ハレーションの魔法
水のミドリ
3年前の記録的な猛暑は、今年も塗り替えられることはないみたいだった。
けど暑いものは暑い。暑さ寒さも彼岸まで、とは言うけれど、今年はお盆になっても熱気が陰りを見せず、残暑なんてまだ始まってすらいないみたいだ。
それをベンチで隣に座る親友のリテラちゃんに言ったら、「お彼岸とお盆は別物だよ?」と返されてしまった。
「夏のお彼岸は秋分を中日とした7日間、つまり9月の20から26に先祖の霊を祭る行事。秋分は太陽が真東から昇って真西に沈むでしょ。それが、彼岸と
「ふぅん」
「ふぅん、じゃなくてあかり、常識だよ~? しっかりしなよ~、もう……」
呆れ返ったリテラちゃんは、私の肩にもたれかかってくる。鳶色の眼が、遠慮なんて知らないように覗きこんできた。小さくて熱く、掌の中の小鳥みたいに生命力にあふれていた。
「暑苦しいよ、やめてって」
言ってるのに、リテラちゃんはお構いなしに私の片側だけつけている髪留めをいじる。その力強さが心地よい。
私の肩越しに、遠くの木を指した。
「知ってた? バナナの木って、老齢になったトロピウスが、人間の子どもたちがいつまでもフルーツを食べられますように、って願ってできた果物なんだって」
「ふぅん」
「も~」
彼女の生き字引っぷりは今に始まったことじゃない。もう8年の付き合いになるけれど、どこで知識を吸収してくるんだか、そういう風習だとか、ものの仕組みだとかにめっぽう強い。ジャンルも様々で、ポケモンに関することはもちろん、おととし大学に入ってゆくゆくは学者になるつもりだと言っているから、もう私がついていけないところまで世の中を知っているんだろう。
私とはまるで大違いだ。3年前の夏をくよくよ引きずっている私とは違って、リテラちゃんはずっと前を向いている。その太陽に透けた金髪を垂らした後ろ姿が、背中から照り付ける太陽よりも眩しいな、なんて思って。
はあぁ~~~っ。私は長い溜息をついていた。
海沿いの植物園は、外気より温度も湿度も2割増しくらいで高いので、私たちは3年前の夏に逆戻りしたみたいだね、なんて肌を汗で湿らせながら笑っていた。お盆に入って海にドククラゲが増えたせいで観光客がまばらになって、しかも砂浜から少し外れた東の高台にあるから人はほとんどいなかった。全面ガラス張りの球状ドームからは、潮風にさびれた海の家が見える。
高い灌木の根本に設置された鉄板みたいに熱くなった木のベンチに並んで腰かけて、自販機で買った缶のオレンジジュースを飲んだ。リテラちゃんはビールがいいよ~、と駄々をこねていたけれど、流石に並べられていなかった。手にしたそれはすぐに冷たさを失って、ぬるくなったのを飲むのも嫌だから一気に空にしてしまった。リテラちゃんのポケモンである
植物園の目玉としてつくられたらしい、外国の有名な瀑布を似せて作られた滝に、有り余る光が反射してキラキラ見える。それだけでも眩しくて、私は手で
「最近、夏本番というか、日差しがいやに強いねぇ。直射日光を防いでも、照り返しで日焼けしそうだよ。……あ、ありがとうね、儚凪」
「リテラちゃんも儚凪も、変わらないところは変わらないね」
私は頼まずとも陰を作ってくれる儚凪のおなかに手を当て、ぽんぽんとさすった。弾力のある皮膚はゴーストタイプらしく黒っぽいから、私たちより熱をよく吸収するだろうに。緑に囲まれた空間で、そのずんぐりむっくりとした影みたいな体は、少し不釣り合いなように思えた。
「……」
「あはは、こいつはわたしよりあかりに懐いているからなぁ。ほれほれ、もう、あかりの仔になっちゃいなさい」
無口な儚凪の大きな腕をリテラちゃんはばしばし叩いて、抗議の目線を向けられていた。彼女の冗談に、私はいつも助けられている。長年連れ添ったパートナーとは、そう簡単に別れられないのに。
「……で、新しい仔を迎える気にはなった?」
「……ううん」
「……そっか」
「……」
ふたりと1匹の間に、沈黙が訪れた。長い長い静寂。滝が落ちる重低音に、砂浜に響く波の音が混ざり合い、溶けていくようだった。木々の息遣い。30を超えたくらいのOLらしい女のひとがひとり、ごついカメラを片手に通り過ぎていった。
ふんわりと泡立てた生クリームみたいにでたらめな雲が、吸い込まれるような青空と綺麗なコントラストを成している。
ざわざわと、植物園全体の木が揺れた。
「ねぇ、リテラちゃん」
「なーに?」
「ここ、屋内だよね。なんで今、風が吹いたの」
「ん~?」
停滞した空気を打ち破るように、リテラちゃんはうーん、とわざとらしく声を上げて、ひとつ大きく伸びをする。
「魔法だよ、魔法」
「またそれ?」
「うん。夏の魔法。こういう日差しの強い日は、魔法みたいに不思議なことが、さも当然のように起こるものさ。確かに存在しているけど、目に見えないし触れられない。そういった、現実とはちょっと異なる位相にあるものが、ふとした瞬間にかげろうの間から現れるんだ」
「……」
べたつくのを私があまりに嫌がるものだから、背後でうつらうつらしていた儚凪を呼んで、その広い背中にもたれかかっていた。
「何それ。リテラちゃんこそ、
リテラちゃんはどんどん世界のことわりを吸収していくけど、そのほかのことはまるで子どものままだ。知らないことはすべて「魔法」で片づけてしまう。久しぶりにそれを確認できて、私は嬉しかった。
本当だよ~、と頬を膨らませるリテラちゃんに呆れ返して、私は背後に広がる海を見た。
そのとき。さっきよりも強い風が吹いた。
掠れる葉の隙間から、太陽が乱反射して私の眼を捕らえた。
「わっ、眩しっ」
縁側で伸びる子犬のようにやる気ない声で、リテラちゃんが言った。
「そうだねぇ、こういう日は、ハレーションがすごい」
「ハレーション?」
聞き慣れない言葉に、私はおうむ返しに言った。うん、と小さく頷いて、リテラちゃんは腰のポーチからデジカメを取り出す。
「ふつう太陽は丸いけど、レンズの曲面を通して見るとウニみたいに光が拡散するんだ。お日さまを絵に描くとき、丸の周りにギザギザをつけるでしょ、あれだよ。ほら、植物園のガラスが曲面になっているから、今わたしたちが見ている太陽もちょうど同じことが起きている。木漏れ日とかにそれが起こると、キラキラした輝きが無数に発生して……。何というのかな、子供がでたらめに描いた星空みたいになるのさ」
リテラちゃんの方を向くと、儚凪の赤い一ツ眼と目があった。そういえば、儚凪の眼も小さな太陽みたいに紅く輝いているんだな、と思った。
「写真撮ればわかるよ。ついでに、記念写真。電話はちょくちょくしてるけど、会うのは1年ぶりだもんね」
リテラちゃんはベンチからさっと立ち上がると、ととっ、と駆けて池の縁にデジカメを置いた。何度かいじって角度を調整すると、また同じようにととっ、と駆け足で私の隣に座る。美しい金髪が踊る。
「ほら、ピースピース! 笑って!」
身体をぎゅっと寄せて、リテラちゃんは無理やりに肩を組んで笑って見せた。彼女の底ぬけた明るさは、いったいどこから来るんだろうか。可笑しくて、つい笑ってしまう。
3,2,1……かしゃり。
フィルムを巻き戻したみたいにリテラちゃんは小走りでカメラを取ってきて、私に小型の液晶画面を見せてくれた。映っているのは、ベンチに座ってぎこちなく笑う、片側だけ黒髪を留めたショートの私と、その肩に腕を回して笑うリテラちゃん。そのふたりを見てちょっと困惑した表情を浮かべるヨノワールの儚凪。照り付ける太陽と、優しく揺れる常夏の国の植物。夏休みをスナップしたような、ちょっと特別な、たわいもない日常。
それは、水平線のむこうに沈んでゆく太陽をみんなで砂浜に座って眺めていた、3年前のあの夏のようで。
私の眼は、そこにいるはずのないウェダの姿を探してしまっていて。
「ほら、太陽がイガグリみたいでしょ? あれ、ウニって言ったっけ。まあいいや、これがハレーションって言って、わたしがカメラを撮るといつもこうなっちゃうんだ」
説明に夢中になっているリテラちゃんの陰に隠れて、私は必死に涙を堪えていた。
ウェダはもともとお母さんのポケモンで、私が10歳になったときに譲ってもらった。
つまりそれはウェダがかなりの老齢なことを示していたんだけれど、妖精のグループに属するウェダは見た目もやんちゃな性格もあまり老けないものだから、もっぱら私は妹ができたかのように喜んでいた。
高2の夏休み、私とリテラちゃんはふたりだけでここに来た。いや、ふたりと2匹だった。その時撮った写真はまだ大切に持っている。ヤシの木が並ぶ海辺のベンチに座るすっかり日焼けした私と、今と変わらないくらいはつらつなリテラちゃん。その横では、もうすっかり進化して2メートルを超えた儚凪をからかう、30センチに満たない太陽――晴れの姿になったウェダが戯れていた。
それが、私とリテラちゃんと儚凪とウェダ、ふたりと2匹が揃った最後の写真になってしまった。だから、目について離れない。
――今日撮った写真の構図と、そっくりなんだ。
旅行から帰ってきてすぐ、ウェダが体調を崩した。そのときはお土産に買ってきたお菓子を勝手に食べられて、またお気に入りだった私の髪留めを失くされたりとかで、私とウェダは仲たがいをしていた。
「体調悪いんでしょ? 看病してあげなくていいの?」
「いいの。いつもみたいにまたすぐケロリとした顔でふざけてくるんだから。……儚凪?」
実家を飛び出してリテラちゃんちに無理やり押し込んできていた私は、いつも冷静でどかっと腰を据えている儚凪が、珍しく落ち着かない様子でいるのに気が付いた。
「ウェダの風邪、移ったのかな……?」
「……」
視線をマンガ本に戻した瞬間、儚凪は業を煮やしたように壁をすり抜けて飛び出していってしまった。
「え、ちょっと、どこ行くの!?」
アイスキャンディを咥えたままサンダルをつっかけて走るリテラちゃんを追いかけて、着いた先は私の家。その中から、すすり泣くお母さんの声が聞こえてきて。
晴れ、雨、雪雲にめまぐるしく姿を変えながらも、ウェダは最後には笑って逝ったのだと、お母さんは静かに言っていた。
うそだ。最後にちゃんと仲直りしておけばよかった、なんて、思わなかった。これも、どうせ私をびっくりさせるいたずらか何かだと思って。どうせ明日になったら、冷蔵庫の下あたりからひょっこり出てきて、よく寝た、なんて顔をしてくれるのだと思って。
8月15日。3年前の今日のことだ。
「あかり、ごめんね、あかり。でも……あかりがそんなになって泣くところ、初めて見た」
背中をさすってくれるリテラちゃんの温かさで、私はようやく派手に泣きじゃくっていたことに気付いた。顔の周りがべたべただ。手の甲で拭いていると、灰色の手がぬっ、と出てきて、私に花の刺繍のハンカチを渡してくれた。
「ありがとう、儚凪。えっぐ、それにリテラちゃんも」
「……」
夏の魔法。こういう日差しの強い日は、魔法みたいに不思議なことが、さも当然のように起こる。本当だ。
3年間、どうしてもウェダがいなくなったなんて信じられなかった。それから1回も泣いたことはなかったのに、なんで今になって、涙が止まらないんだ。
ぱん、と乾いた音が響いた。リテラちゃんが手を叩いて、私の前に立っていた。ずいぶん低くなった太陽が、彼女の白い肌にほんのりと赤味を差している。
「はいはーい! くよくよモードはここまで! そんなに会いたいなら、ウェダちゃんの霊を私に乗り移らせて見せましょう!」
「うん、よろしく」
無理やり明るく振舞ってくれるリテラちゃんに、私は笑いながら言った。リテラちゃんは賢いし、子供みたいだし、優しい。
「はい、承知しました!」
と言って黙った。あまりにも沈黙が長いから、どうしたのかな、と思って拭うハンカチの間からちらり、と様子を見た。
リテラちゃんが抱きついてきた。ハグというよりも体重を預けるような、そんな倒れ方だった。
「ど、どうしたの?」
「あーちゃん、ごめん」
瞬間、体がぎしっとこわばった。
もう、悪い冗談はやめてよ、と言おうとした声が凍りつく。ふざけているのはわかっているのに、リテラちゃんの身体が触れているところから、背筋がぞおっと寒くなった。暑いからじゃない、脂汗が出た。
あーちゃん、という響きが、呼び方が。生前夢に出てきたウェダの喋り方とおんなじで。
「お土産のお菓子、勝手に食べてごめん。大事な髪留め、失くしちゃってごめん。それからもっといろんなこと、謝れなくてごめん」
私はいよいよ怖くなって、胸の中に納まるリテラちゃんの身体を支えたまま動けなかった。滝の音がとても遠くに感じる。私たち以外誰もいない西陽に赤く染まった植物園が、まるく切り取られて宇宙空間に放り出されたみたいだった。
か細い声を絞り出すように言った。
「リテラちゃん、どうしたの? 何で知ってるの?」
言い知れぬ恐怖で、せっかく押しとどめた涙がまた溢れ出してきた。そのとき。
「ヨの!」
急に意識が開けたようだった。儚凪が、大きな手で正面を指して叫んでいる。珍しいこともあるな、なんて思う間もなく、私が顔を上げると、
「うそ、でしょ……」
どうどうと流れ落ちる滝を背にして、晴れの姿になったウェダが、こっちを見ていた。
私は叫んでいた。
「ごめんねっ!! わたしこそ、つまんない意地張っちゃってごめん! お菓子とか髪留めとかで怒ってごめんね! 最後の最後に、一緒にいてあげられなくてごめん! それと――」
せめてあと1秒、消えないでくれと願いながら。
「――いままで、ありがとう……!!」
微かに笑ったように見えたあと、西陽に負けないくらい鮮やかなウェダは、ほどけるように消えてしまった。
陽が沈んだ。
のそり、とリテラちゃんが起き上って「え?」と呟いて、きょとんとした眼で私を見た。
「霊とか、でたらめ言ってただけだよ。泣いてるの? ごめん」
「ううん、何でもない。ただちょっと、思い出していただけ」
ならいいんだけど、とリテラちゃんは言って、のろのろと帰りの支度を始めていた。もうあたりは夜のいろが滲みだしている。
儚凪をちらっと見ると、何もなかったかのように海を見て佇んでいる。
「お、儚凪も傷心かい? だって、ずっとウェダちゃんのことすきだったもんねー?」
「え、そうなの!?」
「え、そうだよ。そうだよな、儚凪」
「……のー」
儚凪がこれまた珍しく真っ赤になって照れるから、わたしは緊張の糸がほぐれて、植物園に響き渡るほど大声で笑ってしまった。今日のあかり、はたから見たら情緒不安定のひとだよ、とリテラちゃんにからかわれても、何でもいいような気がしてきた。
後から聞いた話だと、それはゴーストイメージと言われる光のいたずらだそうで、ウェダの姿を見たというならそれは、流れる滝をスクリーンにして映し出された太陽の虚像だよ、とリテラちゃんは笑っていた。
けれど、私は思うんだ。夏の魔法が私とウェダを最後に結び付けてくれたんだって。
それに、ヨノワールは魂を運ぶともいわれている。そんな紳士な儚凪が、私のために
「ねぇ、儚凪もそう思うよね?」
「……」
やっぱり動じない儚凪の横顔が、太陽のような眼を細めて笑ってくれた。
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