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帰路は二人だけのペトリコール

/帰路は二人だけのペトリコール

writer:赤猫もよよ


 水底から見上げる空は遠い。
 うるんだ水面にふやかされた月が輪郭を失って滲んでいる。夏の初めの寂しげな月光が浅瀬を微明に染め、しかしそれは自分が沈む水底には届いていない。
 タウンの外れにある、小さな湖の底。なにかと騒がしい街並みの中で、唯一、静寂が支配するここは、喧騒が苦手な自分にとって救いともいえる場所だった。耳にざわめく湖水の胎動の無機質さが、孤独に包まれることの心地よさを一層高めている。
 クリーム色の毛皮の彼女の顔を思い浮かべながら、擦る。快感と虚脱感が火花を散らし、途端に自分の矮小さが浮き彫りになって、このまま湖水に溶けてしまいたいと思うのだ。
 幾度となく生死を共にしたかけがえのないパートナーに強烈な性欲を抱き、その高ぶりを抑えられず、自分を沈めてまでこっそりと自慰に耽る自分の姿を毎日のように目の当たりにしていれば、死にたさに満たされるのも仕方ないだろう。
 彼女の名はルビィ。ことしの春の終わりごろ、マグマラシに進化を遂げた少女。
 かつてニンゲンだった自分がこの世界に転生を遂げ、そこで出会ったかけがえのないパートナー。野に咲く花に足が生えて走り回っているような、可憐なアクティブモンスターだったのはもう昔のことで、いまでは見違えたように穏やかになっていた。
 彼女と自分とは、かつては二人で一人だった。
 か弱く震えるその細い手を繋いで、小さな身体に課せられるにはいささか重すぎる旅路を共に歩んでいた。
 しかしそれはもう昔のことで、今は一人が二人だった。旅路はもう思い出のものになっていて、刻んできた足跡は既に時間の波に攫われて薄れている。ルビィは既にルビィの人生を歩んでいて、そして自分は――フタチマルのシキは、振り返っては消えていく二人の足跡に未練がましく執着し続けているという訳である。
 いつまでも互いに純粋な親愛を抱き続ける、誰から見ても特別な二人でいたいと思いながら、しかし自分の身体は嫌な方向に正直だった。フタチマルの姿に進化を遂げてからというもの、欲求に対する感度が強くなっていた。特に、下半身に伴うそれに関しては、一段と。
 時間と共に罪悪感が膨れ上がり、虚脱感が薄れていく。そろそろ戻らなければ調査団舎の消灯に間に合わないと分かっているのに、泥だまりのように淀んだ自分の意志が右手を動かし、下半身へと持っていく。
 そのまま欲求のままに動かそうとしたところで――。
「おっ、やっぱりここにいたな。もうすぐ消灯だぞ、シキ」
 意識の外から声が聞こえて、自分は体をもたつかせた。泡が立ち上り、前後不覚。さながら渦に巻き込まれたヨワシのようである。
「ブイゼル先輩……」
 水面から自分を見下ろす声の主には見覚えがあった。というか、毎日顔を見合わせているしなんなら部屋も一緒だった。
「ようシキ。なにしてたんだ、こんなとこで」
 そう問いかけながらも、彼はいやというほど訳知り顔をしていた。自分が何をしようとしていたのか、恐らくはバレている。
「先輩こそなんでここに」
「お前を探しにきたのさ。もうすぐ消灯だってのに帰ってこないから心配したんだぞ」
 どっかで野垂れてるんじゃないかってな、と彼は冗談めかして付け足した。前科があるだけに正直あまり笑えない。
「放っといてください。俺ももう子供じゃないんですから」
「確かにコドモじゃないな。コドモはあんな事しないもんな」
「忘れてくださいよ」
 ブイゼルの笑みが癪に障る。
 逃げるように水底を蹴って飛翔する。水面へと顔を出して息を噛めば、蒸した夏の空気がむわりと顔じゅうに広がった。
 滑るように泳いで岸へ上がれば、倦怠感が鉛のように纏わりついてきた。調査団の寝床に帰るのも面倒で、近くの木の幹に身体をもたれさせる。
「オマエさあ、ルビィちゃんの見送りとか行かなくてよかったのか」
 体を振って水気を飛ばしていると、藪から棒にブイゼルが口を開いた。
「なんですか、急に」
「いや、気になるだろ。あんだけ二人でベタベタだったのに、急によそよそしくなっちゃって。見送りもいかないし」
「見送りって。おだやか村じゃないですか、行先。すぐそこだし」
 彼女の育ての親であるアバゴーラが腰を痛めたとかで、ルビィが介抱に向かうべく調査団を出たのが二日前。太陽のように明るい彼女がいないことで、調査団の面々もどことなく落ち着きがない。落ち着きがないのはいつものことだけど、より一層。
「一昔前のお前だったら、付いてく! って言ったろ」
「まあ……」
 様々な事情があって、ルビィという存在が自分の前から喪失してしまったとき、自分は酷く取り乱したという。そしてそれ以来、ルビィが近くにいないと落ち着かなくなってしまったのだ。
「え、なに。疎遠になったのか? もしかして破局!?」
「そういう訳じゃないんですけど……」
 どのように弁明すべきか分からず、視線を湖面に逸らした。水面に浮かぶ月を覆い隠すように、薄黒い雲が広がり始めている。
「……したいんですよ、ルビィと」
「セックスか?」
「濁したのに……」
 ブイゼルにはデリカシーというものがなく、そして質の悪いことに勘が鋭かった。口に出すのを躊躇っていた言葉を突き付けられ、なんともいたたまれない気持ちになる。
「それと、お互い疎遠になるのとどう関係があるんだ?」
「普通、嫌じゃないですか。相棒が実は自分の身体を狙ってました、毎日自分の身体を思い浮かべて自慰に耽ってますって」
「毎日してんのか。おまえパワフルだな」
「今それ関係ないでしょ」
「すまん」
 穴があったら入りたい。
 悲しいことに掘ったのは墓穴だった。
「で、だから距離を取ってるんです」
「ルビィちゃんに嫌な思いさせたくないってことか」
 首肯する。しかしブイゼルの言葉は、半分しか正しくない。
 本当を言えば、嫌な思いをしたくないのは自分の方だ。ルビィに嫌な顔をさせる自分の姿を想起して、身の毛がよだつ思いになる。
「嫌な思いさせたくないし、嫌われたくないですし」
 結局、醜悪な自己愛に帰結するのが、何ともくだらない話だ。
「んー。まあ、考え方は人それぞれだと思うけどさ」
 ブイゼルは難しさを喉に詰まらせたような顔をして、それからゆっくりと立ち上がった。
「オマエに距離取られるのも、ルビィにとっちゃ悲しいことだと思うけどな」
 見下ろすブイゼルの視線の中には、多くの心配とほんの少しの咎めの色とが入り混じっていた。
 押し黙って、視線を逸らす。なぜか憮然とした気持ちが湧き上がってきて、それはにわか雨のように広がって心の内を湿らせた。
「シキ、そろそろ帰るぞ。本当に締め出されちまうぜ」
「……はい」
 曖昧な返事を返す。
 深くに沈む夜の中に、咽ぶような雨の匂いが漂っていた。

 ◇

 雨雲の削り滓のような、未練がましい小雨が朝から降り続く。
 窓の外から眺めるおだやか村の灰色に煙る景色の中に人の影は殆どなく、弱く刻む雨の音だけが耳に近い。
「しっかしオラビックリしただど。帰ってくるなら帰ってくるって言えど」
「ごめんコノハナ。急に押しかけちゃって」
「怒っちゃないど。ただ帰ってくるって分かってりゃ、オラもうちょっとご馳走を用意して待ってただど」
 こんなんしかなくてなあ、と申し訳なさそうに用意された木の実のスープは、昔となにひとつ変わらない味わいだった。辛みの強い果実の味と香草の芳醇な香りとが入り混じり、腹の中で温かく弾ける感触がとても懐かしい。
「いやいや、すっげーウマいっすよ! なあシキ!」
「……」
 その太い腕を無遠慮に頭に載せられ、俺はどういう経緯でここに居るのか不明な輩を睨みつけた。
「ゴロンダ、なんでお前ここに居んの。いつ進化した。つか重い」
 決して大きくはないコノハナの家の中の、その大半を占拠する巨体を押しのける。黒と白のツートンカラーの体毛は、湿気のせいか萎んでいるように見える。
「最近、ゴロンダに仕事を手伝ってもらってるんだど。力持ちだから助かってるんだど」
「前に進化を手伝ってもらった縁があって、そっからな。てことでコノハナさん、オカワリ貰ってもいいっすか!」
「おお、ワカモノはいっぱい食えだど。シキもいるか?」
「ああ、うん」
「ようし待ってろ、いまこさえてくるどー」
 自分が戻ってきたのが相当嬉しいのか、陽気な鼻歌交じりで調理場へ向かうコノハナの背中を見送る。
 自分の預かり知らぬところで、全くもって予想していなかった縁が生まれていた。縁を繋ぐことを仕事にしている自分としては、なんだか感慨深いような。
「で、シキこそなんで戻ってきたんだよ。ルビィのケツ追いか?」
 ゴロンダの粗雑な問いに肩を落とす。
「バカ、仕事だよ」
 帰宅の途中、おだやか村の面々と顔を合わせるたびに同じことを言われるものだから、いい加減うんざりしていた。
 まだ小さい頃の自分たちしか知らない村の面々にとっては、シキとルビィというのは切っても切り離せない繋がりのもとにあるという認識なのだ。立っている状況が状況だけにどうにも息苦しい。
「ふーん、ルビィが恋しくなったんじゃねえのか」
「違うし」
「ふーん」
 ゴロンダはまるで信じている様子がない。
 ルビィの尻を追っかけてきたのだろう、とでも言わんばかりにニヤついた表情が鼻についた。そのざんばらに伸びた剛毛を余すところなく刈り取ってやりたい気分になったが、悲しいかなゴロンダの推測は七割がた当たっている。
 目いっぱいの反抗をするなら、仕事というのは嘘ではない。デンリュウから課せられた重大任務――ルビィとしっかり話を付けてこい、という指令により、自分は今ここに居た。

 ◇

 遡ること数日。
 調査団のダンチョーことデンリュウに呼び出された自分は、面談という名の尋問を受けていた。
 テーマは勿論、最近のルビィとの関係性である。
「ブイゼルから諸々聞いてしまいました。やれやれ、シキも中々にセーシュンしてますねえ」
「青春?」
「ええ。揺れ動く自分の心に惑うのは、少年少女の特権ですよ」
 大袈裟にうんうんと頷くデンリュウは、迷走する自分の姿をどことなく楽しんでいるようにも見える。
「俺が悩むのがそんなに面白いですか」
「まさか! 微笑ましいとは思いますけども。なぜならワタシはダンチョーですからね! ははは!」
「はあ」
 彼は珍妙なポーズをとった。いつものことなので、流す。
 ぶつけた僅かな苛立ちをするりと躱され、気の抜けた声を返す。いつも良く分からない人だが、今日はいっそう良く分からない。
「つまりですね。シキのような悩みを抱える団員を沢山見てきたのです。イコール、キミの悩みは極めて一般的なんですよ」
「大したことないってことですか」
 デンリュウは頷いた。
「誤解を恐れずに言うならば、キミの言う通り大したことはありません。軽視しているワケではなく、一般論としてです」
 静かに苛立ちを燃やす自分の視線を包みこむように、彼は得意げな微笑を浮かべた。
「いずれ大人になったキミが、そういえばあんな事もあったなあと懐かしみながら懐古出来る、そんな程度の悩みなんですよ」
 しかし、とデンリュウは自分の鼻先を指さした。
「懐古すれば些末なことでも、今の君にとっては一大事だろうということも知っています。ですからワタシ達大人は君達を支えたい」
「……」
 流れるように飛び出す言葉とは裏腹に、デンリュウの言葉には不思議と重みがあった。心の中のささくれ立ってひりつく部分が、少しだけ痛みを薄れさせた。
 しかし、とデンリュウは腕を組んだ。忙しい人だ。
「キミの悩みというものに、実のところ特効薬は存在しないのです。ワタシは回りくどい性分なので、回りくどい解決策しか持ち合わせないのですが、果たしてそれでよいものか」
デンリュウが悩まし気に投げた視線が、ふと部屋の入口に止まる。
何かをひらめいたように手を打ち、彼は悪戯っぽく微笑んだ。
「よし、名案を思い付きましたよ。ワタシには明るくない分野でも、聡明な彼女なら解決の糸口を見つけてくれるはずです」
 デンリュウはつかつかと部屋の入口まで歩くと、ひょいと外をのぞき込んだ。
「そうですよね、クチート」
「え」
 手招きをするデンリュウにつられて部屋の外を覗き込めば、腕を組んで壁にもたれ掛かり、心底ばつの悪そうな表情を浮かべたクチートが立っていた。
「やれやれ、盗み聞きとは感心しませんねえ」
「すまん、シキ。聞き耳を立てるつもりはなかったんだ。切り込むタイミングを逃してしまった」
 誰にも言わないから許してくれ、とクチートは頭を下げた。真面目な彼女らしい、むしろ行き過ぎたぐらいの謝罪だ。ここまではっきりと詫びられてしまえば、かえってこちらが申し訳なくなる。
「いえ……えっと、大丈夫ですから。むしろ露呈した中では一番マシっていうか、ペロッパフじゃなくてよかったなっていうか」
 明らかにしどろもどろになりながら、どうにか言葉を並べて取り繕う。これを聞かれていたのがお喋りデデンネとか脊髄反射のペロッパフとかだったらより大変なことになっていただろう。
「ははは。クチートの口は堅いですからね。それに彼女も大人です」
 手伝ってくれますよね、とデンリュウはクチートに微笑み、クチートは脱力したように肩をすくめた。
聞き耳を立てていたことの後ろめたさを利用してくるあたり、デンリュウも中々にイヤな大人だった。
「わかったよ。とはいえワタシも色恋沙汰には聡くないから、結局言えることは一つしかないんだが……」
 クチートは頭を掻いた。
「とりあえず、腹割ってルビィと話してきな。繋がりがこじれるかもとか面倒なことは考えるな」
 腹を割っての話し合い。結局そこに帰結するしかないというのは、実のところ予感していたことではあった。
「……でも」
 それでもし、そうなってしまったら。ルビィに嫌われてしまうことが万が一にでもあったなら、自分は自分が許せないだろう。
「何もせずに悶々とするのが一番ダサい」
「そう、ですけど……」
 言い淀んで俯く自分の頭に追い打ちを掛けるように、鋭い牙のような正論が降り注ぐ。言われていることは何一つとしてそれが間違いではなく、真綿のように自分の首を絞めつけた。
「でも、もし俺のせいでルビィがまた、俺の傍から離れてしまったら、今度こそ……」
 言葉に詰まり、窓の外の光景に視線を逃がした。
 息苦しい、青い空が広がっている。それは時折記憶の中を彗星のように走る、ルビィが此の世から消えてしまった時の光景とよく似ていた。
 今でもたまに夢に見る。
 満足げに空に溶けていく雄大な彼女の背中と、青く青いだけの空の中に独りで取り残される矮小な自分の影。
 もしも彼女が、遠くへ離れてしまうことになったなら――。
「シキ」
 デンリュウは自分の目を見据えた。
「ワタシ達は普段、多くのものを取りこぼしながら生きています。キミも、ワタシも、みんながそうです」
 だからこそ、とデンリュウは続けた。
「失いたくないものがあるならば、追いかけるべきです。遠くへ行ってしまうことの恐ろしさを、キミはもう知っているでしょう?」


 ◇

「つかさ、ルビィって急に綺麗になったよな。昔はもっとこう、ハナタレのチビって感じだったのにさ」
 ゴロンダには色々な意味で遠慮という概念が存在しない。四杯目のスープを雑にかっ食らいつつ、口から藪から棒に飛び出した言葉に、自分は呆気にとられたような顔をした。
「なんだよ」
「いや、一回鏡見ろよって思った」
 ハナタレチビ筆頭のお前にだけは言われたくない言葉だった。
「うっせ。てかオレの意見じゃねえ……こともないけど。シキジカちゃんとヌメラの野郎が言ってたんだよ。ルビィ、ちょっと可愛くなったよねーって」
 身内の色目ではないが、確かにその通りだった。ヒノアラシの頃は活発で明るく丸っこく、良くも悪くも子供っぽかった彼女の雰囲気は、マグマラシに進化した頃から少しずつ変わっていった。
「確かに、ちょっと色っぽくはなったっていうか」
「なー。……でさあ、ぶっちゃけどうなんだよ」
 ゴロンダは声を潜め、台所でモモンを切り分けているコノハナに聞こえないように耳元でささやいた。
「なにが」
「いや、ルビィともうヤったのかって」
 余りにも唐突な言葉に、思わず口に含んでいたスープを噴いた。
「うわっ! きったねえなテメエ!」
「お前が悪いだろ! なんだよ急に!」
「しょうがねえだろ気になったんだから!」
「なんでヤッてるとかの話になんだよ! ヤッてないし!」
 叫んでから、最大級の失言だったことを自覚する。ゴロンダは自分の肩に手を置き、ひどく癪に障る笑みを浮かべた。
「ないのか! ハハハ、なんかゴメンな」
「ムカつく……」
 謎の優越を込めたゴロンダの視線に、なぜだか途轍もなくみじめな気持ちになった。
「ルビィが可愛くなったのとどう関係があんだよ」
「いや、オトコが出来たんじゃねって話になって」
 困惑に顔を歪めた。ルビィに男?
「それ、シキジカが言ってたのか?」
「まさか! オレとチョボマキの崇高な話し合いさ」
 胸を撫で下ろした。感情沙汰に鋭いシキジカと違い、この二人の言葉は心底当てにならない。
「無意味な童貞会議」
「うっせ! 違うし! お前に言われたくねえわ!」
「そこまで拗らせてねえ!」
 ――とも言えないのが悲しいところだった。昨今の湿りきった葛藤を思い出し、振り上げた腕のやり場を無くす。
「気になってんならさっさと告れよ。アイツまあまあ可愛いんだからさ、そのうち別の男に取られるぞ」
「……」
 ルビィが他の男と結ばれることなど、考えたこともなかった。自分と結びつくべきという傲慢な発想という訳ではなく、ただ純粋に頭の中から抜け落ちていたのだ。
 考えれば考えるほど恐ろしい。自分ではない誰かがルビィの一番になって、彼女に愛を送る。自分は幸せそうな彼女の顔を遠くで眺めながら、彼女が幸せそうでよかった――などとバカげた言葉を、死にかけの心の中に言い聞かせるのか。
「想像したら気持ち悪くなってきた……」
 千歩譲ってルビィとの関係が叶わなかったとして、見知らぬ男に渡すのは耐えられない。
「よし、ゲロ吐く前に告れ。告ってからゲロ吐け。すんませんコノハナさん、ちょっとシキの野郎借りるんで!」
「ぐえっ」
 しびれを切らしたのか、ゴロンダは唐突に自分を肩に担ぎ上げた。体躯の大きさに比例した怪力が全身をがっちりと固め、藻掻いても逃れることが出来ない。
「こ、コノハナ! この毛むくじゃらに攫われる!」
「おー、いってらっしゃいだどー。晩飯までには帰って来るんだど」
 コノハナは搬送されていく自分を満面の笑みで見送っていた。その純粋な激励が、自分に逃げ場がないことを嫌でも理解させた。

 ◇

 雨はなおもしつこく降り続いている。晴れの日はそれなりに活気の集まる広場の中も、今日に限っては雨の音が姦しく感じるぐらいに静まり返っている。
「ルビィはアバゴーラのじいさんの看病で籠りっきりだが、昼には買い出しにカクレオンさんとこに来るんだ」
「詳しいな」
 ルチャブルさんの店のテントを無断で借り、雨宿りする野郎二人。傍から見ても見なくても異様な光景だが、幸いなことに人目はない。
「たまに会って話すんだ。じいさん、だいぶ快方に向かってるって」
「そっか。よかった」
 ルビィがおじいさんっ子なのは周知の事実だ。調査団に居る時も、度々文通用の手紙をこさえているのを目にする。
 いっつもお小言ばかりだよ、と口を尖らせながらも、何を書こうか悩んでいるときの彼女の横顔はとても素敵で、少し羨ましい。自分と自分の仮親であるコノハナとの繋がりは、そんな混じり気のない感情とは少し異なっているからだ。
「あ、来た。おーい、ルビィ!」
 ゴロンダが叫び、自分は飛びあがった。手を振る彼の視線の先には、ルビィがきょとんとした顔で見つめている。
 ゴロンダは自分の首根っこを掴み、ルビィに見えるように掲げた。さながら生贄のゴーゴートのような見た目であり、あながち間違いではない。
「こいつがー、話があるんだってよ!」
「ちょ、ゴロンダ! 待てって!」
 もがいてももがいても馬鹿力。困惑を浮かべて寄ってくるルビィを前に、自分は観念したように項垂れた。
「ゴロンダくんに……シキくん? えっ、何してるの……?」
 至極まっとうな疑問だった。どう答えようかと思案している内に首根っこを掴む手が離され、べしゃっと地面に叩きつけられる。
「詳しくはシキから聞いてくれ。あとはうまくやれよ」
 ゴロンダは心底腹の立つウィンクを自分に向けた後、うきうきとした様子で颯爽と去っていく。その背を二人で見送り、つかの間の沈黙と雨とに包まれる。
 久しぶりに見たルビィの身体は雨に濡れそぼり、へたった毛が浮かび上がらせる体の輪郭はいっそう女性らしい丸みを帯びている。雨のにおいに混じって柑橘のような甘酸い香りが漂い、それは自分の心を大層落ち着かせてくれるものだった。
 ルビィの緋色の瞳が、少し困ったように、じっと自分を見つめた。
「えっと、こんなところでどうしたの? お仕事……とか?」
「まあ、そうかな」
 ぎこちなく、愛想笑いを浮かべることは出来ただろうか。
 ルビィの問いは当然のものだ。まさか君を追ってきたなどと言えるはずもなく、目を泳がせながら嘘をつく。
「そっか。えっと、わたし、おじいの看病しなきゃだから……お仕事頑張ってね、シキくん」
「あ……」
 ルビィはほほ笑んだ。その口調に勝手に距離感を感じて、ひどく寂しくなる。
 昔は誰を呼ぶにしても呼び捨てだった筈なのに、いつの間にか名前の後ろに敬称が付くようになっている。
 それはきっと、彼女の中で他者との距離感の線引きが出来上がった為なのだろう。歳を経るごとに大人になっていく彼女のことを眩しく思いながら、彼女が確立されていくごとに遠くなっていくような気がして、どうしようもなく悲しくなる自分が居た。
 立ち竦む。踵を返そうとするルビィを引き留めたくて、しかし何を言えばいいのか分からない。何度も練習したように、ぐちゃぐちゃの心を見せびらかしながら君が好きだと言えばいいのだろうか。
 わからない。彼女が変わっていくことを怖いと思いながら、愛欲という今までとは違う感情をルビィにぶつけるのは、正しいか。
「うん、引き留めてごめん。……看病、頑張ってね」
 心底ぎこちなく、押し殺して、自分はそう言葉を転がした。
 何が正しいのか分からなくて、それでも少なくとも、自分の言葉が間違っているだろうことだけは分かった。これまでと同じように、逃げ続けることも。
「うん。じゃあね、シキくん」
 ルビィは小さく頭を下げて、カクレオンの店の方へと歩いて行った。喉は乾ききって痛んでいて、伝えるべき言葉はもうない。
 血の気の失せる感覚の中、デンリュウの言葉が、遠雷のようにして脳裏を過る。

『失いたくないものがあるならば、追いかけるべきです。遠くへ行ってしまうことの恐ろしさを、キミはもう知っているでしょう?』

 知っている。追いかけなくてはいけないことも。
 でも、変わってしまうのは恐ろしいことだ。結ばれても、遠く離れてしまっても、どちらにせよ純粋な親愛を抱き続けたあの日の自分たちはもういない。
それを受け入れることが、自分にはどうしても出来ない。変わっていくことは、それまでのものが居なくなってしまうことで。
居なくなってしまうことは――とても、恐ろしいことなのだ。
雷が咎めるように近くで吠えて、雨が一層強くなる。

 ◇

気が付けば夜が来ていた。雨は天地を逆さにしたように猛々しく降り続き、虚しく広がる窓の外の暗闇の中に雷が走る。
豪雨に降られながら帰ってきた自分を、コノハナは何も言わず迎え入れた。コノハナは何も知らないのか、察したうえで何も語らないのかは分からない。沈黙は心地よく、しかし息苦しくもあった。
「ルビィ! ルビィはおらんか!」
 沈黙を割くようにして響く切羽詰まった声。よたよたとした足取りで家に転がり込んできたのは、腰骨を痛めて療養中の筈のアバゴーラだった。
「アバゴーラ! どうしたんだど、腰の具合は……」
 地に伏したまま呻くアバゴーラは憔悴していて、なにかままならないことが起こったと容易に想像できる。それがルビィに絡んだことであるとも。
「ワシのことはいいんじゃ。お前さんたち、ルビィを見ておらんか?」
「ルビィがどうかしたんですか?」
「学校の裏山に木の実を取ってくると言ったきり、帰ってこんのじゃ!」
 アバゴーラの様子に気圧され、自分は酷く狼狽した。
 裏山と言えば、自分もルビィも幾度となく遊びに出かけたことがある。迷子とかとは無縁の筈だ。
 弾かれたように窓の外を眺める。ごうごうと荒れ狂う嵐はいっそう勢いを増し、家が軋んで不快な音を立てた。
炎タイプの彼女にとって、殴りつけるように吹き荒ぶ雨は不得意の筈だ。裏山から戻ることが出来ずにどこかで立ち往生しているのか、或いはもっと危険な目に――。
「シキ、どこいくんだど! 外は危ないど!」
 家の戸を開くと同時に、猛烈な風圧が身体を揺さぶった。決して大きくはない自分の身体では、気を抜けば吹き飛ばされそうになる。
 コノハナの静止を振り切って、外へと飛び出した。分厚い雨雲に月が覆い隠され、夜はただひたすらに暗く広がっている。
「やめんかシキ! お前さんまで帰って来られなくなるだけじゃ!」
 アバゴーラの、至極まっとうな怒号。後ろ髪を引かれる思いになりながらも、振り返ることはしないで声を張り上げる。
「ごめんなさい! ――ちゃんと、二人で帰ってきますから!」

 ◇

 今にも砕け散りそうな嵐夜を駆ける。
 ルビィの行方に、心当たりは一つだけあった。調査団に入る前、裏山で遊んでいた時に偶然見つけた洞穴だ。秘密基地、などという仰々しい名前を付けた、二人だけの秘密の遊び場。
 彼女があの場所を覚えていて、そこに居るのかは分からない。今自分にできることは、ルビィの無事を信じて走ることだけだ。
 幾度となく泥濘を踏み抜き、豪雨に揉みしだかれ、それでもどうにか裏山へと辿り着く。深く生い茂る木々や草藪を掻き分けて、秘密基地へと足を進める。
 洞穴は、自分の記憶よりすぐ近くにあった。ホエルオーの大口のように広く深く開かれていた筈だと記憶していたのに、思いの外規模は小さい。それでも、雨宿りには十分な広さだ。
 歩を進めれば、洞穴独特の潤んだ土の香りが強くなる。暗闇に目を凝らして、動くものがないか注意を払う。
「ルビィ! いるのか! いたら返事してくれ!」
 声が響き、洞窟の闇に溶けていく。声に呼応するようにして、暗闇の中に弱々しい炎が灯る。
「シキくん!?」
「ルビィ!」
 灯ったのは背中の炎で、自身の灯火に照らされる彼女の顔は当然ながら驚きに満ちていた。
駆け寄って、彼女の身体に目を走らせる。体の方々に泥が跳ねてこそいるが、目立った外傷はない。体が冷えているせいか、照る背の炎が弱々しいのが気がかりだった。
「どうしてここに……?」
「アバゴーラさんから、ルビィが裏山に行ったまま戻ってこないって聞いたんだ。雨降ってるから戻れなくて、そんでもしかしてどっかに避難してるんじゃないかって思って、それで……」
 喉の奥が詰まり、言葉を切る。
ルビィの見開かれた丸い瞳を眺めていると、不意に体の底から耐え難い感情と衝動とが浮かび上がる。
そのまま、ルビィの身体を抱き寄せる。
「無事でよかった……!」
「シキくん……」
 腕の中に居ることを感じるように、彼女のか細い身体を強く抱き締める。伝わるルビィの熱と吐息とで、彼女の存在を実感する。
 抱き締めた胸の内から、ふと、ルビィのすすり泣きが漏れた。そこで自分はようやく正気に戻り、慌てて彼女の身体を離す。
「ご、ゴメン! 痛かった……?」
 ルビィは頬に涙を滴らせながら、首を横に振った。
「……ちがうの。わたし、シキくんに避けられてて、嫌われてるって思ったから。だから、探しに来てくれて、うれしくて……」
「ルビィ……」
自分が馬鹿げていて、心底腹が立った。彼女を傷つけないようにと距離を置いていた筈なのに、むしろそれが彼女を傷つけていたのだ。
いや、違うだろう。ルビィを傷つけたくないなんて建前だ。結局傷つきたくないのは自分自身で、ルビィはその言い訳だ。
腹を括れ。覚悟を決めて、全て話そう。
「違うんだ、ルビィ。嫌いになった訳じゃない。むしろ大好きだ。大好きなんだけど……その、方向性が変わったっていうか……」
 しどもどに言葉を並べる自分を、ルビィはきょとんとした面持ちで見つめた。
「友達として好きっていうより……その、なんていうか……女の子として好きになっちゃって、だから……」
一言一句を噛み締めるたびに、自分の所業を思い出して罪悪感が増す。いまにも消えてなくなりたいが、腹を括るしかない。
「そういうことがしたいって思っちゃって、そんな自分を気持ち悪いって思われたくないから……だから避けてた」
「そういうこと、って……」
 ルビィは一瞬呆気にとられたような表情をして、それから一瞬もしないうちに何かを勘づいたのか、ほのかに顔を赤らめた。
「あ……もしかして、エッチな?」
 自分は沈黙したまま頭を下げた。肯定だった。
 恐ろしいまでの罵倒が入るかとも思いきや、ルビィは押し黙ったまま何も言わない。恐る恐る顔を上げれば、彼女は意外にも悪戯めいたような表情を浮かべていた。
「ふうん。わたしでそんなこと考えてるんだ。シキくんのえっち」
「ごめん……嫌だったよね」
「ちょっとだけ。でも……ふふ、ちょっとうれしい、かも」
「ルビィ……」
 軽蔑されるかと思いきや、彼女の口ぶりは意外にも愉快そうだった。しかしそれが虚勢混じりであることは、熟れた林檎もかくやと紅潮する彼女の頬を見れば誰だってわかることだ。
「で、さ。助けに来てくれたのはいいけど、雨、止むまで帰れないね」
彼女は視線を外に投げ、そう呟く。外を見つめる彼女の背は、返す言葉を待っているようだった。
「ね。今なら、わたしたち以外誰もいないよ」
 雨に紛れて囁かれた声に、心臓が跳ね上がる。
 何を言えばいいかは分かっていた。彼女の瞳を見据え、息を吸う。
「ルビィ。俺と、してくれますか」
 一拍の静寂。雨の音が遠くなる。
「シキくんとなら、いいよ」
 彼女はくるりと振り向いて、真っ赤な顔ではにかんだ。
 雨は全てを阻むように降っていて、自分たちを二人きりの世界に置き去りにする。
 遠回りの果てに、ようやくまた、君に近づくことが出来たのだ。

 ◇

 雷鳴が遠くの方で響いた。稲光が洞窟の中まで射し込んで、重なる自分たちの影を一瞬浮かび上がらせる。
 小さな岩を背に、ルビィは地面に腰を下ろす。その眼差しは羞恥と期待と、少しばかりの興奮に染まっていた。
 彼女が伸ばした手を握り、指を絡めて体を寄せる。もう何度となく握り締めてきたはずの手なのに、今日はどうしてか触れるだけで心臓が早鐘を打ち、伝わる淡い熱が彼女への愛おしさを一層昂らせる。
 視線を交わし、顔を近づける。彼女の匂いが漂っていた。差し出されたルビィの唇を奪い、恐る恐る舌を彼女の腔内に突き入れていく。
 さながら初めて手を繋ぐ時のように差し出された舌に、熱を帯びた彼女の舌が触れ合う。ほんの少しだけ絡め合って、互いの体温を綯交ぜにする。気恥ずかしさと共に唇を離せば、垂れる銀の糸が口を繋いだ。
 身体が火照っていくのを感じる。少しずつ主張を始めた自分の雄の先端に、血流が集まって固くそそり立っていく。
「ルビィ。痛かったら……」
「ん、だいじょぶ……きて、いいよ」
波打ち際に足を踏み入れるように、慎重に体を動かしてルビィの秘所へと挿入する。まるで、泥の固い沼に沈んでいくようだった。
 ルビィの中は、まるで炎を抱くように暖かい。まだ受け入れることに不慣れなのだろう彼女の内部が、竿をきつく締め付ける。
「ん、っ……」
「ごめん……痛いよね」
 ぴくん、と小さく身体を震わせながらも、ルビィは強く首を横に振った。頬に汗を滴らせ、弱々しく呼気を吐きつける様子は、いつもの気丈なルビィとはまるで別人で、この表情を見るのが自分だけであるという事実に不思議な興奮を感じてしまう。
「大丈夫、だよ。……そんな顔しないで、つづけて」
 彼女が僅かに身体を動かすだけで、今まで味わったこともないような快感が身体を灼き、下腹部が雷に打たれたようになる。
 呼気が荒ぶり、心臓が高鳴る。鋭敏になった感覚に、ルビィの雌の香りが飛び込んできて、吐精感が一層強くなる。
 穿孔を続ける。ゆっくりと突き進んでいくたびに、互いの吐息はだんだんと洞窟に荒く響いてくる。呼気が重なり、熱が昂り、稚拙な愛を伴う結合によって、世界に二人だけしかいないような錯覚に陥ってしまう。
「っ、あっ」
 意識を散漫にさせた瞬間、擦れる肉の刺激に耐えきれずに吐精する。巡る血液と共に鋭い快感が全身を駆け巡り、体の内側に甘い快楽を張り付ける。
 体の力が抜ける。繋いでいた手を解き、彼女の寝転ぶ地面に手を突いた。ひんやりとした地面の感触が火照った体を僅かに冷まし、射精の快感が薄れ、冷静になった脳が己の所業を反芻して青ざめる。
「っ、ルビィ、ごめ……」
 膣内に出してしまったことを謝ろうとするより先に、ルビィの手のひらが自分の頬を撫でた。
「いいよ、シキくんなら。――赤ちゃん、できちゃってもいいよ」
 そう言って、ルビィは慈しさと愛とに満ちた表情をする。昔の彼女ならきっとできなかっただろうその顔は自分に向けられていて、それは自分たちの繋がりが取り返しのつかない所へ向かおうとしていることと同義だった。
 親愛ではなく、情愛へ。向けられる愛は、身体を伴うものへ。
 それはとてもうれしいことの筈なのに、なぜか少し寂しいのだ。

 ◇

 更けていく夜がどんな顔をしているのか、自分達は知る由もない。手管は稚拙でたどたどしく、しかし貪り尽くすような勢いでお互いの身体を求め合うだけだ。
 ルビィの身体を磔にするように、熱い肉の杭を打ち込んでは引き抜いてを繰り返す。二人の体液に満たされ、膣内は少しずつ滑りが良くなっていく。伴って、彼女の中に少しずつ快楽が芽生えていた。
「っ、ふうっ……あ、っ……」
ルビィの口端から、愛らしい嬌声が漏れた。彼女の柔らかな肢体がびくんびくんと痙攣を繰り返し、根元まで挿し込んだ竿の隙間から透明な雫が滴り落ちる。
「っ、シキ、くん……すき、って言って……」
「好きだよ、ルビィ」
「えへへ……わた……っ、しも、好き……、だよ」
 荒い吐息混じりに言葉を並べて、ルビィはその可憐な顔をくしゃりと歪めた。
愛を確かめ合い、繋がりを結んだ自分達は、もう止まることはないのだろう。つがいになって、ルビィが自分の子を産んで、死ぬまでずっと二人で寄り添っていくのだろう。
「ねえ、ルビィ。俺達……変わっちゃうんだな」
「シキくん……?」
 寂しさが喉の奥で鳴る。身体を重ねて大人になって、友達から男と女になって、子供の頃にはもう戻れない。積み上げてきた思い出も懐かしいものになって、あの膨大な冒険の記憶も、二人で過ごした無垢な時間のことも、いつしか薄れて、思い出と銘打たれた小箱の中に押し込められるのだ。
「俺達、昔みたいにずっと一緒にいられるかな。離れたくないな」
 ずっと一緒に居るのが当然だった子供の頃のことを、羨ましいと思う。個人として分かたれた二人を結ぶために、今では体の繋がりが必要で、そういう不安定な組紐がなければいつか離散してしまうかもしれないという恐怖で、どうしようもなくなる。
「いられるよ。繋がりが変わっちゃうってことは、昔が消えちゃうってことじゃないもん」
 ルビィはどこかで見たように無邪気な表情で、しかし目の前の男を慈しむような眼差しで自分を見つめた。
「昔があって、今があるんだもん。今までのことが消えちゃうんじゃない。全部含めたまま、広がっていくことなんだと思うな」
 立ちふさぐように広がっていた雨雲が、攪拌されて薄く広がっていく。薄まった雲間から沁みだす緋色の光芒を感じ、色彩の眩しさに安らぎを見る。
「好きだよ、シキくん。たとえわたし達の繋がりが、友達から恋人に変わっても――この気持ちは、ずっと本当だよ」
 ルビィが差し出した唇に、そっと口づけをする。
「うん、俺もだよ。ルビィ、君が好きだよ」
 雷がどこかを駆ける。その残光に照らされて、一人と一人の影が、二つに重なる。

 ◇

 結局、雨が止んだのは明け方のことなのだが、恥ずかしい話それに気付かないまま耽っていて、帰り道の太陽は天頂に上っていた。
 ひどい倦怠感で、お互いに足取りが重い。ついでに言えば帰ったら帰ったで四方八方から怒号が飛ぶだろうし、繋がりの変化に勘づくだろう白黒の馬鹿からはけったいなヤジが飛ぶだろうから足取りが重い。
 調査団に帰れば帰ったで事の顛末を問いただされるだろうし、何とも気の重いイベントが目白押しだ。
「あのさ。ルビィに追いつくまでにさ、いろんな人に話をしたよ」
 でもそれは、その全てが自分を案じてのことだ。彼らの助言や気遣いやおせっかいがなければ、今こうして二人で並んで帰ることはなかっただろう。
「みんな俺達のこと、すっごい心配してた」
「そっかあ。帰ったら謝んなきゃね」
「うん」
 ルビィと手を繋いで、雨後の泥濘に足跡を刻む。それがいつしか消えてしまうものだとしても。自分の中の沢山の繋がりが、自分に泥の中を歩くだけの力を与えている。
 たとえその繋がり方が変わったとしても、それはかつての繋がりの延長線上にあるのだとルビィは言う。
 そうであればいい。祈るように、彼女の手を強く握り締める。
 空は澄み渡るような晴天で、過ぎた雨と土の匂い(ペトリコール)だけが俺達の帰路を見守っていた。


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Last-modified: 2022-04-19 (火) 00:42:28
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