悪さを覚える理由などどこにもなかった。
 ――とはいえ、ソラトビの曖昧な説明に釈然としない自分もまた存在していた。わざわざ反駁する気はないし、()しんば僕の思いを吐露できたとしてそれが彼女を納得させうるものになるはずもない。
 僕は、努めて今日の出来事を忘れることにした。何も考えずに、ただソラトビを追いかけながら帰路につく。寝て起きてねぐらの美味い樹液を吸えば、それも叶うはずだ。


 ◇◆◇


 あれから、平穏無事な一ヶ月を過ごした。鳥ポケモンに襲われることもなく、仲間同士で喧嘩することもなく、ただただ至福だった。
 僕を含め、森のツチニンたちは健やかに育っている。空気の潤う梅雨の時期も過ぎ去り、湿った土の感触を噛み締めながら、木漏れ日の差し込む森の天井を見上げた。
 夏が来た。ヌイカは一足先に進化したが、本来であればこの季節こそが僕たちの季節だった。
 栄養を十二分に蓄えたツチニンたちが、各々の好む樹木に爪を引っかけて登る。幹にしがみついて、進化のためのエネルギーが完全に充填されるまでじっと待つ。
 ソラトビが少し遠くのほうで、妙に湾曲した小木にどたばたと登ったのを見て、僕も巣にしていた樹に登る。
 巣立ちの時だ。最後にこの愛すべき樹の樹液をもっと味わうべきだったかなと思いはするが、他の仲間たちに後れを取るわけにもいくまい。
 どんな翅が生えるのだろう。どんな速さで飛べるのだろう。ヌイカの進化の際にも冷静を装っていた僕ではあるが、いざ自分事となるとどうしたって笑みがこぼれてしまう。
 進化を迎えるまで、じっと樹の皮に寄り縋る。この時ばかりは、わかりやすく身を晒しているので天敵に狙われやすい。どうか僕もソラトビも他の仲間たちも、誰ひとりとして欠けることなく進化を迎えられますようにと祈りを捧げる。
 気温が上昇していく。湿った地面から水気が立ち上る。草ポケモンたちが走り回り、土と草の擦れる音がする。
 果てしなく長い時間に感じられた。一刻一刻が無限大に間延びする。僕は、ツチニンの姿に別れを告げる時分になって、時間というものは伸び縮みするものであるというこの世の真理の一つを知った。
「来たあ!」
 姦しい声が聞こえた。見るまでもなく、ソラトビだろう。どうやら一番乗りは彼女らしい。青白い光が明滅している。
 彼女に呼応するかのように、次々と他のツチニンたちも光り始める。
 仲間たちがほぼ全員光りを発したのを見届けると、僕の鈍間な体はようやく仲間たちに追随する。やっと僕の体にも変化が起こり始めた。
 体の細胞がごっそりと作り替えられるかのような感覚。あったはずの部位が消え、なかったはずの部位が突然現れる。
 決して心地の良い感触ではないが、悪い気はしない。痛みはなく、苦しさも感じない。もう戻らない姿への名残惜しさは、ほんの少しだけあった。
 そういえば、進化先でも変わらずに樹液を吸えるのだろうか。虫ポケモンは往々にして幼体と生体で食べるものががらりと変わる。もしツチニンのときに大好きだった樹液が、進化してまったく受け付けなくなるようなことがあれば、とても悲しい。
「ついに俺もテッカニンだ!」
「見て、こんなに綺麗な翅!」
 一足先に進化を遂げた仲間たちの声が聞こえてくる。
 僕もはやく――
(進化したいな)
 ――?
 僕の声が聞こえた。だが、僕は何も言葉を発していない。まるで僕がふたりいるような――。
(ねえ)
 いよいよ兆しが最高潮を迎える。同時に、僕の中の戸惑いが増大する。
 僕ではない僕が生まれる。僕から僕が分離する。僕に限りなく似た僕が複製される。
 閃光が弾け飛んだ。

 僕は、進化を果たした。白茶けた肢体は黄金と黒の肉体へ。草色の飾り翅は二対の大きな透き通った翅へ。
 周囲を見渡すと、僕が最後の手番のようだった。皆めいめいに歓呼のけたたましい音を奏でている。
 ふと、気がつく。僕の六本の脚が、抱えているものに。
 抜け殻だ。
 これを――壊すのか。気が引ける。
 本能で? 慣わしで? ソラトビはそれが当然のことだと言ったが、いかなる理由によってこれを破壊しなければならないのか。
 背を向けている抜け殻をこちらに向ける。
 大きさは僕と同じだ。僕の抜け殻だから当たり前のことだ。硬いが脆そうな触り心地だ。しかし、時期に水分が完全に抜けて、かちかちに固まってしまいそうでもあった。
 顔は、思いのほか可愛らしい。いや、抜け殻だからこれは自分の顔なのか? ならば前言は撤回だ。
 頭に白い輪のようなものが浮いている。これは僕にはない。
 ガチ。
(……!)
 かすかに動いた。微動だにしないと思っていたそれが、胎動のごとく僕に何かを訴えかけてきている。
 生きている。
「君、生きてるんだね」
 腑に落ちた。進化の時に聞いた声の主はこれだったのだ。
「イシヅキ、無事に進化できたみたいだね! おめでとう!」
 一際大きい翅音を伴い、ソラトビがやってきた。明朗な声と性格は姿形が変わろうと微塵も変化はない。
「あ……ありがとう」
 僕の視線は、ソラトビの脚にぴたりと張りついて動かなくなった。より正確に言えば――脚に付着していた(かす)に。
「それ、まだ砕いてないの?」
「えっと」
「私がやったげようか」
 いや、いい。そう言いかけたが、言葉がつっかえて出てこない。喉が異様に乾く。樹液が飲み足りなかったのかもしれないが、それ以上にソラトビの屈託のない笑顔がとても(おぞ)ましいものに感じられたのだ。
「ほら、遠慮しないで」
 テッカニンという種族は、動きの鈍い進化前と異なって、目にも留まらぬような速さを得ている。その速度をもって僕と距離を詰めたソラトビは――僕の抜け殻の右翅を捥いだ。
 乾いたような、それでいて湿ったような、相反性の破砕音。この世で最も忌まわしい音が、耳孔を震わせた。
「何するんだ!」
 とても己の喉から出たとは思えないような怒号とともに、僕はソラトビを突き飛ばした。
(あ……)
 反射的にとった行動は、瞬く間に周囲の視線を集めた。
 じりじりと(かまびす)しい翅音が僕のまわりを取り囲む。腹から脂汗が止まらない。眩暈と頭痛により、世界が逆しまになってしまったかのような錯覚。
 取り繕う台詞を探しても、一向に脳は当たりの言葉を引いてこない。
「イシヅキ……」
 地面に叩きつけられたソラトビが、ふらふらと僕の前にやってきた。
「ご、ごめ――」
「ごめん、気が利かなくて! 自分でやりたかったよね!」
「……!」
 僕に向いていた非難の視線は、ソラトビが謝ったことにより別の感情に書き換えられた。
 すなわち、応援。この場にいる百をゆうに超えるテッカニンの中で、唯一己の抜け殻を壊していないイシヅキという個体に対する励ましの声。
 お前ならできる! 頑張れ! さあ脚に力を込めて砕き潰すんだ!
 ――まるで、それが正式な手続きであるかのように。乗り越えなければ、さもテッカニンとして生きる資格はないとでも言うように。
 森に木霊する空恐ろしい蝉時雨。一粒一粒が呪詛であり、一身に受けた僕は張り裂けそうになった。
「嫌だよ……」
 小さくごちる。耳障りな蝉時雨は止まない。
「嫌だ!! 僕は壊したくない!!」
 腹膜が破れそうになるほど、僕は力一杯に鳴き叫んだ。
 まるで時間が止まったように、蝉時雨も一斉に止む。
 空気が一変する。みんな滞空しているが、翅音がまったく聞こえない。
「イシヅキ、自分が何言ってるのか分かってる?」
 静寂な空間の中で、一匹の雌のテッカニンの声が不気味に響いた。
 甲高い声であるはずのソラトビが、まったく抑揚のついていない低い調子で僕を詰める。
「言ったよね? それ、壊さなきゃいけないものだって。もしかして、イシヅキって物分かりがよくないほう?」
「でも……でも! 生きてるんだよ、これ! 壊すなんて、そんな酷いこと、僕には無理だよ……」
 ソラトビは、心底呆れたように口をカチカチと鳴らした。他の仲間たちも、赤い目で僕を嘲笑っている。
「生きてるとか死んでるとか、そういう問題じゃないから。それはこの世に残ってるだけで良くないものなの」
「分かるように説明してよ!」
 もし、本当にこの抜け殻を壊さなければ行けない理由があるのならば――厭々ながら、ソラトビの言葉に従う意思はあった。
 けれども、ソラトビも他の仲間も僕を納得させてくれようとはしない。ただ、それが掟であるからとでも言うように、型通りな主張を繰り返すだけだった。
「はあ……もういいよ」
 そのため息に、彼らは僕を説得することを諦めたのだ、と早合点した。これで僕は抜け殻を守れるのだろうと。
 刹那、四方八方から連続斬りが飛んできた。
「うわっ!」
 僕は凄まじい俊敏さでそれらをすべてかわして逃げ出した。進化を遂げた体の恐るべき反射速度に救われた。だが危機は僕に負けない速度で後ろから追撃してくる。
「待てコラァ!」
 穏やかな性格を持つ仲間に恵まれたとこれまで思っていたのはただの思い違いだったようだ。ドスの利いた鳴き声と、稲妻のような苛烈な翅音は、とても同じ種族のものであるとは思えない。
 抜け殻を抱えたままの僕は、行き先に飛び出している樹の枝と、仲間たちの攻撃を避けるので精一杯。進化したばかりの体にとって、あまりにも強烈な仕打ちだった。
 目まぐるしい速度は、思考すら置き去りにする。自分が抱えている分身や、逃げる理由も、一切合切が分からなくなる。この速度で動き続けたら命が尽きるのではないかという危惧も一瞬だけ湧いて出たような気がするが、もはや僕の遙か後方だ。
 僕の脚の中で動く素振りもなく虚空を見つめる分身は、この追走劇に何を思うのだろう。僕が捕まったら粉々にされることも理解しているのだろうか。
「――あ」
 閃きが脳髄に流れ込んでくる。
(やるしかない!)
 技を発動した。今の今まで忘れていたが、ソラトビが昔教えてくれた。ツチニンの進化先は自らの分身を大量に作る素晴らしい技を基礎技として覚えていると。
 一か八かだった。立派なものでなくていい。目眩まし程度にさえなってくれれば。
 僕の形を象った大量の複製物(レプリカ)が、あちらこちらに飛び回る。仲間の叫声やら悲鳴やらが飛び交って、もう何が何やら分からない混迷状態。
 僕は上方に逃げ、森の天井を突き破って空に飛び出したが、追ってくる者はいない。
 どこでもいい、とにかくずっとずっと遠くの方へ。
 もう仲間たちと一緒にはいられない。どんな弁明をしようと彼らの思いを裏切ってしまったのは事実だ。
 一匹で生きていくしかない。
 ――いや、僕には抜け殻がいる。一匹ではない。
「レプリカ……か」
 影分身は対象の視覚や空間を弄ることによって発生する幻。ただの紛い物だ。
 でも僕の脚の中にあるものはれっきとした本物(レプリカ)で、寄る辺なき身でもきっと寂しい思いはしなくて済むはずだ。
「追ってこなければいいけど……」
 今のところ追っ手は振り切ったが、彼らの執念は想像を絶する。絶対に僕を見つけ出そうとするだろう。
 休みながらでもいい。果てしなく遠くへ。ツチニンもテッカニンも住まない、絶対に糾弾されない土地へ。
 僕とレプリカの安寧の地を探し出そう。


 ◇◆◇


 右翅は捥げたままだったが、レプリカは難なく飛行することができた。飛行というよりは浮遊で、けたたましい翅音を鳴らして飛ぶ僕と異なり、さながら空に長く留まる雲のように静かで美しかった。
 樹液を口にする場面も見たことがない。何も食さずとも生きていけるらしい。摩訶不思議だ。
 もっとも、旅を続けるにしたがって、僕がまともに吸えるような樹液を持つ樹はだんだんと見かけなくなっていた。今現在、もう三日も何も口にできていない。
 戻ろうかとも思った。もともと住んでいた場所が、生きる上で一番良いに決まっている。
 だが、戻ったら最後、レプリカはばらばらにされる。それだけは許せなかった。
 レプリカをここに置いて、自分だけ戻る選択肢もあった。なんとかみんなに認められたくて、頑張って抜け殻を壊したとでも言って身一つで戻れば、仲間たちは水に流してくれるだろう。
 しかし、その選択肢は選べなかった。レプリカはどんなときでも僕の後ろをついてくる。
 レプリカを仲間の魔の手から守ったそのときから、僕らはもう一心同体だった。今さら捨てることなどできやしないし、そんなことをした暁には僕の心にはぽっかりと穴が空いて、ただのがらんどうになるだろう。


 ◇◆◇


 夏はとうの昔に過ぎ去って、秋めいた森の姿も徐々に鮮やかさを失っていく。
 蝉時雨が聞こえてくるたびに元いた場所を離れることを繰り返すうちに、もはや食事ができるような樹は見当たらなくなってしまった。
 このあたりの樹は幹があまりにも堅すぎて、削ることができないのだ。レプリカはずっと平気そうにしているが、僕は飢えていた。
 物悲しい景色に、本格的な冬の到来を感じ取る。
「お腹空いたなあ……」
 かつての仲間たちは、樹液をたらふく溜め込んで、厳しい冬を凌ぎきるだろう。今の僕にはおよそ不可能だった。
 飛ぶ元気をすでに失くしていた僕は、寂れた大樹の根元に寄りかかっていた。
 レプリカは僕の眼前でじっと動かず浮かんでいて、僕の目を見つめている。
「もう一度樹液が吸いたかったなあ」
 叶わぬ願いを口にして、僕は天を仰ぐ。今にも降りだしそうな曇り空。降るのは雨ではなく雪かもしれない。
 寒さにぶるりと身を震わせる。
「おいで、レプリカ」
 すう、と音もなくレプリカが近づく。僕は硬くなった脚でレプリカを抱き寄せる。泣き出しそうだった心が、ほんの少しだけ落ち着いた。
 心残りはあれど、後悔はしていない。僕なりの矜持は貫いた。レプリカを置いてけぼりにして逝くのは忍びないが、不器用な僕にしてはよくやった。
 ――レプリカが後ろを向く。その背中には、大きな穴が空いていた。
 レプリカは、いつも僕の正面を向いていた。理由は定かではなかったし、わざわざ僕もレプリカを詮索するようなことはしなかった。
 けれども、今際の際でレプリカは僕に背中を見せた。今まで自発的に動くことのなかったレプリカが、初めて自分の意志で僕に何かをしようとしている。
 レプリカは言葉を発しないし、目で語ることもない。それでも、レプリカのしたいことが僕には容易く理解できる。
「ありがとう、レプリカ」
 肉体は朽ちるだろう。だが、僕はレプリカの中で永遠に生き続ける。
 僕は、レプリカの背中の穴を覗き込んだ。
 きっと、これが正解だ。



 ◇◆◇


 
 無価値たらしめられていた複製物(ボク)を、原物(オリジナル)はずっと守ってくれた。
 原物の樹液を吸っている姿が好きだった。
 原物の飛び回る騒がしい翅音が好きだった。
 原物の優しい複眼が好きだった。
 原物のボクを抱く脚が好きだった。
 脆かったボクの体は、守られているうちに鉱石のような硬さを得た。
 原物の肉体はもう雨風に曝されて壊れてしまった。
 けれども、魂は誰にも傷つけられることのないボクの中に大切に保存している。
 複製物(ボク)原物(ぼく)は、いかなる者にも引き離すことはできない。
 ボク(ぼく)たちは永遠に、共に生き続ける。
 だから、安心してね、ボクの片割れ(オリジナル)






 (了)








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今回は遅刻せずに投稿できました! 成長を感じる……!
第十六回短編小説大会、4票頂いて6位タイでした! 読んでくださった方々、票・コメントを下さった方々には感謝申し上げます。
作者的には、とりあえずかっこいいタイトルをつけられたのでそれで満足してます!
以下コメント返しです。

狂気ともいえる抜け殻壊しへの執着。何が彼らをそうさせたのか…
逃げ切った先で、主人公たちは文字通り「一体に」なった。これが救いだと信じたいです。 (2020/07/16(木) 20:28)


下の方で解説を書きましたので、抜け殻壊しとは? についてはそちらをご参照ください。
今回、端から見れば全然ハッピーエンドに見えない物語を書いたつもりで、最後が救いになってるかどうかは、読み手のご判断にお任せしようと思います。

きっとイシヅキの魂は抜け殻の中で生き続けるのだろうなと思いました。 (2020/07/18(土) 17:48)


イメージ的には平井堅のMV「キミはともだち」みたいに一体となって生き続けるのだと思います。

ヌケニンとテッカニンという種族の持つ独特の関係がとても素敵でした。気づいてしまったが故に、立場も友も捨ててレプリカを守るために奔走するイシヅキの姿が健気で健気で…… (2020/07/18(土) 18:34)


気づかないほうが、何の疑問も抱かずに生きていたほうが、幸せだったのかもしれません。けど、目を逸らさずに受け止めるだけの優しさをもったがゆえに、最後に自分なりの幸せを得られたのかなと思います。

集団心理、同調圧力、そういった感じの恐怖描写が大変かっこいいのです。 (2020/07/18(土) 23:31)


実はそのあたりは狙って書いたところで……イメージ的には「ひぐらしのなく頃に」ですかね。書いてて結構楽しかったです。



よくわからない解説(白抜き反転):
 頂いたコメントにもありましたが、イシヅキの仲間たちはなぜ抜け殻壊しを強要しようとしたのかについてお答えします
 イシヅキたちの群れの親の代またはそのさらに親の代(もしかしたらもっと上の代かも)で、興味本位で抜け殻の穴を除いて魂を吸われた(=死んでしまった)個体がいました
 それまでただの抜け殻としか見なされていなかったものが、そのような化け物じみた能力を有していることにテッカニンたちは恐怖したのだろうと思います
 他のポケモンたちと異なり、自分たちの進化は否が応でもとんでもないモノを生み出してしまう
 これ以上犠牲を出さないためにも、進化したら抜け殻が脆いうちに壊せという掟が生まれました
 ただ、こういう不文律って往々にして世代を経るごとに目的がわからなくなっていくものですよね
 みなさんのまわりにも、何のためにあるのかわからないルールってありませんか? それは形骸化したものかもしれないし、今回の抜け殻壊しのように実は重大な意味をもつものかもしれません
 もっとも、ソラトビたちは掟の真の意味はもはや理解できない世代だったので、イシヅキにも納得させられるような説明はできなかったし、それが徒にイシヅキの恐怖心を煽ってしまった
 ソラトビたちの目線から見ると、これは抜け殻に魅入られた哀れな個体を救うことができなかった悲しい物語なのです
 結末がイシヅキにとっての救いとなったかどうかは、読者様がたのご判断にお任せしますね

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Last-modified: 2020-07-19 (日) 21:33:57
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