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君と出会ったこの場所で

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君と出会ったこの場所で 


writer:レギュラス

この小説には血の描写とポケ×ポケが含まれます。


 森のはずれ。そこでぼくと彼は出会った。ある晴れた、春の日の午後のことだった。
 ぼくはただ偶然にそこにいたのではなかった。彼もまた、そこにたまたま居合わせたのではなかった。ぼくも彼も、同じ目的を持ってそこにいたのだ。つまり、その出会いは必然のこと、定められていたことだった。
 ぼくと彼は同時に互いの存在に気付く。ぼくの目と、彼の目が合う。彼の目は断固とした意志を感じさせる、強い目。ぼくの目も、きっときれいな小川の水面に映したように同じ目つきをしているに違いない。ぼくと彼は間合いを計りながらじりじりと距離を詰める。そして、一定の距離でぼくは足を止め、彼はとぐろを巻く。
「ぼくはクダキが息子、イヅナだ。ザングース族の誇りと爪にかけて、正々堂々と戦うことを誓う」
「俺はニラドが息子、オロだ。ハブネーク族の誇りと牙にかけて、正々堂々と戦うことを誓う」
 ぼくがまず名乗りを上げ、彼が鷹揚にそれに応える。伝統的なしきたりに沿って神聖に行わなければならない。しきたりを破る者に参加する資格はない。あくまでもおごそかに、清らかに。そのための宣誓だ。卑怯な手段をとることは許されない。それは相手だけでなく、自分をも侮辱する行為だ。互いの誇りをかけて戦う、この場にはふさわしくない。
 ぼくと彼は“儀式”を行うため、しきたりに従って春分のこの日、顔を合わせた。この儀式は、ザングースとハブネーク、それぞれの種族の群れの中で、その年に成年を迎える者の一匹が群れを代表して戦い、勝った方の種族がその次の春分までの一年の間、もう一方の種族に対する優先権を持つことができるというものだ。この名乗りも、前の年に勝った方が先に行うというしきたりであった。つまり、前の年はぼくらザングース族が勝利を収めたのだ。前の一年、いい木の実が採れる木はいつもザングース族が先に収穫し、森の中で偶然に出くわしたザングースとハブネークが争いになった時はすべてハブネーク族が譲ることになっていた。
 そもそもこの儀式は互いの種族が争いを続け、どちらもが全滅することを避けるために作られたと言われている。復讐に復讐を重ね、血で血を洗う戦いを終わらせ、諍いを避けるためにはこれしかなかった。この森で、遠い昔に祖先がこの儀式を取り決めてから、それまでのようなザングースとハブネークの大規模な争いはなくなったらしい。しかし一方で、儀式に負けた側の種族は一年間歯ぎしりして悔しがり、ザングースは復讐の爪を研ぎ、ハブネークは報復の牙を磨くことになる。両者の憎しみははるか昔から全く薄れる気配すらもなく、代々受け継がれ続けていた。ハブネークは敵だ。それはぼくの中にも強く刻み込まれていた。
 儀式の始まりを示す名乗りで、彼の口にした父の名前、ニラドというのは昔聞いたことがあった。数年ほど前にこの儀式を戦い、そして敗れたハブネーク族の代表。彼がその息子なのか。それならば彼の憎しみは一層深いだろう。彼は一族だけでなく、父をも背負って戦うのだから。
 もちろんぼくだって、負けるつもりは毛の先ほどもない。儀式に敗北して、ぼくの父の顔に泥を塗るような真似はしない。なぜなら、儀式で彼の父を倒したのはぼくの父、クダキなのだから。

 彼はちろちろと舌を見せながら、いつでも飛びかかることができるよう力を蓄えている。ぼくも隙を見せないように爪を構え、彼の襲撃に備える。ぼくと彼はともに相手の力を図りつつ、じっと睨み合いを続ける。この場に来ている以上、彼もただ者ではない。当然だが、群れで今年成年に達する者のうち、最も強いものが儀式に選ばれる。実力のある者同士の戦いで、安易に仕掛けるのは――――
「――っと!」
 突如として彼が体をしならせ、飛び掛かってきた。横っ飛びでかわす。体勢を立て直したところへ第二撃。ぼくは右の握りこぶしで下顎を殴りつけ、彼の牙は空振りする。しかし気を抜く暇はない。反動を利用した胴体の打撃が、避けきれずぼくの右のわき腹へヒットする。その程度で悲鳴を上げるほどヤワじゃない、だがこれはかなり効いた。じわじわと痛みが広がっていく。ぼくも彼も、ダメージから回復する間もなくすぐに体勢を立て直し、次の攻撃に移る。
 今度はぼくが仕掛ける番だ。自慢の爪を振りかぶる。彼はそれを避けようともせず果敢に突っ込んでくる。彼の牙を受けるのはまずい。素早くかわし、背中に爪を振り下ろす。
「くっ……」
 ぼくの爪は硬い鱗にはじかれる。さすがに防御が固い。だから構わずに攻撃をかけてくることができたのか。それならば次の手がある。
 彼の胴体を思い切り蹴飛ばし、ぼくはいったん距離を取る。両者息が乱れているものの、まだまだ戦える。戦況は五分と五分だろう。再び睨み合いになる。ぼくは呼吸を整え、次の攻防に備える。
 ザングースとハブネークの戦いは太古より繰り返されてきた。その中で、自然と作られた闘いの流れがある。それは定跡と呼ばれ、群れの族長によって受け継がれている。それによれば、ザングースは爪、ハブネークは牙による攻撃を基本戦術とする。でも彼にはその戦法は通じない。爪の応用戦術、打撃で攻めよう。
 しかし、ザングースとハブネークの戦いで常に問題になることが一つある。それは目線の高さの違いだ。ザングースから見て、ハブネークの頭はおなか当たりの高さしかない。だから、腕による打撃は少し体勢をかがめるか、下向きに繰り出す必要がある。要するに、殴りにくいのだ。
 ハブネークはそんなことにはお構いなく、足なり腹なりに好き勝手に噛みついてくる。それを躱し、いなして打撃を加えていくのがザングースの戦い。狙うべきはカウンターだ。冷静に相手の動きを読まなければ。じりじりと、少しずつ動きながら隙を窺う。集中力を切らしたら負けだ。息苦しさが場を覆う。
 彼のしっぽの先がぴくり、と動いたのをぼくは見逃さなかった。数瞬前にぼくの頭があった空間を、彼の顎ががちんと音を立てて噛み砕く。あんなのをまともに食らったら一巻の終わりだ、などと余計なことを考える間もなくぼくは浮き上がった彼の横っ腹を思い切り殴りつけ、彼は飛び掛かったそのままの勢いで地面に激突する。ハブネークの弱点は受け身を取りづらいところにある、それははっきりしていることだ。ぼくは距離を詰め、腹のあたりを蹴りあげる。ハブネーク族のおなかは背中などほかの部位に比べて柔らかい。そこが弱点だ。このまま爪を叩き込めば勝負は決する。
 だが、彼は異常なまでの運動能力を発揮し、空中で体をひねって腹を隠しつつしっぽのブレードによる斬撃を繰り出す。ぼくの左腕からだらり、と鮮血が滴り落ちる。カウンターを狙うはずだったのに、ぼくの方が見事なカウンターを受けてしまった。
 彼がにやりと嗤う。ぼくも笑う。
まだ日は高く、ぼくと彼の戦いは始まったばかりだ。

 結局、陽が暮れてもぼくと彼の戦いに勝負はつかなかった。ぼくの毛並みはあちこちが切り裂かれて紅に染まり、血がこびりついて干からびていた。彼は血へどを吐き、地面に血だまりを作っていた。それでもなお、ぼくと彼はぎらぎらと目を光らせ、相手を威嚇し続けた。
 そんな状態でも、掟は守らなければならない。掟では、儀式は正午より始め、陽が暮れたところで勝負がついていなければ翌日以降に持ち越しと決められている。ぼくと彼は依然闘志をむき出しにしながらも、今日の戦いを切り上げた。
 森の小道を引き返すぼくの前に、立ちふさがる者がいた。
「引き分けにしたのかよ! 意気地なし!」
 がさがさと姿を現したのはカヤギだ。彼はぼくと同い年のザングースだ。もともと仲はよくないが、最近ぼくに対する嫌味やら中傷やらがエスカレートしてきた。別にぼくはカヤギの恨みを買うようなことは何もしていないはずなのだが。思いつくことと言えば、ぼくは儀式に選ばれ、カヤギは選ばれなかった。ただそれだけだ。
 ぼくはいつものごとくカヤギの言葉が聞こえないふりをして、群れへの道を歩き出す。そのぼくの背中に追い打ちをかけるように、カヤギが叫ぶ。
「“欠けた爪”のくせに!」
「それ以上言ったら殺す」
 その言葉は聞き逃すことができなかった。ぼくが侮辱されるのは我慢できる。でも、それはだめだ。カヤギの挑発に乗るのは癪だが、それだけは。
「てめえにはふさわしくないんだよ! “爪の守り手”の称号も、ハシドイもな!」
 カヤギはぼくの殺す、という言葉に怯んだように一歩後ずさり、捨て台詞を吐いて群れとは別の方向へと去っていく。その二つは別物じゃないか、くだらない、と思いつつもカヤギの言葉はまったく的外れというわけでもなかった。
 儀式を行うザングースの呼び名である“爪の守り手”は、当然群れで一番強いザングースであることを意味する。ということはつまり、“爪の守り手”は生き残りさえすれば将来的に一族の長になる可能性もある、というかその可能性は高い。ならばその周りに雌が集まらないはずがない。実際、ぼくに声をかけてきた雌ザングースは数匹いる。ぼくはそれがなんとなくしっくりこなくて、ぼくはそれらを断ってしまった。
 獣の世界は弱肉強食だ。常に戦い続ける宿命にあるザングース族には、特にその傾向が強い。たとえ争いを避ける儀式という仕組みが存在していても、いつハブネーク族が厳正なしきたりを破り、ザングース族を殲滅するため襲ってくるかもわからないのだ。実際、それはクダキの祖父の祖父の、そのまた祖父の時代に一度だけあったとされている。強い雄に守ってもらおうという考えは、ごく自然なものだった。
 カヤギが口にしたハシドイというのは、群れの雌ザングースの名だ。彼女はぼくと同い年、つまり今年で成年に達する。群れの中にはすでに所帯を持っている、ぼくやハシドイより若いザングースもいるくらいだし、そろそろ結婚してもおかしくはない年だ。そして彼女は群れの若いザングースの中で一番きれいだと評判なのだった。するとごく当たり前ながら、群れの雄は我も我もと彼女の気を引こうとすることになる。ある者はおいしい木の実を届け、またある者はきれいな花を届けた。ちなみに花を届けたのはカヤギだ。しかし、ハシドイはあまり貢物には興味がないらしく、彼らの努力はあまり功を奏してはいない。
 まあそれで、ずいぶんと説明が長くなってしまったのだが、要するに、何と言おうか、ただ今現在においてハシドイが心を寄せている……と、巷で言われているらしいのが、このぼくなのである。ぼくは実際に彼女の気持ちを確かめたわけではないんだけど。もし本当だったら嬉しい、と思う。
ハシドイは儀式の前に「無事に帰ってきてね」と声をかけてくれたのが印象に残っている。いや、他の仲間も「頑張ってこい」とか、「俺たちの強さを見せつけてやれ!」とか、カヤギを除いて様々な激励をくれたのだ。仲間たちの声ももちろん嬉しかったのだが、どうもぼくの耳に残っているのは彼女の声なのだった。

 群れの住処の前で、数名の仲間が、ぼくのことを待ってくれていた。族長、両親、友達、それから嬉しいことに、ハシドイ。彼らはぼくが儀式に勝ったしるしである、ハブネークの死骸を引きずっていないのを見て少し口惜しそうにしたが、それでもぼくが生きて戻ったことに安堵したようだった。
「お帰りなさい」
「ただいま、ハシドイ」
「うん、よくぞ戻ってきた。イヅナよ、この薬を傷口につけて、今日はもう休むがよい。明日、またハブネークと戦わねばならぬからな」
「はい、長老」
 長老はハブネーク、という部分に妙なアクセントを置いた。ハブネークに何かあるのだろうか、などと疑問に思う前に、群れの仲間たちが集まってきた。
「おいおい、大丈夫かよイヅナ。血が出てるぞ」
「戦いだからね。でも向こうだって大怪我さ」
 ぼくは待っていてくれたみんなに声をかけ、握手を交わした。興奮した仲間たちにもみくちゃにされて、結局、ぼくが解放されたのは月が高く登るころだった。
寝床に戻り、誰にも見えないところで、ぼくはぶっ倒れた。長老にもらった薬を塗ることすら億劫なくらい、ぼくは疲れていた。みんなの前では平気な振りをしていたが、闘いの興奮が収まってくるにつれて、ぼくは全身の激しい痛みに苛まれていた。
「ううっ……」
 こんな状態で明日戦えるのだろうか。負けることは許されない。みんなのためにも。ぼくの背中を嫌な汗が伝う。胸がばくばくする。
「イヅナ、大丈夫……?」
 その声は。
「さっき、なんだか辛いのを堪えてるように見えたから……」
 なんとか隠し通せたと思ったのに、彼女には見抜かれていたのか。
「この薬、ちゃんと塗ったの?」
 無造作に放り出された薬を拾い上げて、ハシドイは言う。
「あとで塗っておくよ」
「だめよ。私が塗ってあげる」
 言うが早いか、彼女はぼくの傷口に薬を塗りこんでいく。
「ううっ……」
 長老の薬はよく効くのかもしれないが、傷口に沁みる。ハシドイの前だというのに、ぼくは情けない声を上げてしまった。
「い、いらないよ……自分で、できるからさ」
「強がらなくてもいいの。ほら」
「…………………………………」
 肩に入っていた力がすっと抜けていくのを感じた。強がっているつもりなんて全然なかったけれど、やはり爪の守り手として期待に応えようと、いろいろ力んでいたのかもしれない。でも、それは全部お見通しだったらしい。ハシドイの前では変に格好つけなくてもいい。そう考えることそのものまでもが、安らかだった。ゆっくりと、息を吸って、吐く。息が荒くなってなんかいない。
「はい。全部塗り終わったわよ」
「ありがとう、ハシドイ」
「どういたしまして、イヅナ」
「……………………あのさ」
「なに?」
「結婚とか、しないの?」
 聞きたかったことは、形になるまでの間にずいぶんと遠回しになった。
「……なにそれ。どういう意味?」
「そのままの意味、だけど」
「私がほかの雄と結婚するってこと? …………なんていうか、イヅナは気づいてくれてると思ったんだけどな」
「…………え?」
「他の雄と結婚するつもりなのに、こんな夜に雄のねぐらに来たりすると思う?」
「ご、ごめん」
……ということは。あの噂は本当だったのか。そこまで言われれば、いくらぼくだってわかろうというものだ。ハシドイは、ぼくのことが…………。ぼくの胸の中をじわじわと温かいものが満たしていった。
 不意に、ぼくはとても大胆になって、ハシドイの体を抱き寄せた。戦いのあとの高揚感の残滓がそうさせたのかもしれない。ハシドイの言葉に、有頂天になったからかもしれない。そんな理由はもうどうでもよかった。ぼくは今の今まで、恥ずかしくて認めようとさえしてこなかったけれど、ぼくはハシドイのことが好きだ。
 ぼくは驚きの声を上げようとしたハシドイの小さな口を塞いだ。ぎゅっと抱きしめると、ハシドイの毛並みはとてもやわらかかった。口を、そっと離す。ハシドイの口から、甘い吐息が漏れた。その長い耳に、告げる。
「ぼくも、好きだ」
「イヅナ……好きよ」
「これで、君と話すのも最後になるかもしれない。それは事実なんだ」
「そうかもしれないけど、それをいわないで」
「それを、ハシドイにわかっていてほしいんだ」
「うん、でも……」
「帰って来るよ。約束だ」
 ぼくは爪を差し出した。ハシドイも爪を出した。ぼくの爪とハシドイの細い爪が絡む。
「……ありがとう、イヅナ。ねえ」
「なに?」
「もしも、もしもだけど、これが最後になるかもしれないのなら…………私の中に、刻み付けて。あなたのこと忘れないように」
 ハシドイの浮かべた表情が、とても切なげで、儚く消えてしまいそうで、ぼくは。力をこめて、守るようにハシドイを抱いた。
「ん」
 もう一度交わした口づけは優しい味がした。わずかな時間を大切にしようと、ぼくらは一つになる。静まり返ったねぐらに、わずかな音が反響する。ぼくが顔をこすりつけたおなかは包容力にあふれて、森の匂いがした。ハシドイは全部わかっているんだ。そう思った。
 ハシドイの体をゆっくりと、心をこめて愛撫する。まるでハシドイの体を覚えようとするかのように。彼女は黙って目を閉じて、無言のうちにすべてを受け入れている。ぼくのことも、ぼくが何をしようとも、ぼくの背負った運命、儀式の重みまでも。そうしてもなお、ハシドイは安らかな表情を浮かべている。そんなハシドイに甘えかかるように、ぼくはそのからだを舐めまわす。ハシドイのきれいな毛並みが唾液に濡れ、汚れていく。時折ぴくりと、ハシドイのからだが跳ねる。ぼくは鼻面でハシドイのからだをまさぐり、下へと向かう。
「や、まって……」
 艶っぽい声はぼくを止める気などさらさらないように聞こえた。ぼくは遠慮なく、きのみを探して茂みを探った。ぼくの嗅覚がそこだと告げる部分に、舌先を当てた。
「やあっ!」
 ハシドイは左手でぼくの頭を押さえつける。ぼくの頭をその場所から外したかったのかもしれないが、結果的にはますます強く押し付けただけだった。熟れたきのみからあふれだした汁は甘かった。
「あんまり、舐めないでってば……ねえ、聞いてるの……あ、うう」
 だんだんとハシドイの声は甘くなり、時に甲高くなって、それがぼくを興奮させた。ぼくは無言のまま、べろべろと貪欲に舐めまわし、啜った。すべて食べつくしてしまいたかった。
「う、ん…………ああああ!」
 果汁が勢いよく吹き出して、ぼくの顔にかかった。ぐったりとしたハシドイの頭をそっと撫でた。ハシドイはぼくをじっと睨みつけてくる。
「ごめん」
「イヅナったらもう……本当に……」
 ハシドイの顔は暗闇の中でも赤く染まっているのがわかった。愛おしかった。ぼくは彼女を守るために戦っているのだ。ぼくはハシドイに口づけする。今度は舌を入れてみた。ざらついた感触があった。互いにもっと強い絆を求めて、舌を固く結びつけた。そうすればもう離れないでいられるような気がした。二匹の唾液が混ざり合って、どこからが自分の口なのかもよくわからないくらいぐちゃぐちゃになっていった。口を離したときにたれた涎をそっと拭く。
「好きだ」
 目を閉じたハシドイの耳に、もう一度囁いた。ハシドイは黙ってぼくの首に手を回す。ぼくもハシドイを抱きしめる。強く引き寄せたら、ぼくの胸元に顔を埋めたハシドイがくぐもった声を出した。もっと近く。もっと寄り添いたい。
 何かを探すように、ぼくとハシドイは結び付く。体を強くこすり合わせて、発火するくらい熱くなる。ぼくの体に一定の間隔でハシドイの吐息がかかる。ぼくがすこし大きく動くと、その間隔は乱れてハシドイは小さく声を上げた。その声を聴くのが心地よくて、ぼくはより大きく、激しく動いてハシドイを責めた。日頃強気なハシドイの蕩けた顔を見ると、むくむくと加虐心が湧いてきた。
「ん、ふう、っあ、ああ、んむ……」
 ハシドイは絶え間なく声を上げて身もだえする。その声はだんだんと強くなり、ほとんど悲鳴のようだった。昂奮は頂点に達して、ぼくが解き放つのとハシドイがひときわ高い声を上げたのは同時だった。はあ、はあと吐息の音だけがしていた。
 もたれかかってきたハシドイをそっと抱きしめる。むっとするくらい濃く甘い空気の中に、ぼくとハシドイだけの世界と時間があった。その夜、ぼくとハシドイは朝まで寄り添っていた。明日も戦いが待っているというのに、これ以上ない、というほど心地よい眠りだった。

 夜は明ける。ぼくはハシドイが真剣な顔で、
「天と地がさかさまになっても帰ってきてね」
 と言ったのに思わず吹き出してしまってはたかれた。ハブネークにも家に帰れば生涯を誓った相手がいるのだろうか。たぶん、いるのだろう。それは、儀式には関係のないことだ。だけど、考えてしまう。たとえそれが倒すべき天敵でも。そんなことを思いながら儀式の場に向かっていたぼくの前に、
「イヅナ、待てよ」
「カヤギ…………」
「あれはなんだよ。なんなんだよ!」
「“あれ”って、なんのことだよ! いちいちぼくの邪魔をするなよ」
「あーはいはい、お邪魔でしょうとも。昨日の夜はハシドイとよろしくやってたみたいだしなあ。見てたんだぜ、今朝てめえの汚い巣から仲良くそろって出てきたところをよ」
 ああ、見ていたのか。そして嫉妬のあまりぼくの前にこうして現れた、ということか。
「ハシドイは俺が先に声をかけたんだぜ! あとから来て横取りするんじゃねえよ! ハシドイは俺のだ」
「くだらない。ハシドイが好きなのはぼくだ。カヤギじゃない」
「ふざけんな! そんなはずがねえ。俺が“爪の守り手”に選ばれて、儀式を執り行っていればハシドイは俺のもんだった!」
 カヤギのぎらぎらとした目は、奥の方が濁っていた。
「儀式は群れで一番強いザングースが行う。ぼくよりカヤギの方が弱い。それはもうみんなの前で証明されたことだ」
「そんなことはねえ! 長が贔屓したんだ! 今ここで俺の力を見せてやるよ!」
 言うが早いか、カヤギは爪を振りかざし飛び掛かってくる。
「カヤギ! それは掟破りだ!」
 体を躱して叫ぶ。
「掟なんか関係ねえ! くらえ!」
 カヤギは猛然と体当たりを敢行する。滅茶苦茶な戦い方だ。型も何もあったもんじゃない。だがぼくはその意表をついた動きに対応できず、まともに受けてしまう。
「たいしたことねえな! 調子に乗りやがってよ!」
 倒れたぼくに追撃を加えようとするカヤギの足を払う。倒れこむカヤギの顔に、ひたいを叩き込む。
「ぐうっ」
 ぼたぼたと血が垂れる。
「ち、っくしょう……てめえ」
「ぼくより弱いってことがわかったら帰ってくれ。儀式の邪魔になる。この世界は弱肉強食が掟だろう」
「くそ、“欠けた爪”のくせに……」
 ぼくはその言葉が聞こえなかったふりをする。カヤギと争っているうちに儀式の始まる時間を過ぎてしまったようだ。ぼくにとってはその言葉を口にすることは許しがたいけど、その言葉を口にすればいつでもぼくを挑発できる、と思われても困る。

 オロは昨日と同じ場所にいた。
「遅すぎる」
「すまない」
「それがザングースのやり口なのか? 種族の誇りというものはないのか」
 彼の挑発に乗ったりはしない。正確には、さきほどのカヤギの妨害で体力を使ってしまい、挑発に乗る元気があまりないのだが、それを絶対に彼に悟られてはならない。
「さあ、儀式の続きを始めよう」
 ぼくは宣言し、戦いの構えを取る。彼は舌をしゅるしゅると出し入れし、探るような目をぼくに向ける。今のぼくには長期戦を戦うスタミナも集中力もない。ならばいっそ、彼の体制が整っていない今が仕掛け時だ。
 ツメをギラリ、と輝かせてぼくは攻撃に出る。体を低くし、胸の前で両手を交差させる構えをとる。彼はその場からじっと動こうともしない。ツメを振りかぶった瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。カッと開かれた口が、振り上げたツメを潜り抜けてがら空きになったぼくの胸元めがけて飛び込んでくる。胸の近くに直接毒を打ち込まれたら助からない。ぼくは強引に体をひねる。突進の途中にわざとバランスを崩したものだから、当然ながらぼくの体は突進の勢いそのままに地面に叩きつけられる。ざりざりざり、と嫌な音が耳元でした。昨日の傷がぱっくりと口を開き、また新たな紅を吐き出す。
「うっ」
 ぼくは痛みをこらえて立ち上がる。体の奥の方がずきり、と痛む。くそ、カヤギの体当たりを受けた時のダメージがまだ残っている。ハブネークは相変わらず舌を見せながら、ぼくの方を窺っている。余裕を見せつけるつもりなのか? ああ、もう、わからない。考えるのも面倒だ。ツメに破壊衝動を宿らせて放つ。
「ブレイククロー!」
 彼はあっさりとその一撃を避けて見せた。それならもう一度、
「ブレイククロー!」
 その爪は再び空を切る。これでもか!
「ブレイク――」
 バシッ! しっぽの強烈な一撃が、ぼくの右腕を叩く。
「単調すぎる」
 言葉とともに、彼の胴体の重みを乗せた追撃がぼくの腹に入る。
「何があったか知らんが、今日のお前はずいぶんと弱い。儀式の時間に遅れたこともそうだが、お前はこの儀式を冒涜する気なのか」
「ぐ………………けほっ」
 地に伏せたぼくは呼吸するのもままならず、ろくに返事もできやしない。「察するに、お前に何かトラブルでもあったのだろう」
 トラブル。そうだ、ここへ来る前にカヤギに襲われたのだからここで倒れているのは仕方ない。このまま殺されてもそれはカヤギのせいなんだ。ぼくは最後の一撃を待って目を閉じた。だが、彼は言葉を続けた。
「俺と戦う前に手負いになっていたのなら、そんなお前の息の根を止めたとしても意味がない。儀式は正々堂々と行わなければならんからな。今日の戦いはここまでだ。また明日、回復してから続きを戦おう」
 彼の提案はぼくにはまったくありがたくないものだった。ハブネークの誇りは保たれ、ザングースの誇りは傷つけられた。殺された方がましなくらいだった。ぼくは反駁することもできず、ただ悔しさと羞恥のこもった涙が流れ出る。しゅるしゅるという音が遠ざかっていくのを、背中で聞いていた。

「おい、大丈夫か?」
「酷い様子だな」
「今日も勝てなかったのかよ!」
「やめんかカヤギ。戻ってきただけでも良しとせねば」
 口々に話す、群れの誰とも口を利かずぼくはねぐらへと戻った。ねぐらの前に、一匹のザングースがいた。ぼくは彼女とも話したくなかった。黙って隣を通り過ぎる。
「待って! 黙って行かないでよ」
「今日は疲れたんだ……ほっといてくれないか」
「ほっとくわけないでしょ。ほら、あの薬も塗らないと」
「君だって、“爪の守り手”が好きなだけなんだろう? それだけなんだ」
 ぱん。痛かった。加減なんてなかった。昼に受けたオロの打撃よりもきつかった。
「馬鹿言わないで。理由が無きゃ好きになっちゃいけないの? “爪の守り手”じゃなかったらあなたの価値はどこにもないの? たとえあなたが弱くたって、ハブネークに立ち向かうならその心意気は好きよ。でもそんなふうにして卑屈になってハブネークに勝てるの? 天と地がさかさまになっても戻って来るって約束したでしょ。私、約束を破られるのは嫌いだから」
「……ごめん。当たって悪かったよ」
 どうもぼくの中で、カヤギが自分が“爪の守り手”に選ばれていたら、という言葉が引っかかっていたらしい。ハシドイがぼくのことを好きだと言ってくれたのはどうしてなのか、知らなかったから。ぼくが弱かったら、彼女の隣にカヤギがいたのかもしれない、と思うと嫌だったのだ。
「いいの。ほら、薬塗るから」
 ハシドイは手早く薬を塗っていく。その顔は感情を爆発させたことに照れているように赤かった。可愛い、と思った。
「もう今日は休んで。いろいろ疲れてるみたいだし」
 そういって、ハシドイはぼくの隣にその体を横たえた。ああ、やっぱりここでなら、ぼくはよく眠れる。日の出まではとても長く、短く感じた。起きた時には体の痛みも、胸のつかえも取れていた。

 またぼくと彼は正午、この場所で対峙する。
「いい目だな、昨日とは違う」
 彼はそんなふうに言った。今日はカヤギの姿はなかった。たとえ現れても、いまさら心を乱されないつもりではあったが。ぼくの心はすっきりと冴えわたっていて、今なら誰にも負けないような気がした。
 あいさつがわりの右の爪。避けたところへ左の爪。苦し紛れのしっぽを軽くかわす。そして再び左の打撃を加える。手応えがある。彼の顔からはさっきまであった余裕が消し飛んでいた。ぼくはさらに追撃する。右の拳はすんでのところで空を切る。反撃の彼の牙は弾いて軌道をそらす。体勢を崩した彼に右の蹴り。また手応えがあった。
 たまらずに彼は大きく飛び、距離を取る。息が荒れている。ぼくも一度、息を整える。ぼくは彼を圧倒していた。ぼくに勝利が見えてきた。
 彼の次の攻撃はやや性急だった。ぼくの頭めがけた跳躍。ぼくは十分にそれを引きつけてから躱す。振り向きざまに、左の爪を繰り出す。だが、それが当たる前に彼はその身体能力を存分に使って空中で体を捻る。しかも、ぼくの左爪を避けるのではなく受ける方向に。当然、ぼくの左腕は彼を直撃する。それは狙った部位ではなく、彼の顔面、口の中だった。
 あえて攻撃を誘い、攻撃を受けることを前提にしたカウンター。予想外の、捨て身の一撃だった。冷静な彼がこんな戦法を採るとは思わなかった。
 彼の牙が、深々とぼくの左腕に突き刺さる。その牙から、じわじわとしみ出す毒がぼくの体を侵す。この戦いの中で、毒を体に受けるのは初めてのことだった。彼にしてみればこの牙の毒は最後まで残しておく切り札だったのかもしれないし、ぼくにとっては絶対に毒だけは受けてはならなかった。なぜなら、ぼくには毒に対する免疫がないからだ。
 群れの中でも一部の者は知らないだろう。でも、知っている者の中には、例えばカヤギのように、“欠けた爪”と呼んで馬鹿にする者がいる。“欠けた爪”はもともと、言葉通りに爪が小さいザングースや、何かの事故で爪を失ったザングースへの差別的な呼び名だった。今では“欠けた爪”は、広く体のどこかに何か他の者と違う要素があることを指す言葉になっている。ぼくの爪は正常だから、ここでは後者の意味なのだ。
 ザングース族には、長年にわたるハブネークとの戦いで、彼らの毒に対する免疫ができている。それは母から子へと受け継がれている……普通は。だが、ぼくの母はその免疫を持たなかった。彼女はなぜか、生まれつき免疫が体内に作られない体質だったのだ。当然、ぼくにも免疫は受け継がれてはいない。だから、ぼくに対してハブネークの毒は有効なのだ。
 ぼくは何と言われようが気にはとめない。でも、ぼくが“欠けた爪”と呼ばれるのは、母を侮辱されたのと同じだ。だからぼくはカヤギ達に対してその言葉を口にするな、と言っているし、口に出した時は許さない。でもぼくは、免疫がないことを決して引け目に思ったり、ましてや母の体質に欠陥があるとは思ったりしない。母は免疫がない代わりに、特異体質を持って生まれたのだから。それはむしろ天の恵み、母だけの個性だ。そしてそれはぼくの体にも受け継がれている。彼が毒を最後の切り札にしていたように、これがぼくの、最後の切り札だ。彼は知らなかっただろう。ぼくに免疫がないこと、ぼくの特異体質を。

 あっという間にぼくの全身に毒が回る。彼の毒はずいぶん強いらしい。もしかしたらザングースの免疫があっても危ないのではないか。彼は再度噛みつこうと牙を引き抜く。だが、そこまでだった。ぼくの全身に力がみなぎる。体の痺れはどこかへ行った。驚いた顔の彼に、渾身の“ブレイククロー”を打ち込む。下から上へ、跳ね上げるように。彼の硬い鱗をも切り裂く一撃で、彼はたまらずに吹っ飛ばされる。
毒に侵された時にかえって力を発揮する特異体質。一族の長は、この力を“どくぼうそう”と名付けた。
 彼は体を強く打ちつけて血を吐き出した。勝負は決した。もう彼は動けない。それでも、彼の眼光は鋭くぼくをにらみつける。
「ごほっ…………殺せ」
「いや、今日は殺さない。君は昨日、ぼくを殺さなかったから」
「ザングースに受ける情けなどあるか! 早く殺せ!」
 プライドの高い彼がそういうだろうことは聞くまでもなくわかっていた。ぼくだって昨日あんなに悔しかった。でも、それを彼にやり返してやろうという意図はなかった。ぼくはただ純粋に、正々堂々と戦いたかったのだ。こうすることでまた対等の立場になれると思った。特異体質を黙っていたのは別に卑怯だと責められることではないだろう。それでも、このまま決着をつけてしまうことには戸惑いがあった。
 ぼくは、用意していた言葉を返す。
「断る。ハブネークの頼みなんか聞けない」
「きさま……」
「次で最後の勝負にしよう。それで終わりだ」
「それでいいのか。お前もこの儀式に、すべてを懸けているはずだろう」
「君を殺すのが少し遅くなるだけだ、儀式の結果に変わりはない」
「…………後悔させてやる。次は必ずきさまの首をかみ切ってくれる」
 そう言い残し、手負いの蛇は這いずりながら、森の中へと消えて行った。昨日のぼくのように。
 闘いの中で、彼との間に生まれた奇妙な絆のようなものを、ぼくは感じずにはいられなかった。死を賭けたぎりぎりのやりとりが言葉もなしに伝えるものがあった。闘いの呼吸のようなもの。それは互いのレベルが高いところで一致した時に、まるで美しい舞のように完成された動きを現わす。ぼくと彼で、一瞬だけ輝く何かを作り上げているような、そんな一体感があった。目に見えない何かを形にするとき、彼はまたとないパートナーだった。もうぼくは彼のことを旧知の友のようによく知っている。彼がどんなふうに生きてきたか、彼がどんな考えの持ち主か。
 儀式はとても厳格に守られている。それは族長が群れの者たちを強く統率しているからだ。族長の権威は儀式を通して群れを守ったという実績に基づいている。だから誰も族長に逆らうことはない。
そして族長は代々、ハブネークとむやみに事を構えるな、と群れの者に教える。それは好敵手の守ろうとしたものを尊重しているからなのだと、初めて理解した。ザングースとハブネークは結局、闘いの中でしかわかりあえないのだ。そういう関係なのだ。それは理屈じゃない。戦って戦って、その末に到達できるところ、闘いの向こう側に、それはある。その境地にたどり着くことができる、そういう者だけがこの儀式を戦うことを許される。それがこの儀式の真の意味。儀式の表向きの理由、ザングースとハブネークの闘いを未然に防ぐという目的の、なんと薄っぺらいことだろう。
 彼は後悔させてやると言ったが、ぼくはこの儀式の結果がどうなろうと後悔するつもりは微塵もない。彼だってきっとそうだろう。だって、こんな相手に出会えたのだから。ぼくと彼が全力を出して、そうして残った結果なら、それでいい。もちろん負けるつもりはない。でも、群れのためにとか、ハブネークへの憎しみだとか、そういうモチベーションはもうなかった。

 彼がずるずると体を引きずった跡に血が残っている。ぼくも戻ろう。余裕ぶっていたけど、早く毒を抜かなければまずい。モモンのみを食べなければ。そこへ、がすんと鈍い音がした。彼が消えていった方から。
「オロ! どうしたオロ!」
 大声で彼の名を呼ぶ。だが、力強い彼の声は帰ってこない。寒気が走った。何かが起こったのだ。ぼくも、彼も想定していなかった、できなかった何事かが。がさがさと彼が消えていった方の森に分け入る。見えたのは広がりつつある大きな血だまり。彼の頭は、大きな石か何かで見るかげもなく潰されていた。なんて醜いことを。
 顔を上げれば、ぼくの一番見たくない顔がそこにあった。
「どうだイヅナ、俺があのハブネークをやってやったぞ! これで俺の方が強いことが証明されただろう! “爪の守り手”はこの俺だ!」
 ぼくの全身はぶるぶると震えていた。彼との決闘の機会は、永久に失われた。こんなことがあるか。ぼくの目から赤いものが垂れた。
「お前はなんてことをしてくれたんだ! ザングースとハブネークの誇りも、儀式の意味も、全部台無しじゃないか!」
「は、口惜しいのかよ。お前には俺の味わった悔しさを全部倍返しにしてやるよ!」
「お前は! なんにもわかっちゃいない! なにもだ!」
「弱肉強食はお前の口癖じゃねーか! なにを賢くなったみたいに!」
「それはそういう意味じゃない!」
「なんだ、何か文句でもあるのかよ! なんならかかってこいよ、“欠けた爪”が!」
 ぼくの中で何かが切れた。調子に乗りすぎたカヤギの腹も、顔も真っ赤に染まった。とっさに防御のため腕を出した反射神経は評価しよう。だが、彼の鱗に比べれば、カヤギの腕なんて脆すぎた。ぼとりと音を立ててそれは地に落ちる。
「自分が“欠けた爪”になった気分はどうだい、カヤギ?」
 誰のものともわからない、地獄の底から現れたような冷たい声が、僕の喉から発せられた。ぼくは嗤っていたかもしれない。
「ぎ、ぎゃあああああああ! 腕があ! おれの大事な腕が、うでが!」
「うるさい。彼はみっともない悲鳴なんて一度も上げたことがない」
「うう、お、お前、これ死んじまうだろ! やりすぎだ、た、たすけてくれよ!」
「彼は『殺せ』って言ったよ。それだけの覚悟もない奴に、儀式を戦う資格なんてあるわけないさ」
「や、やめてくれ……頼む、から……」
「君は彼を汚い不意打ちで殺しておいて、自分は死にたくないと命乞いするのかい?」
 ぼくはよっぽどカヤギのことが嫌いだったんだなあ、と自分とはまるで無関係なふうに思った。そうだ、ぼくは何を言われても気に留めてないふりをずっと、自分に対しても続けていたけど、ほんとうはこいつのことが嫌いだったんだ。でも、震えるカヤギを見ていたらもうそれ以上手を出す気も失せてしまった。ただ喪失感だけがぼくの中にあった。ぼくが視線を外すと、カヤギは足をもつれさせながら逃げ去った。

 戻ろう。ぼくはオロの体を抱え上げる。せめて、儀式の場に埋めてやろう。ざくざくと土を掘り返す。戦うための爪をこんなふうに使うなんて思わなかった。血に染まるはずの爪は土に汚れていった。無残な姿になった彼の体をぼくは掘った穴の底に横たえた。しっかりした墓じゃない、浅く土を掘り返しただけの粗末な墓だ。彼の体に土をかけるごとに、少しずつ彼の体は隠れていく。でもぼくはオロの動きの、その一つ一つを覚えている。
 埋葬を終えたぼくは、少しの名残惜しさを感じつつ立ち上がる。ふらり、とした感覚。ぼくの体はゆっくりと倒れた。しまった、いよいよ毒が効いてきたのか。
ごめんねハシドイ、ぼくはもう帰れそうにないや。約束は守れなかったよ。ぼくは嘘つきなザングースだね。たとえどんなことがあっても、天と地がさかさまになっても帰るって言ったのに。ごめんね、大好きだったよ、ハシドイ。
 あー、今年の儀式の結果はどうなるんだろう。ぼくの勝ちなのか、彼の勝ちなのか。引き分けなんて、掟にあったかな。みんなはこの状況を見てどう思うんだろう。族長ならわかってくれるかな。なんだかねむくなってきた。ぼくはあおむけに寝ころがる。空が青い。とてもきれいだ。地べたの汚い世界とは、大空は無縁なんだろう。だからあんなに青いんだ。大地は紅に染まったというのに。だけどその青も、次第に霞んでゆく。もう日暮れが近いのかな。
流した涙が大地に染み込んでゆく。ぼくと彼の流した血の染み込んだ大地に。ぜんぶ溶けこんでゆく。なにもかもと一体化したかのように。
 ぼくは独り、土の下の彼に向けてつぶやく。
「きみのねがいどおりに、あのときころしておけばよかったのかなあ。こうかいしちゃうよ。きみのいったとおりになったね。きみはすごいよ。ほんとうに、すごかったよ。もういっかいだけでいい、きみとたたかいたかった、なあ――――オロ」
 君と出会ったこの場所で、ぼくはいつまでも泣いていた。
                                           了




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Last-modified: 2014-03-09 (日) 16:55:00
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