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初めましてのジャメヴ・Ⅲ

/初めましてのジャメヴ・Ⅲ
前:初めましてのジャメヴ・Ⅱ
  
※この作品は初めましてのジャメヴの続編になりますが、短編連作となっていますので前作を読まずともお楽しみいただけます。


ジャメヴは、ダンジョンの中で巡り合う――
ジャメヴは、体に染みついた記憶まで消すことはできない――
ジャメヴは、――


初めましてのジャメヴ・Ⅲ



水のミドリ


3-1.孤児院の子どもたち 2017/12/04投稿 


 身衣子(みいこ)が、クレヨンで絵を描いている。
 よれよれの反古(ほご)紙に穴が空きそうなほど顔を近づけ、布の下から伸びた影の腕でクレヨンを握り、ぐりぐりと紙面に押し付けていた。黒の画材でがたがたと縁取るのは、ジュペッタとデスマスの姿。紙からはみ出すような元気の良さで、ふたり仲良く踊っている。
 そっとドアを開けて小ぢんまりとした部屋に入ってきたデスマスが、布のほつれた人形のように揺らぐ身衣子の首後ろを見て、小さく笑う。紙屑で山になった籠を板張りの床へ下ろし、その背中を覗きこんだ。
「身衣子は今日もお絵かきなのね」
「わーおかえりコフィ! みてみて、これがチャックでねー、こっちがコフィだよ!」
「うん、わかるわかる。毎日描いて、偉いわね。昨日より上手くなったんじゃないかな」
 にかにかと目を輝かせて笑う身衣子に、コフィと呼ばれたデスマスもつられて頬をほころばせる。丸い手で身衣子の化けの皮を撫でると、それは嬉しそうにゆらりと回った。鼻息荒くお絵かきに戻った彼女を母親代わりに見守って、コフィは運んできた竹の籠を傾けた。がさり、と紙屑が狭い部屋に散乱する。
 霧の大陸は製紙都市パピルスの孤児たちがまず覚える仕事といえば、紙屑拾いだ。日がな街を練り歩き、落ちている使い古しの紙切れを集めて回る。だいたい籠いっぱいに積み上げられれば、いつもは怖い孤児院の婦長であるサーナイトに褒めてもらえるから、体力のあり余る子供たちはこぞって競うものだった。
 そうして回収された古紙は、まず紙の原料によって仕分けられる。次いで種類ごとに大樽で水にさらして融解・漂白し、それから職人の手で()き返され、染みのない薄墨紙に生まれ変わるのだ。ユキメノコの肌ほど白い高級品はさらに加工を施され、精巧に作られた継ぎ紙は孤児院の貴重な収入源になっていた。
 コフィは竹ざるを3つ並べると、転がった紙屑を広げて汚れがないかを確かめて、分別していく。慣れたもので、指先に触れるだけで原料は分かるようになっていた。繊維が強くてがさついたものは(こうぞ)、光沢があり緻密で滑らかな肌触りは三椏(みつまた)。たまにしかお目にかかれない雁皮(がんぴ)のものは、水の大陸からの渡来品だった。半透明で粘りのあるその反古を紙の山から最後に見つけて、コフィは目を丸くした。格子に厚手の紙を貼りつけた窓、そこから漏れる白い光に透かし見る。仕分けの仕事を任されたのはこれで2年目だったが、実物を手にするのは3度目だった。紙漉き日和の乾いた冬の午後、3つのざるを抱えて孤児院の外に出たコフィが、何かいいことが起こると予感しながら大きく息を吸いこんだ。


黄色のクレヨン


 年季の入った2階建ての木造建築を裏手から出ると、芝の揃った小さな裏庭を挟んですぐ小川に差しかかる。ほとりで木樽に水を汲んでいたジュペッタの背中を見つけると、クスっと笑ったコフィが気配を殺して近づいた。
「――いまだっ」
「いやバレバレだって」
 ワッ! とコフィが驚かす寸前、彼女の影から黒い手がぬっと伸び出した。腕を伸ばして隙だらけの背中をなぞる、影のように冷たい平手打ち。先制して弱点を突かれたコフィは、「いひィ!?」とおかしな悲鳴を上げた。
 呆れたようにジュペッタ――チャックが振り向いて、地面から影の腕を引き抜いた。川の水をすくい、のびるコフィへと飛沫を飛ばす。雪解け水のような冷たさに跳び起きた彼女へ仕返しするように、しばれる水をすくっては腕の先を弾いていた。
「いきなり背後から仕掛けてきてよぉ、返り討ちに遭う覚悟はできてるんだろーなぁ?」
「ちょちょちょ……冷たいから! ごめんチャックっ、許してって!」
 くちゅん、とコフィが可愛らしくくしゃみしてようやく、チャックは湿ったぬいぐるみの腕を小川から引き揚げた。彼女の抱えてきたざるから古紙を引っつかむと、くちばしのようにちょんと飛び出た鼻先からしたたる粘液をぬぐってやる。
「婦長の頼み事を張り切るのもいいけど、バトルの鍛錬もしておけよー。コフィもそろそろ年長なんだ、いざというときに弟や妹たちを守れるようにならないとなぁ。それからほら、コフィが力むから俺の腕がミイラになっちゃったじゃんかー。特性は抑えておけって言ったろ?」
「わっごめんね!? そっとしておけばすぐ治るから」
 慌ててコフィが手に取った彼の右腕には、包帯を巻いたように影のあざがぐるぐると走っていた。コフィは体に触れられると、相手をミイラにしてしまう特性を持っている。意識していれば自らの効力を封殺しておくことができるが、影から打たれるなど不意を突かれると思わず発動してしまうのだ。まるで折った骨をギプスしているような腕を、チャックは煩わしそうにゆすぶった。
 痛ましい親友の姿に、コフィは目じりを下げる。実際チャックの腕はボロボロだった。孤児院で最も上質な薄墨紙を漉せる彼の手は、毎年長い冬の間ずっと冷たい水にさらされ続け、布がほつれてしまっていた。コフィと3歳も年は離れていないのに、すっかり職人の手だ。
 濡れてもなおミイラのようにかさついた彼の腕を、コフィはいたわるようにさすった。
「チャックこそ、紙漉きの仕事、頑張りすぎなんじゃないの? 最近はみんなが寝静まった後に部屋を抜け出しているの、わたし気づいているんだからね。……そうよ、いい機会だわ。ミイラになって不眠も解消したついでに、ちょっと寝ておけばいいのよ。わたしが手を貸すから」
「やめろバカっ、コフィが覚えているの、催眠術じゃなくて悪夢*1じゃねーか! 俺の心配するくらいなら、頼れるくらい強くなれよなぁ」
「わたしはバトルが苦手なの、知ってるくせに……」
 いつもの軽い口喧嘩を挟みながら、手は自然と仕事をこなしていた。水を半分ほど貯めた大樽へ、仕分けた紙を落とし込む。子供たちが集めた楮の古紙に、植物の灰を漂白剤として混ぜ入れた。
 1日かけてこれが、米を発酵させたような白濁質の液体へ溶け出していく。浮いた塵を手で根気よく取り除き、硬く網のようになっている原料を打ち棒でたたいて繊維をより細くほつれさせていく。綿のように空気を含むようになるまでしてようやく、紙漉きの工程に移るのだ。
 かじかむ手に息を吹きかけるコフィが、そういえば、と樽を覗きこむチャックの裾を引っ張った。
「わたしにもそろそろ、下準備だけじゃなくて紙を漉くやり方を教えて欲しいな、なんて」
「コフィが漉けるのかぁ? 手は何時間もずっと水の中だぞ、こんなんで寒い寒い言ってちゃ、務まらねぇよ」
「バトルよりは得意だよ、きっと」
「……ま、やってみればいいんじゃねぇーのぉ」
 期待はしていない口ぶりで、チャックは付いてこいと手招きする。せせらぎに沿って少し上流、そこに大きい流し台のような松の容器が鎮座していた。
 寝かしておいた綿のような繊維塊を孤児院の倉庫から持ってきたコフィが、水を敷いた松の容器――漉き舟にそれを浸す。冷たさに身を震わせながら全体にいきわたるように掻き回した。接着剤としてトロロアオイから抽出したでんぷん質を加えてなじませる。
 準備は整った。竹ひごを編んで木枠にはめた紙漉きの道具――簀桁(すけた)を沈めると、チャックは身を切るような清水に両腕をざんぶと突き込んだ。迷いのない、勇ましい後姿だ。
「まずは見てろってーの」
 それだけ短く言って、チャックは漉き舟に向き直る。水中で両手に掴んだ簀桁を、まず横方向にだけ振り続けた。木枠が傾き舟の中で波に揺られていく。ちゃぷ、ちゃぷ、水の尾がへりで弾け、小気味良い水音を等間隔に刻んでいく。時おり簀桁を上下にも振って、水から揚げては繊維の層を目で見て確かめる。
 紙漉きをできる年長生は孤児院にあと2人いるが、チャックの漉きあげる再生紙は格段に質がいいと婦長のお墨付きだった。コフィはその腕捌きを目に焼き付ける。不定形な影の腕が、白く濁った漉き舟の中で溶け出していくようだった。
「ん、これで1枚」
 その腕前に見とれていたコフィが気づいたころには、彼は簀桁から紙を剥がすところだった。呆れた目線にはっとした彼女が、孤児院の外壁に立てかけられていた干し板を慌てて取ってくる。そこに1枚貼り付けて、彼はコフィに簀桁を譲った。
「そう、そこ持って……。冷たくっても離すんじゃねーぞぉ?」
「……っ、がんばる」
 気を引きしめたコフィが、しっかりと握った簀桁を漉き舟に突き入れた。大丈夫、冷たさにはもう慣れてきていた。いざ職人のように動かそうとして、思い通りにいかない。水の中で重いものをゆするのは、想像していたよりも力がいるらしい。
 できていないことは、自分でも分かった。不安になって、ずっと黙ったままのチャックを振り向く。
「……わたし、上手くできてないね?」
「あーもう、見てらんねーよ」
 案の定、とでも言いたげに閉じた口の端からため息をこぼしたチャックが、コフィの後ろからかぶさった。二人羽織のように彼女の手を上からにぎると、たどたどしい動作を繰り返すだけの腕を慣れた手つきで振動させる。
「もっと力入れろ、コフィは浮いているから体でバランスとって……そうそう、飲み込み早いじゃねーの」
「こっ、……こう、かな?」
 彼の動きに合わせて、コフィも腕を振るった。しかしそれどころではない。タマゴの頃から同じベッドで寝ている仲とはいえ、チャックとこんなに近づくことなんて普段ないのだ。冷たくふやける水、背中に感じる彼の体が温かい。
 意識してしまうのは、自分だけじゃないはず。もどかしくなったコフィは、それとなく口にする。
「なんか、ときめいちゃうかも」
「……バーカ、俺たちみんな兄弟だろ。俺がこうしてやってるのも孤児院を支える仕事だからだ。バカなこと言ってないでちゃんと覚えろ」
「でも、その兄弟たちはそう思っていないみたいよ?」
「あ?」
 顎で示した彼女に促され、チャックは後ろを振り返った。で、ぎざついた目を剥いた。いつの間にか紙屑拾いから戻っていた年少の子たちが、遠巻きに孤児院の壁にもたれてニマニマとこっちを見ていたのだ。ハスボーにマネネ、ロゼリアなんかが、お互いに潜めあってクスクスと囁いている。ウワサ好きのエレキッドの姿を見つけて、チャックは露骨に舌打ちした。
「なんだてめーら、いま仕事中だ、邪魔するなっ!」
「邪魔はしてないじゃないの……」
「あーもう、今日はやめだ、やめやめ! 戻るぞ! ……そうだ、身衣子はどうしてる」
「いつものように絵を描いているわよ。ずっとひとりで、他の子とも遊ばないで……」
「……ちょと見てくら。コフィは後片付けしておけよ!」
 ぶっきらぼうに簀桁を放りだすと、チャックはずんずんと裏庭を横切っていった。子どもたちが遠慮なく送りつけてくる冷やかしの眼差しを、煩わしそうに腕で振り払う。途中で「チューした!? コフィ姉ちゃんとチューまでいったの!?」とはやし立てたエレキッドは、通りすがりの影打ちで思いっきり尻をつねられていた。


3-2.化けの皮 2017/12/16更新 


 きし、きし、きし。傷んだ廊下を軋ませる音が、孤児院の一番奥の部屋まで響いてくる。その間隔と踏み込む深度だけで足音の主をチャックだと認識した身衣子が、握っていた画材を投げ出した。ドアが開ききるのを待たずに、その影へダイブする。
「身衣子、おめーはまた絵なんかに夢中になって――おわ!?」
「チャックっ、遅かったよー! お仕事お疲れさま、今日は何をしてきたの? 買い出し? 紙漉きはしてないよね、ミーコとの約束だもんね?」
「だー、質問が多い! いきなり跳びついてくるなって言ってるだろー、コフィの驚かしよりよっぽどビビったぜ」
 腹に柔らかく沈み込んでくる身衣子を、チャックはやんわりと引き剥がす。興奮してヘッドバンギングする彼女に「首が折れると怖いからやめろよなぁ」となだめると、身衣子はぴたりと静まった。婦長に叱られたときのように見る間に涙目になって、震えながら彼の腰にすり寄ってくる。
「ふぇ……。チャック、ミーコのこと嫌いになっちゃった?」
「ンなわけねーだろうよぉ。ったく、おめーは情緒まで不定形かぁ?」
 面倒さを隠すようにチャックが曖昧な返事をすると、身衣子はぱっと明るくなった。化けの皮の奥で、彼女の表情はコロコロと変わる。今ほどチャックに煙たがられていたことなど無かったことのように、身衣子はよれよれのキャンバスを掲げ上げた。
「――ねぇ見てみて、チャック描いたよ! 昨日よりもずっと上手に描けたんだから!」
「おーどれどれ、ほぉ……よォく描けてるなぁ、身衣子は将来、有名な絵師になれるかもなー」
「ほんと!? えへ、エヘヘ……!」
 でかでかと中央に描かれたジュペッタと、その隣に浮かぶデスマス。背景には簡単な直線で孤児院が建てられていた。その前に並ぶ、元気よく線のはみ出した子どもたち。ニョロモとメタモンが判別しづらいが、20匹ほどいる孤児を全員描き込んだようだ。子供たちの後ろで角をはやした鬼の形相のサーナイトは……、この絵を見た婦長にきっとそっくりだろう。
 買ってもらった舶来品のクレヨンを、身衣子は惜しげもなく使い込んでいた。初めのうちは力加減がわからずよく紙を破いていたが、近ごろは塩梅を覚えたようだ。というよりも、クレヨンでのお絵かきに適した裏紙か、試し描きをするようになった。嬉しそうに身衣子が見せびらかす楮の半紙の表、片目が義眼のお尋ね者の鳥ポケモンは、描き加えられたヒゲと頬の渦巻きのせいでまったく悪そうには見えなかった。
 身衣子の力作を覗きこむチャックに、彼女は満足げに頭を揺らす。その双眸がカラフルな反古紙を持つ彼のボロボロになった腕を捉えて、再び豹変した。
「あーーー! またそんなになって!」
「ぅを!? 急に大声出すなよなぁ、ビビる」
「また紙漉きしたでしょ! もうやめてって言ったのに、ミーコとの約束、守ってくれなかったんでしょ!」
「……そう言ってもなぁ」
「いいから、もうチャックは紙漉きしちゃダメなの! 腕だして!」
 ヒステリックに身衣子が喚き散らして、たじろぐチャックに詰め寄った。布地から覗く両目のすぐ下、中身をこぼしかけている化けの皮の下端へ、音もなく切れ目が浮かび上がる。そこから左右に走ったほつれが彼女の胴回りを計測するようにぐるりと伸び、輪を千切った。裾上げされて垣間見えた身衣子の中身が、モザイクを掛けられたようにざらざらと蠢いている。
 切り出した輪状の布を、身衣子はいくつかの正方形の布切れに分けていく。そのうちのひとつをチャックの腕のほころびにあてがって、反対の影の手に呪いのエネルギーを集中させた。
 影の呪い針を右手に創りだすと、握り込んでいたチャックの腕へそっと刺した。布地のほころびを針先で詰め、穴をふさぐようにつぎはぎを縫い止めていく。大きすぎる当て布は裁断し、神経を縫うような緻密さで糸を仕込む。慣れた手際で、彼の腕は黄色のパッチワークに生まれ変わった。
 最後の玉止めを結び終えた身衣子が、針を放り出して再度チャックの胸に飛び込んだ。破いた化けの皮の奥から飛び出た中身を彼の腹に押し付けて、じくじくと鼻水を擦りつける。裁縫の途中から涙声になっていた彼女が、あとは泣くだけだと言わんばかりに彼の生地を湿らせていく。
「……じゃ、ヤだよ……!」
「あ?」
「しんじゃヤだよチャック! チャックがしんだら、ミーコもしんじゃうからね!?」
「……バーカ、俺たちゴーストはもう死んでるみてぇなもんじゃねーか。身衣子が頑張って、俺の腕を直してくれたんだろ。そんなバカなことは言うなよ、な?」
 彼女の叫びが冗談ではないことを、チャックは感づいていた。彼女にはそういう危うさがある。きっとチャックが死んでしまったら、身衣子も本当に。
 ベルトのように腰へ腕を回す彼女の化けの皮に、チャックはそっと手のひらを乗せた。身衣子が呪いで浮き上がらせるピカチュウの顔は、彼女の描く幼稚なお絵かきに比べれば、おぞましいほど生々しくそこに貼りついている。

 床に直接敷いた毛布にチャックが寝転がり、身衣子に絵本を読み聞かせている。きぃとドアが軋んで、コフィが帰ってきた。目が悪くなるわよ、と呆れた調子で行燈(あんどん)に鬼火を送り込む。ぼぅ……と淡い光が3匹の影を作った。
「ただいま。お夕飯、すこし遅くなるって」
「なんだコフィ、ずいぶん時間かかったな」
「ええちょっと……。野菜の買い出しを頼まれて街に出ていたら、面白いポケモンに出会ったのよ」
「なんでぇ、夕めしが遅れるの、てめぇのせいじゃねーか」
「ごめんね、興味深い話だったから……」
「チャックっ、つづき読んでよんで!」
 話のクライマックスで腰を折られた身衣子が、ぴょんぴょんと催促する。絵本の中では色違いに生まれたドーブルが、同い年の群れのリーダーに嫉妬して森を燃やしてしまったところだった。
 1回しか読まないからちゃんと聞いとけよぉ、と身衣子をたしなめて、チャックはまた口絵に目を滑らせる。普段の口調からは想像つかないような優しい声色で、物語を紡いでいった。
 真剣そうな彼の横顔を、コフィはぼーっと眺めていた。刺々しい性格ゆえとっつきにくいところがあるが、誰よりも孤児院のみんなを想っている。頼まれごとは断らないし、相手のためなら自分の身を削ってでも付き合ってくれるのだ。
 絵本に集中していたはずの身衣子が、思いをはせるコフィを()めつけて口を尖らせた。
「コフィ、最近チャックにベタベタしすぎ。チャックのこと好きでもないんなら、ミーコのじゃましないでよね」
「邪魔してなんかないよ。わたしたちはいつまでも、仲良しゴースト3人組でしょ?」
「……ほんと?」
「本当よ」
 紙漉きで手が当たる事故があったから、コフィは少し固くなっていたかもしれない。そういうことに、身衣子は恐ろしいほど敏感だった。横になるチャックの肩へ縋りついた彼女が、布の奥から鬼火のような視線をコフィへ送っていた。
 嫌なわだかまりだ、とコフィは思う。身衣子が孤児として共同生活を始める2か月前までは、倉庫を改装した狭い部屋でチャックと一緒に寝ていても、何も意識しなかった。それがこうして目の前で彼が抱きつかれていると、下唇を強く噛みつけたくなるのだ。嫉妬しているのかもしれないと気づいて、コフィは心うちで自分を恥じた。
 キシキシと小さく威嚇する身衣子をなだめたのは、やはりチャックだった。「そんな怖い顔するなよなぁ」とわざとらしい声色で言うと、彼女のうなりはすぐに潜まった。
 落ちている反古紙を見つけて、拾い上げたイラストをコフィは覗きこむ。身衣子が描くデスマスがジュペッタよりも小さいことに、素直でいいな、と少し羨んだ。
 と、コフィはそれがまだ描きかけであることに気づく。
「身衣子よく見て。私の仮面とチャックの口、色を塗り忘れてない? それとエレマにも使っあげてよ。エレキッドが真っ黒じゃないの」
「あ、忘れてた! チャックだもん、ちゃんと塗っておかないとね。でもエレマには使わないよ、だって黄色は特別なんだから!」
「…………エレマは塗らねぇでいいぜ。エレマだし」
「チャック、お昼のことまだ根に持ってるのね」
「なんのこと? ミーコにも教えて!」
「いいからおめぇは塗れよぉー」
 チャックと喋ることがさも楽しそうだと言うように身を震わせて、身衣子は化けの皮の裏をごそごそする。取り出した黄色のクレヨンは、彼女がずっと肌身離さず持っているものだ。
 宝物を大事そうに握って、身衣子はまた紙面に向き直った。ジュペッタのジッパーは左右にぐしぐしと、デスマスの仮面は胡麻をすり潰すように、クレヨンを押し付ける。
 色塗りにいそしむ身衣子を見守りながら、チャックがコフィに向けて訊ねる。
「さっき話してた、夕飯を遅らせるほど面白いポケモンって、どんな奴だったよ」
「だから遅れたのはごめんって。えっと……、宿屋の前で旅のコジョンドと世間話したんだけどね。その彼、とあるひとを探して世界中のダンジョンを探窟しているんですって。その探しているポケモンが、『初めましてのジャメヴ』って呼ばれていて、記憶を消してくれるそうよ。聞いたことある?」
「んにゃ、そんなダサい通り名は初めて聞いた。で、どんな奴なんだよ。その、大陸を渡り歩いてまで会いたくなるポケモンってのは」
「それがね……」
 コフィは旅のコジョンドから聞いた話をかいつまんで説明する。そのジャメヴと呼ばれるポケモンは、不思議のダンジョンの中で出会うことができるということ。ジャメヴに記憶を消してもらえば、過去に引きずられることもなくなるということ。……記憶を消されることで、周囲のポケモンは傷つくことになるかもしれないということ。
「なぜかわたしに怯えているようで、詳しくは話してもらえなかったんだけど。体調を崩したみたいに宿へ引っ込んじゃった」
「おおかた霊ポケモンに飛び膝蹴りを透かされたことでもあるんじゃねぇか? 格闘タイプってだいたいそういうもんだろ。しっかしそんな出どころも怪しい眉唾モンの与太話、だれが信じるかってーの」
 興味無さそうに腕を振るったチャックが、お絵かきに熱中する身衣子の軋む背中に留められて、なるほどなぁ、と呟いた。
「万が一それが本当なら、コイツのトラウマも消してもらえるかもしれない、ってことか」
「……希望はありそう、でしょ」
「あぁ」
「――できた!」
 逡巡するふたりを振り返って、身衣子がのんきな声を上げる。クレヨンを丁寧に拭って懐にしまい、両手で紙を満足げに掲げあげた。寝たまま覗くチャックの顔と紙の中の彼を交互に見比べて、大好きな彼が増えたと言わんばかりに目を輝かせる。化けの皮を撫でてくる手に、にかにかと目を輝かせる。
「んじゃ、これも飾っとこーなぁ」
 もらい受けた絵画を、のそりと起き上ったチャックが木壁に押し付ける。コフィから受け取った鋲で、前日に身衣子が描いた絵のとなりに最新作を貼りつけた。
 身衣子がここで暮らすようになってから2か月、彼女は毎日1枚、絵を描いていた。倉庫を改装したチャックたちの狭い部屋の壁には、彼女の成長記録がずらりと並べられている。だんだんと上達していくジュペッタが、部屋の壁に踊っていた。
 その絵のどこにも、ミミッキュの姿は描かれていなかった。身衣子の大切な黄色のクレヨンは、ジュペッタの口とデスマスの仮面を塗りつぶすのみ。黄色い布で覆われた彼女自身の姿は、一度も紙面に描かれたことはない。


3-3.午前零時の脱走計画 2018/01/04更新 


 あれから5日も経つと、チャックの腕はミイラからぬいぐるみのフワフワ感を取り戻し、黄色のつぎはぎも元のジュペッタの体色になじんでいた。身衣子の化けの皮の裾も、きちんと中身を覆い隠すまで伸びていた。元物置き部屋の壁には、それから4枚の絵が並べられている。やはりそこにミミッキュの姿はない。
「――決行は今夜だぞ。いいな、くれぐれも計画通りに動けよぉ」
「わかってる」
 身衣子に聞こえないよう、チャックが声をひそめる。5枚目の反古紙を鋲で貼りつけたコフィが、彼を振り返って見下ろした。チャックの手の届く範囲にはもう絵を掲げられず、天井近くまで浮かぶことのできる彼女がその役割を継いでいた。
 そろりと降下したコフィが、ドアの側で夕飯にそわそわしている身衣子を見た。独り占めするように影の腕でチャックの手を引っ張る彼女、その化けの皮に浮き出た生々しいピカチュウの表情を見て、コフィは複雑な気分だった。
 コフィとチャックはここ5日で、噂に聞いたジャメヴというポケモンに会うために準備を進めていた。ジャメヴにはダンジョンの中で遭遇するらしいため、それなりの探窟*2装備が必要だ。幸い彼らの部屋は元物置で、埃をかぶった葛籠(つづら)をひっくり返すと探窟鞄は見つかった。身衣子に隠れて紙漉きを繰り返したり、薄墨紙の売り上げをちょろまかして貯めた硬貨で、食糧や不思議玉を買いこんだ。あとはダンジョンを攻略する手腕と、それから最も課題となるのはコフィの戦力だった。
 みんなが寝静まった夜の裏庭で、毎晩コフィは戦闘のいろはをチャックに叩き込まれていた。元来バトルが得意でないコフィは、ダンジョンの中ではともすると身衣子よりも心もとないかもしれない。
「目ェつむるなよー! そんなんじゃパンチが飛んできても避けられねぇじゃねーかよぉ」
「うぅ、だってぇ……!」
 闇に浮かぶようなチャックの赤い目を、しかしコフィは気丈に睨み返した。神出鬼没な彼の爪に引っ掻き回され、すぐに全身傷だらけになった。ミイラの特性を抑えることもままならないせいで、彼の腕には何重にも包帯のあざがグルグル巻きにしてしまっている。それでもコフィは泣きぼくろを拳で拭った。辛いし怖いし、おまけに寒い。なのに彼とふたりだけのこの空間を、どうしようもなく手放したくなかった。
 ナマコブシの歩みで稽古は続き、ようやくコフィも迫りくる敵から自衛できるようになった。ジャメヴがいつ現れるかの情報はないが、あのコジョンドがパピルスの街を去るまでが期限とみていいだろう。早いに越したことはない。
 夕飯の豆スープを胃袋に流し込んで、コフィたちは早々に部屋へ引き上げた。リュック型の探窟鞄に収める道具類を最後に確かめ直し、軽い睡眠をとっておく。脱出計画の決行はちょうど日付が変わるころだ。その1時間ほど前に孤児院は消灯を迎え、いくつかある子供部屋を婦長が見回りに訪れる。優しい声で囁かれた「おやすみなさい」を聞いたふたりが、闇の中くるまっていた毛布からのそりと起きあがった。寝つきのいい身衣子をチャックが抱えて、そろそろと物置部屋を忍び出る。
 底冷えする厳冬の廊下を慎重に進むチャックが、後ろを振り向かずに小声で囁いた。探窟鞄を背負ったコフィが、そのすぐ後を滑るように付いていく。
「最終確認するぞ。万がイチあの鬼婦長に見つかったときにとる行動、計画(こう)はなんだー?」
「えっと、とりあえずトイレってごまかして、部屋に戻る。玄関の門をくぐるのは諦めて、裏庭の小川を遡って、時間をかけてダンジョンまで行く」
「そうだ、そうだなァ。(おつ)は?」
「チャックとわたしとで婦長を挟んで、隙を見てわたしがあくむで眠らせる。……ってこれ大丈夫なの?」
「知らねぇよ! ほかにいい案があるなら教えてくれよなー」
「ええ、とっておきのがひとついありますよ」
「あ? そんなに言うならコフィ、教えてもらおうじゃねーか……、ぁ…………」
 得意げな声に振り返ったチャックが、固まった。同じく硬直していたコフィが見上げる先には、ぬらりとそびえる大きな影。月明かりもない深々とした深い闇に、サーナイトの不定形な体が溶けだしてバンギラスほど大きく見えた。
「チャックにコフィ、こんな遅くに連れだってどこへ行くのですか? もう寝る時間だということは、あなたたちも分かっていますよね?」
「あ……、婦ちょ、えぇっと……」
 たじたじになるコフィへ、黙ってろとチャックが鋭い目くばせを飛ばした。声を引きつらせないようにゆっくりと、ニコニコ顔のサーナイトを見据えて答える。
「なんだか寝付けなくてなー、キッチンに何か食えるもんがないかツマミに行くとこだったんだ。婦長こそおつ(・・)かれじゃないのかぁ? 明日は年少の子たちを連(・・)れていくんだろ、東町の公園までピクニックに。もう年なんだし、しっかり寝ておかないで大丈夫かぁ?」
 婦長の気をそらす言葉の中に、チャックはコフィへの合図を忍ばせた。まだ目を覚まさない腕の中の身衣子をあやすように、何の気なしに数歩進む。一直線の廊下でちょうど婦長を挟みこむ連携の形だ。
 貼りついた笑顔のままの婦長が、にこやかな口の端をピクピクと引きつらせた。
「……んんん、チャック、あなたには訊きたいことがいくつか増えました。それよりもふたりの話していた作戦とやら、丸聞こえでしたよ。何をしでかそうとしているのかは知りませんが、今のあなたたちが取れる行動なんてひとつだけ。さぁ、私に捕まっておとなしくお仕置きを受けましょうねぇ!」
「ッ、やっぱり気づかれてやがったかぁ! なりふり構うなコフィ、やれ!」
「え!? ――っもう知らないんだから!」
 正面切って打ち込まれたチャックの影打ちに合わせるように、コフィも両手を前に突き出した。呪いのエネルギーが悪夢を見せる黒い霧の塊になって、サーナイト目がけて飛んでいく。
 チャックの爪を片手でいなした婦長が、背後からの連携に後れを取った。精神を侵す瘴気に蝕まれ、白い細身がふらりと揺らいだ。
 衝撃を逃すように柔らかく着地したチャックが、黒もやの向こうにいるはずのコフィへ向けて叫ぶ。
「よしッ、今のうちにさっさとずらかる――」
「逃がしませんよぉ」
「な――」
 たかる羽虫を振り払うように腕を薙いで、婦長が悪夢の呪縛をかき消した。いつもと変わらない優しげな声、しかし柔和な笑顔のその奥に、悪鬼の面が透けて見えていた。
 コフィの悪夢が効いていない。その訳を推察して、チャックが喉をひきつらせた。
「――しくじった、俺の不眠をトレースしやがったのか!」
「……さて、どんなお仕置きにしましょうかねぇ。コフィはその仮面を子供たちに落書きしてもらいましょうか。チャックは干し板へ(はりつけ)にしたまま足元から冷水に漬けるのなんてどうかしらァ」
 作戦を看破されて立ち尽くすふたりに、婦長がにこやかに威圧感を放つ。ゴーストタイプでさえ縛られてしまいそうな黒いまなざしを向けられて、バトルが得意でないコフィはすっかり腰を抜かしてしまった。ふらふらと鞄から墜落した彼女の仮面が廊下の板張りにこすれて、乾いた音が反響する。
 迫りくる鬼と頼りにならない同胞を交互に見て、チャックは苦々しく舌打ちした。
「……こうなっちまったら仕方ねぇ! コフィ、計画(へい)だ!」
「え!? そんな作戦なかったじゃない!」
「俺がいま考えたからな! ということですまんコフィ、おめぇだけ捕まってくれ」
「は……はいぃい!? ちょっとなにそれ、聞いてな――ぁんぎゃ!」
 背中をなでる影打ちの腕に、コフィが肩をびくつかせてひっくり返った。慌てて婦長の向こうを見れば、身衣子をかかえたチャックが廊下の角へ見えなくなっていく。呆然と地面に落ちたまま、彼女は遠のいていくぬいぐるみの背中を見送ることしかできなかった。すぐ上から滲んでくる、サーナイトの殺気。
「……チャックはどこへ行きましたか? 正直に答えたら、コフィのお仕置きは免除してあげましょうか」
「…………えー、ええっと……」
 コフィがぎこちなく目線だけで見上げると、鼻の先数センチのところへ婦長の顔が迫っていた。直角以上に腰を曲げて覗きこんでくる彼女の口は、ゲンガーのようにぱっくりと吊り上がっていて。取って食おうとする真紅の瞳にすごまれて、コフィは思わず視線をそらす。身衣子の描いた絵の婦長は誇張なんかじゃないんだなと、自分の置かれた危機的状況をどこか遠くから見ている心地だった。
「慌てて答える必要はありませんよ。話す気がないなら、お仕置き部屋でじっくり伺いますからねェ」
「ひっ、ひえ~!」
 赤い涙袋を潤ませたコフィが、念力で拘束されてずるずると引きずられる。恐怖にすくむ体でどうにかもがく彼女が見たものは、院長室へ戻ろうと踵を返したサーナイトの眼前でひずむ闇だった。
「おらァ!」
「――ッ!!」
 不意を突くように現れたチャックの、思い切り腕を叩きつける渾身のゴーストダイブ。容赦なくサーナイトの急所を狙い胸に打ち下ろされた腕が、その間際で緑の細腕に遮られる。衝撃を逃がすよう婦長が身をよじり、バレリーナのようにドレスが闇をはためいた。
 チャックの腕に浮き立った、ミイラの包帯のような影のあざ。ゴーストダイブを受け止めたサーナイトの腕へ、するり、と伸びたそれが絡みつく。急襲したチャックを振り向きざまに弾いた後も、千切れた包帯が緑の腕を呪縛していた。
 空中に投げ出されたままのチャックが、ぽかんとへたり込むコフィに叫ぶ。
「いまだ、もういちど『悪夢』ッ!!」
「え――!? わかんないけど、えいっ!」
 戻ってきてくれたチャックに思わず笑顔になっていたコフィが、言われるがまま両腕を前に突き出す。先ほど失敗に終わった悪夢の呪いを込めたエネルギーを、サーナイトの背中めがけて打ち出した。
 半拍だけ反応の遅れた婦長を、悪夢の霧が再び包みこむ。チャックの不眠をトレースした彼女には効果がないはずだったが、様子がおかしい。鬼の形相が苦痛に歪む。あの驚異的な精神を、悪夢の呪いがじわじわと侵しているようだった。逃れようともがくサーナイトの体に、コフィは死に物狂いで悪夢を押しつける。白い細身が廊下の壁に打ちつけられると、孤児院全体がミシリと悲鳴を軋ませた。
 数十秒の格闘の末、ダウンしたのは婦長だった。スリットの走るドレスがふわりと浮かび、冷えた廊下へ崩れ落ちる。おそるおそるふたりがその顔を覗きこむと、寝ていれば端整な顔立ちが愁眉を歪ませていた。
「うーんうーん、出会い……婚活、素敵な男性…………」
「……ふー、どうにかなったか」
「婦長も大変なのね、いったいどんな悪夢を見ているのかしら。なんだかとっても申し訳ないことをしたような……。ねぇチャック、婦長に見つかったからにはキツいお仕置きが待ってるんだし、ダンジョンに行くのはやっぱり――」
「ここまでして引き返せるか! いいからとっととおさらばするぞ。今の騒ぎで弟たちが起きてくる前になぁ」
 孤児院の玄関へ踏み出して振り返ったチャックが、ためらうコフィを急き立てるように腕をゆする。彼女は逡巡したものの、身衣子のことが頭に過ぎるとやはり、廊下を滑り出した。
 角を曲がったところで待たせていた身衣子をチャックが抱き上げる。「……ごはんー?」と寝ぼけている彼女を撫でて、ばたばたと廊下を駆け抜けた。右へ左へ、増築を繰り返したつづら折りの細道を走る。隠密なんて今さら気を使っても無駄なだけ、最短ルートの正面突破だ。
「走っていくぞ、遅れるなよコフィ―!」
「え、うん!」
 観音開きの玄関を中からぶち破るようにして、静寂に覆われた深夜零時の町へ3匹は飛び出した。


3-4.ジャメヴの正体 2018/01/25更新 [#96c7f8O] 


 不思議のダンジョン『うつし身の湖畔』は、パピルスの町で新たに注目されるようになった簡易な迷宮だ。もともと『悟りの湖』という枯れることのない雄大な湖沼のダンジョンに寄り添うようにして存在していたが、ろくな資源もなく探窟家たちからは捨て置かれていた。近年パピルスの町が肥大しギルドもできるようになると、新入りのチームが腕試しとしてここが踏破できるか試されるようになったのだそう。手慣れたチャックがいれば、力尽きることはなさそうだ。
 孤児院の裏庭に生えているチガヤほどの短草が、なだらかな(うね)を成す丘陵地帯を遠くまで新緑に覆っている。台地のゆるい勾配はそのまま水面に繋がり、窪地に流れこんだ清水がひとつなぎの大きな湖を形成していた。陸地と陸地の間を、身衣子を抱えたチャックが勢いをつけて渡り歩く。蹴り飛ばした小石が立てる飛沫を被らないように、探窟鞄を背負ったコフィが追いかける。灌木すら数えるほどしか生えておらず、ところどころ大岩がかさぶたのように地面へ張りついている地形。明るくのどかで見晴らしはいいが、ふたりの間には棘ついた雰囲気が漂っていた。
「なぁ、そろそろ機嫌直せよぉ。『敵を騙すならまず味方から』って言葉あるだろー、実際うまく婦長を出し抜けたんだし、そうヘソ曲げるなってよぉ」
「…………チャックなんて知らない。身衣子のが大事で、わたしなんてどうなってもいいと思ってるんでしょ」
「おいおい、俺たち仲良しゴースト3人組なんだろぉ」
「……ふんだ」
 不眠をトレースしたサーナイトに悪夢を見せるため、ミイラになったチャックの影打ちで特性を封殺するという連携。コフィの体質をうまく使った打開だったが、彼女にしてみれば道具として扱われたような気がしていい心地はしない。身衣子のためにここまでするチャックが、なんだか嫌だった。
 身衣子が目を覚ましてからは、探窟が格段にスムーズになった。チャックたちには相性の悪いアブソルやニューラには、積極的にじゃれつきにかかる。血走った眼で虚ろに爪を振るう邪気*3相手にも友達を作るような無邪気さで飛び出していって、身衣子は狭苦しい孤児院にいる時よりもエネルギッシュだった。勢い余って湖に落ちないよう、尻尾の木枝を握るコフィが振り回される。水際から身を躍らせるキバニアは、身衣子が飛びかかる前にチャックが10万ボルトで撃ち落としていた。島から島へ飛び越えるときは、危なっかしい身衣子を抱きかかえてやる。
 そうこうして3匹はダンジョンを深く潜っていく。新しいおもちゃを見つけたとばかりに飛んでいきズルッグを剥き身にした身衣子が、遅れてきたふたりに化けの首を傾けた。
「どしたのチャック、コフィとケンカでもしたー? ふたりの連携、あんまし上手くいってないみたい」
「……なんでもないよ。でもちょっと……ふぅ、元気すぎじゃない?」
「しっかしジャメヴらしいヤツには会えずに奥地までたどり着いちまったな。ニセ情報にまんまと担がれちまったんじゃねーのかぁ」
 たどりついた最奥地は時空間が安定していて、邪気も襲ってくる気配はない。鏡のような湖面にのんびりと浮いた低い島、新緑の芝が生い茂ったその中央には、テーブル状の石を並べたような遺跡群が陣取っていた。ひときわ大きなそのひとつには縦に裂け目が走り、空間のひずみの奥にもといたパピルスの街並みが浮かんでいる。あとはもうその出口に飛び込み、鬼婦長の待つ孤児院にとぼとぼと帰るだけだ。そういえば、寝静まった我が家に忍び込む計画は立てていなかった。
「チャックもコフィも体力ないんだから! しかたないなー、休憩しよ。もー、ピクニックするならおべんと持ってくればよかったー」
「……なんでぇ、こっちはおめーのために、婦長にしばかれる覚悟で孤児院を抜け出して来てるってのによぉ」
「ちょっとチャック、身衣子に聞こえるでしょ」
 意気消沈するチャックとコフィに、何も知らない身衣子が声をはしゃがせる。何が面白いのか、耐久性を調べる建築家のように石のオブジェを木のしっぽで叩いて回っていた。ふらつく彼女が水際に近づかないよう、チャックは目を光らせる。
 平たい大岩にリュックの探窟鞄を下ろしていたコフィが、凝り固まった肩をのばしていた。しかしいくら体をほぐそうとも、彼女の表情は固いまま。身衣子ばかり目で追うチャックの乾いた背中が、とてもはかないものに見えてしまう。紙漉きの腕は一人前だが、ぬいぐるみの体質がそれには致命的に不適合であることを、責任感の強い彼は決して口にしない。このまま身を削り働き続ければ、腕が不具になるか、最悪死んでしまう未来もそう遠くないはずだ。孤児院の収入は大部分が彼の両手にのしかかっているし、それをやすやすと肩代わりできないことは、紙漉きの技術の難しさとともにコフィは身をもって思い知らされた。きっとチャックは、稼げるだけ稼いで死ぬつもりだ。そして危険なダンジョンに潜ってまで身衣子のトラウマをかき消そうとするのは、依存体質な彼女まで道連れにはしまいという、チャックのゆるぎない意地。
 タマゴの頃から一緒に育った彼の思惑が分かってしまうからこそ、コフィはやりきれなかった。
 悪循環する思考を振り払うよう、コフィは遠くに視線を投げた。それが岩柱の裏で動いた影を捉えて、緊張に全身を強張らせる。隣で腰を据えるチャックにも気づいてもらうよう、赤い目を離さないまま彼をぐいと引っ張った。
「いテっ!? ジッパーの金具は掴むなって言ってんだろーがっ!」
「うわごめん! ――じゃないよチャックっ、ほらあそこ、ひと影が見えたの!」
「……あア? そんなわけねーだろ。ジャメヴなんてハナからいなかったんだ、バカみてぇな冗談やめろよな――あ」
 煩わしそうに手をゆすぶったチャックが、石柱に目をやって息を呑んだ。凪いだ湖面よりも静まった気配で、くすんだ茶色のフードが漂っていた。遠目ではその大きさは計り知れないが、浮いているせいかチャックよりも背は高い。音もなく揺らぐケープの裾、その頭巾の中には暗い影がはびこり、種族を窺うことはできなかった。
 旅のコジョンドの話を元に何度想像したかわからない。情報に聞いたジャメヴの特徴だった。
 睨みつけたままチャックは身衣子を呼び戻す。他に気配がないかも探りを入れつつ、3匹は浮いたまま動かない褐色頭巾に向き合った。風もなければ音も立たない。身をすくませるふたりを背に口火を切ったのは、やはりチャックだ。
「おいあんた、ジャメヴ……なのか」
 亡霊のようなケープはそれに応えなかったが、敵意がないことを示す緩慢な動作で近づいてくる。後ずさりしそうになるコフィと身衣子を目の端で留めながら、チャックは10メートルまで迫った相手を見据えていた。
「パピルスの町の子どもたち、初めまして。記憶を消す者、ジャメヴです」
「……マジモンかよ」
「私に会いに来たということは、忘れたい過去があるようですね。それは、どなたでしょうか」
 フードの暗がりから聞こえてくる、中性的な声。情報通りだ。半ば諦めかけていたところに、向こうから転がり込んできたこの上ない幸運。無意識に上ずる声を悟られないよう抑え、チャックがジッパーの端を吊り上げた。
「このミミッキュの――いや待て、聞きたいことがある。どーして俺たちが今ここにいるって分かった」
「それはお教えできません。匿名性を保てなくなります」
 取り付く島もないようなジャメヴの返答に、チャックは警戒を緩めなかった。会うことができて内心舞い上がったが、おいそれとジャメヴが身衣子のトラウマを無くしてくれるとも限らない。丸腰で信用してしまえば、3匹とも記憶を消されて奴隷にされる可能性だってある。少なくとも記憶抹消の手段だけでも知っておきたかった。「ちょっとチャック、失礼よ」と口を挟んでくるコフィを押しやって、彼はジャメヴに食ってかかる。
「どーせ俺たちからもおめーの記憶は消してオサラバするんだろ、なんならそのフードを取ってみろよ。俺たちと同じポケモンかどうかも分からねーんじゃ、おいそれと身衣子を任せられねぇな」
「ごもっとも」
 少し間を置いてジャメヴが首肯する。手の先まで覆った両手をおもむろに持ち上げると、ばさり、頭を隠すフードが外された。
 毬藻のような球体に近い頭部は、生えそろっていたらしい若草色の短い羽毛がところどころ抜け落ちている。中央から飛び出たシャープなくちばしは、鋭さを隠すように先端がちょんと曲がっている。よく見るとそれもかなり色が剥げていた。老いを隠すように、近い色の顔料で若さを補っている。
 ケープの長袖で隠されていたものは多毛な白い羽で、ジャメヴが袖をまくると、赤と黒に分かれた翼の先は布が折り重なっているように見える。裾からは細い鳥脚が覗き、草の大地を鷲掴みにして降り立った。
「……ネイティオ、か」
「ご存知でしたか」
 くちばしから漏れる、子どもをなだめるような中性的な声。しかしチャックはむしろ警戒を強めていた。ジャメヴの顔には見過ごせない特徴がある。右目を覆う黒布の眼帯が、頭をぐるりと取り巻く同色の紐で留められていた。
 うろんげに目を細める彼に気づいたジャメヴが、眼帯で覆われた右目をそっとなぞる。
「そう怖い顔をしないでいただきたい。それに、この眼のおかげで私は過去を見ることができるのです」
「どーいう意味だよ」
「私どもの種族は、右目で未来を見通し、左目で過去を遡ることができます。左右の映像のゆらぎを照らし合わせて現在を知るのですが、私は先天的に右目がほとんど視力を有しておりません。それゆえ他のネイティオよりもいささか、過去を透かし見る能力に長けておりまして」
「それでポケモンの記憶を探るってぇとこか」
「ご明察です。いやはや、婦長を出し抜いて孤児院を脱走してきた子たちは聡明ですね」
 ジャメヴはほとんど表情を変えないままチャックの話を相手しつつ、ケープの裏から 丈夫で軽い金属板を張り合わせたような直方体の探窟鞄を取り出した。水平に安置された平岩で鞄を開き、てきぱきと中身を展開していく。
「……勝手に俺の過去を覗いてんじゃねーよ」
「私の能力を、信じていただけましたか」
 食えねぇ野郎だぜ、とチャックは吐き捨てた。身衣子はまだ彼の腰に縋りついたまま様子を窺っている。すっかりジャメヴを信頼したコフィは、金属鞄から出てきた黒い球体を興味津々に眺め回していた。
 丁寧に表面を研磨された、10センチほどの黒水晶。穏やかな湖畔の陽光さえ吸い込んでしまう漆黒の鏡面は、覗きこんだコフィの顔をぐにゃりと引き延ばして映し出している。
 鉱物グループの少女らしく宝玉にうっとりとするコフィに、変わらぬ口調でジャメヴが教える。
「過去を見る道具のようなものです。私がこの眼で見たイメージを、分かりやすく水晶の中に映し出すのですよ。くれぐれも落とさないように」
「こんな大きな結晶は初めて見た……ステキね!」
 平坦な岩の上に絹のクロスを重ね敷いて、ジャメヴはそこへ黒水晶を置くように言う。コトリ、と慎重に据えたコフィが、旅芸人を見るような期待を込めてジャメヴに向き直った。
 まどろんだ雰囲気を振り払うよう、水晶を挟んで3匹に正対したジャメヴはたっぷりと時間を取って佇まいを直す。
「それでは誰の記憶を消したいのでしょうか。水晶の前に座ってください。子どもですから今回は特別です、お代は通常の半分で結構ですよ」
「えっ、お金がいるの?」
 コフィはチャックとぱちくり顔を見合わせた。ジャメヴの記憶消去に料金が発生するとは思ってもみなかった。聞いた噂にもない。
 しかし考えてみればそうだ。あのコジョンドが当てもなく放浪するほど、記憶を消す能力には価値がある。わざわざ危険なダンジョンに現れるというのも、キャパシティ以上の客へ不用意に噂が広まることを控えてだろう。
 コフィたちの反応からすでに、ジャメヴは彼らが身ひとつだということを察したらしい。探窟鞄に黒水晶を戻そうとするネイティオに、コフィが縋るような声を上げた。
「待ってよ、お金なら後で払うから! わたし、こう見えて紙漉きの職人を目指してるの。今はまだぜんぜんだけど……いつかはチャックよりも質のいい薄墨紙を漉せるようになるんだから! 町イチバンの紙漉き職人になったときには、足りないお金は利子付けて絶対に返すからさ、今はどうにか手を打って――」
「もう諦めろよ、なんで俺以上におめーが必死になるんだよぉ」
「いいのよッ、身衣子がチャックのことを忘れれば、忘れられれば……!」
「これはー?」
 口論に発展しそうなふたりを仲裁した身衣子が、化けの皮の裏をがさごそする。何事かと首を傾けたコフィは、身衣子の腕にひっかかって出てきた金のリングル*4を見て、悲鳴に近い声を上げていた。
「ちょっと身衣子!? これ婦長が結婚費用にあてるために隠してたヘソクリじゃない! くすねてきちゃったの!? ……ぁああ、こんなの見つかったらお仕置きどころじゃない、わたしたち孤児院を追放されちゃうかも……!」
「ミーコ盗ってなんかないよ? 気づいたらね、頭の中にはいってたの。これであのひと、満足する?」
「え……」
 孤児院では有名な婦長の涙ぐましい婚活戦歴を、身衣子はそもそも知らないようだった。売れば500ポケになる腕輪を、慌てた顔で叱ってくるコフィに押し付ける。まるで自分は悪くないというふうに口を尖らせていた。
 へそを曲げた身衣子を撫でたチャックが、金のリングルを眺めて小さく唸った。
「こんなマネできるのは、当の婦長しかいねーからな。……あの戦闘のどさくさに紛れて仕込んでやがったのかよ、身震いしちまうぜ」
「もしかして婦長、わたしの悪夢もわざと避けなかったのかな……」
「だろーなぁ。あんなアッサリ突破できるなんざ、どこか変だと思ってたぜ。秘密裏に進めていた脱走計画も、こうして金の工面に困る未来もお見通しだったってワケだ。ともかく、婦長も俺たちを信頼してリングルを託してくれたんだ。ありがたく使わせてもらうぜ。一生日の目を見ない結婚資金よりも、こーやって価値のあるものとして扱われた方がコイツも報われるってモンだろーよぉ」
 渡されたリングルをしっかりと握って、コフィはジャメヴに向き直る。子どもたちのごたごたを見守っていたジャメヴはやはり無表情を崩さない。しかしその掴みどころのない左眼は、検品するようにリングルを睨めつけていた。
「これでどうにか手を打てないかしら」
「いいでしょう、特別です。ではそちらを――」
「っとォ、渡すのは仕事をこなしてからだ。俺はまだ信頼しちゃいねー。身衣子を診て、その力が本物かどうか確かめられてからだ」
「これは手厳しいですね」
 つっかかってくるチャックを軽く受け流して、それでは、とジャメヴは身衣子を水晶の前に招き上げた。何も知らない彼女が、不思議そうにネイティオの丸顔を見上げる。その細目に促されるようにして、身衣子は布の下から眼の高さの黒玉をじっと覗きこんだ。同時に化けの皮が垂れ下がり、ピカチュウの顔も反射球を見下ろしていて。黒い鏡面の中で、彼女が見つめあっていた。
「っげ、マズいッ!」
 身衣子がトリガーを引いてしまったことに気付いたチャックが、苦々しくジッパーを軋ませた。
「あ――、っあ、ぁ……あ゛あアアアあ゛ぁ!!」
 自分の姿を見つけた身衣子が、絶叫した。
 内から湧き立つ衝動にわなわなとひきつけを起こし、布の下の瞳がギロリ、と菱形に光る。仇敵を探り当てた浪人のような剣幕で、影の腕が尻尾の歪んだ木枝を握りしめた。
 ウッドハンマーで身衣子がかち割ろうとする黒水晶を、ジャメヴがさっと取り上げる。ちゃちな武器が届かないと知ると、彼女は遠距離技に切り替えた。狙う的よりもどす黒いシャドーボールを、やたらめったら撃ちまくる。
 久しく目の当たりにしていなかった彼女の豹変ぶりに、コフィは呆然とへたり込むだけ。そこへ跳んできた流れ弾を、チャックが腕で弾く。逸らされたシャドーボールが地面に吸われ、影を引く煙を巻き上げて下草が消し墨に成り果てた。
「や……めろ身衣子、俺だ分かるかぁ!?」
「イぎ、ぎ、……ぎィいイっ!!」
 身衣子の破壊衝動を抑え込んだのは、やはりチャックだった。暴れる彼女を無理やり胸に抱えこむ。化けの皮のくびれを押さえ、容赦なく振り下ろされる彼女の腕にわき腹を引き裂かれながら、恐怖を和らげてやろうと布地を触れ合わせる。一瞬だけ身衣子の歯ぎしりが鳴りを潜めたところで、チャックが振り返った。
「水面とかガラスを見せないよう用心してたんだけどな、迂闊だったぜぇ……。コフィ、無理やりでもいいから眠らせろ!」
「う、うん!」
 大好きなチャックに抱きすくめられ、葛藤するように顔をうずめる身衣子。コフィは申し訳なく思いながらも、また暴れ出すかもしれない彼女へ悪夢の霧を送り込んだ。ぎらついた目がとろんと丸くなり、どこかうなされたように目元が歪む。
 念で浮かび上がっていたジャメヴが、怪訝そうに岩場へ降り立った。どういうことですか、と尋ねたジャメヴに、「ごめんなさい、怪我はなかった?」とコフィが謝った。
「身衣子は昔、ピカチュウに嫌な記憶を植え付けられたの。ミミッキュは嫌でもピカチュウの姿を真似ちゃうから、今みたいにガラスに映った自分を見るだけで、あのときのことを思い出して暴れて……。自分の姿がトラウマになっているなんて、とても怖いはずだから。わたしたちもいろいろ手を尽くしてみたんだけど、どれもダメだった。身衣子の将来を考えるともう、あなたに記憶を消してもらうしかなくてっ」
「……ええ、分かっていますとも。私も記憶を覗く前に不用意なことをした。お任せください」
 手の中のリングルをぎゅっと握り込むコフィに、ジャメヴが気の毒そうに目を細める。うなされる身衣子はきっと、悪夢の中で因縁のピカチュウに追い回されているのだろう。化けの皮をぐるぐる揺らしながら唸る彼女を改めて水晶の前に座らせて、ジャメヴが向かい側から覗きこんだ。
 仰々しく両翼をガラス玉の上にかざし、大気を練るように振り混ぜる。しばらくして珠の中心に何かのイメージが浮かび上がってきた。黄色の波紋が形作るのは、ミミッキュかピカチュウか。
「……見えてきました。身衣子さんの過去が、見えてきましたよ。なるほど、これはまたおぞましい……。とても深い傷を負ってしまったのですか。ふだん彼女が快活にふるまっているのも、その出来事を忘れたいから。やはりあれは思い返すだけで身震いがしますか、コフィさん?」
「う、うん。広場で、多くのポケモンに見られながら……」
 神秘的な美しさに緊張して身を硬くしていたコフィが反射的に答えると、水晶の中にも公園のイメージが膨らんでくる。しかしまだおぼろげで、ハッキリとした情景は見受けられなかった。
 それでもジャメヴには事の顛末が見えているようで、細い目じりにはうっすらと涙まで浮かんでいる。
「コフィさんも彼女の力になれなかったこと、とても気がかりに思っていらっしゃるようですね。ええ、ええ、私にも身衣子さんが大衆の面前で暴行を受けた光景が見えていますよ、心から気の毒に思います。それでは今から強姦された記憶を消して――」
「おい待て、何言ってやがる」
「……?」
 横からチャックが口を挟んだ。出した尻尾をとうとう捕まえたぞと息巻いて、敵意を隠さずにジャメヴを睨みつける。コフィも警戒したように彼へ寄り添った。
「身衣子は辱められてなんてねぇぞ。デタラメ言ってんじゃねぇ。……さっきからどーも怪しいんだよ。もしかしておめぇ、過去が見えるなんて嘘っパチなんじゃねーのかぁ。その眼帯が胡散臭いぜ、ちゃんと顔を見せてみろよ」
「…………」
 細い片目をさらに細めて、ジャメヴは押し黙った。それはもう、チャックの懐疑のもと白旗を挙げているようなもので。一拍だけその眼に逡巡が走ったかと思うと、ゆらり、と精霊ポケモンの影が前のめりに傾いた。
 固唾をのむコフィの両腕に握られたリングルへジャメヴの翼が延ばされるのと、チャックの腕が眼帯の紐へ届いたのがほぼ同時だった。
 布の切れ端がはらりと舞う。チャックの爪に撥ねられた眼帯の裏から、ぐりん、と義眼が睨みつけていた。
「――そうか思い出した、おめぇっ!」
「チッ」
 チャックは叫んでいた。いつか身衣子が落書きしていた手配書の表、右目が義眼だったネイティオは、いま見下ろしてくるジャメヴと同じ悪人面を晒していて。大陸を跨いで国際手配されていたこの男はたしか、遠い地で富豪の息子になりすまして大金をだまし取った詐欺師だったはずだ。
 チャックたちを丸め込もうと抑えられていた悪意が、苛立たしげに舌打ちしたジャメヴのくちばしから漏れる。うなされる身衣子を抱えて一足飛びに後ずさりしたチャックが、苦々しく吐き捨てた。
「記憶を消すジャメヴってぇヤツが金になると踏んで、ニセモノのおめーが垂れ流してた噂に俺たちゃーまんまと引っかかっちまったってぇワケだなぁ!?」
「……ガキどもに看破されるとは、オレも耄碌(もうろく)したもんだ。ここもさっさと飛ばんと脚がつくな。わざわざ身をくらませて霧の大陸まで来たんだが、パピルスでの稼ぎは金のリングルひとつか。チッ」
 眼帯がペテンの蓋になっていたのか、化けの皮が剥がれたたジャメヴはコフィから奪い取ったリングルを翼の先で転がしていた。どすの利いた重い声音でため息をひとつ、肩慣らしとばかりに翼の先をばきばきとほぐす。ゆらり、ナイトヘッドのように増幅された憎悪が、奴をひと回り大きく見せていた。
 正面から押し付けられる敵意にもひるまずに、チャックが腕の爪を剥く。
「身衣子をネタに俺たちを強請(ゆす)ろうだなんて、返り討ちに遭う覚悟はできてるんだろーなァ!?」
「身寄りのないガキが3匹消えたところで、誰も悲しまんよ」
 念でスゥと浮いたジャメヴが、片翼でフードのボタンを無造作に引きちぎる。ばさり、とはだけ落ちた茶布の下から現れた胸の赤目模様は、ポーカーフェイスなジャメヴの怒りを代弁するかのように血走っていた。
「顔を背けるなよコフィ、作戦乙ッ!!」
「っえ!?」
 その邪眼に射すくめられていたコフィが、チャックの(げき)に跳ね起きた。太陽を遮る怪鳥のように浮かび上がったジャメヴに狙いを定めて、突き出した両腕に悪夢の呪いを充填させる。彼女の陰に半身を潜ませていたチャックが、気取られないように連携を仕掛けていた。ずぞッ、と地面から一直線に伸びあがった彼の影打ちが、念で浮いているジャメヴの鳥脚を掴んで引きずり下ろす。
「――なんだと!?」
「この……眠りなさい!」
 墜落に備え慌ただしくバランスを整えるジャメウに、コフィは悪夢の霧を解き放つ。影打ちの腕を振りほどいた奴の顔面へ吸い込まれるように呪いのエネルギーが撃ち込まれ、その直前で幅広の片翼に阻まれる。
 それでも効果は浸透するはずだった。羽の切れ目から覗いたジャメヴの左目はしかし、出し抜いたとでも言うように細められていた。
「オレは詐欺師だぞ、甘く見んなよガキが」
「え」
 悪夢の霧にさいなまれたはずのジャメヴの羽毛が、反射鏡(マジックミラー)のようにきらめいて。水をはじく照葉樹の如く瘴気を受け流しつつ、理解が追い付かずに固まっていたコフィめがけて打ち返した。
「きっ、きゃああぁあぁ!?」
「コフィ!?」
 迫りくる自身の技を避けることもできず、コフィは混濁の中へと堕ちていった。


3-5.千秋の悪夢 2018/02/26更新 [#5l2HwpI] 


 およそひと月前の身衣子も、やはり絵を描いていた。
 秋も深まり、その年最後の暖かな日。乾いた枯葉敷きへ被せた毛氈(フェルト)のマットに、大きな朱色の番傘が立てられている。練り切りと抹茶があれば大仰な野点(のだて)でも始められそうな広い敷物に、10体ほどのポケモンたちが座りこんでいた。手や鋏、念力で思い思いに筆を持ち、半紙に墨汁を走らせている。御苑(ぎょえん)菩提樹(ぼだいじゅ)は落葉を絶やすことなく、それに山アジサイもすっかり秋色になっていた。庭師のドダイトスが、今年は特にツツジが美しいと太鼓判を押していた。
 ポケモンたちはそれを、墨の濃淡だけで半紙に描き写していく。蓮池の向こうの築山(つきやま)、しんと影の差す東屋など背景まで緻密に模写していた。
 子供用の試し書きの半紙を前に、身衣子はほとほと退屈していた。
 そもそも鮮やかな紅葉を、墨の濃淡だけで表現することに魅力を感じられなかった。師範を務めるトリミアンはさっきから難しい言葉ばかりを使ってかっこつけていて、何を言っているか理解できない。そもそも子供は相手にするつもりもないらしい。水墨画は裕福な大人のたしなみなのだ。
 身衣子は仕方なく筆を握り直した。築山の縁をかたどっても、滲んで上手くいかない。早々に飽きて化けの皮に忍ばせていたクレヨンを押し付けると、渡来品だという三椏の薄墨紙はあっけなく破れてしまった。視線を隣に向ける。風景を模写することこそが自分たちの使命だと盲信したように両親は集中しているし、遊び友達のヘイガニは、ふざけて池に飛び込んだところをこっぴどく叱られてからだんまりだ。
 ふと自分の姿を思い出して、手持ち無沙汰に描いてみる。両親ともミミッキュだったが、どちらかというと身衣子は母親似らしい。隣で熱心に水墨画を描き続けている母の横顔を参考に、身衣子も筆をとった。紙を破らないように、輪郭の中を黄色で塗りつぶしていく。
 完成した似顔絵を見て、身衣子はふんすと息をついた。色味があるとやはり受ける印象が違う。彼女は気分を良くし、さらに隣で筆の持ち方に苦戦するシザリガーの枠線をかたどっていく。ミミッキュにはない体節構造が難しく新鮮で、繊細に描き込もうとすると隅がにじんで線どうしが繋がってしまう。
 それでも何とか描き終えて、はたと気付く。ミミッキュはほとんど一色だったが、シザリガーの甲殻は紅葉よりも鮮やかな赤だ。化けの皮に忍ばせたクレヨンは黄色しかない。額の星マークを塗りつぶして、彼女は思案した。
 そういえば、このあいだ身衣子が化けの皮のスペアを縫う手伝いをしているとき、誤って自身の手元を呪い針で刺してしまったことがあった。一瞬の痛みにびっくりして指先を覗きこんだものの、なんともない。しかしどうやら真っ黒な指の腹には見えない小さな穴が穿たれていて、そこから染み出した鮮やかな血が、黒い地肌の上で蟻塚のように浮き上がってきた。母親が貼ってくれた包帯に染み込むと、その原色に近い赤はますます身衣子の目に眩しく映ったものだった。
 ポケモンの体をめぐる血液は赤い。外殻まで赤いシザリガーなら、なおさらだ。
 クレヨンから握りかえた枝切れを、半紙へのめり込むように覗きこんでいるシザリガーの尾部めがけて、振り下ろした。
 鈍い衝突音と、そのすぐあとを婦人の悲鳴が追従する。描画に集中していたポケモンたちが一斉に顔を上げ、身衣子を振り向いた。おのおのの理解が追い付くうちに、母親がきょとんとする彼女の手から小枝を取り上げ、間髪入れず父親が平手で打ちのめした。
 草のエネルギーを纏わされた身衣子の尻尾は、日々手入れされているだろうシザリガーの滑らかな外殻を、一撃で叩きつぶしていた。固い装甲に守られている生身は、ほとんど未知の刺激に痙攣が止まらないでいる。亀裂から染み出した透明の血液が、酸素と反応してのっぺりとした青銅色となってしたたり落ちる。春先になって溶け出した湖の氷のように一面に重なった白い亀裂は、1度の脱皮では完治しないだろう。ざわつく群衆のなか、平謝りする両親に身衣子は頭を組み敷かれていた。
 身衣子には、そういうきらいがあった。絵についてだけではない。高いところになるマゴの実を取ろうとして、大木を根元からへし折ったことがあった。寒いと困っている友人を温めてやろうと、木造の小屋に鬼火を放ったことがあった。そのたびに父親から平手を喰らわされ、家に帰ってからは母親に延々と説教された。それでも直らなかった。
 シザリガーは尻尾を叩きつぶされたことによる怒りより、それによる衝撃の方が勝っているらしい。気を動転させながら、ほうほうの体で医者へかかりに向かう。身衣子の父親が付き添おうと名乗りを上げるも、申し訳ないです、大丈夫です、と繰り返しつつ庭園の出口へ後ずさりする。
 どん、と、婦人の背中が庭園へ入ってきた誰かにぶつかった。鈍痛に振り返った彼女が、しかめた顔をさっと青くする。よろよろと脇に逸れて、細い足を折りたたみ身を低く屈めた。
 彼女を見下ろしていたのは、大柄なゴロンダだった。表情の読めない白黒の顔が、怯えるシザリガーをじっと見据えている。ぶつかった丸い腹は、その衝撃を跳ね返すような筋肉で盛り上がって見えた。
「どこ見て歩いてるんだよウスノロめ。やれ」
 横柄な口調が頭上から響く。ゴロンダの大男の肩にちょんと腰かけた、まだ若いピカチュウ。吊り上がった目でシザリガーを見下ろし、テーブルに落ちた食べかすを払うように手の先を弾いた。
 間髪入れずに、ゴロンダが婦人を横ざまに殴りつけていた。鉄拳は甲殻を容易くひしゃげ、勢いそのままに体ごと吹き飛ばす。青い血しぶきを吹きながら、シザリガーが庭園の池に落ちた。水飛沫が上がり、何事もなかったかのように静まり返る。
 誰も動けなかった。ふだんは腕白なヘイガニの息子でさえ、自分の母親を追おうとしない。この傍若無人なピカチュウが、パピルスの街を治める地主の息子だからだ。頭首のライチュウは臣民に優しかったが、それはことさらに身内に対してだった。権威を隠れ蓑に暴虐を極める奸臣(かんしん)に、誰も建議することは許されていない。楯突こうものなら、シザリガーの後を追って池に投げ飛ばされる結末は目に見えている。
 ひれ伏す市民をゴロンダの肩から見下ろして、ピカチュウは居丈高に鼻を鳴らした。群衆の中に身衣子たちの姿を見つけて、彼の眼元がいやらしく歪む。「おい」と乱暴に呼びつけた。
 両親に背中を押されて、身衣子は訳も分からず前に進み出た。ずっと高いところから見下ろしてくる自分そっくりの姿をしたポケモンを、まじまじと見つめ返す。彼女がピカチュウと出会うのは初めてだった。
 ぶしつけに目を合わせてくる子供に、ピカチュウは露骨に嫌な顔をした。
「うわ、話には聞いていたけどさ、お前らって本当におれとそっくりなのな。ミミッキュって言ったっけ、むかつくなあ」
「も、申し訳ございません……」
 ピカチュウの機嫌を損ねないよう、身衣子の両親は平身低頭に徹していた。この場を何とか凌ごうと肝を潰し、娘が何もしでかさないことを祈っていた。周囲の雰囲気を読むことが苦手な身衣子のことだ、目を離したすきにゴロンダへよじ登り、ピカチュウに軽い挨拶をかわすことだって考えられた。父親は彼女を押さえつける影の腕の力をいっそう強くする。
 しかし、両親の願いは泡と消えてしまう。化けの皮をつかまれたままの身衣子が、無邪気な声で「あの子も私たちと同じー?」と尋ねたのだ。
 宇宙空間へ放り出されたかのように、庭園が静まりかえる。虐殺する正当な理由を得たピカチュウが、得意げに鼻を鳴らした。
「生意気だな。よし、処刑だ。やれ」
「し、しかし……」
「あ? 殺れっていってるだろ」
 20センチしかないミミッキュを殴りつけることにたじろいだのだろう、命令されたゴロンダが小さく抗議する。しかし黄色い手で首の毛をむしられ、無防備になった皮膚に電流を流されると、彼は苦痛に目を白黒させた。繰り返されてきた調教により、良心が潰されるのは早かった。恐怖に固まるミミッキュに向き直ると、鼻息荒く拳を振り上げる。
 直接殴りつけるようなダストシュート。震えて動けない身衣子の両親を打ち抜いた型破りな拳が、化けの皮もろともその中身を消し飛ばした。
 後に残されたものは、小さな毒沼に浮かぶ2枚のぼろきれだけ。誰もその場を動けなかった。横暴を極める地主の息子にたてついたものがどうなるか。毎月というほど各地で晒される生首が、それを物語っていた。
「おい、ちっこいのが残ってるぞ。さっさとやれって」
「こんな小さな子供を……ですか」
「また口答えするのかよ、今日のエサは抜きだからな。まあいい、おれも久しぶりで溜まってるんだ。やらせろ」
「しっしかしミミッキュの特性は――」
「なんだお前、おれが拾ってやったゴロツキのクセに主人に歯向かう気か? まずはお前の首から飛ばしてやろうか」
「……失礼いたしました」
 5分の1しかない体長のピカチュウに睨み上げられ、ゴロンダはおずおずと引き下がった。それでいい、と鼻を鳴らしたピカチュウが地面に降り、身衣子の上の顔を覗きこむ。布でできた耳を乱雑に掴みあげると、宙に浮かされた彼女がじたばたと裾の影をざわつかせた。
 当の彼女は、両親が殺されたことをまだ把握していないらしい。鮮血に濡れてへたった化けの皮は、親たちが羞恥に顔を赤くしていると思い込んでいるのかもしれなかった。取り乱してはいなかったが、乱暴に掴んでくる手を振りほどこうと身をよじる。
「なに、放して……!」
「はは、なんだこれ。近くで見たらぜんぜん似てないのな。耳なんかへなへなだし、顔はブサイクだ。このおれの顔を似せてこれかよ、むかつくなあ」
 ミミッキュは地主の息子の顔を似せているのではない、とは、その場の誰も横やりを入れなかった。眼前で展開する横暴の矛先が自分に向けられないよう、見て見ぬふりを決め込んで首を垂れる。庭園の菩提樹だけが、それに反発するようにわさわさと音を立てて揺れていた。
「キャア!?」
「ほらほら、もっと泣いて命乞いしてみろよ。今さらおれの足を舐めたって許さないけどな!」
 身衣子の悲鳴がして、ぎょっとポケモンたちが目だけを向けた。電撃をまとわせた拳で化けの皮を殴りつけたピカチュウが、ミミッキュの首ねっこを掴んで上下に引き延ばしていた。薄くなった繊維がみちみちと悲鳴をあげてほつれ始める。無理やりこじ開けられた縫い目から、闇より深い身衣子の中身が覗いていた。大雨で決壊する河川の土手腹のように、どば、と影の爪が飛び出して――
 ピカチュウの首を貫いた。
 身衣子と同じように、地主の息子の喉仏に風穴があいた。引き抜かれる影の腕とともに、夥しい量の血液が吹き上がる。
「……あ゛?」
 首元を押さえたピカチュウが、喋ろうと開いた口の端から泡を吹いていた。気管を詰まらせむせ返り、彼の表情から余裕が消える。自分の体に庶民と同じ色の血が通っていたことが信じられないふうだった。自身の首を押さえ流血をせき止めながら、それでも憤りの形相で身衣子に向かってすごむ。ひずんだ瞳の奥から殺意があふれ返っていた。頬袋からの漏電が口許の血泡を伝い、ばちっ、口腔と食道を焼いてピカチュウはその場へ崩れ落ちた。
 壮大なスペクタクルを繰り広げた演劇が幕を閉じる時、観客の誰もが息を呑み、場内が静まり返る。ひと呼吸置いてから、いっせいに拍手喝采がなりひびく。まさにそれと同じようにして、悲鳴が庭園をつんざいた。
 真っ先に動いたのはお付のゴロンダだった。くずおれた主人を抱きかかえると、胸の辺りを確かめる。相手の動きを読むという口端の笹は微動だにせず、それを認めた彼はすぐさま従者としてするべき行動をとった。主人を殺した見せしめに、鉄の拳を身衣子に向けて振り下ろす。
 ごづんッ!! 大地をえぐるような鈍い衝撃音。化けの皮もろとも身衣子をプレスしたところに、追い打ちとばかりに腕をひねる。繊維の擦り切れる音。
「……このことは、一切口外しませんように」
 鼻息荒く見渡す彼の目からは、ピカチュウのそれとは異なった威圧感が放たれていた。こと切れた主人を太い腕で包み隠し、そのままのそりと庭園から姿を消す。残された市民は、皮だけになったミミッキュから目をそむけるように散っていった。
 一部始終を、チャックとコフィが秋アジサイの陰から窺っていた。
 写生会で出る紙屑を目当てに富裕層のエリアまで足を運んでいたチャックは、地主の息子の威光を間近であてられた群衆よりもいくらか平静を保てていた。貫かれたピカチュウの首へ視線が集まったタイミングを計り、地面に突き刺した影打ちの腕をミミッキュの真下から這い出させていた。身衣子がゴロンダの拳に潰される瞬間、化けの皮に包まれた彼女の本体を、誰に気付かれるでもなく抜き取った。
 錯乱した身衣子が叫び声をあげる前に、チャックはそれを口の中へ含みジッパーを閉める。そのまま孤児院へ戻っていた。
 地主に牙を剥いた哀れな家族の末路は、見せしめのさらし首だった。
 後日チャックが庭園に戻ると、地面に立てられた3本の杭に、ちぎれた化けの皮が吊るされていた。身衣子の家を探し出すと、そこはもう更地になっている。周辺住人に煙たがられながらもしつこく聞き込むと、事件の真実を密かに耳打ちされた。地主の息子に恨みを持っていたミミッキュの一家が、彼の遊歩を狙って暗殺を謀ったことになっていた。家は見せしめに打ち壊されたそう。身衣子の9歳上の兄は草の大陸にあるハハコモリの服飾店へ年季奉公に出向いているらしく、宛先を探り出したチャックは後日そこへ手紙を送っていた。夫婦の生地屋はまだまだ安定しているから、そちらで良い娘でも探せとの旨だった。当分は帰ってこないようにとついた嘘だ。
「本当はなー、あそこでミミッキュの皮だけでも持って帰ろうかと思ってたんだけどなァ。紙漉きのしすぎかわかんねぇが腕がひりついて、狙いがぶれちまってなぁ。布地を補填しようかと企んでたんだが、まっさか逆に持ってかれるなんてなー」
 そそくさと孤児院に帰り身衣子を取り出すと、素潜りから磯へ戻った海女のようにチャックは大きく息をついた。埃まみれの毛布にチャックが自身の尻の布をつぎはぎし、呪いを纏わせたズタ袋を急遽こしらえる。コフィが悪夢で眠らせていた身衣子が起きる前に、布団をかぶせるように布袋で覆ってやった。
 婦長はすべてを察したらしく、チャックたちは何も追及されなかった。早いものでその日の晩ご飯では、身衣子を孤児院の新しい仲間へ迎え入れる歓迎会が催された。
 3日も経てば化けの皮はミミッキュらしい体色になじんでいた。しかし、孤児院の生活には一向に溶けこめていない。常識とは感性のずれている身衣子は、バトル遊びでエレキッドに手ひどい怪我を負わせてから怪物扱いされていた。それでも本人は気にしないところが、さらに彼女を孤立させる。
 水面に映る自分の姿を見てひどく取り乱すところも、子供たちから敬遠される原因だった。婦長の話によれば、彼女の負わされた強烈な精神的ストレスが、あの時の記憶を一時的になかったことにしているらしい。しかしそれも、トリガーを引かれればたやすく再現されてしまう。特に自分の姿に身衣子は過剰に反応した。自身の手で貫いたピカチュウの、死に際の恨めしい表情。それが染みついた化けの皮を見ると、あの光景がフラッシュバックするようだった。事情を知るチャックとコフィは、身衣子が小川や澄んだスープをのぞき込まないよう彼女を見守ることになった。
 ひとりぼっちになったとき、身衣子はよく絵を描いた。ずっと持ち歩いている黄色のクレヨン。1色だけあるその画材が、彼女にはとても大切なもののように感じられて。家族のようによくしてくれるジュペッタとデスマスを描く。部屋の壁に掛けられた絵が増えるたび、満たされた気分になった。1枚、また1枚、我を忘れるように、友達の姿を描くのだ。

 ――ああ、身衣子はずっと、長い悪夢を見ているんだ。
 その光景をぼーっと眺めていたコフィが、まどろむ意識で感づいた。不意に背後が明るくなったような気がして、振り返る。まばゆい光源から影の腕がぬっと飛び出してきて彼女の首ねっこを掴むと、悪夢の中から思い切り引き上げた。


3-6.彼の思惑 2018/04/27更新 


「――おい起きろバカっ、おめーが居眠りしてどーすんだッ!」
「……ふにゃ?」
 コフィを悪夢から救い出したのは、やはりチャックだった。いつもは呪いのエネルギーが漏れてるのではと疑いたくなるほどの毒舌を吐く口許は、安堵をにじませるように柔らかく持ち上がっていて。覗きこんでくる彼のにこやかな顔に、コフィは悪夢から一転胸がすく思いだった。のもつかの間、遅れて気づいた口の中の強烈な渋みに、コフィは飛び起きた。彼女をゆさぶるチャックの片手には、無理やり齧らされたらしいカゴの実が握られている。それか。身衣子をだっこするような優しさはないのか。
 涙目でコフィは訴えるも、チャックは気づかないようだった。木の実を取り出した彼女のリュックの口を慌ただしく閉じ直すと、まだうなされたままの身衣子を抱えて上空を睨みあげる。本性をあらわにしたネイティオ――ジャメヴを騙る偽者が、太陽を背に浮き彼らを見下していた。翼の先で金のリングルを弄びながら、愉快そうにそれを羽の付け根まで通す。
「そのまま昏睡していれば、さらなる悪夢を見ることもなかったろうに。ガキは知らんだろうがな、リングルはこうやって使うんだ」
 逆の翼でフードの裏を弄る。懐から取り出した玉虫色の欠片を、ジャメヴはリングルのくぼみにはめた。瞬間、彼をオーラの殻が包みこむ。その甚大なエネルギーが、させまいと打ち出されたチャックの影打ちを弾いた。
「くそ、どうなってやがる……!?」
「チッ、耳障りだ。いちいち喚くな。覚醒のラピスも知らんのだと、手札を明かしているようなものだぞ」
 一段と殺気立ったジャメヴが、宙に浮いたまま両翼を扇ぐ。霊界のよどみを纏わせた怪しい風が巻き起こり、庇おうと前に出たチャックを飲みこんだ。
 梅雨間の好天の湿度のように纏わりつく陰湿な旋風を、チャックが爪で引き裂いた。紫のもやを払いのけ現れた彼の横顔にはいつもの余裕が消え失せていて、それを見たコフィが身を震わせる。ゴーストタイプの技をエキスパートでもないネイティオが高威力で放っていた。しかもコフィたち3匹をまとめて吞みこむ範囲を占めている。チャックが凌げるが、悪夢にうなされたままの身衣子を抱えたまま交戦するには限度があった。
 厳しく歪むチャックの顔に、ジャメヴが機嫌よく目を細めた。ラピスの影響だろうか、より強く流しこまれる怪しい風をチャックはどうにか爪でいなし、コフィに目配せを送る。彼女が両腕を広げ庇っているところに、チャックが敵から見えない位置で技を繰り出す。
 刹那、ジャメヴの纏っていたオーラが消える。左翼の付け根にはめられていたリングルが、チャックの手の中にあった。トリックを仕込み掌中の珠を取り上げた彼が、したり顔でそれを自身の腕に通す。なおも動じない顔で彼らを見下すネイティオに、チャックは爪を突きつけた。
「へっへ、これでオマエは無敵じゃねーぞぉ?」
「だからオレは詐欺師だと、何度言えば分かる」
「――は?」
 手の内を崩したと鼻を鳴らすチャックが、ジャメヴの揺るがない影にたじろいだ。瞬間、彼の左腕に収まったリングルが輝きを放つ。真球に彼を取り囲んだ覚醒(メガシンカ)のオーラが、内から殻を破るように弾け飛んだ。
「あ――、ああああ゛!?」
 綿を詰めこまれすぎたぬいぐるみのような叫びとともに、彼の姿が露わになる。
 チャックの肌地にジッパーが縦横無尽に走り、金具が弾け飛んだ。厚紙を破るような音を立ててぬいぐるみの表皮が開封されていく。影のような皮膚とは似つかないビビッドピンクの両脚と指先が剥きあげられる。自身の体をさいなむ変異に理解の追いつかない彼が、血走った目を見開き体を丸めこんだ。
 とっさに駆け寄ったコフィが見た彼の中身は、目も当てられないものだった。
 生肉の赤味を乗せたチャックの体は、踏み潰された甲虫の腹のようにひびが走っていた。蜘蛛の巣状に割れた手の先はとくに酷く、組織が剥がれ虫食いのように失われているところもある。触れればぼろぼろと崩れてしまいそうな、容易に壊れてしまう陶器の人形。たじろいだ彼が足を踏みかえると、体の内側を直接なぞられたような刺激が走ったのだろう、痛みを嚙み殺すように口のジッパーを軋ませた。
 身を削って働いた彼の体は、もう動けるのが奇跡というくらい体の芯までガタが来ていたのだ。度重なる過労は、ぬいぐるみの布に覆われて見えていないだけだった。
「チャック……どうしたの!?」
「……本当に何も知らないんだな」
「ど、どういうこと!?」
 虚ろな瞳の奥に呆れた気配を乗せて、ジャメヴが嘴を鳴らす。のたうち回ることもできずに割れるような全身の痛みにじっと耐えるチャック、患部をさすってあげることもできないコフィは、敵であるはずのネイティオにおろおろと救いの視線を投げかけていた。彼の異変をすべて知っているような口ぶりのジャメヴから、あろうことかチャックを助けるヒントが出てくることに縋ってしまっていた。
「紙を漉き直すには、植物や古布など、古紙とともに新たな繊維質を混ぜこまなければならん。以前オレのいた草の大陸ではそうしていた。そいつの漉く再生紙は際立って良質なんだってな。それは別に技術があるからじゃあない、ジュペッタの腕から繊維質が溶け出していたからだろうよ」
「そ……そんな……」
 コフィは思い出していた。漉き舟の中で、不定形なチャックの腕が溶け出しているように見えたこと。あれは錯覚などではなかった。実際に彼の腕がほどけ、紙に吸収されていた――言葉通り、彼は身を削って紙漉きをしていたのだ。
 背後から清水をかけられたようにギョッとして、コフィはチャックを振り返っていた。激痛のさなか彼女の目線に申し訳なさそうに歪ませる目元は、無言のうちにジャメヴの言葉を肯定していて。
「なんで――なんでそんなは大事なこと、黙っていたの!? 私たち友達……っ、でしょう? こんなになってまで続けることじゃない……。それにそうよ、私が努力してもチャックより上手く漉けないなら、寿命を縮めてまで教えてくれなくてもよかったのに……!」
「はじめは……気づかなくてよ。1年くれー続けて、おれもそれなりに漉けるようになったところで、体にガタがきやがった。信頼してくれる婦長と弟たち、それにおめーを…っッあぁ痛ぇッ、裏切れねぇだろっ……」
「そんなこと……。私に打ち明けてくれなかったことのが、ショックだよぅ……」
「……呑まれるなよ、戦意喪失させるのも、あいつの手管だ。おめーだけが頼りなんだ、ここで気をやっちまったら、みんな殺されるんだぜぇ……!」
「う、うん……、そうだね、うんっ」
 チャックに(げき)を飛ばされ、コフィは涙袋をぬぐってジャメヴに向き直る。格上の敵から命を狙われていて、親友には嘘をつかれていたようで、それでも自分がこのピンチをどうにかしなくちゃいけなくって。心の中はぐちゃぐちゃだ、けれど今は知恵を絞りきり、この窮地を打破しなければ。
「……心配すんな、3匹ともまとめて葬ってやるよ」
「――ッ!」
 最も厄介なジュペッタを封緘(ふうかん)し、勢いづいたジャメヴが浮遊したまま両翼をクワッと広げる。怪しい風がコフィたちに降り注ぎ、とっさに彼女も同じ技で応戦していた。
 中空ですみれ色の気配がぶつかり合い、渦を巻いて大気を揺らす。夕餉の食堂へ押し寄せる子供たちのように迫りくる悪意、それを跳ね返そうとコフィは技に霊力を送り続けるが、それも長くは保たないのだと肌で感じていた。付け焼き刃の戦闘訓練では、技の威力も精度もジャメヴに敵うはずがない。肌をなぞる怪しい風は、重りをくくりつけられ湖に沈められたような、魂を吸い出される生暖かい感覚。ゴースト技は肉体的な痛みこそ少ないが、食らえばば精神が削られいつのまにか動けなくなるものだ。コフィにとって弱点でもあり、あまり受け続けていられない。
 精気を振り絞り、向かい風を振り払う。打ち消しあい風が凪いで、湖畔にはつかの間もとの穏やかな景色が立ち上がった。
 技を振り払われたジャメヴが、押し切れると判断したのだろう、即座に同じ技を展開し始める。翼を掲げたところで、羽から霊力がほとばしらないことに目を剥いた。地上では、息も絶え絶えのコフィが、胸の前に腕をクロスして呪文を唱えていた。
「封印か。……やるな、だが魅せ方が甘い。捲土重来ならタイミングというものがあるだろう。詐欺師に奥の手を気安く見せんほうがいいぞ、ダシにされるのが関の山だ」
 マジックミラーの特性でも防げない呪縛に、ジャメヴは苛立たしげに嘴を鋭く鳴らした。硬い殻を割るためタマゴを高所から落としたような音がする。
 続けざまに放たれたサイコキネシスは、ジャメヴが浮遊にエネルギーを割いているからか跳ね返すのは難しくなかった。ダウンしたチャックと身衣子をかばいながら、コフィはどうにか猛攻をしのぐ。堅実なジャメヴはミイラの特性を看過して嘴を使った接近戦に持ちこむなんてつもりはないらしい。むしろコフィにしてみればそこが打開策なのだが、堪える一方の彼女に敵を打ちのめす気概はなかった。いつかジャメヴが諦めることを祈りつつ、どうにか念力の手に絡め取られないよう身をよじるだけ。
 じりじりと追い詰められる消耗戦。ついにコフィが念の拘束に引っかかった。胴体から下に伸びる柄をエスパーで捕らえられ、その先の仮面を力任せにねじり上げられる。かすれたような甲高い悲鳴が、もやの出始めた湖に響く。
「い――イヤっ、そこに触らないで、放して!」
「おまえはよく頑張ったよ。大好きなお友達もすぐにあの世へ送ってやるから――諦めろ」
 サイコパワーを集中させるためジャメヴが鳥足で草地に降り、その虚ろな瞳を妖しく輝かせる。至近距離で突きつけられた殺意と体をよじられる致命的な激痛に、コフィはなすすべもなく飲みこまれた。もう機能をほとんど手放した耳に届く、いつか助力してくれると願っていた彼の声。
「今しかねぇ! 受け取れっ!」
 数メートルを開けて格闘していたふたりが、それまで動かなかったチャックへ同時に意識を向かせていた。草に沈んだまま鋭く叫んだチャックが、ミスディレクションに悪戯心(トリック)を仕込む。覚醒のラピスが光るリングルを渡す先は――たったいま悪夢から目覚めた身衣子だった。
 チャックの覚醒が解け、姿がもとのぬいぐるみに戻る。同時にリングルを化けの皮の首にはめられた身衣子が、何者も寄せ付けないようなオーラを纏った。
 それからは一瞬だった。
 傷だらけで倒れているチャックを視認した身衣子が、寝ぼけ眼をひし形に光らせジャメヴに踊りかかっていた。布地の切れ目から殺意を吹きこぼし、言葉にならない呪詛を吐き散らしながら、剥いた2本の影の爪を無闇に振り下ろす。物理ダメージに秀でていないはずのゴースト技で、ジャメヴが防御にあてた鉤爪を破壊した。べきり、と樫の小枝を踏みしだいたようないびつな音、とっさに上空へ回避行動をとるジャメヴの片翼を、刺すように投げられたウッドハンマーの尻尾が貫いていた。
「な、んだおまえはッ!?」
「キっ――――キエェエェェエェ!!」
 バランスを失い低空から墜落するジャメヴが、憎悪に染まりきった化けの皮に隻眼を見開いていた。闇をまとったようにどす黒いオーラを携える身衣子、そのくびれを締めつけるリングルの覚醒ラピスが、いっそうまばゆく輝きを放つ。ぱしん、とそれが砕け散ると同時に、化けの皮の裾がオーロラのようにぶわりと広がった*5
 投網で川魚を捉えるように、膨張した身衣子の体が広がり浮島に影を差す。身衣子を仰いでその中身を見たジャメヴが、死神に鎌を振るわれたような形相で断末魔を上げた。直後に布で包まれ、こもった呻きにとって代えられる。
 ジャメヴを覆い隠した身衣子の体が、罠にかかった獲物を締め上げるようにその裾を閉じた。空気を逃す風船のように、ネイティオよりも狭い容積まで収縮する。丸呑みにされたポケモンが怪物の胃袋でもがくように、膨張した身衣子の体が内側から伸びあがった。ぽかぼかと彼女の表面が内側に陥没するたび、ジャメヴの重い呻きが漏れ出してくる。浮かび上がる翼や嘴の型が次第に原型を留めなくなっていき、それを認めたチャックが制止の声を荒げた。
「や――やめろ身衣子やりすぎだッ、てめーまたトラウマを増やすつもりかよ!? ……くそっ、おれの声も届かねぇのか、コフィ止めさせろ! ……コフィ?」
 メガ進化の代償で動けないチャックが、苛立たしげに返事をしない彼女を鋭く振り向いた。
 思いつめた表情のコフィは、腕を投げ出したまま頼りなく浮かんでいるだけだった。
 身衣子を掣肘(せいちゅう)しなければならないのに、体が動かなかった。腹の底からぶくぶくと突沸した後ろ暗い感情が体の隅々まで行き渡り、まるで寒天で固められたように力が入らない。仮面で覆いきれなかった感情が体の表面から漏れ出して、見上げてくるチャックに流れていく。ぬいぐるみの綿に吸われ、その体がわずかに柔らかさを取り戻したように、見えた。
 怪訝な顔のチャックへ、コフィは確かめるように口を開く。
「どうしてチャックはいつも、私をないがしろにするの? 私が勇気出してアイツに立ち向かっても、結局リングルを託したのは身衣子でさ。どれだけ私が頑張って力になろうとしても、いつまでも信頼してくれないじゃない。ちょっとは気づかってよ。ねぇ、私だって女の子だよ、こんなに避けられたらいやでも分かっちゃうよ……。チャックは私を、好きとも嫌いとも思ってない。いいように利用していただけなんだね。ジュペッタって、妬み嫉みを栄養にできるんでしょ。体が保たないからって、身衣子のが大事なんだってことを私に見せつけて、嫉妬させて、それを食べて栄養にあてていたんでしょっ。紙漉きのとき私の手を掴んだのも、私がチャックを好きなんじゃないかって勘違いさせるためだったんでしょ!? ……そう、なんでしょ」
「……んなの今はどうだっていーだろ、早く身衣子を止めないと、アイツが死んじまうぞ!?」
「答えて」
 はぐらかそうとするチャックに、コフィは冷たい重圧を乗せた剣幕で詰め寄った。脇では身衣子が力の限りジャメヴをねじ伏せている。ふさわしいセリフを探そうと口ごもる彼に、いよいよコフィも確信づく。口の奥がカラカラになって、唾を飲みこむ喉がいやにひりついた。
 チャックが頭をかきむしるような嘆息をついて言う。
「……ああ、そーだよ。ぜんぶ、そのつもりでやってた」
「…………信じらんない。最っ低だよ」
 吐き捨てたコフィが、突き放すように手のひらから霊のエネルギーをこぼした。弱り目のチャックに浴びせられた祟り目が、彼の体力を根こそぎさらっていく。ふぎゃっ、彼らしくない腑抜けた悲鳴を残し、目を回してチャックが気絶した。
 恨みがましい気持ちにも、晴れ晴れした気持ちにも、ならなかった。
 漉き舟で揺すられた繊維の粒は、激しくぶつかってきれいに同じ方向にならぶ。それと同じように、コフィの中で別々の強烈な感情が衝突して、生まれたのは涙だった。見開いた双眸から、大粒の雫がぼろぼろこぼれ落ちていく。大雨の日に地面のくぼみを走る行潦(にわたずみ)のように、コフィの体を水が伝う。力なく下を向いた仮面までを濡らし、その顔も泣いているようだった。
 チャックの悲鳴を聞きつけて、ジャメヴを蹂躙していた身衣子が化けの皮をもたげる。ボロ切れになったネイティオを体の下から投げ捨てると、目を光らせたままコフィに襲いかかってきた。
 自衛する気は起きなかった。すでに心はもう切り刻まれている。むしろ体がまだ動ける方が、違和感があった。身衣子の爪が伸びずとも、あのままだったらきっと自分を殴りつけていただろうから、引き裂いてくれるなら都合がいい。
 情けなど一片もなく迫ってくる影の爪に、コフィはそっと目を閉じた。すぐに襲いくる痛みに身を任せ――しかし訪れたのは、聞いたこともない中性的な声。
「……間にあってよかった。初めまして、記憶を消す者、ジャメヴです」
 訳もわからず目を開けば、身衣子を念力で拘束した茶色のフードが、宙にゆったりと浮いていた。


なかがき
キャーゼンカイコウシ(
この章も架橋です。だいたい書きたいことはかけたかしら。


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  • ちょっとずつ読み進めるつもりでしたが、ストーリーに引き込まれるあまり、思わず一気に読んでしまいました。生活感というのでしょうか。リアルな空気感のある世界観の深さにもう圧倒されっぱなしです。
    身衣子のトラウマの正体や、ジャメヴのもう一つの法則など、まだまだ多くの事柄が謎に包まれています。果たしてジャメヴは彼らの望んだ結果を招いてくれるのか、次回の更新が楽しみです。 -- てるてる
  • >>てるてるさん
     1話ずつの切れ目で謎を深めていくやり方も、Ⅲにまでくるとマンネリ化していそうで難しいですね。あれやこれやと四苦八苦しながら書いていますが、一気読みしてくださるほど面白いとは恐縮です。生活感や背景は細部に宿ると信じておりますので、あまり設定を書かないのがポリシーなのです。伝わっているかも怪しいので塩梅が大変ですけれど。
     感想ありがとうございました。がんばって書きます! -- 水のミドリ
  • タッタイッカゲツクライ、ドウッテコトナイデスヨ……(真顔
    コホンっ、ええーと。今回も早速読ませて頂きました(笑)
    前回に引続き、美しい情景描写には息を飲まされる一方でした。
    明かされた身衣子の過去は、家族を目の前で惨殺されるという悲惨なもの。
    壮絶な体験を受け入れずに記憶ごと封印しようとするさまに。身衣子の子供らしい一面を感じる一方で、そうするしかできなかった悲惨さが伝わってきました。
    ぜひともジャメヴには頑張って治していだきたいですが、果たして……。
    次回の更新も楽しみにさせていただきますね。

    以上、年単位で更新してないヤツからの感想でした() -- てるてる
  • 身衣子のトラウマは目の前で両親を惨殺されたことだけでなく、自分自身がピカチュウを殺してしまったこと、殺意のこもった彼の顔でもありました。衝撃的なトラウマは脳が「なかったこと」にしようと働くそうです。でもそれがミミッキュの体とそっくりだとやりきれないですよね。はてさてジャメヴさんは身衣子を救ってあげることはできるのでしょうか。
     読了&感想ありがとうございます。お互い更新がんばりましょ! -- 水のミドリ
お名前:

*1 『ポケモン超不思議のダンジョン』において、「あくむ」は敵を眠り状態にして、数ターン後に目覚めた相手にダメージを与える技である。
*2 不思議のダンジョンに突入して探索や救助、お尋ね者の退治を行うことの総称を表す造語。漫画『メイドインアビス』から拝借した。
*3 不思議のダンジョン内に出現する、心を失った敵ポケモンのこと。
*4 リングルとはダンジョン内で拾うラピスをはめることで様々な効果を発揮する腕輪のようなもの。金のリングルはカクレオン商店で高価に売れる。
*5 覚醒のラピスを消費することでZワザが使えるというそれっぽい設定です。

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Last-modified: 2018-04-27 (金) 00:13:06
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