作者……
リング
季節風に運ばれた重苦しい空気は、ついに質量を伴う雨となって存分に降り注ぐ。太陽の恵みを頑なに拒む鈍色の分厚い雲が水を含んだ布巾を絞るがごとく滴を落とす。
そこに住む人々は、毎年のことだから現象自体には慣れているようでいて、伴う不快には慣れが来ない。
大気に満ち満ちた湿気は、一挙手一投足が立てる音に張りをなくさせ、いつもより派手に音を立てるのは水音くらいというのがいかにも寂しい。
この島国で二人は、子供が出来ないことに悩んでいた。
元々、生まれた時より体が弱く、外で働くこともままならなかった彼女は家の中でひたすら夜光貝の装飾品を作っては、役に立たないなりに家族の輪に加わることを許してもらうのが日課だった。
そんな彼女と彼の恋が実ったわけは何の事はなく、昔から同族と言うことで彼には贔屓目に見てもらっていた仲であるという事。元々の彼女の美しさもあってか、彼はいつも彼女を気にかけて通い詰めてくれていた。
それが、このように実ったと言えば聞こえはいいが、実際には彼女の親が縁談のときに得られる贈り物目当てで、半ば追い出し気味に結婚したと言うのが実状だ。
でも、彼女は彼に愛されていると言う事実さえあればどうでもよかった。子供を産めて、出来るだけその子たちが命を絶やさぬように生きて、そうして彼が言うように幸福になってくれれば――と。
もしかしたら、彼は美しいともてはやされる私の顔さえあれば満足なのかもしれず、そんなことの真偽を定かにしたところで意味はない。
ただ、彼と彼の子供だけでも愛することが出来ればそれが彼女の本懐なのだから。
毎日の漁による疲れはいざ知らずか、絶倫とさえ呼べる夫の性欲は毎日の行為を可能にしていた。しかし、彼女の――そして、夫も加えての期待とは裏腹に子を授かることはあまりに難しかった。
煙で燻した藁ぶきの屋根の下で、空色の体がうつ伏せに横たわり、紫色の体が覆いかぶさる。双方には大小の三角型の斑点模様が刻まれておりその部分は彼女が藍色、彼が深い紫。
背中に生えた棘は、攻撃性の高いオスがその数を多く携え、額の角も攻撃性の証として雄々しく鈍い光を放っている。
二人の種族は、彼女をニドラン。彼をニドリーノと言う。
二人は、幾度となく体を重ねてきた。その行為を愛ととるか色欲ととるかを別にしても、二人の目的には確かに一致する終着点があった。
子を宿す――こと、性交に於いて本来の意味と役割となる結果である。そして、その結果がいつまでたっても得られないという事実に二人は焦燥している。もともと、体が弱いということはそういうことなのだ。
子を孕むために腹に卵を抱えることが難しければ、子を為すことは比例して難しい。しかし双方ともに、今現在も決して子を為すことを諦める年ではない。
年齢だけを見るならば、まだ焦りを感じるには早すぎる時期でありながら、その焦りはだれもが当然と頷くに足る。二人に焦燥を与えている生理現象の名は――進化。
進化したくない――おおよそ、このような感情を抱く種族は相場が決まっている。
例えば、幼い姿での経験によってのみ覚えられる技がある者。これは、兵役に服するものでなくば、殆ど関係のないことであるが、稀に医者を志す者等、これに当てはまるものもいる。
例えば、進化することで特性が失われてしまう者。多くはヤルキモノがこれに当たる。
例えば、進化と同時に体の機能が失われてしまうもの。羽に飛ぶ力を失うハッサムや、感情を感じる力が弱まるキルリア。壁の垂直歩行が不可能になるキモリ。
そして、進化と同時に閉経を迎え、子を宿せなくなる体になる者。それが、ニドランの牝と言う種族である。
ニドランの牝がニドリーナに進化してしまえば、それは同時に閉経を迎えると言うことであり――それゆえに日々進化を怯えるという日常を重ねている。
その、進化を怯えると言うこと自体がストレスとなって彼女の進化はある程度抑制されてはいるものの、肝心の卵がその怯えが影響して上手く形成されないと医者にいわれては意味がない。
その不毛なイタチごっこの中、夫は酒を飲むこともせずに妻へと精の付く物を良く与えた。大抵は、その日一番の大物を売りに出すでも干魚にするでもなく妻に宛がう。
これで、少しでも弱い体に力が宿ってくれれば――と、偽りのない愛を感じて微笑む妻と、笑う夫。円満を絵に書いたような夫婦像だ。
「ありがとうございましたエンジ様」
子宝に恵まれるためなら何でもやった。夫が深く頭を下げて感謝の意を示したのは、俗に言う祈祷師と呼ばれる職にあるサーナイト。
神の声を聞いて、旱魃や洪水の予言を伝えると共に神の力を自身に下ろして、その力を以って病気を癒したり、この夫婦のような子作りに悩む者へ祝福を授けたりするもの。
ただ、効果は出なかった。酒を飲まず、贅沢をせずの生活を耐え忍び、そうしてやっと生まれた財を投げ打って頼み込んだ祈祷さえも、その効果を上げはしない。
「まだ、私たちは神に祝福されない……ねぇ、あなた……私は前世で大きな罪を背負ってしまったって本当なのかしら?
どうすれば私は許されるの? 私は、これほど苦しんでいるのに……」
こと、ここの文化圏においては現世において不幸な生い立ちを背負う者は、例外なく『前世の悪行のせい』にされる。魂が浄化されるには、傲慢や強欲を抱かない健全な精神と信じて止まない。シャーマンは、『貧しければ多くを望まず、まずは贅沢よりも先に人並みを目指すのみだから』と言い、その教育に固執してそれを広めてきた。
「私は……早く神様に許してもらいたいのに……毎日シャーマンにも祈祷をささげてもらっているし、私自身お祈りもしている。なのに、何故私には子供が出来ないの? 私はそんな罪を犯したの?」
妻は泣いていた。そういう時、夫はただ黙って抱きしめるしかなかったのだが――急激な高熱や不眠症など、もう進化の兆候が出ている彼女を見ていると、その時間は無いと悟るしかなかった。
たしかに、妻は子供を作るのを諦める年ではなくとも、もう1人か2人生んでいてもおかしくない年齢であるのは間違いない。
それがニドランと言う種族ならば尚更のことで、すでに3人か4人の数を生んで、十分次世代を育むに足りていても違和感は無い。
だから、時間がない。時間がないから、このまま神を待っていては、ダメなんだ――と、夫が決意したのはそんな時であった。
「このまま、罪を許してもらうのを待っていてはダメなんだ。ルギアが待つ島に行って……直接供物をささげよう」
夫は、泣きじゃくる妻の涙を拭って諭すが――
「それは無理よ」
体が弱い、と言うのもある。ただし、参拝客も多い安全な海域に構えられたルギアの住処ならば、その航海に危険らしい危険は伴わない。だが、運動が進化を早めると言うのは周知の事実だ。
進化を早めるのはあまり好ましい事ではない――妻は言った。
「じゃあ、私が代理を立てて供物をささげよう……きっと私が愛する気持ちを汲み取ってくれるはずだ」
しかし、それでさえ妻は首を横に振った。
「だって、それで許された例なんて極僅かだもの。代理で供物をささげるとか、直接だとかそういう問題じゃないの。
神は、許しはしない……」
「そんな風に、信仰心が薄いから……」
『君は、子供が出来ないんだ』――言おうとして、妻を傷つける言葉と感じて言えなかった。
「でも、それならば私より信仰心の薄い者が子を宿しているのは何故? 信仰心なんて……前世の罪に比べれば瑣末なことなんじゃないの? なんで、私の記憶にない事を許す、許されないと議論しなくちゃならないの?
私は……祈りに答えてくれない神に祈り続けることが出来ないの。それに、貴方に贅沢の一つも許さないことが祈りになるとは思えないの」
お酒も飲んで欲しいし、私に食べさせるだけじゃなく自分のための魚も食べて欲しい――そんな願いが切に込められた妻の言葉は、自身の額に生える角より鋭い。
「じゃあ、どうすれば?」
「この国を出ましょう……この国の先、貿易を行う船乗りポケモンたちが教えてくれた場所には、『勝手な進化が行われない大陸』があるらしいの。
船頭のラプラスが得意げに語っていて……試練を終えないと進化を許されない少年と、その親のお話。
クチートと永遠の愛を誓うために進化を諦めたヒメグマのお話……そういう、愛のお話や立身出世のお話がいくらでもあるんだって……逆に、あっち側では進化することをテーマにした物語が受けるのだとか」
夫は、長い間答えられずに押し黙る。
「それが本当だとして」
夫は首を横に振った。
「その船は、女性は乗れないのが仕来りだ。舟はともかくとして船は男のものだ。大きな船に乗る権利を、君は与えられていない」
「そんなの――」
無視してしまえばいい、なんて軽く口にする事はで切るはずが無い。
「それでも私は皆の目が耐えられない。『前世で罪を犯した挙句に、顔で夫を騙して苦労かけるなんて、罪な女ね』なんて陰口叩かれて……
ねぇ、私たち体一つでやっていけないかな? 少なくとも……勝手に進化が起こらない云々を抜きにしても、月の力の無い場所に行けば……私は進化しないから。
医者からは精神的な問題もあるって言われているし……そこで何の憂いも無く子作りに励めるならば……赤ちゃんを授かることも出来ると思うの。
だから――」
そこから先は言わなくても分かるでしょう?――と、夫の前足の上に自身の前足を乗せて体を寄せる。
「この国の掟を……私達のわがまま一つで変えるのか?」
「もし、神に許される方法があるなら……前世の罪を償う方法があるなら……そのためには試練を越えなければいけないということもある。
その……試練が私に課されたんじゃないかな……って、最近私は思うようになったの」
反論の言葉が今すぐにでも飛んできそうな夫の口を見て、妻は焦って付け加える。
「夢も見たの……私たちがここでは無い場所で子供を抱く夢。今まで、行動的になる機会が無かったから言えなかったけれど……その夢に、わたしは……賭けて見たい」
「そんなの……可能だと思っているのか?」
「それしか……方法はないんじゃないかな?」
簡単なことじゃないとか茨の道だとか、言いたいことはたくさんあったけれど……つい夫は答えてしまった。
「わかった……」
その日から、夫の行動は日に日に病的になり始めていることを、妻は感じる。せめて、月の力が及ばないところにさえいければよかったのだ。だから、二人の愛さえあれば何もいらない、などと。
最初は、頼み込むことだった。まずは、砂糖と工芸品とを交換して、凱旋帰還した船乗りたちに。その結果は、当然のように断られた。
海の王カイオーガには陸上の女が珍しく、海のものでない女を見つけると自分のものにしようと船を沈めるという――それに恐れをなして、誰も女を載せようとはしない。
ならば――と、船の持ち主や株主を当たってみるが、船員の士気を殺ぐような真似はできないという。男装をさせようにもニドランでは一目で女だとわかるし、そもそも……海から船の上にいるポケモンを目で判断出来るわけがない。
つまるところ気配で判断しているとか、そういう解釈をされているのだから、女を乗せるなんてもっての外――と。
祈祷師を頼りにカイオーガをなんとか出来ないかと頼んでみても――生贄に一人差し出すとか結局不可能というか、意味のない手段しか与えられていない。だめならば――と、金を積んだ。
なけなしの金を積んで断られて、夫は途方に暮れるしか出来ない。密航も考えてみたけれどばれたら海に捨てられたって文句は言えない。
船を自分で作ってみようにも、4つ足の自分に船が作れるものではないし、そもそも知識がない。無論のこと依頼をする金もなければそんな選択肢は取れない。
そうやって、選択肢は数多く用意されているようでいて、意外にも少なく少なくと潰されていく。虱を潰していくように潰えて行って、最後に残った手段は悪足掻きのような子作りだけであった。
むしろ、妻に負担がかかって今まで以上に子供が出来にくくなるかもしれないとか――考えたくない。もう、自分達に子供が出来ないなんて考えたくないじゃないか。考えたくないのに、なぜその日は来てしまうのか?
体が、進化するとき特有の光に包まれて次の瞬間には一回り大きな妻の体がそこにある。それが、どれほど悪夢であると信じたかったか。
女は船に乗ってはいけない。船による航海は男のもの? カイオーガに船を浚われるから女は乗せられない? なんだ、それは。
神なんて……居たとしても救う神などめったなことでは働かないのだ。働いていたら、妻に自分の子供を育てさせる権利をくれたはずだ。だから、滅ぼす神も働かない。カイオーガなんて誰が見た? 居ることは否定しないが、救う神よりも働きものなのか?
久しく飲まなかった酒を浴びるように飲んで、噛みつくように夫は当たり散らした。
そして……荒れた夫は、何度尋ねたかもわからない祈祷師の住処兼・仕事場へと酔った勢いに任せて赴いた。
「ふざけるな!! 何が祈祷はきちんと行っただ!! 妻には子供が出来ていないのにそれで仕事しているつもりか!? 今迄の供物も、金も返せ!!」
息に酒の匂いを漂わせながら、夫は祈祷師に頭突きを喰らわせた。酒に酔って手加減が出来なかったとはいえ、激しくバランスを崩された祈祷師のサーナイトは頭を打ってしまう。そこまでならばまだいい。命に別条はなかったはずだ。
「寝ているんじゃない!!」
頭を打ってぐったりとした祈祷師に対して、追い打ちをかけるように揺さぶった。何度も、何度も――祈祷師が死んだ、と認識したのは、祈祷師が動かなくなってからでも、祈祷師の妻であるベトベトンを殺してからでもない。
そのまま祈祷師の家で眠りこけて、酔いが醒めてから。殺したという記憶はないのに、その事実だけが突き付けられて夫は震える。
走る、逃げる――家にたどり着いてみれば、 まだ、子供が出来なくなったという事実を受け止めるのにはつらいのであろう、妻は泣いていた。
「その血……どうしたの?」
しかし、その悲しみも吹き飛ばす衝撃的な赤。もっと驚いて恐れてもいいはずなのに、がらんどうになった妻の心は驚くほどに落ち着いていて……酒を飲んでから記憶がなくて、気が付いたら祈祷師の家でこうなっていた――と、それを説明し終わるまでも心はここに在らずといった様子で聞き取るばかりであった。
「そう、それじゃあ……貴方は捕まって裁きにかけられるのね」
妻は淡々と言った。
「もう、生きていていい事なんてあるのかしら?」
妻は淡々と言った。
「天国でなら、幸せになれるかしらね?」
妻は淡々と言った。
「天国でなら子供は出来るかしら?」
妻は淡々と言った。
「かもしれないな」
空虚な夫の声が、妻の声に答えた。
島国を二つに割る西の山脈をまたいで吹き荒ぶ乾燥した偏西風が、執拗に体温を奪おうと襲いかかる。季節は冬、月は満月。
月の石でもう一段階の進化を遂げることのできる二人を皮肉るかのように美しく真ん丸な満月。星と月を除いた光源が存在しない夜の海岸では、月ですらも直視すればしばらくは眩しく思える。
浸食により切り立った崖となっているそこに立ち、二人は寄り添うように、遺言となる愚痴を呟く。
「俺に……掟を破る力があれば……妻を船に乗せることだって出来たのに」
「私に……翼があれば……船がなくとも別の大陸へ行けたのに」
足場が消失した。地面ではなく空を見ながら二人は落ちてゆく。胃が浮き上がる感触と共に見た黒い空は、焼き菓子を齧ったように不自然な欠け方をする月が浮かんでいる。
満月と新月が同時に存在する月食のその日、二人の死体は浮かぶことなく夜の闇に溶ける。二人の魂は二つの月の化身へ。
ダークライ。新月の夜に行動し、人々に恐ろしい悪夢を見せる。世界の
掟を破るがごとく、時の神の力と空間の神の力を操ることが出来る個体が存在すると言われている。
クレセリア。飛行能力を持つが、他人の乗せるためにその飛行能力が使われることはないと言われている。