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朝はふらふらのパドゥシャ

/朝はふらふらのパドゥシャ

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赤猫もよよ

 開演を間際に迎え、劇場は灼獄のごとく煮え立っていた。
 緞帳越しに伝わる重圧、観客席にみっしりと詰め込まれた目いっぱいの観客たちから発せられる気配の束は、まるで飢えた獣を思わせる剣呑さに満ちている。
無理もない、と私は思う。
 収容数の目いっぱいにまで押し込まれた観客たちは、入場開始から開演までのおおよそ一時間弱を、限りなく苦痛と圧迫に満ちた空間で過ごさねばならない。私は観客側に立ったことなど一度もないが、舞台上から見下ろすだけでも、毛と鱗とがひしめき合う空間のその窮屈さは痛いほどに伝わってくるのだ。
 さながら牙の隙間から漏れだす呼気のように、厚い緞帳の生地を超えて漏れだす熱情、情欲、期待、興奮、それらを綯交ぜにして束ねた熱情の風が、艶やかな瑠璃の羽毛を撫ぜつける。
 心臓は波打ち、身体は火照る。神経が尖り、口の中はからからと乾いてゆく。吸った息は瞬く間に渇きに満ちて、喉の奥に砂塵が吹きすさぶよう。
 私がまだ幼きウェルカモであったころ、小さな町の屋外広場で幕を開けた初演の日から幾百の夜を超えてなお、開演間際にこみ上げる緊張、恐怖、それらに類する様々な感情は、まだ新鮮なままで私の内を満たすのだ。
 踊り子と獲物はよく似ている。帳が下り、飢えた獣たちと私の隔たりがなくなれば、散々待たされた鬱憤を晴らす様に、彼らは私を追い立てたいという衝動に駆られるだろう。
 そしてそれを抑え込めねば、この瑞々しい四肢は、張り詰めた肉は、艶やかな羽毛は、余すところなくしゃぶりつくされ、私は骨さえ残らないはずだ。文明を手にし、言葉を解し、理性の火を灯した私たちとて、その根本にあるのは獣のそれであるのだから。
 ゆえに芸事に従事する者たちは、常に命を賭けなくてはならない。ただひとつ異なるのは、踊り子は一つだけ、飢えた獣を満たすための術を持ち合わせているということだった。
 ――上演時刻が訪れる。
 一分一秒の違いなく、舞台上の端に佇む、黄金のとさかのストリンダーが、ひとつ弦を震わせる。情熱的で、煽情的でありながら、どこか故郷の夕暮れを思わせるような、郷愁に満ちたメロディ。
 緞帳が上がる。洛陽の劇場はいまや世界の全てになった。そして世界の全ての感情が、舞台上に立つ私へと注がれる。獣たちのひりつく視線に乾き始める四肢を、奮い立てるように水を通わせる。
 ひとつ、ひとつ、リズムに合わせ踏み出した足が、ひそやかな波浪を立てた。歩幅に合わせ、階段を下るようにして加速する旋律。満ちた熱気に霧散するより早く、もう一歩。振るう腕が水の軌跡(ヴェール)を纏い、振り上げた脚が飛沫を振りまく。尾羽飾りが激しく震え、波打ち、世界に波浪を広げていく。
 夕暮れのリズム。
 飛沫のダンス。
 その圧倒的情動に、観客たちは息を呑む。
 劇場に煮え滾る激情はまさしく水を打ったように静まり返り、飢えた獣であった彼らは、私達のもたらす圧倒的情動に息を呑み、こみ上げる密やかな激情に呆けたように口を開け、剥きだした牙を静かに震わせるほかになくなっていた。
 踊り子が獲物と異なるのは、ひとつだけだ。
 踊り子――私はこの身、細い腕のほかに、水晶のようにつややかに錬磨され、輝きを放つ芸の腕を差し出すことができる。腕を振るい、彼らの肉体の内側に宿る魂を震わせ、握り締め、私の身体の中へと引き込むことができるのだ。
 優れたる踊り子は、獲物でなく狩人である。
 刻まれる旋律と情熱のさなか、私はその身を牙のように震わせ、観客に、私のことを生涯忘れられないように深い傷を刻むのだ。
 弦が鳴る。
 ステップが舞台を叩き、水飛沫がはじけ飛ぶ。
 世界のいっぱいに膨らんでいく期待と興奮を受けながら、帳が上がるのは踊り子として(・・・・・・)の狩猟の時間。
 焦らすようにステップを重ねるごとに、観客たちの興奮は膨れ上がっていく。熱は怒涛の波浪となって、観客席に逆巻いた。
(……あら、あの子)
 さて、そうすることで、逆に浮彫りになるものがある。
 私が搔き立てるその波に、いまひとつ乗り切れていない者たちの存在だ。
 付き合いできたのか、それともまるで分からないままにこの世界に足を踏み入れたのか、或いはそもそも何かに現を抜かすことを馬鹿らしく思うような、斜に構えた存在なのか。いずれにせよ、彼らは熱狂  的に目を輝かせる隣人たちに圧倒され、今この場においてだれよりも所在なさげに佇んでしまっている。
 演目の傍ら、私はそういう人々の種族と顔、そして座席の位置を記憶することにしている。別に後でお礼参りにいくとかそういう話ではない。これは単純に、()の狩りごとのために必要な事柄だからだ。
 観客席後方、後ろから三列目の右から五人目。
 呆けたように口を開けて、私の舞踏に目を奪われつつも、その感動は極めて凡庸な――つまり、「きれいなものを見た」ぐらいの感動でしかない――もののように見える、ニャローテの男の子。
 察するに、彼らは波への乗り方を知らないのだ。私という波浪に骨身の髄までを委ね、脳髄を蕩かし、私の輝きに夢を見る術を知らないから、その熱狂は浅いままなのだ。
 ――それはあまりにも可哀そうじゃないか。
 なぜなら彼は、私の中にある「私」の魅力に目を奪われることがないまま、ただ舞踊の美しさだけを噛みしめて帰ることになってしまうのだ。少なくとも、今のままでは。
 私が私である限り、それはさせない。
 いかなるすべを使ってでも、あの子の中に「私」を刻み込ませてみせるのだ。





 演目は極めて盛況に終わった。
 すべての演目が終わり、緞帳が下がってしばし、満ち足り過ぎた観客たちの熱の入った喝采と歓声、悲鳴に似た狂信的な熱橋を背に、舞台袖へと去っ(ハケ)てゆく。
「お疲れさまでした、ヴェーゼさま。今日も盛況でございましたね」
 途端にイエッサンの少年――彼は私のマネージャーである――が駆けてきて、私に労いの言葉をかけ、彼の身の丈ほどもある、大きなタオルをぎゅうぎゅうと押し付けてくる。
「ありがとう、ハーディ」
 なにせ踊りを終えた私は汗やら水やらでびっとびとな訳で、水分を拭きとらないまま身体の火照りを冷ませば風邪を引きかねないし、しとどに濡れそぼって乱れた私の全身の羽毛の様子をファンに晒す訳にはいかない。彼なりに、懸命なのはわかる。
「でもハーディ、ちょっと乱暴よ。もっと丁寧に拭いてくださる?」
「わ、すいません、すいません!」
 つん、と彼の額の毛並みをつつくと、彼はめっぽう慌てて全身をわたわたとさせた。懸命に手を伸ばし、私の胸元を拭き上げようとする仕草はめっぽう愛らしく、いじらしくもある。
 拭いてくれ、とは頼んだが、なにせ彼と私の身長差とくればすごいもので、彼を二人縦に積み上げてようやく私と視線が合うほどだった。彼に拭かせるのは非効率的だし、少々意地悪でもある。あまりからかうのは止めにしよう、と私はタオルをひったくり、自分で汗をぬぐった。
「あっ、ああ、すいません……」
 彼は私の意地悪にも気が付いておらず、それどころか自らの至らなさを噛みしめるようにしょぼくれた。指先をすり合わせ、もじもじと体を揺らす所作があまりにも可愛くて、私は衝動的に彼を抱き上げ、身体をすり合わせた。
「わっ、冷たい!」
 私のために整えられたふわふわの毛並みに水気をしみ込ませてみると、彼は口では叫びつつも、さしたる抵抗はしなかった。あまりに殊勝な性格がめっぽういとおしくて、もうなんか思わず噛みついてしまいそうになるのを必死で抑えた。
「おおい、ハーディちゃんをあんましいじめんなよぉ」
「あらディスト。いじめてなんかないわ、ちょっとタオル代わりにしただけよ」
 私に続いて舞台袖にやってきたのは、ストリンダーのディストだ。先刻の情熱的な演奏で一日分のエネルギーを使い果たしたのか、とさかの輝きは絶えかけの焚火のように弱々しく、ぶええとだらしない声を上げながら欠伸なんかをしてしまっている。仮にも舞台に立ち、私ほどでなくとも衆目を浴びたばかりの男だというのに、あまりにも覇気がない。
 彼の奏でる音はめっぽう情熱的で、そのエネルギッシュな音楽性を示すように眩く輝く黄金のとさかを持っていた。そのくせ常に気だるそうでテンションは低く、常に寝覚めの死人のように澱んだ目をしているという、不可解な男である。
 女の趣味は悪いが芸術的センスはピカイチ、私のダンスを支える相棒だ。音楽以外のノリが極めて悪いことを除けば、だけど。
「いや、いじめてんだろ。こいつの毛並み、もうべちょっべちょじゃねえか」
「いえ、本意です! ぼくはタオルですので!」
「……じゃ俺も拭いてくれる?」
「いやです!」
「あ、そう」
 私の胸元で頬をほてらせるハーディに、ディストはもはや何も言うまいと悟ったような表情を浮かべ、ただでさえなで気味な肩をさらに落とした。
「で、お前今日もアレやんの。仕事終わりのあのアレ」
 うんざり、という気持ちをまるで隠さず、ディストはでろでろとけったいな音色を奏で、胸元の弦をかき鳴らした。私は当然と言わんばかりに笑みを浮かべ、ディストはもう一度ため息を吐き、「うへえ」と言った。
「ディストもやれば? 意外と、いいものよ」
「冗談! 俺はお前ほど自分が絶対だとは思わないね。観客にも、自分が心奪われる対象を選ぶ権利ぐらいあるし、響いてねえならそこまでだろ」
 私の「アレ」に対し、ディストは常々懐疑的だった。彼はそのパンキッシュな見た目やダウナーな性格に反して、音楽に対する姿勢はどこまでも純粋なのだ。純粋すぎて、芸事の世界という濁流の渦巻く中では生き抜くのが難しいほどに。
「顧客のパイは有限よ。そんな悠長なこと言ってたら、誰にも忘れられてしまってよ」
「なーにがパイだよ、おめえはひとのオッパイ弄りてえんだろうが」
「貴方こそ、ご自身の魅力を人に響かせる自信がないだけでなくて?」
 ディストはいくらかの経験を経て、わたしのようの気の強い女との口論の不毛さを知っている。にわかに火花の散りかけた空気を希釈するように、深い深いため息を吐く。
「ま、それが稼ぎに繋がってんだからなんでもいいが。愛憎窮まって刺されたりすんなよ、てめえのツラの三面記事なんか見たくもねえ」
 ディストはなぜかハーディの顔をちらりと見て、それから彼の頭をわしわしと撫でた。電気タイプの、微弱な静電気を孕んだ手のひらによってハーディの全身の毛はぼわりと逆立ち、彼は不本意極まりなく唸った。
「ああもう、整えたのにい……」
「お、悪い悪い。……じゃ、俺はモク食って寝るわ。変な病気拾うんじゃねえぞ」
 言葉も態度も素直ではない。けれど、一応彼は私の身を案じているらしい。
 長い付き合いだから、私がこれから望む行為がよこしまな意志だけでのものでないことを、恐らくある程度は理解しているのだろう。そのうえで、彼は私のことを理解できないという態度を取るのだから、彼は信頼のおける男だ。
「ヴェーゼさま、今日もあれをやるのですね」
 ディストが去ったのち、私の足にぴとりと寄り添い、ハーディは期待に満ちた面持ちで私を見上げた。彼はとても幼く、しかしこれから私が成すことと、その目的を理解している。その目に宿る敬愛とも崇拝ともつかぬ輝きは、ただ私だけを照らしていた。
「ええ。今日も手伝ってくださる?」
 屈みこんだ私は、ハーディの無垢な眼差しを見つめる。それだけで、初心な彼の頬には紅が射した。
「も、も、もちろんですっ。じゃあ、ご準備しますから、ヴェーゼさまはモーテルのご自身のお部屋でお待ちください」
「ありがとう、ハーディ。……そうそう、呼んでほしいのは――」
 私はこっそりと袖幕を捲り、隙間から観客席を覗き見た。
 熱に浮かれた夢を冷ますように解散の号令がかかりつつある観客席は、私たちの演目に心打たれたらしい観客らのざわめき、興奮、放心、それらが混ざり合い、さまざまな混沌に満ちていた。興奮冷めやらぬ様子で語り合いつつ、退場の呼びかけを待つ客らの中で、特に浮かないわけでもなく、されど浮かれた様子でもない若葉色の毛並みのニャローテの姿は、私の目には浮いて見える。
「あのニャローテくんですか」
「そう。多分おひとりでいらしてるから、簡単に呼べると思うわ」
「ぼくと同じ……ちょっと年上、ぐらいの年齢ですね」
 ハーディが舌で転がす言葉の内側に、僅かな苦みが籠っていた。袖幕を閉じて、私は彼の小さな背を抱きしめる。柔く短い藤色の毛並みに、少年の初々しいスメルが漂っている。
「あら、妬いているの?」
「妬いてません。だってヴェーゼさまの一番はぼくですもの」
 彼は自信満々にそう述べ、私はそんな彼の思惑に手を貸すように、「ありがとう」と耳元で囁いた。
 それから彼を送り出すために通用口へと背を押すと、彼はもう切り替えた様子で、迷いなく歩いていく。しばらく歩いたところでくるりと振り返り、彼はもう一度「一番はぼくですよ」と念を押した。はいはい、と私は手を振る。
 不本意な労働には、相応以上の対価が必要だ。
 いずれ来る彼との(しとね)の上では、特別に主導権を握らせてみるのもいいのかもしれない――などと思いを巡らせながら、私は足早にモーテルに戻り、身体を清めることにした。




 夜の帳は降りてゆく。
 私がシャワーを浴び、身を清め、舞台で昂った精神を鎮めたのを見計らったように、ハーディは私の部屋へと入ってきた。その手にはニャローテの少年の手が握られており、彼はハーディの誘導にまるで抵抗する素振りもなく引き連れられている。
 マネジメントだけでなく、人を指定の場所に呼び寄せることに関してもハーディは一流だった。卓越したコミュニケーション能力がなせる業か、それともイエッサンという種族に生来備わっている超常的な力か、もしくはその両方なのか、とにかく彼はものの一時間もしないうちに、かのニャローテの少年を私の手元へと呼び寄せたのである。
「呼んできました。声を掛けて、友達になって、ちょっとだけ意識を揺らがせてあげたら、あとはもう手を引くだけです」
「わお、敏腕」
 どうやら、憶測の全てが的中したらしい。取り立てて誇るようなそぶりもなく、当然のように言葉を並べるハーディの手のひらには、ニャローテの少年の手がしっかりと握り締められている。
 完全に意識を掌握されているニャローテの少年の、そのつり上がった瞳の中の緋色は朧げに曇り、光は失われていた。身体の一本筋を抜かれたように立ち姿はふらつき、生気と呼べるものはおおよそ感じとることができなかった。
「ぼうっとしてるみたい。この子、大丈夫?」
「しばらくしたら目を覚ますはずです。それまでに仕込みたいことがあれば手伝いますよ、彼のお尻の穴に催淫のお薬を塗りこむとか、思考がちぐはぐになるような、良くない葉っぱを炙った煙を嗅がせてみるとか」
 どこで覚えたのか、ハーディは随分と過激な提案をした。返答に少々困って、私は小首を傾げた。
「私、そんなのしたことあったかしら」
「いいえ。いまのはぼくがされたいことです」
 あとちょっぴり彼への恨めしさも入っています、とハーディは続けた。彼が一体どこでそういう火遊びを認知したのか、今度ディストに問いただしてやらねばならない。
「そういう遊びは、次に貴方の冬毛が抜け落ちてからにしましょうか」
「はあい」
 彼は素直にうなずいた。手のかからない子だ。
「すみません、お話が逸れました。ぼくは隣のお部屋に戻りますから、あとはごゆっくりどうぞ」
「うん、ありがとう」
 ハーディは淑やかに一礼をして、私の部屋から立ち去った。
 手狭で、言葉を選べばレトロ風味なモーテルの一室に、私と名も知らないニャローテの少年が二人きりになる。
 お人形のように佇むニャローテの眼差しは光もなく虚空を見つめ、呆けたように口を開けている。目の前で手を振ってみてもまるで反応がない。
 翼腕の先を彼の葉飾りの下に差し込んで、お腹周りの柔らかな被毛に添わせてみる。じんわりとこみ上げる熱と、発展途上の男の子らしくわずかに蓄えられた筋肉のこわばりを感じた。私はそこでようやく、彼の命がきちんと息づいていることを実感する。
 生来持ち合わせるタイプゆえか、彼の身体からは陽の溜まる草原のような香りがした。人によっては好ましく、人によっては青々しいと忌避するような、濃く茂る草いきれの匂い。もう少し鼻を近づけると、草原で包まれた内側にほのかなけものの匂いが混ざり込んでいた。私は草よりも、けものの方が好ましい。
 少年の背丈はハーディよりも僅かに高い。肢体はしなやかに伸びて細いが、華奢と呼べるほどではなくて、かといって逞しいと呼べるほどの筋肉量はない。中庸で平凡、言い換えれば将来性に満ちた、まさしく発展途上の少年に相応しい骨身をしていた。
 私は彼を抱き上げ、ベッドシーツの上に転がした。彼の身体は存外に軽い。きっと普段から身軽にあちこちを飛び回っているのだろう。少なくとも、舞うように飛べない鳥の擬きとやらよりはずっと空に愛されているはずだ。
「……ちっとも起きないわ」
 水底から這い上がって私の足首をつかむ、醜いあひるの子の手を振り切るように呟いてみても、ニャローテの少年はまるで意識を取り戻さない。
 ベッドの縁に腰かけて、彼のふっくらとした頬をつつき、僅かに湿った鼻先を撫ぜ、薄くひらひらとした、まるで花弁のような耳の先を舐めてみても、彼は無粋に虚空を見つめたままだった。時折小刻みに身体を震わせるところを見る限り、意識はなくとも身体にはいくらかの刺激が走っているようだ。
「ハーディったら、いつもより強めに暗示をかけたのね」
 やれやれ、と私は息を吐いた。普段より年が近い男の子だからか、どうにもそうとう妬いているらしい。普段は奉仕タイプの彼にも、結構いじらしいところがあるようだ。
 このままでは退屈だけど、退屈なりにやることはいくらでもあった。お楽しみの前の、ちょっとしたリサーチ。彼を愉しませ、私が楽しむために、それは踏んでおくべきプロセスなのだ。
 葉飾りの下に隠れた彼の首元に翼腕の先をうずめ、弄る。以前に褥を共にしたマスカーニャの女性が、われわれは喉元を撫でられると心地よいのだと言っていたのを覚えていた。
 地続きの種族だから、その性質は彼にも適用されるはずで、目論見通りまもなく彼の喉元からはごろごろと大地が震うような低い音が絞り出される。彼の、強張っていた四肢がわずかに緩んでゆく。
 喉は彼にとって心地よい部位であるらしいが、それは普遍的なものだ。彼には彼にしか持ち得ない急所――いわゆる、性感帯と呼ぶべきもの――があるはずで、それを探し得ないことにはリサーチは終われない。
耳、頬、手の甲、腋、太腿ときて、足の先まで、私は彼の微弱な反応を頼りに弱い箇所を探す。しかし大した成果は得られない。彼の反応はほぼ一定で、それもくすぐったさに身をよじるようなものばかりだった。
 これしきのことで私は焦らない。千夜一夜の帳を超えて学んだのは、憔悴こそベッドシーツの上ではもっとも不要な感情であるということだ。彼はまだ幼く、そして恐らくは経験も浅く、自分の部位を弱くされるような体験も積んでおらず、ゆえに鈍感なのだろう。しかしそれは、裏を返せば未開墾の土壌が広がっているということでもあるのだが。
「勝手に踏み入れるのは無礼かしら」
 己の強い部分も弱い部分も、自分の意思で選ばれなければいけないというのが私の信念だった。既に存在するものを探すならともかく、まだ意識を取り戻さないうちから彼の、彼だけの急所を定めてはならないと思い、私は手を引くことにした。
 なら何もしないのかといえば、そういう訳もいかない。
 前戯の段階から、こんな普遍的な急所に食いつくのは無粋だと思いつつも、何せ今の私は手持無沙汰なのだ。そして、持て余した手で握ることが出来るものなど、たったの一つしかない訳だ。
 ニャローテの少年の、ほっそりとした愛らしい両の脚、その付け根の股座。備え付けられた少年の茎を包み隠すように葉飾りが垂れ、その下には体中のどこよりも毛並みがもさりと盛り上がっていて、僅かに下方を辿れば、葉飾りの裾からわずかにはみ出るようにして、胡桃の赤子のような大きさの一対の未熟な玉がふくふくと膨らんでいる。
 葉飾りの裾を捲り上げ、茂りの中へと翼腕の先を差し入れる。
手に触れる感触は胴回りや首元に生うものよりも硬い剛毛で、草原というよりは繁茂する雨林のような手ごたえを感じさせる。少年のたおやかな芯を不埒な侵入者から遠ざけるためなのだろうが、生憎と雨林の歩き方は詳しい方だ。すぐに、茂りの奥深くに生える一本の茎を翼腕の先で捉える。ニャローテの少年の体温は高く、その中でもとりわけ濃い熱量を感じる箇所だった。
 少年は幼く、そして精神的にも沈静状態にあるからか、翼腕の先で全体を捉えられそうなほどに尖りは小さく――うら若き彼の名誉のために言っておくと、私の体格は彼の二倍ぐらいはあったし、そもそも陰茎の大きさというのは種族ごとに顕著な差があるのだ――しかし、若さゆえに敏感だった。私の柔らかな翼腕の先ですこし弄ぶだけで、しなだれていたそこは硬さを持ち、確かな輪郭を帯び始める。
「ん、っ……」
 少年の身体がぴくんと揺らいだ。閉じた口の端から、花の芽吹きのように淑やかな、少年の青く澄んだ細声が漏れる。
 ハーディのかけた暗示が、徐々に解けつつあるようだった。時間か、それとも今までになく強烈な刺激を与えたからかは分からないけれど、彼の覚醒が近くなっていることを私は感じ取っていた。
 目覚めは快適なものでなければならない。私は彼の薄桃色の若茎を何度も緩慢に撫ぜ上げた。そのたびに、ん、とかあ、とか単調な――しかしどこかむず痒さを帯びたような――音が彼の喉から絞り出される。同時に、彼の尖りの先端から分泌された先走りが私の翼腕の先を浸し、粘りが擦れ合うぬちりという音が耳孔に満ち、むせ返るような青々しい獣臭が部屋に立ち込めはじめた。
郊外のモーテルは私達のほかにほとんど客もおらず、窓の外の灯火も乏しいもので、つまりとても静かだったから、粘りの槍をこね回す作業は存外に捗った。彼の薄桃色の、瑞々しく張り詰めた小さな突起をなぞり上げ、こねくり回し、舐るように擦る。しかしあくまで所作は緩慢なままだった。まだ、イかせるつもりはなかったからだ。
「ん、う……?」
 少年はなぞられるたびにうめきを上げ、身をよじった。
 私が密やかに蓄積させていく快感を、その密やかさゆえに解放が許されないままため込むことしかできないというもどかしさが、声音と所作に詰まっているようだった。普段、彼が夜ごとに寝具の中で耽るだろう行為よりもはるかにスローペースな快感が、一度も破裂を迎えないままため込まれていくという未知の感覚に、彼はひどく当惑しているようだった。
若さのなせる業か、乾いたスポンジのように彼の身体は滔々と快感を受け入れ、出力する。少しも経たないうちに少年の若茎はもうすっかりと上気して、ねっとりとした水気と、熱と、硬さを帯び始めていた。
 ごわついた毛並みの守りの中で埋もれていた少年の情欲の象徴は、芯が通されたように固く、生えたての陰毛の茂みを突き出して天を目指す。尖りの先が震えるようにひくついて、とろとろとあふれ出す透明な汁が玉を生み出した。
 汁を纏った竿先が放つ芳しく淫らな香りに、呼応するように私の下腹部もうずき始める。
 私はたまらなくなった。ベッドの上、彼の身体の前に向き直ると、ひな鳥がするように、嘴を大きく開いた。そのまま、差し出された餌を舐るように少年のそそり立つ陰茎を咥えこむ。分泌される液体に触れた舌先に苦みが迸り、遅れてえぐみのある塩気が頬のいっぱいに広がった。
 震える竿の先に這う我慢汁を、舌先でこそぐように舐めとる。嘴の中から、くちくちと籠ったねばつきの音が沁みだして、耳孔まで淫らな気分にさせる。体の中に通う水がすべて沸き上がったかのように、身体がほかほかと火照り始めていた。唯一、股座に伝うねっとりとした冷ややかさを除いては。
 興が乗り始めていた。私は舌先に少し力を込めて、少年の竿の裏側をつるりと舐め上げる。
「――ッ! ……あ、は、え……?」
 ぴくん、と少年の身体が跳ねあがり、遅れて喉元から惚けたような声が漏れだした。
 今の一撃が契機となったのか、完全に暗示の解けたらしい彼はゆっくりと上半身を起こし――そして、己の肉棒を咥えている私と目が合った。
「…………え? あ、え、え? は、ハーディ、くん、じゃない……?」
 すべてを掌握し、陰棒を飲み込んでいる私とは対照的に、彼は一切合切の状況を理解しておらず、まさしく何もかもが飲み込めないというようであった。寝ぼけ眼によく似た、まるで焦点の合わない瞳をぱちぱちと瞬かせ、頓狂なうめきともつかぬ困惑の声を漏らす。
「あれ、おれ、なんで、え? あの、なに、して――」
 こんばんは、と私は言った。彼の肉棒を咥えたまま。
「ん、に゛ぃッ!?」
 柔らかな舌先で己の最も敏感な部分を転がされ、ニャローテの少年は弾かれたように腰を上げ、弓なりになった。瞬く間に硬度を増した小さな突起が私の喉元を突き、奥深くまでの挿入に思わずえづきそうになるのをどうにか押しとどめる。
 舌先と頬の肉で挟み合わせるように、彼のつぼみを包み込んだ。目覚めたことでさらに血が通い、膨らみ始めたそれを濯ぐようにして揺さぶってやれば、刺激に呼応するようにどくどくと脈打つのだ。
「あっ……あっ、あっ、まって、やめっ……!」
 悲痛と悦楽の叫びが少年の喉から絞り出される。待つものか、と私はしごきのリズムを早めた。舞踊なら走り過ぎたリズムは不格好だが、こちらは早ければ早いほどいいというものだ。理性が処理できなくなるまで快感を与えて、私は彼を何もわからなくしてやりたかった。
「あっ、あひっ――あっ」
なぞり上げられるたびに出力される快楽の波が、私の手で蓄積され続けていた遅効性の快楽波と入り交じり、鎌首をもたげて彼の内側を揉みくちゃにする。少年のあどけない顔立ちはくちゃくちゃに歪み、上気し、快楽に耐えようと食いしばった口の端から涎が滴る。
「――ッ! あ、ああっ! ふう゛ーッ……!」
 ひとつ、魂をすり減らすような声を上げ、少年の身体は再び跳ね上がった。その途端、灼熱を帯びて膨張しきっていた彼のペニスがぎゅっ……と強張り、尖りの先からどぷりと青々しい白濁が大量に絞り出された。
 濃く、どろどろとした白濁の柔塊が、嘴の中の目いっぱいに広がった。私は目を見開く。瞬く間に味覚の全てを白濁に飲み込まれ、むせ返るようなえぐみの強い獣臭が喉の奥を満たした。
ゆっくりと、味わうように、少しずつ彼の雫を飲み下していく。
彼の若々しい肉体から吐き出される新鮮な精液は、青々しい苦みと臭みが広がる中に、穫れたての茶葉を噛むような瑞々しさと清々しさ、いくらかの渋みがあった。食性が植物に偏っていることが多い草タイプならではの味わいだろう。
「っ、ふーっ、ふーっ、っ、ああっ――!」
 彼の尖りの先はまるでポンプにでもなったかのように、その細くすらりと伸びた肉体のどこに溜め込んでいたのかも分からない量の白濁を放ち続ける。
怒涛の勢いに、流石に堪えられず嘴を放す。圧迫されて赤みを増した彼のペニスは冷ややかな外気に晒されてなお猛りを止めず、まさしく歯止めが利かなくなったかのように打ち震え、びゅうびゅうと気のいい吐精をし、深緑色の葉飾りにぼたぼたと濁った白を滴らせた。
幾度も吐き出し、吐き出す。そしてしばし経ってようやく、憑き物が落ちたかのように彼のペニスはくたびれを見せはじめる。
「……っ、はあっ、はあーっ……」
 ニャローテの少年は手の甲を狭い額に当て、上気した体と熱に暴走した思考を冷ますように、深く息を吸った。吐精のさなかは呼吸もままならなかったのか、吐息の形は刺々しい。
起伏の少ない、ほっそりとした健康的な少年の肉体がぐったりとベッドシーツに沈み込み、捲くれた葉飾りの下に覗く胸部が膨らんでは萎み、膨らんでは萎みを繰り返していた。その無秩序な脈動、絶えかけの命を繋ぐように懸命に息を貪る少年の姿に、彼の弱弱しく歪みながらも紅潮した顔立ちに、私は加虐欲にも似た情欲を煮え滾らせる。
「あのっ……あなた、ええと、さっきの舞台の……?」
 息も絶え絶えに対話を試みようとする彼の肩に無言で翼腕を押し当て、私は彼の身体に覆いかぶさるように身体を伸ばした。空いているもう片方を葉飾りの下に潜り込ませ、胸元の毛並みを掻き分け、生暖かな地肌を弄っていく。
「あ、あの、あなたっ、もしかして、今日のショーの……ひッ!」
 こりっ。
地肌をなぞり上げる最中、指先に僅かな引っかかりを覚える。
それは柔らかく、小さく、張り詰めた突起だった。手触りは腫れものと似ているが、違うものだ。少年の反応とそれのある体の部位から、私は正体を理解する。
「貴方、ここがもろいのね」
「っ、あっ! どこ、触って……っ」
こり、こりっ。
そのでっぱり――乳首を掻くたびに、少年は微弱に身体を震わせ声を上ずらせる。まるで音の鳴る玩具のようで、私は愉快な気分になった。
わずかにこみ上げる微弱な電流のような刺激の逃げ場を求めて、彼は手足をもたつかせた。しかし、私に肩口を抑え込まれているので、彼はベッドの上から抜け出すことができない。
「ねえッ! こ、これっ、いったい、どういう――んっ、ふう゛う……っ!」
乱暴な放精の直後、まだ物足りないと言わんばかりに昂る身体に与えられるひそやかな性感に、彼は妙に大仰に反応した。
さんざんに性感を与えられて体が過敏になっているのか、それともあるいは、こここそが彼の急所なのだろうか。
「舞台から、貴方のことを見ていたの」
 嘴を彼の耳元に近づけ、囁いた。
快感に眩み、揺れる彼の真っ赤な眼差しが、私の顔へと向けられる。
「ねえ貴方、お名前は?」
「え、あ……お、おれは……あっ、ふぅッ……」
 問いかけながらも、私は彼の小さな乳首を擦り続けた。
弦を爪弾けば爪弾くほど、まるでそういう楽器のように、彼の喉から漏れだす嬌声は音階を高くし、語気に孕んだ切なさは高まっていく。
変声期のまだ訪れていない雄の、まるで飴細工の鈴を転がすように澄んで甘い音色は、私のくたびれた耳孔にとって心地よいものだった。だからこうして、ついいろんな風に啼かせてみたくなるのだ。
「ねえ、答えてくださる?」
「あっ、あっ、お、おれっ――ま、マイルス……ッ、です……ッ……!」
「マイルスくん、かあ。素敵な名前ね」
「あっ、ありがっ、――ん、にゃあ゛っ……!」
 マイルスは陸地に打ち上げられたヨワシのように身体を震わせ、腰をすぼめて大きく啼いた。
下腹部のうちからこみ上げてくる疼きに手を引かれたか、一度すべてを吐き出してしおれたはずのマイルスのペニスはぐんぐんと育ち始める。
「また元気になっちゃった。若いって素敵ね」
「……っ、そんな、へんなとこ、触るからっ……!」
 尖らせようとした口が快感に歪み、彼は怒るとも笑うともつかない表情をした。
 抗議する口ぶりとは裏腹に、彼は己の乳首を舐っている私の翼腕を払いのけようとはせず、むしろ強請るかのように身体を反らせ、いじらしくそのなだらかな胸部を擦りつけるように張るのだった。
「うっ、ひっ……あ、あのっ、どうして、おれ、こんなこと……?」
 突き刺すような快楽に幾度も遮られながら、彼はたどたどしく私に問う。
 なぜ自分が、数刻前まで舞台の下から見上げていた演者に精を搾り取られ、身体の弱い箇所をねっとりと責めつけられているのか、まるで分からないという顔。
「だって貴方、響かなかったでしょう? 舞台の上って、意外とお客様の顔が見えるものなのよ」
 私はしとやかに笑んだ。覗き込む彼の瞳には、狼狽といくらかの怯えが浮かんでいる。
「そ、そんなこと、ないです! おれ、お客さんにチケットもらって、舞台とかはじめて観たけど、すっごく素敵で」
 私は彼の乳首をいじる手を止めた。
 覗き込む彼の瞳の、その奥の奥まで潜り込もうとするように、吐息が掛かるほどに顔を近づける。
「それは、踊りが? それとも曲が?」
「り、両方です……う、うそじゃなくて、本心です」
 まるで尋問のような緊張感がモーテルの一室を包む。マイルスはすっかり縮こまり、私より下される判決を身を固めて待つようだった。
「じゃあ、だめ」
「踊りだけでは足りないわ。私の身体――冠羽の一本から脚爪のさきまで、私のぜんぶを愛してもらわないと、私が満足できないの」
 息を吸い、言葉を締める。語気にたじろぐ少年を前に、私は目を細めた。 
 気おされてものを言えない彼の喉元の毛並みに、音もなく指先を沈み込ませ、踊るようにくすぐった。緊張と警戒をほぐすためのひとつめのステップ。
 畏れを帯び、張り詰めた思考と無理やりに緩まされていく肉体とのちぐはぐさに、マイルスは目を白黒とさせ、ころごろと地を擦るような音が喉元から漏れだした。
「ねえ貴方、女性を抱いたことはあって?」
 二歩目のステップ。
 さえずりのように甘く囁けば、彼の反った耳は風を受けた葦の葉のようにはためく。
 抱く、という行為の指す詳細を彼は知っているようで――そしておそらく、いまだ空想の上でしか知らないだろうその行為に対して興味は尽きないらしく――彼はその言葉にひどくうろたえ、赤面した。
「……ま、まだ、ない」
 “まだ”と置くあたりに、彼の若さからくるいくらかの意地を垣間見たようで、私は微笑ましくなる。
「じゃあ、好きな子は?」
「……いる、けど」
「なら、来る日のために練習をしましょうか」
 とどめの三歩。
 しかし、これは詭弁だった。
「練習……?」
「鈍いふりがお上手ね」
 夜の帳が上がるころには、彼の魂が求めるものは私になるからだ。
「で、でも、おれ、そういうの、わかんないし」
「だから教えてあげるのよ」
彼の内に目覚めている、初花のような恋慕の情を嘴で摘み取って、代わりに今日の経験で形を帯びてしまった私というものが居座るのだ。
「た、タマゴとか、出来ちゃったら……」
「できないわ。貴方と私では命の“くくり”が違うし、それに――」
「それに?」
いつか、私という舞台の幕が降りる時が来るだろう。
 声、言葉、知性、技術、そして体。私が持ち合わせるすべてであり、手段のすべて。
 私の肉体が朽ち果て、もの言わぬ白骨となり、私の刻んだ足跡や光が過ぎてゆく時代のくらやみに飲み込まれるとき、すべての人の閉じた瞼の裏側に私の姿が焼き付いて離れないよう、私はそれらを使って足掻いてやろうと決めていた。
「いいえ、なんでもないの」
 いくら不埒な女と謗られようと、それこそが私の狩りごとだ。
 次を紡げぬこの命にふさわしい、衝動で燃え尽きるだけの最期の先に続くための、たった一つのすべなのだ。





 夜はさらに深まり、郊外のモーテルは静寂さえも鳴りを潜める。
 シーツの上に座り込む私と、その前に佇み、なおも不安げな面持ちのマイルス。立ち位置は代われども立場は換わらない。たとえ情欲から伸びる行為が挿入を伴うものになろうとも、この白舞台の主演が私であることに変わりはない。
「緊張しているのね」
 所在なさげに垂らされるマイルスの手を取り、指を絡ませる。少年の力んだ指先は強張って固い。耳の先から尖りの果てから脚の末端に至るまで、彼はもうほとんど岩石と呼んで差し支えないほどにガチガチだった。
「す、すいません……こ、心の、準備とか、できてなくて」
「なら、万端なのはおちんちんだけ?」
 くすり、と薄い笑みを浮かべれば、名を呼ばれた彼の肉棒が僅かにぴくついた。ベッドの傍のスタンドライトから漏れる小麦色の光が、纏わせる情欲のぬらつきを揺らめかせる。
「……っ、からかわないでください……!」
「あら、ごめんなさい。……緊張するのはいいけれど、顔に出しちゃだめよ。お相手さまを不安がらせないように、シーツの舞台の上で貴方は名優にならなくちゃいけない」
 引いた小さな手を、私の胸元に押し当てる。私は「伝わるかしら」と尋ねた。
「……ドクドク、鳴ってる」
「そ。私も緊張しているの」
「そんなふうには見えないのに」
「名優ですもの」
 私は翼腕を器用に動かして、自身の股の羽毛を掻き分けた。わずかにつゆの垂れ始める秘所を、彼の澄んだ瞳の前へと晒す。
「おちんちん、挿れてみたい?」
「……」
 幼いころは「ある」か「ない」かの関心しかなく、今ほどに育ってからはまじまじと見つめることもなかったのだろう異性の秘所に、マイルスは釘付けにされていた。物言わぬ主人に代わり、彼のペニスがその身をもって雄弁に物語る。
「なら、私を濡らしてみて。キミの茹ったおちんちんと同じぐらい、蕩けるくらいに」
「どうやって……?」
「どうやってでも」
 異性の肉体という未踏破の平野にマイルスは立ち、右も左もわからぬまま、おぼつかない足取りで歩きだす。私には知る由もないが、ひな鳥の巣立ちを見る親鳥とはこのような気持ち――感慨と慈愛、そしてひとにぎりの希望が混じったような――になるのかもしれない。
彼はおずおずと体をずらして、私の股の上に腰を据えた。
情欲に駆られた若い雄の、甘くたくましい香りが鼻腔をくすぐった。股の総排泄腔を覆うように生える羽毛のすぐ上に、彼の局部の熱の感触がある。時が過ぎたことで潰えかけていた私の中の情欲に再び血が通い始める。
「すぐに挿れてみる?」
 それでも別に構わなかった。
いくら怒張しきっているとはいえ、彼の未成熟の雄を受け入れられないほどの狭量ではない。愛撫も前戯もなく、ただ真っすぐに性交へと歩を進めるような青々しさも、それはそれでよいものだ。
 しかし、彼は首を横に振った。意を決したように息を吸って、彼は続ける。
「……気持ちよく、させる」
 へえ、と私は返した。ささやかな挑発を語気に滲ませて。
「じゃあ、おいでなさい」
 情欲に鈍り切った彼の紅い瞳に、けものの気配が過る。
 僅かな逡巡を経て、彼は私の身体に飛びかかった。渾身の力を込めて押し倒し、ベッドの上に釘付けにしようと試みる。
 彼の渾身は、私にとってはあまりにも軽々しいものだ。しかしその懸命さに応じて、彼にされるがままにシーツの上に転がり込めば、彼は身体ごと私の身体にしなだれかかり、飢えた赤子が乳を強請るような乱暴さで私の嘴に吸いついた。
 ざらり、と粗い感触が嘴の先端を舐めまわす。
 閉ざされた内側をこじ開けようと舌先は暴れた。
 籠絡の手筈などまるで知らなさそうな、ただ乱暴なだけの、たどたどしく必死な口づけ(ベーゼ)の愛おしさ。
 貪られる側というのは中々に心地がよい。私は嘴を開き、彼の上のけものを受け入れた。ぬるり、と唾液の滲んだ舌が瞬く間にねじ込まれ、私の口腔の中で息づいた。
息もつかせぬ速度で口の中のあらゆる肉を舐りとり、熟れた実の汁を吸うように唾液を啜り、私の舌先を絡め取ろうとする。
 口づけは長く、深く、まるで溟海の底のよう。
 互いの体の中の酸素が失われてゆき、彼の顔はめっぽう赤くなったし、私の思考はくらくらと眩んで散漫になる。どれくらい散漫かといえば、こういう稚拙な接吻にしっかりと心地よさを感じて、身体の内側がきゅうきゅうと疼き始めるくらいには、もう。
息の限界に達して、マイルスが吸い付いた口を放せば、私達の間には銀の糸雫がつながった。私はそれを切らなかったし、マイルスも口元をぬぐうことはない。
 一瞬の静寂。立ち込める熱に、部屋はひそやかに湧き立つ。
 次を決めあぐねるように私の身体を見渡す彼に、私は今一度しとどに濡れた秘所を晒した。翼腕で彼の手をつかみ、そこに宛がう。
「爪は立てちゃいやよ」
 次の手を示すふりをして、私は彼に手での愛撫を強請った。彼はそれに応えて、太く短い指の先を私の総排泄腔のなかへと沈みこませていく。
 口づけの乱暴さとは対照的に、彼の指先は驚くほど慎重だった。熱を孕んだ肉の水面を乱暴にかき乱すようなことをせず、忠告の通りに爪を立てることもしない。おずおずと指を抜き、差し入れ、ときにくちくちとねばつく音を立てながら、私の内側を擦る。
「んっ」
 指先が私の内側の、いちばん痺れるスポットを偶然に擦った。
 じわじわと迸っていた快楽の稲妻が、その瞬間に電圧を増す。微弱に身体を震わせ、思わず滲み出る嬌声を、マイルスは見逃さなかったらしい。
「あ、ここ、気持ちいい……?」
「……っ、ふうッ。ん、インタビューじゃないのよ、そんな無粋なことっ、いちいち聞かなくて――あンっ!」
 嬌声の鳴る玩具を愉しむように、マイルスはひたすらに私のほころびを責め立てた。小さく、しかし無視することの敵わない刺激が息つく暇もなくやってきて、出力しようとした言葉が快楽の信号にかき消される。ああ、まったく、なんという意趣返し!
「んっ、くぅっ……やだ、結構、うまいじゃない……ッ」
 女を一つ啼かせるという成功体験を経て、マイルスは少しだけ悪い子になった。
 きっと将来は立派な悪タイプとして大成するだろうと思わせる、数分前までの遠慮を忘れた悪い指先が私のナカをぐぢぐぢとかき回して、ただでさえ熱い股の中はもう灼獄のよう。
 私のくぼみの中はさながらポンプにでもなったかのように、愛液がしとどにあふれ出していた。刺激のたびに昂り、止まらない興奮と情動と鼓動と劣情が糸を引いて、私の身体はうねり、狂って、まるでお人形のように白舞台の上で踊らされてしまうのだ。
「ねえマイルス……あんっ、そろそろ……挿れて、下さらない……?」
 このままではおかしくなってしまうと、もうおかしくなった頭でそう思った。
 彼が性悪だったなら、私はこのまましばらく泳がされただろう。しかし、私が挿れられたいと願うのと同じぐらいに、彼もまた私へと挿れたいと思っているのだ。
「じゃあ、おれ、合格した?」
 マイルスは私の中から指を引き抜いて、成果と言わんばかりにどろどろが滴る指先を私に見せた。
「ええ、もう、百点満点ね。だから、はやくいらして」
 私の焦がれるようないざないに反応し、三たび彼のペニスは昂りを見せた。挿れたくて挿れたくてたまらないという原初の情動が、ニャローテの少年の葉色の毛並みを秋めかせる。
「ここ、ここよ。ちゃんと、狙って」
「……う、うん」
 私はさらに股を開いて、ねばつく指先の添えられた彼の肉筒を迎える準備をした。彼の腰に手を回して、私の方へと抱き寄せる。
「そう、ゆっくり、ゆっくり……」
「……っ、あうっ、うう……」
 熱く、ぬめりを帯びた槍の先が、私の中へと滑り込んでいく。互いに飢えきり、涎まみれれの性器たちは思いのほかすんなりと結びつき、内側に熱の権化が杭打たれる。
「はうっ……ん、うあっ」
 マイルスのペニスをぎゅうぎゅうと締め付ければ、彼は面白いように呻いた。根元まで飲み込まれたペニスのあらゆる箇所を刺激され、彼はたちまちに堪らなくなったようだ。ぎゅう、と私の腰にしがみついて、ふうふうと粗い息を漏らす。
「どう……動けそう? 貴方のペースでやってみて」
「んっ、がんばる……」
 カムカメよりも鈍間な所作で、彼はわずかに腰を浮かせた。ぬちゅ、とねばつく水音が結合部から漏れる。
 腰を浮かせたまま、マイルスは数秒動きを止めた。自分の中に迸る快楽との折り合いをつけるためか、ゆっくりと火照った息を吐く。
 彼は何かを案じるような顔をしている。それはおそらく、このまま順当にいけばあふれ出してしまい、私の内側に注ぎ込まれてしまうだろう己のリビドーに対する不安だろう。今まで散々出しておいて今さらではあるのだが、外に出すのとそうでないのでは、やはり抵抗が違うのかもしれない。
「出しちゃってもいいわ。ほら、一思いに腰を落として」
 私は彼を落ち着かせるために微笑んだ。身体を肉槍に貫かれた状態でも、ここが舞台の上である以上、名優としての矜持を忘れるわけにはいかなかった。
「う、うん……っ」
 マイルスは息を吸って、目を見開いた。一思いに、ずんと腰を落とす。
 途端、密着するお互いの肉体を一つの稲妻が貫いた。
「ん、にゃあ゛っ……!」
「ッ……! あ、アっ……!」
 刺激がいたずらに指揮棒(タクト)を振り、奏でられる嬌声の二重奏。
ずぷり、と音が立つほどに景気よく、私の股へと快楽の杭が打ち込まれる。
「ふんっ……ん、にゅう゛っ……!」
 そのまま勢いで果ててしまうかと思いきや、マイルスは己の身を焦がす情動に耐えきったようだった。うねる波浪に身を攫われないよう、ぎゅっと力強く私のくびれにしがみついて、いまにも泣きそうな顔の彼の喉元からはきゅうきゅうと切実の音が鳴る。
「んっ……へいき、大丈夫。大丈夫よ……」
 私の激励に対し、彼はもはや声すら出せない。がくつく腰を奮い立たせ、もう一度浮かそうとするマイルスの懸命さを、私は固唾を呑んで見守った。
 私の股のナカにある熱塊が、ゆっくりと引き抜かれ、またゆっくりと沈んでいく。
 粘性の高い液体に満たされた肉の壺が湿った嘶きを絶え間なく垂れ流して、そのたびに私たちは見えない情動に追い立てられてゆくようだ。経験の差か、それとも自分で動かしているからか、伺う限りは彼の方が崖っぷちのようだった。
「……ん、もう、でる……っ!」
「ええ、いいわ……一思いに、イきましょう……!」
 ずぷり。返答の代わりに、力強いストローク。
 私の内側で包み込む彼のペニスが一瞬ぼわりと膨らんで、それを皮切りにマイルスの身体がぶるぶると痙攣し、淫らな液体の溜まった私の肉の中にどぶどぶと熱い白濁が注ぎ込まれ始めた。
「あっ、ああっ、ああっ……! ん、あ゛っ、ふう゛―ッ……!」
 マイルスは果て、激しく射精をした。火は灯され、そのつり上がった双眸に劣情が迸る。
瞬く間に、毛先の一本までけものとなった。今までのおずおずとした態度はすっかり豹変し、体の中に蓄積された快楽を放出するかのように叫び散らして、鼻先に触れた快感を貪るように、乱暴な腰つきで肉棒を打ち付けてゆく。
「やっ、待って、ちょっと――」
 一度タガが外れてしまえば、もう誰の制止も届かない。粗雑で力づくな、荒々しい腰振りが絶え間なく私の身体に鞭を打って、まともな言語を吐き出すことすら難しい。
ぱちゅん、ぱちゅんと粘り気を孕んだ小気味よい破裂音が響いて、その一つ一つのたびに、奥を乱暴に突かれることで生じる暴力的な快感が私を襲った。俯瞰的で、どこか落ち着いていたはずの私の思考の中が、勢いよく真っ白に塗り替えられていく。
「あッ、んッ、きゅぅッ――!」
 ぐち、ぐちとしとどに濡れた総排泄腔がかき回されて派手に鳴り、情けなくも生娘のような淡い声が漏れる。その間もマイルスは順調に射精を重ね、私の股からは白濁と愛液の合いの子がこんこんと湧き出ていて、誰もかれも、何もかもが止まらなくなっていた。
「んに゛っ、ふう゛っ……んに゛ゃあっ!」
 そして不意に、マイルスは何かに突き動かされるように私の首元に牙を立てた。
「……ッ!」
 がぶり、と羽毛を突き破って肉に牙が沈み込み、快楽物質によって鈍化された痛みがひっそりと私の身を焼く。白い羽毛に鮮血が滲み、尖った棘が肉にねじり込まれていく感覚。
その噛みつきが、彼の加虐的な欲求を満たすためのものではないことは即座に理解できた。なにせ射精に射精を重ね、自分の輪郭すら保てないほどにぐちゃぐちゃになったマイルスに、そんな器用な芸当は出来そうにないからだ。
 悦楽と情動が臨界点を超えて、彼はもう何が何だか分からなくなっているようだったから、おおかた前後不覚のままこみ上げる衝動に身を委ねた結果として出力された行動が、私の肩口への深い一噛みだったのだろう。
 私は彼の牙が深く沈んでゆくのを眺めた。血と肉の味、そして私という存在そのものを本能的に噛みしめ、味わうようないじらしい動き。私は気付かれぬよう目を細め、そして不思議と今までで一番満たされたような気持ちになった。
「あ……お、おれ、いま……?」
 牙に滲み、舌に広がる鉄の味わいに、マイルスはようやく正気を取り戻したようだった。
慌てて噛みついていた牙を私の肩から離して、彼は羽毛に滲む赤い感触にひどく狼狽した。血の味が口に走り、瞬く間に彼の顔色は青くなっていく。呼応して、私の内側でうごめく彼のペニスもにわかに委縮し始める。一夜の終わりが近づいていた。
「あ、おれ、えっと……」
 私は何も言わず、両の腕を彼の腰にそっと回して、そのままぎゅうっと力強く抱きしめた。いじらしく私の身体にしがみついてくる脆い心身の少年の、まるで粘土のように緩み切った精神に、私という存在を、冠羽の先から脚爪の果てまで、ひとつひとつを型取るように。
「……あの、かんじゃって、ごめん」

「いいのよ。貴方が気にすることはなにもないの」
 私は揺りかごの中の子をあやすかの如く、彼の身体を緩慢に、不規則に揺らした。マイルスはこれまでの演目にひどく疲弊していて、抱かれる腕の中で私を見上げる、艶やかで瑞々しい瞳の中の赤が少しずつ精彩を欠いていく。
「もうお眠りなさい、かわいいひと。今日の夜のことは、ぜんぶ忘れてくださいな」
 私が擦れるような声音で囁けば、マイルスは声にもならぬ音を漏らして、それから安堵したように深く息を吐いて、瞳を閉じる。完全にエネルギーを使い果たしてしまったようだ。
 ぷつりと糸が切れ、しなだれかかる細身の身体は疲労を吸ってずっしりと重く、すぐにすうすうと嫋やかな寝息を立て始める。胸がゆっくりと膨らんで、やがて萎んでいくのを見ながら、私は彼の口端に僅かに滲む血を指で拭う。
 帳が上がるまではいましばらくあった。舞台の上、誰の目に触れることもない、私と彼だけの最後の時間。
 虚しさがないと言えば嘘になる。おひとり様一度限り、一夜だけの小劇場は、朝が来て、帳が上がれば、その痕跡はどこにも残らない。コトの最中に彼の中に生じたあらゆるリビドーは、曖昧になる記憶を通して昇華され、踊り子の私へ抱く感情へと形を変えるのだ。
「でも、せっかく噛んだのですもの。私の味は忘れてはだめよ」
 首を下げ、嘴をマイルスの柔らかな口元へ添え、擦り付けた。唇を持たない種族の、浅く交わすだけのフレンチ・キッス。あるいは、ひそやかなカーテンコール。


 それから、少しの時が経つ。
 私の膝に頭を乗せ、穏やかな寝息を食むニャローテの放つ温もりに誘われ、うとうととしていた私の意識は、部屋の入口を叩く控えめなノックに引き起こされる。
「ヴェーゼさま、ぼくです。お湯とタオルをお持ちしました」
「ありがとう。鍵は開いているから、お静かに入ってきてね」
 私が今日のようなことをするとき、ハーディは隣の部屋でじっと息を凝らし、私とゲストの一夜の演目を角をそばだてて――イエッサンの角は、人の感情を感じ取ることが出来るのだという――聞いていることが多い。それは人ごとに変わる演目を間近で味わうためであり、また演目終わりの消耗した私を支えるためでもあった。
「お疲れさまでした、ヴェーゼさま」
 部屋に入ってきた彼は、手に提げた湯桶を床に置くと、中に浸かっていたタオルを絞り、手に取った。精液を筆頭としたさまざまな体液によってくすんだ私の全身を、頭部から順に甲斐甲斐しく拭き上げていく。ハーブオイルを垂らした湯の涼やかな熱が布越しに体にしみ込んで、羽の先から順に艶が取り戻されていく。
「ニャローテくんが目を覚ましたら、いつものように暗示を掛けますね。ヴェーゼさまとの行為の記憶は意識の奥深くに封じ込められて、でもそこで感じて、貴方に向けた情だけは覚えておくようにします」
「ええ、それでいいわ」
 言葉にすると、随分と回りくどい工作だと思った。でもそうしなくてはならない。芸事の世界は潔白――少なくとも表面上は――で、ファンとの身体を交えた交流というのは基本的にご法度だし、騒ぎ立てられても困るし、なにより相手が一番苦しむことになるだろう。
これはあくまで、踊り子としての私の価値を高めるための営業なのだ。愛を確かめるためのセックスではない。だから、同じ相手と二度身体を交わすこともないと決めている。
「おや」
 顎と頬を拭き終わり、私の首元に伸びようとしていたハーディの手が止まる。彼は何かに気付き、少し怪訝そうな面持ちをした。
「どうしたの?」
「いえ……首のところに血が滲んでいるのです。もしや、噛まれたのですか」
 ハーディはむうと口を尖らせ、何も知らないまま私の膝の上で寝入っているマイルスの頬を小さくつねった。ううん、とむずがるような呻きが、眠るマイルスの口から漏れる。
「およしなさいな。私は気にしていないし、傷も小さいものよ」
「ううん、ヴェーゼさまがそう仰るなら……」
 ハーディの小さな意地悪を手で制して、私は首を振った。
患部に手を添えて様子を伺えば、もうほとんど血は固まっていて、凝固した血の塊のざらつきだけが指に触れる。
傷痕は小さいものだ。経つほどの時も要らず、そう遠くないうちに羽毛に隠れて消えてしまうだろう。私の存在を求められ、その証明として与えられた痛みもまた、同じように。
「それに、痕を刻まれたのは私だけではないの」
 わたしは、マイルスの、瑕ひとつない喉元を撫でて、祈るようにつぶやいた。





 次の日、昼前。
 モーテル近くの小さなカフェは、ピークタイムを過ぎたせいか人影もまばらで、野次馬に騒がれるような心配もない。店外に設けられたオープンテラスのパラソルの下、わたしとハーディはブランチと洒落込もうとしていた。
「ヴェーゼさまは、ぼくがいないとだめですね」
 椅子に座り、卓上に置かれた呼び鈴を揺らすや否や、ハーディは分厚く堆積した感情を噛みしめるようにそうつぶやいた。パワフルなあてつけに、私は思わず苦笑する。
「朝は苦手なの。知っているでしょう? 特に昨日はへとへとだったもの」
「ニャローテくんを送るの、大変だったんですよ。おうちの場所聞いて、暗示もかけて。ニャローテくんが一人で暮らしてて良かったですよ、もう」
 あの後、替えたシーツの上で私はすっかり寝入ってしまい、気が付いたらほとんど昼に近い朝だった。夜更け、気を利かせたハーディがマイルスをもとの住居に送っていってくれたらしく、目覚めたときには私の膝の上に一片の温もりすら残ってはいなかった。
「私としては、彼とご一緒に朝ごはんを頂いてもよかったのだけど」
「ぼくがいやですし、そんなことしたらニャローテくんがえらい目にあいますよ。トップ・スターと街の少年が一緒にご飯食べてるなんて、絶対に噂まみれになっちゃいそう。そっから例のアレも探られて、全部おしまいですよ」
「そうねえ」
 まくし立てるハーディの言葉に私は頷いた。まったくもってその通りだった。
 帳が下り、また上がるまでが私と彼との交点であり、それは人目がないからこそ出来たことなのだ。もしも情事の噂が広まれば、私の目論見は永遠に潰えることになる。
「それより、公演のリハーサルまではまだ少し時間がありますよ」
「そうね、ちょっと観光でもしようかしら。どのくらい時間に余裕があるの?」
「ええと、入りが確か……あ、あれ?」
 ハーディは首からぶら下げたポーチの中をまさぐり、それから弱ったようにがしがしと頭を掻いた。
「どうしたの」
「スケジュール帳、部屋に忘れてきちゃったみたいです。すいません、ちょっと取ってきます!」
 彼は言うや否や椅子から飛び降り、慌てて店の外へと出ていった。
 せめて注文ぐらいしてからでもいいのに、と思ってしまうが、あのスケジュール帳はハーディのマネージャーとしての誇りであり、彼を彼たらしめるアイテムなのだというから、慌てるのもやむなしというところだろう。にしたって、ちょっとせっかちな気もするが。
 とはいえ、追いかける必要もなかった。彼は過保護にするとむくれる傾向にある。
 私はメニュー表に視線を落とした。
「お待たせしました。ご注文でしょうか」
 ハーディが出ていった直後に、鳴らした呼び鈴を聞きつけたカフェのウェイターが私たちの座席へとやってくる。そういえば、ハーディの頼みたいものを聞いていなかった。
「エスプレッソのダブルと、ミートパイをひとつ。それから……そうね、何かおすすめの、子どもでも頂けるようなお料理と飲み物を――」
 私は顔を上げ、ウェイターに問おう――として、息を止めた。
 若葉色の毛並み、中肉中背、伸びた胴、つり上がった緋色の瞳。首元から脚部まで垂れる葉飾りの上に、鮮やかな赤色のタイを結んだニャローテの少年が、銀のトレーを脇に挟んで立っていた。
「……? どうなされました?」
「――あ、ええと。貴方のおすすめを教えて頂けるかしら」
「そうですね。おれはアイスのハニーミルクと、ホウレン草のキッシュが好きで、よくまかないで出してもらってます」
「なら、それにしようかしら」
「かしこまりました」
 言葉の連なりが終わり、一瞬の静寂が訪れる。手元のメモにオーダーを書きつけて、マイルスはふと首を傾げた。
「……あれ、おれ、あなたとどこかでお会いしましたっけ」
 一度ベッドの上で触れ合った顔を忘れることはない。彼は間違いなくマイルスだった。しかしハーディの暗示のためか、どうにも記憶がおぼろげらしく、脳内の不鮮明さと戦うようにいぶかしんでいる。
 私は言い聞かせるような口ぶりで言った。
「何を言っているの。貴方、昨日の私の舞台に来てくださったじゃない。舞台の上って、結構お客様の顔が見えるものなのよ」
「……ああ! そっか、そうでした。おれ、舞台とか見るの初めてだったんですけど、すっげー良かったです! うまく言えないけど、こう、心臓ごとガッて鷲掴みにされたみたいで、全部よくて、すっかりあなたのファンになっちゃったみたいで……」
 彼は頬をこれでもかと紅潮させ、身振り手振りを交えながら、昨日の舞台のすばらしさを未熟な語彙で微笑ましく熱弁した。
「貴方が素敵だと感じたのは私の踊り? それとも音楽?」
 私がそう問えば、彼はううんと唸り、深く考えるようなそぶりを見せ、ややあって頬を真っ赤に紅潮させ、口を開く。
「それは……えっと、内緒です。へへ」
 銀のトレーを胸の前に抱いて、マイルスは秘めたる思いを噛みしめるようにもじもじと体をよじる所作。その焦れるような姿に、私は目論見が上手くいったことを確信する。
「……と、とにかく、次の公演も、絶対行きますから!」
「ええ、ありがとう」
 彼が私を見上げる眼差しは、私が彼を最初にベッドの上に転がした時とはまるで異なっていた。例え体験そのものの記憶が朧げになったとしても、身体の内側に刻まれた不可視のしるしは消えはしない。消えはしないが、どこにも見えはしない。
「あ、ごめんなさい! 注文ですよね。すぐオーダー通しますから、ちょっと待っててくださいね」
 彼は身をひるがえし、コックにオーダーを伝えるために厨房へと戻ろうとする。その足取りを追って、私はふとあることに気が付いた。
「ねえ、貴方。脚、どうかしたの?」
 彼――マイルスの足取りは妙にぎこちなく、左右によたよたと揺れている。
まるで、疲れ果てた足腰に鞭を打って無理やり動かしているかのような、随分と覚束ない、今にも転んでしまいそうな足取り。
 彼は振り返り、少し難しい顔をして、「そうなんです」と言った。
「どうしてか分からないんですけど、朝起きた時からずっとガクガクしてて」
 彼は己の脚部をさすり、「ふしぎですよね」と笑いながら、厨房へと歩き去っていく。
 その背を見送り、私はふと想いを馳せる。
 早朝、自分の住処のベッドの上で目を覚ましたニャローテの少年。
 ベッドから降りて右へ左へ揺れる足取り、ふらふらの猫のステップ(パドゥシャ)を刻む姿を想像して、私はほほ笑むのだ。


あとがき
迫る締め切り、白紙のテキストエディタ。驚くほど固まらないネタ。間に合わないと悟ったのでええわもうとにかく自分がシコれる最強のおねショタモン作ったろ! と思い生まれた作品です。いやあ超楽しかった。何事も楽しんで書くのが一番スね、もよよです。
しかしニャローテは可愛いですね! ニャオハの頃は正直そこまで刺さるデザインじゃねーなって思ってたんですけど、進化した瞬間ドツボにハマりました。選んだ御三家はクワッスだったのでファンアートで確認したのが最初だったのですが、後に現物のモーションを見て完璧に沼に沈みました。なんやそのあざとい待機モーションは。お尻ひっぱたいてやろうね。
目元が吊り上がって凛々しくなり、普段浮かべる表情もつんと澄ましたようになり、ちょっとずつ色気づいてきたのを感じさせるようにスカーフ状の体毛やバッジのようにあしらわれた蕾などの装飾品が増え、大人ぶりたい少年の雰囲気をひしひしと感じさせますね。しかしマスカーニャほどスリムでもないずんぐりとした胴回りや前述の待機モーション(あざといポーズを決めたあと露骨に恥ずかしがってみせるやつ)、そして蕾のヨーヨーギミックといった拭い去れない幼さが愛らしさを醸し出しています。今度みんなでサンドイッチに挟んでみませんか。きっとかわいいぜ。
子どもから大人への過渡期というのはいいものです。まだ何色にも染まっていない瑞々しい人格が、多くの経験を経て熟成されていったりねじ曲がったりしていく過程は何物にも代えがたい魅力があると思います。多感な時期の劇的な体験が今後の人生に大きく作用することは多いですが、マイルスくんにとってもきっと忘れられない一夜となったことでしょうね。もっとも表面上の記憶は忘れさせられていますが。とはいえ身体に刻まれた快感は拭えないものですから、彼はこれから年上のスリムでアダルティなお姉さまでしか抜けない身体になりましたし、たぶん乳首がやたら感じるようになっているんじゃないでしょうか。知らんけど。そうであれ。
シナリオ的にも作者的にも、今作品のMVPは満場一致でマネージャーのハーディです。ベッドシーン以外を丁寧にする余裕がないものですから、その導入までのめんどくさい下りを全カットする催眠という名のふしぎサイコパワーはとても便利でした。非官能でこれやったら雑過ぎるとめちゃくちゃ怒られそうというか自分で許せないと思います。官能ものの本懐はエッチシーンですからセーフということでどうかおひとつ。
頑張ってくれた彼にも花を持たせてあげたかったんですが、余力がないのと主題と逸れるのでカット。さる街での公演にてヴェーゼに見惚れて出奔した結構ええとこのおぼっちゃまという設定があったりなかったりしますが、これはどうでもいいですね。
ここからは作品と関係ない余談なんですが、ニャローテはやんちゃで寂しがり屋な傾向にあり、放っぽっておくと蔦でぐるぐる巻きにして気を惹こうとしてくるそうです。かわいいね。ここはあえて寂しがっていることを理解しないふりをして悪戯に対して強めに叱り、家出させてから探しに行き、見つけて抱きしめた胸の内側でべそべそ泣かせてあげたいですね。そして泣き顔をオカズにライスガン積みサンドイッチを食います。うっめえなあ。
今作品は公式で上記の設定が発表される前だったので盛り込まれていませんが、これらの設定を盛り込んでもう何作品か書けそうですね。その節はどうぞお付き合いください。

最後になりましたが、お読み頂いた皆様、投票していただいた皆様、本当にありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。もよよでした。

以下投票コメント返信です。


>ふわっふわニャローテのマイルスくん良かったです。
成長期に片足を踏み入れたばかりの少年らしさが文字から薫って来て最高でした。
ありがとうございます! 
思春期を迎えたばかりのおぼこい少年の未発達な感じを出すためにいろいろな体液を絞り出した甲斐がありました。

>とても上質なおねショタでした。あのケツを差し出されればいたいけな少年などイチコロですね。
作者は最後の最後までこれはおねショタではなく逆レものなのではないかという疑念を捨て去れませんでしたが、そう仰っていただけると多少なりとも安心します。これはおねショタものです。誰が何と言おうとおねショタなんだ。

>ヴェーゼ様のファンサ受けてみたい…
芸事には真摯なヤツなので丁寧にファンサしてくれそうですね。あなた様がふわふわの青々しい少年であればなおのこと気合を入れてくれると思います!

>ヴェーゼさんにあれこれされてしまうマイルスくんがとてもえっちでした
マネージャーのハーディくんとも将来的にはワンチャンある
力の強いお姉さんにあれこれされるの、いいですよね。くさねこポケモンなのでノリに乗ってにゃあにゃあと啼かせてみました。超楽しかった。ハーディくんは…時が来たらでしょうかね。

>ウェーニバルは♂のイメージが強かったんですが、名女優のウェーニバルというのもアリだな…
ウェーニバルは性別がどちらでも違和感のない御三家だと思いますね。ぼくはヅカ系高身長スレンダーおねえさんのおねショタが大好きなので今回は女性でいきましたが、どっちもアリだと思います。

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Last-modified: 2023-01-17 (火) 13:31:14
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