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諸注意。ポケ×ポケでR-15くらいの要素が若干あります。
レモンクリームカタラーナ
作者まこる
雨の匂いがすると、僕はどうしても、いつもより早く目を覚ましてしまう。
森に暮らすムックルの鳴き声は聞こえない。窓の外はまだ暗く、太陽が地平線から顔をのぞかせるのはまだまだ先だと分かる。同じ部屋で寝ているみんなを起こさないようにそっと起きて、窓を開ける。雨はまだ降っていなかった。
「お客さん、ちゃんと来るといいけど……」
僕が暮らすカフェは森の中にある。どうしてこんな変なところにあるのかというと、人間だけじゃなく、野生のポケモンでさえもお客さんとしてもてなしたいというマスターの考えからだ。だから、梅雨の時期がやってくるとわざわざ街からきてくれていた人間の客はほとんどいなくなる。ジメッとした森の道程は人間にとってかなり不快で困難らしい。
貯金はあるっぽいし、代金代わりに木の実や果物を置いていくポケモンの客のおかげで生活には困らないけど……マスターの手持ちポケモンとしては、人間相手の商売もきちんとこなして欲しいと思ってる。マスターが野生化でもしたら目も当てられない。
そんなマスターは、今イビキをかいて部屋の隅で爆睡している。夜8時に店を閉め、そこから明日のための仕込みを夜中までして、寝て、開店する前の9時に起きてくる毎日だ。これでも結構なハードワークだけど、以前は朝の仕込みも自分でやっていた。
見かねた僕がその仕事を取り上げたのだ。
マスターと出会った頃の僕は、トレーナーから逃げ、森の中で拾われ、カフェに住み着いた独りぼっちのメッソンだった。
マスターはそんな僕の世話をしつつ、フラフラになりながらたった一人でカフェの経営をしていた。
そのうちカフェが好きになったポケモンや、同じように拾われてきたポケモンが増え、僕はジメレオンに進化し、みんなで少しずつカフェを手伝うようになった。その頃には僕はマスターの技術を少しずつ盗んでいた。
とはいえマスターがどんなにこの仕事を愛しているか理解していたから、僕としても生半可な覚悟で挑むわけにはいかなかった。だから少し時間はかかってしまったけど、結果としてマスターはカフェの仕事のいくつかを、僕を始めとしたポケモンたちに任せてくれるようになった。
それは人とポケモンがいっしょに経営するカフェとして人気に火がつくのと、ほとんど同時だった。当時は必死だったけど、今ではいい思い出だ。
階段を降りて広々としたカフェのキッチンに入ると、様々な料理の匂いがふわっと鼻をくすぐる。
たくさんの料理の残り香が、このカフェには染みついている。もちろん嫌な匂いは一つもない。中でも一番濃い匂いは、壁の中央、外から覗くお客さんからもよく見える位置にある、大きな石窯から漂ってくるクッキーの香り。マスターが仕込んだばかりの焼き菓子は、すでに販売用に包装されて、カフェのカウンターに置かれた籠に飾られている。
彼らを立派に焼き上げた石造りのオーブンはすでに真っ暗だったが、熱せられた石の熱は薪がくすぶるようにまだじんわりと暖かい。
昔ながらの煙突がついたこの薪オーブンは、マスターこだわりの設備だ。
「さてと……」
実は、仕事を始めるにはまだ早い。カフェの朝の仕込みは、陽が昇った時間から、ゴンベのベーといっしょにやるのが常だ。だけど僕はこうして時たま、勝手にキッチンを占領して、勝手に料理をする。こっそり、自分のためだけの料理を作るのだ。
カフェの明かりを灯して、僕は冷蔵庫や食料庫からあるスイーツを作るための材料を探していく。たまご、砂糖、クリーム、バニラ……。それから計量カップやボウル、泡立て器、ミニコンロなんかを出して、手を伸ばして調理台の上にきちんと並べていく。我ながら几帳面だと思うけど、キッチンは人間サイズだから、きちんと準備しておかないと手間が増えてしまう。
早く進化したいけど、バトルをしないポケモンが進化するのはなかなか難しい。
準備を終えてから、僕はガタガタと木でできたポケモン用の足場を調理台下まで移動して、飛び乗る。
ふと、雨が降り始めた音が締め切ったカフェの窓を通して聞こえてきた。それは木々たちの枝葉がポタポタと雨を歌う声だ。けど、外はまだ暗い。みんなが起きてくるのはずっと後。僕しかいないから、小さな雨の音がやたらはっきりと聞こえてくる。
嫌なタイミングだった。まだ、料理を始めてないっていうのに。
「うあ……くそ……」
ああ、ほら、最悪だ。やっぱり……涙が出てきた。
ため息をつきながら、僕は涙をぬぐう。それでも、涙は少しずつ溢れてくる。
間に合うと思っていたのに、思ったよりも早く雨が降り始めたせいだ。
悲しみなんかここにはないはずなのに、いつの間にか悲しみが居座っている。まるで子供が、哀れな自分を見つけて欲しいと泣き叫ぶように、みっともなく。
ズビ……と鼻をすする音。
たぶん、僕が泣いているところを見ても訝る人は少ないだろう。僕の種族はそういう種族だ。
けどこれは、メッソンだったときから治らない、僕のある種の心の病気だった。雨恐怖症、とでもいうべきだろうか。
僕はみずタイプのポケモンだけど、雨があまり好きではない。もちろん本当に怖いわけじゃない。雨の音を聞いていると、自分がトレーナーから逃げ出した時のことを、癖でどうしても思い出してしまうからだ。けどそれは、克服した過去だ。とっくに捨てた過去。悲しくもなんともない。そのはずだ。
だけどその記憶が蘇ると、今も心の何処かにいるもう1匹の自分自身が、ひどく傷つけられて、必ず泣いてしまうのだ。だから、僕自身も涙が止まらなくなる。
つまり僕の中には迷惑なことに、雨が降ると泣く、ずっと心に住み続けているもう1匹の自分がいるというわけだ。その僕は、きっとまだメッソンのままなのだろう。あまりにも泣き虫だから。
なんて、こんな話……いったい誰にできる? どうやって信じてもらえる?
突拍子も無い話だ。
そう。僕はちょっと変なんだ。マスターや他のポケモンは気づいてないけど。というわけで僕はメッソンの頃からの泣き虫癖がまだ治らないジメレオン、とそういうことになっている。
とにかく僕には、そんな秘密があった。
雨の音は、小さな氷の棘になってもう1匹の僕をチクチク刺す。カフェが賑やかな日中だったら平気だ。もう一人の僕はカフェが好きらしいから。だけどたとえば、みんなが寝静まっている時はもうダメ。わあわあ泣き出してしまう。
けど、自分のことは自分が一番よくわかるってね。その痛みを誤魔化す術が、いや……自分を慰める方法があることに、僕はすぐに気がついた。それは、大好きなスイーツを作って食べることだった。
レモンクリームカタラーナ。
マスターが僕を助けてくれた日に、初めて食べさせてくれたマスターの料理だ。
今ではみんなが認めてくれる、僕の得意スイーツ。それを食べると、心の何処かにいる僕は泣き止んで、ニコニコしてくれる。
だからいつもは、雨が降る前に準備するんだけど……うまくいかなかった。思ったよりも雨雲は近かったみたいだ。
マスターは雨の日になぜかカタラーナを作る僕を、みんなの分も作ることを条件に黙認してくれている。だから、これからけっこうな数を作らなきゃいけないっていうのに……これじゃ調理どころじゃない。
「うう……どうしよう……ぐす……」
厄介なもう1匹の自分はカタラーナを食べないと、雨が止むか、カフェが賑やかになるまで泣き続ける。今更ながら、とんでもなくわがままなやつだ。こんな姿をみんなに見せるわけにはいかない。僕はスタッフリーダーなんだから。
その時、カフェの階段を誰かが降りてきた。
「……やっぱり。こんなことになってると思った」
垂れた耳、口元を隠したポーカーフェイス、ポッケみたいな毛皮に突っ込んだ両手……。
「ビィ?」
カフェスタッフの仲間、ラビフットのビィだった。彼は僕の真似をするかのようなジト目を向けて、見えないように、けどわかるように小さなため息をつく。
「チアはこういうとこ、ツメが甘いよな」
「……だって僕、ツメないしね」
チアはマスターがくれた僕の名前だ。涙って意味らしい。マスターは単純だ。
「屁理屈言うなよ。薪だってまだじゃんか。ほら、手伝うから早く生地作ればいいじゃん」
そういうとビィは、オーブン近くの床に積まれた薪を手にとって、それで肩をトントン叩きながら僕を見つめる。いつも通りの、斜に構えた態度。ただし、目を眠そうに瞬かせ、見えないけど欠伸を噛み殺しているのがバレバレ。要するに、ちょっとカッコつけるんだ、ビィは。
「いいよ。ビィ、今日は遅番でしょ? 僕を手伝ってたら大変だよ」
「別に。平気だよ、こんくらい」
すると、ビィはいきなり、持っていた薪を蹴り上げる。その瞬間、ボワっと火が灯った。それを空中でキャッチして、オーブンに投げ入れる。暖かな光が宿る。まるでカフェの命が灯ったように。
「……いつも思うけど、その点火の仕方は衛生的にどうなの?」
「な、なんだよ今更。このやり方じゃないと炎を繰り出せないんだからしょうがないだろ……」
「それに薪を投げ入れるのも危ないし……」
「う、うるさいな! いいから早くしろよチア! 涙で干からびるぞ!」
薪をガンガン焚べながら、僕を見ず、耳の毛皮を逆だてているビィ。
「はいはい」
そんな彼を見て僕は笑う。泣きながら。顔面は大忙しだ。今の僕が誰が見てもヘンテコなジメレオンだろう。だけど、ビィはこんな僕を見慣れてるから大丈夫。カッコつけてることを少しいじって、顔をほんのちょっと赤くするビィも、僕だけが見慣れた彼の表情。2匹だけの特別。
とはいえ彼も、僕の秘密を知っているわけじゃない。雨の日に、特別悲しい気持ちになってしまう変なジメレオンなんだと、みんなより少しだけ詳しく知っているだけだと思っているはず。
だけど、一番の、大切な友達だ。
そんな彼の得意なことはもっぱら、火を起こすこと。それ以外は不器用。認めないけど。
反面、僕は器用に扱えるよう練習した前足を使って、たまごを割り、砂糖と混ぜ合わせる。次にミニコンロを点火し、クリームを火にかけ、バニラを少々……。
「……あ」
忘れてた。
「ん」
「え?」
「忘れもの」
振り向くと、ビィがふわふわの手の上に「レモン」を乗っけて僕に差し出してくれていた。
「……ありがとう。うっかりしてた」
「らしくないな」
ビィの手を包み込むようにして、僕はその黄色い実を受け取る。かすかに、柑橘系の匂いが鼻をくすぐった。
彼と目が合う。そうして、どちらからともいえない感じで、ふいっと、そのまま何も言わず逸らす。
僕はすぐに火をかけたクリームに向き直り、レモンの皮を削って少し入れ、果汁を絞り、加えてからゆっくりと、沸騰しそうになるまでかき混ぜる。いつの間にか、ビィが別の足場を持ってきて僕の隣に立っていた。僕は、少しドキドキする心臓に気がつかないようにする。
さっきまで流していた涙が止まっていた。思い出のカタラーナを食べてないのに。
「お菓子を作り始めると泣き止むなんて、相変わらず現金なやつだよな」
「はは……そうだね」
違う。本当は、カタラーナを食べないと、涙は止まらない。だけど……そう、最近は少しずつ変わってきている。
「オレのぶんもある?」
「うん、もちろん」
「……うん。オレも、チアの作るカタラーナ好きだからさ」
記憶の味が舌に広がる。
レモンクリームカタラーナ。
冷たくて、甘くて、カスタードのアイスのようで、綺麗で、熱々でパリパリのキャラメリゼが乗っかっていて、少し切ないレモンの香りが体を抜けていく。甘さの中に溶けてしまったから、酸っぱくなりきれず、かくれんぼをしているように舌の上で残り香のように漂う黄色の果物。
でもどうして、切ないと思ってしまうのだろう?
ふと、ビィを横目でチラッと見る。彼は、ボウルの中で混ざり合って変化していくクリームに魅入っていた。
これだけで美味しそうでしょ? と自慢したくなる。
僕のカタラーナには、レモンといっしょに、あまりにもたくさんの思い出が混ざっているから。
ラビフットのビィは、トレーナーに捨てられたポケモンだった。そして、初めて食べたマスターの料理も、僕と同じカタラーナ。だけど、彼は僕とは違った。ビィはなかなか、強いポケモンだった。捨てられた理由も、僕みたいにバトルができないからじゃなくて、強すぎて言うことを聞かないから。
「オレ、野生で生きてくから。人間の世話になるなんてもうごめんだ。お前もさ、いっしょにいこうぜ」
その頃の僕は、ケーキの生地を焦がし、パンを焦がし、皿を割り、パスタをデロンデロンに茹で、怒られて、失敗ばかりのジメレオンだった。
一方ビィは、ちょっとウザいくらいにカッコつけていた、かも。
「もう、うるさいなー。あっち行ってよ」
「なんでまだ人間に付き合うんだよ」
「僕の勝手でしょ」
「なんでそんな一生懸命になれんの。失敗ばかりなのに」
その問いかけには答えなかった。すっごくムカついたから。だからって言い返す勇気もなかったけど。
「……それなに作ってんの。カタラーナ?」
「なんでもいいでしょ。手伝わないなら部屋にいなよ」
「いや、涙が入らないよう見張っとく。すぐお前泣くし」
「は?」
そのときは、まだカフェが賑やかな日中だった。それに雨も降っていなかった。ビィには泣いてるところなんか見せたことなかったはずだった。
「お前たまに、夜とかにさ、1匹でカタラーナ作って食べてるじゃん。雨の日? にさ。泣きながら。あれ、なんで?」
そのとき生まれて初めて、僕は誰かに対して怒った。
そうして、みんなが手をつけられないくらいの、ものすごい喧嘩をして、マスターにこっぴどく叱られて、それきりになった。僕はそれくらい、もう一人の僕を知られたくなかった。どうしても秘密にしておく理由があった。
なのに、次の雨の日の夜。ビィはやってきて、何にも言わず僕を手伝った。そのときは生地を焼いている時に泣いてしまった。でも彼はなにも言ってこなかった。そしてビィは、あんなに偉そうなことを言っていたのに、カフェのスタッフになった。
粗熱をとった生地を型に流し込んで、水を満たした容器に浸し、オーブンに入れる。蒸し焼きにして作るのが、マスターから伝授されたレシピだ。
オーブンの扉を閉め、ようやく一息つく。焼き時間は45分。
その間に道具を片付けちゃって、仕込みの準備も始めようかなと思う。
床に降りると、さすがに欠伸が出た。少しばかり眠たい。
「……終わった?」
目の前にビィが立っていた。ほとんど反射的に、僕は彼に背中を向ける。
「ああ、うん。ありがとう。ほら、ビィはもう一眠りしてきなよ。僕は仕事始めるから……」
「チア」
突然、肩を掴まれて振り向かせられる。
「……なに?」
じっと、僕を見つめるビィ。本当は僕の方が背が高いのに、僕は少しエネコ背で、ビィはピンと背筋を伸ばしてるから、目線の高さはほとんど同じだった。
ビィは、僕の尻尾が、緊張で硬くなっていることに気づいているだろうか。
ヒクリ、とビィの鼻がヒクついた。僕をそれを観察する。小さくて、カッコつけには不釣り合いな可愛らしい鼻。いつも押したくなる。
それが、近づいてくる。
「あ……」
いつも隠している口が見えた瞬間、僕は目を瞑った。
そうして僕の口に、押し付けられる。
「ん……」
ビィのキスは、いつも突然だ。僕に抵抗する間も与えず、あっという間に体が微塵も動かなくなる。
肩を抱いてくる柔らかなビィの手。こしょばゆい口元。熱。怖くて、優しい、火。
「チア」
唇は数秒で離れて、やがてビィは僕の名前を呼ぶ。目を開ける。少しだけ、荒い呼吸。緊張。鼓動。僕にしか見せない顔。クールでもなくて、きどってもなくて、ただ等身大に、気持ちを表現してくるラビフット。けどその目を僕は、僕を見ているはずなのに、僕を見ていないように思ってしまう。
言葉もなく、不器用に、雨が地面に溶けていくしじまの度に、こんな逢瀬を繰り返す僕たち。
また、ビィの腕に力がこもる。また、目を瞑る。
今度はさっきよりも深く繋がろうとしてくる。
知らない間に、体が壁に強く押し付けられていた。
「ん……」
絡んでくる舌を、僕は受け入れる。火傷しそうで、泣きたくなっても。自分が、彼を手放そうとしない。
ゾクリ、とする粘着質な音が頭の中で聞こえる。僕の長い舌を、必死に感じようとするビィの可愛い舌を、僕は感じる。
一筋の涙が、頬を伝った。声も、僕の涙ではなかった。
温かくて、僕の心をズキンとえぐってくる。
「……ごめん、チア。その……」
その涙を見て慌てて、焦った気持ちも隠さずビィが言った。
「……違うんだ。気にしないで」
気まずそうに目を伏せて、ビィは僕を解放する。
「……好きだ」
呟く声が聞こえる。
「うん」
僕も呟くように答える。
「たぶん、僕も好き」
「たぶんってなんだよ。自分のことなのに」
顔をしかめて、けどすぐ可笑しそうに微笑むビィ。
「……そうだね。僕も、ビィのことが好き」
応える。
ビィが、またキスをしてくる。
記憶が、レモンクリームカタラーナの味を思い出していた。
僕を救ってくれた味。思い出の味。ビィの好きな味。僕の好きな味。心の中に閉じこもってしまった僕が、彼女が、救われる味。
嬉しいはずなのに。喜びたいのに。僕は同じように喜びの涙を流せない。
僕はクリームの中に溶けていくレモンのように、ほんの少しだけの香りだけを残して、もうすぐいなくなってしまうから。
それが理由だった。
カタラーナに漂うレモンに、僕が切なさを覚えるのは。
あるメッソンの女の子の心の中に僕が生まれたのは、彼女自身を守るためだった。
僕の体の本当の持ち主は、バトルを生業とするトレーナーのところで科学的な厳選によって生まれて、理想値を兼ね揃えた個体として厳しいトレーニングを受けさせられた。それでも彼女は芽が出なかった。彼女が悪かったんじゃない。人間のせいだ。
彼女は逃げ出すべきだった。だけど、できなかった。人間が彼女を殺しかねないことはわかっていたのに。死ぬほど逃げたいと思っていたのに。恐怖がそうはさせなかった。
心を縛り付けることは、こうも残酷なことなんだ。
だから、身がちぎれるほどの板挟みの中で、文字通り、彼女の心は二分化した。本当の臆病な彼女と、何が何でも生きようとする男の子の僕に。それが、彼女が自分を守るためにできた唯一の手段だった。
僕は、彼女を守るために、彼女の体を乗っ取って、逃げ出した。
視界が霞むほど、ひどい雨の中を僕たちは駆けた。もはや僕たちを殺そうとする追っ手と戦って、走って、恐怖で泣く彼女を黙らせて、命の灯火が消えそうになっても、そのまま死にたくなっても、諦めても、僕だけは生きることを選び続けた。そして……マスターに出会った。
僕はすぐに彼女に体を返して、そのまま消えるはずだった。
そう。確かに彼女はマスターが出してくれたカタラーナを食べて、安らぎを得たはずだったんだ。だけど気がつけば、僕は、メッソンとして現実世界にいて……彼女は心の中の、奥深くに隠れて、それきりもう出てこなかった。
……雨の日に、あの日を思い出して、泣きじゃくる時以外。
どうすればいいかわからない日々が続いた。
そんな時に、ビィが現れた。
初めてカタラーナ作りを手伝ってくれた夜。ビィは僕にキスをしてから、告白してきた。呆気にとられてから、告白の返事をせず、順番が逆だと怒ると、「そういうところも好きなんだ」と言われて何も言い返せなくなった。
ビィが今まで見てきたのは僕だったけど、僕は黙っておくことにした。彼女も、ビィに惹かれていることは知っていたから。
もう、わざわざカタラーナを食べなくても、彼女は泣き止むことができる。ビィがいれば。
少し粗雑で、本当は優しいラビフットを、ジメレオンのチア……本当の僕は愛している。だから心の檻から出たがっている。
僕にそれを止める権利はない。素直に嬉しく思えない僕がいることは真実かもしれないけれど。
だから、それまでの間……本当のチアが、本当に決心がついて、ビィの前に現れるまでの間、僕はビィの愛情に応えるフリをする。
大丈夫。任せてほしい。喜んでその役目を引き受けよう。
僕は僕であるけれど、本当の僕じゃないのだから。
きっと彼女は僕の存在を知らない。目覚めた時、彼女は眠っていたことさえ気がつかないかもしれない。それでいい。僕の記憶が彼女を幸せにしてくれるのなら。
けど願わくばどうか。
ほんの少しでも、僕がいた頃の僕を、二人が忘れないでいてくれれば、僕も幸せだ。
焼きあがって凝固した生地を、冷凍庫にしまう。冷やしが足りないかもしれないけれど、誰かが起きてくる前に、僕たちのぶんだけは食べてしまおう。仕上げにカラメルを焦がすのはビィの役目だ。
空が少しだけ白けてきていた。森の輪郭がうっすらと見える。どこかで鳥ポケモンの羽ばたく音が聞こえたけど、相変わらず振り続ける雨の音の中にすぐに紛れてしまった。
僕たちは誰もいない、薄明かりのカフェで、外を眺めながら隣り合って座っていた。お互いの手には、ミルクティーが注がれたカップが少しだけばつが悪そうに収まっている。ビィが淹れてくれた。彼の数少ないレパートリーの一つだ。
「本当は、今日もビィが来てくれること期待してたんだよね」
僕が突然そういうと、ビィは顔を少し顔を赤らめた。
「べ、別に……。その、雨が降りそうな日は、いつもよりちょっとだけ、チアのこと気にしてるだけだし」
「うん、ありがとう。そんなところが、僕は好きなんだと思うな」
不思議そうに目を丸くするビィ。
「相変わらず、チアは変な言い方する」
「そう?」
「まるで、自分がないみたいな言い方。オレはそれ、あんまり好きじゃない。もっとさ、チアはチアらしく、自分のこと話せばいいのに」
「あれ、なんでだろうね。癖なのかな。気をつけるよ」
僕たちは、もう恋人同士だ。だけどいつまでも、ビィはかけがえのない親友でもあってほしい。ちょっと複雑でずるい関係だけど、案外、この構図を僕は気に入っている。
「ビィ」
「なに?」
呼べば、目を合わせてくれる。彼の大きな瞳に、彼に恋しているはずのジメレオンが映っている。
「もしかしたら、僕、もうすぐ泣かないで済むようになるかもしれない」
「……本当?」
「うん。ビィのおかげ。少しずつ、良くなっていってる気がするんだ」
突然、ビィはカップをテーブルにガチャンと置く。咄嗟に、僕もカップをテーブルに置く。
案の定、ビィは僕にいきなり抱きついていきた。
「よかったぁ!」
「ちょ、ちょっと! 苦しいよ!」
「あ、ごめん……」
と言いつつ、彼は僕を離さない。いつものクールさは何処へやら。
「でも、嬉しい。ずっと心配だったからさ。雨の夜に、1匹で泣くなんて」
「……うん。僕も、本当にどうにかしたいと思ってた。だけどカタラーナだけじゃダメだったんだ。カタラーナといっしょに、たくさんの思い出も心に刻んでいく必要があった。過去の記憶を消してしまえるくらいにね。ビィがいたから、それができた。そんな気がする」
「それは……照れるな」
「ありがとう」
「うん……でも、あのさ……」
耳元で、少し気まずそうにビィが囁く。
「え?」
「これからも、雨の日にカタラーナ、作ろう。オレ、本当に、チアのカタラーナ大好きだから」
雨の音は、もう気にならない。
彼の体は、どこまでも優しくて、ふわふわしていて、きちんと僕を抱きしめてくれる。
だけどふと、ビィがその体を離す。その手は僕の手を包み込んでいて、どこか不安そうな顔をしていた。
「チア。大丈夫?」
「なにが?」
「泣いてる」
……気づかなかった。
僕は、ゆっくりと首を振った。
「平気。これは、いつもの涙じゃないから」
こぼれ落ちた涙を、僕は拭うことをしなかった。僕の手を包み込む、熱いくらいのビィの手を失いたくなかったから。
彼も、僕の手の温もりを感じてくれているだろうか? ちょっとジメッとしてるかな。
「ビィ。カタラーナ、食べよ?」
彼は笑って、頷いてくれる。
窓に、梅雨の雨が打ち付けられている。カフェを濡らしていく一粒一粒の雫は、今、厚い雲を突き抜けてわずかに届く陽の光を含んで、世界を映していた。
その中には、僕もいる。だから僕は僕に、微笑みかける。
了
大会投票ありがとうございました!
もっとジメレオン、ラビフット…ひいてはインテレオン、エースバーンの沼に沈んでいきたいと思います
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