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安らぎを知った頃

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臭う。人間の臭いだ。彼女は嫌悪するその臭は彼女の神経を逆撫でする。直ぐに居場所を探った。透き通った空気の中に僅かに漂うそれを人間の何万倍も鋭い嗅覚で捉える。臭いのする方へ視線をやった。50メートル程先だろうか。草村の中でキラリと光ったそれは緑の中ではあまりにも不釣り合いだった。刹那、彼女は地を蹴る。新芽の出始めた地面をえぐり、光が見えた場所を捉えつつ右に走る。それと殆ど同時だった。空気を震わせる程の轟音が辺りに響く。木々に停まっていた鳥ポケモン達が危険を感じ一斉に飛び立った。彼女の鼻に火薬の臭いが届く。先程、彼女が居た場所には彼女がえぐったものよりももっと深くて大きな穴ぼこが一瞬にして出来上がっていた。そんなことに気を取られている隙は彼女にはなかった。今度は左に走る。再び轟音が響いた。それを聞きまたしても右に走る。それの繰り返しだ。止まってはいけない。絶えず動き続ける。彼女は知っていた。暫くこうしていれば必ず現れる人間の武器の致命的な弱点を。十回目の轟音が空気を震わせた。何かが弾けるような音を立てた。ちょうど彼女と人間を遮っていた木に風穴が空いたのだ。何百年も生きているだろうその木の破片が彼女に飛び散った。それを浴びつつ途端に彼女は人間のいる方へ一直線に走り出した。緑が後ろに流れていく。人間にとっては獲物を仕留める絶好のチャンスだった。しかし、木すら打ち砕く轟音は一向に轟かない。それどころか、人間は立ち上がり背を見せ走り出した。直ぐに彼女は今人間が隠れていた草むらを飛び越した。人間の脚力で彼女と勝負になるわけがなかった。おまけに此処は整備の行き届いた道ではない。紛れもなく森なのだ。地面の凹凸や木の根が人間の足を取る。走れたのはほんの一瞬だけだった。既に背中に迫っていた彼女が人間に飛びかかる。右の側頭部についた赤い鎌を思い切り振りあげた。それは人間の使う鎌とは違い外側が鋭くなっている。殺気を感じたのか人間が振り返った。彼女の瞳に写るのは鉄の筒を慌てて構えようとする哀れな二足歩行の生き物だった。彼女が頭を振る。肉を引きちぎる感覚を彼女は感じる筈だった。しかし、鉄同士が削れる嫌な音がした。鈍い音を立てて転がったのは人間の首ではなく、手にしていた鉄の筒の方だった。より強い火薬の臭いが切り口から滲み出る。頭と身体が生き別れる筈だった人間はなんと無傷で尻餅をついていた。幸運なことに真っ二つになったのは鉄の筒の方だった。構えようとしたそれが偶々彼女の鎌を防いだのだ。だが、脅威が去った訳ではなかった。寧ろ人間にとってはもっと悪い。これから痛みや死の未知恐怖を最期まで感じながら死ななければならなくなったのだ。あの鎌で切られたらどれほど痛むのだろうか。自分よりも丈夫な銃が真っ二つになっているのを見て人間の膝は震えて最早いうことを聞かない。立てないまま人間は後ずさった。それをゆらりと彼女は追った。人間の尻が新芽を潰しながら動く。そんな浅はかな抵抗も背中が木にぶつかった所で静止した。人間の震える手からポロリと転がり落ちた箱のようなもの。恐らくはこれを鉄の筒に入れたかったのだろう。本体が壊れた以上もう意味のない物だ。彼女は鉄の筒が攻撃を繰り出せる回数を分かっていた。それにこの箱を入れないと攻撃が出来ないことも知っていた。だからこそ直線に走ることが出来たのだ。何度も味わった恐怖が彼女の知性を高めていた。もう銃の発砲音にも慣れてしまった。
「まて!悪かった!もうしないから許してくれ!!!」
最後の足掻きと言わんばかりに命乞いを始めた人間。彼女は構わず刃こぼれ一つない鎌を振り上げた。
「やめろ!頼むからやめてくれ!」
意味もなく両手を前に出して喚く。その顔は恐怖で引きつっていた。彼女は顔色一つ変えない。何も言わない。言ったとしても彼女の言葉は人間にとって鳴き声でしかないからだ。それに、他者の命は奪おうとしたくせに、自分は助けてくれなどというそんな虫のいい話をする奴を許す者が居るはずがない。
「グラエナ!!」
人間が叫んだのは狙いを外さぬように鎌を人間の首に添えた時だった。人間とは違う臭いが彼女の鼻を突く。後ろの草むらがガサッと音を立てた。共に耳に入るうなり声に彼女の鎌は人間の首から離れ矛先を180度変えた。黒い固まりが彼女の目の前に突っ込んでくる。危険を感じた彼女は地を蹴り上に跳んだ。それは彼女の下を潜るとそのまま人間の前で静止した。彼女は少し距離を置き再び振り返る。
「色の違うアブソル…お前が紅(くれない)か」
人間の盾になったのは人間が叫んだのと同じポケモンのグラエナであった。人間に飼われていることは明白であった。声からしてまだ若い雄だ。人間が色違いのアブソル、彼女の居場所を見つけられたのは彼の嗅覚のお陰だろう。グラエナの言った紅と言う名前は人間が彼女に勝手に付けた名であった。それが、自分のことを指すということを彼女は理解していた。なにせ、爪や鎌が赤く体毛も全体的に赤みが掛かってる。それが通常のアブソルと違うということも彼女は知っていた。死の恐怖から救われた安堵からか人間がため息を吐く。グラエナは眉間にしわを寄せ、鋭い牙を剥き出して彼女を睨む。並大抵の相手ならそれだけで腰が引けてしまうような迫力であった。しかし、紅は臆するどころか哀れむような視線を向けたのだ。主人を殺し掛けていた相手にそんな視線を浴びされ、当然グラエナの怒りは膨れる。
「なんだよその目は…!何か言ったらどうだ!?」
姿勢を低くして今にも紅に飛びかかりそうであった。だが、それでも彼女の目は冷たかった。最早殆ど人間の臭いしかしないグラエナは紅にとって醜い物でしかなかった。束縛され、闘わされ、都合が悪いとなったら捨てられるというのに。そんな惨めな思いをしてまで好き好んで人間に飼われるということが野生の中で生きてきた紅には到底理解の出来ないものであった。現に今もそうであった。初め紅を殺そうとしたのは人間の方である。しかし今、命を賭けて彼女と対峙しているのはグラエナの方だ。こんな屑とそう変わらない人間に良いように使われている奴を見るのはいつも胸糞悪かった。そんな奴らを紅は何匹も殺した。そうして生き残ってきた。何故自分はこんな屑共に命を狙われなければならないのか。彼女の怒りは静かに沸き上がる。それに連れて紅の目つきはグラエナの牙より鋭く尖った。それに一瞬身体を震わせたグラエナを彼女は見逃さなかった。
「雌だからといって容赦はしない!」
自らに渇を入れるようにグラエナは言った。紅は容赦など最初から期待してはいない。するつもりもなかった。紅は早々と地面を蹴った。後ろ脚の筋肉を縮ませバネのごとく一気に伸ばす。脚の爪には土が入り込む。地面を先程より深く削る。グラエナの反応は一瞬遅く、既に彼女は鎌を振ろうとしていた。野生での闘いは常に命のやり取りだ。その遅れが即、死に繋がることなど競技の中でしか闘ったことのないグラエナが知る由もなかった。真っ赤な鎌が風を裂く。グラエナの牙が紅の喉へと届く前に彼女鎌は敵の胸元を通り過ぎていた。紅の鎌に伝わるのは今度こそ肉の切れる振動であった。グラエナの叫び声が木々を揺らした。体毛すらも切り裂き本来、外気に触れぬ筈の肌の奥にも切り込みが入る。傷口から瞬く間に溢れ出す血が彼女の身体に飛び散った。苦痛に見舞われたグラエナの頭が垂れた。間髪を容れずに垂れた後ろ首に思い切り噛み付つく。今度は前脚も後ろ脚も跳ぶ時のように踏ん張る。固まった地面に肉球の跡すら残るまで力を溜めた。そして、跳ぶ時のように全身をバネ
のように使い、今度は力を脚から首へ力を伝えていく。脚が伸びきった瞬間に力が伝わった首を思い切り振った。直ぐにグラエナの首に刺さる牙を抜く。支える物のなくなったグラエナの身体は土を飛ばし人間の目の前に叩きつけられた。暫く沈黙が森を包んだ。自身のパートナーが血を流して横たわっている。そんな状況に人間は声も出せずにただ、グラエナのことを見つめて震えていた。目の前に鎌を構えるのはグラエナの血で所々が真っ赤に染まった紅の姿があった。彼女は勘違いをしていた。紅という名はただ彼女が色違いのアブソルだからというものではない。血を浴びて赤くなった彼女の姿を見た人間達がそう呼び始めたのがきっかけだ。今まさに人間の目の前にいるアブソルの姿は本当の意味での紅であった。しかし、それは紅にとってはひたすらどうでも良いことだ。どう言われようが生き延びる為に目の前の敵を始末するだけである。一歩ゆっくりと踏み出す。人間が一つ大きく跳ねた。鎌から血が滴り落ちる。直ぐ人間の血も混じる筈であった。もう一歩踏み出した時だった。倒れていたグラエナがゆっくりと立ち上がった。
「主人に…近づくんじゃねえ…」
肩で苦しく息をしながらグラエナは尚、主人を庇い彼女を睨む。傷が浅かったらしい。しかし、未だに出血は続き自身の体毛を赤黒く染めていく。耳は寝てしまい、尻尾も股の下に入っていた。完全に紅を恐れていた。決着は既についている。否、命の尽きた時が決着だ。それは彼女が一番に分かっている。分かっているのに何故だか殺す気が失せた。傷を負い震えまでして人間を守ろうとするグラエナの姿に呆れと言ったら良いのだろうか。そんなものを感じた。「何故そこまでしてソイツを守る?」
紅が初めて口を開く。だが、グラエナはそれには答えない。ジッと彼女を睨むだけだった。時間の無駄であった。紅は一つため息を吐くと彼らに背を向けた。彼女が隙だらけであろうと彼らに攻撃の術は残っていなかった。
「幸運だと思え。二度と此処へは来るな、次は首を飛ばす」
人間には鳴き声にしか聞こえない。だが、戦意喪失したグラエナには嫌でもそれを聞き入れるしかなかった筈だ。唸り声を聞きながら紅は静かにその場を後にした。



辺りはオレンジ色に包まれていた。木の葉の隙間からこぼれた光が彼女の瞳を細ませた。陽は既に傾き入れ替わりで月が覗き始めていた。紅にとって今日のような出来事は、相手を逃がすこと以外は日常茶飯事であった。人間が彼女を求め頻繁に森に出入りするせいでこの森にはポケモンの姿が見られなかった。森に居るのは彼女と何も知らずに飛んでくる鳥ポケモンくらいだ。紅は重い歩みを進めながら静かにため息を吐いた。今日も酷い一日だった。緊張から解かれた身体は疲れ切っていた。体毛についた返り血が固まりベタつく。口の中が鉄の味で一杯だった。酷く腹が減っていた。早く木の実を見つけて休みたい。何故こんな思いをしなければならないのか。いつも彼女は真剣に悩んでいた。少し前まではこの森にも森らしい姿があった。初めに手を出したのは人間の方であった。一人が偶々見つけた色の違う彼女を捕らえようと何人もの人間がやってきた。彼女はそれが怖かった。だから必死になって闘った。闘えば闘うほど人間は大勢やって来た。森は荒れ人を恐れるポケモン達は彼女を煙たがった。何せ彼女が居るだけで災いが降りかかるのだから。皆逃げたが彼女は逃げられなかった。災いを運ぶ彼女に安らぎの場所は無かったのだ。森が死に始めたその頃、彼女までも死に追いやるべく人間達は銃を使い始め紅が出来上がった。何人もの人間を殺めた彼女を危険だと判断したのだ。彼女に落ち度はない。正当な防衛だ。全ては人間が自らもたらした災いであった。それなのに苦しむのは彼女だけであった。凄まじい憎悪の念が彼女を生かすのだ。いつか全ての人間を切り刻む。その思いだけが彼女の心の支えであった。それを思い返すと今日の出来事はよろしくなかった。あのグラエナが哀れだったとは言え、情に流されたのは失態であった。あの人間がもうこないとも限らないし、他人に紅と出会った居場所を教えるかもしれない。なんと愚かなことをしてしまったのだろうか。しかし、それより何よりも彼女は疲れていた。木の実は未だに見つからない。体力も限界に近い。木の実より寝床を探そうと歩みを速めたその時だった。何かが叩きつけられたような音。それと同時に後ろの左脚に走る激痛に紅は襲われた。見ると彼女の左脚はハエ捕り草のような形の鉄に食いつかれていた。それは鎖で地面から繋がっていた。彼女を捕まえる為の人間の罠であった。ただ、相当前に仕掛けられた物らしく、地面の水分のお陰でだいぶ錆びていた。冬に落ち葉の下にでも仕掛けたのであろう。仕掛けた本人もこんな時期になってから彼女が罠に掛かるとは思いもしなかっただろう。注意力が散漫になっていた彼女はむき出しの罠に掛かってしまったのだ。
「くそっ!外れろ」
慌てた紅はそれを取ろうと必死に暴れた。しかし、動けば動くほど刃は肉の中に入り込み痛みを大きくする。彼女の顔が苦痛で歪んだ。幸い森にポケモンがいないお陰で敵に襲われることはない。だが、鳴き声一つしない森は彼女であることを無情に突きつける。紅の身体がカタカタと震え出す。怖い。この世界に独りぼっちでいるのが怖くて堪らない。風がザワザワと葉を揺らした。陽が沈み辺りが闇に包まれていく。闇に今にも喰われてしまいそうだ。
「いやだ…外れろ!外れろ!外れろ!!」
紅はより一層暴れた。そんなことをしてもそれは外れてはくれない。鎖がジャラジャラと音を立てるだけだった。傷口からは血が溢れ出て彼女の脚を真っ赤に染めた。パニックに陥った彼女は痛みに鈍感になっていた。自身をみるみる傷付けていく。それでも恐怖から逃れようと必死だった。だが、やはり非情にも罠は彼女の脚に噛みついたまま離れようとはしない。紅にはそれが自身の血を味わっている生き物のようにしか見えなかった。精根尽きた紅はその場に横たわってしまった。溜まっていた痛みが一気に押し寄せる。瞼が重い。土の冷たさが身体に凍みる。
「誰か…誰でもいいから助けてくれ…」
絞るように出した鳴き声は闇の中へと溶けていく。重い瞼をそっと閉じた。彼女を撫でた風に微かに感じた人間の臭い。それに反応できる体力は紅には残されてはいなかった。








どこから来たのか鳥ポケモン達が鳴いていた。それが五月蠅くて紅は目を覚ます。陽が登り辺りはすっかり明るくなっていた。途端に脚に痛みが走った。お陰で眠気の余韻はあっという間に消え去った。罠に噛みつかれたまま眠ってしまっていたのをすっかりと忘れていた。地面に横になっていたせいか、酷く寒く感じた。恐る恐る脚を見てみるとそこには白い布が巻かれていた。バラバラになった罠が横に転がっていた。彼女の願い通り誰かが彼女を救ったのだ。何者が罠を外したのかは簡単に推測ができる。こんな器用なことができるのは人間だけであった。彼女は感謝よりも先に辺りを警戒する。微かな臭いが人間が近くに居ることを彼女に知らせる。どこから姿を現そうと即、行動ができるように脚に力を貯める。
「おう、お目覚めか」
声が聞こえたのは紅の真後ろからだった。彼女の身体はピクリと反応し直ぐに後ろを向いた。貯めていた力を解放して木の隙間から姿を現した人間に飛びかかろうと地面を蹴る。刹那、後ろの左脚に襲いかかる鋭い痛み。紅は前のめりに体勢を崩し転んだ。
「怪我してるんだからあんまり動くなよな」
襲われそうになったのにもかかわらずリュックを背負った若い男は嫌に落ち着いていた。艶の良いオボンの実を両手に持った男は彼女の前に来ると突然足を曲げて胡座をかく。脚に力の入らない彼女は伏せながらも威嚇を続けた。鎌の範囲の丁度届かぬ位置に座った男に紅は牙を剥き出しにした。
「(何を企んでいる…)」
紅の言葉は男には唸り声にしか聞こえない。男は彼女の不安を解こうと彼女に話かける。
「何もしないからそんなに怖い顔をしなさんな」
「(嘘を吐け!この卑怯者め!切り刻んでやる)」
「ありゃ、もっと怒らせたか?」
紅の唸り声がますます大きくなった。当たり前だ。昨日のことも含めて今まで散々酷い目に遭わされのだ。突然何もしないと言われても信用できる筈がない。
「んー…お前さんを助けてやったのは俺なんだけどなあ。消毒もして包帯も巻いてやったのに怒んないでくれよ。まあ、仕方ないか」
男はオボンの実を膝の上に置くと困ったように寝癖のついた頭を掻いた。彼が罠を外してくれたことを紅はきちんと理解していた。だが、彼女にとってそれだけでは彼を信用できる要素が少なすぎた。
「お前さんが落ち着くまで居てやるよ」
男はそう言うと牙を見せる紅にニッコリと微笑んで見せた。それは紅にとってこの上なく迷惑千万な申し出であった。何をされるか分からぬ恐怖を目の前にしたまま怪我のせいで動けないのだ。そんな紅の心境を知ってか知らずか、男はひたすら何をすることもなく彼女に向かって微笑んでいた。意志疎通の上手くいかない一人と一匹の間には妙な空気が流れていた。


陽が真上に昇っていた。木の葉の隙間から漏れた日光が彼らを微睡みへと引きずり込もうとしていた。やはり心地が良いらしく男が大きな欠伸をした。一方の紅は男への威嚇を維持できなくなっていた。時折襲ってくる強烈な睡魔に頭を左右に振ってどうにか抵抗をみせた。本当に男が何も行動を見せないせいで、紅の緊張はいつの間にか解れてしまっていたのだ。男は一つ伸びをすると久しく口を開いた。
「腹減ってるだろ。木の実食べるか?」
牙が引っ込んだのを見て彼女が安心したと判断したのだろう。膝の上のオボンを一つ掴むと紅の目の前に差し出した。当の紅は鼻を動かして木の実の匂いを嗅ぐものの決して動こうとはしなかった。彼女の胃袋は確かに食べ物を求めていた。しかし、人間の持っているそれにまだ信用が置けなかったのだ。それに気が付いた男が一度手を引いた。
「賢いなお前さん」
引いたオボンを男は一口かじった。忽ち果汁が溢れ出した。口に収まり切らなかった汁が男の口元を濡らす。その目の前で行われる拷問のような行為に紅の腹が悲鳴を上げた。彼女は思わず生唾を飲み込む。木の実に何の仕掛けもないことを知らせる為のその行為は彼女に予想外のダメージを与えていたのだ。男は木の実を呑み込むと袖で汚れた口元を拭った。
「ほら、何ともないだろ。大丈夫だから食べな、美味いぞこれ」
男はオボンをもう一度、紅の前に差し出すと手首を軽く振って彼女の目の前に木の実を転がした。彼女はそれを素早く両前脚で押さえると、忽ちかじり付いた。口に残っていた鉄の味を果汁の甘みと共に空の胃袋に流し込んだ。乾いた喉に冷たさが染み渡る。警戒心など既にほとんどなかった。
「そんなにがっついたら喉に詰まらすぞ」
紅の警戒心が解けたことに安堵したのか、彼女の必死な姿に男はフッと短く笑いをこぼした。紅にはそんなことを気にする余裕はない。飛び散った果汁のせいで口元の毛はベタベタだ。その内あっという間にオボンを平らげてしまった。
「おお、そんなに腹が減ってか。これも食べな」
男はもう一つのオボンも一度かじってから紅に転がした。彼女はまたもやそれを押さえると、先程よりは遅いがやはり速いペースで木の実をかじった。男はそれを嬉しそうに見つめていた。
「この木の実は美味いだけじゃなく治癒効果があるんだぞ。お前さんの為に探したんだから、一つくらい味わって食ってくれよ」
そう呟くのだが、やはり彼女の知ったことではない。二つ目のオボンも彼女の顔の下に小さな水溜まりを作りながらいつの間にか消えていた。
「あーあ、味わえって言ったのに」
ご満悦の様子で毛繕いを始めた紅に男は呆れ気味にため息を漏らした。
「(知らん。お前が勝手に持ってきただけだ)」
そんな男に紅は小さく鳴いた。己の爪が肌を傷つけないように注意しながら、真っ赤な肉球で丁寧に汚れを落とす。それが嬉しかったのか、男が再び笑いをこぼした。
「まあいいや、満足そうだし。ところでお前さん紅って言うんだろ?俺の名前はユウヤって言うんだ」
男も紅のことを知っているようだった。
「よろしくな紅」
そう言ってユウヤは体勢を崩して前のめりになると、今度は手を伸ばした。紅に触れようと言うのだ。だが、それはあまりにも無謀だということを彼は忘れていた。紅の鎌がピクリと動いた。それに気が付いたユウヤは直ぐに手を引っ込めた。それが幸いだった。紙一重で紅の鎌が空を切る。
「(貴様の名などどうだっていい。私に触るな人間)」
紅が小さく唸った。ユウヤの額からドッと冷や汗が吹き出す。手を引くのが少しでも遅かったことを考えると背筋がゾクリと震えた。奇跡的に繋がっている手を思わず振った。
「やっぱりお前さんは賢いな」
完全に警戒心を解いてくれたものだと思いこんでいたユウヤはそれが些かショックだった。そして、彼女があの紅であることを再認識した。ようやく彼女の胸元の黒いシミを見つけた。ユウヤにはそれが何なのかは直ぐに分かったが、正直分かりたくはなかった。
「その鎌で何切ったんだよ」
「(貴様の仲間の犬だ)」
「やめた、知りたくねえ」
この時ばかりは人間がポケモンの言葉を理解出来なくて良かったのかもしれない。空腹が満たされて更に眠くなったのだろう。紅が欠伸を漏らした。

吊られて欠伸をしたユウヤは目を擦ると立ち上がった。リュックを背負い直すと大な伸びをした。
「また来るから」
「(もう来るな)」
「あんまり動くなよ。あと包帯取るんじゃないぞ。薬が塗ってあるのもそうだけど、お前さんが傷を舐めないようにしてるんだからな」
「(そんなこと知るか)」
紅が悪態を吐いた。それを返事と受け取ったユウヤは紅に手を振ると振り返った。
「じゃあな」
そう言うとユウヤは歩き出した。彼の背中を見ながら紅は気がついた。彼からは人間の臭いが殆ど感じられないことに。寧ろその臭いは森の嗅ぎなれた匂いであった。罠を外し、怪我の治療を施し、木の実をくれた緑の匂いのする不思議な人間。ユウヤとの出会いは彼女の心に小さな安らぎを生んでいた。やはり日差しが心地よい。紅は微睡みに身を任せた。



ユウヤは言った通り次の日もやって来た。その次の日もその次の日もオボンを両手に紅を見つけた。怪我をしているため紅の行動範囲は狭いが、それでも普通だったら見つけられはしないだろう。どうやらユウヤのこの森に対する知識は紅よりも上らしい。紅を見つける度に動いたことを注意する。紅は初めの内こそは人間であるユウヤに馴れないでいたが、彼が危害を加えてくる様子はやはり無く、少しだけ残っていた警戒心も次第に消えていった。紅の脚の怪我も既に完治している。だが、鎌を振られた経験がある以上未だに紅に触れられないでいる。薄汚れた包帯が巻きついたままであった。ある日差しの強い日のことだった。
「紅、ちょっとこっちおいで」
「(なんだユウヤ、美味い物でも見つけたのか?)」
ユウヤが紅に手招きをした。彼女はそれに従い彼の元によった。彼女の目の前に広がったのは広場のような場所であった。真ん中に一本だけ生えた木が日光を遮ることはなく、緑の絨毯が活き活きと輝いていた。ユウヤが突然走った。長々と伸びた草を足で倒しながら真ん中の木までたどり着く。背負っていたリュックを横に降ろすと、胡座をかいて木に寄りかかった。
「おいで紅!気持ちいいぞ」
そう叫んだユウヤの元へ彼女も小走りで近づいた。火照った草が脚を撫でてるのが彼女はとても気持ちよく感じた。ユウヤの目の前に着くと紅はしっかりとお座りした。そして、彼の目の前に頭を垂れたのだ。
「(ほら、お前になら触れらてもいいぞ)」
甘えたように鳴いた紅、そんな声で鳴いたのは生まれて初めてかもしれない。今度、戸惑ったのはユウヤの方だった。彼女が甘えてくれたのは嬉しかったのだが、あの鎌がどうしても気になる。ゆっくりと慎重に手を伸ばしていった。中々手が届かないのが焦れったかったのか、紅が自ら頭をその手に当てたのだ。初めての彼女の感触は若干ごわごわしていた。それでもユウヤは彼女の頭を撫でた。そのまま彼女を引き寄せると上半身を膝に乗せてやった。彼女はそこに伏せて落ち着くと気持ちが良さそう鳴いた。「(まったく、お前は変な奴だ)」
「うわ、結構重いな」
ユウヤが笑いながら失礼なことを言っても紅はそこで落ち着いていた。額の出っ張りがユウヤの胸を押して少し痛んだ。ユウヤの手が包帯を巻いた脚に伸びる。汚れたそれをようやく取ってやるとそこに傷はなかった。
「良かったちゃんと治ってるぞ」
包帯をリュックに押し込みながら彼は紅の喉を撫でた。紅は目を細めながらユウヤに甘えていた。彼女に初めて訪れた安らぎの時間。日差しの温もりは彼女の心まで包んでいく。あのグラエナが人間に仕えていた理由が何となく紅にもわかった気がした。ずうっとこのままで居たいと紅は思っていた。ユウヤもそう思っていた筈だ。幸せに包まれていた彼らは忘れていた。ユウヤ本人の目的を、紅という存在を。強く吹いた風邪が彼らを目覚めさせようと木を大きく揺すった。




ヤミカラス達の声がけたたましく響きわたった。ちょうど紅が罠に掛かってしまったのと同じよな時間だろう。当の彼女は林の中でじっと動かない。その目の先には鉄の筒を抱えた人間が五人も確認できた。
「どういうつもりだユウヤ?」
「だから紅はもうこの森には居ないって」
「証拠は?」
「証拠ったって逃げちまったんだから仕方ないだろ」
その五人に立ちはだかるのはユウヤであった。しかし、彼らはユウヤのことを知っているようで、彼もその人間達を知っているようだ。紅は今にも飛びかかりたいのをグッと堪えていた。ユウヤに言われた通りに身を隠して招かれざる客をやり過ごそうとしていた。
「だったら捜し出して殺してやる」
「まてまてまて、そんなの時間無駄だ」
「邪魔をするなそこをどけ!!」
男の一人が道を塞ぐユウヤの胸ぐらを掴んだ。紅の爪が怒りで地面に食い込んだ。
「アイツは俺の親父を殺したんだぞ!必ず仕留めてやる」
「そもそも人間が手を出さなければ紅も人を殺すことはなかった!」
もっともな正論であった。だが、それが人間の勘に触ったらしい。男は銃を落とすと、その手でユウヤを殴った。それは紅の堪忍袋の緒を切るのに充分な要素であった。ユウヤが倒れ込む。その横を歪んだ空気の刃が通った。短い叫び声がその場にいる全員の耳に入る。ユウヤを殴った男とは違う男の腕をその刃が切り裂いたのだ。紅の鎌鼬だった。ユウヤの血の気が引いた。
「ヤツがいるぞ!!」
人間のひとりが叫ぶと全員が銃を構える。
「ユウヤ!!貴様アイツを庇ったな!!!」
鎌鼬がもう一つ飛んできた。それは人間は当たらず近くの木を斬りつけた。それと同時にユウヤは起き上がり紅の元に走った。
「止めろ紅!逃げろ!」
ユウヤは叫んだ。怖かったのだ。裏切り者になることではない。紅がこのまま銃弾を浴びて苦しんで死ぬことがひたすら恐ろしかった。銃声は奇跡的に鳴らなかった。ユウヤが紅の盾になり人間達は引き金を引けないでいた。紅はユウヤの心情を理解したのか。彼の言う通りに振り返り走り始めた。彼女の方がやはり速い。ユウヤはそれに追いつこうと必死に走った。
「あの卑怯者!!!」
ユウヤを殴ったあの男が落ちた銃を拾い上げた。そいつは銃を構える。覗いたガラスの十字架の中心にはユウヤの背中が写っていた。彼がちょうど木の隙間に入った時だった。轟音が響いた。火薬の臭いに紅の足が一旦止まった。だが、此方に走ってくるユウヤを見てまた歩みを速めた。人間は追っては来なかった。
「もう日が暮れる。追わなくていい。ミゲル、腕は大丈夫か?」
「ああ、掠っただけだ」
「日が昇ったら犬に臭いを追わせる。しっかり休んでおけ」
「それはいいが…お前」
「何か不満でもあるか?」
「ユウヤを撃たなかったか?」
「さあな、どちらにしても裏切り者には死が待っている」
「あ、ああ」


歩いた。ただ歩いた。逃げ場など残ってはいなかった。ユウヤには分かっていた。人間達が紅を全力で殺しに来たこと、そして自分と一緒にいては紅が逃げられないことを。ユウヤの前を行く紅が時折後ろを振り向く。呼吸が荒い彼を心配しながら歩みの速さを遅めていた。ユウヤは腹を押さえながら必死に彼女についていった。いつまで歩いたのだろうか。彼らの前にはいつかユウヤが紅に初めて触れた広場が姿を現した。満月に照らされた緑の絨毯がまた違った顔を覗かせていた。真ん中に一本寂しく佇むその木までゆっくりと歩く。紅がもう一度振り返った時だった。小さな穴が空いたリュックを置いたユウヤは木にもたれるとズルズルと腰を降ろした。紅が慌てて寄ってくる。
「悪い…心配かけて」
彼から漂う血の臭いに紅は気がついた。彼が押さえる腹部から大量の血液が流れ出していた。
「お前さんだけ逃げな」
血の付いていない手で紅の頭を弱々しく撫でてやった。
「(安心しろずっと一緒にいてやる。奴らが来ても切り刻んでやる)」
小さく鳴いた紅はユウヤの瞳をジッと見つめていた。そして、彼の膝に上半身を乗せて伏せた。流れ出る血液が紅の体毛を汚していく。
「…やっぱり。お前は優しいな」
逃げる素振りを見せない紅をユウヤは抱きしめた。
「ありがとう。一緒に逃げような。だから少し休みな…」
「(わかった。何かあったら直ぐに助けてやるからな)」
ユウヤの温もりが紅を安心させた。彼女の疲れきった身体はそれにあやされ、直ぐに重くなっていった。



紅が深い眠りについた。ユウヤはそれを起こさぬようにリュックの中を震える手で探った。そして、ある物を引き出した。月光に照らされ鈍く光る鉄の塊。それは拳銃であった。彼は猟師なのだ。銃口を紅の頭に持って行く。木々を揺らす風の音はまるで彼を罵倒するかのようだった。紅の表情は未だに穏やかでユウヤのことを信用しきっている。これから彼は本当の裏切り者になるのだ。だが、紅に苦しい思いをさせるつもりはない。本当は彼女をきちんと逃がすつもりでいた。だが、彼は酷い目ばかりに逢ってきた彼女にとってあまりにも大切な存在になっていた。このままでは手負いの自分を庇い闘うのは明白である。そして、相手は手練れであることもポケモンを使ってくることもユウヤは知っていた。彼女が苦しむ姿を見るのは嫌だった。ゆっくりと引き金に指を掛けた。紅の体温が嫌に伝わってくる。猟師という立場の自分を恨んだ。何事にも甘い自分を恨んだ。あの時紅を助けた愚かさを恨んだ。
「ごめんな…紅…これが俺の仕事なんだ」
彼女との思い出が真っ赤に染まっていく。ユウヤの指に限界まで力が入った。刹那に響く小さな破裂音。風が一斉に止む。ユウヤの腕に広がる真っ赤な液体。紅は相変わらず穏やかな表情で彼の胸で眠っていた。彼女は何も悪くない。悪いのは人間達だ。ユウヤは銃口を直ぐに自身の胸に移した。
「これでずっと一緒に居られるかな」
二回目の破裂音が森に響く。彼らを染める紅を月明かりが寂しく引き立てていた。


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Last-modified: 2012-03-28 (水) 00:00:00
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