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朝露一直線

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 俺は後ろ足で立ったまま、遠く草原の奥へと視線を向け続ける。舌を引っ込め、鼻息を大きく吐いて、じっと、その様子を視界に収め続ける。気が浮かない。
 あるいは、助けに入るべきだろうか。そうするほどの義理もないか。最も、助けられるとも思えない。――悩むなど俺らしくない。

 夕に焼けて黄色く染まった中でも、その姿が何なのかは、凝視するまでもなくよく分かる。
 白い毛並みを地とし、頭から尻尾へと黒い模様を流している、四つ足の姿。目元には花開くような赤い模様があり、その掠れた眼光を際立たせている。俺と同じ姿、同族。顔もさほど悪くなく、いい感じの雄ではある。しかし、その姿は、明らかに不自然な歩みを進めている。緩く、左後ろ足を庇っているように見える。
 ――あれが匂いの源。弱った肉塊。風に漂う血の、正体。
 その姿の後方には別の姿が一つ、距離を置いたまま、その姿を尾行している。緩やかな足取りの動きに合わせて、静電気の弾けるような音が、周囲に、不相応なほど大きく響いている。
 更にそれらの上空では、黒く大きな姿が、翼を開いたまま旋回し続けている。夕日を纏って身を煌めかせながら、地上の姿を見捉えている。硬い翼で風を切っているのか、高い音を、絶えず、周囲に流している。
 それらの姿は、どちらも、あの獲物を狙っている。それぞれが相手を警戒して、仕留めにいくことなく、様子を窺い続けている。
 あれを仕留めること自体は、もう難しくはないだろう。それを躊躇っているのは――ただ、獲物を仕留める瞬間の無防備なところに、横からの邪魔を入れられたくないからだろう。
 獲物のほうは既に問題ではない。種族としての強みである足の速さが失われているなら、もう逃れようもない。あの同族の命運は、既に決まっている。
 ――むなしいものだ。

 同族の姿が歩みを止め、両前足で草原を押す。上半身を一瞬持ち上げ、しかしそのまま前のめりに倒れていく。――身を起こして二本足で立ち上がろうとしている、それでいて身を支える力がない――そんな動き。
 後ろにいる別の姿が、地面を蹴る。弾けるような音が響く。立ち上がれずにいる姿へと襲歩で詰め寄り、その背中に飛び掛かる。顎を開き、その後ろ首を噛み締める。重心を奪い、体格の変わらない獲物を草原に引きずり倒す。
 そこへ、上空の黒い姿が落下してくる。獲物を仕留めようとしていた姿は、顎を外して即座に離れる。黒い姿が、動かない獲物へと身を落とし、幾回りも大きなその巨体で獲物を押し潰す。
 小枝の折れるような音が、それよりも大きな音が、一瞬だけ、周囲へと飛び、消えていく。
 黒い姿は、獲物を足に掴んで翼を開き、すぐに飛び立つ。獲物を奪って去ろうとする。空へと昇っていこうとするその姿へと、閃光が走る。その足から獲物が離れる。
 俺とそう変わらない姿が、宙で身を回す。何の身動ぎも、力強さもない。草原に落ち、鈍い音と共に身を跳ねさせ、転がり、そのまま動かなくなる。
 二つの捕食者が、獲物を挟んで睨み合う。片方は唸り声も響かせているが、互いに、争う構えを解いている。
 巨体が先に動き、再び獲物へと身を落とす。そのまま片足で獲物の上半身を抑え付け、もう片足で下半身を引っ張り上げる。声とも付かぬ掠れた音が獲物から響く。獲物の身体が真ん中から引きちぎられる。断面で、赤い繊維が血を滴らせながら揺れる。まとまった胃液が、細かな未消化の断片と共に溢れ出る。
 黒い巨体はそのまま下半身だけを掴んで翼を開く。邪魔は入らず、そのまま草原の遠くへと消えていく。もう片方の姿も、残された上半身を、その首を咥え直して、駆け足でその場を去っていく。獲物の取り分に関しては、穏当に和解したらしい。

 存在した姿全てが消えて行くまでを、ただ、見届けた。獲物の断面から滴り落ちた体液の、その匂いだけが、草原に残り続けていた。

 遠く空の彼方に、大きな雲の塊が浮かんでいる。ゆっくりとこちらへ向かい来るそれは、日の落ちる頃にはこの一帯を覆っているだろう。雨が降れば、あの獲物の痕跡は、いよいよもって何一つ残らなくなる。
 あの同族は、果たして、その生を、真っ直ぐ走り切ったのだろうか。

 大きく息を吸って、吐く。ただ重い感情ばかりが、身に纏わり付いている。らしくない。
 身体は冷え切り、走りたがっている。高鳴るような激しい鼓動を欲している。
 ――戻るか。木の実でも採ろう。
 食欲も沸かなければ、極端な空腹感もないが、とにかく、運動になればいい。
 俺は身を翻し、草の地面を蹴った。森へと駆けていった。



 ――ただでさえ、独特な進化を遂げてきた種族なのだ。
 地面に穴を掘り、森を、草原を真っ直ぐ駆ることこそが重要であり、歪にしなった道筋は、掘る必要も、走る必要もなかったのだ。
 適者生存において、四肢の可動域など重要ではなかったのだ。
 その足の一つでも深い傷を負えば、走ることもままならず、後は血肉として淘汰されていく他ない。――どんな種族であれ皆そうには違いないのだが、俺たちは、他の生き物以上にそれが著明だった。


 腐葉土を強く跳ねさせながら、身を捩る。一瞬だけ停止し、横へと進路を折る。木を避け、大岩を蹴り、川を飛び越え、森を奥へと進んでいく。
 慣れた道筋、私的な往復路。傾いた夕日が木陰で足元を覆い隠していても、足を滑らせることさえない。

 緩やかな坂までやってきて、足を止める。幾つかの木があり、巣穴がある。俺の領域。並ぶ木の一つを視界に収め、身を折りつつ足に力を籠める。
 頭から突っ込んでその木を大きく揺らせば、実が落ちてくる――そのために構えた、はずだった。
 視界の端に、一つの姿が入り込んできていた。木々の合間で、尻を地に付けて座る姿。それは、こちらへと視線を向けて来ていた。同族。――同族?
「おい――なんだ、てめえ」
 俺が声を向けると、その姿は前へと倒れ、四肢で地に立つ。自らの尾を追うかのように身を回し、こちらへと身構える。何の声も返してこない。
「――ここは俺の領域だ」
「ああ、分かってるよ」
 確かなのは、こいつが俺の領域を侵していること。同族ならば、尚更、問題である。
「――そうか」

 赤い夕日と暗い木陰が射す中、その毛色を正確に認識するのはやや難しいが、どうも、その模様は黒ではなく土色を表しており、それ以外の白いはずの被毛も、薄く茶色がかっているかのように見える。目元の――花開く赤の模様もない。その目の色さえ、暗い赤ではなく透き通った空色を表しているよう。同族――のように感じはするが、実際にはどうなのだろうか。
 毛色以外でも、その前足は俺よりずっと細く、地面を掘るのはあまり向いていないように見える。口が小さく、舌を出しての排熱もあまり得意ではなさそうに見える。体格こそ俺と変わらないが、まるで、成熟しきっていないかのような、可愛らしい姿。――そして、雄。ああ、少しくらい弄んでやるのも面白そうだ。
 一つ、口から息を吐く。熱を逃がしつつ、次の鼓動が向かう先を見据える。気はまだ浮かないままだが、身体は少しくらいは温まっている。更なる鼓動を求めている。殺めはしない。頭突いて重心を崩し、その喉を噛み締め、引き倒してしまえばいい。
 ――分かった上で領域を侵すのだから、どれほど都合よく扱われたとしても、文句はないよな?

 俺は腐葉土を蹴る。その姿へと、一直線に身を飛ばす。その姿も、地面を蹴って俺へと飛び掛かってくる。目を瞑り、顎を引いて頭を向ける。直後、鈍く硬い音が響く。
 意識が揺れる。どちらかが突き抜けるようなこともなく、互いに押し返す形。想像していたよりは力強い一撃だった。俺は身体が跳ね返った先で四肢を付け、頭を振るいながら目を開ける。――そこにあると思った姿が、ない。跳ね上がった腐葉土が、斜面の下へと落ちていくのだけが目に見える。
 ――消えた? 逃げた?
 一瞬そう思うも、直後、脇腹へと大きな衝撃が入り込んでくる。その姿が、俺の正面から横へと、斜面の上へと回り込んだうえで、飛び込んで来ていた。
 痛みと共に重心を失い、そのまま身体が転げ落ちる。腐葉土を爪で掻き、すぐに身を跳ね起こすも、相手の動きをしっかりと認識はできていなかった。
 そいつの姿は、俺を横に倒し、そのまま上を突き抜けていた。ならば、斜面の下方に着地していて、そこから――どう動いている?
 斜面下へと視線を向けるが早いか、再び別方向から飛び掛かってくる。俺の顔に、横から突っ込んでくる。
 ――早い。
 言葉のない声が零れる。再びの痛みと共に身体が跳ね飛ばされ、転げ落ちる。
 鼓動が高鳴る。完全に後れを取っている。――負けている。勝てない?
 身体を起き上がらせるより早く、その身体が再度、俺へと打ち付けられる。
 避けなければ余裕もないか。――身体を捩ると、その瞬間、背中を掠めるようにその姿が飛び越えていく。
 この隙に、身体をばねにして、四肢を地面に合わ、
 ――せ、られれ、ば。
 飛び越えたはずのその姿が、直後には引き返して、俺の腹を打ち付けていた。地面との間を突き抜けて、俺を浮かび上がらせていた。

 ――ああ、こいつには敵わない。一瞬の隙もなく、敗走さえできやしない。

 俺は後ろ足で腐葉土を抑え付け、転がる身体を仰向けに留めて、そのまま身体から力を抜く。抵抗を止め、ただ、その姿の望みに身を任せる。
 直後に飛んできたその身体は、俺の喉を捉え、そのまま踏み押さえてきた。その勢いで、俺の身体が仰向けのまま滑っていく。痛く、苦しい。
「――この程度か」
 その青い目が、俺を下目に見下ろしていた。口を小さく開け、舌を出すこともなく、ただ熱気の籠った息を吐き出していた。
 綺麗な目、だった。

「何が、望みだ」
「さあね、ま、そっちが先に飛び掛かってきたんだろ?」
 喉を押さえられたまま、掠れ声で問う。帰ってくる言葉は味気ないものだった。
 ――領域に踏み込んできていたのは、てめえのほうだろうが。
 納得のいかない感慨のままに、腹の奥から唸りを上げると、喉に爪が引っ掛けられる。
 いつでも俺を殺せる、そういう脅し。――ああ、こいつはいつでも俺を殺せた。単なる致命傷を負わせるだけなら、より簡単に行えただろう。
 それで、一体、何が望みだと言うのだ。てめえは――なぁ――、、
 問い直そうと思ったところで、その姿が、俺の喉から足を離す。俺へと背を向け、腐葉土を蹴り上げ、斜面を駆け上がっていく。
 ――ほんの一瞬で、陰へと消えて見えなくなる。

 俺は、呆然と、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 それは、何の造作もなく走り去っていった。関心を失ったかのようだった。俺などいなくなったかのようだった。
 何、だったのだ。同族のような、あの、雄は。
 弄ぼう、などという到底叶わない望みを抱きもして、結果、逆に弄ばれていた。
 ――ああ、弄ばれていた。
 服従を迫る決定的な一撃は、いつでも入れられたであろうに、俺が諦めるまで、飛び掛かってきては離れていく攻勢を続けていた。ああ、そうだとも、弄ばれていた。だと言うのに、あれは、俺を――単に――弄んでいた。正面からぶつかり合うこともなく、あまりに一方的な陵辱で、そして、それ以上でもなかった。
 俺は、あの姿を、……雄として弄びたがっていたというのに、あれは、俺を、雌として弄ぼうとはしていなかった。その一点には、何の関心も向けられていなかった。
 俺は――愚かしいものだ。
 支配を迫られ、そのまま覆い被さられてもよかった。そうされることを、心のどこかで望んでいたのかもしれない。俺よりも早く、強い、あの姿に。どこか可愛らしさのある、あの姿に。
 一瞬、腹の奥底に、絞り上げられるかのような痛みが走る。それはすぐ、下腹へと広がるように降り、消えていく。――あまりにも、遅い。

 身体を起こし、両前足で地面を蹴って立ち上がる。全身に付いた腐葉土を振り払うべく身体を震わせると、まとまった量の毛が、一緒に地面へと落ちていく。喉元を抑え付けられていた際に、その爪で切られでもしていたのだろうか。さぞ不格好な姿があることだろう。
 斜面の上を改めて見上げると、俺が何度も追撃されながら転がり続けた歪な道と、その道に何度となく交差する直線的な足跡が、明確に残っている。
 領域の中心からだいぶ外れ、随分と下方へ転がり落ちたものだ。――この道筋の中で、あれは、何を思っていたのだろうか。いや、そもそも、あれは何を思って、この場に居たのだろうか。
 未だ鼓動が高鳴り続けている。温まった身体は、冷めることなく、延々と熱を吐き続けている。
 ――ああ、確かに、求めていたはずだ。高鳴る鼓動を。――このような形ではなく、より、健康的な形として。
 ――らしくない。

 夕の日差しが消え、森全体が、暗く闇に覆われていく。雲が空を覆い、雨が降り始める。木々を叩く細かな音と共に、俺の顔を濡らし、頭を冷やしてくれる。
 身体のあらゆる場所が、温かい感覚を作り続けている。何度も打ち付けられた箇所が、腫れ上がっているのだろうか。
 一つ、息を吸って、吐く。何をするでもなく、俺は、ただ斜面を歩き、自分の巣穴へと入っていく。
 少し、休もう。
 判然としない心地の悪さに任せ、真っ暗な寝床へと身を投げた。



 巣立ち以来、誰かに押さえ付けられるということは経験したことがなかった。
 それは通常、領域を奪われるか、俺の死を意味するか――あるいは、番に寄り添う形となるはずだった。
 屈辱的なはずのそれを、その感覚を思い返すのが、ひどく愛おしかった。
 あの姿が俺に求めたものは、果たして何だったのだろうか。何かがあったのなら、それに従いたかった。
 ――俺は、結局、その要求に従うことができたのだろうか。


 巣穴の出入り口から、外を軽く窺った。雨粒が絶えず降り注ぎ、冷たい空気が渦巻いている。朝の日差しは雨雲を通し、一帯を、淀んだ光で照らしている。
 ――どうしようか。
 身体じゅうの、腫れ上がっているかのような温もりは消え、ただ鈍い痛みだけが残っている。多少の落ち着きはありつつも、鼓動はなおも強く脈打ち続けている。
 視線を引き戻す中で、前足に何本か、薄茶色の毛が付着しているのに気が付いた。昨夕の侵入者――あいつの被毛が抜け落ちたものだった。
 前足を突き出しつつ、顔をその毛へと寄せて、嗅いでみる。しかし、何の匂いも感じられない。――何かしらの匂いがあったとしても、雨に濡れていては分かりやしない。空気が乾く頃には、嗅ぎ分けられるようになるだろうか。
 しかしそもそも、あいつは、どのような匂いを纏っていただろうか。思い出せない。意識も向けていなかった。存外、俺とはさほど変わらなかったのかもしれない。

 ――俺は何を期待しているのだろうな。
 そう、あの姿を。その面影を。俺を平然と打ち負かし、平然と去っていった雄の姿を。分かっている。
 昨夕すぐそこで起きた出来事が、意識から離れない。
 ああ、もしかしたら、外に居たりしないだろうか。俺の領域を再び侵していないだろうか――。

 俺は巣穴から飛び出し、周囲を眺め見た。何の姿もなく、何の気配もなかった。俺の領域は平穏を保っていた。
 ただ、雨に打たれていても、腐葉土の地面にはまだ、昨夕の痕跡が残っていた。あれが俺を押さえ付け、そして去っていくまでの道さえも、明瞭ではないものの認識できた。とはいえ、決して長くは残らないだろう。
 ――今なら、まだ追えるだろうか。
 一瞬の思案に合わせて、鼓動が一つ、身体に脈打った。
 納得がいかない。
 あいつは、俺の領域を奪ったわけでもなく、俺に致命傷を与えたわけでもなく、俺へと支配を迫ったわけでもない。
 俺は、あの姿に負けたままでは――何もなかったかのように過ごすというのは――そう、納得がいかない。

 あいつの痕跡を視線に収め、その上に立つ。濡れた腐葉土の地面に爪を食いこませると、足が固着しきらず、僅かにずれる。
 油断すれば滑落するだろうか。斜面の下へ。川の中へ。崖の底へ。――上等ではないか。
 後ろ足で腐葉土を蹴り上げ、前足で地面を押し返す。斜面をすぐさま登りきり、そこで足を止める。
 あいつの痕跡から続く道が、その先にもある。森の中を真っ直ぐ進み、そして腐葉土を大きく蹴り上げて曲がる痕跡が、幾つも。
 ――見つけ出してやる。
 俺は一度だけ顔を振い、頬の雫を飛ばす。一つ息を吸って、吐き、地面を凝視しなおす。そうしてから領域を離れ、森の奥へと駆けていった。

 実際に辿ってみると、その痕跡は、俺よりも足を付ける頻度が少なかった。目視して辿っている分、俺の走りが慎重になっている――というわけでもなく、単純に、あいつは、俺よりずっと早く走っているのだろう。腐葉土の上ならまだしも、岩を苔ごと蹴るなど跳躍した痕跡があると、その進行方向は分かるにも関わらず、その着地点が、中々、見つけられない。
 いや、方向さえ合っていれば、そのまま真っ直ぐ駆けて行けばいいはずなのだ。――そのはず、なのだ。
 ――今追いかけているこの痕跡は、本当に、あいつのものなのだろうか? ――悩むな。そうでないのなら、俺は、疾うに、あいつの痕跡を見失っているのだ。そうでなくとも、雨が降り続ければ痕跡は消えてしまうのだから、今のうちに追う他ないのだ。

 やがて森を抜け、草原に出る。昨日とは別方向の場所。降り落ちる雫全てが、木に遮られることもなく地面を叩く場所。
 幾つもの足跡らしきものが、泥として草たちの表面に付着している。あいつのものではなく、もっと別の生き物、それも群れによるもの。そのまま真っ直ぐ進んでも、俺の追っていたはずの痕跡は何一つ見えてこない。
 ――完全に、見失ってしまった。
 心が急く。見つけなければならない。立ち止まるなど、俺らしくない。
 一つ、息を吸って、吐くと、一瞬の迷いは、すぐにどこかへと消えて行く。
 ――ああ、立ち止まるな。俺は、痕跡など無くたって、走ることができるではないか。毛が雨を吸って重く纏わり付いてさえ、足を止める必要もないではないか。
 草原を遠く駆け出し、そのまま反対側の森へと、入り込んでいった。



「おい」
 木々の合間から、ふと、声を投げ掛けられた。俺は足を止め、その声へと意識を向ける。
「――お前は、何しに来た」
 匂いを感じはしなかった。雨天の下では個々の領域など判然としないものだ。――同族の領域を、気付かぬうちに侵していたらしい。
 侵すつもりは皆目なかった。しかし、それで争う姿勢を俺へと向けてくるのならば、受けて立つまでである。
「……あ?」
 しかし、その気配が動くような様子はない。声の向かってくるほうへと視線を向けると、木の隣に、一つの姿があった。こちらを向くように倒れたまま、左目だけで俺を睨みつけていた。
「俺はな――」
 よく見ると、その右目の眼球は抜け落ちており、その窪みの中に、血が溜まっている。絶えず入り込む雨で凝固せず、花開くような赤い模様へと溢れさせ、血を滲み出している。目から首筋へと、深く抉られた傷が伸びており、被毛のそれよりも白い骨が、傷の奥から俺を覗いている。
 視線を下げると、左前足にも貫かれたかのような傷口があり、右目と同様に赤い血を滲ませている。歩くことはできたとしても、走ることは叶わないだろう。傷は真新しく、体力もまだ残っているだろうが、こいつは、もう死にゆくのを待つだけであり、争う力を持たない。――俺の敵には成り得ない。
 そもそも、俺も領域争いのために駆け回っているわけではないのだから、適当な話で済ませればいいことなのだ。
「――とある奴を探している。同族のようだが茶色い毛と青い目が特徴的な姿の、そんな奴を、見ていないか?」
「ああ、恐らくそいつだ。見たよ」
「争って、負けたか」
「負けたさ」
 ――なるほど。
 その形は恐らく、正面から向かい合って飛び掛かり、すれ違う形で爪を刺し込まれ、そのまま肉ごと抉り取られた、といったところか。
「そいつは、まだ近くに居るか?」
「知らねえよ、そんなの」
 それでいて、別段、領域を奪う趣味があるわけでもなくその場を去っていく。ああ、あの姿ならばそれらしいか。
「そうか。助かる」
 俺は軽く感謝を述べつつ、周囲の地面を軽く見渡す。ぬかるんだ地面には痕跡が存在していることこそ明らかだが、柔らかいまま雨に均され、どのように地面を蹴ったのか、といった様子が、いまいち見えてこない。
 とりあえず、森の奥へと駆けていったかのような痕跡は見当たらない。俺の走ってきた道筋の少し横へと逸れる形で、草原のほうへと続く痕跡が伸びている限りだった。ここで争った後、来た道を戻ったのかもしれない。
 俺はその痕跡を辿ろうと、身を翻す。蹴り出せるよう、ぬかるんだ地面に足爪をめり込ませる。そうしてから、顔を曲げ、倒れたままのその姿へと、視線を戻す。
「なぁ、お前は――走り切ったか?」
 悔いはないか? 食らい付いたか?
「――さあね」
「そうか」
 短い問いかけに対して返ってくるのは、それ以上に短い、投げやりなもの。恐らく自分自身でも判然としないことなのだろう。しかし、命運そのものは受け入れている。
 それさえ聞ければいいか。
「――じゃあな」
 ぬかるんだ地面を強く蹴り、俺は、特徴の薄い痕跡を辿るように駆け出した。倒れた姿の、その領域から、すぐさま飛び出していった。
 介錯を求めてはいない。最期を見届けるのは俺ではない。これから、その血の匂いにつられて幾つかの姿が領域を侵すことだろう。それらを歓迎すればいい。
 ――ただ、その姿、目が欠けて足を穿たれた姿が――慈悲深い捕食者に拾い上げられることを願うばかりだ。

 途切れることのない雨雲の向こうで、日が傾き、そして落ちていく。地面に残る痕跡は、夜目では見えづらいものだろう。
 案ずるな。着実に近付いている。もう少しで、あの姿を見つけられそうなのだ。
 ――見つけ出したならどうしようか。――単に飛び掛かればいい。支配を迫ればいい。仮に、何の目的もなかったと言うのならば――俺を目的にさせてしまうまでだ。
 泥にまみれた足取りは、重く、心地のいいものだった。



 昨夕の、傷を負った状態で捕食者に狙われていた同族も、もしかしたら――同じように、あの姿と争ったのかもしれない。
 結局、あの姿は何を求めていたのだろうか。分からない――分からなかった。


 草原へと戻ってきたところで、反射的に耳が持ち上がった。
 急な刺激。遠く、雨音の合間を抜けて聞こえてくる、小さな音。同族の声帯から発せられる声――のようなものだった。
 横の方向、少し離れていて、それでも近い。感じたままにそちらへと駆けると、姿が見える。二つ。
 ――居た。
 俺は駆け足を緩めず、それらの姿へと突っ込んでいく。
 仰向けに倒され喉を押さえ付けられている姿と、その上から押さえ付けている姿。下の姿は、俺と変わらないであろう赤い目で見上げ、上の姿は、青い目でそれを見下している。もう暗い夜の中でも、それらの目は僅かな光を吸って煌めいている。
 勝敗を決した直後なのだろう。それぞれ動きはなく、俺に気付く様子もない。
 ぬかるんだ草の地面を強く蹴り、進行方向の軸を合わせる。そのまま飛び上がり、両前足を突き出す。その上に居る青い目の姿、その首元へと、ぶつかりに行く。
 ――衝突する直前、確かに、その青い目が見開かれ、俺を見捉えた。

 その首元を横から頭突き、胴体を両前足で挟み込んで、その同族の上から引き剥がす。そのままぬかるんだ草地へと倒そうとする。しかし、抑え込む前に、その姿は身を捩り、受け身を取っていた。即座に両前足から抜け出し、俺から距離を取っていた。
 ――逃がすものか。
 一瞬遅れて着地し、勢いを殺さぬままにその後を追う。その姿が足を止めて立ち上がろうとする、その背中へと飛び掛かる。しかしその被毛は雨と泥でぬめり、俺の牙も腹も引っかからない。
 身体が逸れ、勢いのままにその姿の脇を滑り抜けていく。言葉のない怒号が浮かぶ。俺は着地し、草の上を滑りながら振り返り、すり抜けたその姿を目視し直す。
 動きは無く、俺も足を止める。ただ、青い目が、降りしきる雨の中でもひどくぎらついている。そんな目で俺へと視線を返している。ああ、綺麗だ。
「……何なんだよ、お前」
「……ああ、どこにでもいるただの雌だ」
 俺は、何なのだろうな?
 一度打ち負かされ、何も奪われることなく放置された、無様な姿だ。何の興味も関心も惹きつけられなかった、惨めな雌だ。
 ああ、気付いているのだろうか。この様子だと、恐らくこいつは、同族に対して片っ端から喧嘩を吹っ掛けている。昨夕の俺を覚えているだろうか。俺が一度負かした相手だとは、気付いてさえいないだろうか。
「――俺は、」
 あの時の感覚が――俺を倒し、一瞬だけの支配を行ってきたあの感覚が、身体じゅうに呼び起こされる。喉元を押さえ付けられた。痛く苦しかった。敵わない、と諦め、無様にもその慈悲に縋った。鼓動が強く身を打っていた。
 臆するな、興味があるなら食らい付け。――ああ、そうだとも。俺は。
「――てめえを、支配したくて、したくて! たまらねえんだ!!」

 口を大きく開け、舌を長く出しながら地面を蹴る。その姿へと飛び掛かる。その姿も、俺の声に応えるように地面を蹴って身を飛ばす。
 正面からぶつかり合い、そして身を引く。痛い。昨夕の衝突より幾分も重い。
 意識が揺れる。それを引き戻すより先に、身を横へと投げる。刹那、俺の居た場所を一つの気配が通り抜ける。
 ――変わることなく足が早い。相変わらずの結果となるだろうか。だが、試してみよう。
 通り抜けた気配の、その方向だけを認識して、素早く地面を蹴る。その後を追う。
 目視はできない。ただ大きく蹴り上げられた泥水が、その姿の飛んだ方向を示している。俺は、その後ろに付こうとする。
 俺は正面からのぶつかり合いを望むが、その姿は――恐らく、同じようなぶつかり合いは望んでいない。自らの足の速さを生かして、横からの一方的な攻勢を仕掛けたがっている。俺に正面を向けないのなら、ひたすら追いかけるまでだ。――追いかけられるとは思っていないが。
 二度、泥水を叩くような音が聞こえ、直後には、俺のすぐ後ろを気配がすり抜けていく。地面を強く踏み締め、離れていく気配のほうへと進路を折る。ああ、姿そのものは感知できない。できないが、その姿としても、追ってくる俺の横を突くのは難しいのかもしれない。撒かれるものか。逆に一瞬でもその身が止まるならば、俺が後ろから飛び掛かるまでだ。
 全力で駆け続け、俺の横から飛んでくる気配を、二度、三度と追いかけ直す。少なからず、争う形として食らい付けている。敵うかもしれない。
 ――そう思った瞬間、横から強い衝撃が身を打った。
 重心が崩れ、身が横転する。走っていた勢いそのまま、身体が前へと滑っていく。前足ですぐに地面を叩き、四肢を地に付け直す。身体が、止まる。
 追撃される前に、再び追いかけないといけない。――どの方向へ?
 遠く横のほうで、再度、泥水を跳ね上げる音が聞こえる。来る。後ろ足で地面を蹴れば、避けることはできるかもしれない。その後は分からないが。ああ、いや――逃げるものか。
 前足で地面を叩き、上半身を跳ね上げさせる。後ろ足二本で立ちあがり、その方向へと身体を向ける。両前足を突き出し、腕として、胸の前へと交差させる。
 青く綺麗な煌めきが、二つ、あった。その姿の右前足が、俺へと飛んできていた。鋭い爪が、その尖端が、俺へと向かってきていた。

 後ろ足が地面を離れ、身体が宙に浮かんだ。その爪は俺の両前足を貫き、俺の胸を砕いた。
 俺の身体が、背中から落ちていった。そいつの姿が、俺の上へと、続くように落ちて来た。
 身体の鼓動が止まった。鼻先から入り込んでくる雨粒が、ただ、冷たかった。



 あれは反射的な防御だった。防げてなどいなかったが、防ごうとする俺があった。
 俺の前足は、あんなにも自在に動かせたものだったろうか。あるいは、あの時には既に、関節が折れていたりなどしたのかもしれない。

 ――無抵抗に胸を貫かれていたほうが、よかったのかもしれない。


 その姿が身体を起こし、俺の下腹へと座った。右前足を俺の胸から引き抜いた。それに合わせて、重い感覚が二つ、身体から落ちていくのを感じる。貫かれた俺の両前足が、その足先が、身体の横へと転がり落ちていく。
 胸からは、急な冷感が身体に入り込んでくる。冷たい雨が、隙間を埋めようと、俺を叩き続けている。

「――支配、したかったんだってね」
「ああ――したかった、よ」
 薄明かりの中、その姿の右前足が歪に曲がっているのが見て取れる。爪も割れ、どちらの血とも付かないものがその亀裂に染みている。
 俺を正面から貫くつもりなどなかっただろう。果たして、こいつは無事に回復するのだろうか。――恐らく、無理だろう。
 敵った、のだ、と、思いたかった。

「――ただ、俺は、抱かれたかった」
 欲しかった。平然と領域を侵して、俺を打ち負かして、関心なく去っていく。そのような姿を、追いかけて来た。
「ああ、そう。僕に?」
「――そう、だ」
 ああ、あれほど暴威的だったのに、こいつは自らを〝僕〟などと称するのか、ますます可愛いではないか。
 ――だのに、弄ぶことも、弄ばれることも、もうないのだ。惜しい、ものだ。
「――そうか」
 その青い目が、見下す形で俺へと視線を向けてくる。
 何を思っているのだろうか。決して、いい感情などではないだろう。俺に付き合わされ、結果的に足を折られたのだ。恨みの一つくらいはあるだろう。
 その姿が、一つ息を吸って、吐いた。
「――仕方ない奴だ」

 ただ、その姿は、想像するようなことは言わず、俺へと覆い被さってきた。――身を前のめりに倒し、俺へと覆い被さってきてくれた。

「あ、え……」
 下腹に掛けられていた重みが一旦浮かび上がり、形を変えて再び落ちてくる。両後ろ足の間に何かを突き立て、押し込んでくる。
 その左前足が、俺の背中へと回される。曲がった右前足は宙に浮かべたまま、その重みが俺へと預けられる。泥水が全身に染みこんだ身体。
 もう無いはずの鼓動が、何度となく大きく身体を打つ。言葉にならない声が、喉の奥から零れていく。
 温かく心地のいい感覚に委ね、緩やかに瞼を瞑る。
 抱き締めたい。抱き返したい。――無理のある思念が、頭の中に浮かんで、消える。前足に力を籠めようとするものの、痺れるような感覚があるだけで、動く気配はない。
 胴体は、もう、されるがまま。動かない。
 頬を俺の頬へと重く押し付けられ、軽く押し返す。擦り付けられる動きに合わせて、頬から水気が溢れ出していく。
 頬を離すと、今度はその小さな口で、俺の口元に触れてくる。小さな舌が口元を舐めてくる。小さく口を開き、舌で押し返し、それに応じる。絡め合い、口を重ね、その中で押し込み合う。
 その姿から送り込まれてくる鼓動が、早まっていく。沁みるような心地よさが、下腹に沸き立つ。
 その左前足が、俺を強く抱き寄せ、その胴体が体重全てで俺を押し潰す。その身動ぎが、止まる。ただ、注がれる、もの。――意外にも、温かい。

 数瞬、時が止まったかのようだった。ただ、降りしきる雨音だけが、一帯を包み込んでいた。

 その姿は身体を起こし、そのまま俺の上から離れていく。隣に立ち、俺の顔を覗き込んで来る。
 俺はぼんやりと瞼を開き視線を合わせる。その青い目の中に、俺の赤い目が映りこんでいる。
「――これで、いいか?」
 返事をしようと口を開くものの、声は出なかった。

 その姿は、それ以上何かを言うこともなく、俺から視線を外す。身を翻し、静かに歩き離れていく。

 ――行かないで、欲しい。
 右前足が曲がったその怪我のまま、独りでいれば、捕食者に狙われるだろう。そうなれば助からないだろう。だから、俺のそばに――。
 ――鼓動もない俺が、助けられるはずもないというのに。
 ――いや、せめて、俺の意識が完全になくなるまでは。――死にゆくということを、認識したくない――。
 そんな望みが届くこともなく、俺はただ、雨天の草原に、独り、残された。



 身体じゅうが、熱を失い急激に冷え込んでいく。ただ、下腹の奥にだけ、心地のいい温もりが残り続けている。
 ――ああ、まあ、最期としては、悪くはないだろうか。――興味を惹かれたものには、あの姿には、食らい付けたのだ――。



 ――あいつは、まだ死ぬつもりはないのだろう。
 助かって欲しい。
 無理だろう。――いや、まだ歩けるのだ。何とかなるだろう。
 ――俺が、変な受け止め方をして、傷付けたというのに、だ。
 ――愚かしいものだ。


 ――走り切ったかい?

 声。
 恐らく、声。知らない声。

 ――走り切った、だろうかな。

 返答するだけの力はない。これでいい。この誰かも、恐らく、何の返答も反応もない姿を望んでいる。
 幸運な捕食者が糧を得る、そのような光景なのだろう。

 首に刺さる感覚。強く、深く、鋭いもの。
 そのまま首を引っ張り上げられて、身体が浮かぶ。胴体が地面から離れる。
 首から下へと、痺れる感覚が広がっていく。それ以上の感覚はないし、動きもしない。
 消えたはずの両前足にも、全く同じ痺れが響く。冷たく、痛いだけのもの。

 俺を支えていたその誰かが、俺を離す。
 草の地面に落ちる。その衝撃で瞼が開く。

 白と黒の、流れるような被毛を纏った何かが、視界の端にある。
 俺の胴体。
 捕食者に拾われ、首を落とされた糧。頭より幾分も食べやすい、肉塊。

 今もなお全身が痺れているかのような感覚がある。それらは、もう、全て、ただの錯覚である。

 遠いどこか、大地なり捕食者なり、何かしらの中で、俺の一片が、再びあいつの一片と交わることもあるかもしれない。
 それで、いい。

 遠く空の彼方に、雨雲の切れ目が見て取れた。
 朝の日差しが柔らかく降り注ぐ頃には、丸一日続いていた一帯の雨も止むことだろうか――。




・後書きとして
ガラルマッスグマの真っ直ぐな恋模様とか、きっとかっこいいものなのだろうな……とはかねてより夢想し続けるものでした。きっとかっこよく書けたのですよね。
以下2件のコメント返しになります。

走り切ったか? 食らい付いたか? 悔いはないか?
分かってるさ。悔い残さないように追い続けてやるよ。絶対に逃がさないから。 (2021/01/14(木) 02:00)


ありがとうございまーす! …っと。こう返すべきかな。
"悔いだらけ。食らい付く力はなかったし、走り切ったとも思えない。"
"それでも追ってくれるのなら、残った肉塊は、好きにしてくれていいよ。――ありがとう。"

性と死の肉薄する光景が瑞々しく、火花の如き生が鮮やかでした。この張り詰めた疾走感に身を浸すために何度でも読み返したくなります。 (2021/01/15(金) 01:39)


死よりも優先したいことってきっとたくさんあると思うんですよね。そういったものたちに飛びついていきたいですよね。 …っていうのは共感を求めても仕方ないのかもしれませんけれど。はい。
何度も重ね読むほど楽しんで頂けましたなら冥利に尽きます。ありがとうございまーす!!



ここまでお読みくださりありがとうございました!


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Last-modified: 2021-01-02 (土) 22:19:05
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