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哭壁に還る

/哭壁に還る

※LEGENDSアルセウスを踏まえた作品につき、一度本編をプレイした方が理解しやすいかと思われます

哭壁に還る 作:群々



 不逞千万なドククラゲの触手にその身をきつく締め上げられれば、朧になりゆくうちにイダイトウは喀血するように泡を吐いた。呼吸も苦しげに、青漆の鱗の(ひび)割れる音が鈍重に響いた。体内を巡る毒が神経を蝕んで致命の刻は迫っていた。
 あなや、崇められたこの身の上も今は虚しく、水面に痘痕(あばた)のように沸騰するメノクラゲさえ己が身を侮辱する哀れさ。彼らは陵辱されるイダイトウを取り囲んでは、好奇と侮蔑のこもった眼差しを向けていた。
——やれ、イダイトウ殿が薨御(こうぎょ)あらせられるぞ。
 誰かがそう囃し立てた。泥を被ったような暗闇に彼らの瑪瑙(めのう)が仄かに映えるのが、消えゆく命の灯火のように思われた。
 いつからであったか、人の子が己のことを忘れ去ったのは。シンオウさまの光を浴びたもの、子々孫々その役目を受け継ぐものとして群青の海岸に住まった頃には、藍色の衣を帯びた付き人の男が恭しくもサマヨールの波動を浴びせた団子を供えたものであったが、それも男の死とともに緩やかに絶えた。人々は自ずから生きていく術を見出したのだ。遠くからうち見ることには、誰もが傍らにポケモンを携えるようになって久しかった。彼らは共に戦い、共に生き、共に魂となり、天へと昇り行くのであった。
 海岸の光景も様変わりして、どこからか入植した人とポケモンの群れが忽ちにして村を作り、開拓の果てに町となった。野生の土地には手が入り、港が造られると見たこともない蒸気を立てる船が繁く出入りするようになっていた。かつて砂の手と呼ばれていた半島には灯台が建ち日夜海を照らし往時の面影は掻き消え、町の灯は夜更けとて消えることもなかった。最早見知った土地では無くなりつつあるヒスイを後目に、イダイトウは非道く落胆し、嗟嘆さえしたが、それもやがて無関心を含んだ諦念へと収斂した。人とポケモンが手を取り合い共生するヒスイの夜明けが来たのだと憤る心を納得させても、腑に落ちることもなかった。
 その後人知れず姿を消したイダイトウを語るものは失せた。流れ着く先々で出会ったものは、ヒスイのそれとは真逆であった。白筋のバスラオとして命を賭して生きてきた末に得たこの姿に、今や何の甲斐があっただろうか、暗き海中で出会った同胞の姿には、かつての自己の残影を微塵も見出し得なかった。赤筋と青筋の入ったそれは確かにバスラオの姿に似てこそあれ、生に堪え忍ぶ厳粛さなどどこにも無かった。彼らは只管に野蛮であり、余所者を排除することに汲々するのみで浅ましかった。
 己の生は幻であったか、と錯覚されたものだ。
 長い時が経ち、さりとて心に決めた訳でもなかったのに、河口を遡上するイダイトウの本能が、再びかの海岸へと自己を導いた時にドククラゲに捕えられた。老いさらばえ、既にしてドククラゲの襲撃にも応戦しえぬほど耄碌したイダイトウの命運は、再び毒突きを喰らえば全く断ち切られることであろうが、ドククラゲはわざわざ遅効性の毒をゆっくりと注ぎ、精々この獲物を嬲って興じる心づもりのようだった。畢竟泡沫の我が身、儘よ、儘よ。苦しみのうちにそう念仏するのもつきづきしい。
 死そのものに対して恐れているわけではない。常に死と親しく、同胞の無念を尾にまとった存在である己である。懐かしき同輩のもとに還ることができるからには、死とは大いなる喜びに相違なかった。しかし、イダイトウの胸にはなおも(しこ)りのようにわだかまった感情があることが、臨終にも意識された。毒のせいで考えることも苦痛ながら、それでも夢を見るように、イダイトウは過去の記憶を辿り始めていた。
 長い時も思い返せばまさしく一箇の夢には違いない。親も知らぬ、兄弟とてわからぬ、孵化して暫くの後、意識に芽生えたのはただ同胞という観念のみであった。自己と同じく群青の海に漂った同胞は、皆一様に生きようと必死だった。噴き上がる泡の数にも等しき同胞の数は、彼らの生を繋ぐことへの執念と、それに伴う運命の苛烈さを暗示せずにはいなかった。ようやっと粒のような卵から逃れたか、と安堵するまもなく大半はコイキングやテッポウオにパクリとやられた。鷹揚なマンタインやネオラントさえ臆病に群れなす彼らの天敵であった。バスラオという個々の意識が生まれるのは、幾年にも亘る偶然の(ふるい)に掛けられた、その僅かな生き残りに過ぎなかった。
 晴れやかな空のもとで、同胞たちは慎ましく生き延びようとした。ギャラドスの威嚇する目に捉えられれば最期であった。ハリーセンの襲撃にも彼らは抗う術とてなく、時には気まぐれなポッチャマが、手遊びに海に飛び込んでは同胞を咥えて去って行く。掻き消されるように死んでいく同胞を見て誰もが沈黙し、気まずげな目配せをした。往時は得も言われぬ感情であったが、今にして回顧すればそれは生き残った喜びと恥じらいであったのだろうか。
 成熟したバスラオたちは、まるで憑かれたように目を怒らせては、故も知らぬままに海を去り、河口に入り、海岸から湿地、やがて天冠の渓谷とより高いところへ遡上した。海での慎ましさから打って変わって、みな抑圧してきた自己を曝け出して我がちに激流に逆らった。張り詰めた集中の切れ目が生命の尽き時、消耗し力尽きた同胞が次々と濁流に飲まれ、水中で錐揉みしつつ消えていった。変貌する天候に翻弄され、穏やかな流れであっても空腹なリングマたちが聡くも自分らが通りがかるのを待ち構えていた。(むご)い死すら、言い知れようもない使命感に駆られたバスラオの感情を何ら揺さぶりはしなかった。悼むことも、励まし合うこともしなかった。ただいつまでも顔面に怒濤を浴びて、前へ、前へと念じたのだ。そうする間に幾つもの激流を越し、滝を登り、遂に天冠の最高峰にその身が跳ねた時、畏くもバスラオは一介のイダイトウになりおおせた。
 浦の苫屋よろしく、見渡せば同胞の影も形もないのであった。しかし、鮮明に記憶に残るのは、寂寥の念ではなかった。無念すら思えぬままにコイキングどもの餌になったもの、ギャラドスに一飲みにされたもの、リングマに食いちぎられたもの。霊知によって、イダイトウは友輩の存在を感じることを得、彼らが自己のうちにあると感銘のうちに悟った。生死の彼岸にある彼らは大成したイダイトウと共にある。寧ろ肉体を持たぬからこそ、その存在はいっそう親しく、有難く思われた。彼らのいました空間と時間がイダイトウの鱗の一個一個に染み渡るように感じ取られ、有り難かった。
 群青の地に戻れば、藍色の装束をした一団が恭しく己を奉った。古代の英雄に付き従ったものよ、と震える手で御供された奉祝の団子は食ったこともないのに覚えのある味がした。いや、それは長い時の中で何度も食した味なのだとイダイトウは思い直した。忽ちにして意識せぬ膨大な印象が脳裏に蘇った。それは何代にも亘るイダイトウたちが知覚し、認識したものの残影であると直ぐ判ったのも尊い。己は最早一匹のイダイトウであるのみではない。己は個としての己ではなく、過ぎ去った時と消え去った空間を未だ来らぬ時へと受け継ぐ役割を担わねばならないのだ。団子の味覚によって、イダイトウは英雄の従者になったのである。
 大海原全体が居城であった。イダイトウの再臨した海は凪いだように平らかとなり、威張り散らしていたギャラドスどもは俄に鳴りを潜め、不成者のハリーセンの軍団も大魚の威厳には従順であった。厳粛に生きるバスラオたちが黙って己が遊泳に付き従い、その群れは海上に巨大な紋様を刻み込めば、人々は畏怖で打ち震えるばかりである。
 しかし随分と笠に着たものよ、己は大それたなまくら者であった。長らく日陰魚(ひかげもの)として生きざるを得なかった反動か、刹那にして会得した強大な力の使い方を心得なかったのは慚愧に耐えぬ。英雄の形見たる人の子を守るという名目で、己は無用な殺生を犯してばかりであった。我が儘にできるという多幸感は無邪気であるが故に、凄惨であるということに何と盲目であったことか。嗜虐という愉楽に浸り、あるギャラドスの一群をコイキングの一尾に至るまで根絶やしにしたことがあった。きいと金切り声を挙げるエンペルトの眼前で、瀕死のポッチャマを宙高く跳ね上げて興じたことさえあった。己は馬鹿者であったと悔悟しても甲斐はない、水面から大口を開け、意識の途絶えたかもわからぬ人鳥をそのまま一飲みして見せ、ばっしゃらあ、と哄笑したものである。
 死の触手に絡め取られ、毒が己が神経を麻痺させ、イダイトウは我に返った。如何に人に尽くしたといえども、全ての罪業が贖われるわけではない。同胞の魂が寄り添うのと同様に、己への怨嗟もずっと俺の周囲を纏わりついていて、虎視眈々と復讐の機会を伺っていたのもことわりかな、己がうらぶれた時から、弑逆(しいぎゃく)は定められたことだったのだと思った。
——いやはや、大層憑かれているねえ。
 バクフーンの青年が薄笑いを浮かべて言った声が心に(こだま)した。どちらがギャラドスかもわからぬほどに群青の海を闊歩していた折に邂逅した剽軽なそのポケモンは、いつも砂の手の先端に佇み、首元の鬼火を湛えつつ宙空を見上げている姿を怪しく思ってそろりと近づき誰何(すいか)した開口一番がこれであった。バクフーンはイダイトウの問いには答えず、上の空でひゅう、と掠れた口笛を吹くと指を軽く突き上げて鍋を掻き回すような仕草で揺らした。
——あちゃあ、これは。
 皮肉めいた表情を隠しせずに、しばし首を傾げて苦笑する。
——あんた、碌な死に方しないよ。
 最早己のことを畏怖さえしないドククラゲどもに弄ばれ、彼の言葉は成就されたが、往時の己はそんな謎めいた言辞を理解し得なかった。傲慢にも権威を濫用していたのだから宜なるかな。だが悔いても甲斐なく、イダイトウの身とて因果からは逃れることが出来ぬだけのこと。
——そういえば「王」には会ったのかい。
 見えぬものと指で戯れながらバクフーンは不意に話題を転じた。イダイトウは水面でふんと鼻を鳴らした。帳岬によって二分された北側に鎮座します活火山に「王」がいるとは聞いていた。其奴は薄紅の衣に身を包んだ集団に奉られていると、己の付き人である男の言葉の端々から伺い知ってはいたが、藍染の連中と其の薄紅の一団とは長い抗争が済んだといえども未だ一触即発の関係であったから、直に拝見することもなく来たしその必要もないと驕慢にも思い込んでいた。バクフーンは不意に立ち上がり、緩慢な背伸びをした。
——苛立ったら月を眺めるのもいいことさ。
 独り言のように謎めいたことを言い残してふらふらと去っていく。何処へ、と問えばあっちへ、とはぐらかすばかりであった。
 仄めかしたような言い草に、イダイトウは月というものを一度すれ違った天女のように心憎く、専ら奔流のように襲い掛かってくる生の現実に相対していたからには、上空を見上げるなど思いも寄らず、よしんばその存在を知っていたとしても精々宇宙に浮かぶ謎めいたビリリダマの如きものとしか思えなかった。
 寝床とする隠れ岩の底よりイダイトウは冴え冴えとした月を視感する夜分であった。水面の裏側より揺らぐ月の見えるのは、忘れられた神の何某かが破れた世界より覗く現世もこのようであったか、という有様である。しかし寝かした墨より出ずるような深奥な黒に染められた空にただ皓々と照る月は無骨な大魚にはいとど鮮烈であった。尾鰭に纏う同胞どもの魂がざわめき、己が体躯の騒めくのが感じられた。嗚呼、我等は全く知りもしなかったのだ、この月の美しさというものを。壮健たる顔を海上に突き出し、今更に嘆息するのも束の間、鮮やかな月に黒子のような影が現れ出たのにイダイトウは気がつき、身構えた。月はちょうど火吹き島の頂上に載っていたが、その蒼白な光を背景に悠然と佇んでいるそれを認めた。影が微かに動くと同時に、太陽の陽射しをまともに浴びているかのような強烈な視線をイダイトウは感じ、覚えず目を瞑った。
 ドククラゲの毒がゆっくりと己が意識の中枢を侵そうとしているのを感じながら、イダイトウは抗いもせず、ただ苦しみのままに虚しく身を捩らせていた。空虚な足掻きはドククラゲの嗜虐心をより(くすぐ)らせるばかりであろう。もはや目を開けども衰えた視力は何ものをも見出すことができなくなり、あぶくのように沸き立つメノクラゲどもの好奇と嘲笑の入り混じった気配があるばかりであるが、そんなことは死にゆくイダイトウには何の関わりもないことであった。もはや己には時間も空間も汁のように混じりあっているのだった。
 閉じた目を咄嗟にかっと見開くと、眼前の岩場に彼がおわしましたのだ。雷神の御座たる雲のような鼠色をしながらもつややかな鬣のやんごとなきことよ。豊かな毛並みに影して彫りの深く見える目つきの眩いことといったら尋常ではなかった。曇りなき眼とは言葉にいえども、その言辞に相応する瞳というのをイダイトウは初めて見た。
 岩礁にあたかも既に造形された像のように鎮座する火吹き島の「王」は勇ましく凛とした眼差しを、呆気に取られあんぐりと口を開けるイダイトウに向けたものだった。その折の己の間の抜けたことと言ったら、そよと泳ぐコイキングさえも鰭で顔をうち隠して忍び笑いしたに違いないと思われた。
——イダイトウ殿、だね。
 「王」たるウインディが静かに語りかけた声が遠い時空を超えて驕慢なドククラゲに縛られたイダイトウに谺した。その低音ながらも帳峠にぶつかる波濤や煮えたぎり爆ける音を立てる火吹き島のマグマにも紛れることがない明瞭な声の調子をあたかも彼が現前しているかのようにイダイトウは聞くことができた。「王」は他の誰でもない、この己に向けて言葉を掛けられていたのだが、あまり突然だったので周囲に誰もいないのに、キョロキョロとぐるりを見渡しなどするのは随分と滑稽な所作であったろうが、ウインディは表情を微塵も変えることなく、戸惑ったイダイトウの顔を直視して、一寸も視線を逸らさなかった。
——同じくシンオウ様の祝福を浴びしものよ、我と共にあろうではないか。
 諾、と肯んじたというよりはあまりの覇気に気圧されてこくりと頭部を前後させたに過ぎなかったが、「王」たるウインディはイダイトウを見つめて口元を引き締めると雄叫びを挙げた。劈くような鋭い音にニャスパーの悪戯なねこだましを喰らったように面食らっていると、ウインディは二度その太ましく強靭な四つ脚を鞠のように跳ね上げて、天高く跳躍した。ギャラドスの滝登りのように垂直に、鮮やかに立ち上る様を呆気に取られて見ていると、かつて川上りの道中に黒曜の原野の平穏な流れに安んじていた折に不意に見かけた滝上を円を描いて滑空する一体のギャラドスのようで、そのようにウインディは空を駆けていってしまった。
 須臾(しゅゆ)にしてイダイトウは我に返った。微睡から不意に覚めた者のように咄嗟に身を捩らせると、水面から弾けるような音とともに白い飛沫が立ち上り、それが辺りの静けさをいっそう際立たせた。ウインディが立っていたはずの岩礁には何もおらず、間近に見るのも忝いほどの威厳を帯びた気配も失せていた。ゾロアに化かされたような心持ちでイダイトウは闇に溶ける群青の海をあたふたと見渡すと、揺らぐ視界のうちに白煙を立てる火吹き島が目に入った。月は相変わらずその頂上に置かれ、透き通ったサーナイトの肌膚(はだえ)のようなきめ細やかな表面を誇っていた。その中央部に雲煙を纏ったような影帽子が見出されると、先だっての邂逅は断じて幻などではなかったと得心すると同時に、影はひょいと山際へ降りて消えてしまった。
——おや、おや。
 相変わらず砂の手に座して無為の時を過ごすバクフーンが、浜辺に立てられた石塔のようなものをちらと点検して、ぴゅうと口笛を吹いた。どこから拾ってきたものか、煙管など片手にしては立ち上る紫煙をシャボン玉か何かのように眺めては興じている。
 揶揄いには動じずに、口に含めた小石を海岸に吐き出した。海底に溜まっていたものを砂ごと口に含んで、こうして一塊に集めてきたのである。そいつを一粒一粒咥えては、カタカタと全身が震えるのを堪えながら慎重に積み重ねていく。手足もろくに使えぬ魚の身であるからには、いくら細心に心がけたといっても、出来上がるのは不器用な石の寄せ集めに過ぎぬが、イダイトウは構わずに石塔を砂の手のあちらこちらに積み続ける。いつか無下にした野生たちの物言わぬ魂を偲びつつ石塔を一つ普請しては、目を凝らし神妙な面持ちで眺めて、祈るような心ばせで暫し黙祷を捧げるのである。イダイトウの只ならぬ形相を見つめたバクフーンは、不意に宙を見上げて何某かと対話して、ふむふむと頻りに頷く。
——許すものもいれば、そうでないのもいる、とさ。
 頸の炎を燃え立たせて、バクフーンの手が空を掴み、そのままイモモチをつまむように口へと運ぶと喉を鳴らして嚥下した。
 あらうたてや、と自己の振る舞いを悔やむようになったのはひとえに「王」の威光を眩いばかりに浴びたからであった。あの晩ただ一匹、全世界より孤絶したかのように浮かんでいたイダイトウの瞳から、何ということか流したこともない涙が流れたのだ。悲しかったわけではない。悔しかったからでは無論ない。しかしこの大魚の全身は得も言われぬ感情に満たされ、心より打ち震えていた。崇高という観念を、無骨なる往時のイダイトウは知るよしもなかったが、先刻まで目の前にあったウインディの御姿を思い浮かべれば鱗の一枚一枚がかたと震える。
 自己に纏わる同胞たちの魂が何かを語りかけていた。物言う生者の言葉にはあらず、何かを啓示し仄めかすような曖昧な予感としての言葉であったけれども、それはこの感覚が未知のものではないということであった。初めて知るものではなく、これもまた自己に連なってきた無数の「王」や「女王」たちが、同じ群青の海岸で、ヒスイを守護してきたものとして同じように感じ入ったことを想起し直したのであると、イダイトウは悟った。
 ボルトロスが海岸にでも御幸されたか、海岸一体が猛り狂ったように荒れだし、矢庭に雷鳴まで轟いた。(つぶて)のような雨粒が小石の擦れる狂おしい音を立てながら水面を打つと、弾けた飛沫によって立ち込めた霧が視界を惑わした。バクフーンは小脇からヒスイではついぞ見かけぬサトイモの葉など傘がわりにして、片手でイモモチを喰らう手つきをする。打ち据える雨粒が忽ちに脆い石塔を崩した。
——あれま、文字通りの賽の河原だあね。
 暗闇に幻影であったか、エンペルトの凄まじき鬼神の形相をイダイトウは見出した。盲者(めしい)同然であっても、あの赤き野生の眼光の輝きは色まで思い浮かべられるほどに明晰である。手塩にかけたポッチャマを、ただかつて同種のものに同胞が喰われたというそれだけの理由で、トドグラーがタマザラシを鼻先で弄ぶが如くに陵辱し、宙に高く放り上げてそのまま大口で一飲みしたことの恨みつらみは、いくら悔悟し砂の手にささやかな奥津城(おくつき)を築こうとて慰められるものでなかったのは無理もないと、己が口を塞ぎ出したドククラゲの毒手が、物狂いとなったエンペルトの恨みがましい羽根に思われた。その鋭利なのを己が口に突っ込ませて内蔵からごと抉ろうとしているかのようであった。
 せめて、とイダイトウは無我夢中で祈った。己の罪業は死によって贖われ得るものにあらずとも、どうか死んだ魂の安らかなることを。己によりて死んだもの、その死によって狂気じみたもの、あまねく神よ彼らを慈しみたまえ、と掠れた意識のままに念じて止まなかった。心憂くとも行いも叶わぬ身の上であるからにはこれ以上何ができたであろうか。己は業火に灼かれても一向構わぬ、だから、せめてせめてと一心に念じる。
——イダイトウ殿。
 波濤の喧しさにもかかわらず、その整った響きは海中からも不思議とよく聞こえた。聞こえるというよりは心に直接語りかけられていたというべきか、いずれにせよ驚くべきことであった。己が寝床にしているそこはそのままに大魚の隠れ岩と呼ばれていたが、イダイトウとして奉られてよりこの方、帳峠の崖下の海流の一際激しい辺りの岩場に横臥するのは代々の先代魚どもの倣いであり、鱗に刻みつけられた本能でもあった。ギャラドスやハリーマンさえ危懼して近づかぬこの海域に、しかもこの己に飄然と呼びかけるものといえばただの一匹しかいない。
 浮かび上がれば果たしてウインディの巨躯が峻厳な岩場の上に悠然と偃臥(えんが)していた。平常のヒスイを守護する神獣の立ち振舞いとは打って変わって、岩よりはみ出た前脚を重力の儘にダラリと垂らし、気怠げに首を傾げさえするのはよによに清らなことであった。それにしても「王」御自ら隠れ岩にお出ましとは何事か、よもや厄災の襲来かと身構え、そんな気配にもすんでまで気付かぬとは己も烏滸なるものよと周章狼狽するのに、ウインディは超然とその場に佇んで微笑さえ漏らすのも茶目っ気がある。イダイトウが粛然と水面に叩頭すれば、止しにせよ、痴れがましいからと嗜める前足の仕草も粋である。
——いや、何。そなたと話をしたかったのだ。
 などと急に口籠るような風だから、イダイトウはかえって面喰らったものである。
——代々の記憶をその尾鰭に引き継いでいると聞くが誠、だろうか。
 「王」たるものなら、聞かずとも知っているであろうつまらないことなのに、興味深くろうたげにその首をイダイトウの顔へと伸ばすので、まるで頭に接吻でも施されるものかと思い違いして、矢庭に水に潜りかけた。落ち着いて岩場を見上げればウインディはなおも余裕を湛えてイダイトウを見ていた。瞳は幼子のように煌めいて、今か今かとイダイトウの言葉を待ち侘びているようで、心乱されることこの上なく、大魚は戸惑いながらも自己の知ることを語り聞かせる晩となった。
 理屈立てて話のできることではない。それこそ消えかけた夢の記憶を語るように心許無く、足りぬ餌を漁るように貧弱な言葉を探りながら、代々の記憶についてイダイトウは語ろうとしたが、言葉を費やすほどにむしろ語られるものは茫漠となる気がし、ひょっとしたら己は虚無を語っていやせぬかと心が焦り、「王」の御顔も見上げることができないほどに所在なさげに口をパクパク動かしてばかりいるのは口惜しいことで、昼間には我が者顔に群青の海を御しているとは到底思われぬほど、小さきものであった。
 よしなしごとを言ったものだと、このまま岩穴に不貞寝でもとしてしまおうかとさえ思っていると、ウインディが感じ入ったように深く吐息しつつ徐に首を振ってみせたのは(すずろ)であった。
——時と場所は混じり合い、といったところだね。あらまおしきことだ。
 そううち笑って言うから、イダイトウは呆気に取られてどうとも答えることができないでいたが、寛いだ姿勢のまま、まるで閨房で媚を売るような視線を送るので堪らない。儚くなったものどもの魂魄を引き摺りながら生きることは、己はさして何とも思ったことがなかっただけに、それほどまでにウインディがありがたがるというのには恐縮した。
 「王」は決まって月の出る時分に帳峠の崖下に現れては、説話を聞きたがる子らのように話をせがむので、とうとう話す種もない。なぜつまらぬ己の話など聞きたがるかと問うのも憚られるままに、イダイトウは已むなくありふれた雑事を話すようになっていた。ウインディはどんな話であれ、嬉々として聞こしめし、あれやこれやと質問する。それも無理に頭を捻くり回したものではなく、機知のあるものばかりであったので、イダイトウが何とかそれに応じようとする内に自然と夜は更けていく。空の向こうに太陽の気配の感じられる頃おいになると、いや、済まなかったねなどと俯いて詫びるのも奥ゆかしくて、流石の「王」も夜更かしは憚りかと(あく)ぶのも微笑ましかった。
 さては敢えなくなる己が身も一体何の虚しきことがあるだろうか。ウインディのもとで時めいた身の上の有り難さはさらなれば、因業の果てに悪趣へ堕つるとも本望である。猛毒が極まって、尾鰭の感覚が薄れてきた。そこに漲っていたはずの同胞たちの心を感じることができなくなったのはいつであったか、耄碌に従って交感も衰えていたとはいえ、それすらも意識することがなくなった己はイダイトウでも何でもない、ただ図体の大きいばかりの魚に過ぎぬではないかと自嘲もされる。己はすっかり一匹だ、とイダイトウは考えたが、寂寥の念を覚えるにはもう時宜さえ失している。咬𠺕吧(じゃがたら)どもの嘲罵も耳に遠くなってきて、逃れ難き業苦の感触ばかりをひしひしと鱗に感じ、然あれ、己を無様に嬲ってくれ、五逆の罪も今は赦されようぞと叫べども声は掠れて出て来ない。
——我らが「王」はさみしがりと見たり。
 戯けた調子で呟くのはバクフーンである。雨だろうが、雷雨であろうが、この鬼火湛える雄は決まって同じ場所に佇んでは、虚空を見つめて飽きることがない。その脇でイダイトウがせっせと砂の手に石塔を普請して勤行しているのはいつ見ても子らが広場に屯すごとくである。突拍子もない独語を聞き逃さず、どういうことかとイダイトウはぎょろりとバクフーンを睨んだ。バクフーンは一向動じず、揶揄うように口元を歪めて見せた。
——嘘だと思って、クラボの実でも遣ってご覧よ。
 貴様は一体何者なのだと訊ねればそうであるところの者といってはぐらかすので、では何処から来たのかと訊ねると唯我独尊を真似てか天を指差すので、全く喰えぬ奴だと思いつつ、月のこともそうであったがやはり心憎くて、たまさかに岸辺に漂着していたまだ新鮮なクラボを密かに御殿たる岩場に密かに置いてみると、夜分平常通りイダイトウを呼ぶ声の心なしか弾んでいる。見れば、凛とした御顔はそのままながら口元の毛並に黒いシミができているので思わずにやけると、照れ臭げに表情を和らげた。
——そなたかい、我に木の実をくれたのは。
 その瞳のあまり清らなこと、見据えるだに叶わずにイダイトウは目を逸らし、何のことかはと空惚ければウインディ、押し測ってくすと笑ってそのまま岩場に腹這いに臥した。
——心早きものだね、イダイトウ殿。辛いものが好きだとは言わなかったのに。
 と揶揄うのは如何にも年端の行かぬ子どものすることのようで賢しらだけれども、一方でたいそう無邪気で愛らしいとさえ思われた。島の「王」にしては随分とろうたき振る舞いなどするものよと憤かる声は甲高く、上擦った調子はやがて弱々しい苦笑いと変わり、イダイトウはウインディと顔を見合わせ、身を竦めて笑い合うのも愉快だった。
 ウインディの往来は繁くなった。月の満ち欠けに拘らず、ましてや雲に覆われていようとも、おわします火吹き島を駆け降りては、降り立つ水面も地面のように渡って隠れ岩を訪ねるようになったのだから微笑ましい。旅の話もがなとウインディがせがむので、海岸から天冠に至るあの道程の記憶を忝くも語れば、己にまとわる同胞の魂が我ぞ我ぞと一斉にそよめき立つ。自己のなのめなりとも生き抜いたことを「王」に証すべく咆哮しているかのようで、バスラオの性質は死んでも変わらぬと浅ましくも勇ましい。それを見遣ってウインディはうち興じて、
——我が背子と二人し居らば……
 などと人にもあらず口をついて浪じるのも風流である。「王」のなんと雅なこと、ひたぶるに激流に逆らうばかりで浅学な己が恥じらわしく顔を水中に埋めるのも女々しいが、鷹揚としてウインディは雲のほか何も見えぬ空を見つめて少しも退屈で無さそうなのが不思議であった。その心を解さんと思っても、はてと訊ねるのも大変憚られた。
——山高み里には月は照らずともよし、と。
 と後の句を継いだのは砂の手のバクフーンで、いかにと訊ねればふふと両手で口を押さえて、何が可笑しいと問いただすも栓なしで、砂地を転げ回らんばかりだからイダイトウも閉口せざるを得ないのだったが、長い時が経て年老いて痴れ者なりにユクシーの加護を受けたのであろうか、今更ながらにその意を解したのも後手であることよ、最早己には山も月も失せてしまった、(いわん)や我が背子をやと嘆き嘆いても虚しいことである。己は何に縛められているのかすらも判然としなくなった。少し前の記憶さえ溶解してきた。己は何かに導かれるようにして、あの帳峠へと還ってきたのを何かに襲われたのだった。だが、その何かとは何であったか、視界は何物をも捉え得ず、思い出すこともできぬほど惚けたようで、くどくどと考えても息苦しさのいやますばかり、身を締め付けるような何某かは己を串刺しにしようとまで試みているようであるが、されば、身を委ねるのみだとイダイトウは腹を括った。
 ある夕暮れ、イダイトウを奉る身分の男がいそいそと連れ立って歩いていた。見れば、隣に連れ添うのは薄紅の衣を纏いすらりとした背の可憐な女である。彼らがオバケワラへと踏み入って行ったので、今更漁りなぞとは怪しと思って海岸沿いに二人の後をつければ、いかさまにも霊に震え上がりながら男がサマヨールに近寄っていくのを傍らから女が支えている。地震ふるような男の手には見慣れた皿に団子が数段積み重なっていて、なるほど己への捧げ物を用意しているのだと見えた。思えば恭しい供物も久方となっていたのは、偏に男が霊を恐ろしく思ってオバケワラへ向かう足の鈍重だったことによるのはいとも浅ましいことよとイダイトウは考えた。
 そのようなことを晩に来たウインディに話すと、「王」は打ち笑ったまま首を振るので、全く英雄の末裔なぞと聞いて呆れるとイダイトウが畳み掛けた。刹那ウインディは瞳孔を粒のように細めると、口を慎みなさいと語気を荒げた。あまり切実な諌めだから、イダイトウは僅かながらバスラオのなよなよしい気持ちに還ったように感じた。困惑し恥じらっていると、ウインディは申し訳なさげな顔を示した。
——すまない。
 と言って俯いて地の一点を見つめるのも滅法である。ふと、ウインディの懐の毛並みが風も吹かぬのに揺れ出して、怪しく思ってみれば房毛より現れ出たのはちょこまかとした仔犬であった。威容放つ「王」に比べれば豆粒のようなそれは、ぴょんと軽快に飛び降りようとして片足が毛に絡め取られて宙吊りの体になり、あたふたとその幼い身を振り子のように揺らすとケムッソの糸が切れたかの勢いで額からまともに岩へ打ちつけてぴいと痛がる様は全く嘆かわしく、浅ましくうち眺めているとウインディは照れ臭げに狛犬を見下ろしている。
——我が豚犬だよ、よしなに。
 と、(へりくだり)りつつも匂いやかな愛敬(あいぎょう)で首根っこを咥えてイダイトウの眼前にぶら下げられたガーディは慎ましげに俯いて舌などだらりと垂らして息せいている。イダイトウがきと睨めあげれば、ガーディは恐れをなして顔を毛に埋めてしまう。吐息をついて見上げると、ウインディは目元を緩ませて寧ろ無邪気に振る舞うから処置なしと呆れもする。ウインディが口を開き、ガーディをぽとりと岩場に下ろすと、恐る恐る口吻を海上へ伸ばしてイダイトウの匂いを嗅ごうとするのをばっしゃらあと退けると、ビクリとしてウインディの胸元へ飛び込み、後脚だけを晒してバタバタと騒ぐのは非常に烏滸がましくて見るに堪えないと思った。
——今はおじないけれども、心ばえは清らかだから、そなたにも(かしず)いてもらいたいと思うのだが、どうだろう。
 口では諾と応えても、(わだかま)る心中は誤魔化せず、怖気付く仔犬を見遣って、情けなしとおぼろけならず見下げる顔つきの険しさも、実におどろおどろしいと自嘲もされる程ではあった。この下劣な思いはただガーディが「王」の子に似つかわしくない暗愚と見たばかりではないとイダイトウは思ったが、むしゃくしゃとした心ばせは己でも推し測りがたく、憎悪と言えば容易いけれどもそればかりでは割り切れぬ気がした。紛らわしにガブリアスのごと海を飛び交うように遊泳して、頭を冷やす振る舞いも稚げで、己は一体何をしているのだろうかと恥ずかしくて、行いに積み上げる石塔にもろくに集中ができなかった。
 すぐに崩れる小石の山を足下にまじまじと点検してはバクフーンは何を思ってか、

 ケムリイモを採る
 ケムリイモの皮をむく
 ケムリイモに火を通す

 などと口遊むので一層気が散った。憤怒さえ思わせる太陽のぎらつきが鱗を灼くかのようだった。陽炎の揺らめく浜辺は、幻影のように朧であり、わなわなと震える口先が定まらず、小石が思わぬ場所へ滑り落ちてしまうので癪になって水中で一回転した。

 ポケモンの技でいうならひのこでよい
 かえんほうしゃはやりすぎ

 と一向動じずに歌ったところで、バクフーンはイダイトウに視線を移し、そして皮肉っぽく笑った。
——君にも愛しいところがあるのだねえ、そのように妬くなんて。
 ぎろと睨めつければ、何事も言わなかったとばかりにぷいと顔を背けたが、頸の炎は華やいで、頭隠して尻隠さぬ油断を見せるのには力抜けされた。

 イモモチを好きに食う
 一日が過ぎる

 と忍び音に締め括るのもなのめならず気障なことだった。
 発心も浅ければ勤行も虚しいか、暗闇より出づるギャラドスどもの威嚇の眼差しを感じつつ、余生幾許もない老魚の腹も裂けるばかりに身を仰け反らせるのもやむなきに、ミカルゲの煩悩に囚われてしまった若き己が身の上のやるせなさ、魂を掻っ攫うというサマヨールの気配が感じられ、早く逝かばやと心中に念じても浅い眠りのように続く苦しみはいつ絶えるかもわからない。狼藉に殺めた凶悪どもの一党の根絶やしにされた怨恨は一体どうすれば癒されることがあるだろう、千度食いちぎられても構わぬと罰を乞いて、イダイトウは何も見えぬ目を開き、何も聞こえぬ聴覚を集中させた。今やヒスイと呼ばれた地はなく、そこでは殺めども数を増し続けるコイキングどもの天下である。逃げ惑う野武士の如き自己を憐れむものも世には絶えてないからには、(まにま)にと、御言葉の聞こえるのを待つばかりなのも心もとない。
 頓馬に見えたガーディを邪険に扱えば、己の意地の悪さが清らにあらずとくよくよと顧みられるのも「王」との逢瀬の過ぎたほんのあからさまのことで、見栄え良きウインディがお上がりになるごとに、豊かな毛の内に仔犬を引き連れて来るのを憂しと感じるのは宿痾である。ガーディもすっかり恐れを成してウインディの足元に縋りついてこちらの様子を伺うのも鬱陶しい。抗いをしに、勇気を振り絞って吼える気のあるところを、先んじて咆哮すれば総毛立って「王」の股座(またぐら)へ潜り込んでしまうと、いよいよ業腹になって黙りがちになってしまったのは、仔といえどもさほどに馴れ馴れしかったのが堪え難かったからであろうか。燃え立った尾から同輩の魂たちが一度に冷やかすのを振り払うように水面に打ち付ければ、賢しいことに抃喜(べんき)の音と聞こえた。
 心中に認めて頑にも詳らかにしなかった物思いも、儚き体の砂のように散らばっていくこの折りならば、もはや何を躊躇うことがあるだろうか。「王」をお慕い申し上げていたということを、薄らと悟りながらも往時言の葉に載せることは断じてできなかった。ウインディの雄々しく屹立する形姿のあらまおしさを見るにつけて、物狂おしさが昂って、その身が業火に灼かれるかのようであったのも、打ち撓う和らいだ表情の典雅さに拝謁すれば、手脚をもがれ海にしか生き得ない魚の容姿に飽き足らなくなったのも、偏に恋慕の闇に捕らえられたが為でなくて何であったろうか、思い返しても残念なことこの上ない。
 ヌメルゴンの液のごと身体に絡みつく何某かが、己のことを襤褸切(ぼろきれ)のように絞り、何もかもを捻り出していくのが感じられる。イダイトウの輪郭がどうなっているのかもわからず、あるいは己はもうとっくに八つ裂かれ殺されていて、これは無間地獄の始まりに過ぎないのかも知れぬと考え、それも滅びゆく身にはつきづきしいと諦めるのも老練である。
 いとも口惜しい時期が積み重なり、俄に藍色と薄紅のいがみ合いがぶり返すと、連中の火吹き島に参詣すること繁くなれば、おちおち「王」も御所を離れ難くて、隠れ岩の晩も静かになってしまった。イダイトウとて海上はされども島のぐるりには近づき得ず、近海を泳げば金剛の斥候かと疑われるのにも閉口した。途端に、物寂しさの募り、何処を漂っていても眺め暮らすばかりとなった。この燃え立つような、得も言われぬ物思いは代々のイダイトウたちでさえ決して抱き得ぬほどのものであると、イダイトウには思え、思わしげなウインディも同じであると確信された。人の子の諍いは愚かであるけれども、天気のごとくじきに晴れ渡る、その折りには物言わんと決心していたのだ。
——「王」が崩御あらせられた。
 唐突なその報せを砂の手のバクフーンは事もなげに言い切った。いつもの行いをと、大口に小石を詰め込み、いみじくもムックルが豆鉄砲を喰らった顔をして水上へ現れ出た時に、思い出したかのようにそう口をついて言ったのである。お気に入りの煙管を片手から垂らして、まるで全てを見透かしたかのように沈着としているのが、かえってものものしかった。振り返れば帳峠の辺りがやけに騒々しかった。千々に乱れる心で隠れ岩へと引き返せば、あの可憐な女が岩場にて顔を手に覆い隠して立ち尽くしているのが見えた。その脇には、項垂れる男がいて、そろりと近づいたイダイトウを認めると、首を打ち振るばかりである。女は矢庭にその場に崩れ落ちて泣き暮れる様の、儚き人の子といえど哀れを誘うのは言うまでもなかった。それにつけても彼らの向こう側にあるものを見るのは忍びなかった。泳ぐにも鰭が不具のように動かなかった。
 呆然と佇む二人の足の合間よりガーディが首を出し、弱々しげにきゅうと鳴いたのは、タマザラシのようにろうたげなだけに、人々に哀れを催させるに十分であったが、イダイトウはふんと目を背けた勢いに、人垣の向こうに回れば、あえなき御形の屑折れるが見えた。崖より真っ逆さまに墜落したと思しく、崩れた岩石が一面に雪崩れており、それを死の床にウインディが横臥しているのを見れば心苦しさのいとど凄まじきこと、房毛の鮮血に塗れて縮れているのは斜視にても見る能わずの哀れさで、かたかたと鱗の震えあがるのを抑えきれず、此者(こは)作麽生(そもさん)、夢ぞ、夢ぞと譫言のように喚きながら群青の海岸を泳ぎまわる様は傍目からも物狂いかと思われた。潮の抜け道、海藻の楽園を縦横に、しまなみ浜を一直線に突っ切れば、隠れ泉の煙立つのも目に留まず狂い泳いだ。
 気もそぞろになって、夜分、砂の手に座礁した如くに身を乗り出すと、地の果てにいるものに向かってイダイトウは絶叫した。ただ、崖上で戯れるガーディの足を滑らせたのを助けようと踏み込んで、そんなことが果たしてあってよいものだろうか、宙にて均衡を崩した玉体の打ちどころ悪く敢えなくなってしまうなどとは、新月の夜な夜な人々の見るという悪夢の為せることとしか思えぬのに、見上げる空に浮かぶ眉月には一筋の光跡が明らかであった。クレセリアのはかばかしきの恨めしさよ、と啼泣してもあへなく、強ちに積み立てた石塔も何かはと、うち乱れて尾にて薙ぎ倒す有様もシンオウ様の雷を受けたものとは思えずあえかで、村肝の心砕け掻きくらすばかりなところへ、人魂の仄かに浮かぶのを怪しく見れば、バクフーンが宵闇より現れ出たのであった。
——「王」からの遺言だとさ。
 使者のような口振りで神妙に物語る姿はものものしく、首元の炎の俄に昂ぶってバクフーンの全身が火だるまになったかと思えば、神がかって、イダイトウにも恐るべき霊気が感じ取られた。驚くべきことに紛うことのない「王」の御声が、バクフーンの身体を響かせて鳴り渡った。大変清らな低音は、慟哭するイダイトウには音楽かと聞こえ、意味も判然もせぬままに呆然と聞いていると、最後に、
——何があろうとも、我が子の行く道を信じてくれ。
 死してさえ恭しげな語調の有り難さは言うべきではないけれども、やはり忝くて、(あに)打ち震えて拝聴せざるべけんや、と言うも道理である。あまり眩くて、暫し愁喜に塗れた心情に忽然としているうち、御言葉を宣べ終えたバクフーンは両手で何か大いなるものを抱えるようにして、そのまま大口開いて空を喰らった。ビーダルのように膨らんだ頬の諧謔にハッとしてイダイトウは今生にただ一度秘めたものを現す機会を終に逸したのであった。この上ない「王」の気配もこれを最後に失せてしまった。
 朽ち果てゆく己が心に、ようやく誦じた古詩が浮かび上がる。曰く、

 我が懸想する者は遠い場所に去ってしまった
 我が共に過ごした者どもは遠い昔に消えてしまった
 もう一度会えるならとかなわぬ思いを抱え続ける

 そのように眺め暮らして如何ばかりか、愛する日々を胸に秘め、永遠の冬を生きる心地でイダイトウは幾度この詩句を念じたことか。念じれば念じるほど消え去るものは増えていき愁いも募るばかりであったから、寂寥の念のようやっと終わる心持ちは本望であった。
 並々ならぬ敵意が暗闇より感じ取れた。嗚呼、ヒスイの名も古びた現今にあって、復讐と心にかけた成仏せぬ連中が己を裁こうというのだ。裁きとは名ばかりに、甲斐なき己が身を苛み、切り刻み、引き裂き、思いつく限りの沙汰を働こうと躍起になっている。誤魔化しに脆い石塔で詫びようとした己のことを痛罵して、唾棄するのを、もはや同胞の絆さえ失くした己はたった一匹で忍ばねばならないが、苦しかれど覚悟の一存、心に決めたからには受け入れるのはやぶさかではあらぬと強がると、身の切られるばかりの痛みが襲い、心許無げにありし日の「王」のことを思った。
 女は、ただ一匹残された「王」の子を哀れがって、ありふれたガーディとして育てると言い出して、人々を騒がせたものであった。後言(しりごと)は多かったが、女の決意は強く、また密かに慕う男もその意を汲んで取り立てて諌めなかったので、こうして島は王無しとなり久しくなってしまった。イダイトウは恍惚の体で海を彷徨って日を過ごした。時折「王」の子の女と共に連れ歩くを遠目に見れば、舌を出して息せきながら女の周囲を駆けずり回るのはたいそう可愛げがあるものの、もう一頭連れ立つガーディとは見るより図体の異なっており、誰しもが問われればそちらを「王」の子と答えたであろうと思うと浅ましいことこの上ない。悪態にテッポウオの水鉄砲など吐いては日暮らし、沖合に燻っていた。
——あなや、と言ったところかな。
 隠れ岩は忌々しくて、何とはなしに海の門を寝ぐらにするようになったイダイトウを見ても、さして驚きもしないような口振りである。バクフーンは全てを知っているかのように飄々と流れゆく群青の海岸の時を見つめていた。晴れの日には煙管を吹かし、雨が降れば件のサトイモの葉で傘を差す。太陽の燦々と照れば波打ち際に気持ち良さげに伸びて、純白の凍土かと見紛う雪が降れば背中の炎を噴かして寒さを凌ぐ。

 イモモチを好きに食う
 一日が過ぎる

 そのように日日是好日と過ごすのは心疚しく、「王」の不慮に倣って身投げをばと思っても、魚がどこに飛び込めば良いのだろうか。或いは行いにと海底より掬う砂石を一飲みしようと思い立ったが、いざ口に含んでも一向に勇気の出ないのは情けなかった。尾に纏わりつく魂たちも、恨みがましいとイダイトウを責め苛むようで、シンオウ様に許されてより得たその身を投げ捨てるか、と難ずるのはことわりである。
——言ったろ。あんた、碌な死に方しないって。
 バクフーンは見透かすような視線を浴びせ、死に損ないのイダイトウをさもありなんとあしらった。
——ま、精々勤行に励めば良いこともあるものさ。
 爾来ヒスイの変わりゆき、敬う人の子の絶えるまで石塔を組んで恭しく悼むことを忘れなかったとはいえ、ここが閻魔の庁か、審判の長いこと、漏らす苦悶さえ絞りきってしまうほどであった。帳面に書き留める己が罪業の如何に多いことか偲ばれもする。衰弱しきって何も見えず何も聞こえないが、シンオウ様の名の下に殺められたポケモンども一匹一匹が訴えを述べ立てているのだと思うとえも言われなかった。
 やがて、ヒスイの天が裂けた。この世ならぬ人がそこより落ちてきたと罵るうちに、すさまじい雷が黒曜の原野に、紅蓮の湿地に、天冠の山麓に、純白の凍土に落ちていくのが見えた。各地の「王」や「女王」の神がかったと音に聞けば、ただ何事もない群青の海岸の静けさばかりが思われた。あのガーディは相変わらず弱々しげで、かの「王」の威光が薄らぎつつあるのをどうしようもなかった。イダイトウとて、たまさかに出会ったガーディが、己を見るや震え上がって、連れ立つもう一頭の陰に隠れてしまうのが嘆かわしく、恥を知れと突き放す態度もひと塩であった。夫も絶えて訪れなくなった蜻蛉の女の身の上の恨めしさ、そのようにイダイトウも諦念に満ちた生である。
 火吹き島の頂上に「王」の幻影を見るようになったのは、懐かしさからであろうか。誰もいないのにあの凛とした遠吠えが、引き篭もる海の門まで聞こえることがあったのは、偏に己の夢か現か。否、己自身あわいにあって、浮世も憂くて、ただ眺めながら石塔積みに励むばかりであるのだから、いずれにせよ何のことがあるだろうかと考え、あのウインディはもう魂も消えてしまったのだと思えば心に穴の開く心地がした。
 意を決して今や荒れ果てた大魚の隠れ岩を訪ねれば、波濤と松籟(しょうらい)の音ばかりが騒々しく、「王」のいました岩場が苔生しているのも哀れを誘うので、剛毅と目されるイダイトウとて崖の前で泣女のようによよと泣くのも致し方のないことである。哭壁(こくへき)に額を押し当てて血涙(けつるい)を絞り、あたかもウインディの懐に顔を埋めるように、心許なき身を包み込んで欲しいと願った。情感が泉のように湧き出でては、友輩(ともがら)とてなく、同朋さえ奪われた自己の寄る方のなさの如何ともし難くて、物寂しさに打ち拉がれるばかりなのは傍痛いものであった。
 怪しの人が森と湿地の神がかりを鎮め、群青の海岸へやって来て、丈夫であることよ、自らオバケワラに分け行ってサマヨールを捕らえて団子を奉った。笛にて吹く音はやはり遠い先達より刻み込まれたものであるから、英雄の末裔だろうかと思われた。背に乗せて己を御する振る舞いもろうろうしく、「王」の瑕疵ない御有様を思わずにはいられなかった。火吹き島に詣でると申し出れば、彼の隨に泳いで行った。ちょうど山賊どもが現れて、ガーディの一頭をしゃにむに「王」に据えようとして、血の繋がらぬ大柄の仔を拐っていったのは返す返すも浅ましいことであった。さて本物の王子は女の胸に抱かれて愚図ついているのを冷ややかに見れども、振り返れば帳峠に大いなる影の佇んでいたのは果たして気のせいであっただろうか。仔のガーディが目元は雲のような黒毛に隠れているけれども、峠を見据えていたのをイダイトウはしかと認めたのであった。
 火吹き島に矢庭にシンオウ様の雷鳴の轟いたのを、イダイトウは島の浜辺から見上げていた。軟弱者と謗ったガーディが意を決して遂に「王」となり、天の裂け目より落ちた人が荒ぶった御姿を鎮めれば、「王」に連なったウインディの威光は海にまで伝播したのである。溶岩の戦場で起きたことを悟れば、己が浅ましさは痛々しく、妬いばかりにガーディを疎んじて、慕った者の意志を汲まなかったことの口惜しさに物も言えなくなった。すると、麓より感嘆の声聞こえて、イダイトウも島の稜線を眺めれば、あの懐かしき頂上に物陰が見えた。常ならざる御姿は紛うことなきかつての「王」であった。鋭く吼える勇ましさもありし日のままに、仔の戴冠を喜ぶ遠吠えは幻とも見え難く、あの月夜の晩のようにこちらへ来てもらいたいと願ったが、裏腹に燃え上がる太陽の輝かしさに目が眩んだ刹那、その姿は消え失せてしまったのだった。否、そのような不躾を思うことなど、イダイトウに出来るはずもなかった。仔を信じたものが勝ち、疎んじたものの負けである。敗残者である己はただ悔やみながら生きつつ死ぬのみと心に決めて、ヒスイと共に朽ちることを良しとしたのであった。
——いやはや。
 馴染み深い声がすると、不思議なことに盲いた視界が忽ちにして開かれた。打ち据えられた身が解き放たれる心地とともに見れば、バクフーンが例の砂の手の浜辺に事もなげに佇んでいる。ヒスイの夜明けとともにいつしか幻のように掻き消えた奴が如何にと訝しんでいると、それさえお見通しであるというようにバクフーンは手を口元に当てて打ち笑った。
——待ち草臥れただなんて、揶揄っていたよ。
 などと言うのも訝しい。浜辺には無数に石塔が連なり、それぞれの先端にはほの赤い霊魂が灯っている。懐かしんだ海岸は黄昏れ時であった。ここは彼岸かと合点されると、心安らぐ思いがした。全てが終わりと同時に始まる輪廻の理とはこのことかは、と尊く思われるうちに、遠くより砂地を踏み分ける音が聞こえれば、どきんと胸の塞がる思いで音のする方を見つめれば、これほどまでにありがたいことが世の中にあっただろうか。
——イダイトウ殿。
 と呼びかけた御顔のたいそう柔和で眩いこと、感情が咳切って感極まるのも無理もなく、潤んだ瞳より落涙の気ありと見えるけれども、美しげな「王」に比して老いさらばえた己が身に心付いて、羞しくて、顔を水中に沈めるのも微笑ましく、健気なことと思われた。ウインディはぶくと泡を立てるのを見遣りながら、
——顔を上げなさい。
 玉音の快く響く音におずおずと顔を出し、恐る恐る目を水鏡に向ければ、驚くべきことに患難辛苦の滝上りを果したばかりの艶やかな鱗に蘇りしている。思えば、動かすのも億劫だった鰭も軽々しく、同胞の霊魂どもが己に祝福を浴びせていた。若返りに驚き戸惑う有り様を打ち見たバクフーンの、笑いを堪えきれずに言うことには、
——ギラティナ様のいとも眩きお計らいってところだね。
 ウインディが徐に御足を(みぎわ)に浸すと、上目遣いに忝くも見上げるイダイトウをしかと見つめ、雷雲の毛並みの艶やかなのを穏やかな風に靡かせながら、仏のように笑いなさった。
——我が背子と二人し居らば……
 山高み里には月は照らずともよし、と叫べば南無阿弥陀の御利益、波濤と共に、ばっしゃらあ、と鳴く声のけたたましさと喜ばしさ、水面より跳ね上がり、憧がれて御胸に飛び込めば、二匹は一匹になったのである。宇宙の何と縦横無尽なこと、有難い有難いと念じる御霊をバクフーンが大事そうに抱き抱え、腹の虫を鳴かせながら一口で食べてしまい、嚥下する音を立てれば、さてもさても、尊い契りの成就したことよ。



レジェアル本編での、群青の海岸のエピソードに寄せて、とても二次創作らしいものを書きました。
同じ土地で人間に奉られるヒスイウインディとイダイトウ、しかもウインディの先代キングは不慮の死を遂げている。
これは何か書かないとと思い立って、楽書きにとタイプを打ったところひと月以上も費やしてしまった。
それにしてもイダイトウの外貌のいぶし銀の魅力、たまらないですね。本編ではかなり女々しくなってしまいましたが……

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Last-modified: 2022-05-11 (水) 02:52:39
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