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少女Aの冒険、クラブの章

/少女Aの冒険、クラブの章

◇第七章◇魔白と魔黒―Mawile-Mashiro and Mawile-Makuro― 


 どこまでも続く暗闇だった。予想に反してスピードはあんまり早くない、でも落ちる落ちるとにかく落ちる! どこまで落ちていくのよ、これ。マンホールの穴に飛び込んでどれだけの距離を落ちたのか、考えるのも億劫だ。
 闇の金色の輪っかがぼうっと光って浮かび上がり、私達を照らしている。今のところすぐ傍を落ちている闇が唯一の光源だ。闇の向こう側は壁のようで、下から上へ流れていく中、ぼんやりと何かが描かれているのが見えた。こんなところにどうやって絵を描いたんだろう。飛行タイプや浮遊のポケモンだろうけど、一体誰が見るのやら。
「イヤッッホォォォオオォオウ!!」
 何が楽しいのやら、歓声を上げる災牙もすぐ反対側で落下中。内臓が浮くようなあまり気持ちの良くない感覚に慣れても私達はまだ落ち続けていた。このまま永遠に落ち続けるのでは、と一抹の不安さえ沸き起こる。
「そろそろ到着するな」
 とはいえ、どんな現象も始まった以上は終わりは必ずやってくるもので。闇の呟きに下を見ると、トンネルの出口みたいにぼんやりと明るい空間が見えた。最初は針でつついたような小さな穴だったのに、白い空間はどんどん大きくなってくる。つまり……もうすぐ地面に激突するって事!? 闇や災牙が堂々としている辺り大丈夫なんでしょうけど、怖いものは怖い! どうしよう、もう間もなく落下地点に着く。
 初めまして地面さん、私、エネコの魅甘です。今からあなたの胸(頭かもしれないし足かもしれないけど)に飛び込むので、あんまり痛くしないでね。
 迫りくる地面に簡単に自己紹介を済ませて、私は衝撃に備えて固く目を閉じた。
「わ!」
「おっと」
「……」
 意外にも大した衝撃はなかった。目を開けると、私は何事もなかったかのように立っている。猫の身軽さを身体が覚えていてくれて助かったわ。二匹も私のすぐ近くに無事着地していた。
 長い事落下していたせいでふらふらして気持ち悪い。四肢はしっかり地面を踏みしめてるのに、妙な浮遊感はまだ消えない。天井には真っ黒けに口を開けた穴が、遥か高いところまで続いていた。どこかで曲がったのか、降りてきた穴からの光は届かない。
 私は今度は上ではなく周りを見回した。
 ここ、駅のホームだわ、地下鉄の。
 テレビでバトルサブウェイの特集が組まれていた時に映っていた景色と、ここはとてもよく似ていた。テレビではこの後バトル用の特別な路線に移動して、それはそれは激しくハイレベルなバトルを映し出していた。私もご主人もバトルはからきしだから、ただただ「すごいねぇ」って感嘆の吐息を漏らしていたっけ。うう、ご主人、今どこでどうしているかしら。私の事、心配してるわよね。早く帰ってご主人を安心させてあげたいのは山々なんだけど、帰る方法がわからない以上、今は『チェシャー』を探すに専念するしかない。ごめんねご主人、私、必ず帰るから。
 ホームに他の人影はない。ホームの縁に等間隔に並んだ死にかけの蛍光灯が、じじっ、ぶーんと虫のような音を立てて点滅しているだけだ。言い知れぬ不安を感じて闇に寄り添う。闇は私に気づくと、尻尾で背中を撫でてくれた。
「電車に乗って移動するのね?」
「そう。地下鉄なら、空間が歪む法則を無視して移動できるんだ。相手の居場所がわかっている時は、こっちのが確実だ」
「ジハンキって初めて使ったけどやっすいのな! ほら、ジュース買ってやったぜぇ!」
 妙に静かだと思ったら、災牙は自販機で飲み物を購入していたらしかった。王族は自販機なんて庶民の機械は使わないわよねぇ、むしろよく買えたわね。私はありがたく買ってきてくれたジュースを頂いた。もちろん未開封なのを確認して。痺れ薬だのビヤクだの混ぜられたら堪ったものじゃない。
「魅甘ちゃん警戒し過ぎ。あの時は悪かったって、な! もう同意なしじゃやらねーから、機嫌直してくれよー」
 私の視線の意味に気づいた災牙は、眉尻をハの字にしながら頭を下げてきた。同意なし、がちょっと引っかかるけど、反省してるみたいだし許すとするか。私、この二日で驚くほど心が広くなったわねぇ。
 十分ほど待ったかしら。ジュースを飲みながら待っていると、ぷあーん、とフワンテの絶叫みたいな音がして電車がやってきたのがわかった。
「お、来たな……」
 闇は立ち上がり、空き缶をゴミ箱に放り投げる。私と災牙も闇に倣って、ゴミを処分してから闇の隣に立つ。待っていると臙脂色の三両編成の電車が暗がりから現れた。電車は乗車口にドアを正確に合わせて止まり、ドアを開ける。
 ホームには他のお客は居なかったから誰か降りてくるポケモンとは出会えるかも、と半ば期待していたのだけど、降りてくるポケモンはいなかった。私から見える限り、電車内にも乗客の姿はただの一匹も見えない。誰も運ばない電車って、走っている意味があるのかしらね。
 次に運転席のドアが開いて、こっちは今度こそポケモンが降りてきた。濃いグレーの身体で、ともすると背景に融け込んで見えなくなってしまいそう。電灯のように爛々と輝く赤い目だけがくっきりと、薄暗い中に浮かび上がっていた。
「おや、おや、おやおやぁ!?」
 そのポケモンは開口一番、甲高い声で叫ぶと災牙の前にふらふらと進み出た。微妙に浮きながら移動する所を見ると、このポケモンはエスパーかゴーストタイプかしら。私の予想ではゴーストタイプね、身に纏う薄ら恐ろしい雰囲気がそう思わせるのよ。……っと、これじゃあ他の善良なゴーストタイプのポケモンに失礼かしら。
「これは、これは、我らが王子、皇太子陛下、『スペードのジャック』殿ではないかね! 御目にかかれて光栄千万! もう御逝去されたか、御隠れになったか、それともあの世へ旅立たれたのかと思っていたよ!」
 見るからに怪しいポケモンはそう言うと、黄色い口を奇妙にぐにゃりと歪めて空中で一回転した。それより……。
「それ全部死んでんじゃねーか!」
 うん、私が言いたかった事を災牙が全力でツッコんでくれたわ。ナイスタイミングよ災牙。
「おお、おお!? そこの御嬢さん、身につけるは鈴、傍らに(はべ)るは『黒兎』! 貴女はもしや『アリス』殿かな!?」
 私に気づいたらしいそのポケモンは、やはり甲高い声を振り撒きながらずいと私の前に身体を寄せた。
「え、ええそうだけ、ど……!」
 頷きかけて、私はぞっとした。薄暗くて気づかなかったけど、このポケモン、間近で見ると傷だらけだ。身体よりも濃い黒い糸での縫合跡が全身に無数に散らばっているし、左腕にある鋭い何かで引き裂いたような傷跡はまだ新しい。
「アアア『アリス』殿!」
 傷だらけの不気味なポケモンは大袈裟に声を張り上げ、両手を広げた。
「失礼、失礼、失礼千万申し訳ない『アリス』殿! わたくしの事は御存じかな? 御存じないならここで名乗らせて頂こう! わたくしは『地下の車掌』、種族はジュペッタ、名は(カスカ)! 御待ちしていたよ『アリス』殿、我らが希望の星、我らが導き手!」
 幽と名乗ったジュペッタは、両足を交差させて右手を身体の前へ回す、やたらと芝居がかった仕草でお辞儀をした。
「ど、どうも……」
 若干面喰らいつつ、私もとりあえずお辞儀を返す。幽はにこやかに頷いた後、突然両手で両頬を抑えて目を見開いた。
「アアア『アリス』殿、『アリス』殿が現れたという事は、探し人はただ一人! 『アリス』殿! ちぇ……チェチェチェチェチェ『チェシャー』殿はもももももう見つけられたのかい!? ひぃぃぃぃ!」
 幽は早口で言うと身震いし、尖った爪で首の辺りを掻き毟った。うっすらと赤い線が刻まれる。
「まだよ、これから見つけるの。あ、そうだ。幽は何か知ってる?」
 隣で息を飲んだ災牙を尻尾で叩き、質問を返してみた。けれど、私はすぐ自分の発言を後悔する事になる。
「わわわわわたくしがチェチェチェ『チェシャー』を!? とんでもない、滅相もない!」
 幽は明らかにチェシャーを怖がっているようだった。私の発言のせいで怯えさせてしまったのが申し訳なくて、私は急いで謝った。
「ご、ごめんもうその名前は出さないわ」
「いや、いやいや、いやいやいや、お気遣いは無用だよ『アリス』殿!」
 目の前で自分の身体をばりばり掻き毟られて、気にするなって方が無理があるのだけど。幽は胸にまで引っ掻き傷を増やしながら言葉を続けた。
「時に時に『アリス』殿、『三月狐』には会われたかな?」
「会っ……たわよ」
 あのキュウコンは忘れようがない。あんな人畜無害そうな顔をして鬼畜の限りを尽くしてくれるのだから。罪悪感を微塵も感じていないのほほんとした顔を思い出して私は顔を顰めた。
「彼は、彼はとても博識だ。チェ……の事も、もしかしたら何かわかるかもしれないよ! ただーし! 三月の発情期には狂ってしまうのが玉に瑕、そして今はその三月! 三月、三月、国王が御隠れになったあの日からずっと三月! 今日は三月六百三十日! つまり、つまり、つまりそれは! かくも強く恐ろしき支配者、チェ……チェッシャァァアァァァアアッ!!」
 それは一瞬だったから、あのキュウコンがまともだったという幽の話は耳から耳へと抜けてしまった。錯乱した幽は、どこからか取り出した五寸釘を、何の躊躇いもなく自分の腕に突き刺したのだ。私は急いで目を背けたけど、大きな耳は雫が垂れる音をしっかり捉えてしまった。
「あ、赤い血……」
 目を背けたせいで、視界に入るのは天使の笑みを浮かべたアブソル。まるで美味しいスイーツでも目の当たりにしたような顔を見ると、なんだか別の意味でげんなりしてしまった。
「なぁ幽、自分で傷つけるくらいならオレにやらせてくれよぉ! 駄目?」
 恐ろしい事を言ってのける災牙だけど、もう慣れっこになってしまった私は生温い目で見やりながら尻尾でどつく以上の事はしなかった。ああ、慣れって怖いわねぇ。
「ふふ、ふふ、ふぅふふふ! 王子様は良い御趣味を御持ちのようで。しかし、しかしだね王子様、わたくしは他人から傷つけられるのは大も大、大嫌いなのだよ!」
「そんな事言わずに……ぶべっ!?」
 いい加減話が逸れてきたと思ったら、突然無言の尾刀(アイアンテール)が飛んできて災牙の横っ面を引っぱたいた。
「はいはい、そこまでにしようね。俺達には行く所があるんだから。幽、乗せてくれるか?」
 今まで黙りこくっていた闇が割り込んだおかげで、いともたやすく行われるえげつない会話は終了した。
「ええ、ええ、そりゃあ勿論! 地下鉄へお乗りの皆様、お客様、お嬢様にお坊ちゃま! わたくしはいつでも大歓迎でございますとも!」
「じゃあ、頼むよ。行先は『月の宮』駅だ」
 駅名を伝えながら闇はポーチからお金を引っ張り出し、幽へ渡す。迷鳴の時みたいに本人が支払え! と激昂するでもなく、幽はにこにこ営業スマイルでお金を受け取った。チケットを買うのではなく、車掌に直接お金を払うシステムらしい。乗客がほとんどいないから通用するシステムね。
「ふむ、ふむ、ふぅむふむ! 大事な大事なお客様に幾つか注意点を申し上げよう! ひとつ、走行中は窓から手や顔や足、角に翼に尻尾に鰭、その他肉体の如何なる部分も出されませんよう! 尤も、欠損しても構わないと仰るのならその限りではありませんがね! もうひとつは、お客様の命はお客様御自身で守られますよう! 万が一の事がありましても、わたくしは一切合財責任を持ちません故。……御理解頂けましたかな? それでは、それでは、それではでは! どうぞごゆるりと、地下鉄の旅を御楽しみあれぇぇ!!」
 幽の声はだんだん甲高くなり、最後にはほとんど悲鳴に近い金切り声になっていた。そのキンキンする声で叫ぶように言い終えると今度は空中を、見えない壁にぶつかり続けるゴム毬のようにジグザグに跳ね回り、地面に激突する寸前でくるりとバック宙して着地、そして何事もなかったかのように丁寧なお辞儀で締めくくってから、漸く幽は元いた運転席へと引っ込んで行った。
「……」
「……」
「……なんだか疲れたね」
 急に静かになった駅の構内で、闇が私達全員の気持ちを代弁してくれた。それにしても、今日は金切声のポケモンにばかり会うわねぇ。


♣♣♣♣


 電車の中は外観と同じく、いたって普通の造りだ。普通、というのはもちろん現実の――いやいやこの世界も現実みたいだから、元いた世界の、と言い直しておくわ、とにかく何の変哲もない見慣れた内装だった。
「電車、まだ動かないのかしら」
 けたたましい警笛が鳴ってから、背伸びをして身震いをして。いつのまにか尻尾に張りついていた植物の種、通称引っつき虫を前脚で剥がして、と思ったらその前脚に絡まった引っつき虫を反対の前脚で引っぺがしたらまたくっついて……という不毛な戦いを何回か繰り返し、咥えれば引っつかない事に気付いてやっと投げ捨てて一安心してもまだ電車は動く気配がなかった。ちっとも揺れないし、ガタゴト響くうるさい音もしない。
 でも、私の隣にいた災牙は不思議そうに返してきた。
「は? 何言ってんだよ、とっくに出発してるぜ?」
「嘘。全然揺れないじゃない」
「幽の運転が上手いんだろうね。気になるなら外の景色でも見てごらんよ」
 運転が上手いくらいで、揺れずに動くものなのかしら、電車って。それに地下鉄に外の景色も何もあったもんじゃないわよね。言い返そうとしたけど闇は目で窓の外を示してるし……私は半信半疑のまま、座席に飛び乗った。後脚で立ち上がり、窓の淵に前脚をかけて外を覗き込む。瞬間、私は息を飲んだ。
「……!?」
 見えるものは無機質な狭いトンネルの壁、だと思っていたのに。
 窓の外には、ただひたすらに真っ暗な、何もない空間が広がっていた。延々と続く、例えるなら海の水を黒い空間に置き換えたような世界。電車が動く音がしないわけだ。どういう原理かはわからないけど、電車は虚空を滑っている。
「……ここ、どこ」
「地下の世界、としか言いようがないよ。俺だって知らない」
 隣に飛び乗ってきた闇が、私に倣って虚空を覗きながら言った。
「俺達の世界じゃない事は確かだよ。ね、災牙」
「ああ。オレの王権の範囲外だ」
「これも『チェシャー』に支配された影響、なのね」
 『チェシャー』が王権を奪い、世界を滅茶苦茶にしたから。こんな場所もできてしまったんだわ。これも全部『チェシャー』ってやつの仕業なんだ。ところが闇は首を横に振った。
「いや、地下の世界はずっと前から存在しているよ。時間が存在するよりもずっと前から。『チェシャー』の力だってここには及ばない」
 闇の呟くような低い声が静かな車内を流れていった。
 暫し私達は不可思議な地下鉄の旅を味わった。他にやる事もないので窓の外を見ていると、誰が使うのか、踏切があった。電車と同じく虚空に浮いた踏切は、赤い光を放ちながら警告音を響かせる。通り過ぎた途端に音階が変わる警告音は、妙に不安な気持ちにさせるからあんまり好きじゃない。
「お!? すっげー、見ろよ魅甘ちゃん!」
 反対側の虚空を除いていた災牙が興奮した様子で叫ぶ。ちょうど心細くなった瞬間だったので、私は急いで災牙の隣に立ち、白いふかふかに寄り添った。闇は力を温存しているのか、床で丸くなっている。
「地下の世界の住人がいるぜ、あそこ!」
 災牙が窓ガラスに前脚を押し付けて下方を示した。目印になるものが何もないからわかりにくいかと思いきや、何もないからこそ災牙の言う住人とやらはすぐに見つかった。遥か下の暗黒の底に、とてつもなく大きな生き物が悠々と身をくねらせているのがぼんやりと見える。
 龍だ。
 由緒正しき名を持つ一種のポケモンかもしれないけど、私の辞書には載っていないから残念ながら正確な名前はわからない。
 暗黒の中では仄白く見える、恐らく灰色であろうどっしりとした胴体。闇の中、なお黒々としてはっきりと浮かび上がる六枚の翼は縮れた夜霧のよう。鈍い金色の角、或いは鶏冠(とさか)が、辛うじて届いた電車の明かりを受けてどんよりと輝いていた。
 巨大な龍はゆっくりと頭を(もた)げ、私達を見上げた。あまりに遠過ぎてはっきりとはわからないけど。ただある瞬間、私の全身を鋭い気配が射抜いたのを確かに感じたのよ。だから、直感的に見られたのだと悟った。
 でもそれも一瞬の事だった。すぐに龍は頭を自らの進む方向へと戻し、最初と同じようにゆっくりと虚空を泳ぎ始めた。やがて龍は大きく身をうねらせて、電車の光さえ届かない、気の遠くなるような漆黒の底へと沈んで行った。


♣♣♣♣


 どこにも止まることなく電車は走り続け、景色を見るのも飽きてきた頃アナウンスが流れた。
「次はー、月の宮ー、月の宮ー。お降りの方は、お忘れ物のないようご注意ください」
 幽の声が、間もなく電車が止まる事を教えてくれる。私達はドアの前に移動した。
 ぷしゅーっとドアが開き、吐き出されるようにホームに降り立つ。乗ってきた駅とそっくりだったけど、電球は煌々と輝いていて点滅していない。まだ新しいものだ。
 さて、ここからどうやって地上に戻るつもりなのかしら。地下に来る時は延々穴を落ち続けて、それに頭がいっぱいだったおかげで戻る時の方法なんて考えてなかった。不安を込めて一番近くにいた災牙を見上げる。
「んじゃーエレベーターに乗るか」
「……は! エレベーターがあるの!?」
 さらりと災牙が口にした名前を危うく聞き流すところだった。そんな便利なものがあるなら、なんでわざわざあんな怖い思いしてまで穴を落ち続ける必要があったのよ。
「降りる時もこっち使えば良かったじゃない!」
「何言ってんだよ、落ちた方が早いだろ」
 そういう問題じゃない、と言い返そうとして、でも災牙の言葉も尤もな気がして私は口を噤むしかなかった。確かに、時間短縮は大事よ、特に電車は決まった時間に来るものだから、それを逃すと随分待たなくちゃならない場合だってある。私の住んでいるところはそうでもないけど、場所によっては電車は二時間に一本くらいしか来ない事もざらだと聞いたわ。だから、急いで降りるに越した事はない、んだけどね!
 もどかしい気持ちを噛み締めていると、ずっと静かだった闇が口を開いた。
「ごめん、二人は先に行っててくれるかな」
「あれ、闇いたのか?」
「いたよずっと!」
 とぼけた災牙を一括して、すぐに闇は具合悪そうに小さな呻きを漏らした。心配になって闇を覗き込む。
「く、闇? 大丈夫?」
「大丈……ばない。実は、落下している時に気持ち悪くなっちゃってさ。その後電車に乗ったから、今結構辛くて……」
 言われてみれば闇の表情は若干うつろで、額の月の輪がぼんやり光っているせいか余計に目が落ち窪んで見える。だから今まで言葉が少なかったのね。エレベーターも乗っている時、独特の気持ち悪さを感じる場合があるし、闇のこの体調だと厳しいかもしれない。無理して地上に戻ってもその場でダウン、なんて自体も十分あり得る。
「はぁぁぁ? 情けねーな闇。ま、そういう事ならしゃーねーか。ゆっくり休めよ。ここは『チェシャー』の支配の範囲ギリギリの場所だから、他より安全だろ」
 災牙も無理をさせようとはせず、闇が待合室のベンチに横になっている間に自販機で飲み物を買ってきた。
「これ、置いとくから。マシになったら飲んどけよ」
「ありがとう、助かるよ。……後で必ず合流するから、二匹とも気をつけて」
 このまま放置するのも気がかりだけど、闇が先に行くように言ったのだ。どうせなら、闇が地上に戻ってきた時には既に『双子』を見つけて合わせてあげたい。ぐったりした闇の回復を祈りつつ、私と災牙はエレベーターに乗り込んだ。ポケモールの時と同じく、ボタンは少ない。今度は二つ、“上”と“下”だ。背の高い災牙が“上”のボタンを押してくれ、エレベーターは上昇した。
 時間の感覚が狂うくらいエレベーターは昇り続け、無事に地上に到着。私達は、久しぶりに明るい光を見た。太陽は真上、時刻はもうお昼くらいだ。災牙が持ってきたポロックを口の中で転がしつつ、二匹並んで歩く。
 私達が今いる場所は、大きな木がぽつぽつ生えた草原だった。エレベーターの出口だって木のうろだったのだ。土地はなだらかな起伏を繰り返し、遮るものは少ないのに見通しはそれほどよくない場所だった。
「『双子』って何の種族なのかしら、災牙知ってる?」
「やっべ、オレも知らねーや。つーか闇も知らなかったんじゃね? 知ってたら教えてくれるだろーし。あれだ、『アリス』の力があればわかるんだろ」
 と、話している間にも向こうから誰かがやってくるのが見えた。鈴が鳴らないと確認して、私達はその誰かを待った。この世界に来てから、道端で出会うポケモンは希少な存在で、それ故に何か巡り合わせのようなものがあると思うの。偶然なんてない、全て必然、ってどこかの誰かが言っていた格言をぼんやり思い出した。
 そうこうしている内にやってきたのは、土色の胴体に、何より目を引く大顎を頭に生やしている二足歩行のポケモン。鉄の顎と鋼の身体を持つクチートは、鼻歌でも歌っているのかゆらゆら身体を揺らしながら、こっちに歩いてきた。近くで見ると、特徴的な大顎は紐で大雑把に縛られていた。やっぱり危ないものね。本人にその気はなくても、何かの拍子にがぶり、なんて事がないとも言いきれない。
「よし、あいつに何か知らないか聞こうぜ」
「そうね。あの、すみません。私達、『双子』を探してるんですけど……ご存じありませんか?」
「……双、子……?」
 クチートは私の言葉を反芻し、瞬きをした。何か知っていそうな反応だったんで、私は大人しくクチートの続きを待つ。
「『双子』……それ、俺達の、事……」
 クチートは呟くように言った。なんと! ついてるわね私達。本当は随分と探し回らなきゃいけないんじゃないかって不安だったんだけど。こんなに早く出会えるなんて幸運だわ。
 幸運すぎて何かに仕組まれているのでは、という胸騒ぎもあるにはある。でもこれも私の持つ鈴の効果だと言われれば納得するしかない。いや納得する事にするわ、余計な不安で縛られたくはないもの。
「良かった! あの、私達聞きたい事があるの。チェ」
「魅甘ちゃん! 避けろ!」
 私が言いかけた時、災牙の切羽詰まった叫びが聞こえた。なんだかよくわからないまま、私は反射的に飛び退さる。瞬間、ものすごい風圧と地響きを感じた。
「……え」
 一瞬前まで私が立っていた場所には、地面が大きく抉れたクレーターがひとつ。もし災牙が声をかけてくれなかったら、私はぺしゃんこになっていたところだった。
「外し、た……」
 相変わらず感情の感じられない呟き声。片手についた砂礫をぱらぱらと振り払いながら、クチートがこちらを見据えた。
「おいおいマジかよ……あの細い腕のどこにこんな馬鹿力が……うおっ!」
 クチートは大顎を振り回して災牙に叩きつけようとする。災牙は驚きながらも飛び越えるようにして避けて、クチートの真上から辻斬りを見舞った。災牙はかなり手加減して攻撃したみたいだった。そりゃそうよね、私達が探しているのは『双子』の名を持つ目の前のクチートで、その子からチェシャーの手がかりを聞き出さないといけない。倒してしまったら情報が手に入らないとあっては、思うように攻撃できないのは当たり前だ。おまけにクチートは悪タイプに効果抜群なフェアリータイプを持っているから、尚の事戦いにくいみたい。災牙の辻斬りを受けて後退したクチートは私に標的を変え、小さな手に力を込めて再度岩砕きをしかけてきた。またもや間一髪でかわした私だけど、クチートはもう片方の手でも岩砕きを放つ。
「危ないっ!」
 災牙が叫びながら鎌鼬を飛ばしてくれたおかげでクチートは身体をずらし、私はその隙に顔を狙ってスピードスターを飛ばした。威力は低くとも近距離で顔にダメージを受ければ、少なくとも目くらましにはなる。
 しかし、この攻撃には大きな誤算があった。クチートの頭部全体を駆け抜けた星屑は、大顎を縛っていた紐まで断ち切ってしまったのだ。
 本体だけでも手に負えないのに、凶悪な大顎まで自由になってしまった。拘束の解けた大顎は、私の目の前で上下に裂けるんじゃないかってくらい大きく開く。ずらりとならんだ鋭い牙から涎が糸を引いて滴り落ち、錆び臭い息がかかる。ぎゃああああもう駄目噛まれる食われる殺される……! 自分の首が胴体とさよならするビジョンが見えて竦み上がった私だけど、事態は思わぬ方向へと進んだ。
「ぎゃっ!」
 なんと大顎は向きを翻し、自分自身の胴体にがぶりと噛みついたのだ。金属が擦れて軋む嫌な音と悲鳴が同時に上がった。
「いだ、い……! 放、して……!」
 本体が必死にもがきながら、苦しげに呻いた。両手でなんとかこじ開けようとしているけど、あのクチートの怪力を持ってしても大顎を引き離す事ができないようだ。むしろ、余計に牙がぎりぎりと食い込んでいく。
「何ボケっとしてるんだよ魅甘ちゃん! 一旦退くぞ!」
「う、うん……!」
「待って!」
 私達が逃げようとしたら、優しそうな女の子の声がした。でも、辺りを見回してもクチートの他には誰もいない。
「私よ、私! お願いだから逃げないで!」
「……まさか」
 声を発していたのは、大顎だった。本体は全身に大量の涎と歯型を残してぐったりとへたり込んでいる。大顎だけが鎌首を擡げた蛇のように、こちらを向いていた。
「ごめんなさい、うちの弟がご迷惑をかけて。大事に至らなくて本当によかったわ」
「う、わ」
 大顎の黄色い模様に、奇怪な目玉模様が浮かび上がっている。模様はぐるりと私達を見渡して――え、模様じゃなくて本物の目!?
「ああ、驚かないで……。自己紹介させてくださる? 私は、いえ私達は『双子』、種族はご覧の通りクチート。私は姉の魔白(マシロ)、こっちが、一般に言う本体が弟の魔黒(マクロ)よ」
 大顎はお辞儀するかのように下向きに曲がる。声だけ聞いていればとてもまともで優しそうな感じなんだけど、何しろ喋る度に恐ろしい牙が見え隠れして、涎が垂れ、錆びのにおいがして、薄気味悪い目玉模様がぎょろぎょろ動き回るもんだから全然落ち着かない。
「ごめんなさいね……魔黒がなかなか手入れしてくれないから、汚らしいかもしれないわね……」
 大顎は、ううん魔白は力なく垂れ下がり、辛そうな声を出した。顎だけではお手入れができないとあっては、女の子としては非常に苦しいだろう。身だしなみは乙女のエチケットなのだから。
「そんな事ないわ、仕方のない事だし」
「ああ、優しいのねエネコさん。魔黒には、後でもう一度頼まなきゃ。……そういえばさっき、私達に訊きたい事があるって言っていたわね、何かしら。私が答えられる範囲の事なら何でも話すわ」
 耳に心地良いアルトの声で、魔白はにこりと笑った。のだと思う。目玉模様をぐにゃりと歪め、真っ二つに裂けた口の端を吊り上げたから。
「あの、私達『チェシャー』について知りたいの。何にも情報がないから、倒しようがなくて……」
「『チェシャー』を、倒す……?」
「無理……あいつ、見つからない……」
 ここで私は自分の正体を明かすべきか躊躇った。また身体を狙われたら……うう、凶煌の時のような目に遭うのはごめんだわ。でも、『アリス』だと伝えないと納得してくれなさそうだし、そもそも同性の魔白なら警戒する事もないかもしれない。よし。
「大丈夫。私は『アリス』、種族はエネコ、名前は魅甘。私が『アリス』なの」
「ア……『アリス』……!?」
「あ、あなたが……!?」
 二つの声が重なり、魔黒も魔白も揃って口をあんぐり開けていた。魔白の場合、下顎が地面についている。異なる姿の二匹? の動きがシンクロする辺り、息の合った双子なのだと納得できる。
「まあ、とうとう来てくれたのね『アリス』、ありがとう! ほら魔黒、握手しなさい! 手の無い私じゃできないのよ!」
 先に我に返ったのは姉の魔白だった。魔白は顎の先で魔黒の身体を押して握手するよう促した。
「『アリス』……待って、た……」
 魔黒は私の両前脚を掴み上下に振った。視界ががくがくぶれて、前脚が引っこ抜けそうになる。
「こら! 加減しなさい!」
「ぎゃっ!」
 魔白が声を荒げて噛みつき、私は恐らく悪意はないけど乱暴な握手から解放された。
「全く……『アリス』、いいえ魅甘さん。お待ちしていました。という事は、お隣にいるのは『スペードのジャック』様?」
「おう、オレが正式な王位継承者だ。『チェシャー』を倒すために協力――」
「姉ちゃん、来る……! 逃げる……!」
 魔黒の唸り声が災牙の言葉を遮った。と、周囲に巨大な影が落ちる。
「魅甘ちゃん!」
「うわ!」
 物凄い風が巻き起こり、私は危うく吹き飛ばされそうになる。災牙が私に覆い被さり、守ってくれたおかげで怪我はせずに済んだけど。ばさり、と羽音がした。風に煽られた鈴がけたたましい音を掻き鳴らした。
 風が止んだ時。私達の前からクチートの姿は消えていた。
「……あれ、『双子』は……?」
「最悪だ! 魅甘ちゃん、あれ!」
 災牙が示した先を見上げる。あれは……バルジーナだわ。悠々と空を飛ぶ、その鉤爪にはクチートの本体と大顎、つまり『双子』を鷲掴みにしている。『双子』が攫われたんだわ! さっき鈴が鳴ったと言う事はまさか、あいつ『チェシャー』なの? それとも手下? どちらにせよ、早く助けに行かなきゃ『双子』が危ないわ!

◇第八章◇骨と羽毛―Rib and Feather― 


「乗れ!」
 災牙は私を咥えて放り投げ、背中に乗せて走り出した。何、とはっきり言わなくてもこれからするべき事はただ一つ。あのバルジーナを追って、『双子』を救出するのだ。
「魅甘ちゃん、見失うなよ!」
「もちろん!」
 私は災牙の首回りの毛を掴み、尻尾を災牙の腰周りの身体に巻いて固定させてしがみつく。そうして落ちないようにしたところでバルジーナを見上げた。距離が開いたせいか鈴はまた静かになった。鈴、そうだ確認したい事がある。
「そういえば。災牙、さっき鈴が鳴った時光ってた? あ、右に曲がって!」
「わっかんねぇ。つーか腹の下にいた魅甘ちゃんの首元なんて見えねーよ!」
 鈴が鳴る時は必ず蒼白い光に包まれている。今回も多分そうだと思うのだけど、映すものが何もなかったので私では確認できなかったのだ。しかし災牙が見れなかったのなら仕方ないか。
 私がバルジーナを視認し、災牙に方向を教えて走ってもらう。しばらく行かない内に、高い崖の上に開いた窪みにバルジーナが降り立ったのが見えた。
「どうやってあそこまで行けばいいのかしら」
 茂みに身を潜めながら崖に接近する。私も災牙も鳥ポケモンのような翼を持たないので、あの崖の上まで行くとしたら岩壁を登るくらいの手しか思いつかない。しかも、四足歩行のポケモンの足では相当難しいだろうし、万が一登れたとしても時間がかかり過ぎる。その間に攻撃されたり場所を移されたりしたらおしまいだ。
「魅甘ちゃん、オレに考えがある。魅甘ちゃんだけなら行けるかもしれねぇ」
 無い頭を捻って方法を考えては否定していると、災牙が耳打ちしてきた。
「本当?」
「ああ。まず――」
 そうやって災牙が提案してきたのは、はっきり言って無茶苦茶な方法だった。
 まず私を咥えて災牙が勢いをつけてジャンプ。高さが頂点に到達したところで私を放り投げつつ、シャドークローを私に放つ。私はノーマルタイプだから、シャドークローを受けてもダメージはなし。私はそのシャドークローを全力で目覚ましビンタする事で、反動で空中から更に加速し崖の上行き着くというもの。
「そんなの無理よ!」
 私は全力で否定した。とても成功するとは思えない。
「じゃあ他にアイデアあるか!? ないだろ! やらなきゃいけねーんだ、魅甘ちゃん頼む!」
「う……」
 確かに、別の案を出せと言われても何にも言えないのも事実。ゆっくり考えている余裕だってなさそうだ。だって今、バルジーナが巣から飛び立つのが見えたから。ぐずぐずしてられない、チャンスは今しかない。
「わ、わかったわよやる、やればいいんでしょ! その代わり災牙も上手くやってよ?」
「もちろん、そうこなくっちゃな!」
 災牙は小声で頷いて見せた。空にバルジーナが見えないかチェックしてから、私達は茂みから這い出す。さっそく実行する事となり、災牙は私の首根っこを咥えた。
「……降りる時はどうすればいいの?」
 大事な事を忘れてた。行きは良くても帰りは恐い。何か考えているのかと聞いてみたけど、帰ってきた答えは実に単純明快だった。
「そんなの飛び降りればいいだろ!」
 そうきたか。あの高さから落ちたらひとたまりも……あれ、よく考えたら私、あれよりも遥かに高い穴を落ちたばかりよね。うん、あのマンホールから飛び降りた時に比べたら、あの高さの崖くらいくらいどうって事なさそうね。
「その間にオレは闇と合流してからここに戻ってくる。必ず双子を助けてやれよ! ……行くぜっ!」
 十分下がったと判断したのだろう。災牙は崖を睨みつけて(私の目の高さから推測して、おそらく)全速力で走り始めた。喋ったら舌を噛むかもしれないので、私は口を噤んで合図を待つ。
 トップスピードに乗ったところで、災牙が茂みをバネ代わりに飛び上がった。もうすぐ合図だ、私はいつでも目覚ましビンタが打てるように前脚に力を込める。びっくりするほど高く浮き上がっている、こんなにジャンプできるものなのね。首元の圧迫感が消えた。
「今だ!」
 私は身体を捻って目覚ましビンタ。災牙はシャドークローを私目がけて放つ。がぃん! って感じの音がして、災牙は下へ、私は上方へと弾き飛ばされた。
「かっ飛べぇぇぇ私ぃぃぃ!」
 私の身体は崖の横穴目がけて一直線に跳んで行く。あんな無茶苦茶な作戦が一発で成功できるなんて奇跡だわ、多分もう二度とできないんじゃないかしら。
 出っ張った岩に尻尾を引っ掛けて、私はなんとか巣の中に入る事ができた。
「はあ、なんとか、来れたみたいね……!」
 高い崖の上の巣に辿り着き、ぞっとした。至る所骨だらけだ。大きさも形も様々な頭蓋骨に、あばら骨、手足の骨、翼の骨。どの骨も滑らかで真っ白に磨き上げられてるけど、返って骨に対する執着のようなものを感じられて余計に怖かった。その中で唯一白以外の色味をもつ存在はすぐに見つけられた。眩しいくらいの『死』の中、魔黒と魔白が横たわっている。何か大きなポケモンのあばら骨が檻のように、クチートを閉じ込めていた。
「魔白! 魔黒! どっちか返事をして!」
 私は急いで駆け寄りあばら骨に縋りつく。骨格子を揺さぶってみたけどびくともしなかった。クチートの反応もない……『双子』の名に属している彼らが、死んでも生き返る分類に入るのかわからない。
「……ぅっ……」
「魔白!?」
 呻き声がした。女の声だったから魔白だ。呻いただけで、目を開けない。でも死んでないのがわかっただけでも収穫だわ。なんとかして『双子』を傷つけないように骨の檻を破壊しなくちゃ、と意気込んだ。
「何をしているんだい、あんた」
 後ろから声をかけられた。ぎぎぎ、と音を立てそうなくらいぎこちない動きで振り返ると、鋭い目つきのバルジーナが私を睨んでいた。巣の主に見つかってしまった。こんな早く戻ってくるなんて聞いてないわ、なんですぐ戻ってきたのよ!
「……? あれ」
 鈴が、反応してない。って事は、あの時は単に風に吹かれて揺れただけで、バルジーナは『チェシャー』の側じゃないって事? だとしたら何故『双子』を攫ったのかしら。
「人の棲家に勝手に入り込んで、何か言ったらどうだい」
「どうしてこのクチートを攫ったの?」
 決して目を離さず、いつ襲いかかられても最低限の対処ができるように身構えながら尋ねた。バルジーナはせせら笑う。
「バルジーナが骨を集めて何が悪いってんだい。あたしはそのクチートの骨が欲しかっただけさね」
 骨を手に入れる、という事はこのクチートを殺すつもりだ。そんな事させるもんですか。でもそういえばこの世界には妙な法則があったのよ。
「殺されても生き返るのに?」
「ああ、それなんだよ。ポケセン効果とやらで、殺しても生き返るせいでロクに骨を集められやしない。でもね」
 バルジーナは自慢げに笑うと、骨の山の中から何かを取り出した。中身の詰まった小瓶だった。
「これ、なんだと思う?」
 突然そんな事を聞かれても、わかるわけがない。それに『双子』が気がかりで。私はずっと身構えっぱなしだったけど、意外にもバルジーナに戦意はないようで、小瓶を持ち上げて私によく見えるようにした。
「ふふふ、これは魔法の胡椒。この胡椒を振りかけると、胡椒一粒につき一年寿命が縮まるっていう代物なんだよ。殺しても寿命が来るまで生き返るなら、その寿命を縮めてやればいいのさ」
 バルジーナが持っているその小瓶には、とんでもない効果が秘められているらしかった。にわかには信じがたいけど、巣の中いっぱいに散らばっている骨を見る限りあながち嘘でもなさそうだ。あれを一振りされるだけで、どれだけ寿命が縮んでしまうのか。というか、バルジーナに戦意がないのは私が近づいた途端に胡椒を振りかけて、私の寿命を終わらせようとしているからなのかも。殺されないためにはどうする?
「とにかく、そのクチートを返して! 私は『アリス』、種族エネコ、名前は魅甘! どうしても魔白と魔黒の力が必要なの!」
 バルジーナは雌しかいない種族、だから変な意味で襲われる事もないだろうと、私は先手を打って名乗る。バルジーナは目をまん丸くさせた。
「おやまあ、なんて事、お前『アリス』なのかい」
 バルジーナは凶器の胡椒を大事そうに骨の奥に仕舞いこむと、敵意がない事を示すように嘴を下げ、姿勢を低くして私に近づいてきた。
「いいわ、クチートの頭蓋骨は諦めてあげる。ただし条件があるよ」
 ここでバルジーナは言葉を区切る。とんでもない無理難題をふっかけられたらどうしよう、と危惧していると、バルジーナは微笑んだ。
「『アリス』の雫をおくれ。それでこのクチートは諦めてあげるわ」
 あれよあれよという間に、私はバルジーナに引っくり返されていた。もしバルジーナが敵意をもった存在だったら終わってたわ、反省しなくちゃ。今からだってどうなってしまうかわからない。緊張で四肢を突っぱねる私を見て、バルジーナはああ、と何かに思い至ったような声をあげた。
「名も知らない相手に抱かれるのは可哀想だから名乗ってやろうかねぇ、あたしは『公爵夫人』、種族はバルジーナ、名は骸梨(ガイリ)
 バルジーナ、骸梨は私の頬に嘴を押し付けた。猛禽の鋭い嘴で傷が――つく事はなく、毛繕いされるような柔らかな感触だった。
「……?」
「大丈夫。嘴の先は削ってあるよ」
 私の不安が表情に現れていたようで、骸梨は嘴を見せてくれた。言われた通り、尖っているはずの嘴の先端は丸く滑らかに削られていた。
「あたしは、女の子と遊ぶのが好きなんだけどねぇ。女の子と遊ぶ時に、傷でもつけたら大変な事になっちゃうからね。このオノノクスの牙飾りは、削った嘴の代わりに肉を切り分けるためのものなのよ」
 そう言って、骸梨は頭を傾ける。バルジーナは個人の趣味で、色々な骨を頭の飾り羽に刺して(かんざし)にするとは聞いた事があるけど、まさかオノノクスのような強いドラゴンの牙を持っているなんて。それもやっぱり、胡椒で寿命を削って仕留めたのかしら。
「だから安心して楽しみなさいな、魅甘ちゃん」
 骸梨が翼で抱き込んできて、私はふわりとした羽毛に包まれた。その中で骸梨が啄むような、というか実際に啄むキスをしてくる。これだけ骨に囲まれて暮らしているのだから、腐臭のひとつでもするのかと思ったけど、骸梨の吐息からは爽やかなハーブの香りがした。
「おや? 匂うかい?」
 私が鼻をひくつかせていたのを見て、骸梨は首を傾げた。
「ううん……ハーブの香りが……」
「ああ良かった。腐臭でもしたら雰囲気が台無しだものねぇ。あたしは匂いには気を使っているのよ」
 ほっとした吐息をついて、骸梨は愛撫を始めた。といってもただ柔らかい羽根で全身を撫でられて、ふんわりとキスをされるだけ。骨を集める、って物騒な趣味からは想像もできないくらい骸梨の触れ方は優しかった。
「ふふ、綺麗な毛並みだこと。『アリス』ちゃんは、大事にされて育ったんだねぇ」
「ぅにゃっ……あ、ありがとう」
 まるで壊れ物のように大切に私に触れてくる骸梨。言葉と羽根がくすぐったくて、私は小さく笑った。この短い間に、私は骸梨に融かされてしまったらしかった。
「女の子は誰だって、大切にされたいと願うものなのよ。そうだろう、『アリス』ちゃん。ほら、気持ち良いねぇ」
 骸梨の羽根が首筋をくすぐり、お腹を撫でる。時折硬いけれど尖っていない嘴で、私の毛並みを梳く。心地良い、もっと触れて欲しい。もっと刺激が欲しい。そんな欲求を引きずり出すかのように、骸梨は優しく残酷に私を愛した。
 まだ胸にも股の間にも触れられていないのに、私の身体は十分すぎるほど火照っていた。その様子を見た骸梨はやっと次の行動に移る。
「さあここ」
「きゃぅっ、にゃあああっ」
 触れるか触れないかの微妙なタッチで、羽根が秘部の突起を撫でる。それだけで私の後脚が震えて、喉の奥から甘ったるい悲鳴が溢れてしまう。たった一撫ででこんなあられもない声を出してしまったのが恥ずかしくて、私は慌てて口を引き結ぶ。
「恥ずかしがる事なんてないんだよ。ここには女しかいないんだからね。存分に鳴いとくれ」
 骸梨は穏やかに告げた。骸梨の羽根が、いよいよ本格的に秘部の突起に触れ始める。小さな宝石でも磨くように表面を、感じ過ぎる神経の塊を撫で付けられて腰が跳ねるのを止められない。じっくりとろ火で煮詰められた後の刺激は、目が眩むほどの快感だった。
「あっあっ、んにゃ、ぁ、」
「どうだい、気持ち良いだろう。女の感じる場所は女が一番良くわかるってものなのよ」
 だんだんと骸梨の触れるタッチが強く、撫でる動きも素早くなってくる。私はされるがままに腰を跳ねさせ、にゃあにゃあ鳴き続ける玩具のようだった。大きくなる刺激に耐えられるはずもない。押し上げられるまま、昇り詰める。朱色の瞳が嬉しそうに歪んだ。
「さあ、仕上げといこうじゃないか。もっともっと深い快楽を、女の先輩として教えてあげようかね」
 絶頂を迎え、思考の回らない頭でぼんやり見ていると、骸梨は転がっている骨から、両端の丸くなっている棒状の骨を取り出した。腰に巻いている骨飾りを外して、まずは自分の中に骨を埋める。気持ち良さそうな喘ぎが嘴の隙間から漏れた。
「あっ……ん……『アリス』ちゃん。一番奥でイッた事はあるかい?」
「お、奥……?」
 半分期待、半分怖さ。私ははあはあと荒い息のまま聞き返す。
「女の子がね、とっても気持ち良くなれる場所さ。とにかく、やってあげるよ。一緒に気持ち良くなろうねぇ、『アリス』ちゃん」
 ずぶずぶと骨は私の中に侵入してきた。硬い異物を押し込まれて、怖くないと言えば嘘になる。でも私はその先の快楽に期待して、骸梨の羽根にしがみついた。私、いつからこんないやらしい子になっちゃったんだろう。
「ふあっ、あぇ……」
 ゆっくりと骸梨が動き始めた。繋がっている部分から粘っこい音が広がっていく。骸梨は私の中を探りながら、自身も気持ち良さそうに嘴を半開きにさせている。そのくせ腰遣いを微妙に変えて、私が一番反応する場所を探っているようだった。
「ここだね。すこし掠るだけでにゃあにゃあ鳴くから、すぐにわかったよ」
「にゃあぅっ! はひ、そこ、やらぁっ」
 根元まで押し込んだ骨で、抉るように骸梨はそこばかり攻め続けた。するとお腹の深いところから、全身へ広がり呑み込んでいく巨大な悦楽。骸梨の動きは決して激しくもないし、私に無理をさせているのでもない。なのに。
「……! ――!」
 私は声すら上げられなかった。気持ち良い、なんて生易しいものじゃない、ただただ衝撃としか言えない何かが私の全身を駆け巡り、吹き荒れる。脳が融けてしまうのでは、と心配になるほどで。大き過ぎる快楽のせいで涙も痙攣も止まらない。息が、できない。
「大丈夫だよ『アリス』ちゃん。あたしが見てる、あんたはどこにも消えない。さ、遠慮せずおイき」
「……ぁ、にゃあ゛っ……」
 やっとそれだけの声が喉を突破した。骸梨の羽根がふわりと私を包む。その羽根と一緒に、私の思考もふわふわ浮かび上がって――。


♦♦♦♦


「闇! もう体調は戻った?」
「ばっちりだよ。……悪かった、心配かけて」
「治ったんなら良しとしよーぜ。『双子』も見つかったんだしな!」
 『アリスの雫』でお肌と羽毛が艶々になったと、とても気を良くした骸梨に『双子』ごと崖の下まで送ってもらった私は、暫くぶりに闇と再会を果たした。災牙の後ろで闇は申し訳なさそうに頭を下げて、私と災牙がそれを止める。仕方のない事なんだし、いざって時のためにも体調を回復させるのは重要な事。闇はほっとした様子で微笑んでくれた。
「う……ぐ、あ……?」
「魔白! 魔黒! 大丈夫?」
 気絶していたクチートが呻き声を上げたので、私達は急いでクチートを取り囲む。まずは本体、魔黒がゆっくりゆっくり目を開けた。
「お……俺、は……大丈……夫。姉ちゃん……!」
「ぅん……あ、あれ? 私達、確かバルジーナに……って魔黒!? 怪我はない?」
 魔白も魔黒も、目覚めて最初に気にかけるのは片割れの事だった。姉弟愛って素敵ね。私は兄弟がいないから、こうやって姉弟を想い合う姿がちょっぴり羨ましい。
「魅甘さん、あなた達が助けてくれたのね! ありがとう、心から感謝するわ」
「あり、がと……魅、甘」
 互いの無事を確認した二人は、まず本体が後ろを向いて魔白が大口を折り曲げ、180°回転して魔黒が腰を直角に曲げてそれぞれお礼を言ってくれた。なんだか申し訳ないわ。私が二人を助けたのは、『チェシャー』の情報を得たいがため、というとっても自分勝手な理由。もちろん目の前で誰かが襲われて、自分が助けられる状況ならば助けるけれども。そして、二人が無事で良かったと心底ほっとしたけれども。根底には自分の利益を追求したいという浅ましい考えが流れているのを、私は否定できなかった。うう、考えすぎかなぁ。そうだ、結果『双子』は大きな怪我もなく済んだし、誰も損していない。それで良いって思わなきゃね。
「良かったな、魔白、魔黒! じゃ、早速で悪ぃけど『チェシャー』の事教えてくれよ!」
 待ち切れない、と勢い込んで災牙が声をかけた。闇が嗜める。
「もう少し休ませてあげなよ」
「いえ、ご心配には及ばないわ。……畏まりました、我らが王子様。そして、英雄『アリス』、我らが希望の星。私共が知り得る事を、全てお伝え致しましょう」
 魔白は姿勢を正し(実際に正したのはほとんど魔黒だけど)、改まった口調で言った。まるでお芝居の台詞のように。
「まずは、『チェシャー』についての詩を。ご存じでしょうか?」
「オレは知らねぇな。闇、お前は知ってるか?」
「いや……はっきりとは覚えていないな。良かったら(そら)んじてくれるか、魔白」
「ええ、喜んで」
 魔白は微笑むと、その恐ろしい見た目とはかけ離れた美しい声で歌い始めた。
'''チェシャーの獣に気をつけて
獣は支配者、誰より強く残酷で
獣は賢者、誰より賢く博識で
獣は間者、誰にもわからず神出鬼没
チェシャーの獣に気をつけて

私は誰だい?あなたは誰だい?
もしも私がチェシャーなら、開放するわ何もかも、
こんな世界はもうこりごり、チェシャーなんて打ち倒せ!
もしもあなたがチェシャーなら、忘れてちょうだい今の事
素敵な世界、最高の国、私はチェシャーを愛してる! '''
「これが、『チェシャー』にまつわる詩。いつ誰が作ったかはわからないけど、本当に『チェシャー』を表す詩だというのは間違いないわ」
 意味深な歌を歌い終えると魔白は大顎を折り曲げてお辞儀をし、注釈を付け加えてくれた。
「ここからわかる事は……『チェシャー』は獣型のポケモン、もしくは獣型のポケモンを遣いの者にする事が多いって事か。そしてやはり神出鬼没は共通か。やっかいだな」
 闇は難しい顔で考え込む。頭を使った事は全て闇に任せきっている私と災牙は、せめて邪魔にならないようにと黙っていた。
「そうね……レユニオンって知ってるかしら?」
 魔白が新たな名前を出す。何かのヒントなんだろうけど、全然知らない言葉じゃヒントにすらならなかった。
「いや、知らないな」
 闇は答えて、私達の顔を見る。災牙と二匹揃って首を横に振って答えると、魔白が説明してくれた。
「レユニオンは海辺の集会場。多くのポケモンが集まるわ。もし集まった中に『チェシャー』かその側についているポケモンがいれば、魅甘さんの鈴が反応する。それでかなり絞り込めるはずよ」
「なるほど、場所の名前か。つまり、レユニオンってところに行けばいいんだな?」
「ええ。それから、もう一つ。『チェシャー』は普段は私達には決して入れない空間に潜んでいて、必要に応じて――遣いの者に指示したり、自身が出向く時にだけ外に出てくるらしいの。だから『チェシャー』を倒すためにはこちらの世界にいる時か、なんとかして『チェシャー』の空間に入る手段を見つけるしかないわ」
「そうなのか?」
 魔白が最後に言ってくれたのは、恐らく闇でも知らなかった事。しかし、これでますます『チェシャー』の謎が深まった。こちらからは干渉できない世界にいるって、普通のポケモンじゃあできない事よね。
「あと、これは役に立つかどうかわからないのだけど……チェシャーの好物はチーズなんですって」
「うーん……一応覚えておこう」
 魔白が首を傾げつつ、とはいえ実際に傾げたのは大顎の根本だけど、そうして付け足した情報に闇は苦笑した。そうよね、『チェシャー』の好物なんて知ってても、ご馳走するわけじゃないもの。その辺にチーズを置いておけば寄ってくるとか、流石にそんな馬鹿ではないでしょうし。
「これが私達が知っている全て。『チェシャー』を打ち倒す事ができれば、私達は元の『双子』、別々の身体に戻れるの。だからそのために色々調べたのよ。お力になれたかしら?」
「十分よ、色んな情報ありがとう、とっても感謝するわ!」
 正直、情報が増えたと同時に不安も増えた。世界単位で移動しているらしい『チェシャー』は、本当に何者なのかしら。……考えても仕方ない、今のところ私達の次なる目標は、レユニオンを目指す事だ。
「教えてくれてありがとう。この情報は決して無駄にはしないわ。それじゃ、私達、もう行くわね」
「ええ、幸運を! 必ず『チェシャー』を打ち倒してくださいませ、我らが英雄『アリス』!」
「こ……幸運をぉぉ!」
 魔白と魔黒の声援を受けて、私達はレユニオンに向かって歩き出した。


♣♣♣♣


 久しぶりに三匹で歩いていた私達は、林の小路へ差し掛かっていた。この林を抜ければ、海に出るはずなのだ。
「何、この音!?」
 林の奥から突如、物凄い爆音が響いた。きっと技によるものだろう。この先で誰かが戦っているみたい。
「巻き込まれないように避けて行こう」
 闇は用心深く言い、私達も同意。余計なトラブルに首を突っ込まないに越した事はない。私達は進路を左に逸れて、その戦場をぐるっと回って移動する事にした。
 でもこれには誤算があった。私達が避けても、トラブルの方から飛び込んでくる可能性だって無きにしも非ず。せっかく大回りして行ったのに、私達の方へと音の源が近づいてきた。しかも速い。
「うおっ!?」
 前方の木の影から火炎放射らしき炎と放電と思われる電光が飛び出し、その技の主も私達の前に飛び出してきた。
 威風堂々とした鬣を靡かせた立派なレントラーと、煌々と炎の鬣を輝かせたギャロップが戦っていた。
「私は『ユニコーン』、種族ギャロップ、名は火悪(ヒオ)!」
「我は『ライオン』、種族レントラー、名は獅昏(シコン)!」
 二匹は私達に気づくと、一旦戦いの手を休めて名乗った。私達もとりあえず自分の属する名前を言う。
「何の争いなのよ」
 自己紹介もそこそこに、私は二匹に問い掛けた。「そうなの!」とまずは火悪が身を乗り出した。
「ねぇ聞いて! 彼ったら、私に殺されてくれないの!」
「何を申すか! そなたこそ、我に殺められるべきではないか!」
 それをレントラーが遮り、否定する。真っ向から殺意をぶつけ合う二匹なのに、妙に息が合っていた。
「……殺したいほど憎いって、何があったのよ」
 物騒な二匹の殺意がいつこちらに向けられるかわからない。いつでも身を引けるよう手足を緊張させながら再度尋ねた。
「違う違う、憎いんじゃないわ!」
 火悪は首を振って否定し、いきなり獅昏と距離を取って向かい合った。獅昏が答える。
「そうだとも! 我は妻を愛しておる!」
「私だってあなたが大好きよ、ダーリン! だから、お願いだから殺されてよぉ!」
 火悪はその鋭い一角で獅昏を貫こうと振りかぶった。
「何を申すか! 女子(おなご)は男を立てるもの。そなたこそ、我に殺されて然るべきなのだ!」
 硬化させた尻尾で角をいなした獅昏は、弾かれてさらけ出された首に食らいつこうと飛びかかる。しかし火悪は前脚を軸に素早く回転、硬い蹄での回し蹴りを獅昏の顎に決めた。すごく痛そうな音がして、折れた牙が飛び散ったのが見えた。
「っぐ、がふっ」
 口から赤い飛沫を迸らせ、倒れる獅昏。当然のようにそわそわしだした災牙に、先手を打って尻尾でビンタを食らわせた。
「ダーリン、これで楽にしてあげるわ!」
 一度下がった火悪が全身に炎を纏い、角を真っ直ぐ獅昏の喉笛に向けて突進した。
「ふふ……今回は、私の勝ちね、獅昏……ああ、マイダーリン」
 返り血で真っ赤になりながら、火悪は恍惚と呟いた。私は驚いたり悲しんだりするよりも先に、災牙が暴走しないかの方が気になっていた。死や血に対して感覚が麻痺してきたのは悲しむべき事なんだろうけど、この世界の常識にケチをつけても始まらない。私自身は誰かを傷つけるなんて絶対したくもないから、さっさと慣れた方が心臓の負担が少なくて済む。
 それより気になるのはどうして殺し合おうとしていたのか。だって、愛してるだのダーリンだのと言った相手を傷つけ、あまつさえ殺してしまおうとするなんて。この世界に来てだいぶ守備範囲が広がった私の理解を、彼らは更に軽々と飛び越えている。
「君は……このレントラーを愛しているんだろう? だったらどうしてこんな事をするんだ?」
「何故殺し合いをするかですって? それが愛ってものなんじゃないかしら」
 闇の問いに、今しがた命を奪ったとはとても思えない優しい顔で火悪は答えた。
「だって炎や電気で焼かれる熱さ。命が無くなるまでの痛み、苦しみ。それらを与える時、与えられる時。私は、そしてダーリンはお互いの事しか考えられない。それってとっても素敵でしょう?」
「そ……うだとも、我が妻の言う通り」
 獅昏は口から血を吐きながらも、ゆっくりと起き上がった。
「あん、ダーリンもう生き返っちゃったの? 傷が浅かったのかしら」
 火悪は甘えた声を出して獅昏にすり寄った。獅昏はさっき自分を殺したギャロップを愛おしそうに見つめて、毛繕いするように差し出された首を舐める。
「次は我が噛み殺す番だな。弱り行く心の臓に電気を流せば、長くそなたを愛せるのではないか?」
「ふふっ、素敵だわ。なら、私は今度は頭蓋を踏み潰してあげるわよ? 敢えて一瞬で意識を飛ばしてあげるのも新鮮よね」
 完全に二匹だけの世界に入ってしまったようで。私はこれまでも災牙を始め、色んなぶっ飛んだポケモンたちを見てきたけど、この二匹は強烈だわ。お互い以外は眼中になく、『チェシャー』の情報も得られそうにない。となれば長居は無用で、私達はこの場を離れる事にした。
 のだけど。
「そうだ、あなた達も愛してあげるわ」
「それは良い考えだ、我が妻よ」
 ぎらぎらと嫌な輝きを放つ瞳を携えて、二匹が迫ってくる。ギャロップはとても足の速いポケモンだ、逃げ出したところで追いつかれてしまうだろう。となると、戦って倒すしかないわよね。
「なんだ、やる気か!?」
 災牙が角を構えて私達の前に進み出た。
「おーほっほっほっほっほ!!」
 一触即発状態の時、聞き覚えのある、そしてできれば聞きたくはない声がぼよんぼよよんと弾みながら近づいてきた。ちりん、ちりんと揺れ始める私の鈴。
「だ、誰よあなたは!」
 水を差された火悪は声の方を向いて嘶いた。木の間からピンクの塊が飛び出して来て、両手と足と尻尾を生やしたポケモンの姿となって着地する。ああ、この動きももう見たくなかったわ。
「私様は『ハンプティ』、種族ラッキー、名は毬暗! この悪女! そうやって王子様に催眠術をかけて、欲望のままに傷つけているのね! この私様が、誇り高きレントラー様を馬の骨の呪縛から解き放ってあげるわ!」
「は!? 馬の骨ですってぇぇぇ!」
 最初から喧嘩腰で侮辱全開の毬暗。案の定火悪は文字通り燃え上って、ダン! と蹄を打ち鳴らした。
「無礼者が、我が妻を愚弄するとは許さんぞ!」
 獅昏の方も聞いただけで卒倒しそうな、お腹に響く唸り声を上げている。まともな神経のポケモンなら身の危険を感じて引き下がりそうなものだけど、毬暗の暴走を止めるには不十分だったようだ。よよ、と毬暗はわざとらしく泣く真似をして、舞台で悲劇のヒロインでも演じているかのよう。完全に自分に酔っていた。
「ああっ可哀想なレントラー様、こんな悪女のために怒るなんて、やっぱり洗脳されているのね!」
 毬暗への返答は、電光を纏う強烈な突進だった。獅昏のワイルドボルトを受けた毬暗は弾き飛ばされると、今度は木にぶつかって跳ね返り、火悪にカウンターを放つ。まさか跳ね返ってくるとは思っていなかったようで、火悪は悲鳴を上げて吹っ飛んだ。
「貴様ぁぁぁぁ!!」
 獅昏が触れずとも相手を殺せそうな凄みのある声で叫び、毬暗へ襲いかかった。今、火悪、獅昏、毬暗の三匹とも私達を見ていない、という事は。
「魅甘、災牙、この隙に離れよう!」
「言われなくとも!」
「あの勘違い女も役に立つじゃない!」
 私達は申し合わせたかのように一目散に走り出した。背後で炎が弾け、雷が轟き、金切り声が響き渡ったけど振り返る事はしなかった。もうっ、勝手にやってちょうだい、そして巻き込まないで!
 とにかく離れたい一心で、一度も止まらず振り返らず、全速力で走り続けていると、唐突に林を抜けた。
「海だ!」
 目の前いっぱいに広がる青に思わず溜め息が出てしまう。鼻に抜けていく潮の香り。
 瑠璃色に染まった海が、遠く弧を描いて水平線の彼方へと消えていく。太陽の光が乱反射して、本当に宝石を敷き詰めているみたいに煌めいている。砂浜は真っ白、これでもしヤシの木でも生えていたら立派なバカンスができそうだわ。
 林の切れ目と海との境目はとても近く、現に私のいる場所でも潮騒が聞こえてくる。この海岸線に沿ったどこかに、集会所レユニオンがあるんだ。探さなきゃ、『チェシャー』の手掛かりを掴むために。
 浜辺に降りた時だった。
 ちりん。
 鈴が、鳴り始めた。
「まさか、毬暗が追ってきたんじゃ?」
 私は不安を込めて振り返る。木の下の暗がりに目を凝らして、金切り声のピンクの塊がやってこないか必死に探した。
「違う! 逃げろ魅甘!」
 闇の絶叫に正面を向いた時には遅かった。
 穏やかだった海が突如として盛り上がり、巨大な波となって迫ってきたのだ。逃げろと言われても、逃げられる手段なんて、翼のない私達には始めから用意されていなかったのかもしれない。
 大波はあっという間に私達三匹を呑み込んだ。必死に水の外へ顔を出そうとして、私は死にもの狂いでもがく。こんなところで溺れて死んでたまるもんですか。上下左右もわからずもみくちゃにされ、息ができたりできなかったり、海水が侵入した口の中が塩辛くなったり。闇も災牙も気にかける余裕なんてなくて、私は必死に生きようとした。
 だけど駄目だった。渦巻く水に引きずり込まれ、大量に水を飲んでしまった私は、徐々に意識が遠のいていくのを感じた。
 気を失う間際。暗い暗い海の底に、何か巨大な影を見た気がした。どこかで鈴が鳴っている――。

◇第九章◇堂々巡りと長い年月―Going around in circles and Long Years― 


 がば、と飛び起きた。
「闇、災牙! 大丈夫!?」
 自分の身の確認もそこそこに、呼びかけるのは志を共にした大切な存在。縋るような願いは、しかし虚しく踏みにじられた。黒い姿も、白い姿も、私の目には飛び込んでくれなかったのだ。ただ真っ白な浜辺が、前にも後ろにもずっと寂しく伸びているだけ。
「そんな……!」
 何が起きたか、私は記憶の糸を手繰り寄せるまでもなく鮮明に覚えていた。レユニオンを探しに海辺まで来たはいいものの、突然巻き起こった大波に襲われ、波にもみくちゃにされている内に意識を失ったのだ。何か重要な記憶が抜け落ちているような気がしないでもないけど、今はもっと他に考える事がある。
 大変、早くどうにかしなくちゃ、こんな所で寝てる場合じゃないわ。探すものが闇でも災牙でも、レユニオンでも『チェシャー』であっても、とにかく起き上がって進まない事には話にならない。
「んっしょ……怪我はしてないみたいね」
 立ち上がってみて、自分の身体をチェック。どこも痛いところはないし、動かしにくい部分もなし。ただ全身びしゃびしゃの濡れエネコで、早いところ乾かさないと体温を奪われてしまう。
 私と同じく浜辺に打ち上げられていた漂着物の中に、傷んでいないモモンの実を数個見つけたのでそれを食べて水分補給。ただし冷たいから、体温を上げる足しにはならなかった。
 ひとまずの喉の渇きと空腹を満たして、私は捜索を開始する。二匹も浜辺に打ち上げられている可能性は高いので、海岸線に沿って移動する事にした。反対方向に進んでいたらますます離れちゃう事になるけど、身体がひとつしかない以上両方向に進むなんて不可能だから仕方ない。
「へっくし!」
 寒くなってきて、私はくしゃみをひとつ。会話をする相手もいないので、私は『チェシャー』は一体どんなポケモンなんだろうとぼんやり考えていた。手がかりはこの鈴と、魔白と闇の情報だけ。魔白も闇もそれは物知りだ、一体どこで知識を手に入れたのかしら。
 ――私は恐ろしい事に気づいてしまった。今の身体の震えはきっと寒さだけが原因じゃない。闇に怪しい部分がないかと言えば、ない、ときっぱり言い切れない。
 その知識の吸収源も不明な上、鈴が鳴る時、蒼白い光を放っていたのを思い出す。あれは、エスパータイプの技、例えばサイコキネシスなんかが発動している時とそっくりな色だ。マンホールの蓋を持ち上げたのを見たから、闇がサイコキネシスを使えるのは間違いない。鈴の伝説を教えて思い込みを植え付けて、その上でサイコキネシスで必要に応じて鈴を鳴らしていたのかもしれない。
 怪しい部分はまだある。
 獣は間者、誰にもわからず神出鬼没
 魔白の深く美しいアルトの声が蘇る。よくよく考えれば、私は闇と長時間一緒にいた事がない。
 『謡い帽子屋』を探しに行く前も、闇は準備すると言って席を外し(そのせいで災牙に襲わた)、ショッピングモールに入る時もはぐれ、地下鉄から地上に戻る時は後から合流して、今、大波に呑まれて闇とは離れ離れになってしまった。闇には不自然な空白の時間が多過ぎる。災牙も離れていた時間はあるとはいえ、実際にお城に閉じ込められているのを目の当たりにしているし、他のポケモンからも『スペードのジャック』と呼ばれていたから、彼は本物だと思う。唯一闇に言及したのは幽で、その時も私の隣にいた黒いポケモンだから『黒兎』と判断されたに過ぎない。闇は本当に『黒兎』なの?
 ――いやいや、何考えてるのよ私。闇はとても素敵な男性だ。一緒にいてくれる時は私のために本当に心を砕いてくれるし、私を励ましてくれた、愛してくれた。私が応えなくてどうするのよ。それに災牙だって闇を信用し頼っていて、闇はきちんと私達の力になってくれているじゃない。闇は疑いようもないくらい真っ当なポケモンだ。
 ――それこそが『チェシャー』の狙いだったら? 私達は『チェシャー』の手の平の上で、くるくる踊らされている人形だとしたら?
「ぶぇっくし!」
 私は闇を信じる、信じるわ。一緒に戦う仲間なんだから。頭の片隅から聞こえた恐ろしい囁きを聞かなかった事にして、私は敢えて派手にくしゃみをした。
「ああっ、なんという事でしょう! ワタシはとても悲しいのです! 」
 その途端誰かに声をかけられた。考えるのに夢中で、誰かが近くにいるのに気づかなかった。ちょっとちょっと、今、女を捨てたおっさんみたいなくしゃみをしちゃったところなのよ! 聞かれていたら恥ずかしいってレベルじゃないわ。びくびくしながら振り返ると、エスニックな風貌のポケモンが浮いていた。
 黄色と水色と赤の羽根を隙間を空けて並べた、すかすかで飛ぶには役に立たなさそうな翼。緑と黒のギザギザが描かれた丸い胴体には、青い目玉模様が二つ。頭の部分にも同じような目玉がひとつだけあって、こちらは瞬きしたので本物の目だ。以前の私ならその不気味な風貌に体毛を逆立てていたんでしょうけど、魔白を見た後となっては、さして奇妙に思えなかった。
「そこのエネコさん! ワタシの話を聞いてくれませんか?」
 ポケモンは私のくしゃみを気にかける様子もなく、早口で畳み掛ける。他人よりも自分の事でいっぱいいっぱいな相手にありがちな、余裕のない喋り方だ。あまり関わらない方がよさそう、こういう性格の人もポケモンも、深入りするとずるずる引きずりこまれちゃう危険があるのよね。
「ごめん、私、今ポケモンを探してて余裕ないの」
 ついでに濡れた毛が身体に貼り付くせいで寒い。身体をぶるぶる振って水分を弾き飛ばしたけど、塩水なせいかべたべたしてるし気持ち悪いし、気分は最悪、といかないまでも非常によろしくない。そんな中、悪いけど他人の話をゆっくり聞いてあげられる余裕はなかった。
「ああああっ! 誰も彼も、ワタシの話を聞いてくれない! 聞く価値もないと! そもそも生きている価値もないと、そう思っているんでしょう!」
 のだけど、こんな言い方をされれば無下に扱えなくなってしまった。このままこのシンボラーをほったらかして行くのもなんとなく後味が悪い。下手したらついてきて延々語られるかも、そんな危機感さえ覚えてしまった。はあ、仕方ないわねぇ。
「わ、わかったわよ……少しだけ、聞いてあげるわ。手短にね」
 一つ目からぼろぼろ涙を零し始めたシンボラーへ向き直ると、シンボラーは涙に濡れたまま私に接近した。
「おお、お優しいエネコさん! ワタシのような出来損ないの屑に手を差し伸べて下さるとは、なんと素晴らしい方なんでしょう。ああ自己紹介が遅れました、ワタシは『雁擬(がんもど)き』、種族はシンボラー、名は殺鳥(あやめどり)です。お見知りおきを」
 エスニックポケモンは殺鳥と名乗り、浮いたままお辞儀をした。私も挨拶を返すべきか悩んだけど、下手に『アリス』をばらして襲われちゃ堪らない。それに殺鳥、自分の話を聞いてくれれば誰でもいいよオーラをばんばん放っているから、私の名前なんてどうでもよさそうだ。
 私の予想通り、殺鳥は私の返事を待たず喋り始めた。
「ワタシは名前の通り、鳥擬きの雁擬き。本物にはなれない出来損ないなのです。ぐすっ……おまけに貧乏で、身体を売って日々を食い繋ぐ…どうしようもない底辺ポケモンです……」
「か、身体を売るって……」
 なんだか、ツッコミたい所がたくさんあるわ、もちろん性的じゃない意味で。この殺鳥が男か女かわからないけど、その……需要あるのかしら。もっと根本的な疑問は、シンボラーの口ってどこ、何を食べるの。
「こんなワタシは生きている価値があるのかと、そればかり毎日考えています。しかしこのご時世、自殺も『殺された』と見なされ死ぬ事ができない!」
「それは……ご愁傷さまね。でも、自分で死ぬのは良くないと思うわよ?」
 死にたがりシンボラーに、前向きに考えるよう促してみる。しかし殺鳥は目玉を横に振った。
「ですが、ワタシには生きている価値もないのですから、死ななければいけないのです……」
「誰が決めたの?」
「もちろんワタシです! ワタシが一番ワタシの事をわかっていますから、間違いのない事なのです」
「いいえ間違いだわ」
 きっぱり言い切ってやると、シンボラーは一つしかない目を真ん丸くさせた。というか、表情が現れるのはそこしかないのよね。私はその目を真っ直ぐ見つめて言ってやった。
「自分の本当の価値なんて、自分ではわからないわよ。そりゃあ、他人からの評価が全てと思うのもいけないわ、だけど自分一人だけで価値がないと思い込むのは絶対にだめ」
 闇に言われた言葉を思い出し、噛み砕き、私の言葉にして殺鳥に伝える。私だって自分が役立たずだって思ってた時もあった。でも、闇は私にしかできない事があるって言ってくれて、私はとてつもなく救われた。実際杏呪を探し出して災牙の呪いを解く事ができたし、骸梨から魔白と魔黒の『双子』を取り返す事もできた。いつどこで、誰のために役立てるかはその時が来るまでわからない。だけども全然価値のない、ましてや死んだ方がいい存在なんて絶対ないと思うの。
「そう……そうですね。少しだけ、考えてみます。考えてから死んでも遅くはないでしょう」
 殺鳥は羽ばたきをゆっくりにして、深呼吸をした。深呼吸したとわかったのはお腹が膨らみ、呼吸する音が聞こえたからそう感じたわけで、この奇っ怪なポケモンの口や鼻がどこにあるのか、私にはついにわからずじまいだった。
 いくらか落ち着いた殺鳥は、尻尾を蒼白く光らせた。念力でも使っているみたい。そして何食わぬ顔をして、自分の尻尾の一部を千切った。
「ワタシに付き合ってくれたお礼です、食べてください」
 殺鳥は一つ目を細め、千切った身体の一部を私に差し出した。いやいや、いきなり身体の一部を食えって言われても! トロピウスならまだしも、この鳥みたいな変なポケモンを食べるなんてできっこない。というかその発想すらなかった。
「私、そんな趣味ないんだけど」
「あああ、受け取る価値もないと!」
 当然断ると、殺鳥は最初の時のような悲壮に満ちた声で叫んだ。せっかく前向きになったのに、これじゃまた逆戻りだ。
「わかったわかった、食べ……るわよ」
 こうなったら食べるふりだけでもしてあげよう。鳥の羽を口に咥えると思えば大丈夫よ。
 断面は外側と同じ色をしていて、血は流れていない。代わりに匂いがした。なんだろう、この匂い……鼻をひくひくさせて嗅いでみると、あれ、美味しそう? これはそう、香ばしい焼き鳥の匂いだ。
 恐る恐る口に含むと、焼き鳥臭はいっそう強くなった。思い切って牙を突き立ててみる。
「嘘、美味しい……」
 味は匂い通りの焼き鳥そのものだった。今千切ったばかりなのに、丁度いい温かさ。焼き立て熱々だったら私は猫舌だから食べれないけど、これは私が食べられるギリギリの温度だった。お味の方は、溢れる肉汁がとってもジューシーで、脂の甘みと肉の旨みがちょうど良い。塩味も絶妙。正直、もっと欲しい。
「ワタシはこうやって身体を売っていましたが……」
「ああそういう意味」
 殺鳥がまた話し始めたので、もごもごと咀嚼しながら相槌を打つ。味のせいで、このシンボラーがとても美味しそうに見えてきた。さながら空飛ぶ焼き鳥ね。
「ああ、死ななくたって! 身体をもぎ取られれば痛いのに! 皆もっともっと欲しいとせがむのです!」
「私ももっと、欲しいかも」
「え、エネコさん!?」
 尻尾の先がぱたんぱたんと揺れるのを、自分でも抑えられない。確かポケセン効果とやらで殺しても生き返るのよねぇ。なら、もうちょっと齧っても大丈夫じゃない? 美味しいし、温まれるし、美味しいし。
「イヤァァァァァ! 貴女まで、ワタシを食らおうとしている!」
「あっ待って焼き鳥……じゃなかった、殺鳥!」
 ふっと私が我に返った時にはもう、殺鳥は空高く飛び上って逃げていくところだった。
 私もここに来るまで、色んな奴に襲われたり(性的な意味の有無を問わず)したけど、もしかしてそいつらと同じ顔をしていたのかしら。
 ……反省しよう。


♦♦♦♦


「お前さん、随分濡れているじゃないか」
 殺鳥と別れてしばらく行くと、気難しそうなミルホッグに声をかけられた。じっとこちらを見つめるミルホッグは、不愛想な顔のまま何を考えているかわからない。黙っていると怖く感じるタイプだと感じたので、次は私の方から話しかけてみる。
「そうなの。どこか……身体を乾かせる場所か、それかレユニオンってところに行きたいなって思ってるわ」
「おお、それならば私と来るといい! 私は身体を乾かせる場所と、レユニオン、その両方に行くところなのだ!」
 私と同じくびしょ濡れのミルホッグは、ぶるりと身体を震わせると、顎をしゃくって私に着いてくるよう促した。どちらも願ったり叶ったりである以上、私が拒絶する理由はない。大人しく従う事にして、私はもうひとつ質問をしてみた。
「もうひとつ聞きたい事があるの。この辺でブラッキーとアブソルを見なかった?」
「いいや、見てないな。ブラッキーだけも見なかったし、アブソルだけも見なかった。ましてやその両方など! それより早く身体を乾かさないと風邪を引いてしまうぞ」
 闇と災牙の情報が掴めなかったと聞いて私は落胆する。でもその後の部分、「風邪を引いてしまう」ってところには全面的に同意するわ。私はミルホッグに続いて走っていった。
「さ、着いたぞ、レユニオン!」
 いくらも走らない内に、私は魔白に教えてもらった海辺の集会場、レユニオンへ到着した。
「ここは……」
 その特徴的な造りの建物は、元の世界にもよくあるもの。学校だ。私もご主人にくっついて学校に行った事があるので、馴染みのある建物だった。
「急いで、急いで、こっちだ!」
「痛たたた!」
 ここに来て突如強引さを発揮したミルホッグは、私の耳を掴んで引っ張っていく。耳が千切れないように、私はミルホッグから離れないようペースを合わせるしかない。開けっ放しだった校門を潜り抜け、下駄箱置き場を素通りし、横に広がる形の校内を縦に突っ切っていく。となれば最後に着く場所は予想がつく。
 黄土色の砂が薄く敷かれた運動場に抜けると、まず目に入ったのは青々と水を湛えた大海原。運動場の向こう側は切り立った崖のようで、遮るもののない混じり気なしのオーシャンビューだった。網や柵の類いが一切ない。それ故に危険極まりない運動場には、色んなポケモンが集まっていた。
 誰も彼もびしょ濡れで、居心地悪そうに黙り込んでいる。ワシボン、ペラップ、コアルヒー、クラブ、ドンカラス……。流石崖っぷちの運動場、空を飛べるか海に落ちても大丈夫そうなポケモンが大半だった。隣のミルホッグは、うん。落ちたらお終いね。
 これだけのポケモンに出会うのは珍しかった。歩いていても誰にも出会わないのが普通だったし、出会ったら出会ったで何かしら事件が起こる事が大半だったから。しかしこういう時に限って、鈴の反応はまだない。
「クワックワッ、そろそろ始めるかの、皆の者」
 年老いている割には良く通る声が運動場中に木霊した。声の主は、極彩色の羽根を纏った見た事もないポケモンだった。一見すると鳥ポケモンに見えるのに、嘴がなくて、剥き出しの頭は蛇に似ている。爪の生えた翼は、右側が半分しかなかった。
「まずは礼儀に則って名乗ろうかの。儂は『ドゥードゥー』、種族アーケオス、名は華虚(カキョ)じゃ」
 ここに居合わせたポケモンの中で、華虚というアーケオスだけが唯一乾いていた。乾いたふんわりした羽根はいかにも温かそう。
「ここにおる者は大半が濡れておるようじゃから、儂はこのレユニオンの場において解決策を提案するぞよ! 濡れた身体を乾かすのはこれが一
番じゃ。さあ皆の者! 『ドゥードゥー』の名において、儂は今すぐ堂々巡りを開催する事を決定する! クワックワックワッ」
「堂々巡り?」
「そうっ、『ドゥードゥー』である儂主催の堂々巡りじゃ! クワークワックワァッ!」
 華虚は欠けた片翼をばたつかせ、大声で笑った。
「堂々巡りを知らない? 君、随分田舎から来たのね」
 私の隣にいたペラップが、嘴を胸元の羽根に埋めながら言う。笑いを隠すためにやったんでしょうけど、くすくす笑いは隠れていないし、冠羽が開いたり閉じたりしているから感情が丸わかり。あんまり良い気はしないわね、意地悪なポケモンだわ。私はペラップから距離を取って、これ以上絡まれないようにした。
「安心するが良い、そこのエネコ」
 私達のやり取りが聞こえていたらしい華虚が、のしのし歩み寄ってきた。他のポケモン達は道を開けて、というより散り散りになって運動場のそこかしこに待機する。
「無知は恥じゃが、罪ではない! 例え堂々巡りすら知らぬ田舎者であっても、楽しいと思う心を知らぬほど馬鹿ではないじゃろう! クワークワックワァッ!」
 華虚が欠けていない方の翼で私の頭を撫でた。これってフォローされているのかしら。いやに言葉のひとつひとつが刺さるんですけど!
「簡単じゃし、まあやってみればええ。そこの丸いコースに立ちなされ。儂が歌っている間は走り続けるのじゃ」
 非常に単純明快に説明してくれた華虚は、運動場の校舎側、本来なら校長先生がありがたーいお話をしてくれるための台によじ登った。とりあえずかけっこをするみたい、確かにそれなら身体も乾いて温まるかも。私は一番近いコースに立ち、合図を待った。
「クワァァ、始めるかの」
 その声を合図に、皆がそれぞれの位置から走り出した。鳥ポケモンが多いのに、一匹として飛ぶ事はせず、翼は畳んだまま細い足で走っている。
「あれは確か一億……いや、一億五千万年前じゃったかの……まだ世界が若く、儂の翼も欠けてはおらなんだ」
 華虚は空を仰いだ。ぐるぐる走り回りながらだから、私がその表情をじっくり見る事は叶わない。それに私は元々エネコ、地べたを歩く種族。
空を失った鳥の気持ちがどんなに辛いかはきっと想像だに出来ないでしょうね。もしかして鳥ポケモン達が敢えて飛ばないのは、そんな華虚を気遣っているからなのかもしれなかった。
 華虚は懐かしむように目を閉じ、歌い始めた。
'''月の光が輝いていた 精一杯全力で
月が頑張ったおかげか
青空明るく、晴天なり
それっておかしくないかな? 何故って
今は夜だもの

星も輝いていたさ ぎらぎらと
星は思うだろう
もうすぐ終わるのだから
皆出ておいでと
「さあさあ皆で楽しもう!」
と星は言う

ガチゴラスは堂々と駆けていたし
アバゴーラは悠々と泳いでいた
ニンゲンはどこにも見えなかった
何故ってニンゲンはいなかったのさ
空を見上げても鳥は飛んでいなかった
『鳥』はいなかったのさ

アーケオスとプテラが
向かい合って飛んでいた
「おいおいここは俺様の領域だ
こんなに餌が多いから
お前だけに独占させるものか」とプテラ

「お前の一族の可愛い雌を
7匹俺様に差し出せば
立ち去ってやってもいいぜ」プテラは言う
「嫌だね」と怒って
牙を剥いたアーケオス

「そうか、なら戦うしかないな」
と笑うプテラ
「ストーンエッジで撃ち落とすのも
楽しそうだ、氷の牙で咬み殺すのも
まあ皆殺しは無理だがな」

アーケオスはプテラを睨んだが
一言も言わなかった
アーケオスは首を縮めて
諸刃の頭突きの準備をした
このアーケオスは縄張りを守って
負けたくないと

仲間が四匹参戦した
皆戦いたかった
ラムパルドは波乗り、アノプスはアクアジェット
アマルスとアマルルガは水の波動で戦った
それっておかしくないかな? 何故って
皆水に弱いだろう

プテラにも四匹協力したが、
アーケオスには更に四匹
最後には、お互いに仲間が
どんどん、どんどん――
飛び交うは、水や炎や草や岩
草原は大乱闘

アーケオスとプテラは
一時間ばかり戦ったところで
ちょうど羽を休めるのに
程よい枝で一休み
仲間はみんな草原にずらり
立ったまま待っていたよ

「さてと」とプテラ
「一時休戦、何か話そうじゃないか
月に太陽、星に雲
夜が明るいわけ
ガチゴラスは空を飛ぶよう進化するか」

「ちょっと待ちなさい
話すのも良いが、私は腹を空かしている」と大声で叫ぶアーケオス
「そうだ、飯にしよう!」とプテラ
意見の纏まるリーダー二匹

「オムスターの塩焼きがぜひとも欲しいのだが」
「それにユレイドルのサラダがあれば最高」
「さあお前たち、支度ができたら食事にしよう」と二匹はニタリ

「とんでもない! なんて事!」と仲間達は
顔色変えて声を上げた
「信じていたのに、そんなのってないよ」
「ああ、本当に明るい夜だ」とプテラ
「真夜中の日光浴とは乙じゃないか」

「戦ってくれてありがとう!お前たちは素晴らしい!」
アーケオスはただ一言
「もう一匹食べたいな、聞こえているか、
二度も言わせないでくれ」

「ああすまないなお前たち
俺様のために戦ってくれたのに
ふざけるのは」
とむしゃむしゃプテラ
アーケオスはただ一言
「アノプスのみそを、もっと!」

「お気の毒だ、同情するぜ」
おいおい泣くプテラ
そうして選ぶ、まるまるアマルス
大きな翼で口元隠し

「皆さん 楽しかったでしょう!
お眠りですか?」と星
でも誰も返事をしなかった
それっておかしくないよ、何故って
――全部絶滅したもの'''
 なんか、途中から物騒な方向に進んでない!? アーケオス、最初は良い奴だと思ってたのに! ああ、でも私も殺鳥の身を食べちゃったんだった……うぬぬ。堂々と非難できる立場じゃないわね。
 さて、華虚の歌が終わったので、私含めたポケモン達は競争を終了。色んなポケモンを抜かしたり抜かされたりしたけど、同じところをぐるぐる走る堂々巡りだったから、誰が優勝したのやら。そもそもこのレース、勝ち負けがあるのかしら。一応身体は乾ききってぽかぽかしたから良しとするわ。これ、よく晴れた冬の日なんかにやったら楽しそう。
「はいはーい、華虚さーん! 誰が優勝したの?」
 ワシボンがばたばたぴょんぴょんしながら尋ねた。うむ、と華虚は頷いて、私達の顔を見回す。
「全員が優勝じゃ。して、全員が賞品を貰う権利を得ておる」
 その言葉を聞いた途端、皆は歓声を上げた。全員が優勝だと頑張っても頑張らなくても同じって事になってしまう、でも賞品を貰い損ねるポケモンは出ない。どちらを取るか、さじ加減が難しい。と妙に気になってしまった私をよそに、華虚は続ける。
「じゃが、悲しいお知らせもある」
 声のトーンを落とし、華虚は言葉を続けた。ざわめきは一瞬にして、水を打ったように静まり返る。
「本当ならここで商品としてチーズを配る予定だったのじゃが。悲しい事に、昨日何者かに全て盗まれてしまったのじゃ」
「……そんなぁぁぁあ!!」
 ほんの少しの空白の後、あちこちから落胆の悲鳴が生まれた。中には涙を流しているポケモンもいる。それだけ皆そのチーズを楽しみにしていたのね。『チェシャー』も欲しがるはずだわ。まさか、『チェシャー』がチーズを事前に盗んで独り占めしたとかないわよね。鈴も相変わらず無反応だし、それなら私の『チェシャー』捜索の旅は振り出しに戻ってしまう。
「まあ待ちなされ。チーズはないが、賞品がないとは言っておらんぞ」
 華虚の言葉に、またしても沈黙。鶴の一声とはまさにこの事を言うのね。この場合はアーケオスの一声、かしら。華虚は全員の注目が集まっているのを確認すると、す、と欠けていない翼を一点に向けた。
「……そこのエネコを配って貰おうかの」
「え、私?」
 不思議な事に、華虚は私を指していた。全員の視線が華虚の爪先をなぞって私に辿り着く。突然のご指名に緊張しつつも、華虚の言葉に引っかかるものを感じた。エネコを配るって、『てにをは』がおかしいわね、やっぱりお歳だから……? そもそも私、カラー以外は何も持ってないから配れるものなんてないし、このビーズもどうやら貴重なものらしい上に全員分なんてとてもない。私はこの中では新参のポケモンだから、何か彼らの知らない何かを持っていると思われたのかしら。
「あの、ごめんなさい、私何も……」
 言いかけた私の言葉を遮ったのはクラブだった。
「僕、尻尾が良いな!」
 何か勘違いしているわこの子。エネコの尻尾という玩具はあるけど、それはもちろんエネコの尻尾を模したふわふわであって、私のお尻から生えているのは正真正銘本物の血の通った尻尾なのに。隣のミルホッグが手を上げた。
「なら、私は前脚二本と耳と目と――」
「欲張り過ぎだお前は! 華虚さんには頭丸ごと、でどうかな?」
 年取ったドンカラスが、よれた羽根を膨らませた。……何か、とてつもなく嫌な予感がする。
「あの、どういう……」
「心配するな、十分もあれば再生するからの」
 私を配るって、言い間違いなんかじゃなかったんだ。
「わ、私は『アリス』よ、種族はエネコ、名前は魅甘! 『アリス』だから 殺されても生き返らないの!」
「『アリス』? そんなもの関係ありゃせん。寿命が来るまでは生き返るのじゃ!」
「だからその法則が通用しないんだってば!」
 こいつら、ポケモンの話をちっとも聞かないんだから! でもやばい、目が本気だわ。皆異様に爛々と目を輝かせて私を見ている。
「そもそも。お前さんが本物の『アリス』だという証拠があるのか?」
「えっ……と」
 ドンカラスが胡散臭そうに私を睨んだ。本物、そう今まで本物らしい現象が起きていたから、私は本物の『アリス』のはずよ。体感ではわかっているのに、適切な説明ができず、私はたじろいだ。華虚がぐるると喉を鳴らす。
「まあ気にするでない。一度殺してみるとええ。生き返れば偽物、生き返らなければ本物じゃ」
「わー流石華虚さん! 頭良いんだね!」
 コアルヒーが拍手した。いやいや、全然良くないから! こんなところで食い殺されるなんて冗談じゃない。
「捕まえるのじゃ!」
 アーケオスの一声に、全員が一気に飛びかかってきた。もう何を言っても無駄、捕まったが最後。私は死にもの狂いで逃げ出した。
 鳥ポケモンが多いのが幸いした。皆が一斉に羽ばたいたせいで翼同士がぶつかり、もつれあって地面に墜落したのだ。私はその隙に少しでもポケモンの少ない方へとダッシュして、生存確率を上げるのに躍起になった。
 ……なのになのに、私のお馬鹿! 鳥ポケモンの翼や飛び散った羽根に視界を遮られ、方向も確かめずに走り出したのが悪かった。開けた目の前には、それはそれは美しい一面の海。校舎の方ではなく、崖の方に走ってしまったのだ。かと言って今更引き返せない。
 あっという間に、私は崖に追い詰められてしまった。
「さあ、観念せい。大丈夫じゃ、痛いのは一瞬じゃて」
 代表として進み出た華虚が、堂々巡りの詩のようにニタリと笑う。鳥ポケモン達に指示して私を捕まえるのも容易なくせに、わざわざ歩いて追い詰めてくるあたり相当質が悪いわ。私の耳は後ろ脚が蹴り飛ばした小石が、カラカラと落ちていく音を捉える。これ以上下がれない。絶対絶命、文字通りの崖っぷち。どうする私、飛び降りた方がまだ生存率が上がるんじゃ。マンホールを落ちた時みたいに、意外とふんわり着地できるかも? 泳ぎに自信はないのだけど、そんな悠長な事言ってる余裕なんてないか、よし。私が無理矢理覚悟を決めた時、ふっと空が暗くなった。
「ちょいとあんたたち、おどきよ!」
 ばさりじゃらりと羽音を立てて私の前に着地したのは、こげ茶色の大きな翼。冠羽にオノノクスの牙を挿したバルジーナには、ものすごく見覚えがあった。
「骸梨!?」
「全く、『アリス』はこの一大事に何をしてるんだい。あたしゃ呆れっちまうよ」
 以前双子を攫った『侯爵夫人』の骸梨。腰回りの骨飾りに、前よりも色んな形の骨を組み合わせてぶら下げているせいで、身動きする度に乾いた音がする。
「クァァ、お主邪魔じゃ」
「当たり前さね。邪魔しに来たんだ」
 華虚の文句を骸梨は鼻で笑った。翼を広げて威嚇しつつ、私を振り返る。
「さあ『アリス』、さっさとお乗り!」
 骸梨は女の子には酷い事をしないはずだ。私は骸梨を信じると決めて、急いでその背に乗った。骨を足場にできるおかげで、意外と安定する。
「飛ぶよ!」
 ばさりばさりと突風を巻き起こしながら、骸梨が飛び立った。レユニオンの集会所がどんどん小さくなっていく。でもまだ安心できない、相手だって鳥ポケモンだ、絶対追いかけてくる。
 ところが、振り返ってみても誰一人追いかけてこなかった。私を乗せた骸梨は邪魔される事無く、大海原を飛んで行く。
「今の内に距離を稼いどかないとねぇ。とおせんぼうだって長くは持たないんだ」
 なるほど、合点がいったわ。骸梨は私が落ちずにきちんと乗っているかを確認すると、気流に乗ってなお羽ばたき続ける。海の反射光に目をやられないように、私は骸梨の首元のふさふさに顎を置いた。
「骸梨、助けてくれてありがとう。本当に食べられちゃうかと思ったわ」
「あんたは隙が多いのよ。全く世話の焼ける娘ねぇ。ほら、落ちるんじゃないよ」
 お礼はツンケンした言葉で返された。だけど声音は存外優しくて、今のところ骸梨は安全な存在なのだと再確認した。骸梨、『チェシャー』に支配される前はどんなポケモンだったのかしら。思考の海に飛び込もうとしていた私は、当の骸梨によって引き上げられた。
「それにしても、何をぼんやりしているんだい『アリス』。これから裁判が始まるっていうのに」
「さ、裁判? っくし!」
 風を切って、骸梨は海の上を飛んでいく。潮風が鼻を擽り、くしゃみが出てしまった。
「はー、本当に知らないのかい。国中その話で持ち切りさ。あんたにも深く関わる事だよ」
 骸梨はここで言葉を区切り、一呼吸置いてから続きを言った。私の大きな耳は風の音を拾いやすく、風を避けるために後ろに伏せててもびゅうびゅうと鳴り続けて、決して静かになんてならない。そんな中でも、骸梨の言葉は妙にはっきりと私の中に食い込んできた。
「なんたって、裁判にかけられているのは『スペードのジャック』。そう、アブソルの災牙なんだからね」


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Last-modified: 2015-11-21 (土) 23:50:33
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