ポケモン小説wiki
孤高の翼で空を飛ぶ

/孤高の翼で空を飛ぶ

作:ハルパス



 眩しい光で街を射抜いていた太陽も、今は山の彼方へと姿を隠していた。空にはほんのりと茜色の残滓が、立ち去り難くしがみついているに過ぎない。東からはまだ色を持たぬ月と、深い群青色が徐々に広がりつつあった。
 身を潜めていた楠の梢で、私は夜の訪れを知る。そろそろ本格的に活動を始める頃合いだと判断し、葉や小枝の少ない場所へ飛び移った。
 私は淡く美しいグラデーションを描く空を見つめ、身に馴染んだ漆黒の翼を開いた。両翼を激しく空気に叩きつけ、太い枝をぐっと蹴り上げる。足の裏から確かな質感が消え、代わりに全身を包む、浮遊感。規則正しく並んだ街路樹と舗装された道路がみるみる離れていく。
 羽音と影に気付いたのか、道行く何人かの人間共が私を見上げた。だがそれも一時の事。すぐに奴らは顔を下ろし、奴らの日常へと戻っていく。私など端から存在していなかったかのように。それでいい、一瞬の後には私の記憶からも、奴らの存在はかき消えているのだから。
 温度を失い始めた風を切って、私は舞い上がる。眼下に広がる街を見渡し、一声大きく呼びかけると、街路樹から、電線から、路地裏から、あちらこちらから小さな黒点が飛び出し、私の元へ集まってきた。
 気流を捉え、安定した飛行に入る私に付き従う無数の翼。見ずともわかる、彼らの憧れと尊敬の眼差し。心地良さがじわりと広がり胸を満たす。幸福感に身を委ね、小さな黒達を率いて、夜の先駆けのように夕暮れの空を滑った。何者にも邪魔されない自由な世界がここにはある。このような時、翼を持って生まれて良かったと心から思う。だがいつまでも飛行を楽しんでいるわけにもいかない。
 姐御、姐御と配下のヤミカラス達が私を呼ぶ。その呼び名通り、私は雌でありながらもドンカラスとなり、こうしてヤミカラスの群れを支配していた。雌で首領(ドン)となるのは珍しいらしい。少なくとも、私に挑戦してきた放浪者(ノマド)のドンカラス達は皆雄だった。
 ヤミカラス達の声に応えるように振り返り、己の群れを見渡す。およそ二十羽からなるヤミカラス達の集団、だが一羽一羽の詳細な情報を掴んでいるわけでもない。多くは顔を知っているだけで、生い立ちも、名前すらも知らない。尤もそれはヤミカラス達にも同じ事が言えるだろう。彼らにとって私は自分達を守り率い、安全の代価として奉仕する絶対的な首領(ドン)に過ぎず、私個人に目を向けているわけではないのだ。それでも私は満足していた。野生におけるヤミカラスとドンカラスの関係は凡そこのようなものであり、これこそが私が望み思い描いていた夢なのだから。
 だいたいの群れの頭数が揃ったのを確認して、私は今日の餌場を探す事にした。何せこの大所帯だ、同じ場所にずっと居ついてはすぐ餌がなくなってしまうし、人間共の目にも留まる。人間共と関わりを持つと碌な事にならない。それは今までの経験からわかっていた。だが無闇には関わらない事と、こちらが奴らを利用してやる事では話が違う。
 私は考えるために少し旋回してから、街の中心部へと向かった。忙しない羽音達も遅れずにしっかりついてきた。
 段々と空気が淀み、それに比例するかのように地上の様相もごちゃごちゃとしてくる。所狭しと乱立する建物、夜空の星を振り撒いたかのような、ただそれよりももっと露骨で下品な光の集まり。この高さにいても聞こえる騒音に呆れつつも、私は地上に目を凝らす。さて何処へ降りようか。
 ふと目に入ったのは、人間共が『レストランガイ』と呼ぶ一角の裏通り。ここを今日の餌場と決めた私は、ヤミカラス達に声をかけ高度を下げた。どうもこの近辺は人間共にとっても餌場らしく、彼らの食べ残しや野菜くず、骨などが毎日のように捨てられているのだ。定期的に人間共に追い払われるせいでここを縄張りとする特定のポケモンはいないが、ここは人間共の街で暮らすポケモンにとって主要な餌場のひとつだ。つまり、この場所を利用しているのは私達だけではない。
 案の定先客がいた。薄汚れた毛並みの一頭のルクシオと、その子分らしいコリンクが二頭。電気タイプを持つ彼らは、ヤミカラス達だけでは到底太刀打ちできないような相手だ。
 頭上を過ぎる私達の影に気づき、コリンクは顔を上げた。そして、あからさまに嫌そうな顔をする。ルクシオに至っては唸り声を上げ、ばちばちと静電気を放って威嚇してきた。彼らからすれば、私達は明日の糧を奪おうとする略奪者に他ならないだろう。だがここでおいそれと引き下がるわけにはいかない。私にも養ってやらねばならない群れがあるのだ。
「先にここに来たのは俺達だ。余所へ行け!」
 牙を剥いたルクシオがこちらを睨む。コリンク達も同意するように吠えたてたが、私の周囲で口々に鋭い声を上げるヤミカラス達に気圧され、怯えた目で後退った。
「何故貴様の指示に従わなければならない。譲る気がないなら、力づくで奪うまでだ。……お前達は下がっていろ」
 ヤミカラス達を引き下がらせ、私は翼を広げて威圧する。同じようにコリンク達の前に進み出たルクシオは、青白い静電気を鬣と前脚に纏わせていた。一瞬の沈黙は、戦闘の前触れ。
「失せろ、鳥ポケモン風情が!」
 ルクシオが突っ込んでくる。私は電光を帯びた突進、スパークを舞い上がってやり過ごす。真下を通過したルクシオは、転がっていた空き缶を蹴り飛ばしながら急停止し、振り向きざまに電撃を放ってきた。これも翼を翻してかわそうとしたが、壁に阻まれて上手くいかなかった。不覚にも電撃が掠り、右翼に火傷にも似た痛みが痺れを伴って湧き上がった。
 やや高度を落とした私に、好機と見たのだろう、ルクシオが再びスパークを仕掛けてきた。確かにヤミカラスならばさっきのダメージで怯み、場合によっては逃げ出すかもしれない。だがドンカラスである私にとって、電撃が掠った程度では大した痛手にならない。私は身の内に潜む力――己のタイプとは明らかに異なるタイプの波動を拾い集め、自ら飛び込んでくる標的に向かって勢い良く解き放った。
「ぎゃっ!?」
 短い悲鳴と共にルクシオは弾き飛ばされた。目覚めるパワー、同じ種族であっても使用者によってタイプが異なるという不思議な技。今はもう何処にいるのか、それ以前に生きているのかすらもわからない親から受け継いだこの技は、私の場合電気タイプのポケモンによく効くタイプを持つらしい。同族との争いで使った時には全く効果がなかったので、この技は専ら餌場のルクシオやデルビル等を牽制する時に使っている。
 動きの止まったルクシオに狙いを定め、私は今度は己本来の属性である悪タイプの波動をお見舞いした。体勢を整えきれていなかったルクシオは漆黒の暴風に呑まれ、受け身も取れずに壁に叩きつけられた。
「さあ、まだ戦うか? それともこの場を明け渡すか。どちらか選ばせてやる」
 地に脚をつけ、警戒は怠らないままルクシオに言い放つ。背後ではヤミカラス達が、街の騒音よりは大人しい喚き声を上げ始めた。
「くそっ……おい、行くぞ」
 ルクシオは唸りながら牙を見せたが、戦意は失った様子だ。二頭のコリンクに呼び掛けると、後脚を引きずりつつ路地裏から去って行った。
「流石姐御! 姐御が勝った!」
「姐御、万歳!」
 緊張感の解かれた私は、休む間もなく歓声の渦に巻き込まれた。この瞬間の昂揚感は、幾度経験しても褪せないものだ。
 さて、餌場を確保してしまえば、私の首領(ドン)としての役目は一先ず終わる。私はにおいと見た目から、一番中身の詰まっていそうなごみ袋を選んで陣取った。他のごみ袋にもヤミカラス達が降り立つ。後は基本的にそれぞれの食事に集中し、ヤミカラス達が何か目ぼしい物を見つければ、私のところへ持ってくる程度。
 幸いにも今夜は、他のポケモンにも人間にも邪魔される事なく時間は過ぎていった。それどころかかなり大きな脂身の塊をヤミカラスが持ってきて、私は十分過ぎるほど食事を堪能できたのだった。やがて人間共の活動も鈍る夜更け、満足した私達はレストランガイを後にする。道と同じく舗装された浅い川で水浴びと水分補給を終えた後は、人間共の街の上空を、あたかも私達が支配しているかのように自由に飛び回った。ヤミカラス達に次の餌場の候補や街の様子などを偵察させたり、街の灯りを反射していた金属製の何かを見つけ弄んだり。そうして東の上空が白み始める頃、私はまたヤミカラス達の頭数を確認してから元来た空を引き返した。
 これが私にとっての日常。人間共と一定の距離を取る事で自由と便利な生活を両立させる、自分で言うのも何だが非常に賢い生き方であると思う。同じく野生で生きる者の中には、恥じらいもなく人間共から餌を貰い、挙げ句奴らの(しもべ)と成り果てるポケモンもいる。だが私にはその心情など到底理解できなかった。中には強制的に捕獲された者もいるだろうが、自ら進んで人間共の配下に下る連中を私は何匹も見てきたのだ。連中は一体何を考えているのだろうか、自由を失ってまで、誇りを捨ててまで人間共と共に暮らしたいなどと、私に言わせれば狂気の沙汰だ。
 夕暮れと共にヤミカラス達を従えて飛び、夜の街で餌を探し、戦い、朝焼けと共に(ねぐら)へ戻る。人間共の暮らしを利用しながら、けれど決して媚を売る事なく、誇り高く生きていく。この生活がずっと続いていくものだと、私は信じて疑わなかった。




 ある晩秋の夕暮れの事だ。私はヤミカラス達を侍らせ、活動前の身支度をしていた。公園の中央、身の引き締まるような冷たい噴水で水浴びを終えて、今は羽繕いに勤しんでいる。艶めいた、正しく濡羽色の翼は勿論、体色と相反する純白の胸部の羽毛も丹念に嘴で梳かす。空気を含ませれば、ふわりと美しくなるから。
 よし、これで良い。水面に自分の姿を映し、乱れた羽根がないか確認していた時だ。不意に周囲が騒ぎ始めた。
「姐御、姐御! 大変です!」
「挑戦者だ!」
 ヤミカラス達が口々に喚く中に、私は確かに聞き取った。低くドスの利いた声を。
「この群れの首領(ドン)は何処にいる!? 出てこい、そして俺と戦え!」
 そう叫ぶのは、十中八九他のドンカラスのものだ。それも雄だろう。間違いない、私は勝負を挑まれたのだ。
 ここで相手の挑戦を受けない訳にはいかない。群れ持つ首領(ドン)を務める以上、この地位を狙う他のドンカラスとの戦いは避けられないし、何より戦闘を放棄するなど私の誇りが許さない。首領(ドン)に相応しいのはより強いドンカラスだ。
「私がこの群れの首領(ドン)だ!」
 次第に大きくなるヤミカラス達の喧騒を制し、私は舞い上がる。公園で一番高い松の木の梢に留まり、先程の声の主である挑戦者の姿を探した。
 いた。公園の際、電柱の頂上に佇むドンカラス。その姿を認めた瞬間、私は僅かに目を見開いた。
 私は並のドンカラスより幾分か身体が大きい自信があった。今まで何羽も他のドンカラスを見てきたが、私と同じ体格の者さえいなかったのだ。だがそれは今日までの事。相手のドンカラスは私よりも更に一回りは大きかった。恐らくムクホークと比べても見劣りしないであろう、堂々とした体躯。無論体格だけが強さの基準ではないが、同じレベルの実力ならばやはり体格の大きさがものをいう。つまり私にはささやかながらハンデがあるようなものだ。
「なんだ、随分立派な群れを持ってるもんだから、どんな奴が首領(ドン)かと思えば。貴様雌じゃねぇか、雌のくせにわざわざドンカラスに進化してまで群れを持ったのか。それとも、単に運だけで群れを手に入れたか?」
 相手の雄が小馬鹿にしたように鳴き、ガアガアと笑う。明らかな挑発だ。私はそれには答えず、翼を広げて姿勢を低くし、鋭く鳴いた。
「来い、お前の挑戦を受けてやる」
 途端に相手の雰囲気が変わった。表情からは嘲笑が消え、目つきがす、と鋭くなる。面構えを見ればわかる、相手はかなりの実力者だ。だからと言って私が怯むわけではないが。
 この勝負はただのバトルではない。ドンカラスにとって大切なものが二つ賭けられている。ひとつはこのヤミカラス達の群れ、つまり首領(ドン)の座だ。どれだけ大きな群れを持つか、それはドンカラスとしての最大のステータスとなる。
 もうひとつは己の誇り。勝者は全てを手に入れ、敗者は全てを失うのだ。
 刻々と夜に染まりゆく公園に、張りつめた空気が立ち込める。私も、おそらく相手も、互いに隙を窺っていた。
 私と相手のドンカラスが飛び立ったのは同時だった。電線など邪魔なものがない公園の中央で、私は大きく息を吸い込んで悪の波動を放った。しかし私の最も得意とするその技を、相手は軽く翼を翻しただけでかわし、シャドーボールを撃ち出してきた。影色の球体は大きさも迫り来る速さも相当のもので、私は大きく羽ばたき飛び越えるようにして避けた。技自体は当たらなかったものの、気流が乱れ危うくバランスを崩しそうになる。隙を見せてはいけない。強めた羽ばたきのままに速度を上げ、更には回転も加えてドリル嘴で接近戦に持ち込んだ。硬いもの同士がぶつかる甲高い音が響いたのは、相手が鋼の翼で受け止めてきたからか。下方できらりと何かが閃く。相手が鉤爪で掴み掛ろうとしてきたので、私は相手の頭めがけて翼を叩きつけ急いで離脱した。互いの羽根が飛び散る。
 私も伊達に首領(ドン)をしてきたわけではない。幾度もこの座を狙う放浪者(ノマド)達を迎え撃ち、群れが危険に晒された時には自らが戦い群れを守ってきた。戦闘には慣れていた。
 しかし、相手の雄もなかなかに強かった。どうしてこれほどの実力を持つドンカラスが放浪者(ノマド)でいたのだろうかと、不思議に思うほどに。進化したばかりなのか、もしかすると人間に飼われていたのだろうか。だが相手の過去など知る必要もないし、知った所で何の役にも立たない。今考えるべきは相手を打ち負かす事だけだ。
 相手は私を引き離すためか、建物の乱立する方向へと飛んでいく。無防備な背後へ攻撃を加えようと悪の波動を吐き出したが、すんでの所で建物の角に回り込まれ命中しなかった。相手に攻撃の準備を整えられる前に追撃しなければ。私も急いで後を追い、同じ建物の陰へ飛び込んだが、薄闇の中でも目立つはずの漆黒の翼がどこにも見えない。他の建物の向こうへ回り込んだか、それともあの木の梢に隠れているのか、或いは。ほんの数秒、次に取るべく行動を考えて私は速度を落とした。これが間違いだったのだ。後方から風を切る音が聞こえた時にはもう遅かった。
 しまった、背後を取られた!
 一瞬の判断ミスを後悔する間も無く、両翼に衝撃が走る。同時に頭上すぐ近くで聞こえる羽音。最悪の状況だ、相手に捕まってしまったのだ。鉤爪が雨覆いを突き抜けて肉に食い込んでくる。私は必死に暴れたが、踏ん張りの利かない空中では思うように力が出せない。ここで体格差の影響が出たのか、暴れる私を相手は羽ばたきを強めただけで抑え、バランスを保っていた。
 相手は私をその爪に掴んだまま上昇に転じる。まずい、この動きは。相手のやろうとしている事を察した私は、醜態を晒す事も厭わず全力で暴れた。なんとかして振り解かなければ。しかし拘束は解けず、余計に鉤爪が深く突き刺さるだけ。無理な力がかかった翼の付け根と、鉤爪が食い込んだ箇所からの痛みは私の体力を大幅に削っていく。羽根が濡れて貼り付いた感覚がするのは、出血が酷くなったせいだろう。
 十分な高度だと判断したのだろう、相手は上昇を止め、一旦空中に静止する。夜景煌めく街の遥か向こう、漆黒に凪いだ海まで見えた。
「これで終わりだ」
 唸りを上げて吹き荒ぶ冷たい風の中、相手の声だけがいやにはっきりと響いた。
 そして始まる急降下。翼を吊り上げられた宙ぶらりんの体勢のまま、私は落下していく。嫌だ、そんな、私が。
 刻々と迫り来る地面に全身の羽根が逆立った。不自然な体勢と激しい風の抵抗で身体の自由は利かず、脚は空しく空を引っ掻くのみで何も掴む事ができない。身の縮むようなこの感覚は、恐らく冷え切った風に巻かれたせいだけではないだろう。嫌だ嫌だ、やめてくれ! このままでは私は失ってしまう、何もかも。公園の硬い地面はもう目前と迫っていた。
 地面すれすれで相手は掴んでいた脚を離し、上昇に転じる。しかし翼を奪われていた私は為す術無く地面に叩きつけられた。
「ぐああっ!」
 どうにか身体を捻り、頭からの墜落は防げたものの、身体の下敷きとなった翼からは今まで感じた事のない激痛が走った。思わず食い縛っていた嘴の隙から呻き声が漏れる。
 相手のドンカラスは少し離れたベンチに留まり、悠然と私を見下ろしていた。起き上がり、立ち向かわねばならないと頭ではわかっていても、激痛に支配された身体は言う事を聞かない。私は荒い呼吸のまま、ただただ相手を睨みつけるしかできなかった。
「勝負あったな。やっぱり、雌に首領(ドン)を務めるなんて無理なんだよ!」
 相手の宣言に、周囲で静かに成り行きを見守っていたヤミカラス達がざわめき始める。
「姐御が負けた」
「挑戦者が勝ったぞ!」
「新しい親分だ!」
 ざわめきは波紋のように広がり、いつしか歓声となる。「親分、親分万歳!」と。その渦の中心で、相手のドンカラスは勝ち誇ったように雄叫びを上げた。
「今日から群れは俺のもんだ。じゃあな、身の程知らずのお嬢ちゃん」
 最後に相手のドンカラスは私に一瞥をくれ、翼を広げて飛び立った。後に続くヤミカラス達。悔しさに嘴をかちかち慣らしながら、私は彼らを見送るしかできなかった。無数の黒い影もその中央を舞う巨大な翼も、あっという間に宵闇に融け込み消えていく。後にたった一羽残されたのは、無様に地に這いつくばるドンカラス、つまり私。
 別にヤミカラス達を薄情だとは思わない。彼らが従うのはより強いドンカラスであり、『私』というドンカラスではない。相手の雄が私を打ち負かした以上、私は首領(ドン)としての資格も彼らの尊敬の念も失ったのだ。自然な事、それはわかっている。私もヤミカラスだった頃は、例え交代しようが首領(ドン)という立場であれば無条件に崇拝し憧れていたのだから。
 それより悔しいのはあのドンカラスが残した言葉。雌には首領(ドン)は無理だと嘲笑う、あの声が耳について離れない。私は身の程知らずだったのか? まさか!
 確かに私が首領(ドン)を目指したきっかけは、単なる憧れだったかもしれない。けれど軽い憧れだけでこの地位を手に入れ、維持できるほど首領(ドン)となる道は生易しいものではない。ヤミカラスだった頃、首領(ドン)になるためにたった一羽群れから抜けた私は、憧れを実現させるべく必死で努力を重ねてきたのだ。身体を鍛え、戦闘の腕を磨き、時には人間に捕獲されそうになりながらも撃退して、それでも肝心の闇の石を見つけられるかは運次第。ライバルを押し退け漸く進化して、そこでやっと群れ持つ首領(ドン)に挑戦する権利を得るのだ。首領(ドン)の座を勝ち取ってからも、放浪者(ノマド)や餌場を争う相手、更には群れを脅かす外敵を蹴散らしたりと、決して楽ではない日々を生きてきたのに。積み上げてきた生き方を全て否定されたような気がして、激痛の中になお、喉の奥に煙を詰め込まれたような苦しさを覚えた。
 ……このままここに蹲っていては、いつ他のポケモンや人間に見つかるかわからない。とにかく、身を隠さねば。
 痛みに耐えてどうにか起き上がり、私は自身の身体に目をやる。墜落の際、身体の下敷きとなった右翼は捩じ曲がり、畳む事ができずにだらりと垂れ下がる。そっと持ち上げれば、生温かい血が伝い落ちた。周囲には自慢だった黒い羽根や純白の羽毛が無残にも散らばっていた。
 私は翼を引きずり、一番近い茂みに倒れ込んだ。僅かばかり歩くのに随分骨を折った。痛みと絶望で、私は意識を失った。




「……」
 ふと気づくと、私は見慣れない空間にいた。
 視界に入る白い壁と天井。近くには木製の箱や、他にも何やらよくわからないものが置かれていた。私はふかふかしたものの上に寝かされていて、空間全体に染みついたにおいは――。
 ここで一気に意識がはっきりした。そうか、ここは人間共の巣の中だ。私は人間に捕まってしまったのか。傷ついていたとはいえ、なんという失態。首領(ドン)の座を失うだけでなく、更には捕らわれの身となるとは。己の情けなさに自嘲の笑みが零れた。一刻も早く脱出しなくては、何をされるかわかったものではない。幸いな事にモンスターボールによる捕獲はされていないようだが、それも時間の問題かもしれない。
 周囲を見回せば、壁が透明になっている部分がある。確か、そう窓と言ったか。よく人間共は窓を開けて顔を出したり、外気を取り入れたりしているのを見かける。つまり脱出しやすい部分なのだろう。消耗しきった今の私でも壊せるだろうか。しかし、人間共の所有物を破壊すると後々面倒な事になる。壊さずに開ける事ができるだろうか――。首だけ起こして窓を睨みつけていた時だった。
「あ、気がついたんだね、良かった」
 大人しい金属音と共に誰かの声が聞こえ、私は振り向く。実にタイミングの悪い事に、両手で籠を抱えた人間の小娘が入ってきたところだった。私を捕らえた張本人に違いない。
「寄るな、人間」
 言葉が通じない事は分かっている。それでも私は鋭く鳴き声を上げ、翼を広げて威嚇しようとする。しようとしたが、翼に何かが巻かれていて満足に動かせない。ちらりと目をやれば、白い帯状の布が翼を縛っていた。
「駄目だよ、まだ動いちゃ!」
 小娘は慌てたように言い、私に近寄ってくる。馬鹿め、貴様に近づかれたくないから動くのだ、小娘。威嚇が駄目ならば距離を取るまでだ。脚に力を込めて飛び退るが、途端に全身を駆け巡る痛みによろけ、頭から崩れ落ちてしまった。ああ、人間の目の前で、私はなんと無様な姿を晒してしまったのだろうか。
「大丈夫、ドンカラス?」
 その間にすぐそばまで近づいていた小娘が、私の顔を覗き込み手を伸ばしてきた。この上同情まで買うとは、屈辱の極み。
「気安く触るな、人間風情が!」
 私の声に一瞬遅れて小さな悲鳴が上がった。小娘は反射的に手を抑え、それからおそるおそる抑えた手を離す。右の手の平にはじわりと血を滲ませる小さな傷ができていた。勿論私がつついた跡だ。この私が本気でつつけば、貴様の柔い手の平など簡単に貫き通してやれたものを、わざわざ手加減して軽く出血する程度に留めてやったのだ。感謝するが良い。これに懲りたら、もう私に近寄ろうとはしない事だな。
「いったぁ、やっぱりもうちょっと慣れてからじゃないと触らせてくれないかぁ」
 しかし小娘は悪びれもせずにほざき、抱えてきた荷物の中から何かを取り出して傷口に塗った。貴様まだ私に触れる気でいるのか、そもそも私は貴様と慣れ合ってやるつもりなど毛頭ない。尤も、私が気絶していた間に穢らわしい手で散々触り倒したようだが。そうでなければ私を巣の中に運び込む事も、白い帯で翼を縛る事もできないだろうからな。気持ち悪い。
「貴様、覚えていろ。私が力を取り戻したら、この落とし前はきっちりつけてやるからな」
 羽根を膨らませて脅しの言葉を吐くが、
「あ、自己紹介がまだだったね。私の名前は紗佳(スズカ)。帰りに公園を通りかかったら、何かが空から落ちてくるのを見かけて。気になってその方に行ってみたら、倒れてるあなたを見つけたの」
 などと呑気に自己紹介を返される始末。言葉が通じないのがこれほどもどかしい事だとは思わなかった。
 これ以上紗佳とかいう小娘の緊張感のない声と、のほほんとした笑顔を相手にしても苛立ちが募るだけだ。馬鹿馬鹿しい。私はふかふかの上に蹲り、黙って羽根の隙間に嘴を突っ込んだ。ただ片目だけは開けて、警戒は絶やさないようにした。
「そうだ、ドンカラス。お腹空いてるよね、何か食べる?」
 小娘が笑顔を崩さないまま話しかけてきたが無視した。正直なところ自分が空腹であるのは自覚していたが、同意してやるのも何だか癪だ。
「これ、オレンの実。ここに置いておくね」
 私が無反応なのを見て、小娘はほんの少し笑顔を苦笑に変えたが、すぐに元に戻った。籠から美味しそうなオレンの実を数個取り出し、私の目の前に転がしてくる。流石につつかれるのを警戒してか、嘴の射程の範囲外からだったが。
 私は誇り高きドンカラスだ、誰が人間の施しなど受けるものか。暫くオレンの実に冷めた視線を送っていたが、ふと考えを改めた。人間の巣に捕まっている以上、餌は巣の主である人間が持ってくるものしか手に入らないわけだ。人間の施しを受けるのは悔しい事この上ないが、何か食べて体力をつけなければ傷の治りも遅くなり、いつまでも捕らわれたままだ。もし脱出の機会があっても、体力がなければみすみす逃してしまうかもしれない。確かに誇りは大切だが、それを優先するあまり身を滅ぼすのは愚か者のする事だ。私は群れを失い、更には捕らわれの身となってしまったが、愚か者にまで成り果てた覚えはない。
 私は立ち上がる。急な動きに小娘がびくりとしたが、やはり微笑みを崩さなかった。何がそんなにおかしいというのだろう。嘲笑は含まれていないので、私の無様な姿を見て面白がっているわけではないと思いたいのだが。
 私はオレンの実を片脚で抑え、勢い良くつついて叩き割る。砕けた欠片を嘴で摘み、そのまま飲み込んだ。
「ドンカラス、美味しい?」
 小娘がしゃがみ、嬉しそうに聞いてくる。警戒心が薄いのか学習能力が低いのか、その位置では私の嘴が届くという事に全く気づいていないようだ。
「馴れ馴れしいぞ小娘が。またつつかれたいのか」
 言ってしまってから、後悔した。私がいくら悪態をつこうが、小娘にはただの鳴き声としか認識されていないのだ。
「そっか、美味しいんだ? 良かったね」
 的外れな返答に腹を立てたが、声を上げれば余計に私が不愉快になるだけ。私は今度こそ小娘を無視して、食事に集中した。……木の実も良いが肉が食べたい。




 小娘は『ガッコウ』とやらに行くため、親元を巣立って一人でここに住み着いている事。あの日はこの小娘と、その友人とで私をポケモンセンターまで運んだ事。センターの人間の診たところ、翼はやはり骨折していたが、幸運にも回復の見込みは十分ある事、また翼以外にも擦り傷や爪による裂傷があったが、いずれも重傷とまでは至っていない事。治療の後、小娘の申し出により私は小娘の巣に引き取られた事。小娘は現在ポケモンを従えてはいないという事――。
 等々、私に向かって小娘がべらべら喋るものだから、私は自分の怪我の状態と、それとこの紗佳とかいう人間について無駄に詳しくなった。自分の身体に関する情報は有益だが、この小娘の雑学など知ったところで何の意味もない。せいぜい暇潰しになる程度だ。
 ところで、この紗佳という人間は奇妙な人間だった。弱っていた私を手元に置きながら、モンスターボールによる捕獲をしようとしないのだ。威嚇しても、時につついてやっても私に近づき、笑顔で話しかけてくる。その内威嚇するだけ無駄だと感じて、睨むだけに留めておくようになった。根負けしたようで腹が立つが、無意味に体力と精神を消耗せずに済むようになった、と努めて前向きに考えるようにする。傷が完治すれば元の野生へと返すつもりだと紗佳は口にしていたので(当然だが)、今しばらくの辛抱だ。
「ドンカラス、包帯換えるよ。じっとしててね」
 紗佳が言い、私に手を伸ばす。この行為が傷の治療のためだとは理解しているので、私は大人しくしていた。
「紗佳、私は必要に迫られて仕方なく触れさせてやっているのだからな。決して貴様に気を許したわけではないぞ。妙な動きをしたら、すぐさまつつき倒してやる」
 一応脅しの言葉はかけておくが、最初の頃よりは棘がなくなったように思う。紗佳の態度は、私が人間に対して抱いていたイメージとは随分違っていた。人間とは、ポケモンに対してこうも穏やかな笑みを向けるものなのだろうか。少なくとも私は好意的に接してやった覚えはないのに。それに、私の治療をする事によって何か益が発生するわけでもないだろうに、何故紗佳は見返りもなくこのような行動を取るのか。考えている内に、僅かだが紗佳に対して興味が沸いた。
 紗佳の様子を観察してやろうと意識を現実に戻した瞬間、私は妙な事に気付いた。紗佳が今触れている部分に傷があっただろうか――。
「貴様っ、妙な動きをするなと言っただろう!」
 一瞬の後撫でられていると気づき、咄嗟に紗佳の手を嘴の甲で払い除けた。穴を開けてやっても良かったのだが、包帯を換えてくれたばかりの相手に傷を負わせるのも気が引けてしまった。
「きゃっ!? ご、ごめんドンカラス、綺麗な黒い羽根してるからつい……」
 つい、で済ませる気か貴様は。怒声を浴びせてやろうとしたが、どうも勢いがつかなかった。私とて雌だ。「綺麗」などと言われたら嬉しくなるに決まっている。
 同族の中では誰もが当たり前のように黒い羽根を持っている。いくら羽繕いで身綺麗にしようが所詮は自己満足で、わざわざその羽根を褒めそやす者はいなかった。いたとしても、首領(ドン)に取り入ろうとするヤミカラスの世辞くらいだ。だが紗佳は人間であり、私に世辞を言う必要などどこにもない。つまり、本心から私の羽根を綺麗だと言ってくれたのだろう。
「……そういう理由なら、少しくらいは触らせてやっても良い」
 私は攻撃の意志がない事を示すために嘴を下げ、動きを止めたが紗佳はまだ躊躇っている様子。私が許可してやった時に限って触れてこないのも居心地が悪く、私は自分から紗佳の手に身体を押し付けた。
「ドンカラス……? ありがとう」
 紗佳は目を丸くした後、律儀に礼を述べてから私に触れた手を滑らせた。
 この紗佳の表情を見るのも悪くはないと、思ってしまった。




 私を含めたポケモンは元々治癒力の高い生き物だ。怪我をした直後にポケモンセンターで治療を受けた事、安全と食べ物の確保された場所で療養していた事もあり、野生で生きていた時よりもかなり早く傷は治った。心配だった翼の骨折部分も綺麗にくっつき、昨日センターでピンを抜いてもらったところだ。翼を動かした時に痛みが走る事もなく、抜け落ちた羽根も綺麗に生え揃っている。少なくとも肉体的には、何の後遺症も残らなかった。
「良かった、ちゃんと治ったみたいだね。これならもう飛べるんじゃないかな」
 私と一緒に翼の具合を見てくれた紗佳は、そう言ってまるで自分の事のように嬉しそうな笑みを浮かべた。だが、私は手放しで喜ぶ事ができなかった。原因はわかっている。
 道路脇に立ち、久しぶりに両翼を広げる。空を見上げて幾度か羽ばたき――地を蹴る事ができずにへたり込んでしまった。
「どうしたの? そっか、暫く飛んでなかったから筋力が落ちちゃったんだ」
 紗佳が言った。違う、確かに筋力は落ちてはいるが、飛べないほどではない。少なくとも身体を浮かせる事くらいは十分にできるだろう。
 ただ、怖いのだ。浮かび上がろうとするとどうしても、あの時の光景が蘇る。翼を掴まれ、自由が利かないまま地面に叩きつけられ、激痛と共に全てを失ったあの日。翼をもう一度広げてみたが、自分でも抑えられないほど震えを帯びていた。心臓が早鐘のように脈打つ。喉がからからに乾き、嘴を開いて荒い呼吸をした。
「無理しないでドンカラス、焦らずゆっくり力を取り戻していけばいいよ。だから、そんなに落ち込まないで」
 項垂れた私を、紗佳が優しい手つきで撫でた。どういうわけか、紗佳の手を羽根越しに感じていると心が落ち着くのを感じた。
 私は未だ捕獲されていない。ありがたいと思う反面、この紗佳という人間と共に過ごす時間が限りあるものだという現実に、私はふと奇妙な寂しさを覚えた。この私があれほど毛嫌いしていた人間に、こうも愛着を抱くなど自分でも信じられなかった。しかし、寂しく感じたのは紛れもない事実だった。私は一体どうしてしまったというのだろう。




 相変わらず私は空を失ったままであったが、紗佳と共に穏やかな時を過ごしていた。紗佳といると不思議と心に温かいものが広がっていくのを感じる。いつの間にか、私は紗佳に完全に気を許していた。
 ある冬の日。空は雲一つなく晴れ渡り、身の引き締まるような寒さの中にうっすらと日差しの恩恵を感じられる、そんな日和だった。紗佳は私を連れて買い物に出掛けた。飛ぶ事のできない私は、紗佳の横を歩いてついていく。
 昼間中心の活動にもすっかり慣れた。ガッコウとやらがフユヤスミに入ったと言った紗佳は、頻繁に私を外へ連れ出すようになった。昼間に人間共の群れの中へ入り、増してや地上を歩くなど、嘗ての私には愚挙にしか思えず嫌悪すら抱く行為だった。だが今は違う。隣を紗佳が歩いている、たったそれだけの事が私に安心感と余裕を与えてくれるのだ。こうして明るい視界の中、人間共の目線で見る街は中々面白く、目に映るあらゆるものに興味をそそられる。紗佳に出会わなければ恐らく一生経験せずに終わっただろうこの時間は、着実に私の中に掛け替えのない何かを刻み込んでいった。
 買い物を終え、私と紗佳は公園に寄った。技の訓練をするためだ。いつか野生へ返る時、最低限身を守れるだけでも戦えるように、身体が鈍ってしまわないように。これもいつしか私にとっての日常となっていた。
「ドンカラス、辻斬り!」
 紗佳の指示の元、私は公園に来ていた子供達相手にバトルを行う。傍目から見れば、私と紗佳は手持ちとトレーナーの関係に見られるのだろう。そんな事を頭の隅で考えながらも私は技を繰り出す。素早く相手のハーデリアに駆け寄り、翼で切り払った。ハーデリアは背中から地面にひっくり返り、そのまま伸びてしまった。これ以上の追撃は無意味。私達も相手の子供もそれを弁えていて、今回のバトルも私達の勝利で終わった。今回に限らず、私達は一度も負けた事がなかったのだが。
「やったね、ドンカラス!」
「ありがとう。だが、紗佳の指示もなかなか良かったぞ」
 紗佳の元に戻れば、紗佳は満面の笑みで称えてくれた。私も労いと礼の言葉を返す。言葉は通じなくとも、好意的な声の調子は伝わるものだ。勝利の余韻に浸りながら、私は首領(ドン)に戻ったかのような錯覚を覚えた。
 私は人間である紗佳を、群れの仲間として見ているのかもしれない。餌を運ばせ、身の周りの雑用をさせる代わりに、必要とあらば自らが戦って群れを危険から守ってやる。人間の行うバトルは群れの安全を守る為の戦いではないが、誰かの為に自らの力を振り絞って戦う、という点ではドンカラスの本能に合致している。通常のヤミカラスとドンカラスの関係と異なるのは、紗佳は私を首領(ドン)ではなく、あくまでも『私』として見てくれている事か。首領(ドン)であった頃が幸せではなかったと言うわけではないが、この関係は私が想像していた以上に居心地が良いものだった。
「バイバイ、お姉ちゃんとドンカラス。次は勝つからな!」
 バトルが終われば、子供達は手を振って帰っていく。専用のボールを持たない私は、暫く休息してから紗佳と共に家に帰る。これも私達にとって日常と化した光景。ただ、今日はいつもと様子が違っていた。
 周囲が妙に騒がしい。悲鳴、破壊音、そして空を震わせる咆哮。それらがどんどんこちらへ近づいてくる。間も無く騒ぎの元凶が飛び込んできた。
 空を映したかのような冴え冴えとした蒼に身を包み、体色と相反する巨大な深紅の翼が目を引く。このポケモンは。私も一度群れを守るために戦い、激戦の末に追い返した事がある。
 それはボーマンダだった。トレーナーらしき人間がいないところを見ると野生か。街向こうの山奥に住んでいる連中の一匹に違いない。だが様子がおかしい。目は血走り、興奮しているらしく口から炎が漏れている。餌の少ない今の時期、恐らく食べる物を探している内に街に迷い込み、パニックになってしまったらしい。身体には小さな火傷跡や数枚の葉が突き刺さっているところを見るに、既に誰かが追い払おうとして攻撃を加えたのだろう。だがボーマンダを食い止める事はできず、奴はここまで進出してきたのだ。
 公園に飛び込んだボーマンダは、偶然視界に入ってしまった私達に牙を剥き、身の竦むような咆哮を上げた。まずい。標的にされてしまった。
 張り出した翼で空気を打ち据え、ボーマンダが低空飛行で突進してくる。その視線は完全に紗佳に向けられていた。紗佳は腰が抜けてしまったのか、動けないようだった。生身の人間がまともに竜の攻撃を受ければ、間違いなくただでは済まない。下手をすれば命に関わる。
 このままでは紗佳が危ないと悟り、ぞっとした。私はまた失うのか、群れを――私と紗佳、たった二人きりの群れを。
 考えるより早く身体が動いた。長らく本来の目的では使われなかった漆黒の翼を広げ、力を込めて羽ばたく。久しく忘れていた揚力を感じ取り、勢い良く地を蹴り上げた。
 重力を振り払った瞬間、脳裏にあの光景が蘇った。翼が強張り、これ以上の羽ばきを拒む。全身に走る悪寒。胸を締め上げる恐怖。だがそれが何だと言うのだ! いくら忌まわしくとも、所詮過去にすぎないではないか。ここには存在しない、消え去った時間。だが今は。私は必死に己の翼を叱りつけ、纏わりつく過去を追い払った。私は目の前の現実を、仲間を、大切な紗佳を救いたい!
 次の瞬間、私は己の翼が空を切る音を確かに聞いた。速度と高度がぐんぐん上がっていく。往生際悪く恐怖心がしがみついてくるが、もはやそれは何の障害にもなりはしなかった。私は、飛んでいたのだ。
 飛翔により十分に加速する事ができる。私は身体を回転させ、ドリル嘴でボーマンダに突っ込んでいった。攻撃は左肩に命中し、ボーマンダは体勢を崩して進路を反らし、一度地面に足をついた。竜の強固な鱗に阻まれ深手を負わす事はできなかったが、それでも嘴を引き抜けば周囲に血が舞った。
「紗佳、逃げるぞ。乗れ!」
 私は紗佳の側に降り立ち、背を向けて鳴く。すぐに私の意思を理解してくれた紗佳は、私の背に乗った。並のドンカラスよりも大柄な私ならば、華奢な紗佳を乗せても問題なく飛行できるはずだ。背に紗佳の重みと体温を感じながら、私は空を目指し舞い上がる。少々バランスを取るのが難しいが、飛行自体は問題なく行える。紗佳が技の訓練をしてくれたおかげで筋力はしっかりあった。さあ、早くこの場から離れなければ。
 と、私の横を炎が掠めた。はっとして視線をやれば、怒りを目に滾らせたボーマンダが追いかけてきたところだった。
「くそっ……紗佳、振り落とされるなよ!」
 紗佳に声をかけると、私は振り向きざまに悪の波動を放ちボーマンダを牽制した。ボーマンダは大きく迂回してかわしたものの、再び向きを修正し私達を追ってきた。
 私は紗佳を振り落とさないよう、攻撃を食らわないよう気をつけながら戦ったが、やはりどうしても全力を出せない。紗佳に危険が及ぶために接近戦は行えず、射程が長すぎるために遠距離技も命中しにくく、当たったところで大ダメージを与えられないのだ。更に悪い事に、私達を追いかけ、戦っている内にボーマンダの闘争本能に完全に火がついてしまったらしい。奴は執拗に私達を狙ってきた。
 早く紗佳を降ろしてやりたいのだが、着地しようとスピードを緩めた瞬間、炎か牙の餌食になるだろう事は容易に想像できた。かと言って人を乗せての飛行に慣れていない私がボーマンダを振り切るのも難しく、また私一羽で奴を打ち倒す力も持ち合わせてはいない。以前ボーマンダを追い返した時もヤミカラス達に協力させていたのだ。このままではいずれ私の方が先に力尽き、紗佳もろとも攻撃を受けてしまう。
 どうすれば……。どうすれば、紗佳を守ってやれるのだろう。
 そうだ。興奮状態の今のボーマンダなら。紗佳を危険に晒してしまうが、今の私には他の方法は思い付かなかったし、ゆっくり思案している時間も残されてはいなかった。
「紗佳! 私を信じてくれるか?」
 風の唸りに負けないように問いかけた。言葉が通じない、そんな事はわかりきっているのに。
「私は、ドンカラスを信じてるよ」
 なのに、紗佳はまるで私の言葉を理解しているかのように、そう答えてくれた。やるしかなかった。
「しっかり掴まっていてくれ!」
 私は高度を上げていった。人間は気嚢を持っていないため、高所では呼吸が苦しくなってしまうだろう。済まないが少しの間だけ紗佳には耐えてもらうしかない。
 空気が薄くなり、気温が下がり、風以外の音が死んでいく。街の遥か遠くに見える海は、陽光を反射して美しく煌めいている。静止したかのような世界に、深紅の大翼が躍り出た。
 ボーマンダが間違いなく私達を狙っているのを確認してから、私は急降下を始めた。背の紗佳が息を飲んだのがわかったが、彼女は私にしがみつく力を強めただけで何も言わなかった。
 翼を畳み、なるべく風の抵抗をなくして速度をつける。ボーマンダの咆哮が引き離されまいと追いかけてくる。迫り来る地面はあの時と同じ。あの時と違うのは、全てを失うまでのカウントダウンか、全てを守るための賭けか。
 地面すれすれで私は身体を起こし、尾羽を広げ、ありったけの力を込めて羽ばたいた。落ちていたビニール袋が舞い上がり、垂直に迫っていた地面は平行となって直ぐに離れていく。しかし思惑通り、私しか見えていなかったボーマンダはそうはいかなかったようだ。いきなり視界から消えた私に、はっとして身体を捻ったところでもはや手遅れ。慣性の法則に従い地面に激突した。物凄い音と砂埃が湧きあがったが、頑健な竜はあれくらいでは大した怪我にはならないのを知っている。せいぜい軽く脳震盪を起こすか、打撲の痛みで暫く動きが鈍るかだ。
 地面に半分めり込んだボーマンダが気絶しているのを確認して、私は漸く紗佳を地面に降ろした。紗佳はふらつき、蒼い顔をしていたが、
「助けてくれてありがとう……ドンカラス……」
 そう言うなり私に抱きついてきた。
「当然だ、仲間なのだから。それと、怖い思いをさせてしまって済まなかったな」
 様々な思いを込めて、私は紗佳を翼で包んでやった。




 ボーマンダの件から数日後の夜。私は紗佳と例の公園に来ていた。技の訓練をするためではない。
「ドンカラス、お別れだね」
 紗佳が寂しそうに、けれどやはり笑顔で言った。紗佳、お前は本当によく笑うのだな。
 紗佳の言葉通り、私は今夜、元の野生の暮らしへと戻る事になっていた。怪我が癒え、飛べるようになったら野生へ返そうというのが紗佳の意思。私も最初は異論はなかった。むしろ早く人間の側から離れたい一心だったのだ。だが今は――。
「ほら、ドンカラス。ヤミカラス達がいるよ。迎えに来てくれたのかな?」
 私がなかなか飛び立てずにいると、紗佳が声を上げ空を指差した。その指先を辿れば、見知った顔ぶれの混じるヤミカラスの群れが目に入った。嘗て私が率いていた群れだ。
 ガア、と野太い声が夜空を切り裂く。あの堂々とした体格、声、忘れようがない。あの時私から群れと誇りと、空を奪ったあのドンカラスだった。
「貴様、あの時俺に負けたお嬢ちゃんじゃないか。群れを奪い返す気なんだろう? 良いぜ、挑戦なら受けてやる。戦え!」
 相手のドンカラスは姿勢を低くして鋭く鳴き、ヤミカラス達は成り行きを見守るべく周囲の木や電線に次々留まる。あっという間に、ドンカラス同士の決闘の場ができ上がっていた。見慣れた光景であり、今までの私なら何の疑問もなく戦っていたはずだ。何のために? そう、群れと誇りを守り、或いは手に入れるために。群れと、誇り。ああ、そうだ。
「どうした、怖気づいたか。それとも人間風情に捕まったせいで、誇り高き野生の血まで失ったか?」
 嘲笑を含んだ声で、早くかかって来いと相手が翼をばたつかせた。私は威嚇するように翼を開き――ふ、と目を細めて戦闘の構えを解いた。
「どういう事だ、貴様! ドンカラスならば、全てを賭けて俺と勝負しろ!」
 相手が苛立った声を上げ、ヤミカラス達は予想外の私の行動にざわつく。当然だろう。私が戦いを放棄したのだから。
「戦う必要などない。私は群れも誇りも、もう手に入れたのだ」
 そう言って向きを転じ振り返る。紗佳が驚いた顔をしていたので、私はいつも彼女がするように微笑んでやった。紗佳は数秒目をぱちぱちさせていたが、すぐに私の意思を理解してくれたのか顔を綻ばせた。
 私は再び空に目を向ける。私がいた頃よりも確実に規模を増し、私の知らないヤミカラスも混じる群れ。当時の私の力では、あの数の群れを維持するので精一杯だったというのに。易々と群れを広げてみせた、このドンカラスの実力は本物だ。
「お前ならこの群れを守っていけるだろう。くれてやる」
 最後にそう告げて、私は紗佳の元へ歩み寄った。
 待て、貴様本当に人間風情に誑かされたのか、誇りを捨てて飼い鳥に成り下がる気か、などと相手のドンカラスが喚いていたが、気にならなかった。お前は知らないのだろう、心を許した人間と共に過ごす、何にも代えがたい幸福を。知りたくないのなら構わない。お前にはお前の生き方があるように、私は私の生き方を見つけただけだ。私を『私』として受け入れてくれ、絆を結んだ人間と共に生き、群れの一員であるその人間を守る事。私はそれに誇りを持とう。
「本当にこれで良いの?」
 紗佳が私の顔を覗き込んで尋ねたので、私は視線を合わせてくるる、と喉を鳴らした。それで十分伝わったらしい。
「わかった。じゃあ帰ろうか、ドンカラス。改めてよろしくね」
 紗佳は嬉しそうに私の頭を撫でた。私も精一杯の笑顔を向けて、一声鳴いた。


あとがき 


まずはroot様、参加した作者の皆様方、第六回仮面小説大会お疲れ様でした。一読者としてとても楽しませてもらいました。ところで皆様、年々仮面が薄くなってやしませんかね。そういう私もバレてたんでしょうか……良かれと思ってフェイスパックくらいは貼り付けたつもりなんですけど!
今回鳥ポケが主役のお話を書きたくて、図鑑の説明見ながら色々と探して目に留まったのがドンカラスでした。ドンカラス、バトレボで倒れる時の仕草が格好良いですよね。で、私はトレーナーとポケモンの関係というのが好きなので、「挫折した後助けられて、なんやかんやで仲良くなる」という流れのストーリーになりました。
できる限り鳥、カラスらしさを表現するよう心掛けてみました。ポケモンですから当然実在しませんが、「あ、確かにドンカラスならこんな動きするわー」と一瞬でも思って頂けたのなら万々歳。
おかげ様でなんと二位という結果を残す事ができました!わーいわーい!こんなに投票頂いたの初めて!ありがとうございます!

以下、コメント返信です。


>ドンカラス、カッコよかったです。
(2014/04/28(月) 00:33)
主人公のドンカラスは、イメージとしては女騎士、って感じで書きました。ドンカラスは雄でも雌でも格好良いです。


>戦闘シーンが熱く書かれていた力作だと思いました
(2014/04/28(月) 23:57)
空中戦を書くのは初めてで色々と手探りな部分もありましたが、そう言って頂けると嬉しいです!


>群れを率いて先導し、群れに危険が及べば矢面に立つ首領(ドン)。ただしそこに"義理"はなく、あるのは互いの"利益関係"だけ。
そんな規律の中で首領から失墜したドンカラスが拾われたのは、決して頼るべきものかと思っていた人間で。
そこから段々と懐じゅ…もとい介抱されて回復したわけですが、その中で段々と紗佳に対して心を開いていき、
最後にドンカラス自身が選んだのは首領としてではなく一匹のドンカラスとして見てくれた紗佳という存在、という
王道的ではありますが、私はこういった王道的な流れが大好きなので投票させていただきました。
(2014/04/29(火) 23:21)
王道的なストーリーってやっぱり王道といわれるだけの魅力がありますよね。話の展開が読めてしまうというのが難点ですが、それでも飽きずに読んで下さり、更には投票までして下さってありがとうございます。
ドンカラスも、今までは利益関係で結ばれた首領の立場に満足していましたが、一度地位を失い、紗佳と出会う事で新たな世界を知り良い意味で変わりました。これからは立場は関係なく、あくまでも一匹のドンカラスとして周囲と接していくでしょう。


>ドンカラスの主人公らしい変化が分かりやすく面白かったです!
(2014/04/30(水) 18:07)
面白く感じてもらえたなら書いた甲斐があります!ただ、もう少しトラウマなどについて書けたかも、とは思っています。


>野生ポケモンを仲間にするときはあっさりモンスターボールになるけど実際はこんな感じなんだろうなあと思いつつ。
トレーナーとポケモンの一つの出会いを丁寧に描いた作品ですね。相変わらず美しい描写に心惹かれました。
(2014/05/01(木) 20:33)
モンスターボールですぐに仲良くなれるというのも良いものですが、ちょっとずつ距離が縮まっていくのも素敵ですよね。映画などで偶に入るナレーションみたいに、トレーナーとポケモンの数だけ色んな出会いがあるのです。
えっ、相変わらず……?あれれーバレてました?(すっとぼけ)


>いいものを手に入れることができてよかったね、ドンカラス。
(2014/05/02(金) 00:20)
規模はたった二人でも、このドンカラスにとっては最高の群れを手に入れる事ができました。


>挫折を期に、新しい生き方を見出したハッピーエンドですね。バトルシーンも迫力があって楽しめました。
(2014/05/03(土) 07:40)
前回のお話は救いのないバッドエンドでしたが、やっぱりハッピーエンドって良いですよね!ゲームでもスカイバトルというのが出ましたし、空中戦をもっと書いていきたいです。


>純粋にドンカラスの思いがつづられておりいい話だなと思いました!
(2014/05/04(日) 21:14)
少しでも何か心に残るものがありましたら、書き手としてはとても嬉しいです。


>徐々に打ち解けていくドンカラスにほっこりさせてもらいました。トレーナーとの生活を選んだドンカラスに幸あれ。
(2014/05/04(日) 22:20)
最初はツンツンしてたのにいつの間にか懐いちゃう鳥。
ドンカラスはきっと自分の選択を後悔する事なく、これからの人生を歩んでいくと思います。


>言葉が通じないからこそのすれ違いってありますよね。
ドンカラスの独白に現れたその気持ちが、徐々に変わっていく様は読んでいて温かい気持ちになれました。
かつて群れを奪ったドンカラスの強さを認めつつ、別の道を歩んでいく事を決めた最後の一幕はなかなかどうしてかっこよかったです。
自分を見てくれる真の仲間として、紗佳を、自分の群れをこれからも守り通していって欲しいですね。
(2014/05/04(日) 23:37)
最初は全く話が噛み合いませんでしたが、一緒に過ごす内に段々と意思疎通ができるようになりました。このwikiでは言葉が通じる設定が多いですが、通じないからこそすれ違いながらも歩み寄っていく、というのも良いものだと思います。
相手のドンカラスも、口は悪いですけど首領としての資質は十分持っている奴です。だからこそ主人公のドンカラスは未練もなく、すっぱりと新しい道へ踏み出せたのかもしれません。
自分で決めた道ですから、ドンカラスは全身全霊で群れの仲間である紗佳を守っていくでしょう。


最後になりましたが、投票して下さった方、閲覧して頂いた方、本当にありがとうございました!

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 利益のみを求める共存関係から、利害を超えて信頼し合える関係にまで至る過程を丁寧に書いておられて、一番美味しいタイプのデレを見せてくれるツボを心得たドンカラスでした。
    トレーナーも初めてのポケモンを籠絡するにしては見事な攻略家ですね。
    ――リング 2014-05-11 (日) 21:07:25
  • >リングさん
    どんどん結果を出して、それを認めて貰う事に大きな意味を見出す場合もあれば、損得考えずに、ただ一緒にいられるだけで満足できる関係もある。個体(人)によって色んな幸せの形があるんでしょう、と、大それた事を言ってみたり。
    おっきな鳥がちょっとずつデレてくれたらとても可愛いと思います!
    仰る通り、初めてにしては上出来過ぎる結果となりました。もしかすると紗佳は天然タラシかもしれませんww
    コメントありがとうございました。
    ――ハルパス 2014-05-18 (日) 13:50:33
お名前:

トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2014-05-10 (土) 12:45:02
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.