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僕たちの碧空

/僕たちの碧空

僕たちの碧空 

writer――――カゲフミ

―1―

 物心ついた時から僕はこの公園にいた。親や兄弟の顔は知らなかった。居たかどうかさえも分からない。兄弟はともかく親が居なければ僕は生まれてこられないはずだから、きっと居たのだとは思う。人間が暮らす住宅街の真ん中にある、広い広い公園。僕の足だとぐるりと一周するのに半日くらいはかかってしまいそう。入口もいくつかあって、散歩がしやすいように歩道もちゃんと整備されていて立派だ。公園中心部の広場にある大きな大きな木がここのシンボルにもなっていた。そんな公園の中の茂みの一角に僕は住処を構えている。どこをねぐらにすればいいのか、どうやって食料を調達するか、誰かに教えてもらった覚えはない。自分がこの公園の中で一番落ち着ける場所がこの茂みの中だったというだけ。食料に関しては、公園には食べられる実のなる木がいくつも植えられているから、根元に落ちている木の実を追いかけていけばそんなに苦労せずに食べ物にありつける。空腹が迫ってきたときは体が勝手に動いていたような記憶すらあった。僕の本能は生きることに正直なようだ。そして今日も僕は落ちている木の実を探して公園の中をうろついている。運がよければ心優しい通行人が美味しい食べ物をくれたりすることもあるんだけれど、どうも今は公園に人の気配が少なそうな感じだ。人間の食べ物ばかりもあてにできないので、どこで木の実が見つけやすかったかを思い出しながら僕はてくてくと歩いていく。公園を歩く僕も、踏みしめた落ち葉の乾いた音も。普段と何ら変わりのない、日常の一場面。
「おい、ニケの奴がいるぜ」
「あ、ほんとだ」
「よーう、ニケ。そんなところで何やってんだ。ここまで上がってこいよ!」
 僕の視線の先にある木の上から馬鹿にしたような、いや。馬鹿にしている声が聞こえてくる。そう、これも。僕の、日常。

  ◇

 気が付けばいつも上ばかり見ていた気がする。僕が小さいわけじゃなくてみんなが僕より上、高いところにいるだけ。僕は常にみんなから見下ろされて、見下されて過ごしてきた。それは今日も、きっとこの先も変わらないんだろう。
「おい無茶言うなよ、出来もしないこと言ったらかわいそうだろ?」
「はははっ、それもそうか」
 もちろん僕のことをかわいそうだなんて微塵も思っちゃいないヤナップと、彼の言葉を聞いてげらげらと笑うニャース。お馴染みの顔だった。彼らが座っているのは木で組まれた構造物の上。人間が上に登ったりして遊ぶために組み立てたものらしい。高さは三メートルくらいで、登りやすいように階段も付いている。本来ならば上がっていくのは造作もないことのはずなんだけれども。
「ほんとありえないよな。ニャビーのくせに高いところが怖いなんて。同じ猫ポケモンとして恥ずかしーぜ」
 ヤナップとニャースを左右に従えて、したり顔で僕を見下ろすニャルマー。三匹の中でも立場が上のボス的存在だと僕が勝手に思ってる。彼らの力関係なんてよく知らないけどいつも絡んでくるときの雰囲気を見るとそんな感じがするのだ。言いがかりの言葉は毎回同じでバリエーションが乏しい。無理もないか。奴らが僕の至らない部分を指摘できるのはただ一つしかない。それは、僕が高いところが大の苦手で木にも登れないということ。そうなってしまったきっかけは本当にありふれていて、昔木の実を取ろうと登った木から落ちたせいだ。この時の記憶は嫌というくらい鮮明に僕の中に残っている。お目当ての木の実まであと少しと足を踏み出したところに、木の枝がなかったこと。支えを失って下へ下へと落ちていく瞬間が永遠にも感じられたこと。近く大きくなっていく地面、どうすることもできない恐怖。強かに体を叩きつけられたとき身体に走った激痛。芝生がクッションになってくれたおかげでどこも骨が折れたりはしなかったけれど、あれ以来自分の背丈の倍以上ある高さに恐怖心が生まれてしまった。高いところへ向かおうとすると、足ががくがくと震えて体がいうことを聞いてくれないのだ。皆にとっては当たり前のことができない僕は、あっという間に仲間はずれの標的になってしまったわけで。もう罵声をぶつけられるのも随分と慣れてしまった。相手をするのも時間の無駄なので適当にやり過ごしてもよかったのに。
「別に、僕が木に登れなくても君が損をするわけじゃないだろ?」
 売り言葉に買い言葉というか。一瞬の気の迷いだった。代わり映えしない罵詈雑言を繰り返してくる彼らに大して、僕もため息を交えて鼻で笑うかのような態度を取ってしまった。それが気に食わなかったらしい。ニャルマーの表情が険しいものになる。両側のヤナップとニャースに何やら目で合図を送っている。続いて二匹が頷いたかと思うと、僕に向かって石や熟してない硬い木の実が次々と飛んできた。慌てて後ずさって避けたものの、数が多くて落ち着く暇もない。一つやり過ごすと二つ三つ飛んでくる始末。あんな場所に都合良くたくさん石や木の実があるわけないから、あらかじめ僕にぶつけるために用意していたのかもしれない。こんなくだらないことのためによくもまあ、なんて感心している場合じゃなかった。
「そんな減らず口は、ここまで来られるようになってから叩けよっ」
 ニャルマーはぐるぐる巻きの尻尾で器用に石を絡め取ると僕目掛けて振り下ろした。四方八方へ投げつけていたヤナップやニャースと違って狙いは的確だった。僕が避ける方向とジャンプのタイミングが完全に読まれていて。ごっ、と鈍い音がして額に鋭い痛みが走る。僕の体全体がぐらりと後方へ揺れた。罵られるのはまだしも、これ以上の暴力はごめんだ。僕は背を向けて一目散に逃げ出した。逃げ足には割と自信がある。あっという間に公園の外へ飛び出したので、彼らの馬鹿笑いもすぐに聞こえなくなってくれた。絡まれたときに最初からこうしていれば痛い目に遭わずに済んだのだろうけど、一方的に言われっぱなしじゃ僕も面白くないんだよな。ヤナップやニャースが相手で一体一なら、勝てるかどうかはともかくそれなりの勝負が出来そうな気がする。僕に自ら喧嘩を吹っかける度胸はないけどね。前足の甲で石が当たったところを軽く拭ってみる。濡れた。やっぱり血が出てたか。元々赤と黒の毛並みだから、傷はそんなに目立たないのがせめてもの救いだ。ニャビーなら出来るはずのことが出来ないのは確かに僕の劣っている部分。かと言って、他に秀でた部分があるかと言われればそんなことはない。でも高いところが苦手で、木に登れないだけでどうしてこんな扱いを受けなくちゃならないんだろう。少し考えてみても答えは出てこなくて、僕の口から出てくるのはため息ばかり。今日は公園に戻るのはしばらく時間を置いてからの方が良さそうだな。そういえばがむしゃらに駆け出してきたから、辺りの景色にあまり馴染みがないことに気が付く。ここはどこだろう。左右を塀と塀に挟まれた狭い路地だ。勢いをつけて上にぴょんと飛び乗ることができれば、公園の大きな木が見えて方向が分かるかも知れないのにな。見上げた僕の頭上を数羽のムックルがぱたぱたと羽ばたいて通り過ぎていった。僕よりも体が小さいのにあんな高さをものともせずにすいすいと進んでいく。翼があって空が飛べる鳥ポケモンは普段どんな景色を見ているんだろう。屋根の上はもちろん、あの公園の高い木の上だって、ひょっとしたら雲の上までも行けるのかなあ。もし僕に翼があったら高いところに怯えることなく、公園でも堂々としていられたんだろうか。それとも、やっぱり飛ぶことに失敗したりして高いところが怖くなって、飛べないままなんだろうか。なんて、無いものに想像を巡らせていても仕方ない。早く公園に戻りすぎてまたあいつらと顔を合わせてしまうのも嫌だし、のんびりと帰り道を探すことにしよう。何しろ大きな大きな公園だ。道はどこかに通じていると信じて。僕はブロック塀がそびえ立つ細い路地を歩き始めていた。

―2―

 路地の見通しの悪さを甘く見ていたと言おうか。歩き出してから少なく見積もっても一時間、未だに僕はブロック塀の森をさまよっていた。細い路地はどこも似たような景色で、一度通った道を何度も往復しているような気さえしてくる。僕の予定ではとっくの昔に公園にたどり着いて、あいつらの目につかないようにそそくさと住処に戻っているつもりだったのだが。足元は相変わらず硬い人工物のまま。公園の土の匂いが恋しくさえ思えてきた。下手をすると暗くなる前に帰れなくなるのではという不安も湧き上がってくる。
「まいったな」
 どうしようか、どうしようかと考えてばかりいたせいか足元の感触が変わっていることに気がつかなかった。いつの間にか僕の周りには短く切り揃えられた緑色の芝生が広がっていて。周りは生垣でぐるりと囲まれているし、これはどう考えても完全に人間の家の敷地内。いつの間にか足を踏み入れてしまっていた。野生ポケモンへの風当たりが強い人ばかりじゃないとは分かっているけど、そうでない人ももちろんいる。追い出される前に退散したほうが良さそうだ。今日はこれ以上痛い目に遭うのは避けたい。
「誰、あなた?」
 ふいに頭の上から声が聞こえた。上からの声に思わず身構えてしまったけれど、どこか優しげでのんびりとしたトーンはあいつらじゃないことは明らかだった。庭に面している壁のない木製の建物の手すりらしき部分に、ヒノヤコマが留まっていた。綺麗に整ったふかふかしてそうな羽毛は野生のポケモンではなさそうな雰囲気がある。この家で飼われているポケモンだろうか。まずいな。変に逃げ出したら追いかけられても嫌だし。空を飛べるヒノヤコマを振り切るのも難しいだろう。適当に返事をしてなに食わぬ顔で立ち去った方が良さそうだ。
「僕は……」
「あっ、あなた怪我してる。頭のところ、大丈夫?」
 言いかけたところにヒノヤコマの小さな悲鳴に遮られる。そういえば石をぶつけられて血が出ていたんだったっけ。一時間もすればすっかり乾いて血も止まっていたから僕自身が忘れかけていたくらいだ。赤と黒で分かりにくいはずなのに、このヒノヤコマよく気がついたな。不安そうに何度か羽根を揺らして僕の方をじっと見つめている。一応僕のことを心配してくれているのだろうか。そんなに大げさに騒ぐほどの怪我じゃないのに。
「ルピナ、どうしたの?」
 そうこうしているうちにがらりと大きな窓が開いて、家の中から人間が出てきてしまった。ああもう。ヒノヤコマがむやみに騒ぎ立てるからだよ。家の人に会う前に立ち去るという僕の計画は完全に潰されてしまった。ルピナ、というのはこのヒノヤコマの名前なのだろう。出てきたのは少し白髪の混じった女の人だった。
「あら、ニャビーなんて珍しい。君、どこから来たの?」
 この人間は突然庭に現れた僕を訝しがることもなく、自然に話しかけてきてくれた。トレーナーとそのポケモンは似るという話をどこかで聞いたことがある。この人もどこかヒノヤコマを彷彿とさせるような、何となく優しそうで穏やかな雰囲気があった。僕を小馬鹿にして嘲笑ったり、硬い木の実や石をぶつけて面白がったりもしてこない。この人たちはあのニャルマーたちとは違う。無理して逃げ出さなくてもいいんじゃないかなと僕は思い始めていた。
「君……怪我してるじゃない。ちょっと待ってて」
 慌てて家の中へと駆け込んで行く女の人。僕を最初に見たときのヒノヤコマとほとんど同じ反応だった。間もなくして家から出てきた彼女の手には何やら見慣れないものが握られていた。下の方が紫掛かった丸い形をしていて上には白い何かが被せられている。公園のゴミ箱にもよく捨てられている人間の飲み物が入った容器に少し似ている気はしたけど、どうもそれとは違うようだ。僕の前までやってくるとしゃがむ女の人。見知らぬ人間がいきなりここまで迫ってきたら普段の僕なら距離を取っていたと思う。こんなに近いのに不思議と身の危険を感じなかったのは、この人が持っている柔和な空気のせいなのかもしれない。
「目、閉じて。ちょっと傷に染みるかもしれないけど」
 言われるがまま僕は反射的にぎゅっと目を閉じる。途端、しゅっという音がして額にぴりりと刺激が走った。馴染みがないつんとした匂いと、どちらかといえば痛みに近い身に覚えのない感覚。だけど、あいつらに石をぶつけられた時のものとは別の感じがする。不快感はなかった。
「これ、キズぐすりっていうの。ちょっとでも早く怪我が治るといいね」
 そっと差し出された彼女の手。やや躊躇いがちに伸ばされたそれを、僕は拒んではいなかった。安心した笑顔の後にわしゃわしゃと喉元を何度か撫でられて、しばらくすると引っ込められる。人間が僕に触れることを受け入れたのは数えるくらいしか記憶がない。公園でおいしい食べ物をくれた人に対しては、特別扱いしてもいいかなという気持ちにはなるんだけど。この人は別に何かものをくれたわけじゃないのに、どうして僕は。
「私はフレイラ。この子はルピナって言うの。よろしく、ニャビーくん」
 紹介を受けた後ろのヒノヤコマもよろしくね、と嬉しそうに片羽を広げて挨拶してくれた。そうか、この人はフレイラさんというのか。せっかく自己紹介されたんだから僕も何か言葉を返すべき、なんだろうけど。僕の名前を告げたところで、ルピナはともかくフレイラさんには伝わらないからな。そんなことよりも、何だかさっきから胸の奥がもやもやしてひどく落ち着かない。随分前に一度だけ、公園に来ていたトレーナーのポケモンに僕の毛並みを褒められた時の感覚に似ている気がする。背中がむず痒くって、そわそわしてじっとして居られないようなこの感じ。フレイラさんとルピナは初対面でしかも野生ポケモンであるはずの僕を当たり前のように受け入れてくれて。しかも、頭の傷の心配や手当てまでしてくれて。僕を気にかけたところで自分たちに何か得があるわけじゃないのにな。でもせっかく親切にされたんだから、無言のままというのは良くない。だけど。何か、何か言わなければという気持ちばかりが先走ってしまって僕の中からは何も出てこないんだ。ありがとう、の一言でさえ。誰かから気遣いを受けるなんて本当に久しぶりで、本来なら安心したり嬉しく思えることのはずなのに妙な居心地の悪さを覚えてしまう。僕を前にして穏やかな笑顔を浮かべているフレイラさん、そしてルピナの顔を見れば見るほど余計に頭の中がぐちゃぐちゃで訳が分からなくなって。いつの間にか僕は一目散に外へ向かって駆け出してしまっていた。
 すぐさま背後から聞こえてきたフレイラさんの驚いたような声が耳の奥へ張り付いてくる。違う、違う、違う。僕はこんなことがしたいんじゃないんだ。本当は、怪我の心配してくれてありがとう、手当てをしてくれてありがとうって、言わなくちゃいけないのに。そんな僕の気持ちを嘲笑うかのように、足取りはどんどん彼女の家から遠ざかっていく。自分の中で湧き出した気持ちに整理がつかなくて、右も左も分からずに走っていくうちに息が切れて、立ち止まって、振り返って、僕はようやく気がついた。何もくれていないフレイラさんが触れることを、僕が拒否しなかった理由に。彼女は僕に何もくれなかったわけじゃなくて、きっと彼女自身も知らないうちに渡してくれていたんだ。僕が公園に居る間はほとんど誰からも貰えることがなかった、優しさという感情を。

―3―

 次の日。朝目覚めて公園に落ちている木の実を適当に見つけてお腹を満たしてしまえば後は特にすることがなかった。広い公園の敷地を散策でもすればそれなりに時間は潰せるだろうけど、僕の隣を歩いてくれるようなポケモンが思い当たらないのが現実だった。顔見知り程度の間柄ならばそれなりに居るが、友達と呼べるかと言われると疑問が残る。僕を執拗に邪険にしてくるのはあの三匹くらいなもので、公園で暮らす他のポケモンとは当たり障りのない会話をこなすことはできるのだ。何となく僕を避けているポケモンも中には居たが、僕を嫌っているというよりは僕と関わることであいつらの標的になってしまわないか心配している雰囲気があった。僕だけじゃなくて僕を取り巻く環境にまで影響を与えてくる、面倒な奴らだ。幸い今日は彼らの姿を見かけなかった。公園の外に遊びに行っているのか、それともこの近くに居ないだけなのかは判断しかねたけど。ただ、それはそれで僕の一日が平穏になるかわりに何もなくなってしまうだけだった。僕の身の回りの出来事があいつらに絡まれるくらいしかないのが悲しいところだ。このまま住処に戻って眠るのは何だかもったいないかな、どうしようかと考えてふと僕の頭に昨日のフレイラさんとルピナのことが浮かんだのだ。まともな会話、といっても僕はほとんど喋っていなかったけど事務的な内容じゃないやりとりをしたのは本当に久々のことだった。それは決して嫌なものじゃなくて。公園で何となく浮いた存在になってから随分経ったから、誰かと会話するという感覚を忘れかけていたのかもしれない。そうだ。まだお礼も言えていないし、もう一度行かなくちゃ。僕の足はいつの間にかあの家へと向かっていたんだ。

 一度は通った道。所々にある分かれ道に不安を覚えながらもどうにかたどり着くことができた。芝生と土の香りは昨日と同じ、フレイラさんの家だ。ルピナは相変わらず組まれた木の上で目を閉じていた。日当たりの良い場所なのでぽかぽかとした陽気につつまれて本当に気持ちが良さそうだ。何だか起こしてしまうのも悪い気がする。どうしようか、何も言わないでじっとしていたら泥棒に入ったみたいに思われるかもしれない。だけど、どうやって切り出したら良いのだろう。発言のきっかけが掴めない。
「あら、また来てくれたのね」
 背後からの声にびくりとして振り返るとそこにはフレイラさんの姿が。頭の怪我は大丈夫、とすかさず僕のことを気にかけてくれた。そういえばすっかり痛みもなくなって、昨日怪我をしたことすら忘れかけていたくらいだ。こんなに早く治ってしまうなんて、これもキズぐすりとやらの効果なのだろうか。だとすれば尚更お礼を言わなくちゃなんだけど、僕はフレイラさんを前にして黙って頷くことしかできずにいた。どうせ言葉が通じないからとかじゃなくて、一言感謝を伝えなくちゃいけないと思ってはいたのに。口を開くのがやっとで何も喉の奥から出てこないのがもどかしい。まるで声の出し方を忘れてしまったみたいに。
「よかったら、うちでゆっくりしていかない? ルピナも誰かとお話できた方が楽しいと思うし、ね」
「うん!」
 いつの間にか起き出していたルピナがフレイラさんの言葉に続く。本当に彼女たちは息が合っている。互いに分かり合えているということなのか、人間とポケモンなのに本当に言葉が通じているみたいだった。彼女たちのほんわかした雰囲気に呑まれてしまって、またもや僕は半ば反射的に頷いていた。首が勝手に動いているような感覚。いきなりこんな提案をされてびっくりしちゃったけど、せっかく知り合ったんだからルピナやフレイラさんのことをもう少し知りたいというのもある。ひょっとするとふとした会話の合間に、お礼を言いやすくなるタイミングが来るかもしれない。あんまりそわそわしていたら変に思われそうな気がして、冷静な自分を装いつつ僕はルピナが留まっている木の方へと近づいていく。ちょうどフレイラさんとの間に入るくらいの位置。赴く足取りが心なしかぎこちなかったことをからかうようなこともなく、ルピナは僕を見下ろしながらにっこりと微笑んでくれた。春先のぽかぽかした日差しみたいに柔らかくて包容力のある笑顔。何だか見ているだけでほっとする。
「僕の名前は……ニケ。ニケっていうんだ。よろしく」
 面と向かってまともな自己紹介をしたのは生まれて初めてになるかもしれない。公園のポケモンに対して軽く流すように名乗ったことは多々あれど、今回みたいに互いの顔をちゃんと見ながらとなると僕の記憶する限りではなかった。
「もう知ってると思うけど、私はルピナ。改めてよろしくね、ニケくん」
「ふふ。新しい友達ができたじゃない、ルピナ」
 あたかも自分ことのようにフレイラさんは喜んでいた。僕らはまだ二回しか会ってないのにそんなに簡単に友達扱いでいいのかな。フレイラさん基準で行くなら僕は公園にたくさんの友達がいることになってしまうけどそれは違和感がある。何よりも幾度となく会っているニャルマー達のことを友達だなんて僕は思いたくなかった。でもルピナやフレイラさんと友達になれるんだったら、あんまり深く考えなくてもこれはこれでいいのかな。
「あ、そうだ。ちょっと待っててね」
 そう言ってフレイラさんは家の中にいそいそと戻っていく。何だろう、もうキズぐすりは付けなくていいと思うけどな。庭に残されたのはルピナと僕。ちょうど会話も途切れているからお礼を切り出すには悪くないタイミング、だけど。今だとルピナには聞こえても肝心のフレイラさんに届かない。人間には僕らポケモンの言葉が伝わらないとかそういう問題は置いといて、僕なりに感謝の気持ちを彼女に送りたかったんだ。
「お待たせ。これ、ポケマメっていうポケモンも食べられるお菓子なの。口に合うかどうか分からないけど、どうかな?」
 差し出されたのは楕円形をした黄緑色の物体。僕の手より一回り大きいくらい。二口もあれば食べられてしまいそうなサイズだった。公園の木の実ともまた形が違うし、他の人間からももらったこともない食べ物だった。それとなく匂いを嗅いでみると、ほんのりとした植物の青臭さのようなものが広がる。嫌いな匂いではなくとも食欲をそそられるのとは少し違う。あんまりお腹は空いてないにしても、初めての食べ物となるとちょっと興味は湧いた。ルピナが頭上でちらちらとポケマメに視線を送っているのを見ると、これまで何度も食べたことがあるんだろう。僕に向けられた分が気になってしまうくらい、ルピナのお気に入りということも分かる。これなら食べてみても大丈夫、かな。僕はゆっくりと頭を伸ばしてポケマメを齧った。見た目よりも柔らかい食感だ。あっさりとした、それでいて素っ気なさを感じさせない甘味が口の中に広がる。うん、おいしいな。二口目も自然と頭が伸びて、気が付けば一つ分を平らげてしまっていた。
「よかった。気に入ってくれたみたいね」
「ねえ、フレイラ」
「心配しなくても、ほら」
 もう片方の手でルピナにもポケマメを渡すフレイラさん。やっぱり食べたくて仕方がなかったらしい。嘴で器用に手のひらに置かれたポケマメを啄んでいくルピナ。彼女たちの言葉の流れは違和感がない。ずっと一緒に暮らしていたら、何を伝えたいのかが分かってしまうものなのだろうか。隣で聞いているだけでもポケモンと人間とのやりとりだということを忘れてしまいそうなくらい。僕はこれまで野生で生きてきた身だから人間との生活なんて考えたこともなかったけど、フレイラさんとルピナの和やかさを見ているとそれも悪くないかと思えてくる。おっと、ほんわかした空気に感化されてる場合じゃない。僕には今なすべきことがある。一瞬目を閉じて、軽く息を吸い込んで、頭の中に思い浮かべた言葉をゆっくりと吐き出すんだ。
「昨日は、どうもありがとう。フレイラさん」
 ようやく、言えた。声は震えてなかったと思う。彼女に伝わっているかどうかは分からないけど、僕の感謝の気持ち。ルピナには聞こえていたとは思うけど、さすがに通訳を頼むのは無理がある。僕の感情が届いていたかどうかは分からない。でも、フレイラさんは何も言わずにしゃがんで僕の頬を優しく撫でてくれた。暖かい手だった。何だろう、この感覚。暗い水底に沈んでいた心がすっと浮かび上がっていくような、清々しさ。寝床にしている茂みの中にいるのとはまた別の感じだけど、近いものはあった。自分に新しい居場所がある、居ても許されるということがこんなに心安らぐことだったなんて。そのときの僕はまだ知らなかったんだ。

―4―

 芝生の上でずっと見上げたままだと首が疲れるでしょうと、フレイラさんは踏み台のようなものを持ってきてくれた。僕の視線よりやや高いくらいの台。これぐらいの高さなら難なく飛び乗ることができる。木組みの上に留まっているルピナとやや距離が縮まった。同じ目線にたどり着くにはあと二段くらい重ねる必要がありそうだけど、それ以上の高さだと冷静でいられる自信がなかった。僕にはこれくらいが丁度良い。僕の事情を知らないにしても、フレイラさんはうまいこと絶妙な踏み台を用意してくれたものだ。と、思えばフレイラさんの姿が見えない。いつの間にか家の中に戻ってしまったみたいだ。出てくる様子もないし、後はポケモン同士で仲良くねってことなんだろうか。
「そういえば、ニケくんにトレーナーはいるの?」
 ルピナからのいきなりの質問に僕はゆっくりと首を横に振る。人間と暮らしているポケモンか、そうでないかは見た目とか立ち振る舞いとかで何となく分かりそうなものなんだけどな。僕の場合は、だけど観察眼にはそこそこ自信があった。確かに僕とルピナでは判断基準が違うから、一概には言えないのかもしれないけれど。
「じゃあ、外で生活してるんだね。どこに住んでるの?」
 聞かれてばかりだな、と思いつつも。会話の切り出しに慣れていないからルピナからあれこれ聞かれて答える方が僕としても話を繋げやすくてありがたい。正直こういう場では何を話すべきなのか、見当が付かなかった。ルピナの方から僕に持ちかけてくれれば、少なくとも無言の時間が続いて気まずくなってしまうことはなさそうだ。
「この近くにある大きな公園だよ。かなり目立つから分かると思う」
「あ、そこなら私もフレイラと一緒によく散歩してる。でもニケくんを見かけたことなかったなあ」
「大きな公園だからね。すれ違うこともなかなかないかも」
 何しろ一周するのに半日くらいは掛かりそうな公園だ。決まった時間に散歩でもしていない限りは会うことは難しい。仮に近くを通りかかっていたとしても意識していなければ気が付かない可能性もある。僕の種族はちょっと珍しいかもしれないけど、その他大勢の中に紛れるには十分なくらい公園に住むポケモンは多いのだ。だけど、公園ではあまりルピナやフレイラさんと会いたくないな。高いところが苦手な僕を、あいつらから馬鹿にされている僕を見られてしまいそうだったから。
「一匹で暮らすってどんな感じなのか、想像もつかないなあ」
「別にそこまで難しいことじゃないよ。自分で寝る場所と、食べ物を探すくらいで……」
 具合の良さそうなところに住処を構えて、お腹が空いたら木の実を求めて出歩く。僕の日常。自分の中では当たり前になりすぎていて、特別なことだとは微塵も思っていなかったのだけれど。ルピナは驚いたように目を丸くして、ふるふると小刻みに首を横に動かした。
「すごいよ。私にはできそうにないもの」
「そ、そうかなあ」
 野生で暮らしている僕の感覚とルピナのそれとは大分違っていたようだ。予想もしていなかったところで褒められるとやっぱりというか、何だか背中がぞわっとして落ち着かない。それでも以前よりは賞賛の言葉を前向きな気持ちで受け取ることができたような気がする。ルピナにすごいと言われて悪い気はしなかったから。
「公園には食べられる木の実がなる木も結構あるんだ。ポケマメ……だったっけ、そのお返しに今度持ってくるよ」
「ほんと! 楽しみにしてるね」
 屈託なく微笑むルピナを見ていると何だか僕も嬉しくなってくる。ポケマメは今まで食べたことのない味だったけどとても美味しかったし、もらってばかりじゃ悪い。それに、公園の木の実を食べてもらうという目的があればルピナの元へと顔を出しやすいというのもある。フレイラさんは僕のことをルピナの友達扱いしてはくれていたけど、正直僕にはあんまり自信がない。本来、友達ならば特に理由がなくてもお互い会ったりするものなんだろうけど。僕がそれをするにはまだ度胸と、他のポケモンとの交流の経験が足りない気がした。もう一度ここへ足を踏み出すためには、彼女の元へ赴く切っ掛けがどうしても必要だったのだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ公園に戻るよ。ポケマメ、おいしかった。フレイラさんにもよろしく」
 また会える予定も作れたし、ほどほどのところで切り上げることに。発言のタイミングとしてはそんなに不自然じゃなかった、と思いたい。僕は着地を失敗しないよう、慎重に台の上から芝生の上へ降りた。下が柔らかい草地で助かった。横移動ならともかく、上下の移動にぎこちなさが付いて回るのは仕方がない。転ばなかっただけでも御の字だ。
「うん。またね、ニケくん」
「また……そうだね。またね、ルピナ」
 次がある。また、という言葉。短い挨拶なのにとても味わい深くて温かみがある。炎タイプだから、とかじゃなく体の奥がぽかぽかとしていて良い気分。背を向けてとことこと歩いている間、一度だけルピナの方を振り返ると彼女は片方の羽根を上げて応じてくれた。体勢的に前足を上げはしなかったけど、僕も何度かうんうんと頷いてフレイラさんの家を後にした。口に出さなくても伝わるものがあるって、素敵なことだ。

  ◇

 夕暮れどきの公園。ぱりぱりと乾いた落ち葉を踏みしめる音が心地よい。僕は普段から食べられる木の実がなる木が集まっているポイントは幾つか目星をつけてあった。公園に住む他のポケモンたちも木の実を食べにくるわけで。日によっては採りやすい場所は残っておらず食事にありつけない場合がある。一箇所だけを拠点にしているとそういう事態も起こりうるため、食事処を何箇所か確保しているというわけだった。幸い今の時間は所々に先客がいるくらいで、ポケモンの姿はまばらだった。きょろきょろと辺りを見回しながら、僕は木の実を探していた。フレイラさんからもらったポケマメのおかげでお腹は空いていない。見た目は小さかったのに腹持ちは良いみたいだ。僕の分じゃなくて、ルピナにあげるならどの木の実がいいかを帰り道ずっと考えてばかりいたんだ。今日会ったばかりなのに気が早すぎるかもしれないけど、僕の方から言い出した手前、ちゃんと渡す分の目処を立てておかないと何だか落ち着かなくて。いつになく集中した探索の甲斐あって、薄暗くなりかけていた中でも僕が採集できそうな奴は何個か見つかった。落ちているのを探せばもっと数は揃うけど、どうせなら新鮮なものをルピナに食べてもらいたい。それに、僕が持ち運ぶとしたら口に咥えて一個運ぶのがやっと。チャンスが少ない分、より美味しい一つに絞り込まなくちゃならないのだ。そういえば、ルピナってどんな味が好みなんだろう。別れる前に聞いておけばよかったな。まあ、僕がもらったポケマメはルピナも大好きな味だったみたいだし、あの風味に近い木の実を探したほうがよさそうだ。ええと、そもそもどんな味だったっけ。確か甘さがあったはず。甘さはあったけどしつこくはなくてすっきりした感じ。一つ貰ったポケマメの感覚を必死で頭の中で手繰り寄せながら、僕は木の実の候補を絞り込む。見つけた中で甘味が強すぎないもので行くなら、選択肢はそう多くない。さっそく確保、と言いたいところだったけど気が付けば辺りはすっかり薄暗くなってしまっていた。この明るさの中で色や鮮度を判断するのは難しい。今日のうちに木の実を選別するのは諦めて明日にするべきか。確かに、一晩経ってしまったものよりは収穫してすぐの方が美味しいのは事実だし。仕方ない。どれか一つに絞るのは明日の朝になってからか。目星を付けている木の実が他のポケモンに先に取られてしまわないことを祈りながら、僕は自分の住処へと足を運んだのであった。

―5―

 木の実一つ分の重さが加わっていても僕の足取りは軽かった。昨日目星をつけておいた奴は運良く誰にも取られていなくて一安心。朝いつもより早く起きてきた甲斐があったというもの。遠慮なく頂いて僕はフレイラさんの家へと向かっているというわけだったのだ。昨日の今日でルピナからはせっかちに思われてしまうかもしれないけど、自分で言い出した約束を早く果たしてしまいたいという気持ち。それから、またルピナに会いたいという気持ちのほうがずっと大きかった。今日別れるときはポケマメのお返し、なんて理由を作らなくても自然な感じで次に会いに行ければいいんだけど。うまく話を運べるかどうか、あんまり自信がない。何しろ友達を相手にくだけた会話をする機会がこれまでほとんどなかったのだ。ちょっとルピナと話したぐらいではなかなか感覚が掴めそうにない。あれこれ考えているうちにフレイラさんの家にたどり着く。三度目ともなれば考え事をしながらでも道順は僕の頭の中に入っていたようだ。今日はフレイラさんは家の中にいるのか、あるいは留守にしているのか姿が見えない。ルピナはいつもの木製の手すりの上に落ち着いている。眠っているような感じはしなくて、近づいてきた僕にすぐ気がついたみたいだ。
「あ、ニケくん。もう来てくれたんだ」
「うん。良さそうな木の実が見つかったからね」
 枝の部分を咥えて持ってきた木の実を一旦芝生の上に置いてから、僕は口を開いた。手で掴んで持ってくるなんて器用なことができれば苦労はしないんだけど。僕の体の構造上どうしても口で咥えて運ぶしかないのだ。
「わあ、それが木の実なのね」
 ぱたぱたと翼を広げ、手すりの上からふわりと芝生の上に降り立ったルピナ。持ってきたのは僕の前足より一回り大きいくらいの黄色い木の実。ルピナは物珍しそうにまじまじと見つめている。フレイラさんと一緒に生活しているとあんまり生の木の実を目にする機会がないのかな。まあ確かに、あれだけ美味しくて腹持ちのいいポケマメがあるなら無理に食べる必要もなさそうだ。
「今日の朝採ってきたばかりのやつだから新鮮だよ。ルピナの口に合うかどうか分からないけど……」
「ううん、ありがとう。食べてみるね」
 芝生の上に置いた木の実にルピナは嘴を近づけて軽くつついた。表面にちょうど嘴の形のきれいな穴が開く。割と柔らかい木の実だけど、ここまで見事に刺さるものなのか。想像しているよりも鳥ポケモンの嘴は硬いのかもしれない。と、変なところで感心している僕がいる。考えてみればルピナの嘴は僕らでいう歯の役割をしているわけだから、丈夫なのは当然といえば当然だった。ルピナは嘴で啄んだ果肉を上を向いてこくりと嚥下する。どうだろう。昨日のポケマメの味に近いやつを選べていただろうか。こればかりは僕の好みと味覚とがルピナと近いことを祈るしかない。
「……おいしい。ありがとね、ニケくん」
「そ、そっか。よかった」
 木の実を味わったルピナはにっこりと僕に微笑んでくれた。木の実の味について多くを語りはしなかったけど、ルピナの笑顔は僕に気を遣ってのものじゃないと信じて。僕も少しはにかんだ笑顔で答えた。これでご馳走になったポケマメのお返しはできたと思う。ルピナは二口目、続いて三口目と木の実をつついていく。成り行きをそっと見守る僕。心地よい沈黙が僕らの間に流れていった。

  ◇

 半分でお腹いっぱいになったからと、ルピナはもう半分を僕に分けてくれた。いざ口にしてみると、昨日のポケマメは本当にこんな味だったかなあと若干の不安が沸き起こりもしたけれどそれは木の実と一緒に飲み込んでおいた。食べ終わったルピナは再びちょこんと木製の手すりの上に戻る。わざわざよじ登らなくてもちょっと翼を羽ばたかせれば、簡単に移動ができる。僕が同じ行動をするとしたら、きっと倍以上の時間がかかりそう。空を飛べるというのは便利なんだなあと僕は改めて感じた。
「そうそう。ここからだと、ニケくんの暮らしてる公園が見えるんだよ」
「えっ、ほんとに?」
 手すりの上、とはいえ大して高くもない場所。公園からフレイラさんの家まではそこそこ距離があったように思える。本当にそんな場所からあの公園が見えるものなんだろうか。
「うそじゃないよ。ニケくんも来てみる?」
 ルピナの提案に一瞬、躊躇いが生まれた。高くない場所と評価したものの、それは一般的に見た場合。僕からすればルピナのいる場所は高いところに分類されてしまう。手すりの高さはざっと見て僕の背丈の三倍、くらいだろうか。運動神経のいいポケモンならひょいとジャンプして飛び乗れるかもしれないけど僕にはそんな芸当ができるはずもなく。もちろん僕の事情を知らないルピナは手すりまでの高さが障害になってるなんて夢にも思っていないだろう。ニャビーなのに高いところが苦手だなんてルピナにばれてしまうのは嫌だ。でも、ここで断ったら変に思われてしまいそうだし。幸い、ルピナが留まっている手すりのすぐ隣に同じくらいの高さの台があった。その台の横にはちょうど半分の高さの踏み台が置かれている。手すりの上と違って、あの台の上ならそこまで足場は悪くなさそう。半分の高さの台でワンクッション置いてから飛び乗れば、ぎりぎりいけるだろうか。ルピナに弱点のことを黙っておくつもりなら、僕は覚悟を決めるしかなかった。
「うん。ちょっと待ってて」
 ちょっと、で済めばいいけれどと思いながら。僕はまず低い台の上に飛び乗るために後ろ足に力を込める。高さで言えばそこまででもない。昨日フレイラさんが用意してくれた台よりは少し高い気がするけど。芝生を蹴った僕はそこまで苦労せずに台に乗っかることができた。問題は次。台の上という狭いスペースから、さらにもう一段階高い台の上に飛び移らなければならないため難易度が跳ね上がる。更には高さも加わって、さっき芝生で踏み切ったようにはいかない。ちらりとルピナを横目で見ると、僕の動向をじっと見守られているような感じがする。ますます僕の退路は絶たれていくというわけだ。ええい、やってやろうじゃないか。高い方の台は広さで言えば今僕が乗っている台の倍以上はゆうにある。多少目測がずれていても、勢い余ってしまったとしても台の上から転げ落ちてしまう心配は少ないはずだ。そう無理やり自分に言い聞かせて僕は再び後ろ足を蹴った。台から台へ、宙を舞う感覚はそれほど長くは続かない。どうにか僕は二つ目の台の上に着地することに成功した。この台も木製で滑りやすくなかったのはありがたかった。公園でニャルマーたちから全力で逃げ回ったときよりも心臓がどきどきしているような気さえしてくる。慣れないことにはやはり精神力を使うのだ。ひどく息切れしているのをできるだけ悟られないようにしながら僕はルピナの方を向く。
「ほら、見える?」
 ルピナの視線を追いかけてみても、フレイラさんの家の塀と道を挟んだ隣の家が見えるだけ。僕の住んでいる公園なんてどこにもないような気がするんだけど。ルピナには僕とはまた別の景色が見えているとでもいうのだろうか。
「……ごめん。どれだか分からないよ」
「隣の家と家との間をよーく見てみて」
 塀の向こう。二軒並んだ家の間には確かに隙間がある。細い間隔から先の景色を見通すことはできるけど、とてもじゃないけど公園までは無理なんじゃないかな。と、半信半疑だった僕の視界の端に僅かに写りこんだ緑色。庭木とか街路樹とかじゃない、ずっとずっと遠く。意識して見ないと絶対に気がつかないくらい、控えめに顔を覗かせていた。だけど見間違いじゃない、これまで何度も公園で顔を合わせてきたんだ。確かに見覚えがあった。
「あれって、もしかして」
「そう。公園の大きな木。ここからでも見えるんだよ」
 なるほど、僕の暮らしている公園というのはそういうことだったのか。てっきりあの公園が見渡せるのかと思っていたけど、さすがにここからだとそれは無理だ。あの木を普段目にするときは根元や幹の下の方にある枝だけで、遠くから眺めたことは確かになかった。こんなに遠く、フレイラさんの家からでもちゃんと見ることが出来るんだ。公園が見えるっていうルピナの言葉もあながち間違いじゃないのかもしれない。家と家の隙間を通して見た公園の木は、僕が知っている木じゃないみたいで不思議な感覚だった。やっぱりルピナの目には僕が普段見ている景色と違ったものが写っているみたい。ルピナと友達になれたことで、このとき僕の世界がちょっぴりだけど広がった気がしたんだ。

―6―

 こんなに遠くから公園の木を眺めるのは、おそらく初めてのことだった。見えているのはほんの一部だけど、改めてあの木の大きさを実感させられる。公園にいるときは近すぎて下から見上げたことしかなくて、天辺がどんな風になっているのか分からなかったからな。途中で枯れたり折れたりすることなく、ちゃんと上まで葉っぱが茂ってるんだな。
「すごく大きな木だよね。あそこから街を見下ろしたらどんな風に見えるんだろう……」
 それはルピナの単純な呟きか、あるいは僕に対しての問いかけか。後者ならば答えようがない質問だ。あんなに高い木の上なんて、想像しただけで僕はひっくり返ってしまうだろう。何しろ、この高さの台に乗るだけで四苦八苦していたのだから。
「きっと見晴らしがすごいんだろうね……。でも、ルピナは空を飛べるから想像が付くんじゃないの?」
 高いところが苦手とはなかなか切り出しにくかったので、僕は無難な受け答えをしておいた。そのついでに素朴な疑問をぶつける。公園でたびたび僕の頭上を通り過ぎていくムックルのように、鳥ポケモンならば空を飛ぶのは造作もないこと。そう信じて疑っていなかった僕の言葉に、ルピナは少し俯いてゆっくりと首を横に振った。
「……私ね、生まれつき翼の筋肉が弱いみたいで上手に飛ぶことができないんだ。だから、空から見た景色がどんなものか分からないの」
 ルピナの言葉が僕の頭の中にゆっくりと染み渡っていく。できるだけ平静を装っていたつもりだった、けど。予想外の展開に背中の毛が若干逆立っていたかもしれない。何の前触れもなく知ることになってしまった彼女の意外な事実。僕にさらりと言ってのけてしまう辺り、ルピナ自身はそこまで深刻に受け止めていないということなのだろうか。ひたすら彼女の前で自分の弱みを隠そうとしている僕とはなんだか対照的だった。
「そう、だったんだ。でもさっきここから芝生の上まで飛んでなかった?」
 見間違いではなかったはずだ。僕が苦労して登りきったこの台の横の手すりまで、ちゃんと両方の翼を使って軽々と飛び乗っていたように見えたのだけど。
「足場もしっかりしてるし、これくらいの高さまでなら大丈夫。翼を長い間動かし続けるのが出来なくて、距離を飛んだり高いところまでは行くのは無理なんだ」
 鳥ポケモンなのに空を飛ぶことができないってどんな気持ちなんだろう。フレイラさんと暮らしているから、僕みたいに他のポケモンから仲間はずれにされたりなんてことはないとは思うけど。自分が抱えているものを、こんなにも自然に打ち明けてしまえるものなのだろうか。ニャビーであるのに高いところが苦手な僕が、時折抱くもやもやした感覚。他のみんなは出来るのにどうして自分だけ、という苛立ち。翼のことを話すルピナからはそれらが全く感じられなかった。
「あ、そんなに気にしないで、ニケくん。ここで生活する分には問題ないから、ね」
 明らかに狼狽えていた僕への気遣いの言葉。本来なら僕がルピナへ掛けるべき場面。だけど、このとき僕の中には飛べない彼女を気にかけるのとは別方向の感情が湧き上がってきていたのも事実だった。ルピナとは違って生まれつきではないにしても、高いところが苦手な僕。そこまで遠くない共通点。何となくルピナと共感できたような気がして。嬉しいと表現してしまうのはルピナにとても失礼なことだから出来なかったけど。心のどこかで安心してしまった僕は確かにいたのだ。
「実は……さ。僕もニャビーなのに高いところが苦手で、木にも登れないんだ」
 ルピナと会った時から極力ばれないようばれないよう、僕が頑張って取り繕ってきたもの。それをこんなにもあっさりと崩してしまえるものなんだなと僕は自分に驚いていた。昔木から落ちてしまったこと。それ以来高いところに恐怖心を抱いてしまっていること。それが原因で公園の他のポケモンから馬鹿にされていることまでも。突然話し始めた僕に少々驚いた様子を交えながらもルピナは黙って耳を傾けてくれていた。話せば話すほど僕の気持ちは少しずつ和らいでいく。ルピナに弱いところを見せたくなくて高いところが苦手なのに格好つけてたけど、やっぱりそれは息苦しくて。僕と同じような痛みを抱えているルピナになら全部話してもいいかなと思えたんだ。
「そっか、ニケくんも……」
「うん。いつかは克服しなきゃとは思ってるんだけど、なかなか踏み出せなくってさ」
 僕だっていつまでも高いところに怯えてばかりではだめだと感じてはいる。公園で暮らしていく限り今のままでいるということは、すなわちニャルマー達に馬鹿にされ続けて肩身の狭い思いをしながら生きていくことに等しい。望ましくない環境を変えるには自ら動くしかないと頭では分かっている。ただ、頑張らなければという意気込みが出てくると必ず、やってもダメなんじゃないか。上手くいかないんじゃないかという後ろ向きな気持ちが僕に二の足を踏ませに来るのだ。いつかは、いつかはの繰り返しで結局前に進めていないのが現状だった。
「私の翼はたぶん治らないんじゃないかって言われてるから、ニケくんは私の分まで頑張ってみて」
 ずっと飛べないままでいることを、ルピナはあっさりと。しかも笑顔で。信じられなかった。どうもルピナは飛ぶことに対してそこまで執着を持っていないような感じだった。あるいは、昔は持っていたけどもう諦めてしまった可能性も。もちろん、フレイラさんと暮らしているルピナと、野生で生活している僕とではものの考え方や価値観に違いがある。僕の枠に彼女を当てはめてしまうのは短絡的かもしれない。でも、それでも。そんな風にルピナに応援されたって、僕はちっとも嬉しくなんかなかった。
「どうして……そんなこと言うのさ」
「えっ」
「飛べないままかどうかなんて分からないだろ。だったらやるだけのことやってみようよ」
 これはひょっとすると、ルピナへ向けたものだけでなく僕が僕自身に言い聞かせるための言葉だったかもしれない。出来るかどうか分からないから。自信がないから。行動せずにじっとしていた自分への戒め。自分を踏み出させるための前向きな台詞。
「僕が木に登れるようになって、ルピナが飛べるようになったら。一緒にあの木の天辺から街を見渡そう。きっとすごく眺めがいいはずだよ」
「ニケくん……」
 突拍子もないことを言い出したと思われているだろうか。登れない僕と、飛べない彼女。状況は似ていても捉え方には隔たりがある。一方的に僕ばかりが熱くなっているだけではこの提案は意味を成さない。やや俯いて目を伏せるルピナ。彼女の中でも自分の翼に対して何か思うところはあったのか。首を横に振らさせないだけの何かが。
「ルピナと一緒だったら僕、上手くいきそうな気がするんだ……!」
 一匹だと挫けてしまいそうなときも、ルピナと一緒になって頑張っているんだという支えがあれば。自分の気持ち以上に前向きになって、きっとなんとかなる。根拠も何もなかったけれど、そんな気がしたから。
「そうだね。私、どこかで諦めてたんだけど。ニケくんの言うとおり、可能性はゼロじゃないよね」
 言いながらルピナが視線を移したのは、公園の方角。あの木は相変わらずちょこんと頭だけが飛び出していたけど、僕の目に映るそれはさっきと見え方が違っていた。
「ニケくん。私、やってみるよ」
 これまではただの目印に過ぎなかった、大きな大きな木。だけど今からは遠い遠い、僕の。いや、僕らの目標地点。そうだよね、ルピナ。
「うん、必ず一緒に街を眺めよう。……約束だよ」
「うん。約束」
 無意識のうちに差し出していた僕の前足。木製の手すりから台の上へひょいと飛び移って、ルピナは受け取ってくれた。そっと前足と翼を取り合った、僕たちの約束。

―7―

 僕が苦手を克服するために動き出せたのは、ルピナと約束を交わした次の次の日からだった。昨日はあいにくの雨で、特訓するにしても足元が悪そうだからと挑戦は見送る形に。やはり慣れないことだから、より良い環境で挑みたいというのもある。いきなり出鼻をくじかれてしまった感はあったけど、今日は雨も止んで日差しが公園の芝生の上にも差し込んでいた。もちろん、まだ雨の痕跡はあって露で足元が湿っている箇所も多い。濡れるのはあんまり好きじゃないんだよな。だけど、僕の方から言い出した手前、何もせずにじっとしている時間が長くなるのは良くないと思う。とはいえ、初めての試みだから何から手をつけたものか漠然としているところはあった。まずは手頃な高さから攻めてみるのが無難かなあ。ルピナと話すために飛び乗った、あの台くらいの高さならなんとかなるかもしれない。そうだ、公園のどこかに人間が遊ぶために作っていた木組みがあったよな。組み立てられた木が徐々に高くなって、頂上までたどり着ける構造になっていたはず。あれなら少しずつ高い所へ移れるし、足場もそんなに悪くなさそうだ。まずはそこからやってみることにしよう。ひとまずの目標を決めた僕は、あの木組みの場所を思い出しながら公園の芝生を踏みしめていた。

 ◇

 これまでは無駄な構造物くらいの認識でしかなかったので、木組みの位置をちゃんと把握していなかった。それでも案外すんなりと目的地まではたどり着けたから、僕の記憶力も捨てたものではなかった。でも。僕が地面から見上げるそれはとんでもなく高い絶壁のように映っていたのだ。何日か前に、ニャルマーたちに馬鹿にされたときあいつらが乗っていた場所。こんなに大きかったっけ。あんな高いところから僕へ石を命中させるなんて、やっぱりあのニャルマーやるな。なんて、変なところで感心してしまっていたくらいだ。
確かに地面から組まれた木が段々と高くなっていって、頂上まで行ける仕組みになっている。最も地面に近い一段目は、確かに手頃な高さ。フレイラさんが最初僕に用意してくれた台と同じくらいだった。正直あまり気が進まなくなってきていたけど、ここまで来たわけだし。やれるところまではやってみようかな。まずは一段目へ飛び乗る。やはり昨日の雨が残っていて木の上はしっとりと湿っていた。滑りやすい箇所もあるので足を踏み外さないようにしないといけない。段差は均一に作られているみたいで、一段目に踏み込めたのなら理論上は頂上までいけるはずだった。二段目、三段目まではすんなりと。ここが大体ルピナが留まっていた手すりと同じくらいの高さだろうか。これ以上先は未知の領域、はたしてどこまで行けるのやら。そこからひょいひょいと四段目、五段目まで来て。意外といけるかもしれないと、ふと下を見てしまったのが良くなかった。想像以上の地面の小ささ、自分が高いところにいると再認識してしまって、僕の体全体がぞわりと嫌な寒気に包まれる。ああそうか。登るのは行けたとしても、最終的には降りなくちゃいけないことを失念していた。上へ行くのはここまでにしておいたほうが良さそうだ。前足から踏み出すとそのまま前につんのめって、気が付けば地面に。なんてことになりかねないから、後ろ足からゆっくり降りていく作戦に。一段登るのは簡単なのに、降りることのなんと難しいことか。登りの倍以上の時間を掛けて、三段目まではどうにかたどり着いて。多少は降りるときのこつを掴んできたかなという油断が良くなかったのかもしれない。二段目へと差し出した後ろ足がつるりと外へはみ出してしまい、そのまま勢い余って一気に一段目へお腹を打ち付けた後、今度は背中がごろりと地面と挨拶する羽目に。お腹と背中からじんとした痛みが遅れてやってきた。登りはともかく、降りを安定させることが今後の課題か。まだまだ痛みは残っていたけれど起き上がって歩く分には問題なさそうなのが幸いだった。
「へへっ、何やってたんだよ」
 今のタイミングでは会いたくなかった相手だ。ニャルマーよりは幾分かましとは言え、あいつの取り巻きのヤナップに無様な姿を見られてしまっていたらしい。にやにやしながら僕に近づいてくる。どの辺りから近くにいたんだろう。登り降りに必死になっていて全然気がつかなかった。
「お前、もしかして登る練習でもしてたのか?」
「だったら何?」
 苛立ちを隠そうとはしなかった。正直僕の中でヤナップやニャースの地位はニャルマーよりもだいぶ低い。ニャースと一緒なら面倒だけど今回はヤナップだけだったし、こいつが一匹で大したことが出来るとも思えなかった。軽く思われていると悟ったか、あるいは妙に強気な僕の態度が気に食わなかったのか。一瞬にやついたヤナップの顔から表情が消えたのを僕は見逃さなかった。
「お前さぁ、登り方よりも落ち方の練習したほうがいいんじゃねえのか?」
 けらけらと笑いながら無神経な物言い。僕がどんな気持ちでこの高さに挑んだのかも知らないで。以前なら聞き流していただろう、挑発的な言葉。だけど今回ばかりはそうもいかなかった。頑張っている、努力していることを馬鹿にされるのがこんなにも腹立たしいことだったなんて。
「……さい」
「え?」
「うるさいって言ってるんだよっ!」
 怒りをあらわにして背中の毛を逆立てて突撃してきた僕にヤナップの顔色が変わる。まさか僕が反撃してくるだなんて夢にも思っていなかったはずだ。慌てて木組みの段を軽々と登って、安全なところまで逃げていく。足を滑らさなかったのはとても残念だ。悔しいけど高所へ避難されると僕には追いかけようがなかった。
「く、悔しかったら、ここまで来てみろよ」
 言葉こそ僕を馬鹿にはしていたけど、声は若干上ずっていて表情や振る舞いには余裕がなかった。やっぱりあいつはニャルマーの取り巻きに過ぎない奴。一体一ならタイプ相性も手伝って押し勝てそうな気さえしてきた。前の僕なら気にもとめず相手にすらしなかったかもしれないけど、ルピナと約束したんだ。こんな奴らに負けてられない。
「お前になあ、出来るわけないんだよ!」
 捨て台詞を残して、ヤナップは木組みの頂上から近くの木の枝に飛び移ってどこかへ行ってしまった。腹立たしいけど、身軽な動きだった。僕には到底できそうもないくらいの。あいつが去っていった方向を見ながら、僕はただただ歯を食いしばるだけ。思わず涙まで零れそうになる。この悔しさをばねにして頑張れるほど僕は強くない。悔しいものは悔しかった。俯いた僕の目に、自分の前足が映る。約束を交わしたときのルピナの温かな翼の感触が思い起こされた。そうだよね。こんなところで挫けてはいられないや。今は出来なくたって、少しずつ出来るようにならなくちゃ。ふと、ルピナはどうしているかなと気にはなったけど。あれからろくに収穫もないのに、会いにいくのも気が引けてしまう。彼女に顔を合わせるのはもっと練習を重ねて、何らかの成果が得られてからでも遅くない。さっきは滑り落ちてしまったけど、この木組みは基本を固めるのに役に立ちそうだ。今は無闇に高いところを目指すよりは、段差の登り降りをスムーズに行えるようになっておくべきだろう。僕は体をふるふると震わせて背中やお腹についた泥を落とす。一段目、二段目と飛び乗って、三段目まで。ここまでなら降りるときもそんなに怖くない高さだ。五段目より上に挑戦するのはこの三段目から地面まで身軽に降りられるようになってからだな。後ろ足を伸ばして、二段目から一段目。そして地面へ。最初よりはすいすいと降りられた気がする。最初より、少しは進歩出来たのかな。よしこの調子で行こう、と登り始めた矢先に今度は二段目で足を滑らせてお尻から地面にダイブしてしまったので、まだまだ先は長そうだった。

―8―

 あれから何日か練習を重ねて木組みの五段目まではそれなりにスムーズに登ることが出来るようになってきた。ふと気になって数えてみると段数は全部で十。僕が難なくこなせるようになったのはまだ半分というわけだ。もちろん、この段差を登りきったからといって僕が木登りが出来るようになったわけではない。ただ、僕の高い所への苦手意識を少なくするという目的ではこの段差からこなしていくのが一番良いような気がするのだ。これまでの最高記録は七段目まで。登るのはよくても降りるのにとてつもなく時間が掛かるのでよほど調子と気分の良い日でないとそれより上に挑戦する気にはなれそうにない。最後の一段から足を踏み出すと、僕は地面に降り立った。前向きでも後ろ向きでも少しは降りられるようになってはきたものの、やっぱり登りに比べると苦手意識が消えない。前みたいに転がり落ちる回数は減ってきていることに多少の進歩が感じられるくらいか。体毛のおかげでぱっと見は分からないけど、腰や背中の辺りには失敗したときの努力の痣が残っているはずだ。さて、今日のところはここで終わりにしておこう。無理して詰め込んでもあんまり効果は得られなさそうだから。最初の日から僕は毎日徐々に続けることにしている。あれから何日経っただろう。ルピナと別れる前よりは上達したと胸を張って言えるくらいには練習してきた。木登りまで行かなくとも、高さにはだんだんと慣れてきている実感があった。ルピナの方はどうなんだろうか。まさかとは思うけど、もう飛べるようになってたりしたら僕の立つ瀬がないな。まあ、しばらく会ってないからどんな状況かも気になるし話もしたい。お互いの報告も兼ねて一度顔を出しに行ってみることにしよう。

 ◇

 何日か通わなくてもさすがに迷子になったりはしない。フレイラさんの家の芝生がある庭。いつもの場所、木製の手すりの上ににルピナは居た。ただ何となくぼうっとしているというか、どこか浮かない表情をしているように見えなくもない。僕が足元まで近づいてきて、ようやく気がついてくれたようだった。
「あ、ニケくん」
「久しぶり。あれからどう?」
 ルピナに声を掛けながら僕は、手すりの後ろにあった台の上に飛び移っていく。低い台を足がかりに高い台の上へ。これで同じ目線で話せる。台に飛び乗る行為に関しては、前に来たときよりも恐怖心はなくなっていた。これくらいの高さならまだ木組みの台の方がずっと高いくらいだ。少しは練習の成果というやつを実感できたかもしれない。
「うーん、私なりにやってはみたんだけど。あまりうまくいかなくて」
「そっかあ……」
 どことなく沈んでいたように感じたのはそのせいなのか。今日はこれだけの段まで登れるようになったよって報告するつもりだったんだけど、言いづらい空気。確かに僕みたいに登っていく練習と、空を飛ぶ練習とでは勝手が違うとは思う。上手く飛べるようになるにはどうすればいいんだろう。もし僕に公園で他の鳥ポケモンの友達でもいれば、コツを教えてもらえていただろうか。残念ながら僕は彼らとの交流はないし、もともと彼らは高い木や塀の上にいることが多いから話す機会もなかなかないのだ。
「ニケくんは、結構調子いいみたいだね。前より身のこなしが軽やかだったよ」
「そ、そうかな……ありがとう」
 前とは違うなという自覚はあった。だけどそれを自分で口にしてしまうと、途端に僕が積み上げてきた努力が薄っぺらくなってしまうような気がして。でもルピナに上達を感じてもらえているのなら背中やお尻の打ち身は無駄ではなかったということだ。本当はにやけてしまいたいくらい嬉しいことなんだけど順調でなさそうな彼女の手前、僕は控えめに喜んでおいた。
「その感じなら、あの木の天辺までそんなに掛からないんじゃない?」
「いや……まだまだだよ。まずは木に登れるようにならないと」
 この台の上と公園の木の上とでは条件がまるで違う。まずはあの木組みの最上段を制覇してから、木登りの練習に取り掛かるつもりだった。あんな垂直に近い傾斜をどうやって上へ進んでいくのか今の段階ではあまり見当がつかない。きちんとした足場のある木組みを登るようにはいかないはずだ。以前にも増して根気よく取り組む必要がある。
「ニケくんに置いていかれないように、私も頑張らないとね」
「大丈夫。あそこへ登るときはルピナと一緒に行くよ」
 一緒に街を眺めるという約束。僕だけが、あるいはルピナだけがあの木の天辺まで到れるようになっても何の意味もない。飛び方は分からなくても、ルピナが上手くいってないなら僕はできる限りの応援をするつもりだ。調子が悪いときがあっても、慌てずにゆっくりやっていけばいい。公園の木は逃げていったりしないのだから。
「ありがとう……ニケくん」
 思うように成果が上がらないことにかなり焦りを感じていたらしい。ようやくほっとした表情になるルピナ。うん、ルピナにはいつもの穏やかな顔つきの方が似合ってる。それだけ僕との約束を真剣に考えてくれていると受け取ってもいい。少し結果が出たからといって慢心せずに僕もまだまだ頑張らないといけないな。
「ルピナ、そろそろ……あら、ニケくん。来てたのね」
 声のした方を振り返るとそこにはフレイラさんの姿が。前回ここに来たときはルピナだけだったから、何だか顔を見るのが久しぶりな気がする。手にはどこかで見たような赤と白の丸いものが握られていた。美味しそうな匂いはしないから食べ物ではなさそうだった。
「せっかく来てくれてたのにごめんね。今日はルピナの検査の日だから……」
 僕の頭を撫でながらちょっと申し訳なさそうにしているフレイラさん。検査っていうのが何だか分からないけど、どうやらフレイラさんとルピナは予定があったらしい。そればっかりは仕方がないや。僕は勝手にここへ来ているだけ。決まっていた予定に割り込むわけにはいかない。
「私の翼のこと、ニケくんに話したでしょ。翼のことで異常がないか、ときどきポケモンセンターで調べてもらうの。今日はその日なんだ」
 検査と言われても腑に落ちなかった僕を見かねたのか、ルピナが説明をしてくれた。ポケモンセンターというのは翼を調べてもらうための施設らしい。公園暮らしで人間の文化にはあまり馴染みがない僕。こうやって教えてくれると非常に助かる。
「そっか。大丈夫なの……?」
「心配しないで。いつも簡単に私の翼のことを調べるだけだから」
 それならいいんだ。どこか体の調子が悪いとかじゃなくて、ルピナの翼に悪いところがないかどうかを見るような感じか。
「それじゃ、行きましょうか」
「うん」
 ルピナが頷いた後、フレイラさんの手に持っていた丸いものの中へ一気に吸い込まれていった。一瞬驚いたけど、この光景には見覚えがある。公園に来ていたトレーナーのポケモンもこんな感じで出てきたりいなくなったりしていた。ええと、あの丸いのは確かモンスターボールって言ってたっけ。
「ふふ、驚かせちゃった?」
 フレイラさんはモンスターボールのことを僕に教えてくれた。トレーナーのポケモンは皆それぞれのボールがあるということ。ルピナもその例に漏れず、これが彼女のモンスターボールというわけか。何度か見た記憶はあったから、衝撃はそこまででもない。僕らポケモンを収納して運びやすくするための道具。どういった仕組みになってるのかは分からないけどとても便利な道具。でも、何だか得体が知れないんだよな。中はどんな構造になっているのか気にはなるけど、入ってみたいとは思わなかった。
「ルピナね。あなたと会ってから、何だか笑顔が増えたみたい」
 フレイラさんが僕に語りかけてくる。ずっとフレイラさんとルピナとで生活してきたから、他のポケモンと触れ合う機会もなかったらしい。翼のことがあるから、元気なポケモンと一緒に遊んだりが難しかったからだそうだ。
「私以外の誰かと一緒にいてあんなに楽しそうにしているあの子、初めて見たの。だから、これからもルピナの友達でいてあげてね」
「もちろんだよ」
 ルピナは僕にとっても大切な初めての友達だ。再び頭を撫でてくれたフレイラさんに僕は返事をした。もちろん鳴き声でしか届いてないと思うけど、同意の表現としてはきっと伝わっていると信じて。

―9―

「……やった!」
 今日、ようやく登りきった木組みの十段目。ここに来るまで何日掛かったんだろう。高いところがへっちゃらなポケモンだったらほんの数分でたどり着いてしまいそうな距離。だけど僕にとってはとても長い長い道のりだった。最初はおっかなびっくり五段目まで登って、ヤナップに馬鹿にされて。そこから少しずつ高さに慣れる練習を続けてきた積み重ねの結果だった。下から見上げるのとではまるで景色が違う。公園の遥か遠くまで見渡せて、なんだか不思議な感じだ。僕はこんなも大きな公園の中に住んでいたのかと再確認させられたというか。そして、ここからでもそびえ立つ大きな木は強い存在感を放っていた。天辺はここからでもようやく見えるか見えないかといったところ。ひとまずの目標地点には到着できたもののまだまだ道のりは長い。ここからの景色をさすがに良い眺め、とは表現できないけど少しは高さに対する苦手意識をなくせたような気はしていた。さて、次に挑戦するとなるとやっぱり、木だよな。いつまでも人工的な段差を相手にしているわけにもいかない。最終的に登るようになるのは木なのだから。慎重に段差を降りきってから
僕は辺りを見回して手頃な高さと形をした目標を探す。軸がまっすぐな木や、枝分かれが少ない木、単純に高い木は最初の取っ掛りには難しそうだ。まずは木組みの五段目くらいの高さの木から手をつけてみることにしようかな。ちょうど木組みの近くにあった一本の木がそれくらいの大きさだった。ここからやってみるかなと、木の根元まで行ったまでのはよかったのだけれど。こんな真上に向かって伸びていて、足場も少ないところをどう攻略していけばいいのだろう。確かに木の幹はごつごつしていて爪を立てれば引っ掛けられそうな気はしないでもない。前足をかけやすそうな幹の出っ張りを見つけて、そこを足がかりに幹から枝分かれしている部分へ飛び移っていく感じ、なんだろうか。これまでの練習で積み上げてきたものが果たしてここで通用するのかどうか。根っこのあたりから上を見上げていてもなかなか踏ん切りがつかない。ひとまず今日の成果は得られたから、本格的な木登りは明日からでもいいかもしれないな。なんて後回しな考えをルピナに聞かれたら怒られるだろうか。前会ったときはあんまり元気がなさそうだったから、ちょっと心配な部分もある。成果報告も兼ねて、ルピナに会いに行ってみることにするか。飛ぶ練習、うまくいっているといいんだけどね。

 ◇

 いつものフレイラさんの家。フレイラさんの芝生の庭。いつもルピナが留まっていた木の手すり。きっと今日もそこにいるんだろうと、僕は当たり前のように確信していた。手すりの上に姿が見当たらないなと思ったのと、そこから少し離れた芝生の上にルピナが伏せっているのに気がついたのがほぼ同時だった。最初は芝生に降りて休憩しているのかなとも思った。だけど近づいていくうちにただ休んでいるのとは違っていて、明らかに様子がおかしいことに気がついたんだ。
「ルピナっ!」
 慌てて駆け寄って前足で軽く体を揺すってみるけど反応はない。目は閉じたままで、苦しそうな呼吸で揺れ動く背中もひどく弱々しい。何があったのか分からない。だけどルピナが苦しそうにしている。なんとか、なんとかしなきゃ。だけどどうすれば。手当なんてできないし、どこが悪くてこうなっているのかも見当がつかなかった。僕だけでは何もできない、どうしようもなかった。そうだ、フレイラさん。フレイラさんが家の中に居てくれれば。僕は必死で窓に向かって鳴き続けた。フレイラさんがいつも庭に出てくるときに開いていた窓に向かって。何度も、何度も。やがて中から聞こえてくる足音。よかった、留守じゃなかった。
「……ニケくん。どうしたの?」
 ただならぬ僕の雰囲気を感じ取ってくれたのか、フレイラさんは窓を開けて外に出てきてくれた。倒れているルピナの方向を促すように僕はなおも鳴き続ける。すぐに異変に気がついたフレイラさんは血相を変えてルピナの元へと駆け寄る。フレイラさんが呼びかけたり体に触れたりしてみても、僕の時と同じように相変わらず反応に乏しいルピナ。むしろ呼吸の音は弱くなっているようにさえ感じられる。一刻を争う事態と判断したのか、フレイラさんは家の中からモンスターボールを持ってきてルピナを戻す。
「ニケくん、知らせてくれてありがとう。すぐにポケモンセンターに連れて行くわ」
 普段のおっとりしたフレイラさんからは想像もつかないくらい、緊迫した口調で一気に言うとそのまま門の外へ飛び出していった。僕も後を追いかけようかどうしようか、と少し迷っているうちにあっという間にフレイラさんの背中は見えなくなってしまった。ここら辺りの路地は複雑だし下手に動き回るとまた迷子になってしまいかねない。ポケモンセンターという人間の施設に野生の僕がすんなり入れるかどうかも怪しい。ルピナが心配なのはもちろんだったけど、僕はフレイラさんの家の庭で帰りをじっと待つことにした。ルピナと視線を合わせるために乗っかっていた台の上。最初とは比べ物にならないくらい安定して飛び移れるようにはなった。すぐ近くにあると思っていた手すりも、ルピナがいないだけでとても遠くに感じられてしまう。嫌な感じだ。落ち着かない。前に会ったときに、ポケモンセンターでいつも調べてもらっているとルピナは言っていた。それなら、センターの人はルピナのこともよく知っているはずだ。きっと大丈夫。また元気な姿を見せてくれる。何も意識せずにいると不安ばかりが頭に浮かんできて気持ちが挫けてしまいそうになる。前向きな言葉を必死で自分に言い聞かせるようにしながら、僕はフレイラさんとルピナが一緒に帰ってくることを願っていた。

 ◇

 夢を見た。夢だと分かったのは、僕が高い木の上にいたからだ。どれくらい高いのかは分からない。でも家の屋根や公園の木々が見渡せているような気がするから、普段なら間違いなく足がすくんで動けなくなってしまうくらいの高さ。それでも僕は平然としていて怖くもなんともなかった。むしろこの高さや吹き抜ける風に清々しささえ感じている。だからきっとこれは僕の夢。気が付くと僕の隣にはルピナがいて、嘴で翼を丹念に繕っている。表面の黒が日の光を浴びてつやつやと輝いていた。自慢の翼だもんね、きれいにしておかないと。こんな高いところにルピナもいるということは、ちゃんと飛べるようになったんだな。
「どうしたの、ニケくん。私の顔に何かついてる?」
「ううん、なんでもないよ。ルピナ」
 ゆっくりと首を横に振る。これが僕が見ている夢、なんて話をしたらややこしくなりそうだ。今は漠然とこの世界を受け入れておくことにする。そういえば、僕たちが見ている景色はどの木の上から眺めているんだろう。一緒に約束した公園の大きな木、なんだろうか。確かに今、僕はルピナと一緒に街の景色を一望している。嬉しいことのはずなのに、全く達成感がないのはやっぱり夢の中だという認識があるからだ。いくらここで嬉しくったって、目が覚めてしまえば元通り。僕に至ってはろくに木にも登れない現実がある。ルピナは、どうなんだろう。結局どんな感じか聞けなかったや。もしかしたら僕より早く飛べるようになっていた可能性だってあるから、この木の高さまで来ていることを夢扱いしたら怒られてしまうかもしれない。それにしても妙に感覚がはっきりしている夢だな。居心地は悪くないけど、いつまでも浸ってはいられなさそうだ。目を、覚まさなきゃ。目が覚めたら、ルピナに会って練習の成果を言うんだ。それから――――。

―10―

 背中をそっと撫でられている感覚で僕は目を覚ました。ぬくもりの正体はフレイラさんの手。横の低い台に座って僕を撫でてくれていたらしい。ここで待ちぼうけしている間に眠ってしまっていたのか。辺りの空気が少しひんやりとしていて暗くなりかけている。時刻は夕方くらいだろうか。帰ってきているということはポケモンセンターの治療が終わったということなんだろう。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「フレイラさん……ルピナ、ルピナは?」
 僕は起き上がると、開口一番に問いかける。もちろん言葉は通じないんだけど、この時ばかりは雰囲気で読み取ってほしかった。ひと呼吸置いた後、フレイラさんはゆっくりと口を開いてくれた。この何も告げられない沈黙の間がひどく居心地が悪く感じられた。
「あの子、ね。どうやら飛ぼうとしてたみたいなの。いつも留まってたここの手すりから飛び立とうとして、でも。思い通りに翼が動かせなくて……」
 僕ははっとさせられた。最初にルピナが倒れていた位置。そこは確かに勢いよく手すりからジャンプすれば届くくらいの場所だった。もしかするとルピナのイメージでは、飛べなかったにしてもゆっくりと滑空しながら芝生の上におりるくらいの予定だったのかもしれない。僕との約束のために、ルピナはルピナで練習しようとしてくれていたんだ。嬉しかったことのはずなのに、今はそれが僕の胸にのしかかってくる。ニャルマーの奴にぶつけられた石なんかとは比べ物にならないくらい、重く、重く。
「センターの人も手は尽くしてくれたんだけど、打ちどころが悪かったみたいで……ルピナはもう」
「嘘だ。嘘だよね、そうでしょ、フレイラさんっ!」
 おかしいな。フレイラさんはいったい何を言ってるんだろう。頭では分かるはずの言葉なのに、僕の口は頑なに現実を否定したくてもがいている。理解に及ばないのは、きっと僕がそれを認めたくなかったからだ。フレイラさんの腕に前足を押し付けるようにして僕はがむしゃらに叫び続けた。
「私も信じたくない。だけど、もうルピナはいないのよ……」
 目を閉じて首を横に振ったフレイラさんの瞳から落ちてきたものが、僕の顔に当たる。よく見るとフレイラさんの目は既にだいぶ赤かった。たぶん、ポケモンセンターでもっとたくさん涙を流していたからなんだろう。フレイラさんが、泣いている。その理由はやっぱり、ルピナが。信じたくない事実でも、目の前の状況がじわじわと僕の心を容赦なく現実に引きずり込もうとしてくる。
「ごめんね、ニケくん。せっかくあの子と仲良くしてくれていたのに」
 違う。違う。そうじゃない。
「ありがとうね。ルピナと友達になってくれて」
 やめて、やめてくれ、フレイラさん。僕は、僕には感謝される資格なんてない。ルピナと公園の木の約束をしたのは僕だ。あんな約束なんてしなければ、ルピナが飛ぼうとすることなんてなかった。バランスを崩して落ちてしまうことなんてなかった。だから、ルピナが死んじゃったのは僕のせいだ。僕の、僕の、僕の――――。
「だから、顔を上げて。あなたが泣いていたら、あの子も悲しむと思うから……」
 僕の言葉はフレイラさんには伝わらない。僕がルピナとどんな約束をしていたかも、きっと知らないままだ。それが良いことなのか悪いことなのか今の僕には分からなかった。もし僕の気持ちをフレイラさんに伝える術があったとしても、事実を告げる勇気が僕にあっただろうか。ルピナが飛ぼうとした本当の理由を、ルピナが死んでしまった原因を。フレイラさんにポケモンの言葉が伝わらなくてどこかほっとしてしまった自分がいることが、僕は途方もなく情けなくて心苦しかった。フレイラさんに対する漠然とした後ろめたさが募っていくばかり。僕の目から涙は流れてはいた。だけどこれは何に対する涙なんだろう。ルピナが居なくなってしまったことへの喪失感か。それとも、フレイラさんへの罪悪感か。頭の中がぐちゃぐちゃで、もうどうしていいか分からなかった。俯いたままの僕をフレイラさんはそっと抱き上げて、ぎゅっとしてくれた。突然ルピナと別れることになって落ち込んでいる僕を見かねての行動だったんだろうか。僕以上に悲しくて辛いはずなのに。そんなフレイラさんの優しさが今の僕には耐えられなくて。腕の中でもがいて抜け出して、芝生の上に飛び出してしまっていた。きっと僕はもうフレイラさんと顔を合わせられないし、この家にも居られない。それくらいのことをしでかしてしまったのだから。そのまま外へ駆け出そうとした僕の足元に落ちていたのは、鮮やかな橙色をしたルピナの羽根。約束を交わしたときの彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。あの木のてっぺんから一緒に街を眺めようって。もう二度と、触れることはできない彼女の翼。もう、二度と叶わない約束。けれども今の僕にできること、やらなくちゃならないことはあった。たった今、それを見つけたんだ。僕は落ちていたルピナの羽根を咥えると、公園に向かって一直線に走り出した。

 ◇

 息が、息が苦しい。こんなにも力いっぱい前足も後ろ足も動かし続けたのは初めてだ。公園の入口を通り過ぎて、目的地まで最短距離で。何とか日が出ているうちにたどり着かなきゃいけないんだ。広い広い公園の中でも迷うことはなかった。約束を交わしたあの日から、何回見上げたか分からないくらいだ。遠い遠い目標のはずだったのに、気が付けばふいに僕の目の前にそれは現れていた。練習や技術が足りていなくても挑まなきゃならないときだってある。それが今なんだ。怖がって逃げ出したりしたらきっと、僕は僕を許せない。
「なんだ、あいつ。あの木に登るつもりかよ?」
「はっ、無理に決まってるだろ。あの木の天辺には俺たちだって誰も登ったことがないんだぜ?」
「いいじゃないか。失敗するところを見届けてやろうぜ」
 本当にタイミングの悪さだけは素晴らしいな。どういうわけかこの近くにいた奴らに姿を見られてしまっていたらしい。すれ違った時に何やら雑音が聞こえてきた気がしたけど、黙ってろ。お前たちに構ってる暇は僕にはない。約束の場所。フレイラさんの家から見つけた僕たちの目標。やっぱり近くで見るととてつもなく大きかった。太い根元は僕の小さな体なんて簡単に跳ね返されてしまいそうなくらい。正直、無理なんじゃないかという気持ちももちろんある。でも、やらなくちゃ。
「待っててね……ルピナ」
 一度大きく深呼吸をして荒ぶっていた鼓動を落ち着かせると、僕は地面を蹴って木の幹に飛びついた。幸いこの木の幹は割とごつごつとしていて爪を引っ掛けられそうな部分が所々にある。幹から伸びている枝を探し回らなくても、所々で爪を掛けられそうな部分はあった。自分の前足と後ろ足の力を信じて、上へ上へ。木組みと違って、自分の体が下に引っ張られるような感覚が気持ち悪くて落ち着かない。重力に逆らうって、こんなに大変なんだな。途中、太い枝を見つけられたらそこへ腰を下ろして少しだけ呼吸を整える。その時も絶対に下は見ないと決めていた。僕の瞳が捉えていたのは次の足場、次はどうやって上へ登っていくかしか頭になかった。とはいえ、自分の爪が想像以上に滑り止めの役割を担っていることに驚いている。使い道があまり分からなかったこれはこうやって使うのかと感心しているくらいだった。いきなり難しい場所に呼び出しといて悪いけど、今の僕には唯一の頼りなんだ。何とか最後まで付き合ってくれよ。自分がどれくらいの高さまで来ているかは判断がつかなかったけど、登っていくうちに枝の太さがだんだんと細くなってきていることくらいは理解できた。今のところ下には落ちてはいないから確実に上には向かっているはずだ。幹も枝も最初みたいに安定感がなくなってきて、前足や後ろ足を踏み外しそうになったことが何度もあった。もし、ここから落ちたら。昔みたいには助からないかもしれない。あの時、木から落ちた僕が死ななかったのはたぶん運が良かっただけだ。今日の約束を果たすために僕が生き延びられたのだとしたら、何としてでもくたばるわけにはいかないんだ。先細りになってきた小さな葉っぱや枝を掻き分けて、上に顔を突き出す。一気に視界が開けた。視線を遮る枝葉も幹も何も、ない。ここが、天辺。そうか、僕はやりとげたんだ。幹から分かれていた最後の枝の根元に僕はそっと腰掛ける。清々しい達成感というよりも、ほっとした安堵の気持ちの方が強かった。予想通り、いや予想以上に遥か遠くまで。街全体どころか遠くの山までここからなら一望できる。沈みかけた夕日が照らし出す夕焼けと合わさって、本当に素晴らしい眺めだった。もっとたくさん、嬉しさや喜びが湧き上がってくると思っていたんだけど。やっぱり僕だけじゃだめみたいだ。僕の両脇を吹き抜ける風がいつの間にか出来ていた無数の擦り傷に、少し染みた。
「ほら、ルピナ。すごくいい眺めだよ」
 枝や葉っぱに擦れるうちに傷んでしまってはいたけど、夕焼けの光を浴びて橙色の羽根はきらりと輝いたように見えた。まるでルピナが、本当にそうだねと相槌を打ってくれたみたいに。僕はそっと、咥えていた彼女の羽根を離す。夕空を背に、ルピナの羽根はひらりひらりと回りながら空へ。高く、高く上がっていく。空を飛ぶって、きっとあんな感じなんだ。そう。君は飛べたんだよ、ルピナ。
「ごめんね。そしてありがとう……ルピナ」
 さよならとは言わなかった。口にしなくたって、別れの言葉はもう十分だ。せめて最後は彼女への感謝を伝えたい。ルピナの名前を呼んだときに、僕の目から一筋の涙が零れていった。空を飛んでいくルピナが夕焼け空に溶け込んで見えなくなってしまうその時まで。僕は彼女をずっとずっと見つめていた。一緒にここから街を眺める約束は守れなかったけど、この景色が少しでも天国にいる彼女に届けばいい。

 もう上ばかり、下ばかり見て歩くのはやめにする。
 
  これからは僕は、前を向いて歩いていくんだ。
 
   空から見守ってくれているルピナに、笑われたりしないように。

 おしまい


・あとがき
ネタバレを含みますので物語を最後まで読んでから見ることをおすすめします。

・この話について
ずっとずっと昔に読んだ絵本。木に登れない猫と、一度も空を飛んだことのない人間に飼われている小鳥のお話。これを参考に書いたのが今回のお話です。約束をした相手がそれを果たせないまま不幸にも亡くなってしまう、という展開としてはありがちなものかもしれませんが。とても印象に残っていて、いつかポケモンの二次創作として書いてみたいと思っていたお話です。タイトルは「ことりとねこのものがたり」。検索すればヒットすると思いますので、興味がありましたら是非。

・ニケについて
小説の案を練っていたときはまだ第七世代発表前でニャビーはいませんでした。なので、主人公はヒコザル辺りにしようかと漠然と考えていたところ主人公にしやすい御三家の猫が発表されたためニャビーを抜擢しました。ニャビーは炎タイプですが、情熱的な面だけでなくクールな面も持ち合わせたキャラクターが似合います。主人公が猫だと、個人的にはすごく動かしやすかったりします。

・ルピナについて
ルピナは最初からヒノヤコマの予定でした。生まれつきの病気で翼の筋肉が弱く、空を飛べないという設定。ニケよりはちょっと年上のお姉さん、といった感じで描写しました。穏やかで話す相手を和ませるような雰囲気の持ち主。私自身作中の登場人物を死なせる、というのは心苦しいものがありましたが。最後の展開にどうしても持っていかねばならなかったため、やむを得ず。ごめんよ。

・フレイラについて
ルピナのトレーナーの女性。ルピナと同じく物腰の柔らかい心優しい女性です。最初、ポケモンの言葉が伝わる設定でいこうかとも思いました。しかし、伝えられないからこその表現もあったのでここは人間とポケモンが喋られない世界観にすることに。言葉で直接伝わらなくても、仕草や表情で伝わる。そんな描写を大切にしたいですね。

【原稿用紙(20×20行)】92.3(枚)
【総文字数】33415(字)
【行数】306(行)
【台詞:地の文】9:90(%)|3285:30130(字)
【漢字:かな:カナ:他】32:66:4:-3(%)|10821:22088:1586:-1080(字)

最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。


何かあればお気軽にどうぞ

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 初めて他者からの優しさに触れることのできたニケの嬉しさが伝わってくるようでした。
    にしても顔を出すための口実とはいえ、出会って間もない女の子に木の実を持ってくるなんてなかなかやりますね。
    いやぁ、ニケくんもスミに置けないですなぁ(笑) -- てるてる
  • 木の実のくだりは言われてみれば確かにw
    とはいえニケも友達ができた喜びが全面に押し出されていると思うので、ルピナに対して深い意味はないかと、たぶん(
    感想ありがとうございました! -- カゲフミ
  • 作品内の季節は秋みたいですし、こちらの世界も早く涼しくなってほしいものですねー…(汗)

    成り行き上仕方なくとはいえ、自分から高い場所へ上がったニケくん。ルピナの笑顔にはにかんでみせたりなど、徐々に心に変化が現れてきてる描写がすごくいいですね! -- てるてる
  • 作品内の季節は特にイメージしておりませんでしたが割と過ごしやすい春か秋あたりでしょうか。
    ルピナと出会うことでニケもちょっとずつ変わってきていると思います。
    たびたび感想ありがとうございます。大変励みになっております。 -- カゲフミ
  • お久しぶりですー。

    うおぉ…、ルピナがポケモンセンターに通ってると聞いた辺りから嫌な予感はしていましたが、まさかこんなことに……。
    ニケの見てる夢に幸せそうなルピナが登場してるだけに、現実世界の彼女の容態がすっごい気になりますね。どうか無事でいてほしいです… -- てるてる
  • なんとなくですがフラグが立ちまくりでしたね。私自身書いていてこれはベタすぎる描写かもしれないなと思いつつ。夢のシーンは当初入れる予定がなかったのですが、物語を進めているうちにふっと湧いてきた文章だったのです。
    ニケとルピナの顛末は今回の更新分で確かめていただければ、と。
    感想ありがとうございました。 -- カゲフミ
  • ニケとルピナが木に登れた夢で話のカットが切れているあたりとても不吉な予感しましたがやっぱり〜〜〜! もしやいじめっ子たちがルピナを!? とまで邪推したんですけどそこまで胸糞でなく安心しました。
    して何より最終話、フレイラさんとやり取りがキますわ……。“フレイラさんにポケモンの言葉が伝わらなくてどこかほっとしてしまった自分がいることが、僕は途方もなく情けなくて心苦しかった。”ってなるほど、それまで以心伝心だったからこそニケは自分の卑怯さを突きつけられたのですね。あのシーンの心理描写ほんとうに見事で、読んでる側まで身につまされる思いでした。
    ルピナの羽根の使い方も美しい……。高い木の上から街を眺めるニケと大空に舞ってゆく羽根は、切なくも爽やかなラストカット。完結お疲れ様でした。 -- 水のミドリ
  • いじめっ子たちがルピナをという発想はまるでなかったですわ( そこまで殺伐とした物語にする予定はなかったのです。
    最終話のニケの心理描写は一番気を遣った場面でもあります。人間とポケモンの言葉が通じないという設定と、一人称でここまで進めてきたのだからその強みを存分に生かさねばという使命感で描写していた気がします。
    ラストのシーンは切なくも美しく描写できるように気を配りました。夕焼け空に溶け込んでいく羽根の情景を思い浮かべていただけたのならば幸いです。
    感想ありがとうございました! -- カゲフミ
  • あぁ、切ない……。
    一緒に街を眺めるというルピナと交わした約束が果たせないまま、永遠に機会を失ってしまったニケの思いを考えるとただただやるせなく感じてしまいます。

    もう二度と答えは帰ってきませんが、きっとルピナは少しずつトラウマを克服していくニケに対し、最後の最後に命を掛けて背中を押してあげたんでしょうなぁ。

    素晴らしいお話、ありがとうございました。 -- てるてる
  • 結局ニケが交わしたルピナとの約束は果たせぬままになってしまいましたが、きっと彼女の想いは彼に届いていると思います。命懸けでニケのことを応援してくれたルピナに、ニケも応えることができたのだと。

    感想ありがとうございました! -- カゲフミ
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Last-modified: 2019-02-11 (月) 21:46:04
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