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可燃性の罪状

/可燃性の罪状

Writter:赤猫もよよ

目次


Prologue:生まれゆく者たちへ[#4zjQIC] 


 残そうと思う。すべてのことを。進みゆく君と、やがて来る君の為に。
 記憶、或いは僕に刻まれた罪のささくれ。瞳を瞑ると今でも鮮明に思い出せる、紅く燃える満月の夜のこと。
 やがてこれを読むであろう君は、きっと卵の殻を破った時から疑問に思っていただろう事柄について。
 きっと君は幾度も幾度も僕に質問をして、きっと僕は何も答えずに君を抱き締めるのだろう。
 君はふて腐れて一人床につき、胸の内に生まれた寂しさを紛らわすことが出来ずに枕を濡らすのだろう。
 どうしても弁明になってしまうのが困り所だ。けれど、僕は考えなしに君に何も教えなかったのではないことを知って欲しい。今、子供の殻を破り、自分の足で歩きだそうとする時期になった君にこそ、真実をかみ砕く権利があると思っている。全てを知った君は僕を許すかもしれないし、僕を許さないかもしれない。でもそれでいい。君が選んだ答えがどちらであろうと、僕は君を愛し続けるだろう。僕が選んだように、君も選ぶ時が来た。君に嫌われるのはとても寂しいのだけれども、まあ仕方がないことだ、気に病まないでほしい。
 話をしよう。僕らが出会った満月の夜のことを。出会い、迷い、集い、愛し合ったあの頃を。僕らが分かたれた赤い満月の夜のことを。すべての始まりから、やがて終わりに至るまで。






可燃性の罪状







 ――彼女を射ち殺したあの日のことを。

Chapter1:君は呪われびと[#4zjQIl] 



 突き立てた矢。一瞬の沈黙、そして音のない呪詛。
 噴き出す鮮血の軌道は火花に似ていて、目の前のことを現実と受け入れられない心が、とても綺麗だと感じていた。
 触れる胸先。温度が虚空に抜けていく。光を失い濁る瞳が、うつろに佇む僕の姿を映していた。目の前の死にゆく肉体よりも、幾分か死体らしい顔色をしている。僕の頬を撫でるあの子の手が、ぱたりと地に堕ちる。それが終わりだった。
 絶叫。無音。
 暗転。

…………
………
……


 夢は律するための楔で、僕を捕らえて逃がさないのだと、寝起きのたびに確信する。
 ぼんやりとした頭痛、嫌な汗にまみれた身体、喉の奥に広がる乾いた砂漠がその証明だった。目覚めとともに消えてしまうはかない夢が、ただ一つだけ僕の体に残し続ける爪痕。知覚するたびに、僕は頭部を鉄芯で貫かれるかのような頭痛に襲われる。まるで、おまえは許されてはならないのだ、と、耳元で誰かが嘯いているようだ。
 枕元に置いておいた水桶を引っ張り寄せ、蜘蛛糸を手繰る罪人のように一心不乱に水を食む。喉の奥の砂漠を無理やりに押し流し、ようやく一息。微睡の微酔に澱んでいた思考が、ようやく形を、理性を取り戻していく。痛みが薄まっていく。
 まとわりつく汗の粘り気が気持ち悪い。水に浸した布巾で体を拭う。冷たさが矢じりのように突き立てられ、身体に纏わりついた火照りの鱗が剥がれていく感覚が心地よい。ろくに手入れもしていないせいか、体の羽毛が不細工に毛羽立っていた。フクスローの頃はもう少し身嗜みに気を使っていたはずなのだが、一体いつからここまで自分のことに無頓着になってしまったのだろう。水桶に映る自分の顔は冬の枯れ枝のようにみすぼらしく痩せ細り、無意識のうちに脳裏に閃いた「死んでいないだけ」という感想は、我ながら素晴らしく的を得ていると思った。
「ヒツギさん……ヒツギさん! 大丈夫ですか、夢遊病みたいでしたよ」
 声を掛けられてはじめて、窓の外の人影――ルカリオの存在を知覚する。彼の手にはやや小さい林檎が握られ、緋色の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「あ、えっと?」
「エイケツ、です。流石に顔を合わせて三日目なので、そろそろ覚えてほしいのですが……」
「す、すいません……」
「まあ、それはさておき。軽くですが朝餉をお持ちしました。ジュナイパーの食性が分からないのでお口に合わなかったら申し訳ない」
 林檎を受け渡され、軽く会釈をしながら両手で受け取る。大きなルカリオの手に握られている時は小ぶりに見えたが、いざ手渡されると意外に大きいものだった。
「林檎は好物です。……窓越しでもなんですし、上がっていかれたらどうでしょう」
 では失礼します、と呟いて、エイケツは窓枠を乗り越えて部屋へと乗り込んできた。彼がささくれ立った板張りに降り立つと、古びた床板がぎしぎしと軋み、老魔女の呻き声のような音を立てる。
「窓から」
「……あ! 申し訳ない! 玄関に回るべきでしたね、失礼しました! もう一度玄関から出直します!」
「いや別にそんな……そんなわざわざ行かなくとも」
 慌てて窓から出ていこうとする彼を引き留める。彼はばつの悪そうに「すみません」とだけ言って肩を竦め、しゅんと縮こまった。融通の利かない性分、というべきか、真面目一辺倒と言うべきか。
 汗を吸った布巾を濯ぎ、窓枠に掛けて干しておく。見上げる青空は麗々と透き通り、どこか別の世界のもののように、ひどく遠くの存在に感じた。頬を張る空気が徐々に秋めいていくのを肌で感じる。少し前まで蒸し暑さに茹っていたはずのに、今はもうその感覚を思い出せない。棘の無くなった陽射しは暖かさと肌寒さを半々に含んで入り混じっていた。
「そういえばヒツギさん、お怪我の具合はいかがでしょう。まだどこか痛みますか」
 彼の声に振り返ると、緋色の両目と目が合った。顔が思ったより近くにあって、反射的に上半身を逸らす。
「も、もう身体の方は特に」
 今もなお僕の思考を苛む頭痛については、言わないでおくことにした。彼に余計な心配を掛ける訳にはいかないし、なんとなく、誰にも言えない秘密として深いところに沈めておくべき案件だと思ったからだ。
「……それはなにより。三日前に貴方を見つけた時、酷い怪我をされていましたから」
「その節はお世話になりました」
「いえいえ」
 言葉を受けて、数秒の間僕の顔をじっと見つめた後、彼は柔和に微笑んだ。枯れ野の中に一つ残された憐花のような、土壌の寂しさを吸い上げて暖かさを生み出しているような、そんな笑みだった。
「町長からお話があるそうです。すみませんが急ぎの用みたいなので、食べながら向かうように、と。ヒツギさんはまだ町長の家の場所が分からないでしょうし、家の前まで同行します」
「心強いです」
 ふたりで小屋を出ると、眼下には小さな街が広がっていた。空に浮かぶ雲をそのまま地に落としたような家壁の白が眩しい、石造りの建物ばかりで出来ている。さして多くはない数の、色とりどりの家の屋根がいくつも連なり、魚の鱗のようなものを想起させる。街は四方を高い山に囲まれており、まるで箱庭のようだった。
 僕の小屋は町はずれの小高い丘の上にあったらしい。三日前にこの小屋に運び込まれて以来、怪我と高熱で唸っていた身なので、外の景色を見るのはこれが初めてだった。丘を吹きあげる風が心地よい。
「不便なところですみません。本当はもっと街中の家を宛がいたかったのですが、空きがないみたいで」
「いえ、むしろ有難いです。静かなところの方が落ち着きます」
「そうですか。それなら良かった」
 では、と彼は言って、街へ続く下り道を歩き出した。追随しようと足を踏み出した矢先、一際強い頭痛が脳天を迸る。
「――っ」
 痛みに意識を奪われて、踏み出そうとした足がつんのめって倒れ込む。眼前に火花が散って、視界にぼんやりとした影が差した。また、耳元で誰かが地獄のような言葉を囁いている。
 倒れ込んだ音で気が付いたのか、少し先を歩いていたエイケツが振り返った。彼は一瞬なにかに合点がいったような表情を浮かべてからこちらに向かって駆け寄り、地に伏せる僕に手を差し出した。
「大丈夫ですか。やはり、どこか痛むのですね」
「すみません……」
 手を取り、起き上がった後、僕は彼に脳裏を這い回る頭痛について話した。話している内に頭痛の波は去り、囁きが遠くのものになっていくのを肌で感じる。痛みは不定期にやってくるが、どうも一過性のものらしかった。
「頭痛と声……そうですか。それは、うん。村長に聞いてみましょう。貴方の怪我を治したのも村長なので、きっと氏に聞けば分かると思います」
 彼はまるでそうなることが分かっているような、確信めいた口ぶりでそう言った。村長という人物は、よほど信頼の置ける存在らしい。酷い怪我をしていたらしい僕を三日ほどで完治の状態にまで漕ぎ着けたのだから、確かに医療の面では優れた人物なのだろう。
「頭痛が酷いのであれば、なおのこと急いだほうがよさそうですね。歩けますか? もし苦しいようでしたら背負いますが」
 彼の純度の高い好意を断るのは心苦しかったが、流石に大の男が背負われるのは体面的にも苦いものがある。僕がかぶりを振って丁重にお断りすると、彼は少し残念そうな顔をした。
「そうですか? 別に私に遠慮する必要はありませんよ、世話焼きな性分ですので。誰かの役に立てるなら、それを最上の喜びとします。無理強いするつもりはありませんが、あまり体調も宜しくないみたいですし……」
 思いの外食い下がられたので僕は一瞬たじろいだが、再度丁重にお断りを入れておくことにした。一瞬好意に甘えることも考えたが、年もそんなに変わらないだろう男に背負われたまま街路を往くことを想像すると、やはり恥ずかしさが勝るのが事実だった。
「もう頭痛も治まってきました。気遣いだけお受け取りしておきます」
 僕が笑顔でそう言うと、彼は申し訳なさそうに頬を掻いた。
「そうですか。……なんだか、無理強いしたみたいで申し訳ありません。私は困っている人を見かけたら親切にしなくてはいけないのです」
 彼はそれだけ言うと振り返って、街へ続く坂道をゆっくりと下り始めた。
 まるでそれが使命と言わんばかりの口ぶりになにか奇妙なものを覚えつつも、僕は彼の背を追って街の方へと歩き出した。

chapter2:そして救いの闇に溺れる[#4zjQICl] 



「して、ここが街の中央に位置する広場ですね。今日は特に何もないようですが、たまに催し物とかも開かれるようです」
「ですか」
 エイケツの説明を受けながら、街をゆらゆらと歩いていく。街は丘より見下ろした時の印象と変わらず、全体的にこじんまりとした枠組みの中にぴっちりと収まっていた。
 往来を歩く人々も多からず少なからず、街並みも質素で無彩色、僕が斜に構えてしまっているだけなのかもしれないが、どうにも冷めて味気ないという印象が強い。
 空は快晴のはずなのに、どこか視界に真っ白な霧が掛かったような、そんな不明瞭さが街全体に張り付いている。これから世話になるだろうところにこんな印象を抱くのはあまり褒められたことではないのだろうが、なんとなく、街に自分が拒まれているようなよそよそしさを感じて、余り居心地がいい場所ではないというのが雑感だった。
「私も越してきたばかりなのですが、良い街だなあと思います。のどかで、静かで、落ち着いていて。ヒツギさんもそう思いませんか?」
「はあ。まあ、そうですね」
 エイケツの言葉に適当に頷きながら進むこと十数分、立ち並ぶ石の建造物は次第に姿を消していき、代わりに生い茂る背丈の高い草や木が増えていく。長らく舗装されていない、擦り減った石畳もいつのまにか土の地面に取って変わられ、橋と言うにはやや説得力に欠ける朽木橋を渡る頃には、完全に街の面影はなくなっていた。
「えらく奥まった場所にあるんですね、町長さんの住まい」
「どうやら文明的なものがお好きではないようでして。エスパータイプの御仁ですから、超自然的な雰囲気に近い場所の方が肌に合うのかもしれないですね。ご存知ですか、ネイティオという種族」
「まあ、噂ぐらいなら。その瞳は未来や過去を見通す、とか」
「ええ、そうですね。真実かどうかは至って眉唾な話なのですけども、しかしあの俗世離れした雰囲気を見れば、そんな逸話が産まれるのも納得というものです」
「……」
 過去と未来を見通す。それがもし本当であったなら、さぞかし生き苦しい人生に違いない。自分の過去なんて、金を積まれたって見たいようなものではないというのに、生来の力としてそんなものが兼ね備えられていたならば、僕ならきっとおかしくなってしまうだろう。過去の過ちも、消し去りたい罪も、その全てを目の当たりにし続けなくてはいけないなんて、そんな残酷な話。
「過去が見えたとしても、それを変えることが出来ないというのは、中々苦しいものでしょうね」
 なにか実感を伴ったような声色で、エイケツはそう呟いた。彼は僕を先導するように少し先を歩いていてその表情は良く見えなかったが、格闘タイプらしくしゃんと伸びた、少しだけ僕より小さな背中に、夜暗に似た色の過去の幻影のようなものが這いまわっているように思えた。
 僕が何も言えずに押し黙っていると、彼は顔だけで振り向いて、困ったように微笑んだ。
「すいません、なんだか辛気臭い空気になってしまいましたね。本当はこういうお話するつもりは無かったのですが、なんと言いますか……なんでしょう、ヒツギさんになら話してもいいかなって、何故かそう思うのです」
「はあ」
 言われても、という感じではあったが、しかし、彼が感じている気持ちに通じるものが、僕の中にも存在しているかもしれなかった。共感性、というか、シンパシーというか、なんとなく、彼と自分はどこか似通っている気がしてならない。彼の背に過去の幻影が這いまわっているように見えるのも、つまるところ、僕自身もそうであるからに違いないのだろう。
「す、すいません、急にこんなこと言われても気持ち悪いですよね……。えっと……あっ、見えてきましたよ! あの階段を上った先が、町長の住まいになります」
 エイケツの指差す先には、腐りかけの木段が木々を掻き分けて伸びていた。幾重にも連なる様々な葉々の天蓋に阻まれて、急勾配の先の見通しはまるで付きそうにない。僕はこのようなままならない空間に耐性が付いていたから良かったものの、慣れない文明人が見たら登る前から気を遠くしてしまうに違いないだろう。
「文明嫌いここに極まれり……」
「いやあ……はは、仰りたいことは分かります。頑張りましょう、ヒツギさん」
 彼の励ましを受けながら、這う這うの体でどうにか急勾配の階梯を登りきる。病み上がりとはいえそこそこ体力がある方だと自負していたが、余りにも非人道的すぎる傾斜の前には、休憩の魅力に屈するほかなかった。同行するエイケツが汗一つかかず軽快に段差―-もはや段差ではなく取っ掛かりのある壁に近いもの――を上っていくのを見て、格闘タイプの強健さに思わず舌を巻いてしまった。
「ふう。ヒツギさん、大丈夫ですか」
「な、なんとか……。凄いですね、汗一つかいていない」
「はは、一応鍛えてますので」
 発汗の云々は鍛えてどうにかなる問題なのだろうか――などとと思いつつ、上がった息を整える。一際深い森の中の空気はつんと冷たく、生まれたてのように塵一つなく澄んでいた。余りにも純粋すぎて、どこかで鳴る葉擦れの音すら吸い込めてしまいそうに錯覚してしまう。
 目の前には、茅葺き屋根の小さな小屋……というには余りに心もとない、どちらかといえば小屋の死骸という表現の方が正しいであろう、朽ちて苔生した木製の建造物がひとつ立っていた。その裏にはまだ山の上部に伸びる階段が存在していて一瞬眩暈がしたが、エイケツが目の前の小屋の軒先に立つのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「村長、エイケツです。言伝通り彼をお連れしました」
 彼が小屋の奥に声を掛けて暫くすると、向こう側の闇の中からぬっとカゲボウズが顔を出した。
「ご苦労。エイケツ、おまえはもう行っていい、そこの鳥は入れ」
 カゲボウズはじろりとこちらを一瞥して、そのまま小屋の奥へと踵を返した。あまりの唐突さに、一瞬虚を突かれたような気持ちになる。
「あの、彼女は」
「彼女はキョウカ。町長の……ううむ、小間使い? のようなもの、ですかね。町長は外に出たがらないようなので、言伝とか呼び出しとか、そういった雑用を彼女に代行させて――」
「おいクソ犬! くっちゃべってないでさっさと帰れ! 陰気鳥はさっさと入れ!」
 小屋の奥からキョウカの怒号が飛んできて、エイケツは閉口した。この口汚さできちんと雑用がこなせているのか、少し心配になる。
「はは、怒られてしまった。ご同行できるのはここまでですね。私は居住区で働いていますので、また何かお困りごとがあれば。……これ、私の職場と住所です」
 彼は苦々しく微笑んで、僕に意外と豪気な字が連なった小さな紙切れを握らせた。
「どうも。お世話になりました」
「いえいえ。それに多分ですけど、またすぐお会いすると思いますよ」
「……?」
「おっと失礼。ではまた。キョウカは怒りっぽいですから、殴られない前に早めに行った方がよいかと」
 軽く握手を交わした後、彼はあの唾棄すべき階梯を飄々と下っていった。去り際の確信めいた言葉が少し気にはなったが、背中に突き刺さる極寒極まりない視線と、人権に真っ向から喧嘩を売るタイプの罵声に引き摺られるようにして、小屋の中へと進んでいく。
「遅いぞ! 長を待たせるなと言ったのにもう忘れたかこの鳥頭! フード頭!」
 小屋に足を踏み入れた瞬間、浅めの罵倒と共に後頭部に噛み付かれる。
「ぎゃっ痛い痛い痛いごめんなさい」
「フン! ……しかし、オマエ、まだ痛みは感じるのだな」
「はい?」
「……いや、なんでも。町長は偉大なお方だ。決して粗相の無いようにしろ、鳥。死臭を隠せ。もっとフードを深く被れ。お前の辛気臭い面など誰も見たくないわ」
 地下に続く、先の見えない階段を下りながら、前を浮遊するカゲボウズ――キョウカのいわれのない罵倒を受けている。理不尽極まりない状況の手本として教科書に掲載されてもおかしくない。なにか言い返してやろうと思ったが、浅すぎるし的外れな罵倒はむしろ気が抜ける。死ぬほど億劫だった。
 キョウカの謗りを背景音楽に階段を下りながら、ふとあることに気が付く。階段の下、滔々と煮詰められた闇の奥で、何か透き通る音が鳴っていた。ちりん、と不規則に鳴るそれは、小さな鈴の音だった。
「鈴……の、音」
「オイ、足を止め……ん? オマエ、今鈴の音が聞こえるのか?」
「……? はい、確かに」
 耳を澄ませる。その音を聴いていると、不思議とずっと鳴りやまなかった筈の頭痛が、まるでそんなものは最初から存在しなかったかのようにどこか別のところに溶けて消えていく。鉛の絡みついていたように重い身体は少しだけ軽くなり、気だるさが地面に溶けていく。
 キョウカは僕の全身を少し眺め、口端をほんの僅かに歪めた。面白いものを見つけた、とでも言いたそうな顔だった。
「あの、僕に何か」
「――いいや。童貞臭がする顔だなと思っただけだ」
「ほっといて下さいよ……」
 足取り軽く、気分は重く階段を下っていると、やがて開けた地下の空間に着いた。
 空間は円形になっていて、円周にはいくつもの火が焚かれている。地下の闇と飴色の焔が入り混じって視界はやや薄暗く、奇妙な浮遊感のようなものがあった。地面には何かの紋様らしき線がいくつも刻まれ、吸う空気はどこか現世離れした冷たさに包まれている。 その空間の丁度中央に設けられた祭壇の前に、ひとりのネイティオがじっと佇んでいた。
「御機嫌よう。貴方がヒツギ様ですね」
 神秘的、と称するのが一番齟齬がないだろう。脳に直接流れ込んでくる、柔和で、慈愛の感情に満ちた女声。老成された緩やかな仕草で深くお辞儀をすると、ネイティオはしずしずと歩み寄り、そっと僕の両手を取った。
「そう。見えますわ、あなたの過去が。大変だったのね、本当に」
 ネイティオの、夜更けの海のように暗く深い紺の双瞳が、僕の身体を鏡のように映している。口ぶり通り、彼女の瞳には僕の過去が映っているのだろうか。薄汚く血に塗れた、直ぐにでも捨ててしまいたい、地獄の具現のような僕を形作るものが、彼女にはすべて、赤裸々に。
 僕が僕から目を背けようとすると、彼女の腕羽が頬を包んだ。
「いいえ、目を背けてはなりません。貴方の罪状から、紅く燃える咎の焔から。罪の篝火は、永遠と灯され続けなくてはならないが故に」
「あ、あの、貴方は」
「失礼しました。わたくしはシエ、この街――アシュポンドの長を務めております。貴方のように、迷える罪びとを導くことを生業としております」
 ぴたり、と鈴の音が止まる。ずっと留められていた頭の痛みが、堰が切れたように膨らみ出す。
「迷える罪びと……それって、僕、ですか……?」
 彼女は静かに頷く。その途端、まだ言葉になっていない呪詛のようなものが、耳の周りを飛び始める。僕は何かを忘れていて、それは取り戻されなくてはならない記憶であると、直感がそう告げていた。
「思い出せますか、ヒツギ様?」
「僕は……あの、えっと……すいません。よく、その……なんでだろう、何かあったのは、分かるんですけど……」
 遠くなる視界の中に、なにか赤い火花のようなものが焼き付いている。それは少しだけ生温く、僕の頬を濡らしていた筈だ。
 それはなんだったか。頭が痛い。雨ではない。でも、雨に近いものではあった。
 それは地表から天へ向かって何本もの軌跡を描き、雨のように地面を染めていく。
 頬が冷たい。僕は泣いていた?
 泣いていた。僕も。僕だけでなく、あの子も。
 あの子? あの子とは誰だ?
 濡れた頬に、それより冷たい指先が触れる。
 誰の指だろう。……いや、そんなことは分かっている。
 
 ――これは、僕が殺したあの子の指だ。
 
「……ッ! あ、ぐ、ええっ……」
 胃の腑が逆流する。せり上がってくる熱いものを堪えきれずに、僕はその場に蹲って吐き出した。まだ消化しきっていない、林檎であっただろうものが、胃液に混じって流れ出てくる。
 急に体温が奪われて、体が震えはじめる。身体中がきつく絞り上げられているようだった。喉がつっかえるような感覚を覚えて、二三度むせる。ひゅうひゅうと弱々しく喉が鳴る。
「町長さま。これ以上は」
「……ええ、今はこれぐらいに。ヒツギ様、どうかお気を確かに。一度に思い出して苦しいでしょうが、大丈夫、全てはもう過去のこと」
 苦しさで煮詰められた意識の中に、シエの柔らかな声が滑り込んでくる。僕は顔を上げた。シエの瞳に、痩せこけた罪人の顔が映っている。
「過去の……こと……」
「ええ。もう終わった事なのです。故に償うことは出来ず、罪状に関して貴方が救われることもない。しかし、楽になることはできる。この街は、その為にあるのです」
「オマエはこれから、この街の住人として生きることになる。我々が言い渡す仕事に真摯に向き合え。そうすれば、オマエは――」
「ええ。楽になれるのです。これは、罪びとである貴方への、最後の救済なのです」
「救済……僕、に……。仕事……?」
 分からない事ばかりがあった。しかし、どうしようもない頭痛の中で、シエの言葉はとても眩しく、輝いて見えた。
 震える膝で、ゆっくりと身体を起こす。頭が痛くてたまらない。救われるのであれば、なんでもしようと思った。
「分かりました。……分かりました、聞かせて下さい。僕は、何をすればよいのですか」
 シエは微笑む。善なるものだった。
「ヒツギ様。貴方には、とある踊り子を護って頂きたいのです。あの子はこの街にとってかけがえのない存在ですが、それ故に敵も多く、わたくしたちは大変困っている」
「踊り子、ですか……?」
「ええ。命じます。貴方はこれから半年間、踊り子を護り抜かねばなりません。どのような手を使ってでも――」
 一泊置いて、彼女は変わらぬ微笑のままそう言った。
「――例え、そう、誰かの命を奪ってでも」

chapter3:月だけが二人の出会いを知っている[#4jQICl] 


「命……命、を……?」
 疼痛と雑音で溢れかえった頭の中に、しかしシエのその言葉はよく響いた。暗闇の中に奔る一条の彗星のように、静謐さと輝きを同じほど抱いていた。思わず反射的に聞き返してしまったが、その言葉が幻影でなかったことは、何より僕が一番分かっている。
 シエは白い片羽で、困惑に凍る僕の頬をそっと撫ぜた。
「勿論、推奨する訳ではありません。そうならないことをわたくし達は願っています」
 彼女は目を伏せる。所作はどこまでも洗練されていて、吐息が掛かるほど近くに居る筈なのに、まるで遥か遠くの存在であるように感じた。僕の手で触れれば、もうそれだけで腐り落ちてしまいそうだ。
「ですが、救いの過程には痛みはつきもの。膿は切らねば取り出すことはできない。これは――試練なのです」
「試練……」
 試練。乗り越える為に課されるもの。頭の中で、ふたつの文字が意味を持ち始める。
 きっと名前を知っていた、今は思い出せないあの子への罪を償うために、僕は誰かの命を奪うことを良しとするのか。そんなのは、酷く矛盾した行為なのではないか。
「ぼ、僕は……」
 逡巡に揺らぐ――ことは出来なかった。
 息を吸った瞬間、また、脳の奥がかっと熱くなる。あの子の綺麗な瞳が、つめたい指先が、僕を息の出来ない水底へと引きずり込もうと誘ってくる。罪の寒気が背筋を這い上ってくる。それはとても嫌なもので、一刻も早く振り払ってしまいたいと思った。
「シエ……さん。何度も聞いてごめんなさい。僕は――それで本当に許されますか。今も胸の内に巣食う、途轍もない苦しさは、ちゃんと消え去ってくれますか」
 彼女は何も言わなかった。只静かに、一度だけ頷く。どこまでもやさしい肯定だった。
「分かりました。お受けします。例え、誰かの命を奪ってでも、僕は――」
 ――僕は、赦されたかった。


 山頂へ向かう、木々に囲まれた階段を上る。
 思うに、今日だけで一月分の階段を上り下りしたのではないだろうか。流石にそろそろ息が上がり膝が笑ってくる頃なのだが、今回の同行者はそんな疲労困憊の僕を見かねて休憩を提案してくれるほど優しくはなかった。さっさとしろ、と言わんばかりの鋭利な視線の鞭が僕の尻を叩く。やんぬるかな。
「おい、さっさとしろ。さっきから遅いぞ」
 険しい眼つきのカゲボウズが、ぜえぜえと息を切らす僕の前を悠々と浮いていた。当然汗一つかいていない。羨ましい限りだ。
「キョウカ……その、せめてもう少しスピードを……」
「ああん?」
「ううすいません……なんでもないです……」
 針の筵を直接手に持って殴ってくるような同行者の存在に、エイケツの優しさが今になって思い起こされる。別れて間もないのに、彼の優しい声音がとても懐かしくなった。時間が出来たら彼に会いに行ってみるのもいいかもしれないな、などとぼんやり考えていると、急に後頭部に鋭い痛みが走った。
「いたい! かまないで! やめてください!」
「まだ叫ぶ元気はあるな。ほら、急ぐぞ。踊り子さまがお待ちかねだ」
「くっ……邪知! 暴虐! ゴーストタイプ! あっちょっ……待っ、待ってください! ちょっとぉ!」
 一瞬口端に邪悪な笑みを浮かべたかと思えば、次の瞬間には彼女の影は物凄い速度で駆けだしていた。
「遅れた秒数だけお前の尻の羽根を抜く! 急げよ!」
 一瞬振り返ってそう叫び残すと、キョウカは階梯の彼方へと消えていった。思うに、世界で一番邪悪な捨て台詞ではないだろうか。「せ、せめて遅れた秒数じゃなくて分数に! ああ……」
 邪気に満ちた小さな背を見送り、はあ、と本日何度目か分からない溜息を吐く。途方に暮れたくもなるが、そんな事をしていては尻の羽根どころか全身を隈なく脱羽されかねない。あれは冗談とかではなく、本気の声色だった。
「頑張るか……。頑張って、僕の膝……」
 じっとりと汗ばみ錆びついた全身をどうにか奮い立たせる。先程から大爆笑を続ける膝に鞭を振るい、立たせる。明日は筋肉痛になるだろうなあ、などと他人事じみたテンションで考えながら、腹が立つほど爽やかに広がる青い空を仰ぐ。
「青いなあ……空、青い……あれ?」
 ――どうして、空って青いのだろう。

「遅すぎる! 貴様は阿呆かこの馬鹿! 約束通り下半身の毛を全部抜いてやるからな、覚えておけよ!」
 山頂付近までえっちらおっちらやってきた僕を待ち受けていたのは、案の定の山頂からの罵声だった。出会い頭から今まで絶え間なく罵倒に晒され続けてきたためか、次第に耐性が付いてきて最早そこまで気にならなくなってしまった。誇らし……くはない。間違いなく、とても悲しいことだろう。
「馬鹿でも阿呆でもいいんですけどせめてどっちかに絞ってください。あとそんな約束してないし」
「何? ではどんな約束だったのだ」
「え? 尻の羽根を全部抜くって話だったじゃないですか」
「ほう。じゃあそれでいこう」
「ひーッ! し、しまったッ!」
 キョウカは悪戯っぽく笑い、僕は尻を抑えて後ずさり、階段を踏み外して盛大にスっ転んだ。まだ進化も迎えていない小さなカゲボウズの癖に、どこまで人を喰った態度。腹立たしいが、それ以上に振り回されっぱなしの自分が腹立たしく情けない。元来振り回されやすい性格だとは自覚していたが……あれ、いつもは誰に振り回されていたんだったか。まあいいや。
「冗談だ。抜かないからさっさと来い」
「ふぁい……」
 周囲を見回す。鬱蒼と木々の茂る山だったのに、山頂付近に差し掛かると途端に視界を遮るような木々は無くなり、足首ほどの芝生と足元の石組の階段で構成された開放的な空間になっていた。余りにも突拍子の無い景色の切り替わり方から察するに、かつて誰かが山頂付近の木を全て切り倒して退けたのだろう。人為的な開放空間といえる。
 無慈悲に立ちはだかる石の階段をどうにか登り切り、頂上へ足を踏み入れる。階段と同じ石造りの正方舞台。視界を遮るものが何も無い為か、遠くに見える紺碧の海まで鮮明に拝むことが出来た。
 僕に背を向け、水平線の向こうをじりと見つめるキョウカ以外の姿はない。踊り子とやらが山頂で待っていると聞いて来たのに、それらしい人影は見当たらなかった。
「キョウカ……さん。あの、踊り子って何処に」
「なあヒツギ。おまえは、海は青いと思うか? 空は青いと思うか?」
 キョウカは海を見据えながら言った。思わず背筋を伸ばしてしまいそうな、はっきりとした声音だった。
「な、なにを急に……。海も空も、青くて当然のもので――」
 そこまで言葉を紡いで、針の先でつつかれるような、微細だが確かな違和感が僕の頭をよぎる。空も海も青いものと認識している筈なのに、理解の方が何故か追いついていなかった。
「もので、当然、で……あれ……?」
 不可視だった疑問を明文化されると、途端に喉の奥のつっかかりが膨らんでいく。空は青い。それは当然のはずだ。
 でも、では、どうして空は青いのか――などという疑問が浮かんできたのだろう。
 まるで、僕は、青くなかった空を知っているかのような。青くなかった空が当然であったかのような、そんな――
「悪い。変なことを聞いてしまったな」
「別に、罵倒されるよりはマシですし。それより踊り子って」
「ヒツギ」
 またも言葉を遮られる。流石に不服を申し立てようとすると、不意にキョウカが振り向いた。
 不思議に済んだ双眸が、僕をじっと見つめている。その瞳にいつもの悪辣さはなく、ただ深い水の底のような静けさを湛えた妖光だけが滔々とゆらめいていた。
「正しいことが必ずしも正しいとは限らない。お前のするべきことが、お前のすべき事とは限らない。忘れるな」
 それだけ言うと、キョウカは僕から視線を外した。緩やかな速度で僕とすれ違い、僕がいま登ってきたばかりの下り階段の方へと向かっていく。
「キョウカ?」
「いつか分かる、嫌でもな。……踊り子はじきやってくる、私はもう行くが、お前はここで待っていろ」
 それだけを言い残して、キョウカは階段を下りていった。風の音しか聞こえない静かな正方舞台の上に、僕一人だけが残される。
「……待つか」
 舞台の端に腰を掛け、ぼんやりと海を見やる。一面に張られた蒼に、細白い爪痕が刻まれ、押し流され、やがて消えていく。やはり海は青く、それを映す空も青い。何事もなく当然である筈なのに、僕は何故奇妙な違和感を覚えたのだろうか。
 それだけではない。分からないことはいくつもあった。
 エイケツと名乗った彼は、何故僕の名前を知っていたのだろう。いや、彼だけではない。僕はこの街の誰にも名前を教えた覚えはないし、名前が分かるものを身に着けていた訳でもないのに、皆が皆僕のことを当たり前のようにヒツギと呼ぶ。いったい何故だろう?
 シエの口から聞いたアシュポンドというのは、やはりこの街の名前なのだろう。でも、僕は生まれてからこの方、一度もそんな街の名前を聞いたことはない。勿論、記憶があやふやだから覚えていないだけかもしれないが……分からない。
 極めつけはやはり脳裏にチラついたあの光景だ。霞がかっているが、間違いないと断定出来るもの。この矢羽で誰か……とても大切な、かけがえのないあの子を、刺し殺したときの記憶。
 顔も思い出せないあの子のことを想うたびに、胸の内が締め付けられるように苦しくなる。喪失感と、無力感と、深い深い絶望が、いまでも胃の淵からせり上がってきそうになるぐらいに。
「だったら――」
 ――だったら、僕はどうして、あの子を殺したりなんかしたのだろう。

「……はあ」
 分からない事ばかりで、脳がじっとりと嫌な熱を帯び始める。後ろに倒れ込んで、舞台の上に寝っころがった。見上げる青空がとても近い。
 とにかく疲れていた。馬鹿みたいに階段を上らされたことで身体が、分からない事がいくつもいくつもせり上がってくることで精神が、液鉛を吸い切った羽毛のようにどっしりと重くなっていく。
 瞼が重い。猛烈な眠気が僕の全身を麻痺させていくようだ。横になって手足を丸め、フードを深く被り直す。起きた時全てが解決していればいいのに――なんて無謀なことをぼんやりと考えながら、僕の身体は深い眠りに落ちていった。

 軽く仮眠を取るだけのつもりだったのに、気が付いた時には夜だった。馬鹿じゃないのか。
 寝ぼけ眼で見上げた、星の砂を散らしたような透明な夜空には一点の雲もなく、黒々と晴れ渡っている。まるで溶いた月光を真円の鋳型に流し込んだかのように綺麗な白銀の満月が、寝起きに滲む僕の顔を覗きこんでいた。
 どうしてここに居るのだろう、と一瞬の疑問の後、慌てて飛び起きる。しまった、踊り子とやらの来訪を待つ間のしばしの休息のつもりだったのに、当然のように夜まで寝てしまう奴がどこにいるというんだ。
 まるで目を覚まさない僕に痺れを切らせ、もうとっくに帰ってしまっただろうか。それとも最初から、踊り子など来なかったのだろうか。なんにせよ、キョウカに物凄い剣幕で基本的人権を踏みにじるような内容の罵倒をされることはほぼ避けられないと言っていいだろう。最悪だ、ああもうおしまいだ。
 止めておけばいいのにどのような罵倒が飛んでくるか脳内でシミュレートし、じんわりと熱を持ち始めた視界の隅に何か動くものがチラついた。なんだろう、と思いつつそちらを振り向いて、僕は思わず息を呑んだ。
 
 いうなれば、それは暗闇の中で青白い鬼火が揺らめくようなものだった。
 音もなく色も薄く、そしてどこか覚束ない。強い風が吹けば掻き消えてしまいそうな危うさを孕み、しかしどこまでも繊細で、思わず心奪われるような幽玄の美。まさしくそれとしか例えようのない――脆く美しい硝子の舞踊。
 満月の光飛沫を浴びて、踊り鳥の紫紺の扇羽が艶やかにきらめいている。
 足運びは凪いだ海のように密やかに、振り腕は草原を撫でる淡風のように嫋やかに。宵闇のしじまに溶け込んでいくよう悠々と。
 ひらりと廻り、はらりと踊り、ゆらりと舞う――その仕草。まるで世界が己であるかのように、ただ静謐に、独り。
 
 魂を抜かれたような気持ちになる。胸の奥がざわつき、息を吸うことさえ覚束ない。どこまでも幽美で、触れれば掻き消えてしまいそうに儚いもの。湧き上がってくる畏れを噛み殺しながら、声をかける。
「き、君は……?」
 ぴたり、と踊りが止まる。優美に水を差したことで、途方もない罪悪感が圧し掛かってくる。
 紫翼の踊り子――オドリドリの少女は、僕に視線を合わせ幽かに微笑んだ。降り注ぐ月光の音が煩いぐらいに、その所作は静寂に愛されている。
「あ、え、ええっと……ぼ、僕はヒツギ、っていいます。えっと、その……」
「踊り子のリンネと申します。貴方が目覚めるのをお待ちしておりました、ヒツギ様」
 聞き惚れるような発音で名乗り、彼女はしずしずと頭を垂れた。慌てて頭を下げ返す僕のなんと情けないことか。
「ど、どうも……。あのう、シエさんから、リンネさんを守るようにって言われたんですけど……」
「ええ、存じています。ここではなんですから、そろそろ行きましょうか」
「へ? い、行くってどこへ……?」
 頓狂極まりない僕の声に、リンネはつややかな黒の瞳を不思議そうに瞬かせた。
「勿論、ヒツギ様のお家に決まっているではありませんか。それと、これから共に暮らす身です。さん付けはいりません」
「は、はあ、共に……と、共に!?」
 思わず叫んでしまった僕を見て、リンネは愉快そうに綻んだ。思わず頬が熱くなるような、胸が痺れるような可憐さだった。
「みゃ、護るとは聞いてましたけどっ! リンネさ……リンネ、を! で、でも共に暮らすとかそういう事は聞いてなくて……。というか、一つ屋根の下になっちゃいますけど、だ、大丈夫なんですか……?」
「はて、ヒツギ様はなにを危惧してらっしゃるのでしょう……。一つ屋根どころか、私達はやがて仔を為す間柄であるというのに」
「……子を。う、うん? え、お、子、子ですかっ!? ぼ、ぼぼ、僕とっ!?」
 さも当然のように口走った言葉に、僕はさも当然のように驚いた。子を為すということは、つまりそう、ええっと、子を為すということで、あまりに急すぎるというか。というかそういうことやった事ないし、それはその、困る。すごく!
「“踊り子”とは一人限りの存在ではありません。いわばこの街の根底に位置する概念のようなもの、そして次代へと継がれるべきもの。即ち、護るというのは次代まで踊り子を繋ぐという意味合いを持ちます」
「じ、次代……」
「はい、私達の子どもです」
 彼女はさらりと言ってのけるが、これはどう考えてもとんでもないことだ。だってつまり、子を為すということは、僕と彼女――リンネが、つまりその……そういう行為をするということで。なんというか、とても大変なことになってしまっているのではないだろうか。どうしよう……せ、責任とか持てないし……。
「これから宜しくお願いしますね、ヒツギ様」
 僕の心中を差し置いて、彼女はどこまでも幽玄に、脆弱に、そして可憐に声を紡ぐ。男として、彼女に心奪われないものはいないだろう――と、女性面に関して鈍い僕ですら確信を感じるほどに、彼女はどこまでも美しい。
 冷や汗を垂らしながら空を仰ぐ。遠く澄む青い月。
 そう、月だけが僕らの出会いを知っている。
 僕らの全てを知っている。

chapter4:罪状、曇天に煙る[#4zQICl] 

 踊り子。この灰受けの街に古くより伝わる存在。
 十年に一度、紅い満月が街を照らす夜に行われる『月祭り』において神々に舞を捧げ、この地に眠る数多の魂を慰める役割を担う存在、らしい。
 月祭りとはいわゆる土着祭と呼ばれるシロモノであり、この地の風習として古来より絶えず続けられてきたとの事だった。
 これだけなら比較的ありがちというか、様々に名を変えて各地で散見されがちな風習なのだが、この月祭りの特異性は継続のさせ方にあった。
 即ち、踊り子の血筋には異邦よりの旅人の血を混ぜなくてはならない、ということだ。灰受けの街に生まれたポケモンは踊り子の血筋と関わりを持つことを許されず、異邦の者――例えるまでもなく僕のような――が踊り子と繋がり、次代の踊り子の種を作らねばならない。
 何故、という質問はナンセンスだ。そういうもの、なのである。らしい。
 つまり、シエより僕に課せられた使命である「踊り子を護る」ことは、山で出会ったオドリドリの踊り子――リンネを護ることだけでなく、「踊り子」という概念めいたモノを維持させることでもあるのだった。
 てっきりこう、ボディーガード的な仕事だと思っていたから驚きも一入というか、すごく、すごく困っている。
 勿論、嬉しいか嬉しくないかと聞かれれば物凄く嬉しいと答えるだろう。僕は面を喰う性質ではないが、少女リンネの出で立ちは妖艶と愛嬌を絶妙な配分で入り混ぜた大変に美しいもので、街を歩けばその可憐さに振り向かない男はいないと断言できる。
 要するに、ものすごくかわいい。黒曜の瞳と目が合うだけで、酸い花のような香りのする翼と触れ合うだけで、全身がかっかと火照り始める。僕が童……ではなく、女性に対してあまり耐性を持たないジュナイパーであることも相まって、なんかもう、どうしよう! ……みたいな。とにかく凄く、困ってしまうのである。
 そして、ここまでくどい言い回しを続けたのにも理由がある。僕がリンネというオドリドリの少女のことを大変に持て余しているのはお察しの通りだが、その子は今、僕の隣で丸まって安らかな寝息を立てている。
 想像して欲しい。彼女の、幽玄をそのまま体現するかのような紫紺の羽衣が呼気の度に膨らんでは萎んでを繰り返し、一切の警戒がない無垢な寝姿を晒しているところを。初対面の男女が同じ屋根の下で閨を共にしているというのに、彼女の寝姿は余りに無防備すぎる。勿論僕は紳士なので、状況より連想されがちな行為に走る事はない。断じてない。ないってば。
 なのだが、僕も男である。見目麗しい異性がすぐそこで寝こけているという状況には、やはりいやでも意識せざるを得ないというのが事実だった。
「……だめだ、眠れない」
 小さな嘆きを、窓越しに降る柔らかい月光の中に溶かす。
 どくどくと波打つ心音は未だ自重を覚えず、山頂で寝こけていたのもあってか目と思考はらんらんと冴えわたっている。
 だめだ、埒が明かない。このまま眠れないと嘆き続けても無駄に疲れるだけだった。火照り切った全身を少しでも冷ましたい。
 隣で眠るリンネを起こさないよう、音を立てずに寝室から抜け出す。古い家だからか、体重を掛けた床板がぎしりと呻いて心臓が飛びあがりそうにもなったりしたが、取り敢えず窮地は切り抜けた。
 ジュナイパーは夜目が効く種族なので、明かりを灯さなくてもいいというのは有難い。間取りと足取りが覚束ないために二三度壁に顔面を叩きつけたりもしたが、いわゆる誤差の範囲内というやつだ。ポジティブに行こう。
 台所まで着いてから、水瓶の中身が空であったことを思い出した。まさか家に直接踊り子が転がり込んでくるとは思わなかったから、一人分の貯蔵しかされていなかったのだ。
 仕方なく、水瓶を担いで外に出る。
 満天の星空は未だ変わらず、空の上から輝くような笑みを振りまいていた。頬にしっとりと水気を含んだ夜風が撫ぜり、火照った身体と理性がゆっくりと覚まされていく。
 近くの沢の水は澄んでいて、せせらぎが耳に柔らかい。一切の欠け目のない蜜色の満月が水に浸され、ぼんやりと滲んだ光を放っていた。
 慣れないながらもどうにか水を汲み終えて、存外に重くなってしまった水瓶を抱えひいこらと帰路に着く。沢の音色が鎮静を誘ったのか、それとも不意の肉体労働にようやく体も疲労を認めたのか、待望していた睡気がじっとりと脳裏に巣を作りだす。
 三度の欠伸を経てようやく家の影が見え始めたところで、僕ははたと足を止めた。黒い闇が一色に蔓延っている筈の夜に、二対の緑色の火が揺らいでいたのだ。
 それだけでない。緩やかに吹き抜ける風に乗って、なにか囁くような声が聞こえてくる。周囲を警戒するような、誰にも聞かれたくないと言わんばかりの小さな声音。話し声は二人、家方面から見て僕の方角が風下だったのが彼らの不幸だった。
(……嫌な予感がする)
 踊り子には敵が多い。何故かは教えてくれなかったが、とにかく公言できないぐらいには厄介めいた事情があるらしかった。命を狙われてもおかしくないほどの、深い深い事情が。
 水瓶をそっとその場に置いて、気配を殺す。家の周りには草薮が多く、夜という環境も相まって僕にはとても動きやすい状況だ。家の前の二人組が踊り子に危害を及ぼす気なら、僕は役目を果たす必要がある。とりあえず片割れを殺して、もう片方に話を聞き……うん?
(いや、殺しちゃダメだろ……!)
 そりゃあ勿論、命を奪う覚悟はある。シエさんにもそう言った。けども、それはあくまで最終手段であって、いかにも最適解めいた結論の下し方は倫理的によろしくない、はず。無意識下の非情さが、なんだかとても嫌だった。
 どうして僕は非情な判断を最初に持ってきたのか。それを考え始めると、未だ戻らない記憶を司る脳の部分が灼火で炙られたようにじりじりと痛みを増していく。いまは、きっと考えるべきではない。
 深く息を吸って、吐いて。二人組を観察できる高さの木に駆け登る。こちらには気付いていないようで、何か、液体のようなものを家の周りに撒き始めているところだった。
 二人組の片割れはガラガラで、遠くから見えた一対の緑炎は手にした棍棒の先端に灯っているものだった。炎に照らされた顔は強張っているが、周辺の警戒を怠っていない。曲者だ。
 もう片方はヤトウモリだった。囁く声の低さから、恐らくは雄。毒性を持った息吹きが厄介なので、落とすならこちらからだ。
 そして、二人が注いでいる液体は油だろう。火を着けて僕らを焼き殺すつもりで居たらしいが、残念なことに死ぬのはお前達の方……じゃない。殺さないんだってば!
 気を取り直して矢羽を抜き、矢を二本同時に番える。失敗は許されない。息を止め、意識を凝らす。
 狭窄された視界に映るのは、矢の行きつく先ばかり。
(――今)
 視界に確信の光が走り、反射的に引き絞った弦を解き放つ。
 放たれた矢は雷のように、鋭利な響音を立てて空気を裂き散らす。月光に照らされた矢影が、矢よりも早く二人の影を縫いとめた。 放つのが二矢ならば、射とめるはその二倍。呪いを込めた矢影は意思を持ち、実矢より疾く影を射殺す。
 即ち――影縫いの極意。
(命中……!)
 意図せぬ夜襲に悲鳴が上がり、命中の確信を得た僕は咄嗟に駆けだした。
「火を降ろしてください!」
 僕は叫ぶ。間一髪、着火前に間に合ったらしい。面喰ったような様子のガラガラとヤトウモリに矢を向けつつ、僕はもう一度静かに言い渡す。
「その、手の火を降ろしてください。次はお二人の脚ではなく、喉笛を突き破ります……!」
 はったりのつもりだったが、はったりにならないだろうことは容易に想像できた。とても悲しいことだけど、僕はたぶん、この人達を殺めることが出来てしまう。
 二人はしばし顔を見合わせていたが、頬をかすめるように矢を放ってやると流石に慄いたらしく、骨松明を投げ捨てた。とりあえず当面の危機は去ったが、さて、どうすればいいのだろう。
「ま、待ってくれ! 殺さないで!」
 処遇を決めあぐねている僕の姿が、どういう訳か恐怖の象徴に映ったらしい。素っ頓狂な叫び声を上げて、ヤトウモリは命乞いを始めた。
「仕方なかった! ボスには逆らえないし、俺たちだって死にたくなかった! 大体お前どうして踊り子を庇う、あいつは何人もの――」
 とっ、と軽い音がして、ヤトウモリの脇腹に矢が生える。
「いぎっ! あ、いでえ……いでえよお……」
「あの、本当にすいません。眠っている人がいるのでお静かにお願いします……ね?」
 狂った人形のように、ヤトウモリはぶんぶんと頭を縦に振る。瞳には怯え以外のなにもない。少し脅しすぎたかもしれない。
「それで……ええと、火を放つように仕向けたのは貴方がたのボスとのことですが、どなたでしょう」
「ひ、ひひ……あひぃっ……」
 ヤトウモリはもう茫然自失といった様子で、口から洩れる音は言葉になっていない。
 僕は沈黙を保っていたガラガラに視線を向ける。こちらもこちらで緊張に強張っているが、直接的危害が少ない為にまだ平静を保てているようだった。
「……二ヴルヘム。俺たちの組織の名前だ」
「組織?」
 二ヴルヘム。少なくとも記憶にはない名前だった。
「踊り子を殺すための組織。ボスはエンニュートのニドヘグ」
「どうして踊り子を殺すんだ」
「言えない」
 ガラガラの脇腹に矢を突きたてる。走る激痛に顔を顰めながらも、ガラガラの瞳は理性に準じている。
「警告はしたと記憶しています」
「好きにしろ。屍はものを言わない、結果は同じだと思うが?」
 どれだけ痛めつけようが、口を割るつもりは無いらしい。たぶんこれ以上は無駄になるだろうことは、十分に理解できる。
「……分かりました。今すぐに消えて頂けるなら、これ以上危害を加えるつもりはありません」
「なら、構えた弓を降ろしてくれ。背中から撃たれては叶わん」
「勿論です。でも、降ろした瞬間に襲い掛かるとか、そういう変な気を起こさないで下さいね。先程影に仕込んでおいた影矢が、貴方達の心臓を射抜くのに数秒と掛からない」
 はったりだった。影縫いにそんな恐ろしい効果はなく、精々逃げ足を断つぐらいの性能しかない。
 ガラガラは少し考えるような素振りを見せた後、静かに頷く。僕の言葉を真と捉えたか否かは、分からない。
 彼らの動向を警戒しながら、僕はそっと弓を降ろす。はったりが効いたのか、はたまたガラガラには最初から襲い掛かる意はなかったのか、口を開けたまま呆けているヤトウモリを担いで去ろうとする。
「次、同じことをしたら無警告で貴方たちを殺します。……その、馬鹿な真似は止めて下さい」
「……肝に銘じておこう」
 踵を返し、矢傷を庇いながら去っていく二人の背中を見て、殺すなら今が機だと直感的に理解する。
 音もなく矢を番う。射るべきか、否か。今射っておけば、少なくとも彼ら二人に焼かれることはなくなるだろう。
 だが、彼らは組織の一部だった。報復に来られる可能性は十分にあるし、今は泳がせておくほうが良い気がする。それに――
(……やめよう、ひどすぎる)
 首を振って、番えた矢を降ろす。
 少しばかりの理性がなければ、僕は迷うことなく矢を射っていただろう。
 だが、僕は怖かった。なによりも、殺すことを戸惑わない意思が、心の内のどこかに存在している自分自身が。それがもし、失われた記憶の中の僕に関与することであるならば、僕は一体、どんな人物だったのだろう。
(風が冷たくなってきた……)
 脳裏に映るのは、あの子の今際の光景。
 僕はきっと、制御できない殺意のままにあの子を射殺したのだ。そう考えれば、全てにおいてつじつまが合ってしまう。
「……僕は、人殺し?」
 改めて、罪状を突き付けられたような気分になる。家と違い、命と違い、燃やしても決して消えない、不燃性の罪状。
 目の前には分からないことばかりが広がっていて、眩暈がするようだ。自身の由来、脳裏にチラつく僕が殺めたあの子のこと。踊り子のこと、踊り子を殺す組織"ニヴルヘム"のこと。
「エイケツさんなら、何か知ってるかな」
 考える度ドツボに嵌っていきそうで、僕は声を出して雑念を振り払った。
 エイケツ。物腰柔らかなあのルカリオだけが、今の状況では多少なりとも信頼できる存在だった。何かを隠しているような態度は気になるけども、少なくとも曖昧が過ぎる僕自身の存在よりは、幾分か。
 天頂を仰ぐ。満天の星空はいつしか薄曇りに包まれ、月の輪郭はふやけてぼやけていた。
 空は寒気立っていた。

chapter5:愛月撤灯ニヴルヘム[#4zjCl] 


 翌朝。窓より見やる空は灰ばんで薄暗く、蓋をするように分厚い鉛雲が一面に広がっている。
 鼻を突くペトリコール、じっとりと気だるい雨香はまだ遠く、夜頃からざっと降りだすような予感がした。
 隣で眠っていたはずのオドリドリの彼女――リンネの姿はない。紫紺の花のような気品に満ちた芳しい残り香が、僅かに掛け布団の上に残るだけだった。部屋の外から聞こえてくる愛らしい鼻歌と、木の実が焼けるいいにおいからして、調理場で何かをこさえているのだろう。
 結局昨日はあれからろくに眠れず、それ故に頭はたっぷりと眠気を含んで重苦しい。
 見逃した彼らが再度襲ってくる可能性が捨てきれないのもあったし、昨夜彼らが口走っていた言葉が気になっているのもある。
「ニブルヘム……踊り子を殺すための……かあ」
 家に火を放とうとするぐらいだ、踊り子を殺すという目的が嘘であるとは考えにくい。
 ならば考えなくてはいけないのはその動機、なぜ踊り子を殺すのか。踊り子の命を絶つことで、彼らに何の利が存在するというのか。
 僕には見えていない、知らされていないだけで、何か裏にはのっぴきならない事情が存在していたりするのだろうか。
 あれこれ考えて、結局何も分からず布団に倒れこむ。思考は堂々巡り、何が分からないのかすら分からない。ただ、自分がそこそこ面倒な何かの渦中に巻き込まれつつあることは直感的に理解していた。踊り子の命を狙う集団をどうにかしないとその近くにいる自分の命すら危ういだろう。昨夜だって、もし素直に寝こけていたなら今頃僕の身体は炭と化していただろうし。
「ヒツギさま。……ヒツギさま? お体が優れませんか?」
 鈴の鳴るような声がして、僕は布団に突っ伏していた顔を上げる。優雅に佇む紫翼のオドリドリが、どこか不安げな顔で僕のことを見下ろしていた。
「ああ、リンネさん。……いえ、ちょっと疲れていただけで。お構いなく」
「ご様子を鑑みるに、昨晩何かが起こったのでしょう。……申し訳ありません、あなた様にはご心労をお掛けします」
「いえ、そんな……僕の役目ですし」
 護られる側にもそれ相応の心労があるだろうに、彼女はどこまでも低姿勢に僕に詫びた。ヒトが出来ている。
 僕がへばっていたことで気を使わせてしまったようで、なんだか申し訳がない。
「それより、ええと。僕を呼びに来たんですか?」
「はい。お食事が出来ましたので、もしよければご一緒にと思いまして。……ご迷惑でしたか?」
「い、いえ、そんなことは! いただきたいです! ご一緒に!」
「それはよかった。さあ、こちらへ。温かいうちに戴きましょう」
 リンネに手を引かれ、食卓へと足を運んだ僕を待ち受けていたのは、筆舌に尽くしがたいほどの色彩に溢れた馳走だった。色とりどりの木の実が混ぜ込まれたパンはこんがりときつね色に焼きあがり、切れ目からはほかほかとした湯気が立ちのぼる。それだけで胃袋がひっくり返りそうなほどの食欲が押し寄せてくるというのに、振れば水が滴り落ちてきそうなほどに瑞々しい葉物野菜のサラダ、ついでに黄金色に輝く熱々のスープまで! 
 十数年ぶりのまともな食事に、思わず浮き足立ってしまう。
「す、すごいですね……気合入ってるなあ……」
「ええ、なにせ私の旦那様となるお方にお作りさせて頂くものですし。気合も入るというものです!」
「……ああ。えっと、あはは」
 声音が本気だった。そしてその屈託のない笑みを見るに、むしろ結構乗り気のようだった。お互い出会って間もないというのに、こうも好意を向けられるとかなり困ってしまう。曖昧に微笑み返して、逃げるように卓の前に座り込んだ。
「さ、冷めちゃうし食べようか! ほら、リンネさんも座って」
 我ながら情けない逃げの一手だと思うが、出会っていきなり最上級の好意を向けられるのもそれはそれで怖いというか。
 そもそも何故彼女は僕にこうも甲斐甲斐しくしてくれるのか、その理由も未だによく分かっていない。ついでに言えば何故同棲することになったのかすらも、よく分かっていない。
「……いただきます」
 ここに来てからというもの、懸念すべき案件がバカみたいなペースで増えていく。いずれ僕の身を包む霧も晴れるのだろうか。……晴れるといいなあ。
 考えるのが億劫になって、僕は半ば八つ当たり気味に木の実パンを食いちぎった。おいしい。

「御馳走様でした。……あの、すごくおいしかったです」
「はい、お粗末様でした。お口に合ったのであれば何よりです」
 食後の蜂蜜湯をぐっと飲み干して、ほっと一息。幸せな暖かさが、喉を流れ落ちて胃の腑へふわりと広がっていく。
「ヒツギさま、細いのであまりお食べにならないかと危惧していましたが……ええ、見ていて心地の良いお食べっぷりでした」
「み、みっともないところをお見せしました……」
「いいえ。作った料理をあそこまで美味しそうに食べて頂けたのであれば、こちらこそ作り手冥利に尽きるというものです」
 彼女は愉快気に笑みを浮かべつつ、空になった僕の器に蜂蜜湯の残りを注ぎ込んだ。かれこれ三杯目になるというのに、彼女の作る蜂蜜湯は驚くほどに飽きが来ない。この蜂蜜湯を毎日飲めるのであれば、同棲だとか夫婦の契りだとか、いっそそういうのも悪くないような気がしてくるのだから、食の魔力とはかくも恐ろしい。
「さて、私はそろそろお稽古に行かなくては」
 彼女は立ち上がり、手練れた所作で食器を片づけ始める。急いで蜂蜜湯を飲み干して、僕も手伝うことにした。
「稽古? あ、そうか踊り子さんだ。ええっと、僕もご同行した方が良いんですよね?」
「はい。何があるか分りませぬ故、エスコートをお願いしたく。稽古場はお会いした山の山頂にありますが、山のふもとまでで結構です」
「え、いいんですか? てっきりつきっきりかと」
「はい。舞は神聖なものですので、機が訪れるまではあまり人目に触れるべきではないのです。それに、ヒツギさまに拙いものをお見せするのは……その、少しお恥ずかしいというか」
「つ、拙いだなんて! 昨日見た時も、その、すごく、綺麗でしたし……」
 想起する。満月の夜、山の上で見た紫紺の踊り鳥の姿。あの日僕は、生まれて初めて本当の美しさを知ったのだ。
「その、凄かったんです。なんかこう、動きとか、息遣いとか、思わずドキドキしちゃって……魂を抜かれそうになったというか……」
「魂――」
 虚をつかれたかのように、彼女の動きが一瞬止まる。吸い込まれそうなほどに深い黒曜の瞳が、ほんの僅かに陰ったようだった。
「あ、えと、僕、癪に障るようなこと言っちゃいました……?」
「――いえ。大丈夫ですよ、ちょっとびっくりしただけで」
 しかしその陰りは直ぐに晴れ、いつもの澄ましたような微笑み顔に戻る。
「さあヒツギさま、行きましょう。空が暗くなる頃に迎えに来てくださいまし」
 普段なら見惚れてしまいそうなその紅顔は、しかし今の僕には、内に秘める何かを覆い隠す為の蓋のようにしか思えなかった。



「さて、どうしようか……」
 幸いにも何事もなくリンネを山まで送り届けた後、暇を持て余しつつ街を歩く。漂う湿気が毛をしなつかせる。
 相も変わらず街全体は霞がかったように仄白い。確かに道を踏みしめている筈なのに感触がどこか曖昧というか、背景を歩かされているような感じで、人気の多い快活な街である筈なのに、なんだか薄気味が悪い。
 豪気な筆跡の文字列が並ぶ紙切れを睨めつけながら、足を向けるのは居住区。商業区にありがちな目を引く看板だの、或いは客引きのような威勢のいい声もここまでは届かないようだ。時折遊び呆ける子供たちの声が聞こえるぐらいの、閑静な空間だった。
 血管のように張り巡らされた細い道をあれやこれや抜け、どうにかメモ書きに記された住所へと辿り着く。
「ここって……」
 目の前の建造物を見上げる。白石造りの住宅が立ち並ぶ中で、屋根の朱、取り囲む柵の緑、壁面の薄桃など、諸々の極彩色に塗装されたこの建物はとても異彩を放っていた。
 柵の囲む庭にはポケモンを象った遊具が置いてあり、両手で数え切れる程の子ども達が楽しそうに駆け回っている。少し離れた位置でそれを眺め、柔和そうな笑みを浮かべているルカリオに僕は見覚えがあった。
「エイケツさん。エイケツさーん」
 柵の外から声を掛けると、彼は少し驚いたように僕の方を見やった後駆け寄ってきた。
「おや、ヒツギさん。どうしたのですかこんなところで。驚きましたよ」
「僕も驚きました。まさかエイケツさんがその……保育士さん? だったとは」
 随分とデフォルメチックなヒメグマの顔が刺繍されたエプロンを下げ、足元に纏わりついてくる子供たちとじゃれ合っている彼の姿は、先日の様相からは想像できない。気の良さそうなヒトだとは思っていたが、なるほど確かに適任と言えば適任だ。
「意外ですか? こう見えても子供の扱いには一家言ありまして。……ところで、私に何かご用事でしょうか?」
「ああ、ええっと……まあ。すこしお聞きしたいことがありまして」
「お聞きしましょう。子供たちも丁度お昼寝の時間に差し掛かりますし、時間もあります。中へどうぞ」
 エイケツに誘われ、保育園の中へと足を踏み入れる。子供たちの澄んだ眼が奇異なもの――もとい、面白そうなオモチャが来たと言わんばかりに見開かれていた。なぜだろう。とても、嫌な予感がする。

「エイケツさん。あの、僕の身体ってそんなに魅力的ですか……?」
「……まあ、ほら。子供は珍しいものを好みますので。一種のじゃれつきというか、その……後で叱っておきます」
 予感は数秒後に的中した。
 どうもジュナイパーという種族はこの街には珍しいらしく、保育園の敷地に足を踏み入れた瞬間に子供たちが群がってきた。その勢いたるや嵐の日の高波を彷彿とさせる恐ろしさで、背中に飛び付かれ足に纏わりつかれ尾羽を毟られ地面に引き摺り倒され、全身を無数の手で撫で繰り回されフードの紐を引っ張られ、あと誰かに脇腹を齧られた。完全に玩具の扱いである。
 そうして明らかに足を踏み入れる前より体毛の量を減らしながら、僕は歩調の速い曇り空を虚ろな眼差しで見上げていた。
 子供たちは熱しやすく冷めやすい性質のようで、心ゆくまで僕の身体を弄んだ後さっさと昼寝の部屋へと向かっていった。僕との関係は所詮遊びだったというのだろう。いや、うん、他意はない。
「あのう……大丈夫ですか? ヒツギさんってその……幸薄いですよね」
「その言葉、すごく刺さります……」
 何よりもその一言に涙を誘われながら、庭を抜けて建物の中へ。子供たちが寝静まっているせいか、そこそこに広い保育室はがらんどうだった。
「エイケツさん、おひとりで切り盛りされているんですか?」
「ええ、それが私に言い渡された仕事ですので。ちょっと大変ではありますけど、聞き分けのいい素直な子供達ばかりで助かっています」
「ははあ」
 本当かよ、と思ったが口には出さなかった。
「ヒツギさんこそどうですか。護衛としてのお仕事、私にはよく分かりませんが……きっと大変でしょう」
「まあ、そこはそれなりに……」
 淹れてもらった茶を啜りながら、他愛もない話に花を咲かせる。エイケツはやはり人当たりの良い好青年で、急に押しかけてきたのにも関わらず面倒な素振り一つ見せない。保育士として働く彼に物騒な心当たりなどある訳なし、件の組織について聞いても意味がないかもしれない――と思い始めてきた矢先に、彼から声が飛んだ。
「ところでヒツギさん、本日ここにいらしたのはどのようなご案件でしょう。ご様子を見るに、私に何かお尋ねしに来たのでしょう?」
「え? ああ、ええっと……まあ、一応」
 距離を詰められて、僕はたじろぎつつ頷いた。しまった、これで今更「やっぱりなんでもないです」とは言えない。一応、ダメ元で聞いてみるべきだろうか……。
 観念したように息を吸って、吐く。
「あの、二ヴルヘムってご存知ですか。その、なんというか……踊り子を殺すことを信条にした、ちょっと危ない集団なんですけど」
「はい、知ってますよ」
「……まあそうですよね、普通知らない……んん?」
「いや、ですから知っています。というかですね、私に限らず結構な方がご存知だと思いますよ」
 衝撃的なことを、彼はさらりと言ってのける。
「……もしや、結構有名だったりします?」
「まあ、街の一大勢力というか。この街を十として、三か四割ほどですね。……ヒツギさん、ご自身が踊り子の護衛であるということはあまり言いふらさない方が良いと思いますよ。中には結構過激な思想を持っているヒトも居るらしいですし」
「……肝に銘じておきます」
 勝手にそこまで大きくないものだと思い込んでいたが、話を聞く限り結構大きな組織のようだ。母数が多ければ当然向けられる圧も大きくなるのは道理であり、どうやら僕に課せられたこの仕事は、想定していたものよりずっと大変な責務だった訳だ。
「でも、その……人伝いに聞いただけなので良く分かっていないんですけど、ニヴルヘムって結構過激な思想抱えてるじゃないですか。それなのに、そんなに大きな勢力なんですか?」
 殺す、というのを真に謳っているならば、そこにはそれなりの憎悪というか、同じ殺意を持った者が集うのは違いない。だけど、この街に住まう三割だか四割だかが、それ相応の殺意を踊り子に対して抱いているとはどうにも考えにくかった。少なくとも踊り子自身――リンネ自体は敵を作りやすい性格とは思えなかったし、寧ろ心優しい彼女のことだ、悪い印象を抱く者の方が少ない気がするのだけれど。
「それは……私にもよく分かっていません。私がこの街に来たのも数か月前のことですし、どうも確執は遠い過去に渡るものらしく」
「そうですか……」
「ただ、古くから街に住む人ほど、踊り子に対しての憎悪が深い傾向にはあるようです。ニヴルヘムの元締めも、この街に昔から住んでいたそうで」
「ええと、ニドヘグでしたっけ」
「はい。ご存知でしたか」
 ニドヘグ。ニヴルヘムの元締めで、確かエンニュートとかいう種族だったか。エンニュート自体雌しか存在しない種族らしく、つまるところニドヘグも女性なのだろう。あまり想像がつかない。
「彼女は商業区の……まあ、ある一部の種別の商売の元締めですね。男性である以上ヒツギさんもその内お世話に……いや、どうだろう……」
「ある一部の種別の商売って、なんだか随分遠回しに言うんですね。あと、結構お詳しいというか」
「……公の場で言うのは、少し憚られるジャンルというか。そしてその……私も男ですし、まあ色々と、はい」
「ああ、そういう……」
 二人きりの空間に、なぜか微妙に湿っぽい空気が流れる。まあそうだよな、エイケツさんも僕も、男だし。仕方のないことだ。
「と、ということは、商業区のそこ関係の店を当たれば会うことは出来るんですね?」
「どうでしょう。彼女はそこら一体の元締めですから、店で会うことは難しいかもしれません。というか会ってどうするんですか」
「踊り子とニヴルヘムの確執について聞こうかと。あと、出来れば踊り子への攻撃を止めてほしいと頼むつもりです」
 僕がそう言葉を並べると、エイケツは呆けたように口を開けて二、三秒固まった。
「ば……バカじゃないんですか!? そんなことしたら危険なのは分かり切っているでしょうに!」
 凍結から戻るや否や、彼は両手で机を叩いた。はて、そんなに変なことを言ってしまっただろうか。
「エイケツさん、落ち着いて。子供起きちゃいますよ」
 僕の指摘に、彼は気まずそうに椅子に座り直した。周囲を見渡して子供が起きていないのを確認すると、僕にずいっと顔を近づける。
「……無謀すぎますよ。色々引っこ抜かれて廃人になるのがオチです」
「色々とは」
「……憚られます、言うのは」
 色々とは何か気になったが、まあそれはそれとして。僕は口を開く。
「でも、懸念は根元から断たないと意味がありませんし。そりゃ僕だって自分の身は惜しいですけど、このまま何度も襲撃を受けるのはそれはそれで嫌ですし。それに――」
 ガラス戸の外の曇天を見やる。今もこの街の、僕より少しだけ空に近いあの場所で、彼女は真摯に踊りの稽古に励んでいるのだろう。
 幽玄で、美麗で、魂を揺さぶられるようなあの舞踊を失ってしまうのはとても惜しいことだった。彼女の傍にいる時だけは錐をねじ込まれるような頭痛に苛まれずに済むのも大きい。彼女の料理が食べられなくなるのは悲しい。心優しい彼女の顔が、血に染まるのは辛い。そしてなにより――
「――今度こそ、守らなくてはいけない気がするんです。罪は、過ちは繰り返されるべきではない。その為に僕は……僕は?」
 あれ。今、僕は何を口走ったのだろう。今度こそ? 過ち? まるで心当たりがないのに、なぜそんな言葉が出てくる?
「ヒツギさん? どうされました、顔色が悪いですよ?」
 ――視界に閃光が走る。エイケツの声が、次第に遠くなっていく。
 

『ちゃんと私を守ってね、■■■■――』


 声。
 誰かの。少女の。
 何より僕が、護るべきだった者の。護れなかった者の。
 もう名前を忘れてしまった、僕のだれより大切な――
「――ッ」
 差しのべられた記憶の糸を手繰ろうとして、しかし頭痛の紗が無情にも遮った。痛みに、苦悶の声を漏らす。
「ヒツギさん! どうしましたか! しっかりしてください!」
 がくがくと身体を揺さぶられ、どうにか虚ろだった意識を取り戻す。案じるエイケツの顔が、歪んだ視界に飛び込んできた。
「ああ……すいません。もう大丈夫です」
 いつもの発作的頭痛だった。まるで記憶を取り戻すのを阻止するかのような痛みだが、もう大分慣れてきたこともあってか予後の気だるさはそれほどでもない。
「驚きました。急に顔が真っ青になって」
「あはは、すいません。よくあることなのでお気になさらず」
 今日は光景ではなく、声だった。聞いていると酷く懐かしさを覚える少女の声。あれは……だれのものだったか。よく思い出せないが、いつか分かるような気がしてならない。
「さて、僕はそろそろお暇します。夜には雨が降りそうなので、それまでに彼女を迎えに行かないと」
 ニドヘグのところへ向かうことを考えれば、昼過ぎとはいえ早すぎる出立ではないだろう。本当はもう少しゆっくりしていきたいところではあったが、目が覚めた子供たちに何をされるか分かったものではない。
「本当に行かれるのですか……?」
「はい。危なくなったら逃げてきますよ、逃げ足には自信があります」
 言っておいてなんだが、あまり自慢にはならないことだった。それに対してではないだろうが、エイケツさんも複雑そうな表情を浮かべている。
「……御無事で。園の外までお見送りさせて頂きますね」




 商業区の表通りを裏へ抜け、薄暗い路地を十分ほど歩く。路地を抜けた先に、目当ての風俗街が広がっていた。
 随分と雑多な場所だ、という印象を受ける。まだ昼の為かヒトの賑わいはないが、入り組んだ怪しげな建物群に立ち並ぶ無数の看板が目に沁みる。空気は心なしか淀んでいて、あまり足を踏み入れたくない場所だというのが正直な感想だった。
 僅かに鼻に突く甘い香りが、妙に意識を過敏にさせる。香でも焚かれているのだろうか。なぜか全身がむず痒く、変な感じだ。
「おい、そこのトリ。そこの緑の、辛気臭い面のオマエ」
 あまり上品とは言えない濁った声は十中八九僕に向けられたものだろう。大概ひどいことを言われた気がするが、もういいや。僕は振り向いて、声の主を捉える。
「はい、なんでしょ」
「オマエ、さてはヒツギだな? 踊り子の護衛だろう」
 見下げた視界の中に、ぎらつく視線のズルズキン。声音ははっきりと強く、あまり歓迎してくれそうな雰囲気ではなさそうだった。
「えと、どこかでお会いしましたっけ」
「オレの子分が世話になった! 昨晩のことだ!」
 口ぶりから察するに、昨晩襲ってきたヤトウモリとガラガラの知り合いのようだ。初対面である筈の僕に思いっきりガンを飛ばしてきているのは、知り合いが傷付けられたことへの恨みからくるものだろうか。元々最初に火を付けようとしたのはそっちの方だ、なんていう言い訳は多分通用しないだろうなあ。
「ああ、昨日の彼らのご友人。お怪我の具合はいかがですか、お見舞いとかいります?」
「要らんわ! クソ、ニドヘグ様に呼ばれてなければこんなモヤシ俺がへし折ってやるっていうのに……!」
「……聞こえてますよ」
 自分がモヤシ体系であることは自覚しているけど、それはそれとして他人に言われると腹が立つ。
 ――ではなく。今、彼は何と言った?
「あの」
「あんだよモヤシ!」
「だから僕はモヤシじゃなくて……ああもう、そうじゃなくて! 今、ニドヘグが僕を捜してるって言ってたよね」
「おう。嫌がっても無理やり連れて行く!」
 なるほど、これは好都合だ。向こうがこちらの存在を認識している以上、無謀さで言えばホエルオーの大口に自ら飛び込むようなものかもしれないが、見つからないものを延々と虱潰しに探す手間は省けた。
「ねえズルズキンのお兄さん」
「俺はズタだ!」
「あ、はい。じゃあズタさん、僕をニドヘグさんのところに連れて行ってほしいんだけど」
「いいぞ! ついてこい!」
「うん、ありがとう」
 肩を怒らせてずんずん歩くズタについていきながら、僕はニドヘグに何を聞くべきかを考えていた。
 まず聞くべきは、踊り子とニヴルヘムの間に存在する確執についてだ。見た感じ踊り子側に命を奪われるほどの落ち度はないように思うが、僕の見えている範囲が全てとは限らない。裏を返せばこれから聞くニドヘグの言葉も真実かは分かりかねるが、現状何より足りていないのは情報だ。判断材料は多い方が良いのは事実だろう。
 そしてもし、踊り子の方になにか落ち度があるとするならば、僕は今後の身の振り方も考えなくてはならない。護るべきものの為に矢を振るうのは結構だが、しかしなにより可愛いのは自分の身であるからして。いやでも、ちょっと前に彼女を守ろうと決断したばかりではないか。どっちなんだヒツギ、お前は。
 びっくりするほど綺麗な自己矛盾に、呆れたようなため息を吐く。僕というものの境界線はあいまいで、自分が何より一番自分を理解できていない気がしてならない。僕とはいったい何なのだ。
「おい、着いたぞ!」
 跳ね上げるような声に跳ね上がる。憂悶は思いの外時間を喰ったようで、目の前には目的地だろう大きな娼館。さっき目の当たりにした保育園と塗装の色彩感覚は似ていたが、不思議とこちらの方が下品な印象を思わせる。漂う臭気と酒気、そして不思議なほどに甘美な香の匂い。夜が来ればヒトがごった返すのだろうその場所は、しかしまだ昼間の眠りについているのか一切が静かだ。それが逆に、居心地の悪さを誘う。
「入るぞ。いいか、ニドヘグ様は支配人室にいらっしゃる。くれぐれも粗相はないようにな! 頼むぞ! 怒らせると本当に怖いんだからな!」
「ああ、うん。わかったから、フードの紐は引っ張らないで。のびちゃうからね」
 ズタは何故か既に半泣きで、僕のフードの紐を交互に執拗に引っ張った。感情のぶつけ方をいささか間違えているのではないか。そこまで怖いのか、ニドヘグというエンニュートは。
「どんなヒトなんですか、ニドヘグさん」
「ニドヘグ様は凄く優しいお方だ。ありとあらゆる物を慈しみ、愛する。愛の為に生きるお方と言えば分かりやすい」
 娼館に入る。果実に似た甘い香りが一層強くなり、脳の芯が痺れるような気持ちになった。
「……ふうん。良い人にしか聞こえないんだけど」
「実際良い人だ! ただ……その、なんだ。愛するものを傷付けられた時や、愛しているものに裏切られた時に、その報復が些か苛烈というかだな。やや偏愛のきらいがあるというか、いわゆる加虐趣味的な、なんというか」
「的を得ないなあ」
 危険そうなのは分かったが、いまいちそれ以上の事が分からない。意図的に言及を避けているのか言うのも憚られるのかは分からないが、ともかく気を付けるに越した事はないだろう。
「愛の手は俺たちにも広がっている。つまり昨晩の出来事……オマエが子分たちを傷付けたことに対しても、物凄くお怒りだ。オレ以上にな。命までは取らないだろうが……まあ、貞操の一つや二つは覚悟しておくことだな!」
 腕とか指とかではなく、貞操なのか。優しいのか優しくないのか判断に困るところだ。
「帰っていいかな……?」
「だめだ! ほら、さっさと処罰を受けてこい! そいで全部終わったら泣き言ぐらいは聞いてやる! はいこれオレの行きつけの店の住所、酒ぐらいなら奢ってやるよ! じゃあな!」
「あ、ちょっと! アフターケアがバッチリなの、逆に怖いんですけど……」
 ズタはメモ書きを僕の鞄にねじ込むと、そそくさと逃げ去っていった。どういう流れだコレは、ここまで含めて一種の演出なのだろうか。だとしたら効き目はバッチリだ、下手に脅されるより数倍怖い。
 ともあれ、僕は今支配人室の戸の前にいる。重厚な両開きの奥からは、より一層濃い刺激的な香りが漂っていた。
 唾を飲み、戸の引手に手を掛ける。鬼が出るか蛇が出るか、無事に生きて帰れるか。頑張れ、僕。食べられないように。


 暗い。ジュナイパーの目をしても、部屋の輪郭すら見えはしない。吸い込まれそうな深淵を想起して、思わず身震いを起こしそうになる。
 不在かと思ったが、違う。暗闇の中で揺れる切れ長の双眸が、妖艶な紫紺に光っている。鼻を突く甘い匂いは最高潮に達し、嫌が応にも心臓が早鐘を打ち続ける。全身がしっとりと汗ばみ、まるで蛇に睨まれたカエルのように身動きが取れない。
「呼ぼうとは考えていたけれど、まさか貴方の方からやってきてくれるとは思わなかったわ。お会いできて光栄よ、ヒツギちゃん」
「貴方がニドヘグさん……ですか」
「ええ。少し待って、灯りを付けるわ」
 暗闇の中で炎が舞い、置いてあったらしい燭台に火が灯る。見ているだけで気分が高揚するような、藍染の鬼火。
 僅かな明るさと共に、僕はニドヘグの身体を視認する。黒灰色の艶やかな皮膚に、炎の舌が舐るような腹の紋様。そして妖艶にぎらつくその瞳。笑うように開けられた大口は、僕というもの全てを呑みこむかのように深く、怖ろしい。
「……っ、貴方にお話があってきました。僕が踊り子の護衛であるのはご存知だと思いますが、僕は何も知らされていないのです。何故貴方達が彼女を襲うのか、その理由も――」
 畳みかけるような言葉も、しかし途中で喉を通らなくなる。
 ひやりとした感覚が頬を伝った。彼女の長い舌が僕の頬を舐め取ったのだ。舌先が触れたところが幽かに痺れ、背筋に冷たいものが這う。
「うるさい仔ね。でもいいわ。その歪んだ瞳、わたし嫌いではないもの」
 彼女は嗤う。安堵より遥かかけ離れた、畏怖を想起させるための破顔。
 動けないでいる僕を尻目に彼女は踵を返し、部屋の奥の扉に手を掛けた。そして振り返る。
「着いてきなさい。お話は、特等席で聞いてあげる」
 断って、逃げ出すことを考えなかったと言えば嘘になる。しかしここで逃げだせば、全てが水の泡になる予感がしていた。
 僕は知らなくてはならない。この街を取り囲む、表側からでは見えない何かの事を。僕自身を包む因果を。
「……お伺いします」
 次いで戸を開く。視界の先に飛び込んできたのは――



「……あの、これって」
 閉口する。次いで、困惑する。オマケにもう一度閉口する。
「あら。言ったでしょう、特等席って」
「いや、まあ、そうとは言いましたけど……」
 戸の先に広がる部屋は淫気な桃色の灯火に照らされており、妖艶な雰囲気を醸し出している。それまではいい。
 部屋の中央には綺麗に整えられたキングサイズのベッド。使用者を待って大口を開けている。これもまあ、まだギリギリいい。
 極めつけはベッドの傍の箱に雑多に詰め込まれた玩具。対象年齢がやや高めの、震えたりする玩具。これはもう、だめだろう。
「あのう、これっておかしくないですか……?」
 経験はないが知識ぐらいはある。これはつまり、男女が情事に耽るための設備であって、話を聞こうという時に用いるシチュエーションではない、はず。
「あら、大切なお話は閨でお聞きするのが一般常識ではなくて?」
「そ、そんな常識は知りません!」
「まあ、照れちゃって。可愛いのね、こういうのは初めて?」
「初めて……ですけど! そういう事ではなく!」
 ニドヘグはにじり寄り、僕の手を取った。捕食者の目を細く歪める。射すくめられ、冷や汗が頬を伝う。
「その初心な反応、可愛いわね。本当は手ほどきをしてあげてもいいんだけど――」
 ふう、と甘い息を吹きかけられる。
 痺れるような、甘美な毒気。くらりと視界が歪み、脳の芯が急激に思考を放棄する。
「あ……」
「わたし、貴方を許せないの。わたしが愛したあの子達に傷を付けることが、どれほどの罪であるか。蜘蛛糸の上に羽虫が飛び込むことが、どれほど愚かな行為であるか」
「――わたしが直々に教育(ちょうきょう)してあげる」

 泥の中に突き落とされ、意識も身体も沈んでいく。自らの不用心さを呪う。確かな確信。次に目が覚めた時、僕はきっと。

 ――ああ、正気ではいられない。



・なかがき
特に他意はないんですけど、主人公って痛い目や酷い目に遭ってナンボみたいなところありますよね。

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  • 今のところは辛うじて平穏を保っているような物語の雰囲気に、いつそれが崩れるのかと思うとはらはらします。主人公のヒツギが抱えてきているであろう物がとても重そうなのでなかなか安寧は訪れそうにないようにも思えますが、どうか彼の行き先に光があることを願うばかりですね……。 -- カゲフミ
  • Chapter.2にしてこの鮮やかで暗い雰囲気。テーマをどんと置いて彼の身に何があったのかジワジワと明らかにする文体がたまらなくぞわぞわします。ジュナイパー君にはちょっとずつ過去を思い出して血反吐を吐き散らしていってほしいですね。 -- 水のミドリ
  • 情緒溢れる詩的な文章によって書き出される不穏な世界。徐々に明らかにされていくヒツギの暗い過去にすごく引き込まれました。
    陰ながら応援しています。頑張ってくださいませ。 --
  • >カゲフミさん
    コメント有難うございます。彼の抱えている形の見えない重荷を、どう背負っていくのか、どういなしていくのか、そういうのがこの物語のテーマになって……くる……かもしれません……。
  • >水のミドリさん
    コメント有難うございます。やっぱジュナイパーって虐めたくなる見た目をしているじゃないですか。なんで彼には是非とも一杯苦しんで頂きたいですね……へへ……。
  • >三番目の方
    コメント有難うございます、励みになります。牛歩ですが完結に漕ぎ着けられるよう頑張るので、今後も宜しくお願いします。 -- 赤猫もよよ
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Last-modified: 2017-10-31 (火) 14:33:19
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