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パラノイド

/パラノイド

作:稲荷 ?







やがて春の陽光差しこむプラットホームへと列車は滑り込み、私は双眸に写る色彩の鮮やかさ、そして華やかさに思わず驚いた。
千紫万紅に咲き乱れる花々と、ようやく綻び始めた桜の大樹がホームのフェンス越しに見え、それはまるで私のような客人を歓迎してくれているかのように思えたからだ。
それほどまでに見事であった。
「桜ヶ丘ー、桜ヶ丘ー」
駅員の手慣れたアナウンスが列車内に響き渡る。
私は手提げの鞄を自分の棘で破かぬように抱え、列車の扉へと歩み寄った。
ルカリオという種族は、身体の棘があまりにも面倒で、そして邪魔臭い。
それは仕方が無い事なのではあろうが、どうしても嫌になってしまうのだ。
やがて、空気の抜ける様な音が聞こえ、ホーム側の扉が一斉に開いた。
実に心地よい陽気である。
私はプラットホームに降り立つと、大きく背伸びをし、そして改めてフェンス越しの美しい自然を見つめた。
「ルシアさんでいらっしゃいますか?」
不意に、私の横から若い女性が声を掛けてきた。
厚手のスーツに営業用と思しき革の鞄はまさしくオフィスで働く女性といった風貌で、近年の女性の社会進出を謳うには模範的な恰好である。
ええ、と私は首肯し、社交辞令的な笑顔を向けた。
「ご連絡有難うございます。私、ミーシャの友人で、同僚だった若山という者です」
「噫、ミーシャのご友人でしたか、これはどうも」
私はお辞儀をすると、相も変わらずの笑顔で彼女を見据える。
「さあ、ここで立ち話も何ですから。あちらのお店にでも」
若山はそう言うと私を先導し、改札の近くにあるカフェへと足を踏み入れた。
レンガ造りで、恐らくは西洋をイメージでもしたのだろう。
天井にはプロペラがゆっくりと春の穏やかな陽気をかき回し、そして窓際では眩しい陽光が降り注いでいた。
「何か飲まれますか?」
若山はメニューを一瞥するとそう尋ねた。
私もメニューを瞥見するが、特にこれといった特徴も無いメニューで、結局は無難にアイスコーヒーを頼んでしまった。
もうすこし、何かインパクトのあるような飲み物を飲んでみたかったのだが。
ともかく、私と若山は互いにアイスコーヒーを注文し、そしてアイスコーヒーが来るまでの間に、私がこの町へと来る要因について話す事にした。
「それで...どうなのですか?ミーシャの捜索は?」
私の問いかけに、若山は深刻そうに首を左右に振った。
ミーシャというのは私の最愛の恋人の名前である。
丁度、今から3年ほど前になるだろうか、この明媚な都市の外れにある企業で、トロピウスのミーシャはこの若山と共にそこで働いていた。
しかし、彼女は唐突に、その姿を消したのだ。
特別な用事がある訳でもなく、ましてや自ら失踪するほどの理由すら私には皆目見当が付かなかった。
「警察も事件性は無いと言うだけで、ろくに捜査はしてくれません....」
全くあてにならない公権力である。
私は胸の内に微かな怒りが沸き起こるのを感じた。
「私の目撃証言は?」
ミーシャが消えてから3年が経つが、私は彼女が亡くなったなどという戯れ言は全く信じなかった。
なぜならば、私はこの眼で彼女の生きている姿を明瞭に見たのであるから。
一回だけではあるが、今から2ヶ月前、この町の公園で彼女がベンチに佇むのをしかと目撃しているのだ。
だが、その前後の記憶は妙に曖昧で、凡その人々は私のこの言動を疑わしい妄想だとか、あるいは夢だとして真に受けてはくれなかった。
しかし、私は鮮烈までに焼き付いたその情景を決して忘れる事が出来ず、警察へとその情報を提供したのである。
「さあ?私にも分かりません。生憎の捜査ですから」
どうせ、何ら進展していないに決まっている。
私は既に警察やらがミーシャを見つけ出すとは思えなかった。
それがこの3年間で知った答えでもあり、そして警察への失望の現れでもある。
やがて店員がアイスコーヒーを運び、そして机へと並べた。
異様に大きい氷が珈琲の中で浮き沈みしている。
「....自力で探すほか無いのか」
私は唸るようにそう言うと、アイスコーヒーを喉へと流し込んだ。
あまり美味しいとは到底言えず、逆に不味いとも断言できない、実に微妙な味わいと風味が口いっぱいに広がるのを、私は感じる。
「ええ、ルシアさんの方も進展なさそうですし....私も県警に問い合わせたりしてるんですけどねえ....」
若山は何かを考え込むように腕を組んで、顔を俯ける。
時刻は昼を少し回った頃、私はこの八方ふさがりに悲歎するしかなかった。
だが、ミーシャは必ずや無事なのだと思うと、幾分、心理的にも楽になれたし、そしてあの揺るぎない彼女の笑顔が鮮烈に脳裏へと蘇って来る。
「とりあえず、私はもう一度、当時の状況をまとめたいと思います」
「ええ、これからは警察もあてになりませんし、私と若山さんで捜索を根強く続けて行きましょう...」
私の呼びかけは実に悲痛な叫びに思えたが、若山は深く頷いた。
残ったアイスコーヒーを一気に飲み干して、私は財布を取り出そうとする。
しかし、若山は慌てたように私を制止し、そして微笑みながら言った。
「いえ、せっかくここまで来てもらったのですから、私が払いますよ」
そう言うと彼女は2人分の代金を取り出し、店員に帰る旨を伝え、そして代金を支払った。
私はなんだか申し訳ない気持ちになって、少し苦笑しながら詫びる。
だが、若山は和やかな表情で私に心配する必要は無いと言った。
寛大な彼女の心意気に私は敬意を覚えつつも、これ以上楯突く必要性もないと思った。
「それでは...私はこれで」
私は彼女の親切に孝順に礼をすると、カフェを後にした。
駅前の広場は閑散としていて、中央のバスロータリーには時間合わせでもしているらしいバスが二台ほど停まっている。
ふと、私は遥か前方の梅の並木道に強烈な既視感を覚えた。
まるで、ここは私の生まれ故郷であるかのような、帰巣本能のような不気味な感覚。
私はその違和感を気味悪く思いながらも、舞い散る梅を眺めるためと自分に言い訳をしながら並木道へと足を進める。
「.....ミーシャ?」
思わず口にした名前に、私は慄然とした。
そう、この鮮烈なイメージ。筆舌に尽くし難い奇妙な靄が視界にかかった感じは、まさしくあの時と同じだ。ミーシャを公園で目撃したときと全く同じなのである。
私には理解する事が出来た。
この言い様の無い感覚があると、必ずやミーシャは姿を現してくれる。
そのことに私は驚喜し、梅の木の舞い散る街路を覚束無い足で歩き続けた。
「ミーシャ?何処にいるんだ?」
何故かは知らないが、私には彼女の耽美な姿が眼に浮かび、そしてその息づかいまでもが聞こえてきそうなほどである。
「ルシア?」
耳元で囁くような、彼女の清く透き通った声が私の名前を呼ぶ。
思わず振り返ると、そこには梅の木の側に寄りかかるようにしてこちらを見つめるミーシャの姿があった。
「ミーシャ!」
彼女に会えた事すらも、今の私にとっては欣快の至りであり、それは猛烈な安堵を齎す物であった。
「何処にいってたんだ?この3年間、ずっと探してたんだぞ」
涙が頬を伝う。
無事でよかった。本当に良かった。
「ごめんなさい。私も辛かったのよ」
私はよろよろと彼女の元へと歩み寄る。
トロピウスという種族は、元から容貌魁偉でもあるが、彼女の華麗さはこの世に存在する如何なる宝石ですら叶わないであることは周知の事実である。
だから、恐らくはこの美貌が災いしたのだろう。
日常生活に支障を来すほどに誰かに襲われ、今まで私の元に姿を現せなかったに違いない。
「噫、私はずっと君を探してたんだ」
彼女へと私は抱きついた。
確かな温もり、これが妄想の類いではなく、実存するものだと確かに知った瞬間でもあった。
「私もずっとあなたのことを見ていた」
ミーシャの笑顔はそれはもう言い様も無いほどに素敵で、邪知暴虐な廃人ですら心が浄化され、捻くれて社会から排斥された哀れな人間ですら救ってしまうほどの華麗さがあると私は確信できる。
しかし、ミーシャはそうも言いつつ、なにやら深刻な顔をして、悲哀に満ちた表情で私に告げた。
「...お願い。私を助けて」
「どういうことだい?誰かに酷い事でもされたのかい?」
私は警察に連絡だとか、先ほどの若山に電話を入れるなどということはすっかり頭から消えてしまっていた。
それほど、彼女と遭遇したことは私にとって衝撃的であったのだ。
しかし、次にミーシャが打ち明けた告白は、私の正当な思考能力を一瞬にして弾き飛ばし、そして動揺させるに十分なものであった。
ミーシャは恐る恐る語る。
「私は、あの若山という人に、監禁されていたの」













私とミーシャが初めてデート先として訪れたのは「夕鳳館」という一風変わった植物園であった。
まるでビニールハウスをそのまま大きくしたかのような風変わりな施設で、温室には熱帯に生息する樹林が繁茂し、気温も少し動けば汗が噴き出して来るというような生暖かさである。
ミーシャのほうはトロピウスなのだから楽しめるのは当然で、何やら植物の解説だのを熱心にして回ってくれたのを、私は微かな記憶の一部として覚えている。
私としてはミーシャが喜んでくれればとここを選んだのだが、正直言って失敗であった。
なぜなら、あまりにミーシャが熱中し、そして思いのほかに植物に詳し過ぎて私には全く理解できなかったからである。
「ねえねえ、ほら、この花を見て!」
そんなことであるから、館内で作業に当たっていた職員もただ苦笑いを浮かべ、ただ私に憐憫の眼を向けるだけであった。
「これはベンガルヤハズカズラって言ってね。花言葉は誠実っていうの」
私は彼女の指差す先を見つめ、そしてなるほどと頷いた。
集団になるように咲き乱れる花々は確かに美しいが、私にはその魅力にどうも馴染めなかった。
特に花粉症を一時期患っていたせいか、花にはあまり良い印象が無い。
それよりも、私は彼女のすっかり歓喜しきる表情を横目で見つめていた。
もしかすれば、私はこの植物園に咲き乱れる数多くの花や正しく熱帯というような植物を眺めるより、彼女を見つめていた方が幸せかもしれない。
私はそんな思いに駆られつつ、ふと腕時計に目をやった。
時刻は3時を過ぎた頃で、普段から甘いものが大好きな私が小腹を空かす時間でもある。
「そろそろ、軽く甘いものでも食べないか?ここの植物園にはカフェもあるらしいし」
そう私が何気なく提案すると彼女は実に毒々しい極彩色の食虫植物から顔を上げ、私の双眸を見つめると
「カフェ?そんなものまであるの?」
そう尋ねた。
「うん、ちょっとまって、パンフ出すから」
私は自分の棘に引っ掛けておいた鞄の中から植物園のパンフレットを取り出すと、施設案内の欄を指差して彼女に渡した。
「....ああ、本当だ。パンケーキだとか、フルーツケーキとか、結構あるみたいだね」
彼女は私を見て微笑む。
まるでそれは子を見る様な母親の表情であり、決して憫笑だとか嘲笑の類いでは無い。
「それじゃ、カフェ行く?」
「うん。私もお腹へって来ちゃったもんね」
私は彼女の同意を取り付けると、やや早歩きになって植物園の温室ホールを飛びだした。
特別に一刻もこの場所から立ち去りたいだとか、そう言う類いの感情からではなく、ただ単純な食欲によってである。
「いや~、温室ホールって意外に暑いんだね」
外に出るとその違いは歴然としていた。
この時期はまだ冬なので外は枯れ木ばかり、そして今にも途絶えそうなほどに弱い日光が降り注ぐばかりなので、気温は10度にも届いては居ない。
だからより一層、植物園の温室は暑く感じられたのだ。
「それに熱帯雨林だもん。そりゃあ暑めに温度設定してるよ」
ミーシャはそう言いながら、当然であると頷く。
「そう?暑すぎるのも人間に優しく無いなぁ」
人間では無いくせに私はいかにも人生経験が豊富そうな人間らしく喋った。
「もう、ルシアはルカリオでしょ?」
案の定、ミーシャは食いついて来たし、私としてもやりやすい。
やがて大きなカフェが植物園のおみやげコーナーなるものの近くにあるのが見えた。
パンフレット通りの和風のお店ではあるが、何処か西洋も取り入れた和洋折衷となっていて、奇妙な違和感を覚える。
大正時代のようなハイカラさがこんなにも全面に滲み出ているのも珍しい。
私はそう思いつつカフェのテーブル席へと足を踏み入れた。
客入りはあまり良く無いのか、実に閑散としていて、壁には西洋の無名絵師が描いたと思しき、蛸の生々しい絵が飾られている。
「これは凄い」
私はそのぬめぬめとした足をくねらせる蛸の余りにもの出来に深く感嘆し、そして驚嘆の声を上げた。
まるで、何処か冒涜的なものすらをも感じさせる悍ましさは、食欲を失わせてしまうほどだろう。
ミーシャもその絵を見て顔を顰めている。
「ルシア。あれなんだと思う?」
ミーシャは蛸の悍ましい絵から眼を離し、今度は隣の席の壁に描かれた奇怪な半魚人の絵を指差した。
これまた不気味で、彼等が人間の姿に近いような化け物であるということは明瞭に知る事が出来る。
醜い表情のせいなのか、私にはこの半魚人共が喜怒哀楽すら持ち合わせているのかどうか疑わしく思えた。
「うーん....本当に気持ち悪いねえ。いっちゃなんだけど、悪趣味?」
そんな酷評を吐いていると、店の店員らしき男が一人現れ、正真正銘の無色の水を机へと乱雑に置いた。
話でも聞かれたのだろうか。
私とミーシャは急に気まずくなって、水を飲もうとは思わなかった。
普通に見れば、この水はただのミネラル豊富な水なのだろうが、この不気味で実に忌々しい絵を見たからには、平常で飲めるほど鈍感ではない。
「....あの」
私は唯一の客と思しき年配の人間に小さく声を掛けた。
色褪せた黒の薄汚れたコートを羽織、ぶかぶかのまるで作業着のようなズボンを履いた年配の男はこちらの呼びかけに気づき、訝しげに私を見つめる。
よく見れば手には紅茶の入ったカップが置いてあった。
「ここのお店に初めて来た者なんですが...あの絵は?」
私は彼に尋ねると彼は薄ら笑みを浮かべた。
私はそのとき思わず息を呑んだ。
彼の薄汚いコートやら、ぼさぼさの人間らしい不気味な黒髪からは凡そ思いつきもしないほどに顔立ちが整っていたのである。
まるで西洋芸術の彫刻像とでも形容出来るほどに華奢で、世界で言えばハリウッドスターでも匹敵するほどの老人あった。
「ああ、あの絵ね。ダーレスっつう人が描いたらしいんだが、ここの前のオーナーが気に入ってだねえ、まあ、少し変わったオーナだったけど」
「そうだったのですか..いやはや、実にリアリティがあるというか、なんだか凄まじい絵だなぁと思いまして」
「そのおかげで、この店もあんまり人入らねえんだよ。閑古鳥は幸い啼かずとも、此処に来るのは常連と、アンタらみたいな迷い者、そして物好きだけさ」
そう言うと男は紅茶を飲み干し、代金をカウンターに置くと、ミーシャを見つめる。
「.....」
ミーシャは当惑した表情を浮かべ、場を乗り切ろうと透き通ったミネラルウォーターを口に含んだ。
「あの?私の彼女がどうかしましたか?」
私は少し不快感を露にして言った。
それもそのはずで、見ず知らずの男に彼女を凝視されているのだから、男として私の憤りは正当で理にかなっているもののはずだ。
だが、男は手を挙げて敵意の無いことを知らせると、少し戯けつつ
「実に可愛い奥さんだ。あんた、恵まれてるよ」
そう言った。
私は驚き、戸惑ったためか何と返せば良かったのやら、皆目見当もつかず、結局、恬淡なとした人もいるものだと思いながら彼を見送るばかりであった。
ミーシャはミーシャで壁に飾られた不気味な絵をちらちらと見つめ、そして不安げに私の双眸を見つめる。
「そろそろ行く?」
「うん...行こうか」
私とミーシャは結局何も食べずに店を逃げるよう去り、先ほどの巨大な温室ホールへと足を運んだ。
温室ホールは相も変わらずの暑さで私は顔を歪めつつ、植物園の循環しているという水道を睨んだ。
例の奇妙な店が出した水を飲んだ彼女はともかく私は何も飲んでいないのだから。
「喉でも渇いたの?」
私は首肯する。
「さっきのお水飲んどけばよかったのに。微かなラズベリーみたいで美味しかったわよ」
「そうかい、私も飲んでおけば...」
そうして不意に私は気がついた。
ミーシャはトロピウスだ。
トロピウスというのは種族上、首の根元に美味しく甘い果実を実らすのだが、ともなればミーシャも甘い果実を実らすのではないか。
「ミーシャ...そういや、首の果実って食べれるんだよな?」
「え?」
突拍子も無いことを聞くものだから彼女は驚いたが、私はなおも尋ねる。
「食べてみていい?」
「私の果実を?」
「う、うん」
妙に当惑する彼女に私は焦燥感を覚えた。
もしかすれば首の果実を貰う事はなにか、重大な意味を孕んでいるのかもしれない。
大学の講習で種族文化学でも取っておけば良かった。
そう今更後悔しても彼女は微笑みを浮かべながら自らの首を私へと晒す。
あまりにも無防備な恰好に、私の心拍数が大きく跳ね上がるのを感じた。
なんと美しいのだろう。
「どうぞ」
私は黄色い果実へと手を伸ばし、しっかりとした手応えの果実を握った。
甘い芳香が微かにあるような気がする。
「ん...」
果実をもぎ取ろうと力を入れると彼女はくすぐったいのか身を捩らせ、そして笑わまいとしている姿は実に愛おしい。
私は少し果実を引っ張ったり、捻ったり、果ては撫でてみたりとあれこれしていると、彼女が痺れを切らしたのか口を開いた。
「もう!く、くすぐったいんだから!」
彼女は私の腕を払うと笑いを堪えていたせいで眼に溜まった涙を拭う。
どことなく楽しそうだ。
「そんなにくすぐったい?」
「ルシアったら、途中からおもしろがってたでしょ!もうあげないからね!」
少しご立腹のミーシャはそっぽを向いて温室ホールのサボテンコーナーへと進んで行く。
甘い果実は諦めるとしても、彼女を一人にしてはいけない。
夢中な事には徹底的に入り込む彼女はきっと閉園時間でも居座り続けてしまうだろう。
「ミーシャ、悪かったよ」
私は彼女を追いかけるべくサボテンコーナーへと明るい笑顔を浮かべつつ進んだ。
それからの記憶は実に曖昧であることが悔やまれるが、ともかく楽しい一日を過ごせた筈だ。














殺さねばと決意した。
昨日、ミーシャから聞いた驚愕すべき事実は、私のこの3年間をぶち壊すものであったし、そして警察当局が無能な理由もこれではっきりした。
あいつは、何一つ働いてなどいなかった。
むしろ、私の言動やら、必死にミーシャを探す行為を無駄だと愚弄していたに違いない。
「なあ、ミーシャ」
私はホテルの一室、頼んである日本酒を一口、口に含んでからそう言った。
手には包丁が握りしめてある。
「なに?」
ミーシャはベランダ脇の小さな洒落た椅子からこの薄汚れた町を見つめていた。
「仇を取るからな」
私は無言でテレビを付ける。
途端に爆音が鳴り響き、大音量でかつてミーシャと共に出かけた植物園の華やかな過去の映像が写し出された。
ミーシャがなんと言おうと、私は構わない。
若山を殺す。それが最早、私がこの退廃的都市に訪れた最大の目的である。
「おい!今何時だと思ってんだ!うるせえぞ!」
玄関から怒号が聞こえ、私は包丁を見えないところに隠すと、わざと明るい笑顔で外へと応対した。
「はい」
「はいじゃねえぞ!てめえ!音量考えろ!くそうるせええ!」
私は相変わらずの笑顔を崩さない、どうせ、私の言う事など今まで信頼されなかった。
彼女の生存を、そして事件性を証言しても、誰も信じてはくれなかった。
「朝の5時だぞ!寝てるヤツもいんだろが!早く下げろ!屑!」
罵倒の言葉は無視しつつ、私は無言でテレビの音量を0まで下げた。
もう、過去の思い出は何も喋らない。
「にやついてんじゃねえよ、気持ち悪い。一人でなにしてんだ?この迷惑ルカリオめ」
私は問答無用で扉を閉めると、外出の準備をし始めた。
既に、若山とは連絡を取ってある。
なんとしてでも、私は報復するのだ。
「それじゃあ、ミーシャ」
「若山を殺すの?」
「ああ、だって、君に酷い事をしてきたんだろう?」
私は穏やかな笑みのまま、彼女へと顔を向けた。
ああ、なんと哀れな事か。
ミーシャは自由を奪われ、そして恐らくはきっと何処か汚い牢獄にでも閉じ込められていたに違いない。
私はミーシャの不幸を慰め、そしてあの獰猛で野蛮な若山を殺さねばなるまい。
外は微かに太陽が昇り始め、桜の美しい木々がこのホテルからは眺める事が出来た。
いつしか、あの騒がしい男も玄関前から退散し、私は待ち合わせの場所であるホテル下のエントランスホールへと向かう。
私の決意は揺るがなかった。
美しい装飾の施されたエレベーターに乗り、鏡細工を見つめ、私は鞄を抱きしめた。
この鞄の中には包丁が隠されている。
憎き野蛮なる若山は、私がこの手で殺すのだ、切り刻んで、喰い殺して、どうしようもなく痛めつけたとしても、私は若山を許す事など出来ない。
エレベーターが軽快な音を鳴り響かせ、エントランスホールに到着したことを告げた。
「....殺す」
重厚な扉が開き、華々しいエントランスホールへと足を踏み入れる。
一面ガラス張りの向こう側からは眩しいほどの朝日がこちらに降り注いでいる。
桜の木々がざわつき、花びらが舞い散っているのも見えた。
「あ!ルシアさん!こっちです!」
若山がこちらに手を振るうのが見えた。
私は鞄の中に手を入れ、そして早歩きで若山に迫る。
さあ、覚悟。
「....若山」
「どうしました?」
私は静かに包丁を取り出し、若山を冷酷に睨んだ。
ミーシャの苦しみを、こいつにも味合わせたい。
どれほど苦しかった事か。
「る、ルシアさん!ど、どうしたんです?包丁なんて、そんな」
「うるさい。さっさとくたばれ...この野郎」
周囲の客の悲鳴がエントランスホールに木霊する。
スタッフが怒号を上げ、私を威嚇しているが、そんなもの、私に効果があるはずがない。
「待って!」
突然、ミーシャの声が私を過った。
見ればエントランスのエレベーターからミーシャが飛びだして来るではないか。
「ああ!ミーシャ!来ちゃ行けない!君には見せたく無いんだ!」
この隙に若山はソファーの後ろからジリジリと距離を取り始め、そして叫んだ。
「あなたは狂ってる。あなたは何を見ているんだ。ミーシャなんて何処にも居ない!」
私の鼓動が、どくんと高鳴る。
私には彼女が見えるのだ。
だから、彼女は生きている筈だ。
それは疑う余地のない真実であるし、如何せんともし難い現実なのだ。
そのはずだ。
そうであった。
ミーシャの姿など、何処にも存在などしない。
始めから、これが酷い偏執病の類いで、これが私の常軌を脱するほどの重篤な症状を齎してしまったのだと。
先ほどまではあれほどに鮮明に動き、そして歴然と私へと語りかけていたミーシャは、もう、この世の中には存在すらしていない。
ただくぐもったミーシャの声が、虚しくわんわんと私の頭で鳴り響いている。
「おい!貴様!武器をすてろ!」
警備員の怒号。
今の私にはそれすら届かず、眼を見開き、もはや正気ではない双眸で若山を見つめる。
どうやら、私は重大な過ちを犯していたようだ。
だけど、私はミーシャに会うためならば、例えどんな辺境の地でも会いに行けるであろう。
ここまで探したのだ。
きっとこの町には居ないし、この世界にすらもういないのであろう。
「やめろ!」
だから捜さなければならない。
眩しい朝日を凛と浴びながら、私は自らの頸動脈に包丁を突き立てた。










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Last-modified: 2014-04-05 (土) 02:36:00
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