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初心-ういごころ- | 融和-とけなごみ- 次> |
心の世界は、感情で満ち満ちている。
喜び、悲しみ、ときには怒り、ときには哀れむ。
悦楽だって感じるだろうし、憎悪の念も抱くだろう。
それは、無限に広がる大海原。不思議なことに、いくらでも湧いて出てくるものだ。
それならば。
もし、それらを司ることができるなら。
もし、感情を力に変えることができるなら。
あるときには目の前で火の手が上がり、あるときには水鉄砲が押し寄せてくる。
相手の心に訴えることもできるだろうし、地震だって呼び寄せてしまうかもしれない。
これが、
私たちの秘密。
雲一つない昼間の光が降り注ぐ。周りを囲む草木たちは、初々しい緑色の葉っぱを伸び伸びと広げている。
「ほら、こいつだ」
私の目の前には、切り株の台座がそびえ立つ。大きな椅子の上に、小さなリンゴが置かれた。
太陽に反射する赤い体は、つやが出ていて食べごたえがありそう。
「さ、やってみな」
もったいない、食べてしまうほうがよっぽどいい、などという思いは露にも叶わず。
私は、この丸っこい物体に向かって念じる。
――浮かべ、と。
力んでしまうと、気合の息が少しだけ漏れてしまう。でも、そんなことなんて気にしていられない。
食いしばる歯が軋んでも、胸を打つ脈動が早くなっても。
今度こそ。
やってやるんだから。
浮かべ、離れろ! このっ。
念じ続けるのも疲れてしまうから、力を抜いて一呼吸置いてみる。
再び挑もうとした、その瞬間。
目の前が、一瞬だけ真っ黒に染まる。小さな風が頭の中を吹き抜けたかと思うと、全身に力が入らなくなる。
重力がなくなったような錯覚が渦巻いて離れない。大きくよろめいた私は、その先に誘われて。
「おっ、と。大丈夫か?」
ぽふり、と落ちた。主人の腕の中に収まったことは、かろうじて捉えることができた。
まだふらふらする視界で、でもあの憎らしい球体の安否は確認したくて。
私は、そいつの乗っている切り株へ目を移した。
でもそこには、依然として佇む赤い影。抱き寄せてくれた主人を挟んで、見下すように突っ立っていた。
また、敗北。何度目と知れないその一言が、またひとつ、胸の奥に傷を作る。
「疲れただろう? 今日は休んで、また明日がんばろう」
そう言って、主人は私の頭を撫でてくれる。掌は温かかった。
情けない。
いくらやってもこの調子から進展しない。エスパータイプに進化したのが運の尽きだ。
それでも、主人はこうやって面倒を見てくれている。でき損ないの私なんかに、こんなに優しく。
「こいつはおいしくいただくか」
切り株からリンゴを拾い上げる主人。
今までの苛立ちを隠せなかった。いくら念じても浮かばないそれに、今日こそは黙っていられない。
せめて、一太刀報いたい。
勢いよく跳び上がって、主人の腕に狙いを定める。
私が突然働かせた外部の力によって、その手から赤い悪魔は滑り落とされる。
尻尾に力を込める。落ちていく標的に向かって、今までの悔しさを、思いっきり振り下ろした。
「おいっ」
期待通り、果実がはじける小気味いい音が散らばる。主人の声も聞こえたような気がするけれど、耳には入ってこなかった。
果汁を少し浴びてしまったが、洗えばすぐに落ちる。毛繕いなんてお手の物。
当たった箇所からへこんで、芯まで到達した。なかなかいい打ち込みだ。これには満足。
「まーたやっちゃった」
自慢げに主人のほうを見やる。するとそこには、服や顔を濡らしたヒトが立っていて。
……見間違えたかな。主人はどこに。
「爆発物、取り扱い注意。今日もリンゴジュースの日だな」
信じたくはない。むしゃくしゃしたとばっちりが、あろうことか私のご主人様に飛んでしまった。
いくらなんでもこれはいけない。同じことの繰り返しはさすがにまずい。
なんで、砕いちゃったんだろう。
申し訳なさが、私を俯かせる。耳まで垂れてしまうのは、種族柄の問題だ。
「いいって、いいって。その代わり、食べてくれよな」
壊れた残骸は脚もとに転がっている。
気分はいいはずなのに、食べる気にはなれなかった。
こんな軽いものすら、持ち上げられない。
多少は発達していると思っている。現に、こちら側の種族なのだし。
主人も、進化してからだ、って言ってくれた。言ってくれていた。
でも、実際はこのとおり。念力すら放てない状態だ。
私の体には、何が起きているのか。それを確かめるため、またそれを取り去るために、今日もこうやって練習を積む。
成果は、見えていない。そもそも見当なんてついたもんじゃない。
そのくせ八つ当たりして、主人に迷惑をかけるという有様だ。
どうしてこんな体になったの。
太陽に見捨てられたなら、月に向かえばよかったじゃない。
「ユウ?」
はっとして顔を上げた。少しだけ物思いに浸りすぎたかもしれない。
見ると、主人はこちらを覗き込んでいて。
うん……近い。
「おっ?」
思わずとっさの後ずさり。驚くあまり、声が喉につかえて出なかった。
主人のことを考えていたから、よけいに恥ずかしくなってくる。
「心配するなって。なんとかなる」
あまり励ましの言葉になっていないのは周知の事実。何度聞かされたことやら。
それでも、ずっと変わらず接してくれるのは、主人のいいところなのかな。大きなこと言える立場じゃないけれど。
かがみ込んだ状態から腕が伸びる。なでなでされるのは嫌いじゃない。
「さて、帰るか。リンゴも頼むぞ」
う。あいつの後始末も任されるのね。
すくっと立ち上がった主人が指で示す。その先には、半分つぶれた赤い物体が横になっている。
私がやってしまったことなら、気が乗らないけれど、仕方ない。
中途半端もかわいそうだから、持って帰って食べてあげよう。
◇◇◇
森の木々が覆いかぶさるようにできた草の小道。新緑の木漏れ日は、淡くて小さな温もりを伝えてくる。
突き当たりまで進むと、アスファルトなる灼熱の黒塗りが横切っている。今はそうでもないけれど、夏になったら歩けない。
その道を下って、反対側に渡る。山の下りの一軒家に、主人と一緒、ふたりきり。
主人は“着替えてくるよ”と言って脱衣所に向かった。昼間のことは、やっぱり気になるみたい……私があんなことしたから。ごめんね、主人。
私はその間中、喋らないリンゴに食らいついていた。
「なあユウ」
私の名前が唐突に投げかけられた。日は傾いて、青空が赤色に変わってくる頃。
そんなにあらたまって、何か深刻なことでもあるのかしら。
窓辺から振り向いた私は、どうしたの、と首を傾げる。
「あれから四年だな」
こちらを見る様子もなく、主人は座ったまま独り言のようにつぶやいていた。
低めのテーブルには、冊子らしきものが五冊ほど積み上がっている。その近くに、冷たく光る金属の薄っぺらいものが一枚置いてあった。ノートパソコン、とか言ったかな。
四年前といえば、技のことに気づいて対策を始めたときになる。
察しはついたから、近寄って隣に居てあげることにした。
「イーブイの頃は参ったよなあ……覚えさせたはずのシャドーボールが駄目だったんだから」
名を技マシン。それを使えば、一瞬で技を覚えることができる。ただ、覚えることはできても、使いこなせないと意味がない。
当時はまだ気づいていなかった。今でもずっと変わっていない、ヒトに例えると一種の病気のような症状が起こっていた。
私は、幼いときから、特殊攻撃や補助効果に分類される技が出せなかった。
出せないと言うと語弊があるかもしれない。でもとにかく、力が入らないのだ。
主人が口にした技マシンの相性問題、その頃から私の特異性を意識し始めた。
私たちイーブイ系統は補助技に長けているのだとか。それ故、選べる攻撃手段が限られるから、ただでさえ少ないそれらから特殊技が使えないとなると。もっとも、遠距離を得意とするエーフィは。
考えると惨めになってくる。技の出せないポケモンなんて、ただの生き物に変わりない。
加えて、進化する前に戻ることはできない。この体は一生ものだ。
「ユウはユウだもんな。一端のエーフィの牝の子」
言い終わらないうちに、主人の手が体に添えられる。この温かさに、何度安らぎを覚えただろう。
体毛の流れに沿って、背中を撫でられる。強すぎず、弱すぎず、しっかりとしていそうで、どこかさりげなく。
目が合うヒトに片っ端から勝負を挑むことはない。主人は私のことを気遣って、イーブイだった頃からずっとそばに居てくれた。
あのときだけ、違った。主人が居なかった。
私の体は、突然発光を始める。
それは偶然か、はたまた必然か。まだ日は高く、鳥ポケモン達の鳴き声が響いていた空の下。
光が収まった後、目に映った前肢は薄紫色だった。
しばらくの間、茫然としていた。一筋の涙が頬を伝ったことは覚えているけれど、何が私の心を動かしたのかは思い出せない。
でも主人は、私を責めるようなことは一切しなかった。むしろ“がんばろう”って言ってくれた。
不思議だった。同時に、気に食わなかった。
他人事なのに一緒に考えてくれる。うれしかったけれど、どうしてこんな私なんかにこだわるのだろうか、とも思った。
今となっては、それら全部引っくるめて、私のご主人様、だけれどね。
「でも心配だよな……」
そんな主人は、思いついたことをすぐ口に出す癖がある。
私のことを心配して言ってくれているのだろうか。主人は相も変わらず、目と鼻の先に顔を近づけてくる。
えっと、近い、ですね。
そんなに覗き込まれると、後ろに退きたい気分になる。
心配性、とは言い難いけれど、もう少し抑えてくれたらうれしいかな。
毎度のことだけれど、ちょっと気まずい。
「おっと、もうこんな時間か。食事作ってくるからな、よしよし」
主人に頭を撫でられる。いつものスキンシップだ。
後ろ姿が、台所へと離れていく。体毛を通して伝わってきたぬくもりが、外気にさらわれる。
やっぱりどこか寂しいから、そのままついて行っちゃった。
いつものこと。
次の日。
体を包む温かさが、まぶしさとともに目覚めを促す。
うっすらと目を開くと、窓辺から明るい日の光が差し込んでくる。
ソファから体を起こして、大きなあくびを一つつく。寝起きの頭はふわふわと、まだ夢の中だ。
私は、朝には弱いのだ。
「お。おはよう」
背後からは主人の声が響く。何かを炒めるようないい香りも立ち込めている。
冴えない頭でもう一度あくびを一つつく。体を伸ばして立ち上がった。
ソファから降り立つと、誘われるように匂いのもとへ。
おなかすいた。
◇◇◇
「ようし。片付けたら出発するぞ」
主人から気合いのこもった言葉が届く。これから、どこか行くのかしら。
からっぽになりそうな野菜炒めのお皿から顔を上げる。主人の考えが分からずに、首を傾げた。
「センターに行くからな。また検査してもらおう」
え。またこのフレーズ。
よく分からないけれど、冷たい場所で体を触られるのは嫌。不気味な道具に当てられるのも嫌。
センター、検査。悪いイメージばかり。
嫌がって何もしないより、どこかへ動けば見えてくるものがある。主人は私のためを思って、そう言ってくれているのだろう。
でもそれは、嫌がる私を尻目に置くことと同じ。ポケモンにだって意地はある。
無駄とは分かっていながら、小さく、首を振った。
行きたくない。
「ユウ……このままじゃ、さすがにまずいだろう」
せっかく練習してきたのに、台無しにするのか、とまで言われてしまう。
そうなると、やっぱり主人にはかなわない。
仕方がないから、一緒に行ってあげることにした。
技を放とうとすること自体、無駄である、なんてことは考えの外。やればできるのよ。
山の中腹から下って麓へ。一直線の舗装された道、主人と並んで歩いていく。
それなりに傾斜があった勾配も緩やかになった。連なる家屋が、その姿を増やす。
両脇に草木が生える山道から一変、だんだんと背の高い建物が見えてきて、道幅も広くなった。
街、と言うのだそうだ。車と呼ばれる乗り物が、けたたましい音をまき散らしながら行き交うところ。主人によると、朝の時間がよけいにそうさせているらしい。
山の静けさがより感じられる。耳が鈍ってしまいそう。
「おはようさん。今日も散歩かい?」
ほうきを持ったおばさんから挨拶された。主人は、おはようございます、と軽い会釈で応じていた。
いつ見てもきれいな毛並みね、なんて聞こえたけれど、いつもの科白だからスルー。私のこととは限らないもの。
こういう性質なんです、と苦笑いの主人。
いいのよ、変わらないことが一番ね、とお節介なおばさん。
うっとうしくなった私は、主人たちのほうに振り返る。立ち話はもういいから、早く行こうよ。
「では、失礼します」
二人して私の目を窺うのはやめてほしい。でも、二人揃ってにこにこ顔をしている。何考えてるのかしら。
歩き始めた主人に、ほうきの女性が手を振っている。その視線は、ずっと私に向いていた。
◇◇◇
赤い屋根に白抜きのマークがそびえる。看板には、いつも見るP.C.のシンボルが浮き上がる。
とうとう来た。気乗りはしない。
「着いたな。行くよ、ユウ」
主人の語気からはなにも感じ取れなかった。
期待しているのだろうけれど、残念ながら私はその逆だ。
来たからには受けて立つ。気合が入らないのはご愛敬。
扉の開く音が、妙にうるさかった。
長いと思っていた検査時間も終わりを迎えて。
主人と、白い服に覆われたおっちゃんが、なにやら話している。たぶん今回の結果だろう。
むっくりと起こした体を、ゆっくりとほぐしていく。動けない時間が長いのはつらい。
「ユウ、お疲れさま」
主人がこちらに来た。
面倒だと思っていても、終わってしまえば簡単だった。妙にすっきりした気分になれる。
「相変わらず、だってさ。使えるようになってほしいけどなあ」
しかし現実は甘くない。まだ努力不足、再検査もあり得るだろう。
またここに来るのかと思うと、せっかく晴れた心に霧がさまよい始める。
耳を伏せたい気分になった。
「帰ろう。用は済んだから」
冷たい口調は、その矛先が向かってくる印象を受ける。がんばりが報われない、そんな思いが見えてくる。
こんなに期待されると、実現できないことがプレッシャーになりそう。
焦る気持ち、成し遂げたい心。そこまで大きい意気込みは必要ないはずなのに。
主人がセンターの出入口に向かう。彼の歩調は、いつもより速かった。
見失ったらまずい。ちょっと待ってよ。
◇◇◇
主人が一歩前に出ている。
ずんずんと進んでいく背中に追いつこうと、私も急ぎ脚。景色の流れが速い。
ゆっくり歩こう、あまり早足だと息切れしちゃう。
「あ、こんにちは」
主人と同じくらい低めの声が響く。
なんだろうと思って顔を上げると、目の前には一人のヒトが居た。
「えっと……どこかでお会いしましたかね」
「いや、そんなことは」
どうやら、お互いに面識はないみたい。話し込み始めたから、しばらくは身動きできないだろう。
∵∴∵
「おまえもか。飼われてるんだな」
ああ、しばらく暇を持て余すかもしれない、そう思ったときだった。目を向けると、後ろ脚で立ってる変な生き物が居た。
しばらくの間、体が固まっていた。
だって、喋ったよ、こいつ。
「どうした?」
いや、そもそも、主人と同じような言葉を操るなんて信じられない。
知らない相手は無視に限る。見ない振り、聞かない振り。
私はやっとのことでそっぽを向く。こういうことには、関わらないほうがいい。
「おいおいなんだよ。せっかくだからさ、お話の一つや二つくらいいいじゃんよ」
「うっさいわね。見ず知らずのあんたと交わす言葉なんてないよ」
「思いっきり喋ってるじゃねーか」
さっきから何なの。言い返そうとして振り向くと、不覚にも相手をまじまじと見つめてしまう。
黒い体毛に、
頭の部分にはトサカみたいな赤い毛が見える。
すでに会話をしていることは、もう不思議じゃなかった。
「そんなに見つめられたら恥ずかしいなあ」
予測しない科白が飛んでくる。不意を突かれた。
一瞬だけ、ほんの少しだけ、顔が熱くなったけれど、まあ気にしないことにする。
「そ、そうじゃなくって。あんたは何なの」
「俺か? 俺はナッツ。マニューラって呼ばれてる種族だ」
「種族……?」
種族。その分類があるのなら、彼の正体は一択だ。
「――ポケモン?」
「あれ。知らない? 酷いぜそれは」
冷たい眼差しを向けられても、知らないものは知らない。でも彼は、私と同じポケモンみたい。
少しだけ穏やかな気分になれた。彼、私と一緒。ヒトじゃない。
「……おまえ、野良の出身じゃないな」
なぜかその言葉が深く沁み入ってきた。
知る由はないはず。でも、どうしてそんなことを口走るのか。まるで見透かされているみたい。
認める心は、湧き上がってこなかった。
「別に。関係、ないでしょ」
「素直じゃないところもかわいいな」
「なっ……何言ってるの」
さっきから思いもよらないことをぺらぺらと喋られる。おまけに笑いながら。
言葉に詰まったじゃない。そう思いながらにらみつけるのだが、相手はにこにこ顔を崩さない。
「顔が力んでるって。マスターにそんな顔見せるなよ」
ほら、うしろ、と続ける彼。促されるままに振り返ると、手招きしている主人が見えた。
「じゃあまたな」
もう二度とは会いたくない。
ひらひらと前肢を泳がせる彼には、一瞥をくれてやった。
何事もなかったかのように、主人についていく。
引っかかりはないはずなのに、ちょっとだけ不安になって、ふたつの影に振り返った。
陽は、まだ高かった。
その晩のこと。
はじめて言葉を交わしたことにうれしくなった私は、主人に話しかけていた。いや、話しかけようとしていた。
でも、言葉らしい言葉がでてこない。主人の発音に近付けようとすると、どうしても越えられない壁が見えてくる。
あのポケモンと話したときには、あんなにすらすらと言葉が出てきた。でも、主人と話すときだけ、どうして口ごもってしまうのか。
考えてみれば、当然のことだった。今まで全部、体で表現してきたのだから。そうじゃないと、伝えられなかった。
新しい発見を咬み砕くように確かめる私は、本当に、まだ幼かった。
次の日。
私たちは、いつもの練習場所に来ていた。
いつもの場所で、いつものように、できもしないことをできるまでがんばる。先が見えないことは心細い。
何回検査されて、何回“がんばりましょう”と言われて。この辺りで降参するのも、正しい判断かもしれない。
身が入らない、薄々そんな思いを感じ始めていた。
「ユウ? もうちょっとだから。がんばろう、ほら」
主人は相変わらずオレンの実を差し出してくる。
ぼうっと眺めていただけの私は、とりあえず鼻を近付けて匂いを嗅いでみた。
これ、食べてもいいかしら。
「あー。分かった。休憩しよう」
そう言うと、主人はオレンの腕を引っ込める。今の私に集中力なんてものは存在しない。
再び空っぽの世界に戻った私は、一匹のポケモンを思い描く。
ただ立ち話をしただけ。それでも、彼の印象は強かった。
他のポケモンと話した記憶は見あたらない。思い出される風景には、どこもかしこも主人ばかり。
主人が居れば大丈夫だった。一匹で解決できないときには、鳴いて知らせればよかった。
その中で他のポケモンと接するのも無理があるだろう。記憶にないなら、そんな生活はしていなかったはずだ。
突然目の前に現れたあの黒毛。
そこに居るだけで集中力がごっそり持っていかれる存在には、頭が上がらない。
この近所に住むポケモンは、私だけではないのか。彼だけにしか会ってないけれど。
そう、私だけじゃない。言葉にして思いを伝えられる対象が居る。
どこか無性にわくわくしてきた。寝そべっていた体が起きる。
「ユウ? ……ん?」
主人の視線が一点をさした。私ではなく、私の後ろのほうに。
つられて顔を向ける。広場の入り口には、一人と一匹のシルエットが浮かんでいた。
あのトサカ、見たことある。
「あ、こんにちは」
またお会いしましたねえ、なんてのんきな調子の主人。入り口に向かって歩いて行っちゃった。
取り残された。どうしよう。
∵∴∵
「また会ったな」
こちらへと近付く黒毛を目の端に捉える。面と向かって、それもいきなりなんて、とても喋れない。
「どうした?」
「……どうもこうも」
あんたなんかに、興味なんて。
ないんだから。
どんな言葉をつむぎ出せばいいのか分からない。彼の顔を見ると、また同じような会話の繰り返しかもしれないと思ってしまう。
言葉が選べない。
そっぽを向いてむくれる私は、わがままに飢えた子どもみたいだ。
「何か、不満なことでもあるのか?」
耳が揺れた。息が詰まった。
どうしてそんなことを言い始めるのか。
ぴたりと言い当てられたことに対して、無意識の動きは正直だ。
「別に……」
「そっか。いや、この前は、ちょっと喋りすぎたかなと思ってさ」
少しだけ、驚いた。謝られるなんて思ってもみなかった。
期待はしていなかったし、私も気にしていないし。
それでも、気がつくことや気が利くことは、いいことだと思う。
それに引き替え、もともとを誤魔化している私の態度はいただけない。
悩みがあるのに。
本当はもっと話したいのに。
彼が嫌い、そんなことはない。彼に嘘をついてしまう、自分が嫌いなんだ。
そもそも。
できることなら、こんな気むずかしい私なんかに、逢ってほしくなかった。
「名前、教えてくれないか」
はっとする表情は、彼に見られただろうか。
名前なら、名前だけなら、嘘はつけない。
「ユウ」
「へえ、ユウか。よろしくな。俺はナッツ。って、もう知ってたか」
小さな笑い声が心地いい。それに混じって、この前言ったな、なんて続ける。
覚えてた。黒毛の印象が強かったけれど。
「木の見探しにきたんだ。そろそろ食べ頃の奴があるかなー、って」
私たちも、木の実はよく採りに来る。
自然の中に踏み込めば、野生の木はたくさん見つかる。ここもそのひとつだ。
他のポケモンたちは姿を現さない。こんな中腹まで下りてくる気はないのだろうか。
「ユウは? どんな用事?」
私は、ずっと俯いたままだった。
正直になろう。正直になりたい。
自分を打ち明ければ、気が楽になる。
楽しいときは楽しい、つらいときはつらい。主人に対してそうしてきたように、彼に対しても。
顔を上げてみた。隣には、少しだけ心配そうな顔をしたナッツが居た。
「技の練習」
「技?」
「そう」
詳しく聞きたい、とでも言いたげな顔をされたから、ちょっとだけ話してあげることにした。
◇◇◇
「特殊技、って……おまえ、よく生きてこれたな」
「生きることには不自由ないわ」
なんだか、莫迦にされた言い方のような気がする。
でも、彼の環境とは違うのだろう。私はあの主人と一緒だから、特に苦労はしていない。
「どこからどう見ても。いや、華奢な体つきだけどさ」
「お、大きな声で、言わないでよ」
まじまじと観察されるのは慣れたもの。でも、どこか落ち着けなかった。
だって、見てくるのは彼だもの。
「物理技だけ、ってことだろ」
「まあ、だいたい」
「じゃ、俺を相手にやってみるか」
「ナッツを相手に、か……え?」
耳を疑うとはこのことだろうか。
自然に聞き取れた言葉。繰り返したとたんに疑問符が湧く。
なんだって。彼を相手に。
「よし、決まり」
「勝手に決めないで」
「戦闘経験にもなっていいと思ったんだが」
「そうだけど、でも……」
彼を傷つけるようなことはやりたくない。そんな思いからだった。
言葉にできず、尻下がりの声量になってしまう。
「俺は大丈夫。ユウは覚悟しろよ」
「え? ええっ?」
思ったことをぴたりと当てられる。それよりも、傷を負うのは私だけかもしれないことが気になった。
あまり進んでやりたいことではない。
「ほうら吹っ飛ぶぞ!」
ナッツの気合いが、突然耳に入ってくる。
まるで目の前の獲物を狩りとるような、ものすごい覇気だった。そんな声が最後まで聞こえないうちに、体が宙を舞った。
空、木々、芝生。次々と移り変わる視界には目がまわる。
加えて、背筋の冷たさを覚えた。気温は低くないはずだ。
すると、背中から衝撃が伝わってくる。
今の状況を捉えることに必死になって、着地を忘れてた。
「わあ」
間の抜けた声はナッツのもの。
「ユウ、大丈夫か!」
目まぐるしい展開には、ついて行けそうにない。
「大、丈夫」
「ごめんな、いきなり大技やっちゃって」
「いいよ、いいよ。腰が、抜けちゃった、みたいなの」
「ああ、分かった。起きれるか?」
かすんでいく視界に、彼の体が近づいてくる。さらに、空気も冷えてくる。
おかしいな、と思うのと、彼に触れられるのは同時だった。
――冷たい。
「ナッツ」
「ああすまんすまん、俺が悪かった」
「氷、操れるの?」
「は? ……あ、ああ。俺は氷と悪だ」
「へえ」
そんな彼に背負われた。
突然の変化にびっくりして、緊張していた。火照っていた体の熱が、ゆっくりと消え去っていく。
気持ちいい。瞼は自然に重くなった。
◇◇◇
「ユウ。ユウ……お、気がついたか」
主人の心配する声を、気だるさの残る頭が捉える。
だんだんと戻っていく視界には、ナッツとそのご主人も見えた。
みんなに囲まれてる。眠気はまだ振り払えないけれど、反射的に起き上がった。
「お、エーフィのユウちゃん。うちの真っ黒がお世話になってます」
そんなご丁寧に。言葉は出てこなかったから、しっぽを振って挨拶してみた。
真っ黒、なんだかひどい言われ方だ。ナッツの顔がゆがんだ気がした。
「ユウ、痛まないか」
主人の疑問が、気を失っていたことを思い出させる。
ナッツに技を当てられた。吹き飛ばされる感覚にはもうこりごりだ。
それから、背負われたところまで覚えている。
見覚えのある広場で、ずっと眠っていたようだ。
周りの景色が変わっている。おそらく、ナッツが主人たちの所へ連れて行ってくれたのだろう。
ためしに筋肉をのばしてみる。
力が抜けるような、背筋の凍る感覚はなくなっている。痛い箇所はどこにもない。
至って普通、といったところだろうか。
特になし。主人に伝えるために、足元へ近寄って軽く頭突きをした。
「元気、なのか」
「エスパーの特殊アタッカーが悪の波動を受けても眠るだけで平気。俺もトレーナー失格だな」
ニンゲン二人が、不思議なものを観察するような表情で見つめてくる。
そんなにじっくり見つめられても。私、なんにもやっていないよ。
「いや、やっぱりおかしい」
「そこは認めてあげようよ、トレーナーならさあ」
「でも、ユウ、おまえは……」
主人の言いたいことは察しがつく。
経験はほとんどない。力量なんて測ろうとすることは間違い。
そうなんでしょ。私の思いを、主人の目に重ねてみた。
真剣な顔つき。期待が見える眼差しには、私とは別の勘を持っているように見えた。
「とりあえず、無事でよかった。草の上とは思えない音が響いたからね」
雰囲気をまとめたのは、ナッツの主人だった。
ところで、“草の上とは思えない音”って、どんな音だろう。
「ほら、ナッツも謝って」
ナッツがおずおずと歩みを進める。
私は大丈夫だ。ご主人様に言われたからだとしても、そこまでは必要ない。
頭を掻きながらしゅんとしている彼に、首を近付ける。そのまま、もたれ掛かってみた。
背中に腕を回された。ひんやりする心地よさが、また広がってくる。
今度会えるのは、いつかしら。
気を失うのは遠慮したいけれど、ナッツと話せるのならうれしい。
静かな抱擁も終わりを告げて。
ナッツの前肢が離れたから、私も体を引く。
ナッツ、照れくさそうだった。
「よし、じゃあ、戦ってみようか」
そうしていたら、ナッツの主人が、突然信じられない言葉を発した。
集まる視線、三対一。一斉に振り向く私たち。
「は?」
「戦わせるの。時間には余裕があるだろ?」
お日様は天頂に昇ったところだ。
そろそろおなかが空いてくる。
「そもそもこいつは戦えるような奴じゃ」
「大丈夫。やってみなきゃ分かんない」
もうやっただろうと反発し、結果から学ぶものもあるとゆずらない。私たちを尻目において、主人同士でもめている。
ナッツの顔色を伺うつもりで振り向く。少しだけ不安そうだった。
見つめているところに、ナッツもこちらに向いてきた。
目と目が合う。ちょっと気まずくなって、顔を背けた。頬が熱くなっちゃう。
「分かった。分かったよ。ただし、最悪の事態だけは避けてくれよな」
主人が白旗をあげた。
正直のところ、彼とは戦いたくない。勝てる見込みはない。
戦いたくないけれど、どうしてか悪い気はしなかった。
ナッツのほうに、ちらっと向いてみた。腕組みしたまま動かない。
心配しているのか、それともやる気満々なのか。
私に知る由はないけれど、さっきのこと、気にしてるのかな。
◇◇◇
「無理はしなくていいぞ、ユウ」
分かってる。主人は口癖のように言ってくれる。
私は座ったままうなずく。後ろには棒立ちの主人が居てくれる。
「使う技の制限はなし、一対一のノックアウト方式。異議は?」
「ありすぎて困る」
向かい側のナッツとその主人と対峙する。
負け戦なんてするもんじゃない。
「考えても進まないさ。じゃあ始めよう」
開始の合図と一緒に、ナッツが飛んで来た。
浮いてないけど。びっくりするほど、かなり、速い。
引け腰になってしまいそうだった。
「避けろ!」
主人の声が響いた。怖じ気づいてた脚が保ち直る。
右か左か、二者択一。どっち。
ナッツの振りかぶった爪は右前肢。軌道の外に出ようとするなら、向かって左側が無難。
思った傍から横っ飛び。真っ黒な煙を纏った刃は、目の前を通り抜けた。
うわあ、怖い。
「尻尾だ」
主人からは、反撃の合図、だろうか。私にそんな勇気はない。
でも、やるっきゃない。動作が終わったナッツ目がけて、力を入れた尻尾を振りおろす。
少しだけ、躊躇した。
尻尾は地面に激突。ナッツは避けてた。
「へえ。意外とがんばるじゃん」
「こっちは折れてやったんだ」
「じゃあ次はどうかな。ナッツ、悪の波動!」
聞き覚えのある音が頭の中で波紋を広げる。波打つ先は、私が気絶したあの大技。
悪の波動、間違いない。
「嘘だろ、ユウ!」
背筋の凍る感覚が思い出される。あれは絶対に嫌だ。
力を込めるナッツは目と鼻の先。どうやったって避けれない。
どうにもしようはないけれど。ぎゅっと目をつむった私は、無事で済みたい一心だった。
もし、私の周りを、誰かが囲ってくれたら。
「また吹っ飛ぶかな?」
「おいおい、さすがに鬼畜だろそれは。ユウ……!」
長い時間が経った。
技が発動されるには、長すぎる。体には何も影響がない。
まさか、考え直したナッツが戦意を失ったのではないか。
目の前で何が起きているのか確かめたい。つむっていた目を開く。
すると、私の周りを真っ黒な流れが囲んでいる。煙とは違う気がするけれど、脈打つ様子はおぞましいの一言だ。
でも、吹き飛ばされていない。むしろ、私を避けているように見える。
ナッツが手加減してくれたのかしら。遠慮なんていらないのに。
ちょっとだけ調子が出てきた。
「あの光は……」
「ゆ、ユウ?」
技を終えたナッツが目を開いた。私を見つけたその表情は驚きによるものだろう。
何が起こったか分からないけれど、これは攻撃のチャンスだ。
突進して体をぶつける。倒れたナッツの真上に跳び上がって、尻尾の追撃を準備する。
着地する頃には避けられていた。的のない攻撃は、再び地面を叩く。
尻尾がぶつかると、やっぱり痛い。
「補助技使えないって嘘も、ほどほどにしてよ」
「俺は事実を言ったまでだ」
「あの回復力で薄々感づいてたけどなあ。ユウちゃん……センスはありそうだ」
ふと、主人たちの会話に耳が向いた。名前を呼ばれると、よけいに気が散ってしまう。
これまでの攻防の繰り返しで、気が大きくなったのかもしれない。
何の気なしに後ろを振り返ってみた。
何か御用かしら。
「おあっ、ユウ、よそ見するんじゃない!」
焦りが目立つ主人の声をぽかんと聞く。もう一度思い出してみて気づかされる。
戦闘中だ。ナッツはどこに。
右からの空気に違和感を感じた。
状況を把握しようと確かめた。右を向いたのは間違いだった。
黒い風が迫る。三本もの鋭い爪が、私の腹部を突き破ったかのように見えた。
切り傷は痛くて熱い。でも影を纏った攻撃は、穴が空いてなくなるようで、冷たい。
開きっぱなしの口から、静かな吐息が漏れて。
ナッツが前肢を離したすぐ後に、崩れ落ちた。
「ユウっ!」
主人の声が遠のき始める。
ナッツの言葉が、頭の中によみがえった気がした。
“よく生きてこれたな”。彼は、たしかそう言っていた。
「決着ついたよな?」
「そうだね」
「ユウ! 大丈夫か!」
主人がこちらに駆け寄ってくる。
負けちゃった。ごめんね、主人。
抱き上げられる感覚が私の体を包み込む。視界が高くなって、主人の腕の中に納まった。
自分で歩ける元気はなさそうだ。
それでも、意識ははっきりしている。
「出血なし……ナッツ、手加減したのか」
対戦相手もこちらに近付いて来てくれる。
私を中心に。そう思うと、顔が綻んでいたかもしれない。
「ユウちゃん、すごいや。将来大物になりそうな気がするよ」
「無理矢理戦わせて、言いたいことはそれだけだったんじゃないのか?」
「うわ、ひどいなあ。俺が見る限り才能は眠ってる気がする。お世辞じゃなくて」
私も、いつまでも主人に頼ってばかりじゃいけない。
がんばろう。がんばりたい。
ちいさな気持ちが高まった。せめて、自分の脚で立って歩けるようになりたい。
攻撃された。そのまま一匹で地面にしおれていると、何されるか分からない。最期まで殴ってくる奴も、居ないとは言えないんだから。
倒れなければ、なんとかなる。
主人の腕の中でもぞもぞと動いてみた。
「ユウ? おまえ、もう大丈夫なのか……おっと」
主人の手から離れて地面に着地した。でも、まだ体はふらつく。
立って歩こう。自分の体で、生きていくんだ。
日差しが強くなった気がした。ゆっくりと空を見上げてみる。
雲一つすら盾にしない太陽は、堂々としていて、暖かかった。
「日差し? いや、これは」
力が戻ってくる。立ち上がって伸びができた。
主人を見上げて、ナッツたちのほうに振り返った。
みんな揃って私を見つめてる。黙ってたナッツもまん丸い目をしていた。
何か御用?
「ユウやっぱりすげえ!」
お持ち帰りしたいーとか、あんたうらやましいなあーとか、いろいろ聞こえてきたけれど。
これでよかったのかしら。わ、ちょ、くしゃくしゃ撫でないでよ、主人ったら。
「ざっとこんなもんだ」
「よく分からなかったけど」
「自分の体だろうに」
トレーニング後の反省会。一番近いから、という単純な理由で、私たちの家に集まった。
頭を抱えるナッツが必死に説明してくれている。私の身に起こったことを分析しているみたい。
それを聞いていても、いまいちしっくりこないというか、何というか。ナッツすらも信じられない様子だ。
「何が納得できない?」
「すべて」
「よし、一から説明してやる」
「ありがとう」
「……本気で言ったのか?」
「そうよ。ナッツが一番分かってそうだし」
「あのなあ……」
俺が分かっておまえに理解できないことがあるのか。険しい顔をしながらぶつぶつとぼやいている。
私は知らない。ナッツに丸投げしてあげる。
「ええっとだな。まず俺が吹っ飛ばしたときのこと」
「あれはびっくりしたわ」
「ごめんって。あのときユウは、気絶じゃなく眠ったんだと思う」
「意識がなくなるから、両方同じね」
うーん、違うんだ。なんて面倒くさい話になりそうだったけれど、まあ、ほっとこう。
「眠ったんじゃないのか?」
「背負われて気持ちいいとは思ったけど」
「そうか。起きたときにぴんぴんしてたからなあ」
俺の背中はいい寝床。腕組みしながら自信満々に言うから、ほんの一瞬だけ、この言葉にのしかかってやろうかと思った。
ううん、自重しようと思う。私って偉い。
「で、俺の波動を防いだとき」
これは不思議だった。
黒い煙、彼の言う波動が、私の周りをきれいに避けていた記憶がある。
「ナッツが手加減してくれたんでしょ?」
「威力だけ、な」
「私の周りだけ寄ってこないなんて、器用ね」
「そんなことはできん」
だから私が何かしたんじゃないか。ナッツの言いたいことはそんな感じだった。
何かした覚えはない。私は知らない。
「まあ、断定はできないな。眠るも守るもマシン技だし」
私は補助技を使うことができない。
でも聞く限りでは、これら二つとも、技マシン……というものから覚えないと習得できない補助技みたいだ。
日常生活では触れることがない、しかも未発達なエーフィが、そんな真似をしていいのだろうか。
ナッツの洞察力も凄いけれど、正解であってほしくない。技は出せない。
……技が使えるようになったのならうれしいのだけれど。
「問題は、おまえの驚異的な回復力だ。いつ覚えた?」
自分なりの考えを広げていたところ、ナッツの口調がいきなり真剣なものになったから、ちょっとだけたじろいだ。
「え」
「朝の日差し。知らないとは言わないでくれ」
「いや」
「使いこなし方も目を見張るほど鮮やかだ。俺が今まで見てきたなかでもトップクラスだろう」
「あの」
「そんな奴が本当に補助技が使えないのか? もともと熟達してないと使いこなせないんだぜ、これは」
「えっと……」
だめだ、聞く耳を持っていないみたい。そっぽを向いて喋っている姿は後戻りできないだろう。
知識をかき集めるために、より多くの戦闘をこなす。それ相応の経験を積んだ者でないと得ることはできない。
でも、努力だけじゃない。ある程度の素質も必要だ。
それは、太陽と会話ができるようになる、と比喩されるほど。ナッツはそんな大げさなことを言っていた。
朝の日差しは、あまり好きではない。朝には弱い。
そもそも、体を元気にさせる効力を持つなんて。私は、ただ単に、なんとかしようと思っただけ。
願いが叶ったのよ。
「信じられん……よし、ユウ」
「なあに?」
「何か補助技でもやってみようぜ」
「はあ? あんなのまぐれよ」
「今できなかったら認めてやる」
「だからできないんだって」
「やってみなけりゃ分かんないだろう」
「あんたも、あんたの主人と同じこと言うのね」
ナッツがこちらへと詰め寄ってくる。その赤い瞳に嫌とは言えない。
思い通りに丸められてしまった。私も、私の主人と似たり寄ったりかしら。
仕方ない。手加減してもらうしかない。
「分かった。やってみる」
ため息混じりに開き直ってみたところ、どうしても不安が拭えない。
どうやって技を発動させようか。
主人と一緒に練習しているときは、力を込めたら、目眩を起こして倒れ込んでしまう。
それが今回、監督はナッツになる。
もしナッツのほうに、倒れ込んだら。
だめだめ、何考えているの。
「ユウ?」
「えっ、あっ。呼んだ?」
「できそうか?」
「いや、うーん、難しいかなー、なんて」
いきなり呼ばれると驚いてしまう。
やましいことは一切考えていないつもりなのに。
「そうかあ。そうだな……それなら、気分を変えて特殊技だ」
聞こえた言葉に、さらなる動揺を隠せない。
つまり、彼は念力を試してみたいと言っているようなものだ。
立ち眩みを起こす確率が、とてつもなく高くなってしまうではないか。
「特殊なら取っつきやすいと思うんだ」
彼のことを思うと、心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。
もし失敗したら。いやいや、そんなこと考えたら。
早まる思考は自分の世界へと導き入れる。
「どう思う? ……ユウ?」
名前を呼ばれたところで、現実に引き戻される。
「あっ」
「聞いてたか?」
「えっと、特殊技、だっけ」
「ああ。どうせやるならこっちのほうが簡単だろ」
「ええー。それはさすがに」
とりあえず、ナッツに悪いことと、疲れていること、今は室内に居ること。この三つで凌ごうと思った。
実は、疲れは取れている。走り回っても大丈夫だろう、と思えるほどに回復している。
無性に、解決してしまいたくなかった。ただそれだけだった。
「そうだよなあ。今までの経験が少ないのに、がんばりすぎると体に毒か」
ナッツは納得してくれたみたいだ。
とりとめのない、さりげない、偽り。
これで、よかったのかしら。
「腹減ったな」
「もうすぐだとは思うけど」
実戦演習をこなしているうちに、お昼をまたいでしまった。主人の料理に、空腹の口が四つ集まる。
ナッツの食べっぷりに驚かされるのは、また後のことだった。
◇◇◇
「ユウ! さすがじゃないか!」
お昼をすませて間もない頃に、主人の大きな声が響いた。ナッツたちは帰っちゃった。
よその人が居なくなったからって、大きな声出さないでよ。
「ナッツと会って、変わったな」
じっと見つめてくる主人は、含んだ笑みに見えた。
彼を引き合いに出してほしくない。言葉にできない恥ずかしさが、喉の中に立ち込める。
「やっぱり、ポケモン同士で遊ばせるほうがいいんだな」
断言する。遊んでいない。
力尽きることが身にしみて分かった。
別に、ナッツだったから許せた、そういうわけではないから……ナッツが理由になんて、ならないんだからね。
でも主人が言うには、私は今まで他のポケモンと接していないらしい。
この家には、私一匹。食事が関係して、二匹めは敬遠したみたい。
ナッツなら、私は大歓迎。
「これでユウも一人前だな」
いつもの通り、頭を撫でられる。
手の隙間から、主人を見上げた。
にこにこしている。はずなのだけれど、どこか曇った表情をしていた。
ちいさな感覚が浮き上がってくる。薄目を開けると、だんだんと意識が戻ってくる。
いつものあくびを一つつく。
ソファの上に起き上がっても、寝起きの体はあまり言うことを聞かない。
窓の外には、空を薄くさえぎるやわらかい雲が出ていた。
気づいたことが、また一つ。陽が、差していない。
台所を見てみた。主人が、居ない。
空は明るいのに、太陽が顔を出していない、となれば。
早起き。これに尽きる。
ソファから降りた私は、主人の居る寝室へ向かった。
「それにしても、珍しいな。ユウが起こしてくれるなんて」
私の目覚ましは、あまり期待しないほうがいいと思う。もともと、早起きは苦手だ。
朝ご飯をすませた後、おなかいっぱいの休憩時間を満喫する。伸び伸びと過ごす気分は、これまで感じたことのない新鮮なものだ。
「よし、センターに行くか」
げ。
また、ですか。
せっかく調子が出てきたと思ったのに、その一言で台無しだ。
仕方のないことかもしれないけれど、気は乗らない。
私はうつむいて耳を伏せた。
「そんなに落ち込むなって。いい結果はついてくる」
顔を上げると、こちらを向いて微笑んでいる主人が見えた。
嫌いなイメージを好きだと思いこむのは難しい。
なんとかならないものかしら。
主人の足に擦り寄って、体を伏せる。行きたくない。
「ユウ?」
首を左右に振る。
こうなったら、徹底的に駄々をこねてみよう。
私は嫌だ。
「協力してもらったナッツのこと、裏切るのか」
主人の言葉に驚いた。とっさに顔が向く。
ナッツを、裏切る。
私は、そんなつもりじゃ。
びっくりして、見上げたまま固まってしまった。
「そんなに嫌なのか? うれしい結果が待ってると思うぞ。ナッツに報告してあげたくならないか?」
今まで、技を出す練習をやってきた。
達成されたのは、昨日。ナッツだって知っている。
技を使うことができれば達成されたも同然だ。そこにはセンターも何もない。
どうして検査が必要なのか。私はそれが知りたかった。
「でも……いきなり補助技が出せたなんてなあ。本当にまぐれか、ユウが隠してたか」
主人の言葉に注意が向く。
まさか、隠していたなんて。そんなことは一切ない。
またまた大きく首を振る。
「それを確かめに行くんだ。ユウだけじゃなくて、俺も知りたいし」
なるほど、技が出せるということをカタチにする、ということか。
なんて納得できると簡単だ。
逆に、技が使えれば結果もその通りになるはず。検査をするまでもない、火を見るより明らかだろう。
さすがに疲れてきた。ここであきらめるのもありかもしれないと思える。
「行こう。な、ユウ」
しぶしぶ体を起こした。仕方ない、ここまでやったのだから、最後まで見届けよう。
ちょこんとお座りの姿勢から背を向ける。主人に振り返って、エーフィ独特の一鳴きをした。
「いい子だ」
玄関に向かう主人。その姿を追いかける。
背中が小さく見えたのは、気のせいだろうか。
「おはようございます、朝早くからご苦労様……あ、ユウちゃん」
開門一番、とでも表現できようか。
毎回ここにお世話になるため、私と主人は顔を覚えられているみたいだ。
来院者に笑顔を添えて、丁寧に言葉をかける女性。白地に赤い十字の帽子をかぶっている。
主人いわく、ジョーイさん、という人物だそうだ。詳しいことは分からない。
「いらっしゃいませ」
「お世話になってます」
今日も検査ですか? 尋ねるジョーイさんに、主人は肯定の相槌。
やっぱりやられる。いざ目の前にしてみると、ため息の一つもついてみたくなる。
「いつもいつも、すみません」
「いえいえ、こちらは仕事でやってる者ですから」
検査代は、本当に無料なんですか? と主人。ジョーイさんは、構いませんよ、それに院長が気に入ったみたいなんです、と返事をしていた。
「いやいや待って、先生が?」
「研究のやりがいがあるってことですよ」
「……ああ、そうですか」
一瞬だけ、主人の目の色が本気になった。
どうしたのかしら。
「じゃあ、処置室に移動しましょう」
そう言ったのはジョーイさん。ユウちゃんはお利口さんなので助かるんですよね、と続けられた。
「そうですか。こう見えて、けっこう駄々はこねるんですよね」
「本当に? ご主人様には遠慮がないのかな」
ジョーイさんが微笑んだ。
まったく。主人、よけいなことは言わないでよ。
本番手前に、和やかな空気が訪れる。ただ、それが自分自身の内面となると気まずいばかりだ。ほら主人、にやにや笑ってんじゃない。
ため息の一つもついてみたくなる。
「ほい、検査結果だ。うちに来る頻度が増していないかい?」
今日も白衣のおっちゃんに診られた。私を扱う手つきがとてつもなく気になるけれど、それさえなかったらいいヒトだと思う。
「そうですね。もう今日で最後だと思うので」
主人に紙が渡る。たぶん、今回の結果だ。
「大丈夫か? 相変わらずだぞ」
紙を見た主人が、小さな、驚いたような声を出した。私は聞き逃さなかった。
「パワーポイント、
「そんなはずは」
比較的大きな声が遮った。
主人が発したものだった。
「失礼ですが、検査のやり方、間違ってないですよね?」
「……と、言うのは?」
「技は、出せました」
「……まさか」
二人とも神妙な顔つきになった。よく分からないけれど、深刻なことなのだろう。
さっき聞こえたパワーポイントなら耳にしたことがある。私たちポケモンが持っていて、技を使うときに消費するものだ。
それはとりわけ、物理攻撃以外のものに。体当たりなんて体をぶつければいいだけの話、誰にでもできる。
私が技を出せないのは、それがないから。主人の推測を確かめるべく、検査してもらえるセンターを見つけた。
案の定、結果はパワーポイント切れだった。技の元になるチカラがからっぽ、ということになる。
その後からが大変だった。
ピーピーマックスなんて妙な薬品は飲まされるし、ポイントアップだのドーピングだのと試させられた。
成果は皆無だった。主人が言うには、副作用が出なかったことだけよかったみたい。
主人の懐もさびしくなって身動きがとれなかったところ、それじゃあ初心に返りましょう、と先のジョーイさんにアドバイスされた。
技の練習を重ねていた途中に、ナッツと出会って。それから今に至る。
「いきさつを、聞かせてくれないかね」
「いいでしょう。マニューラとの戦闘中でした」
あ、ナッツとの訓練だ。そう思える私は、とんでもなく無頓着なのだろう。
からっぽのお皿に、水が湧いて出てくるようなもの。その水を使う私。あり得ない。
あり得ないと分かっているから、よそ事みたいに冷静なのかもしれない。
「眠ると、守る。それに朝の日差し。これらが使えたように見えたんです。技マシンを使った覚えはないですけど」
「技マシンを使ってない? それに、技量の少ないユウちゃんが?」
「そうですよ。でも出せたんです」
「そうか……ふうむ」
「……疑われるのも、無理はないと思います」
「いや、私は信じる。常々思っていたが、君のエーフィは新種かもしれないぞ」
エーフィの形をした化け物かもな。って失礼な。私に向かって言わないでよ。
おっちゃんの冗談に、気さくな主人は……笑っていなかった。
「とにかく、様子を見よう。理論上では無理なのに可能だとすれば、不確定、悪ければ底無しを意味するからな」
「悪ければ、底無し……せ、先生、それって」
「あまり深い意味はない。君の大切なポケモンだろう」
守ってやりなさい、とおっちゃんが続ける。
いささか、主人の返事が震えていた。何に対しても見下ろし目線の、あの主人が、まさか動揺したなんて。
若干の不安がよぎる。私、どうなるの。
◇◇◇
「お疲れさまです」
ロビーに戻った私たちに、ジョーイさんが挨拶をしてくれた。
「どうかされたんですか?」
その言葉は主人に向かっていた。主人が気づいたように足を止める。見てみると、顔色が悪かった。
「あ、いえ」
「ユウちゃんはしっかりしてるから大丈夫ですよ」
とっさの切り返し。ね、ユウちゃん、なんて言われたから、私はあわてて、主人の足に頭をこつんとぶつけた。
そのまま見上げる。主人と目が合った。
苦しそうな目をしていた。
なんで、そんな顔するの。主人らしくない。
「そう、ですよね」
じっと見つめてあげたら、主人の顔が、やっと綻んだ。
「ユウなら、大丈夫ですよね」
そうですよ、とジョーイさん。深く考えないで、パートナーを信じてあげて。
「朝早くからご苦労様です」
ジョーイさんが入り口に向かって行った。
一組の来院者が居た。
「ユウ、これからどうする?」
主人の声を追いかけて。もう一度、見上げた。
どうするも何も、私は主人につき従うだけだ。
尻尾を振って一鳴き。私をよく分かってくれるヒトは、主人しか居ないもの。
「おまえの能力は把握できない。でも、ほんとうの意味で技が使えるようになってほしいんだ」
主人の言葉は分からなかった。“本当の意味”って何だろう。
少しだけ首をかしげる。主人なりに思っていることがあるのかな。
「じゃあ、終わったし、帰ろうか。またここには来るかもな」
ええー。もう技は出せたし、ホントに終了したと思っていたのに。
落胆した。また検査なんて嫌だ。
出入り口に向かった主人。遅れまいとついて行く私。
これから気温が上がるのだろう。扉に差し込む朝の陽は、その高さを増している頃だった。
心の世界は、感情で満ち満ちている。
生きている限り、それらは存在し続ける。
感覚として感じ取れることこそ、生命を燃やす証。
その源を。
それらを司ることができたときには。
感情を、力に変えることができたときには。
これまで起こり得なかったものが、実現されるのかもしれない。
それでも、
私たちは、生きている。
『初心-ういごころ-』 ―了―
うわあ厨二ったったった。乙。orz。
冗談はほどほどにして。
続くかも。
続かないかも。
作者のやる気次第となりますので、期待せずにお待ちください。
文章は書き続けます。
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お気軽にどうぞ
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