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晴れ渡れ、空

/晴れ渡れ、空

毎回の更新分はあまり多くないです。







writer:朱烏




晴れ渡れ、空







 1


 夕暮れの雑踏。人々の冴えない足音。
 何ともいえない不快感だった。僕は、まるで偏頭痛を我慢するかのように顔をしかめる。
 人間たちの履く硬質な靴と、それよりも更に硬質な石畳とがこすれる音は、そこらじゅうで鳴り響いていた。
「あー、……うるさい」
 ただでさえ群れを成す人間たちの隙間を通り抜けるのは疲れる。だから、せめてそんな余計な雑音だけは遮断したかった。
 視界を縦横に巡り巡る人の姿が、僕の平衡感覚を狂わす。この場にくずおれたい。歩くのが苦痛だ。
 それでもやっぱり歩かずにはいられない。単なる散歩なら、この表通りは絶対に避けるのだが。
 不愉快な靴音の反響を受け流しながら、僕は四本の足を器用に動かし、人間たち自身が成す潮流の中を巧みに泳いでゆく。足を踏まれたり、頭を蹴られたりしないよう、とにかく敏捷に動いた。
 しかしどんなに気を付けていても、人間にぶつかったり蹴られたりした。どこ見て歩いてんだ! と呪いの言葉をかけようとする頃には、その人間たちは激流に呑み込まれていて、結局は呪いを心の内に留めておくしかなかった。
 夕方のこの人混みは、今の僕が最も嫌いなものだ。踏ん付けられ、蹴飛ばされ、ぼろぼろにされて、しかも気にかけられることもない。この最悪な現象を回避するには、裏路地にでも引っ込んでおくしかない。
 だが、現実問題としてそれはなかなか難しいのだ。とある飲食店の外壁に設置されたごみ箱――野良ポケモンの餌の供給源――の中身は、丁度人間が通りにごった返す時間帯にやって来る。そして、人間が消える頃にはそれは他のポケモンたちに食い散らかされてしまっている。
 更に酷いことに、ごみに群がっている目当ての小さな虫も餌食にされてしまうので、僕が食することができなくなる。
 かと言って、事前にごみを持ってくる人間を待ち伏せるわけにもいかない。警戒されてごみを移動されては困る。だから、こうやってわざわざ人波を掻い潜りながら、餌場を目指しているのだ。全く、世知辛い。
 疲れたので、一度表通りの潮流から抜け出して路地裏に入る。そこは薄暗くて、まるで靄がかかってるかのように見えた。三方を高いビルが蓋っているせいだろう。この先は行き止まりで、裏通りに続く小路などではない。野良ポケモンの溜まり場だ。
 くすんだ色の歪んだビルは、今にもこちらに倒れ込んできそうだった。人間の潮流の中に溺れているときとは異なる閉塞感。しかし、心地が悪いわけではない。人間と違って、静かで、物を言わない。ただそこにあるだけだ。
 この路地裏だけでなく、街全体がそんな感じだった。あるビルは直立しておらず、あるビルは窓枠の対辺が同じ長さでなく、またあるビルは廃墟だ。人の動きが活発なのが信じられないくらい、この街は歪み、霞み、黒ずんでいる。その不思議な対照性が、僕をここに留まらせる。
 今まで訪れた街は、どこもかしこも整然としていて小奇麗だった。人間たちが、彼ら自身、そして一緒に住まうポケモンが暮らしやすいようにと造った街は、空気が澄んでいて、楽園を模したもののように見えた。ただ、餌場が全くと言っていいほどないので、野生ポケモンは自然に排除される。まさに人間たちにとっては理想形だ。
 人間の街が発する空気に押し流されるように、僕は色々な街を彷徨い歩いては弾き出された。山や川や池なんかに棲もうかと考えたが、やめた。もともとは街の片隅で生まれ、不便ながらも街の中で生活してきた。今さら本格的な野生生活を歩むなんて、先が今以上に見えなくなりそうだし、何よりも慣れた生活を手放すのが怖かった。
 もしかして、新しい世界へ踏み出す勇気がなかっただけかもしれない。途中で出会ったポケモンにもそんなことを言われた。
 こっちの世界に来い――。僕はそれをほっとけよと一蹴したが、決して間違いではなかったと思う。お蔭で、退廃さを漂わせる、だが決して鬱屈した気分にさせないこの街に出会えた。
 路地に屯する、くたびれた街の姿を投影したような小さなポケモンたちも、僕と同じように好きで居着いているのだろう。逆さまになった青いバケツの上で、チョロネコが空を見上げている。靄に潜む他のポケモンも、同じように空を仰いでいる。
 僕も、空を見上げた。投げ上げられた街灯りが、空を覆う雲を陰のある丹色に染め上げていた。
 これは、予兆だ。
 僕は、再び大通りの激流に飛び出した。
 雷鳴が轟き、天が一瞬光る。
 雫。僕のまわりを蠢く人垣の隙間から垂れ落ちてきたそれに、僕は心を躍らせた。
 雨だった。惑うように揺れる人波の中を、僕は縫うように歩いた。
 ビルの隙間に見えていた、雲の向こうの朱い太陽は、既にどこかに消えてしまっていた。それでも空はまだ、微かに明るさを保っている。完璧な天気だ。
 人々が撥ね飛ばす泥水を被りながら、いつもの餌場を目指す。視界が水飛沫と大粒の雨に掠れて、急に世界が彩りを見せるようになった。これが、僕が好きなこの街の本当の姿だ。
 急な強い雨にも、ここの人間たちは傘を差そうとしない。濡れることを憚らないのは、この街に住む人種の特徴だった。妙に取り澄ました他の街の人間よりも遥かに自然的で、そこに多少の好感を持てる。まるで、僕と彼らは全く同じ生き物であると錯覚させる。
 正直に言って、どうしたって人間は好きになれない。助けられたこともあるけれど、苦労を掛けられたことの方がその何倍もある。ただ、徹底的に嫌いになるわけでもなかった。冷たくて野性味を感じさせない他所の人間は、まるで彼らが作り上げた『機械』そのものにも見えて不愉快でしかなかったが、ここの人間はそれがない。だから、嫌いになるのが申し訳ない気がしたのだ。
 だから取り敢えず、人間たちが織り成す人混みが嫌いなのだ、ということにしておいた。事実、何度も蹴り飛ばされている。それが悪意のないものだったとしても。
 溜まり始めた水の上を軽快に滑る。気怠い足音も、茶けた街も、全て雨が彩色する。
 最高だ。
 餌場に辿り着く。一階に飲食店が入っている煤けたビルと、住居用か商業用か今一つ判別のつかないビルの間。僕三四匹分程度の幅の、細い隙間だ。
 チョロネコが座っていたバケツを何倍も大きくしたような、形状はドラム缶に似た青いごみ箱が、飲食店が入っているビルの壁に沿って五つ、一列に並べられている。そのうち手前の三つは、食糧の宝庫だ。羽虫もちらちらと飛び回っている。雨の中、ご苦労様だ。
 幸いにも、まだ餌を求める飢えたポケモンは見当たらない。羽虫を主食とする他のポケモンたちと取り合いにならないうちに、さっさと食事を終わらせてしまおう。
 僕は、頭の先の尖がりから甘い匂いのする分泌物を出した。そして、それでおびき寄せられた羽虫たちを食べる。
 美味しい。水溜りにいる微生物だけでは胃を満たすことができない。羽虫の味を知ってしまうと、なおさら他のものは食べる気がしなくなる。
 一通り羽虫を食べ終わって、僕は一息つく。ここから窺がえる通りの人の往来を眺める。次いで、空を仰ぐ。
 雫が僕の顔を打った。
 気持ちがいい。ずっとこうして居たい。
 ――幾らか時間が過ぎ。僕は視線をゆっくりと落とした。真上の空から、下へ、下へ。そして、通りを挟んだ向かい側のビルへ。
「……あれは」
 そのビルは、いくつかの部屋の灯りが点っている、住居用のビルだった。十階建て――平均的な高さだ。
 その五階、一番右端の窓の向こうに、真っ白なポケモンが見えた。ビルの色は勿論、各部屋の窓ガラスもみんな煤けていたので、その白さはより際立っていた。
 なぜ目についたのか。考えるまでもなかった。
 ここの人間たちは、野良ポケモンと多少関わることはあっても、飼ったり一緒に暮らしたりというようなことはしなかった。そんな人間は、もっと綺麗な街に暮らす。例えば、僕が生まれた街とか。
 だから、ビルの中にいるポケモンを見ると、それは人間と一緒に暮らしているという意味になり、違和感を覚えるのだ。
 そして。
「何か……」
 変だ。空を見上げているその表情が。その口の動きが。
 白いポケモンは体を翻し、窓の奥に消えた。
 なんだか、まだ口に残っている羽虫の味が、急に不味く感じられた。
 もうあのポケモンは見えないというのに、その表情だけは僕の網膜にしっかりと焼きついてしまっている。絶対にありえないが、まるでこの天気を嫌悪しているかのような表情だった。
「……そんなわけない」
 ただの見間違いか。茶色く曇っている窓ガラスを隔てていたから、表情が歪んで見えたのか。だとしたら納得がいく。むしろ、そうとしか考えられない。
 けれども。
「……くそっ」
 些細なことだったが、一気に気分が悪くなった。
 僕は雨を浴びながら、人が掃けてきた通りを徘徊した。そして、適当に路地に入り込んで、そこで夜を明かした。
 大好きな雨は、微塵も心に沁み入ってこなかった。あのポケモンの口の動きが、頭から離れない。

『晴れ渡れ、空』

 雨は、空が明るくなるまで降り続いた。




 2


 次の日。
 太陽が昇る頃には雨は止み、空は一瞬晴れの様相を見せた。しかし、すぐに曇った。灰色の雲が、空全体に薄く延ばされていた。
 僕は朝の食事を、昨日の雨の産物である水溜りの中にいる微生物だけで済ませた。そして、逆さまの青いバケツがお気に入りのチョロネコと他愛のない会話をしていた。
 今日はまずまずの天気だね、とか、新しい餌場を見つけたんだ、とか。雨が降っていないときの暇潰しは、大体こんな風だ。
 しかし、暇潰しだってすぐに飽きる。チョロネコも同じらしく、とうとうあくびをし始めた。彼女は昼寝をすると言って、廃ビルの開け放たれた戸口の中に消えた。僕は所在なさげにそのビルの中を覗いた後、散歩に出た。
 路地を通り、裏通りへ。表通りに面したビルはみな高さがあり、圧迫感があったが、裏通りの方のビルは表通りのそれらよりも一段低いせいか、たとえビルが傾いていても倒れかかってくると錯覚することはなかった。
 天衝く摩天楼によって狭められた表通りの空とは異なり、裏通りの空は雲が端から端までかかっていることを視認できるほど広い。普段見る景色とは異なる景色に少々感動する。
 この時間帯の人影は疎らだ。表通りも少なかったが、ここは更に少ない。人間は、生きるために仕事というものが必要なのだそうだ。その仕事というものをすると、真昼間から通りをぶらぶら歩くことはできないらしい。
 ふと人間を見かけたと思うと、その人間はきっちりとした服装をしていたり、忙しなく走り回っていたりする。人間は生きるのにポケモンよりも体力を使いそうだと、なんとなく思った。
 野良ポケモンも決して楽に生きているわけではないが、人間のように規則に縛られた生活を送ってはいない。自由度が高いのだ。
 しかし、今のように無為に過ごしているのを自由とのたまうのも、なんだか虚しい。
 ふと、街と街の間をさすらっていたときに出会った野生のポケモンを思い出す。
 向こうの世界でも、自由を謳歌できるものなんだろうか。きっとできるんだろう。だから彼奴はあんなに楽しそうな顔をしていた。しかし、街に棲む奴らとは顔つきが違う。野生は野生で、こちらとは違う苦労があるんだろう。
 たとえば、弱肉強食であるとか。
 もしかして、の話だ。実際はそうでないかもしれない。
 でも、そうだとしても、やっぱりこっちでいいや――そう思った。
 空を仰ぎ見る。雲は幾分か色を濃くしているようだが、雨が降る気配は微塵も感じられなかった。
 今日は外れか。
 雲の一部分が、ぼんやりと白く見えた。
「あ……」
 違う、あれは雲じゃない。ビルよりも高い所を、何かが飛んでいる。見覚えがあったような気がする。
 その色はあまりにも白く、薄い灰色の曇り空にすら映えた。僕はしばしの間その綺麗さに見惚れていた。しかし、そのポケモンは僕から遠ざかる方向へと飛んでいることに気づいた。
「……よし」
 追いかけよう。そう決心した。
 何故か。ただの気紛れかもしれない。だが、今日ではなく明日や明後日、明々後日にあのポケモンを見かけたとしても、やっぱり同じように決心しただろう。
 気紛れで全て決定できることが、すなわち自由ということなのだろうと思う。規則に縛られている人間には、多分できないだろう。
 僕は細い四本の足を素早く動かして、通りに沿って上空を飛ぶそのポケモンを追いかけた。
 しかし、相手は速かった。こちらが地を這って行く速度と、あちらが飛行する速度は文字通り桁違いだった。
「このままじゃ……!」
 見失ってしまわないよう、必死で食らいつく。茶色の景色が高速で流れてゆく。こんなに速く走るのは初めてかもしれない。慣れない足運びに転びそうになり、それでもなんとか体勢を立て直しながら、あのポケモンを追いかけてゆく。
 辛うじてついていくことができたのは、あのポケモンが蛇行や逆進、更には宙返りなどを幾度となく繰り返していたからだ。
 だが、縦横無尽に飛び回っているわけではない。道には沿っている。
 翼を持ったポケモンは空を飛ぶ。そうでないポケモンは地を行く。当たり前のことだが、少しだけ歯痒かった。少しだけ、憧れてしまった。
「いいなあ」
 息を切らしながら、思わず呟いた。僕は人間にはない自由を持っていて、あのポケモンは僕にはない自由を持っている。自由の意味も方向性もまるで違うけれど、だから憧れる。
 空のポケモンは、一度滅茶苦茶な飛行軌道を改めて、緩やかに左に旋回した。表通りから遠ざかる方向だ。道にはやっぱり沿っている。
 僕も十字路に差しかかり、あのポケモンと同じ方向に曲がった。そのとき、ビルの陰から人間が飛び出してきて、危うくぶつかりそうになった。避けようとして転んだ。呪いの言葉はかけなかった。
 が、その瞬間に。
「あ……」
 僕は追いかけていたポケモンを見失った。
 一度立ち止まって、表通りよりも広い空を、隅から隅まで見渡した。しかし、あの灰色の雲に映える綺麗な白色は見当たらない。
「何で……」
 あの一瞬で、遠くまで飛んで行ってしまったのか。それとも、ビル群の真上を突っ切って、そのビル群に囲われた空から逃れたのか。
 僕の息を切らす音だけが、やけに街の雑音の中で目立っていた。
 結局、全て無駄だったみたいだ。
「……くそ」
 さっきの人間に向けて悪態をついた。しかし、うまく消化できない。できないから。
「雨が降ればいいのに」
 そう呟いた。雨が降れば、嫌なことは全部雨に混じって流される。
 それでも雨は降らない。雲は空に鎮座している。風の流れは滞り、動いているのは地の世界だけのようだった。
 取り敢えず、歩いた。歩かなければ、何もできない。何も起こらない。表通りに戻ってもよかったが、それでは何だかここまでの行動が本当に無駄になってしまう気がして、できなかった。
「ま、暇だし……」
 ぶらついたっていいだろう。
 この町に居着いて、そこまで長い月日が経っているわけではない。大きな表通りと、それに並列する(ふた)つの裏通り以外のことはよく知らなかった。
 それに雨が降らなければ、街を闊歩することもない。
 この道は、表通りと垂直に交わっている。ずっと歩き続ければ、そのうち街から飛び出してしまうだろう。
 ずっと真っ直ぐに歩いてゆく。立ち並ぶビルの高さは、裏通りのそれらとはあまり変わっていなかった。ただ、住居ビルの割合が多くなっている。商業の拠点が街の中心部に集まっているから、当然だろう。
 ビルの煤け方は、中心地に比べて浅くなっている気がした。ただ、歪み方は相変わらずだ。表通りのビル群の歪みと色の均整が普通だと思っていた僕には、この辺りの景色は幾分か奇妙に感じられた。
 ビルとビルの隙間に入り込んでみる。表通りの、まるでビル同士が押し合っているような狭さとは違い、僕一匹なら何とか入り込める程度の広さだった。
 ごみや得体の知れない何かが散乱している。人間の目がつきにくい場所だから、掃除がなされることもないのだろう。欠けた小さなバケツには水が溜まっていて、それが悪臭を発している。
 僕は顔をしかめながら、(こみち)を抜けた。その途中で、左の後ろ足が軟らかい何かを踏んでしまった。本来ならば、僕はそれを気にしなければいけないところだったが。
 息を呑んだ。
 この街では見慣れない――いや、それどころか、見たこともないものが眼前に広がっていた。
「緑地帯……?」
 四方が同じ高さ、同じ形のビルに囲まれていて、この土地は正方形に切り取られている。空も同じように、真四角に切り取られている。
 地面は苔が生し、ところどころに雑草も茂っている。正方形の中心と角を結ぶ四本の線上にきっちりと、低木が四本植わっている。どうやら人間が植えたらしいというのがわかる。
 この街の色はてっきり茶色と黒と灰色だけで構成されているものだと思っていたが、違うらしい。
 僕は低木の一本に歩み寄った。地面は水を大量に吸っていて、足を踏み込む度にひやりとした感触と潤いを感じた。
 木の真下に行くと、その感触は下からだけでなく、上からも感じられた。朝まで降っていた雨で沢山の雫を抱えた木の葉が、僕に水滴を落としているのだ。
「気持ちいい……」
 雨、ではないけれど。
 同じようなものだ。
「ねえ」
 僕は、どこからか発せられた声に気づくのに数秒の時間を要した。
 というより、それは僕の意識の範囲から遠く外れていた。雫の感触に耽っていると、僕は周りが見えなくなるときがある。
「聞こえてる?」
 振り返る。丁度、対角線上の木の方から聞こえてきた。
 聞こえてるよ――そう返そうとして、僕は静止した。
 木の枝に、あの白いポケモンがとまっていた。




 3


「何をしているの?」
 その白いポケモンは、首を傾げながら僕にそう訊く。多少低いが、雌の声色だ。
 僕は逡巡し、目を泳がせる。
「ただの散歩。それで……たまたまここに来たんだ」
 いかにも嘘っぽい。目の前にいるポケモンを見失って以降、実際にただ街をうろついていて、本当に偶然ここに辿り着いたのだから、散歩と言っても差し支えはないはずなのだが。
 意外な形で目的が達せられて、街をあてもなく歩き回っていたというのはどうにも嘘臭く感じてしまうのだ。
 突然、彼女は木の枝から飛び――背中の羽をはばたかせ、僕の目の前にふわりと着地した。
「散歩でこんなところに? 変わった趣味ね」
 彼女はそのいささか長い首で僕の顔を覗き込み、そう言った。
 確かに、汚れたビルの隙間を這って行ったのだから、彼女の言う通り変わった趣味かもしれない。だが、それはそっちも同じだろう――と、言おうとしてやめた。
 彼女はおそらく、空から華麗にここへ――この、秘密めいた場所に舞い降りたのだ。僕のように、体が汚れるような方法はきっと死んでもとらないだろうと、その真っ白な体を見て思った。
 卵型の胴体と頭。飾りの様な腕と脚。円らな瞳と、小さな翼。何より特徴的なのは、胴体に散らばっている赤や青の楽しげな三角輪っか模様と、頭の三つのとんがりだ。
 とんがりの数は僕と違うけれど、ほんの少しだけ親近感を覚えた。
「君はここで何を?」
 今度は僕が問う。
「私は休憩。散歩の合間のね。でも空を飛ぶのは散歩って言わないのかな」
 彼女は独りで考え込んだ。腕組みをしようとしているようだが、腕が短くて全くできていない。それがちょっと可笑しかった。
「あ」
 彼女が目を見開いたので、僕はどきりとした。
「な、何?」
「ここ、水が垂れてくるね」
 彼女は深緑色の天井を見上げた。
「……そうだね」
 彼女の額に、水滴がぽたりと当たる。彼女はそれを振り払うように、一歩その場から退いた。
「なんだか嫌だなあ。雨みたいで」
 雨が、嫌?
 彼女は、まるでチーゴの実を噛み潰したかのような顔をしている。昔、チーゴの実を一度だけ食べたことがあるが、この世のものとは思えない味だった。
「いい加減、晴れてくれないかなあ」
 彼女は、この街に棲むものとしてあるまじき発言をした。その黒々とした小さな瞳は、重なり合った木の葉を通り越し、遥か上空を見つめていた。
「晴れるなんてとんでもない」
 彼女が空に放った願いを打ち消すように、僕は言った。彼女は反駁した僕を、驚いたような顔で見つめた。何をそこまで驚く必要があるのか。
「雨が降らなくなっちゃうじゃないか」
 僕は語気を強めた。
 しかし、彼女は少々興奮気味の僕を、まるで宥めるかのように見つめている。その小さな手で僕の頭を撫でようとするのではないかと思うくらい、優しい瞳だった。
「そっか……あなた、アメタマだもんね。きっと誰よりも雨が好きなんだろうね」
 彼女はひとりで納得したように、右手と左手を合わせた。
「そうだよ。僕は雨が大好きだ。だからこの街に棲んでいるんだ。僕だけじゃなくて、この街の人間も野良ポケモンも同じだ」
「でも、そうじゃないポケモンが、君の目の前にいるよ」
 だから色々と混乱しているのだ。
 一度、深呼吸をした。なんだか、やりづらい。
「あなたは好きでこの街で暮らしているのかもしれないけれど、私はそうじゃないの。一緒に暮らしていた人間が突然この町に引っ越すなんて言い出して、しょうがないからついてきただけ」
 彼女は微笑みを保ったまま、しかし僅かに顔に諦観の念を滲ませながら言った。
「本当は私ひとりでも暮らしていけるんだけどね。腐れ縁みたいなものがね……。その人間を一人にするのもどうかとおもったから、まあこうしてこの街にいるわけ」
 彼女が有する事情が僕やその辺の野良ポケモンたちと違うということは理解できた。たが、理解できたのはそれだけだった。
「それでも、雨が嫌いなのはおかしい」
「誰だって好き嫌いはあるよ? 雨なんてただ鬱陶しくて冷たくて、気持ちをげんなりさせるだけ。雨っていうのは多少降るくらいが丁度いいのに、ここには雨が降らない日はないんじゃないかっていうくらい矢鱈と雨が降って、本当に気が滅入っちゃう。浴びたいのは雨じゃなくて陽の光なんだけど」
「そんなことない! 雨ほど浴びていて気持ちいいものはないだろ」
 押し問答だったが、彼女と話していると、まるで彼女の方が論理性のある弁を展開しているような気がしてしまう。しかし、ここで引くわけにはいかなかった。今まで自分が受け入れていたことや、理由などほとんどなしに好きになっていたものが理屈を付けて否定されるのを見過ごせるわけがないのだ。
「あなたって強情なんだねえ」
 彼女は呆れた風に僕を見て、それから木の下を出て、空を見上げた。
「見てよ、あの厚い灰色の雲。あんなのがなければ、真っ青な空が広がっていて、その下を自由に飛べるのに。この街だとそんな簡単なこともかなわないの」
 彼女は空を憎々しげに見つめて、大きくため息をついた。
 僕はそのため息の行方を目で追って、ふと思った。
 ――なぜ雨に対する考え方が、僕と彼女ではこんなにも違うのだろうか。
「雲がない空なんて、なんにもないただのだだっ広い空間じゃないか」
 この街で、全く異なる了見を持つポケモンと遭うなんてありえないと思っていたけれど、ただの思い込みだったのか。
「何もない? 違うよ。温かい陽の光、綺麗な青色、澄んだ空気、気持ちのいい風……いっぱいあるよ」
 ちょっとだけ悲しくなった。
「あなたは……あなたは、青空を自由に飛べる素晴らしさを知らないから、そんなことが言えるんだよ。それに引きかえ、雨なんて空のいいところを全部消してしまうだけ。雨自体にいいところなんて一つもないのに」
 僕はしばらく口をつぐんでいたが、腹の底に溜まったもやもやは消えない。ついに僕はそれを吐き出すように、声を絞り出した。
「じゃあ君は雨の中を飛んだことがあるの?」
 僕の訊いたことがよほど意外だったのか、トゲチックは目を丸くした。
「あるわけないよ、そんなの。わざわざ暗い雲の下を雨に濡れながら飛ぶなんて、よほどの物好きか、頭のおかしいポケモンがすることでしょ」
 彼女の言葉を聞いた僕は、体内の血という血の全てが沸騰するような感覚に襲われた。
「じゃあ、試してみればいいじゃないか!」
 彼女は飛び立とうと曲げた脚と屈曲した翼を元の状態に戻して、怒鳴った僕に向き直った。
「一度も雨の中を飛んだことがないのに、雨の中を飛ぶのが嫌いだっておかしいじゃないか。もしかしたら、好きになるかもしれないのに」
「そんなのありえないよ」
 彼女は首を横に振る。何を莫迦なことを、とでも言いたげで、それが余計に僕の神経を刺激した。
「やってみなきゃわからないよ。とにかく、試してよ。それとも、僕にまともに反論できなかったからって逃げるのか?」
 反射的に返した僕の物言いは、聞き分けのない子供そのものだった。非論理的で支離滅裂、ただ単に喧嘩をふっかけているだけ。ほんの一瞬だけ、僕は何をいきり立っているんだという思いが頭をもたげたが、どうにもならなかった。
 彼女は僕をしばらく見つめたあと、視線を空に移し、同じように見つめる。まるで鈍重な雲の壁を細かく観察しているかのようだった。そして彼女はため息とも深呼吸ともつかないような所作をして、僕に言った。
「いいよ、そんなに言うなら」
 彼女は小さな白い翼を広げ、僕に背を向けた。
「試してあげてもいいよ!」
 厚い雲の壁のわずかな綻びから差し込んだ太陽の光が、彼女を照らした――ような気がした。
 そして、今度こそ彼女は飛び立っていった。白く四角い空に点となった彼女は、煤けた枠の外へと消えた。
 綻びは瞬く間に消え、地表は再び影に覆われた。




 4


「ふうん、不思議な子ね」
 次の日、トゲチックとの一連のやり取りを路地裏にいたチョロネコに話すと、こんな反応が返ってきた。
「雨ぐらいしかとりえのない街なのに、それも嫌っちゃったら何を期待してこの街に居続けるのかしら」
 僕から見れば、妙に気取った風に首を傾げる彼女も十分不思議な子だが、それが彼女の自然な所作のうちに入ることは知っていた。
「あなた、今……」
「な、何……?」
 一瞬、頭のとんがりが突っ張った。
「私のこと変な子だと思ったでしょ」
 見透かされた。いや、流石に変というほどのことは思っていないけれども。
「言っておくけど、貴方だって相当変よ」
「ど、どこが?」
 僕はチョロネコの言葉に面食らった。僕のどこが変なのだろう。
「確かにこの街に雨を嫌う人間もポケモンもほとんどいないけれど、貴方ほど雨が好きなポケモンもいないってことよ。だから、あんまり他のポケモンの好みにケチつけちゃ駄目よ。あなたがある程度チュウヨウな考え方をしているのならまだしも、相当偏ってるからねえ」
 ああ、なるほど、と納得できるほど、僕は大人の心を持っていなかった。
「僕がチュウヨウじゃないってこと? でも、僕が好きな雨のことを片っ端から貶したトゲチックだってチュウヨウな考えなんか持っていないよ」
「どっちもどっち。というか、貴方が最初に雨が嫌いなのはおかしいなんて言わなかったら、その子も下らない言い合いなんてしなかったでしょうに」
「下らなくなんかない!」
「あーはいはい、わかったから。とにかく、あなたは……まあそのトゲチックもだけど、もうちょっと視野を広く持った方がいいわよ。お互いが好きなものを否定し合ったって何も生まれないんだから」
「……うん」
 彼女の諫言は、僕とトゲチックのちょうど真ん中に、真っ直ぐに深々と突き刺さった。ものすごく中庸だ。
「分かればよろしい……って言っても、やっぱりまた会うようなことがあれば同じような喧嘩するんだろうけれどね」
 チョロネコは僕を諌めているのか馬鹿にしているのかよく分からないようなことを呟いた。
「それと、彼女の方は結局折れたんだから、貴方も意地張ってないで、ちょっとぐらい彼女のことを理解する努力をした方がいいわよ。そうしたら……」
 チョロネコはそこで言葉を切った。
「そうしたら?」
「もっと楽しいことが見つけられるかもね」
「楽しいこと?」
「あ、そろそろお暇するわね。用事があるの」
 僕が返事をするかしないかのうちに、チョロネコはまだ人通りの少ない表通りに出ていった。
「うーん……」
 僕は唸りながら、彼女が去り際に残した言葉を反芻した。しかし、よく理解できなかった。彼女は彼女なりに示唆的な言葉を僕に送ったつもりなのだろうけど、もっとはっきりと言ってくれないとただ混乱するだけだ。彼女はいつもそうだった。
 とにかく、まずはトゲチックのことを理解しようとしなければいけない。だが、できる気が全くしなかった。
 考え方が完全に逆なのだ。
 彼女は、暖かい陽の光が好きだという。僕は、ひやりと冷たい雨の方がいい。暮れかかっている陽ならともかく、真昼間の日光なんて浴びたらそれこそ干乾びてしまう。しかも、日光は水溜まりを蒸発させて消してしまうという非常に不愉快な力を持っている。好きになんてなれない。
 綺麗な青色はどうだろう。雨模様のない、真っ青な空。――やっぱりだめだ。空は一面暗い灰色の雲に覆われているべきだ。そして、その雲が大量の雨粒を抱えているのだと想像すると、僕は心臓の高鳴りを抑えきれなくなる。青い空は空っぽだから、雨雲のような期待できるものは何もない。
 澄んだ空気。いいような気もするけれど、僕は体の中を潤いで満たしてくれるような湿った空気の方が好みだ。
 気持ちのいい風。――風を気持ちいいと思ったことはほとんどない。気持ちのいい風とはどんな風だろう。地表で吹く風と中空で吹く風は違うのだろうか。こればっかりは体験したことがないので好きも嫌いもない。
 トゲチックが列挙した『晴れ』のいいところを一通り熟考してみたが、考えを巡らせれば巡らせるほど、彼女のことを理解するのは不可能なのではないのかと思ってしまう。
 そもそも、これらのことを良しとしてしまったら、僕の好きなものを僕自身が否定しなければいけなくなるのではないか。
 本末転倒にも程がある。
 莫迦莫迦しい。
 チョロネコにちょっと唆されてその気になったって、駄目なものは駄目なんだ。
 世の中には、自らの意思にかかわらず絶対に受け入れられないものの一つや二つ、あって当たり前だ。それがたまたまあのトゲチックだった、というだけだ。
 絶対に相容れない人やポケモンの何を理解する必要があるのだろう。そんなことしなくたって楽しいことは見つけられる。チョロネコは――恐らく、もっと視野を広げろと言いたかったのだろうが、言われずともこの世界の広さは十二分に認識している。少なくとも、人間の作り出した忌わしい高機能の街で暮らすポケモンよりは、ずっと、ずっと――。
 だから、このままでいいのではないか。トゲチックと出会ったことだって、なかったことにしてしまえば。


 いや、駄目だ。
 僕はトゲチックに言った。一度も雨の中を飛んだことがないなら、試してみればいいじゃないか、と。そして彼女はそれを了承した。
 トゲチックは僕のことを理解する術を曲がりなりにも得た。そのくせ、僕は何もしていない。
 これじゃあただの逃げじゃないか――。
 
 ぽたり、と頭のとんがりに水滴が触れた。
 雨だ。僕の大好きな雨。
 そして、トゲチックの大嫌いな雨。
 雨脚はみるみるうちに強くなっていく。鉛色の鈍重な雲と、茶色やら黒やらが雑多に混じりあった街が、雨をきっかけに互いに溶け合って、独特な雰囲気を醸成している。
 素敵な景色――だと思えたはずだった。
 なぜか気分が高揚しない。雨も、少しだけ鬱陶しい。トゲチックやチョロネコに言われたことが、僕の感覚神経に絡みついて五感を鈍くしているような気がする。
 
 なんだか楽しくない。
 そう思うと、見慣れているはずの雨による街の翳りが、途端に僕の心をそのまま投影しているものであるかのような気がして、切なくなった。
 未だかつて感じたことのない不安が波のように押し寄せる。苦しみや辛さ、つまらない気分を一気に払拭してくれるものが雨であったはずなのに、今は全く逆だ。
 足元が覚束ない。石畳がぐらぐらと揺れている。しかしそれは、辺り一面にできた水溜まりを激しい雨が打ちつけて成す夥しい数の小波が、光を淡泊に乱反射していることによる錯覚だった。
 それに気づくと、僕の心は余計に不安定になった。水に染まった景色から逃れるように、空を見上げる。
 すると――白いものが、摩天楼に狭められた小さな空を横切った。
 トゲチックだ――。
 この雨の中を。まさか、昨日の今日で?
 急いで袋小路になっている路地裏を抜け出す。既にトゲチックは見えなくなっていたが、行くあては想像できる。僕は裏通りへの道を滑って、僕とトゲチックが邂逅を果たしたあの場所へと向かった。




 5


 雨が強く石畳を叩く。激しく飛び散る飛沫と音は、街をいつも通りに彩らない。しかし僕はさしてそれを気にすることもなく、ひたすらにトゲチックの行方を追っていた。
 通りの端に沿って設けられた排水溝からはついに水が溢れだし、裏通りから葉脈のように細く走っている路地は、水路と見紛うほどにその様相を変貌させていた。
 水浸しの通り道を、水脈を引きながら滑ってゆく。昨日人間とぶつかりかけた十字路を曲がり、更に街の中心部から遠ざかる。
 水がいやに重い。表通りよりは明るい色合いだったはずのこの通りは、光をほとんど遮断してしまっている鈍重な雨雲のせいか、やたらと翳っている。
「なんて……」
 暗い景色なのだろう。
 改めて思う。僕はなぜ今までこのような景色に胸を躍らせていたのか。
 わからない。どういう心情の変化だろう。さっきまで見ていた、この風景と限りなく似ている表通りを、僕は確かに素敵だと思った。ただ、気分が良くない。それだけだと思っていた。
 チョロネコに会って、僕なりに彼女の言葉を捏ね繰り回して呑み込んだら、僕の根幹が揺らいだ。
 雨の中を滑空するトゲチックを見かけたら、今度は――瓦解した。
 本当に、一瞬のことだった。あまりにも刹那的で、僕はただただ惑うことしかできない。
 雨が好きで、水溜まりが好きで、濡れた景色が好きだった僕は――この雨と共に、どこか遠くへ押し流されてしまった。
 しかし、絶望的な気分に浸るわけでも、焦燥を感じるでもなく、僕はただただ緑地帯への入り口を探していた。失った感覚は戻ってこない。
 昨日の記憶を手繰り切って、ビルとビルの間にあるごみだらけの(こみち)を発見した。通路は通るのが憚られるくらい泥濘(ぬかる)んでいて、ごみが激しく揺れる水溜まりに浮いていた。
 自分が地に這って生きていることを心底呪った。トゲチックはこんな汚い道を通らなくても緑地帯に辿り着けるというのに。
 ぐちゃぐちゃと不快な音を立てながら臭う径を抜けると、眼前に有機的な緑色が広がる。改めて見渡すと、ここはは硬く冷えた灰色の街に紛れ込むにはいささか不自然だと思う。
 別世界だ。外部と繋がる径こそあるが、完全に切り離されているといっていい。
 外の灰色の世界とここの関係は、さながら僕とトゲチックのようだった。
 僕は緑と雨の中にトゲチックを探した。
「おうい」
 彼女の白い体はどこにいても目立つ。繁った木の葉の中に隠れようと、木の幹の陰に身を潜めようと、見つけるのは容易いはずなのだ。
 しかし、辺りをぐるぐる見回しても、それらしい姿は見えなかった。
 いないのか。
 ――いなくても不思議ではない。昨日彼女とここで出会えたのは、僕がこの場所を探し当てた奇跡と、彼女がこの場所で偶然休憩していたという奇跡が重なった結果だ。
 ここへ来たのだって、勢いと勘だけだ。根拠なんてどこにもない。そもそも、まだこの雨の中を飛んでいるのかもしれない。
 空を見上げる。降るだけ降ったようで、雨脚はかなり弱まっていた。重たい雲の限りなく黒に近い灰色はほとんど消え去ってしまっていて、穴ぼこだらけになっていた。青色の点々がそこかしこに散らばり、陽の光を辛うじて通している。
 そして、その中に。
「あ……」
 ふわふわと飛翔する、純白のポケモンがいた。
 差し込んだ陽の光でトゲチックの体は反射して、うっすらと輝いて見えた。
 それがなぜかとても眩く見え、思わず目を背けようとしたが、できなかった。ずっとその光景を見ていたいという気持ちが勝っていた。
 トゲチックは、まるでワタッコのように不安定な飛行をしながら高度を下げ、僕の方へと近づいてきた。
 そして、この期に及んで逃げ出そうとしている自分に気づいた。
 遠目から見てもはっきりと分かるくらい、トゲチックはずぶ濡れになっていた。僕の挑発を宣言通り受け入れたのだ。それでいて、笑っている。
 トゲチックが土砂降りの中をどういう風に飛んでいたかは明白だった。
 トゲチックの飛び方と同様に、僕の心もふらふらとして覚束ない。逡巡しているわけではないが、ただ黙って待っていることに抵抗したかった。
 だが、そうこうしているうちにトゲチックは僕の目の前にふわりと降り立った。
「面白かったよ」
 開口一番、トゲチックは微笑みながら言った。
 水を吸って重たくなったであろう全身の羽毛から雫が垂れている。
「それは……よかったよ」
 言いたいことは色々ある筈なのに、いざ言葉を発すると全部吹き飛んでしまっていることに気づく。いったい僕は何をしにここへ来たのだろう。
「晴れた空の下もいいけれど……雨の中を飛ぶのも悪くなかった。あなたの言う通り、ね」
 素直に喜べない。あれだけトゲチックをけしかけておきながら、何も言うことができない。
 思うことは色々とあるが、それを口に出すだけの勇気がない。
「雨、止んだね」
 雲はいよいよ霧散し、抜けるような青空が広がる。
 その空を、彼女は首をぐっと持ち上げて見上げた。そして、空から降り注ぐ強すぎる光が、この緑地帯を照らした。
 どきりとした。
 彼女の肢体に纏わりつく沢山の雫が、きらきらと乱反射して、彼女の輪郭を際立たせた。綺麗で、煽情的でさえあった。思わず見惚れてしまって、
「あ……」
 変な声が出た。
「どうしたの?」
「いや……」
 本当に何も言えなくなってしまった。頭が真っ白になる。脈動が異常に速くなっている。
 落ち着いて深呼吸しようとしても、うまく息が吸えない。
「大丈夫? なんだか様子が変だよ?」
「べ、別にそんなことないよ」
 意味もなく強がるが、そんな僕は彼女の目にどう映っているのか、それだけがやけに気になった。
「本当? ならいいけど。それはそうとして、私はちゃんと雨空の下を飛んだんだから、今度はあなたの番だよ」
 不意に目を見開く。決して予想していなかったわけではないが、この時分で言われると驚いてしまう。
「私をあれだけ煽ったんだから、今更逃げちゃ駄目だからね」
 そんなつもりは毛頭ない、と言いたいところだが、はっきり言って逃げたかった。
 目の前にいるトゲチックに比べて、自分がひどく惨めであるような気がして。けれども、彼女に見惚れていたい気持ちも確かにあって、始末に負えない。
「僕の番って言われても、空なんて飛べないし」
 ふざけた言い訳で取り繕おうとしている自分が心底情けない。トゲチックがそんなことを言いたいのではないのは重々承知している。ただ、晴れた空の下に出ろと言っているのだ。
「別にあなたが飛ばなくたっていいでしょ?」
 トゲチックが僕の顔を下から覗き込むようにしたので、思わず後ずさった。
「私が乗せてあげる」
「え」
 一瞬の出来事だった。僕の体はふわりと持ち上がり――飛んだ。
「うわ、わ、ちょっと!」
 僕が狼狽えている間に、地上はどんどん遠ざかっていく。
 トゲチックは神業的な速度で僕の腹に素早く潜り込んで、そのまま僕を背中に乗せて飛んでしまったのだが、あまりにも軽々と行われた所業に、混乱を禁じ得なかった。
「じたばたしてると落ちちゃうよ? 死んじゃうかもよ?」
「降ろしてよ!」
「落ち着いてよ、もう。私の背中がそんなに嫌?」
「そういうことじゃなくて!」
「じゃあ、どういうこと?」
 文句を言っても適当にあしらわれてしまうので、僕はとうとう押し黙った。足をつける地面がないこのだだっぴろい空間の中では、何をしたって無駄なのだ。
「いいよ、もう……」
「そう? それじゃ、青空に向けて出発!」
「もう出発してるよ……」
 トゲチックの濡れそぼった体からは妙に甘い匂いに混じって、雨の匂いがした。




 6


 体をトゲチックの背中に預け、四本の足を空中に投げ出す。今まで生きてきて、足を地面につけずに過ごしたことなんてなかった。そして、空を飛んだことも。
 ただただ怖かった。不安でないことが全くなかった。
 どこで間違ったんだろう。潜り込まれる前にどうにかして回避するべきだった。今更悔やんだところで仕方がないのだけれど、悔やまずにはいられない。
 とにかく下を見ないようにしよう。一たび下を見てしまえば、トゲチックの背中から滑り落ちて、真っ逆さまに落ちていくイメージが恐ろしいほど鮮明に浮かび上がり、恐怖を増長させる。
 だからといって上を見るのも気が引けた。下は、堕ちてもそこに留まることができるからまだいい。上は――その広大さがあまりにも圧倒的で、怖い。トゲチックが、それこそ地面が見えなくなるくらいに上昇を続けたら、二度と空から帰ってこられなくなるのではないかと思う。
「どう?」
 トゲチックが唐突に話しかけてくる。
「どう、って?」
「晴れた空の下を飛ぶのも悪くないでしょ?」
 今の僕に、空や飛行を楽しむという意識は皆無だった。恐怖で、それどころじゃない。どんどん上昇しているし、速度も上がっている。
「もっと……低く飛んで……あと、ゆっくり……」
 風に負けて声がうまく出ない。
「何? 聞こえない!」
「もっと低くゆっくり飛んで!」
 声がひっくり返る。
 そして、僕の体もひっくり返って――落下した。
 トゲチックが体を一度きりもみ回転させ、そのときに僕の体が離れたのだ。
 状況が整理できないが、直感的に思った。
 死ぬ。
「ひゃあああああああ!?」
 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
 間違いなく地面とぶつかって体がばらばらになってぐしゃぐしゃに潰れて死ぬ。
 なんでこんなことに? 原因は? 僕が何か気に障ることを? 何か酷いことを?
 わからない。とりあえず死ぬことだけは理解できた。積み重ねた思い出が無意味に頭の中でフラッシュする。
 嫌だ、まだ死にたくない。お願い誰でもいいから助けて――。
「お待たせ」
 どさりと、何かの上に落ちた。
「自由落下体験、刺激的だったでしょ」
「っ!?」
 心臓が破裂しそうなくらいに怖かったのに、その物言いはあまりにも爽やかだった。
 一度僕を落とし、急降下し、落ちてくる僕を乗せる。ふざけた荒業だ。
「もう! 降ろしてよ! 降ろせ!」
「ちょ、ちょっと暴れないで!」
 もう嫌だ。空を飛ぶならまだしも、落ちるなんて話は聞いていない。
「降ろせってばあ!」
「痛い、痛い! わかったから! ごめん! 悪ふざけしすぎました、もう二度としないから!」
「本当に!?」
「本当に本当。ごめんなさい……」
 信用ならない。でも、また落ちたくはないから、下手に暴れるのは止める。
「だって、つまらなそうにしてたから……楽しんでもらいたくて……」
 彼女には彼女なりの考えがあったらしい。僕が彼女を怒らせる何かをしたわけではないようだ。それはそれで意味不明なのだけれど。
「つまんないなんて一言も言ってないよ。初めてで怖いんだから……手加減くらいしてよ」
「手加減すればいいのね」
「そうは言って……」
「見て、もう街を出たよ」
 空高く飛んでいる時点でもう街を出てしまったようなものだろう、と思いながらも地上を一瞥すると、確かに真下に街は見えなかった。
 振り返る勇気はないが、遥か後方に、僕たちを見送るように荒涼としたビル群がそびえ立っているのだろう。
 もう一度、空を見る。広漠として、青い。
 空はどこまで行っても変わる様相を見せないのに、地上の景色が流れる速度だけが速かった。
 この何もない空間にひたすら居続けていると、地上も上空も、どちらも僕の居場所ではない気がしてくる。なんだか、気持ちが不安定だ。広い空も大地も視界に入らないよう視線を水平に固定しても、心はふらふらしていた。
「どこに行こうか」
「わからないよ、そんなの」
 ふと、遠くに行ってしまった仄暗い街を思った。雑踏に蹴られ、雨がバケツをひっくり返したように降り注ぐ、最悪で最高だった街。セピア色紛いの無彩色は本当に流れ落ちてしまい、真っ白になってしまった。
 いつも曇っていた空が、今は清々しいまでに青い。――なぜこんなにも哀しい。
「トゲチックの好きな所に行けばいいよ」
 ぶっきらぼうにそう言った。
 どこにも行きたくなかったし、どこでもよかった。
「私も行きたいところなんてあんまり……空を飛べればそれでいいの」
「ああ、そう」
 速度が緩んだ。僕は目を瞑る。
 不思議と、恐怖感が和らいだ。下も上も無視してしまえば、それほど悪い心地はしない――気がした。
 僕は、この晴れた空に、何かを見つけてもいいのだろうか。それは、今までの自分に対しての裏切りになりはしないだろうか。
 雨が好きじゃないアメタマなんて、アメタマでいる資格がないも同然だと思う。だからといって晴れ空を好きになっているかというと――そういうわけではないが、今後好きになる可能性は否定できない。
 本当は、空にさらわれて、なぜかフリーフォールを体験させられて――トゲチックのせいにして理不尽に晴れた空を嫌うことだってできるのだ。だが、僕はそれをしない。
 僕の性格はもうちょっと棘があったはずだ。さっきの比にならないくらいにじたばた暴れて、無理矢理降ろしてもらうことだってできるはずだ。でも、やっぱりしない。
「静かだね。どうしたの?」
 しぼんだ心は、二度と膨らまないようだ。トゲチックの声もどこか遠い。
 目を開けてみる。地上も遠い。街はきっと地平線の彼方で、今はどこにでもある、ありふれた小さな森の上にいる。恐怖感は完全になくなっていた。
 ――嫌う理由も完全に消失した。
 黒くぼんやりとした何かがやたらとちらついているが、涙ではっきりと見えない。
 黒い――何か?
「ごめん、ちゃんと掴まって!」
 突如、トゲチックが急降下した。
「他所の縄張りに入っちゃったみたい!」
「ええ!?」
 景色が目まぐるしく変わる。トゲチックが無茶な動きで飛び回っているせいだ。多分他所様の攻撃をかわしているんだろう。僕の頭の尖りにも何かが掠めた。
 ヤミカラスだ。街にいるとき、僕の餌を横取りしてついばむ奴はほとんどこいつらだ。
 こんなところにもいるなんて、つくづく迷惑な奴らだ。もちろん生きている者同士、利害で対立することなんて数えきれないほどあるのだが、こいつらには大抵勝つことができないので嫌いだ。
「あっ」
 また掠った。トゲチックが必死に避ける。くるりと体を翻したり、旋回したり、急上昇したり。
 ――なんだか頭が痛い。顔の紅潮した人間が、変なにおいのする瓶に入った液体を僕の頭に浴びせかけてきたときに味わった気分と同じだ。
「よ……」
 酔った。そりゃこんな無茶な動きに耐えられるわけがない。
 トゲチックがきりもみ回転する。ちゃんと四本の脚を彼女の体に固定した――つもりだったのだが。
 また落ちた。するりと、あっけなく。意識は混濁していて、実際に落ちたかどうか定かではないが。
「アメタマ!」
 トゲチックの声が遠い。ああ、多分落ちてるんだな。
 なんで二回も落とすんだ。トゲチックの莫迦。いや、莫迦なのは僕か。
 このまま森に突っ込んで枝にでも刺さったら、さぞ気味の悪い死骸が出来上がるのだろうか。素直に地面に激突死するほうがまだましだ。だったらさっき死ねばよかった。いやいや、まだ死にたくはない。
 酔った頭が余計に痛くなった。
 こうなればもう、ただ祈ることしかできない。
 死ぬときは、痛くありませんように。



(続)


三か月ぶりの更新でした



感想等あればどうぞ↓

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 最初主人公がなんのポケモンなのかさっぱり分からず虫タイプのポケモン図鑑を眺めてようやく判断が付きました。
    それにしてもアメタマとトゲチックという組み合わせはなかなか見かけないので、イメージした時に新鮮な気持ちになれました。
    自分が今まで好きで当たり前だと思っていたことも、何かふとしたきっかけで考え方が変わってしまうこともあるんでしょうね。
    晴れと雨に対するそれぞれの気持ちがどう変わっていくのか。今後の展開も楽しみにしております。
    ――カゲフミ 2012-09-14 (金) 23:12:44
  • 私の小説でポケモンの種族が明かされていない場合正体を推理するのは至難の業なのかもしれません。描写が足りない! のかも。
    雨に映えるポケモンってやっぱり名に雨を冠するアメタマがベストチョイスではないかと思ったり思わなかったり。トゲチックは清純で、晴れ空が似合いそうなので選びました。
    いつものごとく心理描写を展開していく(と思う)のですが、今回は○○が好き、若しくは嫌い、といった至極単純な感情にスポットライトを当てて書いていきたいと思います。
    コメントありがとうございました。
    ――朱烏 2012-09-21 (金) 02:36:54
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Last-modified: 2012-12-19 (水) 00:00:00
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