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不可視のやいば

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 周囲に流れる感情たちへと歩みより、目に付いたポケモンたちに片っ端から切りかかって、恐怖心のままに逃げていく様を見届ける。敵意と共に襲い掛かってくる姿を返り討ちにし、土の地面に打ち倒す。
 私は、ただただ、暴れていた。何も持たずに村を飛び出し、行く当てもなく、森の中を進んでいた。

 腹部に、強い痛みがあった。内側から、幾つもの針で刺され、転がされて、そのまま身ごと潰えていくような痛みだった。
 頭部に、鈍い痛みがあった。ゆっくりと鼓動を打ちながら、圧されるかのようで、気分が悪かった。
 初めての感覚だった。それが何なのかは分かっていた。
 ただの生理痛だった。――ただの生理痛なのだ。
 症状を話せば、村の皆には、何かと、よくしてもらえるのかもしれない。――そうではない。
 感覚そのものも、恨めしい痛さだった。しかし、それ以上に――私が、この身体が、成長していることが、憎かった。
 このキルリアの身体は、どうあがいても、思い描く姿にはなれないのだ。

 私は、右腕を横へと振り、茂みを切り払う。八つ当たりできる相手を求めて、木々の隙間を縫うように駆けずり回る。
 揺らぎのない感情を察知して、その場へと寄っていく。その感情に連なる姿を見つけ、切りかかる。
 腕が届く前に、その姿が、消えて、目の前に、右から左へと通り抜ける姿があって、その直後には、左から肩を押され、土の地面へと横倒しにされる。
 負けるのは、呆気のない、一瞬。鋭い痛みがあって、身体から力が抜ける。
 いっそ、このまま気を失えられたら楽なのに、腹部と頭部の痛みが、私の意識をぼんやりと保ち続ける。
 私の身体が起こされ、身体に纏わり付く感覚があり、直後には締め上げるような痛みがある。腕ごと縄で巻かれ、きつく拘束される。
 どうにでもなれ。
 どうにもならない。



「――なぁガキ、何しに来た?」
 一瞬の戦闘を交えた相手が、そのポケモンが、すぐ正面から尋ねてくる。私は、重たい頭を持ち上げ、その姿を、見つめ返す。あまり冴えない思考で、今更になって、相手をしっかり認識しようとする。
 頭の高さは同じくらいだが、四本足で立つその姿は、私より幾回りも大きい。首回りの被毛からは、黒く鋭利な棘が、四方へと飛び出している。――グラエナ、ではなさそう。グラエナとしてはだいぶ小柄かつ細身で、何より、被毛の色が白と土色で構成されている。知らない種族のポケモン。
「……分からない」
 私は、何しに来た?
 八つ当たりできる相手を求めていた。誰でもよかった。――敵う相手にだけ切りかかればよかったのに。
「面倒事を持ち込みに来たなら、消えて欲しいんだけど」
 まっすぐ私へと向けられるその視線には、鋭い殺意が籠っていて、感受するだけでも痛い。一方で、殺意の隙間は倦怠感で埋められており、興味なさげな様子。便宜上の言動であって、あまり返答を求めていないかのようだった。
「私は――」
 身体の不調を声に出すのは、抵抗があった。――そもそも、返答を求めてもなさそうだった。
 そのポケモンが聞いているのは便宜上のことで、私をどうするかについては迷いがない。――そう思えるような、感情が、
「――ちょっとちょっと、それじゃ話になんないでしょー?」
 あった、はずだった。
 白と土色をした姿の後ろから、その右隣へと、別のポケモンが、ゆっくり歩み出てきながら、声を挟み込んでくると、殺意の隙間が広がっていく感じが、した。
「てめぇは黙ってろ」
「まぁまぁ、面倒事だったら、おいちゃんが引き受けるからさ」
 割り込んできたのは、隙間なく、連続的で温かい感情を放つポケモン。大きな、鳥。そのポケモンは、左翼を広げ、四足足のポケモンを制しながら、そのまま私の前まで出てきた。
 首元からは、丈夫そうな紐が斜め掛けされており、閉じた右翼の内側へと伸びている。纏う羽毛は、灰色を主とした、グラエナのような彩度の低い色相で、頭頂部から眼前へと垂れている長い鶏冠が、特徴的。ただ、それ以上に、切り傷が癒えた痕のように羽毛の生えていない――古傷の痕が、身体の所々に目立つ。老齢、という程ではなさそうにしても、それなりに長く生きている様が伺える。
「ね、怖かったねー。ごめんね、こいつ、荒事に慣れすぎてて、さ」
 怖かった。――怖かったのだろうか?
 その鳥が足を畳み、身を下げながら私を見つめてくるのを、ただ、ぼんやりと見返した。
「縄はすぐ解いてあげるから、ちょっとだけ教えて欲しいんだけれど、きみ――迷子? それとも、家出してきたのかな?」
 迷子、というのも間違ってはいない、はず、だった。
「家出……家出、です」
「家出かー、いいねぇ、元気で」
 うんうん、と、その鳥は大げさに頷いて、一間開けてから、質問を投げ掛けてくる。
「おいちゃん達が誰なのか、知らない――そうだよね?」
 その言葉の瞬間、空気が強張った。殺意を向けてくる生き物の感情と、もうひとり、少し離れた場所から届く別の生き物の感情が、同時に揺らいだ。
 ――何か、大切な質問をされている。――意図は分からない、けれど、私を、何か、疑っている。しかし、単純に、私が何を知らないのかが、私には分からなかった。
 どういうことなのだろうか、と、少しの間、返答できずに居ると、鳥の姿が、一言、付け加えてくれる。
「知ってたとしても、知らない、って答えて欲しいな」
 冗談めいた明るい声色で、しかし直後には、その後ろから、独り言のように掠れた声が、呆れた感覚と共に浮かび上がる。
「もう聞いてる意味ねえだろ、それ」
 ただ、あまり気負わずに話してくれていい、と、言わんばかりの様子。
「……何も知りません。ほんとです。……何か、知っているとまずいことでもあるのですか?」
「んーとね――」
 鳥のポケモンが、数瞬、言葉に詰まる。――ただ温かいだけだったその感情が、僅かに揺らぐ。
「――ね、ユズちゃん、メムネちゃん、ちょっとこの子と話し込みたいんだけど、待たせるのも悪いから、先に行っててくれない?」
 そのまま後ろへと振り返り、四本足のポケモンと、もうひとり別のポケモンへと、言葉を向ける。
「ああ、そうする。――行くよ」
「はい」
 そんな声と共に、二つの感情が――ただ面倒な感情と、不思議そうな疑念の二つが、ゆっくり、離れていく。
 少しだけ視線で追うと、四本足のポケモンの隣には、球形で、紫色の身体で、宙に浮かびながら、鼓動するように身体じゅうから薄紫の煙を零す――ああ、ドガースだ――ドガースがいた。
「気を付けてねー」
 そんなふたりが、木々の隙間を抜け、森の奥へと去って行った。温かい感情の鳥ポケモンと、ただ、ふたりきりになった。――温かい感情の、その、主と。

「――さて、とりあえず、縄、解こっか。じっとしててね」
「あ、――はい」
 鳥の姿が、目前までゆっくり歩み寄り、そのまま私を縛る縄に嘴を差し挟む。大きな身体が、すぐ側で動いている。それが、どことなく、温かく、心地よい。――そう思った次の瞬間には、私の身体から、縄が解け落ちた。
 その身体が、距離を置くように少しだけ遠のく。ほんの一歩分。それが、惜しかった。――身体は動かず、しかし、まるで、心が引き寄せられるようだった。もう少し近くに居たいような、そんな感じが、あった。
「――ね、おいちゃんに口移しされるのは嫌、よね? オレン食べて欲しいんだけど、自分で、食べれる?」
 閉じていた右翼が浮かび、その内側からバッグが現れた。丈夫そうな箱組みのバッグで、その中には、整えられた木枝の束が収まりつつ、一緒に、小さく青い木の実が、幾つか、見える。
 ――取れ、ということなのだろうか。
「……一つ、頂いて、いいですか?」
「うん、いいよいいよ。落ち着かないと話もできないし――それに、帰る体力だってなさそうだもんね」
 その言葉には、何の他意もなかった。私は、一歩詰め寄り、そのバッグへと手を伸ばして、手に触れた木の実をそのまま握る。持ち上げて、腕を引いて、バッグの中、その翼の下から、取り出す。
 私はそのまま顔を上げて、目と鼻の先にあるその顔を、ゆっくり、じっくり見る。その目つきは、意外と、鋭かった。見た目だけなら、結構、強面かもしれない。
 私が、感情を察知できないポケモンだったなら。この鳥ポケモンが、感情を察知できないポケモンだったなら。――私は、もっと、違う反応をしていたのかもしれない。

「あの子の反撃、痛かったでしょ? 切り傷になってて、治療してあげたいんだけど、ここだと大したことできなくて、ごめんね」
 その鳥ポケモンが、足を畳んでその場に腰を下ろす。頭の高さが少し下がって、それでも私より目線が少し高いくらいで留まる。私も、まるで促されるかのようにその場に座って――座ると――私の身体が、重く感じられた。
「いえ、……こちらこそ、ごめんなさい、急に、攻撃したり、して」
 そんな中でも、受け答えは普通にできる。ただ、ひどく素直に受け答えしている自分が、私が、おかしかった。負かされて、拘束されて、その間に頭が冷えたのかもしれない。――体調がよくなってる訳でもないのに、と。
 私は、頂いた木の実を口に運んで、そのまま食す。ごく普通のオレンの実。それが、ひどく、おいしい。重たい身体に沁みるかのようだった。
 ――そんな瞬間、温かい感情にまた一つの揺らぎが現れつつ、すぐ元に戻る様を感じ取った。

「おいちゃんら、ね、世間だと『略奪団』って呼ばれてるの。誰かから物を奪って生きる、わるーいお尋ね者チームなのよ」
 その鳥ポケモンは、私のほうを見ることなく、ぼんやりと森の奥へと視線を向け続けていた。私の視線に構わず、喋っていた。
「あの子――きみが攻撃した四つ足の、あの子さ、『ユズ』って名前なんだけど、聞いたことないよね? あの子がおいちゃんらのリーダーなんだけど、ね、捕まえにきた探検家や冒険者の方々には、特に容赦しないから――うん、無事でよかった」
 その話は、多分、もう少し怖がってもいいもの。
 ――何故、怖がる必要があるのか?
「ね、家出してきたって言ってたけど、もう帰りたい? まだ帰りたくなくて、行く場所もないなら――ちょっとだけ、おいちゃんらのアジトに来ない? っていうか、休んでかない?」
 何をされるかが分からないから? ――ここまで濁りのない感情を持つ、鳥のポケモンを、何か疑う理由も、ない、だろう。
「……迷惑じゃないですか?」
「ユズちゃんは――あの子は、すっごく迷惑だ、って言いそうだね。だから、おいちゃんが押し通す」
 正直なところ、リーダーと言われる、さっきの四本足のポケモンも、怖いというわけではなかった。寧ろ、好意的だった。その真っ直ぐな感情に、惹かれるように――切りかかったのだから。
「……そう、ですか、では、その、お願いします」
「うん、いいよいいよ。案内するね」
 その鳥のポケモンが、一旦立ち上がって、身を翻し、再び座る。私にその背中を見せつけながら、首を回した横目で、私を見捉える。
「――おいちゃんに、乗る? それとも歩く? 乗せたげるよ? 乗ろ? 飛んでくよ?」
「――乗りたいです。お言葉に、甘えさせてください」
 私は、立ち上がり、ただただ、誘われるままに、その背中まで近付く。前のめりに寄りかかって、重心を預け、足を地面から離し、両手でその身体に掴まる。――力を入れた腕に、強い刺激が、傷の痛みが、出てきた。
「んじゃ、行くよー」
 翼が横に、大きく、大きく広がる。ただでさえ大きな鳥のポケモンの身体が、より大きくなったかのように感じられる。

 木々の隙間から一気に飛び上がり、すぐ下方には木々の葉っぱが並び、流れていく。風を切る音が、ひたすらに頭に響く。心地よさの中で、微睡む。
 ただ、温かかった。



 風の音が止み、鳥ポケモンの身体が、揺れた。一瞬だけ重心を失い、すぐに取り戻して、その揺れが収まった。
 感情が、一つ、近くにあった。途切れ途切れに向かってくる、はっきりとしない疑念だった。
「――そのポケモン、どうしたんですか?」
「んー、誘拐、かもねぇ。ほっとけなくて連れて来たんだよ」
 やや高く、よく通る声が、ある。何かが弾けるような音が、小さく、響く。その声と会話する鳥のポケモンの背中が、震える。
「ボスがまた文句言いますよー?」
「言うだろうねー。適当に宥めとくよー」
 その身体がぐらついた。私の足が何かに当たった――土の、踏み慣らされた地面だった。鳥のポケモンが、足を畳み、身体を降ろしていた。

「――着いたよー、ここ、おいちゃんらのアジト。歩ける?」
 足に自重をかけて立とうとしたら、そのまま、身体が崩れ落ちる。倒れまいと、鳥のポケモンのその背中を強く握る。
「あー、ダメそうだね」
 身体の内側に、針で刺されるような痛みがあった。いくつも、いくつも、残っていた。足に力を籠めた瞬間に、自重でめり込み貫かれるかのようだった。寧ろ、酷くなっていた。
 ――この程度で、歩けないわけがない。同族のおよそ半分は、嫌というほど経験して、耐えているはずの痛みなのだ。しかし、違う。嫌だ。――嫌だ。耐えられるかどうかではない。耐えたくない。それでは、まるで、私が認めるかのようだった。
「――いえ、そんな、ことは、」
「意地張らなくても大丈夫。……顔、引きつってるよ?」
 鳥のポケモンが、私の重心の下へと、その大きな身体を潜り込ませてくる。私の身体が、足が、再び地面から浮かぶ。
「もうすぐだから、ふかふかのベッドがあるからさ」
「……はい」
 鳥のポケモンのその感情は、どこか満ち足りたかのように、弾んでいる。念を押すように言われると、抵抗する気は湧き上がらず、私は再び身を委ねる。
 周囲の感情を探ると、気遣わしげなものが一つ、私のほうを向いていた。ついさっき、この鳥のポケモンと会話していた、そのポケモンの感情。私を心配するような――ある程度、私の不調を察知した上で、回復を願ってくれているかのようなもの。

 そちらへと視線を向けると、そのポケモンも、私へと視線を合わせていた。感情の起伏が乏しい、無表情に近いものだった。
 片手に持った棒で、大きな鍋を――鍋の中にある液体をかき混ぜている。その下では、石が並んで鍋を支え、隙間から、緩やかな火が見て取れる。
「あまり寛げる場所でもないかもしれませんが、ゆっくり休んでくださいね」
 ――黄色を基調とし、二本足で立ち、耳から伸びる毛や、大きな尻尾が目立つポケモン。特にその尻尾には、枝が一本、落ちることなく刺さり続けていて目を引く。――恐らく、何かあればすぐ手に取れるよう、わざと刺しているのだろう。
 腰回りで被毛が広がり、短いスカートのようになっていて、親近感が沸く。そのポケモンは、私より一回り大きな身体で、だけれど――どことなく、私と歳が近そうに感じられた。
「……しばし、お邪魔します。ありがとうございます」
 その姿は、鳥のポケモンに、その姿に、信頼の感情を寄せつつ、私に対しては大きく距離を置こうとするかのように、感情の発露を抑えいた。抑圧していた。

 似ている。私に。

 ――何が? 感情? 姿勢? 何が? どこが?
 ――気のせいだろう。
 多分、私は――些細なことに共通性があるように思うことで、独りではない、と、自らを慰めようとしている。
 感じた親近感は、嘘ではない、はずだ。きっと、今の私は、何の判断も付いてないのだ。早く、調子を取り戻さないといけない。取り戻したい。
 ただ、一朝一夕にして回復するものではない。二日、三日ほどでは終わらない。――そもそもこの不調は病でも何でもない。そのことから目を背けて、誤魔化して、いかないと、いけない、のに、だから、平静を装いたい、のに。
 気の迷い。私の思考が、混濁(こんだく)としている。悩んでも仕方がない。仕方がない、のに。
 あのポケモンにも、願うものはあるのだろうか。どんなに望んでも叶わない、無益な願いがあったりするのだろうか。ああ、詮索しても、仕方ないし、それに、あまり接触に関しては前向きではなさそうな感情だし――ああ。
 ――こんな、思考、止まってしまえ。

 私は目を瞑って、ただ、鳥のポケモンの、その背中に、(うず)まった。
 その羽毛が、温かく湿る感覚が、ただ、ただ、頬を通して感じられた。



 愚かになりたい。――バカ言え、私は最初から、どうしようもないくらい愚かなのだ。
 見えないもの。もしかしたら存在すらないもの。なのに、存在するかのように受け取って、私が、勝手に切り刻まれている。――そう、思って、願って、それでも、恐怖が張り付いて拭えない。
 そこにある不可視のやいばは、常に、私へと、その切っ先を向けられている。いつでも私を貫けると言わんばかりに。
 その切っ先が何一つ見えなくなるくらい、愚かになりたい。――そんなものは初めから存在しない。私に見えるそれは、ただの幻視である。幻視なのだ。

 私が、自らの内にやいばを作って、切り刻んだ痛みで正気を保つことに、意味はあるのだろうか?



 頭痛はだいぶ和らいで、しかし、腹部の痛みはより酷くなっていた。何度も何度も切り刻まれたかのような痛みが、絶え間なく疼いていた。憂鬱だった。これらはまだまだ続きそうで、そして、まだまだ続くのだ。
 今すぐ腹をかっ裂いて、痛む内臓を切り出したい。私は、このような成長など望んでいない。やってしまえば楽になれるだろうか。やれば、多分、死ぬ。きっと、楽になれる。それでもいいかもしれない。――しかし、死ぬのは怖かった。

 目を開くと、周囲は、暗い――光の殆どない、暗い中だった。柔らかく心地のいいものが下にあり、私はその上で横になり寝転がっていた。
 身体を起こしつつ、その柔らかいものを握ると、細長く柔らかいものが無数にあった。幾つかを手に取り、束ねるように弄ぶと、乾燥した摩擦音が、小さく鳴り響く。――藁。私が居るのは、藁のベッドの、その上である。
 周囲へ視線を向けると、かろうじて、岩肌が見て取れる。――明かりが揺らめきながら、その岩肌に黒く黄色く皺を浮かび上がらせている。私は、手を持ち上げ、探るように宙をなぞる。頭上に存在するであろう天井まで、空間に余裕があることを確認して、それから、立ち上がる。
 ――略奪団の、アジトの中、なのだろう。
 漂っているいくつかの感情は、いずれも光源のほうから流れてきていた。誘われるようにそちらへと歩いていくと――すぐに、外だった。

 真っ暗な空の下、広場の――端から端まで十歩とかからないような広場の、その中央に、焚き火が揺らめいている。――疎らな隙間を残しつつ石で囲い、掘り下げられた中心で枝が燃える焚き火。その脇には、食器が幾つか積まれ、大きな鍋があり、そして、それから、火を囲む姿が、四つ、あった。
 姿のうち三つはついさっき見たもの。ユズさん、だったか、私が切りかかった、四本足のリーダーが、腹這いに座っている。それに付き添っていたドガースが、宙に高く浮かんでいる。二本足で、尻尾に枝を刺し、やや控えめな様子だったポケモンが、倒木に腰かけ、座っている。最後のもう一つは、鞘に収まった、剣そのものの姿。私より一回り小さいくらいの、とても大きな剣の姿。持ち手の先から伸びる触角が、枝を一つ弄んでいる。あのポケモンは知っている、そう、ヒトツキ――ヒトツキが、土の地面すれすれの高さに浮かんでいる。
 そんな四つの姿が、それぞれ、私へと視線を向けてきていた。暗がりの中、揺らめく明かりに照らされた視線たちは、何れも、鋭いやいばのように煌めいていた。
「おはようございます。体調のほう、いかがですか?」
 二本足の姿が、心配するような感情を漂わせながら、私へと言葉を向けてくる。
「少し、楽になった、と思います」
 害意はなさそうだったので、無難に受け答えようと努めながら、言葉を返した。
 あまり、聞かれたくない、答えたくない――そう思いこそすれど。
 暗い話をしても仕方ない、と、質問を切り出す。他愛もない雑談。――少なくとも、それに応じてくれないような、殺伐とした空気なんかでは、なさそう、だった。
「皆さん、食後、ですか?」
「そうですよ。――スープ、まだまだ残っていますけれど、飲みますか?」
 いえ、これ以上、ご迷惑、お掛けするわけにも、
「お腹空いてんでしょ? 飲みなよ。体調悪そうだったって聞いてるしさ、それに結構余ってるしさ」
「骨身の付いた身体は、補給、大事だよー」
 いかない――と、思いかけても、声として放つ間もなく、それぞれから矢継ぎ早に、言葉を向けられる。
「あ、でもちょっと冷めてますから、温め直しましょうか」
 二本足のポケモンがそう続けながら、立ち上がる。そのまま脇の鍋に、一歩、二歩と近付き、両手で持ち上げる。ドガースが焚き火から距離を置く一方、ヒトツキが、枝を握った触角で、二本足のポケモンが直前に座っていた場所を指し示す。
「お客さん、そちら座ってー」
「失礼します」
 特に疑念のない感情が、言葉に乗っていて、促されるままに私は歩み寄り、座る。すぐ前、焚き火の上に、大きな鍋が置かれる。その直後には、二本足のポケモンが、鍋の内側にかけられていた棒を握る。

「――お客さん、どう呼べばいいですか? お名前でなくとも構わないのですけれど、私たち、実は、あなたの種族名も分からないのです」
 そのポケモンは、立って鍋を混ぜ始めながら、視線を向けてくることなく、一つ、質問を投げ掛けてくる。
「チャームズの『サーナイト』とか、レイダースの『エルレイド』とかに似てるなって話にはなったから、――あれらの進化前なのかな? とは思うんだけどね」
 続いて、少し距離を置いた場所からドガースも、付け加えるように言葉を浮かべた。
「あ、そうです、その、それらの進化前です、私、ええと、」
 ――レイダースのエルレイド。勇敢で無謀で大胆で、数々の探検を成功させてきた伝説の探検隊と、そのリーダー。
 私の憧れ。そのやいばで活路を切り拓いていくポケモン。いつかああなりたいと願う姿。
 ――向けられてきたその言葉に、一瞬意識を引っ張られるも、今求められている話とは違う、と、思案を抑え込み、言葉を返す。
「種族、『キルリア』と言います。名前は『ルディ』と、呼んでください」
 本当は、ルシア、という名前がある、あるのだけれど。
 咄嗟に口から出たのは、以前より頭の片隅に留めていた、偽の名前だった。
 雄のような響き、と、ささやかな願いを込めた偽名。――偽らなくたって、ここにいる皆、誰も私のことなど知らぬであろうに。――違う、誰も知らないからこそ気負わず偽れるのだ。
「キルリアさん、ルディさん……ルディさん。はい、覚えますね」
 控えめに、しかし疑いのない感情が、一つ、あった。
「ルディさん、雄だったのですね。てっきり雌かと思っておりました」
 性別を推測で語られるのは、どうにも、反応に困る。他種族の価値観だと、私の、キルリアという種族は、それだけで雌のように見えることが多いそうだし、別に今回に限ったことでもないのだが――私には、まだ、こういった言葉へのうまい返答が分からない。
 それが事実なのだから、尚更。
「よく言われます」
「つまらない話でしたね」
 その二本足のポケモンの、控えめだった感情が、少し揺れる。迷って、それから、私へと近付くように開かれ、鮮やかなものになる。
「まぁ、それはさておき、私、私も、家出してきた身なんですよ。ボスに拾って頂いて、そのまま帰らず、今はこうやって略奪団の一員となっています。だから、少し、親近感があります。――ルディさんも、家出してきたんですよね?」
 そう言いながら、片手を後ろ、尻尾の枝へとやり、手に取って引き抜く。その枝の先端、刺さっていた部分に火が灯る。手の中で枝の真ん中くらいを軽く折りながら、そのまま屈んで、鍋の下、焚き火の中へと、石の隙間を通して入れ込む。何度となく、弾けるような音が響く。
「はい、家出して、きました」
 その姿は、私の視線には目もくれず、立ち上がって再び鍋の中を見る。今度はかき混ぜはせず、ただ鍋の様子を見つめ続ける。
「親が話を聞いてくれなかった――とかなんでしょうか? ……私がそうなんですけどね」
 ――聞いてくれなかったか、どうか。お母さんに、お父さんに――私は、そもそも話をするつもりがなかった。
「私は……私の両親は、話せば、聞いてくれると思います」
 聞きはしてもらえるだろう。その後どうなるかは、想像が付かない。
「――話すのが怖かったんですね」
 話すとして、恐らく、私が普遍的な雌になることを期待していたであろう、お母さんに、お父さんに――どう言えばいいのだろう。
「……そうです」
 私の中に答えのないもの。それが、ただの逃避でしかないことは十分に分かっていた。知られた上で、否定されるのが、拒絶されるのが、ひたすらに怖かった。体調が崩れた今、そこに触れられたくない一心で――飛び出してきてしまった。それだけだった。
 この二本足のポケモンは、答えが見えているのだろうか。
「――な、あんたの体調不良って、もしかして――親にも話してない不治の病だとか、そういう物の類だったりしない?」
 そう思っていると、少し距離を置いた場所から、ドガースが、言葉を差し挟んでくる。
「死期が近かったりとかしてさ、自分でそれを分かってるからあんなにも自棄(やけ)になって、ボスに喧嘩売った……とかじゃないだろうね?」
 どこまで行っても、所詮は体調を悪くしているだけ。不治の病というのは、間違っていない。
「死にはしません。死にたいですけれども」
 ――あるいは、場合により死亡することもあり得るのだろうか?
「そ、余計なお世話だったね」
 ドガースは、大げさに口を開け、一つ欠伸を見せながら、私から顔を――その球体の身体を逸らす。ぶっきらぼうな言葉だが、その感情の波は、緩やかに流れ、他愛もない様子。
 ――ただ、二本足のそのポケモンへと質問するには、若干、間が悪く感じる。
「――トビアスさんがほっとけなかった訳ですよね。あなたですら余計なお世話を焼きたくなるんですから」
「あいつの焼く世話と一緒にしないでくれる?」
「あは、そうですね、ごめんなさい」
 ドガースと、そのポケモンが軽く談笑するのを見て、やや言葉に詰まる。
 ――空気を壊してしまわないだろうか。このまま黙っていたほうがよいのではないだろうか。
「まぁ、あいつが世話を焼きたくなるのは何となく分かるよなぁ――」
 その瞬間、談笑していた二つの顔が、私へと視線を向けてくる。――その二つだけでなく、腹這いになったままずっと黙っているユズさんや、枝を弄び続けていたヒトツキの視線も向かってきていて、反射的に、腕を持ち上げ身構えた。――争うような空気でもないというのに。
「……あの、」
 私は、座ったまま、二本足のそのポケモンを、改まって見上げる。下方の焚き火から漏れる光は、その顔まで届ききらず、表情を暗くぼかしていたが、少なくとも、それが怖い顔ではないはずだった。
「あなたは、ええと、あなたは……」
 激情に囚われず。落ち着いた様子で。羨ましい。家出して長いのなら。もう慣れているのだろう。果たして私は似ているのだろうか。――いざ聞こうとすると、纏まりのない言葉ばかりが巡り、質問の体を成さない。
「……ええと自己紹介、まだでしたね。私のことは『フィー』とお呼びください。『テールナー』と呼ばれる種族です。宜しくお願いします」
 私が言葉を探していると、その姿が――フィーさんが、助け船を出すかのように自己紹介してくれた。
 ――呼び方に困っていたのは、確かに、あった。それに気付いてくれたのは、私にはできないことのように思えた。いや、しかし、今聞きたいことは違う。――違う? 間違ってはいない?
「フィーさん、ですか、ありがとうございます、宜しくお願いします。……ええと、そうですが、そうでなくて、ええと」
 家出してきたという共通点があって、しかし、私は家出してきた直後なのに対して、この、フィーさんは、多分、もうここに来て長い。――そういうこと。
「――ええと、だから、フィーさんは、家出して長いのですよね? 家出の先輩と見てお聞きしたいのですけれど――後悔などは、ない、ですか?」
「うーん……」
 家族とは会話していないのかもしれない。そうでなくとも、略奪団の一員になった、ということなら、大手を振って帰れる場所など、限られているであろう。もう取り返しの付かないことも多いであろうに。
「後悔していない……訳ではありませんけれど、これでよかったかな、とは思っています。元々、周囲の目を気にしがちで、村での居場所だとか考えすぎて、疲れちゃってましたから」
 それでも、暗く沈んだりするような感情はなく、静かに晴れ渡り、現状を満足しているかのようだった。
「……なんとなく、分かります」
 居場所。――村の友達、知り合い、皆、私を雌として扱って、雌は可愛くあるべきだ、とか、綺麗であるべきだ、とか、逞しくある必要はない、とか、それに一々反発するのは、すごく、疲れた。
 ここの皆は、どうなのだろうか。そのようなことは、言うのだろうか?
 この、フィーさんの様子を見る限り、少なくとも、そのようなことを問題にされることはなさそうだった。
「……きっと、ルディさんも、同じようなことがあったのですね」
「恐らく、似ていますよね、私たち」
「似ているというのは……どうでしょうね」
 フィーさんは、懐疑的な言葉を宙に浮かべつつも、そこには寄り添ってくれるような感情が追随しており、同意に近かった。

 鍋から、ぐつぐつと、小さな鼓動が沸き立ち始める。煮えて、気泡が浮かび、割れる、その音。
 フィーさんが、積まれた食器の脇から、スプーンとやや深めの皿を右手に取る。鍋の中に差されていた棒を左手に取って、軽く混ぜ――半球状の大きな窪みが付いたおたまで、掬い上げる。
「こんなもん、かな」
 ひとり納得するように呟きながら、皿によそい、そのまま私のほうへと差し出してくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 皿の両端を手で取って、引き寄せる。火明かりを通して視認すると、それは、少しだけ粘性のあるピンクの液体で、細かく切られた黄色い果肉が、幾つか浮かんでいる。温められたそれは、甘い匂いを漂わせていた。
 ――略奪団から頂くスープ、なんて、毒が入っていてもおかしくなさそう、などと、一瞬、脳裏に浮かびつつ――それならそれでもいいか、と、自分の中だけの冗談として、思考から流す。
 スプーンで掬い、口に含むと、モモンの甘い味が広がる。果肉は、オボンだろうか。温かく――結構な熱さがあって、沁み入るかのよう。
「美味しいですね」
 乾いていたのも、あるかもしれない。喉が、身体が。――気付いたら、飲み干していた。
「御馳走様でした」
「おかわり、ありますよ。大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫です」
 量が少なかった訳でもなく、十分に満足していた。穏やかな感覚に包まれて、瞼がゆっくり落ちていった。

「――じゃ、私も、おかわり、貰っていい?」
「はい。――物足りなくなりました?」
「みたいだね」
「どうぞ」

 居心地のよさが、あった。まだ、私に対しては部外者としての距離が置かれているものの、それぞれの距離の近さが、感受する分には心地よかった。
 身体から力を抜いて、横に倒れた。木の肌に頬を当て、身体が重く沈んでいった。



 精神、感情、そういった他者の存在を糧とせねば生きられない種族が、どうして、自らの意思を持てようか?
 私の思い描く夢は、私を壊すもの。期待される役割を投げ捨てる、私の我儘。
 まだ引き返せる。私は雌としての求められる姿に応えられるし、私の身体は引き返そうとしている。――これが本当に私の身体な訳があるまい? 引き返す必要はどこにある?
 ずっと願っていた、「将来、ああなりたい」と。大胆不敵な探検家に、それから、不可視のやいばを振るって道を切り開く、勇猛果敢なエルレイドに。雄でなければなれないはずの姿に。
 探検家くらいなら、なれるかもしれない。何も面白くない。
 何故だ? 何故、雌は、あのような成長を遂げることができないのだ? 同じ種族ではないのか?
 誰も教えてくれはしない。私が言わないのだから。気付いて、など、ただ私に都合がいいだけの話。女々しいだけのもの。

 私は、望まれた通りの成長を遂げなくては生きてはいけないし、それに疑問を持つことは許されない。――疑問を持つこと自体が、有り得ない、はず、なのだ。
 友達の誰一人としてもそのような話は上がったことがない。同じ種族でさえ。
 生まれ持っての怪物――そうなのかもしれない。そうならば、私を愛していると囁く皆は、何故、怪物の私を殺してはくれないのだろうか?



 心地よさと憂鬱な気分が、それぞれ纏わり付いていた。いつの間にか、眠っていた。腹部の痛みは相変わらず残りながらも、身体はそれとなく軽い気がした。
 私は、藁のベッドの上に倒れていた。壁には岩肌がむき出しになっている、小さな部屋の中に居た。起き上がるだけ起き上がって、座ったまま視線を走らせた。
 通路のような先に明るみが見えて、そこから入ってくる光が、部屋の内装を浮かび上がらせている。部屋の一角には、木組みの箱や樽が積まれ、その上部を大きな布で覆っている。
 それから、通路の脇には、大きな鳥のポケモンがいた。灰色を主とした、グラエナのような彩度の低い姿。私を連れて来たポケモン。それと、目が合った。
「おはよう、ルディちゃん」
 そのポケモンは、揺らぎのない温かさを纏いつつ、一言を向けてくれた。既に話が通っているのだろう、私の名前を添えて。――ちゃん付けされるのは心外、だが。
「あ、〝ちゃん〟って呼ばれるのは嫌かな? 男の子だもんね、ルディくん。そうだよね、ごめんね」
 少しの間を置いて、その鳥のポケモンが、言葉を付け加える。私の表情に出ていたのかもしれない。
「あ、いえ、ええと――おはようございます」
 ――気付いて言っているのだろうか。私が、雄ではないことに。
 無碍にするつもりはなかった。――反射的に無碍にしてしまったことを、悔いた。悪意ないその感情自体は、どちらかと言えば、ありがたいものだった。少し、引っかかるものがあるくらいは、どうでもいいはずだった。

「昨夜、さ、おいちゃん寝てたんだけど、皆と話してたんだって? 怖くなかった? 楽しい話、できた?」
 その鳥のポケモンは、私へと質問を向けてくれる。
 皆と――と言うほど皆とは話をしていなかった気がする。と言うか、二本足の、大きな尻尾の、火の扱いに慣れていそうな、あの――フィーさんと、少し会話した覚えしかない。しかし、あのリーダー以外には特に敵意は向けられていなかったし、あのリーダーでさえ、私についてはどちらかというと関心無さげ――と言うか、存在を許容してくれているかのようだった。そう、居心地が、よかった。
「楽しく、はい、それに、もてなして頂けました。皆さんお優しいですね」
「うん、皆可愛くて優しい子たちだよ。よかった」
 数瞬の間を置いて、次の言葉。
「――ルディくんの、体調は、どう? 良くなった?」
「それなりに、いい感じです」
「――どうする? もうちょっと休んでく? それとも、今日じゅうに帰っちゃう?」
 回復はまだ先。その途中、誤魔化せない状態になることも分かっている。帰るなら、今だ。――帰ってすぐ日常に戻れる訳でもないだろうにしても。
 過度な迷惑はかけられないし、やはり、知られたくはない。
 ――結局のところ、私はこの鳥のポケモンも、こんなに温かい感情のポケモンも、心のどこかでは信用しきれていないのだ。
 ふと、そう脳裏によぎって、途方もなく悲しくなった。
「……少し、考えたいです」
「うん、急がなくていいよ。――おいちゃん、ここに居ない方がいい?」
 温かくて、優しくて、怖かった。
 訳が、分からない。思いの丈を全て吐き出せたら、どんなに楽だろう、か。
「――ごめんなさい」
「うん、外出たところに居るから、落ち着いたらおいでよ」
 その鳥のポケモンは、言い終えると、後ろを向いて、通路へと、その先の外へと、歩みを進める。
「あ、あの」
 呼び止めたかった。話が何かあるわけでもない。纏まりの付かない思考の中で、ただ、呼び止めたいと思った。
「ん、どうしたの?」
 歩みを止めて、私へと顔だけ振り返り、応答してくれる姿に、惹かれるものがあった。
 ――どことなく怖いのは、これが、分からないから、なのだろうか。
「……どう呼べばいいですか?」
 言いたいことは、聞きたいことは、こんなことではないはずだった。しかし、分からないままなのは、やはり困ることだった。――聞きたいこととしては間違っていない。
「おいちゃんのこと? んーとね、トビアスって言うよ、『トビアス』。名前ね」
「トビアス、さん」
 一度復唱して、その音を口に馴染ませる。
「うん。ま、『あのおじさん』とか、種族名なんだけど『ムクホーク』だとか、見てくれそのまま『鳥さん』だとか、好きに呼んでくれても、大体分かるから、適当でも大丈夫だよー」
「……ありがとうございます」
「じゃ、ゆっくり、ね」
 改めて前へ向き直り、外へと歩いて行くその後ろ姿を、私は、目で見送った。

 ――何故、あの、トビアスさんは、ここに、居るのだろうか。
 いや、もしかしたら、そもそも――そもそも、略奪団というのは嘘ではないのだろうか。私を、脅かすための。
 略奪団という言葉から想像するものは、もっと刹那的な集団で、恐ろしいもののはずだった。――あの、四本足の、リーダーだけなら、それっぽいのだが。

 ――私のことは知られたくない、と、思う一方で、ここに居る皆のことに、興味がある。――恐らく、そういうことだ。
 どちらかと言えば、まだ帰りたくない、というのは、我儘でしかない。分かっている。

 一つ、息を吸って、吐いて、立ち上がる。腹部に痛みが刺さり、身体から力が抜けて、僅かによろめく。
 ――まだ、もう少し、ここに、居たい。
 私は、通路へ入り、奥に続く分かれ道を横目に見ながら、明るみへと歩んでいった。昨夜と同じ部屋に居たらしく、外に出るのはすぐだった。



 柔らかい日差しに包まれた、明るい中だった。
 私が出て来たのは、洞窟の横穴。周囲は木々で囲まれつつ、前方には開けた空間がある。すぐ側、私の足でも十歩とかからないであろう場所には、水が、川が流れていて、それなりに過ごしやすそうな場所。
 ――アジト、と言っていたっけか。略奪団の。――森の中にある基地、と思えば、確かに、それらしい場所だった。

「早いねー。もうちょっと寝ててもよかったんだよ?」
「ちょっと考えてただけですから」
 広場に出る少し手前くらいに、その、トビアスさんの姿があった。片翼を広げ、羽繕いしている最中で――私の姿を見捉えるなり、その翼を閉じて言葉を向けてきた。
 その足元、隣には、家出の先輩である、あの、フィーさんが、藁を下に敷き、倒れていた。眠っていた。他のポケモンの姿は無く、漂う感情も、入り混ざって混沌としたものでなく、澄み渡っていた。
 丁度よさそうだった。――聞くなら、話すなら、今、すぐに。
「――トビアスさん、ここ、アジトなんですよね? 略奪団の」
「そうだよ、何か気になることでもある?」
 その姿は、私へと真っ直ぐ顔を向けてきつつ、腰を下ろし、目線を合わせてくれる。
「――どうして、その、ここに居るのですか? トビアスさんは、その、すごく、温かくて、なんだか、それっぽくないな、と」
 その身体の、羽毛の生えていない部分を、古傷の痕を見るなら、恐らく、戦闘面で非常に強いのだろう。――然るべき瞬間では、獰猛な略奪者なのだろうか。
「ん、おいちゃんが、ここに居る、理由?」
「はい」
「ユズちゃんのことが放っておけなかったから、かな」
 私の質問に対しては、迷いなく即答してくれた。――しかし、その答えに辿り着く筋道が分からなかった。
「それは、ええと」
 トビアスさんは、面倒見のいいかたなのだろう、とは、それとなく、思う。
 しかし、それだけなら、態々こんなところに居なくたって、村なり町なりで暮らすことはできなかったのだろうか。――それとも、トビアスさんも、どちらかと言えばお尋ね者寄りのポケモンだったのだろうか。
「ああ、うん、順番に説明したほうがいいよね、ええとね――ルディくんは、長話、好き?」
 好きかどうかと問われても、はっきりと答えられるものではない気がした。――そう思いつつ何か言葉を返そうと思いかけたところで、口を挟む前に、トビアスさんの、その語りが進んだ。

「――おいちゃんね、むかーし、冒険者だったのよ。嫁と一緒にふたりでチームやってて、ね。お尋ね者の捕縛依頼とかよく引き受けてたのよ。子供とかは居なくて、ふたりきりで、気ままに飛び回ってた。そんな中でね、ある凶悪なお尋ね者の依頼を受けて――うん、そのお尋ね者が、当時まだ単独だったユズちゃんなんだけどね、話し合いはうまく行かなくて、戦って、その中で、ユズちゃんが、嫁を殺したのよ。あ、殺したって言っても即死ではなかったよ。その時はおいちゃんも結局敵わなくて、嫁共々、瀕死になって、倒れたままユズちゃんが去ってくのを見届けるしかなかった。偶然通りかかった他の冒険者に救助されて、でも、嫁は助からなくて、おいちゃんだけが生き残った。あの時はすごくユズちゃんのことを恨んでたし、報復しよう、とも思ってたんだよ。でも、嫁は血気盛んだったけど、おいちゃんはそういうの長続きしなくてさ。怒りだとか恨みだとかを貯め込むのって疲れるし。それよりも、独りで寂しそうだなって、ユズちゃんのことが放っておけなかったのよ。で、もう一度探し出して、ユズちゃんに付き纏うようになって、チームを組んで、世間に略奪団と呼ばれるようになった。荒事自体は得意だったから、ユズちゃんに合わせるのは、結構、簡単だったよ。それで、今、ここに居る、かな。――こんな感じで、聞きたかったことには答えられた?」

 相槌を打つ隙間もなく、言葉が流れていった。早口という訳でもなく、しかし、一気に情報を詰め込まれて、受け取りきれなかった。ただ、その感情が、終始、揺らぐことなく温かいままだったのは確かだった。
「……む、難しい、です」
「そっかー、難しいか。ごめんね」
 少しずつ頭の中で解釈し直し、受け取ろうと努めた。
 ――ここのリーダーの、ユズさんとは、元々、お尋ね者と冒険者の関係で、それで、お嫁さんが殺されている。
「……ただ、大変な生を過ごしていたのですね」
「言われるほどじゃないよ。けど、ありがとう」
 ――そんな関係から親密になるというのが、どうしても私には分からなかった、が、実際に今こうしてここに居るトビアスさんは、紛れもなく、ここの一員なのだろう。
 思い返せば、昨日、遭遇した時だって、ユズさんを宥めるように出てきたはずだ。少なくとも、険悪な様子は微塵もなかった。
「お嫁さんのことは……諦めた、のですか?」
「いやー、多分、まだ諦めきれてないよ。新しい恋愛をしよう、みたいなの、全然思わないし」
 トビアスさんは、そう言いながら、私から視線を外す。
「ユズちゃんは、結構、嫁に似てるところが多くて、もしかしたら、放っておけなかったのも、嫁の面影を感じてたからだ、って考えたこともあるけどね。今は、可愛い皆と過ごしてるだけで幸せだよ。だから、あいつのことは、今は保留」
「……ええ……?」
 それは、まるで、トビアスさんがお嫁さんを大切にしていなかったかのようにも聞こえて、奇妙だった。
 少なくとも、私なら、お嫁さんのことを保留にするなんて、耐えられないのではないだろうか。その間、ずっと自分を責め続けてしまうのではないだろうか。
 それとも、雄として生きる中では、そう言った、割り切りも、いい加減にすら見える面も、必要、なのだろうか。――いや、まさかそんなことは。
「その、大切なお嫁さんのことなのに、保留、って……変、ではありませんか?」
「あー、よく言われちゃう。うん、皆、中々分かってくれないんだよね。零か百かじゃないんだよ――って言いたいけど、実際はね、うん、おいちゃんが変なんだよ」
 問うと、トビアスさんは、そう言いながら、くつくつと、笑う。甲高い声をすり潰し、その嘴から溢れ出させる。
「嫁のことは愛してるし、それはそれとして、ユズちゃんも、他の皆も、愛してるよ」
 そう言われて、気付いた。
 ――このトビアスさんの感情、私にさえ向けてくれる、隙間のない温かさは、愛、なのだ。
 打算のない、無償の愛。疑わずに愛を振りまける、自信に満ちたもの。私には、到底、手に入らないであろう、強い力。
 自分すら信じられない私が、どうして、他者への愛を疑わずにいられようか?
「――立派、ですね」
「ありがとう。珍しいよ、そう言われるのは。初めてかも」
 他にどう形容していいかも分からないもの。ただ、近寄って、ひれ伏したくなるもの。――もしかしたら、この、トビアスさんの感情こそが、私を、ユズさんへと引き付けたのかも、しれない。
 ――そうだとしたら、私は、本当に、迷惑な話だな――と、心の中で、一つ、小さく、溜め息を吐いた。

 話が一つ落ちたところで、トビアスさんの足元が、動いた。感情が、新たに一つ、浮かび上がった。

「おはよう」
「――おはようございます」
 アジトの入り口すぐ側で眠っていた――私より一回り大きな、黄色を基調とする二本足の姿が、手を付いて、身を起こしていた。フィーさんは、若干の機嫌の悪さと、まだはっきりとしない感情を漂わせながらも、その意識をしっかりと保っていた。
 私へと意識を向けてきた。それは一瞬、何か強く鋭い感情を浮かべて――そのまま霧散させた。
「……とりあえず、ちょっと、水浴びてきます」
 私の存在を、考えないよう、意図的に、思考の端へと追いやったかのようだった。
 ――機嫌がよくないのかもしれない。寝ているすぐ隣で会話していて、十分な睡眠を得る前に起こしてしまった可能性もあるのだから、尚更。――その上で、私を気遣ってくれたかのような。
 霧散させた後の感情は、穏やかなものだった。朝は弱いのかもしれない。
「なら、おいちゃんも行こうか――ルディくんも、おいで?」
「……え?」
 そう思っていると、私に一言が向かってくる。
 川へ歩いて行くフィーさんの姿があって、その方向に一歩進んだ場所から振り返る、トビアスさんの姿があった。
「あ、はい、行きます」
 誘われるがままに、私もその方向へと、すぐそこの川へと歩み寄った。



 一番深いところだと、私がぎりぎり足を付けられなさそうな川。平坦ならば十歩と掛からぬ幅の川。ただ、勢いは結構強いし、中央まで立ち入ったら、そのまま流されてしまいそうだった。
 私より一回り大きな、黄色を基調とするその姿は、フィーさんは、川の岸辺、突出した岩に腰かけて、その黒い足を水に浸していた。――よく見たら、その手に何かを持っている。刃物。短剣。石作りのように見えるもの。その刃を川の水で濡らしている。
 一方で、もっと大きな鳥の、トビアスさんは、川の岸辺に着くなり、翼を広げ、羽ばたき、浮かび、川の中央へとその身を投げた。一瞬、全身を川に沈め、流され、少し離れた場所から、僅かに泳ぎ、岸辺伝いに歩いて戻ってくる。
 それぞれに仰々しさを感じつつ、整えるべき羽も毛もない私には分からない不便なのだろう。私も岸辺まで歩いて行き、そのまま浅瀬に入る。両手で水を掬い、自身の顔に叩き付ける。
 私から少し距離を置いた場所で、トビアスさんが立ち止まり、身体を震わせる。水を切る。翼を中ほどまで開き、水気に塗れた被毛を啄む。
「トビアスさん。――明日は、アレですよね」
 そんな、濡れた鳥の姿へと、フィーさんが言葉を浮かべた。耳から伸びる長毛に短剣を差し込み、丁寧に梳きながら、把握していることを確認するかのような、静かな口ぶりを向けていた。
「うん、そう、アレ」
 そして、トビアスさんの、その返事を聞くなり、フィーさんは私へと視線を向けてきた。短剣を一旦胸元に寄せ、口を開き、何かを言おうとして、しかし、悩んでいた。――私に言うべきか、それとも、トビアスさんに言うべきか、と――恐らく、その辺りのことを。
「――ルディさんのこと、どうしますか?」
「どうしようね?」
 結局、トビアスさんへと言葉を続けられた。変わらぬ温かさに、困惑が向けられていた。感情は揺るがなかったが、トビアスさんも、少しだけ返事に困っているかのようだった。
「――何か、あるのですか?」
「うん、襲撃予定がね」
 私からも質問を向けてみると、案外、あっさりと喋ってくれる。
「……言っちゃうんですか」
 やや心配そうな感情と共に、フィーさんが口を差した。――トビアスさんのその話が、冗談などではないことを示していた。
「それで、明日は、おいちゃん達、ここに居ないの。今日じゅうに、別行動してた子が帰ってきて、その子は明日ここで休んでるから、一緒にお留守番してもらおうかな……とも思ってるんだけど」
 襲撃。――最初から略奪団と言っていた通り、ここの皆は、そういうことをやるのだ。
「一緒に行けば、ずっと見てあげられるし、それに、ルディくんなら活躍もしてくれるとは思ってるんだけれど、おいちゃんとしては、わるーいことに協力させたくないのよねー。そもそも、ルディくん、こう言うのは、許せないんじゃないかなって思うんだけど、どう?」
 荒事(あらごと)自体は、得意……かどうかは分からないが、そう苦手意識はなかった。世間的には、そのような略奪は、計画の時点から咎められるべきなのだろう。しかし、それに口出しする気にはなれなかった。
 ――それを咎める世間とは何だ。私を否定し続けたものか? それに従う必要がどこにあろう?
「……私には、何か、できますか?」
 お尋ね者集団の一員として動く、というのは、決して簡単なことではないだろう。ただの足手纏いになるかもしれない。それでも、力添えできることなら、協力したい、と、思った。――協力する前提で、言葉を求めた。
「――やめとけ」
 そんな私へと差し挟まれたのは、丁寧な口調が崩れた、強い一言。
「……誰かを傷つけながら生きるっていうのは、ちっとも、喜ばしくないんですよ。そういうの――あなたには味わってほしく、ありません」
 フィーさんの声が、語調を直しながら、私を、(とど)めようとしていた。苦い感情を浮かべながらも、その表向きは毅然とした様子を振る舞っていた。
 それを表すところは、拒絶。
「どうして、ですか?」
「――ルディさんのこと、どことなく、私と似てるな、と思ってます。……だからこそ、私たちと同じ存在には、ならないでほしい、です」
 それから、どこか物悲しく暗い、自責が、あった。――そんな感情へと、更に問う気は、起きなかった。
「ルディくんにもできること、だけどさ。おいちゃん達が居ない間に、物品の整頓とか、やってもらえるとすごく助かると思う。……うん、留守番する予定の子が、帰ってきたら、また決めよっか」
「……分かりました」
「うん、難しい話でごめんね。水浴びしよっか」

 それ以上、私が聞けること、言えることは、なかった。
 話が落ち、フィーさんが再び短剣で被毛を梳き始め、トビアスさんが再び羽毛に嘴を刺し込んでいた。私はふたりから意識を外し、ぼんやりと川の感覚を捉えた。

 足元で流れる水は、冷たく、心地よい。そう狭い川ではなく、それなりの深さもある。その強い流れは、水面に小さな隆起を作り、崩さずに保っている。――泳げれば楽しそうなのだが、流されてしまうかもしれないと思うと、奥まで入り込むのは気が進まない。
 浅瀬の石を一つ拾い上げ、その水の隆起へと投げてみる。一瞬、穴を作って、鋭くも粘り気のある音が弾け、その中へと沈み、そして、何もなかったかのように、水の流れが元の隆起を作り直す。恐らく、川底なりの凹凸に合わせて、水の流れも歪んでいるのだろう。私が石を幾つか投げ込んだところで、何も変わりやしない。――丁度いい。
 私は、右腕に念を籠めて、川の中へと軽く振るう。念が日の光に煌めきながら飛んでいき、その表面を軽く叩く。隆起していた水はさほど変形せず、ただ、念の塊が、吸っていた光を放り出しながら霧散する。
 ――身に纏ったままなら、それなりに、鋭利な傷跡にはなるのだが、飛ばそうとすると、切り付けるような威力は出ない。中々、憧れの形にはならない。
 二度、三度、四度と繰り返し振って、四度目に飛ばした念の塊が、刃のように、鋭く川の隆起に入り込み、その上部を弾けさせた。
 何度かやれば、偶然それっぽくは、なるのだ。――少し練習しよう、と、思っていた。
「――それ、『サイコカッター』、ですか?」
 フィーさんが、その声を向けてきた。軽く薄い感情と共に浮かべられた、取り留めのない、純粋な疑問。
 サイコカッター。空間を捻じ曲げて作る、不可視の刃。多くの場合は、それを推し進めてぶつけ、鋭利な傷をつけることができるもの。発達途上のキルリアでは習熟できない、とされるものであり、実際に、私には扱えないもの。私の憧れ。
「……『マジカルリーフ』です。分かりますか?」
 実際に私が振るっている物は、原理から違う、別のものである。不可視化すら出来ていない。
 しかし、それでも、扱えないなりに頑張って似せようとしていたものなのだ。憧れの技に誤認してもらえるのは、それなりに心の弾むものだった。
「あー、マジカルリーフですか、分かります。変わった使い方しますね」
「色々、模索しています」
 言葉を交えながらも、念を右腕に籠め、振るう動きを続けた。――今度の刃は、水面に届かず、ばらけて霧散していった。
「ユズちゃんに仕掛けた攻撃もこれだよね? あの時は、飛ばさず手に纏ってたけど」
「そうです」
 トビアスさんの言葉にも返事をしつつ、次の刃が水面を叩いて跳ね飛ばすのを見た。――乱暴すぎた。
「ユズちゃんには、効果はバツグン! って訳だね。噛み合ってていいねぇ」
「そうなんですか」
 適当に相槌を打ちながら、また次の念を込めようとして、身を止めた。打ち消す言葉を、続けて返した。
「――いやいや、よくないでしょう」
 強く嫌われている感じがあったのは、そういう点も含まれているのかもしれない。――相性だとかではなく、攻撃した、ということそのものが問題だと思うのだが。
「うん、ユズちゃん的にはよくないよね。でも、略奪団のボスに仕掛ける攻撃としては、適切だったんじゃない?」
 トビアスさんが、穏やかな声色と温かい感情を全く崩さず、笑みさえ浮かべながら明るく言うことに、ただ、ただ、違和感が残る、も。
「ユズさんのことは、何も知らなかったのです。ただの八つ当たりだったのに適切なわけ、ないじゃないですか」
「まぁまぁ、あんまり気にしなくていいよ。ユズちゃん、あれでも結構許してるみたいだから」
 ――あまり深く考えすぎるな、と、そういうことなのだろうか。
「……分かりました」
 私の知らないところで、色々と融通してくれている、のかもしれない。
 申し訳なさもありつつ、既に好意に甘えさせてもらっている現状を思うに、もう少し、甘えさせてもらっても――いいのだろうか。いいのだろう。
 一つ息を吐いて、吸って、思考を戻し、再び念を腕に纏わせる。川の中へと、何度も、何度も、繰り返し放ち続ける。頭に、少しの痛みを感じながらも、一つの形を目指し続けて。
 得意な技、好きな技、そういうものは、誰にでもあるはずだ。――私の、そんな技は、今は〝これ〟なのだろう。不可視としても、安定した刃としても程遠い、憧れの模倣。
 ――私には永遠にたどり着けないものを、諦めきれていない、だけ、なのだが。



「――さて、私、そろそろ戻りますね。火、先に焚いときますか?」
 フィーさんが浅瀬に降り、そのまま私の隣を過ぎていった。その毛並みは、綺麗に整い、歩みに沿って揺れて、目立って――少しだけ、私の視線を奪っていった。
「ん、大丈夫だよー。いつもありがとね」
「はぁい」
 思考が、ぼんやりと、霞む。一息ついて落ち着いたかのような、緩やかな感情が、離れていく。
 それから、入れ替わるように向かってくる感情が、――感情と思われるものが一つ。その感情は、はっきりと感受できなかった。よく分からなかった。

「――そのキルリア、どうしたの?」
 一つの姿が、大きな口を開いて、言葉を放っていた。
 四本足で立つ姿。私より幾回りも大きく、ユズさんよりも一回りくらい大きな姿。灰色を主とし、黒く長い被毛を頭から背中まで伸ばした、彩度の低い姿。まるでグラエナのようなポケモン。――いや、グラエナ。
「昨日、おいちゃんが連れてきたの。家出してきたんだってさ。ほっとけなくて連れてきたの。だけどおいちゃん達さ、明日は出払うから、ね、この子と一緒に留守番やってくれない?」
「なんでこのタイミングで連れてきたの……。まぁ、いいけど」
 バッグを首から斜めに下げたその姿が、私へと顔ごと視線を向ける。
「初めまして、キルリアさん。――どう呼べばいいかな?」
「――ルディ、です」
「うん、ルディさん、宜しくね。あ、僕のことは、『ホロウ』って、呼んでね」
 掴みどころがない。その感情が、捉えられない。――笑顔を見せてくれているのは確かなのだが。
 私が、キルリアであることが分かっている、という一点で、私が、身構えているのかもしれない。
 キルリアと言う種族を知っている、となると、それは、雄や雌の標準的な姿の、その区別がついても、おかしく、ない。
「――ところでさ、顔色すっごく悪く見えるんだけど、大丈夫?」
「……え?」
 そんな私へと、鋭い質問が続く。
「うん、ルディくん、そうなの?」
 言われてみれば、確かに、思考が、ぼんやりと、霞んでいるような。身体が熱っぽく、どこか、寒気がある。
「ああ、気付かなくてごめんね。ちょっと休もう、ね?」
 違和感。
 足の、内股に垂れる、液体の感覚。少しだけ粘性があるのか、真っ直ぐには落ちていかないもの――。
 赤く爛れる肉の破片。
 消え入りたかった。

「ストップ。そのまま逃げても、みっともないだけだよ。ルディくんは、そういうの嫌でしょ?」
 どいて。どけ。なんで。
 ――なんで?!
 森へと駆け出した瞬間に、それは私の頭上を越え、目の前に立ちはだかった。それに向かって、腕に念を籠め、切りかかった。
 避けられず、そのまま受け止められた。腕がその羽毛にめり込み、そこで止まった。
 翼が開き、私を包んで、閉じられた。脇に抱えられるかのような形だった。
 その隅々には川の水滴が残り、湿っぽかった。

 殺せよ。

 頭が痛い。忘れていたが腹部も痛い。そしてそれ以上に、目が痛い。
 隠し通せるとは思っていなかったが、それでも、見られたくはなかった。
 結実しなかった内壁を切り崩したもの。経血。
 私の、この身体が、雌として成長している、その証。

 アジトの中へと運び込まれるのを、私は、何の抵抗もできず、ただ、受け入れた。
 温かい感情すらが、ただ、ただ、憎かった。



 欺瞞でも何でもいいから、この場だけでも、やいばポケモンに憧れる、雄のキルリアでありたかった。
 村に、そんな私が存在できる場所は、どこにもなかった。
 私の「やいば」は、誰にも見えなかった。私にも見えなかった。
 そのようなもの、最初から存在しないのだ。



「――どうしよっか。寝れる?」
 アジトの入り口を通り、洞窟の中、寝かされていた薄暗い部屋に、戻された。藁の上に身体を降ろされた。私はそのまま横倒しになった。
 トビアスさんの翼の内側、所々に、赤く黒い汚れが付いている。その後ろには、その、グラエナの姿が、ホロウさんが、不明瞭な感情を浮かべながら、視線を私へと向けてくる。
 騒いだところで、もうどうにもならない。
 気力なく、言葉もなく、ぼんやりと視線を返す。恐らく、ひどい形相(ぎょうそう)だろう。勝手に受け取れ。そのほうが私らしい。籠められた温かさの何一つ受け入れられないのだから。
 捨て鉢な気持ちの中で、身体じゅうがずきずきと痛む。吐き気すらある。
 何一つ、望んでいない。
「殺してください」
「やだ」
 失礼ばかりだったのにとても良くしてもらったのは確かだ。報いたい。報いたいのは確かなのか?
「――ね、ホロウちゃん。フィーちゃん連れて来てもらってもいい? 多分、明日の準備してると思うから。枝とか見繕ってると思うから」
「はいよ」

「言うのも、隠すのも、つらいことだと思ってるよ」

 トビアスさんの、甲高い声。それ以上の言葉はなかった。
 目が痛く、痛く、より熱を帯びた。ぬるい液体が、目から出て、鼻の上を通り、隣の目に入って、勢いを増し藁まで落ちていく。
 ――言っても受け入れてもらえず、隠しても通せない。
 そう、誰も、そんなことする必要はないのだ。誰も違和感を覚えやしないのだ。自らの身体、その性別。
 そのようなくだらないことで気に病む私が、ただ異常なだけなのだ。
 私が異常だったとしたら。
 それが分かったなら。
 何ができる?
 私には。
 何も。

 この世界を跡形もなく壊せるだけの力があるなら。私にあるなら。そうしたい。
 そんなものはない。私には、何も、ない。
 破滅を願う力も。
 不可視の刃も。
 ――ああ。
 私は、刃を、憧れを、そんなことのために振るいたいわけではないはずなのに。
 ――本当に?
 なぜ。
 なんで?



「――ルディさん、さっきぶりです」
 二本足の姿。黄色を基調とした被毛を持ち、綺麗に整い、大きな尻尾には、枝が一つ刺さっている。フィーさんが来ていた。感情を受け取る気にもなれず、その表情を見る気にもなれず、ぼんやりとその胴体に視線を向け続けた。
「――聞いてもらって、いいですか? いや、言わせてください。……あまり語るのは得意じゃないんですけれど」
 手を伸ばしてもぎりぎり届かないくらいの場所に、尻餅を付いて座った。その身体は私から逸れるように横を向いていた。

「私、親に話を聞いてもらえなくて、それで家出して、それからずっとここにいるって、言いましたよね。……言いましたっけ?」

「それで、聞いてもらえなかった話っていうのが、まぁ、うん、そうなんですよ。私が、雄っぽく振る舞いたくないって感じの話だったんですよ」

「こんな世界壊したいって、思ってましたよ」

「あなたは、どうですか?」

「私があなたに感じていた親近感、もしかしたら、同類なんじゃ、と思ってるんですけれど」

「いや、寧ろ、逆ですか」

「〝これ〟が私の勘違いで、そのまま話を進めるのは失礼だって、思うんですが、お返事は、無理に言わなくても構いません」

 ――、、。



 可愛くおしとやかでありなさい。雌らしくありなさい。
 ――無力であることを受け入れて、誇れ、と?
 無条件に愛しても害のない、か弱い存在でありなさい、と?

 自ら道を切り開く探検家たちが、果たして、可愛いと言われることはあるのか?
 雌らしいというのは、無力な道具であれ、ということなのか?
 そうなのだろう。
 何の疑問もなく受け入れるべきなのだ。何も疑問に思うべきことではないのだ。
 雄と雌では、そもそも身体の仕組みが違うのだ。可愛くあることに意味はあるはずなのだ。
 生きるために?
 そうなのだろう。
 生きるためになんだってやって、その結果、無力であれ、と?
 あまりにも愚かではないか。

 私は、可愛い、らしい。
 間違いないだろう。私は、まだ、無力だ。何の暴力も持たない。何の力もない。あるいは、一生、そうかもしれない。
 誰も、目上の相手に可愛いと言ったりはしない。強さを認める相手を可愛いと言ったりはしない。
 そういうことだろう?
 誰が、私を認めているというのだ?

 ――なぜ。
 このようなことを、気に病む必要があるのだ。
 私は、雌ではないから。
 ――そうだろう?
 私の「やいば」は、どこかにある。遠い、遠く、どこか、手の届かないところ。
 それを手にすれば、私は、可愛さから抜け出せる。
 ――私は。



 目が覚めると、薄暗い部屋の中だった。藁の上で横になり、眠っていた。岩肌の壁に囲まれた部屋。略奪団のアジトの、その一室だった。
 いつ起きて、いつ眠っていたのかも定かではない。どこから夢で、どこまで現実なのかも、はっきりとしない。
 通路の先から差し込んでくる光を見るに、日中なのだろう。いや、少し赤い。夕暮れどきだろうか。記憶の限りでは、トビアスさんに運び込まれたのが日中で、そこから少しの間眠っていた。……のだろうか。
 ――寝て起きてを繰り返して、その辺りの感覚が、すっかり狂っていた。

「おはよう。調子はどう?」
 傍の、壁側に座っていたのは、彩度の低い、グラエナの姿。腹這いになって、欠伸を一つ浮かべながら、一言を向けてくる。
 腹部の痛みはまだあった。頭の痛みは、何か傷跡が疼くかのような違和感こそあれど、概ね回復していた。
「良くなったと思います。それなりに」
 下腹辺りの藁に視線を向けると、赤い痕跡がぽつぽつと残っている。
「――皆さんは?」
 周囲に浮かぶ感情は、一つだけだった。――いや、もう一つ、ある。
 近くにある、この、ホロウさんの感情は、相変わらず、掴みどころがないのだが、そのほうが、(かえ)って楽な気もする。
 視線を持ち上げ、もう一方の感情へと視線を向けると、紫色の、球体の身体が、ドガースが、居る。警戒はなく、気遣わしげな心配を浮かべている。
「他の皆は、出払ってるよ。略奪しに。無事に済めばそのうち戻ってくると思う」
 略奪しに。――あれ?
「それは、明日ではなかったですか?」
 眠る前、トビアスさんに引き戻される前、駆け出すその前、川辺で、話していたはずだった。明日、略奪に出かける趣旨の話を。そして、それは今日。
「うん。きみ、丸一日、眠ってたもんね」
 感覚が狂っている自覚こそあれど、まさか、そんなにも眠っていたとは思えなかった。体力が奪われていたのだろう。――勿体ない。
「――略奪、参加したかった?」
「……はい」
「正直だねぇ」
 生きるために、暴力的に物を奪う、その形には、興味があった。恐らく、本心だった。だが、出発時に起きていても、参加はさせてもらえなかっただろう。
 フィーさんに()められたように、実際にやってみれば、それは何の喜びもないのだろうし――他者の感情に依存するキルリアの身体としても、他者を傷つける生業(なりわい)は、それ以上に自分が傷を負うであろう。そのような生き方は、私には向いていないのだ。
 気分は、不思議と晴やかだった。
 私の居場所は、ここにもないのだ。いや、居場所だけならあるのかもしれない。なのに、何の不愉快もありはしなかった。

 持ち上げた視線の先、ドガースの姿を見つめる。それは、薄く煙を吐き出している。――何の匂いもない。部屋の中も煙に包まれているようには見えない、微弱なもの。
「――そういえば、あの、あなたは、皆さんと一緒ではないのですか?」
「あー、俺な、トビアスさんに頼まれて、ここに残ることになったのよ。――クリアスモッグっていう、ね、まぁ、うん、うまく説明しづらいものを吐いてたんだけど、少しでもよくなったなら幸いだよ」
 このドガースの姿は、昨夜――いや、一昨日(おととい)の夜も、私に心配を向けてくれていた。そのような記憶だった。そして今日も、私のために働き掛けてくれていたのだ。
「ありがとうございます、お世話焼いてくださって。――お優しいのですね」
「あー、はい、そうだな」
 認めたがらない様子を表しつつも、その感情は、満更でもなさそうに、緩やかな波を作っていた。
「――さて、僕はちょっと物品の整頓するけど、ルディさんは、見る? 一緒にやる?」
 ホロウさんは、部屋の一角、上部を布で覆った、箱や樽の山へと歩み寄りながら、そう言葉を向けてくれた。その布の端を咥え、引っ張って、覆いを降ろした。
「あ、やります、私にできることなら、ぜひ」
 藁の寝床から立ち上がって、そのグラエナの姿に続くよう、歩み寄る。ホロウさんは、私のことをあまり気にせず、続けて箱の一つを両前足で挟み、器用に降ろす。
 その中には、スカーフにリボンにリングルに、それからネックレスからブローチまで、様々な道具が雑多に詰め込まれていた。
「この辺のもの、大体、略奪品ね。種類別で分けるの。布製品、金属製品、宝石類、みたいに。特に見た目が同じものは一緒にしてくれると嬉しいかも」
 ホロウさんは、そう言いながら、箱をいくつか追加で取って、並べた。それらはいずれも何も入っていない空き箱で――見ている前で、最初の箱からネックレス一つを足爪に引っかけ、空き箱の一つに放り込んだ。
「これは、ここ、これは、そこ、って感じで。今日全部やるわけじゃないし、っていうか少しずつしかやんないし、分かんなかったら気軽に聞いてね」
「はい」
 そう説明を聞き終え、着手させてもらおう……と思った時、ドガースの姿が、私の前に出てきた。その姿は、桶の取っ手を咥え、私の隣に置いた。中には水が入っており、表面が衝撃で揺れていた。
「――その前に、さ、水でも飲みなよ」
 あの川から汲んできてくれた、のだろう。
「ん、気が利くね。さすが世話焼き」
「うっせえ。っていうかあんたの分じゃねえよ」
 ホロウさんが、笑みを浮かべながら、その桶へと顔を寄せるのに対して、ドガースの姿は呆れ返ったような感情と共に否定する。
「はいはい――うん、ルディさん、どうぞ」
「ありがとうございます」
 半ば促されるように、桶の中に手を突っ込み、掬う。冷たい水。口に運び、含んで、飲む。味があるわけでもないにも拘わらず、ひどく、美味しい。
 ――喉が渇いていたのだろう。何度か、掬っては飲んでを繰り返し、半分くらいを残したところで、ようやく満足いった。桶を脇へと追いやり、ホロウさんへと視線を向けた。
「ん、もういい?」
 ホロウさんは、既に、いくつかの道具を分けて、空き箱へと入れ直していた。
「じゃ、こっち、お願いね」
 直前までホロウさん自身が漁っていた箱が、その鼻で示される。ホロウさんは新しい箱を積まれた山から取り、引き下ろす。
 示された箱を、軽く手で引き寄せ、地面に座り、その中身を手で取り始めた。

「――そういやさ」
 ある程度仕分けをして、ドガースさんの姿がいつの間にか見えなくなっていた頃、ホロウさんが、思い出したかのように口を開いた。
「僕、帰ってくる前、この近くの村に居たんだ。で、〝掲示板〟をちろっと見たんだけど、キルリアの捜索願が張り出されてたんだよね。――雌の」
 ホロウさんは、その前足に引っ掛けたリボンを、箱に放り込んで、続ける。
「その雌のキルリアさん、だいぶ心配されてるなって感じだった。『娘が突然姿を消しました』だとか困惑した様子のことが書かれてたんだけど、内容文が走り書きで、すっごい汚かったよ」
 私も、雑多な中からペンダントを取り出し、金属製品の収まる箱にゆっくり降ろす。
「消えた理由に見当もつかないなんて、分からず屋な親も居るもんだなーって。でもまぁ、『話し合いたい』とかも書いてあったから、娘さんに何か抱え事があるのなら、それを聞き入れようとは思ってるのかもね。――ルディさんには関係のない話だけどね」
 それは、恐らく、私を探す依頼だろう。ホロウさんは、分かって言っているのだろう。
「――よくある依頼ですよね、多分」
「ま、ありがちな依頼だよね」
 そうとだけ言ったところで、どちらからも言葉が続かず、話が折れる。
 違う。それだけで十分な話だった。



 遠く、幾つかの感情が近付いてきていた。疲労感に包まれたもの、揺るぎのないもの、それから、変わらぬ温かさの――そう、もう変わっていないと分かってしまうもの。
「ん、帰ってきたかな?」
「みたいですね」
 足音と、それから、何かが軋む乾いた音。近い場所でその音が消え、それから、幾つかの声が入り込んでくる。
「じゃ、終わろっか」
 ホロウさんも、私も、持っていた道具を箱に収めると、それ以上は未整頓のものに着手せず、揃って、通路の先へと視線を向けた。通路の先は赤みが薄れ、暗くなり始めている様子で、今居る部屋の中自体が、既に暗い。――そんな場所に、影を作って入り込んでくる姿が一つ。温かい感情が一つ。
「ただいま。ルディくん、調子はどう?」
「おかげさまで、だいぶいい感じです」
 大きな鳥の輪郭が話し掛けてきて、ただそれに言葉を返す。
「ホロウちゃんも、ありがとねー。おいちゃんの我儘聞いてもらって」
「はいよ」
 それだけ言って、その姿は身を翻す。
「フィーちゃんがスープ作ってくれるから、さ。ほら、外においで」
「了解」
 ホロウさんがそう返事をして、その姿の後ろを歩いていく。
「きみも、おいで」
「はい」
 向けられたその誘いに、私も、従った。その後ろについて、外に出た。

 夕焼けが、遠く森の奥で燃えていた。真上の空はもう青く黒く、夜の様相を表していた。
 ――今日、この日は、ろくに日の光を浴びなかったことに、なる、のだよな。
 もう外が暗いというのは、頭では分かっていても、直感的には違和が残った。



 入り口の近くには、大きさの荷車が、一つ。それから、バッグが、三つ。荷車は、トビアスさんと同じくらいの幅があり、そして、その中には、いくつもの品が雑多に積まれている。――リンゴなどの食べ物が多い。
 正面、広場の中央に視線をやると、そこには、既に燃えている焚き火があって、複数の姿が、それを囲んでいる。
 腹這いになって欠伸を浮かべる、四本足の姿。枝を折って火を点け、焚き火に放り込む二本足の姿。鞘に収まった剣の、ヒトツキの姿。宙に浮かぶ球体の、ドガースの姿。――その囲いに、グラエナの姿も、大きな鳥の姿も入り込んで、混ざった。
 何も疑うことはなかった。私も、その囲いに歩み寄り、倒木に腰かけた。焚き火の熱は、感情とはまた違う温かさがあって、心地よかった。
「皆、お疲れ」
 そう言葉を紡ぐのは、グラエナの姿。ホロウさん。言葉を紡ぎながら腹這いになる。まるで、既に居た四本足の姿と同じように。ユズさんと同じように。
「ありがとうございます」
 フィーさんが、それに呼応しつつ、心配と好奇の入り混じった感情を浮かべている。ホロウさんの言葉自体にはまるで反応なく、一点の迷いに揺らめき続けている。
「ルディさんの体調は、良くなりましたか?」
「――ってさ。当事者さん、どう?」
 その質問は、ホロウさんに向けられていたものだったが、それを私へと受け流した。
 フィーさんは、戸惑い、気遣わしい様子で、ただ視線をこちらへと向けてくる。
 距離感を測りかねている。恐らくそう。――フィーさんには近寄りたい一方で、近付きすぎてはいけない気もしている。
「だいぶ良くなりましたよ。まぁ――まだ痛みますし、出血になると、寧ろこれからだと思います」
 似た者同士だと思うので、恐らく、フィーさんも、私と同じような壁を感じている。――それでいいのだけれど。
「――なので、私、明日の、もう朝くらいに、帰りたいな、と思っています」
「そうですか。それがいいと思います」
 フィーさんは、落ち着いた声色で話しつつ、そのどこかに寂しさを漂わせていた。焚き火に視線を戻し、そのまま、焚き火の中に軽く手を突っ込み、燃え崩れた枝に隙間を作っていた。
「なになに、残念そうな顔して。もしかして〝彼〟に気でもあんのー?」
 そんなフィーさんに、横から口を挟んだのは、甲高い声。トビアスさんの声。
「否定はしませんけれど――いや、そんなんじゃないですよ」
 フィーさんは、ただ、苦笑いを浮かべ、率直な返事をしていた。それがおかしくて、小さく噴き出した。
 好意的に見てもらえているのは、漂わせている感情から確かで、しかし、そう、〝そんなの〟ではない。皆分かっているのだろう。
「ちょっと水汲んできますから」
 そう言って、置いてあった鍋を両手で握り、川へと歩いて行くその様子を、感覚だけ、追った。水を汲むと、すぐに戻ってきて、その鍋を焚き火の上に置き、自身は、倒木に――私の隣に座り込んだ。
 ――あまり様子は見えないが、それでも、フィーさんだって疲れているのだ。余計に触れるのは、やめておこう。

「――皆さん、略奪というのは、どう行っているのですか? やっぱり――取り囲んで、力任せに奪うのですか?」
 火にかけられた鍋を見ながら、ぼんやりと、質問を浮かべる。興味はあった。止められてしまったが、その光景を想像くらいはしてみたかった。
「そうそう。無抵抗な商隊を囲んで、ボッコボコにするのよ。やー、わるーい奴らだよねぇ」
「平和的に、少しの積み荷と車一つを置いてってもらっただけ。お前が期待するような荒事は、何も、やってねーよ」
 ユズさんからも返事があったのは、やや意外だったが。
「平和的にいかなければ?」
「やるよ、その時は、もちろん」
 愛想はなくとも、私への殺意は、薄くなっているような気がした。
「最近は殺しなんてやってないから、平和だよ」
「そうそう、脅すだけで大体済んでるしね、ほんと。枝を構えて、剣先(けんさき)突き付けたりとか、そのくらいだよ」
「へぇー」
 ユズさんのやや投げやりな声に、ヒトツキの姿が、言葉を付け加えるように呼応する。形のある剣、そのものの姿が。
 剣の姿が。
「――その、剣先を付き付けるのって、どんな形ですか?」
 聞いておきたい、と強く思った。
 刃の使い方自体、私はまだまだ未熟なのだ。一生かかっても未熟かもしれない。前向きに、純粋に、知りたかった。見あわよくば、学びたかった。
「んー、脅したい相手の眼前に、刃を置いてるよ」
「それを、私を脅すような形で――やってみて頂いても、構いませんか?」
 私は、立ち上がって、焚き火の囲いから一歩、二歩、距離を置く。そのヒトツキの方へ身体を向け、姿勢よく直立する。
 ヒトツキの姿は、私を捉え続けたまま、一瞬、何かを考えていた。その感情自体は、乗り気だった。
「いいよ、ええとね――」
 その剣身が、鞘から跳ね上がった。離れた鞘を自身の触角で握りつつ、宙で一つ、その身体がよじれた。
 次の瞬間には、その身体が、風を裂いた。緩やかな弧を描きながら飛んできて、私の、目と鼻のすぐ先で、止まった。
「――こんな感じ」
 身体が動かなかった。動くつもりもなかったが、実際にされてみると、身の(すく)むような感覚があった。
 薄く、長く、幅の広い剣身が、その切っ先を突き付けながら、目前に浮かんでいる。その気になれば、私の胴体など簡単に真っ二つにできそうな刃。実体を持つ刃。
「びっくりしました、かっこいいですね。ありがとうございます」
「何になるのか知らないけど、役に立てたならなによりだよ」
 そのヒトツキは、短く呼応すると、剣身を引っ込め、触角を下げて、鞘の中へと納まった。満更でもない様子だった。
「鮮やかでしょ? ツルギちゃんのこれに助けられた場面も多いんだよ。ほんと、すごいよー?」
 トビアスさんが、そう言葉を添える。――恐らく、ヒトツキのその姿を、褒めている。
「はい、ほんとに」
 私にできるかというと、難しいだろう。しかし、動きの形一つを覚えておくだけでも、憧れる姿を目指す上で、何かの役に立つ、気がした。

 脇で、一つ、溜め息を吐く姿があった。他でもないユズさんが、疲労感と共に、呆れ返った感情を漂わせていた。
 実際にどう思っているのかまでは知る由もない。――しかし、私たちに『元気だな』と言わんばかりの様子だった。



 フィーさんが、スープを皿によそい、それぞれに――ヒトツキ以外のそれぞれの姿に、配る。
 口数少なく、各自それを飲み、私も、頂いた。沁み入るような、美味しいスープだった。
 しかり何より、温かく、穏やかな感情に包まれた空間が、私にとっての、ごちそう、だった。

 目を瞑ると、うつらうつら、意識が沈んでいく。
 私も、疲れているのだろうか? ――恐らく、違う。
 体調の動きに、絶えず消耗し続けているのは違いないだろうが。
 ここにあるのは、大きな、安心感。



 それは、私を望んでいないかもしれないが。
 もう、隠さなくていいのだ。





 日が、森の上へと、昇り始めていた。柔らかい光を浴びながら、身体を起こし、立ち上がって、大きく身を伸ばした。
 私は、アジトの、入り口すぐ側、藁の敷かれた場所で眠っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
 よく通る甲高い声。トビアスさんの声。
「もう、出発する?」
「そうですね、もう早いうちに」
 横からは、ユズさんが、言葉なく私を見つめている。他の皆はまだ眠ってなどいるらしく、姿もない。

「バッグ、一つ、準備したんだけどさ、持ってかない? あげるよ?」
 トビアスさんが、その紐部分を咥え、それを私の前に置いた。
 その大きな鳥の姿からすれば、二周りくらいは小さく感じるバッグ。私に丁度よさそうな大きさのもの。
「いいんですか――ありがとうございます」
 断っても押し付けられそうだ、とも思いつつ、断る理由もなく、素直に喜んで受け取った。――持ち上げてみると、中で何かが揺れ動いた。
 見ると、オレンが二つに、変哲もないただのスカーフに、何本かの枝に、それから、石作りの短剣が一つ。
 ――フィーさんが持っていたものによく似ている。だが、使われたような跡がなく、恐らく、新品。――私は、その短剣を手に取って、質問を向けた。
「……これは、何ですか?」
「ユズちゃんの余計なお世話、かな」
 黙ったままの、その姿へと視線を向けると、その姿は、渋々、一言を上げる。
「――邪魔なら、捨てるなり何なりしてくれていいよ」
 その感情は、投げやりで、しかし私を案じてくれているかのような、少しの温かさがあった。
「ユズちゃんさ、態々、夜なべして作ってくれたんだよ。ルディくんのために」
「……こいつ曰く、そうらしいね」
 トビアスさんの話に対しても、ユズさんはまともに取り合う気もなさそうに吐き捨てて、一つ、欠伸をする。
 ――その感情は、どちらも穏やかなものなのだけれど。

 私は、そのバッグを肩にかけ、一歩、森のほうへと歩みを進めた。振り返り、二つの姿へ、頭を下げた。
「本当に、何から何まで、ありがとうございました」
「気を付けてねー」
 返ってくる言葉は一つだけ。その代わり、後押しするような感情だけは、二つ、あった。



 体調も、今はよくともほんの少ししたらまた崩れる可能性は、ある。
 そんな身体に対して、向き直らなくてはならない。

 私は、森に入って、バッグから、枝の一本を取り出した。その最中(さなか)、目に映った短剣に、しばし見惚(みと)れた。心強いものだった。
 ――大丈夫。この刃の使い道は、もう決まっている。

 取り出した枝を、そのまま振り上げ、飛び出た光を目で追った。離れていく光の、その方向へと、歩みを進めた。
 村への帰路を、一歩一歩、しっかりと。




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Last-modified: 2018-09-29 (土) 02:00:03
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