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来訪者

/来訪者

※一部、出血、暴力シーンがあります。ご注意ください。


 波が打ち寄せる砂浜。その奥には高い崖がそびえ立ってる。巨大な薄茶色の岸壁をもつそれは生き物を寄せ付けない雄大さを備えていた。その一角に洞窟がある。中には一匹のバシャーモがいた。身長は高いが頬は痩せこけ、肋骨はひと目でその輪郭がわかるほどに浮き上がっている。顔色も赤色よりどこか青白いというものに近く、羽毛は手入れがされていないのか並びが雑然としたものだった。
 雨が降る夜、風は強く、水が崖に跳ねる音がよく聞こえる洞窟で彼はいつものように横になっていた。
 そこに変化が訪れた。何かが崖にぶつかったような音がした。鈍い音だった。気にはなったが暗さで何も見えない為、彼はそのまま横になっていた。別の音がまた聞こえた。何かが砂浜を踏みしめる音がする。だんだん近づいてきているようだった。こんな夜中に敵襲もないだろうが、何者だろうか。
 手で壁をつかんで上体を起こす。背中が痛む。ヤドン並みの遅さで立ち上がる。
 歩こうとすると咳が出て、十秒ほど動きが止まる。落ち着くと入り口で小さな生き物が顔を出していたのが松明に照らされていた。
 自分より遥かに小さな体だ。自分と同じく目や手足は二本のようだが、やはりずっと小さい。左目の上からは血が流れていた。
「夜に申し訳ないけど良かったら寝所を貸してくれない?」
 思考のためにしばし沈黙したのち、バシャーモは指で入るように合図した。
「どうも」
 意外そうな表情をした訪問者は中に入り、壁にもたれて座り込む。
「親切を受けてこんなこと言うのも何だけど変なことしないでよ?」
 男も壁に背中を預けて座り込む。
「何もしない」
「初対面の雄の言葉をそのまま信じるほど馬鹿じゃないわよ」
「警戒するのは勝手だが俺にはそういう趣味はない」
「どうだか」
「君こそ、こんな時間にこんなところで何をしていたんだ」
 彼女は一拍の沈黙をとった。
「道に迷ったの。それで暗くてよく見えないから崖にぶつかっちゃって」
「ぶつかる?」
「こう見えても空を飛べるのよ」
「なるほど、だがこんな夜中にこのあたりをうろつく理由にはなっていないな」
「言わなきゃならない理由もないと思うけど?」
「まあ、俺も深い興味はない」
「なら黙っていることね。お互い、後腐れなく別れたほうが気持ちいいでしょ」
「いるのはいいが1晩だけだぞ」
「言われなくたってそうするわよ」
「ならいい」
 それだけ言い残して男は瞼を閉じる。沈黙が流れる。が、長い時間も経たずに彼の口から咳が漏れることでそれは破られる。
「どこか、悪いの?」
「君には関係のないことだ」
「一人でここに住んでるの?」
「そうだが?」
「珍しいんじゃないの?あんたの種族、確か、バシャーモっていうんだっけ、一人で住んでるのってみたことないけど」
「俺も見たことはない。どうでもいいことだが」
「そうね、どうでもいいことよね」
 少しばかり柔らかさが加わった声色だった。
「ねえ、何か話でもしてくれない?」
「藪から棒だな」
「あまり眠れそうにもないから。適当にあんたの好きな話でもしてくれたらそれでいいからさ」
「愉快な思い出話しなどない」
「愉快じゃなくても思い出はあるでしょ?あんたみたいな雄の一匹狼に面白い話がないなんてあり得ないわ」
 バシャーモは答えなかった。これ以上、言っても無駄なような気もしたし、彼は口を開くことにした。それは同時に彼に必要なことでもあった。
「楽しい話じゃないが、まだ若かった頃に君に似た奴に会ったことがある」
「私と似た生き物?」
「昔のことだが、その時の記憶は妙にはっきり残ってる」
 男はゆっくり言葉を紡ぐ。それはまだ肉体に精気も力も溢れていた頃、己の道をひたすら一人で走っていた時代のことだった。
 
 深い山林の中、雪が降り積もり、露出している岩や木以外はひたすら白一色の場所。山と森の間には何もない白い平原が広がっていた。そんな場所の片隅にある洞窟でバシャーモは暮らしていた。この過酷な環境に身を置きながら、彼は己を高める為にあらゆる鍛錬を行っていた。
 この日も彼は平原で技の改良を行っていた。その帰りのことである。太陽は雲に覆われてはいるが、空は明るく、雪は穏やかに降っていた。
 住処の洞窟まですぐそこという所で獣道を歩いていた彼は歩みを止めた。道の両脇に無数に生えている木の、その一つに何かが木にもたれかかっているのが見えた。生き物のようだった。体格は自分と比べてずっと小さく手足も非常に短い。体形も雌を想起させるようなものだった。それは木にもたれかかって目を閉じたまま、そこにじっとしていた。頭には降り積もった雪が薄く積もっていた。
 立ち止まったバシャーモは横目で見ながら声をかける。
「そんなところで寝てたら死ぬぞ」
 生き物は何の反応も示さなかった。もう死んでいるのかとバシャーモは生き物の体に触れる。体はとても冷たかったが、脈はあった。呼吸の音も聞こえた。ただ、どれも弱々しかった。このまま放っておけば寒さで凍え死ぬのは明白であった。
 少しの逡巡を経て、彼はその体を抱え上げた。恐ろしく軽い体だった。家に戻ると体を地面にゆっくり下ろし、自分はいつもやっているように焚き火の用意を始めた。火を起こす度、バシャーモが自分が火を扱える生き物である幸運に感謝していた。バチバチと薪が弾ける音がなり始め、暖かさが確実に増していった。
 火の向こう側にいる生き物に変化が起きたのはその時だった。まず、呻き声が聞こえ、その次に瞼が開かれた。大きな目だった。周囲を見渡し、こちらを視認したようだが大した反応はなかった。
「ここはあの世?」
 低いながらも雌らしい透き通った声を放った生き物はそう言った。
「現実だ、あの世に近いところではあるがな」
「私を助けたの」
「そうだ。放っておいても良かったが、そのまま死なれたら俺が気分よく眠れなくなるからな」
 彼女は力なく笑った。虚無に塗れた笑顔だった。
「面白いこと言うのね」
 助けられた者らしからぬ物言いにバシャーモは顔を上げる。
「自殺でもするつもりだったか?」
「そんなんじゃないわ。ひどく疲れてた。ただ、それだけ」
 彼女は焚き火のそばに座ってしばらくそれを見ていた。先程の笑顔と同様に、火に何かを見出すことはなく、ただ虚ろにそれを見つめていた。
 尋常ならざるものを感じたバシャーモだったがどんな相手であれ、彼はこの場所を無制限に貸し出すほど寛大ではなかった。また、そうあるように自らに課していた。
「詳しく詮索するつもりはないが一晩くらいならここで寝ても構わん。飯も分けてやる。だが一晩だけだ。明日になれば、さっさと出て行ってもらうぞ。死ぬつもりなら今度は俺の目が届かないところでやるんだな」
「ご親切ね。見ず知らずの私を泊めてもいいなんて」
「……」
 彼は立ち上がって彼女のそばにしゃがみ込む。いいか、と前置きして鋭い碧の瞳を彼女に向ける。
「親切じゃない。俺自身のためだ。俺がそうした方がいいと考えるからそうするんだ」
「貴方って面白い人ね」
「たまに言われる。愉快という意味は含まれていないがな」
 その時である。遠くの方からジャラジャラという音が聞こえた。何かが細かく振動しているような音だった。バシャーモは立ち上がり、外に視線を向ける。
「どうしたの?」
「少し出かける。面倒事に巻き込まれたくなかったらここを動くな」
 彼は外にでて、森の道を駆け出す。あの物音はある人物が自分に会いに来ている合図だ。敵対している相手ではなかったがあまり会いたくもない人物だった。

 雪の降りが穏やかになった時分に彼は戻ってきた。
「君は随分、人から人気のある生き物のようだな」
 帰ってから横になっている彼女にそう言った。
「何のこと?」
「ここの縄張りの主がよそ者を探していた。人間が追ってるそうだが、君のことなのか?」
「そうよ」
 少しの躊躇もなく彼女は言って見せた。
「そうなると少々面倒だな」
「私を放り出す?」
「逆だ。君を簡単に外に出す訳にはいかなくなった」
 焚き火のそばにしゃがみ込む。
「君を放り出せば俺の嫌いなやつが得をする、君が不幸になることを俺が黙認して気分が悪くなる。俺が得るものが少なすぎる」
「私が極悪人なら貴方の良心の呵責も減るのにね」
「そうなのか?」
「さあ?」
 彼女は手に持っているオレンの実を一口かじる。奥に無造作に貯蔵してある木の実の一つだが、彼女が自らそれを取っているのがバシャーモには意外な行動だった。
「人間が私を追ってるのは本当よ。理由は連中に聞いて頂戴」
「詮索するつもりはない。いずれにせよ、ほとぼりが冷めるまではここに留まってもらう」
「嫌だと言ったら?」
「明日の朝には出て行ってもらう」
「そう、シンプルでいいわ」
 バシャーモは立ち上がり、木の実を取りに行こうとする。
「動かなくていいわよ」
 彼女はそう言った。眼の前の木の実の山から一つがひとりでにふわふわと浮き上がり、彼の手の高さで止まる。
「寝る場所をくれるならこのくらいのことはやらないとね」
「君にこの手の技が使えるとはな」
「結構便利でしょ。大木程度なら振り回すこともできるわよ」
「なるほど。一人で行動するための備えはあるということか」
「それだけじゃないけどね」
 ふうん、と相づちを打って彼は食事を取った。外からは朧気ながら夕焼けの光が入ってきていた。
 バシャーモの生活に一時的に一人の雌が加わった瞬間だった。

 それからの生活は奇妙なものだった。なるべく彼女を外に出さず、食料を与えたり、外に出すときも周囲を警戒しながら誰にも見られないように気を遣った。彼女はその必要性について理解しているようだった。食料のとり方や身の守り方については一定の技量を身に着けており、彼が一言アドバイスすればその真意や本質を即座に理解した。バシャーモには新鮮な感覚だった。
 そんな生活が数日続いたある日の夜のこと、二人は焚き火の台を挟んで横になっていた。真っ暗な闇が世界を覆っている真夜中にバシャーモは目を覚ました。顔には汗が一粒、重力に従って流れていった。手で目頭を覆い、大きなため息を吐いた。
 横にいる彼女にふと視線をむけた。何を見ているのだ、俺は。彼女に助けを求めてるとでも言うのか、馬鹿馬鹿しい。
 そんなことを考え、再度横になる。
「嫌な夢でも見たの?」
 向こう側から声がかかった。
「覗き見でもしてたのか、悪趣味な」
「そんなつもりないわよ。たまたま起きてたら貴方が飛び起きた、それだけ」
「大した偶然だな」
「実は私も嫌な夢を見ちゃってね。眠れそうにないし、どうせなら何の夢を見たか話さない?」
「……好きにしてくれ」
「貴方から先よ」
「何?」
「私の悪夢は陳腐なの、私にとってはだけど。だから貴方の方を先に聞きたい」
「……大したことはない夢だ」
 バシャーモは感情を載せず、平坦な口調でそう言った。
「俺は何もない荒野を歩いていていた。どこに向かっているわけでもなく、ただ歩いていた。最初は何の問題もなかった。だが歩いているうちに足がもつれるようになり、簡単に息が上がるようになった。やがて足の関節の痛みが強くなり、歩くことも難しくなった。最後は自分で立ち上がることもできなくなり、ただ仰向けで体が朽ち果てるのを一人で待つだけになった。空を見ていると誰かの顔が浮かんでくる。朧げな像だったが馬鹿にするわけでもなく、悲しんでいるでもなく無表情にこっちを見ているだけだった」
 彼は大きなため息を一つ、ついた。
「それだけだ。何の変哲もないただの嫌な夢だ」
 彼女は悲痛な表情でもなく、驚きでもなく、ただ視線を下に向けて耳を傾けていた。
「嫌な夢ね」
「ああ、嫌な夢だ」
 座っていたバシャーモは彼女に横になる。外は変わらず無音の世界が広がっていた。
「君の番だぞ」
「そうね、私の体をもう一人の私が見ている夢。分身したみたいに私がしていることを私が見ている夢だった。意味わかる?」
「イメージは分かる」
「それで、もうひとりの私は何かから逃げているの、必死の形相でね。でも追いつかれて私は何かに捕まる。その後はありとあらゆることをされて、やがて私は動かなくなる。体はどこかの街の真ん中に捨てられるんだけど、周りの人間は皆無視して通り過ぎていく。体は時間が経った死体のように朽ち果てていく。それをもうひとりの私が見ているの。ただそれだけ。それだけの夢よ」
 最後には消え入りそうな声で彼女は言葉を切った。大きなため息の音が洞窟にはよく響いた。
「嫌な夢だな」
「ええ、嫌な夢よ。ねえ、あなたってずっとここで一人で暮らしてるの?」
「場所はあちこち渡り歩いてきたがずっと一人だ」
「家族は?」
 バシャーモは天井に向けていた顔を彼女に向ける。彼女の視線とかち合う。
「いるにはいる。だがもう顔も覚えてない。生きているのか死んでいるのかもわからないが、俺にはどうだっていいことだ。故郷にもどうやったら帰れるのかも覚えていないし、帰りたいとも思っていない」
「そう」
「君は?」
「私にも家族はいる。でも貴方と同じで生きているのか死んでいるのかわからない。もう顔も思い出せないわ」
「そうか」
「私もね、一人であちこち旅をしてきたの。家族と一緒に過ごす方が色々といいこともあるのもわかってたけど、一緒にいないといけないのは嫌だった。利点を捨ててでも、世界をこの目で見たいと思った。尤も、危険も伴うと知ったのはもう少し後のことだったけど」
「それでここにたどり着いた?」
「正直言って、あちこち旅しててその度に追われるのに疲れてね。ここで死ぬのもいいかと思ったの。旅先で死ぬならそれも本望だって。けど、そこに貴方が現れた」
「故郷に帰りたいか?」
「いいえ。こんな状況だけど、家族に会いたいとも、帰りたいとも思わない。意地で言ってるんじゃなくて本当にね」
「そうか」
「貴方はどうなの?」
「俺はただ、強くありたいと思った。その為には群れの中で暮らすには鬱陶しいことが多すぎた。一人で多くのことをし、世界を見てみたかった。ただ、それだけだ」
「……」
 二人は無言でしばらく見つめ合った。不思議と照れくささは感じなかった。やがて、彼女が沈黙を破る。
「ねえ、わたしたち」
「よせ」
 その言葉を遮るようにバシャーモは言った。
「俺と君はただの一時的な関係だ。それ以上踏み込む必要はない筈だ」
 彼は視線を天井に向ける。
「そうかしら」
「そんなことをして何になる。弱い奴らがすることだ、傷の舐め合いというのはな」
「貴方は強いのね」
「強くなければ一人で生き抜くことはできない。強くあるためにはセンチな気分でいる暇はない」
「そう、そうね。ありがとう、話を聞いてくれて」
「礼は必要ない。もう寝たほうがいい」
 それだけ言ってバシャーモは彼女に背を向けた。二人は朝になるまで一言も会話を交わすことはなかった。

 翌朝、バシャーモは彼女より早く起きる。一歩外に出る。雪は降っていないが空には厚い雲が広がっており、天候が今後悪くなることを予感させた。深呼吸をし、固まった筋肉をほぐす。その時、一つの違和感が生じた。樹木の中にあるはずがない、茶色いものが見えた。見覚えのあるものだった。こちらをじっと見ている。バシャーモは反射的に横目で彼女を見た。自分からは3歩ほどしか離れていない。
 彼は考えるより先に相手に向かっていった。相手は翼を広げて空へ向かっていき、大声をあげた。何かの合図か。
「クソッ」
 こうなっては一刻の猶予もない。追うのを諦めた彼は洞窟に向かう。入り口では彼女が驚きの表情を以て迎えた。
「どうしたの!?」
「君を探している奴らに見つかった。直、ここに来る」
「そんな」
「どこでもいい。早く逃げろ」
「貴方はどうするの」
「時間稼ぎをする。心配するな、死ぬつもりはない」
「……」
 彼女は目を伏せて一瞬の沈黙を纏う。ついで、バシャーモを見つめてはっきりとこう言った。
「嫌よ」
「議論をしている暇はない」
「そうよ。だから何を言われようと私は逃げない。貴方と一緒に戦う」
「何故だ」
「私がそうしたいからよ」
 バシャーモは多く息をつく。一人で動く者はあらゆる決断を己の手で下さなければならず、それ故、その決意がとても固いことを彼は感じ取った。
「甘っちょろいことを」
「貴方について来てもらう必要はないわ。本来無関係なんだもの」
「高みの見物は性に合わん」
「なら仕方ないわね」
 彼女は歩き始め、彼はその後に続いて同じ方向に歩き出す。相手は10匹程。こちらは二人。実戦は初めてで連携プレイは望めない。だがなんとかしてみせるしかない。誰に言うでもなくバシャーモは己にそう言い聞かせた。

 吹雪は一層強くなっていた。10体ほどの生き物が倒れ、血が白い雪原を赤く染め上げていた。バシャーモは全身に痣をつくり、血が流れていながらも堂々たる威風でその場に立っていた。
 近くでは彼女が座り込んでいた。彼女もまた痣と血だらけの体であった。
「生きてるか」
 彼女に歩み寄ってバシャーモはそう言った。
「なんとかね」
「なかなかいい戦い方だった」
「貴方がそう言うならきっとそうなんでしょうね」
「立てるか?」
 彼女は立ち上がろうとするが足を立てると痛みが走るのか顔が歪んだ。
「駄目ね。しばらくは使い物になりそうもない。気力も使い果たしたから飛ぶこともできないし」
「そうか」
 バシャーモは太い腕を開き、彼女を抱きかかえる。その胸を触り、彼女は言う。
「暖かいのね」
「火を使うからな」
広大に広がる目の前の雪原は死屍累々と化している。動くものは自分たち以外には誰一人いない。二人は肩越しにそれを見つめる。
 彼女はバシャーモの胸に顔をうずめ、絞り出すように言った。
「ごめんなさい。こんなことに巻き込んで」
「気にするな。俺がここにいるのは俺自身の意志だ。意思を貫くためにはこうならざるを得ない時もある」
 バシャーモは歩き始める。雪が横から吹きつけるが構わず歩き続ける。
「だからこそ、俺達には甘えあっている時間も資格もない」
「わかってる。でも少しだけ、貴方のもとにいさせて……」
 胸の中にある彼女は腕の力をぎゅっとを強める。バシャーモは空いてる片手を僅かな逡巡を経て、彼女の小さな頭に優しく置いた。吹雪の中、先程まで殺し合いをしていた二人は互いの血に塗れて、互いの体を抱きしめていた。
 とんだ茶番だ。バシャーモはそう思いながら、いつまでも抱きしめていたい己の欲求に抗う術を知らなかった。同時にこれっきりにしなければならないという意思が彼の目つきを愛おしむものと戦士としての目を混ぜた、奇妙な表情にしていた。二人は誰もいない道を、雪原に足跡を残しながら歩んでいった。

「これからどうするの?」
 洞窟で止血の処置をした彼女はそう言った。吹雪はやみ、雲の間から夕焼けの光が注いでいた。彼は外を見つめながら答える。
「縄張りの主がいなくなれば他の奴らが流れ込んで面倒なことになる。また落ち着ける所を探すだけだ。ただ……」
「?」
「君が望むなら一緒に旅をしても俺は構わないが、どうする?」
 彼女には意外な言葉だったようで、わずかに目を見開き、視線を彼に合わせる。少しの間、思考の為の沈黙をとり、彼女は答える。
「ありがとう。でもいいわ。このまま貴方についていっても私はどこかで貴方を求めるだけだから」
「そうか」
「色々、ありがとう」
「礼なんかいいさ」
「ねえ?」
「?」
 彼女は何かを言いかけた。少しの間、目を伏せて言葉を選ぶような素振りを見せた。
「私達、また会える?」
 バシャーモはその長身をかがませ、彼女と目線を合わせる。
「……道が別れていても進み続ければ、いつかまた交わるときもあるはずだ。進み続ければな」
「その時は、自分の傷は自分で治せるようにしておくわね」
「お互い、そうありたいな」
 バシャーモは微笑みながらそう言った。
「それじゃ」
 彼女は宙に浮き、外へ飛び立とうする。が、すぐに振り返る。
「名前、なんていうの?」
 立ち上がったバシャーモは今度こそ、小さないながらはっきりとした笑い声を上げた。
「レイだ」
 その言葉に彼女は満足そうに微笑んだ。
「いい名前ね」
 今度こそ、彼女は飛び去ろうとする。
「君の名前は?」
「次に会ったときに教えるわ!また、会いましょう、レイ!」
 バシャーモは彼女が飛び去っていくのをじっと見ていた。見えなくなるまでずっと。
 以前のように一人だけになった洞窟や森が何やら広く見えてしまう。感傷に囚われるなんて柄にもないが、殊更、否定するつもりもなかった。
 彼女が立ち去った方向とは反対の方向に歩いていく。雪の冷たさと夕日の暖かさが混ざりあった道を彼は進んでいった。

 波の音は相変わらず洞窟の中に響く。既に夜は明け、空は明るくなっていた。 
「その人とはそれから会ったの?」
「あれ以来、一度もない」
「そう。確かに愉快な話じゃなかったわね」
「だから言っただろう」
「会ったばかりの生き物にする話でもないと思うけど」
「君が彼女に似ていたからだ。ただそれだけだ」
「ふーん」
「さあ、話は終わりだ。夜も明けたし、早く行くといい」
「そうね」
 彼女は立ち上がった。顔の出血はすっかり止まっていた。
「色々とありがとうね。ちょっとした間だけど話ができて楽しかったわ、レイ」
「その代わりというわけじゃないが、君の名前を聞かせてもらえないか?」
「名前はソフィ、種族はセレビィというらしいわ」
 彼女は宙に浮き、背中に生えている羽をパタつかせる。
「じゃあね、レイ。縁があったらまた会いましょう」
 それだけ言って彼女は飛び去っていった。レイはそれを黙って見送った。徹夜した疲れや眠気が今になってやってきた。横になると暖かい日光と一定のリズムで聞こえる波の音が意識を眠りへと確実に誘っていった。

 次に目が覚めたときは夕方になっていた。目をぼんやり開ける。
「レイ」
入り口に誰かが立っているのが見えた。
「来ると思ったよ」
「ひどいことするのね」
 頭上からそんな言葉が聞こえてきた。そこには先程去ったはずのソフィがいた。いや、よく見れば彼女と同一の見た目ではなかった。緑色の肌はわずかに黄ばんでおり、体には傷跡が刻み込まれている。目元には僅かに皺が寄っていた。
「何のことだ」
「私に未来を話したことよ」
「君が頼んだことだろう。自分に似た奴が俺の所に現れたら今回のことを話せと。ただ、そのことまで話すと不都合があるから加工を加えさせてもらった。実際、あの時の君は俺を見ても特別な反応は見せなかった」
「別れ際に思い出してたの、腹いせに名前は言わなかったから、これでおあいこね」
「それだけじゃない。俺がいつ、どこにいるのかを記憶にしておくのに必要だったんだろう。もう一度、ここに戻ってくるために」
「流石ね。時間を移動することができても目的地がわからないんじゃ意味がないものね」
 バシャーモは体を起こして壁にもたれかける。セレビィは対面に座る。
「元気そうだな」
「ぼちぼち、というところかしら。もう追われることにビクビクすることも昔みたいに疲れ果てることもなくなったわ。この前なんかは5人のハンターが狙ってきたけど簡単に追い払えちゃった。息をするみたいに簡単にね。貴方に会いに行こうと思ったのはその時」
「そうか」 
 それだけ答えると彼は咳をした。何度もゴホゴホという音が洞窟内に木霊する。
「大分悪いの?」
「最近は飯を食っても喉を通らなくなった。少し食えばもうそれ以上は食いたくなくなる。お陰でご覧の有様だ。もう長くはないだろう」
「不思議なものね、あんなに強かった貴方でもそうなってしまうなんて」
「まあ、好き勝手やったやつが最期には何もできずに惨めに一人で死ぬのも、それはそれで分相応だろう」
「貴方はそれでも一人で死ぬつもり?」
「そのつもりだ」
「変わらないわね」
「これからどうする?しばらくここに留まるか?」
 僅かな沈黙。だが彼女はすぐに答える。 
「いえ。一晩だけ、いさせてくれたらそれでいいわ」
「強くなったな。俺としては暫くいても構わないが」
 顔に笑みが浮かび、セレビィは隣に移る。
「随分、素直にものが言えるようになったのね」
「年を取ると、変わることもある」
 二人は小声ながらも確かに笑いあった。一点の曇もない感情を確かに共有していた。それが終わると彼女はポツリと言った。
「この何十年、貴方のことを忘れたことはなかった」
「俺もだ。君がどこかにいると思うと、それだけで何かが違った」
「私もよ」
 バシャーモの胸の中にゆっくりとセレビィは飛び込む。その小さな体を彼は優しく抱きしめる。
「今夜はいっぱい話しましょう。私達が歩んできた道のことを」
「ああ」
 レイは柄にもなく目に水が溜まっているのを感じた。それを拭うつもりはなかった。きっと今はこれでいいのだろうと思った。胸の中の温もりは自分が出す炎よりもずっと温かいものだった。二人は夕日の太陽が照らす洞窟の中でいつまでもひとつになっていた。

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Last-modified: 2022-08-08 (月) 01:39:29
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