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少女Aの冒険、スペードの章

/少女Aの冒険、スペードの章

◇第十章◇誰が王権を盗んだか?―Who Stole the Throne?― 


「災牙が裁判にかけられてるって! どういう事!」
 息が詰まりそうな中、無理矢理声を絞り出す。裁判? それも、あの災牙が! 離れ離れになっている間に一体何が起きたというのだろう。
「どうもこうも、言葉の通りだよ。災牙が被告人。有罪になれば死刑は免れないだろうねぇ」
 骸梨は苦い声で答えてくれた。もし災牙が有罪で死刑になれば、『チェシャー』を倒す事は格段に難しくなるでしょうし、倒せたとしても王権を継ぐポケモンがいなくなってしまう。骸梨も「骨を集めたいから」と実に物騒な理由だけれども、一応は災牙に『チェシャー』を倒してもらいたいと考えているポケモンだった。
「殺人罪? それとも傷害とか?」
 とりあえず、思いつく罪状を上げてみる。まさか今になって、私が初めて災牙と出会った時のジャノビーに対する所業が罪に問われたんじゃ。思い起こせば災牙は王族とはいえ、趣味がアレなのでいつ訴えられてもおかしくない状態のポケモンだ。私だって訴えてないから何もなかったのであって、私がその気になれば婦女暴行だの強姦未遂だので災牙を牢屋に入れる事だってできたわけだ。この世界の常識が歪み過ぎて、罪に問わないのが普通なのかという気がしてきたし、関わってみれば災牙の人柄もあっていつの間にか許せていたけど。
 闇が言っていた、この世界の住人は皆どこかしら狂っている。だからこそ、災牙が裁判にかけられているのは意外というか、にわかには信じ難かった。
「何言ってんだいあんた、そんな罪があるもんかね。傷つけられるだけ弱いのが悪いし、殺されたって普通は生き返って元通り、そもそも罪が発生しないんだよ」
 目印の無い海上を、骸梨は迷う事なく飛んで行く。そうだ、殺されたって生き返る……だったら、災牙を死刑にする事もできないんじゃないかしら。試した事ないから生き返るかはわからない、と災牙は言っていたけど、生き返らないという確証だってないわけで。希望を込めて、その点をつついてみる。罰として死ぬまで何度も殺され続けるなんて恐ろしい閃きはなかった事にするわ。
「それじゃあ死刑にはできないわよね?」
「はー」
 身震いする私の下で、骸梨は盛大に溜め息をついた。ちらりと振り返って、朱色の瞳が私を捉えた。
「あんた、何のために今まで動いてたんだい? いいかい『アリス』、世界の支配者ならば世界の法則を捻じ曲げる事だってできるんだ。ここまで言えば、何の罪で誰が原告かわかるだろう」
 世界の、支配者。理解が染み渡ると同時にすっと胸が冷えた。どうして私は根本的な答えを見落としていたのかしら。
 災牙は幽閉されていたとはいえれっきとした王族の血を引くポケモンだ。並のポケモンでは訴えるなんて事がそもそもできない。今王族を訴えるなんて立場にいるのは、それだけの力と権力を握っているのは。そのポケモンこそ、私達がずっと探し続けてきたポケモン。
「『チェシャー』への反逆罪で……訴えたのは『チェシャー』本人!?」
「その通りさね。さ、陸地が見えたよ。後少しだ」
 前方に工場の乱立する港が見えてきた。ここで工場の煙突からは煙がもくもく出ていて、誰かの気配が息づいているのを感じた。こっちの陸地にはポケモンがいるのかしら。
「でもおかしいのはねぇ、反逆の罪がかかっているのは『スペードのジャック』だけって事だよ。全ての鍵を握るはずの『アリス』には一切触れていないのさ。ついでに『黒兎』にもね。もし『アリス』が罪に問われていたなら、あたしはあんたを助けなかったよ。下手すりゃあたしも捕まっちまう、そんなのはごめんだよ」
 陸地に入り、骸梨はスピードを落とした。私は目を凝らして他のポケモンの姿を探してみるのだけど、ここでも誰かを見つける事はできなかった。地上を歩いているポケモンも、空を飛んでいるポケモンもいない。
「あそこだ。降りるよ」
 骸梨が高度を下げ、街中のある一点を目指す。その途端、鈴が鳴り始めた。
「なんだいその鈴、勝手に鳴っているようだけど」
「この鈴、『チェシャー』か『チェシャー』に関わるポケモンがいると鳴るの。今までそれで随分助けられたわ」
「まあ、『チェシャー』が起こした裁判だ。『チェシャー』の手の者は潜んでいるだろうね。気づかれそうだけど大丈夫かい?」
 言われて、私ははっとした。あの災牙を捕らえて裁判にまでもっていくのだから、敵はそれなりの強さを持っているだろうし、『アリス』だとばれれば私だって捕まる可能性大だ。目立ったら危ない。私は尻尾を首に巻きつけて鈴を押さえ込んだ。息苦しいけど仕方ない。
「さあお行き、『アリス』。あたしの役目はここまでだよ」
 骸梨は姿勢を低くして、私が降りやすいようにしてくれた。腰に巻かれた骨飾りを足場にして、ここまで運んでくれた背中を降りる。
「連れてきてくれてありがとう、骸梨」
「ふん、あんたが男だったら、『アリス』だろうと骨を頂いていたさ。命拾いしたねぇ」
 言葉とは裏腹に骸梨は優しい眼差しを私に向けてくれた。その顔はゆっくりと近づいてきて、私の頬に先の丸くなった嘴が触れた。
「さよならだよ、魅甘ちゃん」
 後から思い返してみても、その時何が起きたかさっぱりわからなかった。嘴を離した骸梨は羽根のように柔い言葉を残して、ふっと消えてしまった。飛び立ったのでもなければ、いきなり穴に落ちたとかでもない。エスパーポケモンのテレポートだって、「テレポートをした」とわかるような消え方なのに、骸梨は初めから存在していなかったかのように掻き消えたのだ。どんなに探しても、オノノクスの牙を髪に刺したバルジーナを見いだす事は叶わなかった。
「……行かなきゃ」
 こうしちゃいられない。せっかく骸梨が連れてきてくれたのだから。私は独り頷き、裁判所を見上げる。入り口に置かれたホワイトボードには“本日、三月六百三十二日『スペードのジャック』の裁判を行う”と書かれていた。幽は確か六百三十日と言っていたので、私は波に呑まれてから丸一日以上気を失っていた事になる。しかしそんな短い期間の間に裁判沙汰が起こるなんて。
 どっしりと鎮座する裁判所は、どう見てもポケモンセンターだった。自動ドアのガラスの向こうには誰も居ないように見えるけど、この世界では扉を越えれば全く別の場所に繋がるなんて日常茶飯事。この向こうに災牙がいると信じて、私はドアを潜った。


♠♠♠♠


 気がつくと私は法廷の後ろの方――傍聴席に腰掛けていた。ばっと振り返って見ても通り抜けたばかりのドアはなく、代わりにぎゅうぎゅうと詰めかけた、タイプも大きさも様々な傍聴ポケモン達。見える範囲にいるだけでも、ゲコガシラ、デデンネ(ひげが普通のサイズだったので妖寝ではないみたい)、ラッタ、ハリマロン、オオタチ、ジャノビー、ワカシャモ、モグリュー、コダック、パチリス、トゲピー、ピチューと多彩な顔触れ。みんな、がやがやそわそわして、被告人席を心配そうに見つめていた。そうだ、災牙!
 骸梨の言っていた通り、被告人席に捕らわれていたのは真っ白なアブソルだった。可哀想に、鎖でぐるぐる巻きにされていて、更に両脇に立ったドードリオとブリガロンが睨みを利かせている。しかしそれでも災牙は萎縮する事なく、縛られた身体が許す限り胸を張って堂々と周囲を睨みつけていた。災牙から滲み出ているオーラは並のポケモンには真似のできない、まさに王族の威厳だった。
 これから裁判がどう進むかはまだわからないけど、災牙は今のところ無事だ。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、私は更に気を惹かれる現実を知る事になる。
「闇!? どうして!」
 災牙の向かい側、つまり裁判を進めるポケモンのいる場所。おでこの輪っかに、時計の針のような模様が浮かんでいるけど、そこにいたブラッキーは紛れもなく闇だった。私が見間違うはずがない。闇は『チェシャー』の起こした裁判を進める側、災牙に罰を下す側となって参加していたのだ。
 私の呼びかけに闇はとても悲しそうな、申し訳なさそうな顔でこちらを見た。けれども何も言わない。
「傍聴席、静粛に!」
 災牙の横に立っていたドードリオが三つの首で同時に叫ぶ。下手に目立つのはまずいと、私は急いで群衆に引っ込んだ。尻尾の下で、鈴はずっと鼓動を続けている。この大勢のポケモンの中に、きっと『チェシャー』が紛れ込んでいるのでしょうけど、多過ぎてどのポケモンか特定できない。少なくともあのドードリオとブリガロンは『チェシャー』の仲間だろうし、それから……。
「ではこれより『スペードのジャック』の裁判を始める!」
 中央の一番高い席に座っているのは、眼鏡をかけたウォーグル。座席の位置も恐らく裁判官である彼は厳かな声で宣言した。
「我が輩は『グリフォン』、種族ウォーグル、名は鷲怨(シュウエン)! 高潔なる我が輩が、公正なる裁判を執り行う!」
 鷲怨は翼で眼鏡の位置を整えると、一段低い伝令官席に目を落とした。
「伝令官! 罪状を読み上げよ!」
「……被告人『スペードのジャック』、種族アブソル、名は災牙。被告人は事実上の王である『チェシャー』様に恐れ多くも反逆を企て、王権を奪おうとし――」
 闇は罪状の書かれた紙を機械的に読み上げた。
「奪うも何も、王権は本来オレが継ぐべきものだったんだよ! ワケわかんねーこと抜かしてんじゃねぇ!」
 闇の言葉を遮り、前のめり気味に災牙が怒鳴る。すぐさまブリガロンが災牙を押し戻した。
「静かにせよ被告人! チェシャー様の兵とケルディオを全て使ってでも黙らせるぞ!」
「あ゛ぁ上等じゃねーかてめぇら! やれるもんならやってみやがれ!」
「被告人、静粛に! ……俺だってこんな事したくないんだよ、災牙」
 伝令官席で闇は呻いた。
「伝令官、私語は慎むように。さて、裁判を進める。一匹目の証人を、ここへ!」
 翼で証人席を指して鷲怨が命じると、奥から気位の高そうなフラージェスが進み出た。
「では、証人。我が輩の質問に答えてもらう、良いな?」
「ええ、勿論構いません事よ」
 フラージェスは赤い襟巻を優雅に揺らし、証人席に立った。威厳溢れる鷲怨の視線を真っ直ぐ受け止め、背すじを伸ばす。鷲怨は嘴を開いた。
「まず、貴殿の名は?」
「あたくしは『ダリア』、種族フラージェス、名前は月禍香(ゲッカコウ)と申しますの」
 この世界の法則に則り、フラージェスの月禍香は自分の属する名を言った。いったいどんな証言をするんだろうと私は固唾を飲んで見守る。
「うむ。では月禍香、早速質問を行う。タルトは何でできているかな?」
「甘い蜜でございますわ、『グリフォン』様」
 鷲怨は頷き、続ける。
「よろしい。次の質問だ。月は何でできている?」
「甘い蜜ですわ。甘い蜜と角砂糖とジャブジャブジャムに、ドラゴンの涙を加えて一煮立ちさせれば出来上がりですの」
 すらすらと答える月禍香だけど、いやいや、今の証言はおかしい。タルトなら甘い蜜でできていると納得できるけど、今の答えは絶対おかしい。そもそも月なんて作ろうとして作る物じゃない。これは鷲怨も疑問を感じるはず。
「ふむ。これは非常に有益な証拠だと受け取る」
 ところが鷲怨は大真面目な顔を崩さず、手元の紙に何かを書きつけていた。ちょっと、誰か止めなさいよ! しかし誰も疑問を口にする事はなく裁判は進んでいく。
「では最後の質問だ。王権は何でできている?」
「ほほ、勿論、甘い蜜でございますわ、『グリフォン』様。甘い蜜のように、所持者を蕩けさせて離しませんもの」
 すまし顔で月禍香が言い放つと、ブリガロンが控えめに拍手した。鷲怨が木槌を打ち鳴らす。
「被告人『スペードのジャック』を有罪とする!」
 朗々と鷲怨は言い放った。がたり、と災牙が大きく身じろいだ。
「被告人はストロベリータルトを始め甘味を好む。故に甘い蜜でできた王権を欲するのは自然である!」
「んな理論通じるか! おい闇、そのウォーグルもフラージェスもぶん殴れよ!」
 いつのまに鎖が解けかけていたのか、災牙は前脚を柵にかけて立ち上がる。が、すぐに災牙は両横のドードリオとブリガロンに抑えつけられた。今にも鎌を振るいそうな表情で牙を剥く災牙を、やや低い声が諫める。
「災牙、頼むから静かにしてくれ……お言葉ですが、裁判官殿」
「何だね、伝令官」
 訝しげに鷲怨が問いかける。闇は災牙の方を見もせず、平坦な声で告げた。
「証人一匹だけの意見では信憑性に欠けると思われます。最低でも二匹以上の証言を得るべきでしょう」
 闇はあからさまに災牙を庇う素振りは見せず、それでいて鷲怨を納得させるような理由を述べて判決を押し留めた。鷲怨もこれには反論の意思すら抱かなかったのか、眼鏡を直して居住まいを正した。
「それもそうだ。判決はまだだ、連れて行かずとも良い! では次の証人を、ここへ!」
 鷲怨が声を張り上げる。すると、どこからともなく漂ってきたのは香ばしい焼き鳥の香り。私だけじゃなく周りのポケモン達もそわそわし始めた。この香り、覚えがある。
「その者を捕らえよ!」
 傍聴席の誰かが派手にお腹を鳴らしたのを聞きつけ、鷲怨が命ずる。お腹を鳴らしたのはポカブで、ポカブはブリガロンに布袋に詰め込まれてどこかへ連行された。
「証人、名を名乗るがよい」
「ひぃっ……ワ、ワタシは……『雁擬き』、種族シンボラーで、名前は、殺鳥と申します、閣下」
 私の予想通りのポケモンが証人席に立って、というか浮いている。殺鳥はすっかり怯えきった様子でおどおどと名乗った。
「うむ。では殺鳥、我が輩の質問に答えてもらう。『スペードのジャック』は……」
「お前美味そうだな!」
 鷲怨の発言が途中でもあるにも関わらず、ドードリオの向かって右の首が叫んだ。もう殺鳥の方しか見ていないその首は涎を垂らして、今にも襲いかかりそう。
「しーっ。兄貴静かに」
「兄さん黙って」
 慌てて真ん中と左の首が諫めたけど時、すでに遅し。
「調を乱す者を捕らえよ!」
 鷲怨が吼え、ブリガロンがばきばき拳を鳴らしながらドードリオに向かう。身の危険を感じたドードリオは、三つの口からトライアタックを繰り出した。三方向に放たれたトライアタックはあちこちにぶつかり、悲鳴が上がる。ブリガロンはブリガロンで、ミサイル針を乱射してドードリオを仕留めようと躍起になり、法廷はたちまち大混乱に陥った。
「やめろ、やめんか!!」
 鷲怨が呼びかけるも効果はなし。傍聴席のポケモン達も流れ弾を防ごうと放電で応戦し、その技を受けてしまった別のポケモンが明確な攻撃の意思を持って水の波動を放つ。誰が誰を攻撃してるのかわからない中で、私はどうにかして災牙の元へ辿り着こうと戦場を掻い潜った。ところが他のポケモンの間をすり抜けた先にリーフストームが迫ってきた。このままじゃ当たる、避けきれない! 竦み上がったけど、横から影色の球体が飛んできてリーフストームを相殺してくれた。
「魅甘! 無事か!?」
「く、闇!」
 シャドーボールで守ってくれたのは闇だった。額の輪っかにあった変な模様は消えている。駆け寄る闇の後ろには、鎖を解かれ自由になった災牙の姿があった。
「ごめん魅甘、災牙、今まで黙ってて。俺は『アリス』を導く以外に、裁判では伝令官を務めなくちゃいけないんだ。例え、被告が親友の災牙であっても」
 私達の無事を認めた闇は頭を下げた。
「私こそ、ごめんなさい。私、闇を疑ったの。もしかしたら、『チェシャー』かもしれないって。でももう迷わない。闇は間違いなく私達の仲間よ」
「闇、ありがとうな! オレの判決を引き伸ばしてくれて! 二匹目の証人が来なけりゃ、オレは大変な目に合ってたぜ……」
「うわわっ!」
 再会を喜びお互いの信頼を確かめていると、私は誰かに押さてよろけた。その拍子に尻尾が首から外れてしまう。途端に、じりじりじり! と大音量で鈴が鳴り響いた。乱闘は一瞬にして静まり返り、皆の目が集中する。誰かが叫んだ。
「ここに『アリス』がいるぞ! という事は、『チェシャー』がすぐ近くにいる!」
 ポケモン達は我先にと逃げ出した。裁判官の鷲怨はめちゃくちゃになった裁判に参ってしまったのか、分厚い法律の本を一心不乱に読み始めていて騒ぎが頭から抜けている様子。そんな中。私達三匹ともが、法廷の奥へ逆走するただ一匹のポケモンを見た。
 途端に音が止み、甲高い音と共に鈴が弾け散った。
「あ、私の鈴が……」
 粉々になった鈴の断片を拾い集めても、もう元には戻らない。ご主人に貰った大切なカラーを壊してしまった。悲しむ私の隣に闇が寄り添う。
「魅甘。悲しいけど、鈴が壊れたって事は、その鈴はもう役目を終えたんだ。つまり、あのポケモンが『チェシャー』だ」
「くっそ、やっとここまで来たんだ、逃がさねぇ!」
 災牙が叫び、勇んでポケモンを追う。私と闇は顔を見合わせると、息を呑んで災牙の後を追いかけた。ポケモンは身を躍らせて非常口に飛び込んだ。どこに繋がっているかわからないけど、逃がすもんですか。私達も続いて非常口を通り抜けた。
 すると、まず目に入ったのは美しく咲き乱れる大輪の薔薇達だった。赤い薔薇、白い薔薇、オレンジの薔薇、薄ピンクの薔薇。薔薇の生垣がずっと続く花園だった。その花園を守るように、どっしりと構える大きなポケモン。
「お前は!」
「おお、その声は。久しいな、闇に災牙」
 災牙がポケモンの名前を呼んだ。蔓狂は太い足でのそりと明るい場所に進み出る。背負った大きな花は、どの薔薇よりも立派に香しく咲き誇っている。
「拙者は『バンダースナッチ』、種族フシギバナ、名は蔓狂(バンクル)。この庭園で庭師を務めている」
「知り合い?」
「ああ、王宮の庭師だった奴だ。お前、王家を裏切ったのか!」
 災牙が吼える。闇は何も言わないが、険しい顔だ。蔓狂はゆっくりと大きな頭を振り、ふっと息を吐いた。
「裏切るも何も。拙者は雇われの庭師。より良い報酬を出す職場を選ぶ、ただそれだけ。王家の方々には世話になったよ、それは感謝している。ただ、『チェシャー』は更に好条件を出した。それを手に入れるまでは、拙者はそなた達を通す事はできない。そういう契約なのだ」
「待って」
 戦闘の構えを取った災牙と闇を押し退けて、私は進み出る。これから『チェシャー』と戦うかもしれないってのに、万全の態勢で臨めないのは困る。戦闘を避けられるなら避けたい。
「その報酬って何」
「不老長寿をもたらすという『アリス』の雫。老い先短い拙者には喉から手が出るほど欲しい報酬だ」
 ぎくりと闇が身じろぎした。素早く私の方に巡らせた視線を受け止める。そんな私達の反応を知ってか知らずか、蔓狂は続けた。
「拙者はまだまだ長生きしたい。生きて、こいつら花々の世話を焼いてやりたい。こいつらも、拙者を必要としてくれているんだ」
 愛おしそうに薔薇の花を見つめ、伸ばしたツルで花弁を撫でた。花に対する愛情がはっきり感じられて、どちらの側についているにせよ、蔓狂は本心は心根の優しい花を愛するポケモンなのだと知る。
「つまり、私を好きにさせれば、ここは通して貰えるのね?」
「勿論。拙者は嘘はつかない」
「わかったわ」
 私は覚悟を決めた。
「魅甘!」
「魅甘ちゃん!」
「大丈夫よ。こんな事言うのもあれだけど、慣れたし。私は戦闘では役に立たない、だったらこういう場所で活躍させてくれてもいいでしょ?」
 心配そうな二匹を元気づけようと、私は努めて明るい声で言った。特に闇。雫って事は、私は今からこのフシギバナにほにゃほにゃされてしまうのだけど。闇は苦虫を噛み潰したような顔をして、それでも仕方ないと顔を背けた。決まりね。
「じゃあ、早くして。『チェシャー』に逃げられちゃう」
「ああ、それなら心配は要らない。友達の『時間』に頼んで時間を止めて貰った。ほら」
 蔓狂はツルで背後を指し示した。釣られて振り返ってみれば、災牙も闇も微動だにしない。災牙は一歩引いたまま。闇は顔を背けたまま。完全に動きを止めていた。それだけじゃない、周りも。雲は流れず、日光は揺れず、風に飛ばされた葉が空中で静止していた。
「と、止まってる……?」
「雫を手に入れるまで、君らを通さない、これが拙者の仕事。だが、時間を止めるなとは言われていないからな。そもそも『時間』の手による通行証がなければ、『チェシャー』の空間には行けないのだ」
 蔓狂は穏やかに説明してくれた。年齢故か、ぎらぎらと貪るような欲望ではなく、あくまでも長生きの秘薬を望む、緩やかで切実な渇望に満ちた表情だった。
「では『アリス』、老いぼれの拙者に、どうか尊い希望を恵んでおくれ」
「きゃっ!?」
 蔓狂の背中から無数のツルが伸びてきて、私に迫る。たくさんの蛇に一斉に狙われるような怖さを感じて悲鳴を上げると、ツルの動きが緩やかになった。
「怖がらなくても良い。悪いようにはしない」
 一本のツルが私の頭をゆるゆると撫でた。同時にふわりと香る、甘い花の香り。
「蔓狂。私、あなたを信じるからね」
 私は蔓狂の目を真っ直ぐ見据えていう。しっかり頷いたのを確認して、私は全身の力を抜いた。
 ツルが四肢に、胴体に、尻尾に絡み付き持ち上げられる。一か所に体重がかかって苦しくならないよう、細心の注意を払ってくれているみたいで、私は恐怖心が徐々に溶けていくのを感じた。蔓狂は優しい。それこそ、花を愛でるようなタッチで私に触れてくる。
 ツルが私の身体を這っていく。気持ち悪さは微塵もなくて、甘い甘い香りの中、心地良いマッサージを受けているような感じ。肩の辺りを軽くも揉み込まれると、性的ではないけれど確かな快楽が生まれて、お湯に浸かった時のようにじんわりと身体が温かくなった。
「あ~……」
 声と一緒に全身の力が抜けて行く。僅かに残っていた緊張も解けて、身体が弛緩する。
「気持ち良いかね、『アリス』」
「う、うん……」
 とても平和的な快感に、私はぐんにゃりと蔓狂に身を委ねた。
 蔓狂のツルが私の身体の表面でもぞもぞと蠢き始める。先端から少量の液体――甘い香りがするからきっと花の蜜だわ――を垂らし、私の身体に塗りたくる。丸くなった先端がぐりぐりと不規則に押し付けられ、私の身体のあちこちを刺激する。耳も、首筋も、胸も、お腹も、内腿も、尻尾も。たちまち、私は蜜でコーティングされた。
「ぅにゃあん……!」
 次にツルは狙いを定めて、私の股の間に滑りこんだ。いきなり挿入するような事はせず、溝に沿ってなぞるように上下する。もちろん、蜜を塗り付けながら。次第に滑りが良くなってくると、私は自然と腰が揺れ始めた。ツルの出っ張った部分が秘部の突起を掠めていき、快感のさざ波が寄せては引いていく。
 その間も全身を撫で回すツルの動きは止まらない。胸元の神経の塊は、もう触って欲しくてぴんと尖り始めてる。狙いを定めた一本のツルが、期待に応えようと胸の先端に降り立った。滑らかに私の胸をくるくるとなぞり始める。
「ふあっ、んにゃぅ!?」
 胸先からじんじんと甘く痺れるよな悦楽が全身を包み込む。もう片方の胸は別のツルに、とん、とん、とん……と柔らかなリズムで弾かれる。両方の胸から別々の感触がして、そのどちらも蕩けそうなほど気持ち良い。
「ひぃ、ぅあああんっ!」
 胸への刺激はそのままに、秘所の刺激が激しくなった。充血した突起部分の皮がめくられて、剥き出しの神経に直に触れられる。こりこりと捏ね回される快楽は到底耐えられるものではなくて、私は一気に追い詰められた。
「はにゃぁぁあぁっ!!」
 目の前がちかちかする。腰が勝手に引いて強過ぎる快楽から逃れようとするのだけど、ここに来て蔓狂は私を絶頂させて『アリス』の雫を手に入れる事に専念した。ツルは私の腰をがっちり抑えつけ、私は身動きが取れないまま秘部の突起を苛められ続ける。更には別のツルが伸びてきて、私の秘部をこじ開けてきた。ぬめりを纏ったそれは一気に奥まで滑りこんで、私のお腹の中をごりごり刺激する。胸は弾かれ続け、秘部の突起は擦られ続け、お腹にはどこまでも深く入り込んでいくツル。
「ま、待ってぇ、はひぃっ! いま、今イッてゆからぁっ!」
 快楽の泡が次々弾けて降りられない。ツルに絡めとられた身体は捩る事もできずに、ただ快感を受け止めるしかない。お腹のツルは特に引かれた時に、先の膨らんだ部分がお腹の肉を削ぐように引っ掛けて、それが腰が砕けるほど気持ち良い。また、すぐに絶頂がやってくる。
 意識を飛ばしている間に、ツルの動きは激しさを増していた。
「ふぎゅっ!? うにゃ、あんっ、あぇ……」
 ぶちゅっと音が聞こえるくらい、ツルが勢いよく入り込んでくる。お腹の中を削りながら、私のお腹をツルの形に変えながら。頭の奥まで串刺しにされたような錯覚さえ覚える、激しい動きだった。
「ひぃ、そこはぁっ!」
 とうとうお尻にまでツルが押し付けられた。何度か入り口を押し込んで、侵入できるとみるや蜜と愛液の力を借りて滑りこんできた。背骨の辺りがざわついて、異物感に泣きそうになる。ずるずると這いずっていたツルはやがて、前に入ったツルと連動して動き始めた。片方が快感を押し上げるように奥に進んだかと思えば、もう片方は快楽を引きずり出すように後退する。お腹の中をもみくちゃにされて、私はみっともなく喘ぎ続けるしかできない。全身を痙攣させて、中に入ったツルをぎゅうぎゅう締め付けて。
「ひぃ、あ、にゃあ゛あああっ、も、やらぁ、ふにゃぁあんっ!」
 呂律も回らず、自分が何を言っているのかもわからない。その内意識が混濁してきて、私は何もわからなくなった。


♠♠♠♠


「ありがとう、ありがとう『アリス』。おかげで、拙者はまだまだ花達の世話をしてやれそうだ……」
 背中の花がより大きく開き、更には額にも桃色の花を咲かせた蔓狂は、涙ながらに私にお礼を言った。あんなに激しい行為の後なのに、こんな穏やかな微笑みを受けて、返す事ができるなんてなかなかないんじゃないかしら。
 体力は十分回復した。私の意識が戻っても、しばらくの間、蔓狂は時間を止めていてくれたのだ。だから私は万全の体勢で、決戦に臨む事ができた。
「さあ、時間を戻すぞ」
 蔓狂の言葉に、私はしっかりと頷いた。
 そして時が戻ってくる。雲は流れ日光は揺れ、風に飛ばされた葉が地面に落ちた。
「ん……あ? 魅甘ちゃん、大丈夫なのか!?」
「終わらせるなら早くしてくれ……」
 そして、闇と災牙の時も動き出している。私はにっこり笑って二匹の前に走り寄った。
「大丈夫よ、もう終わったわ。時間が止まっていたの」
「え、時間!?」
 災牙が大袈裟に仰け反って裏返った声をあげる。闇も目を見開いていたけど、(闇にとっては)一瞬前の蔓狂と今目の前にいる蔓狂の姿が違う事に気づいたらしく、
「すごいな……」
 と一言漏らしただけだった。
「さあ、拙者の最後の一仕事だ」
 蔓狂は私達にツルで下がるように指示し、自身もゆっくりと後退りして日向に出た。私達は大人しく指示に従い待つ。
 蔓狂は生垣の一点を見つめ、精神を集中させていた。背中の花が脈動しながら、眩い光を吸い集めている。光が集まるごとに花は大きく膨らみ、エネルギーを溜め込んでいく。
「ソーラービームか」
 闇が小声で技の正体を教えてくれた。
「はぁっ!」
 その言葉通り、蔓狂は太陽のエネルギーがたっぷり詰まった光線を生垣に向けて発射する。蔓狂の胴体ほど太い光の柱は、爆音とともに生垣を突き抜けて大きな穴を開けた。
 蔓狂はふうと息をついて、振り返る。
「さあ行け、『アリス』。これが最後の扉だ」
 その言葉に私はごくりと唾を呑み込んだ。災牙は大きく深呼吸して、闇は身体を解すように震わせる。
「ありがとう、蔓狂」
 最後に老フシギバナにお礼を言って、私達はいっせーの、で三匹同時に飛び込んだ。
 抜けた先も薔薇園なのは変わらず。それでも明らかに空気が変わった気がした。噴水の美しい開けた場所なのに、やけに空気が張りつめている。
「キャハハハッ、すごいすごぉい、本当にここまで来ちゃうなんて! あー、面白かったぁ!」
 どこか造り物染みた空間に、甲高い少年の笑い声が響き渡った。
「いい加減正体を現したらどうなんだよ、『チェシャー』!」
 災牙が吼える。ほんの数秒の空白の後。
 突如として噴水が震え、巨大な水柱が噴き上がるった。迸る水のベールがぐにゃりと歪んで、中からポケモンが姿を現した。
 黒い毛皮に覆われて、真っ赤な鬣と爪が光る。赤で縁取りされた瞳は透き通った青空の色で、種族の割には大きく丸い。尖ったマズルの口元はにんまり三日月を描いていて。
「ボクはそうでもないけどぉ、君達にとっては初めましてだよね!」
 完全に水柱から抜け出したポケモンは、大袈裟にお辞儀をした。
「初めまして、主人公達! ボクは『チェシャー』、種族ゾロアーク、名前は壊夢(カイム)。この世界の王様だよぉ!」
 ポケモンは、全ての元凶である『チェシャー』の壊夢は、顔を上げるとにっこり笑った。
「お前が、世界を奪った『チェシャー』だな! 今ここで倒させてもらうぜ!」
 敵意を滾らせ、災牙が身構える。私達もそれぞれ戦闘の構えを取る。しかし壊夢は苦笑して両手を前に突き出し、私達を制した。
「ちょっと待ってってばぁ、物語には場面に相応しい舞台ってものがあ・る・の! それじゃあねぇ……。えっへん」
 壊夢は咳払いをすると、すう、と大きく息を吸い込んだ。
「レディースエーンジェントルメーン! 最後の決戦の舞台にようこそ!」
 壊夢の言葉に合わせるようにして、またもや噴水が高い水柱を描く。今度は何本も。途方もない量の水は噴水の受け皿から溢れて、物凄いスピードで放射状に広がっていく。溢れた水が薔薇の生垣に触れると、薔薇は溶けたように消えてなくなり、あっという間に風景が変わった。
 空にはたくさんのシャボン玉が浮かび、大きな虹が真上にかかっている。足元は短く刈り揃えられた芝生、芝生の大地がどこまでも伸びている。幻想的なのに懐かしい風景は、状況が状況じゃなかったら夢見心地でリラックスできる場所なんだろう。
「よっ、と」
 ふよふよ浮いているシャボン玉の一つに壊夢は飛び乗ると、ニヤニヤ笑った。
「さあこれから最終章! 全ての謎が明かされる、物語のクライマックスだよぉ!」

◇第十一章◇ボクの世界さ―It's my own Miniature garden!― 


 とうとうここまで来たんだ。私達は誰もが四肢に力を込めて、世界の支配者を見据えた。それぞれがここに来た目的を、それぞれの唯一絶対の名前と共に宣言する。
「オレは『スペードのジャック』、種族アブソル、名は災牙! てめーに奪われた王権を返してもらうぜ、『チェシャー』!」
「私は『アリス』、種族エネコ、名前は魅甘! あなたをやっつけて、元の世界に帰るんだから!」
「俺は『黒兎』、種族はブラッキー、名前は闇。二匹を補佐するのが俺の役目だ、『チェシャー』、お前を倒させてもらう!」
 これだけの気迫を前にしても、壊夢は怯む素振りすら見せない。笑みをますます深めるだけだった。
「アハハッ、威勢がいいなぁ、やってごらんよ!」
「言われなくとも!」
 最初に動いたのは災牙だった。壊夢が話し終わるか終わらないかの内に、災牙は巨大な風の刃、鎌鼬を放った。私と闇が名乗っている間にチャージしていたみたい。特大の鎌鼬は寸分違わぬ狙いで壊夢に吸い込まれ…その胴体をあっけなく真っ二つにした。
「なっ!?」
 災牙は驚愕の表情を浮かべた。無理もないわ、鎌鼬は確かに壊夢を二分する形で命中した。なのに壊夢はにやにや笑いを崩さない上、傷一つ追わず平然としている。毛の一本すら落ちていなかった。
 どうして、浮かんだ疑問の泡はすぐさま弾ける。そうよ迂闊だった。
「ゾロアークは幻影を使うから、だから当たらないんだわ! 今私達が見ている壊夢は幻影よ!」
 聞いた事がある。ゾロアークは幻影を生み出す力を持っていると。自分の住処を丸ごと幻影で隠したり、美女に化けて人間を騙してからかったり、ゾロアークと幻影にまつわる話は枚挙に暇がない。『チェシャー』をやっと追い詰めた事実でいっぱいになって、敵の能力にまで考えが及ばなかった。
 すると、何がおかしいのか壊夢はけらけらと腹を抱えて笑い出した。
「きゃははははっ、んー惜っしいなぁ! 幻影だから攻撃が当たらない、かぁ。半分当たっているけど、半分は不正解~。君達は本質に気づいていないよ」
 シャボン玉から飛び降りると、壊夢は天を仰いで両手を広げる。
「じゃんじゃじゃーん! さあみんなお待ちかね、種明かしの時間だよぉ、拍手拍手ー!」
 次いでぱちぱちと自分で手を叩き私達の拍手を誘った。もちろん、私達の誰もが壊夢を厳しい目で睨むだけで、笑顔のひとつも見せなかったけど。こんなふざけた態度を取っているにも関わらず、このゾロアークはとんでもない強さを秘めている。気を抜いたら、やられる。そんなぴりぴりした気配を感じ取っていた。
「……もー、ノリ悪いなぁみんな。あっそうか、皆四足体型だから拍手しにくいんだよね。ごっめーん! 気持ちだけ受け取っとくねぇ」
 壊夢は私達の反応をさして気にしていなかった。その貼り付けたような笑顔が無性に恐ろしく思えて、私は早くも全身の毛を逆立たせた。
「じゃあ改めて、教えてあげるよぉ、今明かされる衝撃の真実をね! おっとぉ」
 闇が放ったシャドーボールも、壊夢に当たる直前で逸れて背後のシャボン玉を破壊しただけ。壊夢は微風に吹かれたみたいに耳を揺らし、私達一匹一匹と目を合わせた。そして緊迫した空気の中、続けた。
「ボクは正真正銘、実体を持った本物さ。幻影なのは君達の方なんだよぉ」
 壊夢の言った言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
 壊夢は何と言ったの? 簡単な言葉のはずが、上手く噛み砕けない。幻影、それはわかるわ。相手はゾロアークだもの。誰が幻影? 壊夢が? ……私、が? そんな事あるわけないじゃない。足元がぐらついた感覚に吐き気がしてきた。私の隣で苛立った災牙が前脚で芝生を叩きつけた。
「何言ってんだよ、んな事言われて誰が信じるっていうんだ!」
「そりゃそうだよ。誰だって、自分が本当に存在していると信じて疑わないもの。自分の身体が、心が、記憶が、命が、世界が、全て造り物の紛い物かもしれないだなんて、本気で考えた事なんてないでしょぉ?」
 小さな子供に教えるように、壊夢は頬を緩ませたまま穏やかに語りかける。
「当たり前だ! だったらオレは……オレ達は、お前が作った幻影だとでも言うのかよ!?」
「だーかーら。さっきからそう言ってるじゃん。まあ、ボクみたいな本物だっているけどねぇ。君は偽物さ、王族だったっていう記憶もボクを倒しに来るって役割も、全部ボクが設定したの」
「ふざけんなぁぁぁ!」
 存在を根底から否定された災牙は、怒りとも絶望ともとれる咆哮を上げた。しかし、壊夢は理解ができないとでもいう風に頬に爪を当て、首を傾ける。
「どうして怒っているの、災牙? 君はボクが作らなきゃ、存在すらしてないんだよぉ? いわば親、創造主なんだから、感謝はされても怒られる道理はないのになぁ。だからねっ」
 ばきりと、鈍い音が響いた。
「幻影に過ぎない君は、ボクに傷をつける事さえ許されない。そしてボクが念じればこんな事だって思いのままなんだぁ」
「がっ、あ゛ああぁあああぁぁあぁあっ!!」
 壊夢の言葉を掻き消して、災牙の耳を塞ぎたくなるような絶叫が響き渡った。
 災牙の、アブソルの象徴ともいえる鎌型の角が根本から折られていたのだ。そしていつの間に手にしたのだろう、壊夢は折れた角をジャグリングのようにくるくる放り投げて遊んでいる。
「ほらね。君が幻影じゃなかったら、こんな簡単に自慢の角がもぎ取れるわけないでしょぉ?」
「お、オレの、オレの角がぁああっ!! 嘘だ、オレがいないなんて、嘘に決まってる、じゃあオレは一体何だったんだよ、ぁぁあああ角を、オレを、返せよぉぉぉ!!」
 痛みよりも、きっと受け入れがたい現実のせいだろう、災牙は絶叫とうわ言を繰り返す。
「嘘、だ……」
 私は力なくへたり込み、闇は半分放心状態に陥りながらも身構えている。いつ攻撃されてもいいように、私や災牙を補佐するために。でも、それも全部造り物の設定された人格で、壊夢の作り出したキャラクターに過ぎないんだ。私を大切だと言ってくれた心も全部、造り物。そして、私の行動の根底にあった「元の世界に帰る」っていう目的ですら、幻影の彼方に埋もれてしまった。何のために、私達はここまで来たというのだろう。
「あ、そうそう! 君達は幻影って言ったんだけど、一つだけ訂正するね! 魅甘、君だけは本物だから安心してね! 君はボクが現実世界から取り込んだんだ」
 ところが、壊夢が付け足した言葉に私の耳が動いた。
 壊夢が嘘を言っている可能性だってもちろんある。だけど自分が消えてしまいそうな恐怖に呑まれかけていた私は、その言葉に縋りついた。少しでも光を見出さなければ、自分を保てないとわかっていたから。
「なら、どうして私を選んだの!?」
 この世界が本当に壊夢の幻影で、私だけが現実世界の住人として取り込まれたなら、何か理由があるはず。その理由を探れば、きっとこの状況をどうにかできる糸口が掴めるわ。そして、元の世界に帰してもらわないと。壊夢は蒼いくりくりした瞳に私を映した。
「んー? 特に理由なんてないよー。君を選んだのは全くの偶然、だけどぉ、君は思った以上に面白い旅を繰り広げてくれたから、とっても楽しかったんだぁ! 今じゃ君を取り込んで良かった! って思ってるの」
「えっ?」
 返ってきたのは予想だにしない答えだった。真面目に答える気がないのかと、私は声を荒げてもう一度問う。
「理由がないなんてあるわけない! だったら別に私じゃなくてもよかったでしょう! ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」
「本当に理由なんてないんだってば。そうだなぁ……例えば、君が蝶々を捕まえるために花畑へ出かけたとするよ? はい到着、すると目の前を綺麗な蝶々が横切りました、さあ捕まえた! はぁい、ここで問題でぇす。君はどうしてその蝶々を捕まえたの? 他の種類の蝶々も、同じ種類の別個体の蝶々もその花畑にはい~っぱいいるのに、君はどうして君の手の中にいる蝶々を捕まえようと思ったの?」
 言われて、その場面を想像してみる。蝶を捕まえるために花畑に行った私は、偶々目の前を横切った蝶を――?
「それは……偶々目についたから、近くにいたから……?」
「ピンポーン! 大っ正解、すごいすごぉい! ね、君も蝶々と同じさ。……さ、お喋りもこれくらいにして、遊ぼうよぉ!」
 壊夢は声を張り上げると、両腕に暗紅色にバチバチ弾けるエネルギーを纏わせる。壊夢の周囲の空気が歪むほどの膨大なエネルギーが集約されていく。
「魅甘!」
「ナイトバースト!」
 闇が私に飛びかかってきたのと、壊夢が地面に素早く両腕を振り下ろすのは同時だった。
 地面を揺らし、大気を震わせ、夜闇色の衝撃波が壊夢を中心に瞬く間に広がる。
「ぁぐあっ!」
「うっ、ぐ!」
 私にのしかかり、闇は自らの身体を盾にして守ってくれた。それでも防ぎきれない波動に焼かれ、私は歯を食い縛る。耐えろ私、直撃を受けている闇の痛みはこんなものじゃないんだ。
「闇、大丈夫?」
「魅甘こそ、まだ立てる? 俺は平気さ。同じ悪タイプだから」
 気丈な素振りを装ってはいるけど闇は痛みに顔を顰めている。私のせいでこんなダメージを追わせてしまったんだ、心苦しさに涙が溢れた。
「ごめんなさい、私を庇ったばっかりに……」
「気にすんなよ魅甘ちゃん!」
 闇の代わりに答えたのは、毛並みを燻らせた災牙。その頬には涙の後が刻まれている。
「魅甘ちゃん、オレは存在しないんだ。でもお前は違う。別の世界から取り込まれた本物だ。だから」
 ナイトバーストは壊夢を中心とした一帯を焼き払い、剥き出しの地面にしていた。一気に寒々しくなった空間を背景に、災牙は切実な眼差しを向ける。
「本物である魅甘ちゃんが、オレがここにいたって事を覚えていてくれれば、オレは確かに存在したって事になる。だから、オレは何としてでも『チェシャー』を倒して魅甘ちゃんを元の場所に帰すぜ」
「俺も同じ思いだよ、魅甘。俺は魅甘を愛している、その事実をどうか忘れないで」
 壊夢の言葉を信じるなら、闇だって本当は存在しない幻影だ。それでも闇は私を愛してくれている。今もふつふつと湧き上がる喜びや愛おしさは決して偽りなんかじゃないもの。
「さあ、そうと決まったら!」
 闇は深紅の瞳に強い意思の光を宿らせ、ニヤニヤしながら私達の姿を眺めていた壊夢にシャドーボールを撃ち出した。
「感動的なシーンはもう終わりぃ? 君達がどんなに頑張ったって、ボクは倒されないし魅甘を開放する気もないけどなぁ」
 壊夢は余裕綽々だった。闇はなんとか当てようとシャドーボールを乱発するけど、それらは全て壊夢に当たる前に曲がり、地面に着弾して穴ぼこを作るだけ。
 私だって自分のために、そして希望を託してくれた二匹のために戦わなくちゃ。私だけが唯一壊夢と同じ次元に立てるのだから! 私は全力で壊夢に駆け寄って、渾身の目覚ましビンタを食らわせようと試みた。
「アハハッ、可愛いなぁっ!」
 しかし壊夢は私の上を飛び越えて、すかした私の後頭部に痛烈な一撃を加えた。見えないから叩かれたのか蹴られたかはわからないけど、とにかく私は反動で地面に叩きつけられ、更にバウンドして転がった。イカサマだわ! 頭部を打たれた衝撃に視界がぶれる。
「くっそぉぉぉ!」
 吼えた災牙は壊夢に突進し、折れた角の代わりに爪を使って切り裂きにかかる。感情を全て込めた、強力だけども大振りな攻撃。
「当たれ、当たれ! お前を倒さねーと魅甘ちゃんの世界は閉じられちまうんだ!」
「だから無駄なんだってばぁ、もう」
 壊夢はその一撃一撃をよける素振りを見せた、あくまでも素振りだけで、これがもし両方とも実体を持っていれば壊夢はズタズタになっていただろう。
「魅甘、伏せろ!」
 災牙の後ろに回り込んだ闇は額の輪を点滅させ怪しい光を放つ。私は巻き添えを食らわないよう地面に顔を突っ伏した。
「わ、危ない!」
 おどけた壊夢の声だけが聞こえる。顔を上げると壊夢は混乱した様子もなく、災牙の首に回し蹴りの要領で蹴たぐりを決めたところだった。
「災牙!」
 嫌な音と共に地面に叩きつけられた災牙を飛び越え、闇が騙し討ちを仕掛けた。しかし絶対当たとされる騙し討ちですら、壊夢には無力だった。確かに命中した、けれど闇の身体が壊夢をすり抜けてしまったのだ。壁を抜けるゴーストタイプのように。
「じゃあ次はボクの番だね!」
 壊夢は心底楽しそうに告げると、掲げた両手それぞれに煌めくエネルギーを集め始めた。
「気合い玉だよっ、どうぞっ!」
 二つの気合い玉が、私達全員に効果抜群な格闘タイプの波動を爆発させる。
「きゃああっ!」
「がっ!」
「っぐ……!」
 私は吹っ飛ばされ、災牙の上に折り重なるようにして倒れた。全身が痛くて堪らない、けど立ち上がらなくちゃ。気力を振り絞ってもがいていた、その時だ。
 私の下に横たわる災牙の身体が光り始めた。この光、見覚えがある、あの時、デンリュウの迷鳴が体毛を増やした時と同じだ。見れば私の首に残ったカラーのビーズが、災牙に押し付けられていた。みるみるうちに災牙の背中から一対の立派な翼が生え、四肢の先にも軽やかな飾り毛が伸びる。折れた角は新しく生え、頭の左側にも短い角。
「あ、なんだ……力が、力が漲ってきやがるぜ!」
 カッと目を見開き、災牙は立ち上がった。私は滑り落ちるようにして災牙の足元に蹲る。闇もなんとか起き上がっていたけれど、足元がふらついていた。
「もう一発やってやる! 喰らえぇぇ『チェシャー』!!」
 災牙は新たに生えた角を構え、翼で加速しながら壊夢に斬りかかった。壊夢はひらりと身を翻して。
「え……?」
 鬣の束が、はらりと切り落とされた。
「当たった……?」
「そっかぁ、本物の魅甘の力が移ったんだね!」
 壊夢はしたり顔で頷いた。その貼り付いたニヤニヤ笑いは少し陰を潜め、鋭さを湛え始めた瞳で災牙を見据える。
「余裕ぶっこいてんじゃねぇ!」
 災牙の猛攻は止まらない。角で斬りかかり、爪を振り下ろし、翼で打ちつける。壊夢は後退しながら避け、災牙の袈裟懸けに斬りつけた角を爪で弾き、顔面に蹴たぐりを入れようとする。同じ手は食わないと、災牙は翼をはためかせて素早く引き下がった。
 今の災牙なら、行けるかもしれない。私も協力すれば、きっと壊夢を倒せる。見え隠れし始めた希望を胸に、私は四肢に力を込めて立ち上がる。
 しかし。ここまでしても、壊夢はまだ隠し玉を用意していた。
「もうっ、本気出し過ぎちゃ怖いよぉ。こうなったら……おいで、『ジャバーウォック』!」
 壊夢が空を仰ぎ、呼びかける。
 次の瞬間。
 空間が、裂けた。
 青空に突如亀裂が走り、空の傷口を広げるようにして巨大な爪が姿を現す。薄桃色の長い首の先が突き出し、黒に縁取られた真っ赤な目がぎろりと私達を見下ろす。次いで肩が、翼が、太い胴が、長い尻尾が現れ、剥き出しの大地にしっかりと足を下ろした。
「神であるこの俺様に向かっておいでなど、軽々しく言うガキはお前だけだぜ、壊夢。やっぱ面白ぇ奴だ」
 塔のように巨大なドラゴンは、雷鳴のようなぐるぐるという音を喉で鳴らして笑う。こちらに向き直った壊夢は、ニヤニヤ笑いを取り戻していた。
「知ってる? この世界をボクと一緒に創った神様だよぉ。名前は」
「おいおい、名前ぐらい名乗らせてくれや壊夢」
 ドラゴンは壊夢を遮ると、私達に対峙した。
「俺様は『ジャバーウォック』、種族はパルキア、名は(オボロ)だ! 空間の神とは俺様の事よ!」
 嘘、だ。伝説から滲み出る気迫に圧倒されて、私は思わず後退りしてしまう。闇は全身の毛を逆立てながらも、決して伝説から目を離さず睨み続けていた。壊夢は勝ち誇った表情で話し始める。
「ボクの幻影と、朧の空間を操る力。それらを合わせて、混ぜ込んで、練り上げて創り出したのがこの世界、いわばボク達の箱庭であり物語。普通の物語じゃつまらない、世界には混沌を、常識には破綻を、登場人物には狂気を。その中に外から主人公を取り込めば、完璧な歪んだ物語のできあがり。チェシャーは神出鬼没でいつも笑っている。ボクが創った物語だからどこでも覗けるし、それが面白いから笑っているんだ。本当、ボクはとっても楽しかった! ……だけど、そろそろお終いにしよっかなぁ。朧!」
「おう行くぜぇ!」
 朧は巨大な腕を振り抜いた。爪の軌道に沿って、死神の鎌のような三日月が放たれた。真下の地面が爆ぜ、轟音が響く。
 私は死にもの狂いで逃げ出した。技で相殺とか、庇う庇わないだとか、もはやそんなレベルの攻撃じゃない。巻き込まれたら命はないと、本能が警鐘を鳴らしていた。私と闇は辛くも避けきれた。
「災牙は!」
「亜空切断の直撃を受けたんだ、命はねぇなぁ! がっははは!」
 朧が非情にも笑い飛ばす。
 災牙は力無く地面に横たわっていた。角の折れた元のアブソルに戻り、倒れたまま動かない。その少し離れたところに、白い前脚が一本と削り取られた毛皮が転がっていた。
「災牙! 災牙ぁぁぁ!」
 災牙の事で闇は頭がいっぱいらしく、いつもの冷静さを欠いている。そんな闇が壊夢の切り裂くを受けて、赤い飛沫を散らしながら吹っ飛ぶのは防ぎようのない現実だった。
 もう駄目かもしれない。闇も災牙も倒れたまま動かない。全ての希望が断ち切られ、私は涙も流さず泣いた。
 私達は文字通り踊らされていたのだ。壊夢と朧の作り上げた、この広い箱庭で。さも自分の意思を持って動いているように思い込んでいたけど、その実壊夢が入念に張り巡らせた物語の筋書きをなぞらされているだけだった。壊夢はなんて意地悪なんだろう。……意地悪?いや違う。
 あの無邪気な笑顔に何故恐怖したのか、今やっとわかった。
 それは、壊夢には邪気がないからだ。無邪気という言葉の通り、悪気も罪の意識もない。ただ、壊夢にとっては楽しいから、たったそれだけの理由で全てを引き起こすのに事足りる。
 幻影を練るのが楽しいから世界ごと作り上げ、共に笑い合う仲間が欲しいから空間の神に干渉して世界をより強固なものにした。不確定な要素を入れてわくわくしたいから、外の世界から敢えて無力な私を取り込んで物語の主人公に仕立て上げ、ずっとどこかから覗いていたんだわ。
 この世界の全ては、壊夢にとっては小さな子供が昆虫の羽を千切るのと大差ない、罪のないお遊びに過ぎなかった。
「あっれー、ほんとにお終いなのぉ? ちょっとは足掻いてよぉ、せっかく『ジャバーウォック』まで()んだのに、ねー朧」
「楽しませてくれよ、え? 『アリス』ちゃんよぉ!」
 朧が吼える。まるで絶望のように(そび)える、大きな大きな竜。こんな奴にただのエネコである私が敵うわけ、ない……。ごめんなさい、闇、災牙、そしてご主人。私は壊夢を倒せない、元の世界に帰れない。私はあまりにも無力な、小さな一介のエネコだ。いくら思考を巡らせたところで、もうこの状況を引っくり返せる策も力も見つけ出せなかった。とどめを刺そうと、朧は再度大技、亜空切断の構えに入った。
 全てを諦めた時。不意に詩が聞こえてきた。それはこの場に似つかわしくない、へらへらした声。
'''三月狐は黄金色、満月と同じ黄金の色さ
黄金色の三月狐が、好きなものはいくつある?
それは尾の数、尻尾の数さ '''
「きょ、凶煌!」
 シャボン玉の一つが弾け、私の目前にすたっと着地したのは見覚えのある黄金色の獣。新たな壊夢の味方、ではないようだった。壊夢が目を見開いて、キュウコン――凶煌を指さしていたから。
「お前っ! どうやって入って来たんだよ、『バンダースナッチ』は何をしてるのぉ!」
「『バンダースナッチ』ならきちんと仕事をしていますよ。彼を責めるのはお門違いというものです。ですが、『時間』の名に属しているのはセレビィの幻菜(ゲンナ)だけではありませんからねぇ。そうでしょう、『ジャバーウォック』? 彼女に頼んで通行証を頂いたんですよ」
「あの性悪女、俺様の空間に干渉しやがったな…クソが!」
 朧が毒づいた。もう一匹の『時間』に心当たりがあるようだ。
「……それより、よくも僕の親友、杏呪を投獄してくれましたね。いくら貴方が世界の支配者『チェシャー』でも許せませんよ!」
 私を庇うように立ち塞がった凶煌は、細い目を見開き、溢れ出る怒りを抑えようともしなかった。『チェシャー』である壊夢と、巨大な伝説のドラゴンである朧。その二匹を前にしても臆する事なく、凶煌は身構えた。
「余計な事を……勝手に動くなよ、ボクの作った幻影の分際でぇぇ!」
「ならば僕と杏呪と親友設定にした己を恨みなさい、『チェシャー』!」
 凶煌は大きく息を吸い込むと、轟々と燃え盛る今まで見た事もないような火炎放射を放った。光と熱が眩し過ぎて直視できないくらい。だけど、それは朧の巨体を焼くには不十分だった。
「良い事を教えてやろう、『三月狐』。俺様のタイプは水とドラゴン。お前の炎なんてかすり傷にもならねぇんだよ!」
 朧の放った水が業火を消し去り、温度差によって空気が弾ける。一瞬にして私達は水蒸気に包まれた。
「我らが『アリス』、忘れ物ですよ」
 更に神秘の守りを発動して相手の目から姿を眩ませた凶煌は、四本の尻尾で大事そうに包んだ何かを私に差し出した。凶煌の狙いは朧にダメージを与える事じゃなかったみたい。
 凶煌が差し出したもの。それは濃緑色の尖った石だった。荒削りの結晶の表面には、三日月の模様が浮かび上がっている。
「僕が気を反らしている内に、『ヴォーパルの石』を使いなさい。ヴォーパルは竜の血に飢えている。アリスの力と仲間の力がひとつとなった時、ヴォーパルは真の力を発揮して竜を屠ります」
 凶煌は早口で説明した。いつかの飄々とした笑みはなく、恐ろしい程真剣な顔で。
「それと、あの時は失礼致しました。発情期には狂ってしまうとはいえ、貴女には随分と酷い事をしてしまいました。本当に申し訳なく思っております」
「凶煌、なんで……」
 地下鉄の駅で、幽は言っていた。凶煌は三月の発情期には狂ってしまうけど、普段はとても博識な青年なのだと。どう見ても今の凶煌はまともだけど、私の記憶が正しければ今日は三月六百三十二日じゃ……?
「今日は十一月二十二日。もう三月ではありませんから」
 ふっと凶煌は笑った。
「あー、居た居たぁ!」
「頼みます、『アリス』。我らの希望の星」
 限界だった。霧が晴れ、壊夢と朧の視線が突き刺さる。凶煌は私に石を押し付け、二匹の方へとたった一匹で駆け出した。
 凶煌の、いや皆の気持ちを無駄にするわけにはいかない。私は石を強く抱き締めた。
 またしても光り始めた。今度は、私の身体が。
 不快ではないけど身体中が熱くなり、表面が溶けるように泡立つ。まるで蝋燭が熱で溶かされていくように。ふいに体内から込み上げてくる圧力に合わせるようにして、身体が急激に引き伸ばされた。私はそれを、一歩下がったところで感じていた。
 光が晴れた時、私の視点は以前よりもずっと高くなっていた。足元を見れば、エネコと違ってすらりと伸びた足。首回りを薄紫色の飾り毛が彩っているのも見える。
 私、エネコロロに進化したんだ。
「強靭無敵最強の俺様に敵うものか!」
「ぐあっ!!」
 ピンポイントで狙い澄まされた亜空切断が、凶煌を薙ぎ払った所だった。地面に叩きつけられた黄金色に、赤黒い跡がじわじわ広がる。九つの尻尾をばらけさせ、凶煌は呼吸を止めた。
 不思議な事に、進化したというのに月の石は消えず、私の足元で鈍く光っていた。まだ、役目を終えていないと主張するように。私は何をすればいいか、考えるより先に理解した。凶煌、災牙、そして闇。(たお)れた仲間達の願いを、命を無駄にしないためにも。後は、私がやるんだ。生きて元の世界に帰るんだ。
「行くわよっ、猫の手!」
 進化して使えるようになった新しい技、猫の手を発動させる。猫の手は、味方の力を受け継ぎ新たな力とする技。
 災牙の滅びの歌が、一撃必殺の力を私に与えてくれる。仲間がいるから使う事ができなかった、本当は心優しい災牙の切り札。闇の黒い眼差しの拘束する力が、月の石を依り代として滅びの歌を束ねていく。
 私の手に、柄に石を嵌めた立派な剣が出来上がった。
「生意気なっ! ぶった斬ってやるっ!」
 朧が亜空切断を放とうと腕を振り上げる。ところが、さっきは爪先に集約されていたはずのエネルギーが集まらない。亜空切断は不発に終わった。
「お、おい! なんで使えねぇんだ!?」
 朧が困惑した声を上げるが、当たり前だ。凶煌が今わの際に発動した怨念によって、亜空切断は封じられている。
「終わらせてやるわっ!」
 私は剣を咥えると朧に向かって駆け出した。
「させないよっ! ボクの世界を壊そうとするなら、お仕置きしなくっちゃね!」
 朧と私の間に割って入り、壊夢が叫ぶ。
「君達じゃあ王様には勝てないって事を教えてあげる! 最後に笑うのは物語の創造主であるこのボクだ!」
 壊夢が攻撃の構えに入る――両腕から迸る途方もないエネルギー、あれはナイトバースト!?
「それはどうかな」
「ぐぁっ!」
 避けられない、と息を飲んだけど、その攻撃は途中で止まった。
「へへ……ブラッキーの耐久舐めないでよ……」
 片耳の千切れたブラッキー、闇は血塗れになりながらもまだ死んではいなかったのだ。壊夢の首根っこに食らいつき、両腕を踏みつけて動きを封じている。
「くっそぅ、離せぇっ! なんで、なんでボクが念じても消えないんだよ、お前! まさか!?」
 組み敷かれた壊夢の顔から、初めて笑みが消えている。焦燥、驚愕。計画ががらがらと崩された敗北感が芽を出し始めているのだろう。
「そのまさかさ」
 壊夢の笑みを奪い取ったかのように、闇はにやりと笑って言った。
「俺は本物だよ、『チェシャー』。行っけぇぇぇ魅甘!!」
「止めろぉぉぉぉ!!」
 取っ組みあって壊夢を抑えつけ、闇が叫ぶ。私は大きく頷いて、朧に飛びかかった。
「食らいなぁっ!」
 朧は勢いよく腕を振り下ろす。亜空切断ではなくても、恐ろしい威力を誇る攻撃ドラゴンクロー。迫り来る爪の一撃を紙一重で交わして、その腕に着地して駆け上がった。朧の見開かれた目がだんだん大きくなる。
 剣に導かれるまま、駆け上がった先へ。左肩の真珠に、私は咥えた剣の切っ先を思いっきり突き立てた。確かな手応えを感じて、達成感と共に振り落とされる。
「ギャオオォォォォオォ!!!」
 鼓膜を破かんとするような物凄い絶叫が響き渡る。剣の刺さった所から眩い光が溢れ、あっという間に視界は白で塗り潰された。目を開けていられない。空間が纏わりついてきて、動けない。
「あーあ、終わりかぁ」
 壊夢の残念そうな声が聞こえたのを最後に、私の意識は白い闇に墜ちていった――。

◇最終章◇夢を見たのはどっち?―Which Dreamed It?― 


「ん……あ、れ?」
 私は目を覚ました。絶叫はまだ耳を貫いている。でも、よくよく聞いてみるとそれはごく有り触れた音――目覚まし時計のアラーム音に過ぎなかった。眩しい朝日が、お気に入りの毛布の中にまで差し込んで光と温もりを運んできた。身体に纏わりつく毛布からなんとか抜け出して、猫パンチで時計を連打、アラームを止める。
 静かになった部屋でしばらくぼーっとして、すぐに洪水のように記憶が押し寄せてくる。災牙が王権を取り戻そうと戦っていた事、壊夢と朧の圧倒的な強さの事、どんな時だって私を愛し、力になってくれた闇の存在。私が出会った全てのポケモン達が、見えない幻影となって私を取り囲んでいるようで。長い長い冒険の記憶が私の中で渦を巻く。私は『アリス』として役割を全うしながらも、帰る手段を探して、そしてついに勝ち取ったんだ。
「そうだ、ご主人!」
 はっとして毛布から抜け出すも、隣にご主人はいない。私は急いで部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。なんだか見える風景に違和感を感じるのは、ここが久々に踏み締めた現実だからかしら。
 リビングには、美味しそうなトーストの匂いと落ち着いたコーヒーの香りが漂っていた。旬のニュースをお茶の間に届ける女子アナウンサーが、興奮した面持ちで、私の住む街にできた大型ショッピングモールの盛況ぶりを伝えている。そんな何の変哲もない朝の風景の中、ご主人は朝食を取っていた。
 何と声をかければいいのかわからなかった。無理矢理引き込まれたとはいえ、私はいきなり何日もいなくなっていたのだ。おまけにご主人から貰った大切なカラーをぼろぼろに壊して。本当、何から言えばいいのかしら。
「ご主人、私っ……」
「あら、おはよう魅甘。もう起きたの?」
 ご主人は普段通りの態度で振り向いた。もしかして、怒りが大きくて、一周回って冷静に見えるだけだったりして。口をぱくぱくさせながら、謝罪の言葉を喉から出そうと努力していると、ご主人はふわりと微笑んだ。
「あ、ごめんね、目覚ましのアラーム解除し忘れてたみたい」
 ああ、これはいよいよ本格的に怒ってる。関係ない話題を出して、私が自主的に謝るのを待っているんだわ。私は申し訳なさでご主人の顔を直視できずに、ご主人の膝の辺りを見つめて勇気を振り絞った。
「ご主人! ごめ」
「あ、昨日あげたカラー。よく似合ってるよ!」
「へ?」
 昨日? 私の渾身の謝罪は不発に終わった。びっくりして顔を上げると、ご主人は私の分のポケモンフーズを用意しようと台所へ歩いていくところだった。試しに首を上下に振ってみると、りんりんと軽やかな音が転がり落ちる。リビングに来るまでは他の事に気を払うのが忙しくて、鈴の音が耳に届かなかったみたい。
 朝食の席で聞いたご主人の話では、私は別にいなくなってなんかいないらしい。それにエネコロロへと進化したはずなのに、今の私はどう見ても小さなエネコのままだった。階段を降りる時に感じた違和感は、エネコロロにしては妙に視点が低いと感じたせいで、エネコとしてはごく一般的な目の高さだ。
 じゃあ夢だったの? 闇も災牙も、壊夢も全部? ずいぶん長い夢だったなぁ……。もう、闇には会えないのかしら。
「……み、魅甘? どうしたの?」
「ふぇっ……な、なんでもないわ……」
 ご主人に言えるわけがなかった。夢の中で出会った存在に本気で恋をして、もう会えない事に涙してるなんて。ただ、今は泣かせて。
 闇……ありがとう。愛していたわ。


♠♠♠♠


「ありがとうございましたー」
 バルジーナを模したシルバーアクセサリーは春の新作。バルジーナが大事そうに抱いている髑髏は、目の部分がハートマークになっていて、退廃的な中にも可愛らしさがあるとじわじわ女性に人気が出ている逸品だ。ほくほく顔でお店を出て行くお客さんを、ご主人と共に見送った。
 あの変テコな夢から覚めて何年も経った。不思議な冒険は、もうほとんど記憶の彼方へ埋もれてしまった。今ではぼんやりと、なんだかすごい夢を見たなー、と漠然とした感想と共に思い出すに過ぎない。たくさんいたはずの登場人物も、誰一人として思い出せなかった。
 忘れたくなんてなかった。誰かが、夢の中で出会った誰かが私に「覚えていてほしい」と懇願していた。そして、夢の中であっても、誰かが私を愛してくれていた。決して忘れちゃいけない、宝石のように輝く思い出達を仕舞っておく夢という宝箱は、あまりに脆くて儚かった。日を追うごとに夢の冒険の記憶は霞み、色褪せ、零れ落ちて、いつの間にか到底私の手の届かないところへと埋もれてしまった。いつまでも夢に囚われていてはいけない、現実を見ろって事なのかしら。落ち込んだ顔をしてはお店の印象が悪くなってしまう、と私は急いですまし顔を繕う。
 去年私はエネコロロへと進化し、同時にこの街へと引っ越してきた。以前住んでいた街よりも大きいけど、上手く自然と共生しているのんびりした街。ここでご主人の以前からの夢だった雑貨屋を開いた。お店では人とポケモン、それぞれに向けたアクセサリーや、ポケモンを(かたど)った雑貨なんかを置いている。週一回は奥でちょっとした手作り雑貨の教室を開き、評判は上々。私はここの看板ポケモン、兼アクセサリーのモデルみたいな立場で、毎日それなりに忙しい。
「魅甘? どうしたの、疲れた?」
 私の繕った表情は、ご主人には簡単に見抜かれてしまった。ごめんなさい、と謝ると、ご主人は首を横に振る。
「朝からお客さんが途切れなくて、忙しかったものね。そうだ、今お店にお客さんはいないし、息抜きに散歩でも行って来たら?」
「え、良いの? 私が抜けても」
「ポケモンに無理をさせちゃトレーナー失格よ。ゆっくり外の空気を吸って身体を動かしてきなさい。……ついでにお店の宣伝もしてくれたら嬉しいわ」
「勿論するわ。それじゃ、お言葉に甘えるね、ご主人」
 鏡の前で毛並みを軽く整え、お店のチラシの入ったポーチを掛けると、私はご主人の笑顔を背中に外に出た。まずは、深呼吸。吸って吐いて、吸って吐いて。新鮮な空気を吸っただけでいくらか意識がはっきりしてきて、私は大きく伸びをした。
 気の向くまま、足の向くまま。私は往来を歩く。この街は、とても気に入っている。ポケモンだけで歩いていても安全だし、お金さえあればポケモンだけでお店に入り買い物をする事も可能だ。“人とポケモンと自然が調和し、きらり未来へはばたくまち”とかいうキャッチフレーズだったかしら。広い道には花壇が並び、季節の花を色とりどりに咲かせている。清純な香りは、ただでさえ良いお天気を一層清々しく演出していた。
 気がつくと私は噴水のある大きな公園に来ていた。ここはお休みの日に、よくご主人と遊びに来る場所だ。とても広い自然公園で、開けたところには子供たちのアスレチックやバトルフィールドが用意され、噴水とその周りの人工の浅い川は、とくに夏なんかは子供たちと水ポケモン達の絶好の遊び場だ。私もエネコの頃はよく水辺でぱしゃぱしゃしたなぁ、エネコロロになってからは羞恥心が芽生えて、あんまりやらなくなったけど。でも、次の夏にはご主人のお姉さんが子どもを連れて遊びに来るらしいので、その遊び相手という名目で水遊びするのもいいかもしれない。
 この公園まで来たら、あの場所にも行こう。私は公園の南側のエリアを目指す。途中で出会ったお洒落の好きそうなクチートに、お店のチラシを渡して宣伝する事も忘れない。クチートは目を輝かせてチラシを見つめ、必ずお店に来ると約束してくれた。よし、これで私のお仕事は完了。とはいえお店が繁盛すれば私も嬉しいので、私はお洒落の好きそうな女の子ポケモンを見つけてはチラシを渡していた。一匹、ポケモン用の老眼鏡をかけたおばあさんデンリュウがチラシを欲しがって、彼女も生きている内にお店に行かせてもらうよ、と冗談めかして言ってくれた。いくつになってもお洒落心を忘れない可愛らしいおばあさん。私も年をとっても綺麗で居続けたいなぁ。そんな出会いと別れを繰り返し、私は目的地に到着した。
 視界いっぱいに広がる赤い薔薇、白い薔薇、オレンジの薔薇、薄ピンクの薔薇。ここは公園の名物ともいえる薔薇園だ。世界中から色んな種類の薔薇を集めたそうで、わざわざここの薔薇園のために遠くから足を運ぶ人もいるのだとか。迷路のように薔薇の生垣が組まれているのでちょっとした冒険もできたりする。目的の薔薇意外にも、あちこち歩き回って色んな薔薇を見て欲しい、というオーナーの願いが込められているそうだ。壮年の男の人とフシギバナが、愛情たっぷりに薔薇達の手入れをしていた。あの人が件のオーナーだ。
 私は探検気分で、薔薇の迷路へ踏み込んだ。両側に聳える生垣は全然威圧感はなくて、私を見守ってくれているよう。角を曲がる度に新しい花の色と香りに出会えるので、わくわくしながら迷路を進んだ。
「わ」
 濃い赤色の薔薇の角からポケモンが飛び出してきて、危うく衝突しそうになった。実際にはぶつからず、怪我もなくすんだけど。気をつけてよね。
「ごめんなー、びっくりさせちまって」
 ポケモン、三日月の鎌を頭から生やしたアブソルはすぐに謝ってきた。その首で揺れるスペードのネックレスに、見覚えがある。うちのお店の商品だわ。
「あれ、あなた雑貨屋の魅甘ちゃん?」
「はい、そうですけど、あ!」
 アブソルの後ろからやってきたトレーナーさんに名前を呼ばれる。見上げれば、このトレーナーさんは知っている顔だった。ご主人の手作りアクセサリーの教室に通う生徒さんだ。アブソルが首を傾げた。
「マスター、このエネコロロの事知ってんの?」
「ほら、あなたのネックレス。彼女のお店で買ったのよ。そうだ、いらっしゃい魅甘ちゃん」


♠♠♠♠


 私は喫茶店でトレーナーさんにお茶をご馳走になる事になった。何でも、お世話になってるお礼をしてくれるそうだ。
 そのトレーナーさんに連れられてやってきたのは、ペロリームのロゴが光るスイーツのお店。
 私は息を呑んだ。銀のパティスリという有名スイーツ店。美味しいと評判なんだけど、その美味しさに見合うお値段がするのだ。ところがトレーナーさんは迷う事なく銀のパティスリの喫茶スペースへ入って行く。
「あの、本当に良いんですか、こんな高級なお店で」
 テラスに丁度空いている席を見つけて、私達は腰を下ろした。トレーナーさんと、私と、アブソルと、もう一匹の手持ちである口数の少ないブラッキーでテーブルを囲む。
「良いのよ良いのよ、それだけあなたのご主人には感謝してるんだから。さあ、好きなものを頼んでいいわよ!」
 そう言われても、奢って頂く身としては気が引けてしまう。ポケモンなのに気にし過ぎ、とはよく言われるけど、ご主人のお店の手伝いをよくしているとお金の大切さが身に染みてわかるのだ。ポケモンでもわかるように写真をふんだんに使ったメニューを見せてもらっても、どれも結構なお値段で、ついでに美味しそうで決められない。
「はいはーい! オレはストロベリータルトな!」
「俺は……ミルクでももらおうかな。だけど甘いのはちょっと」
「あら、だったら甘さ控えめの、抹茶とカゴのモンブランを注文しておくわね。まあ一度食べてみなさいって。魅甘ちゃんは?」
 迷っている内に私の順番が回ってきた。あまり時間をかけるのも申し訳ないので、私は辺り障りのない注文で誤魔化した。
「ええっと……お、オススメってありますか? それが良いなって……」
 遠慮がちに言ってみた。トレーナーさんはうんうん、とにこやかに頷く。
「ふふっ、そうよね選べないわよね。じゃあ私と同じものを頼みましょうか。ドリンクは?」
「アールグレイティーってありますか?」
「OKあるわ、それにしましょ。店員さーん!」
 全員の注文が決まったところで、トレーナーさんが手を上げて店員を呼ぶ。
「はーい、只今! ご注文を伺います」
 ウェイトレスのラッキーがすぐさまやってきて、にこやかな笑みを浮かべた。
「ドリンクはジンジャエールと、ミルクと、アールグレイと、ブラックコーヒー、ジンジャエール以外はホットで。それからストロベリータルトと、抹茶とカゴのモンブランと、モーモーミルク・アップルベリーパイ・とろける甘い蜜添えを二つね!」
「かしこまりました。復唱致します、ジンジャエールと――」
 ラッキーは今は卵の入っていないポケットから電子機器を取り出して、タッチペンで器用に入力していく。全ての注文を確認すると、ラッキーは笑顔を残して去っていった。
 間も無くテーブルは色鮮やかなスイーツで埋め尽くされた。きらきら輝く甘い芸術品達に、ごくりと喉が鳴る。
「いただきます!」
 私はがっつかないように注意しながら、アップルベリーパイに口をつけた。ミルクと蜜の甘い香りは全然厭らしくなくて、上品な味わいに舌が蕩けてしまいそう。向かい側ではアブソルがストロベリータルトを実に幸せそうな顔で頬張っていた。純白の体毛に赤いジャムが点々と飛び散っているけど、全然気にしてない。ちょっとは気にしなきゃ駄目よ、お砂糖の入ったジャムは、乾くとかぴかぴになって取れにくいのよ。
「それでは、ポケモンバッカーシンオウリーグの優勝チーム、『テンガンワンダーランド』のオーナー氏と、代表選手のゾロアークへのインタビューです!」
 スイーツを堪能していると、ビルに備え付けられた巨大なビジョンにスポーツ番組が映っていた。男性のインタビューの次に、テレビに映るゾロアーク。
「皆ぁ、応援ありがっとー! 次は全国大会は優勝を目指しまぁっーす!」
 見た目の割には幼い声のゾロアークは、それでもポケモンバッカー史上最年少でプロリーグに出場した、ちょっとした時の人だ。試合では幻影の使用は禁止されているものの身体能力も高く、バトルでもかなりの実力を持っているという。俗にいう天才だ。女性ファンも多く、私のご主人がポケモンバッカーを見るようになったきっかけでもある。あれ、確かご主人が『テンガンワンダーランド』について今朝話してたわ、この街に――。
「オレ、あいつの喋り方気に食わねぇ」
 テレビを見たアブソルがぼそっと言うと、
「悪かったねぇ」
 背後から声がした。それは今しがたテレビに映っていたゾロアークその人で。チーズの切れ端を片手に、アブソルをむすっとした目で見つめていた。
「え、えぇぇー! 何でこんな所にいるんすか!!」
「遠征中なんだよぉ。そうだ、今夜練習試合があるから、見に来てね! 応援よろしくぅー!」
 ゾロアークは無邪気に笑い、ジュペッタに変身してから連れのシュバルゴ、キュウコンと共に雑踏の中に消えていった。ご主人が絶対練習風景を見るぞー、と意気込んでいた姿を思い出し、笑みが零れる。あのゾロアークに街中で会ったのよ、って言ったら、ご主人どんな顔をするかしら。
 視線を戻すと、ブラッキーの透き通るような深紅の瞳と目が合った。それはまるで紅色の宝石でも嵌め込んでいるんじゃないかっていうぐらい、とても綺麗な紅だった。体は全てを包み込むような優しい夜色、良く晴れた夜の月の光みたいな輪っかが両前脚と両後脚、それから額と尻尾と両耳に浮かんでいる。整った顔立ちにすらりとした四肢の、私から見ればすっごい美形のブラッキーだ。


♠♠♠♠


「魅甘、その……また、君に会いに行っても良いかな? 話したい事があるんだ」
 隣に座ったブラッキーは、穏やかな声で微笑んだ。なんだか、私と同じ事を考えているみたい。
「うん、私も……雑貨屋『アリス』で待ってる、クライ」
 私の首元で、ちりんと鈴が鳴った。


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Last-modified: 2015-11-21 (土) 23:53:32
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