耳にこびり付いて、どうしても離れない声がある。
恨み節ではない、けれどそれはどことなく羨むような色の入り混じった、とても複雑な何か。
『なんで私だけがこんなに辛い思いをしなきゃいけないのかな』
聞き入られない願いを諦めずに懇願しつづけた彼女の想いは、それこそ時が経てば経つほどに逃れられない呪詛の鎖の様に強くなっていって、どうしようもなく。
結局、それはまだ足に絡み付いているのだ。絡み付いていて、尽きることのない無限の原動力とその他色々余分なものを頂いたりなんかしちゃっている。
「強くなれるといいね」
そんな彼女は、もちろんぼくの夢を理解していた。
「うん」
なのに僕は、たったひとこと。それだけを返すのが精一杯で。
そうして、その日が最後なのだからと時間一杯話し合った。消灯時間になる、その時まで。
だからこそだろうか。最後に交わした彼女との会話を、いやに鮮明に覚えている。別れ際の、本当の最期の問答だ。
いつもいつも、消え入りそうなくらいに不安そうな表情を浮かべていた。そんな幼いポッチャマの女の子とは、それきり言葉を交わしてはいない。
「わたし、幸せになれるのかな」
「うん。きっと、きっと幸せになれるよ」
思えばそれが、彼女に対してついた、たったひとつの最初で最後の嘘だったのかもしれない。
1
久しぶりの帰郷だった。
思い出のたくさん残っている故郷。嬉しいことも、辛いことも、楽しいことも、悲しいことも。それらは少しだけ色褪せてはいるけれど、忘れることのできない大切な思い出だった。
モンスターボールから出してもらって、そしてそこに広がる光景を目にすると、色々なものが胸の奥からこみ上げてくる。
記憶に残っている風景とは、かなり違うような気のする街並み。空港から見下ろせるこの風景は、旅立つときに見た最後の街の記憶だった。
懐かしい街並みに懐かしい風の匂い。確かな時間の経過と、それ相応の変化を前にしても、沸きあがってくる感動はちっとも収まることはない。
……と、感傷に浸りそうになりかけて、ふと頭をつつかれる感触を感じて振り返る。そうすると、こちらを見下ろしていたトレーナーと自然に目が合った。
「で? ディスはまず病院に行くのかしら」
「うん。そのつもりだよ~」
長い長い空旅が辛かったのか、首の間接をぽっきぽっき鳴らしつつ尋ねてくるトレーナー。
そんな彼女の質問に、ディスは間延びした声で答えていた。
もとより、帰郷したのならまずはそこに行くつもりだと散々呟いていたのだ。ディスのそんな返答はやはりお見通しだったらしく、トレーナーは少し苦笑い。
呆れたような、けれどどことなく諦めの感じられる語調でのたまってくる。
「ほんと、あんたって一途よねー」
「……そうかなあ?」
「こっちとしては、できれば早くにお嫁さん貰ってきて欲しいんだけどなぁ」
「ふえー?」
苦笑いを浮かべたまま少しだけ屈んで、トレーナーはディスのざらざらしたおでこをなでなで。意図の分らないディスとしては、そんなトレーナーの行動にただただ首を傾げることしかできなかった。
もちろんディスのそんな反応も手馴れたもので、彼女は大して気にも留めていないようである。
暖かい日差しを振りまく太陽を仰いでから、はあぁと深呼吸。もう一度視線を合わせてきたときには、彼女のその表情は既に笑顔に変わっていた。
「ま、久しぶりなんだからゆっくりしてきなさいな」
「うん!」
それだけを含みの無い表情で言うと、仕上げとばかりにじゃあねと呟いてきた。
そして、ぷいと向こうを向く。すると彼女は、こちらに振り返ることなく故郷の商店街の方へ歩いていった。……トレーナーの実家は、商店街の更に向こうにあるのだった。
そこに帰るのも実に久しぶりなのだけれど、ディスにはそこへ帰るのよりも前に、やるべきことがある。病院に、彼女に報告しなければならない。
そうして、ディスはトレーナーである彼女と別れて病院に向かうのだった。
じりじりと熱を帯びた都会の道路――コンクリートの上を、ぺたぺたと歩いていく。
熱い。すごく、熱い。そういえば、よくよく考えるとコンクリートで舗装された道路の上を歩くのは久しぶりのことだった。
今まで生活していたのは、こと寒冷で知られる北のシンオウ地方で、道路の舗装なんてされていない様な片田舎だったのだ。地べたが熱いなんて、それこそ久しぶりの感覚なのか。
けれど、正直ここまで暑さに参るとは思っていなかった。
少しばかり湿気があるから、じめじめとした暑さが余計に身に染みるのだ。正直、あと小一時間でもぶらぶらしていれば道路の真ん中でぶっ倒れる自信があったりしない訳でもない。
こんな所で気を失えば良い笑いものだ。そればかりは避けたいところではあるのだが。
けれど。砂漠や南方で暮らしていたらしいご先祖様達には申し訳無い事なのだが、こんなことではサンドパンとして本来ある程度備えているはずの耐熱機能、その大部分が自分の体からはとうに損なわれているのではないだろうか、と疑わざるを得ない。
「うへぇ……都会はあっついなぁ」
ぼやきながら取り留め無い事を考えて、ついつい口はしに気持ち悪い笑みを浮かべる。
とはいえ、ディスは生まれたその時から今まで、ずっと人間の手で育てられてきたのだ。今更野生のカンやら生存機能やら云々を取り戻せと言われても、それはそれで難しい注文なのかもしれない。
時折すれ違う人間達も、それは確かにどこかけだるそうで暑そうな表情をしている。けれど、彼らとは違ってディスは素足だ。素足そのものだ。
ダイレクトに伝わってくる熱さったら、もうほんとうにない。いろいろとない。摺り足の訓練でもしておけば、もしかしたら違ったのかもしれないなあ、なんてバカなことを思考の端に捉えたりしたり。
もっとも。焼け付くような熱をしっかりと伝えてくる足の裏に顔をしかめながらも、それでも歩みを止めることはなかった。
思い返すのは、白い部屋。怖気を感じ得るまでに漂白された無菌室に、ずっと閉じ込められていた彼女。最初に彼女と目を合わせたときの、あの曇った瞳だけはいつまでも忘れられない。
(ああ、ほんと。ぼくってばかだなあ)
少しだけ、自嘲気味に笑う。
彼女とはあれきり会話を交わしていないし、交わすこともない。けれど、刻まれたその思い出は重たい枷となってディスの短い両足に絡み付いている。
結局の所、それはいまだ果たすことのできない夢への、目標への言い訳なのか。
けれど、辛いことがあっても歩き続けられるのは紛れもなく思い出のおかげで、逆から言えば、それは自分のあらゆる可能性を夢のためにかなぐり捨てているという事実に他ならない気もする。
「……まぁ、今更だよね」
無意識のうちに言葉に出したそれには、誰も返事をしてくれなかった。
不思議なことに、この街ではポケモンの病院と墓地が隣り合って立ち並んでいる。
別々に作るだけの立地的余裕がなかったのか。不謹慎だとは思わなかったのか。それとも、所詮はポケモンの医療施設と埋葬地だ、なんてお上の方々は判断したのか。
でもまあ……確かにゴミカゴは近い方が便利だ。人間たちの事情なんかちっとも理解できないディスにも、それだけは十分すぎる位に理解できた。
無下に立ち尽くす墓石の間を縫って歩き、彼女の墓へと目指す。あらかじめ病院に寄って詳しい場所は聞いているから、迷いは正直それほどでもなかったり。
びっしりと並列に並べられた墓石達の、ずっと奥。彼女の墓は、ほかと比べてもなんの代わり映えもしていなかった。それでも、ディスにはそれが彼女のものだと一目で分ったのだ。
日の光を受けて黒曜の鈍い輝きを放つ墓石。もちろん、周囲のそれもまったく同じもので出来ている。
けれど、違った。
彼女の墓にだけ、なにもない。なにも、お供えされていなかったのだ。
さらに言うなら、とても汚れている。清められた跡も磨かれた形跡もなく、彼女のそれは年の経過によって積み重なった面影をそのままにしていた。……その様相の、なんとむなしい事か。
誰もが皆、彼女の墓になんか気にかけていないことは明白だった。もっとも、それは赤の他人であるならば当然なことであるからして。
ただでさえ過疎な墓地。目立たない奥の奥地に彼女の墓が置かれたのも、もしかしたらそれ故なのかもしれない。彼女には、もう誰も親戚と呼べるような人も、親と呼べるトレーナーもいなかったから。
だから、ひっそりとそっとしておけるような場所にわざわざつれて来られたのかもしれない。……それを気の利いた配慮ととるかどうかは、人によるだろうけれど。
けれど、かくいうディスも何か気の利いたものを持ってきたワケでもなく。なんだか、酷くやるせない気持ちになってしまった。
それでも、伝えたいことは山ほどあるのだ。
今の今まで抱えてきた気持ちと、思い出。いつか彼女に約束した色々なコトを果たせるときが、ようやく来たのだった。
彼女の名前が刻まれた石の前にひざまずくと、それだけ勝手に口が動き出すような錯覚。思いの内に秘めていた言葉たちは、もう我慢してくれそうもなかった。
「ねえシクル。君と別れてからね、たくさんのことがあったんだよ――」
人通りの少ない墓地。静寂に包まれたそこで、ディスはかつての友人、今は亡きポッチャマに向けて語りかけていたのだった。
ずっとずっと、日が暮れてトレーナーの少女が迎えに来るその時まで。
……そしてその日の夜、夢を見た。
ポッチャマからポッタイシへ。ポッタイシからエンペルトへと進化した彼女と、再会する夢。
そう、夢だ。
死んだ筈の彼女と再会する。なんて、そんなありえないことが起こっているのだから、これは紛れもない夢なのだとディスは理解する。
「ディスくんはあれから何をしていたの?」
「もちろん!きみとの約束どおり、四天王リーグに挑戦するための武者修行さ!」
遠く、彼女と仲良く会話する自分の姿を夢の中でみる。そんな、ありえない出来事。
本来ならば、彼女はあの日に死んで、そのままなのだ。生きているというこの事実こそ、仮初のものにほかならない、はず。
それなのに、だ。
本来ならば存在しない筈の、シクルという架空のエンペルトを相手にして満面の笑顔で談笑する自分の姿は……羨ましいくらいに、幸せそうだった。
「わたしはね、ずっとディスくんのこと羨ましいなって思ってたんだ」
「そうなの?」
「うん。そうなの」
「そうなんだあ」
そう呟いて、夢の中の僕――ディスは、首を傾げる。
もしかしたら、夢の中で作り上げられたらしい架空の彼女は、何一つ不自由なく育った完璧な存在……という設定、なのかもしれない。
何を羨まれるというのか、夢の中のぼくは何もわかっていない様子。予想すら付かないらしく、きょとんとした表情でオウム返しするその様子は、我ながら中々の間抜け面だった。
さあ、どうだろう。
彼女が何不自由なく育っていたらという、この夢の前提。彼女が亡くなったと聞いてから、ずっとこうであれと望んできた理想の設定。
もしそうなっていたのであれば、確かに彼女は、シクルはエンペルトへと進化していたのだろう。丁度こんな感じの、綺麗な顔立ちに、凛とした雰囲気を纏った美しいエンペルトに。
その理想の彼女は、にっこりと笑う。笑った口端から漏れた言葉は、けれど少しも笑ってなんかいない。
「だって、ディスくんは自由じゃない」
「自由? ぼくが?」
「自由でしょ」
「自由なのかなあ」
「自由なの」
「……自由、かも」
そんなシクルは、自由な僕が羨ましいのだという。
彼女との約束に縛られて、先の見えない努力を続けるぼくのことが。自由に見えるのだと。……けれど、それは改めて考えてみればなんら不思議な事じゃあない気もする。
このシクルは健康で、病気なんかじゃなくて、生きていて、死んでなくて、可愛くて、綺麗で、完璧な、夢の中のシクルなのだ。つまり、あの約束をぼくと交わしていない。本当のシクルじゃあないということ。
あの日、病気で死んだ現実のシクルは不幸だった。けれど、それで何かから解き放たれて自由になれたのかもしれない。
今、この夢の中で生きて話しているシクルは、確かに幸せなのかもしれない。けれどこちらには何か分らないものに、もしかしたら縛られているのかもしれない。
なんということだろう。これは、この夢は。夢と形容するには、あまりにも救われていない。
……うーん。夢の中でくらい、脳髄が甘く痺れる位にあまったるい、理想の夢を見させてくれればいいのに。
なんて、そんな不満を抱きながら。夢の中の意識は少しずつ掻き消えていったのだった。
2
「ん……」
ふわふわと意識が浮上してきて、ディスは目を覚ました。
いつもの見慣れた天井では無い事に気が付いて、少し遅れて自分がトレーナーと一緒に帰郷していたことをのろのろ思い出す。
ディスは、何重にもしかれたやわらかいマットレスの上に寝転がっていた。背中の棘が布(と、その中の何かもこもこしたもの)にぶすぶす突き刺さっている感触が伝わってくるけれど、意外なことに寝心地はそう悪くないものだ。
なんでも、大好きクラブうんちゃらかんちゃらがサンドパン用にと開発した専用の寝具らしいのだが、これはいいと思う。オススメだ。むしろ、なぜ今までこれの存在を知らなかったのか、疑問でしかたない。
惜しむらくは寝具でありながら消耗品であるという点か。
まあ、気持ちの良い寝具に恵まれたおかげで、昨晩は良い夢を見れたのだし。出来ればこの寝具、また戻ったらあちらの部屋でも採用して欲し――
「……良いゆめ?」
そんなふうにして動きかけた思考が、そこでぴしっと音を立てて止まった。お気に入りの陶器を床に落として割ってしまった時のような、形容できない空白と喪失感が頭の中にもわもわと広がっていくのを感じる。
昨晩見た夢の内容のそれを、なぜかはっきりと思い出すことが出来たからだ。
シクル。あの、死に別れたシクルと談笑する夢だ。
「良い夢、って言えるのかなあ。あれは」
一言呟いて、考えてみる。 考えようによっては、確かに良い夢だったといえるかもしれない。
何せ久しぶりに彼女と話せた上に、自分の妄想の中とはいえ、美しく成長した彼女の姿を一目見ることが出来たのだから。そう、きっとあれは良い夢だったに違いない。
「良い夢だったと思うよ」
「うんうん。やっぱりそう思うよね……って」
不意に、隣から聞えてきた声。それに同意しながら、視線だけをそちらへ向けて――ディスは小さい口を開いたまま、凍りついた。
「おはよ、ディスくん」
笑顔。こちらの視線に気付いて、にこやかに挨拶をしてくるエンペルトが、いつのまにか隣で横になっているではないか。
彼女は、エンペルトは、ぐっと顔を近づけてくる。
思考の凍りついたままなディスは、何が起こっているのかを理解できない表情のままで……そのエンペルトに、口先が触れ合うだけの口付けをされた。
「……ええと」
少ししてなんとか搾り出した言葉は、やけに重ったるい。
これは、なんていうか。自分の理解の範疇を超えている気がしてならなかった。嫌に思考は冷静なのだけど、頭の一部分は現実から目をそむけまくっているのだ。
彼女のくちばしの感触があやふやに残っている口元を腕で拭ってから、ぼうっとなってしまう。
朝起きたら、なんか見知らないエンペルトが隣で寝ていて、しかも笑顔で挨拶言ってきた上におはようのちゅーしてくるとか意味不明すぎである。
なんとなくだけれど。この前、トレーナーと一緒になって見ていたとあるヒューマンドラマのワンシーンをディスは思い出した。
大事な恋人を亡くして、悲しみにくれる人間の男。
失意に落ち込む彼を励ましてくれるのは、かねてから仕事にプライベートにとかいがいしく世話を焼いてくれる女性の先輩で。
彼女から気晴らしにと誘われた酒の席で、ぐでんぐでんになるまで飲み、語り、泣き……。
そこで画面が暗転して、人間の男は目を覚ますのだ。次のシーンは朝で、ベッドの中。隣を見ると、いつも世話になっている女性先輩(裸)。おまけに自分も裸。
「やっちゃったかぁ~」
なんてつぶやきを、隣で一緒に見ていたトレーナーはしていた気がする。
少しして。酒のおかげで何も覚えていない男の隣で女性が目を覚ます。彼女は欠伸をかみ殺しながら笑顔で一言。
「昨晩は楽しかったわね」
――この状況は、あのドラマの展開と酷似してはいないだろうか?!
いやまて。冷静になるんだディス。そんなドラマティックな展開、そうそうあるはずもない。というか酒飲めない。
すぐに馬鹿な考えは改めた。
ディスは必死に頭を動かして考える。
彼女は、自分の名前を呼んできたのだ。そう、きっとどこかで知り合っていたに違いない。……では、どこで?
この町に帰ってきてから、ディスはトレーナーやその両親たちとしか会話を交わしていない。ポケモンにいたっては、まだ誰とも会ってすらいないのだ。
つまり、全くと言っていいほど心当たりが無いわけで。いや、残念なことにエンペルトに関しては覚えがあるのだが。けれどそれは、あってはならない覚えのような気もする。
脳裏に『夢』が交錯して、ありえないとすぐに判断する。判断はしたのだけど、動く口は止められない。
「つまらないことを尋ねるようだけど」
「うん?」
とりあえず起き上がったディスは、爪の先端で頭をぼりぼりひっかきながら、とても嫌な予感を感じ取る。
嫌な予感というのは不思議と当るもので、この場合に関して言うのなら、それはもう確信にも近い直感だったりする。もちろん、それを確かめるためにディスは彼女に尋ねるのだけど。
苦笑いを口端に滲ませてから、呟いた。
「あの、きみ。もしかしてシクルだったりする?」
「あら。当たり前じゃない」
「ああ……やっぱ、そうくるかぁ」
これまた、返事には曇りの無い笑顔。 起きたばかりで寝ぼけているのか、それとも自分の気が狂ってしまったのか。ここがまだ、夢の延長なのか。
考えると、それこそ際限がない気もする。いや、もしかしたら考えた時点で自分の負けが確定していたのかもしれない。何に負けたのかいまいち分らないけど。
と、そこで突然部屋にトレーナーが入ってきた。気持ち悪い位のニコニコ笑顔で睨み付けてくるという、なんだかすごく摩訶不思議な主人の表情に、これまた背筋が凍るような悪寒。
彼女は、告げた。
「朝早くからいちゃいちゃするのは構わないけど、出掛けるなら出掛けるでちゃっちゃっと朝ごはん食べてよね。し・ん・こ・ん・さ・ん?」
少しだけ奇妙な間があって、空気が張り詰めてきて、ようやくディスは理解したのだった。
「あ、ああ……ええと、そうだね」
「はーいっ」
つまるところそれは、暑苦しいからとっとと出て行ってくれ、という要望らしかった。
声を弾ませてごくごくふつーに返事を返すシクルの横顔を確認してから、ディスはさてどうしたものかと考え込むのだった。
☆ ★
そういえば、なあんて考える必要すら無く。今日という日は、少しばかりおかしくはないだろうか。
いや、死んだはずの彼女が自分の隣でにこやかに微笑んでいる、なんて時点で常識的に考えておかしいのだけど、そういうのも含めて全体的に、だ。
無理やり家から追い出されて、仕方なく彼女と件の商店街を散歩している。のだけれど、時刻が早いわけでもないのにどこもシャッターが下りたままなのだ。これは異常だ。
ついでに言うと、人間もポケモンも誰も居ない。いつも人通りが多くてガヤガヤと賑わっているのが特徴みたいな場所なのに、今日は人っ子一人としていない。これは異常なんだ。
……ああ、よくよく考えてみれば、出かけ際に食べさせられたトレーナーの料理も、いつもとは違って美味しかった。あれは天地がひっくり返ってもありえない。異常事態だ。
だから、違和感がある。絵に描いたような幸せと一緒に、狭い狭い箱庭に閉じ込められたような錯覚。
根拠も無く、さしたる理屈も無く。けれど断言できる。自分の置かれているこの状況は、間違いなく虚構なのだと。それは夢に近いようで、全然違う物のようにも思える。
というのも、ディスには少しだけ思い当たる節があったりするのだ。
生活的な、本能的な眠りではなく、あくまで誘導された無意識の中に放り込まれた状態。他のポケモン達の能力によって、戦闘中に無理やり眠らされた経験があるのなら、もしかしたらそれは分りやすいかもしれない。
眠りのようで眠りでない、深くて、甘くて、一度はまってしまうと易々とは出てくることの出来ない鳥かごの様な心地。
今おかれている状況は、そういった他意による睡眠によって引き起こされる夢幻の作用に酷似している気がしてならなかった。
そう結論付けることが出来たのならば、解答を導き出すこと自体は難しくもない。
恐らく自分は今、眠らされているのだ。他の誰か、ポケモンの手によって。
理由は見当たらず、誰がこんなことをやっているかなんて想像もつかない。けれど、そうであるならばいろいろと納得がいってしまうのも事実。
夢や眠りに干渉することのできる力を持つポケモンならば、もしかしたら現状に抵抗したり、解析したりすることができたのかもしれない。
けれど、平々凡々なサンドパンであるディスには、もちろんそんな能力なんて備わっているはずもない。目が覚めるまで、この架空の舞台の上で道化を演じるしかないのだろう。
いつから、どんなふうに眠らされていたのかはわからないけれど。すごくはた迷惑な話だ。
……目が覚めたそのとき、自分が瀕死の状態ではありませんように。ていうか、生きていますように。と、そんな考えを抱かずにはいられなかった。
まあ、自分でも半分程も理解できないような現実のことは放っておいて。ディスはディスで、この箱庭の様な世界には中々興味をそそられていた。
全体を見れば、この悪い夢はディスの故郷であるあの街を忠実に再現している。記憶の中にある思い出の街を、それはもう完璧に。
鏡写しにして転写したのではないかと思ってしまうくらいに、それは完璧だ。ある一点、本来ならば病院や墓地があるはずのそこを除いて。
そこは、本来病院があるはずの場所は、ぽっかりと何もない空き地になっていた。小さくもなく、それなりに大きい都会でもあるこの街には、不自然ともいえる規模の空き地だった。
一応あの病院は、彼女との思い出が幾つもある場所だ。そんな大事な場所がごっそりと削られている事になんともいえないショックを受けたディスは、ぽかんとだだっぴろい荒地を眺めるのみである。
「これ、どういうことなんだろ」
「さあ……わたし、よくわかんない」
さっきまでは煩いくらい纏わり付いてきた彼女も、何故かここにだけは全く関心がないらしい。
この夢の中のシクルは病気になんか縁はないのだろうから、それも仕方の無い事なのかもしれないけど。なんだか、その無関心は少し悲しかった。
笑って話すわけにはいかないだろうが、彼女と共有できる記憶や話題があるのだとしたら、それはここしかありえないだろうから余計になのかもしれない。
「ここにさ、病院があったような気がしたんだけどね」
「わたし、病院とかお薬とか大嫌いなの」
「はあ、そうなんだ?」
なんとなく、本当になんとなく、シクルがそういったものを嫌う理由の大本はディスにも理解できる。
この悪夢が何を元として世界と彼女を鏡写しにしているかまではわからないけれど、わりあいは現実と似偏っているのかもしれない。けれど、それは病院「だけ」がこの街から消え去っていることの理由にはならない。
と、そんな小難しいことを他人事の様にぼうっと考えていたディスは、すぐ隣から聞えてきた『ぐう』なんて腹の声で我に帰った。訝しげに隣をみやると、シクルが照れくさそうに笑っていた。
エンペルトの割にはスマートなおなか。そこを両方の鰭で抑えながら、彼女は舌を出してごまかし笑いを浮かべている。
「おなか減っちゃったなっ」
「……そうだね。僕も結構空腹かも」
はにかんで告げるシクルの表情を眺めながら、ここではじめてディスは空腹を自覚した。なんでかんで、実家を出てきてから既に数時間経過しているのだ。
彼女とのデート(と、呼んでいいのだろうか。これは?)は、思っていた以上に労力を消費していたのかもしれない。
しかしまぁトレーナーに食べさせられた朝食の時も感じたことなのだけど、この夢は身体的な感覚がいやにリアリティ帯びまくりのような気がしなくもない。つくづく、ここは謎だらけだ。
「何か、気楽に食べられるようなものがいいな~」
「気楽に、ねえ」
つまるところ、そのシクルの言葉はジャンクフードのような何かが食べたいという要望なのだろうか。
けれど、残念なことにディスもシクルも物を『持つ』ことに関してはこと不得手だ。手先の形状がお互いに独特なのだから、これはまあ仕方ないと言える。
故に、少々特殊な店を探す必要がある。つまり、特定のポケモンでも食べられるようにジャンクフードを加工してくれる店だ。
……それはある意味、限定的なサービスのようにも思える。
けれどこのさっむくてふきょーなご時世。ポケモンも立派なお客様と捉えている方々も多いようで、そういったサービスは着実に業績やら売り上げやら云々を伸ばしているという話を聞いたことがあるような気がしなくもあるようなないような。……まあ、多分探せば見つかるだろう。と、そう決め付けることにした。
「てゆーか、店なんてあったかなあ」
「探せばあるあるってー。行こ行こっ」
人っ子一人、というか冷静に考えたら街の何処の店もしまってはいなかっただろうかと思い返したディスは、空腹で限界らしいシクルにずるずる引きずられていったのだった。
誤字、指摘等ありましたら気楽にどうぞ。
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