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我が一間のメイドさん

/我が一間のメイドさん

我が一間のメイドさん 

writer――――カゲフミ

―1―

 白っぽい封筒から取り出した用紙をカイトは乱雑に机の上に放り出した。何度眺めても、目を擦ってみても結果は変わらない。
試験のそれぞれの項目でどれもきっちりと平均点を下回っている。間違いなく順位としては下から数えた方が早いだろう。
トレーナーズスクールを卒業して、エリートトレーナー養成学校に入学して半年。実家を離れての初めての土地、初めての一人暮らしに胸躍らせていたのも束の間だった。
決して少なくない量の課題と、きっちりと詰め込まれた授業に追われる日々。ポケモンバトルの奥深さを感じる一方で、思いのほか振るわない自分の成績に焦りを感じ始めていた。今回の試験はポケモンの技の知識を幅広く問うものがメインだった。基本的な技の威力やタイプの相性から、天候によって効果が変わる技、特殊なフィールドが技の威力に与える影響、等々。
カイトも努力を怠っていたつもりはない。試験期間の土日は生徒で溢れかえる学校の図書館に足を運んだりもしたし、テレビや睡眠時間を削ったりもして勉強に励んできた。
そんな彼にとってはかなり耳の痛い結果だ。自分なりに頑張っているつもりなのに結果が伴わないというのは彼の気分を落ち込ませるには十分な要因だった。
せっかくの休みの日だというのに何もやる気が起きず、床に敷いた布団の上に寝っ転がる。だらりと投げ出した右手の先に、散らばっていた空のビニール袋が触れて乾いた音を立てた。
両親の目がないから自由気ままに出来る反面、身の回りのことをすべて自分でこなさないといけないので決して楽ではない。
また洗濯物や洗い物、食べ終わった容器などが溜まってきてしまっていた。ええと、確かごみ出しの日は、明日か。
部屋を少しでもきれいにしようとする前向きな気持ちと、少しでも横になっていたいという怠惰な願望がカイトの中でぶつかり合っている。
「また今度でいいか」
 掃除の意欲はあっという間にどこかへ吹き飛ばされてしまい、彼はそのまま布団の上で居座ることを決め込む。
休みの日を無駄に過ごしている実感はあれど、どうにも体を動かすのがおっくうになってしまっていた。
そこへ鳴り響く玄関のチャイム。良く分からない勧誘の類なら居留守を使うことも考えたが、宅配便ですとドアの向こうから声が掛かれば出ないわけにはいかなかった。
「こちらにサインをお願いします」
 宅配業者の人から差し出された紙に名前を記入してドアを閉める。届いたのはコンパクトな段ボール箱だった。箱の容積の割にずいぶんと軽い。
封を開けると入っていたのは一枚の手紙と一つのボール。ゴージャスボール柄だった。手紙の差出人は書かれていなかったが無くても分かる。これは母親の字だ。
カイトは初めての一人暮らしだし、学校の勉強も大変だと思うけれど体に気を付けて頑張ってね。と、要約するとそんな感じの内容だった。
なんだか当たり障りのない言葉を選んで書かれているような気がしないでもなかったが、親からの手紙だし一応どこかにしまっておくことにする。
ついでに何か缶詰みたいな食糧でも一緒に送ってくれていればもっと助かったのだが、ここは文句を言う場面ではないだろう。
「これは」
 何となくこのゴージャスボールの柄には見覚えがある。実家から送られてきたということは、家にいるポケモンの誰かであることは察しが付く。中でもゴージャスボールに入っていたポケモンは一体くらいしかいなかったんじゃないのかな。
手紙にはとても頼りになる助っ人と書かれていたし、何となく中にいるポケモンの予想ができてしまった。カイトはとりあえず開閉スイッチを押してみる。
「お久しぶりです、お坊ちゃま」
 ボールから出てきたポケモンは恭しくお辞儀をする。目元からお腹と両手足、それ以外の部分で白と紺の体色がきれいに分かれている。
頭の両側からカールした髪のようにちょこんと飛び出している部分が目を引く。見ているこっちまで畏まってしまいそうな礼儀正しい態度は相変わらずのようだった。
「お坊ちゃまはよしてくれよ、エマ。もう子供じゃないんだから」
 久々に顔を合わせた実家からの贈り物、イエッサンのエマに渋い表情でカイトはひらひらと手を振る。
いつになっても子ども扱いされるのは覚悟はしていたが。もう父親と背丈を並べられるくらいにはなっているのにそう呼ばれると非常にむず痒いというか恥ずかしいというか。百歩譲って実家でならともかく、外では勘弁してもらいたかった。
「承知しました。ではカイト様で、よろしいでしょうか?」
「それで頼むよ」
 様付けもかなり仰々しく感じられたが、エマが仕えている相手に対して呼び捨てすることを快く思わないことを知っていた。カイトにとってはお坊ちゃまと呼び捨ての間での妥協点といったところだ。
「お久しぶりです、カイト様。少し見ない間に大きく……は、なられてませんか」
「半年くらい会わなくても変わらないって」
 トレーナーズスクールに上がりたての頃ならばともかく、カイトももう二十歳が近いのだ。半年で目に見えて背が伸びたりはしない。
まるで親戚のおばちゃんのような物言いのエマにカイトは苦笑いを交えながらもどこか安堵を覚えていたのだ。半年ぶりなのはカイトも同じ。
エマも特に変わりなく丁寧に自分に接してくれた。実家では掃除や洗濯、時には料理まで。エマは幅広く家事の手伝いをしていたポケモンだ。
もともと手先が器用で世話好きなイエッサンという種族ということもあり、両親とも彼女の働きにとても感謝していたように思える。
カイトからすれば、仕事で家を空けがちだった母親よりも台所に立っている回数が多いくらいの印象だった。
「それにしても……散らかしましたねえ」
 ぐるりと部屋を見回すようにした後、腰に手を当ててやれやれと大きなため息をつくエマ。床に落ちていたビニール袋が揺れてしまうくらいの特大なものを。
埃ひとつ残さない徹底した掃除をこなしていた彼女からすれば、この部屋の惨状はぞっとしてしまうくらいのものであるはず。
もっと小言が飛んでくるものと思いきや、ため息の後からはなにも続いてこなかった。基本的には実家での家事は母親やエマにまかせっきりだったカイトの初めての一人暮らし。
半年も経ってみればどうなっているのか、送られてくる前からある程度想像はしていたのだろう。それを見越して母親がエマをカイトの元へ届けてくれたのかもしれない。
「いやあ、学校が忙しくてさ」
 エマには言い訳がましく聞こえてしまいそうだが、すべてが嘘ではない。もちろん合間の時間を見つけてこまめに片づけをしていればこんな状況にはならなかったはず。
半分くらいはカイトの意識の問題だろう。今度は小さめのため息を零した後、エマは届いた段ボール箱の中を覗き込んで、薄ピンク色の布を取り出した。
ボールと手紙以外にも入っていたものがあったらしい。その二つに気を取られていて気が付かなかった。
「まあ、これくらいの方が片づけ甲斐がありますね。よいしょ、っと」
 段ボールから取り出したものを広げて首の後ろと腰に回して慣れた手つきで紐を結んでいくエマ。
いつも実家で見ていたエプロン姿のエマの出来上がり。家事をこなすときのスタイルだ。人間用のエプロンだとサイズが合わなかったので、母親がエマのためにあしらえたもの。
これをするとより気持ちが引き締まると彼女はよく言っていた。確かにエマがエプロンを装備すると何でもこなしてしまいそうな雰囲気が強まるし、それに。
服のデザインとしても結構似合ってるんじゃないかとカイトは思う。
「それじゃあカイト様。掃除、始めちゃいましょうか」
 表情こそにっこりとほほ笑んでいたものの、笑顔で振り返ったエマから有無を言わせない圧力のようなものをひしひしと感じて。カイトは頷くことしかできなかった。
さっきまで彼をしつこく捕まえていた布団の誘惑もエマからのプレッシャーには勝てなかったというわけだ。
無理やり布団に籠ろうとしてもエマの得意な念力でひっぺがされかねないし。昔、寝起きが悪かった時はよくそれで起こされたものだ。
「分かった。やろう」
 幸いごみ袋は買い置きがあった。ろくに有効活用できていないのでたくさん残っているはずだ。
正直なところまだあまり気は進まなかったけれど、エマが一緒にやってくれるなら一人で片づけるよりはずっと楽になるだろう。
確かに彼女に任せっきりにして自分は寝ているというのも気が引けるし。エマの手際に期待しつつ、カイトは台所の棚にしまってあったごみ袋を探しに向かったのだ。

―2―

 広げたごみ袋にカイトが放り込んだのは空の弁当の容器。調味料のソースが残っていた部分に若干カビが生えていた。
エマが目の当たりにしていたら悲鳴が上がっていたかもしれない。見つけていたのが自分でよかった。
幸いここの地区は分別がそこまでややこしくなく、燃えるごみに出せるものとそうでないものの区別がしやすかった。
エマには最初に一通りの分別方法を教えたくらいで、あとはてきぱきと片づけを進めてくれていた。おそらくカイトの倍近いスピードで次々と床の上のものを袋へ詰め込んでいく。
「空き缶やペットボトルはこっち、ですよね?」
「そう、この袋に」
 一度言っただけなのにすぐに覚えて動いてくれるエマは間違いなく頼れる助っ人、いやそれ以上の存在かもしれない。
実家で専属のメイドみたいなことをやっていたので、一般的な家事はそつなくこなす。
下手な人間のお手伝いを雇うよりよっぽど頼りになると父親が絶賛していたのを聞いたこともあった。
気が付けば空の容器などで一杯になったごみ袋が三つ並んでいた。うち一つは空き缶やペットボトルのリサイクルごみ。もう二つは空のプラスチック容器やその他の燃えるごみだった。
一人暮らし用のアパートのそこまで広くない台所スペースにこれだけのものが密集していたらしい。そりゃあエマもため息の一つや二つ、零したくなってくるか。
「これでこっちは大体片付きましたね。じゃあ次は……」
「あ、ちょっと待って」
 ドアなどで隔てられているわけではないが、部屋の中に寝室スペースがあるにはある。そのままそちらへ向かおうとしたエマをカイトは慌てて制していた。
乱雑に投げ出していた布団を丸め込むようにして畳んで開けっ放しだったクローゼットの中へ押し込んで強引に扉を閉めた。
ちょうど布団が入るだけのスペースが残っていて助かった。
「どうされました?」
「いや、布団があると床が片づけしにくいなって思ってさ」
 引きつった笑顔に取ってつけたかのような理由。さすがにエマに怪しまれてしまうかなと思いもしたが、幸いにもそれ以上追及はされなかった。
学校の課題で忙しいとはいえどカイトもまだまだ若い。そんな男性の一人暮らしとくれば、他人に見せられないような内容の本もちらほら布団の下に紛れ込んでいたりするのだ。
もちろんエマを他人とは思ってないにしても。ポケモンとは言え異性だし、実家からの付き合いも長い。見られたら見られたでカイトも気まずいのだ。
もしエマが雄だったなら、そこまで遠慮せずに布団周辺の片づけを任せられていたかもしれないが。
「そうですね。じゃ、こっちもすっきりさせちゃいましょう」
 いつの間にやら彼女の片手にはすでに空のごみ袋が握られていた。一つ作業を終わらせたと思えば、すぐに次に移れる準備が整っている。
さすがの段取りの良さ。両親がエマの家事を評価していたのも頷ける。布団を一時的に避難させてみれば、今まで気づかなかった買った商品のレシートや細かい紙くずなどが埋もれていたことが分かる。
最後に布団を畳んだのがいつだったかカイトは思い出せなかった。こうして部屋の中を振り返って見てみれば、こんなに散らかったところで生活していたのかと痛感せざるを得ないくらいだ。
エマでなくとも誰か他の人の目に触れる機会があれば、もう少し片づける意識が湧いていたかもしれない。
入学当初は何度か家で集まっていた友人たちも、自分と同じく課題や試験で忙しく最近は学校でしか顔を合わせられていなかった。
せっかく綺麗になる予定なんだし、どこかで時間を作ってまた家に呼んでも良いかもしれない。
「こっちは台所よりは早く済みそうですね」
「眠れるスペースは確保してたからな」
 いくら忙しいカイトでも、ごみの上で眠るほど堕落しきってはいなかった。布団の周辺くらいは最低限の生活ができるようにはしてあったのだ。
ごみを拾い上げながらカイトがあれこれ考えているうちに、一足先にエマはごみ袋の口を縛ってしまっていた。
結局、寝室スペースではきっちり詰め込まれたごみ袋が一つ、半分くらい容量を残したごみ袋がもう一つ。これで大方散らばっていたごみは片付いてしまった。
やはりカイトの倍くらいのペースでエマは片づけが可能らしい。彼女の能力だとこんな狭い部屋には勿体ないくらいかもしれない。
「ごみはこんなところですね。今日からはのびのびと眠れますよ、カイト様」
「そりゃどうも。とりあえず、ごみ袋はベランダに。出せる曜日が決まってて、その日にまとめて出すから」
 リサイクルごみと燃やせるごみとでは曜日が違っていた。近い方だと、燃やせるごみの回収日が明後日だったっけか。曜日が曖昧になるくらいには、まともにごみ出しをしていなかったということだ。
「分かりました。運んでおきますね」
 ベランダまで散らかした記憶はないから、ごみ袋四つ分くらいなら問題なく仮置きできるはず。
エマに続くように両手に一つずつ袋を持って、ベランダへ通じる窓の鍵を開ける。掃除で体を動かした後の外の空気が少しだけ新鮮に感じられた。
窓の外はカイトの生活圏外だったためか、ベランダは比較的綺麗な状態だ。落ち葉が何枚か紛れ込んでいるくらいで、掃除の必要性はなさそうだった。
ごみ袋を奥から順番に並べて再び窓を閉める。風も当たりにくいし、重量もあるしでどこかに飛んでいく心配はしなくてもよいはず。
「それでは、次に移りましょうか」
「え、これで終わりじゃないの?」
 とんでもない、と言わんばかりにエマは大きく首を横に振る。彼女曰く、せっかく掃除のために体を動かしているのだから今のうちにすべて片づけてしまった方が効率がいいんだとかなんとか。
ようやく一休みできると思っていたところにエマから熱心に家事の何たるかを説かれてカイトは肩を竦めるばかり。
とはいえ、確かにエマの言い分は理にかなっているような気がしていた。最初は掃除に対して腰が重かったカイトも、床のごみと格闘しているうちに段々と気持ちが部屋を綺麗にする方へと傾いてきたことは事実。
何より今まで実家でも家事を積み重ねてきたエマが経験に基づいてそう言うのだ。話の根拠はともかくそんなに間違ってはいないはずだ。仕方ない、もう少し付き合うか。
「分かったよ……次は何をするんだい?」
「私は流し台に溜まっていた食器を洗います。カイト様は洗濯籠に山積みになっていた服を」
 自分の行き届いていなかった部分を的確に指摘されてぐうの音も出ない。食器も服もどちらも洗えずに積み上がっていて、嫌でも目に付く状態だ。
徹底して家事を行うエマが気づかないはずがない。どちらもカイトが最近まともにこなせていなかった家事である。
実家とこの家とでは広さに違いはあれど洗い物に関してはやることは基本的に同じ。しかし、洗濯物となれば一人暮らし用の小さな洗濯機で性能も操作方法も実家のものとは勝手が違う。
さすがのエマも使ったことのない機械の操作まで把握しているわけではなく、ここは慣れているカイトが洗濯に徹したほうが効率が良いと判断をしたのだろう。
どうすれば部屋が早く片付くかをしっかり考えて行動している彼女にカイトが感心している間にも、エマは水道の蛇口を捻って洗い物に取り掛かろうとしている。
洗濯物の量を考えるとあんまりもたもたしている時間はなさそうだった。カイトは洗濯機の蓋を開けて中に衣類を放り込む。洗濯機を回して一回で終わるぎりぎりの量だった。
少々詰め込みすぎだったかもしれないが、この際細かいことは気にしていられなかった。色落ちするものや手洗いが必要な面倒な服はカイトは買った記憶がなかったので、そのままで問題ない。
水の量を最大に指定して洗剤を流し込むと洗濯開始のボタンを押す。これで一応は完了だ。後で干さなければならないが、洗濯物が出来上がるまでは待つ必要がある。
一仕事終えた気分になったカイトが台所のエマの方へちらりと目をやると、軽く鼻歌まで交えながら洗い終えたものを食器入れの中へ立て掛けているところだった。
食べた後の片づけなんてそんなに楽しいものでもないと思うのだけれど、エマにとっては違うんだろうか。そういえば、古いやつは放置してから何日も経っていた食器があった気がする。
洗い桶に水を張って付けるだけ付けていたから弁当の容器みたいなことはないとは思うが、あまり自信はない。
気分の良さそうなエマの鼻歌の中に叫び声が混じらないようにカイトは心の中でひっそりと手を合わせたのだった。

―3―

 エマの食器洗いは思っていたよりは滞りなく終わってくれた。ただ、洗濯が完了するまで空白の時間が出来てしまうことはカイトの盲点だった。
夕飯の食材をチェックしようとしたエマに冷蔵庫を開けられてしまったが最後。ベランダ行きのごみ袋が一つ増える結果となってしまったのだ。
中身は賞味期限切れの傷んだ野菜や飲料、作り置きしてそのままになっていたかつて料理だったもの等。それらを片づけるエマの視線が刺さって非常に心苦しかった。
思い返してみれば最近ろくに冷蔵庫を開け閉めしていなかった気がする。買ってくる食材は基本的に保管せずにすぐ食べられるものばかりだったし。
結局冷蔵庫の中には日持ちする調味料くらいしかまともな食材がなかったため、エマと一緒に近所のスーパーマーケットに駆り出されたというわけだった。
さすがに買い物までエマに任せっきりにはできないのでカイトも付き添っている。入り口の自動ドアに引っかからないサイズであればポケモン同伴でも可能なのがこのスーパーの特徴だった。
すれ違う買い物客の中にも、隣にポケモンを連れて歩いている人も少なくはない。最近はコンビニや外食に頼りがちで、スーパーに足を運ぶのも久しぶりな気がした。
ちゃんと食材を買って作ったほうが安上がりになると頭では理解していても、準備や片づけの手間を考えると結局面倒になってコンビニ弁当で済ませてしまうことが多くなっている。
「今夜は私が腕によりをかけて作りますから、楽しみにしていてくださいね」
 カイトの提げている買い物かごの中にはニンジンとジャガイモ、そして新たにタマネギが放り込まれた。何だかお馴染みの顔ぶれだ。
エマが思い描いているメニューは何となくカイトにも想像ができてしまう。彼女の出身地であるガラルで広く食されているあの料理だろう。
休みの日で外へ出かける気分になっていなかったため、カイトにとっては近所のスーパーでもなかなか腰の重い話ではあったが。
久しぶりにエマの作った料理が食べられるとなれば、少なからず楽しみにしてしまっている自分がいることも事実だった。
「期待しておくよ」
 適当な相槌ではなく、割と本心からのカイトの言葉だった。彼がイメージする実家の味の半分くらいはエマの手料理が占めている。
料理のやり方は母親から教わったと聞いていたが、同じメニューでも彼女なりのアレンジが入ったりしていて微妙に味が違うのである。
どちらが良くてどちらが悪いかと単純に評価できるものではなく、母親の料理もエマの料理もカイトからすればほっと安心できる故郷の味なのだ。
野菜の他にも見たこともないような香辛料など、カイト一人では絶対に買わないような調味料もいつの間にか紛れ込んでいた。
もちろんエマはお金なんて持っていないので払うのはカイトの財布からである。まあ、生活費のほとんどは実家からの仕送りに頼っているのでそれほど損をしている気分にはならなかったが。
せっかくスーパーに来たついでに、少なくなったごみ袋やその他ティッシュペーパーや洗剤など日用品を一通り買いそろえたので結構な量の荷物になってしまった。
レジを通しているうちに思っていたよりも金額が重なっていて足りるかどうかで嫌な汗をかいた。近いうちにお金を下ろしておいた方が良さそうだ。
帰り道、カイトの両手に買い物袋が二つ。エマの手に買い物袋が一つ。多くなった荷物も一緒に持てば少し楽だった。
そういえばエマと買い物に行ったのっていつが最後だっただろう。迷子にならないように手をつないでくれたような記憶がある。
少し恥ずかしかったけど、はぐれるのは嫌だし渋々手を握ったんだったっけか。気が付けば隣を歩くエマよりもカイトの視線はずいぶん高くなってしまっていた。
「どうしました、カイト様?」
 何歩か先へ進んでしまっていたエマが振り返り、不思議そうにこちらを見つめている。変わらないな、エマは。いつでも自分たち家族のことを気に掛けてくれている。
「いや、何でもないよ」
 思い出に浸って足が止まってしまうなんて、歳は取りたくないなと心の中で苦笑しながらカイトは再び歩みを進めたのだ。

 ◇

 食料品以外を片づけてから夕飯の材料をキッチンに並べていく。買った野菜と香辛料、そしてカレーのルー。作る前からメニューが分かってしまうのは仕方がない。
米だけ洗って炊飯器にかけた後はエマに任せていた。一応カイトも手伝おうとはしたが、洗濯ができているのでそっちを片づけましょうと遠回しに断られてしまったのだ。
腕によりをかける、と自分で言うくらいだ。最初から全部やるつもりだったのかもしれない。エマがその気ならそれでいい。
慣れていないカイトが無理して加わるよりは、エマだけで準備したほうがカレーがおいしく出来上がる可能性が高いだろう。
仕上がった洗濯物を干しているので、カイトもさぼっている後ろめたさは感じない。服をハンガーに引っ掛けている間に晩御飯の支度が進んでくれるのはとても助かる。
積みあがった服の山が半分くらいになった辺りで、おいしそうな香りが部屋の中に漂いだす。エプロンを付けてお玉を片手に鍋を混ぜるエマの後ろ姿がとても様になっていた。
実家だとキッチンまで少し距離があったので、母親やエマが直接料理しているところをあまり見たことがなかったのだ。
包丁やコンロの火など、慣れていなければ難しいであろう調理器具も問題なく使いこなしている。本当に実家から母親が出張して来てくれたといっても過言ではないくらい。
「カイト様。こちらは大丈夫ですから、そっちをお願いしますね」
「あ、ああ」
 洗濯物を干す手が止まっていたのをエマに諫められる。背中に目でも付いているのだろうか。隙がない。カイトは再び手を動かす。カレーが完成するまでには全部干してしまわなくては。

 炊きあがったほかほかのご飯の上に鍋のカレーを掛けて夕飯の完成だ。野菜の大きさもきれいに揃っている、エマの手作りカレー。見た目からして既に美味しそうだった。
最近はポケモンでも食べられるカレーのルーが開発されて一緒のメニューを食べられるようになっている。もちろんエマも自分で作った料理を確かめられるというわけだ。
食事の幅が広がるのはポケモンと生活しているトレーナーにしてもありがたいこと。机の上にはカイトとエマのカレー皿が二つ並んでいた。
あまり誰かと家で食事することを想定していなかったので皿の大きさは不揃いだったが、カレーを盛りつけられればそれで十分だ。
「どうぞ、カイト様」
「それじゃあ、いただきます」
 カイトは手を合わせてから、スプーンですくってゆっくりと口へと運ぶ。瞬間、カレーの旨味と香りが一気に口の中へ広がった。
そこはかとなく実家を思い出す味。久しく手作りの料理なんて食べられていなかったから、なんだか懐かしい気分にさえなってくる。
出来立てのカレーとご飯が程よく絡み合ってお互いの風味をよく引き立てていて、旨い。何度か作ったお湯で温めるだけのレトルトのものとは比べ物にならない味。
文句なしで美味しいエマお手製のカレーだった。一口食べただけだというのにとても満足したように、無意識のうちにカイトはスプーンを机の上に置いていた。
きっと、このまま次々とこのカレーを食べ進めてしまうのがもったいなく感じてしまったのだと思う。
「お口に合いましたか?」
 カイトに問いかけはしていたものの、エマの口調に不安は感じられない。分かったうえであえて聞いてきているような雰囲気だった。
「とても。安心して食べられるエマの料理だ」
 香辛料の風味も微かに感じられたが舌を突き刺すような辛さはない。辛いものが苦手なカイトに合わせて味付けを選んでくれていたのだろう。
そんなところからも細かな気配りが窺えるエマのカレー。再びスプーンを手に取ってカイトは口へ運んでいた。
「ふふ、よかったです」
 言いながらエマも自分で作ったカレーを食べ始める。何度か口をもぐもぐとさせて、やがて納得したようにうんうんと頷く。
表情から察するに、我ながら上出来と言った感じだろうか。初めて挑戦する料理ならともかく、これまでにエマが調理を積み重ねてきたカレーなのだ。
普通に作れば安定した味に仕上がりそうなものだが。まともに料理をしていないカイトには分からない、彼女のこだわりのようなものがあるのかもしれない。
こうやって誰かと会話しながら食べる夕飯も久々だった。基本的には外食ばかりになっていたし、買って帰って食べるときもたまにテレビの音があるくらいなもの。
こちらに来るなりエマに掃除を切り出されたときは煩わしく感じていたのも事実。結局、彼女の押しに負けて渋々掃除をすることにはなった。
続いて買い物に駆り出され、重い腰を上げて。ただ、そのおかげでこんなにおいしいカレーが食べられたと考えると買い出しに行った価値は十分すぎるくらいあった。
何よりも、久しぶりにエマと一緒に食事ができて安心できたというか嬉しかったというか。直接言葉に出してしまうのは少し恥ずかしい気持ちがカイトの心の中に。
エスパータイプのエマがどこまで相手の感情を読み取れるのかは定かではないが、すべて筒抜けというわけでもなさそうだ。
とりあえず感謝を伝えるのは食べ終わってからでもいいかなと思いつつ、カイトはスプーンで掬ったカレーと一緒に湧き上がってきた照れ臭さを飲み込んだのだった。

―4―

 天候が晴れだった場合、最も命中率の高い技は次のうちどれか。でんげきはの技を使った場合、最も威力の高くなるポケモンを次のうちから選びなさい。
食後、机に向かってカイトはテキストの文字を追いかけていく。休日の夕食の後ともなると何となくテレビでも見ながらだらだらしてしまいがちなもの。
しかし今日はエマの目もある。片づけは私に任せてカイト様はお勉強の方を頑張ってくださいなどとあらかじめ釘を刺されると、嫌でも机に向かわざるを得なかった。
確かに家事をやってくれているエマを後目に、自分だけ何もせずにごろごろしているのは何となく居心地が良くない。
こうやってテキストとにらめっこしながら、先日の授業のおさらいでもしていた方がずっと気が楽だった。とはいえ、内容が頭に入ってくるかどうかは別問題。
選択肢のある問題はまだいい。自分で答えを記述する問題となると途端に正答率が低くなる。きっとこの辺りで成績上位者と差が出てくるんだろうなと思いながらも。
すぐに読んで理解できないものはなかなか頭に入ってこない。繰り返し繰り返し読んでいるとなんだか頭が痛くなってくるようで。
「カイト様、少し休憩なさいますか?」
 文章を追いかけることに集中しすぎていて、いつの間にか食器洗いを終わらせていたエマが近づいてきたことにも気づかなかった。
心配されるくらいかなり難しい表情をしていたらしい。彼女の手にはお盆が持たれていて、淹れたてのお茶から湯気が立っていた。
お茶の買い置きなんてしていたかな。もしかすると夕方の買い物のときにエマがひっそりと買い物かごに追加していたのかもしれない。
それはそれとして、このタイミングでの温かいお茶はありがたい。ちょうど煮詰まってきたところだし、休憩を挟むか。
「貰うよ」
 この家にもともと湯飲みがなかったので、カップに淹れられたお茶。容器は少しミスマッチではあったが、飲んでしまえば同じこと。
カイトはお盆から受け取ると、冷ましながらお茶を味わった。自分でわざわざお茶を買ってまで淹れたりはしないので、新鮮だ。
温かさとほろ苦さが、無機質なテキストの文字で固められたカイトの表情を解きほぐしてくれているかのようだった。
エマのタイミングの良さもあってか、何だか心に染みわたる。別段高級というわけでもない、ありふれたスーパーのお茶なのに不思議と美味しく感じられたのだ。
「一息入れてから、またがんばってください。旦那様も奥様も応援されていましたよ」
 そうか。最近あんまり電話もできていないけど、父も母も元気でやっているらしい。正直、頑張れというのはあまりカイトにとってあまり気の進まない言葉ではあったが。
浮かんできた迷いを振り払うかのように、残りのお茶を一気に飲み干す。とりあえず今は目の前のテキストを片づけることに集中しよう。
「……分かってる。ありがとう、エマ」
 机に腰を下ろしてエマはにっこりとほほ笑んだ。両親もエマもカイトの成績が振るっていないことはまだ知らないはずだ。
カイトの学校はちょうど半年区切りで成績の判定がある。カイトが試験でどんな結果を収めているかは実家にも書類が届くので隠していても意味はない。
ただ、今の段階でむやみにエマに話すようなことでもないかなと思えたのだ。せっかく応援してくれている彼女の気持ちを無碍にしてしまうような気がして。
再びテキストに意識を向けることで余計なことを考えないようにした。飾り気のない冷たい黒文字の印刷がカイトの意識を問題へと誘っていく。

 ◇

「湯加減はいかがでした?」
「ちょうどよかった。でも、良く分かったな」
 いつの間にかエマが風呂を沸かしてくれていた。実家のものと勝手も違うのに雰囲気でやってみたら行けたとのことだ。さすが、というべきか。
まあ、あまり無茶をすると取り返しのつかないことになってはいけないので、チャレンジもほどほどにしてほしいところではある。
普段はシャワーで済ませることが多いのだが、せっかく湯を張ってくれていたのでカイトは湯舟に浸かることにしたのだ。
やはりじっくりと体を温めたほうが疲れは取れるような気がする。毎日やっているとガス代がけっこう嵩んでしまうので、そこは生活費との相談になるが。
「蛇口を捻ればお湯が出たのでたぶんこれだと思いました」
 お湯張りが成功したのはエスパータイプの勘とでも言うべきなのか。合っていたからよかったものの、間違っていたらどうするつもりだったのだろう。
胸を張って言うエマに苦笑するカイト。とりあえずは、温かいお湯にありつけたので今回は良しとすることにしよう。
「布団、敷いておきましたよ。明日から学校ですよね、早めにお休みになってください」
 次から次へと。本当に良く気が回ることだ。自分じゃなく誰かのためにここまで。イエッサンという種族柄のことなのかもしれないけれど、感謝しか湧いてこない。
床を掃除していたので机があっても布団を敷くスペースは十分にある。やはり片づけをしておくと家の中での行動がスムーズに進むことをカイトは改めて実感した。
敷布団から掛布団まできっちりと敷き詰められた様子を見て、カイトはふと重大なことを思い出す。最初にエマをこちらの部屋に入れたときのことだ。
あのとき、確か布団を押し入れにしまったときに慌てて隠した、本が。毛布と布団の間に押し込むようにして無理やり隠したはずだ。
布団を敷いたがエマなのだから気づいてないはずがない、よな。風呂上がりで温まっていたカイトの額に冷や汗が湧き上がってくるような気がした。
間違いなくエマにはばれていると思うが、言及をしてこないのは気遣いからなのか。本の内容は至って普通の、普通のと言えば語弊があるか。
一般的な女性の裸体が散りばめられているようなそういった内容の本。まあ、異性に見せるべきでない内容であることには間違いない。
「あ、本のことでしたらお気になさらず。カイト様ももう子供ではありませんものね」
 いつもと変わらない柔和な笑顔のままのエマ。逆にその表情の向こうで何を感じているのか、それ以上は恐ろしくて聞き出せなかった。
心のデリケートな部分をさっくりと切り込まれたようでカイトは返す言葉が出てこない。そりゃまあ子供ではないから本を入手するときの制限には引っかからなかったわけなのだが。
「それ、どこに置いた?」
「一応、この机に」
 艶やかな表紙の方が上に向けられていて、なんだか公開処刑されているかのような気分だった。乱雑に本をつかみ取ると、適当な何段目かの引き出しの中へ押し込んだ。
道端に捨てられていた成人向けの本をこっそり家に持ち込んで隠していたら、掃除していた母親に見つかって机の上に置かれていた遠い昔のことを思い出した。
布団と一緒にクローゼットに押し込んだからといって安心せずに、エマがあれこれ部屋の中の物を動かしてしまうことを予測しておくべきだったな。
「……あまり、触れない方がよかったですか。でも、私は気にしてませんから」
「エマが気にしなくてもさ、俺が気にするんだよ」
 エスパータイプなんだから、相手の心を読み取るのは得意なはず。だけど、これをすれば相手がどう思うかまで推測するのはそんなに得意ではないみたいだ。
カイトとエマとでは種族も性別も違うし、価値観や考え方もそれぞれのものがあるだろうからすべてを理解してもらおうとするのは無理な話。
そこらあたりはお互いの気持ちを直接伝えて認識していくしかない。まさかカイトがここまで不快感を露わにするとは予想だにしていなかったのか、エマは困惑気味だ。
「私の配慮が至らなかったばっかりに。申し訳ございません……カイト様」
「いいよ、もう」
 深々と頭を下げられてもそれはそれで居心地が悪い。そこまで強く攻め立てているつもりはなかった。ただ、カイトのプライバシー的なものを少しだけ配慮してほしかっただけ。
「布団、敷いてくれてありがとう。明日も早いし俺はもう寝るよ。エマも休むといい」
 エマのゴージャスボールは宅配便と一緒に届いた段ボール箱の中。布団は一人分しかない。エマに休んでもらうなら必然的にボールに戻ってもらうことになる。
ボールの種類を問わず、開閉スイッチを押せば自分の意思で中に戻ることはできるようになっている。逆に、外に出るのは誰かがスイッチを押す必要があるが。
「……分かりました。お休みなさいませ、カイト様」
 小さくお辞儀をした後、エマはとぼとぼと台所へ歩いて行きボールの中へ戻っていった。その背中が寂しそうに見えたのはきっと気のせいではない。
エマとは短い付き合いではないしお互いのことはそれなりに理解しているつもりではある。実家では父も母もいてくれた。だがここではエマと一対一。
自分のためにあれこれと世話を焼いてくれるのは非常にありがたくはあるが、あまりにも距離が近すぎるのも良いことばかりではない。
まあ、明日が月曜日という憂鬱さから少しは気が紛れるのは考え事を作ってくれたエマのおかげでもある。
やや硬めの敷布団の感触と一緒に、何となく釈然としないものを感じながらも。カイトは布団の中に潜り込んで目を閉じたのだ。

―5―

 カイトが学校に行っている間、エマはゴージャスボールの中でお留守番。持っていくことも考えてはみたものの、授業の合間ではばたばたしていて落ち着いて話す時間もとれそうにないし。
ポケモンバトルが授業の課題の場合でもそれぞれの生徒の間で不公平にならないようにと、学校側が用意したポケモンを使用するので基本的に手持ちポケモンの出番はない。
そういえば、エマが戦っているところって見た記憶がないような気がする。イエッサンならば基本的なエスパー技くらいは使えたりするのだろうか。
昔、実家で階段から落ちそうになった父親を咄嗟のサイコパワーで支えていたことがあったから、結構ポテンシャルは高いのかもしれない。
カイトが家に帰ってきてからは、身の回りのことを手伝ってもらうためにボールから出てきてもらう。エマが来て数日間で、下宿先の生活レベルは驚くほど上昇していた。
なかなかのレパートリーでちゃんとした料理を作ってくれるので、スーパーでの買い出し費用が嵩むのが玉に瑕ではあったが。
カイトがこれまで外食やコンビニで済ませていた分がそちらへ流れていると考えればそこまで差はないような気がした。
見つかってしまった本のことにはあの日以来お互いに触れていない。引っぱり出せば気まずくなってしまう話題をわざわざ持ち上げなくても良い。
エマは察しがいいからきっとそう考えているはず。彼女がそうしたいなら、カイトも準じるつもりではあった。今のままでも生活に不便を感じないならそれで。
家に帰ればエマが居てくれるという感覚にも大分慣れてきたある日のこと。玄関の鍵を開けて家に入ったカイトの足取りはいつにも増して重かった。
ドアを閉めてから棚の上に置いてあったゴージャスボールに手を掛ける。一瞬開くかどうか迷ってしまったが、半ば無意識にカイトの指は開閉スイッチを押していた。
「おかえりなさいませ、カイト様」
 もう何度その台詞を聞いただろうか。変わりない笑顔で迎えてくれるエマ。今の自分にはその微笑みが眩しすぎて直視できずにいた。普段通りの振る舞いが難しいときだってある。
「ただいま……」
「あの、どうかなさいましたか。お元気がないように見えます」
「いや、何でもないよ」
 嘘だった。何でもないはずがない。声のトーンも低く、表情も暗くうつむきがちで。こんなに分かりやすい嘘、エマの前では一瞬で見抜かれてしまうことくらいカイトには分かっていた。
「それなら良いのですが。本当に大丈夫ですか……?」
 間違いなくカイトが何らかの無理をしているとエマには当然伝わっている。あえて聞き出そうとしなかったのは、きっと自ら話そうとしない彼を気遣ってのこと。
カイトもその対応で問題ないと思っていた。もしちゃんと事情を伝えていたとすれば、献身的に自分を支えようとしてくれることだろう。
あれこれ手を差し伸べられてもそれを受け取るだけの余裕がない。突き放すような態度を取って傷つけてしまうなら、今のところはそっとしておいてくれたほうがいい。
「ちょっと疲れただけだ。今日は早めに休むよ」
 小さくため息をついて靴を脱ぎ、カイトは家に上がる。これは半分くらいは本当だった。ちょっと、というと語弊があるかもしれないが。
鞄を置いて、ごそごそと部屋着に着替えていく。いつの間にか下着姿くらいならばエマに晒してしまうのが気にならなくなってしまっていた。
最初は何となく気恥ずかしさのようなものはあったが、彼女の方が全くと言っていいほど意識していないようなのでカイトの羞恥心も徐々に薄れてきていたのだ。
脱いだ服はその辺に投げ出さずにちゃんと洗濯機の中へ入れるのを忘れずに。一人でいるならともかく、こちらはエマの目を気にしなければならない。
カイトの調子が良くなさそうであっても、家事に繋がることに関してならばエマはきっちりしているだろうから。
「お疲れでしたら、私がマッサージでもして差し上げましょうか?」
 ぱっと両手を開いて見せてくれるエマ。イエッサンに三本の指があるのは知っている。人間より指の数が少ないのに、家事を器用にこなしてしまうことも。
カイトがいつもの調子であれば、大きなお世話だなと思いながらやんわりと断っていたであろう事柄。気持ちだけ受け取っておく、に留まっていただろう。
しかし、疲弊していたところへ寄り添ってくれる言葉は何時にも増してありがたく感じられるもの。それくらいなら、エマに甘えてしまってもいいかもしれない。
掃除に洗濯に料理まで。既に十分甘えてしまっているという後ろめたさは多少あったものの。今回ばかりは、カイトも彼女の笑顔に引き寄せられてしまう。
「そうだね……じゃあ、夕飯の後にでも頼めるかい?」
「承知しました。では、まず食事の準備をいたしますね」
 机の上に畳んでいたエプロンをいつものように結んでいく。こまめに洗濯をしているので汚れは残っておらず、ピンク色の布地はしゃっきりとしている。
まるで、エマのてきぱきとした意識がエプロンにも映っているかのようだった。そういえば、カイトの承諾に意外だなという顔はしなかった。
どこかで受け入れてもらえるという確信があったのだろうか。正直なところ、エマがどこまで相手の心を読み取るのかは分からない。
だけど今は大した問題じゃない。エマの厚意をカイトは受け取った、それだけのことだったのだから。

 ◇

 今日の夕飯はシチューだった。ルーを使って作る部分はカレーと似通っている。違うのは味と入れる食材と、ご飯に掛けて食べるかどうかくらいの認識。
作り置きが可能で、多めに作っておけば次の日も食べられると料理を作るエマとしてもありがたい料理。
カレーと合わせてルーの種類を変えたりして、何種類かの煮込み料理のローテーションを考えているらしい。合理的だった。
もちろん、味の方はメニューは違えど安心して食べられるエマの料理。このホワイトシチューは二日目のもの。一日目よりコクが出て味に深みが増している。
はずなのだけれど。何だかあんまりおいしさが分からなかった。おかしいな、昨日はちゃんと口の中で具材とルーの味わいを感じたのに。
これも疲労感のせいなのだとしたら、早めに解消しておいた方がよさそうだ。せっかく作ってくれた料理をしっかりと味わえないのは残念だし。
何よりも作ってくれているエマへの申し訳なさが先に出てくる。これはマッサージを頼んでおいて正解だったかもしれない。
「……ごちそうさま。美味しかったよ」
「しっかり食べて、栄養つけてくださいね」
 食べ終わった食器を持っていこうとしたのだがエマにすっと片づけられてしまった。洗い物はエマに任せていても、食器くらいは普段から持って行っているのだが。
カイトが疲れているようだから、自分がたくさん動いて無理をさせないように気遣っているつもりなのだろうか。細かいところまでよく気が回るものだ。
手早く洗い物を済ませたエマから、布団の上にうつ伏せに寝転がるように促された。掛布団を横の方へよけてからカイトは敷布団の上に横たわった。
「どの辺りがこっているとかありますか?」
「いや、特には」
 取り立ててどこが違和感があるとかは特にない。普段からそこまで肩こりを意識したこともなかった。強いて言うならば今は全体的に何となく気だるさがあるくらいだ。
「そうですか。では肩の方から順番に行きますね」
 首元のすぐ下。肩の部分にエマの指の感触が伝わってきた。やみくもに指圧するのではなくどの部分へ力を籠めればよいのか分かっているような雰囲気があった。
繰り返し肩の辺りにもみほぐしと指圧を受けることですっと背中が軽くなったような気がしてくる。家事だけじゃなくてマッサージの心得まであったとは。
逆に何が出来ないのかが気になってくるくらい。妙に手馴れている感じがあるし、父親も母親も仕事で疲れて帰ってきたときにエマに頼んでいたのかもしれない。
「もし、痛いところがあれば言ってくださいね」
「大丈夫だ。ありがとう、エマ」
 徐々に背中から腰の辺りへエマの手が動いていく。服越しなのであまり体温は伝わってこないはずなのに、カイトは不思議と温かさを感じていた。
目を閉じているとそのまま眠ってしまいそうなくらいの心地よさ。この部屋でこんなにリラックスできる瞬間があるだなんて思いもしなかった。
本当に自分には勿体ないくらいの良くできたメイドさんだ。何から何まで頼ってばかりという負い目はあったものの、今は彼女からの癒しに唯々カイトは身を任せていた。

―6―

 結局、腰から下のふくらはぎや足先まで。ほぼ全身をエマのマッサージの世話になってしまった。
体が凝っている自覚はなかったのだが、布団から体を起こしたときの軽さがまるで違うことにカイトは驚いていた。
これまでは見えない重りを肩や腰にぶら下げて歩いていたと錯覚してしまいそうなくらい。立ち上がった時の体の動きがスムーズだったのだ。
「何か……慣れてる?」
「メイドの嗜みですよ。ふふ」
 自信ありげにほほ笑まれると、カイトも返す言葉がない。本格的に学んだわけじゃなくて嗜みでここまでこなせるなら大したもの。
もちろん、それは他の家事全般にも言えることだったが。それくらいエマの仕事には隙が無いように感じていた。きっとエマ自身も楽しんでやっているのだろう。
「すっきりしたし、このまま風呂に入って休むよ」
「はい。今日はゆっくりお休みください」
 マッサージを始める前に、終わったらすぐ湯に浸かれるようにとエマに頼んでおいたのだ。タイミング的にはちょうどお湯張りが終わったくらいだろう。
風呂場の前で服を脱ごうとして、おもむろにカイトはエマの方を見やる。彼女は別にこちらを向いているわけでもなく、カイトが寝るときのために布団を整えてくれていた。
本当に身の回りの世話に関しては非の打ち所がないような働きを見せてくれる。あれこれ次の手順を説明しなくても自発的に動いてくれるし、基本的に動作に無駄がない。
細かく頼まなくても自分のために尽くしてくれているエマ。もし頼んだらどこまでやってくれるんだろうかという考えが、ふとカイトの頭を過った。
「なあ、エマ」
「どうしました?」
「久しぶりにさ、背中流してくれないか?」
「えっ」
 引っ張っていた掛布団から手が離れる。エマの驚いた顔。エマでもこんな表情することがあるのかと、新しい発見ができた。
確かにエマと一緒に風呂に入ったことはあるが、もう十年以上前の話。エマはそれほど見た目の変化がないから分からないが、カイトはずっと成長してきている。
気持ちの面でも捉え方は昔とは違ってくるだろう。カイトの真意が分からず戸惑っている様子ではあったが、彼女の口から出てきたのは承諾の言葉だったのだ。
「承知しました、カイト様」
 ぺこりと頭を下げたエマの顔つきはいつものそれに戻っていた。思いがけないであろうカイトの提案に、内面では何を感じているのか読み取れない。
それでもいい。エマが受け入れてくれるなら今回はそれに乗っかってみるだけだ。じゃあ頼むよと言いながらカイトは部屋着からズボンも下着も脱いで何も纏わない姿になる。
パンツを下ろすときに若干の抵抗はあったが、思い切って。全裸の状態をエマに晒すのはさすがに初めてだった。
下宿を始めてから食生活が貧相になりがちだったので以前より若干痩せていたかもしれない。彼の裸の姿を見ても、エマの表情は変わっていないように見えた。
恥ずかしがったり、目をそらしたりしてくれたらちょっと可愛かったかもしれないのに。と、こんなことを期待して頼んだわけじゃないんだった。
風呂場の入り口を開けて風呂用の椅子にカイトは腰を下ろす。簡単にかけ湯をしてから洗面器にお湯を張って、斜め後ろ辺りに置いた。だいたいエマが手に取りやすい位置。
実家と比べてしまうと大分狭い風呂場ではあるが、どうにか後ろでエマが作業出来るくらいのスペースはあった。ドアを締め切ると本当にぎりぎりではあったが。
「では、失礼しますね」
 体用のスポンジを手に取ると、エマはボディソープを含ませて両手で包んで泡立てる。久々なのにも関わらず、体を洗う手順は記憶しているのか手際が良い。
肩の上の方から順番にカイトの背中を擦っていく。わしゃわしゃと泡の感触が心地よい。強すぎず弱すぎず程よい力加減。
くすぐったくて動き回るカイトにじっとしててくださいと困りながら声を掛けてくれたエマ。随分と前、一緒に風呂に入っていた前のことをカイトはぼんやりと思い出す。
「大きくなられましたね、カイト様。お背中、とても広く感じられます」
「そう……かな」
 十年近く経てばさすがに体は成長する。だけど、心の方はどうだろうか。自分の思い通りにいかなくても挫けない強さ。困難に直面しても立ち向かえる強さ。正直、今の自分には。
献身してくれているエマの優しい手つきがかえって心苦しさに繋がっていった。泡の付いた背中を洗い流されても、カイトのもやもやした気持ちはそのままだった。
「ついでに前も洗ってくれるか?」
「えっ」
 背後のエマの動きが止まったのが分かる。背中に目はついていないが、気配と雰囲気で。
「あの、カイト様、それは……」
 前面に回ればどういうことになるか、さすがのエマも分からないはずはない。前、という表現しかしなかったが首元やお腹だけではなく、もっと下の方もという認識だろう。
ただ見るだけならともかくスポンジ越しにしても直接触れるとなると、いくら彼女でも躊躇いが生まれるのは当然のことだった。
実家で一緒に湯舟に浸かっていたあの頃とは違う。カイトももう、子供ではない。それは彼に長らく付き添ってきたエマが一番良く知っていることだ。
「悪い悪い、冗談だよ」
 カイトはそのまま立ち上がって湯舟に浸かる。最初にお湯を汲んだ時は少々熱く感じたが、背中を流してもらっている間にちょうど良い湯加減になっていたようだ。
風呂に浸かったままカイトがありがとうと礼を言うと、恭しく一礼をしてからエマは風呂場を出ていった。彼女がどんな顔をしていたのか、目を合わせる自信がなかった。
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。笑えるような冗談で済ますにはあまり質の良いものでないことは確かだ。
いつも澄ました表情のエマを困らせてやりたかったのか、その反応を見て楽しんでみたかったのか。正直、自分でも自分の行動が良く分からなかった。
「エマ……」
 ぼうっと天井を見上げてカイトは目を閉じ、大きく息をつく。何をやってるんだか。リラックスするための入浴なのに、自ら心配事を増やしてしまったようなもの。
せっかくマッサージで軽くなった体がまた重くなってしまう。とりあえず頭を洗って風呂から出たら、さっきのことを謝ろう。とにかくそれからだ。
きっとカイトが何も言わなければ、本が見つかってしまったときみたいにエマは波風立てずに済まそうとしてくれるはず。
エマの方はそれでいいかもしれない。だけど今度ばかりはカイトの方が気になって、眠れなくなってしまいそうだったから。

 ◇

 バスタオルで体を拭いて再び部屋着に着替えてから、カイトは布団の上に腰を下ろした。枕と掛布団を整えるだけで干してもいないのに布団が新しくなったように感じられる。
エマの方はと言うと、机越しに黙ったままカイトの方を見つめているようだった。やはりさっきの彼の発言に対して、エマ自身思うところはあったのだろう。
ただ、どうも普段と様子の違うカイトに踏み込んで聞いていいのかどうか迷っている、そんなところか。カイトはエスパータイプでなくとも、エマは付き合いの長い相手。
未だにちゃんと目を合わせられずにいてもそれくらいは察しが付いた。ずっと黙ったまま掛布団の模様ばかり見つめていても仕方がない。カイトは顔を上げる。
「さっきは……悪かった。変なこと言って」
「いえ。少しびっくりしただけです。なんだかカイト様らしくない言葉だったので……」
 らしくない、か。エマの言う自分らしさって何だろうか。父や母の言いつけを守って、真面目に勉強に取り組む成績優秀な一人息子。実家でのエマからの印象はこんなところだろうか。
もちろん両親と言い争いの喧嘩くらいはしたことはあるが、家でもスクールでも大きな問題を起こした記憶はない。そんなカイトからの突然の提案にエマは驚いたのだろう。
「やはり、学校で何かあったのではないですか?」
 行きつく先はそこになる。今日、家を出る前と後で大きくカイトの様子が変わった。ならば行き先の学校が原因であると推測するのは何ら難しいことではない。
帰ってきた直後は適当にはぐらかした。家で過ごすうちに気が紛れてくれるという僅かな可能性に掛けた。しかし、どうにもだめだ。抱え込んでいると自分が自分でなくなってしまうような気がしてきて。
「私は、あなたの家に仕えるポケモンです。旦那様や奥様のようにはいかないかもしれません。でも」
 机から立ち上がったエマ。布団の上に足を踏み入れて、そっとカイトの手を取る。
「カイト様のことも本当の家族のように思っています。家族に悩みを打ち明けるのは、そんなにおかしなことでしょうか……?」
 エマの手は温かかった。イエッサンの体温が人間とどれくらい違うのかは分からないけれど、誰かがすぐそばに居てくれることは実感できた。
カイトは無意識のうちにエマはポケモンだからと、どこかで一歩距離を置いていた部分があったのかもしれない。
近くで世話をしてくれているのが当たり前になりすぎていて、家族という認識より頼れるお手伝いさんの方が先行してしまっていた。
そうだよな。エマも、家族だ。今更すぎる。実家にいたときからずっと。カイトが気が付いていなかっただけで。
「……聞いてくれるかい?」
「もちろんですよ、カイト様」
 紡ぎだした言葉のひとかけらすらも取りこぼさず、すべてを受け入れてくれそうなエマの微笑みに。カイトの心は少しだけ安らいだ。

―7―

 地元のトレーナーズスクールに居た頃は少なからず自分の成績に自信が持てていたカイト。学校の授業、帰宅してからの無理のない勉強量で成績上位組に入りこめていたのだ。
不確定要素の多いバトルの実技試験では結果が伴わないときこそあったが、筆記試験で後れを取った記憶はほとんどなかった。
授業にも付いていける、普段の勉強量で試験でも十分結果を出せる。自分は出来る人間だと認識が、知らず知らずのうちにカイトの中で形成されつつあった。
ところが、だ。実家を出て養成学校に来てからは、そんなものは単なる思い込みに過ぎなかったことを痛感させられていた。
最初に受けたテストで十分な手ごたえを感じ、後に結果が出たときの衝撃は今でも忘れられない。カイトの成績は平均点ぎりぎりで、上位の中には満点の者が何人も。
自分の周りがこんなにも出来る人間ばかりで溢れかえっているだなんて思ってもみなかった。結局カイトは地本のスクールという狭い世界の中で満足していただけだったのだ。
極めつけだったのが、学校に入って半年後に行われるクラス分け。これまで受けてきた試験の成績によって上位クラス、中位クラス、下位クラスの三つに分類されることになっている。
今日はその発表日。自分のこれまでの成績を見て、上位クラスの可能性ははそもそも候補から外れていた。そこまで楽天的ではない。
せめて下の方でも良いから中位クラスに滑り込めていれば、という淡い期待を胸に向かったところそれは儚くも打ち砕かれることになる。
カイトの成績は下位クラスのちょうど真ん中くらいのポジションだった。いつの間にか自分が成績の振るわないグループに分類されてしまっていたことが何よりもショックだったのだ。
「直接電話や手紙で言われてはないけど、父さんも母さんも俺に期待してる。入ってまだ半年。投げ出すつもりはないけど、ちょっと息苦しくなってきてさ……」
 息子が地元のスクールから進学校へ行き、エリートトレーナー試験に合格したともなれば両親も鼻が高いだろう。入学試験での合格発表が出たときの父や母の嬉しそうな顔が今でもカイトの脳裏に焼き付いている。
学校での勉強があまり上手くいっていないと両親に言い出そうかと思ったことは何度かあった。しかし手紙や電話では面と向かって相手の顔が見えないのでどうにも話しづらい。
伝えにくい事柄であるならば猶更のこと。積み重なっていった振るわない成績は、下位クラスに配属という現実としてカイトの心に重くのしかかってきていたのだ。
「そう……でしたか。学校でそんなことが」
 じっとカイトの方を見つめて、時折頷きながら。エマは親身になって話を聞いてくれていた。直接言葉にして誰かに伝えることで、少しは気持ちが楽になった。
学校に通い始めてからの小さな不安をこまめに吐き出していれば、今日ほど気分が沈み込んでしまうこともなかったのかもしれない。
もう何日も前からこうやって胸の中を打ち明けられる相手がすぐ近くにいてくれたのに、気が付くのが遅すぎたのか。
「話してみたところで、エマに俺の気持ちを理解してもらうのは難しいだろうなって。伝えても困らせるだけだろうなって。ずっと思ってて。だから今まで言えなかったんだ」
 人間とポケモン。種族も立場も違うカイトとエマ。家族からのプレッシャーや、試験での悩みを彼女に共感してもらうのは簡単なことではない。
きっと今回の話で伝わったのは、カイトが学校での成績が振るわなくて思い悩んでいるということ。それくらいではないだろうか。
「確かに、私にカイトさまの気持ちのすべてが分かるわけではありません。ですが……」
 おもむろに立ち上がり、すっと手を伸ばしてエマはカイトの体を抱き寄せる。ちょうど彼の頭がエマの胸の辺りに埋もれるくらいの位置。
すべすべしたエプロンの肌触りと合わせて、エマの体温のぬくもりが伝わってきた。洗い立てのエプロンと、エマそのものの匂いと。
カイトが思っていたよりもずっと、エマの体はふかふかしていて何だかとても安心できるような気がした。
「こうやって、少しでも不安を和らげることは出来るかもしれませんよ」
 そっと耳元で優しく囁かれると、思わずエマの背中にカイトの手が伸びそうになる。けれども、一抹の迷いが彼の行動を踏みとどまらせていた。
もちろんエマのことは良く知っている。昔からの付き合いも長い相手だ。ただ、こんな風に一匹の異性として意識したことは今回が初めてだった。
とことんまで尽くしてくれる彼女のこと。カイトがその気ならばきっと受け入れてくれる気概は持ち合わせているはず。そうでなければ、こんな大胆なことはしないはずだ。
弱っているところに手を差し伸べてくれる存在はとてもありがたいし、それに縋ってしまいそうになったが。このまま勢いに身を任せて、後悔したりしないだろうかという躊躇いだった。
「カイトさま。私はあなたのメイドでもあります。ご主人様のお望みとあれば、遠慮なさらずお申しつけくださいな」
「……そうか、じゃあ。今夜だけは俺に付き合ってくれない、か」
「仰せのままに」
 にっこりとほほ笑んでくれたエマ。優しい笑顔だった。きっともう後戻りはできない。エマの背中に伸ばした両手に力を込めて、カイトは彼女の体をぎゅっと抱きしめた。

  ◇

 エマの感触と匂いを存分に堪能した後、カイトは一度体を離す。今のままではエプロンが邪魔だった。付けたまま、なんてのも一つの趣向としてありそうではあったが。
せっかくの彼女のエプロンを自分が汚してしまっては何だか申し訳ない。首と腰で結び目を作っている部分を引っ張って解くと、ぺらりとエプロンは剥がれ落ちた。
本来は何も身につけていないし、普段の姿も見慣れているはずなのに。はらりと布団の上に落ちたエプロンと、露わになったエマの胸元からお腹に掛けて何だか妙な色気が。
カイトはそのまま両手に軽く力を込めてエマを布団の上に仰向けの状態で横たえる。彼女もカイトに身を任せてくれていたのか、半分くらいは自ら横になってくれたような感じだった。
「もし……痛かったりしたら言ってくれ」
「承知しました。でも、きっと大丈夫です」
 それは相手がカイトだからということなのか、あるいはこう見えてエマが意外と手馴れているということなのか。
確かにこんな状況でもエマは全く動じておらず受け入れ態勢はばっちりだ。今までに他の相手との経験があったとしても何ら不思議ではない。
なんて、野暮なことはこの際置いておこう。彼女の言う大丈夫ができれば前者であってほしいなと考えながら、カイトはゆっくりと彼女の口元へ顔を近づけていく。
お互いの口と口が触れる。初めての本格的なキスが人間の相手でなく、ポケモンのエマというのもどうなんだろうという疑問はもう湧き上がってはこなかった。
身を寄せ合っていたときよりもさらに濃厚になった彼女の感覚をカイトは夢中で貪った。エマの口の中を恐る恐る舌で探っていると、すかさず自分の口の中に押し戻される。
もちろん今まで直接触れたことなんてなかった彼女の舌。湿って熱を帯びたその感触はカイトの口内で彼の理性も徐々に舐め溶かしていくかのよう。
もともと二足歩行で手先も器用なイエッサン。こうやって身を寄せ合ってみると、人間とポケモン。案外その違いは微々たるものなのかもしれない。
「ふはっ」
 少々息苦しくなってきて、顔を離したのはカイトの方からだった。エマの上に覆いかぶさるようにして顔を重ねていたので、口の端から零れ落ちた唾液が彼女の頬をわずかに濡らす。
別段嫌がる素振りも見せずに、エマは指先ですっと自分の顔を拭う。どこかうっとりとしたその表情。手探り状態の接吻だったが、それなりにこなせたということなのだろうか。
「ふふ、カイト様。窮屈そうですよ」
 おもむろに伸びてきたエマの手がカイトの部屋着に触れる。ちょうどズボンの股の部分。服の上からでも存在感が分かるくらいに中から布を押し上げていたらしい。
エマと唇を重ねているうちにすっかり興奮しきってしまっていたようだ。細い指先ですりすりと盛り上がった山の先端を撫でられるだけで、腰の力が抜けてしまいそうになる。
「今度は私が脱がさせていただきましょうか?」
 起き上がったエマはそっとカイトのズボンに手を掛けようとする。表情こそは穏やかな普段のエマと変わらないものの、行動は躊躇いがなく大胆だった。
今まで生活を共にしてきて見たことのない彼女の姿に、どきどきしてしまっている自分がいる。完全に行為をするモードへと切り替わっている感じのエマ。
「じゃ、じゃあ……よろしく頼むよ」
 予想以上にぐいぐいと迫ってくるエマのギャップに若干の不安を抱きつつも。どんなことをしてくれるんだろうという期待の方がずっと大きかった。承諾の返事をしたカイトの口元はだらしなくにやついていたのだ。

―8―

 布団の上で一度カイトは立ち上がる。エマ曰く、この方がズボンを脱がせやすいとのことだ。何となく、エマに着替えを手伝ってもらっていた小さい頃を思い出した。
もちろんその時とはまるで状況は違っていたが。雰囲気の近いものはある。手伝ってもらっているのは大人になってからの着替え、とでも表現するべきだろうか。
カイトのズボンの腰の辺りを掴むと、エマはゆっくりと下へ降ろしていく。途中、ぴんと張り詰めたカイトの先端に引っかかって若干の抵抗はあったが。
それほど滞りなくズボンも下着もカイトの肌から離れてくれた。上から押さえつけられるもののなくなったそれは、エマの方をまっすぐに指さしているかのようだった。
「……一緒にお風呂に入られていた頃とは違いますね。立派ですよ、カイト様」
 僅かながらカイトの一物を目の当たりにしたエマが息を呑んだように見えた。最後に彼女と一緒に風呂に入ったのは何時のことだったか思い出せない。
歳が二桁になる手前くらいからはもう一人で体を洗うことはできていた記憶がある。エマの記憶の中のカイトと、今目の前にあるカイト。その差は歴然だった。
エマがカイトに気を遣って言ってくれているのか、本当に大きいから言ってくれているのかは分からない。
自分のペニスが一般的な大きさの基準的にどうなのかあまり意識したことはなかったが、たとえお世辞でも言われて悪い気はしないのが正直なところ。
「では、こちらの方もマッサージさせていただきますね」
 そう言いながらエマは両手でカイトの竿を包み込むように慎重な手つきでもみほぐしていく。確かにマッサージといえばマッサージ。場所は股間ではあるが。
肩や腰を揉まれていた時と、伝わってくる刺激は段違い。エマの柔らかい手の感触に、カイトは思わず恍惚とした声を漏らしてしまいそうになる。
触れる前から十分に勃起していた感覚はあったのだが、彼女の両手が加わってさらに強度を増したように思えてきた。時折ぴくぴくとうごめいているのがカイト自身にも分かるのだ。
「うふふ……喜んでいただけて光栄ですよ」
 くすりと笑って見せたエマ。家に帰って出迎えてくれるときのような朗らかなものとは違う、目の前の異性を意識した妖艶な笑い顔。今まで知らなかったエマのもう一つの顔を垣間見ているかのようだった。
「んっ……」
 揉みほぐす動作を止めたエマは、今度は彼を両手で挟み込んで擦り始める。尿道に軽く力が加わって先端から粘り気のある透明な雫が外へ押し出されてきた。
自覚はあったが、なかなか良いところまで来ているらしい。それはエマも分かっているらしく、手の力は必要最低限で刺激としては微弱。
緩やかな手つきを何度も往復させてすぐに達してしまわないように調整してくれているようだ。本当にエマは何でも卒なくこなしてくれるメイドさんだ。
逆に何が出来ないんだろうか。と、膝から崩れてしまわないよう必死で自分の体を支えながら、カイトはぼんやりと考えていた。
焦らしにも似た鈍い刺激の蓄積。それでもじわり、じわりと限界の時は近づいてきている。ここから少しでも強い力を加えられれば、きっと簡単に。
「あっ……!」
 揉むのとも、擦るのとも違う。生暖かさで包み込まれたカイトのペニス。いつの間にかエマはそれを自らの口の中へ含んでいたのだ。
唇を重ねたときに感じた彼女の舌。今度はもっと敏感なところで。根元まで深く飲み込んでこそいないものの、先端部分を中心に口の中で転がされている。
激しく前後させたり、吸い上げたりせずとも刺激は十分だった。まるで別の生き物のようにカイトの雄の周りをうねうねと這いまわる舌。
少しでも気を抜くと布団の上にくずおれてしまいそう。ついでに膝を付いた衝撃でそのまま達してしまいかねないくらい限界が近かった。
それではあまりにも情けなさすぎるのでどうにか避けるべく、カイトは気力で必死に今の姿勢を保っていた。そんな彼の努力を知ってか知らずか。
ぎりぎりのところでエマはすっと口を離してくれたのだ。本当にエスパータイプは心を読み切れるのでないかと思わざるを得ないくらい、完璧なタイミングだった。
エマの唾液でぬらぬらと光っているカイトの肉棒はだらしなく雫を垂らしながら小刻みに震えていた。垂れている汁はエマの唾液か、カイトの劣情か。どちらかは分からない。
「では……次はカイト様、お願いしますね」
 そのままごろりと仰向けになって、何かを期待するような眼差しで見上げてくるエマ。みなまで言わずとも察してくれとのことなのだろう、きっと。
すべて自分に身を任せてくれている無防備な体勢だった。布団の上にさらけ出された彼女の体に吸い寄せられるようにしてカイトは姿勢を低くした。
雌のイエッサンの丸みを帯びたお腹かから下に沿って視線を動かしていくと、エマの雌の部分が見えた。普段はこんなに意識して注視することなんてなかったが、今は。
恐る恐る顔を近づけると、紺色の体毛が股の辺りだけ湿っているのか色が濃くなっている。筋にそってすっと指を滑らせてみると生暖かさがカイトを包む。何の抵抗もなかった。
今度は二本の指で軽く広げてみる。直接自分の目で見るのは初めてだ。本で見た分は当然ながら修正が掛かっていたし、ネットで探せば無修正のものもありはしたが。
やはり生で見るのとでは迫力が違っていた。表面を湿らせながらひくひくと揺れ動くエマの秘所に、カイトは思わず息を呑む。こんなふうになっているのか、と。
「そんなに見られると、ちょっと恥ずかしいですね……」
 まじまじと舐めるようなカイトの視線が伝わったのか、少しだけ頬を赤くして目をそらそうとするエマ。可愛かった。せっかくの機会だし目に焼き付けておこうと思う。
「エマの方こそ、準備万端みたいじゃない」
「んっ……」
 人差し指をエマの中へ入れて慎重に上下左右に動かしてかき回してみる。くちくちと濃密な水音とともに染み出した愛液がすうっと彼女の股から零れ出ていった。
むっちりとした肉感がきゅっとカイトの指に圧し掛かってくる。指を差し込んだだけでも入ってくるものを拒もうとしない、そんなエマの心意気を感じられたような気がする。
カイトが手で触れる前からこの状態だったとすれば、エマ自身もなんだかんだで行為を楽しんでいたともとれる。家事に関してはきっちりしていて真面目な印象しかなかったエマ。
意外と色事に積極的な一面もあるということなんだろうか。自分の気持ちは口で誤魔化せても、体の生理的な反応まで抑え込んでしまうのは難しいはずだ。
えっちなエマもそれはそれで悪くないと思うし。こうした行為に及んでいる以上、お互い様なところはある。何にせよ、これだけ解れていれば先に進んでも問題なさそうだった。
「そろそろ、いい……かな」
「はい、カイト様。お待ちしております」
 口調だけは普段の調子を崩すまいとしているエマに、何だか笑いそうになってしまうカイト。まあ、それくらいの方が緊張が解けてちょうどいいかもしれない。
何しろ初めてのことだ。文字通り手探りで進んでいかなければならないのだから。次に入れるのは指じゃなくて、こっちの方。
カイトの股間のそれは先ほどからその瞬間を待ちわびて、ずっと臨戦態勢を保っている。しばらく外気に晒されていたというのに先端部分はまだまだ乾きそうになかった。
仰向けになったエマの肩の近くに両手を付いて、再び彼女の上に覆いかぶさるような姿勢を取る。これだと直接位置が分からないから空振りしてしまうかもしれない。
ただ、場所を気にしすぎるあまりお互いの表情が見えないのはもったいないような気がして。ずれてしまったらずれてしまったときに考えればいい。
初挑戦での少々の不手際はきっとエマも多めに見てくれると信じて。自分の感覚を信じながら、ゆっくりとカイトは彼女の股ぐらへ腰を近づけていった。

―9―

 傍から見ればへっぴり腰で見るに堪えない恰好だったかもしれない。どんな感じで行けばいいのか、恐る恐るの状態だ。それでも自分の先端が確かにエマに触れたのをカイトは感じていた。
毛の柔らかさとはまた別の、雌の肉厚な柔らかさがカイトの雄を介して伝わってくる。敏感な箇所同士が触れた瞬間、エマの瞳が僅かに揺れたのをカイトは見逃さなかった。
空振りはさすがにみっともないし、場所はきっとここで間違いないはずだ。エマに聞こえないよう静かに息を整えてから、カイトは思い切って腰を前に突き出した。
「……っ」
「あっ……」
 先端部分がぬるりと彼女の中へ飲み込まれた。思っていたよりも抵抗はなく。さすがに無反応ではいられなかったのか、エマの口元から切なげな声が漏れる。
まだ先の方だけだというのに、カイトが感じた衝撃は指を入れてみたときの比ではない。優しく温かく包み込んでくれそうなエマの雰囲気とは正反対だった。
手加減や遠慮という言葉とは無縁なくらいにぐいぐいと侵入者を締め付けてくる彼女の雌。それほど意識せずとも自然と奥へ奥へと吸い込まれていくかのよう。
ほぼ無意識のうちにカイトはずんずんと腰を深く落として、エマの深い部分へと。完全に根元の部分まで飲み込まれてしまって、何となく彼女と一つになったような気がしてきた。
「うあ……すごいよ、エマ」
 油断しているとあっという間に限界を迎えてしまいそうなくらいの心地良さ。エマに包容力があるのは何も普段の姿に限ったことではないらしい。
「ふふ、もっと味わってくださってよいのですよ、カイト様」
 じゃあ遠慮なく、などとのんきなことを言っていられそうな余裕はカイトにはなかった。まだ動かしてもいないというのに、何だか目の前がぼうっとしてくる。
股間から伝わってくる快楽に抗うことを諦めてしまいそうになる。あっけなく果ててしまったとしても、エマは自分に幻滅したりはしないだろうけれども。
雄としてのプライドはカイトも少なからず持ち合わせていた。手馴れていそうなエマに対して未経験のカイトでは部が悪いのは事実だが。やるだけはやってやろうじゃないか。
無言のままカイトは腰を前後に動かし始める。お互いにしっかり濡れていたので途中で引っかかったりはせずに順調な滑り出しだった。
じゅぷりと湿った音を立てながら、カイトの肉棒はエマの膣内を。エマの膣内はカイトの肉棒をそれぞれ刺激していく。結合部から垂れた液体が敷かれた布団に染みを作っていく。
自主的に動かしているのはカイトの方だが、動かせば動かすほど限界に近づいてきてしまっているのもカイトであった。慣れない動きで自分にばかり衝撃が届いてしまっているのか。
あるいはそもそもの耐久力の差からくるものなのか。前者にしても後者にしても、悔しいが埋め合わせは利きそうにないのが現状である。どう足掻いてもエマには敵いそうもない。
「え、エマ……俺、もうっ」
「はい。来てください、カイト様っ」
 ここで、まだだめです。なんて言われても引っ込みがつかなかった。エマが受け入れの意思を言い切るか切らないかの時点で既にカイトは後戻りできない時点まで来てしまっていたのだから。
腰を前後させ始めてから何度目の往復だったかはあまり覚えていない。たぶん、そんなに長い時間ではなかった。カイトの肉棒がぶるんと震えたかと思うと、エマの中へと勢いよく精を放出していた。
びくびくと雄が脈動するたびに視界が揺らいで自分を保っていられなくなりそうになる。せっかくエマの上に来たのに、これじゃあ表情を楽しむも何もあったもんじゃない。
今までに感じたことのないような強烈な快楽に押しつぶされないようにするのが精いっぱい。口元から勝手に零れだした情けない声をエマに近くで聞かれてしまうのはちょっと恥ずかしい。
上半身を支えるために踏ん張っていた両手も力を無くして、カイトはエマの上にへなへなと倒れ込んだ。頭同士がぶつからないよう、辛うじて横へ位置をずらすのがやっとだった。
「だ、大丈夫ですか……?」
 あまり大丈夫だとは言い難い状況だ。どきどきと脈打つ心臓の鼓動と下半身からじわりと広がってくる心地よさが入り混じって、まともに返事をするのが難しい。
カイトが息を整えようとしている間、エマが優しく背中をさすってくれていたらしい。何だか懐かしい感覚だった。確か、昔父親にひどく叱られて、泣いていたときもこうやって。
知らなかった一面を見せられたようで少し戸惑っていた部分もあったけど、やっぱりエマはエマだな、と。ぼんやりとした頭で想いを馳せながら、カイトは彼女の介抱に身を委ねていた。

 ◇

 快楽の余韻も引いてきて、大分頭もすっきりしてきた。少し垂れてしまったお互いの体液をカイトは濡れタオルで軽く拭き取る。自分の雄の周りと、エマの股の部分と。
タオルでエマの股に触れるのにそんなに抵抗が湧いてこなかったのは、果てた直後で冷静になっているからか。あるいは、カイトも多少は慣れてきたからか。
布団の上に点々と出来てしまった分は何度も擦って誤魔化しておいた。これだけ拭えばそんなに跡もにおいも残らないと思う。いずれ布団のシーツを洗う時にきっちり落とせばいい。
黙ったままズボンを履きなおしてからカイトはエマの方へ向き直る。こんな時、最初になんと声を掛けたらいいんだろうか。正直、カイトの頭には言葉が浮かんでこなかった。
「エマ。えっと……その」
「どうしました?」
 ばつが悪そうに言葉を濁らせるカイトに対して、不思議そうに首を傾げているエマ。いつもの顔つきだった。彼女としては何も思うところはなかったんだろうか。
今まで家族同然で接してきていた分、カイトはエマと一線を越えてしまった感覚があった。行為の最中は勢いで乗り越えられていたが、いざ冷静になってくると妙な気まずさが。
「何か、悪いな。俺だけ先にばてちゃって」
「お気になさらずに。カイト様に気持ち良くなって頂けたようなら、本望ですよ」
 エマはまだだったのに、自分の方だけというちょっとした罪悪感。あんなので終えてしまって、エマは消化不良になったりしないんだろうか。
本人がそれでいいというなら構わないが、カイトにしてみればエマを性欲の捌け口としてしまったみたいで何だか釈然としないものが残る。
初めてだったから仕方のない部分はあるにせよ、もしも次があるなら。いやいや、これは今夜限り。今夜だけは特別に甘えさせてもらっただけ。
「ですから、また何かあったときは遠慮なく言ってくださいね」
「えっ」
 ふふ、といたずらっぽく笑いながら、エマは脱ぎっぱなしになっていたエプロンを手際よく畳んでいく。さりげなく言った感じの、冗談なのか本心なのか曖昧な彼女の言葉。
今日だけというわけではなく、カイトが望めば何度でも。という意味合いにも聞こえる。エマに甘えっきりではいけないという自制心も、一言で簡単に揺らぎそうになってしまう。
ついさっきまで体を重ねていたとは思えないくらい、至って普段通りの姿のエマ。若干の疲れからか、エプロンをいつもの場所へしまう足取りがゆっくりしているくらいしか違いがない。
カイトの中にあわよくば今日だけでなく、今後もという気持ちがあることにきっとエマは気が付いているはず。一度知ってしまった心地よさはなかなか忘れられない。
エマの美味しいカレーやシチューの味に慣れてしまうと、コンビニの弁当では物足りなく感じてしまうのと理屈は似ている。今宵、カイトはエマの体の良さを覚えてしまった。
直後の今は何とも思わなくても、時間が経ってくればまたその味が恋しくなってしまうかもしれない。そうなったときにもし、自分が頼んだとしたらエマは。
いや、あれこれ考えるのはこの辺りにしておこう。明日も早いんだ、あんまり熟考しすぎると寝付けなくなってしまう。ただでさえ慣れないことをして疲れているのだから。
「なあ、エマ」
「はい」
「ちょっと狭いけど、一緒に寝てくれないか」
 そう。今夜、はまだ終わっていないのだ。一人用の布団なのでスペースはあまりないが、イエッサンの大きさなら並んで眠れないこともない。
両親の帰りが遅くなって、夜一人で寝付けなかったときに添い寝をしてもらった記憶はある。もう一人で寝るのも夜の暗闇も怖くはないが、今夜くらいは。
「承知しました、カイト様」
 ぺこりと頭を下げると、それほど遠慮なくカイトの隣に横たわるエマ。まるでその言葉を待ちわびていたかのようなスムーズな動作だった。
一人用の布団の上だ。体を密着させないと手や足がはみ出してしまう。これだけエマと体が近くても、もう気にはならない。暑い季節だとちょっと寝苦しいかもしれないが。
「今日はありがとう……エマ。俺、もう少し頑張ってみるよ」
「はい。ずっと応援してますからね、カイト様」
 間近でにっこりとほほ笑むエマを感じられただけでも、添い寝を頼んだ価値があるというもの。結局彼女の本心はエスパータイプでもないカイトには分からずじまいだったが。
自分のことを真摯になって応援してくれているエマの気持ちには間違いがないはずだ。学校での今までの結果が良くなくても、今後もずっとそうなるとは限らない。
また半年後には学校でクラス分けがある。今度の試験の目標は中位クラスに上がれるように。次に向けて気を取り直して進んでいけばいいのだ。
エマのおかげで、カイトも気持ちが前向きになれたような気がする。ある時は、身の回りの世話をしてくれるメイドさん。ある時は、悩みを打ち明けられる家族。そして、ある時は――――。
隣に寝転がるエマをちらりと見やると、いつの間にすやすやと小さな寝息を立てている。今夜は何から何まで甘えてしまったからな。見えないところで彼女も疲れていたんだろう。
明日は休んでもらって、自分が家のことを全部やってもいいかもしれないな、と考えながら目を閉じる。カイトとエマの関係が少しだけ変化した夜は静かに更けていった。

 おしまい


・あとがき
ネタバレを含みますので物語を最後まで読んでから見ることをおすすめします。

・この話について
 ソードシールドでとても可愛かったイエッサンを登場させました。雄も可愛いですがやっぱりここは雌に。人とポケモンの絡みを書いたのは久しぶりのような気がします。
最初の案は主人公がポケジョブで家事を頼んだイエッサンとごにょごにょするような展開も考えてはいたのですが、昔から家に仕えていたという設定の方がより親密さを描写しやすそうだったので実家から送られてきたという設定にしました。

・カイトについて
 進学に伴って下宿することになり、一人暮らしの生活を心配した両親がエマを送ってくれたことから物語は始まります。実家はそこそこ裕福な家庭。
エマに対しては、最初は行き届いていなかった家事を手伝ってくれるありがたいポケモン、というくらいの認識しかありませんでした。
学校での成績が思うようにいかなくなって躓いたとき、手を差し伸べてくれた彼女に対して少しずつ気持ちが変わってくる。
物語が進んでいくうちにそのあたりのカイトの心境を細かく描写することに気を配りました。

・エマについて
 昔からカイトの家に仕えるイエッサン。掃除洗濯料理まで家事全般をそつなくこなす優秀なポケモンです。
もともと世話をするのが好きという設定がポケモン図鑑からあったので、性格もそれにならって主人のために尽くすタイプに。
家事以外も頼めば状況に応じて対応してくれる万能なメイドさん。雌のイエッサンにはエプロンがとても似合うと思うのです。
ポケモンはもともと全裸なのでエプロンを付けるだけで裸エプロンが出来上がるのが良いところです。

【原稿用紙(20×20行)】96.1(枚)
【総文字数】32475(字)
【行数】619(行)
【台詞:地の文】8:91(%)|2904:29571(字)
【漢字:かな:カナ:他】32:63:7:-2(%)|10435:20492:2320:-772(字)

最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。


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最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • まさに理想的なポケモンとの生活ですね。凄い憧れます。
    生活や掃除の過程も緻密に描かれているので、より感情移入して微笑ましく読ませていただいています。
    イエッサンのエプロン姿はやっぱり素敵ですね。

    この後エッッッッのような展開もあるようなので、
    どのようにこの物語が進んでいくか楽しみにしています。 -- からとり
  • ポケモンと人間の一対一の生活を描写するならばこんな感じかなあと思いつつ書き進めております。
    世話焼きなイエッサンならばきっと散らかった部屋を見て掃除せずにはいられないでしょう。
    イエッサンは♂も♀も大変愛らしいので是非ゴニョゴニョするシーンは書かねばと思った次第であります。
    感想ありがとうございました。 -- カゲフミ
  • 実は性に積極的なイエッサン…いいですね --
  • いざその気になれば何事も一生懸命ご奉仕してくれるのです。きっとこれもメイドの嗜みなのです。
    感想ありがとうございました。 -- カゲフミ
  • イエッサンはメイドが似合いますねえぇ〜〜〜掃除洗濯料理なんでもお手のものな彼女にはやっぱりエプロンが似合います。幼い頃からずっと身の回りのお世話をしてきたメイドだからこそ吐き出せられる悩み、という描写がリアリティありました。
    メイドと坊っちゃん、というのはいかにも背徳的な設定ですが、その依存性を漂わせたまま物語は明るく読後感もスッキリ。それでいて濡れ場シッカリ濡れてましたね……えっち……。
    エマちゃんにとっては情事も甘えの延長なのでしょうか、そんな仕草がいじらしいですね。しかしエマちゃん、いくらそつなくこなすメイド気質だからってあんなにリードできるものなのでしょうか……もしや旦那様にしっぽり躾けられていたり? 妄想が膨らみます! -- 水のミドリ
  • 家事担当のイエッサンにはエプロンを標準装備させるべきだと思うのですよね。
    昔から良く知っている間柄だからこその躊躇いや背徳感も若干におわせながらの官能シーンでしたが、それなりに楽しく描けたと思います。
    エマの手馴れた雰囲気については、本人に聞いたらそういう経験も積んでおくのがメイドの嗜みとか誤魔化されそうですね。
    昔旦那様にしつけられていたとかいうのもなかなかアリな設定かもしれませんが、真実はエマのみぞ知る、ということで……。
    感想ありがとうございました! -- カゲフミ
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Last-modified: 2020-08-11 (火) 20:12:58
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