さらさらと草が鳴る。風の波紋が草原を波打たせる。
唸り声。叢から雷獣が飛び出してくる。四肢を踏ん張った雷獣は頭を下げて威嚇する。
ナワバリに踏み入ってしまった。
私はしのの乗った肩を雷獣に向ける。小さな腹足で二の腕に掴まったしのは尾を上げて鋭く毒針を撃ち出す。
雷獣の目の前の地面に毒針が突き刺さる。僅かに怯んだ雷獣から目を逸らさずに後退する。
ナワバリからは出たようで、雷獣はそれ以上は追ってこなかった。
◇
道すらない辺境の丘の上にある高床式の小屋が、彼岸ヶ原の境守の駐在所だ。
月ヶ丘は彼岸ヶ原平原を一望する要衝、どんなに不便でも境守は必要になる。
ただ一人で辺境を警備する彼女は、高貴な身の上であるらしい。権力闘争に破れて中央から排斥された武家の娘御で、字は茨。
書簡なら鳥が運べば済む筈だが、未だ政敵が存在しているらしく、万が一の奪取を恐れて私のような旅草に託された。
用向きを告げて暗い土間で跪いて待つ。
梯子段を降りてくる所作は雲のようで、確かに高貴な出自が窺える。長衣は貝黒の蜘蛛綾。岩を伝い落ちる清水のような優美な黒髪。白い肌に緋の唇。睥睨する刃を宿した瞳。
書簡を差し出すと、土間の奥から銀狼が表れて匂いを嗅ぎ、咥えて茨の元に持って行った。
茨の左右に一体ずつの銀狼が座して油断なくこちらを見張る。茨は書簡を広げて、視線を走らせる。表情は仮面のようだが息が白くなりそうな程の冷たい雰囲気が辺りに満ちていく。
ぐしゃ、と茨は書簡を捻って火床に放り込んだ。
五日掛かりの野宿旅で運んできた書簡が灰になっていくのを眺めながら、もし中身を見ていたら私も同様に燃やされたのだろうか、と考える。
「長旅ご苦労」
涼しげな茨の声が耳に注がれる。
「其方の字名は」
「字は遼、名は麻結と申します」
マユイ、と茨が私の名を呼ぶ。くすぐったいような気分になる。
「お客様は久し振りです、時間が許す限り休んでいきなさい」
「ありがたく存じます」
「上がりなさい」
茨が背を向ける。
刺客の可能性を警戒されているのかと思っていた。意外にも無防備な展開に戸惑う。
茨に続いて銀狼の一体が梯子段を上っていく。もう一体は土間に控えて、上り始めた私の背後についてくる。
この二体の銀狼は茨の護衛なのだと納得した。
階上の部屋は簡素な設えながら、その調度は中央でしか手に入らない逸品が揃っていた。
円卓で白磁の杯に茨が手ずから淹れてくれたお茶を頂いた。ふくよかな薫りが肺腑に染みて疲れが溶け落ちていく。
道すがらの野山の様子を語ると茨の表情が心なしか綻んで見えた。けれど話が街の様子に差し掛かると、退屈しているかのように遠い目になる。
「そのケムッソだけで野原を抜けてきたのですか?」
茨の視線に恥じらうように、肩の上のしのが私の髪に隠れる。
「糸と毒針で大概の獣はやり過ごせます」
「敵わない獣にはどうするのです」
「近付きません、それほどの相手なら付近に痕跡がありますから」
「そう、必ずしも相対する必要はないのですね」
境守は逃げるわけにはいかない場面もあるのだろう。恐らく、強大な獣であるほど。重い役目だ、と憐憫と敬意の交じった感情が胸中に蟠る。
「星狩」
茨は傍らの銀狼を呼んで何かを指示する。
真っ直ぐに茨を見上げていた銀狼はふさりと尾を揺らして私の横に来て座った。
「此処に居る間は星狩をつけましょう」
「そんな、過ぎたご厚意です……」
「夜はこちらの寝床を使いなさい、宿だと思って」
早々にお暇するつもりだったのだが、そうもいかなくなってきたぞ……。
とはいえ、五日ぶりに屋根と壁のある場所で寝られるのはありがたい。
「お言葉に甘えて、ご厄介になります」
答えると、茨の白面に朝露のような笑顔が浮かんだ。
辺境の見渡す限り人の痕跡すらない野原で、言葉を交わす相手もなく、茨は暮らしているのだ。
その慰めになるのなら、何日かご厄介になるか。
ただ一点、気になるのは。
――茨様はその字の如く気性が激しくいらっしゃる。赴任の際につけられた使用人はみんな逃げてしまったらしい……。
仕事を受けた連絡所で聞いた噂。
怒られたら私も逃げよう。
◇ ◇ ◇
曇天が覆う草原を、銀狼の星狩と連れ立って散策していた。
遠くに丘の頂に立つ茨とその側に控える銀狼の月彦の姿が見える。
あちこちに生えている野苺をしのと交互に摘み食いして回る。手についた汁をしのがはみはみ綺麗にこそげてくれる。
物珍しそうに匂いを嗅ぐ星狩に一粒を差し出すと、くしゃくしゃと噛んで旨そうに食べる。生っている野苺には興味を示さないから、貰うのが嬉しいのだろう。
足元で黄色い花が開く。肉厚の葉っぱがぴょこんと頭を擡げる。
私と星狩が同時に飛び退った空中を、ぽぽぽぽぽ、と硬い種が貫いていく。
空飛ぶ花の仔が、叢の中で休んでいたところだったらしい。
星狩が牙を剥き出して跳びかかる。
「星狩、待って」
ガッ、と唸って星狩の牙が花の仔を掠める。咬みつくのをギリギリでやめてくれた。
「しの」
ぶわっ、としのが糸を吐く。
花の仔に無数の糸が絡みつき、種がデタラメな方向に撃ち出される。きゅるうう、と花の仔が泣く。
「行こう、星狩」
その場を離れて、駐在所の傍の木の下で落ち着く。
「しの、もういいよ」
興奮したのかさっきからずっと糸を吐き続けるしのの様子が、なにかおかしい。
「……しの?」
体の数倍は糸を吐いているんじゃないのか。木々に絡んだ糸の中に、肩から浮き上がったしのの姿が隠れていく。
もしかして。しのは幼虫から蛹になろうとしている……?
真っ白な繭玉が、木の狭間に浮かんでいる。
星狩と私は繭になったしのを見上げている。
しのが羽化するまで、私はここに居なくちゃいけない。
◇
しのの下で野宿すると告げると、茨は心底がっかりしたように
「そう」
とだけ言った。
夕食には味噌であえた挽肉の乗った麺をご馳走になった。芳醇な黄酒がするりと喉を滑り降りて、体がほかほか温かくなる。私は一杯で真っ赤になってしまうけれど、杯を重ねる茨の顔色は変わらない。
茨に礼を述べて、身支度をして星狩と夜気の中へと出た。
晴れた夜空には無数の星々が犇めいている。
敷皮の上で、白く浮かぶしのの繭を見上げる。
しのは死んだように動かない。けれど繭の隙間から黄色い眼が覗いている。
満天の星を背負った白い繭の中で、しのは新たな体へと変態している。
寄り添ってくれる星狩の温かな獣毛に頬を寄せて、夜風が運ぶ獣と虫の声を聞いていた。
◇ ◇ ◇
真夜中、眩い月が照らす。
向かい合って横たわっていた星狩の紅の瞳と目が合う。
星狩がそっと私の唇を舐めた。
私は星狩のうなじの漆黒の毛を指で梳く。
目を細めて、星狩は起き上がると私の頭の両脇に前足をつく。
銀狼の舌が唇を舐める。甘えとはまた違った、啄むような舌遣い。
唇の隙間から銀狼の舌が滑り込んでくる。舌先が触れ合う。
びり、と蕩けるように胸がいっぱいになる。いけない、と思いながら、水を飲むように挿し込まれる銀狼の舌が心地好くて、絡め返してしまう。
ふぅう、と吐かれる乱れた息遣い。星狩の歯が押し当てられて、口の中を舐め回される。
なんだろう、これは。ふわふわと考える。
口を離した星狩の目は紅く爛々と輝いていた。毛は逆立ち、高揚している。
ふんふん、と星狩は私の体の匂いを嗅いでいく。首筋から喉、脇、胸の狭間、下腹……太腿の狭間を熱心に嗅がれて、私は半身を起こす。
「星狩」
と、星狩が私の両脇に前脚をついて覆いかぶさってくる。紅の瞳で私を見詰めて、唇を舐める。重なった銀狼の下腹がひときわ熱くて、硬い。勃起している。
そういう、こと。
「いけない子。私のどこがいいの」
ねだるように押し付けられる熱い塊。
「いいの?」
星狩のうなじを撫でて囁く。
「茨に叱られるんじゃないの?」
熱を帯びた舌で、星狩は私に懸命にくちづける。
「ん……んぅう……」
心地好さが頭の中を満たす。
もどかしくなって、私は服の紐を解く。
熱く柔らかな銀狼の獣毛が肌を埋めて、恍惚と息が震える。
星狩の硬い熱が私の入口に触れる。づぶりと泡立った音を立てて奥まで一息に挿し込まれる。
「ひうぅっ……星狩……」
膨らんだ亀頭球に塞がれた入口を更に擦り上げるように、星狩は腰を突き上げる。体の中を逆撫でされるようなぞくぞくした怖気が清涼に抜けていく。
「んっ……ああっ……」
熱い息が耳に掛かる。喉の奥で星狩がくぅうっと鳴く。
きゅん、と下腹が疼いて体の中の星狩のおちんちんの形がくっきりと刻み込まれる。
「きもちいい……気持ちいいよ、星狩……」
くふぅっ、と星狩が吐息で応える。
星狩の背中に腕を回してぎゅっと抱き締めて、銀の獣毛に顔を埋める。
小刻みに擦り突き上げる星狩の牡根がひときわ膨らんで、熱い精がお腹の中に注ぎ込まれていく。
吐息が乱れたままに重なる。
とく、とく、と星狩の脈動が体の奥で続いている。
はっはっと息を吐いて、星狩は前脚をついて身を起こすと、目を細めてくちづけてくれる。
私は舌を絡め返して心地好い銀狼の体に溺れ続ける。
◇ ◇ ◇
ぴくり、と星狩が耳をそばだてた。
急に息を潜めて、立ち上がろうとする。けれど、膨らんだ亀頭球がつっかえて抜けない。
何かいるのか。私は星狩の腰に手を回す。
さく、さく、と草を踏む足音。
夜風に靡く黒髪。
茨が私達を見下ろして立っていた。白面に冷たい怒気を湛えて。
背筋が冷たくなる。怒られる……。
ヒュン、と空を割く音。
「ぎゃんっ!」
破裂音と共に星狩が悲鳴を上げる。耳をぺたんと倒して腰が退けている。
茨は無言で鞭を握った手を振り上げる。
「待ってください」
星狩を抱き締めた腕に、空を割く音と共に裂けるような痛み。
ひぃん、と星狩が喉を鳴らす。
鞭が振り下ろされて肩を裂く。
「っあ……!」
蹲って抱えた星狩を庇う背に、茨の雨のように容赦なく鞭が叩きつけられる。衝撃が重なる毎に痛みが鋭く、傷口を剔られる激痛が増してくる。
震える息。赤剥けの痛みを焼き付け続ける背中。
打擲が止まっていると気付くまで、かなりの時間が掛かった。
「其方は人だと思っていたのですが」
震えを押し殺した茨の声。
「獣だったようですね」
私はなんとか腕をついて半身を擡げる。
星狩の亀頭球は縮んで隙間から注がれた精液が漏れている。
うつ伏せになった星狩は耳を伏せたまま脇腹に伝う血を舐め取ってくれる。
私は星狩の背を抱いて、頬を微かに紅潮させた茨を見上げる。
「っ……あなたのしもべに手を出したことは……謝ります」
「黙りなさい。其方は獣です、人語は相応しくありません」
「では……何とお詫びすればよろしいのですか」
「必要ありません。獣には身をもってわからせるまでです」
茨は星狩を睨むと籠球を掲げる。
「入りなさい」
従順に、星狩は小さな籠球に納まった。隙間から紅の瞳が不安げに覗く。大丈夫、と私は見つめ返す。
「月彦」
茨は控えていた銀狼を呼ぶ。
そして憎々しげに命じた。
「この獣を犯しなさい」
◇ ◇ ◇
牙が食い込んだ胸が痛みで痺れる。
背中の傷口が敷皮に擦れて激痛が間断なく意識を揺らす。
数回咬まれた腕は既に感覚が無い。
「月彦は咬み癖がなかなか直らなかったの。だからカミツキヒコ」
溜飲を下げたのか、茨がくだけた口調で言う。
肩口を牙が貫通する。ごり、と筋肉が鳴る。
ぐるる、と血に酔ったように月彦が唸る。
意識が薄れてくる。私は声を絞り出す。
「ゆるして……あげて……ください、星狩を……」
体の中に異物感。痛みに苛まれた体が、中からも突き上げられる……月彦に犯されている。
「許すことなどできません」
茨の声が遠く降る。
「私は耐えてきた……なのに……この行為は裏切りです……」
僅かな違和感。けれど、それを追う前に、意識が砕け落ちた。
◇ ◇ ◇
水の音。鋭い痛み。茨の手で、背に軟膏が塗られている。
意識が戻ってくる。薄暗い駐在所の土間。窓から昼の光が差し込んでいる。
「お手を……煩わせます」
「些事です」
茨は穏やかに言う。
「其方はまだ罰を受けなければいけません」
「随分と……重罪ですね」
「其方は私の矜持を踏み躙ったのです」
微かな怨嗟を含んだ声。
「私は耐えてきたのです。この境遇に、孤独に。其方にも客人として一線を引き、礼を尽くしました。それなのに、其方は……」
苦しげな嘆きの声音で茨は言う。
「私が断腸の思いで弁えてきた人としての倫理を容易く踏み破って平気で人の言葉を話す……ゆるせません、決して……」
嘆息して、茨は続けた。
「獣には獣に相応しい扱いをします」
鎖の重い音。
首に冷たい鉄枷が填められる。
「……いいのですか、境守の備品をこんな私事に使って」
「其方は人と獣の境界を破りました」
茨は淡々と言い切る。
「其方の冒涜によって生じた歪みを正さねばなりません」
「歪み……と仰いますか」
人と獣が交わってはならない、という規範は根強い。
私と星狩の交わりは茨にはひどく歪んだ行為に見えただろう。
「償いなさい、麻結」
「……それなら、何故……」
そのあと月彦に私を犯させたのか……。
言葉を紡ぐ前に、再び意識が溶け落ちた。
◇ ◇ ◇
背中を舐められて目が覚める。傷が塞がり皮が張っているのがわかる。あ、と気付いたような呼吸が聞こえて、銀狼が赤い眼を細めてぺろぺろと私の頬を舐める。
「星狩?」
うなじを撫でると、星狩は嬉しそうに喉を晒す。
窓から壁に朝の光が差し込んでいる。
身を起こすと、鉄の重さが首に掛かる。鉄枷から伸びた鎖は太い柱に巻きつけられて錠が掛けられている。
喉を指で撫でながら星狩の体を調べる。傷も鬱血もない。獣の回復力だ、あれ以上の制裁を受けずに済んだのかはわからないけれど。星狩が元気で、安堵した。
「麻結」
茨の凛とした声。梯子段の上から、鞭を手にした茨と傍に控える月彦が見下ろしてた。
星狩が姿勢を正して傍らに座る。ぴんと耳を立てて、最初に会った時と変わらぬ忠僕の所作で茨を見上げている。
「痛むところはありませんか」
「……特には、ありません」
茨が梯子段を下りてくる。柱に巻きつけた鎖の錠を外して、
「来なさい」
と、外への扉を開ける。
「私の服は」
「獣には必要ありません」
当然のように、茨は言う。
「そうですか」
嘆息して立とうとすると、ぴしり、と背を鞭打たれる。
「っう……!」
「獣は這いつくばって来なさい」
「私は二足の獣ですから」
「これは其方への罰です。従いなさい」
茨の言い様の数々は、不思議と腹が立たない。そうするのが当然だと諭すような物言いを、独特の響きの声を心地よく聞いてしまう。
「あなたがそう仰るなら、今は従います」
鋭い破裂音が傍らの地面を打つ。びくっ、と背が凍る。
「口を慎みなさい。次は当てます」
そう言い放つ茨の表情に不快の色はなく、白面は微かに上気している。
「……当ててくださって結構です。っ……!」
背に鮮やかな痛みが刻まれる。
先だっての力任せの打擲とはかけ離れた、傷つけずに痛みだけを与える鞭さばき。
「……加減してくださって、ありがとうございます」
掠れ声は弱く、皮肉が伝わったのかはわからない。
鎖を引かれて眩い草原に出る。
不慣れに這い歩く私に並んで、星狩と月彦が草を割って軽快に歩く。
木の間で日を浴びて白く眩いしのの繭。茨はその前で立ち止まり、手を伸ばして繭玉に触れる。
「麻結。其方が悲鳴を上げていれば、このカラサリスは私を憎んでいたことでしょう」
しのの繭の奥から覗く黄色い目が、不思議そうに裸で地に這う私を見下ろす。
「其方はしもべの前で、よくあんなことができましたね。虫にはわからぬことと思っているのですか」
「番うことくらい誰でもします」
「其方は獣です」
茨は踵を返して鎖を引く。
駐在所の扉の前で、茨は私の眼を見据えて重々しく宣告した。
「其方が逃げたなら、あのカラサリスを燃やします」
「逃げません」
私は歯を食いしばって言い返す。
「恐ろしいことを仰る。そんなことをしたなら……私はあなたを殺します」
茨は憫笑した。
「グラエナと其方とどちらが速いと?」
「一秒で事足ります」
私の体が脆弱だろうと、命を奪うだけの危険物は幾らでもある。鎖、枝、地面までの高さ、関節の脆さ。茨の美しい体を破壊するそれらを脳裏に浮かべて、ぞくり、と身震いする。
「あなたを傷つけたくありません」
「私とて」
茨の昂ぶった声を初めて聞いた。
「其方が憎くて苛んでいるわけではない……」
意外な言葉。私は瞬きして問い返す。
「では、何故」
「言った筈です。歪みを正すためと」
僅かに苛立った茨の声音。動揺している。漠然と。私が齎したなんらかの事態が、茨を追い詰めていて、彼女は必死で足掻いているのだと、理解した。
「話してくださいませんか、私が何をしてしまって、何が起ころうとしているのかを」
茨は白面を歪めて苦痛に耐えるように言う。
「其方への処遇がその答です。わからぬなら……話したところでわかる筈がありません」
なるほど。茨の中に蟠る不信の強大さを垣間見て、私は嘆息する。茨の懸念が何であれ、これが正解とは到底思えないけれど。茨が自ら気付くまでつきあうか、逃げるか。それしかなさそうだ。
◇ ◇ ◇
固形飼料の入った鉢を床に置くと、茨は私の手を背に回させて枷を掛けた。
「食べなさい」
髪を掴んで鉢に頭を押し付けられる。
「食事の作法とは思えませんね」
「其方が手を使って餌を摂る姿など見たくもありません。見苦しい」
「……人に銀狼と同じ食事をさせることに無理があるのでは」
カリカリと左右で星狩と月彦が固形飼料にがっつく音が響く。
「食べなさい、麻結。グラエナのように舌を伸ばして」
固形飼料は塩気のない携帯口糧のようなもので、命を繋ぐ養分としては上等な方だ。でも、この仕打ちは……ただの茨の趣味じゃないのか、と思う。
顔に押し付けられた固形飼料を舌で掬って噛み潰すと、致命的に味の足りない乾いた泥のような食感に香ばしさだけが広がる。匂いだけで肩透かしを食らい続ける。餌と呼ぶに相応しい味。
髪を掴む茨の息遣いが、微かに浅くなっている。頭に触れている指の背から脈動が伝わってくる。
体は滋養を欲していたようで、食べ尽くして碗についた粉を舐めてもまだイヤにはならなかった。
「ふぅ、ごちそうさま」
茨の綻んだ呼吸。
「いい子ね、麻結」
と、湿った布で顔を拭いてくれる。
「ありがとう、ございます……私はあなたのしもべではありませんよ」
釘を刺すと、茨は諭すように答える。
「忠誠は求めません、ただ従いなさい」
◇ ◇ ◇
夜。
「これを飲みなさい」
唇に錠剤を滑り込まされる。歯で挟んで止めて
「これは?」
訊くと、
「其方の中を清める薬です」
ろくでもなさそうなことを言われる。
「麻薬……?」
「下剤です」
「要りません」
ぺっ、と吐き出すと、茨の細い指に受け止められて再び口にねじ込まれる。
「直接腸に薬湯を注ぎ込んで洗ってもいいのですよ。その方が苦しいでしょうけれど」
「飲みます、お水をください」
茨が離れた隙に、土間と板間の間に錠剤を吐き飛ばす。
「麻結」
見えていない筈の隣の部屋から茨の怒った声。私は星狩と顔を見合わせる。
「薬湯を沸かします」
「ごめんなさい、待って」
「苦しいのは嫌だろうと飲み薬を用意したのに。其方が選んだことです」
「選択肢がそもそも論外なのです」
「聞く耳を持ちません」
茨の怒った声に混ざった紙一重の高揚。
「嘘をついた罰を受けなさい」
逃げようかな、と私は真剣に考え始めた。
◇ ◇ ◇
風呂場の銅管に手枷と首枷を括り付けられて、肛門を曝け出した屈辱的な格好で蹲らされる。
どれだけ検討しても、茨にも星狩にも月彦にも怪我を負わせずに脱出する手段は見出だせなかった。だからまだ、この方がマシだ、とは思ったものの。
茨の細い指が肛門をまさぐり、硬い管を排泄の穴に差し込まれる。脆弱な部分を抉られる本能的な恐怖が身を凍らせる。そこに温い液体を容赦なく流し込まれる。
「くっ……苦しいです……」
「我慢しなさい」
「……お腹が……痛い……」
「腸が動いているのです」
「耐えられない……です……っ」
完全にお腹を下した時の激痛。
汗が伝う。
管が抜かれる。太腿を引かれて排水溝を跨がされて、腰を押し下げられる。
「いいでしょう、出しないさい」
「っ……見ないで、くださいね」
「見なければちゃんと洗浄できているのかがわかりません」
「そんな……いやです……」
視線に晒された腰が熱い。こんなの、人として辱められるよりは、まだ本当に人間だと思われていない方がいい……。
ぶちゅ、と汚い音がしてばちゃばちゃと液体が肛門を抜けていく。
「っ……!!!」
きつく閉じた眼を開けると、壁の鏡に写った茨の白面は真剣な表情で、検査でもするように私のお尻に視線を注いでいる。
鼻をつく不快な臭いが流れ去り、透明な液体が排水口に落ちて流れていく。
「いいでしょう」
と、茨は私の体にお湯をかけて石鹸で丁寧に洗ってくれる。
「これは、なんの準備なのですか」
答の代わりというように、つぷ、と肛門に茨の指が挿れられる。
「っ……凡庸な……答でしたね」
「裂けないようにほぐしているのです」
ぐりぐりと菊門を広げるように円錐状に刺激されて、抉る指を二本、三本と増やされる。
「っ……熱い……です……」
くぱぁ、と肛門を広げられて中に冷たい空気が当たる。
「いいでしょう」
呟いて、茨は引き抜いた手を洗うと、私の手枷と首枷を繋ぐ鎖を銅管から外した。
「其方の望み通りに。グラエナと交わらせてあげます」
「え……どうして」
首輪を引かれて板間に出される。
風呂場の外には星狩と月彦が神妙に座して待っていた。
二組の煌く紅眼と目が合う。
その股間に猛々しく勃起した牡根を認めて、私は唾を呑み込む。
「星狩」
茨に呼ばれて、星狩が仰向けにごろんと腹を晒す。
「麻結。跨りなさい」
「……あなたがなにをやりたいのか、わかってきました」
星狩の頭の両脇に手をついて、お腹の柔毛の上に腰を落とす。
つるん、と星狩の熱の塊が体の中に滑り込み、奥深く抉っていく。
「っふう……入りました」
「月彦」
茨に呼ばれて、月彦が私に覆い被さる。茨にほぐされて粘液を湛えた肛門に、月彦の熱塊が杭のようにねじ込まれてくる。
肩口に乱れた息が掛かり、月彦の牙が肌に当たる。優しい甘噛み。喉の唸りが直で伝わって、じわじわと力が込められ牙が食い込んでくる。
銀狼の柔らかな毛に包まれて、熱い怒張で膣と直腸を満たされて、乱れたふたつの息を浴びながら突き上げられる。
心地好くて、意識がじわじわと白濁する。
星狩が淡く開いた口の端からべろんと出した舌に指を触れさせると我に返ったように横を向いてぺろぺろと舐めてくれる。そして私を見上げて鼻先が当たった乳房をあむっと甘噛みする。
月彦が抱き締めるように前足を私の首と胸に絡める。
ちらと見上げると、茨は椅子に座って足を組み、白面に満足げな笑みを浮かべて私たちを眺めていた。
「これで……いいのですか」
掠れた声で問うと、茨は鷹揚に頷いて言う。
「私のしもべに仲違いがあってはなりません」
「……随分と、獣としてのあり方を歪めていらっしゃるように思います」
「其方こそ……人と獣の境界を乱した其方の方が、よほどグラエナたちのあり方を歪めてくれました」
「……ふぅっ……まさか……獣と人は交わってはならない……だから星狩が交わった相手は人ではない……そう星狩と月彦を誤魔化そうとなさっていたのですか?」
「グラエナはそこまで馬鹿ではありません。ですが、淫欲を抱いてはならぬ人間とまぐわってしまった其方との区別はつけねばなりません」
「……概ね同じことではないですか……んっ……」
月彦の牙が二の腕の皮膚を咬み破り、血が汗と一緒に伝う。手首まで伝い落ちた血を星狩が旨そうに舐める、温かな舌の感触。
びくびくっ、びくびくっ、と交互にナカが震えて。
とく、とく、と精液が注ぎ込まれていく。
心地好さに揺蕩い朦朧とした視界の中で、茨が手を強く握りしめているのが見えた。
「これで、いいのです」
呟く声。茨の理屈の上では片が付いた、けれどまだ済んでいないことがあるらしい。
星狩の柔毛に喉を埋めて、月彦の柔毛に背を埋めて。私は二体の銀狼の深い呼吸を聞きながら、一時の心地好さに身を委ねる。
◇ ◇ ◇
カシャ、と枷が外された。
「其方を赦します」
重荷を下ろすように茨は言って、梯子段を登っていく。
「来なさい、服を返します」
「それは助かります」
透かし彫りの施された天蓋付きのベッドの奥の、草模様が彫られた長持から、茨は私の服と装備を取り出した。
「失礼ながら、ひとつ……」
「……言いなさい」
「あなたは、星狩と月彦と、情を交わしたかったのでは」
一瞬、茨の息が止まる。図星か、と思ったら。
「違います」
失望じみた怒気を漂わせて、茨は振り向く。
「特別に……其方の詮索に答えましょう。来なさい」
「はい……? 失礼致します」
ベッドに膝を乗せると、茨に手首を掴まれて押し倒される。
「……またお仕置きですか」
「私が情を交わしたいのは……人間の女……其方です」
……その答は、予想外だった。苛虐嗜好があるな、とは思っていた。恰好の玩具にされたのだと思っていた。対等な人間として情を交わしたい、と解釈していいのだろうかと、私は暫し悩む。
「それは……失礼を」
「拒みますか」
「……ええと」
「あのカラサリスは明日には羽化します。其方が拒んでも……私は其方を送り出します」
茨の艷やかな黒髪が御簾のように周囲からその白面を隔てる。苦しげに、一息に茨は言い終えた。きゅっと唇を噛みしめる。
茨の誠意だ。対等に私と相対して、答を委ねている。強いる方法など幾らでもあるのに。
強制では手に入らない、私からの承認を求めている……。さっきまでの扱いとの落差に、不思議な気持ちになる。
「……正直、迷っています」
「必要な事とはいえ、其方には酷い責めを下しました」
「必要な事だったのか私には未だ疑問なのですが」
「拒むのは当然です」
挑みかかるように。涙を堪えるように。言い終えて、茨は私の手首を解放した。
どうしようか。茨の揺れる瞳の尖った虹彩と長い睫毛が私の胸の奥を叩く。
正直、求めてさえくれれば幾らでも応じた。怒りに任せた打擲の激痛の記憶と理由もわからず人にあらざる扱いをされたもやもやが、ようやく弱みを曝け出した茨を抱き締めたいこの衝動に引っ掛かって抗う。
茨は誇り高い。我儘を通すために大義が要る。大義があったから私をあんな目に遭わせた。大義が無かったから、私をあれだけ責め苛みながら抱こうとしなかった。恐らく、拒めば諦める。そうやって渇望に苛まれて耐え続ける。
……茨がずっと抱き続けていた痛みに僅か一滴足したところで溜飲は下がらない。気分の悪さを抱えて帰るだけだ。
私は茨の心の堰を切る鍵を手にしている。
使いたい。
茨がようやく曝け出した弱さにもっと触れたい。
少しの皮肉を込めて、私は言う。
「私には……これから多少の責めが足されたところで大差ありません。ですから……」
茨の白い頬に手を触れ、指を赤い唇に添える。
「くちづけて、くださいますか」
「……ええ」
雫が頬を打つ。目を潤ませた茨が、初めて見る無防備な表情で、はらはらと涙を零していた。
「難儀な性格ですね、あなたは」
私は茨を抱き寄せて頬にくちづける。首筋の傷の上に茨の柔らかな唇が触れる。
幼子のように抱きつく茨の背を、私は寝かしつける時のようにとん、とん、と撫でる。
「寂しかったのですね」
囁く。
「……とても、寂しかったのです」
茨が独白のように囁き返す。
「欲しかったのはこの温もりだけなのでは?」
「まだ足りません」
茨は釦を外して蛹から羽化するように衣服を脱ぎ捨てる。白い肌が眩しい。優美な体の輪郭が昼の光に彩られて、部屋の中は淡く優しい光に満たされている。
肌を重ねる温かさ。温泉に浸かったように、茨がほっと息を吐く。触れ合う肌のきめ細やかさに溺れそうなくらい、どうしようもなく蕩けていく。
「麻結」
乳首を甘噛みして茨が囁く。びりっと痺れが肩を震わせる。
「はぅんっ……茨様……」
「ずっと、こうしたかった……」
茨の細い指が太腿の狭間に滑り込み、つぷ、と中に挿れられる。
続いて、小指が菊門に潜り込む。
「ひんっ……あんまりいじると、銀狼の精液が出てきますよ」
「構いません、全部かき出してあげます」
「なに妬いてるんですか……」
「妬いてなどいません!」
さわさわと茨の胸をくすぐると鈴のような澄んだ喘ぎ声を上げて心地よさげに仰け反る。
「胸、好きなんですね」
「このまま触り続けなさい、許します」
「御意に、境守さま」
夜が更けるまで、私と茨は飽くことなくお互いの体に溺れ続けていた。
◇ ◇ ◇
純白の繭が破れて、蝶に変態したしのの濡れた体が這い出てくる。
ぴん、と触覚が立つ。
不安定にふらふらと細い足で繭に掴まり、圧縮されていた翅を伸ばしていく。
青い目。艶やかな翅。長い触覚と尾状突起。
「おはよう、しの」
触角を僅かに上下させて、しのは空色の眼に私を映す。
幼虫の頃の記憶は残っているんだろうか。不安で胸が締め付けられる。
翅が乾いて、鱗粉が燦く。しのはゆっくりと開閉していた翅を羽ばたかせて青空へと飛び立った。
茨に貰った肉のスープを食べていると、たっぷり飛び回ったしのが空から降りてきた。風が顔に吹き付けて髪を乱す。
「おかえり、しの」
触覚を揺らして頷いたしのは肩の定位置に停まった。
長く伸びた吻をスープに入れてちゅるちゅる啜っている。
お腹が満ちたところで、私はしのに言う。
「じゃあ、行こうか」
◇ ◇ ◇
強く強く、茨は私を抱き締めた。
抱き締め返して、お互いの耳元にくちづけを交わす。
「お世話になりました」
「また来なさい」
茨は嫣然と微笑む。
星狩を抱き締めて首を撫でる。気持ち良さそうに頬を擦り付けてくぅうと星狩は鳴く。
月彦に手を差し出すと、あむ、と緩く甘噛みされる。鋭い牙が緩く皮膚を押す。手加減もできるんだ、と私は意外に思った。
しのが飛び立ち、上空を行く。
私は地上の草の中を歩いていく。
しのが鳴いて草の中の獣の位置を教えてくれる。心強い。お陰で獣に遭遇すること自体が減った。
茨への次の伝令も私が受けよう。
そう心に決めて、来た道を辿って街を目指す。
獣道には野苺がちらほら実っている。この甘酸っぱさは、きっと幾度も懐かしくなるだろう。体に刻まれた熱く激しく心地好い記憶と共に。
山野を渡る風が人恋しさを吹き散らしていく。
音と匂いに神経を研ぎ澄まして、私は再び獣となる。
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