writer:朱烏
第一篇 完全なる二重輪廻
ウェルさんに書いていただきました。感謝!!
「……ビシャーンッ!*1」
「だから泣かないでくださいと何度も申しているでしょう!? そんな体たらくでお父上に顔向けできるとお思いでも!?」
「だって……言ってることが難しくてわかんない!」
目覚めてから眠りにつくまでに叱られなかったことはない。一日の平均にすると、叱られた数は翼についた赤い爪の本数よりも多いと思う。
まだ、爪の本数は四本しかないのだけれど。
きっちりと六本生え揃うには、気の遠くなるほどの時間が必要らしい。
「理解されるまで何度でも申し上げますよ! まずは――」
父が役目を終えて旅立ってからどれくらい経つだろう。まだ一日も経っていないように思えたし、しかし何百年も経っていたようにも思えた。
現実として、僕の体は依然小さいままで、父のような風格などないに等しいから、一月の経過という予想が妥当だろう。
だが、時間と空間を司るらしいどこかの神々が、凝り固まった秩序に沿って流す時の刻みを、冥界に適用するのは容易くない。
こちらの世界に時間という概念を当てはめるには、色々と面倒な工夫が必要だし、その工夫も決まりきった方法があるわけではない。
だから、あくまでも体感として。向こうの世界に生きる者だったとして。そんな無意味な仮定をした上での予想だ。
「というわけで、数多いるポケモンの寿命が異なるように、冥界に留まっている魂が向こうの世界に還る時分もまったく異なっています。それは向こうの世界の命が生から死へと状態が移り変わる勢いに左右されることが第一の原因として――」
重ねた時間は、あまりにも短かったと思う。僕がこちらで生まれるということは、父が向こうの世界で、何かのポケモンに生まれ変わるということだ。
いわゆる『輪廻』というやつだ。
「であるからして、輪廻は」
「ねえ、イグザ」
「はい、なんでしょう」
先ほどから延延と僕に世の理を講釈するヨノワールのイグザは、大きな一つ目を見開いた。
「なんで命は輪廻を繰り返すの?」
「……前にも言った通り、私にもわかりません」
イグザは首を垂れる。やかましく、僕を叱ることが本分のイグザが、この質問を前にしたときだけ静かになる。
イグザは物知りだ。父が僕にこの世界は何たるかを教える前に還ってしまったから、冥界に長く居座り、父の良き助手として働いていたイグザが、僕にものを教えてくれる。
そのイグザがわからないのだから、仕方がない。
「申し訳ありません。ですが、もし輪廻の道理を理解できることがあるとすれば、それは間違いなくラヴィアロウ様でしょう。冥界の王、ギラティナである、あなたが」
「イグザがわからないものを、どうして僕がわかるの?」
「それは今申し上げた通り、ラヴィアロウ様がギラティナだからです」
首をかしげる僕に、イグザはすっと目を閉じた。
「私が知り得るのは、所詮、この世の
「……そうなの?」
「そうです」
イグザが知らないことを、僕が知る日など来るのだろうか。
結局何もわからないまま新たな輪廻に曝されて、イグザの言うような『一介のポケモン』に生まれ変わって、冥界の存在さえ忘れてしまうのが関の山な気がした。
「私には、どうして私がここに実体をもって存在できるかということさえ説明できません。ここに来る者は、みな一律に魂という淡い光を発する玉になって存在するのに、私だけは向こうの世界にいた頃と同じ体をもって、こちらとあちらとの行き来すらできる。不可思議でたまりません」
イグザは、まるであちらで生きていた頃に思いを馳せるように
「……今日はこれでお終いにしましょうか。では、おさらいに参りましょう。いつものあれです。……乱れは?」
「整えるべし」
「調和は?」
「乱すべからず」
幾度となく暗誦した。イグザの講釈がさっぱり綺麗に頭から抜け出ても、これだけは忘れない。
「よろしいでしょう。調和が乱れれば、きっとあちらの世界から呼ばれます。そのときには、冥王としてしっかりと役割を果たせるよう……」
イグザは翻り、空間の捻れに紛れてどこかへ消えた。
いつものイグザが、去り際のときのように穏やかだったらいいのにと思う。
でも、イグザが僕に怒鳴ることが多いのは、僕がだらしないからでもある。だから、イグザを唸らせるくらいには、色々なことを学んで、覚えて、成長しなければ――。
『……死にたい』
「えっ?」
『……還りたい』
「な、何!?」
唐突に響いた、声音の異なる二つの声。
そして、遠くに小さく発生した、黒い水鏡。
「あれは……」
イグザの言った直後に、現実となった。ついに呼ばれたのだ。
「調和が乱れてる……のかな」
輪廻が歪んだのか、こちらとあちらを繋ぐ通り道が詰まったのか。もしくは別の原因かもしれない。
いずれにせよ、僕が向こうの世界に触れるきっかけとなった初めての呼び声は、ひどく痛切で――。
施し難いものだった。
「今行くよ。待ってて」
ゆっくりと水鏡に近づき、独特な感触をくぐった僕は、黒黒とした冥界とは正反対の、真っ青な空をもつ世界に飛び出した。
生まれついての運命に最期まで従うのがザングースという種族だ。
とある種類の毒蛇と永遠に爪牙を交わし続け、安寧なき日々を送る。
死は常に隣り合わせで、一瞬一瞬に命を煌めかせては散らせてゆく。
そんな過激な運命の下に生まれたボクは、誕生からおおよそ六月で群れから放り出された。
ようやく群れのしきたりや決まりごとを覚えてきたというのに、あまりに酷い仕打ちだった。だが、致し方ないことだとも思う。
生まれつき目が弱いボクは、毒蛇との戦いの戦力になるどころか、守られてばかりいた。
同じ時期に生まれた仔たちは次次と前線に立って勇ましく爪を振るうのに、ボクは戦いを退いた爺婆のそのまた後ろで、物言わぬ石ころのように静かに隠れていた。
やがて大人も仔供も等しくボクを疎み始め、虐められるようになった。
「俺たちと同じ飯が食えるなんて良い身分なこった。お前なんて間引かれればよかったのに」
罵詈雑言と、ついでの暴力。
反抗するだけの力はもっていないし、下手を打って袋叩きにされては敵わない。
ただ耐えるだけの日々だった。耐えた先に何が待っているのかもわからぬままに。
そして、朝目覚めると、まわりには誰もいなかった。しんとした森の中で、木の葉の擦れる音だけがボクに寄り添っていた。
役立たずを捨てるために、群れはボクを置き去りにしてどこか遠くへ行ってしまったのだと理解した。
居場所を失った絶望感と、解放された安堵感。相反する感情が、ぐるぐると混ざり渦巻く。
「これから……どうしよう」
その日は木漏れ陽にすら熱を感じるような暑さで、ボクはずっと動かずにいた。
何をしようか考えていたのかもしれないし、何も考えていなかったのかもしれない。
時間だけが刻刻と過ぎていくが、渦巻く感情は潰える気配を見せない。それどころか、どんどん肥大化しているようにも思える。
「痛い……!」
おかしいと気づいたのは、朧な月が天に昇った時刻だった。まるで心臓を圧迫されているかような痛みだ。
ぎりぎりの均衡を保っていた絶望感と安堵感の二者だった。しかし、時が経つにつれて後者が徐々に破壊されていく。痛みは、その衝撃が直接心臓に伝わっていたものだった。
どうにもならなくなって、うずくまる。体を抱え込んで、ひたすら痛みに耐えようとした。
あまりの痛みに吐きたくなるが、空っぽの胃はそれを許してはくれない。
一睡もできずに迎えた次の日は、雨だった。土の上で暮らす生き物がみんな地面の下や洞穴の中に隠れてしまう、そんな土砂降りだった。
胸の奥の肥大化した絶望は、重さを持ち始めて、いよいよ息すらできなくなりそうになる。
「誰か……助けて……」
誰もいないのはわかっているのに、口だけが無為に言葉を放つ。
雨で体が冷たくなっていく。心臓の近くで渦巻く絶望は、さらに得体の知れないものへと変換されていく。それは熱を不快なほどに発しているにもかかわらず、一向に体の芯は温まらなかった。
「死ぬのかな……このまま……」
目だけでなく、体も病気だったに違いない。捨てられた絶望感が、一気に病気を悪化させたのだ。
息が止まった。僕はぎゅっと目を瞑って、来たるべき死に備えた。
それから幾分かの時間が経って、僕は気を失ったらしい。
露が耳に当たった冷たさで、ボクは目が覚めた。
雨はとうに止んでいた。空は薄暗くて、夕暮れ時なのか朝方なのか、はたまた鉛色の雲が空を覆って、森全体に暗い影を落としているだけなのか、木の葉の隙間から見ただけではわからない。
心臓の押し潰すような痛みはすっかり消えていた。
それはおそらく沈静したのではなく、ボクの体の外に飛び出ていたのだと思う。ボクと同じ形をしながら。
「よっ、やっと会えたな!」
倒れているボクの顔をのぞき込んでいたそれが、ボクと同種のポケモンであることに気づくのにしばらく時間がかかった。
ボクは目が悪い。だから目の前のものを明瞭に正しく認識することは、何よりも難しいことだった。
ところが、彼のくっきりとした輪郭はきちんと景色を切り取っていたし、目も鼻も口もはっきりと認識できる。
ボクの目が突然治ったのだろうかと思ったが、樹木と土だけが織り成す森閑とした風景は、相変わらず判然とせずにぼやけている。
目の前のポケモンだけが、不思議と鮮明に見えるのだ。
「……誰?」
「誰って、ひでえこと言うなあ。お前の友達だよ!」
この仔は何を言っているんだろう。
ボクに友達なんていない。欲しかったけど、できなかった。
そもそも、群れにだってこんなカッコいい仔はいなかったと思う。
凛とした顔に、自信満満の不敵な笑み。口元から見える牙は、毒蛇くらい簡単に喰いちぎってしまいそうだ。
血を吸ったような色の爪は、雨に濡れて光っている。
そして何よりも、その蒼い稲妻模様と眼に、ボクは釘付けになった。
「……オレもお前と同じなんだぜ。似た者同士だ」
「……ボク、別に色違いじゃないよ?」
「そうじゃねえって、お前はいつまで経っても飲み込みわりいなあ」
口の悪い、蒼いザングースの振る舞いを見てボクの頭によぎったのは、これは幻覚なのではないかという考えだった。
ボクをずっと知っていたかのような口ぶりは明らかに変だし、ボクの知っているザングースはみんなひどく罵ってくるか殴ってくるかで、こんなに馴れ馴れしく友好的に話しかけてくるザングースはいない。
「しっかしまあ、お前は薄情な奴らに恵まれたんだなあ。オレが群れの長だったらお前を放り出すなんて莫迦なこと、死んでもしないぜ」
やっぱり、ボクの眼の前にいるこれは、明らかに幻覚だ。
心のどこかで友達が欲しいと願っていたボクが、無意識に創り出してしまったものなんだ。胸の痛みはその前兆だったのだろう。
けれども、いっそ幻覚でもいいと思った。向こうが友達だと言ってくれるなら、きっと友達なのだ。ボクの記念すべき友達第一号だ。
「なあ、お前二日間飯も食わずにいたんだろ? 木の実取りに行こうぜ」
なぜボクが飲み食いしていないことを知っているのだろうと頭に疑問符が浮かんだが、そもそもボクの幻覚が具現化したものなのだから、僕のことは何でも知っていて当たり前なのだと気づいた。
だから、彼がボクの何を知っていようと驚く必要も、疑問に思う必要もない。
しかしながら、ボクは彼の何も知らなかった。
「ねえ、君の名前はなんていうの?」
白色蒼裂のザングースは、少しだけ悲しそうな眼をしたけれど、すぐにニカッと笑って、
「オレの名前はギランだぜ!」
その姿に相応しい、素敵な名前を口にした。
ギランは木登りが上手かった。体格はボクより大きいのに、身軽に動く。
その身軽さといったらエイパム顔負けで、逆立ちしても敵いそうにない。
「ほい、これ食べろよ」
高いところに生っている木の実を爪に突き刺しては、次から次へとボクにくれた。
「ギランは食べないの?」
「オレは腹減ってねえから」
ギランがボクの手に投げた木の実は、幻覚ではなかった。きちんと受け取れたし、齧ったら紛うことなきオレンの実の味がした。
ギランはボクの幻覚ではなかったのかという思いが頭をもたげるが、ボクのことを友達だとのたまう色違いのザングースに出会った記憶は、どんなに頭の中を探っても出てこない。
ギランがどっさりと持ってきたオレンの実に囲まれながら、未だに木の実採集に飽きずに木に登り続ける彼を見やった。
「ねえ、ギラン」
「んー、なんだあ?」
ギランの声が森の中に木霊する。
「ボクたちっていつから友達だったの?」
木の実が、また一つ落ちてきた。
「ずっとだ、ずっと前から友達だった」
「ずっとって、どれくらい?」
「……五十年くらい前からかねえ」
やっぱりギランは幻覚なのだと思い直した。ボクの幻覚にしては随分と冗談が上手いけれど。
ザングースという種族の寿命なんてどれだけ長くても二十年かそこらが限界であり、五十年なんてもっと大型のポケモンでもないと無理だ。
大体、ボクはまだ生まれて半年しか経っていない。
「五十年、かあ……」
気の遠くなるような時間だ。この半年だって果てのない長さに感じたのに、五十年なんて永遠とほとんど同義である。
本当に、そんなに長い間、友達と呼べる存在とこの世界にいられたのなら、それはこの上ない幸せなのだと思う。
「……って、ギラン、ボクこんなに食べられないよ」
気がつけば、ギランは余って腐らせてしまうほどの量の木の実をボクのまわりに落としていた。
「少食だなあ。腹減ってんだろ? 食えよ全部」
「ギランも食べるの手伝ってよ。君が持ってきた木の実なんだから」
「オレは腹減ってねえし」
「一つくらい食べられるでしょ?」
「やだ」
「……もう」
すでに満杯になっているお腹をさすりながら、はたと考える。
お腹が減ってないとギランは言うが、ボクの幻覚であるギランに、食べ物を食べるという行為は可能なのだろうか。
できないから、空腹ではないという理由を振りかざし、ボクにすべて押しつけているのではないか。
そんな疑問をよそに、ギランはまたも意味不明なことを言い放つ。
「もう暗くなっちゃったなあ。帰るか」
「帰る……? 帰るってどこに?」
「どこにって、ねぐらがあるだろ」
ギランはさも当たり前のように言う。
「ねぐらなんてその日その日で違うよ。群れはずっと移動してたし、決まったねぐらなんてないよ」
「それはお前のいた群れがそういう風にしてたってだけだろ? お前とオレがそれに従う必要性がどこにある?」
呆れたような、それでいて困惑したような目をボクに向けるギランは、反論しようのない正論を言った。
ボクのいた群れは、他の群れよりも大所帯だった。ねぐらを一か所に固定してしまうと、それを知った毒蛇の群れが夜襲をかけてくる恐れがある。
敵に動向を知られないためには、ねぐらを一日ごとに変えなければならない。群れから疎まれていたボクが文句など口に出す由もないが、内心は辟易としていた。
「こっち来いよ」
早足で木々の間を縫うギランを、おぼつかない足取りで追うボクは、少しだけワクワクしていた。
ボクにしか見えていない蒼いザングースの幻が、ボクを知らない場所に連れていってくれる。
ボクと同じくらいの年のザングースたちが、転げまわって遊んでいたのを見たことがあった。
時折爪で引っかき合う、痛みを伴うような乱暴なじゃれ合いだった。遠くから見ていただけで、一体彼らがどんな表情をしていたかまでは見えなかったが、いかにも楽しそうだった。
楽しいという感情を生まれてから一度も感じたことのなかったボクは、それにどれだけの羨望と絶望を掻き立てられたことだろう。
一生『楽しい』に触れられない悲しみがまとわりついて、ボクの虐められ体質は余計に加速した。
「死にたい」
誰もいないところで、飽きるほど呟いた。
でも、ようやくボクにも『楽しい』という感情に爪が届く。
吐き捨てたくなるような運命にだって、少しくらい救いはあると信じたい。
それが、自分自身が創り出した幻覚が見せるまやかしなのだとしても、その感情だけは本物のはずだ。
「ここだ」
山なりの地形の一部を、むりやり垂直に削り取ってできたような場所。そこだけは緑が茂らず、土と岩が露出している。
崖というには大袈裟で、段差というにはいささか大きい。そして、先の見えないほど暗く深い洞穴が潜り込んでいた。
「何かいそうな気がするのは、ボクの気のせいかな」
取り立てて妙な気色を感じたわけではない。ただ、いかにも何か不気味な生き物が棲んでいそうな洞穴だったから、ちょっとギランを茶化そうと思った、それだけのことだった。
「馬鹿なこと言うなよ、オレはこっちに来るたびにここで……」
だから、ボクは言葉とは裏腹に何を警戒することもなく、洞穴に一歩踏み出したギランの肩越しに、その中をのぞきこもうとしたのだ。
本当に、その洞穴の中に敵が潜んでいるとも知らずに。
「逃げろ!」
唐突に振り返り、叫んだギランの勢いに、ボクは後ろによろけた。
そして、ギランの体をすり抜けて、二匹のハブネークがボクを目がけて飛んできた。
「アルモ!」
森にボクの名前がこだました。出会ってから一度も教えていないのに、やっぱりギランは知っていた。
「ギラ……」
緩徐とした世界でボクが見ていたのは、自分の首に食い込む二匹の赤く鋭い毒牙ではなく、その向こうで驚愕に見開かれゆくギランの蒼眼だった。
粘り気のある黒い水鏡をくぐったときに、ふと思うことがあった。
この先の世界のどこかに、生まれ変わった姿で生活している父がいるのだ、と。
冥界にいたときの記憶など当然消えているだろうから、僕が探すことも、ましてや父が僕を探すことも不可能だが、それでも妙な感慨があった。
一体どんな姿に生まれ変わっているのだろう。ゴローン? ケンホロウ? はたまたルカリオかもしれない。
確か、僕がもっと小さいときに、父に生まれ変わりについての話をされた。そのとき僕は「父さんは生まれ変わったら何になりたいの?」と尋ねたはずだ。
父は何と答えただろう。話の流れの中で何の気なしに訊いたものだから、記憶の片隅にすら留まっていない。
でも、生まれ変わるのなら、キャタピーやケムッソのような小さな虫ポケモンにはなって欲しくないと願う。
気の遠くなるような時間を過ごした冥界をやっと抜け出たのに、生態系の最下層にいるような短い命に生まれ変わるのはなんだかもったいない気がするのだ。
どうせなら大型の長い寿命をもつポケモンとなって、向こうの世界を充分に生きてほしいのだ。
「よいしょっと」
尻尾の先まで、鏡を通り抜ける。
水鏡越しでしか見たことのなかった世界は、予期しない引力を有していた。
「う、うわ!」
急速に落下していく体を、翼を不器用に動かして制御し、なんとか宙空に留まった。
「これが、重力……」
冥界には、漂う巨大な浮遊物がそれ自身の重さから生じる引力をもち、その気になればそこに立つこともできるが、こちらの世界の場合は違うとイグザはいつか言っていた。
なにしろ、星そのものが強大な引力をもって、空に浮かぶものをすべて地上に落としてしまうらしい。
だから冥界にいるときのようにずっと飛んでいることはできず、地上で翼を休めることも必要だと。
正直なところ、水鏡をくぐるまでそのことをすっかり忘れてしまっていた。
そして――僕の姿が変化することも。
「なんか……変な感じ」
足が生えた。しかも、六本。四本で充分だと思うのは、この体の重さを自覚していないせいかもしれない。
翼も、わざわざ動かさないと飛べないのは実に不都合だ。
冷たい雲の中を突き抜け、空の中を下降する。
「こっちの世界はなんでこんなに明るいんだろ。みんな眩しくないのかな?」
無機質な冥界に比べて、こちらの世界は彩色も派手だし明度は極端に高い。青い空、緑の木。そして、人間の作った街というものは刺激的な色が昼夜問わず明滅する。
父が水鏡をくぐる際に生じる歪みから密かにのぞいたあの景色は、今確かに僕の体を取り巻いていた。
黒い水鏡が僕を呼ぶ声と同時に発生したからには、当然その声の主たちがいる場所へと誘導されているはずだと考えるべきだが、果たして一向に声の主たちが見つかる気配はない。
行くあても定めないまま空を彷徨うのは不必要に目立つだけなので、とりあえず人間がいないであろう森の中に降り立った。
けれども、声の痕跡が一切残されていない状況で、何をどうすればいいのかはまるでわかっていない。
輪廻の歪みや乱れを整えるという大層なことをしようとしているのは理解しているが、それをどうやればいいかなんて、イグザはおろか父にでさえきちんと教わった記憶はない。
イグザは種族柄仕方がなかった。輪廻の仕組みは、頭がまともならどんなポケモンにだって理解できるとイグザは言っていた。遠回しに僕を貶していた気がしないでもないが、ともかくそういうものなのだと。
しかし、理論と実践は別物で、いくらイグザがこの世とあの世を繋ぐ理を理解していようと、輪廻を弄れるわけではない。
それはギラティナである僕と、かつてギラティナであった父のみができることであり、ヨノワールであるイグザには不可能なのだ。
問題は父のほうで、僕が輪廻の乱れはどうやって直すのかと問うても「そのうち教える」としか言わなかった。
そしてそのまま輪廻転生に飲み込まれてしまったのだから世話がない。
父はイグザと同様に頭は良かったと思うが、自分の転生時期だけは把握しきれていなかったのかもしれない。
「輪廻する魂の通り道にはよくゴミが浮いているのだ。たまに、魂がそのゴミに引っかかってしまって動けないでいることがある。還りたがっている魂がいたら押し出してやり、こっちの世界に飛び込みたがっている魂がいたら引っ張ってやればいい」
一度だけちゃんと答えてくれたことはあるが、抽象的に過ぎる。
父はこの説明が充分に具体的だと感じるらしいが、僕にしてみれば具体的な方法など何一つ示されていないように思う。
「私たちギラティナがすべきことに正解などないのだ。まずはやってみるしかない。失敗したっていいのだから……」
失敗なんて、そう軽軽しくしていいものだとは到底思えなかった。それで輪廻が余計に乱れてしまったら、手の付けようがなくなってしまう。
父は一体何を思いそんなことを言ったのか、今となっては知る由もない。
「疲れたなあ……」
歩き回っていたら、太陽が沈み始めた。目を眩ます光源が消えてくれるのはありがたいが、声の主が見つからないまま時間だけが流れていくので焦ってしまう。
それに、地面に足をつけて歩くのがこんなにも疲れるものだとは思っていなかった。冥界でどれだけ自分が楽をしていたかを痛感する。
「この森にはいないのかなあ」
空の真ん中で繋がった水鏡の真下に広大な森があったから降りてみたものの、声の主たちはもっと別の場所にいるのかもしれない。
もし僕がギラティナでなかったら、ちらほら見かけるポケモンたちに尋ねて回ることができただろう。「このあたりで死にたがってたり死にかけてるポケモンはいませんか?」と。
というのも、僕がそこらのポケモンよりも少少体躯が大きくて、翼の形やお腹の模様が仰仰しいせいなのか、僕を見かけたポケモンは逃げてしまうのだ。
木や岩の影に息を潜めているポケモンもいるが、多分近づいたら同じように逃げられるだろう。
「そんなに僕って怖いのかな……?」
体が大きいといっても、まだ父の四分の一くらいの大きさしかないし――。
あとは――。
あれ?
「ないかもなあ」
冷静に考えれば、それくらいしか怖がられない理由を示せない。
威厳とか風格とか、そんなものは自分に無縁だと無意識に思っていたが、冥府の王が如何にしてそれらから逃れられよう。
ちょっとだけ泣きたくなった。
空が群青色に染まってゆき、森が漆黒を湛え始める。冥界で慣れ親しんだような暗さも、こちらの世界では得体の知れない不気味さを孕んでいた。
これなら明るさに目の眩んだ昼の方が安心できたように思う。
いい加減手掛かりが欲しい。そう思い始めた矢先だった。
「誰だっ!」
「えっ、何!?」
前脚に一閃。痛みはそれほどないが、それ以上に突然何者かに戦いを挑まれた恐怖で、足がすくんだ。
「お、俺の爪が! こいつ硬いぞ、気をつけろ!」
「あ、あの、止めてください! 僕は何も」
「うるさい!」
懇願するも、聞き入れられる様子はない。
暗くてよく見えないが、四、五匹いるであろうポケモンが、僕に向かってくる。
もしかして、彼らの縄張りに足を踏み入れてしまったのかもしれない。
「痛っ、ごめんなさい! あなたたちの縄張りだとは知らなくて、っつ! 見逃してください!」
戦いなんて生まれてから一度もしたことはない。だから痛がったり、攻撃を甘んじて受け入れたりして、敵意がないことを証明する以外に、この場を切り抜けられる方法が思い浮かばなかった。
けれども、予想外のことが起きる。
「ぶえっ!」
「おいっ! しっかりしろ!」
思わず羽ばたかせた翼の爪が、運悪くそのポケモンに当たってしまった。
地面に落ちたポケモンは、ザングースだった。生まれたときから死ぬときまで、ハブネークと戦い続ける運命にあるポケモン。結構乱暴な種族だと、イグザから聞いていた。
「てめええええ!」
「た、ただの事故です! わざとじゃなっ、い、痛い痛い!」
これではきりがない。
血の気の多いポケモンに何を言ったって通じるわけがない。
もはや、することは一つだ。逃げよう。
「こらあああ待ちやがれええ!」
振り返らずに全力で走る。木木を
自覚はしていなかったけれど、僕の運動能力は自分の考えていたものよりは高いらしい。
石や枝に引っかかりながら、ひたすら走る。咳き込んで足を止めたときには、追ってくるポケモンはいなかった。
「もう……大丈夫かな……」
その代償として、息は完全に切れた。走るってこんなに疲れるものなのだと、新しい発見に感動を覚える余裕すらない。
しばらく休もうと頭が考えるよりも先に、脚がくずおれる。
しかし、こういうときに限って物語は動き始めることも、きっと約束されていたことなのだろう。
『死にたい』
冥界で聞いた、靄のかかったような
瞭然として残響し、確かな意思が宿っていたそれは、今にも逝こうとしていた。
何かが起こるのだ。僕の助けを必要とする何かが。
方向は右手。距離はそう遠くない。
「……行かないと」
疲れて重くなった体を奮い立たせて、再び歩み始める。
森がざわつく。木の葉は僕の訪れを歓迎しないかのように、擦れて不協和音を奏で、太い幹をもつ樹木は倒れかけ、僕を押し潰そうとしている。
だから、不自然に木木のなくなっている開けた場所に出たときは、わずかだが不安を拭い去れた。
「この近くのはずなんだけど」
あたりを見渡す。暗くてよく見えないが、何かの気配はするが――。
「アルモ! しっかりしてくれ」
思わず後ずさりして、木の陰に隠れた。声の持ち主を確認して、息を潜める。
「死ぬな! お前はまだ生きなきゃいけないんだ! オレがそっちに行くまで!」
あれは、ザングースだ。色違いだから、さっき僕を襲ったのとは違うようだけれど、つい顔が引きつってしまう。
「何言ってるの……君がこんなとこに連れてきたせいで……ボクの幻覚の癖に……」
倒れているのもザングースで、こっちは一般的な緋と白の体色だ。喉に大きな傷があって、声はかすれている。
あまりにも退っ引きならない状況のようで、巨体を揺らしながら出ていく勇気は湧かない。
それに、落ち着いて見てみると、明らかにおかしいことに気づいた。
あの蒼いザングース、どう見たってあっちの世界にいるべきポケモンだ。つまるところ、死んでいる。
体の真ん中で光る球がゆらゆらと揺れているから間違いない。
「どうしてこんなところに」
この世に未練があって、逝き損なったのか。僕が呼ばれた理由は、たぶん蒼いザングースのためだ。
けれども、おかしいのはそれだけではなかった。
緋いザングースは、なぜ蒼いザングースを認識しているのか。この世とあの世は決して交じり合わないはずなのに、どうして彼らは話が通じ合っているのか。
「違う……オレは幻覚なんかじゃ……」
もちろん、触れられるはずがない。緋い腕は、蒼いザングースの腕をすらりと通り抜けた。
「ほら、幻覚だ……」
「違う! 違う! オレは幻覚じゃない! れっきとしたお前の友達なんだ!」
「はは……幻覚じゃなければ君は……死神だよ……。こんな思いをするくらいなら……群れの仔たちに……虐められて殺されたほうが……ましだったよ……」
耳孔を塞ぎたいほどに悲痛だった。そして確信する。
死にたいと願った声は、この緋色のザングースなのだと。
それから幾秒も経たずに、彼は事切れた。
「アルモ! アルモ!? ……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! こんなのあってたまるか! まだ一日も経っちゃいねえのに!」
膝をつき、亡骸の前で慟哭する蒼いザングースに、僕は
その姿を見ていられなかったからではない。明らかに、彼の体に異変が生じていたのだ。
「許さねえ! 絶対に許さねえ! 殺してやる! あの毒蛇も、こいつを放り出した群れの奴らも!」
紫炎が、蒼いザングースの体を蝕んでいく。みるみるうちにその紫炎は燃え広がり、僕のいる場所をも飲み込み始めた。
「これって……!」
ひどいことが起こる前兆だというのは本能で理解した。逃げないと大変なことになりそうだというのもわかっている。だが、間に合わない。
「アルモォォォォォォォ!!」
緋色の想いを背負った蒼いザングースの絶叫とともに、紫炎は爆散し、僕の視界がフラッシュした。
「うう……」
ようやく眩んだ目が暗転した世界を捉えたときには、すでに蒼いザングースの姿はなかった。
あまりにも壮絶な光景に、僕はなぜこの場にいたかということさえ忘れていた。
「あ、緋いザングースは……」
亡骸へと歩み寄って、状態を確認する。
「ちゃんと死んでるみたいだ」
喉笛に深い傷を作っている遺骸は、変わらずにそこにあった。魂も僕が手助けすることなく輪廻の軌道に乗って、滞りなく冥界に届けられた。
しかし、蒼いザングースの魂だけはどうしても見つけられない。
「一体何が起こったんだろう」
衝撃的で不可思議な光景は、イグザから教えてもらったことだけでは何も説明できない。
今の僕にできることは何もなく、しばらくの間そこに立ちすくむしかなかった。
そして、蒼いザングースは強い意志により自力で還ったのだという有り得ない結論を導き出したのは、冥界に帰ってしばらくのことだった。
死にたいと思ったことは数あれど、死んだあとはどうなるかなんて考えたこともなかった。
肉体は土の上で朽ち果てるか、毒蛇が喰らって骨だけになるか、いずれにせよ自然の法則に則って、何らの不思議もなく消える。
精神は、たぶんその過程で霧消していくのだろうと思っていた。もしくは、意識が途絶えた瞬間に、ぷつりと消滅するのかもしれない。
つまるところ、死というのは肉体が致命的な損傷を受けるか、生きるのに耐えうるだけの力をもたなくなったとき、自我が完全に消失して己が生きていた世界を認識できなくなることだと、ボクは考える。
――こんなごちゃごちゃとした定義づけなんて、本来する予定などなかった。なぜならボクは死んでるし、肉体もない。物を考える脳みそだって持っていない。
一度死を自らの力で定義しないと、ボクが今置かれている世界を理解する土台が作れないのだ。
「本当に死んでるんだよね、ボク」
言葉にして、即座に矛盾に気がつく。死んでいたら口もきけないし、そもそも思考もできない。
死んだらそれで終わり。腹立たしい現実も、悲しい感情も、首の痛みも、――一瞬だけ味わった『楽しい』も、すべて終わり。
そう思っていたのはすべて間違いだったということになる。
今、ボクは
ときどき、ボクを取り巻く空間に、波紋が生じては消えてゆく。幾度となく生成と消滅を繰り返すそれらは、まるでボクを呼んでいるようだった。
しかし触ろうとすると、ボクの手を一瞬吸い込みかけ、小さく破裂して、何事もなかったかのように消えた。手にはびりびりとした感覚だけが残った。
「今のは……」
確かに感じたかすかな温もりは、つい最近触れていたような気さえするが、二度と触れたいとは思えない、奇妙なものだった。
それは、波紋の向こうには絶望が待っているという、無意識の直感にほかならない。
無数の不気味な波紋たちから逃げたくて、ボクは腕と脚で空間を掻いた。虐められて川に突き落とされたとき、岸へ辿り着こうと必死に泳いだ記憶が鮮烈に蘇る。
上も下も右も左もすべてが冥く、慣れ親しんだ重力さえないこの場所では、あのときと違い、自らが前に進めているのかを確かめるすべはない。
ボクは死んだはずなのに、なぜこんなことをしているのだろう。
生きていたときほどではないにしろ、死んだ今もたとえ難い苦しみに溺れている。
切望していた死は、期待していたものとはまったく異なり、ボクをひどく落胆させた。
しかしながら――群れからの干渉に気を使わなくていいだけ、やはり楽に感じているのも確かだ。
逝く直前まで共にしていた訳のわからない幻影に一喜一憂することもなく、余計なものは何一つとして背負ってはいない。
ともかく、疲れるまで泳ぎ切ることだ。考えるのはそれからでいい。
そう思考を整理した矢先だった。
無音の冥い世界に、風が吹き抜ける。ごう、とボクの耳を揺らしたのは、目の前をとんでもない速度で横切った何かだ。
息を止める。あの、死ぬ間際のスロウモーションが脳裏に蘇った。
なぜそれを思い出したのか、再びその何かがボクのそばを横切ったときに理解した。
忌まわしき毒蛇に似た細長い体型は、その光景をフラッシュバックさせるには充分な因子だ。
「逃げないと……!」
逃げてどうする。もう死んでいるのに何を恐れているのか。
自問するも、この場から立ち去らないという選択肢はまるで思い浮かばない。
だが、一瞬の躊躇いの間に、何かは音もなく、ボクの眼前で停止した。
宙空に浮かぶそれは、まさしくこの世の――いや、あちらの世界の者ではなかった。
「あ……」
声が出かかって、立ち消えた。
毒蛇の牙が喉に突き刺さったとき、ボクの中には驚きと、次いで恐怖が湧き出していた。
だが、その衝撃を受け入れようとしている自分も確かにいた。ボクは今殺されている途中であり、死にへ向かっているのだと。
しかし、目の前にいる何かに対する感情は、驚きとか恐怖とか、いくつかの単純な言葉で表現できるほど簡単なものではなかった。
真っ黒な空間に、ボクと向かい合って鎮座しているそれについての感想も同様だ。異次元的、非現実的、超常的――まだ、足りていない。
形容するに相応しい言葉を探し出すのは、まず不可能に思えた。多数の形容詞を幾重にも重ねるほど実態から遠ざかる気がしたし、ボクのいた世界にそれを形容する適切な言葉など端から存在してしないだろう。
それでも、このような諦めを前提とした上で、あえて一言で表現しようとするなら――禍禍しい、だ。
背中と思しき部分から生えている、赤い棘をもつ翅やら、胸から腹にかけての赤と黒の縞模様やら、体の側面に並んでいるいくつもの大きな棘やら、もはや相手を威圧し蹂躙する凶悪さのみを纏っているとしか思えない。
何よりも顔と首の周辺を覆う黄金の外骨格(とでも言うべきか?)の仰仰しさたるや、さしずめこの冥い世界に君臨する王であることを誇示しているといったところか。
赤い双眸が動く。ボクは、それでようやく禍禍しい何かが生き物らしいということを完全に理解した。
彼は――彼女かもしれないが――ボクをどうしようというのだろう。
高鳴る鼓動だけがボクの体を支配する。
「やあ」
黄金の外骨格がおもむろに開き、彼は挨拶と思われる言葉を口にした。
予想外にトーンの高い声だった。外見との不一致が甚だしい。
「生前の形を保ったままこっちに来るなんて、珍しいこともあるんだね」
彼が何を言ってるのか、いまいち理解しきれないが、『生前』と口にしたということはやはり――。
「あ、あの」
「僕はラヴィアロウ。ラヴィアロウ=ギラティナ。この冥界を統べる王……に最近なったばかりで、威厳とか荘厳さとか全然ないつもりだけど、よろしく」
ラヴィアロウは、なぜか胸を張っておかしな自己紹介した。
拍子抜け、とはまさにこのことだ。ボクの抱いていた心象は何から何までひっくり返された。
ラヴィアロウの自己分析能力の低さには、ある種の感動さえ覚える。
声のトーンさえ抑えれば、世界を破壊して回るのが趣味ですと言われても驚かないほど凶悪な外見をしているというのに、本人にその自覚はないらしい。
「ぼ、ボクはアルモ。見ての通り、ザングース……です」
「そんなに萎縮しないで。あっちの世界のポケモンと何も変わらないから。君と同じで、ね。仲良くしよう」
そう言ってラヴィアロウは、六つに分かれた黒い翅のうちの一本を、僕の手の方に差し出してきた。
「僕は手がないからね、握手の代わりに」
翅の先の赤い棘を握る。温度のないこの世界に似合わない、生きる者の温もりを感じた。
「よ、よろしく、ラヴィアロウ」
「ラヴィでいいよ。僕の名前、長いからね」
緊張の対面が嘘のように、ボクとラヴィアロウは長長と話し込み、色色なことを聞き、そして訊かれた。
冥界と呼ばれるこの世界のこと。
ボクの生きていたあちらの世界との関係のこと。
ラヴィアロウ自身は何をしているのかということ。
輪廻のこと。
ボクが生きていたときのこと。
死んだ瞬間のこと。
話せば話すほど、ラヴィアロウが俗世のポケモンとほとんど変わらないと思った。
ラヴィアロウ自身、この世界のことにはまだ明るくないらしく、イグザというヨノワールから日日この世界の理を学んでいるのだという。
いったい、どれほど雑話に明け暮れたかわからない。この世界には時間というものがあちらの世界とは異なるらしく、いくら話しても十秒とも経っていない気がしたし、十年以上経った気もした。
ラヴィアロウは、ボクと同じで仔供であるらしかった。少し前に先代の王であったラヴィアロウの父が亡くなり(こちらの言葉では『還る』というのが正しい)、幼くしてラヴィアロウが王となった。
そして、王としての初仕事は、ボクについてなのだという。
「声が聞こえたんだ。死にたい、っていうのと、還りたい、っていうのが」
「アルモ、君は死にたいと願ったことはある?」
「……まあ、何度か」
「なら、死にたいっていうのは君の声だったっていうことになる。君に目星はつけていたけど、おそらく間違ってないと思う」
言葉とは裏腹に、ラヴィアロウの瞳はますます困惑の色を深めた。
「……何か変なところ、ある? ボクはこっちの世界に来れて清清しているんだけれどね。自分が死んでよかったって心から思ってる」
ラヴィアロウの顔を見上げるが、どこか釈然としない様子だった。
「僕が呼ばれた理由がわからないんだ。さっきも話したけど、僕の仕事は輪廻の流れが滞ったり、逆流したり、早く流れ過ぎたりしないように調整することなんだ。でも、アルモは死にたいと願い、望み通り死に、特に問題を起こすこともなくこちらの世界に来た。剥き出しの魂じゃなくて、生きていたときと同じ、ザングースの形をしているのは気になるところだけどね」
なるほど、確かに奇妙だと思った。しかしながらボクとしてはそれ以前に、ボクの心の声らしきものがラヴィアロウに届いたということ自体がなかなか不思議な話であると感じた。
この世界とラヴィアロウにはボクの中の常識は通用しないのだろう。それはこの世界の理不尽なまでの冥さからもうかがい知ることができる。
そして、ボクがラヴィアロウの仕事を邪魔する結果とならなかったか、いささかの不安に駆られた。
逝くのに何らの支障もなかったのにもかかわらず、ラヴィアロウの手を煩わせてしまった。手はないけれど。
「それに、還りたいと願いの方も気になるんだ。君のそばにいた蒼いザングースのことなんだけどね……」
急に寒気が背筋を走り抜けた。
「いないよ、そんな奴」
「え? でも、君が死ぬ直前まで……」
「いないってば! あんなのただの幻影なんだから!」
ボクはふわりと浮かび上がって、ラヴィアロウから離れた。
ラヴィアロウは追ってこない。ただ、離れるボクをじっと見つめていた。
「なんでラヴィがギランのこと……」
気づけば、涙が溢れていた。この世界には重力はないのに、涙だけは頬を伝って下に流れ落ちた。
ボクは突然どうしてしまったのだろう。眩暈がして、動悸が激しくなる。
ギランの存在を示されただけで、言いようのない不安が押し寄せてくるのだ。
たぶん、ラヴィアロウは驚いただろう。ボク自身も自分の出した声に驚いているくらいだ。
だが、親身に接してくれたラヴィのことは何も考えられなかった。
その代わりと言わんばかりに、
目覚めとともに声をかけてくれたときのこと。木の実を飽きるほど食べさせてくれたときのこと。手を引かれてねぐらへ向かっていたときのこと。
ボクはギランのせいで呆気ない最期を迎えたというのに、どうしてこんなにも楽しい思い出ばかりとめどなく溢れてくるのか。
所詮、幻影なのだ。寂しいボクの創りだした、ちっぽけな幻影。
どれだけそう思い込もうと、愛しさだけが零れ落ちて、ギランに酷い言葉を投げつけた終わりの時への罪悪感は、掻き消すことができなかった。
「ギラン……」
また、君に会うことができるだろうか。死してなお、君に会うすべはあるだろうか。
『アルモ……!』
あの、自信に満ち溢れた、頼もしい声が、ボクの体の隅から隅へと響き渡る。
次いで、大きな波紋が温もりを伴って出現する。
それは、まるでボクを待ち焦がれていたようであったし、待ちくたびれていたようでもあった。
「いるんだね……! この先に!」
薄薄感づいてはいたが、この波紋の先には、生けるものすべてがひしめき合うあの世界がある。
戻れるわけはないと思っていたし、再び戻りたいとは露とも思わない。
ただ、ギランのために。
思い込みかもしれない。確証もない。信じるのは己の、後ろ盾のない確信だけだ。
「ギラン!」
黒い粘り気のある波紋をくぐると、ボクは真っ逆さまに重力へと引かれていった。
アルモには、オレたちは五十年前から友達だったとか、ふざけたことも言ってみた。実際のところオレがアルモのことを知り、そしてオレのことをアルモが知るようになったのは、一世紀じゃまだ足りないってくらいずっとずっと昔のことだったと思う。
ただ、初めての出会いを邂逅と称すにはいささか難しいものがある。あるとき、何かの拍子に冥界から現世に入り込んでしまった。
長く流転を繰り返していれば、冥界から現世に戻るときの兆しを感じ取れるようになって、そろそろ転生するのだと呑気に身構える――のだが、ことそのときに限っては冥界の神様が間違いを犯したのか、死んだまま現世に落ちてしまったのだ。
一応地表を歩くことはできるが、触れている感覚はない。木漏れ陽の熱にも、木の葉の縁の尖りにも触れられず、あまつさえジグザグマの仔供にオレの身体を通り抜けられた。
なんというつまらない世界だろう。こっちの世界は生きて楽しめこそすれ、死んで彷徨うべきものではない。オレは冥界に帰る方法をすぐさま探し始めた。しかし、そう簡単にあちらに戻る方法など見つかるはずもない。
あてもなくふらふら森の中を歩いていた。そんな折りに、屈強そうなハブネークに追われているザングース――後で名前を知ることになる――を発見した。
猫鼬と牙蛇の争い――珍しくもない光景だった。だが、そのザングースにオレが多少の興味を覚えたのには理由がある。
ちょうど前回オレが死んだのはザングースとしてだった。それも、白い身体に蒼い模様の、俗にいう色違いの個体だ。何十、何百と流転していれば珍しい種類や型の個体に生まれることもあるし、特別オレ自身がそのことに何か思うわけではなかったが、やたらと群れの連中たちが騒ぎ立て、煩わしく感じたことは記憶に新しかった。
追われているザングースはほんの仔供だった。身体は小さく、そしてそれ以上に貧弱だ。群れから独り立ちするには早すぎる年に思えた。ザングースとハブネークは遺伝子
必死でハブネークの攻撃をかわしながら逃げようとするザングースを追った。無事を祈る気持ち。反撃するにはあまりにも小さく脆いその爪に、奇跡が宿るのを信じて。
しかし、奇跡は起こらないから奇跡なのだ。いたぶるのに飽きたハブネークが去り、その場には緋色に染まったザングースの身体が残った。もうじきこちらに来るのは火を見るより明らかなくらいの惨い傷だった。
ザングースのそばに寄った。身体が冷たくなってしまうその前に、アルモの手を握ろうとした。冥界に棲む者が、現世で命を燃やす者に触れることができやしないのはわかっている。それでも、触れようとせずにはいられなかったのだ。せめてその短い定めの最期くらいは、温もりを与えたいと思う。傲慢な考えかもしれないが――それが正解だと信じていた。
予想外のことに歯車が狂い始めるとは考えもしなかったのだ。いや、むしろ歯車ががっちりと、毛の一本程のズレもないくらいに噛み合い始めてしまった。
オレの手が、ザングースの手に触れた。ザングースの目が、こっちを向いた。数秒後にザングースは事切れた。――あれほど長く感じられた短い時間というのは、後にも先にもない。
それから間もなく、また何かの拍子に冥界に戻り、転生した。死んで冥界でしばらく過ごしたらまた現世に戻ってこられること。転生前の記憶をもっていること。それをまわりのポケモンに話せば気狂い扱いされること。いつもと変わりない、オレにとってはごく当たり前の日常だ。
ただ一つ、不可解なことがあるとすれば、それまでタイプもタマゴグループも毎回異なるようなポケモンに転生していたのに、あのザングースの手を握ったその時から、色違いのザングースとしてしか生まれ出ずることができなくなったことだ。幾度か繰り返すうちに、幼い貧弱なザングースは必ずアルモと名付けられることを知った。これもまた随分と奇妙なことだった。
繰り返しは止まない。死んで冥界に帰れば、必ずアルモが殺される光景を目にし、その瞬間にまた現世に戻ることを反復する。
アルモはザングースにしか転生できないこと以外はいたって普通の命だった。だから前世の記憶なんて当然もっていないし、死に際に毎回オレが話しかけることなんて覚えていない。百年以上ずっとその繰り返しだった。
アルモと同じ時間を生きたいと、自然と願うようになった。ただ、叶える方法がいつまで経っても見つからない。何度転生してもオレが生きる時間にはアルモはいないし、ようやく死んだと思ったらアルモは現世に戻っている。誰が定めた運命なのか、オレとアルモはまったく同じ周期で、決して交わらないように輪廻しているのだ。
まったく、ふざけてる。
こうして、アルモの死んだ森に
いい加減、この機械仕掛けのような輪廻に終わりを告げたい。できれば、アルモと一緒にこの世を生きたり死んだりするという、何の変哲もない形で。
ほとんど、諦めの境地に達しているけれど、それを実現するための鍵はどこかに転がっていると、まだ信じている。信じなければ、やっていられない。
だって、そうだろう。諦めたってこの二重の輪廻は終わらないのだから、苦しみ
――惰性に限りなく近い。
「……さて」
ここ十数回の輪廻で、一定の結論には辿り着いた。アルモが死ぬ原因は、概してハブネークにいたぶられて殺されるのがほとんどだ。その原因を取り除く方法はただ一つ。
「ハブネーク種の殲滅」
莫迦げてると思う。この森に棲むハブネークの数なんて数えきれない。特別強くもないザングースがたった一匹で何を成し遂げられるというのか。
「知るか、そんなこと」
絶えず湧き出てくる自問を薙ぎ払う。いちいち行動の合理性を疑ってはきりがないのだ。アルモとオレを救う鍵の形は
唯一幸運なことは、オレもアルモも生まれて死ぬ場所はこの森のみで、ずっと変わっていないということだ。この森のハブネークさえいなくなれば、理不尽にアルモが死ぬこともない。
(――仮にできたとして、妙な二重輪廻が訂正される保証は?)
幾度となくふざけた輪廻の解消に失敗し続けたオレの心の声が、頭の中でガンガンと反響する。
「うるせえ! そんなこと……やってみなきゃわかんねえだろうがっ!」
一度だけアルモは別の原因で死んでいる。もともと抱えていたのか、後天的なのかは定かではないが、ハブネークに殺される時分を前にして、病気で逝った。
それは輪廻に好ましい影響を与えたわけではなく、かといって悪い影響があったわけではない。とどのつまり、アルモが死んだ瞬間にオレは即座に現世に転生して、アルモのいない退屈な命を全うしたという、通常通りの輪廻が行われた。――何も変わらなかった。
けれど、たまたまそのときは何も変わらなかっただけかもしれない。今度は上手くいくかもしれない。
「自信と過信、いつも前向き……オレの取り柄はそれだけなんだ」
弱気になるな。アルモを救う。自分も救う。できないことなどない――諦めない限り。
眼前にはハブネークの巣。そして、二匹のさほど強くなさそうな個体。
深呼吸する。アルモの生きたこの森の空気を、目一杯肺に取り込んだ。
「見守っててくれよ、アルモ……!」
アルモの模様の色に似た、緋色の爪に誓う。
「うおおっ!」
オレは牙蛇たちの身体を穿たんと、心を奮い立たせ、勇み、飛び出した。
黒い波紋を通り抜けたら、上下左右が反転した。足許はうろこ雲が散りばめられた空の海に浸かっていて、上方を見上げると遥か先に緑が繁茂して、ところどころに人間の生きている印である灰色の線や塊が見えた。
頭から落ちているとすぐには理解できたが、落下速度自体は大したことはなく――むしろふわりと下りゆくチルットの綿毛のように極めて緩慢であるそれは、逸る気持ちとは裏腹で、どうにかこうにか空気を掻いては速度を上げようとしたのだが、徒労だった。
死んだ身でこっちの世界のものに干渉しようとは思わない方が賢明かもしれない。たとえ空気でさえも。
「ギラン……」
性格も顔つきも正反対の蒼い友を想う。ボクの名前を呼んでくれた声を思い出すと、死んでいるボクでも、確かにここに存在しているんだと安堵する。次いで、食べきれない量の木の実を渡してくれたことを回想した。ぶっきらぼうな優しさは、飢えていた腹と心をしっかりと埋めた。
それから、ギランの不敵な笑み。自信に満ち溢れた、突き抜けるような笑顔。
暗く翳った、一寸の光すら射さないような闇に飲み込まれ、なお延々と沈み続けた先に、ちっぽけな燐光を掴んだ。酷いことを言ってしまったけど、死ぬ前にかけがえのない思い出をくれた。
謝りたいと思う。幻扱いしてしまったこと。ボクの死を君のせいにしてしまったこと。あまつさえ同族の群れに殺されたほうがましだと言い放ってしまったこと。
臆病なボクだから、きっと謝ろうとしても言葉はつっかえるし、どもって十分の一も伝わらないかもしれないけれど、どうか君にはわかってほしい。
身勝手だ、と思う。ギランに対する甘えが滲み出ていて、浅はかだ。
「そんなに変わってないな」
静寂の森に降り立つ。僕が死んだ場所とも、同族の群れと暮らしていた場所とも離れているが、同じ森の中だ。
そんなに――どころか、まったく変わっていない。変わるはずもない、と思う。猫鼬と牙蛇は昔から決まった範囲の中で領域を争っていて、そこに何者の介入を許すこともなくずっと続いている。勝ち負けは永遠に定まらない。
両者のしがらみが息づくこの場所は、かつては否が応でも五感を苛んだ。呼吸は苦しみを伴い、視界に映る同族たちに怯えた。
しかし今は、湿った土のにおいも、かつてボクの耳をくすぐってきた風の感触も、まったく感じられない。
踏みしめているはずの地面の凹凸も、足裏からは伝わってこない。現世から切り取られた妙な浮遊感が、自身が死んでいることを再確認させる。
色彩だけは以前より鮮やかにこの目に映っているようだ。
深呼吸して歩き出す。後方から絡みついてくる忌まわしい記憶から逃げるように。
そして誰とも会わぬようにと願いながら。
無意味な願いだと自嘲する。なぜなら、僕は死んでいる。生者の世界にいながら生者と一切交われないボクが、今さら何を恐れるというのか。
――そう思わなければ、ボクの心はとても耐えられそうにない。
心臓がばくばくと揺れている。風景がぶれる。
先に見える大樹の根元に寄りかかっているのは、二匹のザングース。
同族に虐げられていた記憶が鮮明に蘇って、思わず草木の影に隠れた。
何をやっているのかと思う。ボクは死んでいて、生きている者に視認されることなどありえないというのに。
生い茂る草の隙間から、彼らの様子をうかがう。どちらとも雄のようで、片方は左腕にけがを負っていた。
あの傷の形は間違いなく咬傷――それも、悠久ともいえる果てない時間、ずっと猫鼬と敵対してきた牙蛇のものである。
ボクは深く首に牙を突き立てられたものだからあえなく死んでしまったが、腕くらいだったら流石に死ぬことはないだろう。もっとも、ボクが彼らを心配する道理など毛ほどもないわけだが。
「まだ痛むのか?」
「いや、だいぶ良くなった。お前がすぐにモモンの実食わせてくれたしな。……ああ、思い出すだけで苛苛する。あの野郎、次会ったときはマジでぶっ殺す」
怪我しているザングースは、鋭くて凶悪な目つきをしている。その気になれば睨みつけるだけで相手を殺せるのではないかというくらい、とにかくひどい目つきだった。
対照的にもう片方のザングースは、粗野な片割れと違い、頭の良さそうな雰囲気を纏っている。大人びている、と言い換えてもいい。
「まあまあ、そう焦らず。ちゃんと休んで、それで怪我が良くなったら、蛇たちを血祭りに上げに行こうよ」
物騒な会話だ。怪我をしている血の気の多そうなザングースはともかく、理知的な瞳をしているザングースですらも、爪を研いではにやりと笑っている。大人びていても、ザングースはザングースだ。
ザングースという種族も、敵対しているハブネークという種族も、どうしてこんなに野蛮なのだろう。ボクの貧弱さだって、そもそもザングースとして生まれてなければさほど問題にならなかったはずだ。
好戦的にというにはあまりにも血を見ることの多い猫鼬。そんな種族よりも、もっと普通の種族に生まれたかった。争いを好まず、平穏に身を置くことを是とする――むしろ争いの意味さえわからなそうな――例えば、コダックのようなポケモン。
コダックはコダックで普段から頭痛に苦しめられていると云われているので、彼らにとっては日常生活は平穏とは程遠いものなのかもしれないが、それでもザングースに比べたら遥かに平和だろう。
「血祭りに上げに行くか……良い響きだな。でも、お前そんなに強くねーだろ」
目つきの悪いザングースが、嘲笑とも呆れともつかぬような表情をした。
「ま、君よりは数段劣るだろうね。けど、君だって一人で突っ込んても大した成果は得られないだろう」
もう片方のザングースが白い牙を見せる。格上の同族に見せる顔としては幾分生意気なものだった。しかし――、
「違いねえな。お前がいなかったら俺はとっくの昔にあの世だ」
格上のザングースは、意に介さないどころか、目の前の同族に全幅の信頼を寄せているらしかった。
「次はちゃんと足並み揃えて、ふたりであいつらの首とってやろーぜ」
「ああ」
視界が
物騒な世界で、刹那的に命を散らすような生き様なんて反吐が出るほど嫌だったはずなのに、なぜ彼らはこんなにも眩く見えるのだろう。
――ボクも、こんなふうに心を開けるような友達が
なんて、頭を振ってすぐに思い直す。それができるわけないから、ボクはこうして女女しくも、死んだあとに親友でありたかったポケモンを探して彷徨っている。
「会いたい」
それだけだ。あてはないが、第一に目指す場所はわかる。
ボクが死んだ、ギランのねぐら。
ギランがそこに留まり続けているとは思えないが、行かなければ始まらない。
しかし。
「……崩れてる」
見つけるのにさほど労力はかからなかったが、目当ての洞穴は崩れてなくなっていた。雑草がぼうぼうに生えて、洞穴の入り口だったことはとうの昔に忘れ去られてしまっているようだった。
ボクは混乱した。まだ、死んでから数日かそこらしか経っていない。なのに、まるで何年も経ってしまったかのように――。
「……そうか」
もう一度あたりを見渡す。よくよく目を凝らして、じっくりと。
まったく変わっていないなんて僕の思い込みだった。新しい木、古びて倒れた木、木の葉のつき方、空の形、何もかも変わっている。
そもそも、ボクの亡骸が跡形もなくなっているのは長い経時の証拠。
茫然と立ちつくして、どれだけの時間が流れたのだろうか。頭を整理して、事態を受け入れられるようになっても、なお問題が残る。
「ギランはどこにいるんだろう?」
まだこの森の中に棲んでいるという確証はない。ザングースが棲める森はここだけに限らずとも幾らでもある。この地に留まる理由がギランにあるのならば、話は別なのだが。
いつの間にか空は朱く染まっていた。ヤミカラスの群れが点点と夕焼けにぶちを打って、数刻の間に訪れる夜を告げる。
暗くなると、森の中を動き回るのは困難になる。夜が明けたら、またギランを探そう。
そう決意して、ボクは闇の中に身を潜めた。
「……ついに夜襲かけるのか。なんだかわくわくするな」
眠れないので目をぎゅっと瞑っていたが、まるで逆効果だった。もしかして、死んだら眠らなくてもいいのだろうか。
「一瞬で決めるぞ。むやみに勝負を長引かせても有利にはならないからな」
夜の闇は様様な気配が蠢く。耳をそばだてずとも密やかに反響する声。
昼間に聞いた声と同質のものだ。彼らがすぐ近くにいるらしい。牙蛇への急襲を画策しているようだ。
特別珍しいことでもない。血の気の多い若い猫鼬は、夜目が利く牙蛇に夜戦を仕掛けるという無謀にも果敢に挑戦する。成功率は五分を割っているかどうかといったところ。稀に返り討ちに遭い、死に追いやられる。
ボクからすれば狂気の沙汰としか言いようがない。けれども、狩ったハブネークの数が何よりの勲章だということ自体が理解の範囲外だから、何も言うまい。
ザングース失格のボクが何を思ったところで、その生き様が変わることはないのだ。良いとか悪いとか、そんな低い次元の話ではないのだから。
「……上手くいくかな」
一方のザングースに、弱気が垣間見えた。
「やる前からそんなこと言うなよ。だいたい、こうでもしなきゃいつまでもあの蒼いザングースに手柄取られるばっかりだ」
蒼いザングース。俄然ボクは身を潜めて、聴覚に神経を集中させた。
「アイツを出し抜かなきゃ、俺たちはいつまで経ってもひよっこのままだ」
足音が遠ざかる。
「行かないと」
闇から身を乗り出してた。彼らのあとを追わなければならない。彼らの結末の向こうに、ギランの影がある。
僕はまだ知らない。その
前々回更新 2016/07/05
最終更新日 2016/08/24
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