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少女Aの冒険、ダイヤの章

/少女Aの冒険、ダイヤの章

◇第四章◇羊毛と道―Wool and Way― 


 目的地まであと少しと思えば疲れも吹き飛び、気持ちも軽くなる。いざこの広い広い大通りを横断するべく、張り切って一歩を踏み出した。
 ぬめり。
「ぬめり……? うっわわわわぁっ!?」
 アスファルトの上に置いたはずの前脚は、異様に柔らかいものに埋まった。不思議に思って見れば足先が、ずぶずぶと真っ黒な沼に引き込まれていくところだった。慌てて後退しようとした私は、身体を後ろに押そうとしてもう片方の前脚も踏み入れてしまい、明らかな前傾姿勢となって沈み始めた。
「魅甘!」
 またしても闇が首根っこを咥えて引っ張ってくれたおかげで、私は全身が沈没するのを逃れる事ができた。危なかったわ、尻餅をつきながら私は安堵の溜め息を吐く。持ち上げてみれば、前脚にべっとりとついた黒い泥。いや泥ではなくて、固まっていないアスファルト、なのかしら。ちっとも熱くなかったけど。
「あ、ありがとう闇、また助けてもらったわね」
「どういたしまして、気にしないで魅甘。だけど、これじゃあ向こう側へ行けないな」
「うーん、困ったわ」
 闇も眉間に皺を寄せて、はるか向こう岸に鎮座するポケモールを睨みつけた。実のところ渡り切ったところで、あのショッピングモールの中に件の『謡い帽子屋』がいる確証なんてこれっぽっちもない。だけど、他の候補があるかといえば答えはNO。私達はここで進むか、それとも新たな道を探すかの判断を強いられていた。
「そこのお二方ぁー、この先は危ないよぉー!」
 ちょうどその時、間伸びした声が響いた。声は私達に向けて発せられたものみたい。鈴の反応はないから、敵ではない、と思いたい。でもこんなゴーストタウン化した場所にいるポケモンってだけで、疑いを抱いてしまう。闇は私を庇うように寄り添って警戒していた。……こういう何気ない気遣いが地味にポイントを稼いでくるのだから、無自覚って罪だわ。
「……舟?」
 闇の呟きに耳を反応させて、私は闇が向いているのと同じ方向へ目を凝らす。長い首のポケモンが舟に乗って近づいてくるシルエットが見えた。ゆっくりゆっくりと、シルエットは大きくなる。
「ここはぁ、底無し沼のアスファルトノ沼。渡るには舟に乗らないとねぇ」
 小さな舟に乗って現れたのは、黄色い身体に縞々の長い首を持ったポケモン、デンリュウだった。デンリュウは重たい波音を立てながら真っ直ぐこっちへ向かってきた。鈴の反応、なし。
「こんにちはぁ、可愛いお二方。あたしは『舟守』、種族はデンリュウ、名は迷鳴(メイメイ)
 すぐ傍まで来たデンリュウは、のんびりとした声で名乗った。高齢なんだろう、ところどころ歯が抜けているし、剥き出しの皮膚は皺くちゃで、声も少し掠れている。丸眼鏡の奥の黒曜石色の瞳は、優しげな光を湛え濡れていた。
「あたしはこのアスファルトノ沼で、長年舟渡しをしているの。だぁい丈夫よ。タダで乗せてあげるわぁ」
 迷鳴は乗ってきた舟を軽く手で叩き、身体をずらして場所を開けた。私達は顔を見合わせる。
「どうする闇? この舟に乗らないとポケモールには辿り着けなさそうだし……」
「『アリス』が乗る必要を感じたなら俺は否定しないよ。ちょうどいい、乗せてもらおう」
「決まったようだねぇ。さあさ、お乗り」
 迷鳴が岸、というか歩道に舟をつけてくれたので、私達はありがたく乗り込ませてもらう事にした。しかし闇に続いて舟に足を踏み入れた瞬間、私は違和感に戸惑う事となる。肉球から伝わる感触が妙に軽くて柔らかい。木製かと思っていたのだけど、この手触りはまるで――。
「ふふふ、気づいたかえ。この舟はメリープとモココの毛を編み込んで作ってあるんだよぉ」
 迷鳴は小さな子供のように無邪気に、誇らしげに笑う。毛糸って浮いたっけ? 一瞬よぎった不安を、すぐに大丈夫だと掻き消した。だってさっきから迷鳴が乗っていたじゃない。でも三匹分の重さには耐えられるのかしら。もし沼のど真ん中で沈んでしまったら、大惨事になってしまう。
「もう良いかい、出発するよぉ」
 引き返すのも間に合わず、第一他のルートは飛行ポケモンか沼を泳げるポケモンを探し出して乗せてもらうようお願いするくらい。そうこうしている間に舟は歩道を離れてしまった。全身を固まらせてしまった私だけど、少し進んだところで沈む気配すらない。
 私はほっとして、漸く身体の力を抜いた。柔らかい舟底に伏せると、迷鳴はふにゃりと微笑んだ。いつの間に取り出したのか、手に編み棒を持って何かを編んでいる。
「あたしは昔っから編み物が大好きでねぇ。いつか両手が使えるようになったら、自分の毛を材料に、たぁくさんの編み物をしたいって、心に決めていたのよぉ。この舟はねぇ、あたしの最高傑作なんだ」
 細かい作業には向かなさそうな手で器用に編み棒を操りながら、迷鳴はゆったりした声で話す。櫂は備え付けられているけど、今のところ使われていない。それでも舟は確実に対岸、ポケモールへ進んでいた。これくらいじゃもう驚かなくなってきたわ、慣れって本当怖い。舟自体が意思を持っているのか、迷鳴の意思がまだ毛糸に伝わっているのか。ともかく舟は自分の進むべき方向をきちんと理解していた。
 それにしても変な感覚だった。まるでおかゆの上を滑っているみたい。遠目に見れば固められたアスファルトなのに、舳先(へさき)が触れた瞬間、液状になって流れゆく道路。黒い流れを毛糸の舟がゆるりゆるりとかき分けている。迷鳴の手の中では、布地は用途不明の三日月みたいな形の何かに編み上げられていった。
「……」
 さっきから闇は無言を貫いているけど、それは別に船酔いしているわけじゃない。死騎との戦闘で受けたダメージを回復させようと、ポーチから取り出したオレンの実を無言で齧っているだけの事。
 迷鳴の耳に心地良い語り声と、重めの波音、闇のしゃりしゃりごくりという咀嚼音。全てが合わさるとまるで子守唄のようで、ぽかぽかした陽射しも相俟って非常に眠くなってきた。まずい、元々細い目は、わりかしすぐに瞼が落ちてしまう。お願い早く着いて。
「さあさ、着いたよぉ」
 という私の願いが通じたかはともかく、舟は無事に対岸のポケモールの前に到着したみたい。もともと緩やかだった速度が落ち、歩道まで五メートルくらいの位置で完全に停止した。迷鳴は顔を上げて、人好きのする笑みを浮かべる。
「さて。代金を払って貰うかねぇ。あたしもタダで舟守をしているわけじゃあないのよ」
 待って待って、ここに来て料金を請求されるなんて思ってもなかったわ。第一、タダで乗せてくれるって私はしっかりこの耳で聞いたのよ。
「タダで乗せてくれるって言ったじゃない! 嘘だったのね!」
「嘘なもんかね。乗るのはタダ。でもね、降りるのは有料よ」
「インチキ理論もいい加減にしてよ! そんなの一言も言わなかったわ!」
「訊かなかったじゃないかえ」
 迷鳴は当たり前のようにさらりと言い放った。一つも間違った事は言われてないはずなのにもやもやする。丸眼鏡の向こうで迷鳴が瞳を細め、唸った。
「払う気がないなら、アスファルトノ沼に突き落としたって良いんだよ?」
「いくらなんだ、迷鳴」
 闇は低い声でぶっきらぼうに尋ねた。不快そうではあったけどそれを抑え込んで、穏便に済むならそうしてしまいたいって顔だ。まだ少しの時間しか接していないけれど、表情から考えてる事がわかるようになってきた。
「ああ、払う気があるなら最初からそうしとくれ。代金はね、」
 闇は迷鳴が示した金額(意外にも良心的なお値段だったわ)の二倍、つまり二匹分をポーチから取り出し、迷鳴に渡した。
「まいど。おやおや、これじゃあ多いよぉ。この半分で良いんだ」
「いや、それはエネコの分だ」
「そりゃあ駄目だ!」
 いきなり迷鳴は声を張り上げた。老婦人の突然の大声にびっくりして、私も闇も固まってしまう。
「本人が支払わなきゃあ駄目なんだよ。あんた、お金は」
「も、持ってないわ……」
 迷鳴はすっかり機嫌を損ねた様子で、バチバチと静電気を飛ばし始める。逃げ場のない舟の上で、放電でもされたら大変だわ、早くなんとかしないと、でもどうすれば。ここから飛び降りて泳いでいけるかしら、いいやそれでも放電から逃れられるとは思えない。底なし沼の上で痺れてしまえば、溺死は確実だ。
「魅甘、ビーズだ。ビーズを一つ渡して」
 闇が小声で耳打ちしてきた。カラーは私の唯一の持ち物だ。これで料金が賄えるとは思えないけど、渡すものがない以上仕方ない、やってみなければ。大切なご主人のプレゼントを傷つけるのは気が引けるけど、この状況なら仕方ないわよね。ご主人だってきっとわかってくれるはず。
「これ、料金の代わりにならない?」
 ごめんなさい、ご主人。私は心の中でご主人に謝って、小さなビーズを爪で剥がして渡す。黄緑色のビーズを受け取りはしても、迷鳴の表情は訝しげなままだった、当たり前か。
「これっぽっちじゃ何にも……」
 と、言いかけた迷鳴の身体が光り始めた。電気の光り方とも違う、不思議な七色の輝きだ。
 不思議な事が起きた。無毛だった頭部から、ふわふわもこもこの体毛がみるみる伸びてきたのだ。尻尾も同様の現象が起き、まるで綿雲でもくっつけているみたい。光が収まった時、見違えるように若返りふさふさになったデンリュウの姿があった。
 これには迷鳴自身も驚いたようで、目をぱちぱちさせながら溜め息をついた。
「まあなんて事! あたしにもう毛はないと思っていたのに……ほんに驚いたわ。ああこれで、また新しい編み物ができる……」
 私達に、ではなく独り言だったと思う。尻尾を持ち上げ、手触りを確かめていた。恐る恐る、聞いてみる。
「……これで、代金の代わりになるかしら?」 
「もちろん、代金どころかおつりを上げたいくらいだよ!」
 顔を上げた迷鳴の瞳には、うっすらとだけど涙まで浮かんでいた。
 喜色を全面に押し出した笑顔で、迷鳴は私が舟を降りるのに手を貸してくれた。私は久しぶりに、固くしっかりした地面と再会する。
「ただ、生憎あたしはあんた達にあげられるものが何もなくてねぇ、済まないねぇ……いつかあんたにはお礼をするよ。あたしの命が灯っているうちに、必ずね」
 底無し沼に突き落とすぞ、なんて脅された時はどうしようかと焦ったけど、迷鳴は柔和な笑みで送り出してくれた。こうやって見るとさっきの怒りも、気難しい老人によくある癇癪とも思える。この老婦人は、普段はきっと穏やかなんだろう。
「ありがとう、助かったよ」
「長生きしてね、迷鳴」
 何はともあれ、こうして無事に対岸に渡る事ができて一安心。私達は迷鳴に心からのお礼を言った。迷鳴は顔をくしゃくしゃにして笑い、再び舟に腰を下ろす。今度は櫂を手にして、とん、と岸をつついた。
「ふふふ、ありがとーう。お二方は良い子達だねぇ。それじゃあ、達者でやるんだよぉー」
 迷鳴の応援が、出会った時と同じようにゆっくりと遠ざかっていった。私達はその姿が角を曲がって見えなくなるまで見送っていた。
「……さて。この中に『謡い帽子屋』がいると良いんだけど」
「魅甘がいると思うならきっといるさ」
 迷鳴が降ろしてくれたのは、ちょうどポケモールの正面玄関前だった。二重になっている自動ドアの前に立つと、ドアが微かなモーター音を立てて開く。
 中は誰もいないみたいだけど、自動ドアが開くって事は営業しているのよね。鈴が妙な反応をしないのを確認して、私はドアを跨ぐ。
「うあっ!?」
「く、闇!? どうしたの!?」
 私の背後でばちんと何かが弾ける音、一瞬遅れて呻き声がした。びっくりして振り返れば、そこには尻餅をついている闇の姿が。闇は立ち上がって身体をぶるりと震わせ、自動ドアを睨みつけた。直後闇の口から零れた台詞に、私は耳を疑った。
「魅甘、ごめん。俺はついていけないかもしれない……」
「ど、どういう事?」
 私の問いには答えず、闇はそっと開いたままの自動ドアへ前脚を伸ばす。境界線を越えた瞬間、紫色の閃光が走った。また弾ける音、そして軽く吹き飛ばされる闇。私の時はこんな現象起きなかったのに。
「これって……」
「結界だ。悪タイプに反応しているのか、名を持つ者に反応しているのか、詳しくは不明だけど……魅甘、一匹で行ける? というか、先に行ってもらえないかな?」
 目に見えない壁を挟んで、私と闇は向かい合う。こんなところで闇と離れて行動する事になるなんて思いもしなかった。そんな、闇と一緒に行けないなんて、私一匹じゃ不安で心細くて、ちゃんとやっていけるかどうかなんて自信がない。
 でも、ここで駄々をこねて甘えるわけにもいかなかった。闇にはたくさん守ってもらった、少しは私も頑張って役に立たなくちゃ。偶々このドアを通れないだけで、別の入り口からなら入れるかもしれないし。そう、さっき闇は言ってくれたじゃない、私には私にしかできない事がある、それをやってくれればいいって。きっと今がその時だわ。
「……わかったわ。闇、心配しないで、私一匹でも、きっと『謡い帽子屋』を見つけてみせるわ」
 自分で言った事が決意なのかただの強がりかはわからない。でも、努めてはっきりした声で言えば、闇の表情が軽くなった。
「頼んだよ、魅甘。俺は他のルートで入れないか探してくるから。頑張って」
 闇の言葉がととても心強かった。私は大きく頷いて、闇に背中を向けた。
 行こう。『謡い帽子屋』を探しに。私は息を呑み、見送ってくれる闇の視線を背中に温かく感じながら、二重になっている自動ドアのもう一つを潜り抜けた。


♦♦♦♦


 瞬間、音に包まれた。
「あれ?」
 外から見た時は、中はがらんどうだったのに。
「戻ってきた?」
 ポケモールの中は、人間とポケモンでごった返す普通の店内だった。これだけお客が入っていれば売り上げは上々ね、って違う違う。急いで振り返るけど、ガラスの向こうに見送ってくれたはずのブラッキーの姿がどこにもいない。代わりにドアを開けて入ってくる人間の女性が二人。前を向けば、行き交い立ち止まり談笑し買い物をするたくさんの人間とポケモン。
 人気(ひとけ)のないお城や草原や住宅街を通ってきたから、目の前で繰り広げられるごくありふれた日常に逆に戸惑ってしまう。ぴんぽんぱんぽーん、と気の抜けた電子音が流れた。
「只今、午前十一時より、レストランホールを開放致します。ご家族やご友人と、揃ってお越しくださいませ。それでは、この後もごゆっくりと、お買い物をお楽しみください」
 ゆったりしたメロディをBGMにアナウンスが流れる。普通だわ。驚くほど普通。
「こら、走らないの!」
 小さな男の子と、えっとこのポケモンはシキジカね、その一人と一匹が甲高い声を上げながら目の前を走っていく。ふと嫌な予感がして、その予感は見事的中。前に前に出たい身体に足がついていけなくなったようで、男の子は豪快にこけた。数秒して泣き出す男の子の周りで、シキジカがおろおろしている。
 申し訳ないけど、私は小さな子どもが苦手なので手を出さずにその場を離れた。だって子どもって、耳とか尻尾とか手加減なしに引っ張るじゃない。それにお母さんらしき人が追いついたからもう大丈夫よ。
 男の子とシキジカを後にして、私はモールの中を歩いた。
 ブティックで若いお姉さんが服を手に取って眺めている。お姉さんの後ろには、蜂蜜色の長いウィッグをつけたビークインがポケモン用のアクセサリーを品定めしていた。ウィッグは三つ編みに結われ、色とりどりの髪留めが取り付けられている。なるほど、あのウィッグは髪型を楽しみ、アクセサリーを留めるためのものね。私は毛皮があるからピンで留められるけど、毛皮の無いポケモンはどうしても首輪とかリボンとか、巻きつける系のものが主流だし、位置も限られるものねぇ。髪型や毛並みでお洒落を楽しむ事もできないから不便だわ、それをああいう形で解決するとは素晴らしい。やっぱり女の子のお洒落にかける情熱は半端ない。やがてビークインとお姉さんは別のお店にも興味が沸いたみたいで、お姉さんは手にしていた服を適当に畳んで棚に戻した。店員がやって来て、丁寧に畳み直してくれる。
 お化粧ばっちりの店員さんが他のお客にオススメコーデを教えている姿を尻目に、私は歩いていく。一歩一歩、足元から広がっていく世界を文字通り踏み締めるために。ここは、おかしいくらい何もおかしくない場所だった。
 ふと甘い香りが漂ってきて、私は誘われるまま匂いの元へ走っていった。踏まれないように注意しながら人混みをすり抜け、あった!
 あのペロリームのロゴ……間違いないわ、銀のパティスリじゃない! この地方初出店の有名スイーツ店! カウンターの中では可愛い制服を着た女の子とペロリームが、忙しく動いてお客の相手をしていた。
 銀のパティスリは案の定というか、すごい行列だった。少し待ってみて、行列が減ったら私も並ぼうかしら。あ、お金持ってなかった……。
「マスターは本当にポケモン遣いが荒いんだから、嫌になるよなー。俺に並ばせて自分は他の買い物なんてよ」
 行列には人間もポケモンも混ざってる。その中の一匹、どう見ても甘いものなんて好きそうにない雄のポケモンが混ざっていたけどそういう事なのね。ドッコラーはつまらなさそうにぼやいた。
「あら、ショッピングは乙女の聖戦よ。それに協力できる事を誇らしく思いなさいな」
 すぐ前に並んでいたトドグラーがぴしゃりと言い放った。ふくよかボディだけどそれは種族柄であって、短い水色の毛並みは艶々している。美人だわ。今度はドッコラーの後ろに並んでいたパールルが可愛らしい声を上げた。
「そうよ、これだからお洒落のわからない男の子は。それよりご主人様、あたしに合う靴を買ってくれるかしら」
「お前足ないじゃん」
 すかさずドッコラーがツッコミを入れた。会話を聞いていた人間のカップルがくすくす笑う。
 不安になるくらい、何もおかしいところの無い日常の光景だった。私は本当にただの夢を見ていたのかしら。あんなに泣いたのに。今になって考えたら、アリスだとか黒兎だとか帽子屋だとかチェシャーだとか、明らかに現実味を欠いたお伽噺。夢以外の何者でもないわよね。闇がかっこよかったのも、私の夢に現れた理想のポケモンだったから……う、でも闇にもう会えないなんて寂しいなあ。夢、なのよね。
 そういえばご主人とポケモールに来ようって話をしていたわ。もしかしてもしかすると、私は明日ポケモールに行くと決まって、テンションが上がり過ぎて眠れなかったのかも。私なら十分有り得る話だわ。それでポケモールについて、急に寝不足のツケが回ってきて白昼夢を見た。こんな筋書かしら。だとしたらご主人はまだ近くにいるはず、探さなきゃ! 帽子屋? そんな事知らない、私の管轄外だわ。
 頭を振って夢を振り払い、私は帽子屋なんかじゃなくご主人を探して歩き始めた。
 結果、回廊型になっているポケモールの、一階部分は一通り見たけどご主人の姿はなかった。入り口まで戻ってきた私は考える。ご主人は上の階に行っちゃったのかなぁ。私、ご主人と出かけても一匹でうろうろしちゃう事が割とあるもの。色んな物に興味が沸いて、そっちに集中しちゃったりするのよね。それとも逆にはぐれた私を心配して探してくれていて、擦れ違いになっているのかも。ここでじっとしていた方がいいかなぁ、迷子の呼び出しをしてもらうのも、結構恥ずかしいけど選択肢の一つに入れておくべきね。
 今後どうするか考えていると、ぴんぽんぱんぽーん、と気の抜けた電子音が流れた。
「只今、午前十一時より、レストランホールを開放致します。ご家族やご友人と、揃ってお越しくださいませ。それでは、この後もごゆっくりと、お買い物をお楽しみください」
 ゆったりしたメロディをBGMにアナウンスが流れる。
「……十一時?」
 聞き覚えのあるアナウンスに思考が止まった。さっき聞かなかったっけ?
 困惑する私の前を見覚えのある男の子とシキジカが走り抜けた。
 きしりと、何かが微かに異音を放った。耳ではなく直感でそれを聞く。
 信じられないとの気持ちを込めて男の子たちを目で追う。男の子はさっきと全く同じ場所で転び、シキジカはさっきと全く同じ動きでおろおろしだした。
 ……いやいや落ち着け私、アナウンスはきっと聞き間違い。ここは回廊型のモール、小さな子どもなんて同じ場所をぐるぐる走り回るものじゃない。注意された事も忘れて、同じ場所に躓いて転んだりするものよ。鼓動を強め始めた心臓を宥めるために、私は必死に自分に言い聞かせる。でも次第に増大していく違和感に、妙な気持ち悪さばかりが募っていく。ずれた歯車の上にいるような居心地の悪さが神経を逆撫でた。
 そして一度生じた疑いの芽は、ぐんぐん成長して止まらない。小さな男の子のわんわん泣く声はまるで警鐘のよう。――何に対して? 止せばいいのに周りに視線を巡らせた私は、決定的な歪みを見つけてしまった。
 皆、さっきと同じ動きしかしていない。
 あのウィッグをつけたビークインを連れたお姉さんが、同じブラウスを見て、畳んで棚に戻す。お化粧ばっちりの店員が丁寧に畳み直して、迷っているお客さんにオススメのコーデを教えてる。
 一縷の望みをかけて私はモールを走り抜ける。辿り着いた銀のパティスリ、カウンターの中では店員が忙しそうに動いているのに、列が少しも減っていなければ増えてもいなかった。
「マスターは本当にポケモン遣いが荒いんだから、嫌になるよなー。俺に並ばせて自分は他の買い物なんてよ」
「あら、ショッピングは乙女の聖戦よ。それに協力できる事を誇らしく思いなさいな」
「そうよ、これだからお洒落のわからない男の子は。それよりご主人様、あたしに合う靴を買ってくれるかしら」
「お前足ないじゃん」
 交わされる会話も一字一句同じ。一気に全身の毛穴が開いた感覚に襲われ、寒気が頭のてっぺんから尻尾の先まで駆け抜けた。
 ここはまだ、現実じゃない。現実のふりをした異世界だ。
 りん、と鈴が鳴って私は飛び上がりそうになった。しかしさっきと違う唯一の現象だ。一度目には確かに鳴らなかった。そしてこれが鳴るのは、『チェシャー』か『チェシャー』に属するものが側にいる証だと、闇が教えてくれた。
 はっとして周囲の様子を探る。
 丁度エレベーターホールの方へ隠れる影が目に入った。体型から多分ポケモン、あんなのさっきはいなかったわ!
 どうしよう、追って行ったら戦いになる? 死騎の時みたいに襲われたら、私じゃひとたまりもない。
「駄目駄目! 闇に頼ってばっかりじゃ駄目なんだ」
 急いで弱気な考えを振り払う。
 りんりんと鈴の音がうるさくなる。この音量なら、近くにいる人間や、耳の良いポケモンなら聞こえるはず。なのに誰も私を見ない。そういえば、こんなに大勢いる人間やポケモンと、ただの一回も目が合う事はなかった。まるで質量を持った立体映像の中に飛び込んだみたいに、私だけがイレギュラーな存在だ。益々このまま長居するのが怖くなった。ポケモンに対する怖いのと、得体の知れないものに対する怖い、どっちを選ぶかって言ったらポケモンの方がまだマシよ。
 思い切ってエレベーターホールに飛び込むと、鈴の音がぴたりと止んだ。怪しい影もいない。代わりに、上へ行くボタンがオレンジ色に光っていた。何か誘われているようで気味が悪い。ぴんぽんぱんぽーん、と気の抜けた電子音が流れた。
「只今、午前十一時より、レストランホールを開放致します。ご家族やご友人と、揃ってお越しくださいませ。それでは、この後もごゆっくりと、お買い物をお楽しみください」
 ゆったりしたメロディをBGMにアナウンスが流れる。
 もう、嫌。同じ時間を繰り返すここより、エレベーターで新しい場所へ行こうじゃないの。静かに開いたエレベーターに乗ると、ボタンはひとつだけしかなかった。屋上だ。そこに行けば何か起きるって事ね。
 どうやってもボタンに手が届かないので、最大限に弱めたスピードスターを放つ。何も壊す事無くボタンは押され、ドアが閉まった。
 閉じたドアの向こうから、笑い声が聞こえた気がした。それともエレベーターの軋む音に過ぎなかったのかしら? 確かめる手段は、今はない。
 床に押し付けられる感覚と共に上昇が始まった。

◇第五章◇狂乱ティーパーティー―A Mad Tea-Party― 


 チン、というベルの音が目的地に着いた事を知らせた。用心しながらエレベーターを降り、屋上に出る。降り注ぐ陽射しに目を細めた。元々細いけど。
 慣れた目で見渡すと、おかしな光景が広がっていた。屋上は一面、時計だらけだった。
 様々な形やサイズの置時計が所狭しと並べられ、植木には幹が見えなくなるほどの掛け時計が引っ掛けられている。花壇は花時計、噴水の中央に聳え立つのは水時計だし、あのオブジェは影の位置を見るに恐らく日時計だ。一つとして同じ時間を示している時計はなく、花時計も日時計も文字盤に相当する場所に腕時計が置かれているので時間が読めない。さっき十一時ってアナウンスが流れていたから、そして日時計を信じるならお昼時だとは思うのだけど。
「お客が来た。お客が来た」
 大きな鳩時計の中から、やけにリアルなマメパトが顔を出した。大きさも本物と同じくらいだし、羽根の質感もふわふわだ。
「リアルねぇ……」
「当たり前だ。本物なのだから」
「えっ」
 独り言のつもりで零した言葉に、返事が返ってきた。時計の中のマメパトは黄色い目で私を見つめていた。
「あの、もしかして本物?」
「もちろん。僕の役目は時を告げ、来客を告げる事。進め、お客よ。遅れてしまうぞ」
 今、私会話ができている。と言う事は、少なくとも十一時の時間からは抜け出せたのね。泣きたいくらい安心して、でも泣くのも変だから私は会話を続ける。
「遅れるって、何に」
 マメパトは嘴を噤み、瞬きしながら首を傾げる。そして、ネイティオさながらの無表情で抑揚のない声で続けた。
「遅れてはいけない。僕のように、閉ざされたくなければ、彼らの機嫌を損ねるのは得策ではない」
 マメパトはそう告げると、時計の中に引っ込んでしまった。自分の意思でというより、強引に時計の中に引きずり込まれたように見える。もしかして、あのマメパトは時計の中に閉じ込められているんじゃないかしら。
 がしゃーん、と何かをひっくり返して割ったような音が響き渡り、私の思考は断ち切られた。まだ会話のできる誰かがいるんだ、という期待を抱きながら、私は時計の庭を抜けて、屋上の中央へ向かう。
 一段高くなっているステージ、そのステージには大きなテーブルが置かれ、テーブルを囲むポケモンがいた。
 日差しにも負けない黄金色の毛並みと九つの尻尾を持つポケモン、キュウコンと、紫色でひらひらした胴体を宙に浮かせているポケモン、えっとあれはムウマージだったはず。
 テーブルの上にはティーセットが何組も広げられ、その隙間を埋めるように数えきれない程の色とりどりの砂時計が置かれている。ティーセットと砂時計に埋もれ、テーブルクロスの色がわからないくらいだ。
「あらあら、本当にお客様が来たワ! 予言も偶には当たるのねェ」
 私に気付いたのはムウマージだった。ムウマージは軽く浮かび上がると、私の方へ飛んできた。
「ようこそいらっしゃいました、エネコのお嬢さん。空いている席へどうぞ! 僕達はお客様は大歓迎ですよ」
 キュウコンはにこやかに微笑み、二本の尻尾で手招きして――尾招きって言った方が正しいかしら、自分達の元へ来るように呼びかけた。キュウコンは隣の席を尾で引き、ムウマージが私を持ち上げて座らせる。
「あの、私お茶会に来たんじゃなくて、謡い」
「さあ、紅茶はいかが、それともケーキ? ポフレなんかも美味しいわよぉ」
「僕はトーストにジャブジャブジャムを塗るのをオススメします。どうしますかお嬢さん」
 こいつら、ポケモンの話を聞いてくれない。だいたいジャブジャブジャムって何。キュウコンの前に、どぎつい蛍光ブルーの何かがべったりと塗られたトーストがあるけど、あれの事かしら? 何の木の実を使ったらあんな色になるのやら。あまり口に入れたいとは思えなかった。何事も普通が一番よ、うん。
「じゃあ、少しだけお言葉に甘えてもいいかしら? あ、違う違うトーストじゃなくって。紅茶とポフレ、頂けると嬉しいわ」
「さあどうぞ、エネコのお客様! アタシ達が誘ったんだものぉ、遠慮せずに召し上がれ!」
 お腹が空いていたし喉も乾いてきたところだったので、私はとりあえずお茶をご馳走になる事にした。災牙の時のように薬を盛られないか心配したけど、彼らも口にしているのだし多分大丈夫だろう。ムウマージはサイコキネシスでティーセットを私の前に揃えると、やはりサイコキネシスでカップに紅茶を注いでくれた。四足ポケモンでも飲みやすいような、浅く幅広いカップから柑橘系の香りが上品に立ち昇る。この紅茶はアールグレイね。
「おお、大いなる宇宙の意思、神の啓示!」
「!?」
 少し冷まして適温になった紅茶と、甘いクリームのポフレに舌鼓を打っていたら、いきなり斜め前のティーポッドの中から叫び声が聞こえた。喋るポットくらいじゃもう驚かないわよ、とじっと見ていると蓋が揺れ、焦げ茶色の大きな丸い耳が、続いて長い、顔の倍以上はあるひげを持った小さなポケモンが顔を出す。
「下界の者共に告ぐ! 間も無く『チェシャー』の支配は終わりを告げるであろう!」
「『チェシャー』って……!」
 久しぶりに聞いた名前は、私が倒すべき世界の支配者。のんびりお茶してる場合じゃないぞ、と言われた気がして私は背すじを正した。私の聞き返す様子をどう解釈したのか、ムウマージが笑った。
「気にしなくていいのよぉ、エネコのお嬢さん。この子はいつも妄言ばかり言うの」
「ししし失敬な!」
 デデンネは憤慨した様子で巨大なひげを震わせた。
「馬鹿も休み休み言いたまえ、『謡い帽子屋』よ! 我こそは『(かた)り鼠』、種族はデデンネ、名を妖寝(アヤネ)!」
 妖寝と名乗ったデデンネは、はっきりとムウマージに向かって『謡い帽子屋』と呼んだ。お茶に誘ってくれたこのポケモンが、私がずっと探していた『謡い帽子屋』だったとは! 言われてみればムウマージの頭は帽子を被っている姿にそっくりだ。この場所は帽子屋ではないけれど、ポケモールで出会えるはずっていう私の直感は見事に当たってくれたのだ。
 こうしちゃいられないわ、どうにかして連れ出さなくちゃ。そう考えてポフレを飲み込んでいる間にも、『謡い帽子屋』曰く妄言だという妖寝の金切り声は止まらない。
「我がひげにかけて、全てが嘘偽りのない神よりの啓示であると誓うぞ!」
「そんな事言ったってぇ。あなたいつも妙な事ばかり言うじゃなぁい。ガルーラがカラカラを産むだとか、コンパンがバタフリーになって羽ばたくだとか。テッポウオがオクタンに進化するくらいの、まともな事を言った試しがないじゃあないノ」
「ふん、下界の者には我が崇高なるお告げは理解できぬようだな! よいか、よく聞きたまえ。このひげは神より賜った珠玉に等しい宝! 大宇宙の意志さえ受け取れるのだ!」
 妄言にしては妙に堂々と言い切る妖寝。妄言だからこそ自信満々、という考え方もできるけど。
「まあ、確かにデデンネのひげはレーダーだって言うわよねぇ……」
「でもこのひげ、付けひげなんですよ」
 横から顔を出したキュウコンが、尻尾でひょいっとひげを引っ張った、頬っぺたがつられて伸びる、前にひげはすぐに抜けてしまった。
「いや、やめてよぉ! わたしのおひげ、かえして!」
 途端に妖寝の様子は一変した。急に舌っ足らずな口調になると、半泣きでひげに手を伸ばす。この声、まだ幼い女の子のようだ。
「わたし、それがないとできそこないっていじめられるの! だからおねがい、かえしてよぅ……」
 あまりの豹変ぶりに絶句していると、キュウコンはやれやれと溜め息をついてひげを妖寝に返した。
「ほら、返しますよ。全く、誰も彼女を苛めたりしないのに」
 妖寝はキュウコンの言葉を聞いているのかいないのか、大急ぎでひげをつけ直すと、再びティーポットの中に引っ込んでしまった。やっと話せる間ができたので、私はムウマージに、『謡い帽子屋』に向き直る。
「あの、あなたが『謡い帽子屋』ね?」
「そうよん。『謡い帽子屋』、種族ムウマージ、名前は杏呪(アンジュ)、これが私を表す名前ヨ。あなたは?」
 ああ、会話ができるって素晴らしい。私はこの世界での礼儀に則り、まずは名乗る事から始める。
「私は『アリス』。種族はエネコ、名前は魅甘よ」
 実際に名乗るのは初めてだけど、口を開けば不思議なくらいすらすらと私を表す名が紡がれて、ただ一つの色を編み上げる。色んなものが歪み捻じ曲がり変わっているこの世界で、名前だけが唯一不変の確かなものだと言った闇の言葉をひしひしと実感した。
「んまぁ! 『アリス』、あなたが『アリス』なの! あらまあ、まさか本当に出会えるなんて! ようこそ『アリス』!」
 杏呪はひらひらした手を叩いて破顔した。私はこのポケモンの事を全く知らないのに、相手には歓迎されているってなんだか変な気持ち。ファンに囲まれた有名人ってこんな気持になるのかしら。嫌な気分ではない、ただくすぐったい。というか、皆『チェシャー』を倒す『アリス』に期待しているのかしら、私はこんなに弱い存在なのに。……おっとっと、忘れちゃいけない大事なお願いをしなくっちゃ。
「杏呪、さっそくで悪いんだけど、あなたに頼みたい事があるの」
「ふふ、他でもない『アリス』ちゃんのお願いならいつだって大歓迎よォ」
「『アリス』と言えば! こんな詩はご存じですか?」
 ありがたい事に好意的な対応をしてくれた杏呪に、さあ要件を伝えよう、とした途端にキュウコンが割って入ってきた。私、今から大事なお願いをするところなんだけど! マイペースなキュウコンに非難の眼差しを向けてみるけど、キュウコンは気にするそぶりも見せない。それどころか尻尾を揺らしながら歌い始めた。

'''三月狐は黄金色、満月と同じ黄金の色さ。

黄金色の三月狐が、好きなものはいくつある?
それは尾の数、尻尾の数さ。
炎、お茶会、角砂糖、
こんがりトースト、ジャブジャブジャム、
可愛い悲鳴、綺麗な涙、恥辱に塗れた美しさ。
最後はもちろん我らが『アリス』、これで九つ、尻尾の数さ '''
「……ふふ、これは僕の詩なんですけどね。というわけで自己紹介が遅れました。僕は『三月狐』、種族はキュウコン、名は凶煌(キョウコウ)です」
 後半、とてつもなく怖い内容の詩を暗唱し終えたキュウコン、凶煌は、「僕、他人を甚振るのが大好きなんです」とそれは良い笑顔で付け足した。このキュウコン、災牙と同じ匂いがする。つまりちょっとどころかかなり危ない奴なんじゃ。いずれにせよ初対面の相手にする自己紹介じゃないのは間違いない。
 凶煌の乱入によって話題が変わってしまったらしく、杏呪はお願いの事なんか忘れた風にくるくる回ってはしゃぐ。
「私が生きている間に『アリス』ちゃんに出会えるなんて! なんて素敵な巡り合わせなのかしらん!」
「本当ですよ。僕も百年以上生きた甲斐がありました」
 はて、百年? 私は思いっきり眉を顰めて凶煌をじーっと見る。見た目も声も青年の域を出ないように見えるのに……そういえば、諺に「キュウコン千年カメール万年」っていうのがあるけど、まさか本当に千年生きるわけでもあるまいし。
「あなたいくつなの?」
「そーうですねぇ。百五十を超えた辺りから数えるのが面倒になってしまいまして、今は覚えていません」
 自分の年なのに、凶煌は他人事のようにのほほんと返した。年齢って数えるのが面倒になるもの? 私は未だに自分の誕生日が楽しみで楽しみで仕方ないので、感覚の違いにただただギャップを感じるばかり。凶煌はふっと柔和な笑みを浮かべると、杏呪へ目配せした。
「まあ、いくつになっても趣味があると若々しくいられるものですよ。というわけで杏呪」
「ウフフ、りょーかい。さ、アタシはちょーっと席を外すワ。それじゃ、お楽しみなさいな『アリス』ちゃん」 
 杏呪はわざとらしく咳払いをすると、妖寝の入ったティーポットを持ってどこかへ飛んで行ってしまった。待って、用があるのはあなたなのに、あとこんな危険ポケモンと二人きりにしないで。追いかけようとした次の瞬間、がたーんと音がして私の視界がひっくり返った。どこまでも遠く澄み切った青空を背景に、細長い鼻先とぴんと尖った三角耳が影を作る。
「あのー……」
「はい、何でしょう?」
 穏やかに微笑む凶煌は、傍目にはいかにも人畜無害そうに見えるのだけど。
「『何でしょう?』じゃないわよ! 何であんたに押し倒されなきゃならないの!」
 私は何の脈絡もなく凶煌に覆い被さられていた。仰向けに倒れた私は一生懸命に眼前の凶煌を押し返そうとするも、前脚の先が柔らかいもふもふに埋まるだけでちっとも効果がない。余談だけど無駄に手触りだけは最高だった。
「ああ、この事ですか?」
 当の凶煌は今の体勢を視線で示すと、にこにこ笑って言った。
「すみません。僕、今発情期なんですよー」
 にこにこにこにこにこにこ。
「はぁぁぁぁぁ!?」
 思わず私は大声を上げてしまった。笑顔でさらりと言う事じゃないわよそれ、しかも女の子の前で! デリカシーが無さ過ぎるのにも程がある凶煌にふつふつ湧き上がる憤り。無駄に良い手触りを活かして毛皮の襟巻きにでもなっちゃえばいいのにと、柄にもなく物騒な悪態を心の中で吐いた。
「あんたの体調なんか知るか! それとこの状況と何の関係があるって言うのよ!?」
 私、間違った事は言ってない。至極正当な主張をしているはずよ。
「ですから、『アリス』さんに処理のお手伝いをして頂きたいなと思いまして」
 しかし奴は相変わらず笑顔を絶やさないまま、しれっとした態度でとんでもない事を言いやがった。……あら、言いやがったって、私何いつからこんなに言葉遣いが悪くなったのかしら。いや、こんな状況に陥れば誰だって口が悪くなるに決まっているわ! あーもう早く脱出しなきゃこのままじゃ発情狐に食われる……! だいたい、なんで馬鹿ブソルに続いてこのキュウコンにまで襲われなきゃならないのか。自分の境遇を呪いたくなる。闇の鈍いとはわけが違うわ。
「あのう、謹んでお断りしますからどうか離してくれませんか? ってかマジで離して今すぐ即刻」
「嫌です。」
「即答しないで! さては私の意見を聞く気ないわね!?」
「そうなっちゃいますねぇ」
 片方の前脚を顎に当て、こてんと首を傾げる凶煌。――どうしよう、今すんごくこのキュウコンをぶん殴りたくなった(顔面を蹴っ飛ばしてもいい)。だけど、後で仕返しされると怖いから止めておく。いくら私でも、他人を甚振るのが好き! と豪語する相手の反感を買うようなマネをするほど馬鹿じゃない。
「まぁそういうわけですから、もうここは諦めて一緒に悦くなりましょう?」
「みゃうっ!」
 急に声のトーンを落とした凶煌は、あろう事か私の耳を舐めてきた。途端に背筋がぞくっとして、ち、力が抜ける……!
 私の声の変化を感じ取ったらしい凶煌は、調子に乗ったらしく前脚で私の胸元を(まさぐ)り始めた。こ、こうなったら最後の手段だ。大声を出して助けを呼ぼう。こんな姿を誰かに見られるのは恥ずかし過ぎるけど、黙っていればますます良くない状況に陥るだけだ。杏呪はわかってて席を外したから助けは期待できない。妖寝は小さな女の子だから現場を見せるのは目に毒。マメパトは鳩時計に閉じ込められている。……状況は絶望的だけど何もしないよりはマシだ。
「にゃふっ!?」
 すぅ、と息を吸い込もうとしたら口にふさふさしたものを咬まされて、私はくぐもった声を上げてしまった。何なのよこれ、これじゃ何も言えない。目をぱちぱちさせて、すぐに口の中の毛玉は凶煌の尻尾なのだとわかった。
「今大声を出そうとしませんでした? ……ダメですねぇ、そんな悪い仔にはお仕置きしますよ?」
 悪戯っ子のような微笑みとは裏腹に、凶煌はものすごく不吉な事を言い放った。奴の背後では私の口を塞いでいる一本を除いた計八本の尻尾が、妖しくゆらゆらと蠢いていてこの不穏な空気に拍車をかけていた。
「ねぇ、『アリス』さん?」
 凶煌は中断していた胸への愛撫を再開した。同時に私の頬や首筋なんかをぞろりと舐めて、反抗する力を奪っていく。
「~~ッ!」
 私は目を固く閉じて奴が送り込んでくる快感に耐えようとするのだけど、目を閉じたせいでかえって触覚が研ぎ澄まされてしまう。凶煌の前脚は私の胸の毛を掻き分けて、普段は隠れている突起を探り当てた。
「んんー!?」
 柔らかいような、硬いような肉球でぐりぐりと捏ねられる。不躾に触られて痛いはずなのに、身体の奥から昨日知ったばかりの感覚が込み上げてくる。駄目よ私、呑まれるな。必死で快感を否定していると、凶煌は笑みを深めて私の首に噛みついた。
「んヴっ!」
 甘噛みとわかっていても、捕食されているような本能的な恐怖が沸き起こる。炎タイプ故か火傷しそうなほど熱い舌が、わざと音を立てながら私の首筋を這いずり、身体が勝手に跳ねれば牙が食い込む。まるで、私が必死に我慢しているのを嘲笑うかのよう。胸の先端はもう恥ずかしいくらい血液と感覚が集中しているのが自分でもわかった。だからと言って素直に気持ち良いなんて言えないから、私は耐えるしかない。けれどもはや凶煌の僅かな前脚の動きにも反応して、胸を中心に全身が痺れっぱなしの有様だった。その内爪を立てて胸の先端を乱暴に押し潰される、痛みとも快感ともつかない感覚が加わり、私は声にならないくぐもった嬌声を上げた。凶煌の顔が歪んだのは涙で視界がぼやけたせいだけじゃないはずだ。頭の奥に流れていく甘ったるい刺激がうっとうしくて、もどかしい。
「んんっ!? ぷは、熱いじゃない!」
 非常に悔しい事に私の意識が朦朧としかけた時。突然尻尾に焼けるような感覚が走った。急いで尻尾を持ちあげて見ると、なんと実際に火が点いていて、表面の毛を燃やしながら焦げ臭いにおいを発しているところだった。道理で焼けるような感覚がするわけね。本当に焼けてるんだから。
「あ、すみません。興奮してつい火を出してしまいました」
 私が必死になって尻尾をばたばたさせて鎮火していたら、胸元から緊張感のない声が返ってきた。見れば凶煌の尾の先には、蝋燭の先のような小さな火種がそれぞれ灯っている。どうもあれが引火したらしい。……それにしても。
「は、あっ……口で謝ってる割には表情がすごく楽しそうなんですけど!?」
 私が尻尾の熱さに涙目になっていたというのに、奴は飄々とした笑みを一段と深くしていた。どう見ても絶対楽しんでる顔だ。
「おや、ばれちゃいましたか」
 すると凶煌は全く悪びれる様子もなく、あっさり認めた。元々細い狐目が更に細くなり、もう殆ど線になっている。
「……やっぱり楽しんでたのね!」
「あはは。『アリス』さんの泣き顔、すごくそそられるんですよね~」
 心底楽しそうに言う凶煌に全身の毛がぞぞぞっと逆立った。こ、こいつは……。
「この鬼畜! サディスト! 変態じじい!」
 私は残った理性を総動員して、精一杯の罵声を浴びせてみるのだけど。
「それは褒め言葉として受け取っておきますね」
「明らかに褒めてないからね私は!」
 何を言ってものらりくらりと受け流されるだけで、全く効果がない。軽く虚脱感を覚えた私は、何だか急に抵抗する意思をなくしてしまった。こうなればもう完全に凶煌の思う壺だと、頭ではわかっているのに。私は溜息を吐いて全身の力を抜いた。もうどうにでもしろよこの変態野郎。
「抵抗しないんですか? ……つまらないですね」
 大人しくなった私を見た凶煌の第一声がこれ。……なんて言うか、ありえな~い。
「つまらないならどうぞ離して下さい。誰も止めませんので」
「それは嫌ですねぇ……では、無理にでも反応させてあげますね」
 言うなり、凶煌は私を引っくり返す。普段通りの四足体勢をとらされたわけだけど、何故だろう、凶煌の前だとすごく危険で屈辱的な体勢に思えてしまう。
「痛っ!」
 危険はすぐにやってきた。ぴし、と小気味良い音が響いたかと思うと、お尻に鋭い痛みが走ったのだ。首を捻って見てみれば、凶煌は何本もの尻尾を器用に使って私のお尻を叩いているところだった。
「痛いっ!」
 それも一度だけじゃなくて何度も何度も。胸と首を攻められていた熱はすっかり冷め、私はだらしなく痺れた身体に力を入れて抜け出そうと躍起になった。
「止めろ! 痛いって言ってるでしょーがこの変態狐!」
 尻尾で押さえつけられていなかったら、私の尻尾で往復ビンタを喰らわしてやるところなのに。もう仕返しなんか気にしてられないわ。
「おや、痛いのはお嫌いですか?」
 ……何を仰っているのやらこの発情狐は。自称百五十才以上らしいけど、長生きしすぎて脳みそに黴でも生えてるんじゃないかしら。
「当たり前です」
「それは失礼しました。では、好きになれるように躾けて差し上げましょうか」
「いーやーだー!」
 決して穏やかではない発言に冷汗がどっと噴き出した。こいつの場合本気でやりかねない。出会って間もないけどそれは直感でわかるわ。
「冗談に聞こえないわよ凶煌!」
「え、だって冗談じゃないですし」
 ……何きょとんとした顔してんのこいつ! 凶煌は私の表情をどう勘違いしたのか、ああ、と合点がいったように頷いた。
「心配しなくても大丈夫ですよ、僕調教には自信がありますから。例え『アリス』であろうと、三日もあれば立派な雌奴隷にして差し上げますよ」
 言ってる事がすごくおぞましくえげつない事だってのは理解できる。それにしても、何なのかしらこの自信に満ちた微笑みは。呆れ返るあまり今度こそ抵抗する意思を奪われた私は、力無く上半身を伏せた。ああもう、さっさと終わらせて。
「……はにゃぁっ!?」
 ぞわりとした感覚に、私は今日何度目かわからない 全身が総毛立つ感覚を覚えた。ヤられちゃうってのはこの際もう諦めてるわよ、だけど!
「ど、どどどどこ舐めてるのよ変態!」
「どこって、お尻の穴ですけど」
「ばばっ、場所を聞いてるんじゃないわよ! 何でそそそんな所を……!」
 凶煌が舐めているのは、私の……絶対口をつけるべき場所なんかじゃないそこを、味わうようにゆっくりねっとり舐めていた。熱を持った柔らかいものが這い回り、
「あはは、僕こっちでするのが好きなんですよ」
「せめて普通にして下さい……」
 うわー、なんか恐ろしい情報を聞いちゃったわ。……泣きたくなってきた。どうなっちゃうのかしら私。心と体の両方でしくしく涙を流していると、凶煌の弾んだ声が降ってきた。
「だってこっちの方が相手を辱められますし。面白いじゃないですか」
「わーお流石です凶煌さん。あなた正真正銘の外道だわ」
「そんな事言われたら、僕傷ついちゃいますよ」
 あ、なんか妙に感心してしまったわ。ここまで徹底してサディストだと却って清々しいわねぇ。身体では抵抗できないので、私はせめて言葉だけでもと、努めて強気な口調で言い返した。
「どうぞどうぞ盛大に傷ついちゃって! どうせあんたの事だから大して気にしてないだろうけど!」
「おや、僕の性格よくわかってますねぇ魅甘さん。感激したので、ご褒美をあげましょう」
「にゃぁんっ!?」
 凶煌の尻尾が伸びてきて、お尻の下秘部の入り口をするりと撫でた。その尻尾が湿った感触がしたので、私は自分の身体が粘液を垂らしているのを知ってしまった。
「ふにゃ、やだっ」
 柔らかいタッチで入り口をなぞり、先端が少しずつ中へ侵入してきて、圧迫感と共に侵入を許してしまう。その間にもお尻は舐められ続けて、入り込んできた舌が私のお尻の中をぐにぐに広げようとする。背すじがよくない意味でぞわぞわして、私は後ろ脚を突っ張らせて鳴いた。
「気持ち良いでしょう? 僕は鞭の方が好きですけど、飴もきちんとあげますからね。調教の基本です」
「もうやだ逃げたい……」
 お尻を舐め解され、秘部にはぬるぬると尻尾が出入りして、気持ち悪いと気持ち良い、二か所からの刺激は私の頭を混乱させるのに十分だった。無駄に年を重ねていないのか、秘部を探る凶煌はすぐに私の感じる場所を探り当ててしまった。
「ひぃ、や、あっぁあっ!」
 わざと感じる部分だけを尻尾の先でぐりぐりと押し込められる。お腹の奥から快感が全身へと響き渡り、背中が反り返ってしまう。
「良い声で鳴くようになりましたねぇ。それでは仕上げをしましょうか」
 とうとう凶煌がのしかかってきた。尖った先端がお尻をつんつんして、まるでこれから犯す事を誇示するみたい。どこまでも鬼畜なキュウコンに、為すがままされるがままの私って可哀想……。やがて満足したのか、それとも飽きたのか凶煌のものが押し付けられて、ついにめり込んできた。
「ひぎっ! や、だぁっ、ぅあ、あ……」
 本来出口でしかない場所に、入っちゃいけないものが入ってくる。痛い、苦しい、息がうまくできない。不法侵入だわ出て行って。地面に爪を立ててがりがりしたけど、のしかかってくる凶煌からは逃れられない。面白そうに喉をぐるぐる鳴らして、凶煌は更に腰を落とし込んできた。
 本来なら行為に使うべきではない排泄器官で、他人の身体の一部が好き勝手に動く。侵入される時は、圧迫感とお尻が拡がる怖気に涙して、引き抜かれる時は、内臓までもっていかれそうな不快感が腰を痺れさせる。ああもう、完全に気持ち悪いだけの方がマシだわ。なのに。
「んにゃ、あっあ……」
 閉じられず引き伸ばされたお尻から未知の快感が生まれ始めて、私は自分の適応力を恨めしく思った。粘膜が擦れ合う感触が、薄暗い快楽として私を苛んでくる。凶煌の動きはだんだん小刻みなものへと代わり、秘所の浅いところで抜き差しされる尻尾は動きが雑になってくる。濡れて束になった毛の束が、秘部の突起を擦り潰した。
「ふぎゅ、ゃあぁぁあっ!!」
「ああ『アリス』っ、気持ち良いですよ……!」
 地面と凶煌に挟まれて身動きできないまま、私はびくびく痙攣した。下半身を支配する二種類の快楽に意識が霞む。お腹の中で鼓動する凶煌が熱いものを吐き散らしたのが、なんとなく感じられた。

◇第六章◇地下道に落ちる―Down the manhole― 


「もう、酷い目に遭ったわ……」
「ごめんね、俺がついて行けなくて」
 私の下から闇の申し訳なさそうな声がした。ブラッキーがエネコより頭が低いなんて事あり得ないんだけど、この状況では当たり前よね。だって私、闇におぶって貰っているもの。腰が抜けて歩けないのよ。
「うふふ、凶煌にそんなになるまで可愛がって貰っちゃって、羨ましいわねぇー魅甘ちゃん。彼、私には興味ないって言うのよぉ」
 残念そうに付け足すムウマージの杏呪。さも不満そうだけど、そういう事は異性にしか興味ないのが普通なんじゃないかしら。あの変態狐の唯一ノーマルな嗜好ね、見直したわ。……でも見直したところで焼け石に水ね。
「ねぇ杏呪、あんた本当に災牙の封印が解けるの?」
 なんか心配になってきて、私は気だるく杏呪を見やる。ところが答えたのは意外にも闇だった。
「その点は安心しなよ魅甘。彼はこう見えても『謡い帽子屋』だからね、呪文の扱いに関しては右に出る者はいないよ」
「んまぁっ失礼ね、彼女って言いなさい!」
 杏呪はふわりと闇の前に回り込んで、ひらひらした腕の先を闇の鼻先に突きつけた。そう、声も喋り方も、ぷんすかと頬を膨らませる仕草だって女性的なのに、このムウマージは男なのだ。性別が発覚したのは凶煌との行為の後。へろへろの私に痛み分けを施した杏呪は、自身もぐったりしながらも嬉しそうに
「うふっ、凶煌に犯された気分だわー」
 なんて言い始めたのだ。仲が良さそうだし、普段からそういう関係なのかしら、と私はぼへーっと杏呪を眺めていた。闇と共にお城を出て、まだ日が落ちていないというのに色んな衝撃体験をして、極めつけにお尻を犯されるという一大事件の発生した後はもう、驚いたりドン引きする感覚が家出状態でなんにも思わなかった。だから凶煌の次の言葉を聞いても「へー」という感想とも言えない感想しか出てこなかった。
「止めてくださいよ。僕は男色の趣味はありません」
 男色……つまり、このムウマージ、女と思っていたのだけど実際の性別は男だった。反応が薄い私が信じていないと感じたのか、杏呪は見たくもない男の象徴を見せてきたのだから間違いないわ。せいぜい、こんな男か女かわからない、しかも頭にまち針やら裁ちばさみやらを刺しまくってる奴に災牙を閉じ込めてる結界を破れるのかしらと心配になるくらい。るんるん気分の杏呪は私と一緒に災牙の元へ行き、呪いを解く事に快く同意してくれたけど、「王子様に会うならおめかししなくっちゃー」と言って支度してきたのがこの頭だった。ゴーストタイプだから平気だと言っているけど見ている方は全然平気じゃない。と、まともな感性の私なら思うでしょうねぇ。
 そして結局、闇はポケモールには入れなかったようだった。ポケモールの正面玄関まで、杏呪のサイコキネシスで運んでもらった私を見て、闇は襲いかからんばかりの勢いで杏呪を問い詰めた。彼が探していた『謡い帽子屋』だと私が説明したので、悪の波動を抑えてくれたけど。杏呪が私に起きた惨事を包み隠さず話すと、闇は頭を抱えて呻きつつ、私を労わって背負ってくれた。きっと人間だったらもっと大変な問題になっていたでしょうね。別の男性と行為に及ぶなんて、と絶叫し殺人事件にまで発展するドラマを見た事があるので、こういう時ばかりはポケモンの性行為に対する意識に感謝する。
 因みに帰り道は、アスファルトノ沼を渡る必要はなかった。一旦外に出て闇と合流した私と杏呪は、ポケモールの非常口から改めて外に出たのだ。扉は今度は私の知らない街へと繋がっており、迷鳴の姿も他のポケモンの姿も見る事はなかった。
 無人の街で私を背負いながら、闇は話し始めた。 
「魅甘、この先も注意してね。襲われるかもしれないから。『アリス』の雫と言って、『アリス』を絶頂させた時に放出されるというエネルギーを浴びると不老長寿になれる、って伝説があるから」
 行為の後の気怠さも抜け、大好きな闇に触れていると少しずつ正常な感覚が戻ってきた。だからこそ、私は家出していた感情と再会を果たせたのだ。
「は? どういう事よ、まるで意味がわからないわ!」
 どがーんと、まるで頭の中にミサイルを撃ち込まれたかのような衝撃を受けた。そんないかがわしい漫画みたいな伝説ってある!? ……私はいかがわしい漫画を読んだ事はないわよ、そういうのもあるって他のポケモンに聞いただけね。それはおいといて、確かに私、エネコの特性はメロメロボディっていう異性を魅了する能力だけども、そんな効果があるなんて見た事も聞いた事もないわ。
「ウフフ、それならアタシも聞いた事があるわん。この際だからご利益にあやかりたいワ、なんてー」
「悪いけど遠慮してくれないかな、『謡い帽子屋』。魅甘の体力が保たないし、俺の見ている前では許さないよ」
「マ、怖ぁい。冗談に決まってるじゃなぁい」
 口元に手を当てておかしそうに笑う杏呪を尻目に、闇は真面目な口調で続ける。
「災牙が君を襲ったのも、ひとつにはこの伝説があるからなんだ。やっと『アリス』に会えたのが嬉しくて、つい勢いで伝説も試したくなったんじゃないかな。……ごめん、つい、で襲われる魅甘からしたら堪ったものじゃないよね」
「全くよ。これから不用意に名乗らないようにしなくっちゃね」
「でも、『チェシャー』の側にいない者相手なら、『アリス』であるとわかれば殺されないと思う。『アリス』にもしもの事があって、『チェシャー』を倒せなくなったら困るからね」
 つまり、殺されたくなければ襲われるの覚悟で名乗れって事? 本当、この世界の常識ってどうなっているんだか。ナンセンスにも程があるわ。元の世界に帰れる頃には、私はどれだけ行為を重ねる羽目になるのかしら。この先を思って私は憂鬱な気持ちになった。
「さて、魅甘。どっちに行けばお城に戻れると思う?」
「うーんと……。……あのコンビニが怪しいわ」
 なんとなく、首がそちらに引っ張られるような感覚がして、私は尻尾で道を指す。今まで何度も直感で道を決めて、それが間違っていた事がないので、道案内に関しては私は自信をつけてきた。やっと役に立てている実感が持てて、これは素直に嬉しい。
「あぁら偶然ネ! アタシもあそこは怪しいなって思っていたのよん。じゃあ、行きましょうかー」
 本当か嘘かわからないけど杏呪も反論する気はないみたい。意見の纏まった私達はコンビニへ入っていった。
 中は誰一人お客も店員もいない事を除けば普通の店内だった。だけどやっぱり奇妙だわ。
 目の前にある棚だけが空っぽで、焦点の合わない右や左や上や下には商品がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。気になってそっちの方を見ると、途端に商品は消えて、そのカラフルなパッケージはさっきまで空っぽだった棚に当たり前のような顔をして居座っている。これじゃあ何が置かれているかわからない、それに購入もできないじゃないの。何のためのコンビニなんだか。
「闇、このコンビニ変よね。それとも私の目がおかしくなってしまったのかしら?」
 やっと足腰がしっかりしてきたので私は闇から降り、ぐるぐる回りながらなんとか商品を目に捉えようと努力していた。でも収穫は目が回った気持ち悪さだけ。結局何があるのかを見極める事は叶わなかった。
「大丈夫、俺にだってここの商品をはっきり捉えられないよ。ここで変じゃないものがあったら、逆にそれが一番おかしいんだ」
「じゃあ、私も闇も変なの?」
「魅甘が気づかないだけで、俺も魅甘も周りから見たら狂ってるんだよ」
 私から見れば、闇はこの世界に来て唯一まともと思えるポケモンなんだけど、闇曰く彼自身も狂ってるらしいわ……そして私も。私はまともよ、目が覚めたら変てこな世界に入り込んだし、私が選んだ道がちゃんと目的地まで続いているし、変な伝説のせいで襲われるし。……これってまともな事だったのかしら。そもそもまともって誰が決めるの? 頭がこんがらがって、上手く呑み込めない。軸の定まらない思考回路は、道と違って私を望んだところに導いてはくれなかった。
 コンビニ奥の、従業員用の店内の裏側へ入る扉。そこを抜けると、私達は見覚えのある暖炉へ出た。
「……!」
「あらまぁっ、流石『アリス』ねぇ」
 杏呪が関心して褒めてくれるのも耳に入らない。
「へっ……あ……闇! 『アリス』ちゃん! 『謡い帽子屋』を連れてきてくれたんだな、ありがとう!」
 暖炉の前に、まるで毛皮の敷物のように寝そべっていたアブソル――災牙は、零れるような笑顔で私達に駆け寄ってきた。良かった、ちゃんと白いアブソルだわ。
「あら王子様! お会いしとうございましたわぁ~」
 杏呪は黄色い声を上げて災牙に急接近した。足があれば駆け寄ったと表現できそうな移動の仕方だ。
「へぇ、『謡い帽子屋』って女だったのか!」
「やっだぁ、もう、王子様ったらぁ~」
 災牙のストレートな感想に、杏呪は媚こびな声音を出す。なんだかちょっと良い雰囲気になってきた。災牙の今後のためにも真実を教えるべきかしら。
 一瞬考えたけど、襲われた恨みもあるので黙っておく事にした。まあ、その内気づくでしょ。


♦♦♦♦


 呪いを解くには、杏呪にいったんお城の外へ出てもらう必要がある。再会と初めましての挨拶もそこそこに、私達はお城の外へ場所を移した。入日に染められた空は夜の支度をして、影を長く薄く引き伸ばしている。時刻はもう夕方だった。
「ふむぅ……なるほどねぇ」
 正面玄関から出るなり、杏呪は興味深げにお城の壁を打ち眺めた。浮かび上がって屋根の辺りまで飛んだかと思えば、うんと下がって荒れた庭園に咲く紫の花となり。そうして色んな角度からお城を見て、杏呪は「わかったわよん」と明るい顔で戻ってきた。
「なかなか面倒な呪いだワ。それにね、とぉっても古い、それこそ世界の始まりの頃からあるような強力な呪いねぇ。ウフフ、ゾクゾクしちゃう。こんな呪いで縛るのも、縛られるのも楽しそうだわァ」
「あの、破れるの?」
 不安で不穏な流れになってきたので、私は再度問い掛ける。杏呪は唇を尖らせた可愛らしい表情で私に顔を突き付けた。ちょっとちょっと、近い近い。
「もうっ、言ったでしょ、アタシを誰だと思ってるのよー! 『謡い帽子屋』、種族ムウマージ、名前は杏呪とは、何を隠そうこのア・タ・シ。まぁ、これほどの呪いを掻き消すには……難しい呪文を唱える必要があるわねェー。『これを解決するためには関わる全てを並べて処刑するのが最も得策であるという彼の考えは酷く偏執的且つ身勝手であり全く加害者でないどころか純粋に涙した全ての者もまた哀れむべき存在であるが故に大元凶たる真の悪を見つけ出しその身を賭してでも復讐を遂げるべし』の呪文が適任かしらん」
「は? ごめんもう一回言って?」
 あまりに長くてややこしくて、ついでに句点らしきものがなく一続きの言葉に耳が息切れして、私の頭は途中から追いかけるのを止めてしまった。杏呪は「もっと短く言うならば――」と、咳払いした。
「『ヤヤコマレクイエム』よ」
「最初からそう言ってよ!」
 短くてわかりやすい名前があるならそっちにしてくれればいいのに。私のツッコミを無視して、杏呪はやっと適切な距離を取ってくれた。
「さ、今から始めるワ。静かにしてねぇー」
 杏呪はすうっと息を吸うと、低くも高くもない、中性的な声で謡い始めた。最初のうちは言葉ですらない音の羅列だったけど、だんだんと言葉が聞き取れるようになってきた。呪文だから私には理解不明の言葉が続くと思っていたのだけど、あらまびっくり! 私でもきちんと意味を理解できたわ。なんだか、物語みたい。
'''誰が殺した ヤヤコマ殺した
それは私よ オニスズメが言った
私の弓で 私の矢羽で
私が殺した ヤヤコマ殺した

誰が見ていた 死んだの看取った
それは俺だぜ ビブラーバが言った
俺のこの眼で 緑の眼で
俺が見ていた 死んだの看取った

誰が取ったか その血を取ったか
それは僕だよ コイキングが言った
僕のお皿に 小さなお皿に
僕が取ったよ その血を取ったよ'''
 って、またしても物騒な歌だった。いきなりヤヤコマが殺されるわ血をとったわっておどろおどろしい事この上ない。これと災牙の結界になんの関わりがあるって言うのよ。
「ねぇ待って、呪文って何よ!? いつ発動するの!?」
「しーっ、魅甘。目を閉じて、静かに聞いててご覧」
 杏呪は目を閉じたまま、呪文を暗唱するのに集中している。闇は私に囁きかけると、自身も目を瞑ってしまった。疑念の消えないまま、私も仕方なく目を閉じる。
 聴覚に集中していると、杏呪の声が渦を巻いて私をゆるりと包み込んでくるような妙な流れに取り込まれた。恐ろしくはない、ただ、私自身の境界が曖昧になって声と融け合い、意識だけで風に乗っているような。杏呪の声が私の頭の中で目となり、世界を描いていく。気づけば私は、音でものを見ていた。
 閉じた瞼の裏に、沢山のポケモンが涙しながらヤヤコマの死を悼んでいる情景が浮かぶ。妙にはっきりと、まるで今この瞬間に目の前でヤヤコマのお葬式が執り行われているみたいだった。
'''誰が作るか 死装束を
それはあたしね ヘラクロスが言った
あたしの糸で あたしの針で
あたしが作るわ 死装束を

誰が掘るか お墓の穴を
それはわしじゃよ ヨルノズクが言った
わしのシャベルで 小さなシャベルで
わしが掘ろう お墓の穴を

誰がなるか 司祭になるか
それは我が輩 ヤミカラスが言った
我が輩の聖書で 小さな聖書で
我が輩がなろうぞ 司祭になろうぞ

誰がなるか 付き人になるか
それはウチや スバメが言った
暗くなって しまわんのなら
うちがなったる 付き人になったる

誰が運ぶか 松明を運ぶか
それは(わらわ)じゃ ネイティが言った
すぐに戻って 取り出してきて
妾が運ぶぞ 松明を運ぶぞ

誰が立つか 喪主に立つか
それはあたいよ ピジョンが言った
愛するひとを 悼んでる
あたいが立つわ 喪主に立つわ

誰が担ぐか 棺を担ぐか
それは拙者が ムクホークが言った
夜を徹してで ないならば
拙者が担ごう 棺を担ごう

誰が運ぶか 棺のヴェールを
それは自分だ ケンホロウが言った
自分と妻の 夫婦二人で
自分が運ぼう 棺のヴェールを

誰が歌うか 賛美歌を歌うか
それはわたくし チルットが言った
藪の木々の 上にとまって
わたくしが歌うわ 賛美歌を歌うわ

誰が鳴らすか 鐘を鳴らすか
それはオイラが ケンタロスが言った
オイラは引ける 力があるだ
オイラが鳴らすだ 鐘を鳴らすだ

紙の上から ポケモンたちが
溜め息ついたり すすり泣いたり
みんなが聞いた 鳴り出す鐘を
可哀想なヤヤコマレクイエム!!'''
 ばん、と破裂音がして、聴き入っていた私は急激にこちらに引き戻された。ぶわっと逆立った尻尾を宥めすかして、私は周囲を見回す。鐘を鳴らすケンタロスも讃美歌を歌うチルットもいなくて、かわりに縦横無尽に飛び回るムウマージとじっとお座りをしているブラッキー。すぐにそれが杏呪と闇だと理解し、同時に杏呪が嬉しそうに飛び回っている理由に思い至る。
「杏呪! これって……!」
「成功よん! これで王子様は呪いから解き放たれ、自由の身になるわぁー!」
 杏呪はきゃっきゃと頭に刺した待ち針をばら撒きながら喜んでいた。お城に目だった変化はないものの、私にもなんとなく空気が変わったように思えた。なんだか、お城の外観がさっきよりもクリアに見えるのだ。斜陽が浮き彫りにした古き良きお城はとても幻想的で溜め息が漏れた。
「災牙、こっちに来れるか? あ、針は踏まないよう気をつけろよー」
 正面玄関で成り行きを見守っていた災牙に、闇が呼びかける。災牙はそろそろと慎重に足を動かした。爪先で今まで超えられなかった境界に触れて――。
「せーの!」
 掛け声と共に、境界を踏み越えた。
「あ、れ?」
 災牙は自分の身に起きた事実が信じられないようだった。ぽかんとした顔で自分の足を、お城の壁を見ている。そうしている内に現実感を取り戻したらしく、災牙は歓声を上げて垂直に飛び上がった。
「んっひゃはははは! 通れる、通れるようになったんだ! 最高だぜ、最っ高!!」
 災牙は跳ねたかと思えば地面を転げまわり、起き上がったらすぐさま花壇に頭からダイブしたりと見ている方が恥ずかしくなるくらいのはしゃぎっぷりを発揮した。一瞬で泥だらけ葉だらけになるアブソルは、血塗れよりもずっと自然で精神衛生上よろしいわ。ただ、杏呪が振り撒いた待ち針が豊かな体毛にいくつか引っかかっていたので、後できちんと針を回収しなくちゃと心配する。地肌に刺さらないといいのだけど。
「ああ、空気が流れてる! 草や花の香り! 夕焼けが温かい! オレは、俺は自由になったんだぁぁぁ!! 『謡い帽子屋』! 本っ当にありがとうな!」
「ウフフ。王子様に喜んでもらえて何よりだわぁ。アタシもここまで来た甲斐があったワ」
 災牙はきちんと杏呪にお礼を言い、天使のような笑みを向けた。杏呪は災牙に褒められて真っ赤になり、危うく地面に墜落しそうになっていた。墜落しなかったのは針に、こちらはかなり太い縫い針に突き刺さって止まったせいだけど。血も出ないし表情も変化しない辺り、杏呪の神経細胞はちゃんと機能しているのか疑問だわ。
「よっしゃ、これで『チェシャー』をぶっ倒せる! 今まではまだ俺が動く時じゃなかった、でもやっと俺が動く時だぜ! ヒャハハァッ!」
「悪いんだけど、災牙」
 災牙は全身で喜びを表現し、やる気になっている。そんな災牙に水を差すようで悪いんだけど、と闇は遠慮がちに言った。
「今日は遅いし、俺達も色々あって疲れてるんだ。今夜は休んで、明日の朝出発でいいかな?」
 きょとんとした顔で災牙は闇を、それから私を順番に見つめる。私も今から出発は流石に厳しいので、大袈裟なくらい首を縦に振って同意を示した。これで、「今すぐ出発だー!」なんて言われても私は行きませんからね。
「おう、勿論だぜ! 二匹は休んでなよ、オレはちょっと空気を堪能したいんだ」
 私の不安は杞憂に終わったみたいだ。災牙は自分のために奔走してくれた闇や私を当然のように気遣ってくれて、私達をお城へ入るよう促した。他人を気遣い、何かしてもらえればきちんと言葉として感謝を伝える。これで趣味さえまともなら、災牙は将来素敵な王様になれそうだった。
「先走って一匹で行ったりしないでよ?」
「魅甘ちゃんがいないとどうにもならないってわかってら。外の空気を腹いっぱい吸ったら戻るぜー。オレだって体力を温存しねぇとな! 『謡い帽子屋』も泊まってけよ!」
 いつの間にか名前で呼ばれていて嬉しくなる。それだけ災牙は私に親しみを感じてくれているんだ。第一印象は最悪で、薬盛られて襲われたりしたけど、それでも憎みきれないアブソルの王子。私は自然とどうにかして『チェシャー』を倒して、王権を取り戻させてあげたいと考えていた。それに、なんだか物語のゴールが見えた気がする。世界の支配者とされる『チェシャー』ならば、私がこの世界に入り込んだ鍵を何かしら握っている可能性が高い。『チェシャー』に会って問い詰めて、私を元の世界に帰すように言おう。もし『チェシャー』が一切噛んでいない場合は、その時になって考えればいいんだわ。
 私も災牙も理由は違うかもしれないけど、『チェシャー』を見つけ出して倒すという共通の目標を持つ仲間だ。


♦♦♦♦


 夜、豪華なディナーをご馳走になり(意外にも腕を振るったのは杏呪だった。女子力高いわ)、満足したお腹を抱えて私達は床に就いた。私が転がっているのは客間のベッドなんだけど、流石お城、天蓋付きの豪華なふかふかベッドだった。女の子なら誰しも一度は憧れる天蓋付きベッド。まさかこんな形で夢が叶うなんて思ってもみなかった。嬉しい不意打ちだ。
「闇……」
 すうすうと、隣で寝息を立てるブラッキーを覗き込む。基本的には夜行性のポケモンだというブラッキーも、昼間あんなに歩き回って、バトルもして、色々疲れたせいかぐっすり眠っていた。私だって、普段の運動不足が祟ってくたくたなんだけどね。でも、もうちょっとだけ起きてよう。闇の寝顔を見られる絶好のチャンスなんだから。
 普段は頼りがいがあって凛々しい闇だけど、寝顔はどちらかと言えば可愛らしい。閉じられた瞼の先を飾る睫毛は長く、微かに発光する月の輪は触れるのを躊躇うほど美しい。そして何より、愛おしい。
「今日はありがとう、闇。……好きよ、大好き」
 湿った鼻先にキスをして、私は闇にくっついて丸くなった。
「俺も好きだよ、魅甘。お休み」
「お、起きてたの!?」
 闇の声が降ってきてがばりと飛び起きる。闇は悪戯が成功した子供みたいにくすくす笑って、再び満足そうに目を閉じた。私はつい雰囲気でキスまでしちゃった事を後悔した。闇が寝ていると思ってこっそりやったつもりだったのに、は、恥ずかしい……。闇ったらちょっぴり意地悪だわ、でもそんなところも素敵……。


♦♦♦♦


 翌朝、私達は今度は『チェシャー』を倒す、という本来の目的のため旅立った。いわば、ここからが本当のスタートだ。
 杏呪にはちゃんと元の場所に帰れるよう、カラーから剥がしたビーズを渡してある。なんでも『アリス』の力と願いが込められているのなら、ビーズは持ち主を帰るべき場所へ導いてくれるそう。もしかしなくても、私のカラーはとんでもない力を秘めたアイテムのようだった。こんなアイテムをくれたご主人ってば何者!? ……まあ、こちらの世界に来た時に変質したと考えるのが妥当よね。
 杏呪は帰り、昨日は私と闇の二匹で歩いた荒れた庭園を、今度は災牙も交えた三匹で歩く。お天気は本日も快晴なり、朝露に濡れた葉が瑞々しく輝いて、たくましく咲き誇る花の香りが鼻に優しい。
「はー、早く『チェシャー』が出てこねーかな、魅甘ちゃん何か感じねぇ?」
「いきなり出会ったら心の準備が追いつかないわよ。少しでも鈴が何かを感じたら伝えるから、ね」
 私達は昨日と同じように、いっせーの、と同時に門を潜り抜けた。今度私達が出たのは街中、それもビルの乱立するビジネス街だ。例によって誰もいなかったけど。
 ちりん。
 そんな日常のふりをした非日常の風景の中を、しばらくも進まない内に鈴が鳴り始めた。どこかのんびりした空気は一転、闇は私を守るように寄り添い、災牙はいつでも鎌を振るえるように身構える。『チェシャー』サイドのポケモンにこんなに早く見つかるなんて思いもしなかった。まずい、災牙が結界から抜け出した事を報告でもされたら。ガラス張りの隣のビルを盗み見ると、鈴は蒼白い光を放ちながらちりん、ちりんと警鐘を鳴らしていた。
「一体どこから……」
「おーほっほっほっほ! 美味しそうなイケメン発見よぉー!」
 ビルの谷間に突如、高飛車な笑い声と品の無い言葉遣いが響き渡った。身構えれば、舗装された道を跳ねながら転がってくるピンクの塊が。塊は私達の前で急ブレーキをかけると一際大きく跳ねてから着地する。ピンクの塊はあっという間に足を生やし手を生やし、尻尾も伸ばした立派なポケモンの姿になった。ラッキーだ。ラッキーを象徴するポケットの卵は、持っていない。まあ卵を持ったままなら、あんなに跳ね飛ぶ事なんてできないでしょうね。
「私様は『ハンプティ』、種族ラッキー、名は毬暗(マリアン)! やっと私様を愛し引き立てるイケメンが現れたわね! 『チェシャー』様の言う通りだわ!」
 毬暗は金切声で名乗ると、後半わけのわからない発言をした。『チェシャー』の言う通り、との発言の割には災牙が『スペードのジャック』とは気づいていないようだし。それどころか、毬暗は飢えた獣そっくりのぎらついた瞳で舐め回すように災牙と闇だけを凝視していて、私の存在はまるで無視していた。こんな相手は初めてだったのか、災牙も闇も面喰った顔をして攻撃できずにいた。
 ちりん、ちりんと鈴は鳴り続ける。それを不快に思ったのか、毬暗はキッと私を睨みつけた。
「そこの不細工エネコ、静かにおし! 私様の邪魔をしないでちょーだい!」
「ぶっ、不細工ですってぇぇぇ!?」
 かっちーんと来たわ、どうして初対面のポケモンにいきなり不細工呼ばわりされなきゃならないのかしら。全身の毛が逆立ち、飛び出た爪がアスファルトを薄く削った。隣で災牙が明らかな作り笑いを浮かべる。
「ま、まあまあ魅甘ちゃん落ち着けって……」
「んまー! 私様の王子様にちゃん付けで呼ばれるなんて! さてはご自慢のふしだらなメロメロボディで誑かしたのね、この淫乱雌猫!」
 災牙は単純に宥めようとしてくれたのに、それを見た毬暗は更に侮辱してきた。確かに私は特性メロメロボディで雌猫には違いないけれど、ふしだらなんかじゃないし淫乱でもない。襲われたのは事実だけどそれはアリスの伝説のせいだ。見ず知らずの女にこんなあからさまな侮辱を投げつけられては、いくら私でも黙っていられない。しかもこの様子だと、毬暗のいう王子様は実際の王子様ではなく抽象的な理想の男性的な意味だ。
「言ってくれるじゃないボンッボンッボンッの真ん丸女! あんたこそ、どこが首なのか腰なのかはっきりさせなさいよ!」
 思いつくままに()撃を返したけど、これ、全てのラッキーやプクリンやマリルリや、そういった体型のポケモン全部を敵に回す発言ね。ごめんなさい、貴女達は悪くないのよ。悪いのは毬暗とかいう勘違い女だけ。心の中で卵体型のポケモン達に謝罪しつつ、私の口は止まらない。
「第一“私様の”王子様って何よ、災牙は誰のものでもないわ! 寝言は寝てから言いなさいよ、それとも夢から覚めてないだけなの? よろしければ目覚ましビンタをお見舞いしてあげるけど!」 
「むきーっ! もー、うざいのよ、目障りなのよ貴女のいちいちが! いい、イケメンは全て私様を愛するために存在するの! 私様は特別なお姫様なんだから、皆に愛される権利があるの! なのに愛されないのはあんたが邪魔するせい! わかったら王子様のアブソルもブラッキーも返しなさい泥棒猫! ああん、可哀想な王子様達、すぐにこの私様、毬暗が悪女の洗脳から解き放ってあげるわね!」
「いい加減にしてよおめでたい頭してるわね電波女! そういう性格だから愛されるものも愛されないのよ!」
 完全に蚊帳の外の男性陣がたじたじしているのは薄々わかっているけど、こうなったら女の意地、絶対に言い負かされたくない。毬暗はピンクの顔を一息に真っ赤に染め上げた。どうやら図星だったようで、毬暗はドゴームもびっくりの奇声を上げて地団太を踏む。
「口で言ってもわからない愚かな雌猫には、私様が正義の鉄槌を下してあげるわ!」
 言うなり毬暗は空高く跳ね上がる。鉄槌って言うくらいだから、多分技としてはのしかかりだ。
「魅甘、下がって」
「いいえ私がやるわ!」
 毬暗が動いた時には闇が私の前に出ようとしたけど、私はそれを押し退けた。これは女の戦い、男性に手出しは無用よ。バトルの経験はほとんどなくたって私もポケモンの端くれ、少ないけど技だって使える。私は落ちてくる毬暗を狙って、
「こんの勘違い女ぁぁぁぁ!!」
 渾身の力で猫パンチ、正確には目覚ましビンタをお見舞いしてやった。弾力のある身体にぼよよんと前脚がめり込み、落下した勢いにカウンターを食らった毬暗はパチンコのように弾き飛ばされた。
「きぃぃぃぃ覚えてなさぁぁぁい!!」
 毬暗は捨て台詞を吐きながら、遠く空の彼方へと吸い込まれていった。女としてああいう風にはならないように、という悪い見本でなら覚えておくわ。
「み、魅甘ちゃんって意外とキレると怖ぇのな」
「そう?」
「……災牙、女の子は敵に回しちゃいけないって言うだろ」
 闇と、災牙までもが引き攣った作り笑いを浮かべているけど、私、そんなにおかしな事をしたかしら。まあ怒りに任せたおかげか、普段は絶対に出せないようなパワーが出せていたわ。あれ、私ってもしかして少しくらいは戦力になるのかしら。そうね、ストロング魅甘とでも呼んでちょうだい。
「私達どこに行くのかしら。『チェシャー』を探すのよね」
 再びビジネス街には平和と静寂が訪れた。ストロング魅甘からただの魅甘に戻った私は、闇を見上げる。
 あの勘違い電波女、毬暗以降は本当に誰にも出会わず、問題なくビジネス街を歩けている。今回、闇は初めから行先を決めているかのように確かな足取りで進んでいるのが気になった。私には「どっちに行くのがいいか?」とだけ聞くのだけど、「どこに行くのがいいか?」とは聞かなかったのだ。
「昨日から考えていたんだけど、まずは『双子』に会いに行くのが良いと思う」
「「『双子』?」」
 別に秘密にするつもりはなく、単に言いそびれていただけみたい。闇の教えてくれた存在に、私と災牙は同時に聞き返した。また新たな役割を持ったポケモンのご登場ね。闇は車も通行人もいない信号を律儀に守って立ち止まった。
「そう、『双子』はとても物知りなんだ。俺も伝説は色々調べているつもりだけど、抜けがないとは言い切れないからね。知識を補完するためにも、会って損はないだろう。もしかしたら『チェシャー』の手がかりを知っているかもしれない」
「はーっ。すっげーな闇は。オレお勉強なんか全然頭に入らねーの。せめて本が全部血文字で書かれてたらなー」
「くっついて読めなくなるだろう」
「そういう問題じゃないわよね! ね!」
 信号が青になったので、横断歩道を渡り始める。ポケモールの周りみたいな底なし沼ではないようだ。それでも用心に越した事はないと、私は白い縞々の上を跳んで渡った。あの前脚がずぶずぶ沈んでいく何とも言えない感覚はできれば二度と味わいたくない。
「さあ、ここだ」
「どこ?」
 渡り切ったところで闇はいきなり立ち止まった。左側に建物が並んでいるけど、闇の向きからして目的地は建物ではないらしい。何故なら闇は下を向いているから。その目線を辿れば、丸い鉄が地面を塞いでいるのが目に入った。こんな何の変哲もないマンホールが目的地? 闇は私の質問には答えず、精神を集中させている。マンホールの蓋を青白い光が包み込み、鉄の板はゆらゆらと持ち上がった。
 嫌な予感がした。
「あの、まさかとは思うけど、ここに降りるなんて事」
「そうだよ」
 がっしゃーん、という音はマンホールが地面に落ちた音であって、私の心の悲鳴ではない。はずだ。
「いやぁぁぁぁ無理無理無理ぃぃぃ! こんなところから落ちたら死んじゃうわよ、ポケセン効果なんて知らないわ!」
 心の悲鳴では誰にも伝わらないので、私は口に出して悲鳴を上げる。こんなところから飛び降りるなんて絶対無理、だから闇、私の背中を鼻で押さないで。私は全力で拒否してるじゃない。
「平気だって、魅甘ちゃんビビり過ぎ!」
「誰でも怖がるに決まってるわよ!」
 私が涙目で踏ん張っているのを見て、災牙は首を傾げた。そんな可愛い顔しても駄目なものは駄目、本当もう無理なんだってば。目でも口でも必死に訴えると、災牙が何か閃いたような顔をして口を開いた。
「魅甘ちゃん。アーユーレディ?」
「う、うん?」
 やたらと良い発音で問い掛けられ、ついうっかり返事をしてしまった。あなたは淑女ですか? って突然何を聞いてくるのかしら。関係ない話をして気を反らす作戦? おあいにく様、私は梃子でも動く気はないわ。
「なんだ、ちゃんと準備できてんじゃねーか」
 ところが災牙は満面の笑みを浮かべると、素早く私の首根っこを咥えた。ちょっと待ってちょっと待って、アーユーレディのレディって女の子じゃなくって覚悟って意味!? ミステイクに気づいた私が、地面につかない足をばたばたさせてももう手遅れで。
「行っくぜぇー!!」
 私を咥えてもごもごと、弾んだ声音でうきうきと、災牙は死刑宣告を下す。
 次の瞬間、私の身体は宙に放り出された。
「ぎにゃぁあぁぁぁああぁぁぁあぁあぁ!! 助けて闇!!」
 放物線を描きながら、なんとか身体を捻って闇を見やる。ちょうど闇は大真面目な顔をして、自ら穴に身を投げたところだった。ああ、最初から私の味方なんていなかったんだわ……きらりと光らせた涙は上へ流れて行った。


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Last-modified: 2015-11-21 (土) 23:48:05
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