ポケモン小説wiki
夢、とろり

/夢、とろり


 
 
 
 再び意識が浮かび上がったとき、そこはもうマンションの目の前だった。
 ああ、またうたた寝をしてしまっていたのかと気づくとほぼ同時、私は運転手に止めてくれと頼む。ゆっくりと身体が前に流される感覚と共にタクシーが止まり、深夜の暗闇には随分明るいウィンカーが灯された。ドアが開き、ランプで明るくなった車内で、私はバッグから財布を取り出しつつ料金を確認する。
――1690円?
 深夜料金であることを考えても、随分割り増しされているような気がする。だが、車内で眠り込んでしまっていたのは私の方なのだから、その料金メーターが正確に回っていたと証明することは出来ない。ましてや運転手が勝手にメーターを操作していたのではないか、等と疑うのは持っての外である。
 渋々ながらにお札と硬貨を二枚ずつ差し出して、にんまりした運転手の笑顔と共にお釣りを受け取った。
 タクシーを降りると、コートの外からも膚を切るような寒さが伝わってきた。吐く息は白く、一呼吸するだけで肺の中まで冷え切ってしまいそうだった。今朝の天気予報で今日は寒くなると言っていたからスラックスを穿いてきたのに、どうやら焼け石に水だったらしい。冷気は薄布をいとも簡単に乗り越えて、地肌の体温をどんどん奪っていく。
 歩き始めれば、辺りには私のヒールの音しか聞こえなかった。深夜の三時過ぎ、辺りを見回しても、明かりのついている家など見当たらない。痛いほどの静寂の中、夜空を見上げれば、都会の夜には似合わない、満天の星空が広がっている。

 でも、その輝きが微かにぼやけて見えるのは、コンタクトを長く付け過ぎたからなのだろうか。
 
 
 
 
 夢、とろり (作者: ハコ)
 
 
 
 
 ドアの鍵を開けたのだが、そのドアノブを握るのに少し躊躇ってしまった。ほんの僅かな時間、外気に晒されただけなのに、私の手は氷のように冷たくなってしまっている。バッグを肘に掛け直してから、両手を顔の前に持ってきて、二回ほど呼気を吹きかけた。ふわりと浮き上がる白い蒸気と共に、微かに体温が戻ってくる。
 私は意を決してドアノブを握り、そっと自宅への入り口を開いた。
「ただいま」
 中は足元を照らす小さなランプが点いているだけで、その奥には暗闇が沈みこんでいる。返事は返ってこなかった。期待していたつもりは無いけれど、私はやはり、ほんの少しだけ気落ちしてしまった。
 手早くドアを閉めてヒールを脱ぎ、廊下の明かりのスイッチを押す。オレンジ色のライトに照らされた観葉植物が露になって、私は朝に水やりを忘れていたことを思い出した。一瞬思い悩むが、シャワーを浴びた後か、また朝にしようと決めて、私は冷たいフローリングの廊下を奥に進む。
 そのままリビングを通り過ぎて、隣の和室まで一直線に向かった。キッチンと一体となっているリビングは食事のときに使うくらいで、私は大抵隣の和室で時間を過ごしていることの方が多い。冬は炬燵があるから尚更だ。
「……もう」
 和室に入って、私は深く溜息を吐いた。暗い和室の中で、炬燵のスイッチが入っていることを示すランプが小さく光っている。私は毎朝、ちゃんとスイッチが消えているかチェックしているのだから、これをわざわざ入れ直す奴なんて、アイツしか居ない。どうせ私が出勤した後に、自分でスイッチを入れて中に潜り込んだのだろう。
「全くー……」
 私はバッグをその場に置いて、部屋の明かりを点けた。
「クロ、勝手にスイッチ弄くるなって言ってるでしょう?」
 ぱっと炬燵を捲り上げつつ、言い聞かせるように私は言う。が、そこに現れたのは黒い毛皮に包まれたおしりと尻尾で、私は更に深い溜息を吐いた。
「もうー……っ。主人が帰ってきたんだから、せめて顔出しておかえりなさいくらい言いなさいっ」
 そのふっくらした尻尾を両手で引っ張って、炬燵の中から引っ張り出してやった。尻尾というのは割かし敏感な箇所だと思うのだけれども、こいつはまるでそこに神経が通っていないかのように反応一つしない。何とかその真っ黒な身体を明かりの元に引っ張り出したところで、クロは小さく欠伸を漏らして、何だお前か、とでも言いたげな赤い瞳で私のことを見上げてきた。
 ムカつく。
「あのねー……。何なのよその不満そうな目は。ていうかあんたブラッキーでしょ? 夜行性でしょ? 何でこの真夜中の四時前にそんな眠たげにしてるのよ。あんたにとっちゃ夕方みたいなもんでしょーがー!」
 その黒い背中に腕を置いて体重を乗せ、ぐりぐりとカーペットの上に押し潰した。ぐるぅ、という鳴き声が聞こえた気がするが、そんなことは気にしない。ひたすらにその熱を吸った毛皮が恨めしく、私はクロの背中の毛をワシャワシャと思いっきり乱してやる。きちんと手入れしているらしく、その手触りは滑らかで、和室の明かりを反射して黒い宝石のように輝いていたが、あっという間に毛の流れがメチャクチャになってしまった。
「全くもう……。私、シャワー浴びてくるからね」
 一通り毛皮を乱してやってから、私は髪を留めていたピンを外しつつ、クロの頭を軽く叩いてやった。……何でこいつは私の膝を足裏でゲシゲシと蹴ってくるんだ。眉間に皺まで寄せてるし。香水の匂いが嫌いだということは知っているけど、それにしたって主人への態度というものがあるだろうに。
 一年前には飴が詰まっていた空き缶の中に、外した髪留めを投げ入れる。入ったかどうかも確認せずに、私は炬燵の上に置いてあったラップトップを開いて電源ボタンを押した。それが起動している間にスーツを脱いで、クローゼットの中のハンガーに掛ける。首に巻いていたスカーフは、ちょっと迷ってからクロの尻尾に結んでやった。まだ寝惚けているのか、ヘソ天のだらしない恰好で大きな欠伸をしている姿がちょっとだけ微笑ましい。黒い毛皮に金色の模様、赤い瞳、そして薄蒼のスカーフは中々に良いコントラストだなと思った。
 服を脱ぎ終えると、立ったままパソコンの認証パスワードを打ち込んで、通ったのを確認すると同時にバスルームへと向かう。和室を出る前に一度振り返ったが、クロは既に炬燵の中に潜り込んでいたようで、尻尾の金色の模様も見ることは出来なかった。



 二十分ほどのシャワーの時間は、私にとって至福の一時だ。冷えた身体を熱いお湯で暖めていると、体の中に凝り固まった疲れまでもがゆっくりと洗い流されていくような気分になる。本当はバスタブにたっぷりお湯を溜めて、長いお風呂を楽しみたいのだけれど、大抵は週末までお預けだ。
 身体を芯まで温めている時間は無い。今夜はまたこれから仕事を進めなければならないのだ。手早く身体を洗ってからお風呂場を出ると、身体が冷えない内に手早く肌の水分を拭って、簡単に髪を乾かした。少し厚手のパジャマに袖を通すと、随分身体がさっぱりしたような気がする。先週美容室に行ったばかりの髪に櫛を通しながらコットンを取って、そのまま片手で化粧水に浸して顔を叩いた。
 忙しい生活のおかげか、両手それぞれで別のことをするのが随分得意になってしまっていて、何だか自分が嫌になってしまう。
 乳液とクリームは、友達に薦められて少し高めの物を使っている。この前会ったときに、何だか最近やつれたんじゃないのと言われてしまったのだ。普段から外見には大して気を遣っては居なかったのだが、元の質は良いんだからとか何とか言う友人に半ば引き摺られるようにして、その筋では有名な店に連れ込まれてしまった。
 ――こんな小さい瓶で五桁とか、相当バカバカしいと思うんだけどなあ。
 乳液の入っている瓶を摘まんで、思わず首を傾げてしまった。お金には困っていないので、全然気にしてはいないのだけれど。自分と同じ世代の若い女の子たちが、こんな小さな瓶ではしゃいでいる姿を想像すると、何だか滑稽に思えてしまう。
 そう、お金には困っていない。
 私は改めて深く溜息を吐いてしまった。その溜息の原因は、私がシャワーを終えたのを見計らってか、リビングをウロウロしているらしい。あいつの爪がフローリングに当たる音がするのだ。
 元々、仕事を始めたときは一人暮らしをしていた。だが、毎日仕事に忙殺されて帰りは深夜。終電なんて殆ど乗ったことが無い。それでマンションに帰ってきても、出迎えてくれるのは沈黙と暗闇だけ。そんなのが毎日毎日続くと、さすがに年頃の女としては寂しさというか、そういう感情を抱かずには居られないわけで――
 そういうわけで、ポケモンでも飼ってみようかな、という考えに至ったのだ。『飼う』なんて言葉を使うと怒られてしまうのかもしれないが、やはり私の現状の生活を考えると、それ以外に言葉が思い浮かばない。ついでに、『何でそこで彼氏を作るって選択肢が出ないのよ!』と友人からお叱りを受けたのだが、生憎私には結婚願望というものが無いらしく、ボーイフレンドを作る予定は、少なくとも今のところは無い。
 そうと決まれば話は早く、私は紹介されたポケモンブリーダーのもとを訪れた。いつも帰りが遅いから、出来れば夜行性で、身体が丈夫で、大人しくて、賢くて――という希望をブリーダーさんに伝えたところ、それならブラッキーなど如何でしょう、と薦められた。希少な進化ポケモン、イーブイが進化した姿の一つ。月光ポケモンの名の通り、夜行性で、夜の姿を切り取ったような黒い毛皮に金色の模様は神秘的。その身体の頑丈さはポケモントレーナーなら誰もが認めるほどで、聡明そうな見た目に違わず、主人に忠実。正に私にぴったり、という印象を受けた。イーブイ種というのは相当に貴重なポケモンらしく、やはりそれなりの金額を提示されたが、私はその頃仕事で参っていたということもあって、迷わず購入を決めたのだ。
 私は再び溜息を吐きつつ、リビングに通じる扉を開ける。視線を下ろせば、クロが赤い瞳を輝かせて、まるで忠犬のようにお座りをして尻尾を振っている。
 ――で、家にやってきたのがコイツだ。
 確かに、ブリーダーさんの言っていたことは殆ど間違っていなかった。夜行性、というのが少々首を捻る部分だが、身体が丈夫なのは間違いないだろう。寝返りを打ってソファから落ちても、平気でそのまま寝続けるような奴なのだから。大人しいのも確かだ。私が朝出勤するときも帰ってくるときも、一声だって鳴きやしない。賢いのも頷ける。シャワーの後はおやつのポフィンの時間だということは、一発で覚えてくれやがった。
「あんたって、ホント詐欺よねー……」
 私はクロの前にしゃがみこんで、その柔らかそうな顔を両手で左右から押してやった。想像通りの柔らかい毛皮で、温かな体温が伝わってくる。そのまま両手をぐりぐり動かすと、クロは真っ赤な瞳に疑問符を浮かべて私の顔を見返してきた。


 
 
 


細切れで申し訳ないです。切りの良い場所が見つからなかったので…。
一人称は楽なのですが、三人称の方が色々捻ることが出来て好きですね。

あと、黒いのは嫁であり婿です。ノーオブジェクションでお願いします。



トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2013-01-22 (火) 00:00:00
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.