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ハルノヒ

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ハルノヒ

四月一日

 目覚めたのは、ちょうど六時半だった。
 染み付いた生活習慣は、目覚ましなどなくとも同じくらいの時間に意識を覚醒させる。そもそも目覚ましに起こされるのが嫌いで、ある時間に目覚ましをセットすると、その時間よりも少し早く目が覚めてしまうからいけない。
 もう少し眠っていたい気持ちをぐっとこらえ、布団から出て立ち上がった。立ち眩みが起こらない程度に軽く伸びをして、布団を畳む。まだ全身に気怠さが残っているが、朝日を浴びれば多少はマシになるだろう。
 トースターに食パンを放り込み、スマホを起動してネットニュースを開いた。新年度最初の日だというのに、一面には新型ウイルス感染症がどうだの政治家の汚職がこうだのと陰鬱なニュースばかりが載っている。これから自分が向かう場所は大丈夫だろうか。一抹の不安を吹き飛ばすようにトースターがチンと鳴いた。うちで鳴くのは電子レンジとトースターくらいだ。ポケモン禁止のマンションだから、聞こえてくるポケモンの声と言えば、電線で鳴くポッポや散歩中のガーディのものくらいである。
 トーストを齧りつつ、なにか明るいニュースはないものかと探してみた。最近のスマホには一台につき一匹ロトムが入っているらしいが、大学を出たばかりの身には値が張りすぎた。だから手動で起動して、手動でインターネットを立ち上げ、手動でページをめくらなければならない。いつものことなので、大して不便とも思わないが。
 ようやくジョウト地方の自然公園で桜が満開だというニュースを見つけて、そういえばそんな時期かと思いを馳せた。桜関連で流れてきた記事の写真には、チェリムが桜の木に集まって、あたかも満開の桜のような光景が写っていた。まだ寒さの残るシンオウ地方では、桜の開花よりも前にチェリムを木の枝に並べて躍らせる行事があったらしい。それも昨今のウイルス騒ぎで自粛されているようだが、習慣づいた行動を無理に止めることはできないようで、野生のチェリムが自発的に桜の枝で踊っているという。なんともほほえましいニュースである。
 さて、あまりのんびりしているわけにもいかない。今日は入社式。社会人一日目から遅刻するわけにはいかない。
 真新しいカッターシャツに袖を通し、ネクタイを結ぶ。最初のうちこそうまく結べなかったものの、今となっては手慣れたものだ。スーツとスラックスを着ければ、見た目だけは立派な社会人である。鞄を開けて持ち物を確認したら、後は家を出るだけだ。
 忘れずに鍵を閉め、最寄りの駅に向かう。道中、同じような卸したてのスーツを着た若者を見ては、同じような境遇なのかと親近感を覚えた。
 駅まではそれほど遠くはない。商店街を通り抜ければすぐそこにある。この時間、電車は数分に一本のペースでやってくる。随分と便利なものだ。元々住んでいた場所では、通勤時間帯でも一時間に一本あればいい方だった。少しでも寝過ごせば遅刻確定であった頃を思えば、随分と気が楽だ。
 ほどなくしてやってきた電車は、随分と混んでいた。降りる気配がないあたり、鮨詰め状態の車内にどうにか体をねじ込まねばならないらしい。社会人一発目からそんな苦行にもまれねばならないのかと辟易した。しかし、少し早い時間に家を出たおかげで、少しくらい電車を遅らせても大丈夫だろうと高を括って、最初の電車は見過ごした。
 しかし、次にやってきた電車も、既に既に満員だった。乗り過ごそうと思いつつ眺めていれば、駅員が無理やり乗客を押し込んでいる。すると電車内の乗客たちがぐにゃりと歪み、形を失って一つになっていく。後に押し込まれた乗客も、形を失った乗客たちに飲み込まれていく。一瞬で血の気が引いていくのが分かった。
「大丈夫ですか」と駆け寄ってきた駅員が、私の背中を押した。
 嫌だ。あんなところに入りたくない。抵抗しようとするが、足に力が入らない。とうとう駅員に首根っこをひっつかまれ、電車の中に放り投げられた。
電車内でどろどろと蠢くそれは徐々に紫がかった流動体となっていった。メタモンだ。乗っていた乗客も、吸い込まれていった乗客もみんな。のっぺりした顔が現れ、こちらを視認して――

「にまっ」と笑った。





四月二日

目覚めたのは、六時二十五分だった。
いつもなら六時半きっかりに目が覚めるのに、この日は少し早めに目が覚めた。目覚ましをかけているわけでもないのに、何か不安ごとでもあるのだろうか。
今日からは弁当を作ることにした。といっても、電子レンジで温めるだけの簡単なものばかりだ。炊飯器がないためご飯さえもレンジ頼りという有様だが、コンビニ弁当と比べれば健康的、外食と比べれば食費が抑えられる……と思いたい。
電子レンジのブーンという音をBGMに、スマホでニュースを確認した。昨日の記事とさして変わりはない。新型ウイルスの感染者が増えた、政府が対策に乗り出した、この状況下で大勢での飲み会をして暴れた奴がいる、等々。なぜこうも暗いニュースばかりが目に入る。そうかと思えば、海外野球で活躍する選手の話題を見つけて、すごいなあ、頑張っているなあと感嘆のため息を吐く。そうこうしているうちに電子レンジがチンと鳴いたので、中身を取り出してタッパーに詰めた。同時にトースターを使わないのは、ブレイカーが落ちないようにするためである。加熱機器を同時にいくつも使うことで部屋が真っ暗になるのは御免だ。といっても、窓から差し込む朝の陽ざしのおかげでそれなりに明るくはあるのだけれど。
トーストを齧り、あれこれ準備をしているうちに電車の時間が近づいてきた。弁当を鞄に入れ、施錠を確認して家を出る。駅までは走らずとも電車には間に合うだろう。
電車は昨日と打って変わって空いていた。というのも、乗っていた人の多くが降りて行ったためである。ビルが立ち並ぶオフィス街ではないというのに、彼らは一体どこで働いているのだろう。そんな疑問を胸に電車に乗った。席には座らない。通行人の邪魔にならないように隅っこに収まり、電車の発車を待った。
だが、いつまでたっても電車は動かない。これは何かあったのだろうと思うや否や、「ただいま、電車とポケモンが接触した事故により、安全確認を行っております。安全が確認でき次第の発車となりますので、今しばらくお待ちください。お急ぎの方は、お手数ですがバスまたはタクシーをご利用ください」というアナウンスが鳴り響く。扉が開いて、乗客が次々に降りていく。乗客の波に乗ってホームから改札へ。あれよあれよという間に駅前のタクシーが埋まっていく。バスも臨時に出るわけではなく、気づいたら人が詰まって乗れない状態になっていた。勤務先まで歩いていけない距離ではないが、そうなると確実に遅刻である。会社に連絡をしなくては。
ポケットからスマホを取り出した時、ふさふさと柔らかいものに触れた。同時にバチッと静電気が爆ぜた。スマホにバチュルが吸い付いていたのだ。もしやと思い起動ボタンを押すが、電源が入らない。バチュルが充電を食ってしまったようだ。しかし慌てない。鞄の中にモバイルバッテリーを常備してあるのだ。取り出してスマホに繋ぐ。しかし何も起こらない。
「お前まさか」
 気づかない間に、バチュルはモバイルバッテリーの電気さえも食らいつくしていたというのか。
 まだだ。まだ公衆電話がある。内心慌てていたが、幸いにして公衆電話は空いていた。小銭を出そうと財布を開き、唖然とする。よりにもよって、一円玉が四枚入っているだけだ。
 誰かに携帯電話を借りようと思ったが、その時には既に周りには誰もいなかった。
 ならば固定電話をと思った時には、駅も民家も、何もかもが消え去っていた。
 もうこうなったら、急いで走る他はない。しかし、どこへ?
 何もかもがなくなってしまった世界で、一体どこへ走ればよいのだろう?
 考えれば考えるほど、目の前は真っ白に染まっていって。
 いつの間に飛び乗ったのか、ひょいと頭上から顔を出したバチュルが――

「きしし」と笑った。





四月三日

 目覚めたのは、六時二十分だった。
 日に日に早くなっていく目覚めの時刻に、焦りを感じずにはいられなかった。体内時計が狂っているのだろうか。いつも三食欠かさず、出勤時には朝日を浴びているというのに。不可解でならない。あまり考えていても仕方がないので、朝食用にトーストを焼いた。入社して初めての休日くらい、のんびり過ごしたい。
 とはいえ何かをするあても、どこかへ行くあてもない。今日は家でごろごろしていよう。カーペットに横になったところでトースターがチンと鳴いた。トーストを取りに行くのは億劫だが、食べなければ始まらないのは平日も休日も変わらない。
 かくしてトーストを平らげ、歯磨きをして再び横になった。眠くはないが目を閉じてみる。ゆっくりと息を吸い、吐くのを繰り返していると、そのまま眠ってしまいそうになる。寝て過ごすのもどうかと思ったので、勢いよく状態を起こして立ち上がる。スマホで天気をチェックしてみれば、今日は一日晴れの予報だ。そうだ、布団を干してしまおう。ついでにシーツも洗ってしまおう。思い立ったらすぐ行動。ということで、シーツを引っぺがして畳み、洗濯機に入れてスイッチを入れた。洗剤を適量入れたら蓋を閉める。閉め忘れるとエラーを吐いてピーピーと鳴くのだ。
 シーツの次は布団だ。とその前に、ベランダの欄干を拭いておかねばならない。一日放っておくだけで、黒っぽい砂埃がついているのである。そのまま布団を干せば、布団が余計に埃まみれになってしまう。余っていたウェットシートを引っ張り出して、ベランダに出た。
 休日の朝ということもあってか、ベランダから見る外の道には私服の人々がちらほら見えるくらいだ。車もそれほどいない。耳をすませばポッポやオニスズメの鳴き声が微かに聞こえてきた。向かいの建物の陰からは太陽がこちらを覗いている。すがすがしい朝だ。
 持ってきたウェットシートで欄干を軽く拭くと、案の定黒くなった。ゴミ箱に投げ込んで、布団を干した。ベランダが南向きなので、昼間はよく日が当たることだろう。布団と同じように欄干に引っ掛かって日向ぼっこをしたい。が、落下の危険もあるのでさすがにやめておいた。
 部屋に戻って、三度横になった。それ以外にすることがないのだ。リモコンを手に取ってテレビをつけてみても、見たい番組は特にやっていない。スマホを開いてみても、とくにやりたいことが思い浮かばない。会社で受けた研修の復習でもするかと資料を開いてもやる気が起こらない。何もやる気が起こらないのが典型的な鬱の症状だという話を思い出して、ため息を吐いた。まだ二日しか出勤していないのに鬱になりつつあるのか。困ったものである。
 気分転換になればと、服を着替えて外に出た。散策も兼ねての散歩である。引っ越してきたばかりで知らない町のことを知り、運動不足解消の足掛かりにもなる。
 少し歩けば住宅街。コンビニがそこかしこに点在し、幼稚園や介護施設などもあるようだ。もう少し行けば商店街。その向こうに最寄り駅があった。駅からの帰りに買い物をして帰るにはもってこいの配置。それに、商店街には食事店も数多く存在した。夕飯を作るのが面倒な時には、どこかにふらりと寄って食べて帰るのもよさそうだ。それ以外にも郵便局、クリーニング屋、薬局、スーパー、八百屋、理髪店、鍵屋などなど、生活していくのに施設は大体そろっている。どこにどんな店があるのか頭に入れつつ、昼は何を食べようかと考えてみたり、道行く人々のお喋りに耳を傾けてみたり、部屋に閉じこもっていたら得られなかったであろう刺激が次々とやってきた。
 昼食は商店街の喫茶店でとった。カウンターと机が四、五ほどの小さな店だ。カウンターの向こうには愛想のいい初老の女性店員とスリーパーがいた。昼飯には早い時間だからか、客はまだいなかった。
「いらっしゃいませ。お食事は十一時半からですが大丈夫です?」
 店員がメニューを手渡しながら尋ねた。ランチメニューは常設メニューが四つに、日替わりが一つ。せっかくなので日替わりを注文することにした。とはいえ、十一時半まではまだ十五分もある。待っている間に、スリーパーがコーヒーを淹れて出してくれた。長いことやっているのだろうか。随分と手慣れた様子だった。ミルクや砂糖は特に入れず、そのままで飲んだ。コーヒーなど久々に飲むが、やはりブラックは苦い。しかしこの苦みが良いのである。
 舌の上で転がる苦みを楽しんでいると、店員と同年代くらいの女性が三人入ってきて、角のテーブル席に着いた。続いて、これまた同年代くらいの男性が、反対側のテーブルへ。地元の人、それも高齢の方が立ち寄る店らしい。そんなことが気にならないほど、店の内装やメニューの写真はお洒落だった。上を見れば、ワイングラスが逆さに吊り下げられている。頼めばお酒も出してくれる店のようだ。
 十一時半になったところで、別の女性が店の奥から出てきた。年齢は周りと同じくらい。この店の店主らしかった。日替わりメニューを頼むと、「少々お待ちください」といって肉を焼き始めた。立ち上る湯気に、ほのかなカレーの香りがした。
五分ほどで料理がやってきた。大きめの一枚皿に、ポッポ肉のカレー風味焼きと生野菜のサラダ、小さめに盛られたご飯乗っていた。いかにもSNS映えしそうな一品だ。さらにガラスの器に入った白い流動体はヨーグルト。透き通った茶色い液体は、おそらくメイプルシロップ。すきっ腹にコーヒーを入れたこともあって、全て食べ終えるころにはおなかがいっぱいになっていた。
代金を払って店を出た。勘定もスリーパーがやってくれ、おつりに加えて正方形の穴が開いた小銭を渡してきた。五円玉のようだが、違うらしい。店主が「その子なりのサービスなんです。差し支えなければ受け取ってあげてくださいな」というので、財布の小銭入れとは別のポケットに入れることにした。
店を出て家まで歩いた。これといって変わったことはなかった。それは、特にいいことがあったわけでもないが、取り立てて悪いこともなかったということだった。
家についてからは、昼寝をして、少し勉強をして、テレビを観て、夕方に風呂に入って、ご飯を食べて、またテレビを観て。何も悪いことが起こらない日を過ごせた喜びが、胸の奥からにじみ出るようだった。
夜寝る前に、洗面所で歯を磨いた。鏡で確認しながら、一本一本丁寧に磨いた。三分間ほど続けた後でうがいをし、鏡を見た。
鏡の中の顔は鏡の外にある顔の真似をして――

「にやり」と笑った。





四月四日

 目覚めたのは六時十五分だった。また早くなっている。しかし焦りはなかったし、寝なおそうとも思わなかった。前日が土曜だったから早く床に着けたというのもあるが、早く起きたなら起きたなりに時間が取れるからいいやと考えるようになった。早起きは三文の得という。たった三文と思うか、三文も得をしたと考えるかだ。どうせなら、良い方に考えたいと思った。
 この日は一日家にいた。必要な買い物は済ませてあったし、そもそも雨が降っていたから外に出たくないというのもあった。明日からはまた出社しなければならない。そう思うと気が重くなったが、それはそれで外に触れる良い機会だと思えばいい。なるようになる。ケセラセラ。
 せっかく早く起きたのだからとテレビをつけて、いろいろチャンネルを変えてみた。昔は好きで見ていたアニメや特撮、特に興味がなかったがなぜか見入っていたゴルフや釣りの番組、雑学や健康に関する番組、どれにも関心が向かないまま通り過ぎて、結局テレビを消してしまった。やりかけのゲームを起動するも、やる気は起こらず電源を切った。
 朝飯にパンを焼いて食べ、洗面所へ行って歯磨きをした。鏡の前に立つと不思議な気分になる。鏡の中にはもう一人自分がいて、それは自分の動きをそっくりそのまま真似てみせる。決して触れることはできない。鏡に手を伸ばしても、感じるのは冷たさだけ。人肌のぬくもりなど、一人暮らしの部屋には存在しない。
 寝る前のようににやりと笑ってみようとしたのだけれど、普段からあまり表情を作らないからだろうか。頬のあたりが引きつってうまく笑えなかった。指で口角を釣り上げてみても、今度は眉が下がって困り顔になる。眉に意識を向けると、気味の悪いにやけ顔になってしまう。今日はここでずっと表情筋を鍛えていようか。……さすがに気が滅入るのでやめた。第一、無理やり笑顔を作ったところで見せる相手もいないし、不自然な笑みは逆に不信感を増大させるだけだ。もっと自然に笑えるようにならなければならない。しかし自然にできるようになるためにはやはり普段から表情筋を動かしていなければいけないわけで。
 考えたところでどうにかなる問題ではなさそうだった。とりあえず一日一回は鏡の前で笑ってみようと決め、鏡に「一日一回笑うこと」と書いた紙を張り付けた。これで一つ習慣が増えた。大して時間を割くことはないので、通勤前にももってこいだ。何なら家に帰って風呂に入る前でも、歯磨きを終えた後でもいい。たった一つの行動から、人生は変わりうるのだと信じてみたい。
 と、誰かの声が聞こえた。
「×××××!」
 名前を呼んでいる。知らない声だ。
「×××××! 目を覚ますんだ!」
 見回しても誰もいない。いるのは自分と、鏡に映る自分だけだ。鏡に映る自分が自分を呼ぶことはないから、部屋の外からの声だろうか。チャイムも鳴らさずに不躾なものだ。
 鏡に背を向けて玄関に向かおうとした途端、両の目を何かが覆った。ずんぐりとした掌のようだった。柔らかくて、温かい。そしてどこか懐かしい。目覚めてそれほど時間がたっていないというのに、猛烈な眠気が襲ってきた。不快感はなかった。ただただその柔らかい何かに体を預けていたいと思った。
 そしてぼくは考えるのをやめた。





4月5日

 カーテンを開けると、暗かった部屋に光が満ちた。それだけでも少し救われた気分になった。しかしベッドの中の青年は目覚めない。
延々と眠り続ける青年の夢を覗き続ける中で、悪いことが起こりそうになるたびに夢が途切れてレム睡眠に移行すること、十数時間経って、夜になるとまた夢を見始めることが分かってきた。
 奇妙な話だが、青年は夢の中で生きている。卒業式に向かう道中で事故に遭って目が覚めないまま、しかし何を食べているというわけでもないのに体はちゃんと生きている。夢の中で食べるものを食べ、仕事をし、あるいは休み、こちらで生きるはずだった人生を歩んでいる。もしかすると、青年は見た夢をすべて現実だと思っているのだろうか。悪夢で夢が途切れた状態を眠っている状態と勘違いし、現実に戻ってくるという考え自体が失われているのだろうか。
 それならばなぜ、夢は途切れるのだろう。悪夢を見て飛び起きるという経験は私も身に覚えがある。しかし、そうでない夢の時にも、いずれは夢から覚めるはずである。なぜ悪夢のときだけ突然消え去り、そうでないときは青年が夢の中で眠るまで続くのか。知らず知らずのうちに、何者かが干渉しているとしか思えない。それも、青年を傷つけない方向で。
 昨日は夢を見ている青年に呼びかけてみた。夢の中で青年はこちらの声を認識して探していた。しかし、その直後に青年の意識はブラックアウトした。つまり、夢から覚めて現実に戻ることさえも「悪夢」として認識されていることになる。それは青年の意思なのか、はたまた青年に干渉している「何者か」の意思なのか。
 ふと青年の顔に目を向けると、微かに唇が震えていた。
「ドッペル……」
という声が漏れた。青年が手持ちにしていたゲンガーの名前だった。
 この日以降、青年が夢を見ることはなくなった。そして今まで通り、青年が目を覚ますこともなかった。
 夢が消えたからなのか、青年はみるみるうちに痩せ細っていった。点滴を投与してなんとか命は繋がっているものの、もういつ死んでもおかしくない状態にまでなっていた。やはり青年は夢を糧として生きていたのだ。
 もしこのまま青年が死んでしまったら、間違いなく私のせいだ。私が呼びかけたせいで、青年は夢を見なくなった。それが青年の意思であれ、見えないところで青年の夢を操っていた何者かの仕業であれ、そうさせたのは私の呼びかけのせいだ。
「なあ、もういい加減起きたらどうだ」
 試しに呼びかけると、青年の体からゲンガーがぬっと顔を出した。そして私を見るなり、両手で口の端を引っ張り、長い舌をべろべろと動かした。
「お前ももう十分だろう。いい加減起こしてやったらどうだ」
 そう告げた途端、ゲンガーが飛び出して私の頬をぶった。
 私は、自分の保身のために呼びかけているに過ぎなかった。そのことを、ゲンガーは見通していたのだ。いや、おそらくゲンガーでなくとも察することはできただろう。今の私の後ろめたさは、言葉に現れていた。命を救うのが仕事の医者にあるまじき行為だ。
「それならせめて一緒にいてやれよ」
 私は部屋を後にした。後ろでゲンガーの威嚇するような声が聞こえたが、私は見向きもしなかった。
私に言われなくとも、ゲンガーは青年のそばにいることだろうと思えた。青年が生きている間も、無論命を落とした後も。ふたりの間に何があったのかは知らないが、ゲンガーにとって、青年はそれほどに大切な存在だったのだろうから。





4月10日

 青年が亡くなった。栄養失調による餓死だった。
 五日ももったのが奇跡のようだった。それほどに、青年の痩せ方は異常だった。息を引き取る寸前は、もはや骨と皮だけとも思える状態だった。点滴による栄養の投与だけでは、もうどうにもならなかった。
 青年の両親が、遺体を受け取りに来た。両親は何も言わなかった。礼を言われることはないだろうと思えたし、最悪「人殺し」と言われてもおかしくないと思っていただけに、ただただ無言で去って行かれるのは心身にこたえた。そんなことをいちいち気にしていては医者などやっていられないのだろうが、今回は私の行動が招いた死であるという意識に囚われていた私には、罵倒されるよりも辛いことだった。おそらく青年の魂は、ゲンガーと共に天に昇って行ったことだろう。そう思うことが唯一の慰めだった。
「なあ、私は間違っていたのだろうか」
 青年を看取るまで夢の煙を吐き続けてくれたムンナに、私は尋ねた。十分な食事を与えたとはいえ、小さい体には重労働だったことだろう。大して疲れた様子も見せず、ムンナはつぶらな瞳で私を見て、全身を傾げた。
 カント―の桜はもうほとんど散って、今は鮮やかな若葉が細い枝を彩っていた。
 儚いものだと思ってしまう。桜の花も、人の命も。目の前に浮かぶ桜色の彼女さえも。
 青年がいなくなった部屋に、開け放たれた窓からまだ冷たい風が吹き込んだ。その中に混じったひとひらの桜の花びらに、こちらに手を振る青年の影を見た気がした。


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Last-modified: 2021-04-19 (月) 22:16:16
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