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影は鎧をすり抜けぬ

/影は鎧をすり抜けぬ

影は鎧をすり抜けぬ 

writer――――カゲフミ

―1―

 巣穴の入り口から差し込む光が朝を告げる。ここのところ雨が長引いて陰りがちだった天候もようやく安定してきて、昨日今日と晴れの日が続いているようだ。
地面の上に寝そべっていた体を起こすと、私はふわりと浮かび上がる。この住処に入って間もない頃はよく壁に頭をぶつけていたが、もう距離感はつかめていた。
それに今は、私の左右に長い頭が何かに当たってしまう心配は少ない。巣穴の中には私以外誰もいないのだから。私だけで過ごすにはこの空間は広すぎるくらいだった。
この場所を見つけて、お互いにぶつからないよう慎重に潜り込んだことをふと思い出す。目が覚めたら、隣に戻ってきてくれていればどんなによかったことか。
何度目になるか分からないため息をついて、私は巣穴の外に出る。古びた大木の根の間にできた丁度良い隙間をねぐらにしているのだ。
広さは申し分ないし、雨風もしのげるしでなかなか良い物件だった。ささくれ立っていた壁や、でこぼこだった地面は暮らしやすいようにそこそこ整えてはいる。
古木を利用しているので真新しさこそ感じられないが、ぱっと見は小綺麗な感じで纏まっていた。この条件の良い住処に唯一足りないもの、それは。
「……テーラ」
 やはり夢ではなかったのだな。入り口の根の表面には何か爪のようなもので引っ掻いた跡が生々しく残っている。激情を残して去っていった、妻の名を私はぽつりと零した。

 ◇

 事の発端は、私が妻のテーラから息子との留守番を頼まれたときのことだった。私たちは交代で食料の木の実を探すことにしていて、今回は妻の番だった。
親と一緒だとしても、木の実が木の枝が上から落ちてきたり、縄張り意識の強い他のポケモンも居たりで何かと物騒なため、子供は待機させておいた方が安全だ。
そのために私が息子と住処に残っていたわけなのだが。あろうことか私はうっかり居眠りをしてしまい、目を離した隙に息子がどこかへ行ってしまっていたのだ。
収穫した木の実を抱えた妻が帰ってきて、ようやく目を覚まして息子がいないことに気が付いた私。持っていた木の実をぼとぼとと取り落として慌てふためく彼女。
普段は黒っぽい私たちドラパルトの顔面も、この時ばかりは尻尾の色と同じくらい青ざめてしまっていたかもしれない。どうしていいか分からずに私は狼狽えるばかり。
自分がやらかしてしまったことの重大さが圧し掛かってきて、思考が停止しかけていた私を動かしてくれたのは妻のとにかく探しましょうの一声だった。
まだ幼い体だ。そこまで遠くへふわふわと漂っていくことは難しいはず。私も妻も必死になって草むら木々の間をかき分けて、呼んで呼んで、探して探して。
幸いにも、どうにか息子を無事に見つけ出すことができたのだ。住処からやや離れた切り株の上で一休みしていたところをテーラが発見してくれた。
息子を見失った張本人は冷静な判断が出来ずに、結局探し始めから終わりまで妻の力に頼りっぱなし。情けないことこの上ない。
住処に戻ってからの、テーラからドラゴンアローのごとく飛んでくる叱責に私は平謝りすることしか出来なかった。妻の矢は二発どころではなかったが。
息子から目を離すどころか、意識ごと離してしまうなんて信じられない。ちゃんと見つかったから良かったものの、もしこの子に何かあったらどうするつもりだったのか。
子を守る父親としての自覚が足りてないんじゃないか、等々。すべて筋が通っていたし彼女の怒りも当然のことだと思っていたので、何も言い返せず。
首がちぎれてしまいそうなくらい頭を下げ続けて、どうにか怒りを収めてもらったつもりでいたのはどうやら私だけだったらしい。
もうあなたとは一緒にやっていけそうにないから、と言い残してそのままどこかへ去ろうとするテーラ。咄嗟に引き留めようとした私の前にぎらりと赤い閃光が走る。
幸い命中こそしなかったが、住処の入り口に深々と引っかき傷が残されていた。私を狙っていたのか、古木の根を狙っていたのかは定かではない。
ここまで激しい拒絶の意思表示と合わせて突き刺すような眼光で睨みつけられると、さすがに私も後を追いかける度胸がなかった。
遠ざかっていくテーラの背中を見送って、一晩明けた今日。がらんとした住処の中。事態は思っていた以上に深刻だと突き付けられているようだった。
一夜明けて頭が冷えたらきっと帰ってきてくれるだろうという考えは甘すぎたらしい。これは私の方から探しに行かなければ収拾がつきそうにない気配がする。
確かに全責任は私にある。だが、そこまで怒り狂わなくてもという気持ちと、そうなっても仕方がないくらいのことをしでかしたという気持ちの両方があった。
きっとこの辺りがテーラの言う父親としての自覚の足りなさ、なのだろうな。薄々感じてはいながらも、なかなか自分の中で考えを改めるのは難しい。
さて、これからどうしたものか。妻が息子と向かいそうなところ、と言っても思い当たる節がなかった。とりあえずは腹ごしらえでもしようか。
昨日は食事どころではなかったので、それなりに腹が空いている。木の実を探そうと再び体を浮かび上がらせたときの、頭上の軽さが妙に物悲しかった。
いつも身近に当たり前のように感じていた息子の存在感がこんなところにも。早く探しに行かなければ、と思い直したのとほぼ同時に頭の上から羽根の音が聞こえた。
「やあ、ソルさん。おはようございます」
「ああ。グラッド君かい。おはよう」
 私が見上げた樹木の枝先にちょこんと留まっている。赤い瞳と黒と青の入り混じった羽毛が特徴的だった。
聞こえてきた声の主はこの近所に住処を構えているアオガラスのグラッド。お互い近くに住んでいるので顔を合わせることも多い。
なかなか気さくな性格で、今朝のように私が気づいていなくてもすれ違えば挨拶を交わしてくれる。律儀な奴なのだ。
私とは大分年が離れていて若いので、友達と呼ぶとなると語弊が生まれるかもしれないが。単なる顔見知りよりは近しい間柄ではあることは確かだ。
「そうそうグラッド君、テーラを見かけなかったかい。息子と一緒だと思うのだが」
「んー、テーラさんですか。見てないですね」
「そうか……」
 空を自由に飛び回れるだけあって、彼はなかなかの情報通。私も多少は上空まで浮かび上がることはできても、飛行タイプのように小回りを利かせて動き回ることは難しい。
ただ、残念ながら私が期待していたテーラ達の目撃情報はなかったようだ。ひとまずはこの周辺を地道に探していくしかないようだ。
「どうしたんです。喧嘩でもしたんですか?」
 他所のいざござを期待している風でもなく、ただ単純な疑問としてのグラッドの問いかけ。彼は他者のトラブルを面白おかしく聞き出して引っかきまわしたりはしない。
それは分かっていても、今はそっとしておいてほしいというのが私の本音。出ていかれたとも言えず、苦笑いを交えながら適当にはぐらかすしかなかった。
「や、まあ色々あってだな。とにかく、どこかで見かけたら教えてほしい、頼むよ」
「ええ、分かりました」
 片方の羽根をさっと上げて了承のポーズを取ると、グラッドはそのまま飛び去っていった。嫌がる素振りも見せず、去り際まで爽やかなままだ。
私好みの木の実が成っている場所を教えてもらったり、強い嵐が近づいてくるのを教えてもらったりと世話になっていることも多い。余計な一言が多いのが玉に瑕だが。
ひとまずグラッドには捜索を頼めたので、私だけで探すよりも効率は上がったはずだ。まずは腹ごしらえといこう。空腹のままではあちこち探しまわるのも出来やしない。
暢気に食事なんてしている場合なのかという疑問と、先にグラッドに動いてもらっている他力本願な後ろめたさはもちろんあった。
とはいえ焦りは禁物だ。気持ちばかりが先走って私が動けなくなってしまっては本末転倒。腹ごしらえが出来たら私もテーラ達を探しに回るつもりだ。
一晩経って彼女らがどこまで移動しているのか、どこへ行ってしまったのかは分からない。ただ、グラッドも協力してくれているし、きっと。きっと見つかるはず。
そう何度も何度も自分に言い聞かせながら、私は普段から餌場にしていた木の実の成る木が群生するエリアへと向かっていったのだ。

―2―

 餌場としている個所はいくつもの木が立ち並んでおり、その種類も様々。甘いものから渋いものや苦いものまで、それぞれの好みに応じて選り好みできるくらいはある。
私は手の届く範囲に転がっていた木の実を拾い上げると適当に口の中に放り込んだ。そこまで好きではない味だが食べられないほどではなかった。
何にしても今は呑気に好きな木の実を追いかけている場合ではない。居なくなってしまったテーラを追いかけねばならないのだから。
五個くらい腹の中に収めてしまえばほどほどの満腹感を得ることができた。腹八分目といったところか。あまり満腹になってしまっても動きづらくなるのでこれくらいが丁度良い。
さてこれからテーラを探しに行くぞ、と腰を上げたところで、だ。妙な気配を感じ取ってしまった。何か、普段とは違う何かがこの周辺に潜んでいる、そんな気配。
ドラパルトである私はドラゴンとゴーストタイプを併せ持っている。自覚としてはドラゴンタイプの気の方が強くあると思っているのだが、生まれ持ったゴーストとしての気質も捨てきれないらしい。
これはおそらく、生きている者の気配ではない。感覚を研ぎ澄ませてみると微かではあるが血の匂いが漂っている。気配の元を慎重に辿れば、それを発している主の元にたどり着けるとは思う。
妻と息子を探さなければというときに、こんな寄り道をしていて良いのかという疑問はあったが。こんなときはどうしても良くない方へ考えが傾いてしまいがちだ。
まさかとは思うが、テーラが物言わぬ状態になってしまっているのではないかと途端に不安に駆られてしまう。いやいや彼女はなかなに逞しいドラパルトだ。
そこら辺の野生ポケモンに不覚を取ったりすることは。しかし息子をかばったりしていたとすれば、いつもの調子で戦えなかった可能性も考えられる。
だめだ、確かめてみないと気になってテーラの捜索どころではない。私は木々の間を這うようにして進みながら、その異を放っている方向へと近づいていく。
木の実の林から離れていくうちにだんだんと草むらの背丈が高くなっていった。両手でかき分けて行かなければ前が見えなくなる。
幸い私は地面から僅かに浮いているので足元を気にしないで済むのはこういうときにとても助かるのだ。あまり地面から離れすぎても気配が分からなくなる。
効率が悪くとも密度を増してくる草たちと格闘しながら進むしかない。他の野生ポケモンとは不思議と遭遇しなかった。皆、この不気味な雰囲気に警戒しているようだ。
草むらに踏み入ってからどれくらい経っただろう。頭の穴に小枝や葉っぱが引っかかる感覚にも慣れてきたころ、目の前の草をかき分けた先にあった開けた地面。
倒れていたポケモンがいた。肩と足の付け根から血を流した跡がある。灰色の地味な肌とは対照的な、頭や体を覆っている黄色と赤い模様の鎧のような鱗が特徴的だった。
息絶えたポケモンを前にしてほっとしてしまうのも不謹慎かもしれないが、テーラと息子でなくてとにかくよかったと思っている私がここにいる。
私や妻の知り合いの中にもジャラランガはいなかったし、見知らぬポケモンだった。誰か他のポケモンと争って、命を落としてしまったのだろうか。
それにしては、周囲の草や地面にも激しく戦ったような形跡はない。ふと見ると、ジャラランガが倒れていた山側の斜面が大きくえぐれていることが分かる。
露出した斜面を伝っていくと、遥か上方から斜めに一直線。この開けた地面まで走っていた。おそらく雨で地盤が緩んでいたところに足を滑らせてしまったか。
滑落した際に岩や木に体を打ち付けて、その出血が致命傷になって絶命してしまった、そんなところか。気の毒だが私にはどうしてやることもできないな。
と、去ろうとしたところでジャラランガが大事そうに抱えているあるものを見つけてしまった。これはひょっとして、ポケモンのタマゴではないか。
このジャラランガのものだとしたら、まだタマゴは生きているのだろうか。腐敗がそれほど進んでいないことから、死んでからあまり日数は経っていないのかもしれない。
いや、タマゴが生きていたとしてどうする。私には妻も息子も。今は近くに居ないだけで、これから探してちゃんと元の生活に戻る予定があってだな。
あれこれ逡巡している私をよそにぴくりと微かにタマゴが揺れた、ような気がした。この状態で本当に、生きているのか。半ば信じられなかったが。
もしこのタマゴを放っておけば冷たくなって死んでしまうか、あるいは他のポケモンの餌になってしまうか。どちらになっても助からない。
いくら私がゴーストタイプでも死者の声が聞こえたりすることはないが、母親のジャラランガの見開かれた目からは迫真たる圧力を感じていた。
光を失ってもその瞳からは確固たる意志がひしひしと伝わってくる。どうか、この子を頼む。きっと、私にそう伝えようとしているはず。
「……まいったな」
 躊躇いながらも私は、タマゴを手に取ってしまっていたのだ。タマゴを抱く感覚は久々だった。なんだかとても危なっかしくて、それでいてどこか愛おしい。
種族が違っていてもタマゴの尊さは同じ。ジャラランガの母親が崖から落ちながらも必死で、命を掛けて守り抜いたタマゴ、か。
私にもこれくらい、親としての気概があれば妻と息子を見失ってしまうようなことはなかったのかもしれない。
一時的な感情に流されているのではないかという危惧はもちろんある。可哀想だからと中途半端な気持ちで手を差し伸べるべきではないことも理解していた。
自分の子さえ満足に世話できない私ではあるが、他の子どもを見捨ててしまうことはどうしてもできなかったのだ。このタマゴが自分の息子と重なってしまって。
幼子を大切に思う気持ちは同じつもりだった。このジャラランガやテーラと比べると、私の子どもに対する意識の差はこの崖の高さくらいあってもおかしくはないが。
私は開いたままだったジャラランガの目をそっと閉じてやると、タマゴを抱えて静かにその場を後にしたのだった。

   ◇

 もちろんタマゴを住処に放ってはおけないので、テーラの捜索にはタマゴが付いてくる。ドラメシヤと違って頭に乗せているとバランスが悪いので両手で抱えなければならない。
すれ違った顔見知りからは、妻と新しく子作りに励んだのかと茶化されてしまったりして心に無駄な傷を負ってしまう。とてもではないが今テーラとよろしくやれる状況ではなかった。
グラッド以外のポケモンにも彼女を見かけなかったかと聞いて回りはしたが、有力な情報は得られないまま時間ばかりが過ぎていく。気が付けば辺りは薄暗くなりはじめていた。
仕方ない、テーラを探すのは明日に持ち越しだな。幸いこの辺りにも食べられそうな木の実は成っていた。いくつかもぎ取って頭の穴に詰め込む。
本来の用途とは違うが木の実のサイズ次第で四つまでは入るのだ。潰してしまわないように慎重に奥へ。
両手が塞がっているのでこうやって持ち運べると便利だ。タマゴのこともある。周囲に気を配りながらよりも、巣穴に戻ってから落ち着いて食事をしたかった。
いつもの半分くらいの速度で住処に戻った私は入り口を潜って大きく息を付いた。タマゴをそっと地面に置くと、尻尾の先をくるりと巻き付ける。
息子のときはこうやって温めてやったものだ。ジャラランガと比べると私たちドラパルトの体温は低いかもしれないが、それでも何もしないでいるよりは良いだろう。
頭を何度か地面に向かって振ると、穴に詰め込んだ木の実がぽとぽとと落ちてくる。当分の間は極力ここで食事を済ませることにしよう。
適当に取り繕ったので好きな木の実とそうでない木の実が混じっている。まずはそうでない木の実の方から口の中に放り込んだ。絶妙な渋みが広がって顔をしかめた。
尻尾で抱えたタマゴが動いているかどうかの実感はない。産まれるのが近づいてきたら時々動いていたはずだ。この子が孵るにはまだまだ時間が掛かりそうだな。
テーラを見つけるのとどちらが先になるだろうか。何にしても、一度拾った小さな命。今更捨て置くつもりはない。
お前のお母さんに代わって、ちゃんと温めてやるからな。頑張るんだぞ。私が心の中でそう念じた時、微かにタマゴが揺れて応えてくれたような気がしたのだ。

―3―

 私がこの子を拾ってから、何日か経った。朝、住処で食事を済ませてはタマゴを抱えてテーラを探し回り、日が暮れ始めたら探索を切り上げて戻ってくる日々。
未だに彼女の行方は掴めないままだ。あれからグラッドとも何度か顔を合わせたが、尋ねてみても首を横に振るばかりだった。
タマゴと一緒にテーラを探し回る私の姿は、きっと奇妙に映っていたことだろう。妻に逃げられたのではないかという噂も他のポケモン達からちらほらと聞こえてきた。
もちろんあまり気分の良いものではなかったが、事実であることに間違いはないしそもそも私が原因であるので口を挟む余地はなかった。
ただ、最初は私を軽くあしらっていたポケモンの中にも、何度も妻の消息を訪ねてくるのを見かねてか、次第に協力的になってくれた者もいるから捨てたものではない。
とはいえここまで何の手掛かりも得られていないとなると、本当に私の目が行き届かないくらい遠くへ行ってしまったことも考えられる。
見つからない日々が積み重なっていくたびに、私の中で徐々に焦りと諦めの気持ちが大きくなりつつあった。あまり考えたくはなかったが、もう会えないのではないかと。
ただ、タマゴはどうやら順調に育っていってくれているようで、時々ぴくぴくと動くくらいには反応を示してくれるようになった。
いつしかこの子がテーラの捜索で疲弊していた私の心を癒してくれる存在になりつつあった。まだこの世に生まれてもいないというのに、不思議なものだ。
 そんなある日のこと。木陰で木の実を齧りながらいつものように休憩を挟んでいたときだった。尻尾を巻き付けていたタマゴが大きく動き始めたのだ。
最近は徐々に動きが顕著になってきていて、もしかすると近いうちにと思っていた矢先のこと。これまでにないくらい左右に激しくゆらゆらと揺れ、そして。
私が慌ててタマゴを両手に抱えたのと、先端部分にひびが入り始めたのがほぼ同時だった。亀裂は網目のように次々と広がりやがて殻を四方八方へと弾け飛ばしていく。
のそりと私の両手の中で頭を上げて、ぷるぷると頭を左右に振る。額にある黄色い鱗は頭と同じくらいの大きさがある。小さな体に似合わないそれが特に目を引いていた。
あのジャラランガから託されたタマゴだ。種族の予想はついていたが。種は違えど産まれたての赤子というものはこんなにも小さいものなのだなと改めて思わされる。
タマゴから孵ったジャラコは何度かぱちぱちと瞬きをして私の顔を見上げる。幼いながらもきりっとした三白眼で迫力がなくもない。そして、第一声に。
「……ぱ、ぱ?」
「えっ」
「ぱぱ!」
 いきなり父親呼ばわりされて、私は思わず戸惑ってしまう。ああそうか。産まれてすぐ近くに居た雄だから、本能的に私のことを父親だと察したのだろう。
「私が、ぱぱ。いや、ぱぱ……なんだろうか」
 確かに私は息子の父親ではあるが、この子の父親ではなくてだな。こんな複雑な事情を説明したところで今のジャラコにちゃんと伝わるとは思えない。
ただ、私が明らかに動揺している不穏な空気だけは敏感に感じ取ったらしい。ジャラコの大きな瞳がみるみるうちに潤んでいく。
「ぱ、ぱ……ちがう、の?」
「ああ……泣かないでおくれ。そう、私がぱぱだよ」
 両手でジャラコを抱きかかえてなだめながら、私は無理やり作った笑顔であやす。私がぱぱで、ぱぱでないことをこの子に打ち明けられるのは大分先になりそうな気がした。
一度涙のスイッチが入ってしまったら次々と溢れてきて止まらないようだった。わんわんと泣き出したジャラコを上下左右にゆらゆらと揺すってみても簡単には泣き止んでくれない。
軽々と頭に乗せられていた息子とは違って、この子は生まれながらにしてずっしりとした重さ。このままでは私の肩や腕も泣き出してしまう。
そうだ。産まれたばかりできっとお腹が空いているはずだ。とにかく、何か食べるものを。ゴーストタイプではないにしても、私と同じドラゴンタイプ。
全く口に合わないというわけでもないだろう。先ほどまで齧っていた木の実の残りを一度咀嚼して取り出すとジャラコの口元まで持っていく。
いきなり差し出されたそれに興味が移ったのか、一瞬泣き声が止まった。くんくんと匂いをかいでこれは食べられるものだと判断したようだ。
そのまま大きく口を開けて、私が柔らかくした木の実を頬張った。産まれたての未熟なジャラコの口でもこれくらいの硬さなら問題なさそうだった。
もぐもぐと何度も口の中で味わって、ごくんと飲み込む。割と口に合ったらしく、もっと欲しそうに目で訴えてきたので私は追加の木の実を差し出した。
何かを食べている間は口が塞がっていて泣き出しようがない。産まれてすぐ傍に母親がいないという歪な環境からくる不安は、満腹感が埋め合わせしてくれることを願うばかり。
「う……ぅん」
 木の実を四分の一ほどたいらげると、お腹が膨れて眠くなったのかジャラコはすうすうと小さな寝息を立てはじめた。あんなに泣きわめいていたのが嘘のような静けさだ。
体は小さくとも両手でしっかりと抱きかかえていれば、この子の確かな鼓動が私にも伝わってくる。生まれたばかりの命、だけどちゃんと生きている証。
倒れていたジャラランガの母親の姿が、私の頭にふっと浮かんだ。息子のことを疎かにして妻に逃げられてしまった私に彼女の代わりを務められるかどうかは、正直不安な面もある。
ただ、どちらにしても私がいなければ今のこの子は生きていけないのだから。私は私なりのやり方で、この子の父親として恥ずかしくない振る舞いをすべきであろう。
今度こそ失敗しないように、うっかり目を離したりしないようにちゃんとする。ジャラコが大きくなったらいずれは事情を話さなければいけないときが来るかもしれないが、今は。
静かに私の腕の中で眠るジャラコの寝顔を見つめながら、私はそう決意したのだ。背中にそっと手を当ててやると、安心したのか表情が少しだけ和らいだような気がした。

 ◇

 ジャラコを起こさないよう慎重に移動しながら私は住処へと戻ってきた。ふわふわと浮いたまま移動ができるというのは寝た子を起こしにくいという点でも便利だった。
最近は私しか使っていなかったので住処の中の寝藁も古いままで萎びてしまっている。尻尾の先で真ん中の方へかき集めて、申し訳程度のクッションを即席で作り上げた。
直接土の地面に横たわるよりはまし、程度か。寒い思いをさせてしまうのもかわいそうだし、明日朝になったらちゃんと新しい草を調達してきてやらないといけないな。
くしゃくしゃになった寝藁の上にジャラコをそっと寝かせてやる。何とか起こさずに私の手から離すことができたようだ。
しばらくの間はこの子を中心とした生活にせざるを得ないだろう。妻や息子のことは確かに気がかりではあるが、ジャラコは私が居なくてはままならないのだから。
思い出したかのように頭の穴に詰め込んでいた木の実を取り出すと、種類を確認する。この木の実ならばあちこちで見かける。調達には苦労しなさそうだった。
とはいえ一つだけだと段々と味にも飽きてくるし、栄養も偏るしで良くない。ジャラコの口に合う木の実も徐々に探していくことにしよう。
ちょうど妻と息子にまとめて出ていかれたところに新たに入ってきたこの子の存在は大きかった。まだまだ体は小さく、住処の広さからすればひどく不釣り合い。
それでも私の気持ちをふっと暖かくしてくれるような不思議な存在感がそこにある。久しぶりに誰かのぬくもり身近に感じながら、私は眠りについたのだった。

―4―

 私がジャラコと生活を始めてからしばらく経ったある日の朝。いつものように体を起こすと、すぐ傍ですやすやと眠っているジャラコの姿が。
いつしかこの光景が当たり前になりつつあった。ジャラコを抱えながら回れる範囲でテーラの行方を探し回ってはいるものの、未だに有力な手掛かりはないときている。
彼女が息子と飛び出していってからかなりの時間が流れてしまっていた。妻の居場所を突き止めたいという気持ちはいつまでも変わらないつもりだったが。
さすがにここまで来ると半ば諦めの領域に突入している。まあ、どちらかというとここ最近はジャラコに付きっきりだったので、妻のことを考える余裕がなかったのもあるが。
ジャラコも最初の頃はよく夜中に泣き出したりして、息子よりも相当ボリュームのある大きな声に悩まされたりもした。最近は徐々に成長してきたのもあって、落ち着いてきてはいる。
枕元での喧噪に飛び起きることもかなり少なくなり、睡眠不足の日々から徐々に解放されつつあった。喜ばしいことである。
「……ん」
 私が動き出したのにつられて、ジャラコものそのそと体を起こして小さく伸びをする。ふるふると頭を何度か左右に振ってからゆっくりと目を開けた。
「おはよ、パパ」
「ああ。おはよう、ミューレ」
 この子にパパと呼ばれるのも違和感を覚えなくなってきた。むしろ、血がつながっていなくても私のことを父親と慕ってくれるていることに愛おしさを感じているくらいだ。
そしてジャラコにミューレという名前をつけてしまった辺り、もう後戻りは出来ないような気はした。もちろん、最初から戻るつもりなどないが。
そうでなければこの子の母親に叱られてしまう。私がミューレの父親としてやっていけるのか不安を覚えるたびに、倒れていた彼女の顔がふっと脳裏に浮かび上がるのだ。
きっと死してなお、私がジャラコをちゃんと育てているのかをどこかで見守っている。それほどまでに彼女の我が子に対する執念は強い。そんな気がしてならなかった。

 ◇

「パパ、こっち!」
「あんまり走るとまた転ぶぞ」
「大丈夫だもん!」
 住処からそう遠くはない草原とはいえ、ミューレにとっては初めて訪れる場所。幼い目には何もかもが新鮮で真新しく映るのだろう。ちょっと違うところに来るだけでこのはしゃぎようだ。
きっと今日も二、三回くらいはつまづいてひっくり返りそうな気がする。思いのほか派手に転ぶものだから大丈夫かと慌てて駆け寄ってみたら、本人はけろりとしているのだ。
若さもあって体が柔軟なのと、足元も柔らかい草むらなのでそこまで大事には至らないようだ。むしろ転んでも軽々と起き上がるくらいの気概があるほうが逞しくてよろしい。
ただ、草むらは所々深くなっている個所があり、ミューレの背丈はゆうに越えている。目の届く範囲に居るように呼び掛けてはいるが、目を離さないようにすることは忘れない。
「遠くに行くんじゃないぞ」
「分かってる!」
 元気が有り余っているミューレは外に出るとじっとしている時間の方が少ないくらいだった。タマゴから生まれてすぐは泣くことと食べること、そして寝ることしか出来なかった。
それがこんなにも元気いっぱいに草原を走り回っていると来たものだ。成長を目に見えて実感できるというのはなかなかに感慨深いものがある。
抱きかかえてやらなければ眠ってくれない段階からはもう卒業しているし、ふと背中や頭に乗ったりしたときの重さは生まれた時とは比べ物にならなくなっていた。
テーラに引っ張られて出て行ってしまった息子も、別れたときよりは大きくなっているのだろうか。言葉も満足に話せなかったが、喋れるようになっているのだろうか。
時が経てば経つほどに再び会える可能性が薄まっていることは私も理解している。しかし頭のどこかではもしかしたら、という思いを捨てきれずにいたのだ。
「パパ、見て!」
 ふと気が付くとミューレが何やら青い木の実を背中に乗せて運んできていた。この子の身長では木の実まで到底届かないし、そもそもこの辺りに大きな木は見当たらない。
熟れて取れやすくなっていたものが風で飛ばされてきたか、あるいは他のポケモンが運んでいるうちにうっかり落とすかしたものを拾ったのだろう。
草の間に埋もれて分かりづらくなっていただろうに、見つけ出すとはなかなかやるな。その木の実は住処の周りだとあまり見かけないタイプのものだ。
ちょっと渋みがあって癖のある味。私は大丈夫だがミューレにはまだ早いんじゃないだろうか。とはいえ好奇心旺盛なミューレだ。おそらくは。
「これって食べられる?」
 初めて見る木の実だから食べてみたい、そういうことだろう。言い出すのは予測がついていた。私はミューレの背中からそっと木の実を受け取ると、軽く泥を払ってやる。
爪で小さく切れ込みを入れて細かく刻んだ一切れ分をミューレに差し出した。まあ、これくらいの量ならこの子でも問題ないだろう。
「ちょっとミューレの口には合わないかもしれないよ」
 私の忠告も気にせずにぱくりと木の実を一口で。何度かもぐもぐと口を動かすうちにミューレの顔が引きつっていく。やっぱりか。
「うええ……変な味」
「まだミューレには早かったかな」
「パパは苦くないの?」
「苦いさ。でもこの苦さがまた味わいがあって良いんだ」
 ミューレといつも食べている木の実はすっきりとした風味で喉越しもさわやかだ。ただ、ずっとそればかりだと飽きてくるというか、時たまこういった変化球が欲しくなる。
口の中に放り込んだ残りの青い実。噛み砕いていくうちにじわじわと舌を突き刺すような渋みが広がっていく。そのあとからゆっくりと木の実そのものの味がやってくるのだ。
これを食べることが出来たのも久しぶりのこと。いつもよりわずかながらでも遠出をした甲斐があったというものだ。
「ふーん」
 口直しに私が差し出したいつもの木の実を口にするミューレ。非常食として常に頭に一つは携帯するようにしている。四つの穴はこういうときに便利ではあるのだが。
頭の穴に息子よりも木の実が滞在する時間の方が長くなってしまっているのは皮肉なものだ。ドラメシヤと種族の違うジャラコでは入りようがないしな。
「わたしはこっちがいい!」
 ぱくぱくと嬉しそうに木の実を齧るミューレを見ながら。もっと大きくなったら一緒に渋い木の実も食べられるかもしれないなと、ぼんやり考えていた矢先のこと。
「あ、探しましたよー!」
 頭上から聞き覚えのある爽やかな声が響き渡る。見上げるとグラッドが旋回しながら私の近くへと下降してきている最中だった。
彼の姿に気が付いたミューレは慌てて私の尻尾の後ろに隠れる。人見知りというか、あまり馴染みのない相手はまだ警戒してしまうらしい。
ミューレはグラッドと初対面というわけではなく、住処の近くで何度か顔を合わせてはいるのだが。なかなか慣れるまでには時間が掛かりそうな感じがする。
「こんにちはソルさん。あと、ミューレちゃんも」
「グラッド君、こんにちは。ほら、挨拶は?」
「こ、こん……にちは」
 彼はそこまで体の大きくないアオガラスだ。怖がっているわけではないと思うのだが、私と話している時とは比べ物にならないくらい小さな、消え入りそうな声。
「こんにちは。おれの顔、覚えてくれたみたいだね」
 ミューレの半分身を隠しながらの挨拶にも、別段気を悪くするような素振りも見せずににこやかに言うグラッド。相変わらず彼は爽やかだった。
最初のうちだとミューレは私の尻尾の影に潜り込んで出てこようとすらしなかったから、それに比べれば大きな進歩だと言えよう。
「そうそう。ソルさん、耳寄りなお話ですよ」
「うん?」
「ここからかなり北に向かった先に大きな湖があるの知ってます? そこのほとりでテーラさんらしきドラパルトを見かけたって情報が」
「ほ、本当なのか?」
 私の中ではもう半分以上諦めかけていたところに唐突に飛び込んできた妻の手掛かり。悪タイプのふいうちのごとく効果は抜群で、ひどく動揺してしまっていた。
グラッドの言う湖の場所は何となくではあるが記憶している。まだ息子が出来る前にテーラと一度だけ訪れたことがあった。
ちょっとした思い付きで行けるような距離ではない。それほど休憩を挟まずに向かったとしても半日は軽く掛かる距離だ。
彼の話が本当だとすれば、これだけ何の情報も入ってこなかったことにも納得がいく。私の住処の近くで暮らすポケモン達にはほとんど縁のない場所だろう。
「おれが直接見たわけじゃないんですけど、聞くところによるとドラメシヤと一緒だったらしいので可能性はあるんじゃないかと」
「……そうか。教えてくれてありがとう、グラッド君」
「いえいえ。テーラさんに会えると良いですね、それじゃ!」
 要点だけを簡潔に告げると、グラッドは地面を蹴って再び空へと溶け込んでいった。彼がどんな表情をしながらどんな感じで去っていったのか正直よく覚えていない。
ふいに入ってきた妻と息子のことで私の頭の中はいっぱいだった。グラッドが聞いた話が間違っている可能性があるにしてもだ。
もし会えたのなら、最初に謝りたい。そして戻ってきてほしいと伝えたかった。会えなかったとしても、正しい情報でなかったことが分かるので全くの無駄足になるわけでもない。
もっと早く教えてもらっていれば何の迷いもなく即座に向かっていたはず。だが、今の私は。尻尾の後ろで不安そうに揺れている二つの瞳が私の決意を鈍らせてやまなかったのだ。

―5―

「パパ、今日はどこへ行くの?」
「そうだねえ。天気も良いし、ちょっと遠出してみようか?」
「やったー」
 ぴょんぴょんと住処の中を嬉しそうに跳ね回るミューレ。そのどこまでも無邪気な笑顔が私の心を否応なしに突き刺してくる。
遠出というのはあくまでも建前で、本当はテーラと息子を探しに行こうとしているのだ。すべてが嘘というわけではないにしても、ミューレに対する後ろめたさは残ってしまう。
とはいえ、妻に会えるという可能性を抱えたままこの先ずっとこの子と暮らし続けることは私にはできそうになかった。
テーラと息子に対しても。ミューレに対しても。そのどちらもがすっきりしない気持ちを抱いたままで中途半端になってしまう。
成り行きだったにしても、見知らぬ子を連れた私を見てテーラはまた呆れるかもしれない。今度こそ本当に愛想を尽かされてしまうかもしれない。
それでも、私の中で彼女との間に何かしらの答えを出しておきたかった。戻ってきてくれるのならば嬉しいことこの上ないが。そうでなかったにしても、一つの決着はつく。
「それじゃあ、行こうか。ミューレ」
「うんっ」
 目的地の湖はこれまで足を延ばしたことのないくらいの距離になる。途中でお腹が空くといけないので木の実は四つ、私の頭の穴すべてに詰め込んでおいた。
住処の外に出ると、晴れ渡るような空が清々しかった。途中で雨に降られても困るので、出来るだけ天気の良い日を選んだつもりだ。
テーラに会えるかどうかは分からないが、まずは湖までたどり着けなければ話にならない。足取りの軽いミューレの後を追いかけるようにして、私は北を目指した。

 ◇

 太陽の位置で方角を確認したのはこれで何度目だっただろう。さすがに遠い。かつてテーラと一緒に出かけたときはそこまで距離を感じなかったというのに。
おぼろげな記憶と北の方位、そして妻と息子に会えるかもしれないという可能性が私の足掛かりになっていた。
「パパぁ……疲れたよ。帰ろう?」
「もう少しなんだ、ミューレ。頑張れないかい?」
 地面にへたり込んでぶんぶんと首を横に振るミューレ。やはり子供の足にこの距離は過酷だったか。予想はしていたが、住処で留守番させておくわけにもいかない。
午前中は見たことのない景色に元気いっぱいだったのに、午後になるにつれて徐々に口数が減り始めて。歩みもどんどん重くなって今に至る。
持ってきた木の実で機嫌を取るのもそろそろ効果を発揮しなくなってきている。残りは一つ。これは帰りの分に取っておきたいところだ。
「……おいで」
「うん」
 私が身を屈めると、ミューレはひょいと背中によじ登る。おんぶしてもらえると分かってからの足取りだけは妙に軽かったから現金なものだ。
首の後ろから背中にかけてずっしりとした体重が加わった。自分で歩けるようになってからはほとんど抱き上げていなかったが、さらに輪をかけて重くなっているような気がした。
この状態で進んでいくのは私にとってもなかなかの試練ではあったが、ここまで来て引き返すつもりはない。せめて湖までたどり着くくらいはしなくては。
幾ばくもしないうちにミューレは寝息を立て始める。よっぽど疲れていたのだろう。私の都合で振り回して、この子には申し訳ないことをしてしまった。
ジャラランガの母親が見ていたら、息子から目を離したときのように怒られていた案件かもしれない。だが、私は行かなくては。
久々に抱えることで改めて感じるミューレの温もりと静かな吐息。大きくなったな、ミューレ。眠っているこの子の成長に背中を押されながら私は再び北へと足を進めた。

 ようやく湖の畔が見えてきた。ミューレを背負いながらの移動は思いのほか時間が掛かってしまったが、どうにか辺りが暗くなる前に到着することができたようだ。
畔と一口に言っても広い。ひとまずは端の方から湖に沿うようにして探していくしかないか。これだけ大きな湖だと、ちらほら他のポケモン達の姿も見える。
ここまで来て余計なトラブルは起こしたくない。私だけならばまだしも、ミューレを庇いながらではうまくやり過ごす自信がなかった。
「誰だい、あんた。見かけない顔だな」
 突然背後から声を掛けられて、慌てて振り返る。ここが既に面倒なポケモンの縄張りだったとすれば既にやらかしてしまった感が。しかし、どうやらそれは私の杞憂だったらしい。
ふよふよと宙を漂う青い姿は私と同じタイプを思わせるもの。張り付けたような無表情ではあったが、今にも攻撃を仕掛けてきそうな雰囲気ではないようだった。
見知らぬ来訪者にどことなく警戒の視線を送っているプルリルは私と、背中で眠っているミューレの姿を値踏みするかのように交互に眺めていた。
「あるポケモンを探しているんだ。私と同じドラパルトなんだが、幼いドラメシヤを連れている。心当たりがないかい?」
「……そういえば、少し前によそからやってきたっていう子連れのドラパルトがいたな。あんたの知り合いか?」
 間違いない。テーラだ。ずっと探し続けてきた妻と息子がこの近くに、居る。私はどうにか平静を装いながら、そうだと答えた。
「だったら、この湖の畔を西に向かって進んでいった先で良く見かけたな」
「教えてくれてありがとう。助かるよ」
 そりゃどうも、と冷めた口調で応じるプルリル。単なるポケモン探しだと知って、私にもミューレにも興味が失せてしまったらしい。
愛想のいいグラッドとばかり接しているせいか妙に冷たく感じられてしまうが、初対面の相手への態度としてはこれくらいが一般的なもの。
それでもテーラの情報を教えてくれたことには変わりがない。私は再びプルリルに軽く会釈をしてから、畔を西の方角へ進んでいく。

 教えてもらった方へ進めば進むほどうっすらと霧が立ち込めてきて視界が悪くなってくる。以前テーラと訪れたときはこんなに端の方までは来ていなかった。
初めての場所だ。本当にこっちで会っているのだろうかという不安と、もう少しで妻に会えるのだという期待。二つの感情が私の中で忙しげに入り乱れていた。
プルリルが教えてくれた話を今更疑ってみても仕方がない。情報をもとに前に進むしか、今の私にはできないのだから。
そう自分に言い聞かせながら黙々と進み続けた先。湖の岸辺で腰を下ろして休憩しているであろう、その姿。見覚えのある、少し前までは毎日見ていた姿。
私がずっと追い求めていた姿。妻のテーラだ、もう何日も会っていなくても間違えようがなかった。やっと。やっと見つけた。
息子はどうやらテーラの頭の上ですやすやと眠っているようだった。よかった。どちらも元気そうだ。別れる前と変わりがなさそうで。
「……テーラ!」
 私の声に振り向いたテーラは目を見開いてはっと息を呑む。まさか私がここまで追いかけてくるとは思ってもなかったような顔つきだ。
「ソル……!」
「探したぞ、テーラ」
 両手を伸ばして彼女の体を抱き寄せたかったが、あいにく今は後ろで塞がってしまっている。
もっとも、テーラの反応を見る限りそんなことが出来そうな雰囲気ではなかったのだが。生活の中にミューレが加わっても、妻を大切に思う気持ちは変わらないつもりだった。
「今更、何のつもり。それに……その背中の子は何?」
 感極まっている私とは裏腹に、当のテーラは至極冷めた態度。私の背中で眠っているミューレを訝しげに見つめていた。
無理もない。夫が自分を追いかけてきたと思いきや、そこに知らない子供を連れていたとなれば誰でもそうなる。ただ、ミューレの事情を一言で説明するには重すぎる。
「あの時は本当に申し訳なかった。このジャラコは、話せば長くなるがちゃんと説明するよ」
「その必要はないわ」
 ぴしゃりと私の言葉を断ち切るような鋭い物言い。テーラが住処を出て行ったときに私に振るった赤い爪のような切れ味をしているような気がした。
「私ね、あなたの元を離れてみて分かったの。一緒に子育てしてくれる雄じゃないと連れ添えないって」
 ため息交じりに言うテーラの口調からは怒りも悲しみも感じられない。ただただ私に対して、ひどく呆れかえっているような。温度のない、冷え切った言葉。
「あなた、私がこの子を任せたときに、前から何度も居眠りしてたことあったでしょ。私が気づいていないとでも思ってた?」
 何も言い返せない。図星だったからだ。前回みたいに大騒ぎにならなかったのは、私がうっかり眠ってしまったときにたまたま息子がどこにも行かなかっただけ。
妻からの思いがけない非難を受けて、情けないことに何も出てこなくなってしまう。もし再びテーラと会えたら、伝えようとじっくり考えていた言葉があったはずなのに。
「そんな……頼むよ、私はもう一度君とやり直して――――」
「おぅい、テーラ」
 言いかけた私を遮るように聞こえてきた低い声。テーラを挟んで見えたその姿は、あまり馴染みのないドラゴンタイプのポケモンだった。
霧の向こうでも頭の両側にある赤い牙のような突起が特に目を引いている。私には目もくれずにテーラにだけ視線を送っているような感じだ。
あのオノノクスはおそらく雄。親しげに妻の名前を呼び捨てにして。テーラも当たり前のようにすぐ行くわと返事をしている。そこまで察しの悪い私ではなかった。
「ソル。この子のことなら心配いらないわ。こういうことだから。それじゃ」
 小さくなっていく妻の背中。この光景はあの時に続いて二度目だった。まだテーラは視界の中にいるのに私の中でどんどん小さくなっていって、止まらない。
もしミューレを背負っていなかったとしても、きっと私は彼女に手を伸ばすことができなかっただろう。
「どうかしたのか」
「ううん、何でもない。行きましょ」
 去っていく妻を、今度こそ私は追いかけることが出来なかった。もう、別の番を見つけていたというのか、テーラ。小さくなった先でオノノクスに寄り添う妻の影が見えた。
霧で視界があやふやになっているはずなのに、その光景だけはくっきりと私の目に飛び込んでくる。そうか、あれが新しい旦那か。テーラを抱き寄せて仲睦まじく笑っている。
妻も、笑っている。息子も、笑っている。あんなに他のポケモンに対して人見知りしていた息子が。ああ、あの空間に、妻の隣に、私の居場所は。どこにも、ないのだな。

―6―

 テーラの背中が見えなくなってしまっても、私はしばらくその場から動けずにいた。私はどこで間違えてしまったのだろう。妻のことは心から愛していた。
少なくとも私はそのつもりだった。ただ、その気持ちの矛先が妻に向きすぎるあまり、自分の息子に対して十分でなかったことは否定が出来なかった。
彼女に言われたように、子守りの最中にうっかり居眠りしてしまったことは一度や二度だけではなかった。とてつもなく恥ずかしい話ではあるが。
私は自分の子供だから、と義務感だけで動いていた面があったかもしれない。父親としての自覚を完全に持ち切れていなかったということでもある。
そんな息子に対する私の至らない部分にテーラの気持ちは徐々に徐々に冷めていき、結果として今のような事態を招いてしまった。
落としどころを考えるならばこんなところだろうか。自問自答してみたところで、妻が戻ってくるわけでもない。今更後悔しても遅いのだ。
地面を這うカラナクシのような速度で私はもと来た道をのそのそと戻り始める。しばらく進むと自分の腕や肩が軋みはじめていることに気がついた。
そういえば、ずっとミューレを背負いっぱなしだったな。プルリルから妻の話を聞いてからは、そのことで頭がいっぱいでこの子も重さもどこかに行ってしまっていた。
近くにあった柔らかそうな草の上にそっとミューレを下ろす。よほど疲れていたのかまだ眠ったままだった。すまないな、私の都合で振り回してしまって。
「……私は、何をやっている」
 薄暗くなりはじめた湖面を眺めながら、私はぽつりと浮かんできた言葉を水の中に投げ捨てた。結局私は、息子の父親にも、ミューレの父親にもなり切れていない。
それが原因でテーラには愛想を尽かされて。今回の遠出もおそらく母親のジャラランガが生きていればものすごい剣幕で怒られていた案件だ。
私の住処から湖まで、とてもではないが小さな子を連れていく距離ではない。こんな私の中途半端さが、妻も息子も失ってしまった原因というわけだ。
「う……ん」
 草の上でもぞもぞと動き出して軽く伸びをするミューレ。どうやら目が覚めたようだ。ずっと私の背中で眠ってくれていたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
妻に別れを告げられて去っていく姿を追いかけることさえ出来ない、情けないパパをこの子に見せずに済んだのだから。
無理な遠出をさせてしまったうえに何の目的も果たせていないとなると、ミューレには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ふぁ……ここ、どこ?」
 きょろきょろと辺りを確認しようとするミューレの足取りは心なしか軽い。少し眠っただけなのに、かなり体力が戻っているように見受けられる。
この子の若い力は私の想像を越えることもあり、なかなか侮れないところがある。すぐに消耗してしまう反面、回復するのも早いのかもしれない。
「起きたのかい」
「……パパ、どうしたの。どこか、痛いの?」
「ん、どうしてだい?」
「だって、泣いてるから」
「えっ」
 頬に手のひらを当ててみて、私はようやく自分が涙を流していたことに気がついた。目から流れ出る温もりは確かに私のものだ。
私はこんなにも、妻や息子のことを愛おしく思っていたのか。失ってみて初めて気づかされた。どうして、近くに居たときにちゃんとそれを実現してやれなかったのだろう。
どうして、私は。わたし、は。ミューレが見ている前だというのに、涙は後から後から溢れ出してきてとまらなかった。
「泣かないで。いたいのいたいの、とんでけー」
 前足を私の方へ差し出して、たどたどしい口調でのおまじない。以前大きく転んでしまい、泣いていたミューレに私が掛けてやった言葉だ。
実際に痛みが軽くなるかは定かではないが、聞くだけで少しは気持ちが楽になるのではないかと思っていた。どうやら、その効果は間違ってはいなかったようだ。
ほんの一言。息継ぎすらせずに伝えられてしまう短い言葉。それなのに、不思議と私の心へ沁み込んでいく。心の奥底へと、深く、深く。
そうだ。私は、何もかも無くしてしまったわけじゃない。私にはこの子がいてくれる。今度こそ見失ったりしない。絶対に失いたくない、失わせはしない。
私はミューレをそっと抱き上げると、両手でぎゅっと抱きしめた。ちゃんと近くにあるこの子の存在を、温もりを確かめるかのように。
最初は少し驚いた様子を見せたミューレだったが、私の手や肌の温かさを感じて安心したようだ。頭をゆっくりと私の方へ傾けて、身を預けてくれた。
「大丈夫だ、ミューレ。どこも痛くないから。さあ、暗くなってきたし、おうちに帰ろう」
「うんっ」
 歩けるところまでは歩きたいようなので、私は再びミューレを地面の上に降ろしてやる。きっと途中で疲れてしまうだろうから、その時はまたおんぶしてやろう。
妻と息子のことが完全に吹っ切れたわけではない。心の整理がつくのはもうしばらくかかるとは思う。
けれども今は失ってしまったものに想いを馳せるより、目の前にあるものを大切にすべきだと私はようやく気が付いたのだ。もう、迷うものか。

 ◇

 あの長い長い散歩を終えて戻ってから、これと言って大きな変化もなく私は今までと同じようにミューレとの日常を過ごしていた。
日が暮れてから住処に戻ってくるというのはあの子にとってかなり特別な出来事だったように思えるのだが、ミューレは特に気に留めている様子はない。
私としてもあの日のことに言及されないのはありがたくもあったのだが。まさか、この子の前で涙を見せることになってしまうとはな。
あんな情けない父親の姿を晒すのはあれで最後にしておきたいもの。それくらいの心意気がなければ、ちゃんとした父親は務まらないような気がするのだ。

 そんなある日のこと、ミューレが熱を出して寝込んでしまったのだ。顔に触れてみると明らかに普段より熱い。呼吸も荒く、息苦しそうだった。
一瞬、無理して遠出させた疲れが祟ったのだろうかと気を揉んだが、あれからもう何日も経っているのだ。帰ってきてすぐは元気だったし、食欲もあった。
湖への遠征が直接的な原因とは考えづらい。これまで大きく体調を崩したことがなかっただけに、心配だった。ひとまず住処の中に寝かせてはいるが。
「……大丈夫かい」
「う、うーん。熱いよう」
 額の大きな鱗に手を当ててみると、やはり普段よりも熱を持っている。一昨日、昨日とあまり状況は変わっていないような感じがした。
近くを流れる川の水に浸した大きな葉を顔に当ててやってはいるが、果たしてこれがどれほどの効果を示すのか。少しでも気休めになればという具合だ。
最初、体がだるいとミューレから聞いたときは一晩ゆっくり休めば回復するぐらいにしか思っていなかった私にも、さすがに焦りが出てくる。
調子が悪かった時の対処法なんて、たくさん栄養を取ってゆっくり休むくらいしか思い浮かばない。私が幼いころもおぼろげながらそれで何とかなっていた記憶があった。
幸い、ミューレの食欲はそこまで減退してはおらず、普段より勢いはなくとも木の実を食べることは食べていた。あとは熱さえ下がってくれれば、なのだが。
「心配するな。パパが付いてるからな」
 そっと背中を撫でてやると心なしかミューレの表情は和らいだ。文字通り今の私にはこの子の隣についてやることくらいしか出来ないのだが。
しかし、今日で三日目か。明日、明後日と改善されなかったとすれば何か他の方法を考えなければならない。どうしたものか。
私の住処の近くで同じような子育てをしているポケモンは、残念ながら思い当たる節はなかった。熱が下がらないときの対処法を聞くなら同じく子を持つ親の方が良い。
近くにいないとなると、でまたもやグラッドの姿が頭に浮かんだ。とはいえ、前回のテーラの捜索と違って緊急を要する事柄だ。
急いで探してきてくれとも頼みづらいし、困ったときは何かと彼に頼ってばかりなのも気が引けてくる。出来るだけ自分の力で何とかしたいところではある。
「パ……パ」
「どうした、ミューレ」
「か、体がっ」
 言いかけたミューレの背中、いや体全体が突然淡い光に包まれた。あまりの眩しさに目を開けていられない。だが、この光には微かに見覚えがある。
遥か昔に私もこんな光に包まれたような、どこか懐かしい目映さ。真夏の太陽のような突き刺すものではなく、春の木漏れ日のような優しさがある光。おそらく、これは――――。

―7―

 目をつぶっていても分かるくらいの眩しい光。不用意に開こうものなら目がくらんでしまうだろう。そんなに長時間は続かなかったはずだ。
もうそろそろおさまった頃だろうか。瞼の向こう側が大人しくなった雰囲気を感じながら私は恐る恐る目を開いてみた。
そこには体躯の小さかったジャラコではなく、二倍近くの大きさになった進化系のジャランゴの姿があった。ミューレが進化の瞬間を迎えたということになる。
成長と共に自分の体が著しく変わってしまう進化。直後は戸惑うことも多い。特にジャラコの四足歩行から、ジャランゴの二足歩行への変化は大きい。
自由に動かせるようになった両手を目の前にかざして、まるで自分の物ではないかのように不思議そうに見つめているミューレ。
ジャランゴの両手両足の黄色い爪はなかなかしっかりとしていて、私のものと比べても鋭さや大きさに遜色がないかもしれない。
「パパ……私」
 目をぱちぱちとさせながら、戸惑いを含んだ声でミューレは私に視線を送る。無理もない、初めての進化だ。最初は体の変化に気持ちが追い付かないことだってある。
「おめでとう、ミューレ。お前は進化したんだよ」
「進化……?」
「そう。体が育ってくると別の姿へ変わることがあるんだ。それを進化、と呼んでいるんだよ」
 ミューレも成長したから進化が起きたんだよ、と付け加えてはおいたが。理解してくれるだろうか。
私もドラメシヤから二回の進化を経て今のドラパルトの姿になったわけではあるが。相当昔のことになるため、どんな感じで姿が変わったのかはっきりとは覚えていないのだ。
正直、どういった経緯で進化が起こるのかについては私もあまり詳しくは分からない。中には進化しないポケモンもいるし、ただ成長を重ねただけでは姿が変わらなず、特別な条件が必要な進化もあるらしい。
「そっかあ。どう、パパ。ちょっと大きくなれたよ」
 えっへんと鼻を鳴らして自慢げに胸を張るミューレ。意外にもあっさりと自身の体の変化を受け入れているらしい。まだまだ若いので考え方が柔軟なんだろうか。
進化したことに頭の理解が追い付かずに、慌てふためいたり気持ちが沈んでしまったりといったことはなさそうで一安心だった。この子は私が思っているよりは逞しいな。
「そうだな、見違えたよ」
 私も少しぎこちない感じでミューレの頭に触れる。まだ若干身を屈める必要はあるが、抱き寄せなくても十分に手が届く範囲になっていた。
一回り大きくなったミューレの頭の大きな黄色い鱗。進化を通してこの子の明らかな成長を感じられるのは喜ばしいことだ。私も自然と顔が綻んでいた。
私に撫でられると嬉しそうに目を細めるその顔つきはまだまだジャラコの頃を彷彿とさせるもの。姿形が変わっても根本的なところまでは変わっていないようだ。
「でもまだパパには届かないなあ」
 ミューレがつま先で立ち上がって背伸びをしてみても、まだ見上げなければ私とは視線が合いそうになかった。もちろんジャラコのときよりはずっと大きくなってはいるのだが。
私はゴーストタイプも入っているせいか、地面に立って歩く必要がない。なのでどこまでを私の高さと呼ぶのか曖昧なところではある。
仮に私が地面に立ったとしても、ミューレよりはまだまだ高いと思われる。確か、ジャランゴはもう一回進化を残していたはずだ。次の進化がくれば、どうだろうな。
「もう、熱は大丈夫かい?」
「うん。気分はいいよ。体を動かしたいくらい!」
 進化直後の元気が有り余っているのか、ミューレはぴょんとジャンプして見せてくれた。発熱していたのは病気ではなく、進化の予兆だったというわけか。それならば一安心だ。
ただ、飛び上がったミューレと住処の壁との間隔が、思ったよりも残っていなかったような気がする。壁に傷を増やさないように気を付けてもらわねば。
体が大きくなったことに慣れていないうちは私もしょっちゅう木の幹や枝、岩の間を潜るときに頭をぶつけたものだ。今でこそ大丈夫だが感覚を掴むのになかなか苦労した。
「あ……」
 と、自身の進化をしみじみと思い返していた私をミューレの大きなお腹の音が現実に引き戻してくれた。進化にエネルギーを使ったせいでかなりお腹が空いているようだ。
「まずは食事にしようか」
「うんっ」
 成長した分、ジャラコのときよりもたくさん食べるようになるだろう。食料探しも今までより忙しくなりそうだった。
それでも、私がどこかわくわくしているのは純粋にこの子の成長を祝福できているからなのだろう。私の両手の中で泣いていた小さな子が、立派になったな。ミューレ。

 ◇

 ミューレがジャランゴに進化して何日か経ったある日の昼下がり。いつも出かけている草原で昼食を済ませた私は休憩も兼ねて木の幹にもたれかかっていた。
一緒に来ていたミューレはというと、私の視線の少し先で拳を固めて深呼吸をしている。ミューレ曰く、精神統一なるものをしているらしい。
進化することで格闘タイプが加わって、体つきもがっしりしてきた。無意識のうちに体を鍛錬したくなるのは、その身に闘志を宿したものの性なのだろうか。
私もゴーストタイプを持つが故か、死んだ者の気配を敏感に感じ取ってしまうことがある。自分の意識とは無関係に、声にならない声のようなものが頭に語り掛けてくる感覚。
おそらく同じゴーストポケモンでなければ説明しても理解してはもらえないだろう。生まれながらにしてゴーストの性質があるのでさすがに慣れはしたが。
他のポケモンの死に無理やり寄り添わされているようで、あまり気分の良いものではなく辟易していた面もあった。
だがこの能力のおかげでジャラランガの母親の気配に気が付き、ミューレを助けることが出来たので悪いことばかりではなかったようだ。
「はっ……!」
 拳を握りしめた右腕をまっすぐに前に突き出す。続いて左腕。体術の心得は私にはないが、素人目には無駄のないスムーズな動きのように見えた。
さらには右足を浮かせて、左足を軸にぐるんと横に一回転。着地したときに若干ふらついてはいたものの、なかなか形になっている回し蹴りだ。
二本足で歩けるようになって両手が自由に使えるのが嬉しいとミューレは話していた。進化したジャランゴの体にもしっかり適応できているようで頼もしい。
まだまだ体を動かしたくて仕方がないのか、今度は地面からせり出していた岩の前へ。大きさはミューレの身長くらいある。何をするつもりなのか。
岩を一瞥した後、先ほどの深呼吸の構えを取るミューレ。まさかとは思うが、その岩を割るつもりなのか。さすがにそれはいくら何でも無茶が過ぎるだろう。
進化して今まで出来なかったことが出来るようになって、気持ちが大きくなっているのかもしれない。新しいことに挑戦してみる姿勢は大切ではある、が。
怪我をしてしまう前に止めなくては。と、私が体を浮かせたときにはもう遅かったようだ。気合いの入った雄叫びと共にミューレの拳は岩へと叩きつけられていて。
「……っ」
 ふううっと大きく息を吐きだしたミューレの呼吸音。ミューレが殴りつけた大岩の表面の一部分が破片となってぱらぱらと地面に転がり落ちていた。
真っ二つに割れこそはしなかったものの、岩に衝撃を与えることには成功していたようだ。ミューレが手の甲を痛めたり、気にしている様子は微塵もなかった。
私が想像している以上に、この子は逞しく育っているのかもしれない。それでも、親の目線からすれば危ないことは極力控えてもらいたいというのが本音ではある。
「あんまり無茶はしないでくれよ」
「うん。大丈夫。でも、いつかは割れるようになりたいな」
 岩に一撃を加えた自分の右手をまじまじと見つめながらぎゅっと握りしめるミューレ。闘争心はまだまだ体の奥からあふれ出てきているようだった。
目前の岩を眺める眼差しにもどこか風格さえ携えているような気さえしてくる。まだまだ私が付いていてやらねばと思っていたが、少々過保護になりすぎていたか。
やはり、ジャラコのときとは違うのだな。ミューレだけでなく、私の方もこの子への接し方を進化させるタイミングなのかもしれない。
いずれはこの子も独り立ちして私の元を離れていくことになる。それを考えればいつまでも手取り足取りというわけにもいかないだろう。
ミューレの成長が嬉しい反面、どことなく寂しさを覚えてしまうのは時期早々な気もするが。まさか私がこんな感覚を抱くことになるとは夢にも思っていなかった。
「そうか。私も応援しているぞ」
「へへ、頑張るよ」
 ぽんと肩に置かれた私の手に込められた想いを知ってか知らずか。私の顔を見上げると、ミューレは屈託なく笑ったのだ。

―8―

 夕方。私の住処の周りも徐々に薄暗くなり始めている。不安に駆られ、外に出て辺りをきょろきょろと見回してみるも、求めていた姿はどこにも見当たらない。
まいったな。暗くなるまでには戻るようにと、しっかり言い聞かせたつもりではあったのだが。確かに出かける前に毎回言っていたわけではないので私の念押しが足りなかったのかもしれない。
「どうしたんです、ソルさん」
 見上げると、グラッドがいつも声を掛けてくる辺りの枝に留まって私を見下ろしていた。彼もちょうど今自分の住処の近くまで戻ってきたところだろう。
「いや、ミューレがまだ戻ってこなくてな。どこかで見かけなかったかい?」
「ミューレちゃんですか。うーん、見てないですね……」
 少し頭を捻ったグラッドからもミューレの目撃報告は出てこなかった。そうか、わずかながらも期待していたのだが見ていないなら仕方がない。
「そうか、ならいいんだ」
「心配でしょう。探すの、手伝いましょうか?」
 ありがとう、助かるよ。と喉元まで出かかった声を私はどうにか飲み下した。これからさらに暗くなって視界が悪くなる中、あまり彼に負担を掛けたくなかったのもある。
それに先日のテーラの件といい、グラッドに頼ってばかりでは父親としての示しがつかないというか。ミューレもジャランゴに進化して、私もいつまでも昔のままでいるわけにはいくまい。
「ありがとう。でも、こっちで何とか探してみるよ」
「分かりました。ミューレちゃん、早く見つかると良いですね。それじゃ」
 何だか意外だなという表情が隠しきれていないグラッドだったが、それ以上追及はしてこなかった。当事者である私が何とかすると言っているところに首を突っ込むのはお節介というもの。
その辺りグラッドはきっちり弁えている。忘れずに私に短く挨拶を済ませると木の枝を蹴ってどこかへ飛び去っていった。
さて、自分で何とかすると言い切ったものの。何かいい案があるわけでもなく、これからどうするか。こうしている間にも辺りはどんどん暗くなっていく。
これまでミューレがこんなにも遅くなるまで住処に戻ってこなかったことはなかった。あまりにも私が付きっきりでは過保護になってしまうと思い、何処へ行くのか最近はある程度ミューレに任せていた。
もちろん、知らないポケモンにむやみに付いていかないことや、見たことのない木の実を見つけても勝手に食べたりしないことなどは徹底して。
暗くなるまでには戻ってくるというのもその中の一つであり、これまでもミューレが約束を破ったことがなかったため私も心配していなかったのだが。
私の脳裏に、息子を見失ってしまったときの記憶が過る。頭の中が真っ白で何も考えられず、居ても立ってもいられなくなる感じ。
猛烈な剣幕で捲し立てるテーラの表情がつい最近のことのように思い出されて。ここであたふたしているだけではあの時と全く同じであった。
あの子が大きくなっても私は何も変わっていないことになる。こんなことでは父親失格だ。狼狽えている間にも時間は過ぎていく。探しに、探しに行かなければ。
まずは私とミューレが何度も訪れていた、よく木の実を採りに行っている区域に向かおうとしたところ。視線の先の暗がりの中から、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる姿。
「ミューレ!」
 血相を変えて飛び出していった私とは対照的に、当のミューレは何事もなかったかのようにきょとんとしている。
いつも通り歩いて戻ってきているので、とりあえず怪我などはしていなさそうだ。よかった、ちゃんと。ちゃんと帰ってきてくれた。
「パパ、どうしたの。泣きそうな顔して」
「あんまり、心配させないでくれ……」
 遅くまで帰ってこなかったミューレに対する憤りはもちろんあった。しかしそれよりもずっと、ちゃんと無事に帰ってきてくれたことに対する安堵の気持ちが溢れてきて。
私は思わずこの子に手を伸ばしてぎゅっと抱きしめていた。ジャランゴに進化して以来、抱き上げたりおんぶしたりすることはなくなっていたが。
久しぶりに抱き寄せたミューレの体は以前よりも逞しくなっているような気がした。
「……ごめんなさい、パパ。これ、探してたの」
 ミューレが差し出した両手に乗せられていたのは、青い木の実が二つ。これは昔、ミューレがジャラコだったときに草原へ出かけたときに食べたものだ。
独特の苦みがあるから試しに口にしたミューレは渋い顔をしていたっけ。確かになかなか見つからない、私の好きな木の実ではあるが。あの時のこと、覚えていてくれたのか。
「パパに食べてもらいたくて。いつもありがとうって」
「そう、だったのか」
 この木の実はあの草原に偶然転がっていたのをミューレが見つけたものだったはず。近くにそれが実っている木もなかった記憶がある。
それを二つも探していたとなれば、こんなにも帰りが遅くなってしまったのも合点がいくというもの。そうか、ミューレが私のためにわざわざ。
初めてのプレゼントに舞い上がってしまいたくなる気持ちを辛うじて抑え込むと、私はミューレから差し出された木の実を受け取った。
片方が大きくて、もう片方がやや小さい。不揃いな青い木の実だった。きっと同じ大きさのものを探そうとして、辛うじて見つけたのが小さい方だったのだろう。
せっかくミューレが私にくれたものだ。何だか食べるのがもったいなくてそっとしまっておきたくなってしまうが。それでは頑張って探し回ったのが報われない。
「ちょうど二つある。一緒に食べるかい?」
「え、いいの?」
 ジャラコの頃はとても苦くて食べられたものではなさそうだったが。今ならば味覚の方も少しは成長して、独特の苦みも平気になっているのかもしれない。
そんな期待があったからこそ、ミューレは即座に首を横に振らなかったのだろう。小さい方の木の実ならば手ごろな大きさだ。
「ミューレが疲れていなければ、近くの草原にでも行かないか。そこで食べよう」
「うん、大丈夫。行く!」
 あの草原はミューレと一緒に何度も訪れている近場ではある。とはいえ、ほとんど一日中あちこち探した後にまだ体力が残っているのは頼もしい限りだ。
そういえば、こんなに暗くなってから私と出かけるのは初めてか。だからどことなくミューレの顔つきがきらきらしているのかもしれない。
「ただ、約束だ。ミューレだけで出かけるときは必ず、暗くなるまでには戻ってくること。本当に、心配したんだからな」
「……うん。パパ、ごめんなさい」
 しゅんと縮こまって申し訳なさそうに項垂れるミューレ。分かってくれたのならそれでいい。こんなに遅くなったのは今回が初めてのことだし、私もそれ以上言及するつもりはなかった。
ぽんと軽くミューレの頭に手を当てると、近くの草原に向かおうと促す。私が言わんとすることを察したらしく、嬉しそうに頷いてミューレも私の後に続いた。

 草むらの上に寝転がって、星空を見上げながらミューレから貰った木の実を味わう。舌の表面をちくちくと突き刺すような渋みがじんわりと口の中に広がった。
ああ、この感覚も久しぶりだな。その渋みを舌の上で転がしているうちに徐々に木の実本来の旨味が効いてくる。やはり何度食べても味わい深い。
私は飲み込んだ後も残っていた後味を噛みしめながら、小さい方の木の実を渡した隣のミューレの方をちらりと見やる。
何度かもぐもぐと口を動かしてはいたものの、若干眉間にしわが寄っている感じがしないでもない。やっぱりまだこの渋みはミューレには強すぎたか。
ただ、ジャラコのときのようにとてもではないが食べられない雰囲気でもなさそうだった。ごくりと飲み込むとどこか満足げに私と視線を合わせた。
「えへへ、まだ苦いや」
 暗い中でもミューレの笑顔が少しばかり引きつっているのが分かる。口の中に残る渋みがまだミューレには少々刺激が強いらしい。
「だけど、前よりは食べられただろう?」
「うん、そうかも」
 短く返事をした後、ミューレも隣の私に倣って空を見上げる。寝転がりながら何かを食べるなんて行儀が悪い、と本来ならたしなめるべき場面だろうが今夜ばかりは特別だ。
これまで夜出歩くのは暗くて危ないからと控えるようにしてきたが、天気が良い日はこうやって無心で星を見るのも悪くないかもしれない。
「綺麗だね」
「そうだな、ミューレ」
 相変わらず私の好きな木の実は美味しかった。ただそれよりも、ミューレと一緒にこの木の実を味わえたことが何よりも嬉しかったのだ。

―9―

 どうもこの所、ミューレの元気がないように思える。声を掛けても返事をするまでに間があったり、一緒に食事をしていても木の実を食べるのが遅かったり。
遠くを見つめてぼうっとしているようなときもあった。どこか体の調子でも悪いのかと聞いてはみたものの、ミューレは大丈夫と首を横に振るだけだった。
ミューレは今日も一匹で出かけているが、何だか不安が残る。あの日以来、日が暮れる前には必ず住処には戻ってきてくれているのでそちらの心配していなかったが。
共に過ごしてきた時間が長い分だけ、ミューレの小さな変化には気づけるようにはなってきた。ただ、私が気づいていても当のミューレが話してくれないならそれまでではある。
私に伝えることに躊躇う理由があるのならば、無理やりに問いただしたりするつもりはなかったが。やはり、気がかりなものは気がかりではあった。
きっと、ミューレの方から打ち明けてくれるのを待っていた方が良いのだろう。進化してからだいぶ日も経っているし、悩み多き多感な時期なのかもしれない。
「……ただいま」
「おお、お帰り。ミューレ」
 入り口に背を向けて物思いにふけっていたため、ミューレが戻ってきているのに気が付かなかった。やはり発する声の調子や表情、どれを取っても沈み気味で勢いがない。
この子からいつもの溌剌とした声が聞こえなくなってから何日くらいになるだろう。またその元気な声と、明るい笑顔を私の周りに振りまいてほしかった。
「ねえ、パパ」
「何だい?」
「どうして、私にはママがいないの?」
「……!」
 神妙な顔つきで口を開いたミューレ。普段とは違う雰囲気に、何か話してくれそうだと思ってはいたが。そうか。疑問を持ち始めてもおかしくはない、か。
ミューレがタマゴから孵ったときから、いつかは話さなければならない日が来るという認識が私の頭の片隅にはあった。自分の境遇は普通とは違うと気づくその時が。
もし、ジャラコの頃に聞かれていたとしたら。もっとミューレが大きくなるまで本当のことは伏せて伝えていたかもしれない。しかし、今ならば。
自身のことをちゃんと知る権利がこの子にはあるし、私にはちゃんと伝える義務がある。遅かれ早かれいつかは訪れていたであろう。それが今日だっただけのこと。
「他の子がね。その子のパパとママと一緒に歩いてるのを見たの。その時からかな。どうして私にはパパだけなんだろう、って気になってて……」
「そう、だったのか」
 なるほど。別の親子連れの母親の姿を見たのがきっかけになっていたというわけか。もしテーラと息子と離れていなければ、私もきっと三匹で出かけることもあっただろう。
父親と母親と子供が揃って外を出歩くという、割と自然な家族の姿。あいにく、私もミューレも事情は違えどそれを行うことが出来ない状況にある。
パパはいるけれど、ママの姿を見たことがない。自分の置かれている環境が他とは何か違う。それに気がついたことによる違和感が、ミューレの顔を曇らせていたようだ。
「実はな、ミューレ」
 何から伝えるべきか。この際だからミューレに話しておきたいことはたくさんあったが、いきなりたくさんの情報が飛び込んできてもきっと混乱してしまう。
まずは、タマゴだったミューレを見つけるに至った経緯から追いかけていくのが自然な流れだろう。私がテーラと息子に出ていかれた、あの日の出来事から。
実のところ、妻に愛想を尽かされたことまで言わなくともミューレに生い立ちを伝えることはできたが、今更自分を取り繕うのも無様に思えたのですべてを話すことにした。
私にはテーラという妻とドラメシヤの息子がいて、この住処で一緒に暮らしていたこと。留守番中の私の居眠りが原因で息子を見失い、それが引き金で妻に出ていかれたこと。
その後、私が二匹を探している最中に倒れていたジャラランガを見つけたこと。そして、ジャラランガが必死で守り抜いていたタマゴのことも。
「そのジャラランガが抱えていたタマゴを私が引き取って孵ったのがミューレ、お前なんだ」
「じゃあ、その倒れていたのが私の、本当のママ……ってこと?」
 ミューレの問いかけに私はゆっくりと頷いた。想像していたよりもずっと、この子は落ち着いて私の話に聞き入っているようだった。
それでもタマゴのことを伝えた瞬間、ミューレの瞳が僅かに見開かれたのを私は見逃していなかった。確かにドラパルトとジャランゴは同じドラゴンタイプでこそあれど別の種族。
私とミューレの間には共通点よりも相違点の方が多い。この子が薄々感づいていた可能性も無きにしも非ずではあるが。
自分の頭の中でぼんやりと思い描いていた部分と、直接私の口から事実を伝えられるのでは受け止め方も違ってくるというもの。
「私、パパの本当の子供じゃないんだね……」
「ミューレ……」
 今のところ泣き出したりはしていない。ただ、これまでに見たことがないような戸惑いを交えた思いつめた表情ではあった。
ある程度の覚悟はしていたが、それを上回るくらい衝撃的な真実を告げられた、そんな顔。すべてを受け止められるようになるにはまだまだ時間が必要なはずだ。
「パパの奥さんと子供のこと、気になる?」
「少しは、な」
 さすがにあの日から時間が経っているだけあって、私を繋ぎとめていた妻や息子への気持ちは大分薄まりつつはあったが。
もう未練はない、と言い切ってしまうには私は彼女らと長くを過ごしすぎていた。もし、一度も会えないままでいたならば、その記憶や未練はより強いものになっていただろう。
あの時グラッドの情報を頼りに幼いミューレを連れ、無理をしてでも会いに行った私の判断は間違っていなかったと信じたかった。
それでも。この期に及んで未だにテーラが既に別の番を見つけていると知っていても、ふとした瞬間に元気でやっているだろうかと頭を過ることがある。
これはきっと私がこの先、生きていく上でずっと背負っていかなければならないもの。息子を蔑ろにしてしまった私の身から出た錆。受けなければならない報いなのだ。
もしかするとミューレは、私が首を横に振ってくれることを少しは期待していたのかもしれない。私の返事を聞いたときに一瞬見せた寂しそうな顔つきは気のせいではなかった。
「なあ、ミューレ」
 私の問いかけに、顔を上げるミューレ。その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるような気がした。何も言わずにそっと肩に両手を伸ばして抱き寄せる。
「私が、お前を本当の娘のように思う気持ちは変わらないよ。たとえ、血の繋がりがなくてもな」
「ぱ、パ……」
 私の胸に顔を埋めて、ミューレは静かに肩を震わせて涙を流した。瞳から零れ落ちた雫は、私の胸を伝ってゆっくりと尻尾の方へと流れていく。
一つ一つ積み重ねていくような重たい事実を突きつけられて、胸がいっぱいになっていたのだろう。
ミューレがいくらジャランゴに進化して成長してきていると言っても、精神的にはまだまだ幼い面もある。
私が支えてやりたいし、守ってやりたい。目の前にいるのは私の大切な娘であり、大切な存在だった。
「お前は私の自慢の娘だよ、ミューレ」
「う、うんっ……」
 時折嗚咽を交えながら、何とか声を絞り出した感じだった。ミューレの瞳から溢れてくる涙はしばらくの間、おさまりそうにない。
残念ながら私の胸や腹は水気を受け取るのにはあまり向いてはいないが、今は唯々受け止めきれなかったミューレの気持ちを受け入れてやるだけだ。
私が息子を見失い、妻に出ていかれたのも。探している最中に倒れていたジャラランガを見つけたのも。偶然が重なった結果ではある。
それでも、妻と息子を一度に失って虚ろになりかけていた私の心をずっと支えてくれていたのだ。今の私にはこの子の、ミューレの存在がすべてだったのだ。

―10―

「あいたっ」
 突然頭の左側に襲い掛かってきた衝撃に、私は思わず体を起こしてしまっていた。慌てて辺りを見回すといつも見慣れた住処の中であることが分かる。
外はまだ暗い。私の頭にぶつかったのは隣で眠っていたミューレが寝返りをうった時に転がってきた右腕だろう。ジャランゴのときよりも一回り太くなった逞しい腕。
私の細々とした両手とは比べ物にならないくらいがっしりしているそれ。横にいるのは先日めでたくジャラランガに進化したミューレだった。
どうも、ジャラコの種族は私たちドラパルトと比べると成長の速度に違いがあるらしい。私がドロンチからドラパルトへ進化するのには大分時間を要した記憶がある。
少なくとも、ミューレがジャランゴからジャラランガへ進化するのに経た時間の倍以上、私はドロンチの姿のままで生活をしていたように思えた。
もともと体を鍛えるのに熱心だったミューレなので、それらの行為が経験となり進化が早まった可能性も否めはしないが。それにしても、想像以上の早さ。
娘の進化を喜ぶと同時に、ミューレが巣立つときが近づいてきていることを身につまされる。最終進化系ともなれば、もう十分大人だ。
なんやかんやで私に甘えたり頼ったりしている面はあれど、いずれは独り立ちしなければならないだろう。それは、この子と離れ離れになること意味する。
進化した時のように、心からの笑顔で旅立っていくミューレを見送ることが私に出来るだろうか。それこそ胸が詰まっていつぞやのときのように涙を流してしまいかねない。
ここのところ私の頭を悩ませていることの一つである。ただ、これはまだもう一つの事柄と比べると緊急性は少なかった。ミューレが自立するとしても今日明日のことではないからだ。
「うぅ……ん」
 寝返りの残りでミューレの右足がだらりと地面の上に投げ出される。足の方も腕に負けず劣らず、ジャランゴのそれよりも一回り以上逞しくなっているように感じられた。
最初に飛んできたのが腕でなく足ならば、私は痛みで天井まで飛び上がってしまっていたかもしれない。しかし、私の視線はミューレの足先よりも別の個所に向いてしまっていた。
眠っているのだから無防備なのはもちろんだ。ずっと寝泊まりしていた住居で気を張る必要はなにもない。だからこそこんな大胆なポーズなのだろうが。
ミューレのきゅっと引き締まったふとももの付け根に、確かにすっと入った雌の筋。無意識に私の目が吸い寄せられてしまうのは、やはり。
いかんいかんと頭を左右に振ってみても、ミューレの寝相は目のやり場に困ってしまう。うつ伏せで寝てくれれば、と思いもしたがそれはそれで尻尾の付け根が気になってしまいそうで。
ミューレがジャランゴのときはこんなことはなかった。しかし彼女がジャラランガに進化してからというもの、どうも娘に対するものとは別の感情が私の中に湧き上がってきている。
遠慮なく顔を近づけてきたり、手や肩へのスキンシップに胸が高鳴ってしまったこともある。精神的な幼さは残っていても、体つきはすっかり成熟した雌だ。
同じドラゴンタイプということもあって、娘ではなく一匹の異性として私の目に映っているときがあるのだ。きっとこれはテーラと離れて久しいというのもあるのだろう。
幼いミューレの世話で手一杯だった間はなかなか余裕がなかったが、この子が成長して私の気持ちにゆとりが出てくるとじわじわと雌を求める雄の本能がくすぶりだしていた。
今まで娘同然に育ててきたミューレに、こんな邪な感情を抱いてしまっていることが私の頭を悩ませているもう一つのこと。こちらは症状に自覚があるだけに深刻だった。
そんな私の苦悩など知る由もないミューレは気持ちよさそうに寝息を立てている。やれやれ、眠っているこの子が視界に入ってくるのは目の毒だな。
体の向きを変えようにも、ジャラランガの体格で仰向けに寝転がられては私の落ち着くスペースがない。これは住処の窮屈さももう一つの問題として考える必要が出てきそうだな。
小さくため息をついた後、私は住処の外に出ると木の幹にもたれかかって目を閉じた。ここで軽くもうひと眠りしよう。夜風が少々ひんやりしているが、寝付けないほどではない。
もしミューレにどうして外にいたのと聞かれたなら、おまえの寝返りで起こされてしまったと冗談ぽく伝えればそこまで訝しがりはしないだろう。
木の幹を隔てた住処の中から聞こえてくるミューレの寝息と、穏やかな風の音を子守唄にしているうちに私はいつしか眠りに落ちていった。

 ◇

 住処の近くにある草原。ミューレがジャラコのときから通い詰めていたともなれば私にとってもお馴染みの場所になりつつあった。
取り立てて目立った特徴はなくとも、そこそこの広さと日当たりの良さのおかげで過ごしやすいのが利点だ。障害物が少ないのでミューレを見失いにくいというのもあった。
食事を終えて、木陰で休憩している私自身にはあの頃と比べても大きな変化はない。一つ大きく異なるのは、私の視界に映る彼女の姿。
両足を肩幅くらいに広げ、拳をぎゅっと握りしめ深呼吸をしているミューレ。ぎりぎりのところまで集中力を高めているのか、その瞳はぎゅっと閉じられたまま。
ジャランゴのときにはあまり感じられなかった張り詰めた空気感。近づいたり声を掛けたりするのをためらってしまいそうな気迫が私の元まで伝わってきていた。
「はっ!」
 かっと目を見開いてから右腕をまっすぐに突き出し、続いて左腕。一回り大きくなった逞しい腕から繰り出される衝撃はその辺りの樹木ならへし折ってしまいそうな勢いだ。
そのまま右足を上に蹴り上げ、左足を軸にぐるりと回し蹴り。頭や背中からいくつも伸びていた鱗同士がぶつかり合ってぱらぱらと乾いた音を立てる。
進化前より体重もかなり増えているだろうに、身のこなしや着地はスムーズでふらつきもない。進化した自分の体にしっかりと適応できているようで頼もしい限りだ。
一通り体が動くのを確かめた後、ミューレは例の岩の前までゆっくりと歩みを進めていく。ジャランゴの頃にはどんなに頑張っても割れなかった彼女のとっての大きな壁。
だが、今ならばひょっとしたら。きっと私もあの子と同じ気持ちになっていたはずだ。岩の目の前で集中し始めたミューレの一挙一動を固唾を呑んでじっと見守ること幾ばくか。
瞬間、ミューレは言葉にならないような激しい雄叫びを上げ、渾身の一撃を目の前に突き出した。直後。みしり、と岩の軋む音が響く。彼女の拳は確実に内部までめり込んでいた。
やがて岩に突き立てられた右腕を中心に次々と亀裂が広がっていき、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。格闘技に関しては素人目の私から見ても、見事な一撃だったように思う。
砂ぼこりの中、毅然として立っているミューレの背中がなんだかとても大きく感じられた。知らないうちに、あの子が遠くへ行ってしまったようなそんな寂しさが私の胸をきゅっと締め付けた。
「パパ、私やったよ!」
 きらきらとした笑顔で私に駆け寄ってきたミューレの姿と声で私ははっと我に返る。何を不安がっているんだ、私は。この子はこんなにも私の近くにいるじゃないか。
「あ、ああ……見ていたよ」
 えっへんと無邪気に胸を張るミューレの顔つきはジャラコのときから変わらない、私に安心感をくれる屈託のない笑み。例え姿が変わってもそれはいつまでも変わらないもの。
すごいな、やったな。と、私はミューレの頭に手を伸ばす。もう、手を上に上げるか体を浮かすかしなければ、ミューレの頭には届かない。大きくなったな。
ジャランゴのときよりもさらに立派になった、額の鱗の感触が私の手に沁み込んでくるかのよう。とても硬いのにどこか温かみがあるような、不思議な感覚だった。
子ども扱いしないでよと嫌がられるかもしれないと思っていたが、意外にもミューレは心地よさそうに目を細めてくれていた。
最終進化系になっても、まだまだ子供っぽさが残っている部分はある。いきなり気持ちの方まで大人になってしまうわけではない。大丈夫だ、まだ。大丈夫。
ジャラランガに進化したミューレの姿を見るたびに自分の中に浮かび上がる不安。それを振り払うかのように、私は無心でこの子の頭を撫で続けていたのだ。

―11―

「ねえ、パパってば」
 ミューレの呼び掛けで私はふっと我に返る。気が付けば半分くらい食べかけの木の実が私の手の中で退屈そうに佇んでいた。齧り口が乾きつつある。
食事中もお構いなしに考え事を始めてしまう私の頭にも困ったものだ。慌てて残りを口の中へ放りこむ。小気味よい歯ごたえに反して、味はあまり感じられなかった。
「どうかしたの。最近何かぼうっとしてない?」
「ん、そうかい。そんなつもりはないけどな」
 無理して平静を装った私の顔は、この子の目にはどう映っているのだろう。もちろん何でもないことはない。それは私が自分で一番よく分かっていることだ。
長く一緒に暮らしているんだし、こんな嘘はすぐにばれてしまうはずだ。ジャランゴのときに、私が彼女の様子がおかしいことに気が付いたように。
「どこか、具合でも悪い?」
 私の顔を覗き込むようにぐいっと距離を縮めてくるミューレ。自身の外見が私にどう影響を与えているか、無自覚なのも悩ましいものだ。
もう少し近づけば、息が触れ合うくらいの間隔だった。あんまり不意に近づいてこられると良くない。動揺が顔に出てしまうかもしれないから。
ドラパルトに進化する前の若い頃ならば間違いなくどぎまぎして会話どころではなかったはずだ。間近で見る娘の顔を、綺麗になったなと評価している私が少なからず居る。
何度か目をぱちぱちとさせた後に、ゆっくりと首を横に振って大丈夫だよ、ありがとうと返す。娘であるミューレにここまで心配されるようでは世話がない。
「大丈夫だミューレ。体の調子はいつも通りだよ」
 私の作り笑顔がどこまでミューレを誤魔化せるのかは分からない。けれども今はまだ、私の心の内を伝えるべき時ではないと思っている。
このタイミングで切り出したとしても、ミューレを当惑させてしまうだけだ。だからといってどのような打ち明け方が一番良いかなど、私には皆目分からないが。
「それなら、いいけど」
 何だか納得いかない様子ではあったものの、ミューレは残っていた木の実に手を伸ばし始める。私が何か隠し事をしていることは筒抜けだろうが、それ以上追及はしてこなかった。
ミューレとの間に流れる沈黙が、気分の良いものではなくなりつつある。そんな状況を打ち破るかのように、私は無理やり木の実を口の中に放り込んでしゃくしゃくと咀嚼した。

 ◇

 頬に何かが触れる感覚がある。触れているというよりは、さわさわと優しく撫でられているような感触。不思議な心地よさに私はうっとりと目を細めていた。
触れていた黄色く尖った爪がそのまま私の首元からお腹を伝って下腹部へと伸びていく。そこはデリケートな部分であるにも関わらず、私は相手に身を任せていた。
しかし、相手はそこを何度か軽く撫でただけで手を引っ込めてしまう。ほう、なかなか焦らしてくれるじゃないかと私は目の前の雌を軽く睨みつけてやる。
そんな私の視線に臆することなく彼女はいたずらっぽく笑いながらゆっくりと私に顔を近づけてきて、口元を重ねた。軽い口づけの入りから、徐々に深く奥まで。
左右に広い私の口と、前方にやや突き出した彼女の口。形の違いから舌を絡ませるのに苦労するのもご愛敬といったところ。
それでも接吻に互いの吐息が混じり始めるまで、それほど時間は掛からなかった。そして彼女はそのままがっしりとした逞しい両腕を私の背中に――――。
「…………っ!」
 慌てて体を起こした私の周りに広がっていたのは、いつも目にしている住処の中だった。隣ではミューレがすうすうと静かに寝息を立てている。
そうか。夢、か。それもいかがわしい内容の。私も一匹の雄だ。深層的に雌を求める本能が、眠っている間に私に働きかけているのかもしれない。
もちろん、これまでに何度もこういった類の夢を見たことはある。テーラと息子に住処を出ていかれてから、その頻度が上がったような気がしないでもない。
しかし、記憶している限り夢の中で私に寄り添っている雌は妻のテーラだったのだが。さっき夢の中で見たのは間違いなく、ジャラランガの姿。
私を強く抱きしめていたジャラランガが、ミューレの姿になって脳内に滑り込んでこようとしている。いつもと違う相手だったせいか、まだ胸がどきどきしているような気がした。
必死で考えを振り払おうとしても、夢の中にまで出てくる始末。やはり私はミューレのことを求めてしまっていると痛感せざるを得ない。
「……ミューレ」
 このまま住処の中で彼女といると危うく手を出しかねないという危機感と、夢の中とはいえ私に寄り添わせてしまっていたという罪悪感とが半々くらいだった。
頭と気持ちを静めてくる目的も含めて、私は住処の外へ出た。しばらく夜風に当たっていれば、少しはましになるだろうと信じて。

 ◇

 どこへ行くでもなくふらふらと夜を彷徨っているうちに、気が付けばいつもミューレと訪れている草原へと辿り着いてしまっていた。
夜のひんやりとした空気が地表の草を優しく撫でつけている。時折さわさわと風に揺れる音が私の心を落ち着けてくれているような気がした。
昼間こそ度々足を運んだ場所であれど、夜になればまた雰囲気が違ってくる。こんな時間にここに来るのは、ミューレがジャランゴの頃以来だろうか。
ごろりと草の上に仰向けで寝転がって空を見上げてみる。まばらに雲は点在していたが、その隙間から煌く星がひっそりと顔を覗かせていた。
草原に住む夜行性のポケモンの気配も感じない。ただただ静かな夜の草原だ。静寂に包まれているうちに、私の心と体は徐々に冷静さを取り戻しつつあった。
もうしばらくしたら住処に戻ってもいいかもしれない。とはいえ、中に入るのはやっぱり躊躇われるので前のように外で眠ることにはなるだろうが。
「何してるの、パパ」
 仰向けの私を見下ろす姿。薄暗くても輪郭と声で分かる。せっかく落ち着いてきたというのに、また心がざわつきだしてしまいそうだ。
「こんな夜中に黙って出ていくんだもん。心配になって」
「悪かったよ。何だか寝付けなくて、風に当たろうと思ってな」
「そっか」
 私の隣にそっと腰を下ろすミューレ。手を伸ばせば届きそうな距離ではあるが、さすがに夢から覚めて時間が経っている。目を合わせることくらいは出来た。
とはいえ、そこからの言葉が思い浮かばずにいる。外に出た理由は嘘ではないにしても、ちゃんとした事情は伝えきれていない。
ミューレも眠りが浅かったのだとすれば、どれくらいから起きていたのだろうか。ぽつりと呟いた彼女の名を聞かれていなければよいのだが。
頭の中でいくつもの想いが行き交って、考えが纏まらずにいる私の目の前に差し出されたミューレの右腕。その手には何かが握られている。
「ね、お腹、空いてない?」
 言われてみれば確かに。夜も大分更けている。ただふらふらと外に出てきただけだというのに、私は何となく空腹を感じ始めていた。
「一緒に食べようよ。これ、パパの好きなやつ」
 ミューレの手の中には木の実が一つ。青くて丸い、少し渋みがあって味わい深いそれ。目にするのは、ミューレがジャランゴのときに私に採ってきてくれたとき以来になる。
どこから持ってきたんだと聞くと、前に見つけた場所を覚えていて、昼間出かけたときにこっそり住処に持ち帰っていたんだそうだ。
知らない間に私の好物まで探してきてくれるとは、頼もしい娘だ。今度、その木の実が成っている場所を教えてもらわないといけないな。
「……ありがとう」
 手を伸ばしてミューレから木の実を受け取る。爪と爪が触れた。横に並んだ手はもうこの子の方がずっと大きくて立派だった。そのまま口元へ運んで齧る。
ミューレがジャラランガに進化してから一緒にこの実を食べるのは初めてだった。前回は顔をしかめながらも木の実を味わうくらいは出来ていたようだが、今ならどうだろう。
私は木の実を美味しくいただくことよりも、これを食べたミューレがどんな反応を示すかが気になってばかりいた。何度か口の中で咀嚼した後、ごくんと飲み込むミューレ。
「あ、結構おいしい……かもしれない」
「ふふ、ようやく分かってきたかい?」
「何となく。この苦みがパパの言ってた良さなのかあ」
 もう、眉間にしわを寄せたり表情を歪めたりせずにすんなりと味を受け止められている。予感はしていたが、味覚もしっかりと成長してきていたことを感じさせられた。
ミューレがまだジャラコのとき、この子もいつか木の実の良さが分かって一緒に食べられるようになればいいなとおぼろげに考えていた。
しかし今、隣にいるミューレと木の実の良さを共有できたことが、嬉しさよりも寂しさに繋がってしまうとは。あの頃の私はきっと夢にも思わなかっただろう。
せっかくミューレが私のためにと採ってきてくれた好物の木の実。普段は好んでやまないこの絶妙な渋みが、私の舌の奥を強く突き刺しているような気がした。

―12―

 お互いに木の実を食べ終えてしまい、間を持たせるものがなくなってしまった。夜の草原を吹き抜ける静かな風が、私とミューレの間を駆け抜けていく。
以前ならば沈黙など大して気にはならなかったが、今はミューレと無言の時間が続くことに居心地の悪さを覚えてしまう。きっと、後ろめたさがあるからなのだろう。
一緒に暮らしているのだからこんな状況は早く脱却すべきではある。ミューレのことを意識していると自覚してから、何度か打ち明けようと思ったことはあった。
ただ、父と娘という今の関係が足元からがらがらと崩れてしまいそうで、なかなか踏ん切りがつかずにここまでずるずると来てしまったのだ。
「ねえ、パパ」
 草の上に腰を下ろしていたミューレの視線が寝転がっている私に向けられる。
「やっぱり、話してくれないの?」
「ミューレ……」
 一度彼女と目を合わせた後、私は再び空へと視線を戻して少しの間目を閉じる。伝えるべきか、否か。誤魔化し続けるのもそろそろ限界がきている。
もう少し時間をくれと言えばミューレは待ってくれるかもしれないが。その、少し先の時間がいつになるのかと聞かれれば、私は答えに詰まってしまうだろう。
結局問題を先送りにしていただけに過ぎない。それに、これ以上私のことを気にかけてくれているミューレの気持ちを無碍にしたくないというのもあった。
私は覚悟を決めて体を起こすとミューレの方へと向き直った。薄暗い月明かりの下でも分かる、彼女の凛とした瞳がこちらをまっすぐに捉えている。
ジャラコの頃からきりりとした目つきだったそれが、二度の進化を経ることでさらに磨きが掛かったような気がしていた。
面と向かうと睨まれているようにも取れなくもない迫力がある。もちろん、こんなところで二の足を踏んでいる場合ではない。私はようやく重く閉じていた口を開く。
「実は、な」
 まずは、伝えやすい方から話すことにした。これも私の気持ちであることには偽りはない。ミューレがジャラランガに進化して共に過ごしていくうちに湧き上がってきたもの。
自分でほとんどのことが出来るようになっていくミューレを見るたびに、やがて巣立っていく日がくることを思い描いてしまいどこかで寂しさを感じていたこと。
もちろん、子はどこかで親元を離れていくものではある。時期尚早ではあるが、ミューレが遠くへ行ってしまうようで私が焦りを覚えていたのは事実。
今のお前には一匹で暮らしていける力は十分に備わっているかもしれない。ただ、まだまだ私はミューレと一緒に居たいと思っている、と。
一つ目の事柄に関しては、それなりに滞りなく話すことが出来た。本題である次の話の緩衝材の役目でもあったが、嘘ではない私の本心である。
「ふふ。そっか」
 一つ目の話を聞き終えたミューレは割と余裕のある表情をしているようにも見えた。少なくとも、私が寂しがっているという事実に衝撃を受けたりはしていなさそうだ。
「私は、今すぐパパの元を離れて別のところで暮らしたいって思ったことはないよ」
 若干の苦笑いを交えつつも、ミューレの声の調子は真剣だった。一瞬私から視線を反らして、自分の拳をぎゅっと握りしめる。大きくなった手を確認するかのように。
「進化してから力が付いたなって感じることはたくさんあるけど。でも私はまだまだパパと一緒に居たい。だから、心配しないで」
 そっと私の肩に手を置いて微笑むミューレ。本来ならば心から喜ぶべき言葉だろう。彼女がまだまだ私との時間を過ごしたいと言ってくれているのだから。
だが、次に伝えようとしている内容を考えると喜ぶのはまだ早い。ことによってはミューレが私へ抱いている認識や感情の多くが覆ってしまいかねない事柄だ。
「ありがとう。それを聞いて安心したよ。だが、話すことはもう一つあるんだ」
 もちろんこちらが本題ではある。最初に頼もしくなったミューレが離れていくように感じた寂しさを挟んだことで、重い私の口も少しは準備運動が出来たかもしれない。
この勢いなら、何とかなりそう。いや、何とかしなければならないのだ。どちらにしてももう乗り掛かった舟、後には引けそうにない。
それに首を傾げているミューレの瞳からは、もちろんパパは全部話してくれるよねという無言の圧力も少なからず感じていた。
「ミューレがジャラランガに進化してからのことだ」
 最初のうちはそうでもなかった。例え大きくなってもミューレのことを以前と同じように娘として見ていた、はずだった。ただ、私の隣でこの子と過ごせば過ごすほどに。
私の雄としての本能が彼女を娘ではなく雌だと囁きかけてくる。逞しく成長したミューレの体を異性のそれとして認識して、目で追いかけてしまうときが。
自然と距離が近くなってしまう住処の中では、妙に存在を意識してしまってなかなか寝付けないときが。久々の自身の感情に戸惑いながらも、これは認めざるを得なかった。
私はミューレのことを雌として意識してしまっている。このまま一緒に過ごせばきっと、ずっと隣に寄り添っていて欲しいと願ってしまう存在になる。
今まで自分の娘同然で育ててきたミューレにこんな感情を抱いてしまうことがとても後ろめたくて、どうしていいか分からずに悶々としていた。
ミューレに心配されて、ようやく覚悟を決めて打ち明けた内容がこれでは何とも父親としての示しがつかない話ではある。
ただ、私が抱え込んでいたものはすべて吐き出したつもりだ。後は、彼女がどんな答えを出してくれるか、だった。
「……何となくだけど、パパが私を見る目が変わったように思ったことはあったんだ。どこがどう変わったのかは分からなかったんだけど、雰囲気が」
 私の視線がミューレにどう映っていたのかは分からない。そんなに嘗め回すような目線でじっくり眺めたりした記憶はなかったにしても、だ。
これまで一緒に過ごしてきた彼女は、心情の変化に伴って私の顔つきが変わっていたことを感じ取っていたらしい。
「そ、そうか。私の目つきは、その……卑しくはなかったかい?」
 一体何を聞いているんだと自嘲しながらも、もし私がミューレにそんな印象を与えてしまっていたらと思うと。耐えられなかったのだ。
「うーん。そう思ったことはないけど、私を見ているときのパパの表情が妙に真剣な時が増えたなって感じかなあ」
 なるほど。おそらくそれは私がミューレを異性として認識していた瞬間のことを言っているのだと思う。
娘としてのミューレから、ふいに異性としてのミューレに私の意識が切り替わるときは確かにあった。どのタイミングで来るかが分からないから厄介なもの。
どうやらその時の私は明らかに顔に出てしまうくらい、本気で彼女のことを雌として意識していたらしい。
もし、ミューレをタマゴのときから育てていなければ、こんな後ろめたさに苛まれることはなかったかもしれない。
けれども、ミューレをタマゴのときから育てていたからこそ、こんなにも本気で大切に思える相手になっているのかもしれない。伝えるならば、今だ。
「私は、お前と番になりたいとまで思ってしまっている」
 ミューレのことが好き。それは今も昔も変わらない事実ではあるが。娘としてでなく、異性として好きであること。同じ言葉でもその差は明確だった。
それを聞いたミューレは何度か目をぱちぱちとさせながら私の顔をまじまじと見つめた。パパは突然何を言い出すんだろう、とでも言いたげな。
言葉としての意味は伝わっていても、気持ちまで伝わっているかどうかは微妙なところ。釈然としていないミューレの表情を見れば分かる。
今まで父親だと思っていた相手から、唐突に好意を告げられたとしてもすぐに受け止めることは難しいだろう。
「番……それって、私がパパの……奥さんになるってこと?」
「平たく言ってしまえばそうなる」
 そっかあと短く返事をした後、ミューレは自分の胸元に右手を当てて何やら考える仕草をする。
もっと驚かれたり、幻滅されたりしても仕方がないなと腹をくくっていた私としては何だか拍子抜けな反応ではあった。
きっとミューレが予想だにしていなかった私からの告白だ。まだまだ彼女の中で気持ちの整理が追い付いていない、そんな様子。
私の方へ向かって何かを言いかけて、再び口を閉じてしまう。もどかしげな仕草を何度か繰り返してから、ようやく。
「私は――――」
 しばらくの間、沈黙を保っていたミューレが声を発する。どんな言葉が出てこようとも、私はそれを受け入れるのみだ。覚悟は出来ていた。

―13―

「私はパパのこと、好きだよ。でも……異性としてって言われたら、何だかぴんとこない」
 ミューレの言う好き、は娘が父親を慕う気持ちのそれだ。それはそれで、当然嬉しいことではあるが私が彼女に対しての好きとは別方向を向いている。
このまま進めば進むほど、お互いの気持ちはすれ違って行ってしまうだろう。私はもちろん、きっとミューレもそんな未来は望んではいないはずだ。
ついさっきまで父親だった相手を、突拍子もなく番として認識してほしいというのも無理な話ではある。
少しずつでもいいので、私の気持ちとミューレの気持ちが遠ざからなければ良いとは思う。もちろん、彼女が私を受け入れてくれることが前提ではあるが。
「パパの奥さんになるって、どうすればなれるのかな?」
 簡単に答えられない質問だ。私の感覚で言えば、番になるならばお互いに好き同士。それに加えてこれから先もずっと一緒に居たいと思える相手を選ぶもの。
ただ、番であることを証明するというのは形のないものであるため難しい。この条件を満たせば必ずという決まりもなく曖昧ではあった。
とはいえ、それをわざわざミューレから私に聞いてきたということは。私の告白は思っていたよりも否定的に受け取られていない、と解釈して良いものだろうか。
「……そうだな」
 私は体を浮かせるとゆっくりとミューレの方へ近づいていき、右手の爪の先で彼女の頬に触れた。一瞬、ミューレの体に緊張が走ったようにぴくりと震える。
まじまじと見つめている私の視線を、彼女は意外にも冷静に受け止めているように思えた。ミューレの瞳には私がどんなふうに映っているのだろうか。
彼女の頬に触れたまま、私たちはお互いの顔を見つめ合う。時折瞬きを交えながらも、ミューレは私から目を反らしたりはしなかった。
差し出した私の右手がこれからどう動くのか、静かに待ち構えているようにさえも思える。月明かりに照らされたミューレの顔は、きれいだった。
「今から、私がミューレに教えようか」
 これはおそらく、番になっている雄と雌がこなしている条件の一つ。それを経たからといって、必ず番になれるというわけではないとは思うが。
私が今ミューレに示してやれることはこれくらいだし、私が自分の気持ちに気が付いたときから心の奥底で密かに願い続けてきたことでもある。
触れている手を動かさないのは、ミューレの返事を待っているから。嫌ならば、退く。だが、彼女が拒みさえしなければ、私はこのまま。
「うん、教えて。パパ」
「ああ……分かった」
 ミューレもどことなく私から何をされるのか不安が半分、期待が半分。そんな面持ちだったように思える。伸ばした私の手を避けようとしなかったのはそれが理由か。
私はゆっくりと彼女の顔の方へ。今度は右手でなく口元を近づけていく。ドラパルトの左右に広い口と、ジャラランガの先端がやや突き出している口。
大分形は違えど、接吻くらいはこなせる。口元がミューレに触れた瞬間、彼女の匂いがふわりと私の鼻腔へと広がった。
まずは数秒。ミューレの口の柔らかさを確認した後、ゆっくりと顔を遠ざける。いくら私でもいきなり踏み込む度胸はない。ミューレの反応を見つつ、徐々にだ。
私と重なった自分の口元に手を当てて、不思議そうな表情をしているミューレ。この行為が何を示しているのか、はっきりとは理解できてないような雰囲気。
ただ、全く何も感じていないわけではなく、私が身を寄せていた時の感覚に戸惑っているとも取れなくもない。少しは、何らかの反応がもらえると嬉しいのだが。
「……どうだい?」
「何だろ。良く分からないけど……」
 今度は自分の胸元に手を動かして、戸惑ったまま私の顔を見つめ返してくれた。心臓の鼓動がいつもより早い、そう言いたいのだろうか。
初めてのキスの感触に胸がどきどきしているが、その感覚を上手く言葉で言い表せていない。ミューレはそんな雰囲気だった。
手応えとしては悪くなさそうな感じではある。最初なので慎重に進めてみたが、この調子ならばもう少し深く入っても問題はなさそうだ。
表には出していないつもりではいるが、私も久々の感覚に結構胸が高鳴っていたりする。相手がミューレだから、というのももちろんあるのだが。
手が震えないようにしながら今度はミューレの喉元に手を伸ばし、口元を少し上に。再び彼女の顔へ口を近づけていく。
「ん……」
 くぐもった声。私の口とミューレの口とが再度相まみえた。先程は抑えていた気持ちの扉を今度は遠慮なく開かせてもらうことにする。
重なったミューレの口の隙間から、ぐいぐいと舌を侵入させていく。ミューレの唾液、息遣い、匂い。それが濃厚になって私の中へと入ってくる。
幸いミューレの口は奥行きがある形だ。私の口で完全に塞いではしまわないので、舌を入れても呼吸はできる。
それほど躊躇いはせずに私は彼女の舌の形、歯並び、内頬の柔らかさを一通り堪能していった。時折若干苦しそうに零れるミューレの声が、私の衝動をじわじわと加速させていく。
もっと、もっとミューレを深く味わっていたい。いつの間にか私は彼女の肩に両手を当てて、草の上に押し倒してしまっていた。
転がされた彼女の体を覆っている鱗同士がぶつかり合ってからからと乾いた音を立てる。そこまできてようやく私はミューレの口先から自分の口を離す。
私の舌とミューレの舌を名残惜しそうに繋いでいた唾液の糸が細長く伸びていき、やがて途切れた。まだ、私の口の中には彼女の匂いと味が残っている。
半分以上口が塞がっていてやはり息苦しかったのか、解放されたミューレのお腹が大きく上下しているのが分かる。少し虚ろになった瞳で私を見上げる彼女の息遣いが確かに伝わってきた。
「な、何か……私、すごく熱い。体の奥が燃えてるみたい」
「その調子だよ、ミューレ」
 彼女の体や表情の変化を見る限りは、行為の導入として私の手解きはそれほど間違ったやり方ではなかったらしい。何も知らないであろう相手の体へのアプローチ。
私としても初めての試みである。あれこれやってみて反応がいまいちだったらどうしたものかと不安に思っていた面はもちろんあった。
だが、意外にもすんなりとミューレは私を全般的に受け入れてくれているような気がする。胸の奥から込み上げてくる嬉しさと、ありがとうの想いを込めて。
口の端からだらしなく垂れていた彼女の唾液をぺろりと舐めとってやった。私の舌での愛撫をそれほど嫌がる様子はない。ミューレも満更ではなさそうだった。
さて、と。ミューレへの準備体操の進捗具合は良好だ。これからどうやって次の段階へ移っていくべきか。焦りすぎてミューレに負担を掛けては元も子もないしな。
「パパ、それ……」
「ん、ああ。これかい?」
 ミューレの興味深そうな視線が私の尻尾の付け根へと。自分の目で確認してはいなかったものの、何となく自覚はしていた。彼女と口を重ねていた時からじわじわと。
雄としての本能が私の中では納まらない、とスリットの外へ顔を出そうとしていることに。キスをしているときにも、ふにふにとミューレのお腹に何度か当たってはいたのだ。
これまでミューレと一緒に過ごしてきた間は、醜態を晒すまいと必死に押さえつけてきた反動なのか。尻尾の付けの筋からにゅっと外へ這いだしたそれは、既に臨戦状態に。
月明かりの薄暗い中でも、私の股間の赤色はミューレの目を惹いていたようだ。そんなふうにまじまじと見つめられると、さすがにちょっと気恥ずかしさがある。
「雄は興奮すると股の部分がこうなることがあるんだよ。例えば、大好きな人と体を寄せ合っているとき、とか」
「そうなんだあ。……ねえ、もっと近くで見てもいい?」
 ミューレからの意外な提案。ただこれは雌が雄を欲している、というよりは初めて見る私の興奮状態のそれに対する好奇心によるものだろう。
そういえばちゃんとした性教育的なことを彼女に施したことはなかったな。まさか自分の体で直接実演することになるなんて、夢にも思っていなかったが。
「ふふ。どうぞ」
 なんにせよ、ミューレから興味を持ってもらえるに越したことはない。私は体をふわりと浮かせて、存在感を示している股間を仰向けの彼女の顔に近づけていく。
仄かな明かりが天を仰ぐミューレの顔に、肉棒の影を落とし込む。その顔つきがどことなく、娘のものでなく雌のものへと変わっていったように見えたのは、私の気のせいか、それとも。

―14―

 月明かりを遮って影をつくっている私のそれを、ミューレはまるで奇妙な形の木の実でもを見つけたかのような不思議な目つきで眺めていた。
直接触れられたわけでもなく、ただ体と唇を触れ合わせていただけでこんなにもなってしまうとは。私が自覚している以上に欲求不満とやらはずっと燻っていたらしい。
まあ、眠ればミューレと思しき異性の影が夢にまで出てくるくらいなのだ。実際に触れあった私の雌を求める本能が暴れだしていても何らおかしなことではなかった。
「……んおっ」
「あっ……パパごめん。加減が分からなくて」
 不意に雄の先端をぐにゅりと掴まれて私は思わず声を上げてしまう。見たことのないものに対してとりあえず触れてみたミューレの好奇心。
大きくてしっかりしたミューレの爪に突然挟まれて、痛みはなかったものの結構な衝撃が走り抜ける。軽く背中がのけ反ってしまっていたかもしれない。
実はなかなか激しく攻めるのが好みとかそういうわけではないと思うが。いきなりぎゅっとされた衝撃は別方面のスリルのようなものを私に与えてくれていた。
「そ、そうだな。デリケートな場所だから、もう少しそうっとな」
「う……うん」
 戸惑いながらも、ミューレは私の雄から手を離そうとはしなかった。掴む力を緩めた手で、その触感を確かめるようにぐにぐにと握ったり。
先端から根元へゆっくりと手のひらを滑らせてみたり。初めて目の当たりにする一物を隅から隅まで念入りに調べつくしているかのようだった。
もちろん刺激としてはやはり物足りなさが残る。ミューレが意図的に焦らしているはずはないのだが、結果的にはじわじわとずっと生殺しが続いているような感覚だ。
本当は両手で挟み込んで擦ったり、口でしゃぶったりしてくれればもっと。など、さらなる快楽を求めようとしてしまう私自身の欲望が浅ましく思えてくる。
ひとまずは焦らずにミューレのやりたいように任せればいい。彼女が少しずつ興味を持ってくれればそこから流れに乗るようにして、だ。
私は極力、雄の表面から伝わってくるミューレの手の感触。そして彼女の表情や息遣いに集中するように心がけてみた。
何となくではあるが、肉棒に触れる手つきや見上げる目つきに余裕のようなものが見て取れるようになってきたような気がする。少なからずこの行為を楽しんでいるような。
「あ、れ……なんか出てきたよ」
「お……おお」
 微弱でも拙くても、刺激は刺激。何度も何度も積み重なれば、次第に。そしてミューレにしてもらっているという事実が普段よりも早く私を奮い立たせていたらしい。
気が付けば肉棒の先端が透明な先走りの雫をきらりと光らせていた。爪の先でちょんと触れたミューレの手と雄の間で短い糸を引いている。
彼女の手で拭われた後も乾いたりせずに再びじわじわと染み出してきている。私が思っていたよりもいい具合になっていたようだ。
「触れ合ううちに体が気持ちよくなってきたんだよ。ミューレも、ほら」
「あっ」
 長い尻尾の先をミューレの股に軽く這わせてやると、確かにぬるりとした肌触りを感じ取った。私の雄を撫でていた彼女の手がぴたりと止まる。
零してしまった切なげな声といい、無反応ではいられない程度にはミューレも濡れてきているということか。私の今の体勢では直接触れて確認するしか方法はない。
あわよくばミューレも、という願望を胸にすっと尻尾を伸ばしてみたのだが想像以上の反応だった。いいぞこの調子だと心の中でほくそ笑んだ私を、ミューレは知る由もないはず。
「ん……どうしたんだろ、私。こんな」
 おそらく初めてであろう自身の体の変化にミューレは戸惑っているようだった。股の部分にそっと手を当てて、自分の指先を湿らせていたものに驚いている。
きっと今までにない感覚に不安を覚えているのだろう。初々しい反応でとても愛らしかった。怖がらなくても大丈夫だミューレ、何も心配する必要はない。
「雄も雌も、興奮してくると股の部分が濡れてくるんだ。私もなっていただろう?」
「ふうん、変なの……」
 自分の右手の爪同士をくっつけて、股から染み出ていた液の粘性をじっくりと確かめているミューレ。尻尾の先で打診した程度ではあったが、結構いい具合になっているのでは。
これだけ濡れているならあまりほぐす必要な無さそうな気もするが、少しでも円滑に事を進めるため。そして何より私が直接ミューレの雌を近くで感じたいために。
私はするりと体を動かして、ミューレの股ぐらに顔を近づける。張りのある引き締まったふとももは月明かりの下でも健康的な魅力を振り撒いていた。
住処の中でミューレが寝ている間や、外で足技の鍛錬をしている間。無意識にちらちらと視線を送ってしまっていたかもしれない、格闘タイプの筋肉質なそれ。
今ならば、思う存分に。すうっと真っすぐに入ったミューレの雌の筋からほんのりと漂ってくる匂いに、私は溜まってきていた生唾をごくりと飲み下していた。
「パパ?」
「ミューレがさっきしてくれたように今度は私が、な」
「そ、そっか……」
 なあに。悪いようにはしないさ、ミューレ。久々ではあるが、自分の感覚は鈍りきっていないと信じて。細い爪の先を慎重に、ミューレの筋に這わせていく。
この時点でそこそこの粘度ではあったが、何しろ初めての行為になるのだ。私はともかく、ミューレのためには十分に慣らしておくに越したことはない。
筋に沿って爪を往復させながら、爪の数を一本ずつ増やしていく。三本すべての爪が十分に入るようになったころには、筋の表面がぬらりと光るくらいにはなっていた。
今の具合ならば、爪だけでも問題なさそうな雰囲気はあったが。もう少しお前を味わっていたいんだ、と。私は顔を近づけて迷うことなくミューレの筋に舌を撫でつけていた。
爪と違って力加減で傷つけてしまう恐れがない分だけ、私の中でも段々と遠慮がなくなっていく。秘所から湧きだした雫を舌で絡めとるがごとく、奥の方まで力を込めて。
「な、なんか声出ちゃ……やっ、あっ」
 背中をびくりと引きつらせたミューレの鱗が揺れる音。私の舌から伝わる刺激に立っていられなくなってしまったのか、がくりと膝を付く。
再び股に手を当てたミューレの指先からすっと糸を引いている粘性の液体。自分自身から次々と染み出てくるものの存在を、蕩けた表情で実感しているようだった。
収まりきらなくなった雫が、彼女のふとももを伝ってすうっと草の上に流れ出ていく。舌だけでここまで感じてもらえると、私としてもちょっとした達成感があるというもの。
頬を紅潮させて息を荒げるミューレの顔を嘗め回すように見つめながら、せめて口調だけは出来るだけ普段通りのものを繕って私は声を掛けていた。
「大丈夫かい?」
「う、うん……なんか、くすぐったくて、股が熱くなって、どきどきしちゃってる……」
「まだ、続きがあるんだ。でも、ミューレが嫌ならやめておこうか?」
 白々しい台詞だ。こんなところでやめるなどさらさらないというのに。あえて聞いたのは、強引に事を進めたわけではないという免罪符が欲しかったからか。
あるいは、気持ちよくなりつつあるミューレがここで止めるはずがないという確信があったからか。初めての相手に計算高いことをしているな、と私は自嘲する。
少しよろけながらのそりと立ち上がったミューレは、私が望んでいた通り首を横に振ってくれた。不安よりも興味の方が彼女の中で勝っていたらしい。
「ううん、もっと……」
「もっと?」
「もっと続けたいよ……パパ」
 切なげな声と表情でミューレにそんなことを言われたら。危うく完全に理性がどこかへ行ってしまいそうになるところだった。
勢いのまま彼女を押し倒そうと肩に手を伸ばしかけたところで私ははっと我に返る。いけないいけない。ようやくここまで来たのだ、最後まで冷静にゆっくり。
「それじゃあ、続けよう。ミューレ、仰向けになってくれるかい?」
「うん、分かった」
 ごろりと再び草の上で大胆な体勢を取るミューレ。さっきと大きく違うのは股間の部分。薄暗い月明かりの中でも、つやつや光る魅惑の筋が私を呼んでいるかのように思えて。
荒ぶる呼吸を抑えながら、私はゆっくりと彼女の方へと顔を。そして、何度も焦らされて乾く間もないほどにいきり立っていた自身の肉棒を近づけていった。

―15―

 興奮状態の私の雄と、ミューレの筋を見比べてみて。それぞれの大きさを目測した感じだと問題なく入りそうな気はしているが。何しろ不慣れなミューレが相手。
表面は濡れていても奥の方までは他の者を受け入れられる体勢になっているかどうかは分からなかった。とにかく、慌てず慎重に進めなければならない。
雄と雌同士でまぐわえる位置と、ちゃんとミューレの表情が確認できる位置と。私は両方を満たせる個所を探り出す。この辺りならば、何とかなるだろう。
「もし、痛かったりしたら、無理せずに言うんだよ」
「えっ、パパ。痛いことするの……?」
 見下ろしているミューレの瞳が揺れた。あまり懸念させたくはなかったが、この先は未知数。私はともかくとして、交わったミューレがどう感じるかは分からない。
それならば念押しで、起こりえる可能性を周知させておく必要はある。もちろん私とて、ミューレに苦しい思いなどさせたくはなかった。
「そうならないように頑張る。いままでやってきて、痛かったかい?」
 魅力的なミューレの姿態を前にして、危うく理性のたがが外れてしまいそうになる場面もあった。そんな中私は逸る気持ちを抑えつけながら、慎重に事に及んできたつもりだ。
これまでの彼女の反応を見る限りは慣れない感覚に戸惑いこそ覚えていても、行為による苦痛は感じていないのではないだろうか。
ずっと主導権を握って進めてきた身としては、そう信じたくある。確認も含めた私の問いかけに、ミューレはゆっくりと首を横に振って応じてくれた。
「……気持ち、よかった」
「そう。これからもっと気持ちいいことをするからな」
 言いながら、私は軽く彼女へ口づけすると。万全すぎるくらいに準備の整っている自身の雄をミューレの筋にぴたりと密着させる。
表面がじっとりと湿った雄と雌同士。ようやく巡り合えた嬉しさでひくひくと震えているような気さえしてきた。密着した私の雄を感じ取ったミューレ。
さっきまでとは違う私の行動に、これから何をするんだろうという顔つきで見上げてくる。少し、期待よりも不安が大きくなってきているような感じがしていた。
「私のこれをミューレの中に入れるんだ」
「私の、中に?」
「そう。これも夫婦が行う儀式の一つさ」
 間違いではない。間違いではないのだが、如何せんミューレにはそうした発想自体がなかったらしくただただ目を丸くしているばかり。
それでも、ここまで至った流れから私の真剣さが伝わったのか、恐る恐るながらも彼女は首を縦に振ってくれた。
半ば強引な舵取りがあったかもしれないが、性行為のせの字も知らないような相手との交わりは慣れている側が押さねばならない場面も出てくるのだ、きっと。
「分かった、パパ。私……やってみる」
 いい子だ、と私は心の中でミューレの頭を撫でてやっていた。我が子にするならばともかく、妻に対してだと子ども扱いしないでと怒られてしまいそうだったから。
「ああ……ゆっくり、行くからな」
 ミューレの肩辺りに両手を当てて体の位置を安定させつつ私は腰に力を込めて濡れそぼった肉棒をぐっと突き出し、彼女の中へと侵攻を開始する。
私なりに加減をして控えめに攻め込んだつもりではあったが。互いに湿り気が十分すぎたこともあってか、およそ三分の一くらいまでが入ってしまった感覚があった。
「んっ……あっ……!」
 背中と両足をきゅっと引きつらせたミューレの悲鳴に近いような喘ぎ声。まだまだ先に進めそうな雰囲気はあったが、一旦止めて様子を見てみることにする。
初めて雄の侵入を許した痛みか、衝撃か。あるいはその両方か。ミューレの表情は一見苦痛に歪んでいるように感じられる。だが。
注意してじっくり観察すると口元が微かに吊りあがっていて、彼女の中の感情は苦しいだけではないことを匂わせていた。まだ、やれそうだな。
少しずつ。少しずつミューレの奥へ、奥へと。全く足を踏み入れたことのない深い深い草むらを足元に注意しながら進んでいく。まさにそんな状態。
それでも、じわじわとした前進により私の雄は残すところ半分程度までになっていた。この調子ならば、時間は掛かれど根元までしっかりと入れられそうだ。
ゆるゆるとした攻めで味わうことになっているミューレの中は、ややきつめながらも程よい締め付けで雄からすればかなりそそられるものだと言えるだろう。
ただ、ミューレを気遣うことに重きを置いている行為なので、私がその具合を堪能する余裕はあまりなかった。お互いに楽しむにはもっと慣れが必要になってくる。
「……苦しかったら一度、抜こうか?」
 私の問いかけに、どこか涙目になりながらもふるふると強く首を横に振るミューレ。不慣れからくる痛みの反面、心地よさもあるので止めてほしくないのか。
もしくは、ここまで来たからには最後まで遂げねばならぬという使命感も彼女の中にあったのかもしれない。ならば、私もそれに全力で応じるまでだ。
再び腰に力を込めると、彼女の深い部分へ進むべく。前へ、前へ突き出していく。先端よりも太さがある分、根元が入るときはそれだけ刺激も強くなる。
私の肉棒が膣内で擦れるたびに、ミューレの背中が、両脚が、尻尾ががくがくと揺れて。鱗同士がぶつかり合い激しく音を立てる。まるで、彼女の声にならない悲鳴を代弁しているかのように。
とうとう私の雄は完全にミューレの中へ入り込むことを達成した。達成はしたが、夫婦の営みはこれで終わりではない。まだここから動かさねばならないのだが。
さすがにここはがむしゃらに腰を打ち付けたりはしないし、出来なかった。私の理性の方がはるかに欲望を抑えつけている。
はたして、今のミューレに追い打ちを掛けるような行為を。さらに腰を振るような真似をしても良いのだろうかという疑問が生まれてくるくらいには。
直接彼女の雌を体感してみて、物理的には問題はなさそうだった。やはりドラゴンタイプ相応のもの。同族のそれを無理なく受け入れられる形状にはなっているらしい。
無闇に刺激を送りすぎて、ミューレが精神的に疲弊しきってしまわないかという懸念だ。瞳の焦点が合わなくなりつつある彼女に私の声が届くだろうか。
「もう少しだ。今から動かすからな」
 形ばかりの気遣いになっていたかもしれない。ただ、ここで中断して引き抜いたところで、擦れることによる刺激は確実にミューレに伝わるのだ。
ここまで来たならば中途半端に終わらせず最後まで。悪いが耐えてくれな、ミューレ。私は意を決して僅かに腰を浮かせて肉棒を軽く引き抜くと、再度彼女の中へ打ち込んだ。
最初の頃よりは幾分受け入れ態勢が整ってきていたのか、みっちりと閉じられていた壁を無理やりこじ開けていく感覚は少なくなっていた。
とはいえ、やはり彼女が感じた衝撃は相当なものだったらしく。私の一突きの直後、一際大きく目を見開いて背中を大きくのけ反らせたミューレは。
「あっ、あっ……ああっ……!」
 全身を、特に両足をひくひくと激しく痙攣させるようにしながら。ミューレは果てた。私と彼女の結合部からは生暖かい液体が次から次へと勢いよく溢れ出してくる。
がくがくと震える腰に合わせて、私の雄はぬるりと外へ押し出される。肉棒が夜の外気に当てられて妙にひんやりとした心地よさを感じていた。
「んっ……あっ、うぅ」
 まだまだ絶頂した余韻が下半身にまとわりついているらしく、ミューレの体は小刻みに揺れていた。声が出てしまうのが恥ずかしいのか両手で口元を押さえている。
さっき結構な大声を上げていたからもう手遅れだと思うのだが。涙目になりながら襲い掛かる快楽に耐えようとしている姿は。これはこれで、なかなか。
ミューレが落ち着くまではその姿をじっくりと堪能させてもらうことにしよう。一撃で彼女をダウンさせてしまった股間の一物はまだまだ元気そうな張りを見せていた。

―16― 

「大丈夫かい?」
 大分焦点のあってきた瞳でゆっくりと体を起こすミューレ。割れ目から太腿の内側を伝って流れていく雫が、彼女の絶頂の激しさを物語っていた。
自分の下腹部や筋に恐る恐る手を当てて、目をぱちぱちとさせている。まるで、そこにちゃんとあることを確かめているかのように。
おそらく、自身の体に何が起こったのかまだちゃんと理解していないのだろう。初めての経験としては、少々刺激が強すぎたのもあったかもしれない。
「何か、よく分からないけど……すごかった」
「気持ち良かったかい?」
「う、うん」
「そうか。ならよかった」
 最初に挿入した時の苦しさはもちろんあっただろう。ただ、それを上書きできるような心地よさをミューレに味わわせることが出来たのならば。
初めての雌を導く雄としての役割は十分果たせたのではないだろうか。そんな優越感と達成感に浸っているところ、立ち上がろうとしてふらついたミューレを慌てて支える。
「あ、ありがとう……」
「まだ無理はしない方がいい」
 ミューレは黙って頷いてから、再び草の上に腰を下ろす。あれだけ派手に果てた後なのだ。足腰が本調子になっていなくてもおかしくはない。
完全に落ち着くまでは少し時間が掛かりそうだった。筋骨逞しいジャラランガでも、さすがに行為の直後ともなると足元が覚束なくなってしまうようだ。
「ねえ、パパ。さっきのが、夫婦になったらすることなの?」
「ん、そうだな。まあ、夫婦でなくとも、深い仲の相手とするお互いが気持ちよくなるための行為、かな」
 もちろん、番のいるポケモン達が必ず体を交えているかどうかは分からない。ただ傍にいるだけで満たされるから必要ない、そんな番もいるかもしれない。
また番でなくとも、コミュニケーションの一環として行為を行う場合もあるだろう。これはあくまで私が認識している夫婦としての営みの一つの形であった。
言葉だけではあやふやなミューレと夫婦になるという願望を、行動と経験を経ることで少しでも確かなものにしたかったというのもある。
体を重ねたからといって、すぐに気持ちまで夫と妻のそれになれるかと言われれば疑問は残る。ただそれは焦らなくともこれから徐々に――――。
「じゃあ、パパはまだなんじゃない?」
「えっ」
 不意に問われて、思わず言葉を失って固まってしまう。ミューレの言う、まだが何を指しているのか一瞬分からずに頭の中が迷子になった。
「気持ちよく、なってないでしょ?」
「そ、それはだな……ミューレ」
「やっぱり。物足りなさそうな顔してるもん」
 唯一。ミューレとの交わりで私の中で引っかかっていた事柄。そんなに顔に出てしまっていただろうか。確かに不完全燃焼だったことは否めない。否めないが。
初めての相手、しかも私のことを異性として認識していなかったであろう相手に。遠慮なく腰を振り続けるほど私は欲望に忠実にはなれなかった。
とはいえ。行為に及べただけでも満足だっただろう、というなけなしの理性を。暴れ足りなさそうな私の股間の一物が否定しようと必死にひくひくと揺れている。
まいったな。言葉に出さずとも気持ちが筒抜けになってしまうのも考え物だ。確かに、ミューレの悩みに気が付けたこともあったので悪いことばかりではないが。
「パパのこれを、どうにかすればいいんでしょ?」
「……っ」
 伸ばされたミューレの手が私の雄の先を掴む。最初に触れられたときよりも心なしか手つきが優しくなっていたような気がした。
彼女の手の感触が。直接触れられているという事実が。それでいてどこか無垢な表情が。快楽に身を任せてしまえと甘く優しく囁いてくるようだった。
「どうすればパパが気持ちよくなるのか、教えて?」
 ずるい。私の顔を見上げながら、ミューレにそんな風に言われたら。まったくどこでこんな仕草をを身につけたのかと感心するばかりだった。
せっかく彼女がその気になってくれているのだから、断るのは申し訳ないだろう。という建前を振りかざしながら、私はそっと彼女の頬に手を伸ばしていた。
「そうだな。じゃあ、両手で包むようにしながら……ゆっくり手を動かすんだ」
「うん、分かった」
 私はミューレに何をさせているんだろう、という囁きが一瞬頭を過った。そんなものは直後に伝わってきたミューレの両手の感触でかき消されてしまう。
デリケートな場所、と最初に教えていたので爪の部分が極力当たらないよう彼女なりに気を遣っているような雰囲気はあった。
しかしながら、格闘タイプ本来の握力も手伝ってなのか力加減はどちらかというと強めの部類だ。少なくとも私が自分で弄っていたときよりは確実に。
硬くなった私の雄の表面が軽く凹むくらいの圧力はある。当然、不慣れな手つきではあったが、悪くない。悪くないぞミューレ。
じわじわと緩んでくる顔を見られたくないなと引き締めようとしても、次々と伝わってくる刺激にはやはり抗えそうにない。
「あぁ、そのまま先の方を舐めて、欲しい……な」
 もう遠慮はいらないなとばかりに、私は次の段階へ進もうとしていた。一瞬、ミューレの手がぴたりと止まる。正しい反応だ。
いくら私の体とはいえ股間からせり出しているものをいきなり口で触れろと言うのは抵抗があって然るべき。しかし、ミューレが固まっていた時間は割と短かったように思えた。
「こ、こう?」
「お、おぉ……その調子だ、ミューレ」
 肉棒の先端を軽く口に含んで、舌先を小刻みに。恐る恐る舌で触れるだけがやっとではないかなと懸念していたが、しっかり口で包んでもらえるとは。
どちらかというと、こそばゆいような。雄を刺激するものとしては些か微弱だった。ただ、ミューレに舐めてもらえているという事実がより私を奮い立たせていく。
しゃぶっているのは先の方だけでも、必死で私のために舌を動かしてくれているミューレが何よりも愛おしくて、この上なくそそられる。
きっと今、ミューレの口の中には。彼女の唾液意外にも私の先端から再び染み出し始めたものが混ざり合っていることだろう。
「そのまま、口と両手を一緒、にっ……んぅっ」
 ああ、そうだ。その感じだ。先の方は口で、真ん中から根元にかけては両手で。初めてにしてはなかなか上手じゃないか、ミューレ。
彼女の手先や口先から伝わってくるぎこちなさを含んだ愛撫も、今や私の興奮を加速させていく要素にしかなっていない。
熱を持った口内のぬるぬるとした刺激と、ぐにぐにと着実な力を加えてくる両手の刺激。それらに目の前で甲斐甲斐しく奉仕してくれているミューレの姿が合わさって。
「んあぁっ……みゅー、れっ……!」
「んふっ……!?」
 私の雄はとうとう限界を迎えてしまった。体の奥から大きな熱が勢いよく外へ流れ出ていくのを感じる。この感覚が、ひどく久々なように思えてならない。
想像していたよりも持たなかった。ミューレにじっくりと手解きしている間の精神的な焦らしが思いのほか私を限界に近づけていたらしい。
止めどなく溢れだした私の白濁液が彼女のの口元から零れ出て、乾き始めていた彼女の下腹部に垂れ下がり再び湿らせていく。
こんな大量の粘液を飲み下せるはずもなく、ミューレは何度もむせ込んでいる。吐き出されたそれは草の上にも白い染みをいくつも作っていった。
初めてのときに全部口の中に出してしまうなんて、悪いことをしてしまったなあとぼんやりと感じながらも。射精後のくらくらとした快感は私にしがみついて放してくれない。
むせている彼女を前に、自分だけ寝転がるのはさすがに罪悪感が勝る。浮かんだままの体勢からふらふらと草の上に腰を下ろして両脚を投げ出すと、私は大きく息を付いた。
「すまないミューレ……。大丈夫かい?」
「うええ」
 生臭さとねばねばと。猛烈な口の中の不快感にミューレは顔をしかめている。呼吸がすっきり喉を通るくらいには、私のものを吐き出せたらしい。
口からべっと出された彼女の舌の上にはもうほとんど残滓は留まっていなかった。本気で怒っているわけではないにしても、私に対する抗議もその舌には含まれているのだろう。
我ながら早かった。もう少し、あらかじめ出そうだと伝えられればよかったのだが。私の体ながらたびたび言うことを聞いてくれないときがあるから困りものだ。
スリットからだらりとはみ出していた私の肉棒は久々に大暴れできて満足したらしく、するすると隙間の中へ戻りつつあった。まったく現金なことだ。
「ねえ、パパ。気持ち、よかった?」
「ああ……ありがとうミューレ。すごく、良かったよ」
 直接口にするのは、やはりというか。何となく気恥ずかしい物はあるが、事実なのだから仕方がない。
もやもやとしていた気持ちの方だけでなく、体の方まですっきりできたのはミューレが頑張ってくれたおかげだ。
「そっか。よかったあ。これで私たち、夫婦になれるのかなあ」
 この上なく嬉しそうにミューレはにっこりとほほ笑む。それはどうだろうか。おそらく、夫婦というのはそんな単純なものではない。
私自身、この条件を満たせば必ずなれると断言できない部分も多くある。かつてテーラと息子を同時に失ってしまったのも私の不甲斐なさが原因だった。
だが、もう同じ轍を踏みはしない。彼女を、ミューレをずっと。大切な大切な妻として、伴侶として。寄り添い支え合っていく。
きっとミューレは複雑な感情などはなく、ただただまっすぐに。私の番になろうと一生懸命、自分に出来ることをやろうとしてくれている。私にはそれだけで十分だ。
「なれるさ」
 ぽつりと呟くように言うと、私はミューレの体に手を伸ばして静かに抱き寄せる。ジャラコのときからずっと一緒だったミューレ。
ジャランゴに進化して姿は変われど、ずっと私の娘だと思っていたミューレ。そしてジャラランガになった今、大切な愛する妻としてこんなにも近くに居てくれている。
「愛しているよ、ミューレ」
「うん、私も。大好きだよ……ソル」
 お互いの名前を耳元で囁いて、気持ちを確かめ合うかのように。私たちは夜の草原でずっとずっと抱き合っていた。風に揺れる草木の音色を感じながら。

 おしまい


・あとがき

 親を亡くした幼い子を我が子のように育てていくうちに、だんだんその子が異性として魅力的に見えてくるようになってしまう。
そんなお話をイメージして描きました。父親役には剣盾で出てきた可愛いドラゴンタイプのドラパルト。
怠慢で嫁と息子に逃げられたちょっとダメパルトなソルさん。最初は寿命の差で妻を早く亡くしたというのも考えましたが重すぎるので没に。
娘には同じドラゴンタイプのジャラコを選びました。600族にしてはやたらと最終進化のレベルが低い(45でジャラランガに進化、ちなみにドラパルトは60)ため、成長の早さにソルが戸惑うというポジションにはぴったりだったと思います。
ジャラコのときから育ててきた娘を相手にする官能シーンという、これまでにないタイプの描写だったので非常に苦戦しました。
序盤はソルがミューレを通しての心情の移り変わりを主として書いていったので16話という私の連載の中では2022年現在最長記録という結果に。
数えてみるとちょうど完結作品としては80作目という節目。wikiで100作品行けるかどうかは分かりませんが、これからも何卒よろしくおねがいします。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

【原稿用紙(20×20行)】167.2(枚)
【総文字数】55782(字)
【行数】1099(行)
【台詞:地の文】8:91(%)|4971:50811(字)
【漢字:かな:カナ:他】32:64:4:-1(%)|18250:35965:2642:-1075(字)

何かあればお気軽にどうぞ

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • こちらでは初めてコメントします。
    妻子に逃げられ、成り行きでジャラコの世話をしなければならなくなるドラパルトの姿を垣間見ながら、10年ほど前に読んだ『強い牙』のクリムガンのことをふと思い出してしまいました。クリムガンの奴に限らず、このドラパルトに至るまで、カゲフミさんの描かれる、ちょっと不器用で情けないダメな雄、たまらなく愛おしいです。そして、そんな彼らを穏やかに見守るような文体の息遣いから、まるで彼らが自分たちの隣にいるみたいな感覚さえ抱きます。とにかく、好きです。
    妻子は見つからず、卵は孵ってしまったというこの状況にどうパパパルトが対応していくのか、ジャラコとともにどう成長していくのか、一ファンとして、続きを楽しみに待っています……! -- 群々
  • ちょっとヘタレ気味な雄を描くときは何だか自然な感じで描写が出来ているような気がします。もしかすると私の作風に合っているのかもしれません。
    小説の中の描写をそこまで身近に感じていただけるとは、作者冥利に尽きますわ……。ソルさんはパパパルトの愛称が定着してしまいそうな感じですね(
    感想ありがとうございました! -- カゲフミ
  • 9章まで読みました。
    パパパルトことソルさんとミューレ。少しずつ心の距離が縮まっていくのが読んでいてたまりません。
    ジャランゴに進化したと同時に、ソルへの親孝行に目覚めていくと同時に周囲との違いも意識し始めたミューレへ、ついに本当のことを打ち明けて、それによって血縁を越えた絆を堅くする二匹はとても尊いのでした……!
    しかしソルさん、これから成長してますます一匹の雌としても成熟していくであろうミューレに対して、どう接していくのだろうと、続きが楽しみながらも少しハラハラする思いです。
    ここまでの感想をどこで書こうかと迷ったので、文量多く書けるwiki側に感想書かせていただきました、悪しからず…… -- 群々
  • ソルとミューレ。血のつながりはなくても本当の家族のように絆でつながっていくのだと思います。
    ミューレの成長はソルパパとしては嬉しい反面、どこか悩ましい出来事になっていきそうな気がしますね。
    感想ありがとうございました。 -- カゲフミ
  • へ、変態選手権じゃないんですよね?!でも、こんな純愛(?)に変態は失礼か?!いやしかし……
    と、尊いやら倒錯的でハラハラするやらで、ドキドキしながら読み進めてしまいました〜
    鋭い切り口でまだまだ苦労されそうですが、続きも楽しみにしています! --
  • 娘のように育ててきた相手との交わりとなると、ある意味変態的な趣はありますね。
    なかなか書いたことのない官能シーンへの導入なので結構苦労しております。
    もう少しお付き合いいただければ幸いであります。感想ありがとうございました。 -- カゲフミ
  • まずは完結おめでとうございます!
    妻子に見限られて失意のパパパルトことソルさんが孤児のミューレの育児を通じて、親として、雄としての己を見つめ直していく物語。彼女の成長を温かく見守りながらも、雌に対する感情も抱いてしまうソルさんの心の揺れ動きがたまらなかったです。血が繋がっていなくとも親子は親子。けれど、背徳的なものを感じさせないのは、ひとえに二匹の繋がりを丁寧に積み重ねていったからこそ。ぎこちないながらも多幸感ましましの濡れ場は読み応えあってスケベでしたね……ソルとミューレの幸せを願いつつ、80作目の完走お疲れさまでした! -- 群々
  • 完結80作とは……膨大な積み重ねですね。wikiの今も昔も知る生き証人として、今後もぜひ末永くご活躍を!
    子から大人へ、相応の時間を共にしたからこその絆の繋がり、描写。お見事でございます。親子から夫婦へ、穏やかな幸せの展望が見えるようでグッとくる終幕でした。
    雄と雌の関係としては踏み出したばかりですが、初めてでここまで積極的になれるなら今後の夜枷にも色んな期待ができそうで、捗りますね!
    改めて長編、お疲れ様でした! --
  • 完結おめでとうございます!
    ソルさんとミューレちゃんの移り行く関係性に、毎話の更新ごとにどうなっていくか? とてもドキドキしながら物語を楽しませていただきました。最後の最後に、ミューレちゃんがパパと呼ばずにソルと呼んで、抱き合って終わるのがとても良かったです。ジャラコからのしっかりとした成長の過程があるからこそ、よりグッとくるものがありました。
    2話のジャラランガの母親の下りも凄く好きです。タマゴを命懸けで守り、死してなお見開かれた目で訴えかけている姿に子を想う愛情と執念がひしひしと伝わり心にきました。そのあとソルさんが目を閉じてあげる流れも含めて本当に好き……ソルさんは勿論、母親の深い愛情があったからこそ、ミューレちゃんは幸せになれたんだなあって、最後まで読むと改めて思えました。
    官能シーン含めて、とても心が揺さぶられる作品でした。長期にわたる連載、本当にお疲れさまでした。 -- からとり
  • 群々さん>
    ソルパパはミューレちゃんを育てていくうえで自身も成長していたのだと思います。
    血のつながりはなくとも親子関係の者同士の濡れ場、ということで書いたことのない描写にかなり手こずったところもありました。
    物語の出だしからかなり長丁場になってしまいましたがどうにか完結に至ることが出来てほっとしております。

    二人目の方>
    ミューレちゃんもそこそこその気になってくれたのはおそらくソルパパのこと細かな手解きがあってこそかと。
    何しろ初めてでしかもかつての娘が相手ともなればめちゃくちゃ気を遣ったはずです。
    二匹にはこれからもじっくり夫婦として仲を深め合っていってもらいたいですね!

    からとりさん>
    最後のシーンでミューレにソル、と呼ばせるかどうかは締めくくりとしてどうするかかなり悩んだところでもありました。
    ちょっといきなりすぎるかなあとも思いましたが、これから夫婦として歩んでいく関係なので一つの区切りとしてお互いの誓いとして。
    ミューレがちゃんとソルパパに見つけてもらえたのはジャラランガのお母さんが命を掛けてタマゴを守り抜いてくれたからこそですからね……。

    皆様、感想ありがとうございました! -- カゲフミ
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Last-modified: 2022-02-01 (火) 20:06:05
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