プロローグ
執筆者→dlovers
――声を見ろ、心を聞け、情景を感じろ。かつてそう教えてくれた師が、俺にはいる。けど、いるという記憶だけが俺の頭には残っていた。たったそれだけだ。
俺の頭の中にある、誰かとの思い出はそれだけだ。いままでもずっと
「夜分遅くにすまない、この近くで宿はないだろうか」
本当に夜分遅くだった。その日は雨風が強く、家の扉がガタガタと音を立てていて眠れなかった。だから偶然こんな時間まで起きてしまっていたんだ。そんな天気なのに、目の前の彼は震え一つ無く、その雨風に打たれながらこちらをまっすぐと見据えているのだ。
琥珀色の眼を持つボーマンダだった。明らかな非日常に、逆にこっちの体が震える。
「あの、すまない……?」
はっとした。そういえば宿を尋ねられていたんだった。
「あ、あぁ。宿かぁ……あるにはあるが、今からだと遅すぎて取り合ってくれないぞ」
この時間だ。受付が空いているわけもないし、宿だけでなく建物なんてほとんど明かりがついていない。都会ならこの時間でもどこか取り合ってくれる場所があるのだろうが、あいにくここは半ば辺境の町だった。
「ふむ……そうか、仕方ないな」
そう言うと彼はなんの躊躇もなく踵を返した。それに慌てて俺は自慢のその翼で彼の肩を掴む。勢いで全身が外に出て雨に濡れてしまうが、特に気にとめなかった。
「ちょ、ちょっと待て!この雨の中でどこに行くって言うんだ!?」
若干困惑気味の表情で、彼が振り返る。
「どこって、雨が凌げる場所に行くだけだが」
「まさか野宿するつもりじゃないだろうな!」
――沈黙。本気で言っているのかこいつは。
「この雨風の中を野宿って、体調悪くするぞ!」
「いや今までそうしてきたからな……なんとも」
こんな辺境を尋ねるからこそなのだろうか、彼はどうやら手馴れた旅人のようで、幾度なくこのような状況をくぐり抜けているようだった。しかし、あいにく俺は自分でも呆れるほどのお人好しだった。
放って置けるわけがない。
「いいから、じゃあ俺の家を貸すよ」
これまた意外そうな顔をするものだ。最初見たときはあまりにも雨風に動じないものだから、鉄のように見えたその表情だったと思うのだが。
そんな顔がちょっとだけ緩み、口角を上げて彼は言う。
「有難い。お世話になるよ親切なオニスズメさん」
玄関にはしめったマットと、タオルケットが無造作に置かれた。あまりにもびしょ濡れで見ていられなかった俺が、急いで彼を部屋の中へ案内したからだ。
今、その彼はというとリビングでくつろいでいる。
オニスズメという種族上、あまり布団や毛布の類を使わないのだが、念の為と取っておいたのが功をなした。彼は呑気に欠伸をしながら、大の字で布団に転がっていたのだから。
「いやぁ有難い。助かったよオニスズメさん」
「ちょっと待ってくれよ感謝されるのは良いが俺にも名前ってものがあるんだって」
あ、そうかと彼は呟く。珍しい反応だった。名前を訪ねる事など今までに無かったのだろうか。もしかして言葉遣いと裏腹に世間知らずなのではないか……そう思いつつ、俺は自己紹介を始める。
「俺はアルウェって言うんだ。この辺境の町で民間の整体師をやっている。」
「アルウェか、そうか。改めて有難うアルウェ」
「……あんたは?」
俺の紹介の後、彼は何もしゃべらなかった。言うタイミングを計っているのかと思ったが違うようで、まったく言う気がない様子だ。
挨拶だけでぐちぐちと煩いかもしれないが、でもここで相手が名乗らない事は普通ないんじゃあないのだろうか。そう思っていた矢先、彼がしぶしぶといった様子で口を動かした。
「……あー、俺の名前は。その、無いんだ」
「……無い?」
「無いというか、失くした」
さも当然の様に彼は話す。名前を失くした、忘れたと言うのだ。
生まれて一番長く付き合う、自らの名前を。それが表す事実はつまりーー
「記憶が無くてな。そのーー半年ほど前に、それまでの記憶を殆ど失った」
「なんとお礼を言えば良いのか。まさかこんな遅くから飯やら何やらまでお世話になるとは」
軽い食事とその後の軽いマッサージ。それをサービスした後の彼の表情は晴れ渡っていた。
雨に打たれて平気そうだったのは、実は彼なりの辛い表情だったみたいだ。硬かった表情は崩れ、なんというかめちゃくちゃ若い顔をしているように見えた。
食事とマッサージをしている最中に、彼の話を詳しく聞いた。どうやら今持っている記憶は、自分の口調や性格、覚えていた日常の言葉。そして「半年前から現在までの思い出」だけらしい。
そして、自身に居た「らしい」師匠と、その言葉。
――声を見ろ、心を聞け、情景を感じろ。それだけ。
「一体何の師匠だったのかも覚えてい無いんだよな」
「あぁ、さっぱりだ」
さほど彼は気にしてい無い様子だった。むしろそこまで考えないものなのか?当事者では無いはずなのに、彼より悩んでいる気がして、若干ばからしく感じてしまう。
「ま、そういうことでだ。今はその記憶を取り戻す鍵が無いか、当ても無く旅をしているといった感じだ」
ふうっ、と区切る様に息を吐いて、彼はもう一度地面に伏せる。どうやらボーマンダはこの姿勢がリラックスしている状態らしい。
正直な話、俺は結構後悔していた。いや、後悔というか、後先考えていなかったことへの、自分の不甲斐なさを嘆いているといった事が近いだろうか。
まさか何気無く家に上げた奴が、こんな思い案件を背負っていると誰が予想しただろうか……するわけ無いだろうそんな事。
とりあえず今夜ーーすでに深夜二時をまわってしまったがーーは彼を家に置く事にしよう。後の事は、若干無責任だが彼に任せる事にしようか。
「お世話になったな」
翌日、俺はみやげとして弁当をいくつか持たせ、彼を玄関で見送ることにした。
結局旅は続けるということで、あまりひとつの場所に定住するのはまだ考えていないということだった。
「また、機会があったら寄るよ、アルウェ」
「ああ、いつでも来たらいいさ」
短い出会いだったが、俺はこの心に残る若干のさみしさと、不思議な体験をしたことへの感謝をいくらか込めて、彼の前足を握った。
「元気で」
「あぁ」
これから、彼は記憶を求めて、あてのない旅を始めるんだろう。きっと数多の経験を経て、答えを見つけるのだろう。
――だが、その後彼の旅が決して穏やかなものではなくなってしまうという事を、俺は暫くしてから知る事になるのだった。
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