作者:ウルラ(旧:イノシア)
-1-
開け放った窓から涼しい風が流れ込む。
未だに強い日差しは差し込むものの、この風の心地よさが夏の終わりを告げていた。
「ん?」
部屋の扉から何やらカリカリと音がした。何かを断続的にひっかくような、そんな音。
「またか……」
その人物はため息をついて扉へと近づいていく。
茶色で木製のよくある扉のノブに手を掛けて、前に押して開け放つ。
「ブラッ!」
ポケモンの鳴き声と共に、黒い何かがこちらへ飛びかかってきた。いつものことだけに、それを軽く受け止めた。
今、腕の中で微妙に丸まっている黒いポケモンは紅い瞳をこちらへと向けた。
黄色い輪っか模様が微かに光り、目を潤ませ始めた。
「ぶらぁー」
「またあいつに部屋から追い出されたのか」
やれやれというようにそう腕の中で泣きじゃくるブラッキーに向かって語りかける。
尻尾と耳を力なく垂らして泣き続けた後、疲れたのかそのまま眠ってしまった。
こんなことがほぼ毎日続いている。
朝起きて、朝食を食べて部屋に戻り、窓を開けて涼んでいる時に泣きじゃくる訪問者をなぐさめる……。
もう日課と言っても過言じゃない。
――事の発端は弟のわがままに起因していた。
まだ弟はポケモンを持てる年齢には達していないが、家でよくイーブイの面倒を見ているのは弟だった。
もうすぐ進化する頃合いだったこともあり、進化するタイプは弟に委ねることに家族で決めていた。
弟はエーフィに進化させるんだと口癖のように呟いて、進化するのを心待ちにしていたのだが、現実はそうも上手くはいかなかった。
エーフィに進化するのは昼間なのだが、実際に進化してしまったのは夜。つまりはブラッキーに進化してしまったのだ。
そのことにすっかりふてくされてしまった弟はブラッキーを見て「こんな奴知らない」と言う始末。
イーブイは過去に別のトレーナーに虐待されていたこともあり、相手の感情の変化や言動に非常に傷つきやすい。
だから毎日ブラッキーを見てすねる弟にショックを受け、こちらに泣き寝入りする状況。いままで一番親しくしていただけに、余計に傷つくのだろう。
しかし、最近は“毎度のことだ”では済ませなくなってきている。
ブラッキーの食欲がこのところがた落ちし、体重も基準値を下回ってしまった。
ベッドの上に寝かせたブラッキーに目をやっても、体がか細く見える。以前はもっとふっくらとした肉付きをしていたのに。
このまま今の状態を引きずっていけば、虐待を受けて家に保護された時より酷い状態になる。
……とはいえ、弟は異常なまでに一つのことを根に持つ。そう簡単にブラッキーをとてもじゃないが受け入れそうには見えない。
さて、弟をどう説得したらいいのだろうか。まず一筋縄ではいかないのは想像がつく。
「とりあえずは」
そう誰に言うでもなく呟くと、扉を開けて自分の部屋を出る。
そして廊下に出てすぐに右の方へと視線を向ける。
廊下の一番奥が弟の部屋だった。扉に近づいて行き、ノックをして言った。
「ちょっといいか? 入るぞ」
ノブを回して扉を引き、中へと入る。
中には案の定顔を膨らませて机の椅子に座る弟がいた。その様子を見てため息をつく。
「トウヤ、またブラッキー泣かせたのか。俺の部屋に駆け込んできたぞ」
「泣かせてない。怒鳴ったら勝手に泣いた」
「それを泣かせたって言うんだよ……」
近づいて弟、トウヤと同じ目線にする。トウヤはさらに俯いてこちらの視線を避けた。どうやら何かやらかしてしまった“自覚”はあるようだ。
それでもブラッキーの問題は解決しない。自覚があるにしても、そこからどうすればいいかを考えなければ意味がないのだ。
「なあ、何でブラッキーと仲良くできないんだ? イーブイの時は仲良く遊んでたじゃないか」
「あいつは前のイーブイじゃない」
「いいや、あいつは歴としたうちのイーブイだ。ただ進化して姿が変わっただけだろう?」
そう言うとトウヤはこちらを睨みつけて怒鳴った。
「それならエーフィの方が良かったよ!!」
「ブラッ!?」
不意に鳴き声が背後から聞こえる。後ろを振り向くと、紅い目を潤ませたブラッキーが驚いたような表情をしていた。そしてすぐに踵を返した。
「ブラァー!!」
そう泣き声を上げながら階段をドタドタと降りて行った。多分今度は母さんの部屋に行ったか。
ため息をつくと、トウヤの方を責めるかのように見つめた。
「本日二回目。通算は数え切れないほど。一体ブラッキーをいくら泣かせれば気が済むんだよ」
「……知らないっ」
相変わらずしらばっくれるトウヤ。ため息をついて頭をぺちっと軽く叩いた。
「なんでブラッキーと仲良く出来ないんだ? エーフィが良かったにしても、あの拒絶の仕方はおかしいと思うんだけど」
「恐いんだ……」
「……?」
その言葉の意味が分からずに首を傾げると、トウヤは言った。
「あの赤い目が恐い……」
「……」
今までの日々は何だったんだろうか。こんな理由なら、早めにトウヤに聞いておくべきだった。
「そうか? そんなに恐いか?」
「恐いよ……」
そう軽く声を震わせながらトウヤは言う。どうやら本当に恐いらしい。
トウヤとブラッキーの目の高さが同じなのが起因してるのだろうか。
「恐いにしても、だ。ブラッキーは昔みたいに普通にお前に懐いてるだろ?」
「だから余計に恐いの……!」
自分自身よりも遙かに面倒を見てきたトウヤだからこそ、イーブイからブラッキーに進化したというのが大きなショックなのだろうか。
「でも、これ以上ブラッキーを落ち込ませると、うちに保護された時みたいに元気なくなるぞ」
「分かってるよ。でもどうしたら……」
(どうしたらって)
正直俺も分からない。そもそも赤い目が恐いとはいえ、どんなふうに恐いのかが分からないし、どう対処すればいいのかも分からない。
こうすればいい的な提案ならあるが……。
「とりあえず、ブラッキー連れてくる」
「え? なんで?」
「なんでって、慣れないと一向に現状変わらないだろ……」
連れてくるという言葉を聞いて、あからさまに嫌そうな顔をしたトウヤに向かってそう言う。
そして踵を返して部屋を出ようとしたところで、服を引っ張られる。
「何すんだよ……」
「待って、心の準備が……」
「連れてくる間に済ませておけばいいだろ」
そう言って服を掴んだ手を振り払って部屋を出た。
後ろで「兄ちゃんのバカ!」と叫ぶ声を聞いたが気にしなかった。
-2-
リビングの方に降りていくと、そこには深皿に入れた水を飲んでいるブラッキーがいた。
階段を降りる音を聞いたのか、台所から母が顔を出した。
「また?」
質問の意味が分かってる俺は軽く頷く。母は深くため息をつくと、ブラッキーの近くまで歩み寄り、背をなで始めた。
「ホントにトウヤは何でああまでブラちゃんを嫌がるのかね」
……ブラちゃんって、また。イーブイの時はブイちゃんだったのに……。
あーいや、気にするのはそこじゃなくて。
「赤い目が恐いんだとさ。本人が言うには」
「それだけ……?」
「みたい」
また母は深くため息をつき、ブラッキーを抱き上げる。
「ブラ?」
ブラッキーは小首を傾げて母の顔を見る。母はそのまま言った。
「酷いわよねぇ、トウヤは。今まであんなにブラちゃんに優しく接してくれてたのに」
「ブラァー……」
その言葉に同意したのかしていないのか、ブラッキーは悲しそうに鳴いて俯いた。……って、本題本題……。
「今一度、トウヤとブラッキーを対面させてみる」
「またブラちゃん傷つけることになるよ?」
母は心配そうにブラッキーの方を見る。ブラッキーは小さく鳴くとこちらへと近付いてきた。俺はブラッキーの頭を軽く撫でる。
「こいつはトウヤの所に行きたいみたいだけどな」
「分かった。ただ、トウヤを説得しても無理だったら、一度リビングにくるように伝えて」
「はいはい」
そう軽く返事をするとブラッキーと共に階段を上がって行った。
――廊下を歩いて行き、トウヤの部屋の前にくる。
そこで一旦ブラッキーと顔を見合わせた後、ノブを捻って扉を開けた。
ベッドの上で膝を抱え込んで俯いているトウヤの姿を見つけ、ブラッキーと共に歩み寄る。
「トウヤ、ブラッキー連れてきた」
連れてきたという言葉にトウヤはビクッと体を一瞬だけ振るわせると、やがてゆっくりと顔を上げた。
「ブラ……」
リビングでの話を理解していたのか、トウヤを恐がらせないようにブラッキーは小さく鳴く。
一歩一歩足を進める度に、トウヤは小刻みに震えていた。そして……。
「やっぱり無理ぃっ……!」
ブラッキーがベッドの縁に片方の前足を掛けた途端に、トウヤは声を裏返えして部屋を飛び出して行った……。
……本日三回目。
「……」
今回ばかりは泣き出す気力もないらしく、ブラッキーは黙って俯いた。
隣に座り込み軽くその頭の上に手を乗せると、ゆっくり撫でた。
正直、自分にはこの程度しか出来ない。解決出来るのは、トウヤとブラッキーだけ。そう思うと本当に自分が情けなくなってくる。
不意にわき腹にこつんと何かが当たる。そこに視線を向けると、ブラッキーが頭をこちらにすりつけていた。
顔を上げたブラッキーの赤い瞳にはうっすらと涙が溜まっていた。
……しばらくそのままにさせておこうか。
それにしても、なぜトウヤはこの赤い目が苦手なのだろうか。弟ほどには多く接していないとはいえ、共に暮らしてきた身。
今こうやってブラッキーの瞳を見ているが、特に恐怖は感じない。むしろ愛くるしくも思える。
……トウヤの言い訳か。いや、さっきの怯えたような表情は演技の下手なトウヤには出来っこない。
とすると本当に恐がる原因は何なのだろうか。目の高さが同じだからか?
「ブラぁ?」
試しに視線を合わせて見る。ブラッキーは頭の上に疑問符を浮かばせていたが、特に気にはしなかったようでそのままにしていた。
(……やっぱり恐くない)
姿勢を元に戻してそう思う。
さて困った、ホントに困った。恐い理由がさっぱり分からない。
それとも深層心理での恐怖か。トラウマとかそういう類の……。
そしたらもっと困る。そういった恐怖は治しようがない。
「……ブラ?」
頭の中で必死に答弁を続けていると、ブラッキーが心配したようにこちらを見る。
……自分のことを一番に心配しなければならないのに、こいつは本当に優しい。
虐待を乗り越えたからこそなのか、それともこいつの元々の性格なのか……。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだ」
考えるのを途中でやめ、ブラッキーの頭を撫でる。
なんかトウヤがああいう態度をとるようになってからは、俺がこいつをよく撫でてるような気がする。
でも、こいつはトウヤでなければ駄目だ。
撫でても気持ち良さそうに目を細めるのは、トウヤがこいつを撫でた時だけ……。悔しいが事実だった。
さてと、説得に失敗したから、リビングの方に行かないとな……。多分弟も一階に降りているだろうし。
「ブラッキー、リビングに行こう」
そう声をかけるとブラッキーはベッドの上から飛び降りる。
俺の横について部屋を出るものの、なんか足下がおぼつかない様子だ。このまま階段を降りさせるのは危なそうだった。
「ブラっ?」
持ち上げるとブラッキーはこちらの方に向いて疑問を込めて鳴く。頭をぽんぽんと叩くと、階段を降り始める。
(なんかこいつ、また軽くなった気が……)
そう思いながら階段を降りていく。もうそろそろで一階、というところで目の前に母が立っていた。
「あれ、トウヤは? 降りてきたんじゃないのか」
「一応降りてきたよ。けどすぐにトイレにこもっちゃった」
母はそう言って階段下にあるトイレに視線を向ける。その後、ため息。
前からトウヤは困ったらトイレに隠れるという癖のようなものがついている。まさかこんな時にそんな手段を使われるとは。
「おーい。トウヤ。隠れてても目の前の問題は解決しないぞ」
「うるさい! もう放っておいて!」
自分からどうしようと聞いておいてすぐに放っておいて、か……。相変わらず身勝手な奴。
まぁ、対処法は知れてるからいいんだけど、こうも自分勝手だとさすがに頭にくる。
さて、縦長のキーホルダーでも取ってこよう。
家のトイレの鍵の構造は単純なプッシュロックなので、外の鍵穴に堅くて平べったいものを軽く差し込んで捻れば開く。
トウヤのせいで覚えた軽いピッキング方法。家のトイレ限定だ。
――部屋から取ってきたプレートみたいなキーホルダーを鍵穴に差し込んで回す。
案の定、カチンと鍵の外れる音がした。だがまたカチンと音がする。鍵をまたかけられたようだ。
そのことに少々イラッとしながらも、またキーホルダーを鍵穴に差し込み、今度はノブも一緒に掴んでおく。
キーホルダーを捻ったと同時にドアを開くと、あちらもノブを掴んでいたのかその勢いでトウヤが出てきた。
「ったく……どうすればいいって聞いてきたから手伝ってるのに、放っておいてはないだろ……」
俺は腰に手を当てて大きくため息をつく。トウヤは負けじと言わんばかりに怒鳴った。
「だからっていきなりブラッキーを連れてくることないでしょ!」
「トウヤ! いい加減にしなさい!」
その怒鳴り声を越える声量で、母はトウヤを一喝した。トウヤはびくっと体を振るわせて母の顔を見る。
「あんたのわがままの所為で、家のみんながどれだけ迷惑なのか分かってるの?」
トウヤは俯く。母に言い返す言葉がないのだろう。母の一言は的確にトウヤの心を揺さぶっていた。
俺は軽くため息をついて二人から視線をはずし、ブラッキーの方を見る。目はうつろになり、体がフラフラしてきている……。
「……! ブラッキー!」
とっさにブラッキーの体を支える。そのまま力なく倒れこんでしまった。
母は息を大きく吸い込み、目を見開く。
トウヤは何が起きたのか全く飲み込めてないらしく、ただ気を失っているブラッキーを見ているだけだった。
「母さん! ポケモンセンターに連絡を!」
驚いている母に向かってそう叫ぶ。うなずいて受話器を取りに行く母を後目に、俺はブラッキーを抱えて走り出した。
「俺はポケモンセンターに行ってくる! 近いから待つより早い!」
そう叫んで、玄関から外に飛び出した。不意に振り返った時のトウヤは、ただ唖然としていた。
-3-
深緑色の長椅子に座り込みながら、クリーム色の床を見る。その状態が何分続いただろうか。
そんなことを考え始めた頃、隣のトウヤが不意に動く音がする。
「ねぇ」
「何だ」
トウヤの声に、俺は冷たくそう反応を返す。
トウヤはそれについて特に何も言わず、代わりに話を続ける。
「ブラッキーが倒れたのは、僕のせいなの……?」
その問いに、俺は答えなかった。答えを求めるかのようにトウヤはまた問いを投げかける。
「僕はどうすればいいの……?」
その言葉にため息をつくと席を立ち、目の前にある窓の向こうに焦点を合わせる。
点滴のチューブを体に複数さされているブラッキーの姿が目に入る。
そんな姿が痛々しくてすぐに視線をトウヤの方に向けた。
「あの時放っておいてって言ったのはお前だ。それくらい、自分で考えろ……」
そう言い放ち、扉を開けて廊下へと出た。
トウヤが出てくるのを待たずに、俺は後ろ手で扉を閉めた。
おそらくトウヤもあのまましばらくブラッキーの側にいるだろう。何だかんだ言ってあいつは……。
「あら、トウヤは?」
「……まだ中に」
「そう……」
ずっと外で待っていた母に問われ、そう答えると軽い相槌をうって話は終わった。
廊下には他の待合室から聞こえてくる微かな声と、上の電灯がたまに消えたり点いたりする時の音が響いていた。
不意に扉がガラガラと音をたてて開く。
そちらの方に視線を向けると、ブラッキーのいる方に指を差して言った。
「ブラッキーが起きた……!」
叫ぶような声こそ出さなかったものの、トウヤは喜びをその声を含ませていた。
すぐに病棟に入ると、目を開けて辺りをキョロキョロと見渡すブラッキーがいた。
「あ……知らせないと」
目の端で母がナースコールを押す。トウヤは窓越しにブラッキーを呼んだ。
ブラッキーは自分の状況が分かっているのか、立ち上がって駆け寄ってはこなかったが、トウヤの方に首を伸ばして一声鳴いた。
「目を覚ましたんですか?」
すぐに看護師の人が入ってきてそう問いかけてきたものの、返答を待たずしてすぐにブラッキーのいる部屋に入る。
ライトを目の前に走らせて、追っているかを確認したり、心拍数を確認したりしてしばらく簡易的な検査を終えると、またこちらに戻ってきた。
「問題は特にありません。ただの栄養失調なので、二週間もすれば退院も出来るでしょう。……ただ」
看護師……もとい医師はそう言って言葉を切る。息をまた吸いなおしてから続けた。
「きちんと食べてくれれば、ですけどね」
その言葉に母はうつむく。トウヤは先ほどからうつむいているが、落胆したようすはない。
まあ、理由は何となく感づいてはいるが。
「とりあえず、しばらく点滴で様子見です。あと、中に入っても構いませんからね。保護者のかたはちょっと手続きがあるのでこちらで……」
その医師の言葉に母は頷くと、共に部屋から出て行った。
残されたのは俺とトウヤとブラッキーだけ。
トウヤはふと顔を上げると、ブラッキーのいる部屋へと入って行った。俺もそれに無言でついて行く。
「ブラ……」
ブラッキーは近付いてくるトウヤを見てそう鳴いた。
俺は部屋に入ってすぐの扉の近くの壁に寄りかかった。俺が踏み入らなくても多分大丈夫だろうけど、何となく心配だからこの位の近さで待機しておく。
でも、その心配はどうやら杞憂だったみたいだ。
「ゴメンね……ブラッキー」
トウヤはブラッキーを撫でながらそう呟くような声でそう言った。
ブラッキーは返答をすることはなく、ただトウヤの顔を見つめていた。
……もうトウヤはブラッキーを意味なく恐がったりはしない。そんな確信が持てた。
俺は音を立てないように扉をゆっくり開くと、そのまま廊下の方へと出た……。
――窓を開け放ち、外から入ってくる涼しい風を浴びる。やはり暦の上では秋らしい。
あれから、ブラッキーの体調は医者が驚くくらいの早々な回復を見せ、一週間くらいで退院できた。
勿論、我が家のいざござになっていたトウヤの訳の分からない“ブラッキー恐怖症”も治った。
たまに喧嘩をする声が隣の部屋から聞こえてくることもあるが、イーブイの頃と何ら変わりない喧嘩なので特に気にすることもない。
何より、部屋にブラッキーが乱入してこないからだいぶ落ち着く。
「え……」
そう安心していると、扉の方からなにやらカリカリと擦るような音が聞こえる。
(いや、まさか……)
そう思いながら扉を開けると、そこに居たのは案の定、ブラッキーだった。
しかし、泣き顔ではなく落ち着いた表情をしているのを見て、嫌な方の予感は外れたみたいだった。
「どうしたんだ? ブラッキー」
「ブラッ」
そう一声鳴くと部屋の中に入って来る。疑問を持ちながら俺は扉を閉めてブラッキーの前に座る。
「またくだらない喧嘩で追い出されたか?」
「ブーラッ」
ブラッキーは首を横に大きく振って否定する。……いったいなんなんだ。と考えていると、ブラッキーは俺のあぐらの上に乗っかって来て、すり寄った。
「……なんなのさ。ホントに」
「ブラっ!」
ブラッキーは一旦すり寄るのをやめ、こちらの方を見る。以前の体調に戻ったからか、赤い目はあの時より輝いていた。ふと、風が頬を撫でた。
(……!)
今のは一体何なのだろうか。風が吹いた時、耳元で小さく声が聞こえた。
ほんのわずかな声だったが、聞こえなかったわけじゃない。はっきりと、でも小さく聞こえた。
ありがとう、と……。
何が起きたのか全く分からない俺の耳に、再び声が聞こえてきた。今度は甲高く怒鳴るような声が……。
「ブラッキー! 僕のおやつ食べたな!」
え……。
ブラッキーの方をよくよく見ると、口元にチョコクッキーのカスがついている。それをブラッキーはなめとり、口元をつり上げる。
さすが悪タイプ。やることがあくどい……じゃなくて、俺の部屋に来たのはこのためだったのか。要するに……かくまってくれ、と。
「コラァアア! ブラッキーどこ行ったぁ!」
俺の役目はまだ終わってないみたいだ。
......END
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